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2025年4月14日 (月)

佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(5)~第3章 値札と貨幣

 ここでは貨幣について考える。古典派経済学は、貨幣は流通のための道具と考えた。これに対してマルクスは商品交換の前に行われる値札付けに注目し、この値札の必要性から貨幣が生まれたと考えた。
 前章で見たように、人格的紐帯が解体した資本主義社会では、労働生産物を互いに価値として関連させることにより社会的分業成立させることができる。だから、労働生産物は価値物、すなわち商品として社会的にやりとりされることになる。だが、労働生産物を価値物として互いにやり取りするといっても、価値は交換力という社会的な威力であり、そのままでは目に見えない。だから、私的生産者たちが生産物を互いにやり取りするには、その価値を目に見える形で表わす必要がある。それを可能にするのが値札である。
 私的生産者が労働生産物を互いに関連させるには、それらを価値物として扱う必要がある。だが、実際の交換では、互いが持っているものが価値物であるからといって交換が行われるわけではない。商品の持ち手が互いに相手の商品を欲する場合にだけ交換が行われる。しかし、そういうケースは稀である・これでは多様な商品を大量に取引することはできない。そもそも労働生産物を価値物として関連させるには、価値が一般的価値形態をとらなければならない。つまり、一般的価値物以外のあらゆる商品の値札に一般的等価物を書き入れることによって、価値を表わす。だから、少品種寺社はいきなり自分が欲しいと思う商品の所持者に交換を持ちかけるのではなく、一般的等価物の所持者全員に対して価値を表示し、このうちだれかと交換を行い、そののち、欲しい商品を一般的等価物によって手に入れることができる。そして、このようなやりとりが安定して成り立つためには、一般的等価物か何かの商品に固定されていなければならない。人は交換を繰り返していくなかで、それにふさわしい商品として金を見出した。金はどの一片をとっても均質であり、任意の量的分割が可能であり、合成も可能で、一般的等価物のための機能を持ち合わせている。持ち運びが容易で、蓄蔵にも適している。一般的等価物を金にすると、金は貨幣になる。貨幣による商品価値の表現のことを価格という。金はあらゆる商品に対して直接的交換可能性を持っている。つまり、貨幣はあらゆる商品を手に入れることができる力を持っている。その貨幣の力は商品生産に基づき、生産物が商品化いるにつれて、貨幣の力の及ぶ範囲が広がり、その重要性は増して行く。商品生産によって貨幣が生み出されると、商品生産関係は一層発展する。
 そして、価格による価値の表示は、実際の価値の大きさから乖離した価値の表示を可能にする。現実の市場を見れば、たとえ価格が不変だとしても、商品価格は絶えず変動する。このような価値と価格の乖離によってはじめて、需要と供給を調整して社会的分業を成り立たせることができる。また、商品を直接に交換し合うのではなく、貨幣を流通手段としてもちいることにより、多様かつ大量の商品の交換が可能になる。だが、他方で購買と販売の分離が生まれる。貨幣は直接的交換可能性を持っているのだから、自分が欲する商品が市場にあり、その価格と同じだけの寡兵があれば購買は可能である。ところが、販売はそうではない。ある商品を販売できるかどうかは不確実である。また、商品を売って貨幣を手に入れた日とはその貨幣をすぐに使う必要はない。そこから、社会全体でみても大量の商品が売れ残る可能性が生まれる。さらに、資本主義社会では信用が発展する。具体的に言うと手形で、貨幣なしでも購買がかのうとなり、商品流通がさらに発展する。そしてまた、貨幣は新たな欲望を作り出す。もともと労働生産物を価値物として扱ったのは、他人が持つ労働手段を手に入れるためであった。それが、貨幣の登場により、仕様勝ではなく価値そのものへの欲望が生まれた。貨幣というどんな商品でも手に入れることできる力持っていることへの欲望である。使用価値に対する欲望は、使用価値によって制限されていた。これに対して貨幣に対する欲望に記限りがない。どれだけもっていても持ちすぎということはない。
 もともと価値は私的生産者が社会的関係を打ちたてるために生みだしたものである。だから、それを理解するためには込み入った考察が必要だった。ところが、価値を貨幣として物体化すると、人々の意識や欲望のあり方に大きな影響を与え、それらを全く違うものに変えてしまう。もともと人間が持っていたものとは異なる意識欲望が、人間の創造物である貨幣によって作り出される。
 以上のことから、商品生産関係にはかならず貨幣が必要になる。だから、価格による価値表現がかならず必要になる。それゆえ、価格による価値表現は商品の側の論理に従って行われる。商品は人間の意志や欲望とは異なる独自の論理、すなわち価値の論理を持っている。これが貨幣を馬出している。人間たちが私的労働に基づいて社会的分業を成り立たせている社会では、人間ではなく労働生産物が社会的力を持つので、人間と労働生産物との関係が逆転する。それが物象化である。物象化された関係では、人間たちは知らないうちに自分たちの行動を制約する価値の論理を作り出してしまい、これに従わざるを得ない。
 物象化された関係では、商品や貨幣などの物象の人格的担い手としてしかお互いに社会的関係を取り結ぶことがないという意味で、物象によって制約されている。しかし、人間たちは、物象の人格的担い手にすぎないとはいえ、自分たちの意志と欲望に基づいて主体的に交換関係を取り結ぶ。このように人間たちが物象の人格的担い手として行為する時代を物象の人格化という。

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