佐々木隆治「なぜ働いてもゆたかになれないのか─マルクスと考える資本と労働の経済学」(7)~第5章 労働時間と自由時間
ここでは、労働時間について考える。賃労働は資本の価値増殖のための労働であることから、以前の労働とは全く異なった生活を持つ。労働時間についても賃労働は、それ以前の労働よりも長時間の労働が行われるようになる。
資本家の目的は、手持ちの貨幣を使ってできるだけ多くの貨幣を手に入れることである。つまり、資本の自己増殖運動を成立させ、できるだけ多くの価値を手に入れることである。それゆえ、資本家は労働力商品を消費する場合にも、この原則にしたがって行動する。つまり、彼は労働力商品の使用によって、できるだけ多くの剰余価値を生み出そうとする。さしあたり労働力の価値が一定とした場合、資本家が労働力を消費する際にもより多くの剰余価値を手に入れるためにどうするか。滋養世価値は労働力商品の価値と労働力が生み出した価値の差であった。それゆえ、剰余価値を増やすには労働力が生み出した価値の差であった。この場合、剰余価値を増やすには労働力が生み出す価値を増やすしかない。そのためには、抽象的人間的労働の支出量、すなわち標準的な労働時間によって規定されるのだから、より長い時間、労働力を使用すればよい。このように労働時間の延長によって生み出される剰余価値のことを絶対的剰余価値という。しかし、実際には労働時間を延長することは、それに比例して労働力の価値も高くなる。労働時間が長くなれば、それだけの労働力を再生産するのに必要な費用が増えるからだ。
こうして、資本家が絶対的剰余価値の生産を追い求めるようになると、労働者の労度ヴ史観は、それ以前とは比べものにならないほど長くなる。たしかに、以前の時代も搾取はあった。しかし、資本主義以前の時代では価値のために為される生産は例外的なものであり、生産の大部分は使用価値を手に入れるためで、それゆえ、無制限に長時間労働を強制するということはなかった。使用価値に対する欲望には限度があるからだ。これに対して資本主義社会では、生活必需品の多くが商品となり、貨幣の力が社会の隅々まで及んでいる社会で、そこでは価値こそが生産の目的となる。そして、この価値に対する欲望には際限がない。資本家は、この際限のない欲望に従って可能な限り価値を増やし、それを手に入れようとする。それゆえ、価値増殖を目的とする資本主義的生産では、最大限の労働時間延長が追求されるようになる。資本家にとって労働時間は長ければ長いほどよいのであり、そこに限度はない。
とはいえ、簡単に労働時間の延長ができたわけではない。以前の社会では労働者自身が生産過程を管理していて、小規模経営で仕事場と生活の場が密着し、労働時間と自由時間の境界が曖昧で、実際に労働する時間は長くなかった。そういう人を長時間労働に就かせるのは容易ではなかった。そこで資本家たちは国家による強制力を利用した。つまり法律による強制である。
労働者にとって労働時間の延長は自由時間の短縮に他ならない。それは、彼らの家族との時間のような人間らしい生活の時間を失うことになった。それだけでなく、資本の目的は価値であり、価値は抽象的人間的労働の対象化なのだから、資本は賃労働者に長時間労働を強制し、より多くの抽象的人間的労働を搾り取ろうとする。賃労働者はより大きい労力を支出することを強制され、しかも休息のための時間を奪われる。こうして、賃労働者は過労で心身の健康を害され、生存すら脅かされる。労働時間の過度の延長は、賃労働者の寿命を短縮することによって可能となる。
これに対して資本家は長時間労働を追い求めることをやめることはない。彼の目的は価値を手に入れることでしかなく、価値増殖の結果、どんなことが起ころうとも、貨幣という形で価値を手に入れることができれば、彼は価値の力を行使することができる。労働者が身体を壊しても、別の労働者を雇えばいい。
これは資本主義社会独自の現象である。それ以前の社会は農奴や奴隷を人格的に支配していたため、彼らの人格的再生産は権力にとって決定的意味を持っていた。これに対して資本家の権力は物象の力に基づいているので、彼にとっては物象つまり貨幣の力の獲得だけが問題なのであり、賃労働者の人格的再生産に配慮する必要がない。貨幣さえあれば、労働力であれ生産手段であれ、必要なものは手にはいるからである。たとえ、賃労働者の労働時要件に心を砕く資本家がいても、資本家は他の資本家との競争にさらされていて、競争に敗れれば資本家として生きて行けなくなるため、最大限の価値増殖の追求を強制されることになる。
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