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2025年3月

2025年3月30日 (日)

キャサリン・ホーリー「信頼と不信の哲学入門」(3)~第3章 信頼と協力の進化

 最初に吸血コウモリが、群れで運悪く獲物にありつけなかった仲間に取り込んだ血を分け与えるという習性を紹介している。このような利他的行動は進化論の適者生存には反する。よく調べていくと、血を分け与えるのは一方通行ではなく、血を分け与えられたコウモリは、次の日は逆に他のコウモリに血を分け与える。さらに、コウモリたちは誰が誰を助け、誰が誰に助けられたのかを把握しているようだった。他のコウモリに血を分けないコウモリはむ、他から与えられることはない。いわば互恵的だった。これは、一人だけ与えられて得をしようとする、騙そうとするものにはペナルティを与えるという用心深い援助システムである。この時、結果として、騙そうとするコウモリは、群れでは冷遇され、淘汰されていく。そして、互恵関係にあるコウモリが生き残る。これは、人間社会の信頼関係にも当てはめることができるという。つまり、進化論的な考え方から、人間の思考や行動の一部には、自然選択による進化の結果として説明が可能だという。先祖が狩猟者であり採集者であった時代に好都合だったパターンが自然選択の結果として残った。そのひとつとして、吸血コウモリのような互恵的利他主義の関係があるという。
 人は本能的に不正を嫌い、不正を働いて得をするものを検出する特技を具えている。誰かに親切にする者は、お返ししてくれると期待しながら誰かに親切にすることを始める。もしお返しがなければ、親切にすることはない。これは、ある種の信頼行為ということができる。裏切りにあったら、親切にされた方が信頼に値しないことが判明したという理由で関係を終わりにできる。このことについて、リスク計算の観点からでも、親切にする者は、同僚の将来の行動について小さな賭けをしているということができる。その賭けに成功すれば、将来の同種の賭けに関する自身が深まる。失敗しても、損の上塗りをしない程度には分別がある。ただし、親切には見返りを求めないで自発的に行うものもある。これを互恵的関係とかリスク計算の枠に収めることは適当でない。

2025年3月28日 (金)

キャサリン・ホーリー「信頼と不信の哲学入門」(2)~第2章 信頼と信頼性はどうして問題になるのか

 人から信頼されることにはメリットがある。反対に不信をいだかれることにはデメリットがある。われわれは、信頼する側であるだけでなく信頼される側でもある。人が社会生活をおくるうえで、誰を信頼するべきかを正しく理解することは重要な実践的能力であり、その力を身につけるのに苦労を伴う。信頼を受け入れること同様に、信頼を寄せることによってもメリットがある。それは、生活を円滑するという実践的な側面にとどまらず、気持ち的な充実感をえることができる。信頼は価値あるコモディティであり、他のコモディティと同じように分配されうる。
 信頼に値するものを信頼し、不信に値するものには不信を抱くことが、われわれ自身のために、そしてわれわれが信頼や不信を抱く対象のために、目指されるべき大原則である。一方で、信頼を伝えることで人々はより信頼に値するものとなり、また、不信を伝えることで人々はより不信に値するようになってしまう。そこで、信頼性に対する判断は重要な帰結をもたらすのだ。しかし、これには限界もあることを忘れてはならない。信頼はそれを受ける人々に利益をもたらし、不信は害をもたらす。逆に、信頼を差し向ける人にとっては信頼性を正しく理解することには多くの利点がある。他人に頼りにむされるとき、信頼に関するわたしたちの選択は広く影響をもたらす可能性があり、その帰結はできるだけ考慮されなければならない。これが人間関係や日常生活において信頼と信頼性が重要になる理由である。
 これは、個々の人間に限ったことてばなく、社会としても当てはまる。例えば、社会の人々が信頼できるのであれば社会は安定し、取引相手が信頼できるのであれば安定した取引が可能となる。それは社会インフラとして機能する。親密な人間関係の場合と同じように、信頼と信頼性の重要性はともに持ちあがり、ともに崩れることになる。信頼はそれが適切に差し向けられる場合にのみ、すなわち信頼に値する人々や組織に向けられる場合にのみ、利益をもたらしてくれる。わたしたちの信頼に値するだけの人々や組織に向けられる場合である。さもなければ信頼は軽率さや無知となってしまう。

2025年3月27日 (木)

キャサリン・ホーリー「信頼と不信の哲学入門」(1)~第1章 信頼とは何か、不信とは何か

11112_20250327234401  信頼という言葉にすると大仰になるが、著者は日常生活で、ちょっとしたことでも他者に期待し、その期待がかなうことが数多くあり、例えば、毎朝、家族がおいしいコーヒーを淹れてくれるとか、そういう期待に応えてくれることを信頼するとしている。
 まず、他人を信頼するとき、その相手をあてにする(著者は「依拠する」という)が、信頼することとあてにすることは同じではない。その違いは、コミットメントの有無にあるという。コミットメントとは、あることを明示的であれ、暗黙的であれ、引き受けること、かつ、それを実行することに義務や責任が伴う形で引き受けることを意味する。われわれが他人を信頼するのは、その相手が自分のコミットメントを果たすだろうとあてにする場合である。
 我々が相手を信頼する場合、相手の能力に対する信頼と、意図に対する信頼を区別していて、その両方が必要とされる。例えば、仕事をきちんと果たすだろうと同僚を信頼する場合、まず、彼がその仕事にふさわしい能力と才覚を持っていること、そしてそれらの能力を実行しようとすることを信頼する。仮に彼が善意を具えていても十分な力量を持ち合わせていないと能力を疑うなら、彼への信頼は損なわれる。これを信頼する側とされる側を逆転させて言えば、信頼に値するとは自分に課せられたコミットメントを果たすことであり、それこそが自分を信頼していれる人から期待されることである。
 他人に信頼されるための条件として真実を語ることは最も重要なことである。つまり、語ることが真実であることで語ることに対する信頼を得ることになるのである。この場合語る人の知識と、語りにおけるその人の誠実さを信頼することが求められる。ということは、語る側は知識や誠実さが必要ということになる。
 信頼に対して不信は、信頼の欠如ではない。それは、信頼できないが不信を抱くべきでないという中間的なケースが存在するからだ。誰かを信頼する時には、その相手がコミットメントを果たすことを期待している。これに対して、不信を抱くというのは、その相手がコミットメントをもつと思っているものの、それを果たすことを期待してはいない。そしてコミットメントを持たない場合は、信頼はしないが不信を抱くわけでもない。誰だって、常に他人の期待に応えられるわけではない。しかし、不信を抱かれるのは望まない。だからこそ、不信と単なる信頼の欠如を区別するのだ。
 人が信頼をするのに、理由や根拠(証拠)は必ずしも必要とは限らない。信頼するということは信念に似ている。そこには決意というものが底流にある。

 

2025年3月26日 (水)

関幸彦「武家か、天皇か─中世の選択」(4)~Ⅲ.近代は武家と天皇をどう見たか

1.近代日本の岐路
 武家や天皇が近代国家にどう映じたか、いわば存在としての両者の見られ方から、近代国家が過去の遺産である武家や天皇をどう消化したのを見る。
 明治新政府は王政復古と開国和親を掲げた。王政復古は突然起こったものではない。例えば、江戸後期の国学の興隆などが、その底流となっている。漢学(朱子学)でも、名分論や国体論が水戸学として高唱される。国体論の立場から武家と天皇との関係、つまり武家の権力システムとして幕府とは何かを問うのだった。武家自身が自己の来歴を自らに問いかける意識が江戸後期に浮上してきたのだった。江戸前期には力ある者が権力を掌握する覇道主義に疑義を抱く者はなかった。武家が朝廷に代わり権力を握ったことへの疑義は省みられなかった。これに対して、江戸後期になると武家の簒奪的思考について朝廷との関係でどう始末をつけるかかが問われるようになり、大政委任論が浮上する。朝廷が再発見され、それとの関係で武家は自己の存在をどう認識するのかが課題となった。簒奪は正規とは言えないが、委任という媒介を設けることにより、武家の正当である立場が担保されることになる。
 一方、天皇の側も、国学的思考の影響もあり、平安後期のローカリズムの流れから離脱する傾向を見せたのが光格天皇である。院にかわる天皇の呼称の復活と漢風諡号の天皇名をひょうするなどの動きである。

 

2.武家の遺産
 開国和親とは世界と交わり、平準化するという思考だ。ここには文明主義的思考が汲み取れる。この思考において、例えば江戸後期の洋学から文明史的に社会的存在として武士を再発見する動きが起こる。そこには世界史の中の日本というグローバリズムの発想があった。
 例えば、福沢諭吉の『文明論之概略』では至尊と至強を天皇と武家の関係になぞらえる。その底流にあるのは、列強諸国からの侵略的危機への対応だった。福沢は、前近代の歴史的特色を至尊と至強の分裂と解し、植民地侵略されたアジア諸国との相違を歴史的に問おうとした。そして、その背後にあるのは、西欧に追いつくための開花志向、民の力への信奉であり、権威としての至尊と権力としての至強が別人格で分離され続けた日本の柔軟構造への着目である。中心軸を二つ有した楕円型の権力配置への理解へと、それは進む。また、田口卯吉の『日本開化小史』では、「封建」と「郡県」の統治制度が対比的に扱われる。封建とは諸侯に領地を与えて統治を任せる、権力の分散を前提とする地方の統治のあり方で、これに対して、郡県は王朝が任命した管理を派遣して治める中央集権的な統治の方式である。わが国でも、天皇権力が強かった時代は郡県であったというる武家の時代は権力が地方に分散したので封建との認識だった。田口は藩閥専制への批判から、明治国家が再び郡県の極端な方向に進むことへの危惧があった。彼は鎌倉の権力は地方自立であり文明的進歩という認識だった。ここには武士団という社会的勢力に着目した階級的視点の萌芽がみられ、後の非官学派としてのマルクス主義史学へと流れてゆく。
 田口ら在野的な人々には「国民新聞」で健筆をふるった山地愛山もいる。
 一方、官学の歴史学において、原勝郎や中田薫は、西欧との同居思考の切り札として、武家のシステムと西欧の中世封建制の近似性に着目した。ドイツ史学の実証的手法により、日本の歴史に中世、近世という概念を導入した。とくに、中田は比較法制史の立場から、中世武士の所領のあり方と西欧の封建制のシステムの類似性に着目し、両者の同居性に言及している。彼の背景にあるのは、日本の発見に繋がるナショナリズムだった。他国との対比のなかで、自国の平準化・一本化するための論を提供した。言い換えれば、それは中世を介した彼我の共通性と異質性への強固な意識だった。彼は武家政権を誕生させた東国を、西欧の原郷でるゲルマン世界に対比させ、鎌倉殿頼朝を、京都の天皇に比さるべき立場と解した。そこには、鎌倉政権の成立を粗野なゲルマン世界から誕生したフランク王国と対比する。この封建制を西欧参入への切り札とする理解があった。グローバル・スタンダードに向けてわが国の歴史の来歴を考える、その参照軸が封建制だった。それは東アジア世界に位置したわが国が、隣国の中国や朝鮮と異なる道程を歴史の中で展開した、日本の発見に他ならなかった。
 なお、この世界標準型をさらに普遍化すれば、唯物史観に立脚したマルクス主義史学とも一脈通ずることになる。文明史-在野史学は、時として体制に対して毒を含む批判的精神性を宿すことになった。他者としての武士には、体制批判の側面が与えられ、中世という新しい時代の画期に寄与した武士とは、それ自体が新時代の創造者となったという解釈である。このような認識が一般化された時、唯物史観の立場から武士や武家にはさらに別の役割が担わされことになる。天皇を超えるべき、体制外の変革者という立場である。
 西欧諸国がいち早く市民革命と産業革命を体験することで、列強諸国として君臨している現実を直視することで、列強が経験した封建制と同等のシステムをわが国の武家政権も有していたと認識できた。このことは、わが国がアジアにあって、非アジアであることの証明を希求したことによる。封建制は、後発の日本が西欧を追体験するための、歴史的道標として作用した。
 一方、天皇については、明治後期以降に経験した対外戦争を介して醸成された入欧観のなかで、アジア諸国に先んずる形で達成された立憲国家の樹立は、この入欧観念に拍車をかけ、わが国の天皇というシステムを保持し続けたことへの評価に連動した。西欧中世との同居性が話題だった段階では、まずは武家・武士が注目され、そのような時代意識の変化に伴い、日本回帰の自覚化が促進され、世界の中の日本へ着目される。日本の発見とは天皇を意味した。

 

3.再びの武家か、天皇か
 日本を史書のレベルで強く流布させたのが『大日本史』で、武家政権と天皇の関係が提案されていた。ここでは、朝廷による大政委任という考え方が語られている。近代明治の武家観や天皇観は、この影響から始まる。官学アカデミズムは天皇主体の委任論をメインストリームとする。そこに近代史学の実証主義が加わる。その例が『国史眼』である。国史は、日本の歴史として定着し、小学校の科目として教育もされていく。
 戦後になると、マルクス主義歴史学では、武士は古代以来の天皇権力打倒のシンボルとして認識されるに至った。石母田正『中世的世界の形成』に代表されるマルクス主義歴史学では、天皇の存在により規定された日本歴史の特殊性を否定することがテーマだった。世界史の基本原則の日本への適用が題目とされた。そこで、武士の存在は世界に向けての発信装置としての役割を担った。近代における武士の発見は、西欧との同居性を求めるための切り札だけでなく、変革・革命の担い手である期待値とも重なった。マルクス主義歴史学が武士の発見へ期待したのはそれであった。

 

2025年3月25日 (火)

関幸彦「武家か、天皇か─中世の選択」(3)~Ⅱ.内乱期、「王威」と「武威」の諸相

1.東西両朝と一二世紀の内乱
 12世紀の源平の争乱と承久の変について、武家にあっては源平両家の確執として表面化し、天皇の血脈では、安徳と後鳥羽という王家の分裂として顕われた。安徳は平家王朝といえる。この王朝はサムライ王朝とも評すべき権力体だった。武家が権門ヘと成長し、王朝内部において王威を戴く形で統治権力を行使したからだ。平家の都落ちに安徳も同道し、西国には安徳、京都には後鳥羽院という構図ができ、源平両家にとって正統性を保持しての主張がされた。しかし、平家は壇之浦で敗れ、安徳は入水し、神器の剣は海没した。
 他方、神器なき即位となった後鳥羽の立場は複雑だった。正統性の欠如という影を落としたからだ。それにより欠落した王威を補完・補充するために、自身への権力の集中を希求する天皇親政、武家の否定へと向かった。それが承久の変へと至る。この背景として、武家の台頭がある。武力という夾雑物を内包する力が東国に居所を定め、伝統的秩序との同化を拒み続けていた。伝統の継承者である天皇や院は至尊の血脈を受けた者で、その自覚が武家という異物を胎内から排そうと、力による是正、つまり承久の変を起こした。
 一方、武家な目を向ける。源平の争乱は東西両朝の対抗であった。次の段階は奥州合戦である。ここで特徴として言えることは、ひとつは朝敵のない争い、つまり勅許のない私戦として遂行された。ふたつには、そのことが武権の伸長につながり、没官ではなく、私的成敗権の行使が実現した。これは朝廷に関東の武威を認知させ、自己の存立基盤を堅固なものにした。これを機に、守護・地頭が設置された。これに先立つ1180年の富士川の合戦において、頼朝の実効支配地域は南関東から北関東まで広がった。これと連動するように関東の意識が醸成された。朝廷からの相対的な自立が意識されるようになり、朝廷との対峙が可能となる。これは鎌倉政権の本質的な方向であった。この合戦の後、一挙に都へ進撃することもできたが、関東の攻略に専念するのだった。公武合体、つまり王朝との協調の方向である。それは、後に御家人たちの官職拝領の規制である。東国世界に軍事団体の首長として朝廷とは異なる秩序を構築しようとする頼朝にとって官職秩序への参入は最小限にとどめるべきだった。一般に、主従関係については家礼型と家人型という二つのタイプがあった。その後の武家政権の成立で、家礼型に顕著な双務的主従関係は家人型への転換が図られる。鎌倉の政権が施行したのはあれもこれもと複数の主人を有する関係を切断し、あれかこれかという単一・単独型主従つまり家人型への転換にあった。そして、鎌倉殿の統率下で武士団の意識を統合することを図った。それから、武家は関東であることの原形質を保持しつつ、自己を幕府の名にふさわしい形で適合させていった。そのうえで、武家政権は王朝との協調の姿勢を鮮明にし、正統性への参入を図ったのだった。
 東国武家の自立主義のみでは律しきれない。力による簒奪の正当化を、公権の認知による正統化にむける。武権の委任を朝廷によりなされるという権力の委任観念。これにより、簒奪的要素を前提とした謀反の政権は、王朝体制に内包される武権へと転換させた。安徳天皇の海没による宝剣喪失のなかで、それを補完・代替する役割を期待されたのが武家という認識である。
 当初の武家の権力は、頼朝に代表される中央の軍事貴族を担ぐことで、鎌倉殿を創出させた。北条氏の時代は、その段階からの脱却を可能とさせた。承久の変は、貴種性を持たない北条氏を鎌倉の結集軸に据えるための大きな画期となった。そこには源氏の血脈を必要としなくなるまでの、東国武士団の成長があった。北条得宗家を鎌倉殿とする呼称は、鎌倉幕府が土着の勢力である北条氏に担われたことの結果でもあった。北条氏の権力は、当初は源氏の貴種性を媒介としたが、その後は土着性を有した武士の権力を育て得たことになる。ただし、将軍に付随する貴種性は重視されねばならない。摂家将軍でも親王将軍でも貴種性を背負う名目的存在は不可欠だった。王朝との親和性が将軍に期待された価値だとすれば、王朝に同化されない自立性こそが鎌倉殿の価値だった。鎌倉には当初よりローカリズム(鄙的要素・地域的・文化的)と、頼朝に構築されたグローバリズム(都的要素・中央的・文明的)という二つが接ぎ木されるように併存した。

 

2.南北朝と十四世紀の動乱
 後鳥羽帝の血脈は両統迭立を出現させる。皇位継承には縦の流れ(父子相続)と横の流れ(兄弟相続)があった。一般に、後者が登場する前提には、古代律令制のように天皇自身による執政つまり親政志向があった.天皇が政治を為すことに、不安のない態勢が前提だった。そこでは個人の能力が問われる。父子による縦の血筋は理想だとしても、幼少で力量のない場合もあり、実質主義が重視されたからだ。他方、諸種の理由で親政志向が放棄される摂関期や院政期になると、父子という血筋上野資質が重視される。執政能力は問われない。システムの成熟に対応し、血筋の正統性こそが天皇の適否の基準となった。10世紀以前はグローバリズムの中国的皇帝主義を前提とし、摂関期以降の天皇はローカリズムが顕著となる。グローバリズムは能力主義に、そこから解放された血統重視で、天皇の象徴性が重視される。
 南北朝の原因となった大覚寺統と持明院統の迭立は後嵯峨上皇が第二子を愛し、長子相続を破り亀山天皇を即位させたことに因る。第一子である後深草院と血統が両立し、互いに天皇をめぐってせめぎ合う。ここに幕府が関与することで、問題を複雑にした。そこで、持明院統の後深草が皇位継承を主張しうる最大の根拠として、武家との協力体制を是認したのだった。これに対して、大覚寺統の論理の延長には幕府との関係から距離を置く王権の自立志向があった。大覚寺統の後醍醐天皇が親政を志向し、天皇による権力の一元化を通じて、王権の再生を試みたのも、その流れと言える。
 後醍醐天皇は院政を是とせず親政へと舵を切った。それは朱子学を標榜した理想主義の反映だった。天皇による治天の遂行、さらに公武の二人三脚体制からの脱皮であった。
 建武の体制は、朝廷による武家の包摂体制を理念とした。親王を将軍とする点は、鎌倉後期の親王将軍の先例に倣ったといえるが、陸奥将軍府はそれをより徹底されたものだった。将軍府は幕府と同じで、中央政府が認定した出先の軍事機関で公武一体の権力機関の象徴であった。発足直後の建武政府は、公武合体の理念を実現するために、地勢的にも東北を重視することで旧鎌倉体制の拠点である関東の無力化を企図したものだった。この陸奥将軍府とは別に鎌倉将軍府は天皇主導ではなく武家による対抗措置として登場した。これは武家の拠点となった。この対立が足利尊氏は後醍醐天皇を放逐し、室町幕府をたてて南北朝の対立が起こった。
 武士は足利尊氏についた。その理由は恩賞沙汰の違いにある。天皇側は「元弘一統」の論理に従い、軍功の賞について、「綸旨(天皇の意思)」によるものだする綸旨主義の考え方を標榜した。しかし武家の道理を掲げる足利尊氏等にとって、武家側への忠節の参陣である以上、武士の恩賞は足利の判断でなされるべきとの立場だった。それは武家社会で培われた道理主義でもあった。そもそも武家は武力を職能とした権門の呼称で、武士の個々を統括する役割を担っていた。その点では、武家の使命の一つは、京都の王朝と対峙しつつ、武家に結集する個々の武士たちの権益を保護することだった。足利尊氏は恩賞として土地を分け与えた。これに対して、朝廷は国家からのごほうびだった。

 

2025年3月24日 (月)

関幸彦「武家か、天皇か─中世の選択」(2)~Ⅰ.武家か天皇か

1.「本朝天下ノ大勢」と天皇
 荒井白石の『読史余論』は、慈円の『愚管抄』が朝廷の側からだったのに対して、武家の側から両者の関係を見た歴史書である。そこで語られているのは大きな二つの流れである。ひとつは九つの変がある天皇の流れ(本朝大勢の9変観)で、天皇権力の推移が俯瞰され、もうひとつは武家を主独とした五変である。この五変は鎌倉-室町-江戸と続く武家政権の大局が語られており、現代のわれわれが通念として持っている認識の基礎となっている。この九変五変という天皇と武家の二重奏が日本という国の権力的特色を演出したという解釈である。
 そこで、武家(幕府)の本質は「覇府」という認識だった。儒教的政治概念では、実力・武力による政治統合者は覇者と呼ぶ。それにより築かれた権力の府を覇府と呼ぶ。中国の「春秋の五覇」がそれで、正統の血脈を有する王とは異なり力を一義とする。そこで、天皇と武家は正統たる王者の流れと正当なる覇者の流れと対比的に見ることができる。白石は武家は五変による脱皮により徳川幕府において公武が共存する段階に達したとする。三つの幕府(鎌倉、室町、江戸)の存在を、朝廷との関係で、それぞれ位置づけた。それが、現在の武家政権の会社の源流となっている。
 一方、王権の流れについては、9世紀以前の律令制の天皇は文武、天武、聖武などと「武」や「文」などの漢語が共有され、そこでは帝王の治政への形容句が内包され、生前の評価を表わす諡号としての性格が強い。それが10世の唐の滅亡を機に、わが国は律令体制から王朝国家の段階に移行する。天皇の呼称も宇多、醍醐、村上と京都の地名や御所名を冠するものへと変化する。総じて大陸的規範からの解放、中国的グローバリズムから日本的ローカリズムへの転換が起こった。これは、摂関政治への転換と重なる。これに続き院政が始まる。白石は、院政期を天皇権力の変質の過程としている。すなわち、父系的価値による皇位継承への転換、天皇権力の執行・代行が現天皇の父に限られるため、父子間での権力移譲が重要な意味を有し、摂関期における外戚専権が減少されたところがポイントとなる。この院政のシステムは後醍醐天皇の親政回帰により、一旦途絶える。この親政は武家の権力と相容れないものと言える。

 

2.「本朝天下ノ大勢」と武家
 政治権力は正当を獲得して以降、常に正統なるものへの志向を内包することになる。武家においても、自らの正統性を血縁的な時間に落とし込み、それをある種の神話的要素で加工するという流れがある正統化への志向である。朱子学の尺度では、正当には“力が正義”という結果主義の観念が強く、現実の武力的覇権が含意されている。これに対して正統は覇権的要素を非とし、血脈に立脚した理想主義への傾きが強い。武家と天皇の問題を考えるさいに、前者を権力、後者を権威という側面から説明する。“尊王斥覇”という理念がこれに該当する。“至強”と“至尊”という語句の関係もそれにあたる。
 鎌倉の権力は、当初、謀反の政権として出発した。この反乱により地域権力を正当化し、それを認知させたのが朝廷から源頼朝に下された宣旨で、朝廷からの部分委譲が可能となったことで、朝敵からの脱皮を実現した。そして、東国での実効支配を王朝に追認・認知させることで、その権力の正当性が確保させた。この後、1189年の奥州合戦は鎌倉政権の正当性のみならず正統性に向けた動きを顕在化させた。つまり、かつての頼義・義家による前九年後三年の役での源家の故実を利用した演出である。これは、参加した関東武士たちの征夷の共同幻想を共有させることになった。
 ところで、武家とは武力・軍事力により武権を行使することを認定された存在。これに対して武士とは武力を職能とした身分・制度上の呼称である。武反社会的な側面も伴っていた兵とは異なり、武士であるためには社会的・国家的認定が必要とされた。それは出生証ともいうべき“兵ノ家”である出自が求められた。家は身分としての武士を全般的に統括する権力体である。武家は武士の意向の代弁者であるという側面と利益の抑制者の側面を持っていた。そして、武家には軍事的貴族としの側面も持っていた。家とはもともと三位以上の貴族の居所のことで、国家権力の分掌者に付与されるものだったかにらだ。武士はその誕生から、成長へのプロセスのなかで、時として国家権力と対決・対峙する場面もあった。しかし、次第に武家という権力体の構成員として位置づけられるようになるにしたがい、牙を抜かれ、国家の体制内権力として安全弁の機能を果たすに至る。平安の後期以降、国家的行事を主催する「公家」、祈る行為を軸とする宗教権門たる「自社家」、そして戦う人々の集団たる武力担当の「武家」、その諸権門が相互補完的に国内権力を構成するようになる。
 幕府とは、天皇による権力システムの一翼を担うところに本質がある。「府」とは「国府」の事例からも分かるように、公権力の執行機関である。ただし「幕府」は、平時の制度・行政上とは区別される非常体制し機での呼称だった。将軍出征時の幕営内での軍の呼称という語義は、朝廷への忠実な軍政執行が前提されている。
 鎌倉の武権は、当初の国家体制外から内乱後の建久年間に体制内の存在となった。そこで、幕府とは体制内認知の武権であり、反秩序や騒乱を鎮圧する役割を分与された存在といえる。このように武家が正当性に加えて正統性に向けたとき、公武合体というシステムが誕生する。朝廷による軍事権門である武家への鎮護国家権の委任を前提にして、武家は幕府となりえたことになる。幕府の概念には朝廷との調和性や親和性がともなう。こうした形で市登場した幕府は一国二制度というべき特異なシステムをわが国に定着させることになった。このような武家による幕府のシステムは天皇との同居を前提とすることで、東アジアでは特異な権力構造を構築したことになる。
 それを図にすると、至尊・至強の双軸的楕円構造として捉えることができる。『読史余論』にあてはめると、天皇を軸とする九変には至尊的な円形構造が、武家の五変には至強的な円形構造、それぞれ対応している。その楕円構造は『読史余論』の武家中心の公武交替史観とは異なる観点ということになる。

 

2025年3月23日 (日)

関幸彦「武家か、天皇か─中世の選択」

11112_20250324233801  中世、すなわち平安末期から鎌倉、室町時代は天皇と武家がせめぎ合い、拮抗する時代であった。源平の争乱と南北朝の動乱には、それが象徴的に表われている。教科書で教えられている、朝廷から幕府へというような単純なものではなかった。
 武家により生まれた幕府は唯一無二の権力体だったというわけではない。治天(天皇・院)もまたそれを外護する寺社家も存続し続ける。武家が国家統治の一翼の正統性を担うという発想は、慈円の『愚管抄』の影響が大きい。慈円は壇之浦合戦で三種の神器のうち草薙剣の海没・喪失を、その後の朝廷と武家との関係に照らして解釈する。王威(王権)の象徴である剣の喪失を、武家による代替・補完の表われと解釈する。そこには後部協調路線の考え方、すなわち、武家の権力を容認することで、朝家との補完関係を是とする。それを王権の再生と読み換えた。これは『平家物語』にも、その思考が貫流している。
※平家による福原遷都は『源氏物語』の光源氏の須磨蟄居になぞらえて、王朝勢力に認知され、その権力の観念上の正当性を示そうとした、いわば虚構の現実化という解釈。
※せいとうには正統と正当がある。前者は血統的な正統性、つまり伝統に所由した継続性の理念が前面に出たもの。また、後者は適確性に基準を置いたもので、血脈性や伝統性に比重が置かれず、力による支配、つまりは覇道的要素が強い。現実の力に立脚し、結果を重視する立場。力による正当化を志向する政治権力は、正統性を加味すべく伝統的王家との血の結合を求めようとする。
 平氏政権は正当から始まり、正統を実現しようとしたといえる。その場合、正当は朝堂内での官職的秩序のキャリアを積むことで、一族から公卿が輩出し権力を掌握する。その背景には武力があったが、それを中和させるための装置が、武将歌人であったり、琵琶、筝などの音曲的素養だったりする。その過程で王朝的記憶の『源氏物語』に自らを同化させ、王朝の一員として歴史に自らを溶け込ませる。それと同時に正統化への方策がはかられる。高倉・安徳朝の創出という王威との結合がそれだった。
※源氏の権力は平氏のそれとは異なり、謀反から出発したところに本質がある。王朝の胎内で成長した権力ではなかった点が重要。王朝権力と一線を画し、同化されない権力体を演じ続けたところが鎌倉政権の本質と言える。この政権が名実ともに、「幕府」の呼称に対応する権力体に脱皮するのは、内乱が終了した建久年間を待たねばならなかった。その段階になって、鎌倉政権は自らの率いる武力を官職的秩序と合体させることが可能となった。その後、大姫の入内という正統性との同居を志向するようになる。しかし、その一方で鎌倉政権は自らを関東として位置づけ、王朝からの相対的自立を保ったことは重要だ。

 

2025年3月22日 (土)

川平敏文「武士の道徳学─徳川吉宗と室鳩巣『駿台雑話』」

11112_20250323214501  十八世紀初頭、江戸幕府に仕えた朱子学者・室鳩巣。新井白石の推挙により幕儒として召し抱えられた鳩巣は、徳川吉宗が行った「享保の改革」の相談役として活躍。自身の没後にも、著書『駿台雑話』が松平定信による「寛政異学の禁」の骨子をなし、明治から昭和戦前にかけて国語教科書に採用されるなど、その影響は近代にまで及ぶ。
 丸山真男の「日本政治思想史研究」を待つまでもなく、江戸時代の儒学の思想史的系譜は林家に始まり、山﨑闇斎などの朱子学の系譜と、中江藤樹などの陽明学、その批判者として伊藤仁斎や荻生徂徠まで、その後は幕末の水戸学などが触れられるのが普通ではないかと思う。室鳩巣は荻生徂徠の後の世代で、革新的だった徂徠への批判者として保守的な立場ということができる。だから、思想史的には、とりたてて目を惹くような業績はない。思想家というよりは実践者、あるいは教育者として生きた人。それゆえ、歴史の上では地味な存在。しかし、室の朱子学の君子の道徳を実践するという姿勢は、享保の改革や寛政の改革の綱紀粛正には合うものだった。いわば質実剛健のお堅い道徳的態度は、近代以降も戦前までの道徳教育にも゜影響が強く残った。
 しかし、室の主著『駿台雑話』は、当時の出版の好況のなかで、一般向けの仮名交じりの奇談、いまでいうエッセイとしてベストセラーになっていた。「論」ではなかったというのが、面白い。
 室鳩巣は木下順庵の門下、木門派という朱子学のなかで林家と並ぶ主流に属する。彼の生きた時代、朱子学派は盤石に地位にあったわけではなく、仁斎学派や徂徠の古文辞学が隆盛していた。そういう風潮に対して、正しい学問という「正学」は朱子学であり、それは学問の大黒柱であると主張する。正学以外の学派は先賢の十分な理解に進まぬうちに個人の心のおもむくままの批判を先行させていると批判する。とくに徂徠に対しては、個人の内面にかかる問題を儒学の主目的から切り離し、その外側の礼法や制度の設計・運用という方向に儒学の目的を焦点化したことを、世俗の心を害し、教えを損じてしまうと弾劾する。ただし、このような室の諸学派への批判は一部の難点をもって全体を批判するような雑なところがあると著者は批判する。
 室は『駿台雑話』の他にも『明君家訓』を出版し、これもベストセラーになり長く版を重ねた。これは、いにしえの武士文化のノスタルジーを主調音に武士とはいかに生きるべきかを書いた。いまでいえば、昭和は善かったテイストの自己啓発本といったところ。徳川家康を理想の君主としてあがめ、彼とともに幕府をつくった側近たちを称揚している。これは、当時の将軍の吉宗の家康にならえとし、前代の正徳の治を批判し、体制を一新させる志向とうまく合致するものであった。武士(幕臣)が小利口で目端が利く官僚ばかりになり、事務処理は効率的になるが、そのために都合の悪い事実は隠蔽され、下の者の意見が通らなくなり、その結果、政治の腐敗、民衆の辛苦が始まる、と室は言う。ノスタルジーだけではない。
 室の『駿台雑話』は太平洋戦争前までは、中学や女学校の教科書で、引用されることが多かった。しかし、敗戦後の教科書からは消え去ってしまう。そのことから、戦後、忘れられていった人とも言える。

 

鷲見誠一「中世政治思想史講義」(6)~第4章 中世の終わりの始まり

1.公会議運動─その政治思想的意義
 中世盛期といわれる12世紀終わりから13世紀には、レスプリカ・クリスティアーナ、つまりキリスト教社会というひとつの社会、普遍的世界と考えられているものがあった。このレスプリカ・クリスティアーナという理念に盛り込まれた文化及び領域は、ローマ教会という言葉で表わされた宗教・統治制度の中にいる人々の全体を含める。ローマ教会は、たんに教会という宗教組織に収まるものではなく、一つの世界を表わしていた。そこでは、宗教と政治は区別されてはいたが、未分化だった。そこでは、「信仰は一つ、教会は一つ、頭は一つ」といわれていたのが、この一つ一つのそれぞれが壊れていくのが、中世の終わりの始まりであり、完全に崩れてしまって、多元的になったのが近代である。
(1)運動の諸相
 中世の終わりが始まるきっかけとなったもののひとつが公会議運動である。14世紀末から15世紀初めにかけて起こった運動で、これによって、「頭は一つ」と言われていた1人しかいないはずのローマ教皇が2人になってしまった。公会議運動はキリスト教徒全体を代表する公会議によって、ローマ教皇の教会に支配とか統制の権利・権力を制御しようという運動だ。だから、ここには政治的な問題の側面があった。1305年から1377年にかけてのローマ教皇のアヴィニョン捕囚によって、ロ-マ教皇が2人選ばれてしまう。これを解決するために公会議が召集される。そこで、教皇が3人になってしまう。
 この公会議には、いくつかの側面がある。ひとつはアヴィニョン滞在中のローマ教皇が権力を濫用したのを抑制するという側面。第二に教会行政と教会裁判の中央集権化に対する反対。第三に腐敗した教会に対して教会改革をしなければならないという機運の広がりに応えたもの。
公会議の権威は古代から連綿と受け継がれてきた。信仰の重要な問題を決定する際にキリスト教徒の全代表という形で各地から集められた会議で決定された権威は、昔から認められていた。これとローマ教皇の裁判権上の優越という原理と対立する。この解決が、この公会議運動の歴史的意義と言える。このプロセスで、重要な概念が出てきた。
 第一に、宗教感情においてヨーロッパ全体という普遍性の重視からナチィオ、つまり生まれた土地の文化・言語・慣習によって人々はひとまとめになるという特殊性の重視(後にナショナリズムとなっていく)、重視の方向に変わっていく。宗教感情において、普遍性の重視からと特殊性・国民性の重視に。第二に、宗教問題は、少なくとも教養ある聖職者のすべてによって、正しく議論され、決定されることが可能であるという見方が生まれる。以前はローマ教皇が召集した会議で信仰の問題は決定され、一般信者は従う。従わない者は異端とされていた。無知蒙昧だった市民や一般信徒も知性を身につけ、聖書を読める人の出てきて、教皇を中心とした少数のエリートだけで信仰上の問題決めるのではなく、このような人々が一堂に会して議論すべきというようになっていったのである。
 一方、現実面では、教皇権力にいろいろ集中していて、その集中化された権力に対して、公会議運動の人々が、ローマ教皇の権力を分割して、それを各地に分け与える。つまり、行き過ぎた中央集権に対しての地方分権の動きと言える。しかし、ローマ教皇に集中化された権力を剥ぎ取っても、剥ぎ取られた権力の受け皿が教会の中にはない。その受け皿は、既存のもう一方の権力であるネイション・ステイトということになる。それは、普遍性というものの意義が薄れていったことの現われと言える。
(2)公会議運動の立憲思想的意義
 このような境界の基本問題を議論するということは、教会の基本的なあり方をどうするかという議論であり、現代であれは国家のあり方の議論であるわけで、憲法をどうすべきかという議論である。現実に公会議の召集が、それに触れる問題である。教皇の同意なくして公会議の召集が可能かという問題である。中世の最高権力は、宗教問題については教皇が最高権力者であり、世俗問題に対しては皇帝が最高権力者となっていた。ところが、皇帝に能力がない場合には、教皇が統治の問題にかかわることは不当な介入ではないとされた。それなら、宗教問題に対して宗教的最高権力者である教皇に当事者能力と責任能力を欠いていた場合、皇帝が関わることも可能だ。そこで、公会議の召集に関して、教皇制がしっかりしていれば、当然、ローマ教皇が召集する。しかし、教皇が2人になるといったとき、双方が勝手に公会議を召集しても解決にならない。2人の教皇には、当事者能力も責任能力も発揮することができないからだ。このとき、当事者能力を欠いた召集を公会議が拒否できるためには、公会議は教皇の下にあってはならないことになる。これはも現代なら、政府と議会の関係に重なる。
 公会議主義者たちは、現在は非常事態であるという認識のもとに、非常事態だから、最高責任者に当事者能力と責任能力がないのだから、共同体の全体が自分たちの問題として、代表者を一ヵ所に集めることができると主張した。
 これらのことは、教会全体はローマ教皇に優越する、そして教会全体は公会議によって代表される、という議論を生んだ。これは、教会全体を国家に、教皇を王に置き換えると、政治の議論になる。この議論から引き出されるテーマが代表理念である。もともと、ヨーロッパの思想史、政治史では、ポリスを見れば分かるように、直接民主制だった。ゲルマン人たちは部族の共同体全体の会議で、重要事項を決めた。そこに代表という論理は働かない。それが働くのは、人々が一定地域に集住し、自分たちは共通の文化を享受し、共通の社会と秩序を形成しているという自覚があり、しかしひの共通の社会は人口があまりに多く、面積も広いので、全員が一ヵ所に集まって議論することができない状況になったときに生まれる。代表を送り出すには、そのための母体が必要なのだ。その母体が成立するには、人々がアイデンテティを同一にしていることが必要で、それがネイションということだ。それが14世紀から15世紀にかけて生じたことは前述の通り。そう言ったことを踏まえて、代表理念が、この公会議に出てきた。
 こういうとこで、公会議運動が中世カトリック教会内デモクラシーの苗床だと言える。
(3)共同体主権
 公会議運動について、代表という問題は前述の通りで、次に主権の問題がある。教会全体が主権を持っているとい主権の思想がある。しかも世俗の政治では、共同体全体が主権を持っているという主権理念が出てくる。前者の教会主権を、後者の共同体主権をに適応させる考えが生まれる。ところで、中世のレスプリカ・クリスティアーナという構造では、政治と宗教が区別はされていたが未分離であるということが、ここにも現われている。政治の問題を解決するために生まれた理論が教会の問題の解決に適用されることが可能になる。
 公会議運動について、第一に、「全体は部分よりも優越する」というのは、「ゆえに教会全体はローマ教皇より優越する」ということになるはずだが、以前はローマ教皇は教会全体の主権者とされていた。それに対して、公会議運動で、こういう言い方をするのはたいへんな改革である。第二に、「多数は誤りを犯さない」ということだ。公会議は信仰において誤りを犯さない。
 教皇の権威はペテロの継承者ということで思考の権利がある。これに対して、公会議主義者は教会内の至高権は信仰者の全体の団体の中に存在している主張した。その中で、教皇の至高権は信仰者の団体とは関係なく、キリストから授与されたと主張した。ところで、中世では個人ではなく団体でものが考えられていた。だから、教会内の至高権は基礎として信仰者全体の中に存在し、実際の執行に当たっては、その至高権は教会の手中にあるという主権理論が、公会議運動の後に出てきた。つまり、代表としての教皇が、信仰者全体を団体として捉えて、公会議が至高権を実行するに当たって教皇に付託する。これは形態としては近代の立憲君主制に似ている。
 公会議運動は一応の成功を収めた後に、初期の情熱が醒めると、教皇に権力が戻ってしまうことになる。その後、約百年後のマルティン・ルターの登場を待つことになる。
(4)思想の構造化
 思想と思想の対決というのは、ヨーロッパ人にあって日本人にない。自分の思想を可能にかぎり論理的に整除し、そして体系的に構築して、説得力のあるものにして対決する。このような形で対決すると、思想の原理と理論が蓄積されていく。そうすると、その理論が発展する限界まで発展して完成する。それは歴史の中で構造化されるということでもある。人の精神がそういう形で蓄積・構造化される。それが人から人へと伝達されていく。そうして形成されるのが思想的伝統である。日本には、こういうことはない。アルトキパーと出てきて、その問題が解決されたら、それで終わりで、後は忘れられる。その次は、ゼロからのスタート、というように思想が構造化されていないため、浪費されている。
 14世紀から15世紀のこの問題を解決するために、古代の公会議の命題を当時の人は、一所懸命、歴史的事実を探してきて、それを検討する。それで、あのときの問題のあの時の解決の仕方は、この現在の自分たちの問題にどのように応用できるかを一所懸命に考える。そこには思想の継続的発展がある。そして同時に、そこには新しい思想の創造と展開がある。
2.教会の政治化
 公会議運動に対して、ローマ教会の世俗化が起こる。それは、教皇が世俗君主と同じ君主になるということだ。それが教皇君主制だ。その結果、ローマ教会は政治の論理に組み込まれ、宗教的に堕落し、宗教改革を招くことになる。
(1)教皇君主制の展開
 教皇のアヴィニョン捕囚のあと、教皇が2人になり、3人になりして、公会議運動が起こった状況を経て、ローマ教皇庁は真の自由と独立を回復するために、第一に、非常に堅固な政治的・財政的基盤、第二に実体を伴う独立した領土を保有すること、の二つが不可欠とされた。そのために、教皇庁が率先して封建王制に対抗できるような政治力・経済力を持つものに変えていこうとした。それは、ローマ教会の政治化に他ならない。
 それ以前は、ローマ教会は政治に直接・間接にタッチしてはいたが、自らが政治的君主になることはなかった。宗教的最高権威者は政治問題に理論的に介入するだけで十分であり、教皇自らが政治勢力になる必要はなかった。しかし、中世末期になると、人々は宗教的権威を尊敬しないようになり、封建王制の長は教会を軽視するようになる。アヴィニョン捕囚では教皇はフランス王の飼い犬のようになってしまう。そこで、失墜しつつある宗教的権威を維持しつつ、その宗教的権威を認めない世俗の権力に対抗する世俗の権力を自らが持たねばならない、と教皇庁は考えた。
 しかし、ローマ教会は封建王制の国家との間に大きな違いがあった。それは権力の継続と統合ということだ。具体的に言うと、ロ-マ教会が持っているさまざまな権力かバラバラではだめで、それらを一つのところに統合し、一つの勢力として外敵に立ち向かうことが必要なのだ。世俗の君主では、君主の血統による主権者が継続していた。それがローマ教会には欠けていた。教皇は選挙で選ばれる存在で、世襲制ではない。教皇の選挙母体である枢機卿の人たちは教皇が勢力を伸ばすことは自分たちの勢力の邪魔になるので、教皇が勢力を伸ばすのを、団体としてつねに制約してきた。
 教会が世俗化すると、教皇の権力的立場を高めなくてはならぬと自覚した教皇は、枢機卿の任命権を利用して、欠員の補充に際して自分の息のかかった忠実な人物を任命していった。そこでは宗教の論理ではなく政治の論理が働くことになる。とくにルネサンス期には親族登用を行うようになる。それは、教皇のみにとどまらず、教会全体に広がった。これは、教会内の聖職者の堕落となっていった。

 

2025年3月20日 (木)

鷲見誠一「中世政治思想史講義」(5)~第3章 「特殊」の発生と展開

1.アリストテレス政治哲学の影響─「種」の自己展開は善である
 政治における普遍は帝国であり、特殊は封建王制、すなわち、イングランド、フランス、スペインなどの王国である。
 トマス・アクィナスはキリスト教教義とアリストテレス哲学を融合し、時代的要請に答えるスコラ哲学をうち立てた。アリストテレスの形而上学は、一種の自己展開は善であるというが基本命題となっている。これを12、13世紀の政治状況に当てはめてみると、各地に自然発生的に封建勢力が成立したのが善ということになる。そしてさらに、トマスのスコラ神学では、各地の封建勢力はキリスト教的スコラ神学では、各地の封建勢力もキリスト教目的に向かって奉仕する権力として位置づけられて、善であるということになっていく。
 中世の人々は団体の中で自分たちは生きていると思っていた。例えば、神を頭とする被造物世界全体も一つの団体と考えていた。そういう宇宙秩序という共同体の中に自分は存在しているから存在できる。あるいは、パリ大学の教授はパリ大学という団体に所属することによって、この世に生きている。つまり、はじめに共同体ありきで、そこに属することによって人間として生きられるこのような共同体は神が人間に与えたもので、それだから正しく運営しなければならない。そこで統治というこかーとが、中世では政治と等しくなる。
 このような観点から、中世の人々は普遍と特殊について、普遍はローマ教会で、これは宇宙創造者にして支配者である神に繋がっている。また、特殊は自分たちが日常生活で属していた団体や共同体である。つまり、特殊とは自分の居住している土地のことであり、そこに生活の場を設けている共同体、人々が所属している団体ということであった。そこに、13世紀になると、人々の中に国家というまとまりが、封建王制を中核として認識することが生じた。これは近代の国家のような洗練されたものではなく、その萌芽的なものであった。
2.法─普遍と特殊の結節点
(1)ゲルマン人と法
 ゲルマン人は、キリスト教以前、法が人間間を結び付ける普遍的な気が名であると考えていた。法と道徳は一致するかきわめて近いもので、このような法と道徳の渾然一体となったものが、彼らの行動規範となり、社会意識の中核だった。法秩序はすなわち世界秩序だったのである。この世界秩序の中に人間が生まれ出るという自明の理を前にして、ゲルマン人は、人間は一定の法的権利を持って生まれてくる。彼らは、既存の団体が人間に権利を賦与するとは考えず、人間は生まれながらに賢慮持っていると考えた。つまり、天賦人権論である。このように人間が生まれながらに法的権利を持っているからには、人々共に生きるということは、法の中で生きること、法に従って生きることを意味した。つまり、人は正義、法そして権利を互いに尊重することに基礎を置いた人間関係を維持することで生きたていた。ただし、この法的権利は平等ではなく、身分に対応した権利であった。
 その後、ゲルマン人がキリスト教を受容した後も、この法重視の思想は継続され、彼らの法は部分的修正を受け、ヨーロッパ中世法の構成要素となった。
 この上にローマ教会は法優位の原則、法治主義の考え方をゲルマン人の間に定着させていった。法は神によって、宇宙創造の時から定められていたものとされた。
(2)法・世界・人間社会
 世界は、神に創造されたものだから、原初から完全な存在であり、この世界が混沌・無秩序でないのは、法が世界秩序の構成部分だからである。法と世界は永遠にして不滅である。中世では、法は神の被造物のすべてに必然的に含み込まれている性質とされていた。人間世界においては、法が人間世界の基礎であり、人と人との関係は法に基づいて形成されていた。
 中世の法の考え方の淵源は二つある。
 ひとつは神だ。法の本質は神との関わりによるため、善にして正義である。地上の最高権力者といえども法を変えることはできない。中世の立法行為とは、新しい法を作ることではなく、古い法の発掘だった。中世人の意識・感覚の基本的な特徴は、世界は変化せず、発展もしない。すなわち静的だった。古いものは新しいものより価値がある。新しいものは人々から疑いの目で見られ、社会の変革は神への冒涜・不道徳とされた。ふたつは、人民の法意識である。人々の道徳意識が新しい法令の発見場所。ここから、支配者・立法者は新しい法令を発見して、既存の法体系を補完し、実質的には改正していた。
 以上のことから、中世の人々が法には万民を従属させる普遍的な力がある、と信じていた事実が分かる。このような法への信頼からRule of Lawが導き出された。Rule of Lawのもとでは、すべての者には法と慣習に従う義務があり、支配者・君主も例外でなく、むしろ率先し、他の模範とならなければならない。言い換えると、君主の責務は法の順守と正義の実行であった。君主がこれを破れば封建契約を結んでいた封建諸侯たちは忠誠の義務から解除される。つまり、支配者と被支配者は、法と慣習に対する積極的服従、封建制に即していえば、家臣の主君に仕える忠誠と主君が家臣の生命・財産・権利を守る責任である。そして、法に対する信頼、主君と家臣は互いの人を信頼するというよりその背後に普遍的に存在する法を信頼していた。この二つのことを共有していた。
 ひとはそれぞれの身分に即した法的権利を持って生まれてくる。このゲルマン古来の考え方は、中世キリスト教社会では、存在する者は法的身分を有することによってのみ認知される。
 身分が高く、おおきな法的権利を生まれながらにして付与されている人々は、それゆえに方が命ずる拘束・規制を他の人々よりも多く引き受けなければならなかった。身分の高い人々は、より大きな倫理的責任を法の遵守に対して負っていた。これをノブレス・オブリージュという。
(3)法と封建社会
 ヨーロッパの封建制の特徴は主従関係において双務性、相互性が重視されたことだ。この背景には、双方が自分たちを超越して存在している法と慣習に対して信頼と服従心を保持していることがあった。
 封建制における王の権力は、まず王の存在があり、次に王と個人的な関係にある臣下たちがいて、両者の協力関係に基づいて成立していた。王の強力な武力や経済力で王の権力が成立しるのではない。そして、王と臣下の関係を成立させていたのは超越的して存在し、信頼を集めている法であった。これらのよりゆるやかな統治体が形成され、ひとつの全体社会となっていた。それが王国である。この王国も神を頂点とする宇宙秩序の一部を形成し、それゆえ普遍に対する特殊であり、王と臣下という特殊が王国という全体に対してあった。
 中世では人間は、いずれかの団体に所属することによって、まともな人間としての尊厳を獲得した。王といえども貴族団体の一員で、決して王が一人他の貴族たちから超越していたわけではない。貴族の中の第一人者だった。
3.封建王制独立─政治的「特殊」と「普遍」のパラドクス
(1)領域支配・王権
 13世紀の転換として、国という認識が生まれた。それは封建王制を中核として、一定の土地を自分たちの所有地であると主張して、その土地の中からさまざまな利益をあげて自分たちの国が富むように努力するという国づくりが意識として生まれた、ということだ。というもの、そもそも封建制は利用粋とは無関係で、人的支配の関係だったからだ。より上位の封建的大貴族が、より下位の者と封建契約、服従と支配の契約を結ぶもので、下級封建領主の領地も自分のものだとは、上級の封建大貴族は言わない。封建大貴族は自分の土地を持ってはいるが、それは自分の生活を賄うために使うのであって、周辺の小貴族たちと封建契約を結ぶということであって、彼らの土地を直接所有し経営するということではない。それが、13世紀に、領土という意識が生まれ、土地を支配することによって政治権力が充実拡大していく、という政治意識と政治制度ができてくる。
 このころ、増大する都市の勃興と商業活動は、経済、法のシステムとしての封建制度はそぐわなくなる。より経済的利益が得られる方向に封建領主たちも向かい、封建制の網の目をできるだけ緩やかにして、勃興してくる都市とうまりやり、商業活動も自分の領域の中で円滑、活発に行われるようにする。封建領主は支配者の利益の観点から、その方向に動いたのだった。
 そして、13世紀の半ば以降、領域国家が登場してくる。14世紀後半にはラテン・ヨーロッパ世界は、主権国家によってモザイク状に分割されてしまう。このことは、一定の領域内に政治的に組織された共同体が出現したということを意味する。この「政治的に組織された」というのは、支配権力があって、社会をコントロールしているところで実現する。つまり、一定の領域の中で、それまでは政治的に組織されていなかった人々は13世紀頃から、政治的に組織され始める。人々は自分たちが国王の下にいるのだという意識を持ち始めた。国王側は、そういう人々をコントロール下に置く方が、自分の政治的地位の保全と珪砂性的利益の増大につながるところから、甲王に忠誠心のある人々を様々な形で組織し、挽き寄せようとした。「政治的に組織された」というのは、具体的に、こういう意味である。以前は、封建領主たちをコントロール下におけばよかったで、それは政治的な組織化とは言えなかった。そして、「主権を有する」というのは、対内的にも対外的にも、その人がその土地の中の主人、支配者であるということを客観的に認められ、主観的に主張できることである。
 このようにして領域国家は盤石の基盤を確立していく。このプロセスで重要だったのが、専門的に訓練された多くの人材が国家の中で、王の顧問や官僚になるということだった。彼らは様々な分野に投入されて、人的ネットワークをつくり、一定の地域を支配するようになる。そのための人材提供の場が大学の法学部だった。ここにヨーロッパの社会の合理性の大きな要素がある。性器の後半に主権国家がモザイク状になったヨーロッパを覆っていったプロセスにおいて、領域国家が自分の地位を確立するために、どうしてもやらねばならないことがあった。中世の緩やかな統治体における政府は、自分がもっていた裁治権と競合関係にあるような下位の団体のもっているそれと摩擦、紛争を起こした。そこで効率よく行政をするには、これらの団体をつぶして争いの相手をなくしてしまえばいい。しかし、それがなかなかできない。次に、教会も固有の裁治権を持っていた。教会に対しては教会裁治権が世俗的権利の固有の利害関心を侵害するようにことが生じた場合には、教会そのものをコントールするする必要がある。支配者の側からは、自分の領域の中に固有の慣習的権利を持った法団体としての教会がいるということは、統治がきわめてやりにくいことになる。さらに、封建支配者は教会に比べれば未だ非力だった。
(2)王は彼の王国において皇帝である
 王と皇帝の関係について、古代ローマでは、帝国の支配に屈した諸民族の首領はレックスという称号が与えられた。これはローマ皇帝からレックスを有する人物に対して、「あなたはあなたの部族を統治してよろしい」という正統性と権限を付与するということを意味する。その与えられた地位が王である。工程はインペラートルで、ローマ帝政における権威者であり、権威そのものであり、法律をつくるもので、レックスはイムペラートルによってつくられた法律を各地方で実行する人なのである。これが中世まで引き継がれた。
 王国内においては、王に対して命令する権威や権力は存在しない。すなわち、王国内においては、王が皇帝に現実に従属していないということを示している。
 中世では西ヨーロッパ全体がキリスト教世界であり、それは同時にローマ教会であり、かつローマ帝国であるという意味でひとつの普遍だった。その中のフランスやイングランドの封建王制は、それぞれが普遍に対する特殊であった。普遍との関わりにおいて特殊である封建王制は、「王は国内において皇帝である」「王は上位者を認めない」という。すなわち、帝国という普遍的権威に対抗して、特殊的な封建王制権力が、自分の力で自己の正当性を立証している。普遍的権威によりかかることなく、自分自身が支配権として正しい存在だということだ。
その支配の正当性を被支配者に説明し納得してもらうためには、その理論が論理的に一貫して展開されることが必要である。このように支配者と被支配者が一緒に住んでいる社会が共通に持っている文化的基本原理は、合理性ではない。基本原理は合理性を超えた価値世界から来たものである。しかし、この価値に即して支配力の有意義なこと、正義を実行していることを論証すること、正当性を主張するには、合理性が必要となる。こういうところに政治思想が芽生え、発展してくる。それが政治理論となる。このような理論鉱区はと実践は、特定社会の基本的価値の文脈にかかわる法と正義実践という面で、その社会の全体の中で納得されるという意味で、ひとつの普遍的原理となる。
 中世では精神的価値の普遍性は、キリスト教の神であると同時に、政治的普遍性はローマ皇帝である。この普遍的なものとのかかわりで勃興し始めた各封建王制は、普遍的原理を再発見して、それを自分の側にいかにして取り込むかということに存亡をかけた。特殊は、単なる特殊ではない。特殊が自己の具体性を徹底的に掘り下げていくと、普遍的なるものとの関わりに必ず行き着く。政治的特殊として成立した封建王制が特殊として存在するなら、たんなる私的な封建権力で終わるだけだが、封建王制という形で展開していくと、少なくとも自己の領域内において、普遍的なるものを発見せざるを得ない。
(3)「ナショナルなもの」の生成
 封建王制が領域的主権として成長・発展してくることと同時進行するように、「ナショナル」な感情、「ナショナル」に社会全体や政治秩序を考えていこうとかる姿勢が成立したきた。しかし、それは近代のナショナリズムとは違う。自分はイタリア人であるという感覚として出てくるのであって、近代の国家という抽象的団体に対する忠誠という意味でのナショナリズムではない。
(4)「公」の再発見
 封建制というのは、支配する家の主が自分の私有地を運営管理するという意味で、「私」である。「私」の論理で領地の支配と運営が行われていた。しかし、領域的王権という考えが明確化されてきたとしても、「公」の原理が出てこないと、領域内の一円的な統治を正当化することはできない。中世ヨーロッパ社会には、この「公」が根づいていなかった。
 もともと、中世の法は「古き良き法」であり、神が人間に与えられたものという、立法者は神であるということで、人間が法をつくるという立法概念はなかった。そして法に基づいて統治する。人間より古くて神が人間に与えたものという形において新しい法をつくるということは、神に対する冒涜だった。
 ところが外敵が侵入してくると領土防衛が必要になる。例えば、14世紀フランスの百年戦争。そのための軍備が必要で、そのためには金がかかる。そのためには領民から税金を徴収しなければならない。外敵から国土を守るというのは「共通善」で、「共通」とは諸々の身分の相異を越えるということと、支配領域の全体に及ぶという二つのことを内包している。共通善のためには、税金を新たに徴収する権利が支配者にはあるという感覚が支配者側にある。そして、被支配者の側にも納税に納得してもよいという感覚が生ずる。そういう形で税金を徴収する慣習法が成立するようになる。このことは画期的で、前述のように中世封建王制は私的関係、私的領域の集合体なので、領民が支配者に税金を払うというのは、きわめて特別なことだった。封建契約に基づいて認められていた以外の金を新税として新規に払うというのは、新たな法律を作ると同じくらい重要なことだった。
 それが、共通善のために支配者は新たな法律を作っていい、作る権利があるという考え方になってきた。共通善というは領土全体ということだから、たんに支配者の私的な財産の防衛だけでなく、被支配者の財産も防衛することになる。その防衛行為を含めた支配者の統治行為は、単なる私的領域を超越した別の次元という意味で、「公」の感覚が、ここに成立する。支配者と被支配者がともにひとつの全体の中に生きていると言いう考え方が生まれた。このひとつの全体をトータルに包みこむ原理が「公」だ。
 公の概念が成立すると、その原理にのっとって、公的権利としての支配者の権利を実行するということで新しい法律をつくるし、新しい税金を徴収することができるという形で、支配者の権力と財力は徐々に増えていく。それが続くと、支配者の公の権利という慣習が認められていく、それが公として定着していった。

 

2025年3月19日 (水)

鷲見誠一「中世政治思想史講義」(4)~第2章 「普遍」の確立

1.グレゴリウス改革・叙任権闘争
 普遍的なものを中世文化の基本とするならば、11世紀の終わりごろ13世紀の半ばで絶頂となり、14世紀の初めには崩壊が始まる。ここで重要な出来事が、グレゴリウス改革、別名叙任権闘争である。グレゴリウス改革はヨーロッパの社会構造を根底から変換する革命だった。
 叙任権とは、中世ローマ・カトリック教会の聖職者を任免する権利のことである。ヨーロッパ中世では、政治血宗教が未分離の状態だった。11世紀後半では、国家と教会という区別されて観念はなかった。サケルドティウム(聖職者階級、聖職者団つまり教権)とインペリウム(帝権)の両者は一つの全体社会であるレスプブリカ・クリスティアーナといわれるキリスト教社会の二つの中心点だった。両社は近代の教会と国家のような別々の目的で別々の分野の別々の組織ではない。レスプブリカ・クリスティアーナというひとつの社会において、別の機能を果たす違いがあるだけで、目的は同一だった。その目的は、レスプブリカ・クリスティアーナというキリスト教社会は、人間すべての魂の救済だった。この同一の目的に対して、サケルドティウムとインペリウムがそれぞれ、どういう機能を果たすべきかということが問題にされたのだった。
(1)改革以前
 9世紀はじめにシャルルマーニュが亡くなると帝国は衰退を始める。それに反比例して教会の権威が向上した。それに伴い聖職者が民衆の生活を指導するようになる。960年にオットー大帝が帝国を再興する。しかし、シャルルマーニュの帝国の再現ではなくゲルマン的な色彩が濃く、矮小化された帝国と言える。その再生された帝国では帝国内の統治の一環として、皇帝によって教会組織が用いられた。帝国統治策として教会や聖職者が用いられた。各地の高位聖職者は、皇帝の政治的観点から任命された。聖職者は独身で妻帯を許されないので、支配権が世襲されることがないことは皇帝には都合がよかった。その結果、聖職者としては不適切な人間も、政治的、官僚的有能さから任命された。この者たちは、教会の財産を食い物にしたり、教会組織を世俗的統治の道具に使うようなこともした。これは、ハー宗教組織としての教会の道徳的退廃を引き起こす。皇帝に倣うように封建領主は領地に教会を建て、聖職者を任命した。この教会は領主の財産であり、自分の財産の管理人を任命するのと同じ観点で聖職者を任命した。ここでは、宗教の論理によらず、世俗の支配の論理が働くことになった。
 その結果、10世紀以降、聖職者の堕落が甚だしくなる。聖職に就くむということは、世俗の支配者の官僚になるのと同じなので、政治的名誉と経済的利益を得ることができる。それで、聖職者というポストが売買されるようになる。そして、聖職者は妻帯を禁じられていたが、世俗の人がポストを金で買うと、勝手に結婚してしまう。
 これらのことは、聖職者が俗人の皇帝や封建領主によって世俗統治の論理から任命されることが根本原因である。それが明らかだから、改革のターゲットは、聖職者の任命権を聖職者の手に取り戻すこと、終局的には高位聖職者の任命権をローマ教皇に取り戻すことだ。これは、カトリック教会からいうと、ローマ教皇に権力が集中するということになる。
 ところが、最初に教会を改革しようとしたのは、ローマ教皇ではなく皇帝の方だった。中世のサケルドティウムとインペリウムが相互補完的ということから、世俗の論理において皇帝が世俗統治をうまくやるために、教会がきちんと運営されていることを望んだためだ。それで、教会の改革を皇帝が始める。それは、改革するために適切な人物をローマ教皇に任命したのだった。このことは、教皇よりも皇帝が優越していることを示している。
 そこに登場したのがグレゴリウス7世という教皇で、彼が改革をスピードアップさせ、一気に完成へと持っていった。彼が意図したのは、キリスト教会の政治的統一とメンバーの調和、そして教会という団体の持っている全面的な自由・特権の追求だった。教会が世俗支配者のコントロール下にあることから脱却する、つまりは教会を非世俗化するということだった。具体的には、ヨーロッパのカトリック教会の聖職者を教皇が支配するということになる。これは、当時の慣習を破壊することを意味する。中世においては、慣習というのは強い拘束力と神聖性を持っていた。慣習というものは昔からあるもので今まで伝わってきているということで拘束力が大きかった。その慣習の中には、法規範的な慣習も、人間の身のふるまい方もセットになって含まれている。だから、法と道徳が分離しいないというのが中世の特徴とするならば、この法と道徳が分離していないということか背中合わせになって、慣習と法というものが未分離の状況にある。つまり、慣習が法的拘束力を持っていた。グレゴリウス改革は、この慣習を廃棄せざるを得ないということになるわけで、当時の人々に与えたインパクトを、現代のわれわれが想像することが難しい。
 また、一方でグレゴリウス改革を推し進めることができるには、世俗君主や世俗化した司教たちに対抗できる強い組織が必要で、教会がそれができるようになっていた。具体的には、ローマ教皇は教会内の枢機卿団によって選出される制度が確立した。これにより、教会は世俗の君主とは自立した組織として成立した。そして、近代の国家と類似した組織となっていた。それは、アンシュタルトと呼ばれ、次のような特徴をもっていた。制定された秩序(教会法)があり、その秩序は効力の及ぶ範囲が限定されており(ローマ教会)、そしてその限定された範囲内の構成員(教会員)が行う行為の中で、法的規律の対象となるいっさいの行為に対して、相対的な形で実効ある指令を下す。ここに最高の支配者が一人存在し、その支配者の意志を正式に伝達する法律が存在し、具体的に実行する官僚集団により、官吏養成が成立していた。当時の帝国や封建領主の支配機構では望むべくもなかった。
 グレゴリウス改革に、最も損害を受けることから反対したのがドイツ皇帝ハインリヒ4世だった。ドイツ帝国の政治組織においては、司教という高位聖職者はもっとも有効な行政機関だった。それを皇帝が任命することは、帝国政策の中心だったからだ。その結果、皇帝と教皇が争うことになり、破門という結果を招いた。カノッサの屈辱である。
 叙任権闘争の政治思想上の意味は、ローマ教皇がキリスト教社会の究極的な指導権を保有することを明らかにしたことにある。それには聖書という理論的根拠もある。それが根拠となりえたのは、聖書の内容を人々が正しいものと受け容れ、信頼し権威あるものと考えられていたからだ。聖書では、教皇には「つなぎ解く権力」があるとされている。イエスがペテロに罪から解放する権力、教会に人々をつないでおく権力を授かり、それをペテロの後継者である教皇に代々引き継がれたというわけだ。この信仰的な内容が、中世では、世俗社会に拡大され、倫理にとどまらず法的な問題に転換されていった。世俗的行為についても教会が指導する権威があるということになっていった。
 これは、新プラトン主義の哲学の首長である霊肉二元論あるいは精神と物質の二元論に基づく精神が物質を指導すべきである、霊魂が肉体を指導すべきであるという思想的原理をキリスト教が援用していた。教会のイデオロギーは、その上に聖書が利用された。すへての権力は神に由来し、神から引き出される。これは、聖書成立以来の公理であるという。これは、ゲルマン文化の指導者は人民によって選ばれるという神話も、臣民に選ばれた指導者もキリスト教儀式なしには職位に就くことはできないとキリスト教的に修正され、取り込まれた。このことは政治権力に対して宗教的権威が介入する正当な根拠があるのだと認めることになる。
 ヨーロッパ中世では、政治血宗教が未分離で、サケルドティウムとインペリウムの両者は一つの全体社会であるレスプブリカ・クリスティアーナといわれるキリスト教社会の二つの中心点だった。両者は別の機能を果たす違いがあるだけで、目的は同一だった。中世のキリスト教世界は、二つの中心から成る楕円と言える。こういう状況では、二つの中心が一つの問題に対して、どこまで責任を負えるか、どこまで権力を及ぼせるかという管轄権が争われる。争っている双方の価値観は同じなので、解釈争いとなる。キリスト教社会という同じ土俵で、正当性を証するのはキリスト教、とくに聖書で、それをどのように解釈すれば相手は納得するか。このとき論理的に説明することが行われる。そこから合理性の重視という傾向が発達する。異なる土俵での争いでは論理的な説得など説明しない。この合理性というのが政治思想だけでなく、信仰そのものをロゴス的に展開するということで神学が生まれてくる。ここに中世政治思想が理論的に展開する契機がある。
(2)改革以後
 ローマ教皇が主導する権威とは、第一に、グレゴリウスが主張した神政政治は政治と宗教の区別、皇帝と教皇は異なる存在であり、ローマ教皇が皇帝を配意する権限を持つ。つまり、道徳的、霊的権威として教皇は確立されるべきであり、その権威は世俗の問題に対しても監督、助言が可能であるということ。第二に、ローマ教皇はそれまでカトリック教会の高位聖職者の第一人者にすぎず、教会は会議により統治されていたのが、教皇を君主とするキリスト教世界の中央集権的体制ができあがったということだ。
 叙任権闘争はサケルドティウムとインペリウムの両方に共同体の権利を主張するという共通認識を生んだ。世俗統治分野のさまざまな共同体の権利を前面に主張する。共同体を束ねる一人の支配権ではなく、共同体全体の利益と権利と権威を主張するということが、政治の前面に出てきたのだ。この共同体の権利というのは、具体的には、共同体の支配者が被支配者に対する義務を怠ったなら、共同体が支配者を訓戒するとか罷免するとかいったことができるということが政治の前面に出てきたのだった。それは共同体が、それ自体が団体として成立するということを意味する。共同体の権利が前面に出てきた。
 ヨーロッパ中世でも、近現代でも政治過程で重要なのは団体である。これが基本なのだ。ラテン語のcorpus。このコルプスは人間の身体でもある。古代の地中海世界では、人間の身体(有機体)と、社会を同質の物と考えていた。それが有機体理論で、社会を身体の身体と同じように考えて、支配者が頭で、心臓は何、手足は何と考える。古代キリスト教でも教会をキリストの身体と表わした。
 共同体に対しては支配者の権威は神から与えられたもので、共同体に由来したものではないという対抗理論をつくるようになる。このように、ヨーロッパでは自分の主張を合理的に述べて相手を説得し、納得させるという営みが、熱心に行われたのだった。叙任権闘争ではサケルドティウムが霊的問題を管轄し、イムペリウムが現世の問題を管轄するという区別が自覚化された。これは重要で、物事が区別され、それが自覚化されるところに理論が発生するからだ。近代に分かれていった国家と教会、政治と宗教という区別に向かっての出発点がグレゴリウス改革にはある。
※ヨーロッパ人というのは、キリスト教を信仰したおかげで歴史性を重視する。それはキリスト教では、神が宇宙を創造して以後、時間は直接的に宇宙の完成に向かって進行していると考え、その中の人間の行動も時間的進行過程として把握される。つまり歴史である。そして神の意志は、この歴史の中に間接的に啓示されていると人々は考えた。過去の自分たちの先祖のやった行為は現在の自分たちのもの、過去の栄光はいまの栄光、過去の罪は現在の自分たちの罪、という自覚が非常に濃厚なのである。日本人は「みそぎ」という言葉で象徴されるように、おはらいを受けるとすべて過去が洗い流されてしまうと思っている。
 歴史においては明らかに、連続と不連続、連続と飛躍がある。連続にも発展があり、その発展には連続的発展と、連続を飛び越える非連続的発展がある。非連続発展に意味があるのは、連続性というものかあるからで、伝統というものが大切にされているからこそ、それを断ち切っていく、新しくするということに意味がある。伝統と革新という両者は、緊張関係にある。一方がなくなれば、他方も無意味になってしまう。
 グレゴリウス改革の政治的意義として、次に考えられるのは皇帝教皇主義が成立する基盤が原理的に否定されたということだ。カエサルものものはカエサルに、神のものは神に返すというのは新約聖書に明言されている。現実に、この原理を支持する組織がなくては、この原理は維持できない。それを担ったのがサケルドティウムであり、制度として確立・整備されてきたのがローマ・カトリック教会であり、これが政治権力に対抗できた。それゆえ、王が宗教的権威を兼ねるという皇帝教皇主義が成立できなかった。そこから信仰・思想の自由が芽生えてくる。これ以降、宗教が政治を、政治が宗教を圧倒するということが起こらなくなる。このような形で、政治と宗教、理性的なるものと非理性的なるものという形の区分が徐々になされていった。
 ここから、信仰という権威に基づいて人々を心服させる時代から、権力で人々を支配するという形に代わっていくことになった。叙任権闘争以前は、普遍的信仰はそれに基づく信仰的権威で担保されていた。しかし、その後はローマ・カトリック教会という普遍的制度・宗教制度によって担保されるようになる。しかしそれは、宗教的組織ではあるけれど、同時に行政的組織であった。教会が統治体になった。信仰者の霊的共同体であるものが、別の側面を持つようになった。教会は支配者と被支配者のという統治体になった。その境界は制度そのものが普遍的であると主張した。神と教会とか連続的に有機的な関連性があるということで、神という普遍性に繋がっているからローマ教会は普遍的であるというわけだ。言い換えれば、神的秩序と自然的秩序が連続している。

 

2.普遍的秩序
(1)神的秩序と自然的秩序
 アウグスティヌスの政治思想は中世の政治思想に非常に大きな影響を与えた。それは現代の会社徳は違う偏ったもので、この世の秩序とは異なる神の秩序、神的価値の強調であった。それ以外の人間社会も含めた宇宙などの自然的秩序は、それに比べて価値の低いもの、まして政治社会というものは、人間の原罪の結果としてできた組織であって、本来なら一刻も早く罪が抹消されて清められなければならないというものだった。人間社会の制度負の価値を負って無意味だと強調された。神的秩序と自然的秩序の間には越えられない断絶があるという解釈だった。
 一方、12世紀は社会がキリスト教化されていた。キリスト教の教義のなかで、人間は神の前では兄弟であるという思想原理が歴史の前提にでてくる。言い換えると兄弟愛が社会の形成原理になっていった。この時期は納涼の大躍進により富が原始蓄積された。そこから交易が始まり、市が立ち、都市が生まれた。都市というのは、村のような共同体とは違って、見ず知らずの人々が集まって都市を作り運命共同体となって敵や害獣から身や財産を守るというものだ。都市民どうしは、最初はどこの誰か分からないもの動詞が信頼し合わなければならない。そこで信頼し合うために、お互いがキリスト教徒であり神の前では兄弟であるということを相互に確認し合うことが必要だった。つまり、このときのキリスト教は都市共同体における人間同士の接着剤の役割を果たした。そして、都市ができると教会がつくられ、人々は日曜日に集まった。それが都市のシンボルとなった。ここで、都市共同体と信仰者共同体が同心円的な結合関係なっていった。そこで、断絶されていたはずの神的秩序と自然的秩序の間で、人々がキリスト教化されていくと、支配者もそれにならうようになる。それが広まると、政治社会が負の価値を負うというものから、意味あるものへの渇望し始める。信仰がある者にとって自分の活動がキリスト教的に認められたいと願うわけだ。支配者を含めた人々が、これまで否定的に考えられていた教義を肯定的に考えてもらえるように変えてほしいと願った。神的秩序と自然的秩序には断絶かあ゛ったが、これを連続したものにする。これを思想的に行ったのが、13世紀のトマス・アクィナスだった。
 神的秩序と自然的秩序が連続しているということは、自然は単なる自然ではなくなる。自然的秩序の一部分である人間社会もたんなる世俗的領域ではなく神的秩序と連続しているがゆえに永遠性を有すると考えられるようになる。権力はそれそのものとして固有の価値を神から支配者に託されているという考えが生まれてくる。その場合の権力の目的は人々を教導するだ。
(2)目的論的存在論─存在と価値の階層的秩序
 目的論的存在論とは、ひとつの事物が存在している意義と目的は自分よりも上位の事物の目的に奉仕するために存在しているというものだ。自然的秩序は、より上位の神的秩序のために存在している。自然的秩序の中には、鉱物植物、動物、そして人間という上下関係の階層的になっている。このような考え方は、中世社会の身分制的な階層秩序体制を正当化するイデオロギーとなった。
 トマス・アクィナスは、当時危険視されていたアリストテレスの形而上学をキリスト教的に受け容れて換骨奪胎して、目的論的存在論の形をとったキリスト教的宇宙論を形成した。アリストテレスは形而上学において哲学的一神論を展開した。存在というものは動いている、動いているものには必ず原因があって動いている。動いているものの原因を辿っていくと、原因は終局的にはひとつであり、それが神である。トマスは、この哲学的一神論をキリスト教の神に置き換えた。そうすることで、神的秩序と自然的秩序を、神を頂点とする存在の構成秩序を哲学的に体系づけた。
 これによって、アウグスティヌス的な社会観が転換する。つまり、神の存在を強く打ち出せば打ち出すほど、自然的秩序の存在がマイナスの存在に押しやられるのではなくて、逆に自然的秩序の中に存在している事物すべても神の恩恵に浴することになり、、それらの固有の価値が明らかにされるようになった。ここでの人間存在は不完全ではあるが自己に内在する理性をいっそう伸ばし、徳性を磨いて可能な限り永遠の生命をいただけるような人生をおくり、心的存在に近づこうと努力する。他方で神の恩寵がその不完全な人間の上昇運動を上から完成する。
 この唯一者としての神は、全宇宙の創造者であり、支配者である。このことが、キリスト教が政治というものに親和性があることの現われといえる。この親和性というのは、政治という問題に積極的な関心を持っているということで、支配者側、被支配者側という一方だけを強調するのではなく、トータルに政治に正面から向き合う。
 神が、全宇宙の創造者、支配者であるという定義をされた神への信仰を抱いていると、人々は、全宇宙すなわち普遍性との強いかかわりを持っているのだという実感を持っていた。中世の人々は、自分が生きている社会のメンバーであると同時に、このような神への信仰・帰依が強くなればなるほど、自分は神と連続しているがゆえに、普遍的な秩序に身を委ねているという実感があった。普遍性というもの重要だという文化体系が中世の特徴だ。この普遍性を現実の地上の世界で担保している制度が教会なのだった。
 このような考え方は封建制に適合的なのだった。そこでは、人間の身分が固定していて、それは身分に上下関係存在することでもある。そこでは身分の上下関係が正当化されることになる。そこで触媒の働きをしたのが新プラトン主義の肉体と霊婚を分離して考える二元論の考え方だ。そこで、霊魂を代表する教会は、肉体を代表する帝国より優越している。それは、皇帝よりもローマ教皇が優越した地位にあるべきだという社会教説が展開される。
 霊肉二元論の形で、最終的には存在と価値の上下関係が規定されているということ。この上下関係が究極的には普遍的な神に繋がっているという意味で、人々はこの秩序にいるかぎり、普遍性ということが自分たちにとって最大、最高の価値であるとして生きていた。それが中世の人々である。他方、ひとりの人間が部分的に生きている面と、全体的に生きている面とがある。多くの人々は、自分たちの日常感覚で、五感で認知・蝕知できる世界に生きている、と同時に信仰に関わることとしてローマ教会全体ということ、普遍ということを考えていた。そして、知的なエリート層は、たんに五感で蝕知しうる人間関係=世界だけで生きているのではなく、信仰と理性の問題を考え、聖俗の支配層はヨーロッパ全体を支配の次元で考え、ヨーロッパ全体は普遍であるという政治神話に生きていた。
(3)現世における普遍
 グレゴリウス改革以後、ローマ教会は聖職者階級による統治団体となっていた。聖職者により管理・運営され、かつ上はローマ教皇から下は村の司祭に至るまでヒエラルキーが構築されていて、その下に一般信徒がいた。中世において近代国家に一番近いのはローマ教会だったと言える。ドイツ皇帝や封建王政などは素朴な実体でしかない。それに対して教会は官僚制が存在しているし、ルールが存在していた。言い換えると、13世紀から勃興し始めた封建王制が、自分の統治体を確実にして生き延びていくためのお手本がローマ教会だった。官僚制というのは最初に教会で始まって、そこから徐々に世俗王権に広まっていった。
 当時、教会はこのような狭義の教会とキリスト教徒が住んでいる世界全体をいう広義の教会の二つの意味があったが、そのどちらにしても、全体的で包括的で普遍的な世界だと考えられていた。そしてまた、教会は神的秩序に関連を有しつつ、自然的秩序の中に存在していた。宇宙や自然は神が創造したもので、自然の中の人間社会にある政治的空間も、神が人間のために創造し、与えられたものと考えられていた。政治的空間は、人間が人間のためにつくったものとは考えられていなかった。人間社会の枠組みは神が創ったで、人間が生まれる以前から所与のものとして存在していたということだ。だから、広義の教会というのは、政治社会と考えられる。
 この講義の教会が政治社会であるとすると、人々はこの秩序内の自分にあてがわれた身分、そして職業を忠実に実行することが、神に忠実であり、かつ信仰深いことになる。その意味で、身分は神がつくったもので、身分を壊すことや疑いを持つことは、神に対する反抗だと考えられた。これは、近代の人間が社会をつくったという考え方は、中世にはなかった。近代とは違って、社会の秩序とか、枠組みの安定と維持が中世政治の意味だった。つまり、既存の世界秩序、社会体制の運営が問題になるのであって、新たな再編とか、組替を社会に対して加えるということは許されなかった。現代の意味での行政とか統治というのが、中世における政治と言える。統治権力の役割は本質的にイムペリウムが持っていた。
 人間の社会の枠組みが所与であるとすると、その枠組みの中をいかにうまく運営していくかが、支配者の任務ということになる。そういう意味で、ローマ教会とかキリスト教社会を統治する職務(オフィキウム)が存在する。オフィキウムは、神からいろいろな人に与えられている。封建領主には、統治のオフィキウムが課せられている。このオフィキウムには責任が伴う。上位の者から責任能力なし無と判断されれば、オフィキウムを剥奪される可能性もある。オフィキウムは社会の一部分が自分に委ねられていて、その一部をきちんと運営するという責任と表裏一体になっている。中世社会は身分社会であるので、固定された身分の中での自部マオフィキウムというのが、流動的ではなく固定化されていた。そして、最大・最高のオフィキウムはローマ教皇と皇帝に与えられていた。この二つがヨーロッパ中世社会の二つの衷心であったことは、これまでに何度も述べられている。
 その一方であるローマ教会は、一つの組織、法的強制団体(←狭義の教会)であった。そこでとくに重視されたのは、「一つの信仰、一つの教会、一つの頭」ということ。この結果、教会は統治体であることに加えて、信仰理解とか聖書解釈が教会に独占されることになる。そこに正当と異端という問題が発生する。このことは、信仰の問題は各ドン一人一人の内面の問題という問題からは発生しない。これは、ある地域のすべての人間を、一つの組織が、一つの権威のもとに囲い込むということから生じる。ローマ教会は、信仰の普遍性をこの世で担保する宗教組織として存在するので、教義の中核において客観主義を標榜する。つまり、教会という客観的制度の中に人がいることで、救済における安全性が確保される。人々が客観的に教会の中にいれば救われる、外に出てしまえば救われないということだ。客観主義では聖書と伝統の二つがローマ教会の信仰の基準だった。これに対して、中世の後に出てくるプロテスタンティズム主観主義である。聖書を各人が解釈するからである。
(4)皇帝権と教皇権
 皇帝権と教皇権は、ヨーロッパ中世では不可分の関係にあったの。基本的には、世俗権力は宗教的権力の権威と勢力を維持するために、外的な強制手段を提供していた。たとえば、教会税の徴取とか、教会の維持と聖職者の生活に必要な財物の収集を行った。他方で、そのお返しに宗教的権力は、世俗権力に対して宗教的手段を用いて支配者の正当性を保証したりと、相互補完の関係にあった。
 帝国の皇帝は普遍的権威保有するものだった。しかし、シャルルマーニュによって再興された帝国は、キリスト教によって支えられ、キリスト教の神が皇帝を選出するというものだった。キリスト教を知事用で体現し、担保するのはローマ教会であり、教会を代表するのが教皇であった。それゆえ、皇帝は普遍的権威を標榜するローマ教会の中に存在し、教皇との関係を有していたからこそ、神との関係を保有することができた。したがって、再興された帝国は、それ自身としては、それ自身地上の全世界ということはできず、その権威の及ぶ範囲はローマ帝国の一部にすぎなかった。事実として普遍的権威ではなかったのだ。しかし、その一方で法的な普遍的権威として皇帝権は、伝統が重要な中世では強い影響力を持っていた。
 古代ローマ帝国は市民の歓呼賛同によって正式の皇帝が生まれた。10世紀のオットー1世が神聖ローマ帝国の皇帝となった時はローマ教皇が帝冠を授けた。神聖ローマ皇帝の政治における普遍的権威を背後で支えていたのはローマ教皇と教会だった。
もう一方の教皇権について、古代ローマ帝国ではローマは5つの総大司教のひとつにすぎなかった。しかし、ローマが帝国の首都であったために霧吸地経でも情報センターとなった栄えたことと、西ローマ帝国滅亡後に指導力を発揮したことで指導的立場に立ったのだった。しかし、ローマ教皇の権威は1世紀末から伝えられてきたローマ司教はペテロの後継者であるという伝承だ。5世紀のレオ1世は「ペテロの鍵」の教説を主張した。ペテロがキリストの命令により教会を建立し、キリストから「つなぎ解く鍵」を委託された。ペテロの後継者であるローマ教皇のみが人間を救済する権威と能力をキリストから直接授与されたというものだ。この教説は中世を通して、ローマ教皇の権威と権力の理論の根本的基礎となった。
 皇帝と教皇の関係は、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神にかえせ」というマタイによる福音書の言葉に象徴される。それを理論化したのが5世紀末のゲラシウスだった。両社は対等の関係にあり、中世キリスト教社会は皇帝と教皇という二つの中心からなる楕円的統一体である。

 

2025年3月18日 (火)

鷲見誠一「中世政治思想史講義」(3)~第1章 ヨーロッパ・キリスト教的政治圏の成立

1.権力正当化原理としてのキリスト教
 ヨーロッパ中世はキリスト教的政治世界として成立・発展した。このキリスト教的という意味は、人々がキリスト教徒だったというのではなく、政治文化のあり方が宗教としてのキリスト教的な様相を呈しているという意味である。その具体的な内容として、政治権力を正当化する原理としてキリスト教が機能したことがある。
 権力正当化の原理を最初に考えたのはマックス・ウェーバーで、彼の支配の三類型として、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配を提示した。人々を支配して従わせる手っ取り早い方法は暴力で、支配というものの根底には暴力がある。実際に、王朝の創始者は軍事力という暴力で人々を征服した。しかし、このような暴力による支配はきわめて不安定で脆弱なものである。つまり、人々を抑えつけるための暴力を維持するための多大なコストとエネルギーが必要となる。それゆえ、支配というものは、より少ないエネルギーとコストで安定した状態を作り出すことを求める。そのためには、人々が自発的に支配を受け容れるという、内面的な支配を求める。その手段が支配の正当性というものだ。人々が支配者に対して内面的信従を捧げるので、コストの少ない安定的な支配ができる。ある一つの文化環境の中で、支配者は被支配者から、あの人には正当性があるという信仰を持たれれば、支配は安定的になる。
 その正当性として第一に合法的支配があげられる。これは、われわれにとっての現在の正当化原理、つまり近代的国家の正当化原理でもある。憲法という基本的ルールに基づいて政府が国家を運営するというもの。第二に、本書のテーマに即しているのか伝統的支配である。これは、昔から存在する秩序と支配権力とに神聖性が存在するという信念に基づいている。つまり、昔からの伝統である。この伝統的支配のもっとも純粋な形はイエ制度、家父長的な家権力の支配である。それとともに、身分の高低、貴賤という身分的構造がある。これは封建制の典型的な形である。そして、第三にカリスマ的支配がある。ある特定の人の神聖性と、その人によって示されつくられた秩序の神聖性に対する従順さ、帰依によって成立する支配だ。ある人がしんせいであり、その人の作った社会秩序、権力秩序も神聖である。ゆえに、その人、その秩序に帰依して、その人の言うことら従う、その人の作った秩序の中で自分は従順でありたい、あるべきである、というもの。
 このような三類型、一つの政治権力が、この三つのうち一つだけにしか妥当しないということではなく、一つの政治権力は合法的支配とカリスマ的支配をミックスさせたようなものとか、いうように複合的な形で成立している。ウェーバーの支配の三類型は理念型であって、現実にある姿を抽象化したものではない。
 ヨーロッパの中世のカリスマには二種類ある。血のカリスマと官職のカリスマだ。ぜしゃは、ある特定の家の人間は、その体内に流れている血に神聖性があるというもの。ある支配者及び家族たちの間には、自分たちは被支配者とは違う神聖な血が流れていると信じられているというもの。これは、伝統的支配と言える側面がある。後者は、典型的な例がローマ教皇の職位である。職位の神聖性。というわけで、ローマ教皇の位というのは職位とみなされる。ローマ教会という組織の中の最高位の存在で、その位に就任した人間はすべてペテロの持っていたカリスマを継承する、職位に就いたがゆえに、その人にカリスマが付与されるというもの。
 これまで見てきたように、中世では政治権力に正当性を賦与するのはキリスト教であった。このキリスト教から権力の正当性が付与されるということに中世の政治文化の特徴がある。古代ギリシャ・ローマでは権力の正当性パ問題にされなかった。よい政治をすればそれでよかった。それが中世に入って正当性の問題が政治権力に問われて、それが服従の問題につながったのだった。この正当性の提供者がキリスト教で、提供を受ける政治権力はキリスト教との関係をどうしたらいいかを思考して、自分の政治的正当性を実証していこうとする。
 以上を前提にして、中世の政治状況をみていく。まずは、751年のピピンのクーデター。当時のメロヴィング朝は衰退期にあった。王はゲルマン神話に基礎をおく血のカリスマによって選ばれていたが、未成年の王が続いた。もともとゲルマン人の王は戦士集団の統率者なので、未成年者ではリーダーシップに欠ける。そこに宮宰としてピピンが登場する。彼は大貴族でもあり、実際に統治行為を行っていた。彼は、ローマ教皇に実際に権力を行使しているものが王となるべきとの言質を得て、王となりカロリング朝を創始した。このことの意味として次のようなことが言える。第一に、ローマ・カトリックの信仰を受け容れた人々がゲルマン人の中に多数存在するようになり、その人々がローマ教皇の権威を認めるようになっていた。だから、ピピンがゲルマン神話に基づく王に替わって自らが王位に就いても、ローマ教皇が正当化したのを、ゲルマン人たちが承認したのだ。つまり、ゲルマン人の政治権力正当化の原理がゲルマン神話からキリスト教に転換した。第二に政治的紛争の仲介者、調停者としての権威と資格をローマ教皇が保持していると人々が認めたということ。

 

2.キリスト教社会の成立─西ローマ帝国の復興
 ピピンの子シャルルマーニュ(カール大帝)は800年に西ローマ帝国を復活させた。フランク王国の国王としてのシャルルマーニュは自身の権力によって強引にローマ皇帝となることもできたが、それは愚策であり、西ヨーロッパのキリスト教徒の目から見て正当かつ合法的なローマ皇帝が復活したと思われないと意味がない。ローマ教皇の宗教的意図とシャルルマーニュの政治的意図が合体した結果として、ローマ教皇がシャルルマーニュに帝冠を戴かせた。これ以降中世を通して、ある人間を皇帝の位に即けるときには形式的にはローマ教皇が皇帝に任命するという形をとるようになる。これは、ローマ教皇の権威と権力を担ったものとして、その権威と権力を行使するという形をとることになる。800年以降、中世を通じて皇位が成立するということは、ローマ教皇の介在が必要とされた。皇帝は帝国の軍事的代表、ローマ教皇は聖ペテロの後継者として宗教的代表として、別々の機能と責任を同一の組織エクレンシア(教会)で担った。これは近代人の発送では、政治の宗教の分離ということが常識となっているが、中世ではそうではなく、この二つは一体だった。ローマ教皇と皇帝は同一の組織体の中で異なる機能と責任を持つものとされていた。このことは後代になって、ローマ教皇に当事者能力に欠け責任能力がないと判断された場合に工程が宗教の問題に対する最高責任者として行動したり、逆にローマ教皇が帝国の政治問題に乗り出すことになった。帝国と教会とは同心円的関係にあった。古代ローマでは皇帝に権力を与えたのはローマ市民だったが、シャルルマーニュに権力を与えたのはローマ教会だった。
 他方、シャルルマーニュの実質的な権力基盤はローマではなくアルプス以北にあった。シャルルマーニュが身につけたローマ皇帝という称号は実質的には普遍的権威ではなかった。デ・ユーレ(法的)には普遍であっても、デ・ファクト―(事実として)には普遍ではなかった。これは矛盾ではあるが、この矛盾枷矛盾としててい゛視されないも人々には自覚されない時期が中世だと言える。このシャルルマーニュの篆刻がヨーロッパ中世の枠組みをつくったと言える。そのシャルルマーニュの帝国は、彼の死後分裂が始まる。それにもかかわらず、彼が復興させた帝国という理念は、その後もヨーロッパ・キリスト教世界を統一するものとして生き続けた。

 

3.キリスト教と政治
 キリスト教は政治とどういうかかわりをもった宗教だったのか。
(1)キリスト教の政治に対する親和性
 親和性というのは、例えば、AとBという二つの存在について、当初はまったく無関係だが、たまたまそれぞれが持っている個性や特性が相互に積極的な関係をもつ可能性があることを言う。政治と宗教が出くわすのは歴史的には偶然であっても、双方に親和性があると、二つは対立、緊張関係を孕みつつも、相互補完の関係に入る。政治と宗教がそれぞれ自分の足りないものを相手に求め、そして無相手のないもので自分にあるものを提供するという相互補完の関係となる。とくにキリスト教については、第一に、キリスト教の教義が政治とは無関係でありながら、様相がよく似ている。例えば、神一人が宇宙の創造者であり支配者であるというが、創造者とか支配者といった用語は政治的用語でもある。第二に、キリスト教は秩序とか関係性やその在り方を重視する。神が主であり、人間が従であるという関係を重視する。人間自身が人間主人であるのは人間の傲慢であるという。この観点からは、秩序とか関係が正しい関係に置かれることは正義であり、正しくない場合は罪になるという。そして第三に、キリスト教は共同体を重視し、育成した。共同体とは教会のことだ。キリスト教は神秘主義的に一人一人が神と直結するという宗教ではなく、信徒全体が共同体をつくって神を礼拝するという宗教だった。したがって、共同体性の強い宗教である。この共同体を重視することから、必然的に、この世のあり方、現実社会のあり方を問うことが起こる。それは、教会と現実社会との関係を問うことになる。これらのことから、キリスト教は、この世の秩序や現実社会のあり方に強い関心を持っている。
(2)普遍性を志向する宗教
 キリスト教の特徴として普遍性を志向する宗教であるということがある。その教義において、人類全体を罪という拘束から解放するということを主眼にしている。これは人類全体であって、自分ひとりあるいは家族のみの救済というのではない。普遍性を志向するということは、すべての人々は顔つきも性格も身分も人種も違うけれど、キリストにおいて人々が一つにまとめられ統合される。そこに普遍性がある。当時の他の宗教は普遍的ではなく特殊的であり、例えば特定の民族だけが救済されるといったように。
(3)ラテン・キリスト教の政治思想史的意義
 宗教と政治の癒着を拒否する、これが第一。政治と宗教の癒着は、あらゆる宗教で見られる。その典型は、政治的最高権力者を神格化することだ。キリスト教は、これを否定した。第二に、政治権力の相対化である。政治権力というのは、しょせん人間が人間社会の中を秩序化するためのものであって、絶対的なものではない、絶対的なものは神だけである。これは、政治が道徳や信仰の問題に介入することを拒否した。第三に、皇帝教皇主義の否定である。国家権力者が教会・宗教問題を政治的統治の分野のものとして取り扱う思想、政治のあり方を否定した。ローマ教会は、政治権力とは無関係な形態で発達し、みずからが権威・権力となって世界政治の権威・権力と対決しながら、それと相互補完の関係に入って行った。その一方で、信仰や道徳の分野は、宗教の領域とする文化を確立した。欧米の国家権力が宗教・道徳から中立となった原因は、ここにある。

 

2025年3月17日 (月)

鷲見誠一「中世政治思想史講義」(2)~序章 日本人にとってヨーロッパ中世とは?

 近代の日本は、ヨーロッパ文化を受容することによって近代国家をつくった。それは、ヨーロッパ文化の高さに憧れたわけではなく、先進国である列強を追いかけたにすぎない。日本はもともと外来文化を取り入れて自分の文化として骨肉化してきた。だから、ヨーロッパ文化は近代日本にとって異質なものではなかった。とはいえ、その結果である現代の日本でヨーロッパ文化の本質的な部分を理解しているとは言えないのではないか。
 ヨーロッパ文化の中核は11世紀から12世紀にかけてつくられたものだ。ヨーロッパ文化と一概にいうけれど、これは、古代ギリシャの哲学、古代ローマの法律・政治の理念と制度、キリスト教の信仰、ゲルマン人の民族的慣習の四つが絡み合って渾然一体となったものである。そこに見られる、ヨーロッパ文化の独自性が、普遍的にして超越的なものを志向する激しい意志と密接不可分な形で成立した合理性である。合理性とは、理性の方法的自覚化ということと精神の自覚的方法化である。合理性は合理的思考とは違う。合理的思考はコストを最小限に抑えて利益を最大限するというもの。これに対して合理性は理性の活動それ自体に意味があり、その理性の活動を徹底的に究明していくというもので、例えば、学問である。天文観察技術は各地の文明で発達したが天文学という学問体系は成立しなかった。この背景には理性の活動を妨害する魔術に頼る思考から解放されることが必要だった。魔術とは、自分たちの幸福も不幸も自分たち以外の超越的な力からくるものだという思考だ。その典型的なものが神だ。それは、人間の本質的な思考と言えるかもしれないが、この魔術から人間を解放しようとしたのが16世紀以降のヨーロッパだった。
 魔術の追放が行われる素地は一神教にある。とりわけ、人格神を信仰する宗教、つまりキリスト教にある。一人の人格神を人々が完全に信じ、従う時に魔術拒否が起こる。神以外の存在、神以外の能力を信頼することは、自分たちの信じている一神教の神に対して不誠実、無節操を意味することになるからだ。16世紀のキリスト教徒は、神を信じていながら魔術を使い自分たちの災いを回避するというのは、神の能力を拘束することになると、あるいは神の持つ全知全能を拒否し否定することを意味すると知らえた。言ってみれば、信じている神に対して不誠実になる。
 一方、キリスト教はもともと密儀宗教でも神秘宗教でもない。聖書という定義の明確な言葉によって書かれたものが信仰の基準であった普遍的宗教だった。この場合の普遍的という意味は、いつでも、どこでも、誰でも信じようと意志する者は受け入れられるという意味だ。信仰は教会という組織で行われる。教会という組織を合理的に運営する聖職者を養成し、合理的な運営ルールをつくるという合理性があった。
このような傾向のスタートが中世にあった。それが本書の出発点である。

2025年3月16日 (日)

鷲見誠一「中世政治思想史講義」

11112_20250323214601  社会とは神が人間に与えた秩序であり、その安定と維持こそが中世キリスト教世界における政治であった。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝という二つの中心が社会的機能と責任を担う。だが、時に激しく対立し、グレゴリウス改革や叙任権闘争を極点として、統治の本質が根底から問われる事態へと発展する。聖書解釈に基づく両者の理論対決は、政治思想の錬磨を促さずにはおかない。普遍的で超越的なものを志向する意志と密接不可分な「合理性」がここに芽生え、やがてそれがヨーロッパ人の思惟構造を形づくっていくのである。
 中世は宗教と政治は区別されてはいたが、未分化でもあるという曖昧な社会だった。例えば、神聖ローマ帝国や封建領主は統治に際して読み書きや計算ができるように知識のある人材を持てず、聖職者に頼ることになった。もともと、キリスト教には政治的な性格があり、教会の運営は法に基づき、教皇をトップとする集権的な統治体制がつくられ、形の上では近代的な国家に似ている。そうなると、聖職者の世俗化が生じ、危機感を持った教会がグレゴリウス改革を行う。そこで、教会は世俗を切り捨て宗教的権威への純化に傾く。その結果、宗教面ではロ―マ教会、世俗面では神聖ローマ帝国という二つの中心による楕円形社会が形成される。それは普遍の社会でもある。しかし、フランスやイギリスといった各地の封建王制が勃興し、ヨーロッパという普遍に対する各国という特殊に重点が移る。それが、中世の普遍社会の崩壊を招くことになる。
 例えば、社会とは神が人間に与えた秩序であり、その安定と維持こそ重要という中世の社会では、そういう秩序を変えることになるという点で、例えばイノベーションとか改革などというのは神の造った既存の秩序を破壊するから、神への冒涜ということになる。それは普遍の考え方で、それが、特殊、例えば、フランスは14世紀にイギリスと百年戦争を戦った。このときの戦費の調達のために税金が必要で、そのために新たな税をつくったり、税制の改定が必要となる。それは、既存の法をかえることになる。そこで、普遍に対する特殊ということで、神の秩序ではない、人が秩序をつくっていくことに替わっていく。それは中世の考え方の崩壊につながるものでもあった。これは、既存の秩序を変えないというのが、ずっと続いた日本とは大きく違う。日本の場合は、黒船襲来で、その考え方を変えさせられたわけだが・・・

 

2025年3月15日 (土)

佐藤優「神学の思考─キリスト教とは何か」(5)~キリスト論

「イエス・キリスト」とは誰か
 キリスト教は、イエス・キリストが救い主であるという信仰によって成り立っている。だから、キリスト論は教義学の中核である。その論じ方としては、実証的に史的イエスを研究するのは行き詰まったので、教会の宣教内容からイエス・キリストについて考察する。したがって、キリストというのは宣教されたキリストなのである。とりわれ、原始キリスト教の宣教者が宣教したキリスト。キリスト教の真理性は、史的イエスの探求のような近代的な客観性や実証性によって担保される歴史学の枠組みを超越したところにある。宣教によるキリストは史的イエスの探求が限界に至ったところでリアリティを持つ。

 

真の神の子であり真の人間であるイエス・キリスト
 キリスト教は人間との媒介を持たない神では、原罪を持った人間が救われるという根拠を得ることができないので、イエス・キリストが真の神で、真の人であるということが必要となってくる。

 

 福音書の著者たちにとって、イエスの生涯を時系列で正確に記述するという発想は全くなかった。イエスを信じることによって救われるということを著者たちは伝えたかったのだ。

 

21世紀にキリスト教神学は何ができるのか
 ナザレのイエスが救い主キリストであるというのが、キリスト教信仰の核心である。したがって、キリスト教神学の任務は、この核心的事柄を学術、科学といった体系知の言葉を用いて表現することである。しかし、この課題にすでに根本的矛盾が含まれている。我々人間は、様々な点で限界がある。限界のある人間が、限界のない神について語ることはできない。人間が神について語ることは原理的に不可能だ。しかし、われわれは神について語らなくてはならない。神学は不可能の可能性に挑むという性格を常に帯びている。
 神と人間は創造者と被造物という区別がある。この世界は神によって造られたのだから、実在する。この世界の実在性には、人間の智恵が及ばない彼方からの力によって担保されている。そのことを認める場合に、我々は世界の現実を認識することができる。したがって、神学は理性を出発点とはしない。しかし、それは究極的なところだ。例えば、資本主義社会を分析するためには、マルクスの資本論を用いて資本主義システムを対象として認識できる。その上で資本主義に対して、われわれがどういう姿勢をとるかは神学的問題となる。それが人間存在の究極性と関係するキリスト教社会倫理の問題になるからだ。
 これから先はちょっと・・・

 

2025年3月13日 (木)

佐藤優「神学の思考─キリスト教とは何か」(4)~人間論

人間とは何か
 人間論は創造論に含めて考えることもできる。人間も神によって造られたからである。人間は原罪を負っている。したがって、神の恩寵にあずからない。自然のままの人間にキリスト教は肯定的価値を付与しない。キリスト教神学にとって、自然のままの人間性を尊重するヒューマニズムは否定的概念である。キリスト教は人間の良心に積極的な価値を付与しない。良心は、人間の内部の力によって担保されているのではない。あくまでも外部からの、神の啓示によって人間の良心が呼び出されるというもの。神からの召命を抜きに人間の良心は成立しない。
 人間は、神の前に立つことができる存在として、神によって造られたから、他の被造物から区別される。人間に特権的な位置を与えるのがキリスト教的人間観の特徴である。人間は、神が創造者であることを知ることによって、己が被造物であることを知る。言い換えるなら、自らが被造物であることを認識することなくして、人間が神を知ることはできない。そして、神について、われわれは、イエス・キリストを通してのみ、知ることができる。だから、人間の創造についても、イエス・キリストが人間とどのような関係を持ったかという出来事との類比で理解する以外の術はない。
 イエスは、神からの呼びかけに対して誠実に応えた。そこから類比すると、人間は神に呼び出されたときに応える責任がある。神の愛に対して、イエスも愛によって応えた。したがって、愛という関係がわれわれが読み解く神の似姿なのである。つまり、創世記の人間が神の姿に似せて造られたという神の似姿というのは鏡に映った像のようなものではなく、神の呼びかけに対する人間の主体的な反応を意味している。
 人間の自由が神によって与えられたものであるということは、人間は神によって拘束されているということだ。だから、人間は自らの持つ時間に限界がある。この一点からしても、人間が無制限の自由を持つことはない。人間の自由は死によって、時間的に制約されている。一方、その自由を神の側から見ると、神は自らの栄光に人間が奉仕するために、人間に自由を与えた。だから、人間は自らの自由を神の栄光のために用いなくてはならない。

 

2025年3月12日 (水)

佐藤優「神学の思考─キリスト教とは何か」(3)~創造論

神が造った世界に、なぜ悪があるのか
 神論と創造論は近接している。なぜなら、神がこの世界を造ったからである。
 本書では創造論について、神が造った世界になぜ悪があるのか、という切り口で議論を始める。神は聖なる存在だが、その神によって造られたこの世界には悪がある。さらに人間は苦難の中で生きていくことを余儀なくされている。神の善とこの世の悪との関係をどのように理解するか。神学には神が悪を造ったのかいなかという問題は存在しない。神が悪を造ることはあり得ず、神には一切この世の悪に対する責任はないことは決まっているからだ。
 古代や中世では、悪は人間の原罪に起因するものであり、それはイエス・キリストの贖により克服され始めていると考えられていた。現在の人間の世界は悪に満ちているが、キリストが再臨する終わりの時に克服されると信じられていた。それが、近代の啓蒙主義により天上に神がいないことが明らかになり、神の存在に疑念がでてきたとこで、悪が問題化したのだった。
 カトリック神学では悪を善の欠如と定義する。人間は原罪を持っているが、イエス・キリストの誕生によって贖われていると考えるので、根源となる悪は存在しない。このことは教会によって維持されているので、教会に所属することによって確実に救われる。これに対して、プロテスタント神学では教会には見える教会と見えない教会があり、地上の教会は前者であり、本物の教会と悪魔の手先の違いは分からない。最後の審判の時に、はじめて見えない教会のメンバーが明らかになる。プロテスタントでは見える教会に属するローマ教会に救いの根拠はない。それは、自分たちプロテスタントが属している教会こそが救いの根拠であるという信仰の裏返しでもある。
 そういう神義論に関しては理論的神義論と実践的神義論があり、その区別は次の二つの問いと関わっている。ひとつは、道徳的悪それ自体は理解可能となるだろうか。もうひとつは、悪の事実を前にして、有神論は理解可能だろうか。理論的神義論には、自由意志弁護説、自然法神義論、プセス神義論、霊魂形成的神義論という四つの方法論がある。自由意志弁護説は、神は全能であるのと悪は存在することを両立させるため、人間が自由で理性的であるかせゆえに存在する、とする。この世の悪に対する責任が神にないならば、その責任は人間ある。しかし、人間も神によって造られたのであって、その人間がもたらす悪から神を免責するたに人間の自由意志が持ち出された。ただし、これでは救済とは結びつかない。第二の自然法神義論は、悪を人間に対する試練と位置づけている。しかし、これは悪が克服できるという前提があるのであり、克服がむずかしい巨悪には対応できない。第三のプロセス神義論は、神をプロセスとして捉え、この世において、神が自らの力を制限していることに悪の起源を求めている。
 著者は、カール・バルトとフロマートカの立場に立って神義論についての考察を進める。彼らは悪を虚無的なものと捉える。虚無的なものは神秘的な力を持つ。そこから、神が意志しなかったことが、人間が生きているこの世界に現われていると考える。

 

神が去った世界に、人間は造られた
 プロセス神義論から派生して創造に対する視野の転換する考えがある。神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮し、空いた隙間に人間の世界ができた。そこは神が不在の世界なので、人間が何かをして悪を生み出すのは当然であり、それに対して神は何の責任も負っていない。神のやったことは、自己撤退して場を造っただけである。
 つまり、神は人間と自然を自らの外部に造り出したと考える。そうすると、神は人間と自然がない領域には偏在していないことになる。そのような神が支配していない領域、すなわち神の主権が及ばない領域が存在することになる。このことは、神が自らの力を制限したことで説明される。そのような収縮の後にできた空間で人間が造られたと考える。被造物である人間には、神の収縮が外部から神による創造が為されたように見える。つまり、創造は神の外部になされたのではなく、神の内部で起きたことになる。ここにおいて、外部から創造がなされたという発想の転換が必要となる。
 神が収縮したのは、神の意志による。つまり、神は自らの場を人間に明け渡した。神が収縮した結果、神が存在しない空間が生じる。人間の自由意志は、この空間で悪を造りだした。この人間の悪事に対して神は責任を負わない。悪が生起する場所は、すでに神が去った場所だから。これが、われわれの生きている世界の現実だというわけ。この世界に存在する悪は人間に責任があるにもかかわらず、神は人間を愛し続けているがゆえに、人間を救済するイエス・キリストを派遣した。

 

なぜ神の創造した世界に終わりがくるのか
 創造において収縮した神が、収縮という自己限定を放棄して、われわれの生きる虚無の世界を埋めるときが、終末である。世界の端緒を扱う創造論と、世界の終末について語る終末論とは論理的に対をなしている。
 信仰に基づいて神から一方的に恩恵として与えられる義務は、聖霊の力によって与えられる。このように聖霊に満たされた人にとっては、地上における価値の逆転が起こる。したがって、人間が直面する苦難がキリスト教徒にとっては自由に転換する。
 悪は、神が収縮し、その結果できた場所で人間が自由に生きているという現実から導かれる必然的な帰結である。しかし、人間は神の操り人形ではない。人間は自由を持っている。人間の自由から悪が生まれる。しかし、このことによって、神は無力であるとは言えない。神は、聖霊により人間に希望を抱かせることを通じて、神を信じる人間を通じて、人間とこの世界に強く働きかけている。神が人間を通じて歴史的現実を変化させている。ここでキリスト教の復活信仰が意味を持ってくる。それは、復活を信じるキリスト教徒は自らのこの世の命を犠牲にしてでも、悪と戦っていく気構えを持つことができるからである。キリスト教の復活信仰は、究極的に生者と死者の差別を克服することによって、過去と未来を現在に吸収していく機能を果たしている。キリスト教神学にとって、創造と復活は切り離すことができない現象なのだ。神は人間を愛している。たから、終末の時には必ず人間を救済する。ただし、ここでいう人間は、すべての人間ではなく、神によって選ばれた人のみである。キリストによる復活の視座から考えることによってのみ、創造と救済を結びつけることができる。

 

2025年3月11日 (火)

佐藤優「神学の思考─キリスト教とは何か」(2)~神論

神についてどのように語るか
 キリスト教は一神教に属する。ただし、ただ唯一の神のみを信じる唯一神教ではない。これに呼応してキリスト教神学には、父なる神、子なる神、聖霊なる神によって表わされる三位一体論がある。さらに、イエス・キリストは、真の神であり、真の人であるという神人としての特別の地位が与えられている。このように三位一体論とキリストに、神学の独自性が現われている。これらについては、理性を基準にする近代的な学術的手法によっては解明できない。別の独自の論理を体得しないと理解できない。
 例えば、キリスト教神学では、「神は存在するのか」という問いかけは、それ自体が成立しない。「神は存在するのか」という問題設定は、人間の理性を基礎にする哲学的なアプローチであり、哲学的な方法によって神を捉えることはできない、というが神学の基本的立場なのである。神学では、神の存在は大前提として、神の啓示に虚心坦懐に耳を傾けることが中心課題になる。神学にとって重要なのは、人間の側の論理ではなく、神の側からの論理なのだ。人間は神ではないので、神の論理を体得することはできない。人間の制約された力によって、人間とは質的に決定的に異なる神について語ることは、本来的に不可能なのだ。しかし、神学はその不可能なことに従事せよと、人間である神学者に命じる。神学とは不可能の可能性に挑むことなのである。
 神の存在は、神の自己証言によって明らかになる。この自己証言を、キリスト教神学では啓示と呼ぶ。啓示は、人間の理性を超越した神からの働きかけである。したがって、人間の理性を基礎にする哲学によって、啓示を理解することはできない。ただし、人間は神からの啓示に応えることができる。啓示に応えるという形で、人間は神を知るのだ。神が啓示を行うか否かは、人間とは全く関係のない神の自由だ。だから、神の存在は自由によって基礎づけられる。ここには、神の自由に基づく強力な意志がある。この意志に気づくことができることが、神学に必要なのだ。
 そして、神が人間に与えた最大の啓示がイエス・キリストである。キリスト教神学では、イエスが救済主であることを認めることによって、神の現実存在を承認する。イエス・キリストを経由しない神認識はあり得ない。
 三位一体論について、その表現自体は聖書にはない。この表現は教父時代の造語であるという。神は人間とこの世界に働きかける動的な性格を帯びている。したがって、神は、神として自足していることに満足せずに、人間を救済するために具体的な歴史に姿を浦和す。これは神の愛に基づく運動であり、このような神が参与する歴史を神学では救済史と呼ぶ。この救済史を成り立たせるたには三位一体論が必要となる。これが内在的三位一体である。三位一体の別の切り口として経綸的三位一体論がある。内在的で、永遠において構造を明らかにされた神が、現実の時間の中に自らを投入して(イエス・キリストが1世紀のパレスチナの地に人間として現われ十字架上で死んだこと)、内在的三位一体論で示された神の救済に関する計画を現実の歴史において実現するという切り口から考察するのが経綸的三位一体論である。

 

自由でダイナミックな、生成する神
 キリスト教における神は静的な存在ではなく、人間とこの世界に働きかける動的な性格を帯びている。神の存在は生成において捉えられる。神は説得を通して人間に働きかける。生成においてあるとは、神がひとつところにとどまっておらず、常に動き、働きかけ、変わり続けているということである。神がいつも歩くか、走るかしているというイメージ。それゆえ、人間関係においても、神はいつも具体的人間関係に働きかけ、人間はそれに応え、動くことになる。すべての事柄が静止せず動きつづけるから変化していく、というのがポイントとなる。
 その神と人間が出あう瞬間が召命である。召命とは、人間が神の言葉に触れなれば起きない現象だ。教会は召命によって成り立つ。教会の主体は人間ではなく神だ。神の意志によって呼び集められたという意識を持つ人々による共同体がキリスト教会なのだ。人間がこの共同体に参加したいと思っていなくても、外部からの見えない力によって、教会に呼び集められる。だから、召命は人生を支配するものであった。それゆえ、信仰は決断ではなく、決断というような人間の意思を木端微塵に粉砕してしまう圧倒的な力が神に言葉に備わっている。召命は人間の理性や意志など内部から生じるものではなく、人間の手の届かない超越的な外部から召命の声が聞こえてくるというものだ。信仰は召命から始まるのだ。
 神が名指しすることによって、名指しされた人間は、その全人格的責任を負って応答する義務を持つ。これが召命の本質である。人間は自由意志を持つ。その自由意志によって神の呼びかけを拒否することもできる。しかし、それは神に対する反逆であり、呼び出された人の破滅を意味する。神の召命に対して無条件に従うことが人間化された義務。この義務は人間の理性を超えたところで要請される。召命に関する一般論は存在しない。召命を通じて神が具体的な人間と構築した関係から類比して、われわれは神の意志を知る。

 

2025年3月10日 (月)

佐藤優「神学の思考─キリスト教とは何か」

なぜいまキリスト教を学ぶのか
11113_20250310233301  本書が想定する読者は、読書が好きな標準的な日本人で、キリスト教に関係する専門知識を持っている人ではない。
 キリスト教は、救済を目的とする宗教である。真の神であり真の人であるイエス・キリストが唯一の救い主であることを信じることによって救われる宗教である。救済は、人間にとって主体的な問題である。キリスト教の場合は、神からの人間に対する呼びかけにどう答えるかが、問題の核心となる。それだから、キリスト教について、純粋に客観的なアプローチはない。主体的な参与を必要とする事柄に関して、純粋客観的な記述をするということは、範疇が異なるので不可能だ。純粋客観的にキリスト教という現象を観察しても、キリスト教を知ることはできない。
 神について言葉で表現するのが神学である。しかし、神を定義することはできない。人間の限られた知恵で定義できるような神は、キリスト教が信じる神ではないからである。人間と神とは質的に異なるのであり、有限な人間が無限な神について、本来、語ることはできない。それにもかかわらず、人間は神について語らなければならない。この緊張関係から神学は生まれた。
 キリスト教は、人間が原罪を持っていると考える。それゆえ、人間が造りだした文化や社会制度に肯定的価値を付与することは、根源においてできない。キリスト教の本質はアンチ・ヒューマニズムであり、神に触れることのない人間だけのヒューマニズムには、肯定的価値を付与しないのだ。

 

キリスト教神学の方法論
 キリスト教神学の社会学のように距離をおいて客観的に眺めるというのではない。キリスト教神学のアプローチとは、人間の救いを神に求めることである。キリスト教は、人間の知性を信用しない。それゆえ、学識や科学技術に対して究極的な信頼を寄せない。また、キリスト教は人生は苦しいものと考え、人間を苦しみから解放することを目的とする。この意味で、キリスト教は救済宗教なのだ。人間が実際に生きているこの世、すなわち此岸の問題を解決することによって、救済を考えていくというのがキリスト教の基本的なアプローチだ。救済を知識としてではなく、自らの人生の問題として受け止めることが重要で、神学には人間の救済に役立つという目的が常にある。
 神学的思考で特徴的なのは類比を用いて語るということだ。例えば、神が世界を創造したという事実は、神と世界の間の基本的な存在の類比を指し示しているという。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との連続性がある。つまり、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いる。というものだ。あるいは「神は我々の父である」という言葉は、神は父親に類比的だと理解される。神は人間の父親が子どもに配慮するように我々に配慮する。神は我々存在の究極的な源であり、それはちょうど我々の父親が我々を存在させるのと同様である。このように人間の父親について考えることが神について考える助けになる。このような類比は神について考えるうえで、我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にそれらを超えているものを記述できるようになるのである。

 

2025年3月 9日 (日)

南桂子展─小さな雲

2025年3月 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション
Minamipos  昼過ぎまで、近代美術館でヒルマ・アフ・クリント展を堪能したが、中途半端な時間か余ってしまった。せっかく都心に出てきたからと、しかし、充実した展示に疲れもある。もうひとつ、展覧会をはしごするほどの気力は残っていない。そこで、小規模なものはないかということで、前々から興味を持っていた、小さな美術館、ミュゼ浜口陽三に行ってみることにした。
 ヤマサ醤油の創業家に生まれた浜口陽三という銅版画家の作品を紹介する個人美術館という。地下鉄水天宮駅の出口すぐのところ。大通りから、少し入って、ガラス張りの外観は、美術館というよりカフェテラスのよう。展示スペースは狭いくらいで、壁面に展示された作品を数分で見通せてしまう程度。螺旋階段を下りて地下にも展示室がある。ゆっくり個々の作品を眺めても30分もあれば、すべて見ることができます。
そこで、展示されていたのが、浜口陽三の夫人であった南桂子の版画作品。展覧会チラシにあったあいさつを引用します。“近年、静かに人気が広がっている銅版画家・南桂子(1911~2004)の展覧会を開催します。南の作品の中には、見おとしてしまいそうな雲や舟や鳥が静かに佇んでいます。どの絵にも同じかたちは一つもなく、それぞれが作品世界をつくる大切な要素です。ひとつひとつの小さなモチーフが、満ち足りた空間で永遠に過ごしています。ぽつんと浮かぶ雲は、見知らぬ国を颯爽と旅するようにも、そこに留まりじっと何かを待っているようにも見えます。自由や孤独─雲の見え方は人によって違うかもしれません。どこまでも広がる澄んだ空に想像力をのせてご鑑賞ください。南作品は銅版画を中心に、リトグラフや油彩も交えて約50点、浜口陽三約10点の構成です。
 作品を見ていきましょう。
Minamicloud  「山の村」という展覧会チラシでも使われている1989年の作品です。展覧会のサブ・タイトルにもなっている小さな雲が画面左上に浮かんでいます。フワフワした雲というより、空飛ぶ円盤みたいです。しかも、その外形の円盤型が内側に何重にも埋めるように点が打たれています。その下の山は、グレーの半円が積み重なって半円形の山ができています。しかも、見重なっている半円の内側には細かな点が縦の列で打たれ、半円と半円の隙間には細かな十字がぎっしり並んで詰められている。上のあいさつの中で“ぽつんと浮かぶ雲は、見知らぬ国を颯爽と旅するようにも、そこに留まりじっと何かを待っているようにも見えます。”とありますが、そういう物語的な想像をさせるようなものには、見えなくて、むしろ無機的というのか、細かな粒子で構成された、デジタルな印象を受けます。銅板に傷をつけるという銅版画という制約からしかたないのでしょうか。しかし、同時に展示されていた浜口陽三の作品からは、そういう細かさとか無機的な印象は受けませんでした。この細かな印象は意図的なのでしょうか。これだけ細かいと、一つの作品を仕上げるまでには相当な時間がかかるはずです。しかし、会場には、この人の作品集が置いてありましたが、作品数は多い。だから、この人は、細かな作業を四六時中続けていたと思います。そこには、あいさつの言葉にあるような、ほっこりとした、のんびりとしたようなものではなく、緻密に、正確に、確信をもって銅板に傷をつけなければならないものだったと思います。銅板に傷をつけるエッチングはやり直しが利きません。曖昧さは許されず、確信を持って線を引き、点を打たなければならないはずです。だから、中身を規則正しいほどに、点が打たれている、この人の作品には、あいまいさを排除した、ある種の断念というか、ストイックさを見てしまうのです。
Minamipurple  「紫色のシャトー」という1977年の作品です。前に見た「山の村」の山の真ん中の村もそうですが、南の作品にはヨーロッパの中世風の建物、遊園地のメルヘンチックな拵えもののような建物がよく描かれています。様式化といってもいいと思います。しかし、例えば、シャトーの屋根を見れば、瓦の一つ一つが、壁の板の一枚一枚が細かく描き込まれています。また、建物の背景の丘は「山の村」での山と同じように半円の積み重ねで、その一つ一つの半円には内側に細かな点が縦の列で打たれています。前景の木々は、細い枝とその間に葉がびっしりと描き込まれています。これらは、様式化され、単純な形が規則正しく並んでいます。結局は、細かく描き込まれているのは、単純な形態の反復なのです。その細かさと反復の回数は、気の遠くなるほどですが。南という人は、リアルに人や風景を描こうとか、イメージを創造して表現しようとかいう人ではなくて、単純なことをひたすら繰り返すひとではないかと思えるのです。ですから、この人の作品の本質的なところは、繰り返すという行為にあるのであって、出来上がった作品は、その結果にすぎない。そう見えます。それゆえか、ヨーロッパの古代遺跡のモザイク壁画やタペストリーに近いものではないかとおもうのです。だから、画面には生きいきしたところとか動きはなく、むしろ静的である。
Minamitree  「少女と木」という1965年の作品です。南の作品には、少女というモチーフがよく見られます。それが、みな同じようなのです。他にも「エトルタの海岸」という1980年の作品でも、少女はほとんど同じ姿です。しかも、少女をモチーフにする場合の、ありがちな可愛らしい姿とは言えません。それどころか、よく見ると眉毛から鼻のラインが一体化されTの字になっていて、口も福笑いのようなおちょぼ口が付けられているだけで、表情に乏しい感情表現を忘れてしまったかのようです。しかも、展示してある作品では「2人の少女と蝶」以外の作品では、少女は一人です。普通に言葉で説明したら、不気味な作品と受け取られても不思議ではありません。それがそうではないのは、表現が写実的ではない、というか様式化、もっというと抽象化されているからでしょうか。少女というパーツも反復されるもので、それはひとつの作品内ではなく、いくつもの作品にわたって反復されるものではないかと思います。
 南のそれぞれ作品にわたって表われる遠い丘の上の城や聖堂、まっすぐに立つ樹とそこにとまる鳥、小動物を抱え無言で佇む少女たちは、反復というプロセスがまずあって、それに適した題材や形ができあがり、それらによって作品が出来上がっている、いえるのではないかと思います。それゆえに、意味とか理由とか描かれた背景といったこととは無縁の、意味を求めるような作品ではないではないかと思います。

 

2025年3月 8日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(9)~オマハの株主総会

 5月3日、オマハでご一緒できることを楽しみにしています。今年は多少変更されたスケジュールに従っていますが、基本は変わりません。私たちの目標は、皆さんが多くの質問に答え、友人とつながり、オマハに良い印象を持って帰っていただくことです。オマハ市は皆様のお越しをお待ちしています。
 お財布を軽くし、一日を明るくしてくれるバークシャー製品の数々を、いつもと同じボランティア・グループでご提供いたします。例年通り、金曜日は正午から午後5時まで営業し、愛嬌たっぷりのスクイッシュマローズ、フルーツ・オブ・ザ・ルームのアンダーウェア、ブルックスのランニングシューズなど、魅力的な商品を多数ご用意しております。
 今回も販売は1冊のみ。昨年は『Poor Charlie's Almanack』をご紹介し、土曜日の営業終了前に5,000冊が売り切れました。
今年は『バークシャー・ハサウェイの60年』を販売します。2015年、私は、年次総会の活動の多くを管理するという多くの職務を担っていたキャリー ソバに、バークシャーの楽しい歴史をまとめるよう依頼しました。彼女は想像力を存分に発揮させ、その独創性、内容、デザインに驚かされる本を作り上げました。
 その後、キャリーはバークシャーを離れ、子育てを始めました。今では3人の子供がいます。しかし、毎年夏になると、バークシャーのオフィスのスタッフが集まり、オマハ・ストーム・チェイサーズがスリーAの相手と野球をするのを観戦します。私は数人の卒業生に誘ってみますが、キャリーはたいてい家族と一緒に来てくれます。今年のイベントで、私は大胆にも、これまでほとんど公表されていなかったチャーリーの写真、名言、ストーリーを特集した 60 周年記念号を出版して欲しいと頼みました。
 3人の幼い子供を抱えながらも、キャリーはすぐに「はい」と答えました。その結果、金曜日の午後と土曜日の午前7時から午後4時まで、新刊5,000部を販売する予定です。
 キャリーは、新しい「チャーリー」版の膨大な作業に対する報酬を一切受け取りませんでした。私は、サウスオマハのホームレスの大人と子供を支援するスティーブン・センターに5,000ドルを寄付する株主に彼女と私が連名のサイン本を20冊贈ることを提案しました。私の長年の友人でありキャリーの祖父でもあるビル・カイザー・シニアから始まるカイザー家は、何十年にもわたりこの価値ある組織を支援してきました。サイン本20冊の販売で集まった金額に同額を私が寄付します。
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 ベッキー・クイックが土曜日に開催される私たちの集まりを取材します。ベッキーはバークシャーについて熟知しており、常に経営者、投資家、株主、そして時には有名人との興味深いインタビューを企画します。彼女と彼女の CNBCクルーは、私たちの会議を世界中に中継し、バークシャー関連の資料をアーカイブするという素晴らしい仕事をしています。アーカイブのアイデアは、ディレクターのスティーブ・バークの功績です。
 今年は映画は上映せず、少し早めに午前8時に集まります。私は冒頭の挨拶を少し述べ、その後すぐに質疑応答に移り、ベッキーと聴衆が交互に質問します。
 グレッグとアジットも私と一緒に質問に答え、午前10時30分に30分の休憩を取ります。午前11時に再び集合すると、グレッグだけがステージに上がります。今年は午後1時に解散しますが、展示エリアでのショッピングは午後4時まで可能です。
週末のアクティビティの詳細は16ページをご覧ください。特に、日曜日の朝に開催されるいつも人気のブルックス・ランに注目してください。(私は寝ます。)
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 昨年書いた私の賢くて美貌の妹バーティも、同じく美貌の娘2人と共に出席します。このまばゆいばかりの結果を生み出す遺伝子は、家系の女性側だけに流れている、というのが観察者の一致した意見です。(涙)。
 バーティは現在91歳で、私たちは日曜日に旧式の電話を使って定期的に話をしています。私たちは老いの喜びをカバーし、杖の相対的な利点など刺激的な話題について話し合う。私の場合、杖の効用は顔から転ばないようにすることくらいです。
 しかしバーティは、いつも私より優位に立って、自分にはもうひとつのメリットがあると主張します。女性が杖を使うと、男性は彼女に「言い寄らなくなる」と彼女は言います。バーティの説明は、男性の自尊心は杖をついたおばあさんには向いていないということです。今のところ、彼女の主張に反論できるデータはありません。
 しかし、私は疑念を抱いています。会議ではステージからはあまり見えませんので、出席者はバーティから目を離さないでください。杖が本当に役に立っているかどうか教えてください。彼女は男性に囲まれているに違いありません。ある年齢の人にとって、このシーンは『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラと彼女の大勢の男性ファンの記憶をよみがえらせるでしょう。
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 バークシャー社の取締役と私も、皆さんがオマハに来られることを大変嬉しく思っており、きっと楽しい時間を過ごし、新しい友人もできると思います。

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(8)~バークシャーは日本への投資を増加します。

 米国を中心とする私たちの小さな、しかし重要な例外は、日本への投資の拡大です。
 バークシャーが、バークシャー自身と似たやり方で非常にうまく経営している日本企業5社の株式を購入し始めてから、ほぼ6年が経ちます。その5社とは、(アルファベット順に) 伊藤忠、丸紅、三菱、三井、住友です。これらの大企業はそれぞれ、さまざまな事業に株式を保有しており、その多くは日本に拠点を置いていますが、世界中で事業を展開している企業もあります。
 バークシャーは2019年7月、この5社について最初の買い付けを行いました。私たちは単純に彼らの財務記録を見て、株価の安さに驚いた。年月が経つにつれ、これらの企業に対する私たちの称賛は一貫して高まりました。グレッグは彼らと何度も会っているし、私は定期的に彼らの進捗状況を追跡しています。私たちは2人とも、これらの企業の資本配分、経営陣、投資家に対する姿勢を気に入っています。
5社とも、適切な場合に増配し、賢明に自社株買いを行い、経営者の報酬プログラムは、米国の同業他社に比べてはるかに積極的でないのです。
 当社が保有する5社の株式は長期保有であり、各社の取締役会を支援することを約束しています。また、当初から、バークシャーの持株比率を各社の10%未満に抑えることにも合意していました。しかし、この上限に近づくと、5社は上限を緩めることに合意しました。時間の経過とともに、バークシャーの5社に対する持株有比率がいくらか上昇すると思われます。
 年末時点で、バークシャーの総コスト(ドル建て)は138億ドルで、保有株の時価総額は235億ドルでした。
 一方で、バークシャーは一貫して円建て借入金を増やしてきましたが、何らかの公式に従っているわけではありません。すべて固定金利で、変動金利はありません。グレッグと私は将来の為替レートについて何も考えていないため、通貨中立に近いポジションを模索しています。しかし、GAAP規則では、借入金による円の損益を定期的に計算して収益に計上することが義務付けられており、年末時点では、ドル高による税引き後利益23億ドルが含まれており、そのうち8億5000万ドルは2024年に発生しました。
 私は、グレッグとその後継者たちが何十年もこの日本のポジションを維持し、バークシャーが将来5社と生産的に協力する別の方法を見つけることを期待しています。
 私たちは、円バランス戦略の現在の計算も気に入っています。これを書いている時点で、2025年に日本の投資から期待される年間配当収入は約8億1,200万ドル、円建て債務の金利コストは約1億3,500万ドルになります。

2025年3月 6日 (木)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(7)~損害保険事業

 損害保険は、ずっとバークシャーの中核事業でありつづけています。この業界は、巨大企業では非常に珍しい財務モデルに従っています。
通常、企業は製品やサービスの販売前、または販売と同時に、人件費、材料費、在庫、設備費などの費用を負担します。したがって、CEOは製品を販売する前にそのコストを把握する能力に長けています。販売価格がコストを下回る場合、管理者はすぐに問題があることに気付きます。現金の流出を無視できないのです。
 損害保険を契約する場合、前払いで支払いを受け取り、ずっと後になってから、自社の製品がどれだけのコストがかかったかを知ることになります。時には、30年以上も遅れて真実が明らかになることもあります。(50年以上前に発生したアスベスト暴露に対する多額の支払いが、今も続いています。)
 この運用方法には、損害保険会社がほとんどの費用を負担する前に現金を受け取るという望ましい効果がありますが、CEOや取締役が何が起きているのかに気付く前に、会社がお金 (時には山のような金額) を失うリスクが伴います。
 農作物保険や雹害保険など、損失が迅速に報告、評価、支払われる特定の保険では、このミスマッチを最小限に抑えることができます。しかし、他の保険では、会社が破産しそうになっているときに、役員や株主が喜ぶことがあります。医療過誤や製造物責任などの補償を考えてみましょう。「ロングテール」保険では、損害保険会社は、所有者や規制当局に、長年、場合によっては数十年にわたって、多額の架空の利益を報告する場合があります。CEOが楽観主義者または詐欺師である場合、このよう会計処理は特に危険です。これらの可能性は空想的ではありません。歴史は、それぞれのタイプが数多く存在することを明らかにしています。
 過去数十年間、この「前払い金を受け取り、損失は後で支払う」モデルにより、バークシャーは多額の投資(「フロート」)をしながら、一般的には少額の引受利益をもたらすことができました。私たちは「サプライズ」を想定して見積もりをたてて、これまでのところ、これらの見積もりは十分なものでした。
 私たちの活動によって被った損害支払いが劇的に増加しても、それを躊躇することはありません。(この記事を書いている今、山火事を想像してみてください。)サプライズが起こったときに感情的にならずに損失を受け入れるために価格を設定するのが私たちの仕事です。また、「暴走」判決、偽りの訴訟、そして明らかに詐欺的な行為に異議を唱えるのも私たちの仕事です。
 アジットの指揮のもと、私たちの損害保険事業はオマハを拠点とする無名の会社から、リスクを恐れず、ジブラルタルのような財務力で知られる世界的リーダーへと成長しました。さらに、グレッグ、取締役、そして私も、受け取る報酬に関してバークシャーに多額の投資をしています。当社はオプションやその他の一方的な報酬形態は使用していません。お客様が損失を被れば、当社も損失を被ります。このアプローチは注意を促すものですが、先見性を保証するものではありません。
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 損害保険の成長は、経済リスクの増大に依存しています。リスクがなければ、保険は必要ありません。
 世界に自動車、トラック、飛行機がなかったわずか135年前を思い出してください。現在、米国だけで3億台の車両があり、膨大な車両群が毎日大きな損害を引き起こしています。ハリケーン、竜巻、山火事による物的損害は膨大で、拡大しており、そのパターンと最終的なコストはますます予測不可能になっています。
 これらの補償について10年契約を結ぶのは愚かなこと、あるいは狂気の沙汰ですが、当社は、こうしたリスクを 1年間引き受けることは一般的には対処可能だと考えています。考えが変われば、提供する契約も変更します。私が生きている間に、自動車保険会社は一般的に1年契約を廃止し、6ヶ月契約に切り替えました。この変更により、フロートは減少しましたが、より賢明な引受が可能になりました。
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 民間保険会社には、バークシャーほどのリスクを引き受ける意志を持つところはありません。時には、このアドバンテージが重要になることもあります。しかし、価格が適切でない場合には、縮小する必要もあります。競争に残るためには、決して価格が適切でない保険契約を結んではなりません。そのような保険契約は、企業の自殺行為です。
 損害保険に適正な価格設定を行うは、芸術であり科学でもあります。これは、決して楽観主義者が行うべきビジネスではありません。アジット氏を採用したバークシャーの幹部、マイク・ゴールドバーグ氏は、次のように的確に表現しています。「私たちは、引受人が毎日、緊張しながらも麻痺状態ではなく、仕事に臨んでほしいと思っています。」
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 総合的に考えて、私たちは損害保険事業を好んでいます。バークシャーは、極端な損失にも経済的にも精神的にも動じることなく対処できます。また、再保険会社に依存していないため、実質的かつ永続的なコスト優位性があります。最後に、私たちは優れたマネージャー(楽観主義者ではありません)を抱えており、損害保険がもたらす多額の資金を投資に活用するのに特に有利な立場にあります。
 過去20年間、損害保険事業は、引受業務から320億ドルの税引き後利益を生み出しました。これは、売上高1ドルあたり約3.3セントの税引き後利益となります。一方、当社のフロートは460億ドルから1,710億ドルに増加しました。フロートは時間の経過とともに少し増加する可能性があり、賢明な引受(およびある程度の幸運)があれば、コストがかからない可能性が十分にあります。

2025年3月 5日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(6)~あなたのお金はどこに?

 バークシャーの株式投資は右利き左利きの両方です。一方では、多くの企業の経営権を握っており、投資先の株式の少なくとも80%を保有しています。通常は100%を保有しているものですが。これらの189の子会社は、市場性のある普通株と類似していますが、まったく同じではありません。その資産総額は数千億ドルに上り、その中には希少な逸品がいくつか、優良だが素晴らしいとは程遠い企業が多く、期待外れの低迷企業もいくつか含まれています。そこには、大きな足かせとなるような銘柄はありませんが、購入すべきではなかった企業もいくつかあります。
 他方、私たちは、アップル、アメリカン・エキスプレス、コカ・コーラ、ムーディーズなど、誰もが知る大企業で収益性の高い企業を十数社ほど一部所有しています。これらの企業の多くは、事業運営に必要な純有形資本に対して非常に高い利益を上げています。年末時点で、私たちが所有する部分的株式の価値は2,720億ドルでした。当然ながら、本当に優れた企業が丸ごと売りに出されることはめったにありませんが、これらの宝石のごく一部は、ウォール街で月曜から金曜まで購入でき、ごくまれに格安で売られることもあります。
 私たちは株式投資商品の選択において公平であり、皆さん(および私の家族)の貯蓄を最も有効に活用できる場所に基づいて、どちらの種類にも投資します。多くの場合、何も魅力的なものがないように見えますが、非常にまれに、私たちはチャンスに膝まで浸かっていることに気づくこともあります。グレッグは、チャーリーと同じように、そうした時に行動する能力を鮮やかに示しました。
 市場性のある株式であれば、ミスをしても方向転換が容易です。バークシャー社の現在の規模では、この貴重な選択肢は減っていることは強調しておくべきです。私たちは、一瞬で出入りすることはできません。投資先の設立や売却には、1年以上かかることもあります。さらに、少数株主であるため、必要なときに経営陣を変えることも、下された決定に不満がある場合に資本の流れをコントロールすることもできません。
支配下にある会社の場合、私たちはこうした決定をし、そうするよう指示できますが、ミスの処理に関してははるかに柔軟性に欠けます。実際には、バークシャーは、終わりのない問題に直面していると思われる場合を除いて、支配下にある事業を売却することはほとんどありません。反対に、バークシャーの堅実な行動を評価してバークシャーを選ぶ経営者もいます。時には、それが私たちにとって決定的なプラスになることもあります。
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 評論家の中にはがバークシャーの現金残高を異常だという人もいますが、皆さんの資金の大部分は株式に投資されています。この選好は変わりません。昨年、当社の市場性のある株式の保有額は3,540億ドルから2,720億ドルに減少しましたが、当社の非上場管理株式の価値は若干増加し、市場性のあるポートフォリオの価値をはるかに上回っています。
 バークシャーの株主は、私たちが今後も彼らの資金の相当部分を株式に投資することを確信できます。その多くは米国株ですが、その多くは重要な国際事業を展開しています。バークシャーは、支配下にあるか部分的に所有されているかにかかわらず、優良企業の所有よりも現金同等資産の所有を優先することは決してありません。
 財政上の愚行が蔓延すれば、紙幣の価値は消え失せてしまうでしょう。一部の国では、この無謀な慣行が常習化しており、わが国の短い歴史の中でも、米国は危機に瀕しています。固定利付債は、通貨の暴落に対する保護策にはなりません。
 しかし、企業も、才能のある個人も、その商品やサービスが国民に望まれている限りは、金融不安に対処する方法を見つけるのが普通でしょう。個人の能力も同じです。運動神経がいいとか、声がいいとか、医療や法律のスキルがあるとか、そういう特別な才能がない私は、生涯を通じて株式に頼らざるを得ませんでした。事実上、私はアメリカ企業の成功に依存してきたし、これからもそうするのです。
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 いずれにせよ、市民が貯蓄を賢明かつ想像力豊かに活用することで、社会が望む商品やサービスを生み出し続けることができる。このシステムは資本主義と呼ばれているものです。資本主義には欠点も悪用もあり、ある面ではかつてないほどひどいものですが、他の経済システムとは比較にならないほどの驚異的な成果をもたらすこともあるものです。
 アメリカはその典型です。わずか235年間の我が国の進歩は、憲法が採択され、国のエネルギーが解き放たれた1789年当時、最も楽観的な入植者でさえ想像できなかったことでしょう。
 確かに、建国初期のわが国は、自国の貯蓄を補うために海外から借金をすることもありました。しかし同時に、多くのアメリカ人が常に貯蓄に励み、その貯蓄者や他のアメリカ人が、こうして手に入れた資本を賢く運用する必要がありました。もしアメリカが生産したものをすべて消費していたら、国は空回りしていたことでしょう。
 アメリカのプロセスは必ずしもきれいごとばかりではなく、わが国には昔から、誤って貯蓄を託した人々を利用しようとする悪党やプロモーターがたくさんいました。しかし、そのような不正行為(現在もなお根強く残っている)や、激しい競争や破壊的なイノベーションによって最終的に行き詰まった資本の投入があったにもかかわらず、アメリカ人の貯蓄は、植民地主義者の夢をはるかに超える量と質の成果を生み出してきました。
 わずか400万人の国民を基盤として、そして初期にはアメリカ人同士が対立する残忍な内戦があったにもかかわらず、アメリカは瞬く間に世界を変えました。
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 バークシャーの株主は、ごくわずかではありますが、配当を見送ることで消費ではなく再投資を選択し、アメリカの奇跡に参加してきました。当初、この再投資はほとんど意味のない小さなものでしたが、時間の経過とともに、貯蓄の持続的な文化と長期複利の魔法が混ざり合って、その額は急増しました。
 バークシャーの活動は今や我が国の隅々に影響を及ぼすようになりました。そして、私たちの活動はこれで終わりではありません。企業が消滅する理由は様々ですが、人間の運命とは異なり、齢をとるということが致命的にはなりません。今日のバークシャーは、1965年よりもはるかに若々しい。
 しかし、チャーリーと私が常に認めてきたように、バークシャーはアメリカ以外の地域では成果を上げることはできなかったでしょうが、アメリカはバークシャーが存在しなかったとしても、今のような成功を収めていたでしょう。
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 だから、ありがとう、サムおじさん。いつの日か、バークシャーにいるあなたの甥や姪が、2024年に私たちが支払った以上の金額をあなたに送ってくれることを望んでいます。賢く使ってください。何の落ち度もないのに、人生で短いわらをもつかむような目に遭っている多くの人々を大切にしてください。彼らにはもっと良いことがあるはずです。そして、安定した通貨を維持するためにはあなた方が必要であり、そのためにはあなた方の知恵と警戒心の両方が必要であることを決して忘れないでください。

2025年3月 4日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(5)~びっくり、びっくり!アメリカの重要な記録が破られる

 60年前、現経営陣がバークシャーの経営権を掌握しました。これは私のミスであり、20年の間私たちを悩ませました。強調しておかなければならないのは、チャーリーが私の明らかな誤りをすぐに見抜いたということです。バークシャーに私が支払った価格は安く見えたが、その事業(北部の大規模な繊維事業)は消滅に向かっていたのでした。
 よりにもよって、米国財務省はバークシャーの運命についてすでに無言の警告を受けていた。1965年、同社は法人税を1セントも支払っていなかったのです。これは同社で10年間にわたって蔓延していた恥ずべき行為でした。こうした経済的行動は魅力的な新興企業なら理解できるかもしれませんが、由緒ある米国産業の柱となる企業で起こるとすれば、それは黄色信号が点滅しているようなものです。バークシャーは廃墟へと向かっていたのです。
 それから60年が経ち現在もバークシャー・ハサウェイという名で操業している同じ会社が、米国政府がこれまでどの企業からも(時価総額が数兆ドルにも上る米国のテクノロジー大手さえからも)受け取った額をはるかに上回る法人税を支払ったとき、財務省がどれほど驚いたか想像してみてください。
 正確に言うと、バークシャーは昨年、IRSに4回、合計268億ドルを納税しました。これは、米国企業全体の納税額の約5%に相当します。(さらに、外国政府と44州に相当額の所得税を納めました。)
 この記録的な納税を可能にした重要な要因を1つあげるとすれば、同じ1965年から 2024年の期間にバークシャーの株主が受け取った現金配当は1回だけだったということです。1967年1月3日に、私たちは唯一の配当101,755ドル、A株1株あたり10セントを支払いました(なぜ私がバークシャーの取締役会にこのような配当支払いを提案したのか思い出せません。今では悪夢のように思えます)。
 60年間、バークシャーの株主は継続的な再投資を支持し、そのおかげで同社は課税所得を増やすことができました。米国財務省への現金所得税の支払いは、最初の10年間はごくわずかでしたが、現在では総額1,010 億ドルを超え、増え続けています。
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 膨大な数字はイメージしにくいものです。昨年納税した268億ドルを考えてみましょう。
 バークシャーが2024年を通して20分ごとに100万ドルの小切手を財務省に送っていたとしたら(2024年はうるう年なので366昼夜を想像してみて下さい)、年末にはまだ連邦政府に多額の負債が残っていることになります。実際、財務省が私たちに「少し休憩して睡眠を取って、2025年の納税に備えて下さい」ということができるのは、1月に入ってからでしょう。

2025年3月 3日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(4)~昨年の業績

 2024年、バークシャーは私の予想を上回る成果を上げましたが、189の事業のうち53%が収益の減少を報告しました。私たちは、財務省証券の利回りが改善し、これらの流動性の高い短期証券の保有を大幅に増やしたことで、予測通り投資収益が大幅に増加したことに助けられました。
 保険事業もGEICOの業績に牽引されて大幅な増益を達成しました。トッド・コームズは5年間でGEICOを大幅に変革し、効率を高め、引受業務を最新のものに改めました。GEICOは長年にわたり宝石のような貴重な存在でしたが、大幅な磨ぎ直しが必要でした。トッドはその仕事に勢力時に取り組んできました。まだ完了していませんが、2024年の改善は目覚ましいものでした。
 一般的に、2024年の損害保険(P/C)の保険料は、対流性嵐による損害の大幅な増加を反映して上昇しました。気候変動が到来を告げているのかもしれません。しかし、2024年には「モンスター」と呼ばれるような現象は発生しませんでした。いつか、どこかで、真に驚異的な保険損失が発生するでしょう。そして、それが年に一度だけである保証はありません。
 損害保険(P/C)事業はバークシャーにとって非常に重要であり、この手紙の後半でさらに詳しく説明します。
 バークシャーの鉄道および公益事業は、保険事業以外の2大事業であり、総収益を向上しました。しかし、両者ともまだ達成すべきことがまだ多く残っています。
 年末には、公益事業の所有権を約92%から100%に引きあげましたが、その費用として約39億ドルかかり、そのうち29億ドルは現金で支払われ、残りはバークシャーの「B」株で支払われました。、
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 全体として、2024年の営業利益は474億ドルを記録しました。読者の中にはため息をつく方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちは、K-68ページに報告されているGAAPに基づく利益よりもこの指標を重視しています。
 私たちの指標は、実現・未実現にかかわらず保有する株式や債券のキャピタルゲインや損失を除外しています。これらの証券を購入する理由がある限り、長期的には利益が上回ると考えていますが、年ごとの数字は大きく変動し予測不可能です。私たちのこうしたコミットメントの視野はほとんど常に1年を超え、多くの場合、数十年にわたります。これらの長期的な購入は、時には教会の鐘のようにキャッシュレジスターを鳴らすことがあります。
 2023年から2024年の収益の内訳は以下の通りです(収益の内訳は、ここでは省略します。くわしくはバークシャーのホームページを見て下さい)。すべての計算は減価償却、償却および所得税後のものです。ウォール街のお気に入りの欠陥指標であるEBITDAは私たちには向いていません。

2025年3月 2日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(3)~ピート・リーグル─唯一無二の存在

 ピート・リーグルという、バークシャーの株主にはほとんど知られていませんがが、会社の総資産に何十億もの貢献をした人物がいます。彼の驚くべきエピソードを紹介しましょう。ピートは11月に亡くなりましが、80歳になっても働いていました。
 私がフォレスト・リバー(ピートが設立し経営していたインディアナ州の会社)のことを初めて知ったのは、2005年6月21日のことでした。その日、私はある仲介業者から、レクリエーショナル・ビークル(以下、RV)メーカーである同社に関するデータを詳細に記した手紙を受け取りました。その書面によると、フォレスト・リバーの100%オーナーであるピートは、特にバークシャーへの売却を希望していたと書かれていました。また、ピートが受け取るであろうと予想される価格も教えてくれた。私はこの率直なアプローチが気に入りました。
 私はRVディーラーをいくつか調べ、その結果同社を気に入り、6月28日にオマハで会うように手配しました。ピートは妻のシャロンと娘のリサを連れてきました。私たちが会ったとき、ピートはこのビジネスを続けたいが、家族のための経済的な保証があればもっと安心できると断言しました。
 ピートは次に、フォレスト・リバー社に賃貸している不動産を所有しているが、6月21日付の書簡には記載されていないことを話しました。私はバークシャーによる評価は必要なく、彼の評価額を受け入れるだけでよいと言いました。
 そして、その他にもうひとつ明確にしなければならない点がありました。私はピートに報酬をどうするかと尋ね、彼の言うことなら何でも受け入れると付け加えました。(これは、一般的にはお勧めできない方法であることを付け加えておきます)。
 ピートは妻と娘、そして私が身を乗り出すと、一息ついた。そして「バークシャーの委任状を見たんだけど、僕は上司より多く稼ぎたくないから、年俸10万ドルでいいよ」と言って、私たちを驚かせたのです。私が驚きから落ち着くと、ピートはこう付け加えました。「しかし、今年はX(彼は数字を挙げた)の収益を上げるだろうから、今会社が出している収益を上回る収益の10%を年間ボーナスとして欲しい」と。私は「でも、フォレスト・リバーが重要な買収を行った場合、その追加資本に対して適切な調整を行う」と答えました。私は「適切」や「重要」を定義していませんでしたが、その曖昧な言葉が問題を引き起こすことはありませんでした。
 それから、私たち4人はその後、オマハのハッピー・ホロー・クラブで夕食をとり、幸せに暮らした。それから19年間、ピートは素晴らしいショットを放ち続けました。彼のパフォーマンスに匹敵するライバルはいませんでした。
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 すべての会社がわかりやすいビジネスをしているわけではありません、ピートのようなオーナーや経営者はほとんどいません。そしてもちろん、バークシャーが買収するビジネスについて私もミスを犯すことがあるでしょうし、取引相手がどのような人物であるかを見誤ることもあるでしょう。
 しかし、ビジネスの可能性だけでなく、経営者の能力や誠実さにおいても、私は嬉しい驚きをたくさん味わってきた。そして私たちの経験では、たったひとつの勝利の決断が、長い年月をかけて驚くほどの違いを生むことがあるのです。(ビジネス上の決断としてのGEICO、経営上の決断としてのアジット・ジェイン、そして唯一無二のパートナーであり、個人的なアドバイザーであり、揺るぎない友人であるチャーリー・マンガーに出会えた幸運を思い浮かべてほしい) 間違いは消え去りますが、勝者は永遠に花開くものです。
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 CEOを選ぶ際にもう1つ注意すべき点があります。私は候補者の出身校は気にしません。絶対にです!
もちろん、有名校に通った素晴らしい経営者もいます。しかし、ピートのように、それほど有名ではない学校に通ったり、わざわざ学校を卒業する手間をかけなかったりすることで利益を得た人も大勢います。私の友人であるビル・ゲイツを見てください。彼は、壁に掛けられるような賞状のために留まるよりも、世界を変えるような急成長産業に参入することの方がはるかに重要だと判断しました。(彼の新著「ソース・コード」を読んでみてください。)
 つい最近、電話でジェシカ・トゥーンケルと電話で話しました。トゥーンケルの義理の祖父であるベン・ロスナーは、昔チャーリーと私のためにビジネスを経営していました。ベンは小売業の天才で、このレポートを準備するにあたって、ベンはあまり教育を受けていなかったと記憶していたので、ジェシカに確認したところ、「ベンは小学校6年生までしか行っていない」という回答がありました。
 私は幸運に3つの一流大学で教育を受けることができました。私は生涯学習を強く信じています。しかし、ビジネスの才能の大部分は生まれつきのもので、育てられたものより生まれつきのものが勝っていることに気づきました。
ピート・リーグルは天性の才能でした。

2025年3月 1日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2024(2)~間違い─そうです。私たちはバークシャーで間違いをしています。

 バークシャーのために購入した事業の将来的な経済性を評価する際、私は時にミスを犯すことがあります。これは、資本配分のミスの一例です。これは、市場性のある株式についての判断でも、企業の100%買収の判断でも同様です。
 また、バークシャーが雇っている経営者の能力や忠誠心を評価する際にも、私はミスを犯したことがあります。忠誠心への評価が失望におわったときは、金銭的な影響を超えて、結婚に失敗したときに匹敵するほどの痛みを伴うことがあります。
人事の決定において成功率はそこそこであることが望まれる。大罪は、ミスの修正を遅らせること、あるいはチャーリー・マンガーが言うところの 「親指しゃぶり(怠慢)」である。彼は私に、問題は消えてと願っても消えてくれない、と言います。たとえそれがどんなに不快なことであっても、行動を起こす必要があるということなのです。
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 2019年から23年にかけて、私は皆さんへのこの手紙の中で「ミス」や「エラー」という言葉を16回も使いました。他の多くの巨大企業は、この期間中にこれらのどちらの言葉も一度も使っていません。アマゾンは、2021年の手紙で容赦ないほどまでに率直な見解を述べたことを認めなければなりません。しかし、それ以外のところでは、概してハッピーな話や写真ばかりでした。
 私はまた、取締役会やアナリストとの電話会議で「ミス」や「間違い」が禁句であった大企業の取締役を務めたこともあります。このタブーは、経営陣の完璧さを暗示するもので、私をいつも不安にさせるものでした(ただし、時には、限定的な議論を勧める法的問題が発生することもありました。私たちは非常に訴訟の多い社会にいるためです)。
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 グレッグ・エイベルが94歳になった私の後任としてCEOに就任し、年次報告書を書く日もそう遠くはないでしょう。グレッグは、「報告書」こそがバークシャーのCEOが毎年株主の皆様に出すべきものだというバークシャーの信条を共有しています。そして彼は、株主を騙し始めると、すぐに自分のデタラメを信じ、自分自身も騙されることになるということも理解しています。

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