佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(9)~第7章 賃労働と所有
資本主義社会では所有のあり方が、それまでの社会とは違うものとなり、そのことが人々の日常生活に大きな影響を及ぼしている。
所有とは持っていることを他人から承認されることである。その承認のあり方は時代によって変わる。全面的な商品生産が成り立っていない社会では、所有は基本的に人格的関係に基づいていた。例えば共同体の一員であることによって所有を認められていた。これに対して、物象化された社会では、所有は小品や貨幣といった物象の力が所有を成り立たせている。私的生産者が交換を通じて貨幣を所有することができたのは彼の生産物の価値を持っていたからで、その商品の買い手からそれを所有することができたのは彼が貨幣を持っていたからである。この承認はあくまでも商品や貨幣の持ち主の自由意志にもとづく相互承認という形で行なわれるので、正統ものとして通用する。例えば、商品の売り手が、全く知らない相手だとしても貨幣を支払さえすれば、売り手はその商品に対する所有権を認めるだろう。それゆえ、商品生産関係が全面化した社会においては物象の力に基づく相互承認が所有の正当性の社会的基準となる。そこから、市場において人は商品や貨幣の所持者として自由に振る舞い、自由意志に基づいて契約を取り結ぶのだから、市場での競争こそが自由であり、平等であり、そこで認められる所有こそが正当だという観念が生まれてくる。逆に言えば、市場の競争を媒介しない所有は不正だという観念が生まれるのである。このように、もっぱら物象の力により承認され、正当性が確保される所有のことを近代的所有と呼ぶ。
このような近代的所有は、資本主義的生産関係において他人の労働を取得する権利に転化する。労働力を欲する資本家と、生きていくための貨幣を欲する賃労働者は、互いの欲求に従って交換関係に入る。この場合、両者は互いの自分の意志に基づいて公刊を行い、しかも等しい価値を持つ物象を交換した。それゆえ、物象に基づく近代的所有の原理に従えば、正当である。
しかし、その結果は美容道ではない。資本家は賃労働者から買った労働力を消費し、その成果を手に入れることができる。他方、労働者は賃金で生活に必要な商品を買い、消費してしまうと、手許には何も残らない。これは、近代的所有が物象の力によって成り立っているためである。所有している商品の使用によってどんな結果がもたらされようと、その所有が相互の合意に等価交換に基づく限り、それは正当なものだからである。資本家と賃労働者の等価交換では、近代的所有権は他人の労働を取得する権利へと転化してしまう。つまり、物象化された関係が必然的に生み出す近代的所有の原則に従うかぎり、資本家はなんの正当性も失うことなく他人労働を搾取し、取得することが可能なのである。さらに、このような他人の労働を取得する権利は、所有は労働に基づくものであるという観念によって補完される。近代的所有は所有の正当性を市場の自由競争に求める観念を生み出すが、それが労働と結び付けられるのである。また、この観念は人々に賃労働を強制する圧力を生み出す。この観念では、所有は労働の結果でなければ、不正だとされるからである。こうして、社会的所有は、市場における自由競争をつうじて貨幣を手に入れることが労働であるという観念を生み出すことによって、一方では資本家の他人労働を取得する権利を補強し、他方では無所有者を賃労働へと駆り立てるのである。
そして、資本が行う生産活動を再生産過程として、すなわち生産が絶えず繰り返されるプロセスとして見るならば、そこでは資本の人格的担い手である資本家と賃労働者も再生産されていることが分かる。この再生産過程で近代的所有権も新たな性格を帯びる。賃労働者の側からは、賃労働者は労働力しか売るものがないから、労働力を売り、賃金を手に入れる。しかし、この賃金は労働力再生産費用だから、賃労働者の生活手段に消尽されてしまう。だから、賃労働者の手許には何も残らず、生活のために、再び労働力を売り、賃金を手に入れるしかない。こうして無所有者としての賃労働者が再生産される。また、資本家の側からは、生産手段と労働力を購買し、労働力を消費することによって剰余価値を手に入れることができる。資本家も労働者と同じように生活手段が必要なため、滋養世価値の一部を自分の消費のために使う。他方で、資本家は資本の人格的担い手であり、常に他の資本家との競争にさらされていて、資本の量を拡大し、競争に打ち勝たなければならない。それゆえ、滋養世価値の残りの部分を資本として用いる。このように剰余価値を資本に転化することを資本蓄積という。蓄積した資本で、投資家は、再投資、つまり賃労働者から再び労働力を購買し、消費する。このような資本蓄積を考慮に入れることによって、物象の等価交換に基づく近代的所有が、他人の剰余労働によって他人の剰余労働を取得する権利に転化する。
他方で、近代的所有は前近代とは異質の貧困を生み出し、それを正当化する。近代的所有は市場における売買の関係を通じてしか所有が認められない。だから、人々は本源的に所有者であることは不可能になる。しかも、売買が実際に成立するかどうかは偶然に委ねられている。商品が売れるかどうかは、市場に出してみないと分からない。それゆえ、資本主義社会では、人々の生存自体が偶然に委ねられている。にもかかわらず、物象に基づく近代的所有を正当なものとして受け入れるかぎり、このような事態は正当なものとされる。このような矛盾は賃労働者に集中的に表われる。彼が生きていこうとすれば、自分の労働力をたえず商品として売りに出すしかない。その労働力という商品が売れるかどうかは偶然に委ねられているからである。したがって、賃労働者は資本主義社会では、きわめて不安定な生活を強いられる。近代的所有の原理が貫徹する資本主義社会では、賃労働者が無所有者として生きなければならないことは防いだとはされない。むしろ、それは自由の証と思われている。このような無所有者として生きることを強制されることを絶対的貧困と呼ぶ。
賃労働者は、そのような不安定な状態で生きるために、資本家に労働力を売るために懸命に努力しなければならない。そこでは、低賃金、長時間労働という不利な条件でも受け入れざるを得ない。つまり、資本主義社会では、労働者は自ら資本に包摂されるために懸命に努力しなければならない。かれは、それを自由な意志で、自発的に行う。さらに、資本蓄積の信仰に伴い、相対的過剰人口がたえず生み出され、人々を賃労働に駆り立てる圧力はいっそう強まる。生産力の上昇によって生産手段の物量が、それを使用する労働力に対して増大する。これにより、可変資本に対する不変資本の割合も増大する。そこで資本の価値構成が変化するが、これを資本の有機的公正の高度化と呼ぶ。資本蓄積が進んでいくと、それだけ可変資本も増大する。それゆえ、労働力商品に対する需要が増大し、労働力の価格、賃金が上昇する。しかし、賃金が上昇すると、投下資本に見あう十分な剰余価値を獲得することが難しくなる。そこで、労働力の価値がある点に達すると、資本蓄積が衰える。それで、労働力に対する需要が相対的に減少し、賃金が下がる。このことから、資本主義的生産関係のもとでは、賃金の上昇は資本主義の存続を脅かすほど進むことはあり得ない。労働力の販売は剰余価値生産によって規定され、制限されている。
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