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2025年2月

2025年2月28日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(1)

2025年2月22日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2024年版が掲載されました。
 これから、その全文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。
 下のURLにあります。
https://www.berkshirehathaway.com/letters/2024ltr.pdf
 それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて10年以上となりますが、以前は全部終わったところでまとめてアップしていましたが、数年前から、ある程度進んだところで、その都度アップするようにしました。

 

 

バークシャー・ハサウェイの株主の皆様
 この手紙は、バークシャーの年次報告書の一部としてお送りするものです。公開企業として、私たちは多くの具体的な事実や数字を定期的にお伝えすることが求められています。
 しかし、「報告」にはより大きな責任が伴います。義務付けられているデータに加え、私たちは、皆様が所有しているもの、そして私たちがどのように考えているかについての追加的なコメントをお伝えする義務があると考えています。私たちの目標は、もし私たちの立場が逆だったら、つまり、あなたがバークシャーのCEOであり、私や私の家族があなたに貯蓄を託す受動的な投資家であったとしたら、私たちが望むような方法であなたとコミュニケーションをとることです。
 このアプローチでは、あなたがバークシャーの株式を通じて間接的に所有している数多くの事業について、良いことも悪いことも毎年説明することになります。ただし、特定の子会社の問題を論じる際には、60年前にトム・マーフィーが私にくれた「名前を挙げて賞賛し、カテゴリー別に批判する」というアドバイスに従うようにしています。

 

2025年2月27日 (木)

中世の華・黄金テンペラ画 ─石原靖夫の復元模写 チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅

Ishiharapos  土曜日の休日。花粉症の薬を処方してもらいに、早起きしてかかりつけの医院に行ったら、思いの外空いていたので、早く終わって時間ができたので、興味のあった、この展覧会に寄ってみることにした。絵画展というよりは、中世のテンペラ画を復元模写をするという技法を明らかにする博物館の展示のような感じだった。作品を見て楽しむというより、お勉強みたいな性格の展示だったように思います。そのせいか、展覧会チラシも、説明の文字が作品画像のスペースよりも多くを占めている。いつもは、展覧会チラシから主催者あいさつを引用しているが、今回は、あまりに文字数が多いので、ホームページのあいさつを以下に引用します。それでも長い。
 目黒区美術館では、これまで、画材や色材をテーマにした展覧会とワークショップを継続的に開催してきました。その一つ「色の博物誌」展は、通常の展覧会では紹介されることが少ない、絵画などの表現を構成する色材とその原料、エピソードなどを取り上げ、作品と組み合わせて構成した企画です。また、古典的な技法や絵具制作の再現などをワークショップで行い、人と色材のかかわりという新たな切り口を提示してきました。
 この度の展覧会では、1992年からの「色の博物誌」展とともに開催してきたワークショップ「古典技法への旅」から、“中世の華” とも表すべき黄金背景による「テンペラ画(卵黄テンペラ)」の技法を取り上げます。
 金箔を背景に、顔料を卵黄で練って描き上げていくこの技法では、金箔に見事な装飾技法が施され、その表現は工芸的な魅力にもあふれています。この黄金背景を伴うテンペラ画は、主にイタリア14世紀から15世紀前半に発展しました。
 石原靖夫(1943ー )は、1970年にイタリアに渡り、黄金テンペラの技法を学び、6年の歳月を、ゴシック期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃ー1344)の代表作《受胎告知》(1333年、ウフィツィ美術館蔵)の技法研究に費やし、ローマ滞在中に復元模写を完成させました。1978年の帰国後、すぐに東京都美術館で展示と講座が組まれるなど注目を集めました。目黒区美術館では、1992年の「色の博物誌・青―永遠なる魅力」展において、この復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》を展示し、聖母マリアのマントに使われたラピスラズリの青について取り上げました。石原靖夫と目黒区美術館の関係はこの時から始まり、2019年3月までに専門家向けの内容でワークショップを7回開催し、テンペラ画という古典技法の普及に努めてきました。
ジョット・ディ・ボンドーネ(1265頃ー1337)に代表される当時の工房で行われていた絵画技法が記された書物が、チェンニーノ・チェンニーニ著 "Il Libro dell' Arte" です。この翻訳版、『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(岩波書店 1991年)(以下、『絵画術の書』)は、目黒区美術館での石原靖夫によるワークショップで重要な教本となっています。チェンニーニの手稿は1400年頃に成立されたと伝わり、現存する3つの写本をもとに訳された本書は、イタリア美術史家の辻茂の技法史研究により長い年月をかけて日本語訳として完成されたもので、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》を復元模写した画家 石原靖夫と、イタリア語に精通する美術史家 望月一史がその翻訳に加わりました。その後、石原はこの『絵画術の書』を、画家としてさらに読み込み、絵画制作にあたっての技法研究を深化させてき ました。
 本展では、石原が1970年代に制作した復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》とその制作に関する周辺資料、そして、その後の研究をもとに今回新たに制作した「制作工程」と、その手順を収録した動画を展示します。石原が行ってきた、絵画制作の基礎から金箔の置き方、刻印、彩色、緑土を用いる肌の描写などを、『絵画術の書』 が伝える技法に触れながら紹介し、日本の美術館では展示されることが少ない「テンペラ画」の技法と表現の魅力に迫ります

 このような、マニアックというか、お勉強的な展覧会で、会場に来ていたのは、まさにこの展覧会が目的という人が中心のようで、それほど広いとも言えない展示室で、注意していなければ10分程度で見終わってしまいそうな展示を、立ち止まってじっくりと見ている人が多かったようです。人は少なかったのですが、密度が濃いという雰囲気でした。私のようなマニアでない中途半端な者は、まわりの人々の熱心さを観察したりもしていました。
 テンペラ画というのは、中世の絵画技法で、顔料を卵黄で練った絵の具で描いた絵画のことを言うそうです。テンペラ(tempera)は、ラテン語のtemperare(かき混ぜる)から派生したイタリア語で、絵画においては結合剤、または粉末の顔料を練り合わせる、という意味を持ち、卵以外にも、膠、アラビアゴム、カゼインなどで顔料を練った水性絵具の総称として用いられていました。テンペラ画はフレスコ(壁画)と同様に古くからあり、特に中世の写本やルネサンス期にかけての板絵祭壇画などに優れた作品が多く見られます。卵黄テンペラは乾きが速く、耐久性に富み、明るく鮮やかな色を発し、また油彩や膠とは異なる接着特性があるため、金箔と卵黄との組み合わせにより、多くの装飾技法が生Ishiharamartini み出されたといいます。中世のイタリアでは絵画は宗教と関わりが深く、絵に光を与え輝かせるために金箔と組み合わせて装飾的、工芸的なものとするのに、テンペラ画のそういう特質は適していたのでしょう。しかし、今回の展示を見ていると、テンペラ画で描かれた人物の柔らかな質感は、この後のルネサンスの人物表現、例えばスフマートのような優美なぼかしに感覚的に繋がっていくのではないか感じさせられました。石原によって復元された受胎告知の人物の肌の描き方を見ていると、絵の具を面相筆で広く塗るというのではなく、細い筆による線を重ねるように描いているのがよく分かります。それは、まるで皮膚の角質細胞の細長いのをひとつひとつ描いているのではないかと思わせるほど精緻なもので、それを少し距離をおいてみると柔らかな人の肌の質感が触覚的に感じられるのです。しかも、そこで使われている色に意外なものが混じっていて、驚きでもありました。
Ishiharamartini2  メインの展示は、石原靖夫によって復元模写されたシモーネ・マルティーニの「受胎告知」です。オリジナルの作品は右側の画像のように両脇に立ち姿の人物が描かれた部分がありますが、石原は真ん中の部分がシモーネ・マルティーニの真筆であるのは確かだして、その部分を復元したということです。しかし、この復元模写は絵画の部分だけでなく、上方の工芸的な装飾や金箔の部分、それだけでなく、絵の画面のなかにも金箔が貼られ、そこに細かな刻印が施されているのを、すべて石原がひとりで行ったというというのです。だから、この模写は、単に絵を描くというだけでなく、工芸の部分もすべて作ったというわけです。会場での説明も、その工芸的な部分の説明が半分くらいありました。そこで使われた工具の展示や技法の説明はもとより、動画による作業風景はとても興味深かったです。その動画を見ているだけで、時間が経ってしまいました。
 Ishiharawoods 別の部屋で、数点の石原の作品が、中世絵画の模写ではない作品が展示してありました。テンペラ画の「輝く森」という作品は、画像では分かりにくいかもしれませんが、細かな工芸的な装飾が施されています。シンメトリーな構図は幾何学的でもあり、中世風の絵画と言えるかもしれません。画風は違いますが有元利夫に通ずる雰囲気といいますか。絵画というよりタペストリーを想わせるような精緻な作品です。また、「古都フィレンツェ」という作品は、いわゆる風景画ですが、前景の木々の細かな描き方はフレスコ画の細い筆の線を重ねるようにして描いたものを想わせます。

Ishiharaflowrence

2025年2月26日 (水)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(9)~第8章 文化史上の鎌倉仏教

 飛鳥、奈良時代といった古代の仏教は民衆を見ていなかった。それが変化し始めたのは、10世紀の律令体制の変貌によってだった。東大寺などの官寺=国立寺院は国家からの援助をとりつけることが困難になっていった。国家にの支援に全面的に依存していた官寺は、新たな財政基盤を築き上げることを余儀なくされた。その新たな経済的基盤が荘園や勧進活動からの収益だったのである。荘園経営には寺院自らが荘民を支配し、年貢を取り立てなければならなかった。また、勧進によって資金を集めるためには、民衆に分け入って法を説き喜捨を集める必要があった。そこで諸寺院は民衆と直接対峙し、彼らをその支配下に編成してゆく必要に迫られたのである。一方、同じ頃実力を備えつつあった上層農民は経済的な余裕が生まれるにつれて、さらなる上昇をめざす自己の精神的な拠り所として仏教を求めるようになる。このような双方の事情を背景として、11世紀頃から諸寺院は積極的な民衆布教と彼らの編成に乗り出すのだった。その先兵となったのが聖と呼ばれる一群の布教者であった。彼らは庶民の生活の場に分け入り、救いの道を説き、寺院への寄付や参詣を呼びかけた。これに伴い、伝統仏教に庶民が受け容れることのできる行の創出を促すことになった。そこで、本願の念仏によって誰もが救われるという理念が巷間に定着していった。
 平安時代の後期には貴族層はもちん、庶民にまで寺院への参詣や参籠の習慣が普及し定着した。それに対応して寺院建築も礼拝者のためのスペースが設けられ、多数の人々が収容できる本堂建築が成立する。
 12世紀に開花する中世的な民衆文化の中で、鎌倉新仏教が起こった。その意味で、鎌倉新仏教は中世の民衆文化の傾向に根ざしていた。そのため、新仏教の民衆性は伝統仏教のそれとは違っていた。既成の宗教や文化における民衆的側面は、民衆自身がみずからの欲求や嗜好に応じて創出し展開し完成したものではなかった。基本的に上から人々に与えられたものであった。頂点的文化の荷担者が民衆向けにアレンジしたものを用意したにすぎなかった。その意味で民衆性には限界があった。
 これに対して新仏教は、荘園制的な宗教的支配に対するきわめて強力かつ有効な克服の論理を、その思想の中に内包していた。それまでの教団であると同時に荘園領主でもあった伝統仏教の上からの論理を、一方的に受け容れることによってのみ仏教に結縁することのできた民衆は、新仏教と出会うことによってはじめて、支配と対決する思想的武器を手にすることができた。それは伝統仏教による上から与えられる文化に代わって、彼らが自ら主体的な荷担者とする文化を獲得する道が開けることを意味した。そして、親鸞や日蓮にみられた一神教的な神概念と選択主義がストレートなかたちで広く社会に受容されるのは、15世紀の室町時代後半からだった。
 かつて異端として厳しい弾圧を受けた親鸞や日蓮の宗教が、15世紀頃から急速に社会に浸透してゆく背景には社会や文化の大きな変動があったことは無視できない。15世紀後半になると、荘園制度は動揺し、その秩序は解体に向かった。中央権力は全国政権としての体裁を失い、地方には自立した権力が誕生していた。さらに権力の分散化の間隙をぬって民衆闘争が盛んとなっていた。このような状況下で、民衆運動が念仏信仰の一仏至上主義結びついたとき、絶対的存在である弥陀の名のもとに、地上の支配秩序を一挙に覆すようなエネルギーを生み出すことはほとんど必然的な現象であった。中世前期(鎌倉時代)には、常に異端の烙印を押され排撃される運命にあった専修念仏の選択主義が、より深く広く在地の住民に受容され、支配秩序の土台そのものを揺るがす彼らの闘いを支える理念となりうるだけの客観的情勢が、この時代になってはじめて熟したのである。
 親鸞や日蓮の宗教世帯は、ここにおいて社会実体をともなって実現されることになった。

2025年2月25日 (火)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(8)~第7章 熱原燃ゆ

 1279年の駿河の国の熱原でおこった法華経信者の弾圧事件を詳しく取り上げている。
 民衆への仏教の浸透は決して新仏教の専売特許ではない。民衆への浸透の度合に着目すれば、新仏教成立以前に仏教はすでに人々の間に定着し、その世界観や意識や行動に影響を与えていた。しかし、伝統仏教の衆庶への浸透は、精神的な面でも肉体的な面でも決して彼らに真の解放の道を示すものではなかった。仏の教えに触れることで、人々は確かに自己の救いを身近に感じることのできるようになったかもしれない。だが他方では仏教への結縁は、彼らが荘園体制下での支配イデオロギーの磁界に取り込まれることを意味していた。彼らがひとたび仏教に帰依したとき、そこからの離脱や反抗は仏神への敵対に対して呪詛と脅迫が加えられことになったのである。
 それに対して新仏教は、そのようなイデオロギーの呪縛を断ち切るための論理を提供するものであった。民衆の一人ひとりの心に精神的な権威と自信を付与し、彼らが世俗的な身分や支配秩序を克服しようとする際の拠り所を与えるものであった。同じく民衆化を推し進め庶民への布教に邁進したとしても、伝統仏教と新仏教の間には大きな違いがあった。
 だが、新仏教が客観的に見てのような思想的意義をもつものであったとしても、それかそのままストレートな形で歴史上何らかの役割を果たすことはなかった。伝統仏教界や権力側の過激な反応に驚いた祖師たちは、門弟が教義を他宗批判に用いたり現実の社会変革の論理として使用することを固く禁じたのだった。また、教団が社会的に公認されることを望んだ門弟たちは祖師の思想にみられる過激な部分を切り捨て、あるいは修正しようとした。
 一般に、新宗教の革新性は祖師一代で終わりを告げた。祖師以降の教団の歴史は変節と妥協の歴史であった。要するに新仏教は思想面では画期的な境地を切り開いたが、彼らの宗教はそのままの形では社会に根を下ろすことができなかったし、社会の前進にも何ら積極的な寄与はなしえなかった。そういう論評は、先に述べたような捉え方の必然的な帰結であった。
 しかし、このような見方にはひとつの重要な見落としがある。プロの僧侶における思想のあり方やその継受のみに目を向けていては決して浮かび上がってこない問題。それが専修念仏者の仏神誹謗の運動であり、熱原の農民たちの闘争であった。彼らの掲げたスローガンと基本的な立脚点が、いかに単純化されているとはいえ祖師の切り拓いた最も注目すべき思想的達成であることは重要である。彼らは、これら選択主義と一仏至上主義の論理と、それによって裏付けられた俗権に対する宗教的権威の優位の信念を、その行動の精神的基盤としていったのである。
 熱原の農民たちが果たしてどこまで意識して行動をとったのかは知る由もないが、その行動を客観的な立場から眺めたとき、これらの在俗信徒こそが祖師の教えの持つ歴史的意義の最も革新的部分を理解し、それをみずからの血肉としていった人々だったと言える。逆に言えば、身分や地位を越えた真実の世界の存在を示し、唯一の信仰による平等の救済を説いた祖師の思想と宗教は、これらの人々の実践によってはじめて命を吹き込まれたのである。

2025年2月24日 (月)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(7)~第6章 襤褸の旗

 新仏教の教団には、一部、伝統仏教との妥協を認めない、いわゆる過激派の人々も存在した。彼らは学問を積んだ高弟ではなく無名の在家の庶民たちだった。彼には師の説く高邁な哲理を理解できなかった。しかし、主流よりも、祖師の思想をストレートに受け継いでいたという側面があることを著者は指摘する。そこには、民衆の論理ともいうべきものがあった。
 伝統仏教の仏神は、荘園に君臨し住民を心身ともに支配する主権者・守護者で、それを崇敬しきちんと年貢を納めて義務を全うすれば、現世二世の安楽を保証してくれる救済主である。反対に、敵対し年貢や公事を出し渋れば、恐るべき懲罰を下し祟りをなす圧倒的な存在だった。これこそが中世の民衆が仏神に抱いていたリアルなイメージだった。それが、専修念仏に帰依することにより、民衆は既存の仏神に対しての畏敬の念を失った。のみならず彼らはその権威を否定し、仏像や経典を破壊するという過激な行為にまで行うにいたった。それは領主たちにすれば、それまでなされてきた仏神への奉仕の拒否、つまるところ領主への敵対以外のなにものでもなかった。同時に仏神を恐れない農民門徒の行動は、その権威をイデオロギーの柱とする国家支配つまり荘園支配そのものに対する真っ向からの反逆と映った。
 鎌倉時代の社会の中で、伝統仏教や国家権力と念仏者の間に繰り広げられた激しい相克は、単なる信仰や思想のレベルでの対立にとどまらなかった。それは支配体制の存亡にかかわるものだったのである。加えて、専修念仏に帰入して伝統的な仏神を否定するという行動は仏神の持つ宗教的権威をすべて奪い取るものだった。それは仏神の威光を背景に住民を支配してきた荘園領主から、その権威の源にある光背を剥ぎ取ることに他ならなかった。
 すなわち、過激派は祖師の高邁な思想を理解できなかったのではない。師の思想をこうした形で用いることで、自分たちの権益拡大の手段としようとしたのである。彼らは師の制止にあえて背いてまでも、師の思想から仏神否定という一点のみを取り出し、増幅しつつ受容することによってみずからの思想的武器としていった。それまで民衆は、宗教教団であると同時に荘園領主でもあった旧仏教の上からの論理を一方的に受け容れることによってのみ仏教に結縁することが可能だった。しかし、それは魂の救済と引き換えに、領主に対する心身の隷属を認めることであった。彼らは専修念仏と出会うことによってはじめて、荘園体制下の宗教的支配の呪縛を断ち切る論理を手にすることができた。そして、法然の教えを受けた専修念仏者による仏神誹謗の修業は、実際にその武器を行使した人々がいかに多かったかを死すものに他ならなかったのである。祖師さえも意識しなかった、その思想に内包されていた革新性を真に理解し、みずからの生き方の指針としたのは、既成教団や権力との妥協にのみ心を砕いたプロの僧侶ではなかった。むしろ失うものを持たない名もなき民衆たちだったのである。

2025年2月22日 (土)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(6)~第5章 理想と現実のはざまで

 新仏教の主張は既成の大教団の教学に対して、あまりにも革命的な内容を持つものであった。念仏や唱題といった一つの行以外のすべてを斥ける彼らの言説は、形骸化した難行をもてあそぶことだけを生活の手段として、その権威を唯一の拠り所としていた旧仏教徒にとっては、みずからに対するあからさまな挑戦と映った。やがて旧仏教徒は宗派の枠を越えて手を結び、国家権力まで動員して総力をあげて反撃を開始した。
 当時の大寺院は宗教的勢力としては最盛期にあり、幕府や朝廷さえもが一目置かざるを得ないほどの勢力があった。それに比べれば、法然の教団などは民衆への布教が進んだとしても、しょせんは泡沫程度のものでしかなかった。このような状況では、専修念仏の教団が社会的に安定した地位を確保するためには、伝統教団によってその存在を認知してもらうことが不可欠の前提だった。しかし、そこに立ちはだかったのが選択の論理である。迫害を恐れず師のたてた論理を貫くべきか、教団を守るために思い切った妥協に踏み切るかの選択を迫られ、多くの門弟たちは後者を選んだ。伝統仏教との和解のために、門弟たちによって祖師の思想が変容し、ついに選択の論理を破棄する方向に向かったのだった。このように祖師没後に試みられた伝統教団との共存の努力は、その門流の思想の中に伝統仏教の理念が浸透していく原因となった。彼らの教学中には実際に伝統仏教、とくに本覚思想の影響を見出すことができる。このような思想上の決定的な旋回を経て、彼らの宗教は徐々に公武の権力者の間にも浸透していった。その結果、権力者を経由して、在地の民衆の中にめざましい勢いで広がっていった。

2025年2月19日 (水)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(5)~第4章 仏法と王法

 鎌倉仏教は、はじめて民衆が救済対象の主客に据えられたと一般的に考えられてきた。著者は、それには再検討を促す。民衆を対象とするなら、すでに平安時代の後半から旧仏教によって主張されていたからだ。法然らが直面した課題は民衆の仏教の創出ではなく、信徒への蔑視を孕んだ旧仏教的な民衆仏教の克服だったと言う。つまり、旧仏教が装っていた民衆性の持つ問題点は、諸仏諸行による救済を肯定することによって、支配者-被支配者、僧-俗といった現世的なタテの社会関係を純然たる宗教的次元の救済論の中にまで持ち込んだことにあった。法然や親鸞はそうした旧仏教の理念の背後に潜む欺瞞を鋭く見抜き、念仏一行以外のすべての教行を否定することによって救済行の一元化を達成した。その結果、その宗教においてはあらゆる人が身分や地位や権勢にかかわりなく、仏や法といった普遍的価値の下に平等に位置付けられることになった。
 法然や親鸞に見られるような阿弥陀仏と念仏といった一つの仏、一つの行だけに価値を認め、他を否定する論理を「選択の論理」と呼ぶ。法然の宗門は、色濃い一神教的性格を帯びることになった。この性格は親鸞になると、さらに濃くなった。
 万物の創造主として神をたてるキリスト教と違って、仏教には絶対者という観念が欠けていた。ただし人間と仏の間には距離があった。厳しい修行を経て悟りを得たときに仏になることができる。しかし、にほんでは平安末期には両者の距離がゼロとするような思想が生まれていた。人間は本来仏であり、普通の人はそれに気づいていないだけで、成仏するのに面倒な修業は必要なく、ただ自分が仏であると自覚しさえすればいい。これは本覚思想と呼ばれる。本覚思想では、人間だけでなく草木や国土に至るまでいっさいの存在は、本来成仏の相を示しているとされた。日々刻々と生成変化をとげるこの現実こそが、永遠普遍の真理つまり仏の姿そのものだという。これによれば、仏は人々の中に、森羅万象に存在していることになる。これは多神教と言える。
 このような考え方に対して、法然や親鸞は正反対の立場をとったことになる。彼らは伝統的な仏教や諸仏菩薩がすべてその救済力を失ったことを強調すると同時に、念仏による阿弥陀仏への帰依こそが唯一の救いの道であると説いた。ここにおいて、諸仏とそれに対する信仰は存在価値を根本から否定された。
 このような一神教的性格は、日蓮にも見ることができる。彼は、法然らと同じように比叡山で学んだ。法然が浄土経文を尊重したのに対して、日蓮は釈迦の真意を最もよく説き示した経典として法華経を尊重した。さらに、彼は法華経以前に説かれた諸経典を、いまだ釈迦の悟りの真相を説ききっていない有害無益の方便権経であるとして、その価値を否定した。そしてさらに、彼は法華経を信ずる人々が行うべき実践として、末法の時代には経の題目「南無妙法蓮華経」を唱えるだけでよいと断言したのだった。彼にとって唱題以外の一切の行は無意味な行為に過ぎなかった。この専修題目という行によって帰依すべき対象は妙法という宇宙を貫く根源の法であり、その法の具現者としての久遠の釈迦仏であった。
 このように、法然、親鸞、日蓮の宗教は一神教的色彩が強かった。そして、彼らが次に行ったのは、仏の前では現世的な存在と価値がいかにはかなく無意味であるかを強調することであった。それは現世の権威と権力の頂点ある国王についても例外ではない。彼らにおいて絶対的存在としての仏のもとに地上の権威は相対化され、神代以来の伝統を誇る天皇家も強大な軍事力を擁する幕府も、所詮この世限りの滅ぶべき存在に過ぎなかったのである。彼らはこうして仏の前における、国王を含めた万人の平等を説いた。その一方で、彼らは仏の権威をその信仰者に転化していった。つまり、彼らの信徒と教団は仏からその権威を直々に譲り与えられた聖なる存在と化した。その結果、かれらの宗教を受け入れた人々は、その宗教的信念に基づいて主体的に行動するようになる。
 では、道元の場合はどうだろうか。禅宗は専修念仏や日蓮のように、外在して人間に対峙するようなタイプの仏の存在を認めない。彼らにとって仏とは自己の心中に内在する仏性の謂にほかならず、坐禅によってそれを発見し顕現することが修業の目的であった。したがって、教義の上では現世の権力を否定する必然性はない。しかし、道元は一貫して王法に対して仏法の優位を説いたのだった。道元にあったのは、法の至上性に対する確たる信念であった。法を尊重しそれに従う者は何にもまして貴く、背く者は賤しい。この単純にして強力な原則の前には、世俗の権勢の有無や貧富の問題は何ら介在する余地はなかったのである。
 当時の仏教界の常識から見れば、彼らの主張は破格以外の何ものでもなかった。しかしそれにもかかわらず、彼らは自らの説くところが釈迦の教えの真意になかったものであることを微塵も疑わなかった。しょせん思想とはそれ自体に価値があるのではなく、衆生を救いに導く手段に過ぎない。それだから、忘れ去られようとしている仏の意思を再び明らかにするためには、通り一遍の解釈に満足しているだけでは足りない。そこから仏の真意を汲み取ろうとする不断の努力が為されなければならない。たとえそれが、従来の仏教教学の常識を否定する結果となってもである。これが彼らに共通する確たる信念だった。

2025年2月18日 (火)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(4)~第3章 異端への道

 前章のように法然が出現する以前には、聖たちの活躍を通じて旧仏教は民衆に根を下ろしてその理念を人々の間に浸透させていた。また他方では、称名念仏によって凡夫・悪人が往生できるという考え方も社会に定着していた。それなら、新仏教の特質を、従来の意味での民衆性に求めることはできない。法然の主張に、何ら新しいことはないことになる。
 法然の新しさは、念仏によって誰もが平等に救済されると説く一方、それに加えて、念仏以外の様々な行は本願として選び取られたものではないため、いくら実践しても無意味であると断言した点にある。彼によれば、末法の世となったので伝統的な仏法はすべて人を救う力を失ってしまっている。仏は末法の暗黒の世の衆生たちのためにあらかじめ救いの手はずを整えていた。それが往生浄土の信仰なのであると主張した。だから、人々は形骸化した既成の信仰を捨てて、念仏の実践に帰依すべきである。法然はその根拠を「無量寿経」に求めた。
 しかし、著者は、これには論理の飛躍があるという。その解釈上の無理により、伝統仏教から強い批判を受けたのだった。実際のところ、専修念仏は経済的・能力的に、いろいろな行を積むだけの余裕のない人が修めるものとみなされていた。称名念仏は、世俗社会でも、身分の高い人々の間では評判の良いものではなかった。法然は伝統的な教行に比較すれば低級でまがまがしい行にすぎないとされていた念仏を、立場を逆転させて、他の行をしのぐ至高の教えとしたのだ。それにより、既存の仏法は、その存在意義そのものを根底から問い直されることになったのだ。法然が、あえて、無理をしてでも、このような主張をしたのには理由がある。法然は、この新しい立場を批判する伝統的な僧侶や権力者たちに対して強い憤りを持っていた。かれらは、善人ぶって意味のない修行や学問に精を出し、形式的な戒律にしがみつき、民衆を高みに立って見下していた。法然は彼らを偽善者として、彼らの教学に欺瞞が隠されていることを見抜いていた。当時の伝統仏教の寺院は強大な荘園領主でもあり、民衆は救済するものではなく支配するものになっていた。支配するものとされる者の二重構造は、諸行往生思想によるさまざまな修行や高度な修行を実践する僧や貴族、富裕な人々と下劣で簡便な念仏に甘んじる在俗信徒の二重構造でもあった。これは修業だけでなく、それによってもたらされる救済内容も二重化されていたのだった。
 法然は伝統仏教の信仰体系の背後に隠されたこり欺瞞を鋭く見抜いていた。彼の眼には、比叡山で修業を積み、高い学識を身につけた僧侶よりも、在俗の民衆の方がはるかに真剣に、純粋に法を求めているように映ったのだった。僧たちは民衆を支配しその収奪によって生計を維持しながら、彼らを見下していた。対照的に、信仰を生活の手段としない信徒たち方が真剣に映ったのだった。法然はもこのような市井の庶民たちを愛した。
 仏教が本来苦しみ悩むあらゆる人々の済度をめざすものであるとすれば、まず第一にその救いの光は最も虐げられた人々、差別された人々にこそ向けられるはずではないか。反対に、民衆救済という仏教の根本精神を忘れ難解な学問を弄ぶ旧仏教の僧や、すべてを金で解決しようとする権力者たちは、もはや信仰者の名に値しない。それなのに純真な信仰を持つ民衆が、偽善ぶった僧侶や権力者よりも宗教的に下に位置づけられるというのは、仏の意義がどこかで間違って伝えられたに違いない。このような疑問を、法然は持ったのだった。法然が経文に対して無理な解釈をしたのは、この課題に対する彼なりの解答であった。
 それが法然の選択本願念仏の論理である。これは単にあらゆる人々が弥陀の救いの正客であることを説いたものではなかった。伝統仏教の諸行往生思想が世俗社会での差別をそのまま仏の世界に持ち込むものであることを見抜いた法然は、それを克服すべく念仏以外の諸行の価値を否定することによって、身分や学問や権勢とは無関係に、すべての人間を唯一の救世主である弥陀の前に平等に位置付けようとした。そして、弥陀の本願に対する信仰のみを往生の条件とすることによって、本願の光が難しい修行や学問にとりくむ僧侶や金にまかせて善行を積む権力者にではなく、無学無知ではあっても純真な求道心をもつ庶民にこそ降りそそぐものであることを示そうとした。
 弟子にあたる親鸞は、伝統仏教者や権力者に対して、より激しい批判の論理を研ぎ澄ましたのだった。親鸞には法然を越える独自の思想の展開を見て取ることが可能だ。
 親鸞は、法然と同様に当時を末法の世と見ていた。伝統的な教えによってはもはや救われない。法然の場合は伝統仏教を否定する言葉には曖昧さがあったのに対して、信頼の場合は既成の教行が全く無価値であると断言されていた。それゆえ、当時の人々がすべきことは、この世にありながら自力で悟りを得ようなどとする無駄な試みをきっぱりと捨て去ることであった。体裁を取り繕うことなく、煩悩に惑わされたありのままの自分の心と姿をみつめ、ひたすら弥陀の慈悲を頼むこと。これこそが末法の人々に残された唯一の救いの道だった。諸仏諸行の放棄と弥陀一仏に対する絶対の信。そして専修念仏の実践。親鸞は、このみずからの主張を裏付けるために、経文や先学の言葉に法然以上に独自の解釈を施していったのだった。親鸞による善導の「観無量寿経疎」の解釈に、それは明確に現われている。善導は外面だけを飾って内心に偽りがあってならないと説いているが。親鸞は次のように解釈する。末法の凡夫の心は、本質的に煩悩に覆われた虚仮なるものであり、もはやそれはどうしようもないことなのだ。そうであるとすれば無理に外面の体裁だけを整えたとしても、内心が虚仮のままなのだから必然的に偽善に陥ることは目に見えている。そんなことになるくらいなら、いっそのこと外には悪人として振る舞い、内心は偽りの心を懐いた日常のありのままの姿で念仏したした方がずっとよい。なぜなら、阿弥陀仏の本願も、煩悩に汚された末法の悪人を救済するために起こされたものなのだから。
 この解釈には、法然以上に無理がある。しかし、親鸞の解釈の背後には、みずからが悪人であることをリアルに認識できる当時の民衆に対する温かなまなざしがあった。同時に善人ぶりながら、民衆を見下す僧侶や権力者への厳しい怒りが込められていた。親鸞は、この解釈の中に、悪人たらざるをえない民衆に対する共感と、自己の悪人としての本質を理解できないまま善人ぶったふるまいをとる特権階級に対する怒りを込めていると言える。
 この親鸞の論理は「二種深信」と呼ばれる。第一に、自身が一切の救いから閉め出された罪悪生死の凡夫であると信ずる。第二に、そのような自分をさえ救いむとってくれる本願の威大さを信ずる。この二点を念仏者は深く心に刻みつける必要がある。
 当時の社会では、漁師や猟師はもちろん、武士も商人も農民も、みな悪人とみなされていた。この時代には仏教的な視点からすれば、生きるために働くことはほとんどすべてが罪業に直結していた。そのため、真の救済を得るためには、そうした罪深い生活を切り捨てて出家するしかないと考えられていたのである。これに対して、親鸞は出家して罪業に触れない生活をしていたとしても、本質的には猟師などと変わりはない。なぜなら、末法に生まれ合わせた人々で悪人でない人はいないからだ。偽善を憎み日々尊い汗を流す民衆に光を当てようとした親鸞は彼らの日常生活そのものを全面的に肯定する論理を生み出した。それにより、民衆はだれにもはばかることなく自らの生業に従事しながら、仏の光に照らされていることを確信できるようになった。

2025年2月17日 (月)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(3)~第2章 聖とその時代

 著者は、鎌倉仏教を近世の儒学と並んで日本の伝統思想のピークを成していると考える。その鎌倉仏教がピークとみなされる所以のひとつとして民衆的性格をあげる。
 鎌倉仏教以前の日本には伝統的な宗派や寺院が存在していた。それらは鎌倉時代においても仏教界で大きな地位を占めていた。著者はこれを旧仏教と呼ぶ。旧仏教は鎮護国家の寺として創建され、その基本的な性格に規定されて、国家や支配者の安泰だけを祈る国家仏教の殻を破ることはできず、民衆の存在は視野の中心に入ってこなかった。それに対して鎌倉の新仏教は民衆救済の課題に真正面から取り組み、自らの使命とした。そのため、プロ向けの修行である難行苦行を斥け、信心を最重視する立場から、あらゆる人々の平等の救済を理論化していった。
 とはいえ、旧仏教が民衆の救済を無視したわけではない。例えば空也のように諸国を遍歴しながら社会事業を行い、民衆の教化を進めたのだった。そういうこともあって、専修念仏が日常的な実践として平安後期の社会に定着していたのだった。
 これには理由がある。古代の日本では寺院や僧侶は国家の全面的な監督のもとに置かれ、出家や布教についても厳重な制限が加えられていた。官寺は国家に有用な僧を育成し護国の機能を果たすことを義務づけられ、その代償として国家からの全面的な保護と財政援助を約束されていた。その土台となる国家体制(律令制)が動揺し、荘園制が発達してくると、寺院は国家からの援助を受けられなくなり、財源を自力で確保することを迫られた。そこで、旧仏教が選んだのは、荘園を集めてみずから経営することで、もう一つが、勧進活動によって広く衆庶の寄付を集めることだった。これは庶民のあいだにも公地公民制が崩れ貧富の差が生まれ、富農が登場したためだ。彼らは経済的な余裕を持ち、地位向上の拠り所として寺院とのつながりを求めたのだった。寺院は、彼らを取り込んでいくことで延命を図ったのだった。これに伴い、仏法の理念も民衆の間に浸透し定着して行くこととなった。その結果、霊験あらたかと伝えられる有名寺院は多くの参詣者を受け容れるようになる。そのため、寺院は官寺としての性格を変えて庶民が気軽に詣でて個人的な願掛けの場所にふさわしいものとなって、建築様式もそれに応じて変化していったのだった。古代の法隆寺金堂と平安時代の鶴林寺太子堂は様相が全く異なる。
 平安末期の源平の争乱に代表される内乱の時代に京都や奈良の寺院は火災に遭って焼失してしまう。その復興の資金を衆庶の志納に頼らざるを得ない。そのため、寺院は民衆の空いた背に分け入り、支持を得ることを余儀なくされたのだった。その前面に立ったのが聖と呼ばれる僧たちだった。

2025年2月16日 (日)

佐藤弘夫「鎌倉仏教」(2)~第1章 法然の旅

 法然は比叡山で学問と修業一筋の生活を送る。そこで、源信の系統の天台浄土教に出会う。当時の念仏には、南無阿弥陀仏と唱える称名念仏と仏の具体的な要望を心中に念ずる観想念仏があり、主流は観想念仏だった。さらに極楽往生への実践は念仏だけに限定されず、経典を読むことも、戒律を守ることも、堂舎を建て仏像を刻むことも含まれ、さまざまな行をたくさん積むほど極楽が近づくという諸行往生思想が主流だった。これでは、無知無学な下層の民衆は往生を望めなくなる。そこに法然は抵抗を覚えた。彼の関心は称名念仏による往生の可否、つまり専修念仏の理論的根拠を見出すことに集中したのだった。そこで唐の僧である善導の「観無量寿経疎」を発見する。極楽行の切符は自力で手に入れられるものではなく、仏の慈悲の力(他力)にすがることによってはじめて可能になる。念仏こそが仏の用意してくれた唯一の道であるという。念仏は自分にふさわしいものと考えて人間が選択するのではなく、衆生救済の本願に基づき弥陀が選びとって授けてくれた行である。だから身分や能力や地位にかかわりなく、本願を信じ念仏を称える者はだれでも弥陀の力によって平等に極楽に迎えられる。ここにいたって、口称念仏は弥陀の与えてくれた唯一最高の極楽行の切符となった。これを確信した法然は比叡山を下りて、実践を始める。43歳の時である。

佐藤弘夫「鎌倉仏教」

11113_20250216001501  8年前に読んだ本の再読
 著者は教科書の鎌倉仏教の説明に物足りなさを覚えるという。宗教とは何か、それは信念をいかに生きるか、という問題と切り離して語ることはできないからである。鎌倉仏教の親鸞、日蓮や道元などといった鎌倉仏教の祖師たちはみな、思想家である前に実践者であった。彼らは象牙の塔に閉じ籠って、体系的でほころびのない思想を最終目的とは考えなかった。宗教や思想は、所詮みずからが救われ、人が救われるための手段にすぎない。思想は実践のなかで鍛え磨かれて、はじめて生命を吹き込まれる。彼らもまた、日々の民衆との接触のなかで、一歩一歩その思想を彫琢していった。それゆえ、完成形の体系のみを取り出しても、それは鎌倉仏教の核心を捉えたことにはならない、と著者は言う。それでは宗教の持つ独自の生命力を見失う。ここでは、彼らの思想の論理の矛盾や解釈の飛躍に着目し、その論理の裂け目の間に、実践者としての彼らの苦悩と思索の足跡を、生きた宗教として見出していくとしている。
 鎌倉仏教以前の日本には長い仏教受容の歴史があり、その過程で膨大な数の教理書が著わされ、壮大な教理体系が構築されていた。鎌倉時代には、このような伝統的な教学が仏教界を、社会全体を厚く覆っていた。しかし、これは古代や中世の民衆には、何の影響も与えなかった。単に無関係というだけでなく、さらに支配者に独占されることによってその権力を荘厳なものに飾り立て、その過酷な民衆支配に力を貸すものとなった。それゆえ、例えば、法然が宗教者としての使命に目覚め、生活者の目線から仏教のあり方を問い直そうとしたとき、伝統仏教の呪縛の磁界に風穴を開けることから始めなければならなかった。その時のアカデミズムの世界からのヒステリックな反撃は、伝統仏教が担っていた役割の本質を垣間見せるものであった。このような伝統仏教からの批判と迫害から逃れるべく、弟子たちは伝統的な仏教教学に沿うように、異端的要素を孕む祖師の思想を再解釈しようとした。その結果、後継者の時代になると思想の体系性や論理の整合性を獲得する一方で大切なものを失っていった。著者が、仏教を教理史として捉え、論理の整合性と完成度のみを尺度として思想を評価する立場を退けた理由はそこにある。本書は鎌倉仏教を生きた姿として捉えることを目指す。鎌倉仏教は、あくまで中世前期という特定の時代において、限定された状況のなかで果たした役割を追究する。

 

2025年2月11日 (火)

安田峰敏「中国ぎらいのための中国史」(2)

 「孫子」の著者は春秋時代末期の呉の将軍孫武とされている。春秋時代の諸侯の戦い士以上の身分の者しか参加できず、戦場の主役は馬で引く戦車だった。戦争には儀礼的な要素が強く、戦闘の期間は短く、兆曲の遠征も控えられがちだった。だが、江南の異民族の国だった呉は、このような牧歌的な戦いをしなかった。士より下の身分である庶民を歩兵として大量に動員し、軍事的な成功を収めた。当時の他の諸侯は戦争に買っても相手の国を滅ぼすことはなかったが、呉は敵国を撃滅するまで戦いを継続した。このような本気の戦争に勝つための理論として求められたのが孫子の兵法だった。孫子は、それまでの戦争のあり方を否定し、新しい戦い方を示したのだった。その後の中国の伝統社会では儒教の影響が強かったため文治を重んじ武事を卑しむ傾向が強く孫子は士大夫から好まれなかった。20世紀になって、毛沢東の軍事戦略に取り入れられ、再評価が進んだ。当時の紅軍は国民党軍に比べて兵数でも装備でも劣っていた。そこで孫子を取り入れた戦術で対抗していた。現代中国では、軍隊以外の国家機関でも孫子の兵法が提唱されている。例えば公安部門であり、インテリジェンスである。
 
 「近代」について日本人と中国人の受け止め方は、ほぼ正反対だ。日本人にとって近代は基本的にポジティブに受けとめられている。明治維新から第二次世界大戦の敗戦までの時期がそれにあたり、最後に敗戦という大きなミソをつけたものの、御一新の文明開化の明るいイメージで始まり、坂の上の雲を目指してアジアの一等国への道を駆け上がった。黒船襲来というウエスタン・インパクトは結果的に明るい時代の呼び水となってということで、負の印象を持っている日本人は少ない。
 一方、中国では近代を暗い時代と捉えている。時期としてはアヘン戦争から中華人民共和国の成立までで、西洋列強が好き勝手に振舞い、統治者が無能であったことで、中国本土は植民地にされ、国家は恥辱被り、人民は苦難を味わうという暗黒の時代という認識。そして、暗黒の時代だった近代を乗り越えて中華人民共和国の現代を迎えたという歴史観だ。中国人にとって悲惨な近代をもたらした忌むべき端緒がアヘン戦争だった。その経緯から、中国人は西洋に騙されたという意識が、現代でもたびたびよみがえる。例えば、天安門事件のさいに、アメリカをはじめとした西側諸国が基本的人権や民主主義といった美辞麗句を隠れ蓑に武力を用いない方法で党体制の転覆を画策したという認識だ。最近のコロナ禍においても、中国の庶民の大部分はアメリカ起源説を信じている。中国は、いじめられている被害者意識をアヘン戦争以来、底流に持ち続けている。その反作用として時刻が強くなったことで、かつての暗黒の近代の復讐を果たしたいという思考が広まっている。

2025年2月10日 (月)

安田峰敏「中国ぎらいのための中国史」

11113_20250210232601  このようなタイトルのPHP新書というビジネスのハウツー本のような体裁をとっていて、読みやすく作られているが、現代の中国人の歴史の見方は、日本人の歴史の見方とは異なっているという歴史認識のベーシックなところを、中国史のいつくかの事例をピックアップして具体的に見せてくれるという興味深い内容となっている。
 現代の中国において、歴史は単なる過去の出来事ではなく、現代の政治的な問題を肯定したり否定したりする材料として活用する対象である。これを好意的に解釈すれば、中国人は歴史的人物や古典との距離感覚が日本人の場合よりもずっと近く、自分たちの社会の延長にある存在として捉えているからだという。例えば、後漢末期の三国志の時代、蜀の諸葛孔明のいわゆる南蛮行、つまり劉備の病没後に益州南部で起きた反乱について、孔明がみずから軍を率いて、そのまま南中方面まで遠征した出来事である。南中の平定後、孔明は現地に6つの郡を置いたが行政官を派遣するのではなく、現地の有力者を郡のトップに据えた。この出来事を最近の中国では好意的に論じる。諸葛孔明は辺境における少数民族の統治政策で成功をおさめ、国家の統一や中華民族の文化の拡大に貢献したからだという。実際、チベット族やウィグル族とは違い、孔明が平定した中国西南部の諸民族は現代でも中国国家の一員という自己認識が強いという。
 中国でも水滸伝や三国志演義は人気があり、とくに水滸伝の人気が高く、三国志の人気が高い日本とは違う。三国志の蜀は漢の再興を目指す劉備のもとに忠誠心に篤い諸将が集まるのに対して、水滸伝は好き勝手に振舞う個性の強い豪傑たちが明確な目標や理念もなく梁山泊に集まったという話しだ。このような集団は現代の中国で、地方に行けば、そこいらじゅうに存在している。中国の一般的な労働者は、上司の個人的な子分でもないかぎりは組織に対する忠誠心が弱い。
 元寇は日本人では誰もが知っている日本史上の大事件である。国土に上陸してきた他国の正規軍と大規模な地上戦が起きた事態は、歴史上では元寇と第二次世界大戦だけなのだ。かりに敗北していた場合、日本の国家体制や日本人の生活習慣は大きく変わった可能性が高い。一方、中国人は、この戦争をほとんど知らない。元朝は漢民族にとっての征服者で、フビライが日本以外にもベトナム、ミャンマー、インドネシアにも遠征軍を送っていたのは関心外である。無数に実施された遠征の矛先に日本が含まれていたかが気になるのは日本人だけだ。現代の中国は公教育の中で、中国は歴史上で一度も他国を侵略したことがないという歴史認識と主張を繰り返し続けている。700百年以上前のモンゴル人の肯定の行動でも中華民族の王朝が明確に他国を侵略した事実を詳しく掘り下げる研究は、現体制下では政治的に喜ばれないと思われている。

 

2025年2月 9日 (日)

奥泉光、原武史「天皇問答」(3)~Ⅲ.昭和から平成へ、平成から令和へ

 とにかく天皇は触ってはいけない存在だという感覚は、日本国民にはなんとなくある。とくに霊威を感じているわけではないが、神社などの宗教的な施設で「ここからは神域だから絶対に不可侵ですよ」と言われると、禁を破りにくいということがあるが、これと同じような意味で、一種の不可侵性を依然として昭和天皇は持ち続けていた。昭和から平成になると、同じように天皇の聖性、天皇の身体に対する不可触の奸かは持ち越されたのか。それは、そもそも身体が違う。例えば肉声。昭和天皇の肉声には独特の抑揚があった。平成天皇になると急に声が軽くなった感じで、当初は評判が悪かった。もう一つ決定的なのは、1991年の雲仙普賢岳の火砕流の直後に天皇皇后が島原の体育館で二手に分かれて被災者にひざまずいて話しかけた場面だった。昭和天皇だったら自分が高いところに立って、差をつけて、一般の人たちは仰ぎ見る。そこでみんな万歳をしたりする。それに比べて、水平的だし、一対一。一対多から一対一になって、そこで言葉が用いられる。昭和天皇の場合は基本的にコミュニケーションがない。とこが美智子妃は一人一人違う言葉をかけていく。ちゃんと目を見ながら、その人に対しての言葉をかける。お決まりの言葉ではない。今でいうタウンミーティングみたいなこともやっている。そこに非常に大きな政治的効果があった。この新しいスタイルは昭和天皇とは異なる新たな聖性の獲得となっていった。この方向は右派には受け入れがたい。
美智子妃は宮中祭祀に熱心だった。天皇の象徴としての務めの一つとして国民の安寧と幸せを祈ることを挙げたため、祭祀は祈りとして使命化された。
 平成期につくりあげられた天皇イメージは、純一でイノセントな日本人共同体を代表するものだというもの。政治家ではそれができない。様々な利害対立のなかで、綺麗事ではすまされない問題に直面し処理していくという現実政治から離れた場所にある純一で対立のない日本人共同体、それを統合する象徴としての天皇、そういうイメージ。これはいわゆる主権在民とは矛盾している、という位相が違う。天皇と国民はイノセントだった。軍部がすべて悪かったというかたちで構想された戦後の日本人共同体のイメージを強化するものだった。

2025年2月 8日 (土)

奥泉光、原武史「天皇問答」(2)~Ⅱ.昭和の戦争と天皇制

 明治になる以前の権力者は基本的に見えない存在だった。高貴な存在は見えないという考え方だ。それが変化したのは幕末の14代将軍家茂で上洛したときに、東海道で姿を晒している。このことは、将軍の威光が衰えたことを暗示している。そして、京都では醸し撰者に行幸する孝明天皇の行列に家茂がつき従う。これもまた、将軍に対する天皇の優位を視覚的に示すことになった。この転機を有利に利用したのは天皇の側で、明治になって、明治天皇が京都から東京に壮大な行列で移動して、沿線住民に威光をアピールしたのだった。
 それを明治政府は利用した。まず、明治天皇が京都から東京に移ったことで旧来の中性的な天皇像から男性的な近代的君主にイメージを刷新した。そのうえで全国巡幸し、西洋の進んだ文明をもたらしたありがたい存在として知らしめようとした。しかし、地方の一般大衆の反応は、いくつかある生き神や生き仏の一つと同じで、天皇という固有の存在として意識しているのではなく、本願寺の法主が巡教にやってきたのと同じような反応をする。明治政府の狙いとはずいぶんと異なる。それでは国民というものが創生できないと政府の人たちは思った。そこで、正当化イデオロギーを教育や啓蒙により浸透させようとするが、これを受け容れるのは中間層とまりで、大衆には届かない。例えば、教育勅語が学校で暗唱させられるのは昭和になってからで、上からの民衆への皇国イデオロギーの注入はさほどでもなかった。
 また、統治システムの面からは、明治憲法には、万世一系の天皇が統治する、また、天皇は神聖にして侵すべからず、と規定する一方で、天皇は国の元首で憲法の条規に従うとされている。立憲君主制を目指しながら、天皇の神聖性をいれている。最初から明治憲法には矛盾が含まれていた。天皇が統治権を総攬する。しかし同時に天皇は神聖であって無答質、つまり国政上の責任を負わない。どちらを重視するかで説が分かれる。これは天皇について密教と顕教と言い分けることができる。明治の元勲たちは明治天皇に対して「玉」の感覚を持っていた。しかし、後の世代は。天皇が「創られた」という側面を知らない。元勲たちは醒めた意識を持っていたが、時代が下ればそれは出来上がったものとして映るので、本当の伝統のように受け取ってしまう。急速にステロタイプ化する。天皇に対する尊崇、敬愛を強めていく。当初は密教的側面が強かったのが、次第に顕教が強まっていった。日清日露戦争を通じて、日本においてナショナリズムが現われる。それに伴い、このあたりから天皇の神格化が本格化していく。
 次代の大正天皇は、その流れに逆らったことで、元勲の反発にあい、その軋轢の中で体調を崩してしまった。大正天皇の在位中から皇太子(後の昭和天皇)は明治天皇の路線の継承者として期待され、いわば、明治天皇のコピーのようで、明治天皇のようなバランスをとれず、また、顕教が大きくなってく流れを調整することができなかった。この流れはイデオロギーに敏感に反応する中間層が成長し、社会全体への影響力を強めたことにもよる。1930年代に、天皇は神である。日本は神国であるというイデオロギーが一挙に前面に迫り出してくる。
 敗戦、そして占領期に入るが、戦時中は現人神天皇に対する熱狂的な信仰は敗戦により捨てられることはなかった。この不思議について、例えば、戦後の天皇の巡幸について、GHQは高を括っていた。戦争に負けたわけだし、そういう意味ではカリスマ性も失われているから、たとえ天皇が全国を回ったところで大した反応はないだろう、と。ところが蓋を開けてみればまったく逆で、あちこちで盛んに歓迎され、お召列車が走れば最敬礼する。これではまるで戦勝国のようではないかと、あまりの歓迎ぶりを見て、GHQはおそれをなした。

奥泉光、原武史「天皇問答」(1)~Ⅰ.天皇制の見方・考え方

11113_20250208000201  中国の皇帝やヨーロッパの王国と違って、日本の天皇制は王朝の交替がなく連綿と続いてきたため、新たな王朝を始めるに際して、前王朝を打ち倒し政権に就いたことの正当性を表明する必要がなかった。そのため、イデオロギーを構築してこなかった。天皇あるいは皇室というものはずっとあるにはあるが、その背骨となるような確固たるイデオロギーはつくられてこなかった。その時その時の機会主義的な判断が為されてきた。
 しかし、明治維新では政権の正当化が必要となった。それはヨーロッパ列強に対して国の主権を主張し、国内では強力な統一国家をつくるために国民を創出しなければならなかったからだ。明治新政府をつくった人たちは、天皇は統治の手段としての「玉」であると考えていた。一方、民衆に対しては、天皇を核に近代国家を形成するとして、国民を育成することが何よりも重要だが、自分たちは日本国民だというアイデンティティーを持つ人々の創生のために、一つの中心として皇室を使おうとした。そこで、行ったのが、明治初期の六大行幸、つまり、全国に天皇が行幸し、天皇の存在を人々に知らしめた。それは、イデオロギーにより人々に天皇の正当性や権威を納得させるというのではなく、壮大な行列をつらねるなど、視覚的な効果によった。人々は参勤交代の大名行列を土下座で迎えるのと同じように迎えた。お偉いさんを迎えるというものだ。偉い者として天皇を人々に定着させたというわけ。結局、このような状態は現代まで続いている。つまり、天皇を崇める臣民という役割を演じていたというもの。だから、万世一系の天皇制の絶対性、神聖性といわれても一般大衆には空虚なものだった。
 国内を三層に分けて考えると、最上層は支配的エリート層で天皇を「玉」と捉えていた。最下層が一般大衆で前述のとおり。両者の中間に中間層がある。江戸後期の豪農や下級武士といった儒学や国学を熱心に勉強した人々で、イデオロギーを必要とした人々。
 政府の統治システムの面から言うと、大日本帝国憲法の規定は分権的で、権限責任が分散していた。内閣の権限が弱くて、各政治勢力が個別の利害に固執しだすとバラバラになってうまく行かない。そこを元勲たちが調整能力を発揮してうまく運営していたわけだが、その調整装置のなかの一つのパーツとして明治天皇がいた。明治天皇は、立憲君主の席を占めつつ、万世一系の血筋による民族の統合の象徴性をもち、国家神道の祭主としてのイメージをも担い、そしてさらに文明開化のシンボルでもある。二重、三重、四重のシンボル性を明治天皇という人は帯びていた。知要請装置のパーツの一つとして立憲君主として捉えたのが支配層エリートで、後に天皇機関説として学説化され、もう一方の民族の統合の象徴、国家神道の祭主は後に現人神というイデオロギーにまとめられ中間層がそれを担う。いわゆる密教と顕教に分化し、中間層の成長に伴い、そのバランスが崩れ、顕教が密教を圧倒し、総動員体制に至ってしまう。
 つまり、一貫しているのは、天皇制というのはずっと続いているので、既成事実として定着し、あえて正当性を問われることはなかった。それゆえ、万世一系とか現人神といった正当化イデオロギーは、後からとってつけたようなもので、内容は空疎なもの。それゆえ、人々は、その内容を理解、納得し、受け入れたというのではなかった。だからこそ、敗戦によって、そのイデオロギーが形式上無意味となっても、ドイツのナチスのように天皇が排斥されることにならなかった。多分、それはあるのが当たり前で、その状態をなくしてしまうことの方に正当性イデオロギーが必要だったからではないか、ということだと思う。

 

2025年2月 6日 (木)

生誕130年 青山義雄とその時代

Aoyamapos 2025年2月 茅ヶ崎市美術館
 今朝は早起きして人間ドック受診。去年は予約が取れなかったので1年ぶり。以前は1日かけて、ゆっくりと検査していたのが、コロナ禍を機に、細かく時間を分けて予約をとり、受診者をバラバラにして、受診者同士の接触を抑え、各検査の待ち時間をなくすことでスムーズに検査が進むようになった。数年前は1日かかっていたのが、1時間ちょっとで終わってしまった。待ち時間がないと、正味の検査の時間なんて、そんなものだということ。それで、検査結果の説明までの待ち時間が1時間半くらいで、最終的に終わったのが11時過ぎ。遅い朝食を昼兼用で済ませても、午後が空いた。そこで、いくつか考えていたなかで、茅ケ崎市美術館に行ってみることにした。
 茅ヶ崎駅は郊外の何ということもない駅で、南口の小さなロータリーをわたり駅前の繁華街とも言えない数軒をぬけて、数分。図書館があり、その先に林がみえる。林と思ったら庭園。けっこう大きな日本庭園で、その奥に美術館があるとのこと。入口の門は、美術館というより個人の邸宅の玄関みたい。案内板に従って、庭園の小道をいく。風情がいい。小道は回遊式になっているのか曲がりくねっていて、坂道を上ると、小高い丘の上に美術館にでくわす。この時期、ちょうど白梅が咲いていた。美術館はこじんまりした建物で、前面ガラス張りで瀟洒なデザイン。展示室は1階と地下にある。1階は、受付ロビーと展示室。今回の展覧会は1階の展示室で、それほど広くはない。まあ、展示数が50点に欠け、大作もないので、ちょうど収まるくらいの大きさ。会場に来ていた来館者は、茅ケ崎のイメージのちょっとお洒落な近所のおじさん、おばさんみたいな人々で、地域に溶け込んだ美術館みたいだった。全体にアットホームな雰囲気だった思う。いままで、都心の大きな美術館ばかり見てきたが、こういう地方の地元に根差した小さな美術館もいいものだと思った。こういう美術館を求めて、地方を旅するのもありではないかと思った。
 ところで、青山義雄という画家のことは知らないので、その紹介を兼ねて、展覧会パンフレットにあった主催者あいさつを引用します。“2024年に生誕130年を迎えた画家・青山義雄(1894~1996)をご紹介します。1894年、現在の神奈川県横須賀市に生まれた青山は、父の転勤に伴い三重県、北海道で少年期を過ごしました。1910年に絵画を学ぶため上京した後、1921年にフランスに渡ります。その後一時帰国を挟みながら生涯のほぼ半分をフランスで過ごし、1986年からは茅ヶ崎市東海岸のアトリエを兼ねた住宅で最晩年まで制作を続けました。アンリ・マティス(1869~1954)に「この男は色彩を持っている」と評された青山の作品は、その多くが鮮やかな色彩で描かれています。フランスの海岸風景、美しい夕景、そしてバラや百合などの花々を題材にした彼の作品は今も人々を魅了しています。青山は生涯マティスを師と仰ぎ、画壇と一定の距離を保ちつつ自分の画業と向き合い続けた画家でした。その一方で梅原龍三郎(1888~1986)が創立に携わった春陽会へは長きにわたり出品し、共に制作に励むなど梅原とは強い繋がりがあったことがうかがえます。生誕130年を機に、青山の生涯を作品で辿るとともに彼と関わりのある画家の作品をご紹介いたします。” 展示そのものは、規模が小さかったので、展示作品数も多くはなく、ゆっくり見ても1時間とかからない。もう少し、多くの作品を見たいと、物足りなさが少し。
作品を見ていきましょう。
第1章 渡仏─マティス、福島との出会い
 習作時代からフランスに留学した時期の作品。福島とは支援者ということです。
Aoyamadance  「海辺の輪舞」という1926年の作品。“マティスを師と仰いだ”とか“が鮮やかな色彩で描かれて”と紹介されているけれど、これってマチス?鮮やかな色彩?たしかに中央の輪舞する人々はマティスの「ダンス」と似た構図だけれど、躍動感はないし、何よりもくすんだような、どちらかというと暗い色彩で、これを鮮やかと言えるのか疑問です。マティスの一般的なイメージである明るさや自由奔放さを、この作品に見ることができると言えません。むしろ、奥行きのない平面的な画面に単純化された人や動物が並列的に、まるで宙に浮かんでいるように描かれているのはシャガールを想わせると思います。ただ、空、海、海岸、地面を色分けした面として分けているところから、この画家が、形とか質感とか存在感とか空間とかいったことよりも、色で世界を見ているのではないか、ということがうかがえます。その点でマティスに通じるところがあるかもしれません。
 「カーニュ風景」という1927年の作品では、海の青が鮮やかで印象的です。この作品では、世界を色の面で組み立てるという志向を明確に見て取ることができます。
Aoyamanude  「田園の裸の人々」という1929年の作品。今回の展示で最大のサイズの作品で、横長の、この作品を見て真っ先に想いだしたのが、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」で、真ん中の女性の両手を高く掲げたポーズがそっくりだからです。しかも、三人の女性の描き方は、絵の具を混ぜないで違う色の絵の具を平面にして重ねていって、結果として絵の具が盛り上がってしまうという、ゴッホやセザンヌのようです。この作品ではポスト印象派でしょうか、青山は同時代の絵画を積極的に勉強して、吸収しようとした、真面目さが現われているような気がします。それが単なる猿真似ではなく、彼自身の特徴は現われている。
第2章 暗がりの日本、まばゆいフランス
 フランス留学から帰国すると国内で活動を始めますが、世界情勢の動向により、フランス再訪は、第二次世界大戦後の1950年代になってマティスから呼ばれる形で、という。
Aoyamastill  「静物」という1942年頃の作品です。これまでの彼の作品を見ていると、この画家は、たしかに色彩で世界を構築しているけれど、決して南仏の鮮やかな色、明るい色ではなく、むしろ暗くて、くすんだ色だと思うのです。“まばゆいフランス”ではなく“暗がりの日本”なのです。それが、この「静物」にはよくあらわれています。壁はグレーっぽい土色でテーブルは黒。奥のテーブルクロスは真紅だが、暗い感じで、乗っている壺はグレー。全体にグレーの基調で手前のテーブルに置かれた桃が白にちかいピンク色で、花瓶に挿された花がピンク色で映えています。そのコントラストはあります。しかし、鮮やかに浮かび上がるというのでもない。それは、それぞれ描かれているものの輪郭が、前に見た作品に比べて明確でなくなっているからでしょうか。それは陰翳ということになるかもしれません。それゆえ、マティスにはない穏やかさが生まれていると思います。このあたりで、青山という画家の個性がはっきりしてきたと言えるかもしれません。ここでは、静物を描いているというより、色彩で画面をつくったのが静物画の形になっていると言った方が適当なのかもしれない。
Aoyamasouth  「南仏風景」という1959年の作品。隣に展示されていた「CAGNES」という作品が、まるで抽象画のように何が描かれているのか分からない、色と筆触の配置が画面で為されていた作品であったのに比べて、この作品は風景が描かれていることが、辛うじて分かります。「静物」ではものの輪郭がぼんやりしてきたのが、この作品ではさらに進んで、風景という基本デザインがベースにあって、それをもとに色の面を配置して画面を作る、そういう作業を進めていくうちに、色の配置によってベースのデザインに手を加えられていく、その結果が、この作品、見ていてそんな想像に誘われます。そして、この作品あたりから、青山の色の使い方に独特な傾向が露わになってくるように見えます。私が思う、彼の説く得な色の傾向というのは、緑と青の混用です。
Aoyamasunset  「カンヌ落日」という1989年の作品です。夕焼けの海岸風景という作品なのでしょう。題名にあるカンヌという街並みは画面右横の色がチカチカしている部分でしょうか。それほどまでに風景の形は引っ込んでいます。画面を支配するのは、緑と青と赤とオレンジ色です。緑は画面下、つまり見る者にとっては手前ということになる木々が茂る林の部分で、青は海、オレンジ色は太陽で、赤は夕焼けの空という区別でしょうか。そのうち、緑の部分の多くに青が塗られています。緑の部分は全体に靄がかかったようなぼんやりした感じですが、その少なくない部分に青が入り込んでいます。それが、幻想的な感じを強めるだけでなく、独特な緑の印象を与えます。他方、海の青にも緑が紛れ込んでいる。その結果、海と林の境が曖昧で、全体がひとつのグラデーションになっている。そこに落日の陽光のオレンジと赤が差し込まれるのは印象的です。
第3章 色彩の画家、茅ケ崎へ
 画家が老年の日々を茅ヶ崎に居を構え、そこで制作した作品が並んでいます。
Aoyamaflower  「花」という1994年の作品です。この作品を見て、ルドンではないかと思いました。今までの作品では、あまり見られなかった紫が印象的だったからかもしれません。青山は、若い頃は人物や静物や風景を具象的に描いていたのが、徐々に、形の輪郭が曖昧になり、境界線がぼやけていきました。花の描写についても花びらの重なりを描くのではなく、花の色を取り出して、それを映し出したように色で花を表現するようになっていきました。それは現実の花を題材にしつつ、あたかもそこに潜む非現実あるいは幻想を表現されているように見えるようになったのがこの作品といえます。その意味で、非現実を見ていたルドンに通じるところはあると思います。
 ところで、今回、一番印象に残ったのは、実は青山の作品ではなく、「花」と並んで展示されていた山崎隆夫の二つの作品でした。

 

2025年2月 5日 (水)

渡邊雅子「論理的思考とは何か」(6)~終章 多元的思考─価値を選び取り豊かに生きる思考法

 論理的思考は、最初に述べたように目的に応じて形を変えて存在する。それは。これまでの議論を通すと、領域ごとに異なる目的を達成するために最も適した思考方法が存在するということになる。このように、論理も論理的に思考する方法がひとつではないのだから、私たちは状況に応じて論理的な思考の方法を選ぶことができるということになる。
 私たちが何かを判断する時には、その場の状況を見て異なる領域の論理を比較衡量しながら決めることができる。しかし、最後にはどの価値観を優先させるかが意思決定の決め手になる。その時に四つの論理と思考方法があることを傷知ることが重要である。論理的に思考する方法が複数あることを知ってはじめて私たちはそれらを選択肢として思い描けるときだけだからである。

2025年2月 4日 (火)

渡邊雅子「論理的思考とは何か」(5)~第3章 なぜ他者の思考を非論理的だと感じるのか

 それぞれの領域から、他の領域のレトリックが非論理的に見えてしまうのを明らかにしていく。
1.「自己の主張」の直線的な論証(経済)とは相容れない論理
 効率を重視したエッセイから見るとディセルタシオンの弁証法は結論までの手続が多く時間がかかりすぎる。ディセルタシオンで用いられる弁証法は、自己の主張を直線的に論証するエッセイからは、不要な要素を混入させることで議論を無用に複雑にしている。無駄のように見える。どんな結論へ飛んでいくのか予想もできない弁証法は、たどるべき論理の道筋が切れており、論理的であるとは到底見えない。出された問いにストレートに答え、その正しさを証拠づけて論証するエッセイからは、ディセルタシオンは目的を見失っているように見えてしまう。
 また、エンシャーについては、ことわざや詩の一節で最後を締めくくるという結論のあり方は、教訓のお話しのように映る。異化や比喩、押韻や対句など文学的な修辞を使った作文法は、簡潔かつ明晰を目指すエッセイのレトリックからすると、前近代的な美辞麗句の響きを持つ。
そして、感想文については違憲と事実を明確に分けていないように見える。意見と事実を分けることは、論証を行う時に最初に習う初歩的な技術である。エッセイでは目的と手段の区別にむすびつく。エッセイからは感想文の目的とロジックは理解しがたい、子どもの手すさびと評価される可能性が高い。
2.弁証法の「手続き」(政治)とは相容れない論理
 ディセルタシオンから見ると、エッセイのひとつの見方で押し通し、議論の余地を残さない経験的な事実による論証はまったく不十分であり、決定において間違いを犯しやすい短慮の手続に映る。即決は最も避けるべきなのである。政治的決定では、その影響を受ける人々の範囲は広く、人の生死にかかわる致命的な影響の可能性もある。そこで、自己の所属する共同体だけでなく社会を構成する多様な階層にも目を配り、全体にとって最善な個とは何かを考える必要があるそのためには、何が問題かを提起し、その定義についての同意を得ることが重要で、それが現状認識をつくるからである。その手続きはディセルタシオンに組み込まれており、合意形成を最終目的としている。
 また、エンシャーに対しては、結論が決まっている法技術領域のレトリックは、自由の権利の侵害とみなされる。政治的な事柄を真理として教えることは慎むべきことで、ディセルタシオンにおいては、正しい答えを出すことは重要でなく、正しい問い方のほうが重要である。
 そして、感想文対しては、それは感情的に常識をなぞるものであるため、常識を越えるものの見方の発見を目指す弁証法から見ると、凡庸かつ学問的厳密性に欠ける子供っぽい議論に映る。感想文の目指すところが意味不明で、論証は不完全な中途半端な議論に映る。
3.「ひとつに決まる結論」(法技術)とは相容れない論理
 法技術領域から見ると、「私は…と考える。なぜならば…」というエッセイの論理は、個人主義的で社会全体の秩序にとって危険である。何より、この論理は真理を保証しない。前提となる目的が個人によって建てられるからである。この目的は道徳的価値は問われない。さらに、ディセルタシオンの弁証法も真理を保証せず、非論理的に映る。弁証法の前提は論じる目的に応じて書き手が定義するものだからである。それゆえ、意味をなさない。そして、感想文に対しては、今ここの刹那に縛られるという限界があり、表面的にすぎないと映る。
4.他者への共感(社会)とは相容れない論理
 社会領域から見ると、自己の主張のみを一方的に述べるエッセイは、多様な意見や価値観を持つ他社への配慮に欠ける。エッセイ自体は道具であり、内容はごり押しに映る。
 また、ディセルタシオンの弁証法に対しては理解しがたいものに映る。また、エンシャーは型に押し込める同意しがたいものに映る。
このように、各領域で論じる目的と手段が異なると、領域固有の書き方の型、すなわち必要な要素と要素の並べ方の順番が異なり、そこから異なる固有の型が議論のつながりとして創り出される。エッセイとディセルタシオンのような論証を目的とする文においては、主張と根拠の結びつきが緊密かつ説得的であることが論理的であることの要件になり、評価の基準にもなるのに対して、エンシャーや感想文では、文の内容と結論が社会規範に照らして納得しやすいかどうかが評価の基準になる。そして同じ論証においても、目的が異なればその展開方法も、適切な根拠も、論理的であることの基準も違ってくる。互いが相手の型を論理的である、または納得できると認められない理由は、それぞれの社会が異なる領域を主流文化としているからである。

 

2025年2月 3日 (月)

渡邊雅子「論理的思考とは何か」(4)~第2章 「作文の型」と「論理の型」を決める暗黙の規範─四つの領域と四つの論理

1.経済の論理─アメリカのエッセイと効率性・確実な目的の達成
 アメリカ式のエッセイは次のようなパターンで、経済原理のレトリックを代表する。
  序論 主張
  本論 主張を支持する三つの根拠(事実)
  結論 主張を別の言葉で繰り返す
 経済領域は、効率的に最大限の収益を上げることを目的とする。その目的の確実な達成のために計算に基づく比較衡量により複数の選択肢の中から最も効率的かつ費用対効果の高い手段を選ぶ。経済領域のレトリックは効率的が主導的な観点となる。エッセイは、目的達成までの時間、つまり結論に達するまでに必要とされるステップの短さに効率性が現れる。具体的に言うと、冒頭で結論となるべき主張が先取りして提示され、最初に到達すべき終着点が示されるため、主張に関係のない情報が入りづらい。主張の論証という目的に向かって、主張を支持する事実を三つに制限してコンパクトに論じる。その三つの事実のあいだの関係を論じる必要もない。結論が冒頭に示されているため、読み手はすばやく書き手が何を言いたいかを掴むことができる。
 このエッセイの全体構造は、そのパラグラフにも同じような形で反映されている。全体と全体を構成する要素が同じ論理で貫かれているので、それが論理の一貫性と分かり易さに貢献している。すなわち、エッセイの肝となる主張は主題文と呼ばれて冒頭に置かれ、あとに続くパラグラフではその主張を支持する具体的な事実が述べられる。そのエッセイを構成する各パラグラフも、冒頭にその概要が一文でまとめられて、その後に具体例で説明する文が続く。各パラグラフの冒頭の一文を拾って読んでいけば、全体の内容がすぐに理解できるようになっている。そしても各パラグラフの最後は、その主張を短くまとめた小結論で締めくくられる。このようなエッセイの直線的な論理展開と効率性、明快さは、この全体の構造と部分の構造の一致によって担保されている。
 このようなエッセイのスタイルは、放っておいて自然にできるものではなく、意識的な訓練が必要である。そのためには実際の思考過程を樹立させなければならない。実際、アメリカでは小学校から「私は…と考える。なぜなら…」と定型化された言い方で意見を述べる訓練を行う。こり意見表明の方法が、そのままエッセイの書き方の型になっている。
 経済領域では、最も早く確実な手段で目的を達成することが重視される。目的を確実かつ効率的に達成するためには、常に結果から遡って手段を決定する逆向き設計で思考することが基本となる。その前提となるのは、人は自然や人間関係を含む環境に目的をもって働きかけることで環境に変化を与えて、目的達成の条件を人為的に作り出すことができるという世界観であり自然観である。この逆向き設計の思考では、結論が冒頭に示されるため、結論に関係しない情報をいかに削ぎ落し、結論に直接的に強く寄与する情報を選択できるかどうかを見極める分析力が重視される。
 結論を先に述べ事実で論証するエッセイの型は、文化的な慣習の影響を受けにくく、言語の違いによる表現法の影響も受けにくい。さらに余分な情報を切り捨てて三つの論証に絞って論証するエッセイは、最も貴重な資源であり。利益をあげる機会ともなる時間の節約に寄与し、素早い決断を促す訓練ともなる。このような利点からも経済のグローバル化が加速した20世紀の終わりごろから、ビジネスにおける世界標準のコミュニケーションの型となっている。
2.政治の論理─フランスのディセルタシオンと矛盾の解決・公共の福祉
 ディセルタシオンと呼ばれるフランス式小論文は弁証法を基本構造とする。弁証法は、論ずべき主題に対する一般的な見方とそれに反する見方を正-反-合の構成に位置づけて正と反の矛盾を合で解決する。これら三つの見方を検討するなかで、結論を導くための可能性が吟味される。弁証法では、この吟味の過程が重視される。そもそも、政治領域でのレトリックは、慎重な政治的判断を行うために十分な審議が行われたが否かが重要な観点となり、多くの人々の生活や生命にまで影響を及ぼすからである。そのため、特定の結果を得るために、可能性のある選択肢と、その選択肢のもたらす結果について慎重に吟味する必要がある。
 具体的に見ると、ディセルタシオンは導入部分で、議論の中心となる主題を提示し、その主題を論じる全体構造を示す。この時に肝となる概念の定義を行い、与えられた問いの、どの側面について論じるかを提起する。これを問題提起と呼ばれる。この問題提起を問いのかたちで表明し、その後の展開部分で正-反-合を導くため、三つの問いに分解して提示することで、全体の構成を読み手に示す。
 弁証法は問いに対して「はい/いいえ」のいずれかの立場で゜論証するのではなく、このような場合ならば「はい」という答えが、別の場合なら「いいえ」という答えが妥当となる条件を吟味して、両方の立場を論証する。弁証法で論じる際には、どの視点をどの部分に持ってくるか、そして全体をどうつなげるかは、多数の選択肢の中から選ぶので、論理的に必然のつながりというよりは、合理的なつながり、つまりすべてが逸脱することなく主題に沿っていることである。それは同時に価値的なつながりでもあると言える。正-反-合と進むにつれて、より広い視点、つまり書き手が上位と捉える価値が合に置かれる傾向があるからである。そして、ディセルタシオンでは正と反の二つの視点間の矛盾の解決を行うことが目的であり、それが論文構成の原理となっているが、この矛盾は与えられた問いに明示されているわけではなく、書き手が鍵になっている概念を提示することによっても積極的に反論を見つけ、矛盾を作り出さなければならない。定義のもとにある前提に立つとこのような見方が可能になる→しかし、その見方にはこうした不完全な点がある、あるいは反論が考えられる→そうであるならば、その不完全さを補う、あるいは反論をも解決できるみかたとはどのようなものだろうか、という論の流れを書き手自身が作っているのである。
 ディセルタシオンでは、書き手の支持する見方から遠いものを先に持ってくるという点で、エッセイとは逆の展開構造になっている。これは、反論しやすい問いの答えを先に持ってくることにより、ある見方の限界や問題点を指摘してその見方の前提を反で突き崩し、それを補完する次なる大きな視点である合へと展開していくためである。このようなエッセイとディセルタシオンの要素の並べ方の違いは、エッセイは序論で宣言する結論を重視するのに対して、ディセルタシオンは正-反-合の議論の展開に沿って見方が変化し押し広げられる過程そのものを重視することに起因する。
 ディセルタシオンで論理的であるとは、書き手の問題提起に導かれた正-反-合の議論が明確に構造化され、かつそれぞれの視点が厳密な引用によって論証されているである。そこで求められる能力は議論の全体を作り上げる構想力である。政治領域では、個人の利益よりも全体の利益を優先させる政治理念を理解し、その理念を日常の判断や実際の行動に結びつける能力が必要とされる。ディセルタシオンの執筆を通して養われるのは、正-反-合の全体を構想する力、つまり異なる立場から距離を置いて俯瞰的に眺められる能力である。
3.法技術の論理─イランのエンシャーと真理の保持
 イランの作文はエンシャーというペルシャ語で呼ばれている。法技術領域のレトリックでは、真理か否かが重要な観点となる。新規の判断を行う議論では、結論が一義的に決まることが重要である。真偽の判断に有用なのは三段論法である。そこでは、真実である大前提から始めて小前提で具体的事例を取り上げ、大前提で示された真の関係を具体的事例に当てはめることで、既知である真のことがらから未知のことがらが真であることを推測する。それがエンシャーでは、序論で比喩によって主語を表現し、本論では比喩に関連付けて主題の内容を三つに区切って説明した後、結論で感嘆に本文の内容をまとめて。このとき、ことわざ、詩や聖典の一節などで締めくくる。
 このエンシャーにおいて論理的であるとは、作文全体を序論・本論・結論の三つに分け、そして本論を三つに分けて書くことである。それが理路整然と書くことを保証し、この基本構造に従うことが秩序に従うことを意味する。これは、神の計画によって創られたこの世界は秩序の集合体として捉えられ、自然も人間もその秩序に従うことは自明のことであり、エンシャーという人間が作り出した人工物も当然その秩序に従わなければならないと考えられているからである。結論は一段落で書くことがすすめられ、結論を直接的な言い方でださずに、メッセージを伝えることが重要とされている。このメッセージを伝えるにはことわざや詩の引用を結びに置くことが効果的である。ここでは意見や主張の個性や独創性は期待されない。むしろ共同体から与えられた期待通りの道徳的・宗教的に正しい結論に落ち着くことが重視されている。エンシャーの特徴は主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をとることである。結論はすでに外から与えられている。とりわけ真理であり規範として社会や宗教から定言的命令として下されていることを、神への感謝や゜ことわざ、詩の一節に収斂させることがイランの思考とその表現法を特徴づけている。
 西洋を中心とした現代の多くの国で重視されている論集することは、イランのエンシャーには馴染まない。社会で練り上げられたことわざや、この世の経験を昇華させる詩の一節もそして神の為したこの世界のことがもはや議論する必要もなく個人が変えることもできない客観的な真理として存在している。長い時間をかけて継承されてきたこの世の真理と、神が示した心理が世界を意味付け保証してくれるならば、人間がそれを論証する、すなわち、五感や経験を通した事実によって証明する必要はないからである。
4.社会の論理─日本の感想文と共感
 社会領域のレトリックは論証という形をとらない。ここで重視されるのは社会の構成員から共感されるか否かである。共同体を名の立たせる新設や慈悲、譲り合いといった利他の考えに基づく個々人の善意が社会領域の道徳を形成する。その媒体となるのが共感である。このレトリックを体現するのが、日本の感想文である。日本では論証を目的とする文章を作る機械は圧倒的に少ない。感想文とは、生活の中の直接の体験や自己の見聞、読書、視聴したことについて、自分の感じたこと、思ったことを書き表わした文章をいう。代表的なものが読書感想文や行事の感想文である。
 感想文の書く様式には共通の型がある。序論で書く対象の背景と無書き手が対象に対して持っていた観想(理解、知識、考え、感情)を書き、本論で対象を通した書き手の体験を述べ、結論では体験後の感想を述べるという三部構造である。体験の前後で書き手の気持ちや考えの変化を感想という形で述べさせる根底には、体験を通して何を学んだかを各、つまり体験を通して自己の成長の軌跡を描かせ、その体験を今後どう自己の生き方に生かすのかを考えさせる目的がある。ここで感想そのものの質を保証するのが当事者性と切実性を゜もって書くこと、つまり自分の生活や生き方とどう関わるのかという視点を持つことである。このように体験を切り取ってひとつのストーリーとして構成するには起承転結が効果的で、とくに転の部分で驚きが表現されると書き手の変化が伝わりやすい。
 個人の認知・思考・感性・態度の成長を描く感想文には別の機能があり、それは、書き手のもの見方や考え方の変化には他者の力を借りることが重視される。というのも、他者の多様な考えや価値観に触れることが自己の見方・価値観を考え直す機会を与えるからである。そこで重要とされるのが共感である。感想文で期待されているのは個人の体験・感情・生き方を社会の構成員である他者と共有しうる共通感覚として表現すること、つまり間主観の表現として提示することにある。ここでは、普遍的。絶対的な倫理というよりは、共同体を成り立たせる新設や慈悲、譲り合いといった利他の考えに基づく善意が間主観と道徳を形成する。この間主観が成立した時、ある場面における個人の感情と他者の感情のあり方が一致したときに共感が生まれ、ズレが生じたときには、感想を言い合いズレを調整する。この場で獲得された道徳観は社会生活のあらゆる場面で発揮され、社会秩序の維持に貢献する。個人の中に住み着いた他者の目を通して状況を把握し、その場に合理的な行動をとれるようになる。他者になったつもりで感じ、他者の意を汲み取って、自らの身の振り方を考える思考法である。それは共感を媒介にして行われる。
 感想文と違って、意見文と小論文は論証の形式であると考えられている。しかし、両者はそれぞれ異なる目的と社会的な機能をもっている。意見文は感想文の影響を受けて、自己の主張の正しさを論証して他者を説得するよりも、他者の意見への配慮を通して自己の考えを深めるためのものだとされている。意見文は、主張と、主張を支える根拠と予想される主張への反論、反論への反駁の三部で構成される。一般に、予想される反論を論破することは、自己の主張の正しさを強める役割を果たす。しかし、意見文では、主張の擁護の一部に反駁を組み込むことによって、自己の意見と他者の意見とを内的に会話させて、自己の考えを深めることが重要だとされている。ここで自己の考えを深めるとは、自己の主張のみで押し通さずに異なる意見への配慮をすること、すなわち他者への配慮を示すことでありもそうした機能が意見文の型に組み込まれている。
 感想文は、心情を読み取る物語の読解とセットとなって、無他者の五感を自己のもののごとく取り込み感じることで、他者の期待を理解し、その期待に応える行為を志向させる。そのような行為は、対立を避け、場の調整を行う高度な認知を養う機能がある。感想文は状況によって複雑に変化していく人間の心情と、場を構成する人間と自然と社会環境の関係を読み取って反応できる共感力を鍛え、形式的な善悪や社会規範を超える道徳観を育てる。

 

2025年2月 2日 (日)

渡邊雅子「論理的思考とは何か」(3)~第1章 論理的思考の文化的側面

 まず、アメリカの応用言語学者カプランの説を提示する。ある文章について、読み手が論理的であると感じるには、統一性と一貫性が必要であるという。統一性とは記述に必要十分な要素があることであり、一貫性とはそれらの要素が読み手に理解可能な順番で並んでいることである。これらを総合すると、論理的であるとは、読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚であると定義することができる。ここで重要なのが、読み手にとってという条件があるということだ。世界に共通する普遍的な必要な要素と順番があるのではなく、読み手がその社会・文化の中で馴染んだ型があり、そこにはいくつかのパターンがあるということである。つまり、論理的であるということは社会的な合意の上に成り立っているというのである。
 著者は、そういう違いは国や言語の他にも、政治・経済・法・社会という分野の領域によっても違いがあるという。それぞれの利用粋には独自の目的と目的達成の手段があり、それを混ぜたり、他の領域で使うことはできない。例えば、経済ならば利益をあげるという目的達成のためには最も効率のよく安価な手段を選択する、その際に道徳的な配慮は後回しになるし、哲学的な考察は意味をなさない。これに対して政治の領域では公共の福祉という目的達成のために、共通善とは何かという点から目的の吟味と理念に沿った手段が選択される。その際には哲学的な考察が重要で、人々の合意が必要になる。このことから、目的の優先順位には価値観が反映する。
 現実に、どのような領域を視野に入れて思考すればいいのかというと、我々は思考することと行動することを結び付けている。論理的に思考することと、合理的に行動することは連動している。なぜなら合理的であること、すなわち合理的な行動は、各領域の論理によって決まるからである。ある領域の論理のもとで合理的であることが、別の領域の論理のもとでは不合理になる。そこで著者はマックス・ウェーバーを引用する。合理性には形式合理性と実質合理性があると。実質合理性は、何が行為を決断するに値する価値を持つ目的なのかという目的の判断に関する合理性である。それに対して、形式合理性は決定済みの目的に対して、もっとも効率的な手段あるいは理論上確実な手段を選択する合理性である。この二つの合理性は相反する合理的行為を想定しており、合理的に行動すると言っても、どの合理性に基づくかをはっきりさせる必要がある。そして、著者は、それぞれの合理性の兼ね合いをマトリクスにあらわし、それぞれに経済・政治・法・社会の各領域をマッピングできるとした。それぞれの領域について、アメリカ、フランス、イラン、日本を代表させ、それぞれの国と言語の構造に現われる論理と背後の価値観を、これから具体的に見ていく。

2025年2月 1日 (土)

渡邊雅子「論理的思考とは何か」(2)~序章 西洋の思考のパターン─四つの論理

 論理的思考が世界共通で不変と受け止められるためには、その前提として論理的であることと非論理的であることの客観的で明確な線引きができること、異なる言語や文化にかかわらずこの線引きの基準が適用可能なことが条件になる。この条件を満たしたのが論理学だった。論理学により論理(ロゴス)的であることは確実で正しいとして、西洋で絶対的な価値を持つようになる役割を果たした。ここでは、論理学が示した論理的思考を見ていく。
 論理学と並んで、レトリック・科学・哲学についても見ていく。これらには、それぞれ異なる目的と、その目的を達成するための論理の型を持っている。何を目的に、何を対象とするかによって、論理的であるための必要条件と評価の観点、証拠の種類、意味づけも変わってくる。それゆえ、論理的であることはひとつではなく、それぞれの分野によって変わり、真の基準も変わってくる。
 最初に論理学の論理について見ていく。論理学の基本は「Aと非Aは同時に成立しない」ということである。これが成立するのは矛盾とされる。論理学は文と文の関係を「内容」ではなく「形式」によって結論の真偽が判断できる仕組みで、それだから言語の固有性や文化の違いを超えて、広くルールとして用いられるようになった。
 論理学の推論は、すでに知られていることからまだ知られていないことを推理することを指す。つまり、既知の真とされていること(大前提)から未知のことを推理する。これが演繹的推論と呼ばれる。演繹するとは、一般的、普遍的に正しいとされる大前提から、個別具体的な結論を得ることを言う。その真骨頂は、既知のことがらを真と認めれば、そこから正しい形式の規則に従って未知のことが導かれるならば、その未知のことがらも論理的な必然として、絶対的に正しいと認めなければならないということである。これを定式化したのが三段論法である。その際、命題は真か偽のいずれかで中間はない。また、日常生活で何かを否定するときには価値観や感情などが伴うが、論理学では真偽決定の形式的な規則に当てはまらない意味づけは行わない。このような制限を設けることによって論理学は普遍性を獲得した。このルールに従って結論を導く時、直感や感情、常識や信念・価値観に頼らず、あくまで形式に従うことが求められる。
 論理学は、複雑な文章を成り立たせている判断(命題)に分けて、それらの間の関係を一つ一つ辿ることで結論の真偽を明らかにする。この方法は、複雑な問題や現象をまるごと全体として捉えるのではなく、それをできるだけ単純な要素に分解して、この単純な要素の確実な知識から、もう一度全体を構成するというプロセスをとる。その際、曖昧な言葉づかいをしないで、使用する概念を定義して単一の意味で使い、接続詞に敏感になり、議論のプロセスを示す抽象的な形式に気を配る。この方法は、厳密な学問的知識を得るのに適している。
 次に、レトリックの目的は人を説得することである。論理学は日常の思考や議論には向いていないので、日常で使える論理の体系がレトリックなのだ。つまり、常識を前提として、常に正しいわけではないが、多くの場合に正しい蓋然的推論と、類似した事例で証拠づける例証による説得のための方法が、その内容である。レトリックは、説得の技術でもあるので理性による論理的説得だけでなく、倫理と感情も視野に入る。相手の感情に訴える説得は、現実には論理的な説得よりも効果的である場合が多い。説得するとは、相手の心からの同意を引き出し、言論によって相手の考えや行動を変えることだからである。したがって、レトリックは、人々の同意を求めてあらゆる種類の議論を対象とする。論理学の大前提のように、議論の余地がなく明白に正しいことがらではなく、なんらかの疑いがあったり、問題視されていたり、判断が分かれるような性質の主張を扱い、その主張の確かさの根拠を列挙するような議論である。したがって、レトリックで重要なのは「日常の論理」である。日常の論理を支えるのは蓋然的推論と例証である。蓋然的推論の前提となるのは人々の常識のような社会一般に共通して認められている考えである。蓋然的とは必然的ではなく、ある程度確実なこと、起こる可能性のあることを指す。人間的な確実さ、社会的な確実さといえる。また、例証は、帰納のように個々の事実から一般的な原則を導くのではなく、具体的な事例から類似した他の事例に移行して主張を根拠づけるというものだ。たとえば、現在起こっている事例は、過去のこの事例と類似しているので、同じような結末となるだろうと推測する。一方、論理学では、文と文の関係を形式的に取り出すことで、文脈や価値観に左右されずに推論の形式から結論の真偽を決定するのに対して、レトリックが扱うのは価値判断である。それゆえ、結論は必然的性質をもつものではない。論理ではなく修辞的な三段論法が用いられる。それは、長年の経験から抽出した論証の型を学び、そこから時と場合に応じて選択することをすすめる。なぜなら、人は何もないところから自由に考えるわけではなく、使い慣れた型を用いて議論したり人を説得したりするからである。共有された型を用いるからこそ、他人を説得できる。レトリックの発想の基本的な考え方は、論じる方法は個人が工夫して創造的に作り上げたというよりは、馴染みのパターンからすでに抽出された論証の型を素材の上に被せるだけで論証ができるというものだ。つまり、レトリックにおける論理的な思考とは、説得という目的を達成するための戦略的な思考といえる。
 次に科学的発見の論理としてアブダクションを著者は提示する。アブダクションは遡及的推論といわれ、結果から遡ってその原因を推測する論理である。
前提から結論を導き出す演繹的推論とは逆の経路をたどる。これは仮説を作る時に用いられる。それは次のようなプロセスである。
Bである。
  もしAならばBである。
  よってAはたしからしい。
 科学などの探究は、常識的な期待に背くような驚くべき事実の観察から始まる。探究はその驚きが解決される説明を求めて、その事実をあらゆる側面から考察することから始まる。その事実がなぜ起こったかについて可能な説明を与えてくれる仮説を考え出す。これがアブダクションである。その仮説に対して検証が行われる。演繹は真とされる前提を根拠として結論を導き出す。前提が真ならば結論は必然的に真になる。そこでは前提に含まれて以上の新しい知識や情報が入り込む余地がない。これに対してアブダクションは新しい知識や諸観念を発見し知識の拡張をもたらす。演繹では前提から導かれる結論が真か否かが問われるのに対して、アブダクションでは拡張的か否かが問われる。しかし、アブダクションにより仮説を思いついたら、それを検証可能な形に読み替えるには演繹的に言い換える、観察によって帰納的に事実確認を行うことで検証を行う。つまり、アブダクション、演繹、帰納の三つの異なる推論の形式をセットにして用いることで、仮説が形成される。
 このアブダクションの思考法の特徴は、ひとつには驚くべき現象の原意究明は、「なぜ」に答える目的志向的に行われるということ。二つ目には、「もし…ならば…である」というそうらしいことから出発して知識の拡張を目指すこと。三つ目には、われわれが接する自然界は変わらなくても、その解釈が変わることによって、物の見え方が変わるということ。それは複雑に絡み合った現象からあるパターンを読み取ることである。
 最後が哲学の思考法である。哲学の目的は物事の本質を捉えることである。具体的には「…とは何か」という問いに答えようとすること、定義すること。しかし、その答えは絶対の真理というのではなく、本質について多様な答えを提示して、議論を積み重ね、できる限り共通の理解に辿り着き、対立を解消したり、問題を解決するというものである。この哲学の問いとは人間の生き方に関わることの意味を問うものであり、立場によって違え答えが出てくるような問いである。答えが確定的になると、その問いは哲学から切り離されて専門的な学問に移る。その方法は、問答と対話により共通点と差異を取り出しながら探究するというものだった。その具体的なものが弁証法である。

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