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2024年12月 4日 (水)

マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(5)~第3章 責任

 ここでは、なぜ世俗的信は、永遠を信じる宗教的信仰と必然的に反目することになるのかについて、キルケゴールを通じて考える。そこで、なぜ気づかいや責任が宗教的信仰に基づくことができないかの理由を明らかにしていく。
 キルケゴールの『おそれとおののき』では、敬虔な信仰をもつアブラハムに神から息子イサクを生贄にせよと命令が下される。その理不尽な命令にアブラハムは粛々と従い、イサクを殺そうとした瞬間に神からストップがかけられるというストーリーである。ここで浮かび上がるのは、アブラハムが真なる信仰の模範であるのは、最愛の人の生贄を要求されても神に従ったからなのか、それとも、アブラハムは神の命令には盲目的に従う狂信者であるのか、という問いだ。
 キルケゴールは信仰について、「危険失くして信仰はない。信仰は正しく、内面性の情熱と客観的な不確実性の間の矛盾である」という。私たちは過去に起こった出来事をよりよく理解する方法を展開できる一方で、新たな証拠によって、これまで知っていると思っていたことが新たに問いに付され、あるいは新たな問いによって、既存の証拠が別の角度から提示されることが常にありうる。起こった出来事について、私たちがどれほど主観的に確信をもっていても、私たちの知識には客観的な不確実性の要素がある。というのも、過去についての私たちの見解は決定的なものではありえず、反駁される可能性があるからだ。同様に、未来の起こりうる出来事を予知するための優れた方法を開発できるかもしれないが、それでも未来は不確実であり続ける。なぜなら、未だに起こっていない出来事を知ることはできないからだ。このような不確実性の形態は、私たちの現在の経験そのものを印づけている。この経験は、すでに過ぎ去りながら、未来に関与するようになっていくものだ。ある瞬間は、確実性をもった静止点ではありえず、つねに過ぎ去っていくものであり、やってくれるかもしれないものに開かれる。だからこそ、生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いて生きなければならない。私たちは未来の観点から行動しなければならないが、その行為の結果を知ることができるわけではない。というのも、そのような結果は、遡及的にしか与えられないからだ。さらに、あなた自身の自己はこの時間性と不可分である。あなたは安定した本質ではなく、時間の中に存在する、つまり、あなたは所与の存在ではなく、つねに生成するプロセスにあり、そのプロセスは、自分はこういう人間であるという、あなたの感覚をへんようさせうるものなのだ。客観的な不確実性ゆえに、信仰は経験の必要条件である。過去も未来も知りえず、信じ続けるしかない。このような時間内的条件(世俗的信に必然的な不確実性)は、はじめからこの信をリスクに結びつけている。過去や未来との関係が世俗的信に依拠しているから、あなたは確実だと思っていたものに欺かれ、当たり前だと思っていたことを誤解し、まったく予想していなかったものに心を砕かれる。これらのリスクに対して、あなたが傷つく可能性は、世俗的信という実存的コミットメントに依拠している。この実存的コミットメントが重要なのは、時間内的な有限性が本来的に備わっているからだ。喪失のリスクとは、世俗的信にある動機付けの力である。喪失のリスクは信じ続けることの本質的な一部をなしているが、同時に、あらゆる誠実さを危ういものにする。だから継続的に成されなければならない。
 キルケゴールによれば、ある人、思想、生き方にコミットすることで、あなたはその存続が客観的に不確実なものに依存することになる。そのような実存的コミットメントによってのみ、あなたは自己になれる。私たちは、生物学的には人類として記述されるかもしれないが、私たちのありよう(「自己」)は、私たちが何にコミットし、またそのコミットメントをいかに維持するかによって規定されている。だからこそ私たちの自己は、生物学的な意味以上のことを生きられるのであり、また生物学的な死を待たずに「死ぬ」ことがあるのだ。あなたがある生を決定づけているコミットメントの維持に挫折すると、あなたの生は続いていても、あなたはみずからの自己の実存的な「死」に苦しめられるのである。このコミットメントには決意が求められる。
 決定しているとは、有限性を考慮していることである。私はあなたへのコミットメントを維持するなかで、たえず他の生き方の可能性を手放さなければならない。この有限性がなければ、そもそも他の選択肢が存在しないのだから、私がみずからのコミットメントは無意味で自動化してしまうだろう。そこで、有限性はあらゆる有意味なコミットメントにとって必須である。かりに幸福を保証された生を営むことが可能だったとしても、キルケゴールは決意ある生の危険の方が望ましいという。なぜなら危険は、生きるに値する生の条件だからだ。何かが重要であるためには、喪失のリスクを伴う。彼にとっては、ストア主義的な心の平静も、仏教的な生の安らかさも無意味である。彼は情熱から解放されることを望んでいない。むしろ情熱に関与し、全面的にコミットしてもらいたい。アブラハムの神への信仰を守り続けるかぎり、彼の愛するものを失うという実践的な経験から遮断されている。キルケゴールにとって、これは宗教的信仰における4もっとも深い美徳である。宗教的信仰を守り続ける限り、喪失に打ち負かされることはない。信仰を失えばすべてを失うが、それを護る限り、安全なのだ。アブラハムはその最高の事例である。これとは対照的に、世俗的信は必然的に傷つきうる状態のままである。世俗的信を維持し続ける限り、あなたは喪失に打ち負かされる可能性がある。アブラハムが世俗的信を維持していたら、息子イサクの命の貴重さ、それは彼が息子の幸福を木テクそのものとして人生を捧げているのだが、それを信じていたはずだ。だが、彼は、息子の命が失われえることも信じている。たしかに、イサクの有限性を認め、それに応答することによってのみ、彼は息子を気遣うことができる。アブラハムは、イサクを気づかうということを、宗教的信仰のために、生贄に捧げざるをえなかった。キルケゴールによれば、アブラハムには父親になるという生を決定づけるコミットメントがある。息子を気づかうなかで、アブラハムは義務感だけを抱えていたのではない。彼はイサクを愛しており、さらにイサクは彼自身の約束された未来であり、イサクを通じてのみアブラハムはみずからの生を理解でき、彼の遺産はのこることができるのだった。親になることに、みずからをコミットすることは、このように客観的な不確実性を痛感する経験である。たしかに、父親になることの意味について、三人称的立脚点から知識を得ることはできる。だが、どれほど情報や知識があっても、父親になるという一人称的経験の準備に足るものではない。むしろ、その経験に先だってコミットし、それによって未知へと信の跳躍を遂げなければならないのだ。この跳躍にはリスクが伴う。父親として自分がどんな人間になるのか、息子がどんな人間になるのか、あるいは息子にこの先何が起こるのかを知ることができないからだ。この不確実性は父親であることの一部を担っている。息子がいる限り、父親としての未来を運命づけられている。ここで必要なのは父親としての生を決定づける実存的なコミットメントである。そのコミットメントこそが、この世界と自分との関係をもっとも深いところで方向づけ直し、生をより実感を伴った有意味なものとする。一方、その息子の運命は、私の制御を超えている。息子を愛し大切だと思うことはできても、それだからと言って、息子の未来を確かなものにすることはできない。同じことが世俗的信のあらゆる形態にあてはまる。キルケゴールによれば、未来とのあらゆる関係には不安のおののきがあるという。私たちはこの先に何が起こるかを知りえず、保持したいものを失うかもしれない。父親であれば、息子を失うかもしれないという展望は不安を生み出す。そのような不安とともに生きること、それは世俗的信のあらゆる形態にもともと備わっている。キルケゴールにとっては、最高の至福でさえも絶望にかかわっている。絶望の状態は宗教的信仰のないすべての人を包囲している。宗教的信仰とは、神への完全な信仰という美徳によってもたらされた絶望のない状態といえる。だが、キルケゴールは、そのような絶望からの解放は信じればすべてうまくいくというような簡単なものではない。可能性の不安と呼ばれるものと向き合いながら宗教的信仰を持ち続けるのは容易ではない。この世界に対する信頼が打ち砕かれるといった最悪の事態に遭遇したとき、宗教的信仰を失うようであれば、実は信仰をもっていなかったのと同じだ。信仰等そういうものだとキルケゴールはいう。神がイサクの生贄を命じたとき、アブラハムは極限状態に置かれた。だが、アブラハムは絶望することなくこの難題に向かい合っている。それは、神にはすべてが可能であると信じているからで、『おそれとおののき』では結果として信仰の美談となる。では、アブラハとム同様に真の信仰をもっていることを証明するには、彼と同じような試練を経験しなければならないのか。
 つまり、宗教的信仰には家族や友人あるいは共同体に支えられているということは必要ない。家族や友人あるいは共同体といった他人に支えられているということは、自身の持つ自己感覚と切り離せない。だからこそ、息子が死んでしまい、それによる哀しみに打ちひしがれても、自分の生を生き続けることができる。だがそのプロセスにおいて、この世界に依存することになる。もし息子への愛を思い出すことができれば、その哀しみに向き合い、未来へのコミットメントを更新できるかもしれない。その痛みが安全に消えずとも私たちの共有している想い出が、私に生きる糧を与えてくれるかもしれない。こういう人がいなければ、私は絶望に屈してしまうかもしれない。このような絶望のリスクは生を決定づけるあらゆるコミットメントに組み込まれている。それは、私が自己充足的ではなく、本来的な関係的な存在であるからだ。私のアイデンティティは所与ではなく、認識の諸形態に左右されている。これらの形態は維持されたり、変容させられたりするが、核心においては脆く壊れやすい。世俗的信において、絶望のリスクは否定的な脅威であるだけなく、アイデンティティや関与といった肯定的なものに本来的に備わっているものでもある。これは、絶望を無化する宗教的信仰とは対照的である。つまり宗教的信仰はこの世界への信頼を断念する。無限の諦念の運動を生み出すには、永遠の幸福のために、有限なもののすべてを自発的に諦める。しかし、著者は言う、無限の諦念は、有限性を見放すことではないという。むしろ、有限なものの運命を感知せずに有限性において生きることである。この場合、有限性を相対的なものとして扱うといった方が適切である。
 ここに至って、キルケゴールがアブラハムのエピソードを生きた宗教信仰の範例とした理由が明らかになる。自分の息子を生贄として捧げよと神から命じられなくても、永遠の幸福という絶対的な生きる目的(動機)は、愛する有限な対象をも下位に置き、究極的には手放して差し出すことを要請する。この無限の運動は、キルケゴールが「宗教性A」と呼ぶものの核心をなす。「宗教性A」とは、いわばキリスト教的な宗教的な献身の形態である。そこでは、無限の諦念は信仰に先立つ最終段階であり、この運動を生み出さなかった者は、信仰を持っていないことになる。それは、無限の諦念にあって、人ははじめて自身の永遠の妥当性を自覚し、同時に、信仰の力によって実存を把握するからである。このような「宗教性A」の無限の諦念は宗教的信仰の共通項である。永遠のために有限なものを自発的に犠牲にしないのなら宗教的信仰とは言えず、世俗的信なのだ。とはいえ、キルケゴールは『おそれとおののき』の中で無限の諦念の運動に物足りなさも認めている。アブラハムはイサクを生贄とすることで、息子に託していた希望を諦めることになる。そこで二つ目の運動を生み出す。信仰の運動である。神はすべてが可能だから、息子が帰ってくると信じることができる。キルケゴールの信仰劇は、無限の諦念という第一の運動に加えて、アブラハムの行為に象徴される信仰は二重の運動として、有限なものを手放した後でも有限なものを受け取ることを期待できる。このように、キルケゴールは神への献身と有限な生への献身とに結びつけることに成功した。
 しかし、著者によれば、このような宗教的信仰の二重の運動は、実際には取り戻しようのない喪失の経験を除外することで、有限性の経験を否定している。イサクに何が起ころうとも、アブラハムは息子が無傷で現れることを信じており、このことによって、彼はイサクを気づかい大切に思うという、潜在的な能力を剥奪されている。だから、著者は言う。宗教的信仰の二重運動を生み出す人は、無限の諦念の運動だけを生み出す人よりも、有限なものの運命に無関心だ。無限の諦念はイサクを殺すが、少なくともイサクの喪失を認識する。しかし、二重の運動はイサクの喪失を認識しない。なぜなら、イサクの命を奪っても、イサクを取り戻すことに揺るぎない自信を持っているからだ。これを著者は野蛮という。それは世俗的信を手放した直接的結果だ。
 宗教的信仰の二重運動が目指すところは、外的な要因への依存が取り除かれることで、イサクへの愛が完全に内的な出来事となることである。無限の諦念の第一の運動では、外的世界でのイサクへの気づかいを諦める。そのあらわれがイサクの殺害であり、彼に起こることへの気づかいの放棄である。つまり、外的な結果に対する無関心は、有限性が私に及ぼす力を奪い去る。これが信仰の第二の運動のための地固めとなる。この運動は、イサクを殺そうとも、見放そうとも、最後は取り戻すと信じる。それは全能の神への信仰に依拠しているが、そのためには実際に出来事への関心の断念がある。
 キルケゴールは自分はキリスト教徒であると主張しながら、みずから有限な生の運命を気にする人々を、生きた宗教的信仰に欠けると厳しく批判する。アブラハムのように愛する息子への気づかいを手放せないなら、キリスト教徒ではないという。キルケゴールは、このアブラハムの行為を父と子という点で、神とキリストに置き換えることができる。キリストは世界の犠牲となって、生贄となって、磔刑となったということができる。
 一方、キルケゴールはアブラハムが神に服従せずイサクを生け贄としない選択も想定していた。それは、アブラハムは神へ疑いを抱き、信頼を失い、神の命令に従わないというキルケゴールにとって最悪の筋書きである。しかし、一方で、それは世俗的信の肯定として読み解くことができる。アブラハムが神の命令に服従しないのは、イサク自身を目的としてイサクにコミットしているからであり、イサクの死が実際にありうることであり、それが取り返しつかないことを信じているからである。それは愛する者が有限であり、それだからこそ、気づかいを必要としている。
 このように、宗教的信仰と世俗的信は対立的かというと、キルケゴールはたしかにそのようだが、著者は、そうでない道を模索する。有限性があらゆる責任感や愛の条件だということから、有限な人だけが愛することができる。有限な人だけが、この世界を大事なものにできるのであり、他人にたいして責任を負うことができるのである。そうすると、キリストの死は、世俗的な受難という観点から読解できる。私たちを死から贖うためではなく、愛しまた愛されうる人でいるために、そうでなければならない。彼の死を天国への通路として祝福するよりも、愛する人一人ひとりが必ず死んできたように、彼も死んだということ、またそこには彼のことを記憶しようとする人々を別にすれば、死後の世界などとないということを理解すべきなのだ。彼の死をこのように理解するということは、生のすべてが、それが最愛の人の生であっても、死によって終わるということを認識することである。この生以外などないのだから、愛する人の死は取り消せない。この死によって終わるということは、私たちの行動がなぜ重要なのか、また、私たちを超えて生き続けることが誰やかやにわが身を捧げることがなぜ重要なのかの理由に本質的に備わっている。私たちの信じるものは不断の努力によってしか維持できないからこそ、私たちはそのために闘わねばならない。また、未来が不確かだからこそ、来るべき世代に何を手渡すのかに心を砕かねばならない。これこそが世俗的信の二重運動である。私たちは前へと走り、取り消しようのないリスクに遭遇し、それでも決意をもって与えられた時間を最大限に生かすのである。
 このような世俗的真を通じて、アブラハムの行為を考える。『おそれとおののき』では、宗教的信仰のおかげで、アブラハムはイサクの苦しみを見ずにいられる。キルケゴールは、敬虔さのすばらしい範例として見せようとする。しかし、私たちには、これは災禍であり、神にはすべてが可能だという夢は悪夢に見える。宗教的信仰の二重運動により、アブラハムは実際に起こる出来事を気にかけることなく無限に手放し続け、失われたものは何であれ、神が蘇らせてくれるという信仰の場を確保する。しかし、世俗的真においては、死後の生などなく、拷問が贖罪であり得ないことが見て取れる。イサクが苦しんでいるのが見えるのであり、差し迫る彼の死に応答できるのである。その有限性は、なぜ彼を愛し、気づかい、大切にするのかにとって本質的なものである。神が命じたとしても、イサクの命を奪うことなどできない。そのような死は理に適っていないし、誰の罪も贖わないということを理解しているからだ。
 このように、アブラハムとイサクの物語は、責任というものが、神の命令に基礎づけられたものではないことを明らかにする。神が存在し、すべてが可能であるなら、すべてが許され、神の命令という理由があれば、息子を殺しても許されてしまう。宗教的信仰の二重運動ではそうなってしまう。しかし、責任は世俗的真から生じる。それは、愛する人の存続に、あなたが身を捧げているからである。有限な生のかけがえのない価値を信じていれば、神がイサクを殺せと命令するのは間違いだとわかる。神は道徳的な問題を理解することすらできない。道徳的責任について神が教えてくれるものなどない。神には誰かを取り返しようもなく失うことの意味も、誰かをかけがえのないものとして気づかうことの意味も理解できない。神はいかなるものにも制約されていないが、また同じ理由で何にもコミットしていない。実際のところ、神はおのれ以外のものに縛られていないのだから、全く責任を問われない。コミットしている者だけが責任を負うのであり、コミットしている者だけが気づかうことができる。そして、有限な者だけがコミットすることができるのである。

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