マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(2)~序章
最初に著者自身の生について語り、それが有限であり、そのことに意味があるという本書のテーマに流れてゆく。そこでは、「この生」というタイトルのとおり、このテーマは著者自身の、いわば実存に関わるものでもあり、「この生」というのは著者ひとりにかぎらず、人々がそれぞれにとっての「この生」という一般性にも広がるものであろう。
有限であるということは、ひとつは、一人では生きられず、他者に依存しているということ、つまり空間的な有限性と、そして死という終わりがあるということ、つまり時間的な有限性ということだ。とくに、死によって生きる時間が限られていることは、それゆえに生はかけがえのないもので、それゆえに意味があるものになると感じられる、ということだ。そのことを「世俗的」と呼ぶ。なお、世俗的に対するのは、宗教的ということで、これは無限性、つまり永遠と結びつく。これは、世俗的な有限の生を低次なものとして、望ましいのは永遠であると主張する。
宗教的にみれば克服されるべき世俗的信ことが価値ある生には必要だというのが本書の主張だ。
世俗的信は死という終わりがある人々にコミットし、未来のために生き続けさせようとする。これは、より長く、より良く生きるということであり、死を克服し永遠に生きることを目指すことではない。生き続けることへのコミットメントには、それ自体、有限性が含まれている。
一方、世俗的信を持つことは、信の対象が信の実践に依存しているということを認めることである。世俗的信の対象とは、例えば、私たちが過ごそうとしている生であり、打ち立てようとしている諸制度であり、実現しようとしている共同体であるが、これらは私たちが何をどのように行うかということと切り離すことができない。私たちは、世俗的信を実践することを通じて、規範となる理想に自らを縛る。しかしながら、その理想そのものは、私たちが自分のコミットメントによってどのような信念を貫くかにかかっている。
このコミットメントは自身の生や人々を気づかうことが不可欠だが、それにはその価値を信じていることが必要で、そこにはその価値がなくなるかもしれないということがある。チャンスにはリスクが伴う。リスク、つまり失敗や喪失の可能性に照らしてこそ、私たちは価値ある生の維持にコミットできる。つまり、自分がされたいと思うように他人に対する。これは、私たちが有限つまり互いに他人に依存しているからこそ他人を尊重しなければならないことからきている。だからこそ、相互に要求し合うことが可能になる。それだからこそ、社会的正義と物質的福祉の諸制度を発展させることが求められているのだと言える。同じ理由により、世俗的信は自由の条件でもある。自由であるということは、すべての制約から解放されていると言ったことではない。何をすべきかを自分の時間を使って考え行動することができることが条件となる。ただし、私の時間は無限ではない、有限である。有限だからこそ切実なのだ。したがって、自由の条件は自分自身が有限であると理解していることである。
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