佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(4)~第2章 私的労働と商品
ここから賃労働の考察に入る。その全段階として、ここでは商品について理解していく。
商品とは何かときかれると身近で当り前なのだが、それゆえにどんなものかを考えるのが難しくなっている。マルクスは、商品はいかにして成り立っているのかを考えていく。
一般に、商品は値札がつけられていて、交換(売買)されるものといったものと考えられている。歴史を振り返ってみれば、値札のついていない商品の方が当たり前の時代もあった。値札が当たり前になったのは近代以降のことである。それは、資本主義社会において、共同体の場合の人格的紐帯がないことを前提に生産をするようになったからだ。
資本主義社会では、生産はもともと存在する人格的紐帯に基づいて行われるのではなく、バラバラに、つまり私的に、私事として行われる。共同体においては、労働ははじめから社会の一部として行われた。これに対して資本主義社会においては、労働はまず各生産者によって勝手に行われ、結果として社会の機能の一部を果たすにすぎない。資本主義社会における労働は、結果としては社会的分業を担うにもかかわらず、それ自体としては私的労働という形態で行われる。それは、それぞれの生産者が勝手気ままに行う労働である。だから、実際に行われていても、社会に必要なものとは認められない。だから、私的労働は社会的性格を持っていない。にもかかわらず、私的労働は結果として社会的分業の一部分を構成している。そうでなければ、我々は社会的分業を成立させて生きてくことはできない。この直接に社会性を持ちない私的労働が社会的分業の一部を構成するというジレンマは、労働生産物を商品として交換することで解決している。具体的に言うと、資本主義社会では、生産者は私的制裁者に分裂させられている。だから、労働を社会的なものとして行うことはない。そこで、私的生産者たちは、その成果である労働生産物を互いに持ち寄り、交換することにより社会的関係を成立させる。労働そのものは直接的には社会性を持っていなくても、その労働が他人にとっての有用物を作り出すのなら、この有用物は他人の欲望の対象になる。だから、互いに自分が持っている有用物によって相手が持っている有用物を手に入れようとして、有用物どうしを付き合わせ、交換しようとする。その結果として社会的分業が成り立つことになる。ここでは、労働ではなく、その成果物どうしの交換を通じて社会的な関係が成立する。
しかし、労働生産物有用物としてそれぞれ全く異なるものを、互いに交換させるのは難しい。例えば小麦生産者と上着生産者が小麦と上着を交換しようとしても、上着と小麦はまったく異なったものであり、有用物として両者に共通性がない。それゆえ、両者の間に交換の基準となるものがない。それについて、私的生産者たちが自分の労働生産物を交換する時、彼らは生産物の有用性だけでなく、それがどんな交換比率で交換されるかにも注目している。彼らは共同体の成員として生産しているのではなく、私事として、私的利益のために生産しているのだから、自分が持っている生産物をできるだけ有利な交換比率で交換しようとする。このとき、人々が生産物を有利な交換比率で交換しようと値踏みの対象とすることにより、さらに、そのような値踏みする力がぶつかり合うことにより、生産物は一定の交換力を持つものとして現われてくる。こうして、生産物は有用性だけでなく。交換力という社会的な力を持つようになる。このとき生産物が持つ交換力を、マルクスは価値と呼んだ。
生産者たちが互いに値踏みを通じて生み出すこの価値が、労働生産物を互いに関連させ、交換することを可能にしている。なぜなら、このとき、私的生産者たちは、有用物としてはまったく異なる労働生産物に対して価値という共通の社会的属性を認め、この価値という属性を持つものとしては異なる有用物を同じ物として扱っているからである。そのことによって、異なる有用物の間に価値という共通の基準を打ちたて、両者を交換することを可能にしているからだ。
ところで、私たちは私的労働の生産物を価値物として扱い、生産物どうしを互いに関連させるということを自覚的に行っているのではない。諸個人がバラバラになっており、共同労働を行うことができず、私的に労働しなければならないかぎり、私的生産者たちは労働生産物どうしを互いに関連させることによって社会的関係を成立させるしかないからである。そして、労働生産物どうしを互いに関連させる際には、このような事情により、私的生産者たちは無意識の内に労働生産物を価値物として扱うことを強制されているのである。たとえ当事者が無意識であっても、事実として労働生産物どうしを互いに関連させているのであれは、労働生産物を価値物として扱っていることになるというわけである。
このようにして、私的労働によって社会的分業を成立させている社会では、労働生産物は価値という社会的な力を獲得する。そして、価値という属性を獲得した有用物を商品という。有用物の持つ有用性を使用価値というので、商品は使用価値と価値という二つの属性を持っているということができる。また、商品に値札がつけられているのは、商品が持っている価値という社会的な力を表示するためである。つまり、私的生産者立場多寡性に関係を取り結ぶために労働生産物を相互に関連させなければならないからこそ、労働生産物を商品として扱い、それが持つ社会的な力を目に見えるように表わすために値札を付けてやり取りをする。ここでは、人々は相手が持っている商品の有用性だけを判断基準とするのではなく、値札によって表示されている商品の価値みて値踏みして、交換するかどうかの判断をする。この値札によって表示された価値のことを交換価値という。
このように、労働生産物が価値という属性を獲得し、商品となるのは、私的労働を行なう生産者たちが労働生産物を価値物としてあつかうからだ。そこで注意すべきことは、商品が持つ価値という社会的な力は、人間たちがそれを価値を持つものとして扱うかぎりのものであるということだ。商品の使用価値はその労働生産物自体が持っている自然物としての属性によるが、価値の方は純粋に社会的な属性である。ある労働生産物が価値を持っているのは、私的生産者たちが労働生産物に対してそれを価値部として関わるからなのである。価値は労働生産物に対する人々の特定の関わり方から生まれるのである。つまり、人間は物が価値を持っているからそれを価値物として扱うのではなく、人間たちがそれを価値物として扱うから、その物は価値を持つのである。
人々が労働生産物を通じて結び付けられている社会では、人間ではなく労働生産物の方が社会的な力を持つ。人間たちが労働生産物をコントロールするのではなく、価値を持った労働生産物、すなわち商品が人間をコントロールする。このように、人間に代わって社会的な関係を取り結ぶにいたった物を物象という。また、商品生産関係においては、人々はこの物象の力に依存することによってのみ社会的関係を取り結ぶことができるのであり、人格と人格の関係は物象と物象との関係として現われる。ここでは、人間の生産活動が自身の生み出した物象の関係によってコントロールされることになる。このような転倒した事態を物象化という。
したがって、価値とは社会的な威力であるということができる。人々の人格的関係が切断され、私的労働をする社会では、物と物との関係を通じて社会関係を取り結ぶほかはなく、諸個人の主観とはかかわりなく、労働生産物が人間たちに対してある社会的な威力をもつ。そこで、人間たちは自分の商品の価値についてどう思っていようと、労働生産物が持つ価値という力に依存して、他人と社会的関係を取り結ぶほかはない。そのような社会的な威力こそが価値である。
この価値において表示されている私的労働の社会的性格というのは、労働から有用物を生産するという具体的性格を取り除いたもの、すなわち、人間が行う労働一般としての労働の性格である。労働からその具体的な形態を取り除けば、そこに残るのはただ人間が一定の力を費やして労働したということでしかない。このような一般的な人間労働としての労働の性格のことを抽象的人間的労働という。価値において表示されるのは、この抽象的人間的労働である。これに対して、具体的な有用物を生み出すという意味での労働の性格を具体的人間的労働という。
一般的に生産のために使うことのできる社会全体の労働量は有限であり、これを適切に配分することにより、その社会に必要なものを生産することができる。どんな労働でも、ある特定の使用価値を生産したこととは別に、ある物の生産に社会全体の労働の中からある一定量の労働を費やしたという意味での社会的性格を持っている。資本主義以前の共同体を基礎とした社会では、どの生産部門に労働を配分するか(具体的有用労働としての社会的機能)だけでなく、、そこにどれだけの労働を配分するか(抽象的有用労働としての社会的性格)も共同体の伝統や習慣などで決められていた。これに対しして、資本主義社会では、どの生産部門であれ、共同体の秩序によって労働を配分することはできないので、経済的利益を通じて、すなわち商品交換から得られる利益を通じて労働を動員するすることになる。ここでは、具体的有用労働としての社会的性格は商品の価値すなわち、その商品が売れるかどうかにおいて、抽出人間的労働としての労働労働の社会的性格は商品の価値つまりその商品が投入した労働に見合う交換力を持っているかにおいて、示される。したがって、価値は抽象的人間的労働の対象化ということができる。その事情を人々は知らない。しかし社会的諸条件に強制されて、そのようなことを行っている。
私的労働に基づく社会的分業では、労働生産物の価値を通じてはじめて互いに関係を取り結べるのだから、労働は抽象的人間的労働としてのみ互いに関係し合うことができるのであり、具体的労働としては互いに関連し合うことはできない。あくまでも価値の力を借りて行われる商品交換の結果として社会的分業が成立し、そのことによって事後的に具体的労働の社会的性格が確証されるにすぎない。だから、価値が重要な意味を持つ資本主義社会では、抽象的人間的労働が価値に対象化されることによって、具体的有用労働から切り離され、独自の重要な意味を獲得することになる。つまり、価値生産としての労働に関心が向けられるようになり、どんな内容の労働をしているかは主要な関心事ではなくなっていくのである。
これまでは、価値の質にツイして述べてきたが、他方で量の面について述べる。価値とは質から見れば、私的労働の生産物がもつ交換力であり、その力は労働の抽象的人間的労働としての社会的性格が対象化されたものにほかならなかった。したがって、価値の量は、抽象的人間的労働の量によって規定される。そしてもこの抽象的人間的労働の量は労働時間によって測られる。しかし、諸品の価値量は、その商品に直接に費やされた労働時間によって決められるのではない。ここで価値に対象化されているのは、個々の具体的労働ではなく、人間労働力の一般的支出としての抽象的人間的労働だからである。そこでは、ある一定時間に行われる労働の強度というが、この労働の強度や生産力が一般的であること、すなわち社会的平均であることが前提されている。つまり、価値の大きさは個別の具体的労働の労働時間ではなく、その商品の生産に社会的・一般的に必要とされる労働時間によって測られる。だから、商品の価値量はその商品の生産に社会的に必要とされる労働時間、すなわち社会的必要労働時間によって規定される。
私的生産者たちは、このことを自覚していない。彼らが関心を持つのは、市場で絶えず揺れ動く交換価値であり、それが彼らの想定する値打ちと比べて高いか安いかということだけだ。彼らにとって重要なのは自分の利益になるように交換するということ、すなわち、できるだけ安く買い、高く売るということである。しかし、私的生産者たちは、この私的利益を目的として交換を通じて、生産物に社会的必要労働時間に対応する価値を与えていることになる。というのも、私的生産者たちが何を生産するのかを決める際には、それがどれだけ有利に交換されるかが問題になるが、その有利さの基準は、自分が投入した抽象的人間的労働の量、すなわち労働時間に他ならないからである。だから、一定の期間をとれば、生産物の交換比率はこの価値の大きさに規制されたものにならざるを得ない。さらに、それは社会的総労働の適切な配分も可能にする。生産者たちが自分の生産物を社会的必要労働時間に対応する価値の大きさを持つものとして通用させるためには、社会全体の欲求に対応する生産物を生産しなければならないからだ。例えば、彼がすでに需要が満たされたものを供給しても、その労働生産物は利益をえることができないだろう。
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