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2025年4月11日 (金)

佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(2)~序章 マルクスの方法

 マルクスは、もともとヘーゲル哲学を学んでいたが、哲学というものを批判している。というのも、彼の問題意識は世界の変革にあったからだ。彼は、人々が貧困に苦しみ、自身の力を自由に発揮する可能性を奪われているような社会を変革することを目指していた。彼にとっても哲学は世界を解釈するツールにすぎず、変革のために使えるものではなかった。当時の、青年ヘーゲル派のフォイエルバッハは、宗教は人間が創り上げた者であり、人間が自身の作った宗教に支配されているのはおかしいと問題提起したが、フォイエルバッハはそこで人々が覚醒すれば問題が解決すると考えていた。マルクスは、このような啓蒙だけでは変革は覚束ないと考えた。というのも、それ自体の力によって人々を支配し、従属させている宗教イデオロギーは、実際には現実的諸問題に支えられることによって、はじめて現実的な力を持つことができる。つまり、イデオロギーの支配力は現実的諸関係から生まれてきたものであり、この現実的諸関係を変革することなしには変革は望めない。(これは、まさに『ドイツ・イデオロギー』の「フォイエルバッハ」の趣旨)主教には、それを多くの人々がそうせざるをえない現実の社会関係がある。人々が宗教を必要とせざるを得ない現実の社会関係を変革しない限り宗教の支配がなくなることはない。哲学はイデオロギーが現実的諸関係から独立して、それ自身が力を持っていると考え、このイデオロギーそのものを異なる解釈によって批判し、人々を啓蒙することで世界を変えることができるという姿勢だった。それをマルクスは批判し、イデオロギーを生み出さずにはいられない現実的諸関係を批判的に分析し、現実的諸関係そのもののなかに変革の契機を見出そうとした。そのために、彼は現実の世界が「なぜ、いかにして」このようにあるのかを問うのだった。彼は、現実の世界が「なに」であるのかという哲学の問いではなく、「なぜ、いかにして」世界が存在しているのかの方が重要なのだと無考えた。このような理論的方法を唯物論的方法と呼んでいる。
 マルクスが、近代社会を規定している資本主義的生産様式対象とする場合、経済学批判の形をとらざるをえなかった。資本の運動を分析して変革の可能性と条件を示すためには、既存の経済学が自明のものと考えて疑わなかった経済学的カテゴリーを歴史的形成物として捉える必要があったからだ。たとえば、アダム・スミスは市場というメカニズムがどうして成り立ちうるかを需要と供給の関係から説明した。いわゆる「神の見えざる手」である。スミスは、それは人間の本性から必然的に生まれてくるものであると考えた。封建的な支配や伝統的な規制がなければ、人間は自由に行動することができ、その本性に従い市場が成立するというのだ。マルクスは、これに対して痛烈な批判を加えた。市場というのは、ある一定の歴史的な条件のもとで成立するものにすぎない。それゆえ、市場が社会の全体を覆い尽くした資本主義というシステムも歴史的形成物にすぎないとかが得た。そう考えると、商品や貨幣、資本等といった経済学的なアプローチは人間の本性から自然に生まれたものではなく、特定の条件のもとでの特殊な関係から生まれてきたものにすぎない。そうだとすれば、それを「なに」であるかを問う既存の経済学ではなく、「なぜ、いかにして」それが成立しているかを考えることにより、どんな条件のもとに資本主義が成立しているかが明らかになり、同時に変革の条件も見えてくる。それによって資本主義を成り立たせている関係をどのような関係に変えていけばいいかが分かってくるのである。
 アダム・スミスやリカードらの古典派経済学は、商品価値がそれを生産するための労働量によって決まるという労働価値説を提起した。マルクスは、これだけでは価値について理解したことにはならないという。価値を理解するためには、なぜ、いかにして労働が価値という形態をとって表わされるのか、いいかえれば、労働生産物が商品として売買され、その交換比率が労働量によってきまるという関係が、いかにして成立するかが明らかにされなければならない。この点こがマルクスの経済学批判を理解するための重要な鍵となる。というのも、この問いの立て方によって、価値や資本等の経済学的カテゴリーを自明とするのではなく、それを特殊な条件下で生まれた歴史的形成物として把握する道が開かれるからである。
 そのために、『資本論』なおいてマルクスは利潤、利子、地代などといった経済学的カテゴリーの根拠となるようなもっとも無基本的な経済学的カテゴリーである商品の説明から出発し、順に叙述を展開し、最後に現象形態である利潤、利子、地代などの説明に行き着いた。このとき、注意しなければならないことは、第一に、この場合の商品や貨幣、利子などは資本主義おける商品や貨幣、利子であるということである。これらのものは、資本主義以外のシステム下でも存在していたが、それは、ここで論じられているものとは違う。第二に、このような説明の方法では、現実と矛盾するような想定が必要になるという点だ。第三に、「関わり」の理論である。人間が他の人間や自然とどのような様態で関わっているかを考察することにより、歴史的に特殊な関係が「なぜ、いかにして」成立するか理解できるというものだ。例えばAが王でありBが臣下であるという場合、Aが王であるということはBがAについて主と認めて従っている、つまり、BがAを主とするように関わっているからである。もし、BがAを主と認めなければ、王と臣下という関係は成立しない。このようにBのAに対する特定の様態での関わり方が、Aに王という特定の性質を与え、AとBのあいだに特定の関係を作り上げているからである。この経験というのは、漠然と存在しているのではなく、一方が他方に対してなにかの性質を与えるように関わることによって成立している。

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