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2024年12月 3日 (火)

マーティン・ヘグルンド「この生─世俗的信と精神的自由」(4)~第2章 愛

 アウグスティヌスの『告白』におれる時間と永遠の分析を通して世俗的信という概念を練り上げていく。
 アウグスティヌスは時間経験の形態を広がりとして記述する。今この時に私に現前している。その瞬間は過ぎ去ってしまう。それが時間である。そして、この時間を経験するということは過ぎ去った過去を保持し、まだない未来に向かってみずからを投企する。だから、それは自己を保持させるものでもある。同じように愛するものを維持できる保証はない。幸福とは愛するものを所有し保持することにある。しかし、それは時間の内でなされるため、所有していても、常に死の嘆きの予感に恐れている。その結果、生においては機会と危機とは不可分だということになる。これが世俗的生の条件であるとアウグスティヌスは言う。彼は、この世界に生きることは、永遠への宗教的信仰ではなく、時間的なものである世俗的信の問題であるという。世俗的信は、宗教的信仰より、むしろ、この世界に対するわれわれの情熱や、互いを大切だと思う気遣いの源泉なのである。
 しかし、そこには不確実性があり、彼は世俗的信の必然的な不確実性を指摘する。生き続け繁栄するためには、他者を頼りにしなければならない。それは壊れる可能性が付きまとっている。信頼された人々は変わることがあり、先のことは不確実だ。このような不確実性は他者との関係のみならず自己の経験にも必要な条件である。あらゆる時間内経験には信じるという要素が関与しており、これは理解することにもともと備わっている。つまり、過去はみはやないのだから確実な対象ではありえず、起こった出来事について自分の記憶や他の人々の見解を信頼する必要がある。また、未来はまだないのだから、未来を信用するしかないからである。
 世俗的信の必然的な不確実性は、積極的なチャンスも消極的なリスクも生む。そのおかげで未来という約束が開かれる。このような不確実性は、世俗的信に本来的な実存的コミットメントの証左である。自身の生にコミットしているからこそ未来の約束は破られるかもしれない。世俗的な愛が可能な限り最善の方法で維持されているときでも、それが危険であることに変わりはない。アウグスティヌスは、このように喪失にさらされていることこそ、われわれが気づかう理由の本質的な一部をなしているという。愛することにおわりがあるからこそ、われわれは気づかうのである。このような有限性は、世俗的生を動機づける力にとって内在的なものである。われわれが愛する者を信じ続けずにはいられないのは、関係が失われる可能性があるからこそ、われわれの信が必要とされていることを、われわれが理解しているからなのだ。
世俗的信の力学は、私が実現に向けて努力してきたことを成し遂げたからといっておわるものではない。この力学は、生き、働き、そして愛することを充溢させるなかで作用し続ける。私があなたを愛することで、私たちの関係がどのように私を変えていくのか、私には知りようがない。それは、私の生を新たな深みへと開いてくれるかもしれず、あるいは、私の思いに描いている自分というものを打ち砕いてしまうかもしれない。私があなたを愛しているということの一部には、あなたと私が同一ではなく、あなたが私に何をするのかを、私が制御できないできないということがある。このように、私には知りえないことにさらされることが、あなたを信頼し、また想定外のことに開く可能性を私に与えてくれている。だがこのことは、私が苦悶や深い哀しみに開かれてもいるということでもある。これこそが、私たちの愛のもつ必然的な不確実性なのだ。同じ理由で、私たちがともにいることの幸福は、互いに信じ続けることに依拠している。私たちの生にとって可能なかぎりの最善が、ともにあることだと証明してくれるものは何もない。むしろ私たちはそうであると信じ、その信にもとづいて行動しなければならないのである。これこそ、私たちの実存的コミットメントである。さらに私たちのコミットメントを維持するために、私たちは私たちの愛の価値のみならず、その不確かさも信じなければならない。私たちの愛にも挫折がありうることを信じなければならない。つまり、愛は一度与えられれば終わるようなものではなく、大切にしなければならないものだ。このような挫折のリスクは、私たちの愛を動機づける力にもともとそなわっているのである。
 このような世俗的信は宗教的信仰との決定的な違いは、宗教的なものの究極的な関心が、あらゆる関心を取り払われた存在状態にあるということだ。宗教的信仰は、懐疑や不確実性にさらされながら、その到達点では「距離という要素が克服され、それとともに不確実性や懐疑、大胆さやリスクも克服された」状態に至る。宗教的な修練の目標は、完全に安全な状態に達することだ。そこでは、もはや不確かな信に依拠する必要はなく、あらゆる関心を手放すことができる。救済はあらゆる気遣いに終止符を打つ。宗教的に救済されるとは、気づかいがなくなるということなのだ。これとは対照的に、世俗的信では、関心をもつひとは私の努力の一部を担っている。私の欲望が完全に満たされたとしても、なお関心をもち続けるだろう。それは、私が気づかい大切にしているすべてのものは、時間をかけて維持されなければならず、いつかは失われるからだ。
 アウグスティヌスは世俗的信は失いかねないものに私たちを依存させる。失う可能性のある物を愛することで傷つく危険がある、とした。古代ギリシャのストア哲学によれば、私たちが傷つくのは、私たちが何ものであるかを想定していると信じているからだ。最終的に制御不可能なものに愛着を持つことによって、起こる出来事に心を打ち砕かれるリスクを負う。失う可能性のあるものに左右され、それゆえに怒りや深い哀しみをうけやすくなる。そこでストア派の目標は、そういう私たちを動揺させるものに左右されなくなることとなる。そのためには、そういうものの価値を信じることを止める必要がある。ストア派の究極の目標は無感情である。いわば、あらゆる情念からの解放だ。このようなストア派の解決策をアウグスティヌスは錯覚だと退ける。私たちは本質的に依存し情念を持つ存在であり、欲望のない状態に交替することはできない。つまり、欲望や愛を撤回することはできない。そこで、彼は何を愛するか、欲望するかを考える。有限な人を愛せば、損失の深い哀しみのリスクを負う。かれは、そのような有限な存在への愛や欲望を永遠な存在である神への愛にかえればいいという。つまり、この生において、いかなるものも、目的それ自体として愛するべきではない。むしろ、あなたの愛するものを、神の永遠に献身するための手段として利用するべきだと説く。ストア派もアウグスティヌスも、宗教的な到達点は、喪失を恐れ、心の平安を手に入れることだ。それにしたがえば、私たちの生の究極の目標は、平安のうちに憩うことということになる。この想定は永遠というあらゆる宗教的理想に共通する。永遠性を生の有限性からの解放と位置付ける。
 これに対して、私たちの有限な生との絆は、私たちを制約するだけでなく、私たちを維持し、世界や他社へと開いてくれもする。傷つく危険は、有限性を完全に超越しようとする理由にはならない。むしろ、これを理由に、私たちは互いの依存を真摯に受け取り、ともに生きるより良い方法を発展させるという方向に向く。そのような相互の磯線を認識するには、世俗的信が必要である。世俗的信は、あなたを喪失によって傷つきうる存在にするにもかかわらず、愛する人を信じ続けることを求める。愛するからこそ、傷つく危険にさらされる。この被傷性こそが、この世界や自分か自身、また他者への感受性を与えてくれているのである。傷つきうることを通じてのみ、出来事に心を動かされるのである。喜びの貴重さは、不確かさの感覚と不可分であり、他人とつながることの価値は、つながらなくなるリスクなしには感じられない。したかせって、傷つきうるとは受動的なだけでなく、能動的なコミットメントの形態を条件づける。何かにコミットしているということは、成功や失敗に傷つきうるということである。何かをすることにコミットしているなら、そういう自分をリスクにさらしている。その反面、そのリスクを負うことによってのみ、自分のすることを享受でき、そのありがたみを知ることができる。アウグスティヌスでさえ、絶望するリスクを負わされているにもかかわらず、友人に対する自らの愛を信じ続けている。
 アウグスティヌスは言う。どれほど宗教的に敬虔な人であっても、世俗的世界に生き、歴史の一部として存在し、社会的関係に依存せざるを得ない。しかし、宗教の観点は、世俗的信を目的それ自体としてではなく、手段として扱う。アウグスティヌスの目標は、時間に縛られた世俗的経験の情念を神の永遠性への情熱へと改宗させることである。彼は、過去と未来に引き裂かれて時間のうちに生き続けるドラマに苦しめられるよりも、永遠のもつ静止を享受するほうがよいという。しかし、著者は永遠に置いて何も失わないのは、そこに失うものが何も残っていないからだという。なぜなら、そこでは、何も始まりも終わりもしないからだ。それは私、つまり自己の死でもある。 
 時間の影響を受ける者だけが、未来を手にすることができる。永遠に生きるとは無時間ということで未来を閉ざしてしまう。それは生のあらゆる可能性を閉ざしてしまうことになる。ということは、私たちの生の所与の瞬間は、たえず過ぎ去っていくので、そもそも何かを経験するには、記憶によってそれを保持し、予感を通じてみずからを未来へと開かなければならない。とりわけ、記憶がなければ、彼は時間の経過において自己を保持できず、一瞬たりともみずからのアイデンティティを維持できなくなってしまう。企画は、彼の生に連続性を与えているだけでなく、彼の現在の自己感覚と連続的でないあらゆるものを彼に気付かせる。一方、宗教的目的では、自己を記憶することでなく忘却する、つまり自己自身を忘れる。最終的には、神の絶対的現前のもとに憩うという存在状態に達することで、そこでは欲望は終わり、情熱の焔は消えてしまう。
 ここで、著者はクナウスゴールの『わが闘争』を取り上げる。日常生活の細々としたことを自身の経験として詳細に記述したものである。題名にある「闘争」とは、この生を自分のものにすること。彼は、自分の営んでいる生が自分自身と切り離されていることに気付く。彼は、すべきこと我慢してこなしているが、起こっていることに本当には関わらずに背を向けてきた。彼は自らの存在と距離を置くゆえに、自分が失うものは何もないと感じ。それゆえ、自分の生が無意味に見えていた。その生をみずからのものにしようとした。その原理は、独自の愛着であると言える。ここでは、みずからの生を所有することによってしか、意味ある生き方を手に入れるチャンスを得られないことを明らかにする。彼は、みずからの視線の焦点をみずからの生に合わせ、見えるものに愛着をもつことで、私たちの向きを変える。その方向にあるのは永遠ではなく、すべてが争点となっている場としての私たちの有限な生である。それは生を所有する継続的な闘争だ。そこで、彼は有限な生の経験は大変に意義深く、その経験を非常に細やかなニュアンスや感情の残響にいたるまで探究する価値があると信じている。その目標は、みずからの生により深く愛着を持つことであって、その生を超越することではない。
 ここで鍵となるのは時間である。
 この目標を達成するには、わしたちは時間との関係を変容させる必要がある。習慣が私たちの経験を無感覚にし、あるいは鈍化させる傾向があるとすれば、それは習慣によって、時間が私たちの感覚に与えるインパクトが減じてしまうからである。1日1日が異なっているにもかかわらず、次の1日がやってくる保証はなすにもかかわらず、私たちはこの習慣ゆえに、私たちの生がいつでも変わらず、際限なく続くと感じてしまう。このように、私たちには、自分の愛するものを見るのに慣れてしまうと、その存在の詳細や驚異に気付かなくなる傾向がある。同様に、愛する人と生活することに慣れてしまう。私たちはその人の存在を当たり前のものとして受け取り、愛するその人にしかない質をありがたく感じられなくなるリスクを負う。ういう習慣を打ち砕く鍵となるのは、私たちが愛するものを失いうると気づくことである。喪失の次元は、生を価値あるものとして立ち現させる。現在の経験の価値が、いつか失われるという感覚によって高められているのに似ている。

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