オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(2)~第1章 画家の誕生と形成 1840~1884
その前にプロローグとして「日本とルドン」と銘打って、日本の画家が所有していたルドンの作品が展示されていました。意外なことに竹内栖鳳が所有していたという「花の中の少女の横顔」。写実的な描写で知られる日本画家がこのような幻想的な作品を、画家自ら買い求め、手もとに置いていたというから、驚きました。この二人に共通点があるのだろうか。他には、近代の洋画家に所有された作品が展示されていましたが、その画家たちがルドンと作風がまったく違う人ばかりでした。中でも岡鹿之助の所有していたという「子供の顔と花」という暗闇に少女の顔がほのかに浮かび上がる作品は、明るい雪景色を描いた画家とどう結びくのか、不思議な感じがしました。
画家の習作から初期の作品です。44歳までの作品ということで、この人は早熟の人ではなく、晩成タイプの人だったというのが意外でした。一見、奇を衒ったような作品から、若い頃から才気煥発という先入観をもっていたのですが、そうではなかった。
さて、習作期のルドンに戻りましょう。ルドンがパリで学んだ師匠というべきジャン・レオン=ジェロームの「夜」 という作品です。うーん、ルドンとの共通性は見つかりません。ドミニク・アングルを見ているような古典派的な作品ですね。しかし、ジェロームは優れた教師だったようで、彼の下から多くの画家が輩出しているようです。ルドンについても、ここで数点のスケッチが展示されていましたが、たしかに上手い。そういう基礎的なところを彼に学んだのでしょうか。ルドンというと世紀末の退廃的というイメージを抱きがちで、そうするとビアズリーのような才能に翻弄されるような想像してしまいますが、ルドンの場合はそんなことはなく、どちらかというと正統的な教育も受け、たたき上げの画家という性格の側面が見えてきます。おそらく、この頃に描かれたのであろう「風景」という作品はまりに地味で何の変哲もなく、ルドンという名から想像されるイメージとはかけ離れた平凡といってもいい作品です。このような、小さなサイズの風景画を数多く描いたと言います。習作とか
試行錯誤といったことではなく、ルドンの幻想的な作品のベースには、このような作品があるということなのだと思います。それが、何よりもルドンという画家の特徴を形づくっている。
同じ頃路に描かれた「自画像」です。20代後半の画家の姿でしょう。上手に描かれていると思います。きっと、顔の特徴を巧みに描写していると思います。そういう描写は鍛えられて、技術として身についているのだと思います。しかし、油絵として、どこか薄っぺらい印象なのです。人物に存在感がないというか、人としての肌の質感がない。生き物の生きているという感じがしてこない。陶器の人形のように感じられるのです。あるいは、マグリットのようなシュルレアリストの描くギミックのような人間像のような印象。スケッチの段階ではそうでもないのでしょうが、彩色をすると、それらしい色をつけるだけという感 じです。色が物に付いていないで、浮いているような印象なのです。それは、たぶんルドンという画家の性質によるものではないかと思えるのです。ルドンという独特な色使いということになりますが、普通の色の使い方ができないということの裏返しなのではないかということを、この頃の作品を見ていて思うのです。そして、この作品、画面の下の方に白い靄がかかっていて、その下は水平な線の下で黒くなっている。この部分だけ上部の肖像画とは別の空間に区分されている。それが、実際の作品を見ていると、それがよく分かります。画面の下の方にそれがあるということは、手前、つまり、作品を見る人は、手前の別の空間を隔てて人物を見ていることになるわけです。
それにしても、展示作品のなかで油彩画は。それほど多くない。版画やスケッチが多い。とくに、このコーナーは油彩画の展示か少なくて、ほとんどが石版画(リトグラフ)や木炭スケッチです。
そして、ルドンの最初の版画集「夢のなかで」という1879年の作品。パリでモネやマネたちが参加した印象派展を開いたのが1874年ですから、ほぼ同じ頃に、このような奇々怪々な作品を描いていたのです。写実的な「自画像」から10年足らずの間に、ルドンにどんな変化があったのでしょうか。その変化をプロセスを辿ることのできるような展示は、ありませんでした。ひとつあったのは、ロベルト・プレスダンのもとで銅版画を学んでいたということ。ここから白と黒の織りなす世界に入っていったと考えてもいいでしょう。普通の色使いができないルドンにとっては、色を使わなくていい白黒の世界である版画は、あ る意味心地よい世界だったのかもしれません。同時代の光が氾濫するような印象派に対して、白黒、とくに黒で満たされたようなルドンの作品は異彩を放つものだったかもしれません。「夢のなかで」を見る前に、「永遠を前にした男」という1870年頃のスケッチ作品がありました。画面の中の黒色の占める部分は少ないですが白と黒による画面です。山の頂上のような岩場で、まだ二足歩行もままならないのではないかと思われる原始人のような裸体の男が、岩場に手をついてじっと空を見つめています。巨大な雲が迫ってくるとっかかりのない空間にすくんだように静止しているこの動物とも人間とも取れる存在。この作品には、ルドン自身により「永遠に沈黙する無限なる宇宙」というパスカルの言葉が書き込まれていたそうです。そうすると、画面の男は、この黙して語らない永遠の宇宙を前に怖れ、戦いていると解釈できます。とはいっても、この男の描き方ですが、人間とも動物ともとれるというものであったとしても、身体の姿勢が歪んでいるように見えます。これまで見てきたスケッチなどから、ルドンには写実的に描写する能力は持っているはずなのに、こんなにちぐはぐな身体、頭との
バランスも含めてです。だから、あえて歪んだ描き方をしている。過度なデフォルメと言ってもいいのでしょうか。それが、さらに進むと、「夢のなかで」の奇怪な生き物になると言えないでしょうか。では、版画集「夢のなかで」より「Ⅰ.孵化」(左側)という作品です。おなじみの、いかにもルドンという作品で、球形の卵ということなのでしょうか、それが円形の断面の中は男の顔が出てこようとしています。そして、次の「Ⅱ.発芽」(右側)という作品では、同じ顔が球形から出て真っ黒の円形に囲まれて中空に浮かんでいるように見えます。また、画面全体は、「Ⅰ.孵化」では真っ白で無ということをおもわせるような何もないというイメージで、「Ⅱ.発芽」では暗闇という世界があるという画面になっている。穿った見方をすれば、発芽したことによって顔が誕生したわけで、人間であれば意識が生まれたことになって、人の意識は自分のいるところを、周囲の環境を自分にとっての世界と認識して、そこにいる自分を置くということで実存するということを考えると、ここでは、発芽することで世界が生じる。その世界というのは暗い世界だったというわけです。もちろん、ル
ドンはそんなことを意識して論理的に考えたりはしていないでしょうけれど、そういう解釈も成り立ちうる。こころなしか、顔のほうも、「Ⅰ.孵化」から、「Ⅱ.発芽」になって、すっきりと整っているように見えます。これらの作品の人の頭、つまり首から上だけが宙に浮かんでいるという事態。これって奇怪というか、異様ですが、このような宙に浮く頭部というと、ギュスターブ・モローの「出現」があります。全体の雰囲気は全く異なりますが。アーチの下で舞うサロメの前でヨハネの頭部が光りながら宙に浮くという場面。ヨハネの頭部の光輪は、孵化の頭部が収まっている円とおなじ円形。この後に見ることになるルドンの作品からは、モローの構成やポーズによく似たものが、いくつかあり、ルドンはモローから影響を受けていることが分かるので、「孵化」においても、モローの影響と考えてもいいのではないかと思います。とりわけ、「Ⅷ幻視」は構成がモローの「出現」とほとんど同じです。この円については、円は形として中心から外に向かって、あらゆる方向に拡大するように見えたり、内側に縮小するようにも見える。つまり、外へ広がろうとする力と同時に、外から圧迫される形であるという。ルドンか周囲をできるだけ省略し、円や球に形を凝縮させるのは、彼の孤独な心の内面を表わす一種の抽象作用であるという解釈もあるようですが、果たして、ルドンが孤独であったかどうかは、私には、この作品を見る限りでは分かりません。むしろ、そういう感傷が入り込む余地のないほど夢想が独立していると言った方が、私にはルドンらしいように思えます。
「骸骨」という1880年頃の木炭スケッチ。「夢のなかで」の後という時期でしょうが、この骸骨の描写はすごく写実的というか、解剖学の図版を見ているような気がします。学校の理科室にある骨格標本とはちょっと違って、人体の筋肉や内臓がある状態の骨の状態を描いているそうです。それが分かるように描いているのですから、ルドンという画家の描写力はかなりのものだろうと思います。それが、「夢のなかで」では稚拙に見えてしまいそうな形の描き方をしている。あえて下手に見せている。その理由が、私には分かりません。まあ、この骸骨の描写力をフルに発揮した「夢のなかで」を想像すると、生々しく、鬼気迫るような恐ろしい作品になっていたと思うのですが。楳図かずおの、異形をリアルに精緻に描きつくした末にユーモラスになってしまうような。むし、ルドンは楳図のような突き詰める手前で立ち止まって、怖いまでいかず、親しみ易さの段階にいるような感じがします。それはそれで、微妙な立ち位置だと思います。この「骸骨」もどると、そういうリアルとも言える描き方がされているのですが、頭蓋骨、つまり顔の部分に何となく表情がある、悲しげな感じがするのです。
「沼の花」という木炭スケッチ。暗くよどんだ沼地に生える細い茎に丸く膨らんだ人軒の顔をもつ奇妙な植物。後の「ゴヤ頌」という版画集に同じタイトルの作品がありますが、この作品では、この花が、飛んでいる白い鳥(画面の下の方に、よく見ないとわからないくらい小さく描かれています)の大きさに比べて非常に巨大なサイズということになり、その存在の異様さに対する驚きが強調されています。でもこの異様さは、よく見て、気がつかないと分からない。そして、この横顔は、前に見た骸骨とは違って表情がない。しかも、骸骨では、あれほどリアルに描写していたのに、この横顔は線で輪郭をなぞって終わりみたいな省略した描き方になっています。まるでマンガのようです。前に見た自画像や後で見ることになる肖像画は別にして、ルドンは人の顔をマンガのように省略した描き方をすることが多いようです。それは、顔だけ宙に浮かしたり、植物にくっつけたりするのに好都合だからでしょうか。
1882年に発表された2冊目の版画集「エドガー・ポーに」より「Ⅰ.眼の奇妙な気球のように無限に向かう」です。エドガー・アラン・ポーの短編小説「軽気球夢譚」にインスパイアされたもの、ということになっています。しかし、物語の出来事の具体的な姿を求めることはできず、ポーの一見暗い冥府を思わせる色合いや、現実世界から離れて閉鎖的に生活する者達に、ルドン自身の幻想と呼応させ題名を付しているにすぎないと思います。気球で海を横断するという物語で、当時の最新技術の気球をモチーフにしたというものに、ルドンは眼球を同体化させたわけです。この眼球は、視線を上に向けていて、その方向は、虚空を、宇宙を、無限を…その気球(眼球)は生首らしきものを吊り下げている。そして、この眼球=気球は明らかに毛羽立ちつつあり、羽化ならぬ孵化が、今まさに始まりつつあるようで、それは「夢のなかで」の「Ⅰ.孵化」に重なるところもある。それが、「夢のなかで」の稚拙さがなくなり、描き方はリアルっぽくなって、それだけに奇妙さが真に迫ってくる。その描き方のなかで、長方形の画面の下の4分の1を水平線で区切って、上の長方形の中央に円(気球)があるという幾何学的な平面による構成で、そういう平面で画面を作っているのが、この作品では自覚的に行われている。これ以降のルドンの作品を見ていると、物体の形を線で明確に描くのではなく、平面の組み合わせで作られているのですが、この作品のあたりから、それを意識的に行われているように見えます。私には、この作品で描かれているのは、むしろ平面であるように見えるのです。
1883年に発表された「起源」は、9点の作品で構成されたルドン3番目の画集です。制作はダーウィンの死の翌年で、人類の起源について議論を呼んだ「進化論」に想を得たとか説明されていたが、本当でしょうか。その9点がすべて展示されていました。「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」という作品です。「沼の花」では花が人の横顔でしたが、今度は眼球です。眼球が花ということなのでしょうか。そう考えたとしても、その眼球をべつにしても植物とは思えないのですが、仮にそうとして目玉の周りに針のようなのがたくさん出っ張って広がっているのが花びらのようなものなのか、さらに、その外周に円状に描写が段階をつけて変わっていくのは、光が円状に広がっていくようなものとして見ることが出来るかもしれません。そして描かれている草の変化によって、幻想空間を作り出していると言えます。そう考えると、ルドンの作品というのは、一般的な絵画では対象物が画面の中心にあって背景があるというのとは違って、背景の方がむしろ画面のメインの地位にあると言えるのかもしれません。つまり、画面の中で背景を
つくる平面が主となっている。それは「Ⅰ.眼の奇妙な気球のように無限に向かう」では図形のような構成であったのが、ここでは紙の白地の空白、あえて言えば無でしょうか、から黒い平面が生じる。その境目が曖昧で、そこは草の生える密度の濃淡の度合の変化がグラデーションを作っている。その黒い平面の中に中心である眼球の花が咲いている。そのグラデーションの黒い平面、言ってみれば空間とか空気、アトモスフェアのようなもの。それがこの画面の主たるものではないか。それでもまた、この作品では題名のとおりに視覚が生まれることによって、視覚の対象として見られる世界が生じてきた。その世界が生じるところがメインであって、視覚は、その契機に過ぎない。したがって、単なる契機であれば、そのために都合として描けば良いのでとくにリアルである必要もないわけです。単なるスイッチです。この場合は生い茂る草を世界として描くわけですから、スイッチはその中にある同じような草である方がいい。そして、視覚が生まれるために目を付け足してやればいい。あとは、作品の画面の中で、“らしく”はまってくれていればいいというわけです。そして、「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」という作品です。この画面にはタイトルで触れている岸辺というのが何も描かれていません。一つ目の巨人は大きく画面の中心にありますが、その背景が不定形の波か雲のようなのが一部にあって、あとは空白です。タイトルで岸辺と言っていることだから、何かしら描いているか、それを見る者に想像させるか、いずれにせよ、この作品では、ひとつ目の巨人が明確に描かれていて、その背景と対照的になっている画面と見ていいのではないか。しかも、「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」という題名からは、この中心に描かれているのは一つ目の巨人ではなくて、ポリープ、つまり瘤かイソギンチャクのような海洋生物が、たまたまそのように見えたということを言っています。つまり、不定形な物体なのです。一方、背景については背景の不定形の部分が画面上の多くの面積を占めているわけではありませんが、こちらも形をなしていません。この前の作品「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」が、目の前に存在が現われたという作品であるならば、この作品は何かが存在しているということ、それがたまたま風景として現われているという作品と言えると思います。変な言い方かもしれませんが、このような幻想的とか、あるいは抽象に近いような画面ですが、それは理念とか理論でたどり着いたのではなくて、ルドンは実際に見えていたものを描いていたように思えます。明確に分節化されたよう
な輪郭のくっきりした、私たちがリアルと感じているような、見えかたで見ていなかった。見えていたのは、明確な形をした堅固で、それぞれに分節化された物体ではなく、周囲との境目が曖昧で、たえず流動しているような不定形で実体をなしているかどうかわからないような、そんなように見ていたのではないか。それを見たままに描いたのが、ルドンの作品ではないかと思えてきました。そして、この画集の最後の「Ⅷ.そして人間が現われた。彼が出てきた、彼を引き寄せる大地に訊ねながら、暗い光に向かって道を切り開いていった」(右側)という作品。この人間の姿。暗い中で背中を見せた男の姿は、ゴヤの「巨人」(左側)を想わせます。この作品も、タイトルで大地に訊ねるといいながら、大地が分かりません。背景は暗い空間という抽象的なものになっています。後の作品では、暗い空間のみが描かれるというのが出てきますが、この作品でも、全体にただ暗いだけの空間、空気みたいなものが、実はメインだったように思えます。
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