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2024年12月 2日 (月)

マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(3)~第1章 信

 ここでは、世俗的信と宗教的信仰の違いを追究する。宗教的信仰とは無時間的つまり永遠の安息、超越神といったかたちで永遠の存在を信じるというもの。永遠は愛する人の喪失に際して、この喪失を意味あるものとして慰めたり逃れさせたりしてくれる。しかし、著者は、永遠の生は、生き続けたいという私たちの願いをかなえようとしはない。ここでは、CSルイスやルターのような信仰の人出さえ、最愛の人の死に際しては世俗的信が問題の核心にあることを明らかにしようとする。
 CSルイスは最愛の妻の死に際しての『悲しみを見つめて』で、生き続けることと永遠であるとは違うということを明らかにした。
 終わりなき生は無時間の生と同じように無意味であると言います。自分とその愛する人が生を有限と信じていなければ、自分の時間で何かしようという切迫感はないであろう。気づかうこともなく、人間関係のために努力しようともしないだろう。愛する人と生き続けることは永遠の内に存在することとは相容れない。有限性の感覚、つまり、生き続ける中で時間内的な生を営んでいるという自覚は、つねに傷つきうる状態であることを自覚させる。失う可能性のある人や物に愛情を持つかぎり、苦しみを受けやすい。永遠という平安な状態にあれば失うというリスクから解放される。しかし、そうなったら、大事だと思わなくなってしまう。ゆえに、愛する人とともに生きる情熱やパトスは、永遠の生を保証されることと相容れない。
 このような気づかうことと信じることのつながりは、古代ギリシャのアリストテレスに遡ることができる。彼は、私たちが抱く信は実践的なコミットメントとして理解されるべきもので、私たちの直接的な感情でさえ、コミットしている信からしか理解できないとした。これを受けてストア派は、情念とは信の形態である論じた。ストア派の目標は心の平安であり、そのためには情念を取り除くことであった。これは後のスピノザにも通じる。彼は、永遠と無限への愛を、つまり栄枝に対する宗教的な切望を求めた。それには有限な生へのコミットメントを放棄する必要がある。これに対して、ニーチェは永遠の価値の価値転換を試みる。永遠の生という理想を求めることは、それによって時間内的で有限な生へのコミットメントの価値が貶められてしまう。苦しみや喪失は、至福や逃れがたい不運の境遇にいたる道筋に必要な段階であるだけではない。それはむしろ生を生きるに値するものにする何ものかにもともと備わっており、その一翼を担っているという。ただし、苦しみは私が望む生の一翼だということと私は苦しみを望むということとは違う。彼は、後者の誘惑を退けるには強さが必要だとした。
 世俗的信の最も根本的な形態は、生が生きるに値するものだと信じることである。これは、あらゆる気づかいに元々そなわっている。これは信の問題だ。というのも、生が生きるに値するということを論理的な演繹やでも合理的な計算でも証明することができないからだ。信じているから、生を受け容れることができる。
 ここで著者は、チャールズ・テイラーの「世俗の時代」を批判的に取り上げる。テイラーは宗教的信仰が後退したことに変わって世俗の時代となったと説く。そして、このような時代の変化により信仰の条件も変化したという。例えば神を信じないことを公にすることも可能となった。テイラーの基本的な考え方は人間には生を超えた絶対的な善に対する押さえがたい欲求がある、つまり人間には宗教や宗教的なものが本質的に必要であり、世俗的な生がその必要を満たそうとしても無駄に終わるというものだ。テイラーの想定は、私たちが何かを存続させようとしているとき、私たちは永遠を求めて努力しているというものである。
 しかし、著者はこれに対して、テイラーと同じように神の永遠性ではすべての時間が現前しており、すべては同時、つまり、神の今はあらゆる時間を内包しているという。しかし、このような今は時間を取り除くことになる。私たちのような過去や未来はないわけだ。それゆえ、永遠を生きるということは過去や未来とは決別することで、生き続けることとは区別すべきだ。私たちが愛する人の生が続くことを望むのは、その生の永遠性ではなく、その生が続くことだ。また、あらゆる愛の絆の脆さや壊れやすさは、私たちが自らの愛を信じ続け、私たちの生を結び付けることがなぜ大事かということの理由のひとつである。
 CSルイスもマルティン・ルターも信仰の人だが、最愛の妻の死に際して、彼女の死を深く悲しんで、信仰による平安、つまり神の御許にいける喜びを語ることはできなかった。永遠という展望を迎え入れる宗教的信仰は分かち合われた有限な生へのコミットメントを維持する世俗的信とは直接的に相容れない。弔う人の立場から見て最悪な、つまり、愛する人の不在を気にかけなくなるような存在状態が、宗教的な立場では最善なものとして示されるのである。
 著者は、このような宗教的な慰めは死という問題に向き合っていないという。そこには喪失の否認または相対化があるという。これに対して、世俗的な慰めは、出来事の核心には取り返しのつかない喪失があるのだと認める。みずからの弔いの経験から語る中で、ルイスは、深い信を明確にしている。それは超越的な神に対する信仰でも、死を免れた生に対する信仰でもなく、死に結びつけられた生に備わっているかけがえのない価値への信である。出来事が重要であり、私たちの行動が帰結を持つのは、それが不可避で、取消ようがないからなのだ。それが取り消されるのであれば、私たちの言動はその重みをもたなくなってしまうだろう。したがって、何が重要だという感覚は世俗的信から生じており、それが生の有限で脆く壊れやすい形態へのコミットメントを継続している。死のリスクとは、気づかう原因ではない。そのリスクは、ある人がそれではなくこれを気づかう理由を説明してはくれない。死のリスクは、人が何かを気づかい、出来事に対する責任を持つべきである理由の一部、もともとそなわっているものなのだ。取り戻しようのない喪失がなければ、出来事には有意味な結果などなくなり、私たちが愛する人を信じ続けることには、争点となるものが何もないということになってしまう。

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