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2025年4月18日 (金)

佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(6)~第4章 賃労働と資本

 ここでは賃労働について考察する。賃労働は歴史的に特殊な働き方の一つだ。労働は人間と自然との物質代謝の意識的媒介である。賃労働とは、誰かに雇われて行われる労働というのが一般的イメージ。労働者が誰かに労働を提供し、その対価として賃金を受け取る。
 マルクスは、労働者は労働の対価として賃金を受け取っているのではなく、自分の労働力を売り、貨幣を手に入れると考えた。労働と労働力は違う。労働力を買うという場合、雇い主は、他セレカを雇い、一定の時間の間その人の労働力を利用する権利を得たということによる。雇い主は、この労働力をどのように処分するかは自由である。工場で働かせてもいいし、全く働かせなくてもいい、労働は労働力の消費としてお皆割れるにすぎない。いったん労働力を買ってしまえば、その消費である労働にたいして支払いをする必要はない。労働者の側からは、労働力を販売した後は、雇い主から命令されてはじめて労働するというのだから、労働を自分自身の意志で処分することはできない。つまり、賃労働者が販売しているのは労働力であり、賃金が労働の価格ではなく、労働力商品の価格である。また、賃労働とは、労働力商品の買い手がそれを消費するさいに労働力商品の売り手によって行われる労働である。
 賃労働を労働者から買い取る者、つまり雇い主は資本家ということになる。ところで、商品売買というものは、基本的に「買うために売る」ということであった。つまり、自分の生産した商品を売り、それで得た貨幣で欲しいもの買う。これが、商品交換に貨幣を使うようになると、新たな欲望が芽生えてくる。つまり、たんにある使用価値を手に入れるための手段として貨幣をほっするのではなく、貨幣そのものを欲望の対象とし、貨幣をできるだけ多く蓄積しようとする欲望か生まれてくるのだ。
 そのため、勤勉に働き、多く売って、少なく買うことで貨幣をためようとする。しかし、この場合、貨幣は使うことによってはじめて力を発揮するということで、それを使わないというやり方には限界がある。そこで、「売るために買う」というやり方、つまり発想の転換が起こる。所持している貨幣で商品を買い、それから商品を売り、再び貨幣を手に入れる。この時貨幣量は、はじめに持っていたより増えている。このやり方は貨幣の増大自体が目的になっている。この過程では、もともとあった価値が、そのプロセスを通じて増大する。つまり、価値自身の力により価値が増大する。ここでは、価値がこのプロセスの主体となり、自らの力により増殖する。このような自己増殖する価値のことを資本という。資本は、「買うために売る」ときの倹約とは違い、積極的に貨幣を流通に投げ入れることに割って、よく多くの貨幣を手に入れるものだ。
この時、資本家は労働力商品を購買し、消費することによって、価値を増殖させている。それは、労働力が価値を生み出すことのできる唯一の商品だからだ。
 労働力は商品であり、使用価値と価値を持っている。賃労働者は自死部が持つ労働力を売り、それによりらー生活に必要な貨幣を手に入れる。その理由として、第一に、彼は私的生産者と同じように、人格的なつながりに依存して生きているのではなく、商品や貨幣などの物象の力に依存していきデイル。つまり、村のように共同体にいるのではなく、都市なおいてバラバラに生きている。彼は人格的な支配からは自由である代わりに、自分で貨幣を手に入れ、それによって生活を賄わなくてはならない。第二に、賃労働者は労働力以外の商品を生産する手段を持っていない。労働力以外の商品を生産するためには、原料や道具が必要で、それを作り売るまで時間がかかる。そのための資金や当座の生活資金がなければ、その生産はできない。だから、彼は自分の労働力を売る以外にない。
 この労働力商品の価値の大きさは、その生産に必要な社会的必要労働時間によって決まる。これは、生産の継続、すなわち再生産にとって必要だからである。労働力の場合も同様だ。では、労働力の再生産可能性とは何かというと、労働力の保持者の人格の維持に他ならない。その大きさは、労働力の保持者の石瀬に必要な生活手段の価値の大きさによって決まる。端的に言えば、労働力の再生産費である。労働力の所持者が正常な状態で正確していくに足るもの。
 労働力商品の使用価値は労働である。ただし、資本家にとって、それはどうでもいいことで、資本家の目的は価値だからだ。つまり、その生産物が市場でどれだけの価格で売れるかだけが問題だからだ。
 というのも、労働力商品はただ使用価値を生産するだけでなく、価値を生産することができる。労働力の使用価値である労働によって生み出される価値は、労働力の価値とは全く異なった大きさである。それゆえ、労働力は自分の価値以上の価値を生産することができる。これが剰余価値ということになる。労働力商品がこのような、価値を生産するという特殊な使用価値を持っているからこそ、資本家は等価交換しかしていないにもかかわらず、価値を増殖することができる。また、労働者は、自分の自由な意志により等価交換を行ったにもかかわらず、自分の労働の成果を搾取されてしまっていることになる。労働者が自分の労働を再生産するのに必要な労働を必要労働、さらにそれを超えて行う労働を剰余労働と呼ぶ。
 賃労働者が売るのは労働ではなく労働力である。労働は労働者が販売する労働力商品の使用価値であり、資本家は労働力商品を消費することによって労働を手に入れる。それゆえ、賃労働者が実際に賃労働をするときに彼はすでに自分の労働力を資本家に売り渡してしまっており、生産手段と同じように、資本の構成部分の一部になってしまっている。その結果、彼の労働は資本機能として行われ、その成果はまるごと資本家のものになってしまう。
 賃労働者は生きていくために必要な貨幣を手に入れるために、資本家に自分の労働力を売る。このとき、彼は資本家と、たとえば1日1万円で自分の労働力を使用する権利を譲渡する契約を結ぶ。それが、彼は資本家の指示に従って労働を始める。彼はすでに労働力販売の契約をしているのだから、契約遂行のために、自分の自由意志にもとづいて資本家の命令に従い、労働する。だが、たん労働者はただ資本家の命令に従って労働するだけでは、資本の機能を果たすことはできない。そのためには、資本家の命令に従って労働するだけでなく、生産手段を資本として扱い、資本の価値増殖を実現する必要がある。そのために必要なことが次の二点である。
 第一に、賃労働者は生産手段を資本のものとして扱い、それを有益に消費し、その価値を維持しなければならない。資本主義以前の古代や中世の職人や農奴は、生産過程において事実上、生産手段を自分のものとして扱うことができた。彼らは土地や労働手段を自分のものであるかのように扱い、比較的自由に労働することができた。彼らの雇い主である領主は剰余生産物を収奪して自分の支配を維持していくことを目的としているので、生産過程には関心を抱いていなかった。ところが、資本主義的生産過程においては、目的は剰余生産物ではなく、剰余価値であり、しかも、できるだけ効率的に価値増殖を行い、ほかの資本との競争に打ち勝たなければならない。そのため、できるだけ少ないコストで、できるかぎり多くの有用物を生産しなければならない。だから、賃労働は、ただ剰余生産物を生産するだけでなく、生産過程において生産手段を資本として扱い、価値増殖の観点から、できるだけ無駄なく有益に消費しなければならない。資本の価値を無駄にしないように。生産手段の方の都合に合わせて労働しなければならない。こうすれば、生産手段の価値を生産物に吸移転させ、維持することができる。
 第二に、賃労働者は生産手段を資本のものとして扱い、有益に消費するだけでなく、自分の労働の成果をたえず資本のものとして扱い、剰余価値を産出しなければならない。賃労働者は生産手段を資本のものとして扱い、有益に消費することによって、労働対象を変形させていくが、このとき同時に、変形させた労働対象に対しても無絶えずそれを資本のものとするように関わり続けている。それゆえ、彼は自分の労働の成果に対してもたえずそれを資本のものとするように関わっていることになる。だからこそ、彼の生み出した労働生産物はすべて資本のものとなり、彼が生産過程において生み出した価値もすべて資本のものとなるのである。このように、賃労働者は生産手段に対してそれを資本とするようにして関わることによって、資本の価値増殖運動を成立させ、自分の労働に資本の機能という性格を与えている。このようにして成立する生産関係を資本主義的生産関係という。
 まとめると、自己増殖する価値としての資本の運動が成り立つためには、まず、飽くなき価値増殖欲求を持つ資本家が「売るために買う」ことが必要であった。資本家は貨幣を貯め込むむのではなく、むしろそれを積極的に流通に投げ入れることによって貨幣を増やそうとする。だが、それだけでは資本の運動は成り立たない。生産過程において、賃労働者が生産手段に対してそれを自己増殖する価値とするようにして関わり、自己増殖する価値の運動を生産過程において成り立たせなければならない。資本の運動の成立に際しては、このような賃労働者の特異なふるまいが決定的であった。それゆえ、賃労働者が労働力を販売し、生産手段に対してこのような特異なふるまいをし続けるかぎりでは、実際に生産手段のほうが主体となり、逆に労働者は手段となるという転倒した関係が性釣りする。一般的な労働過程では、生産の主体は人間であり、生産手段はそのための手段であった。ところが、価値の自己増殖を目的とする資本主義的生産過程では、この関係が逆転し、礼賛手段が人間を支配する。つまり、労働者が使用価値の生産のために手段として生産手段を消費するのではなく、むしろ生産手段が価値増殖のための手段として労働者を消費するのである。このような労働を、疎外された労働という。

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