佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(8)~第6章 賃労働と生産力の発展
ここでは、資本主義のもとでは、なぜ急激な生産力の上昇が起こるのかを考える。
価値は抽象的人間的労働の対象化であり、その量は標準的な労働の労働時間により規定される。そのため、生産力を上げて1時間あたりに生産する使用価値量を増大させたとしても、1時間あたりに生み出される価値量が変化することはない。生産力が上昇したとしても、労働者の労働量そのものは変化しないため、生み出される価値量は変化しない。生産力の上昇はあくまで彼の具体的有用労働としての側面に影響を及ぼすにすぎない。生産力が2倍になった場合、生み出される価値量は変化しないが、2倍の生産手段が消費され2倍の生産物が生産されるので、1個あたりに付加される価値は2分の1になり、生産物の価値は下がる。これだけでは、生産物の剰余価値は変化しない。しかし、生産力の上昇は全体として労働力の価値を下げることになる。そこで、1日当たりの労働時間が変わらなければ、剰余価値量は増大する。例えば、生産力が2倍になれば、労働力の価値は2分の1になるので、剰余価値は1.5倍になる。このように、労働力価値の低下によって生み出される剰余価値を相対的剰余価値という。
しかし、資本が生産力を全般的に上昇させて相対的剰余価値を獲得できるとしても、個々の資本家は直接的にそのことを目的として生産力を上昇させるわけではない。
個々の資本家は技術革新などにより生産力を高めて、もともとの剰余価値に加えて特別剰余価値を得ることができる。この場合、この資本家は、新技術の導入で、より多くの生産が可能になったことから、より多く販売することになるため、他の資本家より安い価格で売り、シェアを拡大させようとする。個々の資本家にとっては、この特別剰余価値が生産力上昇の動機となる。しかし、この有利さも、他の資本家が追随して新技術を導入し生産力を拡大すれば、特別剰余価値は消滅する。そして、生産力の上昇により個々の生産物の剰余価値は減少することになるので、資本家たちはより多くの生産物を売らなければ以前と同じだけの剰余価値を獲得することができない。それゆえ、資本家たちは特別剰余価値を獲得し、シェアを拡大するために、再び生産方法を変革し、生産力を上昇させようとする。しかも、資本家たちは互いに競争しているのだから、絶えず生産力を上げ、シェアを獲得し、拡大することなしには生き残れない。競争が資本家たちに生産力の上昇を強制する。
資本が生産力を上昇させるための方法の第一は協業である。同じ生産過程や関連する生産過程において、多数の労働者が一緒に協力して働くことだ。資本主義的生産ははじめから協業として行われる。それは、資本家が直接に生産に従事せずにすむように、何名もの賃労働者を雇用することが必要だからである。資本家は指揮を行うが、それは資本の機能としておこなわれるので、そこにはたんに協業に調和を与えるだけでなく、資本の自己増殖を可能にする者でなければならないのだ。
第一に、資本主義的生産関係において協業を組織できるのは資本家だけである。ここでは、人々は私的個人としてバラバラにされており、しかも資本家以外は協業を組織できるだけの貨幣を持っていない。賃労働者は自分たちの意志によって互いにアソーシエイトして協業を行うのではなく、労働力を販売した資本によって結合させられ、協業を行うにすぎない。協業によって実現される労働の社会的生産力は、資本そのものがはじめから持っている生産力として現われる。
第二に、マニュファクチャ的な分業である。資本家によって組織された協業によって作業場内の分業として行われるが労働者の手工業的熟練が求められている。そのメリットとして、まず、作業の専門化が図られる。それ以前には一つの仕事であったものが、様々な部分作業に分解される。それため、それぞれの労働者は部分作業に適応させられ、単純作業しかできない労働力にされてしまう。それで、労働者の修行費を減少させ、労働力の価値を低下させる。挙句の果てに、労働者は独立の生産者としての生産能力を失う。次に、分業された作業の体系的な組み合わせである。これにより労働の強度が高められる。この体系化された専門的作業として労働を行なう必要が労働者の資本への従属を高めることになる。そして、大工業における機械の導入である。機械は人間によって操作される道具とは異なり、それ自身で道具を操作し、対象を加工する手段である。大工場では、協業は機械による協業として行われ自働機械体系が成立する。そこで、生産に必要な労働は著しく減少し、労働の生産力は何十倍にも高まる。そのため、労働者の熟練はさらに不要になる。そこで労働力の価値はさらに低下し、生産のイニシアチブは機械のものとなり、労働者は技術的にも生産手段に従属することになる。すなわち、生産手段が主体となり、客体としての労働者を支配するという転倒が形態的のみならず技術的にも成立する。そして、自動機械体系は労働者に機械の規則的な動きに合わせて作業することを強いられる。同時に労働時間の延長の傾向を持つ。そして、機械の導入により労働者の人員削減を招くことになる、-。これょーを相対的過剰人口というが、このことは労働者の立場をいっそう弱くする。
以上にようにして、資本は生産力を上昇させるための生産方法の変革をつうじて、労働者を資本に従属させる。つまり、資本はただ生産力を上昇させるように生産の技術的条件を変革するだけでなく、同時に、労働者を資本に従属させるように生産の技術的条件を変革するのである。このような労働者の従属は、二つの面で現われる。第一に生産を体系化し規則化することによる労働者の馴致である。労働者は、生産体系の技術的必要によって、高い強度の労働を押しつけられることを通じて、日々、労働力商品の担い手にふさわしいように訓練される。第二に、資本は技術や熟練や生産に必要な知識や洞察などを賃労働者から奪い、それらを自らのものにする。労働者は生産手段の付属物のようになり、労働者個人の生産能力を剥奪されてしまう。
生産手段を貨幣の力によって所有するだけでは、資本による賃労働者の支配はまだ確固たるものではない。というのも、実際の生産過程において生産手段を扱うのは賃労働者であり、賃労働者が生産に関する知や技術を持っていることは生産過程を資本の思うようにコントロールし、支配することはできないからだ。よって、資本は賃労働者から生産に関する知識や技術を奪い取ることによって、はじめて資本による賃労働の支配を現実のものとすることができる。このように、資本がたんに形態的にだけでなく、実質的に労働を包摂することを資本のもとへの労働の実質的包摂という。
大工場において、生産能力の包摂を可能にするための知の様式が、テクノロジーである。それまで労働者が持っていた知識や技術が労働者から切り離され、テクノロジーという近代科学として体系化される。そして、テクノロジーは実際の生産者のことを考慮することなく、生産方法を変革し、むしろこの新しい生産方法に生産者の行為を適応させようとする。ここから、生産者のことを考慮することなく、生産効率の上昇を追求することのみを合理的だとする非合理的な考え方が生まれてくる。さらに、絶えず変化する生産方法に対応することの出る、より一般的な知識や技術を持つ労働者が必要になり、それを国家が技術教育や職業教育により養成するようになる。
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