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2025年5月

2025年5月30日 (金)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(4)~第3章.哲学批判と「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」

第1節.「哲学的良心の清算」と「新しい唯物論」の確立
 いわゆるマルクス・レーニン主義は、主にエンゲルスの「フォイエルバッハ論」と「反デューリング論」の叙述に基づいて、マルクスの理論を一つの世界観のもとに包括的に体系化した。その際、体系の基礎には哲学的唯物論および弁証法が据えられた。このうち、哲学的唯物論はフォイエルバッハ・テーゼ以降のマルクスの理論と対立するものであった。
 新しい唯物論は、たんに物質の第一次性を承認するにとどまるものでも、フォイエルバッハのようにただ幻想を否定して現実や人間を対置するものでもない。むしろそれは、幻想がなぜ、いかにして現実的諸関係から生成するのかを思考するむという唯物論的方法によって、人間の諸実践を制約する諸関係を把握し、社会変革の現実的条件を批判的に捉え直す立場のことを指している。このようなマルクスの唯物論がエンゲルスとは異なり伝統的な哲学的世界観を表わす概念ではなくなっている。エンゲルスは「フォイエルバッハ論」で哲学の根本問題、すなわち思考と存在の根源性をめぐる問題を提出し、世界の根源を精神とみなす立場を観念論として、逆に自然を根源的なものとみなす立場を唯物論として定義した。つまり、エンゲルスでは、唯物論は世界の根源性をめぐるひとつの哲学的世界観をあらわす概念というものだった。ところが、マルクスは、フォイエルバッハのような感性的現実を承認するだけの哲学的な唯物論を批判することによって、新しい唯物論を生成してくる。
第2節.「経哲手稿」と「テーゼ」・「ドイツ・イデオロギー」における哲学批判の差異
 「経哲手稿」における哲学批判の論理は基本的にフォイエルバッハの哲学批判に基づいている。つまり、人間的本質の疎外態である宗教や哲学に感性的人間の類的本質を対置するという仕方での批判は、ヘーゲル弁証法の弱点を無自覚的に繰り返しているバウアーへの批判を意図している。思弁における抽象的な自己意識の弁証法を感性的人間の次元で捉え直すことが課題とされていた。ヘーゲル弁証法の思弁性に感性的現実を対置するだけのフォイエルバッハと異なり、感性的現実そのものにおける歴史の運動そしてこの運動における矛盾を捉え限りで、マルクスはフォイエルバッハを乗り越えている。「経哲手稿」は、その試みであった。しかし、そのような感性的現実における運動と矛盾の把握は、感性によって哲学の思弁性を斥けるフォイエルバッハの論理に基礎を置いていた。したがって、ここで批判されているのは哲学の思弁性や抽象性である。
 これに対して「ドイツ・イデオロギー」では、哲学はさらに根底的な批判の対象となる。フォイエルバッハのように、思弁的・抽象的な哲学に感性的人間を対置することで批判すること自体が哲学的なやり方である、啓蒙主義であると批判するのである。ここでのマルクスの批判は、思弁や抽象画なぜ諸個人に対して疎外態として立ち現われるのかを現実的諸関係から捉えようとする態度こそが哲学批判なのだという。それこそが現実的諸関係の転覆に結びつくことができる批判なのである。これが哲学をイデオロギーとして批判するである。
 では、このような哲学批判の質の転換はどのような意義を持ち、まだマルクスの哲学観にどのような変化を及ぼしたのだろうか。
 マルクスは、たんに旧来の哲学の思弁性や抽象的な性格を批判したのではなく、世界を解釈してそこに内在する真理を見出すという哲学的問題構成から脱出し、現実的諸関係の革命的転覆という実践的問題意識へと移行したという意味において哲学の外部へと超出した。それは、たんに抽象的理念に現実や感性を対置したり、理論を実践に対置して実践の重要性を説くというレベルでの哲学からの超出ではない。たとえ理論において感性や実践を措定しようとも、諸実践が転倒した関係を再生産し続けるのであれば、絶えずそこからイデオロギーが生成し、強固な現実性を帯びる。理論においてはもちろんのこと、抽象から感性の次元に降り、実践するだけではこれを乗り越えることはできない。実践的問題構成において実践を制約する現実的諸条件を絶えず批判的に捉え返し、いかなる諸実践によって現存する諸関係が再生産され続けているかを把握することが、変革的実践の可能性を切り開くのである。
 このような哲学批判の質ゆえに、マルクスは現実的基盤を失った哲学的幻想を厳しく批判するだけでなく、哲学というひとつの幻想形態から生成する現実的諸関係を考察の対象とした。「ドイツ・イデオロギー」において、フォイエルバッハのように抽象的理念の現実的支配力を信じ、しかもその理念がたんなる個人の恣意的藩政に基づいていると考えるがゆえに諸個人が抱く理念を別の理念に取り替えればよいとするような啓蒙主義が厳しく批判されるとともに、なぜそのような啓蒙主義がドイツの跋扈するのかが、ドイツに局限された現実的諸関係から解き明かされることになる。したがって、哲学を斥けるだけでなく、現実的諸関係との関連を考察することでそれが発生する原因やそれがもつ現実的効果を捉えるという意味でもマルクスは哲学の外部にいるのである。
第3節.「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」
 哲学的世界観としての唯物論は、精神に対する物質の第一次性を承認し、物質を世界の根源とみなす。つまり、それは世界を説明する原理あるいは起源として物質を措定しており、明らかに哲学的問題構成のなかにある。これに対して、実践的問題構成に移行したマルクスは、ただ世界を解釈して、世界を説明する原理としての物質や感性を措定しようとする発想はない。むしろ、諸個人の生活実践および変革実践を制約する現実的諸条件を捉えるという問題意識から、人々の行為や思惟を規制してイデオロギーを生み出す現実的諸関係に立ち返り、変革実践の現実的可能性を展望するのがマルクスの唯物論なのだった。
 このように考えると、マルクスの唯物論的な歴史の見方を唯物史観という名のもとに再び哲学化し、固定した理論図式として捉えることの誤りは明らか。マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」や「経済学批判」で歴史を分析するための一定の理論図式を提示しているが、それはあくまで変革の現実的条件を具体的・批判的に分析するための導きの糸にすぎなかった。固定した理論図式では固有の対象の固有の論理を明らかにすることはできず、したがって、現実的諸条件による制約を深くつかみ、変革の現実的展望を指し示すことはできない。マルクスの唯物論は、固定した理論図式を機械的に適用するのではなく、むしろ諸実践に対する制約を表現した理論図式を導きの糸とすることによって、具体的な対象の具体的条件をつかみ、変革の可能な領野を示すことを志向する。そこでは、真理とは何かを問うのではなく、なぜ、どのようにして真理がそのような形態をとって現われるのかを問う、新しい唯物論が哲学的問題構成に陥ることを回避し、変革の可能の現実的条件を明らかにし得るのである。
第4節.哲学批判の深化とプルードン批判
 マルクスが新しい唯物論を確立することによって、フォイエルバッハだけでなくプルードンなどへの評価も一変した。
1.「経哲手稿」および「聖家族」におけるプルードン評価
 この時点では、マルクスはプルードンを高く評価している。プルードンはヘーゲル左派とは異なり、経済という現実的、実践的な領域の批判を遂行した。そのなかで、経済学が無批判に前提していた私的所有を検討の対象とした。しかし、他方で、マルクスはプルードンの限界も指摘していた。プルードンは私的所有の非人間性を告発しながらも、してく所有を生み出さざるをえない、労働の一定の社会的形態そのものの矛盾を見ていないのだった。
 プルードンは、基本的に所有を平等の原理に基づくものとして理解する。土地が平等に占有され、各自が自らの労働の成果を自分のものとするという社会を想定し、そのような社会から所有権が発生したと考える。そこでは、人々は等しい労働量の生産物を等価交換し、経済的な均衡が達成され、平等、正義が実現されている。しかしながら、現実の所有においてはこのような平等の原理は侵害されてしまう。なぜなら、生産手段を所有する資本家は、労働の結合から生み出される集合力をまるごと領有しながらも、労働者に対しては彼らが個々に生産した場合の賃金しか払わないからである。ここから生産と消費の不均衡が生まれ、恐慌など様々な矛盾が生み出される。それゆえ、プルードンは等価交換による均衡、またそれによる平等と正義の実現のために、平等な土地の専有にもとづく労働を主張した。つまり、プルードンは、等価交換を可能とするとされる個人的占有の立場から、所有を批判した。
 当時のマルクスは、自己意識を問題にする哲学とは異なり、プルードンは所有という現実的、実践的な領域を問題にしたところ、現実の貧困から出発して私的所有を批判したところを高く評価した。
2.「アンネンコフへの手紙」および「哲学の貧困」におけるプルードン評価
 ところが、プルードンの評価は「アンネンコフへの手紙」および「哲学の貧困」で放棄され、きわめて厳しい批判の対象となる。
フォイエルバッハが「聖家族」の時点で共産主義の理論的代表者とされていたにもかかわらず、「フォイエルバッハ・テーゼ」では、市民社会の唯物論に一括されたのと同様に、プルードンの位置付けも変わった。経済学の立場にとどまっているという限定付きながら、私的所有の本来の原理と現実との矛盾を鋭く暴き出すプルードンの舌鋒は啓蒙主義批判として大きな意味を持っていた。4しかし、たとえそれが感性的実践であれ、抽象的理念に別の何かを対置して批判するという方法に至る啓蒙主義として斥ける新しい唯物論の立場では、もはや批判の対象でしかない。それは、私的所有を非歴史的に把握し、そこから恣意的に抽象された原理によって、現実の矛盾を批判するものでしかなく、この現実の矛盾を生み出す私的所有、あるいはそれを成立させる社会的諸関係を批判しうるものではない。哲学の立場から脱しきれなかったフォイエルバッハと同じように、経済学や哲学の立場から達することができなかったプルードンが小ブルジョアの科学的代弁者と評価されたのだった。
3.哲学批判から経済学批判へ
 マルクスは、経済学のカテゴリーを哲学的に理念化するのでもなく、それを実践的契機を欠いた単なる理論的抽象だとして斥けるのでもない。むしろ、マルクスは古典派経済学の経済学的カテゴリーがブルジョワ的生産様式に対応するものであることを見抜き、永久の自然的関係の表現としての古典派のカテゴリーを歴史的な視角から批判するとともに、現実的諸関係と経済学的カテゴリーの連関を再吟味しようとした。この作業を通じてこそ、歴史的に超えることのできる体制としての近代ブルジョワ社会の運動法則を把握し、変革の現実的条件をつかむことができるからである。問題なのはたんに感性の立場から私的所有や疎外を理念的に批判することではなく、むしろ疎外が生成する現実的条件、現実の運動を把握し、変革の条件を指し示すことである。ここに、経済学的カテゴリーの批判であり、体系の叙述であると同時に、叙述による体系の批判でもある経済学批判の基本的な構えが成立したと言える。

 

2025年5月29日 (木)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(3)~第2章.マルクスにおける「新しい唯物論

第1節.「資本論」における「唯物論的方法」
 「資本論」では次のように唯物論に対述べられている。
 “じっさい、分析によって宗教的幻影の現世的核心を見いだすことは、逆に、その時々の現実的生活諸関係からその天国化された諸形態を説明することよりもずっと容易である。後者が唯一の唯物論的な、したがって科学的な方法である。”
 いわゆる通説では、唯物論は精神に対する物質の第一次性を承認する立場であると言われる。そのような通説は哲学史一般における唯物論の概括的理解としては妥当だとしても、マルクスの唯物論の理解としては不十分である。というのも、唯物論的方法についてマルクスが否定的に捉える“分析によって宗教的幻影の現世的核心を見いだす”方法も、物質の根源性を認める立場であると言えるからだ。マルクスの唯物論は通説的な理解だけでは捉えることができない。したがって、マルクスの唯物論を理解するには、なぜマルクスが“分析によって宗教的幻影の現世的核心を見いだすこと”ではなく“その時々の現実的生活諸関係からその天国化された諸形態を説明すること”こそが唯一の唯物論的方法であると述べたのか、を考えることが必要となる。ここでは、この問いを「経哲手稿」と「フォイエルバッハ・テーゼ」の差異に焦点を当てることで考察する。
第2節.初期の諸著作における唯物論
 ここでは、これからの考察の前提として、唯物論がはじめて肯定的に言及された「経哲手稿」以前の最初期の諸著作においてマルクスが唯物論をどんな意味で使用しているか確認する。「ユダヤ人問題によせて」や「ヘーゲル法哲学批判序説」の頃までのマルクスは物質主義と言い換えてもいい否定的な意味で用いている。この頃ではまだ、自らの立場を指す概念として唯物論を用いてはいない。しかも、唯物論的方法のような問題意識も稀薄である。「ヘーゲル法哲学批判序説」では、”この国家、この社会的結びつきが世界についての倒錯した意識である宗教を生み出している。なぜなら、この国家、この社会的結びつきが倒錯した世界だからである”ということが述べられ、”天国的形態”の基礎が現実的な諸関係にあることは掴まれてはいる。しかし、それでも、唯物論的方法とは、次の点で異なっている。というのも、そこでは唯物論的方法で斥けられている” 宗教的幻影の現世的核心に解消する”方法もまた肯定的に捉えられており、両者の方法の区別が曖昧だからである。むしろ、まず宗教的幻影を現実に還元するというイデオロギー批判を遂行することで人々を幻想から解放し、それから物質的な条件ゆえに現実を変革せざるを得ないプロレタリアートが現実の諸矛盾の止揚に取り組む、という図式に基づいている。変革の根拠として感性的欲求が建てられているとしても、哲学が大きな役割を果たすと考えられている。
第3節.「経済学哲学手稿」の唯物論
 ここでは、フォイエルバッハを評価している。フォイエルバッハは”神・精神・霊魂・自我”が単なる抽象であるのと同じように、”肉体・物質・身体”もまた抽象にすぎないと考えていた。そして、このような抽象に対置されるのが”感性”であり、それだけが”真理・本質・現実性”であるとされる。フォイエルバッハにおいては、”疑うことができず、直接に確実なものは、ただ、感覚器官の、直観の、感覚の対象であるものだけ”であり、”ただ感性的存在だけが、真の存在、現実的存在”である。にもかかわらず、抽象的知性によって感性を捨象することで、人は感性的な存在を”実体・原子・自我・髪として孤立”させてしまう。フォイエルバッハによれば、感性に依拠することによってこそ、そのような抽象から免れ、真理を捉えることができる。この感性はたんなる知覚を意味するのではなく、現実の人間がもつ感性であり、したがって、他者とつながることを欲望する。このような現実の感性的存在としての人間に立脚するのがフォイエルバッハの立場だ。この人間の感性依拠する立場をマルクスは評価する。それは、マルクスの”貫徹された自然主義ないし人間主義は観念論からも唯物論からも区別され、同時に両者を統一する真理である”という言葉に表われている。
 それに加えて、フォイエルバッハが感性に依拠せよと言うとき、経験論のように外部の事物のみを対象としているのではなく、現実的自然存在としての人間自身をその最も本質的な感覚対象としている。このような認識は、フォイエルバッハが人間を受苦的な存在として捉えていたことが深く関係している。フォイエルバッハは、人間を感性に基づいてその現実的な有り様から把握しようとしたがゆえに、人間を受苦的で有限な存在として理解した。受苦的存在である人間が、その受苦性、有限性ゆえに他者を必要とし、結びついていく。これが連帯の原理となる。
このように、マルクスは既存思弁的哲学に現実的な感性を対置したフォイエルバッハを評価し、影響を受けた。しかし、フォイエルバッハは啓蒙主義的問題意識からそれを行った。これに対して、マルクスの問題関心は現実の政治経済そのものへの批判と変革にある。それゆえ、フォイエルバッハのように直観によって宗教的な幻想を暴露し、その幻想による疎外から自由になるだけでは不十分だった。その宗教的な幻想の基礎にある現実の書矛盾に介入し、現実の疎外を克服する必要があった。このような変革の展望を論理的に把握する手段としてヘーゲルの弁証法に注目していた。したがって、マルクスはヘーゲルの弁証法の思弁的性格をフォイエルバッハの感性によって批判すると同時に、フォイエルバッハの無媒介性をヘーゲルの弁証法によって批判したのである。
 マルクスはフォイエルバッハのように人間をただ受苦する存在として捉えるだけでなく、受苦するゆえに情熱的存在であり、対象に向かって努力を傾ける存在、つまり能動的・活動的性格を読み込もうとした。
人間の本質が対象によって規定されるとすれば、本当に豊かな感性が現われるには歴史の運動が不可欠となる。歴史の中で人間は労働し対象を変革することで、その対象を変革することで、その対象とともに自らの感性を豊かにしていく。つまり、受動的な感性そのものが人間の本質的諸力の対象化によって作り替えられるのである。
 このような読み込みの上に、マルクスは人間の類的本質の疎外をたんに観念のレベルでの宗教的疎外としてではなく、現実世界における労働の疎外および共同性からの疎外として読み解く。フォイエルバッハがただ感性的直観によって観念的疎外からの脱却を図るのに対して、マルクスは能動的な実勢を提起する。すなわち、対象とともに人間自身を発展させる条件を形成する歴史の運動を前提として、労働の所産が私的所有として疎外されてしまう現実を止揚し、新しい社会、つまり社会主義を目指す実践である。そこにおいて、疎外された人間の類的本質は取り戻される。それが、この時点でのマルクスの見解であった。
 まとめると、フォイエルバッハは実践を行わないし、また、実践に直接役立ちうる理論ではないが、理論の領域における理論としては十分有用だと考えていた。このような考え方は、後の「フォイエルバッハ・テーゼ」では撤回され、その理論的基礎そのものが批判の対象となっていく。
第4節.テーゼ(1)と「経済学哲学手稿」の差異
 マルクスは「フォイエルバッハ・テーゼ」(1)において、フォイエルバッハ唯物論の欠点として”対象、現実、感性”が”感情的・人間的活動、実践”として捉えられないことをあげ、他方ではヘーゲルなどの観念論の欠点として現実的・感性的活動を捉えないことを批判する。このような構図をとっている。ここでは、「経済学哲学手稿」の場合とは違って、フォイエルバッハを根本的な批判の対象となっている。この批判の理由、具体的内容は、次の節で考察する。
第5節.「フォイエルバッハ・テーゼ」におけるフォイエルバッハ批判の意味
 ここでのフォイエルバッハ批判は、「経哲手稿」におけるフォイエルバッハが感性主体と感性対象を感性的人間活動、すなわち実践として把握しなかったことに対するものとは違って、フォイエルバッハが感性を客体または直観の形式として捉えたことに対するものとなっている。感性を感性的人間活動として、すなわち実践として主体的に把握するということの意味はあくまで客体または直観の形式への批判との関連で捉えられる。「経哲手稿」での批判はフォイエルバッハの感性の捉え方じたいは問題にされていない。それを高く評価した上で、ヘーゲルの否定の否定の論理の積極的意義を掴みそこなったことが批判されていた。ところが、ここでは客体または直観の形式において感性を把握するというフォイエルバッハの感性の捉え方そのものが批判の対象となっているのである。ここでのマルクスの批判は能動性や活動的側面の欠如を指摘するにとどまるものではない。客体または直観の形式なおいて感性を捉えること、言い換えると、ただ感性に基づく直観によって真に現実的な客体を得ることができるのであり、それゆえ感性こそが真理の基準であるというフォイエルバッハの感性概念の核心そのものが批判の対象となっているのである。真理は、フォイエルバッハのように実践から切り離されたところで、ただ感性的な直観に従えば手に入るというものではない。あくまで実践において人間は自分の思考の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならないのである。
 マルクスは、次のようなロジックで実践を通じた自己確証について述べている。自らの人格的力を労働によって対象化することで、人格が感性的に直観できるものとなり、その感性的な確実性ゆえに自分の個性的な力を揺るぎないものとして確証する。したがって、このロジックで人間の労働実践の対象が感性的直観の形式で把握されている。ここでは対象に働きかけることで主体が自己確証するという実践や労働の意義が掴まれている。フォイエルバッハのように、たんに対象を直感されるだけの客体として捉えたのではない。「経哲手稿」のマルクスは、フォイエルバッハ的直観に実践を対置して批判するという発想はみられなかった。ここで批判されるのは、フォイエルバッハが感性をただ直観の形式において捉えるにとどまったことであり、また、それゆえに感性を実践において掴めなかったことである。
 フォイエルバッハ・テーゼにおいて、どのような人間の感性も現実の実践ないし活動によって形成された環境の中にあり、それに規定されて存在するのであり、それ故、対象、感性をたんに客体とか直観の形式で捉えることはできない。フォイエルバッハの唯物論は現実への手がかりを与えたが、それがたんなる客体と直観の形式であるかぎり、抽象的、観念的なのである。あらゆる社会的生活は本質的に実践的だから、実践の外部にある感性や直観など実際には存在しない。フォイエルバッハの立場は哲学者のような客観的に認識できる者と、それ以外の実践者を二分し、前者が後者を啓蒙するという発想がある。フォイエルバッハ・テーゼでは、フォイエルバッハのこのような根本的な姿勢を批判している。フォイエルバッハは世俗の実践から切り離された感性的直観によって現実=真理を把握し、そのことによって人々を啓蒙し、幻想から解放しようとする。しかし、マルクスによれば、そのようなことは不可能だ。というのも、われわれは常に活動ないし実践を通じて一定の社会的諸関係を形成しており、そのような実践的な社会的諸関係から幻想的諸形態が生まれてくるからである。社会的諸関係による規定性のあり方はたんなる直観によっては決して変えることができない。われわれを制約する諸関係そのものを変革する試みの中で、はじめてそれを変えていくことが可能になる。
 ここでのフォイエルバッハ批判は、たんなる能動性や活動性の欠如という批判にとどまるものではない。フォイエルバッハは人間を感性的で受苦的存在として捉えるので、人間を制限され制約された存在だとして捉える視点をもってはいる。しかし、それは現実の、ありのままの人間が感性的存在ゆえに受ける制約制限であって、実践的な社会諸関係の中で人間が受ける制約が問題になっているわけではない。そうでなければ、フォイエルバッハは感性的直観を真理の基準とすることができなかったはずである。このようなフォイエルバッハの唯物論では市民社会=ブルジョア社会の諸関係を前提としてしまうため、この社会の再生産構造を把握することができない。つまり、私的所有という事実を概念化することはできない。それがフォイエルバッハの唯物論の限界なのである。
第6節.テーゼ(四)における「唯物論的方法」
 “フォイエルバッハは宗教的な自己疎外、つまり宗教的世界と世俗的世界とへの二重化という事実から出発する。彼の仕事は、宗教的世界をその世俗的な基礎へと解消するところにある。だが、世俗的な基礎がそれ自身から浮遊して、雲の中に自立的な国が固定されるということは、この世俗的な基礎の自己分裂・自己矛盾からしか説明できない。したがって、この基礎そのものがそれ自身において、基礎そのものの矛盾の内で理解されるとともに、実践的に革命されなければならない。それゆえ、例えば地上の家族が聖家族の秘密だと暴かれた後では、今度は前者そのものが理論的かつ実践的に消滅させられなければならない。”
 現実の、実践し活動する人間は、それらの実践によって形成される現実の諸関係の中にある。このような諸関係によって制約されている。現実の諸実践において、どのように変革実践を行っていくかが問題なのだ。それには、幻想を現実に解消するというフォイエルバッハ的な方法では不十分なのだ。
 マルクスの問題関心は革命的実践であった。「経哲手稿」までは、その目的のためにフォイエルバッハの理論が使えると考えていた。しかし、このフォイエルバッハ・テーゼでは、その考えを捨てる。たんに、幻想を現世的核心に解消することからは、革命的実践は生まれない。むしろ、革命的実践のために必要なのは、幻想がわれわれに取り憑く必然性、その強固さを忘れないことだ。幻想に現実を対置することで安易に諸関係による制約から脱出しようと試みるのではなく、一定の諸関係から幻想が必然的にあらわれてくるその仕組みを明らかにすることによって、革命的実践の道が開かれる。これが、マルクスが有物論的方法を自らの立場とした所以である。
 そのうえで、マルクスの新しい唯物論とは、フォイエルバッハを含めこれまでの唯物論は、市民社会を実践的変革に結びつく仕方で批判することができず、依然として市民社会の立場を抜け出すことができない。これに対して、新しい唯物論は人間的社会あるいは社会的人間、すなわち共産主義の立場に立ち、市民社会の実践的変革を志向する。それゆえ、共産主義、すなわち市民社会を変革する立場から、その変革の可能性と条件を明らかにするために、人間の恣意や行為を制約する現存の諸関係がいかにして成立しているのかを明らかにするのが新しい唯物論と言える。

 

2025年5月28日 (水)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(2)~第1章.マルクスの「唯物論」にかんする諸説

 マルクスの経済学批判の営みにとって、新しい唯物論の確立は決定的に重要である。しかし、このことは新しい唯物論が経済学批判のための哲学的基礎や世界観となったということを意味するのではない。あるいは、経済学批判のための道徳的基礎を対立したものでもない。
 まず、従来のマルクスの唯物論研究には三つの潮流に大別できる。第一には、マルクス自身のテキストに依らずに論じるというもの。この立場では、往々にしてマルクスとエンゲルスを一緒くたにしてしまう。第二には、すでにある解釈論による基準を当てはめてマルクスの唯物論を考察するというもの。マルクスの思考の脈絡を考慮することなく、解釈者の既存の問題意識から解釈してしまう。第三には、マルクスの唯物論を、世界をトータルに説明する一般的概念として捉えようとするもの。
第1節.「マルクス・エンゲルス問題」を考慮しないアプローチ
 エンゲルスはマルクスの盟友であり、マルクス主義を一貫した科学的世界観として平明に叙述した人物として一般に知られている。しかし、マルクスとエンゲルスに理論的一体性があるとは言えない。とくに、唯物論の捉え方について両者の差異は大きい。マルクスは哲学体系としての唯物論を提示したことはなかったし、普遍的な運動法則の存在を否定していた。これは、エンゲルスとは正反対の方向性といえる。
第2節.「外挿法」的なアプローチ
 マルクスのテキストに依拠しながらも、解釈者の側にある唯物論の基準をマルクスに当てはめて考察するというアプローチ。典型的なものがスターリン主義とそれへの批判である。あるいはアルチュセールや広松渉の解釈がそうである。彼らは、マルクスの叙述を手がかりに独自の哲学を展開しているが、それによってマルクスを理解することはできない。
第3節.「実践的唯物論」によるアプローチ
 マルクスのテキストに依拠し、その思考の文脈に内在しようとする志向を持ちながらも、哲学として捉えようとするアプローチ。実践的唯物論と呼ばれる弁証法的唯物論(ソ連によるもの)に対抗する概念としてグラムシなどが主張したもの。これは、トータルとしてのマルクスやマルクス主義の理論的基礎の分析としては優れているが、体系性を重視するあまり、マルクスの唯物論そのものの概念規定が曖昧になってしまう。哲学批判というマルクスの問題構成とはズレていってしまう。
第4節.「マルクスの唯物論そのもの」を考察対象とするアプローチ
 マルクスの唯物論を明らかにするためには、マルクス自身のテキストに依拠し、しかもマルクス自身の思考の脈絡に内在しつつ、マルクスのテキストにおける唯物論という概念がどんな内容を持つものであるかを検討しなければならない。1~3節のアプローチは、この基準に照らしてみると、マルクスの唯物論そのものを対象としたものではないことが確認できた。この立場にも問題がある。
第5節.小括
 既存の問題構成はマルクスの唯物論そのものを曖昧にしてしまうが、そのことを顕著に現れているのが、「経哲手稿」と「フォイエルバッハ・テーゼ」あるいは「ドイツ・イデオロギー」の連続と断絶をめぐる議論である。両者の間を断絶を重視するか、連続を強調するかで、既存のアプローチは立場が分かれる。それは、マルクスがトータルな理論体系を構築したと考えるからで、それは、マルクスが実際にやった仕事とはズレている。マルクスが完成させることができたのは経済学批判の一部でしかない。マルクスにとって重要だったのは哲学的な体系構築ではなく、変革のための批判であった。マルクスは絶えず、その都度、具体的現実と向き合い、何度も何度も経済学批判をめぐる現実的な問題に立ち返って考え抜いた。歴史上に存在したのは、それに従えば万事うまくいくという包括的理論体系の構築者としての哲学者マルクスではなく、与えられた具体的な状況において変革実践にとって有益な視座を与えてくれる革命思想家としてのマルクスなのである。マルクスの唯物論とは、そのような実践的・批判的構えのことに他ならない。

 

2025年5月27日 (火)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(1)

11115_20250613214801  マルクスの資本主義批判とはたんに資本主義画が生み出す矛盾を暴露し、指弾するものではなく、資本主義的生産様式を根底において成り立たせている固有の関係を掴みだそうとする試みであった。そのような観点からみれば、マルクスの資本主義批判はアクチュアリティを失うどころか、むしろ真にアクチュアリティを発揮する。というのも、資本主義的生産様式の様々な変化にもかかわらず、その根底にある固有の関係はますます拡大し、支配的になりつつあるからである。私たちがマルクスのアクチュアリティを見落としたとすれば、その原因はマルクスにではなく、読み手の側にある。いまマルクスから何かを学ぼうとするなら、マルクスがはじめて明らかにした資本主義的生産様式の根底にひそむ関係とその論理を、既存の理解を前提するのではなく、マルクス自身のテキストから徹底的に掴みとる作業が必要となる。
 マルクスが「資本論」において資本主義的生産様式を批判したことは誰でも知っている。しかし、知っていることと理解していることは同じではない。マルクスはたんに搾取や貧困を告発しただけではない。あるいは、商品流通によって覆い隠された、生産過程における搾取を暴露することにとどまるものではない。
 マルクスがその経済学批判研究において長い苦闘のすえに掴みだしたのは、近代社会を根底において支えているきわめて特殊な、人間と人間との関係、そして人間と自然との関係であり、そこで成立している論理であった。それは、私たちの身近に存在し、私たち自身が日々その行為によって再生産し続けている関係でありながら、むしろ、その身近さゆえに理解することが非常に難しい関係であり、マルクス以前には、問題にすることすらできなかった。そして、近代の根底にあるエレメンタリッシュな関係とその論理を問題にするものこそが、物象化論にほかならない。
 本書の目的は、マルクスの経済学批判において決定的な重要性を持つ、この物象化論の理論的核心とその意義を明らかにすることにある。
これまでの物象化論の多くは、「人格の関係が物象の関係として現われ、人格の関係が覆い隠される」というものであった。ここで焦点となっているのは現象形態であり、それが本質を覆い隠すという事態のことである。だが、現象形態が本質を覆い隠すというのは事柄の一面でしかない。マルクスは、そのように現象するという本質のあり方であり、それがどんな人間の振る舞いによって成立しているかを問題とした。現象形態が本質を覆い隠すという物象化論理解は所有基礎論と相即していた。所有基礎論は、資本主義的生産関係の基礎を、マルクスのように諸個人の関わりの特定の形態に見るのではなく、生産手段の私的所有に見る。そして、生産手段を所有した資本家が無所有の賃労働者を生産過程において搾取するシステムとして資本主義的生産様式を把握する。このような理解では、生産関係がたんなる生産手段の所有問題に還元されて、商品流通の外観にもかかわらず依然として階級関係が存在することが示されるだけであり、物象化された生産関係の固有性はたんに事態が物象によって隠蔽される点にしか求められない。
 そのほか、伝統的マルクス主義も哲学的アプローチもマルクス物象化論を的確に捉えていない。

 

2025年5月26日 (月)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(7)~第12章 縁起の発見

 無我は個体存在のあり方を空間的に分析するものであるのに対して、縁起時間軸に沿って個体存在を分析する。縁起とは、「縁りて起こる」という意味である。AがあればBがあり、BがあればCがあり…という連鎖が輪廻する個体存在のありようを、そして、AがなければBがなく、BがなければCがなく…という連鎖が悟りへと向かう個体存在のありようをあきらかにしたものとして、初期仏典の随所に縁起の教えが説かれている。その代表的なものが十二支縁起である。そこで、ブッダは輪廻する個体存在のありようを観察し、まず順観において無、輪廻の根本原因が無知(無明)にあることを突き止め、逆観において、無明とそれに付随する煩悩を断じることで輪廻の苦しみも断じることができることを発見した。これが縁起である。
 煩悩を断じれば、業が未来に報いをもたらす能力を失う。インド思想一般の公理では、輪廻の直接原因は煩悩ではなく業である。この公理を仏教も受け入れている。来世を生み出すのは業である。まあ、煩悩が原因となって業を積んでしまうので、煩悩を断じれば新たに業が積まれなくなるという構造から説明できる。ただし、業が来世を生み出すには、煩悩という促進剤が必要で、裏を返せば、すべての煩悩を断じれば、これまで積み上げてきた業もすべて不活性化する。
 このような構造をまとめたものが縁起である。輪廻の苦しみが起こる原因を順々に知り、無明がその根拠にあること、そして悟りの知恵を起こして無知を滅せば、業も滅し、輪廻は終極へと向かう、とブッタは悟った。

2025年5月25日 (日)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(6)~第11章 無我の発見

 ブッダは、当時のバラモン教や沙門宗教が主張していた瞑想や苦行を否定して、知恵により現象世界のあり方を正しく認識することで解脱できると主張した。ブッダが発見した現象世界のあり方として、自己原理であるアートマンが存在しないという無我がある。
 まず、ブッダは生存する個体存在の成り立ちを分析し、これが色・受・想念・行・識の五要素から構成されると説いた。そして、その要素の出雲、自己原理ではありえないという。バラモン教で恒常不変である自己原理は、不老、不死といった属性を持つ安定したものとして説かれる。ブッダは、個体存在を構成する五要素に分解し、そのいずれも変化し壊れるという属性(無常)をもつゆえに、苦であるから自己原理ではありえないという。
 また、唯物論とくらべてみると、唯物論は個体存在を物質からのみ成り立つと考える。これに対して、ブッダの五要素論は、物質からなる肉体のみならず苦楽の感受作用、概念や表象を作る作用、意思的作用、認識行為などの精神活動も、個体存在の構成要素であり、それらが互いに影響し合いつつ独立して、個体存在を構成しているという。このような個体存在のあり方を、ブッダは車に譬えている。車は車輪や頸木といった部品が集まってできている。車を車むたらしめる車原理のようなものが存在しているのではない。同様に、我々の個体存在もまた諸要素が集まって人となっているだけであって、人を人たらしめる自己原理があるわけではないという。
 ここから自己は存在しないという無我論が導かれる。

2025年5月24日 (土)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(5)~第10章 ブッダの宇宙

 バラモン教が奉じるヴェーダ聖典の新層であるウパニシャッドにおいて、人々の最終目標は、天における不死を得て輪廻を終極させること、つまり解脱になった。この解脱は、自己原理(アートマン)を解き放ち、宇宙原理である最高神ブラフマンの世界に合一することで得られる。これを梵我一如という。仏教は、解脱して輪廻を終極させるというアイディアを採用しながら、バラモン教の宇宙論を再構成する。
 ブッダは、当時のバラモン教や沙門宗教が解脱だと信じているものが、実は輪廻の終極ではなく、天と地を往復循環する現象を近視眼的にしか見ていなかった錯誤であるとして、新たな宇宙論を提示した。そして、当時主流だった瞑想を深めて現世で宗教的感性を得て、死後に天界で不死を得るという形では解脱しきれないと批判し、同様に、苦行によって解脱を得るというジャイナ教の修道論もまた批判した。ことは、当時のインド諸宗教において、仏教の優位性と独自性を誇示しようとした結果である。
 ブッダは、いずれの天界であろうと現象世界の内側にいる限り、解脱(不死)はありえないと考えた。つまり、現象世界の外側に解脱を求めた。展開に再生することが叶い、長寿と繁栄を享受できたとしても、それは現象世界の内側にあるため決して不死ではなく、そこで死ねば再び苦難の多い地上に戻らなければならない。ブッダは、現象世界との関わりが断たれたことこそが解脱の境地であると考え、それを得るためには現象世界を分析して正しい知恵を起こす必要があると説いた。

2025年5月23日 (金)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(4)~第9章 六師外道とブッダ

 初期仏典には仏教以外の沙門集団として六部外道が記録されている。これらの所論はブッダに論破される文脈でのみ言及されている。そのブッダによる論駁から、次のような仏教の特徴が現われてくる。
①バラモン教に対抗する形で現われた沙門の間では、業と輪廻の世界観と、輪廻する主体としての自己原理(アートマン)とを受容する、あるいは拒絶するかで見解が分かれている。これを受け入れず拒絶した沙門には、無人が地・水・火・風という四元素から成り立つという唯物論者や、地・水・火・風・苦・楽・命の七要素から成り立つ要素論があり、これらは、この現象世界を構成する要素が互いに影響を与えることなく独立して存在していると考えた。古代インドの道徳は悪因苦果・善因楽果という業報輪廻の上に成り立っているので、彼らはおしなべて道徳否定論者でもあった。
 これに対して、ブッダは、業と輪廻の世界観を受け入れながらも、自己原理(アートマン)の存在を否定した。ブッダは、個体存在が五要素(色、受・想・行・識)からなり、それぞれの要素が互いに影響し合うと説いた。この五要素の中に善悪業その果報が含まれることが、唯物論や要素論に陥ることのない仏教独自の無我説が確認できる。
②業と輪廻の世界観を受容するにしても、その具体的なあり方について、沙門たちの間で見解が異なっている。そういう所論に対して、ブッダは現世における努力や精進が重要であるという立場を採った。
③修業の中でも苦行の無益さを説き、極端な楽と苦を離れた中道を行く重要性を説いた。
④知識の限界や確かさに対する疑問について、懐疑論者は、その質問に明確な回答をせず、曖昧にやり過ごした。彼らを無記と結び付け、ブッダを不可知論者と位置付ける研究者もいたが、ブッダは不可知論者ではなかった。

2025年5月22日 (木)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(3)~第8章 仏教誕生の思想的背景

 初期仏典に先入観なく付き合うことはできない。まして、そこからブッダの歴史的文脈を正確に導き出すことはきわめて難しい。初期仏教は、ブッダの死後に弟子たちによって編纂されたものである。彼らはブッダの生涯や事績を先入観なく記録しようとしたのではなく、ブッダの偉大な先駆性を遺すために篤い信仰心をもって編纂したのである。したがって、初期仏典から歴史的文脈を読みだそうとするなら、我々はこの偉大な先駆性がどのようなものだったか解明することに注力することになる。確かに、ブッダが世に現われたことで、インドは変貌を遂げた。本章では仏教が生まれた時代背景から見ていく。
 紀元前1200年ごろのインドに遊牧民族であるアーリア人が侵入し、支配層となった。彼らはヴェーダと呼ばれる聖典を編纂し、これを方言とする社会体制を構築した。司祭階級を頂点とするバラモン教の社会である。当初のヴェーダ聖典の古層における人々の宗教目的は、死後に天界に再生、つまり生天することで、業や輪廻といった考え方はなかったと言っていい。これが現われてくるのはウパニシャッドと呼ばれるヴェーダ聖典の新層になってからのこと。つまり、新層になった際に解脱こそが目的であると再定義された。
 ウパニシャッドが成立し始めた紀元前8世紀ごろにバラモン教の権威が揺らぎ始める。古層では祭祀によって天界に召されるので司祭階級の権威はぜったいだ。しかし、ウパニシャッドでは個人の善悪の行為が来世を決定づけることになるので、祭祀によらずとも善行を積めば天界に再生できる。そこで、祭祀の絶対性が否定されることになる。それに伴い司祭階級の支配に隷属する必要はなくなる。この流れを受け、バラモン教を公然と批判する沙門と呼ばれる自由思想家たちが、紀元前7世ころから現われる。仏教も沙門のひとつである。
 バラモン教と対立する沙門宗教としての仏教の特徴として、次のような点があげられる。
①不可触民の生まれであっても、修業によって聖者となりうる。
②ヴェーダ聖典に基づく祭祀の努力を否定する。
③遊行の生活を基本とし、乞食によって生命を維持する。
 沙門宗教の一つである仏教は、ヴェーダ聖典の新層であるウパニシャッドで展開された輪廻や解脱といった世界観を共有しながらも、それと批判的に対峙し、真の理想の修行者像を探究した結果、生まれたものと言える。

2025年5月21日 (水)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(2)~第2章 初期仏典をどう読むか

 ブッダを知ろうとするなら三蔵と呼ばれる初期仏典を検討する必要がある。三蔵は、ブッダの死後に残された弟子たちがブッダの教えが散逸しないようにまとめ上げたものである。もともとは口承で伝えられたもので、律蔵、経蔵、論蔵の三つから構成される。仏教の教団はブッダの死後100年を過ぎると分裂を始め、最終的には20もの部派に分かれたが、その部派がそれぞれに三蔵を保持していた。それらには、ある程度の共通性はあるものの、全体として統一されているわけではない。中には、互いに矛盾している場合もある。
 古代や中世の仏教者たちは、仏典を批判的に読むということがなく、仏典は暗唱されるべきもので、その読み方は注釈書において厳格に定義され、それに異議を唱えることは禁忌であった。現代の我々は、仏典を批判的に読み、伝統的な読みを否定して、新しい解釈を見出す自由がある。とはいっても、批判的に仏典を読むことは難しい。そこに自らの願いを織り込んでしまいがちだからである。
 本書では、「天上天下唯我独尊」の解釈を例に挙げる。ブッダが生まれたときに呟いたとされる言葉だ。文字通り訳せば、この世で自分こそが尊いという意味になる。現代では、こんな自画自賛は傲慢と誹られる。そこで、それを「唯だ、我、独りとして尊し」と読み込み、すべての存在は尊いという内容の意味であったと解釈する。これは、こじつけであって、仏典の中でブッダは自己卑下も世辞も慢という煩悩と断じている。実は、ブッダが自画自賛することは、最も客観的評価なのである。初期仏典を素直に読み、歴史的文脈を考慮するなら、ブッダがこの世で自分こそが尊いと宣言することは当然のことなのである。それは傲慢なことではけっしてない。このように初期仏典を編纂された当時の文脈から読み解こうとすれば、傲慢なブッダも、謙遜するブッダもありえない。本当の意味での歴史のブッダに迫り、その先駆性を描き出すためには、瀬名入管を打ち払い批判的に仏典と向き合うことが必要だ。


2025年5月20日 (火)

清水俊史「ブッダという男─初期仏典を読み解く」(1)~第1章 ブッダとは何者だったのか

11112_20250520235601  我々がブッダという人物について持ち得ている確実な情報は、ゴーダマ・シッダッタというシャカ族の王子が出家して、35歳で悟りを得て、弟子を集め、80歳で入滅した、ということだけだ。初期仏典には相互に矛盾する記述や神話的装飾、後代の加筆が随所にあり、生涯の事績だけでなく、ブッダが何を語ったのかさえも、ほとんど定かではない。ブッダという人物が、どのような生涯をおくり、何を語ったかを統一的に力強く描き出すことは難しい。当初の仏教教団はブッダの生涯に関心を持たなかった。仏伝と呼ばれるブッダの一代記が著されるようになったのは、彼の死後数百年経ってからだ。19世紀以降、歴史的人物としてのブッダが仏典を批判的に考察し、研究されたが、現代人の目から見たブッダという代物でしかなかった。
 初期仏典は、ブッダの周りで起こった歴史的な事跡を写実的に叙述したものではなく、当時の法観念の下に、篤い信仰心を持った弟子たちによって編纂されたものである。そこに現われる「神話のブッダ」は、ほとんど万能の超人である。これは、現代人である我々には受け入れがたいが、この「神話のブッダ」こそが、人々から信仰され大きな影響を与えてきたことは歴史的事実である。真なる意味でブッダを知ろうとすれば、不都合な事実から目を背けるべきではない。
 ブッダは、歴史の先駆者であった。それまでのインドを否定し、新たな宇宙を打ちたてた先駆者であった。その先駆性があまりにも鮮烈であったため、ブッダが亡くなると、弟子たちはその記憶を初期仏典としてまとめ、仏教が生まれた。この先駆性そのものは、たとえ神話的装飾を帯びるものだとしても、歴史的文脈のなかに位置づけることが可能である。
ブッダの先駆性について、本書では、ブッダはどのようにしてインドを否定したのかという視点で考察される。ブッダは、自らの生きた時代を否定し、それに続く歴史を変貌させた。仏教がバラモン教に同化・吸収されることなく独自性を保ち続けたことは、ブッダの悟りが、それまでの世界観を完全に打ち砕くものだったことを雄弁に物語っている。ここで本書が追求するブッダは歴史的なブッダでも神話のブッダでもない。この両者の間にある深い溝を埋めることが本書の目的でもある。そもそも、古代には歴史と神話を分け隔てるような意識はなかった。

 

2025年5月19日 (月)

佐々木隆治「カール・マルクス─「資本主義」と戦った社会思想家」(2)~第2章 資本主義の見方を変える(1848~1867年)─マルクスの経済批判

 1846年にマルクスは、ブリュッセル共産主義通信委員会を組織する。しかし、運営はうまくいかず、1848年にヨーロッパ各地で革命運動が盛り上がり、政府から規制をうけ、マルクスは各地を転々とした挙句、ロンドンに移住する。そこで、大英博物館に通い経済学研究に勤しむことになる。その成果として結実したのが「資本論」であった。「資本論」は資本主義そのものを問わない既存の経済学の見方を根本的に批判し、なぜ、いかにして資本主義的生産様式が現にいまあるように成立しているのかをその根底から把握すること、そのことによって変革の可能性と条件を明らかにすることを目的としていた。その意味で、「資本論」は経済学の書というよりも、資本主義的生産様式を自明資する見方を根本から覆す経済学批判の書と言える。それゆえ、読者には当然と思われていた経済活動の見方を根本から変えることを要求する書であるのだ。著者は、「資本論」の特徴として、次の六点をあげる。
①商品の秘密
 資本主義とそれ以外の社会システムとの最大の違いは、商品生産が全面化しているかどうかという点にある。資本主義以外の社会システムにおいても商品の交換は行われていたが、社会全体を覆い尽くすほどではなかった。資本主義社会になって初めて、商品生産が全面化し、生活必需品の大半が商品として交換されるようになった。それゆえ、商品という最も基本的な富の形態を理解することなしには、貨幣や資本、利潤といった高度な経済的カテゴリーを理解することはできない。
 商品の持つ、人間にとっての有用性を使用価値という。また、価格のような商品の交換比率を交換価値という。使用価値と交換価値は別物である。交換価値は需要と供給の関係によって決まる。しかし、これだけでは、需要と供給が一致しているのに、商品によって価格が異なっている理由を説明できない。需給関係はあくまで需要と供給図一致している場合の価格からの乖離を説明するだけだ。これについて、古典派経済学のリカードは自然価格とよび、労働によって規定されると考えた。つまり、労働が多く費やされる商品は価格が高くなるという労働価値説を唱えた。「資本論」も、基本的には、この立場を継承している。しかし、マルクスは自然価格という概念を使わず価値という概念を用いている。これは交換価値とは別物である。交換価値は、その時々に商品がどのような交換比率で交換されるかを示したものである。そして、商品とカネの交換比率を示したものが価格である。これに対して、価値は商品の交換価値の変動、あるいは価格の変動の中心点である。価値の大きさは、交換価値や価格とは違い、需給関係とは無関係にその商品の生産に費やされた労働によって決まる。商品価格あるいは商品の交換価値は需給関係の影響を受けて変動するが、その変動の中心点は価値である。
 古典派経済学の労働価値説の根拠は次のように説明される。人間が物を生産するときは労働を費やさなければならない。労働は人間にとって安楽を犠牲して労苦と手数を費やすことだ。だから人間が生産した商品を交換する際には、安楽を犠牲にした労働がどれほどかを基準にすることになる。これは、労働を犠牲として捉えたうえで、諸個人の意識のあり方から労働価値説を説明している。これに対しては、労働を犠牲と感じない人が楽しく働いたときや他人を雇って生産した場合には成り立たないことになる。そこで、マルクスは、社会システムのあり方から価値を考えた。そこで、マルクスが注目したのが、社会の物質的な再生産である。どんな社会でも、社会を物質的に再生産するのは、適切な労働の配分行われていなければならない。その前提として、第一に、どんな社会でも社会を物質的に再生産するためには、適切な労働の配分が行われていなければならない。第二に、生産された総生産物が社会のメンバーの間に適切に配分されなければならない。これが資本主義以前の前近代社会であれば何らかの共同体秩序があったので、人々の自覚的な意志決定や伝統などによって、労働配分や生産物分配の問題を解決することができた。資本主義社会では、その共同体秩序が解体し、個人がそれぞれの私的利害に基づいて生産を行い、生産物を自由に市場で交換する。だれも配分について考えたりしない。それにもかかわらず、無資本主義社会が存続できているのは、市場に配分の仕組みが備わっているからだと考えられる。
 この仕組みについて理解するためには、まず、労働が二面的性格を持つことを理解する必要がある。すなわち、有用労働と抽象的人間的労働である。使用価値を生み出す労働が有用労働で、どんな形の有用労働をするにせよ人は一定の力を支出するし、一定の時間を費やすという観点から見た場合の労働を抽象的人間的労働という。いわば、量としての労働といえる。このように労働を二面的に分けたのは、ひとつは、生産力との関係で、生産力とは一定の労働量が投下されたば会いにどのくらい生産物量を生産できるのかを示す概念である。言い換えれば労働生産性、生産効率である。これは、分業化や機械化などによって上昇させることが可能だ。この労働量というのが抽象的人間的労働である。抽象的人間的労働と生産物の関係は変化している。生産力が二倍になれば、以前の半分の労働時間ですむ。つまり、抽象的人間的労働は半分になるということだ。有用労働という観点からは、何の変化もない。また、社会的総労働の配分との関係についても、何らかの社会的分業を営む社会では、労働は二面的性格を持つことになる。一面では、労働は、社会にとって必要な、ある一定の使用価値を生産するという意味では、有用労働としての社会的意義をもっている。他面では、労働はやぅげんな総労働のうちの一部分を費やして行われるという意味での、抽象的人間的労働としての社会的意義をもっている。このような理解の上で、資本主義社会での配分について考える。市場システムでは共同体的秩序が解体しているので、商品交換以外に生活の糧を手に入れる方法はない。だから商品生産者は、できるだけ多くの商品を入手することができるような商品、すなわち有利な交換比率をもつ商品を生産しようとする。いま従事している生産部門の商品が不利な交換比率でしか交換できないのであれば、もっと有利な交換比率が望める他の生産部門に鞍替えし、そちらに労働を投入する。この時の交換比率の有利不利を判断する基準は、抽象的人間的労働である。なぜなら、商品を生産するための究極的コストは労働だからだ。つまり、商品交換によって自らの生活の糧を手に入れなければならない商品生産者たちは、価値を基準として自分の生産物の交換価値の有利不利を判断して行動することを強いられる。そのため、価値通りの交換価値が成立する場合には、需要と供給が一致し、適切な労働の社会配分が為されている。それが何らかの事情で、需要が供給を上回り、交換価値が価値を上回る場合には、投下した労働が商品の交換価値においてその投下労働量以上に評価されるので、その産業部門へと流入する。反対にも供給が需要を上回り交換価値が価値を下回る場合には、投下した労働が商品の交換価値において、その投下労働量以下にしか評価されないので、その産業部門から流出する。このように生産者の労働が社会的需要を満たす限りでは、彼らの労働は商品価値において正当に評価されるからこそ、彼らは私的利害にしたがって総労働の配分をしてしまうのである。言い換えると、市場システムは生産物の分配が行われる商品交換において労働の社会的性格を考慮しなければならないシステムであるということだ。
価値論の説明に次いで、なぜ商品が存在するのかという根本的な問題に移る。商品は生産の特殊なやり方と結びついている。すなわち、共同体的な秩序が解体し、バラバラになった個人が私的利害のために勝手に労働するようになったとき、はじめて商品が生まれる。その時、生産者は互いに値踏みをして商品を交換するようになるからだ。私的労働こそが商品の秘密なのだ。私的生産者は互いに知り合いではなく、何の利害の共通性もない。彼ら人格的なつながりがあるから交換したのではなく、交換によって生産物を手に入れる必要があったから相手と関係を結んだのである。私的労働をする生産者を取り結ぶのは生産物と生産物との関係にすぎない。彼らは、できるだけ有利な交換比率で欲しいものを手に入れたいと考えている。かけらは、そこで値踏みをする。両方の生産物比較して値踏みをするということは、違う生産物を共通の性格、共通の社会的力をもつ生産物として扱っていることになる。
 なお、ここで重要なことは、価値というものは、人間が労働生産物を価値物として扱うかぎりでのみ発生するということだ。商品の使用価値はその生産物にもともと備わっている性質に由来するが、価値の方は純粋に社会的な属性である。つまり、ある労働生産物が価値をもつのは、あくまでも私的生産者たちが労働生産物に対してそれに価値という力を与えるように関わり限りでしかない。人間がこのような振舞をしている限りでは、労働生産物は人間たちに対して価値という社会的な力を持つものとして現われ、現実にその力を及ぼすことができる。だから、人々が生産物を通じて結び付けられている社会では、実際に、人間ではなく、生産物の方が社会的な力を持つ。人々が生産物をコントロールするのではなく、価値を持った生産物、すなわち商品が人々をコントロールする。人間が自分たちが行う生産のあり方を自身で社会的に決定するのではなく、市場における商品の交換価値の変動をみて、事後的に自分たちの生産を調整するのである。このように市場システムにおいて、人々は生産物の力に依存することによってしか経済生活を営むことができないので、こり生産物の関係が自立化し、それによって自分たちの生活が振り回されるようになる。このように社会関係を取り結ぶ力を持つに至った物のことを物象といい、人間の経済活動が生産物の関係によって振り回される事態のことを物象化という。
資本主義社会において、は、人々の生活や自然環境といった具体的なものはすべて抽象的な価値の運動によって編成され、振り回され、しばしば破壊される。このような物象化こそが、資本主義を他の社会から区別する特徴である。そして、いったん物象化された関係が定着すると、労働生産物が商品としてやり取りされることは日常のこととなる。そこで労働生産物が商品となるのが当たり前のことだと考えられるようになるのである。
②貨幣の力の源泉
 商品が持つ価値という社会的力は、貨幣という形で物質化され、目に見えるものとなる。それまで貨幣は流通を円滑に行うための道具にすぎないと考えられていた。これに対して、マルクスは、新しい見方として商品交換前に行われる値札付けに注目し、この値札付けの必要性からカヘイガ生まれてくると考えた。それが「資本論」の貨幣形態論である。
 商品の交換は使用価値ではなく価値を基準に行われる。だが、商品の価値は社会的なものであり、そのままでは目に見えない。価値が交換相手に見えなければ、交換を行うことはできない。そこで値札が必要になる。では、値札による価値表現がどのようなメカニズムで成り立っているか。円とかポンドといった金額というのは、金の重さの単位である。そうすると、商品の値札はもともとは金の重さによって商品の価値の大きさを表示するものだったということになる。しかし、最初から金が基準だったわけではないだろう。さまざまな生産物が価値を表わすために用いられていた。例えば米5キロにシャツ1枚という値札をつれることだってあったかもしれない。ここでは、シャツが米の価値を表わしている。しかし、シャツは米と同じように商品のひとつでしかなく、シャツだけを単独で見ても、それ自身の価値は分からない。それが値札となると米と交換できるという価値の力を発揮できる。これを価値物と呼ぶ。値札に罹れた商品は価値を体現しているのだ。シャツは米という値札が貼られた商品に対する直接的交換可能性を持っている。他方、米は直接的交換可能性を持っていない。シャツの持ち主がその気になったときにだけ、シャツと交換することができる。しかし、この場合、米の所持者はシャツ所持者に対してだけ米の価値を表示したに過ぎず、他の商品との交換基準はない。だから、これだけではコメの価値表現とは言えない。そこで、他の商品、例えば靴、鉛筆等々の値札をつけるが、それではキリがないし、それぞれの商品がバラバラの価値表現を持っているだけであり、それぞれの商品を相互に交換させることはできない。そこで、あらゆる商品に共通な統一的な価値表現が必要となる。米があらゆる商品と交換されているケースを考えるなら、この交換関係のなかには展開された価値表現とは逆の価値表現が潜んでいることが分かる。つまり、米があらゆる商品で自分の価値を表現するのではなく、逆に、米以外のあらゆる商品が米によって自分たちの価値を表現するという価値表現である。このような価値表現のことを一般的価値表現といい、この場合の米を一般的等価物という。
 そして、現実の歴史では人類は一般的等価物として金を選び出した。一般的等価物が金に固定化すると、金は貨幣になる。貨幣による商品価値の表現のことを価格という。価格による価値表現は、あらゆる商品の値札に金と書かれているので、金はあらゆる商品に対して直接的交換可能性を持つ。つまり、貨幣はあらゆる商品を手に入れることができる力を持っている。他方、商品の持ち手は、貨幣の持ち手がそれを欲しいと思わないかぎり、貨幣を手に入れることはできない。したがって、貨幣の力は、金という物質から生まれてくるものでもなければ、人間の取決めから生まれてくるものでもない。それは、商品の価値表現の必要性から必然的に生まれてくるものである。それゆえ、商品生産が全般化すればするほど、貨幣の力はますます強力になっていく。
 そして、人間は商品の価値を価値体としての力を行使して、自分の欲しい物を手に入れることができる。じつは、このことによって、物々交換の困難、すなわち互いに欲しい物が一致しないと交換できないという問題も解決される。こうして商品交換は、販売と購買という二つの行為に分離される。また、人間は貨幣を使って値札をつけることによって、労働生産物でないものも商品にすることができるようになる。このように、価格による価値表現は、価値から乖離した価格を汗をすことができるだけでなく、そもそも価値を持っていない物を商品にすることができるようになる。
 このように、私的労働をするかぎり商品が必要であり、商品が存在する限り貨幣が必要だということである。つまり、私的生産者たちが労働生産物を価値物として扱うかぎり、人間たちの意志や欲望とはかかわりなく、価格による価値表現がどうしても必要となる。
ところが、人々の無意識の振る舞いを通じて、商品や貨幣が生まれると、今度は人々の意識や欲望のあり方に大きく影響を与え、それを全く違うものに変えてしまう。もともと人間がもっていたものとは異なった意識や欲望が、人間の創造物である商品や貨幣によって作り出されるのである。いくら物象化して転倒した関係が生まれていると言っても、商品やカヘイガひとりでに運動するということはない。現実に商品や貨幣をやりとりするのはやはり意志と欲望をもつ人間である。だから、人間は商品や貨幣という物象の人格的担い手として行為することを通じて、物象の論理に影響を受け、自らの人格自体を変容させてしまう。マルクスはこのような事態を物象の人格化と呼んでいる。
③資本の力と賃労働という特殊な働き方
 これまでの説明で想定されてきた商品売買は基本的に「買うために売る」であった。「資本論」での表記では「W-G-W」である。自分で生産した商品を売り、貨幣を手に入れ、この貨幣で自分の欲しい商品を買う、というものだ。しかし、これまで見てきたように人が商品交換に貨幣を使うようになると、新たな欲望が芽生えてくる。つまり、たんに使用価値を手に入れるための手段として貨幣を欲するのではなく、貨幣そのものを欲望の対象として、それをできるだけ多く取得しようとする欲望が生まれてくる。本来、貨幣は使うことによってはじめてその力を行使することができるのに、使わないことによって貨幣を増やそうとする。そこで、効率の良い、合理的なやり方が追求される。それは、「売るために買う」である。記号にすると「G-W-G´」である。所持している貨幣で商品を買い、それから商品を売り、再び貨幣を手に入れる。このとき、貨幣量ははじめに持っていた貨幣量よりも増大している。このやり方の特徴は、価値の増大が目的となっていることだ。このプロセスでは、もともとあった価値が、このプロセスの中で増大する。つまり、価値自身の力により価値が増えるのだ。このような自己増殖する価値のことを資本という。この資本の人格的担い手のことを資本家という。
 資本家は労働力商品を購買し、消費することによって、価値を増殖させている。というのも、労働力こそは価値を生み出すことができる唯一の商品だからである。そもそも、資本主義社会では、直接的に生産を行う労働者の大半が、労働用具や原材料などの生産手段をもっていない。生産手段を持っていなければ、自分で働いて商品を生産することはできない。他方で、近代社会では共同体的な秩序は解体してしまっているので、何らかの商品を販売して貨幣を入手することなしに、生活に必要な商品を手に入れることができない。そこで、生産手段を持たない無所有の労働者が唯一販売できる自分の労働能力を労働力として販売するのである。それが賃労働者である。
 この労働力という商品の価値は、労働力の再生産可能性によって決まる。それは、労働力の所持者の人格の維持に必要な生活手段(食料、衣料、住居など)の価値の大きさによって決まる。4つまり、労働者の再生産に必要な商品の生産のために社会的に必要とされる労働時間によって決まる。労賃は、この再生産費を時間あたりに換算したものにすぎない。
 この労働力は労働によって価値を生産することができる商品である。例えば、1日の労働力の再生産費用が1万円として、1時間の労働力が2000円の価値を生み出すとすると、8時間の労働で16000円の価値を生み出すことができる。この場合、労働力は自分の価値である5時間分の価値よりも3時間分大きい価値を生産した。この分の価値を剰余価値という。労働力商品はこのような特別な使用価値を持っているので、資本家は等価交換をしているだけで、価値を増殖することができる。逆に、賃労働者の側からは、自分の自由な意志にもとづいて等価交換を行ったにもかかわらず、自分の労働の価値の成果を搾取されてしまっているということになる。
 しかし、資本家はたんに剰余価値を取得するだけでは満足しない。彼の目的は、手持ちの貨幣を使ってできるだけ多くの貨幣を手に入れること、すなわちできるだけ多くの剰余価値を取得することだからだ。資本家は、この目的のために、労働のあり方や生産方法をそれまでとは全く違うものに変えてしまう。まず、資本家は労働時間を可能な限り延長しようとする。剰余価値=労働者が生み出した価値=労働力の価値だから、長い時間、労働させることによって剰余価値を増大させることができる。このように、労働時間の延長によって生み出される剰余価値を絶対的剰余価値という。これは、賃労働者の側からは自由時間の短縮になる。労働時間の延長は、賃労働者にとっては人間らしい生活をするための時間を奪い取る。それだけではなく、生存すら脅かすようにもなる。休息をとることができなくなるからだ。このような資本家にブレーキかけることができるのは、社会的な規制(労働基準法のような規制)しかない。なぜなら、資本家も市場において生き残り競争をしているからだ。
 そして、もうひとつの剰余価値を増大させる手段として、生産力の増大、例えば機械化、によるやりかたがある。この場合、抽象的人間的労働には作用しないが、有用労働に影響を与える。つまり、一定の労働量を投入したときに生まれる使用価値量をふやすことができる。生産力が二倍になったとすると、1時間あたりに生産される価値量は変化しないが、2倍の生産物が生産されるので、生産物1個あたりに付加される価値は半減する。そのため、労働者の生活手段を生産する産業部門で生産力が上がれは、労働者の生活手段の価値が下がる。労働力の価値はその再生産費、すなわち労働者の生活手段の価値によって決まるから、労働力の価値が下がることになる。労働力の価値が下がると、同じ労働時間でも相対的に剰余価値が増えることになる。これを相対的剰余価値という。とはいえ、個々の資本家は直接に相対的剰余価値を目的として生産力を上昇させるわけではない。全般的に生産力が上昇し、相対的剰余価値が生み出されるのは、個々の資本家が生産力を増大させたことの結果にすぎない。個々の資本家が生産力を上昇させようとするのは、他の資本家との競争に打ち勝つためだ。
 このような資本による生産力の上昇は、賃労働者の資本に対する従属を強めることになる。まず、資本は、賃労働者から労働力を買うことで、賃労働者に対する指揮命令権を獲得し、労働者自らの価値増殖活動に従わせる。これを資本のもとへの形態的包摂という。ここでは、生産過内部の関係に根本的な変化が生じる。私的生産者が経済的な関係を取り結ぶさいに物象化が生じたのと同じように、資本が包摂した生産過程においても物象化が生じる。資本は生産過程を価値増殖の論理によって組織化するからだ。資本は使用価値の生産をもっぱら価値増殖のために行うからだ。このとき、生産手段と労働者のあいだの関係も変化し、労働者が主体で生産手段は手段であったのが、労働者か価値増殖のための手段に変わってしまうのだ。具体的には、賃労働者は生産手段の都合に合わせて働かなければならなくなる。オートメーション設備の工場では労働者は生産ラインのペースに合わせて作業をしなければならない。このように、資本の生産過程では価値の担い手であり、労働力が生み出した価値を吸収する生産手段が主体となり、労働者の側はそのための手段となる。これが資本の生産過程における物象化である。
 資本による包摂は形態的なものから、労働者の技術的条件自体を自らに適合するように変容させる実質的包摂に進む。つまり、資本は技術や熟練あるいは生産に必要な知識や洞察などを賃労働者から奪い、それを自らのものにする。資本は分業を組織することにより、労働者の作業を一面化・単純化し、労働者は分業に組み入れられることによってしか生産できない存在へと変えられてしまう。さらに機械化によって労働者は付属物にされてしまう。この段階に至り、資本による労働者の支配は実質的なものになる。このような実質的包摂は賃労働者の労働時間をいっそう増大させる。資本に対する労働者の立場が弱くなるからである。生産力の上昇による労働削減の効果は、各人の労働時間の削減にはならず、労働人員の削減、すなわち失業者の増大として現われる。
④資本蓄積と所有
 所有は持っているということと同じではない。持っていることを他人が承認することによってはじめて所有は成立する。共同体社会では、人々は共同体の一員であることによって所有を認められていた。ところが資本主義社会では、所有は商品や貨幣という物象の力が所有を成り立たせる。つまり、私的生産者が交換を通じて貨幣を所有することができたのは、彼の生産物が価値を持っていたからであり、その商品の買い手がそれを所有することができたのは彼が貨幣を持っていたらである。つまり、共同体的な人格的紐帯が失われている資本主義社会では、人々は、人格手関係によってではなく、物象の力に依存して互いを所有者として認めているのである。商品生産が全面化した社会では、物象の力に基づく相互承認(売り手買い手の相互の承認)が所有の正当性の社会的基準となる。ここからさらに、市場において人は商品や貨幣の所持者として自由に振舞い、自由意志にもとづいて契約を取り結ぶのだから、市場での競争こそが自由であり、平等であり、そこで認められた所有こそが正当だという観念が生まれてくる。
 マルクスは、このような物象に基づく近代的な所有権のあり方を商品生産の所有権と呼んだ。これは、他人労働を取得する権利に転化する。というのも、物象の所持者が互いの物象を欲し、売買の契約を取り結ぶ場合には、物象の等価性しか問題にならないからだ。資本家と労働者は1万円の貨幣を支払い労働力を買う。この場合、両者は互いに自分の自由意志に基づいて交換を行い、しかも等しい価値をもつ物象どうしを交換した。それゆえ、商品生産の所有権に従えば、正当である。しかし、資本家は購買した労働力を消費し、他人の労働の成果を手に入れることができる。他方、労働者は自らの労働の成果を手に入れることができない。受け取った労賃で自らの労働力の再生産を賄うことができるだけである。これは、近代的所有が物象の力によって成り立っているからにほかならない。所有している商品の使用によってどのような結果かがもたらされようと、その所有が自由な等価交換に基づく限り、それは正当なものだとされるからである。それよえ、資本家と労働者との等価交換では、商品生産の所有権は他人労働を取得する権利へと転化してしまう。つまり、物象化された関係が必然的に生み出す近代的所有の従うかぎり、資本家は何の正当性も失うことなく他人労働を搾取し、取得することが可能なのである。
 それだけでなく、資本家は他の資本家との競争にさらされており、使用することのできる資本の量を拡大し、競争に勝たなければならない。それゆえ、資本家は剰余価値の一部を自分で消費せずにね資本として用いる。このように剰余価値を資本に転化することを資本蓄積という。資本家は資本蓄積することにより、より多くの他人労働を搾取し、より多くの剰余価値を取得することが可能となる。そしい、いっそうの資本蓄積を推し進め、より多くの剰余価値を獲得しようとする。このように資本はますます増大する。他方、賃労働者は労働力の再生産費用しか払われないから、無所有の状態から抜け出すことはできない。こうして、資本主義社会では資本家と賃労働者の経済格差は必然的傾向になる。
⑤恐慌はなぜ起こるのか
 資本主義的生産様式が生み出す矛盾は、貧困や格差や労働問題だけではない。資本主義は周期的に経済恐慌を生み出し、社会的再生産の困難をもたらしてきた。経済恐慌とは、全般的な過剰生産に陥り、生産活動が減退して生産手段と労働力の需要が低落し、それによる労働者の大量失業がさらなる需要の収縮を帰結する、という現象である。
 資本主義以外の社会では恐慌が起こることはない。伝統的社会では、労働の社会的配分や生産物の社会的分配の問題を共同体の決定や慣習によって解決してしまうからだ。このような社会では、社会の必要を越えて過剰に生産しすぎるということは起こらない。これに対して、資本主義という経済システムでは、生産は私的生産者たちの個人的利害によって私的に行われる。生産が直接的に社会によってコントロールされない。確かに、市場メカニズムによる間接的コントロールはある。それにもかかわらず、恐慌が発生する原因として製品の価値表現として不可欠な貨幣の存在があげられる。貨幣は商品交換を便利にするための道具というだけではない。貨幣は商品の価値表現にとって不可欠であり、あらゆる商品に対する直接的交換可能性という力を独占している特別な物象だからである。それは、商品どうしの交換を販売と購買とに分裂させてしまうからだ。自分の商品の販売は、その販売によって取得した貨幣で別の商品を購買することなしに、行うことが可能になる。ところで、あの商品が販売できるかどうかは、その商品を購買しようとする人がいるかどうかにかかっている。ところが、ある人が自分の商品を販売して貨幣を入手したとしても、必ずしも、その貨幣を使って新たに商品を購買する必要はない。貨幣はいつでも好きなときに使用できる。このように、いったん商品流通の流れが途切れてしまうと、それが連鎖してしまう可能性が生まれる。商品が売れないために、その商品の所持者が他の商品を購買できず、その商品もまた販売できなくなる、といった具合である。このような販売不能の連鎖が社会的に拡大すると恐慌になる。これが恐慌の可能性である。
 また、恐慌の現実性は次のようなことである。資本家が資本を投下して取得する利得は、現実には労働力の産物ではなく、投下総資本の産物と考えられている。資本家が現実に生産を行うには、自らの資本を労働力に対してだけでなく、生産手段にも投下しなければならず、この投下した資本全体に対してどれだけ多くの儲けを生み出すかが問題になるからだ。このように、投下総資本の産物として考えられた剰余価値を利潤という。
 資本家は利潤を最大化するために、利潤率を基準にして行動する。この資本家の行動が産業部門の利潤率を均等化し、一般的利潤率を成立させる。産業ごとの利潤率の差異に際して、資本家たちは自分の利潤を最大化するために、無利潤率が低い産業から撤退し、利潤率が高い産業に集中する。この結果、各産業部門の需給関係に変化が起こる。利潤率の低い産業には資本が投下されず供給が不足し、商品価格が価値以上に上昇していく。このような価格の上昇は、資本が平均的な利潤率で利潤を獲得するのを可能にする。逆に、利潤率が高い産業は資本が集中し、供給過剰となり、商品価格が価値以下に下落する。このような価格の下落は、資本が平均的な利潤率で利潤を取得する。このようにして、利潤に最大化を目指す資本の運動は、価格を中心として既存の需給関係を変容させ、生産価格を中心とした新たな需給関係を打ちたて利潤率を均等化させる。これを一般的利潤率という。このように一般的利潤率が成立すると、商品の価格変動の中心点は価値ではなく、生産価格になる。生産価格は量的には価値とは異なるが、抽象的人間的労働の社会的性格を表わしているという意味では同じである。というのも、資本家は利潤率を基準として行動することにより、社会的総労働の核産業部門兵の配分を実現するからである。
 実は資本主義社会では、一般的利潤率は低下していく傾向にある。生産力の上昇に伴って、資本の有機的構成の高度化がおこめからだ。個々の資本家は自らの利潤を最大化し、競争に勝ち抜くために生産力を上げるのだが、そのような個別的な利潤を最大化するための行動が、結果として、社会全体の一般的利潤率を低下させることになる。
 この利潤率の傾向的低下は資本の蓄積運動に大きな影響を与え、経済恐慌を確実なものにする。景気循環の起点は中位の活気にある。これは恐慌後の停滞期を抜け出して、新たな産業循環が始まっていく時期の状態である。この状態になるには、新しい市場が開拓されたり、新技術が開発されたりすることが必要である。この状態では新市場や新技術により生産力が高められ、資本の有機的構成が高度化する。しかし、この段階ではまだ一般的利潤率は低下せず、増価する。この段階では特別剰余価値の獲得が活発に行われているし、新市場による需要が増大し、商品の市場価格が高くなるからである。このような高い利潤率に刺激され、景気循環の局面は繁栄期に入っていく。生産手段や労働力の需要が増大し、資本蓄積はより活発化する。そこで一般的利潤率が低下を始める。これは、新技術が普及することにより、資本の有機的構成の高度化がいっそう進むとともに、特別剰余価値の獲得が困難になっていくためだ。しかし、この段階では利潤率の低下よりも速いスピードで資本蓄積枷行われるかぎりで、利潤量は増加を続ける。そして、景気循環は過剰生産期に突入する。この時期は、いっそうの加速的蓄積により生産手段の価格や労働賃金の高騰が起こり、利潤率はますます低下する。これまでの膨大な蓄積による商品供給の拡大は、膨張した社会的需要をも満たし、費用価格の上昇を商品価格に転嫁することを困難にしている。しかも、資本主義社会で人口の大部分を占める賃労働者は、基本的には労働力の再生産費しか受け取っておらず、有効需要は限られている。こうして、過剰生産期の加速度的蓄積は、ある段階で、ちくせきによって、むしろ利潤量が減少してしまうという事態をもたらす。投下資本量を増大させることによって、利潤率が急落し、かえって利潤量が減少してしまう。このような事態を、資本の絶対的過剰生産と呼ぶ。資本の絶対的過剰生産の状態になると、蓄積がとまり、生産手段に対する需要が急激に減少し、その部門で雇用されている労働者の多くが失業し、消費手段部門の需要も急激に減少する。利潤率は、いっそう低下する。こうして恐慌が現実化する。
⑥資本主義の起源とその運命
 「資本論」第1巻の締めくくりに、資本主義生産様式の歴史的起源と運命について論じられている。
それ以前の経済学者の多くは、資本主義の起源を勤勉な人々の節制と蓄財に求めた。真面目に働いて蓄財した人が資本家となり、資本主義を生み出した、というように。しかし、マルクスは、資本主義は、暴力を助産婦として、封建社会の胎内から誕生したという。土地の事実上の所有者であり、ほぼ自給自足の生活を営んでいた農民を土地から引き剥がし、労働力しか売るものがない賃労働者を生み出すことによって、資本主義か生まれた。こま誕生のプロセスを本源的蓄積という。
 封建制の末期に現われた自営農民たちは、事実上、土地の私的所有者であった。その意味で彼らは生産手段と自由に結びついており、手の熟練や工夫の才や自由な個性を磨くことができたのである。資本主義的生産様式はこの結びつきを本源的蓄積によって破壊し、賃労働に従事する無所有の私的個人を生み出すことによって誕生した。とこが、この資本主義自体が再び自身のメカニズムによって、賃労働者を結合させ、彼らの労働のあり方を社会化していく。資本主義が生み出す矛盾と闘うために労働者の反抗も増大し、自由な結社、すなわちアソシエーションを形成しようとする動きが活発になる。そして、労働環境の悪化、環境破壊、利潤率の傾向的低下、恐慌による社会的再生産の攪乱が著しくなり、資本主義のもとでの社会の存続が困難になるほどまでに生産力が増大すると、やがて資本主義的生産様式は変革されざるを得なくなる。それが、マルクスの描く変革の理念である。

2025年5月18日 (日)

佐々木隆治「カール・マルクス─「資本主義」と戦った社会思想家」(1)~第1章 資本主義を問うに至るまで(1818~1848年)─初期マルクスの新しい唯物論

11112_20250520235301  著者は、マルクスは革命家であり、思想家ではないという。マルクスは安穏とした環境のなかで研究に専念した人ではなく、その生涯を社会変革に捧げた人だという。マルクスにとって『資本論』は、たんなる学問的真理の探究ではなかった。それは何よりも実践のためになされたのであり、それ自体が社会変革のための闘いであった。人類が貧困に苦しみ、自分の力を自由に発揮する可能性を奪われている、そのような社会を変革するためにこそ、『資本論』は書かれた。『資本論』の目的は序文で書かれているように「近代社会の経済的運動法則を暴露すること」であるが、それが社会変革に直結するわけではない。資本主義の運動法則を明らかにすることによって、その変革の方向性を示し、どのような実践によって、既存の社会が資本主義という新しい社会を産み落とすときの苦しみを短くしやわらげることができるかを示すことである。
 本章では、若きマルクスがなぜ経済学を主要な研究対象としたというところから、その説明を試みる。マルクスが社会変革を意識し始めるのは大学時代だった。ユダヤ人弁護士の家庭に生まれたマルクスは大学で法学を学ぶが、熱中したのは文学だった。その二つの方向性の追求に行き詰まり、療養生活を送るなかで青年ヘーゲル派と出会った。彼らとの出会いは、それまで現実から切り離されたところで芸術的あるいは国家学(法学)のような学術的な理想を追求することではなく、この現実のうちに理想を求めようとする方向への転換を促した。
 ヘーゲル哲学は、理性を自然や情動から自立化させて哲学の中心に置いたカント哲学を継承しつつも、理性を現実から切り離さず。むしろ現実の発展の原理とするものであった。ただ、カントは理性が人間の認識を成立させる能動的な力を持っていることを認めながらも、理性の使用を確実なものとするために、その限界を厳格に確定しようとした。これに対して、ヘーゲルは、理性を、否定の契機を通じて、絶えず自らを乗り越え、より高い境地へと発展していく動的でダイナミックなものと考えた。当時のプロイセン国家にとって、ヘーゲルの哲学はプロイセンの立憲君主制を自由の完成形態と解釈し、公認哲学していた。青年ヘーゲル派は、この保守性に飽き足らずヘーゲルの理論をラディカルに解釈しようとしたのだった。彼らは、その批判の矛先を宗教に向けた。その代表がブルーノ・バウアーであった。ヘーゲルが真理は実体としてではなく、主体としても把握しなければならないと主張したのに対して、バウアーは自己意識の外部にある実体を否定し、自己意識こそが真の自己意識であると主張する。バウアーによれば、この自己意識こそが歴史を作ってきたという。このような自己意識の哲学に基づいて、バウアーはキリスト教を批判する。福音書は人間の自己意識が自分たちの本質を宗教という形で表現したものである。その自己意識が生み出したはずの宗教が自己意識にとって疎遠なものとなり、その疎遠なものとしての宗教に自己意識が従属てしまっている。宗教とは自己意識が自己の本質を疎外したものに他ならない、という。バウアーは、このような事態を暴露し、疎外された本質を取り戻し、人間を解放しようとした。
 マルクスは、このバウアーの影響を受けつつ青年ヘーゲル派の中で頭角を現していく。しかし、大学への就職はままならず、ジャーナリストとなるが、それが現実の具体的な社会問題に多く触れることで、それまでの抽象的な哲学や理想的な国家論を掲げて批判するだけでは不十分であることに気づいた。とりわけ現実の経済的利害をめぐる論争、その無力さを痛感するのだった。そして、より現実的な社会関係を研究するためライン新聞を退職する。そして、徐々に青年ヘーゲル派からは距離を置くようになる。
 その時、マルクスが25歳で書いたのが「ヘーゲル国法論批判」である。ヘーゲルは市民社会における私的利害の対立から生じる貧困や恐慌といった様々な矛盾が、近代の政治的国家によって克服され、解消されると考えた。市民社会において分裂し、私的利害を求め競争し合う個人が、普遍性を体現する国家によってまとめあげられ、ひとつの共同体を形成するという。ヘーゲルは、これを人倫共同体と呼んだ。マルクスは、これを批判し、これは国家を美化していて、近代国家は普遍性の体現者などではなく、それを構成する官僚も議会も特定の階層の私的利害に基づいて動いている。そこで、市民社会と国家という二元論主義に自由の完成を見るのではなく、これを乗り越えることが必要なのだ、と考えた。これは、多くの人々が政治から切り離されている、つまり政治から疎外されていることが原因であり、人々が政治に参加する民主的政体よって二元主義を乗り越えようとした。
 ここには、フォイエルバッハの影響がうかがわれる。フォイエルバッハは「キリスト教の本質」で、現実世界で苦悩する人間が、本来自分たちが持っている力を直観することができず、自分たちの外部に、疎外したかたちで映し出したのが宗教であるという。フォイエルバッハはこのような宗教による疎外を、宗教批判によって打開しようとした。とりわけ、フォイエルバッハは人間は自己意識をもって思考するだけではない、呼吸し、欲求し、食べ、生殖する感性的存在であって、そのような感性的な営みの中で思考するのである。つまり、理性による哲学では、人間を捉えることはできないという哲学批判をした。マルクスの近代国家は普遍的でないという主張には、この影響がある。
 この時点まで、啓蒙主義という限界を越えることができなかった。その後、フランスやアメリカの歴史研究を通じて、その限界を越えようとする。フランスやアメリカで民主主義が実現しても、二元主義が克服されたわけではない。むしろ、その方が二元主義は純粋に実現されることになる。というのも、政治的解放により身分や職業団体による特権が廃止され、経済活動が純粋な営利活動に変わってしまった。そこで人々は共同性から疎外され、孤立した個々の人として物質的な利害だけを追い求めることになったからだ。例えば、それ以前の共同体であれば経済活動は、獲物を分け合ったり、入会地を共有管理するなど、共同体の人々が協同して生きていくための活動でもあった。それがなくなった人々は、国家から疎外されているだけでなく、社会からも疎外されるようになった。そして、この社会からの疎外を体現するものが貨幣だ。共同体から疎外されたバラバラになった私的個人がひたすらに利己的利害を追求する社会で、人々が持っている力を剥奪され、貨幣の力に変貌させられてしまうからだ。ここでは、それ自身固有の価値を持っているはずの人間や自然が専ら貨幣という観点から評価されてしまうこのように二元主義への認識が深まり、マルクスの関心は市民社会そのもののあり方に向かい、近代社会における矛盾の根源に、市民社会の疎外を見つけた。
最初期のマルクスの論文として知られる「ヘーゲル法哲学批判序説」では、そのような認識の変化の伴い、社会変革の根拠は、それまでの理性による政治的理念ではなく、市民社会で生活する人間の感性的欲求に求められることになる。いかに高尚な理論を唱えても、それが人々の現実と結びついたものでなければ、その理論は現実世界に影響を与えることはできない。マルクスが変革の担い手としてプロレタリアートを見出した。市民社会で疎外の影響を一番受け、苦しめられている階級である。課題は、たんなめ政治改革ではなく、社会それ自体の変革ということになる。
 このような理論的転換に伴い、マルクスは青年ヘーゲル派からの脱却始める。つまり、啓蒙、理念による社会変革という古層からの脱却である。それがあらわれるのが「ユダヤ人問題によせて」で、バウアー批判が展開される。バウアーは、人間は宗教から解放されることによってはじめて人間として解放されると説いた。これに対して、マルクスは、むしろ宗教は現実世界での人々の苦しさの表現であるという。人々が宗教的な幸福を追求するのは、現実世界で苦しみ、現実的な幸福を追求することができないからだ。だとすれば、宗教からの解放は、現実世界で人々が人間らしい生活を取り戻すことによって実現されるべきだ、と主張した。ここには、意識の変革によって変革をするという啓蒙主義への批判を含んでいたという。
 次の「経済学哲学草稿」は、経済学の勉強のメモをまとめたものである。これまでの経済学は商品、貨幣、資本といった私的所有物からなるシステムについて何の疑問も持たなかった。しかし、そのシステムがなぜ、かいに存在するのかを問うべきだと主張する。そこで、商品や貨幣、資本といった私的所有物が生み出される根本原因を疎外された労働に見出した。近代社会では、労働者は他人に雇われて働いている。このように他人に雇われる労働を賃労働という。賃労働は、労働者が自分自身で行う労働でありながら、自分自身の意思に従って行われる労働ではない。雇い主の指揮命令に従って行われる労働だからだ。したがって、近代社会の賃労働は、自分で行う労働でありながら、自分にとって疎遠な労働になってしまっている。それが疎外された労働である。そして、道具なども他人のもので、生産したものも他人のものとなる。
 ここでは歴史の主体は自己意識ではなく、感性的人間である。この感性的人間は単なる哲学的な自己反省を通じて陶冶されるのではなく、労働によって現実に自己の能力を対象化し、自己反省的に乗り越えていくという、バウアーとフォイエルバッハの主張を接合したようなものだ。人間は労働のあり方を変容させていく。例えば、共同体の時代に人は労働生産物を人々の共有物として生産するが、近代社会では労働生産物を商品として、私的所有物として生産する。人は自己意識を持つから、一定の社会関係を形成し、それを変革していく。それゆえ、近代社会の疎外された労働のあり方も変革することができる、とマルクスは考えた。この変革は人々(労働者)の意識を変えるだけではだめで、実践において現実の労働のあり方を変えていかなければならない。この点でヘーゲルを乗り越えていった。
 さらに、マルクスはフォイエルバッハの感性的人間論にも批判の矛先を向け始める。それが「フォイエルバッハ・テーゼ」である。
 フォイエルバッハはヒューマニズム的な理念によって人々の誤った意識を啓蒙し、変革しようとする。だが、人々の意識のあり方は、むしろ現実世界のあり方の反映にすぎない。すでに「ヘーゲル法哲学批判序説」で喝破していたように、宗教という意識のなかでの疎外もまた、現実世界の疎外を反映したものなのだ。そうだとすれば、自己意識などといった何らかの正しい理念を主張し、それによって人々の誤った意識をただすという方法では社会を変革することはできない。むしろそのような意識を生み出す現実世界のあり方、現実の生活や労働のあり方を理論的に分析し、変革しなければならない。しかも、啓蒙主義は社会変革にとって有効でないというだけではなく、むしろ障害ですらある。どれほど現実や人間を主張しても、啓蒙主義は現実の社会に何らかの理想を対置することで満足し、既存の社会システムを具体的に分析しようとしないからだ。フォイエルバッハは疎外された現実に管制的人間を理念的に対置するにとどまり、この感性的人間がどのような現実的関係で生活し、労働しているかに目を向けようとしない。感性的人間たちが実際にどのように生活し、労働しているかを分析することができなければ、現実の私的所有のシステムがもっている特殊な性格を理解することはできない。
 マルクスにとって、世界を解釈し、何らかの正しい理念を見いだし、それによって誤った理念にとらわれた人々を啓蒙するのが理論の役割なのではない。そうではなくて、既存のイデオロギーや社会のあり方を生み出している現実的諸関係を分析し、変革の可能性と条件を明らかにするのが理論の役割なのである。具体的にいえば、理論の役割は「何が正しいか」を明らかにすることではなく、「なぜ、いかにして疎外が生じているのか」を現実の諸関係から明らかにすることであり、それをつうじて、どこでどのように闘えば社会を変えることができるかを示すことなのだ。このような考え方は「ドイツ・イデオロギー」にまとめられていき、新しい唯物論としてれる。
 マルクスは、その後2年間で変革構想をまとめていく。それが「哲学の貧困」や「共産党宣言」となって現われるのだった。そこでマルクスが注目するのは物質的生活の再生産である。人間は高度な自己意識を持つ点で動物とは区別される。とはいえ、動物と同じように食物を確保しなければ生命をつないでいくことはできないし、生殖活動をしなければ種をつないでいくことはできない。自己を意識し、思考するという精神的な営みも、物質的な生産活動から切り離すことはできない。自己意識とかしこうとかいっても生命を維持し再生産するための物質的な諸条件に制約されている。それゆえ、人間社会について考える際には、その社会でどのように人間の物質的生活が再生産されているかという、その仕方に注目せざるをえない。その物質的再生産のあり方は、人間が生産活動を行う際に、人間同士で結ぶ関係、すなわち生産関係のあり方によって変わってくる。人間は動物と違い、ただ群れを成すだけでなく、人間同士の関わり方を変化させていくのだ。例えば、原初的な社会では、人間は共同体を形成し、誰もが共同体のメンバーとして労働し、生産物を共有物として生産するという生産関係が成立していた。しかし、この生産関係は時代とともに、原初的共同体、奴隷制、封建制、資本主義というように変化していった。この生産関係の変化の動因は生産力の発展である。人間は自己意識をもつので、武左質的生産のあり方を技術的に変化させ、徐々に労働の生産力を上昇させていった。そして、生産力が上昇していくと、ある時点で既存の生産関係と合致しなくなり、衝突してしまう。すると、この衝突が政治的な意識に反映し、生産関係は生産力に照応するかたちに変革される。
 具体的には、封建制の内部で生産力が発展し、剰余生産物が増大すると、それが商品として販売されるようになり、貨幣経済が浸透していく。そうすると、より自由に商業活動を営みたいという要求が高まり、封建的規制の撤廃を求める運動が起こる。そして、市民革命などの政治的変革をつうじて生産関係が変革され、ブルジョワ的生産関係、すなわち資本主義的生産様式が生まれてくる。この新しい生産関係は、それ以前の生産関係が基本的に直接的な人格的依存関係にもとづいていたのに対して、ブルジョワ的生産関係は直接的には金銭関係、商品と貨幣との関係に基づいている。そこでは、人々は金銭関係を媒介にして、互いに関係しあう。例えば、売り手と買い手、雇い主と労働者などである。このように、それまでは政治的権威や宗教的権威によって扮装されていた搾取関係が、たんなる金銭関係に置き換えられ、利害関係が露骨に現れてくる社会になる。ブルジョワジーはたえずより大きな利潤を得るために競争し、その競争に勝つための販路を拡大するために、世界中かにブルジョワ的生産様式を普及させ、その結果、世界市場が形成される。しかし、このブルジョワ的生産様式においても、封建制と同じような、ある一定の段階で生産力と生産関係が衝突するようになる。ブルジョワジーは、この衝突を、さらに市場を拡大することによって克服しようとするが、それは結局、より全面的な恐慌を準備してしまうことになる。そこで生まれてくるのが、プロレタリアートである。ここにいたって、マルクスの社会システムの分析と変革の基本構想が定まっていく。

 

生誕100年 中村正義 その熱と渦(6)~第5章 深掘り!中村正義をよみ解く

Nakamurasvillage  ここから第2会場に移ります。ここでは、中村の多様な取り組みを5つのテーマで紹介しています。これまでの第1会場では、比較的規模の大きな作品をじっくりと見せるという展示でしたが、ここでの展示は中小規模の作品を数多く見せるというように、展示の仕方が変わりました。ここまでで少し疲れ始めてきたので、ここで多数の作品が壁を埋め尽くすような展示に接すると、圧倒されて、丁寧に見る余裕がなくなってきました。なので、かいつまんで
「風景と山水~写生から心象風景へ」
Nakamurassnow  1950年の「山里暮色」。写実的な風景画です。いわゆる花鳥風景の定型的パターンではない、田舎の山里の風景です。当時としては斬新だったのかもしれません。向井潤吉が描きそうな風景です。1969年の「雪景色」は、日展から離れて反逆したため、注文がなくなってしまったときに、この作品をきっかけに注文が再びくるようになったということです。この作品と同じ頃に舞妓を題材にした過激な作品を制作していたのですから、びっくりです。
「花と女~色彩の実験」
Nakamurascosmos  蒼野社に入ったころは花鳥画を描いていたのが、1960年代の反逆の時期に原色を多用する大胆な作品を制作します。1962年の「花(アネモネ)」はその典型です。三輪のアネモネの花の赤が強烈です。そこに青、黄が対立するように配され、そこに赤がドリッピングのように散らされています。1963年の「薔薇図」は画面のほとんどが赤で占められ、アクセントのように黄色が激しく対立しています。太い線が引かれた薔薇の形態は大きく省略され、蚊取り線香の渦巻きのようだし、茎の部分と背景は唐草模様のようです。
 Nakamurasrose 舞妓は、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。この以前に制作された舞妓三部作と呼ばれている作品がある。通称赤い舞妓といわれる1957年の「女」、白い舞妓といわれる1958年の「舞妓」、黒い舞妓といわれる1959年の「舞子」(ここでの展示なし)の3点である。この頃の舞妓は、日展の古い殻を打ち破ろうと試行錯誤を重ね、画面上でさまざまな実験が行なわれていた。例えば「女」では、目の覚めるような朱色の長襦袢を纏った豊満な女を登場させ、「舞子」では、着物の前をはだけて裸体を晒した少女を描いた。現在の時代感覚では、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったという。しかし、日展には「舞妓」を出品した。そこには、隠された部分にさりげなく贅を尽くすという伝統的でありながら、粋で洒脱な日本人特有の美学が横たわっている。その後、第3章で見た1962年の「舞妓」はその薄い膜を剥ぎ取り、鮮烈な色彩を露出させたという。

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そして、ここで同じ1962年の「舞妓」は、さらにドギツイ赤で、形態のデフォルメはさらに進み、むしろマンガに近づいている。このお下品さは、同時代の横尾忠則のテイストに近いものを感じます。そして1963年の「舞妓」は黄色いポップな画面で、全体に黄と紫、赤と緑、青と橙など、意図的に補色を使い、さらにショッキングピンクにより鑑賞者の目を引き付け、人体をこけし人形のようにとらえ、腰から上部の正面を画面の真ん中に配置し、顔の部分は、絵具のチューブから絵具を直接出して凸凹に盛り上げて描いています。一方で単純な形態と円や十字など幾何学模様や明るい色彩が、はかなくポップな軽みを強調しています。1968年の「舞妓之図」は「うしろの人」の方に一歩踏み出したかのような不気味さが現われ始めました。
「自画像から顔へ」
 自画像が壁いっぱいに展示されていました。よくまあ、これだけ描いた。それしか言えません。見切れませんでした。

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2025年5月16日 (金)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(5)~第4章 生と死の狭間で─人人会と東京展へ

 中村は癌の手術を受けたことなどから1970年以降、原色を用いた明るく大胆な作風から、暗鬱な色調の作風に変わっていったそうです。
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 「おそれ」(右側)は1974年の作品。暗い画面に土気色の顔の人物たちが並んで立っているという作品で、人物たちの顔はコミカルにデフォルメされているが、暗い画面が却って不気味さを増している。香月泰男(左側)がシベリア抑留の体験をもとに制作したシベリア・シリーズの暗闇に、生きているのか死んでいるのか分からないような顔が浮かびあがる陰鬱な作品と構成が似ているような気がします。しかも、はっきりと描かれている人物たちの背後の暗い空間にぼんやりと幽霊のような人物が描かれています。ここには、明確に輪郭がある人物たちと、その背後の薄ぼんやりとした人物たちが、それぞれのっぺりとして平面的に描かれています。つまり、この作品には、二つの平面がある多重平面で構成されているのです。薄ぼんやりした人物たちは、背後だから暗闇に溶けてしまって見えるのでほんやりしているのか、実は前面の人物たちの内心の形を象徴的に表わしているのか、あるいは前面が現実であるのに対して背後の面は幽霊の異界で幽霊は前面の人物たちを見ている(憑りついている)のか、いろいろな解釈が可能でしょう。
Nakamuraswhere  「何処へいく」は同じ1974年の作品。マグリットやダリのような写実的に描写した題材を意外な組み合わせで幻想的な光景を作り出す手法を使っているような作品。ここに至って、部分的ではあるが、写実的に描くということに戻っています。前の時期の極端なデフォルメは影も形もありません。潔いほどスパッと切り捨てているのが、この人の真骨頂かもしれません。真っ黒な背景に白い骸骨が浮かび上がるのは、まるでレントゲン写真を見ているようです。それほど、骸骨の描写はリアルです。その真っ黒な背景からは様々な顔が浮かび上がってきます。それぞれの顔はかなり歪んでいて、骸骨と対照的です。この描き方の違いが二つの世界が併存していることが分かります。それを境界づけるのか、あるいはつなぐのか、一筋の足跡が画面中央から下に、まるで奥から手前に向かってきているようにつけられています。何らかの意味合いがあって、見る者に解釈を促す、いかにも意味ありげな、何か言いたそうな雰囲気の作品です。
Nakamurasback  「うしろの人」は中村の最後の作品だそうです。1960年代の作品に見られた蛍光色や原色でエネルギッシュな造形を試みた痕跡というのか、そのインパクト、いわば見る者がひっかかるようなところが、よく言えば洗練されて、ひっかかりなく、受け容れやすくなっていると思います。行く層も塗り重ねられた絵の具が厚みをもって重量感ある画肌を作っています。1963年の「男と女」の絵の具にボンドを混ぜて盛り上げるようにしてマチエールのような画肌をつくって奇を衒っていたのが、ここでは重厚感という見る者に分かりやすい効果となって、いわば洗練されています。あるいは極端に形を歪めたデフォルメは、ここでは落ち着いたものとなり、むしろ蒼白の幽霊を想わせる顔色の女性の顔として、見る人に抵抗感を起こさせない機能を果たしている。そういうことなどから、反逆とか異端といったレッテルを貼られるほど極端な変化をしてきた画家に、洗練とか成熟といったことは似つかわしくないかもしれませんが、この作品には、落ち着きが感じられます。中央の女性の背後に影のような何者かが立っているのは、「おそれ」や「何処へいく」で見られた二つの世界の系統と見ることもできます。これは、人間の二面性(陰と陽)とも、しのびよる死の影とも、多様な解釈が可能でしょう。そして、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。舞妓は、化粧と衣装によって真実を覆い隠すペルソナの側面をもち、いわば化けた者です。その白塗りの顔は、彼女の素顔を隠しているという、二重の存在でもあるわけです。つまり、この作品は女性Nakamurashirakawa と背後の何者かという二重性と、当の女性が二重性の存在であるという。しかも、彼女の蒼白な顔色は幽霊のようにも見えて、生と死の二面性が見られる。
 ここからは、区画が変わって、一采社や日本画研究会、人人会やその他で中村と関係していた画家たちの作品が展示されていました。そこで、いくつか印象に残った作品がありました。
 平川敏夫「樹炎」。平川敏夫は中村との交流の中で日本画を始め、はじめは人の気配の途絶えた漁村や夜の庭園、水辺の景色など幻想的な表現で描いていたが、樹木の根源的な生命力に注目しシリーズで描くようになる。当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていましたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至り、生命力の称揚は頂点に達したといいます。この作品は、その朱で、枝が絡み合う生命体のような威容を示しています。
NakamurasomoriOyamadaancent  大森運夫「ふきだまりⅡ」(左側)。大森運夫も中村の勧めで日本画を始めた。「ふきだまり」は三部作で、浅草のドヤ街山谷にたむろする日雇い労働者の姿を描いて、社会の底辺に生きる人々の悲哀とたくましさを骨太い筆致で描き出し、デフォルメされた人物の形は鉈で掘り出したかのように荒く、パレットナイフで厚く盛り上げた岩絵の具は岩肌を思わせるなど、日本画というよりもむしろ油彩画で描いたような印象を与えます。この作品は小山田二郎(右側)を想わせます。
 高畠郁子「惜陽」(右側)。高畠郁子も中村の勧めで日本画を始めた。活動初期に幻想的な植物画を数多く手がけている。なかでも銀箔を用いた装飾的な傾向の強い本作は、多様な植物や鳥獣、虫たちの生命力を讃えた代表作。よく見ると、陽を惜しむ虫や鳥たちに交じって、夜を待つ生き物が茂みの中で目を光らせている。
 Nakamurastakahata Nakamurassaito 斎藤真一「梅雨の頃」(左側)。斎藤真一は1974年に中村らとともに人人会を結成した。津軽に旅した斎藤は盲目の旅芸人・瞽女たちの存在を知り、翌年より一連の制作を始めた。本作では青白い光に照らされて、ひとり髪を洗う半裸の瞽女が描かれている。周囲の赤い縁取りにも髪を結った瞽女の顔が描き込まれているが、彼女たちはこの瞽女の想いを哀調込めて唄っているように見える。このデフォルメした女性の顔は、中村の「うしろの人」と通じているようにも見える。

 

生誕100年 中村正義 その熱と渦(4)~第3章 日本画壇への挑戦─日本画研究会発足

 1961年に中村岳陵の蒼野社をやめたのを転機に、セピア調からカラフルな作風に転換し、当時としては先鋭的な作風を追求していくことになるということです。
Nakamurasmaiko2  「妓女」は1962年の作品。これまでの淡い色を基調とした落ち着いた調子から、突如、鮮やかな赤を中心に原色を多用した激しい色彩に一変しました。中村本人のコメントが図録にあります“私は自分の好みではない色、関心をもたなかった色に挑戦を試みた。…私自身好きでもない関心もない原色へのこの実験は、数か月たたないうちに、私の既成概念を完全に破壊してしまったようである。私はこのような破壊行為が意識的に計画的に試みられて、私なりの成果をあげたことに狂喜しているわけである。私は私を破壊することに成功した。”ということですが、これは後で語っているだろうから、本人が物語を創っている演技に近いものでしょう。というのも、以前の「舞妓」という1959年の白を基調にした作品と女性の形態は、それほど変わっていないように見えるのです。人物は全体にのっぺりして平面的だし、顔には表情がなく、眼は白目のないアーモンド形のべた塗りということで、ほとんど変わっていません。それが、色彩を転換させただけで、これほど印象が変わってしまった。とくに、以前の作品では中間色の濃淡を塗り分けていた背景を原色を対立するように塗り分けて、それがドギツイ印象を与えています。これまで、意味不意の濃淡だったのが、ドギツイ緊張感を作り出すという意味が分かるものに変わったように思います。そういうことから、この人は表層の人だということを、この作品は如実に示している。そのように私には思えます。
Nakamurasman2  Nakamurasman 翌1963年の「男と女」という作品です。「妓女」をさらに奔放にしたような作品と言えましょうか。画面の全面が真っ赤の「妓女」の方が色彩のインパクトは強いのですが、蛍光塗料にボンドを混ぜ合わせて、油絵のマチエールのように厚く盛り上げているのが奇を衒ったといいますか、日本画だと思って見た人を驚かせるであろうことは想像できます。また、描かれた題材のかたちについては、「妓女」では以前とはそれほど変わっていなかったのに対して、この作品では形をかなり崩しています。ほぼ同時代(少し前かもしれない)のヨーロッパにおけるジャン・デュビュッフェなどのアンフォルメルのムーブメントによる伝統否定の表現を想わせるところがあります。その一方で太い黒の輪郭線によるコミカルな形によってポップアートの雰囲気も感じられます。おそらく、中村は同時代の最先端の流行として情報を得ていたのではないか。そういう時代状況というか時流に敏感に、敢えて言えば目端のきいて、このようなスタイルを採っていって、そこに反逆といった大義名分を付加した。後の時代からの目線では、そのように映ります。それほどに、この作品はスマートなのです。そしてさらに、後年の中村は、このようなスタイルから写実的な表現に変わってしまいます。まるで、このときは麻疹にかかっていたとでもいうように。そこに、どうしてもマーケティング戦略を見てしまうのです。ただし、それは決して悪いことではなく、積極的に評価できることです。だから、情熱に駆られた反逆というストーリーには違和感を覚えるのです。これは、あくまでも私が作品を見た印象です。とこで、作品の流れとしては、前に見た1960年の「太郎と花子」の流れを汲むような感じですが、男女があからさまに絡み合うポーズは浮世絵の春画の影響と説明されていました。
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 「源平海戦絵巻」は大作です。全五図の構成だそうですが、展示されていたのは第二図「海戦」と第四図「修羅」の二作品。これが、本日最大の収穫でした。これはすごかった。画家が技量の限りを尽くして、精魂を傾けた作品だと思います。「海戦」は大きな画面を埋め尽くすように描かれた合戦の武士たちの顔はマンガ的でユーモラスではあります。しかし、これだけ夥しい数の武士たちひとりひとりの表情はすべて違っていて、それぞれが個人として独立した意志をもった人物として描き分けられています。その武士たちが、各々の意志をもって戦っている。また、中央の船には女官たちそれぞれが、強い意志で戦いを見守ったり、おののいたりして行動しています。この画面に描かれている多くの人間のひとりひとりが皆、必死に生きている。その姿が細密に描写され、ひとりひとりの姿が積み重なって、やがては画面全体に大きなうねりのような動きを作り出しています。それは、描かれた源平の時代の歴史の大きなうねりを感じさせる壮大なドラマに見るものを巻き込んでしまうような迫力があります。その一方、この画面の人々の顔色は土気色で幽霊を想わせるところがあり、日本画の様式化された人物描写にパターンにのっとっているところは、現実のリアルとは外れていて、その在り様がこの世ともあの世ともつかない幻想的な世界にも見えてくるのです。この作品は、細部のひとりひとり人間の姿を追いかけて、この人はどんな人なんだろうかと想像をめぐらしてもいいし、少し画面から離れて画面全体のうねりに流されるような体験をしてもいい。どれだけ見ても、見飽きることはない。そういう作品だと思います。「妓女」や「男と女」のような作品を描く一方で、このような作品も描いていたわけで、この人は器用な人であることを再認識しました。

 

2025年5月15日 (木)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(3)~第2章 反逆の兆し─日展復帰と一采社

 中村が日展に1946年の初入選から1961年の脱退までの15年間の作品です。その間、病気療養による雌伏の期間があり、そこで反逆の兆しを見せ始めるということです。
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 「谿泉」という1951年の作品です。谿泉とは聞き慣れない言葉ですが谷間に湧き出る泉という意味です。ここで描かれた女性の眼に白眼がなく黒く塗りつぶされているところや簡略化した人体のかたちの表現など、一緒に展示されていた高山辰雄の「少女」や「室内」の影響を見ることができます。その高山の「少女」は、人物の描き方や画面の、のっぺりとした平面的なところはゴーギャンの影響らしいのですが、私には、ゴーギャンというよりはモディリアーニの描く少女の顔に似ていると思えてきます。この作品では、背景のグリーンと少女の服の黄色、そして右下の猫の黒といった、彩色され単純化された面の構成が、この作品の大きな特徴だと思います。とくに、グリーンが引き立っていて、深Takayamaroom_20250515235501 いグリーンが靄のように画面を覆っていて、そこにアクセントを加えるように猫の黒が配され、印象を和ら げるように少女の淡い黄色が効果的に使われている。少女の顔に表情はなく、目は空虚に黒く塗られています。また同じ画家の「室内」になると、二人の少女の服の鮮やかな赤と黄色を中心にして、ふたりの周囲の室内の物が色の平面に還元されるようになって、画面全体が色彩で構成されているという、まるでカンディンスキーの初期の抽象画を描き始める直前の作品にようになっています。おそらく、高山という画家は、自身の資質なのか日本画というのがもともとそういうものなのかは別に措いて、人間を描くというときに、個人の持っている感情とか精神的な内面といったものを単独に、直接的に描くという方向を選択することはしなかったと思います。一方、中村は高山にあったように色自体の強さ、鮮やかさのようなものはなく、鈍いというか地味で、生き生きとした感じはなくて、その代わりに群像の女性たちのポーズが西洋絵画の伝統的なヌードのポーズだったりするのではないでしょうか。この作品のヌード群像を見ると、例えばルーベンスなどが描いたギリシャ神話の「パリスの審判」などを思い出す。ある意味、中村の作品は何かしら引用の痕跡があって、それを探すのは、彼の作品を謎解きのように楽しむ要素なのかもしれません。ちょっと不謹慎かもしれませんが。これはあくまでも個人的な感想です。
Nakamurasmaiko1  「舞妓」は1959年の作品です。病気療養による活動のブランクがあって、日展に復帰したのが前年の「女」という作品で、その翌年の日展出品作ということです。この2作を含めた舞妓三部作というのが、通称赤い舞妓といわれる「女」、白い舞妓といわれる本作である「舞妓」、そして展示されていませんでしたが黒い舞妓といわれる「舞子」の3点で、現在の私の視点からは、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったということです。題材の取り上げ方は、変わったところがあったかもしれませんが、構図や描き方については以前と変わった感じはしませんでした。変化として、敢えて言え陰影が見て分かる程度に付けられて、以前ののっぺりとした平面的な感じがしなくなったことですが。とはいえ、意味不意な塗りの濃淡は残っていて、折角つけられた陰影の効果があまり感じられません。その一方で、この作品では背景に、金箔が貼られたかのように光っている感じがするところに、白い着物や舞妓の白塗りの顔の白が浮き上がってくるところに、濃淡が付されていることで、その白への目の抵抗感を少なくしている。つまり、見る者が自然な感じで受け入れやすくしているようなところがあって、この作品では、それなりの効果をもたらしているとも考えられます。後、展示につけられたキャプションでは、赤い眼が情念を表現しているとされていましたが、この作品に表情とか感情が果たして表現されていたのか、そういう深層ではなく、描かれた表層の作品で、中村という作家はそこで勝負しているように私には思えました。
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 「太郎と花子」は1960年の日展への最後の出品作となった作品だそうです。目にチカチカするような原色をドギツイほど荒々しく散りばめた色彩のなかで半裸の若い男女が睦み合う姿が描かれていると説明されていました。不謹慎とか、あるいはヌーベルヴァーグとかと賛否両論を引き起こしたということだそうです。しかし、展示されている作品を実際に見てみると、制作されてから60年以上を経過したためか、絵の具が劣化したたか、当初はドギツかったと思われる色彩は鈍化して、画面全体が濃いグレーのぼんやりとしたものとなって、具体的に何が描かれているか、ハッキリしません。むしろ、濃いグレーを基調とした画面で、赤や黄や青などの色が不定形に点滅するといったように見えます。この作品を見ていて思い出したのが、中村とはまったく関わりがないかもしれませんが、熊谷守一が1931年に制作した「夜」という油絵です。夜の暗闇の中に死体が横たわっている。しかし、画面の黒の地に原色の点がポツポツとあるとしか見えない。中村は、熊谷とは違って、当初から、そういう画面を目指したわけではないでしょうが、結果としてそうなってしまった。そのようになってしまった画面として見ていると面白い。私は、中村と同時代人ではないので、反逆といわれても、当時の日本画をとりまく状況など分からないし、それをリアルなものとして分からないので、歴史上の事件としてとしか分からない。そういう事情を踏まえた上で、絵画を見るというのは、その事情というのはオマケにすぎないと思います。そのオマケがないと、その作品を見ることができないなら、その作品を見る人は限定されてしまうでしょう。私は、この作品を抽象画みたいな作品として面白く見ました。

 

2025年5月13日 (火)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(2)~第1章 研鑽の時代─日展と蒼野社

 中村が中村岳陵の主宰する画塾蒼野社に入門し、そこで研鑽を積んで、日展に出品していた時期の作品です。
Nakamurasevening_20250513233901  「斜陽」は1946年の制作で、第2階日展で初入選を果たしたという画壇へのデビュー作とされています。淡彩の色調は霞や靄に包まれたかのような光と空間の中、民家の土壁を背景に、竹林の幹や葉に斜め奥から夕陽が差し込む逆光を受けて虚ろいゆくときの一瞬を捉えているということです。精緻な線描は、胡粉で線を一度消して、淡彩を乗せた上から再び線描により対象をくっきり描き起こすことによって、装飾的で清らかということです。よく見ると、竹林らは2匹の黒い蝶が描き込まれています。この蝶に何かの意味があるのか、勘繰ってしまいたくなります。日本画には素人の私が、この絵で見てしまうのはそんなところで、作者である中村は下準備を重ね、力が入っているのでしょうが、地味な作品だなというのが、私の印象で、2匹の蝶を含め、意味不明というか、意図がよくわからない部分がいくつかある作品です。その分からない点は、同時に展示されている師匠の中村岳陵の「狭霧霽れゆく」Nakamurasevening2 を見ると、霧が晴れていこうとする木々の間から差し込む逆光の光景で、そこに数匹の蝶が飛び交っている。つまり、「斜陽」は師匠の影響といえると思います。後の展示を見ると分かるのですが、中村正義の作品は、これらが一人の人物によって制作されたのかと驚かされるほどの多彩なのですが、それは、この人がそれほど色々なものが描くことができる器用さを備えていたからだと思います。そうではなくて、不器用で、これしかできないというというのを一途に詰めて自身の作風を大成させるというタイプの人ではないと思うのです。これは数か月前に見た田中一村がそういう人だった思います。何を描いても、それなりに作品ができてしまう。何でも屋さんの器用貧乏で終わってしまいそうなところ、奄美大島に移住して、他にない題材と出逢って、自身の個性を創りだすことができた。中村の「斜陽」は師匠の作風を巧みに消化して、日展に入選してしまえるほどの作品にまとめ上げています。それほど上手い。でも、「斜陽」もそうなのですが、このコーナーで展示されている作品を見ていると、基調としている淡い色彩や陰影でもない濃淡のつけ方の意味(必然性)が分からない。師匠である中村岳陵のスタイルを踏襲しているだけとしか思えないのです。この時期は、中村正義にとって習作期という位置づけなのかもしれませんが、それにしても、このコーナーで展示されている作品は誰々風というのが想像できる。
Nakamurasseisyo  「清粧」は1948年制作の女性像。並んで展示されていた1949年の「少女像」もそうですが、背景を描き込まず、ある場面のなかの人物というのではなくて、人物が独立して抽出され存在あるいは造形として描かれています。日本画では、こういう例は少ないのではないか。このようなタイプの女性像として思い出されるのは、速水御舟の「女二題」とか上村松園の「序の舞」などといった作品です。このあたり、中村という人の頭のよさ、器用さの一面が現われHayamilady ているのではないかと思います。情報への目配りというか、画家たちの新たな試みの情報の敏感で、それを自身の作品に巧みに取り入れてしまう。これは、後の反逆といわれる作風の大胆な転換が、同時代の絵画のムーブメントや社会の動きと連動していたように思われるところで、そこで反逆して玉砕するのではなく、他の画家を巻き込んで、ムーブメントのオルガナイザーとして巧みに身を処して、生き残っていった、その片鱗が現われているというのを、これらの初期作品から読みとるのは、こじつけかもしれませんが。そしてまた、これらの作品では「斜陽」では目立たなかった写実とはすこしズレた色遣いと意味不明な塗りの濃淡がすごく目立ちます。この点で、私は違和感を持たされます。また、人物描写の硬さとを強く感じます。どこか肩に力が入り過ぎて、無理をしている感じが強いです。

 

2025年5月12日 (月)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(1)

2025年5月4日(日)平塚市美術館
Nakamuraspos  会社員生活が終わって後のことを考えていたら、時間はたっぷり取れるようになるので、いままで東京とその周辺しか行くことができなかった美術館について、少しずつ遠くの美術館に行ってみるのも、いいかもしれない。地方の美術館とか。そんなことを考えていたら、今まで対象外だった関東圏の美術館に行ってみるのもいいのではないかと考えた。このゴールデンウィークは上野の美術館などは大混雑なのは容易に想像できる。それで、探してみて、ヒットしたのが平塚市美術館。東京の西部に住んでいる私には、朝出て、夕方おそくには帰宅できる。日帰りの圏内で、ちょうどおもしそうな企画展をやっている。朝9時に家を出て、平塚に着いたのは12時ちょっと前。電車は、うまく混雑を外れてくれた。駅前の商店街を抜けて、大きな八幡神社の裏手に市役所や図書館などの公共施設が集まっていて、その一画に美術館がある。駅から歩いて20分くらい。バスも出ているようだが、八幡宮にお参りしたり、散歩がてら歩いてもいいと思う。mu通りに入ると、前庭を広く取った、アーチ状のドームを備えたような凝った外観の建物が平塚市美術館。個人的には、このような凝った外観は、芸術的なんだろうけれど、いかにもという感じで、使い勝手が悪そう。スペースの無駄遣いというか。第1展示室と第2展示室と分けたり、展示室まで無駄に歩かされたり、そのくせロビーが狭い感じがしたり。
 展覧会は、混雑しているのでもなく、閑散としているのでもない、そこそこの入場者。大多数の作品が撮影可のようだが、シャッター音は時たまで、気にならない程度。来ていることは、中高年の夫婦がに目につく、リラックスした格好で地元の人なのだろうか。
 この展覧会の中村正義という画家のことは知らないので、紹介がてら主催者あいさつを引用します。“異端・鬼才・風雲児などさまざまな呼称が冠せられた中村正義は、戦後の日本美術において特異な存在と目されてきました。1924年5月に愛知県豊橋市に生まれた正義は、中村岳陵に師事して戦後の日展で将来を嘱望されましたが、会員に推挙された1961年に師のもとを離れ日展からも離脱します。以後、旧態依然とした日本画壇に反逆し続けました。多彩で精力的な活動を展開する一方で、同時代の作家たちと深く関わり、彼らを巻き込んでさながら台風の目のように強い牽引力を発揮したことも注目に値します。郷里においては美術の専門教育を受けていなかった仲間たちを日本画家として導き、当地にひとつのエポックを築き上げたほか、針生一郎とともに「日本画研究会」を立ち上げ、片岡球子、横山操、浅倉摂、加山又造など在野の画家たちと日本画の在り方について討議を重ねました。また、同郷の星野眞吾と4ともに異色の美術グループ「人人会」を創立したほか、そこから派生して多様なジャンルの表現者を巻き込んだ芸術祭「東京都展」へと展開します。一方で世に認められることなく病没した三上誠の才を惜しみ、回顧展の開催に力を尽くし、若い画家たちへの支援を行うなど、ジャンルや世代を越えて「つながる」ことを重視した作家でした。自身も道半ばの52歳で病没しましたが、決して長いとは言えないその生涯はさまざまな画家や関係者に影響を及ぼすとともに、こうした交流によって正義のダイナミズムが生み出されたとも言えるでしょう。生誕100年を記念する本展では、正義の画業を代表作によって概観するほか、その交流関係にも着目し、関連作家の作品もあわせて紹介します。また、映画や舞台芸術、写楽研究やシステム化住宅など正義の関わった多様な活動に焦点をあて、あらためて正義の実像に迫りたいと考えています。”

 

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(7)~第6章 概念と弁証法

 ここでは「大論理学」の概念論を扱う。概念の論理学には伝統があり、完成されてしまって固定化している。それを流動化し、活性化することを目指している。
 まず、普遍と個別の流動化から始まる。普遍とは、いわゆる抽象的な概念、例えば赤、犬、事物などのようなものである。これに対して個物とは具体的なもののことである。概念としての垢ではなく具体的な赤いもの、例えば食卓のリンゴ。我々の思考を普遍的なものについての思考と個別的なものについての思考に分けておいて、その働きや相互の関係を考えるのが伝統的な論理学である。ヘーゲルは、この普遍と個別を分けるという考え方に挑戦する。普遍と個別は、概念をすべてまるごと呑み込んだ総体性である。ということは、普遍は個別を含むということだし、個別は普遍を含む、この意味で、普遍と個別は一つのものだということになる。しかしそうでありながら、普遍と個別は二つの別のものとして現われる。ヘーゲルは、カントの概念論を批判する。カントの認識論では、直観と概念の二つが組み合わさることではじめて、我々は何かをすることができるのだとされる。これらのうち直観とは、感覚を通して我々に与えられるデータのことで、例えば、目の前のものが赤いリンゴであると認識する場面では、リンゴは赤い光を反射していて、この光が目に入ることで、我々は赤い光のデータを受け取る。また、甘酸っぱい香りが嗅覚を刺激することで、リンゴの香りのデータを受け取る。ここに概念の働きが加わる。眼で受容された光の信号は赤という概念と結び付けられる。あるいは嗅覚によって受容された香りも、甘酸っぱいという概念と結び付けられる。さらにこれらの概念が、リンゴの概念と結びつく。こうして、我々は目の前にリンゴが在ると認識することができる。この間との議論について、ヘーゲルは概念によって認識が成立するという点は評価する。しかし、ヘーゲルにとっては普遍と個別の統一が認識において成り立っていなければならない。カントの場合は、認識が成立する以前に直観という物が独立して存在する。これに対してヘーゲルは、認識と切り離された独立の直感は存在しない。また、カントは直観が客観的なもの、概念が主観的なものとして、別々に存在すると考えていた。ヘーゲルは、それでは両社がなぜ関係するのか画説明できなくなると批判した。ヘーゲルは、そもそも出発点からも主観と客観、概念と直観、普遍と個別は一つのものだと考えていた。
 次いで、生命論に移る。生物は心と身体を持つという指摘から始められる。心性は概念的なもの、主観的なものであり、普遍的なものである。他方、身体は非概念的なもの、客観的なものであり、個別的なものである。そう見える。命を持った生物では、普遍的な心と個別的な身体が一体となっている。これは、近代哲学の心身問題に関連する。デカルト以来の心身二元論は一見スッキリした説明のようだが、心と身体という全く異なる二つのものが、相互に影響を及ぼし合うことがうまく説明できないのだ。ヘーゲルは心と身体は本当は同一なのだと考えた。しかも、それを普遍と個別の同一性の重要な一形態として捉えようとした。生物の身体は、手や足、頭、内臓といったさまざまな個別的な部分を持つ。その個別的な部分はすべて、一つの心によって結びついている。ここにヘーゲルは、普遍的な概念がさまざまな個別のものに当てはまるのと同じ構造を見ようとしている。具体的に言うと、心の諸機能を実現しているのは脳という特定の器官ではなく、むしろ、身体の全体によって、心の働きは成り立っている。このような考えるとき、心と身体の間には、普遍と個別と同様の関係がある。このような生命のあり方は、有機体ということができる。そういう生命のあり方に流動性を見ることは容易だ。さらに、生物は外界と関わる。例えば食物の摂取だ。生物は食べ物を外部に見つけ、それを食べて栄養を摂取する。この時、生物と外界との境界は流動的になる。これをヘーゲルは生命過程と呼んでいる。つまり生物は食べ物を食べて、それを自らの一部とする。すなわた、自己と同等なものとする。このとき、食べられてしまう者としての世界の側からいえば、それは廃棄される。西部の側からは食べたものは栄養となる。これによって生命の客観的なあり方としての身体が構成され、維持される。この意味で、摂食とは生命が自らを客観化することに他ならない。この全体をヘーゲルは衝動と呼ぶ。生物と食べ物は本来は別々のものであるのが、摂食によって、両者は同一のものとなる。そうなると生物と外界の区別はあいまいになる。流動性である。
 最後に、「大論理学」の終結部にあたる絶対的理念の章を見ていく。
ヘーゲルによれば、弁証法の取扱い方は、典型的には二つの道に分かれる。第一の道は、対象と認識の齟齬から、対象そのものの否定へと向かう道だ、そして、第二の道は認識そのものの否定へと向かう道だ。ヘーゲル記これらの道を退けたうえで、第三の道を提示する。それは概念の中心に弁証法を運動として取り込むという道である。ここでは、弁証法は対象でも認識でもなく概念に関わる。概念は弁証法的な対立を取り込みながら、放棄されることなく存続する。

2025年5月11日 (日)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(6)~第5章 本質・根拠・必然性

 ここでは「大論理学」の本質論を扱う。存在論では純粋存在から出発して、およそ存在するとみなされるものについて論じられたが、本質論ではそのような存在するものの背後に見出される本質が取り上げられる。
 現存在の向こうに本質がある。存在は現われに過ぎないと指摘する。この存在は現われであるというのは、何か事物が存在するということは、それが現われているということでる。我々が普通に存在すると思っている事物は、実は本当の存在ではないとヘーゲルは言う。普通の存在するものの奥に目に見えない本質があり、それが私たちの眼前は日常的な事物の形をとって現われている。たから存在は無であり、本質こそが存在するという。我々の目の前にある現われとしての事物は、本質ではないものという仕方で、すなわち本質にとっての否定的なものという仕方で、本質によって定立されたという。そして、以前に現存在とされたものは、ひとたび本質が視野に入ると、定立された存在として捉え直される。それは同様に現存在でもある。普通に存在すると考えられているものは、もはや、ただそこにあるだけのものとしては見られない。むし、本質をその基盤として持つようなものとみられる。すなわち、我々が通常存在すると考える現存在が存在する前に、実はそのものの本質が存在している。現存在は本質によって定立され、すなわち仮構されて、それによってはじめて存在しているに過ぎない。われわれは、そういう風に世界を見ることができる。
 本質と現存在に成り立つ関係を反省と呼ぶ。それは無から無への運動であるという。すなわち、本質と現存在のどちらもが、実は無であるということになる。無というのは、現存在も本質も実は存在しないものだから。現存在は本質の影のようなものだから、それは分かる。とこで、本質が現存在へと反省することは、本質が自分自身へと帰ること、自分自身と一つになることだから、そうすると、本質と現存在は実は同じものということになる。本質が現存在へと反省し、言い換えれば、現存在を定立することは、本質が自分自身へとかえること。もともと一つのものなのだとすれば、それを現存在と本質に分けること自体が幻想だった。だからこそ、本質も無であり、反省は無から無への運動ということになる。例えば、人が我々に見せる顔、事物がわれわれに見せる側面が現存在であった。それらはその人や事物の本当の姿ではないかもしれない。これが現存在が無であるということだ。本質の方は、そうしたものについて、我々は触れることも見ることもできないのだから、現存在の奥にあり、現存在を支えているように見える本質の方こそ、実は現存在に支えられて存在している。このことが示しているのは、本質と現存在はそもそも独立に存在するものではなく、はじめから一つのものだったということ。こうして、本質と現存在の間の関係としての反省は、一つの事物の内側で、幻想と幻想、つまり無と無の間に生じた動きだったということになる。
 反省という関係がなければ、いかなるものも存在しない。本質も現存在も幻想かもしれない。両者を分けることも、本当は不適切かもしれない。それでも、これら二つの幻想をいったんは別々のものとして捉えて、それらの間の関係として反省を考えなければ、およそ何かが存在するという事態を考えることすらできなくなる。したがって、存在の向こうにそれとは区別された本質がある、という描像は、そのままでは維持できないものではあるのだが、それても最初からなしで済ませることもできない。
 反省という運動が前にあって、存在も本質もすべて影のようなもの、というヘーゲルの主張は、この世界のすべてを流動的なものとして捉えていくという宣言として受け取ることもできる。そして、ヘーゲルは、この図式そのものも流動化させようとする。つまり、反省がすべてを支えていると安易に考えてはならない。それは、反省が先にあって、それを支えられて現存在や本質が成り立つというのでない。反省は、現存在や本質をね反省は以前からあったものとして定立する。したがって、反省は現存在や本質に支えられているとも見なければならない。反省そのものが存在するとされるときには、それに先立って現存在や本質も存在するとされていなければならない、というわけだ。
 次いで、根拠についての議論に移る。ヘーゲルはAであることがBである十分な根拠であるならは、AであることとBであることは同一のことであるはずだ、と指摘する。それは、AとBは同一の事態を別の観点から記述したものに過ぎない。
 とはいえ、実際にはAとBが同じことではない場合もある。ヘーゲルはAとBが同一である場合を形式的根拠、異なる場合を実在的根拠と区別している。実在的根拠の場合、AとBは異なるが、両者の間に根拠づけ関係が成立するためには、深く関係し合っていなければならない。その関係を同一性に求める。つまり、この場合には完全には同一ではないが、部分的には同一であるという。しかも、それは根拠づけられるものの存立の基盤となるような内容である。
 形式的根拠と実在的根拠は、AとBの間に同じでありながらも違いもあるという関係がなりっている点で共通している。我々は根拠や理由に目を向けるときは、二つの事柄の同一性と差異の両方に同時に目を向けている。流動化に関連づけると、同一性だけを見る目線と、差異だけを見る目線の両方を流動化させることで、われわれは根拠づけの構造を把握することができる。
 では、すべては根拠があるのか、根拠がなくおこるのかという議論にすすむ。それは必然性と偶然性と置き換えることができる。これは、哲学では様相という分野になる。ヘーゲルは、現実のこの世界を様相の視点でどう見るかという仕方で、議論を展開する。例えば、現実世界を必然性をもつものだと見るならば、我々が生きるこの現実世界がこのような姿をしているのは、なるべくしてなったこと、必然的なことだ、と考えることになる。この議論は歴史の見方とも連動している。ヘーゲルはこの議論に対して、どちらが正しいのかというのではなく、両義的かつ流動的で、この世界は必然でありかつ偶然的である、という仕方で、二つの見方を流動化させるべきことを説いている。以下で見ていこう。
 ヘーゲルは様相論を形式的なものと実在的なものに分類する。例えば可能性という様相で考えてみよう。例えばフィクションの中の出来事は想像することだけが可能である。これは、想像は可能だが、実際には起こりえない。これが形式的可能性である。これに対して本当に可能なこともある。これが実在的可能性である。
 まず、形式的可能性の観点から現実を見ようとする。この場合の現実は形式的現実性であり、現実は単なる可能性すぎないような現実である。この観点からは、現実は全く偶然にこうなった、という見方が生じてくる。現実が偶然的なものだと見られるとき、その現実は、単に思考可能なものとしてみ見られる。なぜなら、単なる思考可能性という観点から考えるなら、現実とは全く異なる事態がありえたということになるからだ。様々な想像可能性の一つが現実化したものとして現実世界を見るとき、そのあり方は単なる偶然として捉えられる。ヘーゲルは、次に現実を実在的可能性として捉える。実在的可能性とは、現実世界における実現可能性のことだ。実現可能性とは現実世界において実現可能なことの全体であった。これは、結局そういうふうにしかなりえなかったと言われることの全体と同じゆえ、実在的可能性と実際的必然性は同じであると言う。そうすると、この観点からの現実のあり方は必然的ということになる。
 ここまでのとこでは、現実を偶然と見ると必然と見るかは対立的であるように見える。これをヘーゲルは流動化する。実在的必然性はそれ自体で偶然的、とヘーゲルは言う。多元宇宙仮設を考えてみる。この宇宙の他に、複数の平行宇宙が存在するという仮説だ。現在知られている物理法則は、偶然この宇宙があることで成り立っている。この仮説を前提にした導かれる必然性は、他の宇宙をも視野に入れたとき、偶然のものだということになる。ヘーゲルの発言は、これに通じるような考え方に発する。そしてさらに、ヘーゲルは様相について、実在的必然性がそれ自体として偶然性を含むだけでなく、偶然性はその必然性に即しているという。そう考えると、偶然的なものとしての必然性と、必然的なものとしての偶然性が同時に生じる。したがって、一方では必然性は自らそのものを定立すると言える。このことの把握によって、形式的可能性、形式的現実性、実在的可能性、実在的現実性といったすべての諸相は一つに融け合いつつ存在しているということが分かる。これは、反省の議論と同じような構造だ。

2025年5月 9日 (金)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(5)~第4章 運動する論理

 ここからは、「大論理学」を見ていく。これは、弁証法論理学の体系の書ではない。そもそも、論理学とは思考についての学である。このときの思考とは我々が対象としての客観的世界を捉えようとするときの様式である。我々は一定の枠組みを用いて、物事を理解しようとする。その枠組みが思考である。ヘーゲルはこの思考がことがらそのものである言う。これは、思考によって捉えられた対象である。我々が対象を捉える枠組みが、ことがらそのものと同一であるような対象のあり方、それを捉えるのが論理学の役割である。そういう議論が「大論理学」の中で行われている。
 「大論理学」には存在論、本質論、概念論に大きくわけられる。本章では存在論を扱う。
 ヘーゲルは、存在と無は同じものだと述べる。ヘーゲルは存在と無の区別を取り払い、流動的な生成に注目しようとしたのと、直接性への批判がここでも行われているためだ。それについて、説明しよう。
 まず、何の規定も持たない純粋存在を考える。ただ純粋に在るということは、何かが在ることとは異なり、何の規定も持たない。つまり、純粋な存在では、どんなふうに在るとか、他のものとどう違うといったことは余計なことなのだ。このような存在だけがある状態が純粋存在で、内側にも外側にも何の違いも持たず、したがって定まった形態や性質を全く持たない、それなら無と変わりはない、というわけだ。
 ヘーゲルが、このようなことを言うのは、存在と無が一つであることとしての生成のあり方を言いたいがためである。存在も無も、存在かと言われれば無であり、無化と言われれば存在であるという仕方で、絶対的に区別されていながら、同時に反対のもののうちで消えてしまっているようである。このようなあり方を生成と呼ぶ。生成とは、なるということだ。何かが何かになるとき、なる無前の何かとなった後のなるは違う。しかし、何かであることは一貫していて、そこは同じである。存在が無ななり、かつ無が存在になる、というように生成変化が双方向に生じるとき、そこには生成という運動そのものがある。例えば、私が成長したというとき、成長の前後で私は変わっているので両者は違うが、しかし、どちらも私である。ヘーゲルが、存在論を存在と無についての議論から始めたのは、規定を持たないことで、生成として理解されることの、このようなことを満たす地点から論理学を始める必要があったからだ。
 このような双方向性では、議論をどこから始めるかが問題となる。何も前提していないというのは直接性で(何かを前提にするということは、その前提が媒介となる)、そうした一切の媒介を排することは結局、他のものとの関係や、それ自身の内容をすべてなくす、ということを意味する。ここから純粋な存在が始まりであることが導かれる。しかし、それを語ろうとする時、どうしても何か特定のトピックから説き起こさなければならない。その説き起こされるところでなされる議論、すなわち始まりは、直接的なものか、媒介的なものか。例えば媒介的なものということか見ていくと、媒介とは直接的だとされてものを全体の中の一つの契機として捉え直すことだ。ここには、まず捉え直す対象としての媒介されていないもの、つまり直接的なものがあらかじめあるのではなければならない。学問的な探究に、必ずどこかから始めなければならない。そうすると直接的なものが始まりということになる。他方、直接的なものから始めるという場合、この場合皆が異論なく受け入れる正しいとされている前提から始めるということになる。このような直接性から始めるという発想はむ、ヘーゲルは否定しているはずだ。つまり、どちらにしても矛盾に行き着く、それにより不可能ということになる。そこで、ヘーゲルは、もともとの議論を逆転させる。それは、議論が前進するということは、根拠へ遡ることだという。これは、皆が正しいと認める前提から始めるという考えに対立する。つまり、一見すると根拠を持たず、それに続く議論を基礎づけると思えないようなところから(哲)学は始まる。そして、根拠はそれに続く議論によって与えられる。そういう逆転である。
 著者は、ここにヘーゲル哲学の流動性を見出す。哲学はその本性から、数学のような確固たる基礎から始めることはできない。常に後から正当化されなければならないようなものとしてしか、哲学は語られることができないのである。何が前提で何が導出されるか、ということを単純に言うことができないのだ。これは、ヘーゲルは全体論的な立場を採っている言うこともできる。全体論では、すべての命題が互いを正当化し合う関係にある。他の命題によって基礎づけられることなく他を基礎づけるという特権を持つ命題は存在しない、というのものだ。
 これにふさわしいのが同時に無でもあるような純粋存在だ。それは、存在は無と区別されつつ同一であり、それゆえ生成として把握される。ヘーゲルは、生成するものとしての存在と無が、直接的であり勝媒介され手もいるようなものとして学の始まりにふさわしいと考えた。ヘーゲルが考える流動的かつ全体論的な哲学体系では、直接と媒介も、同じでありかつ同じでないようなものとしてあるからだ。ここでは哲学体系は流動的な有機体のイメージ捉えられている。
 純粋存在とは、何かがあるとは異なる、ただ、あるということそのものだ。この純粋存在に対して現存在という概念を提示する。現存在とは、我々を取り巻いて存在する具体的な諸物のことで、純粋存在が規定を持たなかったのに対して、通常存在すると言われるものは、何らかの規定を持っている。ヘーゲルは、現存在についても存在と無の統一が見いだされるという。しかし、これは純粋存在の、ただあると何もないとは等しく、したがって両者は統一されて生成や消滅として理解される、というのは異なる。現存在の場合は、何かであることと何かでないこととの統一である。例えば、赤いということは、青くない、白くないということと切り離せない。一般に、我々を取り巻く何らかの現存在は常に何らかのXとして存在する。そしてそのことは非Xではない、ということと切り離せない。ヘーゲルの言葉で言えば、現存在は自体存在であり、かつ他在ではない存在である。つまり、それ自体あるというだけの直接的なものではなく、他の何ではないという反省的である。ということは、現存在は自己関係と他者との関係の両者によって成り立っているということになる。そこで、存在と非存在の統一が成り立っていることが明らかになった。このときの非存在は何かでないもの、つまり何かにとって他者となるものである。これが、現存在における存在と無の統一である。ここでも、ヘーゲルは現存在を静止したもの、安定したものとは見ていない。ヘーゲルにとっては、この世界のあらゆるものが、他の事物との緊張関係に内に存在している。さらに、そうした事物を捉える我々の思考も常に他の事物とその事物の間を行き来し、流動的になっている。何かがXであるこということと、それは非Xではないということとの間を揺れ動きながら成立しているのである。
 次に無限論に移る。ヘーゲルは無限なものを悪無限と真無限に区別する。
 悪無限は無限についての誤った捉え方から来ている。無限なものが有限なものとの対立していると考えた場合に、無限があるかのように見られてしまう。それが悪無限だ。この場合、無限なるものは有限でないものとしてのみ存在することになる。有限であるとは、限りがあるということだ。限りがあるものはすべて、有限なものであるはずだ。ところで悪無限は、有限なものとの対立によって理解される。そこでは無限と有限の間に境界線を引くことができる。境界を引けるということは、その境界線によって無限なものは限定されるということだ。こうして悪無限は無限ではなく有限なのだ。
 悪無限に対して真無限は有限なものと対立しない。真無限では、無限が有限を超え出るのと同様に、有限も有限自身を超え出ていく。これは、有限のなから無限が含まれているというとこで、夕餉と無限が対立的に捉えられていない。無限は有限の中にあるので、外側にあって対立するわけではない。真の無限は、有限なものが自己を超え出でつつ、自分自身に戻ってくることである。例えば、法則は、この世界で感覚される現象を超えた記述でありながらも現象そのものを説明するものでなければならない。有限と無限を対立させる悪無限的な見方では、無限は有限なわれわれを超越したところに静止するものとして、硬直的に捉えられる。これに対して、真無限とは、有限なものが不断に自己超出しつつ自分自身であり続けるという流動的なプロセスに他ならないのである。

2025年5月 8日 (木)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(4)~第3章 行為の不確実性

 「精神現象学」で悟性の次は自己意識の章である。そこでの議論の焦点は、社会の中で他者と共に生きることから生じる流動性へと移っていく。つまり実践である。
 自己意識の章の中の主人と奴隷のエピソードは有名である。主人と奴隷に対して、ヘーゲルは、このどちらに本質的意識や自律的意識があるのかを問う。一般的には、自立的なのは主人であり、奴隷は主人に隷属するのだから自律的とは言えないと考える。これに対して、ヘーゲルは奴隷の方が自立的意識であるという。なぜなら、主人は客体としての事物に直接触れることがないからだ、という。主人が手にするのは、奴隷によって仮構された後の事物である。それに対して、奴隷は労働を通じて、世界内の事物と直接に相対し、それを加工する。奴隷の意識としては、当初は奴隷は自分のことを自律的に存在する本質とは思えず、自分の生殺与奪を握る主人の方が自立的と感じる。しかし、実は奴隷は、自分が自立的であるということを、潜在的には経験している。なぜなら、奴隷が感じている死の恐怖が、自立性を示唆するからである。奴隷は主人に生殺与奪を握られ、死の恐怖で脅され続けることで、主人に奉仕させられている。この時、奴隷は「存在の全体にわたって不安を感じている」この死への恐怖が自立性へと反転する。そこで重要な役割を果たすのが流動性だ。具体的には、次のようになる。奴隷は死の恐怖に苛まれて、意識が溶けてしまう、これが「あらゆる凝り固まったものが意識の中で振動する」ことになり、やがてすべてが流動的になる。ここでネガティブがポジティブに反転し、それこそが自己意識の本質だとされ、最終的には「純粋にそれだけである存在」すなわち、自立的なあり方が奴隷のもとにある、ということになる。つまり、奴隷が感じる死の恐怖は、固定観念を流動化させ、それによって思考の自由を獲得する。それが自立性を持つことができるということだ。ただし、これは潜在的な自立性であり、思考の自由は思考の内側に限ってのことだ。
 議論は行為に移る。行為について伝統的な考え方に実践的推論と呼ばれるものがある。すなわち、人は何かをするとき、まず何をすべきかを考える。行為は、頭の中の主観的思考プロセスから、行為という客観的な身体の動きに至るという一方通行間流れが想定されている。これに対して、ヘーゲルは身体の動きが為された後の展開も重視している。つまり、行為がなされた後の結果である。つまり、行為をしたら、予想通りにいかない不測の事態に遭ったというのもあるというわけだ。この場合、身体から頭への方向が生じる。つまり、実践的推論の頭の中の主観から身体という客観への一方通行ではなく双方向性、もっというと円環構造として行為が説明できるという。さらに、身体を動かすことによって、人は頭の中にあった目的を現実へと関わらせ、それを現実化する。つまり、そこで移行そのものとして、具体的な手段を考えることができる。ここに、行為のいつくかの段階があるが、これらの段階は固定化したものではなく、精神現象学序文のつぼみ、花、果実の三つの契機の場合と同じように、全体を構成する要素でありながら、全体の流動的な統一の中でのみ存在する。行為の前に、自分が何を目指していたかを明確に知ることはできない。実際にやってみなければ、本当のところ自分でできることが何だったのか、自分がしようとしていることが何だったのかは分からない。他方、実際の行為の前に、何かを目的として思い描いていなければ、そもそも行動を起こすことはできない。したがって、自分が何をしたいのかは行為の後にしか分からず、行為の前に自分が何をしたいのか分かっていなければ行為をすることもできない。この循環構造を円環と呼んでいる。へーげるはここで、主観的な考えられた目的から実際の行為へという時系列的な枠組みを自ら壊し、流動化させた。
そして、道徳的な行為についての議論がある。ヘーゲルはシラーの言う「美しい魂」を批判する。美しい魂は、自分が為そうとするこうはすべて、道徳的な義務と一致すると考えている。道徳的に正しいことしか行為しないというわけだ。この人は、自分の正しさを確信する道徳的天才だとヘーゲルは言う。道徳的天才は、何が道徳的に正しい行為化を直接的に知っている。しかし、たとえ何が正しいかを知っていたとしても、それを実際に行為に移すには勇気が必要となる。その際、実際に行動を起こせば、その行動が正しかったのかどうかは、外へ委ねられる。それは、自らをコントロール外にしてしまう。例えば、他人に親切にしても、その他人が余計なおせっかいと捉えたら、その行為は親切ではないことになる。とはいえ、実際に行動に移さないなら、何の意味もない。そこでリスクをとる勇気が必要なのだ。

2025年5月 7日 (水)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(3)~第2章 揺れ動く認識

 「精神現象学」の叙述では、意識によってはじめて正しい信じられた確信と、本当の真理との間のズレを露呈させることによって、その議論を展開させていく。確信を打ち砕かれた意識が自らの不十分さを悟るプロセスを描き出すのだ。これは現代風に言えばある種の思考実験だ。観察された困難に応じて新たな意識の形態が考案され、その新たな意識が持つ新たな確信が再度テストされる。その新たな確信も困難にぶつかり、それによって意識はさらに洗練された確信へと作り替えられていく。それが繰り返され、真理に近づいていく。
 「精神現象学」は序文の後、本面は感覚的確信から始まる。感覚的確信とは、目の前の感覚に何も付け加えずに受け入れるときにこそ真理を知ることができる、という考え方のことだ。これは直接性に固執する態度の典型でもある。感覚的確信の検討を通じてヘーゲルが目指したのは、直接性を重んじる態度がどのような仕方で挫折するかを描写し、それを通じて、直接性を重視する立場の問題点を明らかにしていく。ヘーゲルの立場は、直接性ではなく媒介を重視するのが基本方針であった。
 では、感覚的確信の段階の意識が真理をどのようなものと考えるのだろうか。感覚的確信は、例えば「今は夜だ」と語り、これが最も確実な真理だと考える。これは今が夜の時点では真理であるが、昼の時点で「今は夜だ」といっても、それは間違いになる。今は昼でも夜でもないのだ。昼夜を問わず、今は今だからである。このような今の特徴をヘーゲルは否定的なもの、と表現する。それゆえ、今は直接的なものではなく、媒介されたものだと論じる。そこで、意識は直接的なものとしての感覚的確信にとどまることができず、媒介されたものへと変わってしまう。このことについて、ヘーゲルの語り口は、今を素朴に理解して、「今は夜だ」と言おうとすれば、その内容は半日後には真理ではなくなる。これを避けようとすれば、今は夜でも昼でもない否定的なものだということになり、直接的なものから出発できなくなる。そこで、直接的なものに真理があると考える態度を放棄して、媒介されたものの方へ進むべきだと議論を誘導するのである。
 このようなヘーゲルの議論の根底には直接的なもの、確実なものを目指そうという基礎づけ主義的な発想への根本的な批判がある。この基礎づけ主義は、最も確実なものを明らかにして、その土台の上に体系を組み上げようと考えるものだ。
別の言葉で言えば、ヘーゲルは我々の認識や体験が誤ることがあるということをそのまま受け入れようとしている、ということになる。直接的なものではなく媒介的なものの中に真理を探す、絶対に確実なものを探すのではなく認識が不確実性を含んでいることを積極的に受け入れること、その上で、そのような可謬性や不確実性を含んだものとして真理を捉えようとする。これかヘーゲル的な発想です。
 次の悟性の章での意識について見ていく。悟性というといかめしいので理解力と置き換えると分かりやすい。この段階の意識は対象を理解することを重視する。さらに超感覚的世界に真理があると考えるようになる。その前提として、感覚的世界を構成するのは、我々か日常的に目で見て、手で触れることができるものである。これに対して超感覚的世界を構成する超感覚的なものは、我々が直接触れることができないものだ。目に見えるような感覚的なものは、所詮、はかないもので、やがては消えゆくもの。それゆえ、はかない感覚的世界の向こうにはかなくないものとして超感覚的なものがあると考えてしまう。それは、宗教的なイメージを持つものもあれば、科学的な法則という形をとることもある。超感覚的世界は、目に見えるがはかなく空しい感覚的世界に対して、目には見えないが確実で変わらないものだと言える。さらに超感覚的世界は、感覚的世界と異なる世界というだけでなく、感覚的世界の裏側にあって、それを支えるものだと考えられている。例えば、普遍的な科学法則が次々と移り変わる物理的な運動全体を支配する。超感覚的世界にこそ感覚的世界の真理があるという考えに至る。
 この代表的な例として科学的な法則があげられる。ヘーゲルは「超感覚的世界は、諸法則の静止した王国である」と言う。感覚的世界は超感覚的世界が裏側から支えているということで、また、感覚的世界で生じる現象を説明するための法則は多数存在する。このことは言い換えると、個々の法則は現象という感覚的なものが持つ多様な側面のうちの限られた一部しか捉えられないということになる。例えば、落下運動の法則は、実際に物体が落ちるという現象の内側に見出される。しかし逆に現象の側から見れば、落下運動の法則に従うことは、現象にとっての一つの側面でしかない。「落下距離は落下時間の二乗に反比例する」という落下運動の法則によって表現されるのは、落下距離と落下時間の関係だけである。ここでは、実際の落下現象が含んでいたはずの様々な側面、たとえば、いつどこで何を落としたかという情報が捨象されている。これに対して、ヘーゲルは法則は現象が現実世界に存在するあり方のすべてではないと言い、現実には自分だけが持つ側面が残ると論じる。これは法則の側からは、法則は現象のすべてを表わすものではないということになる。ヘーゲルは、ここに法則の欠陥を見出す。
 さらに、ヘーゲルは悟性の段階にある意識は、さまざまな現象の説明に多数の法則があるということを本来は認めないという。法則が多数あるということは悟性の原理に反する。というのも、悟性は単純な内なるものを重視するため、それ自体で普遍的であるような統一を真理とみなすからだ。そこで、悟性は多数の法則を統一できるただ一つ法則を探そうとする。そしてさらに、ヘーゲルは追究する。統一された一般法則を目指すという悟性の働きによって明らかになるのは、実は真なる一般法則ではない。この働きは最終的に、悟性自身のあり方の特徴を明らかにする。そこで明らかにされるのは、感覚的世界ではなく超感覚的世界こそが真理であるという悟性自身の世界観なのだ。この考え方では、例えば、万有引力の法則は厳密な意味では存在しない。それは、あると考えた方が説明や予測にとって便利だから、説明の前提として、便宜的にあたかも存在するかのように語られているに過ぎない、ということになる。
 ヘーゲルは法則が静止している。つまり、感覚的世界のようなうつろいやすさがないということを俎上に乗せる。彼は、法則による説明は同語反復にすぎないという。法則というのは現象を数式を用いて記述し直すということであって、それは、現象の本質としての超感覚的世界を求める悟性の要求に応えるのではないと論じる。我々は物体の落下を、物が落ちることを観察することによって把握する。しかし、法則による科学的な説明はこれに満足しない。観察によって把握された現象を数式によって記述し直す。つまり、落下という現象を観察と数式の二つの仕方で把握するのだ。この二つの把握の仕方は、ぴったり重なり合うものでなければならない。そうでなければ、ホ法則は現象を正しく捉えてことになるからだ。いないそこでは、いったん現象と法則とを区別し、最終的に両者の一致を確かめる、という仕方で、法則による説明がなされる、というのだ。このような法則の説明の中に「運動」がある。その運動とは、現象と法則とを区別し、そののちに両者の同一性を見出すという運動だ。この説明という運動の構造そのものが「事物の内なるもの」だという。悟性は、この運動を通してすべてのものを把握する。我々が世界の現象が科学的な法則によって説明できると考えているのは、その現われだ。
 ところで、ヘーゲルの流動性の議論で欠かせないモチーフが有機体である。有機体とは動物や植物のような生物の身体のことだ。ヘーゲルは、この有機体が流動性という特徴を表わすものとして語っている。有機体は一定の形を持たず、常に変化し続ける。実際、我々はじっとしているときでも常な呼吸しているし、それどころか体内では様々な化学反応がひっきりなしに進行している。
 とこで、概念というものは、普遍、特殊、個別の三つの契機から理解することができる。契機はそれだけでは存在できず、全体の中の要素として存在する。したがって、この三つの契機は一緒になって全体を構成し、そのことによって存在できる。それだから、概念をひとつひとつ独立したものとは水に、常に諸概念のネットワークの中にあるものとして見ている。そこで、非有機的なものをひとつひとつ見ているだけでは概念の三つの契機が一つの全体をなしていることが分からない。それらを相互に関連づけることによってはじて諸概念がネットワークをなしていることが分かる。これに対して有機的なるものは、ほかのものと関連づけなくても、その内側に様々な契機を持っている。しかも、それらの契機は有機体が動き回ったり、成長したりするときにも恒常性を保ちながら相互に関係し合っている。この有機体のイメージはヘーゲルが考える概念のイメージに重なる。

2025年5月 6日 (火)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(2)~第1章 「精神現象学」と流動化

 「精神現象学」はヘーゲルの処女作であり、この時点での彼は、その後のヘーゲル哲学の全体の体系を見通せていたわけではない。この書はヘーゲル哲学への入門となるが、その内容はヘーゲル哲学の全体ではない。この書では、「今」や「これ」についての知識が一番確実なのではないかという感覚的核心の検討に始まり、対象とその性質の関係を考える知覚の章を経て、科学的説明や法則について論じられる悟性の章へと至る。自己意識の章では他社が登場し、理性の章では生理学的な話題から人間の行為の問題まで出てくる。精神の章では教養・疎外論から道徳や良心へと話題が移り、絶対知へと至る。これらが一つながりの叙述として、あたかも意識と呼ばれる主人公が、これらの多様なトピックを順々に辿っていくという体裁がとられている。しかも、その際に、その順番も意味を持った、必然的なものとして語られる。
 ところで、ヘーゲルの代名詞ともなっている弁証法、正・反・合と図式化されるものは、実はヘーゲルの著作のどこを探しても見つからない。著者は、この図式によるヘーゲル理解には問題があると指摘する。ヘーゲル哲学は、何にでも適用できるような万能のフレームワークを提供することを目指すようなものではない。それは、この書で展開していく流動化に反するものでもある。「精神現象学」の序文には、つぼみと花と果実を用いた有名な比喩がある。これが弁証法の正・反・合の図式に当てはめられて解釈されるようだが、著者はそれに疑問を呈する。つぼみが破られて花が現われ、花が枯れて果実が現れる。つぼみが花によって否定され、花は果実によって否定される。つぼみと花と果実は互いに対立し合っているように見える。しかし、本当は、この三つの要素の全てを備えているからこそ、植物は生命をつないでいくことができる。これが植物の流動的な本性である。植物は、そもそもつぼみにとどまり続けるようにはできていない。つぼみが鼻に、花が果実に変化するということが植物であるということ、有機体であるということの本性である。このように流動性を本性として持つ有機体の中では、対立するかのように見えた諸契機が一つの全体として、すべてが等しく必然的なものとして存在する、とヘーゲルは論じているのだ。それが著者の解釈。このような対立を含んだ全体ということは哲学の論争にも当てはめて考えることができる。このつぼみ・花・果実の比喩は哲学の営みを理解するために持ち出されている。哲学も植物と同じように流動的な本性をもつもの、諸契機が有機的に連関し合ったものであるはずだというのである。したがって、この序文では、よくあるような著作の目的や、執筆の経緯などが述べられるが、そうしたことは哲学書にはふさわしくないという。哲学書で探究される事柄は、その著作の目的を提示することによっては明らかにならない。それを明らかにするのは、実際に哲学を遂行することによっててである。また、哲学研究の結果だけを知っても、その著作の全体を知ることにはならない。全体を知るためには、その全体が性セするプロセスを辿らなければならないからだ。
 では、哲学研究は何をするのかというと、古代ギリシャでは、古代人たちは生きていく中で実際に出会う様々なことについて、自ら手を動かして関わった、そこで生じたことについて、考える。つまり、普遍的な認識を生活に根ざした活き活きとした仕方で得ることができる。近代の哲学研究は違う。近代ではすでに一定の哲学の体系が確立されているから、哲学することは、この既成の理論を学ぶことから始まる。この点で、古代の生活の中で実際に出会う様々なものについて哲学的に考究することから始まるものとは異なる。そこで、近代の哲学研究に特有のものとして「媒介」という概念が出てくる。ヘーゲルは媒介を重視する。これは多くの哲学者が直接性を重視するのとは反対だ。この場合、媒介を適切に加工すると言い換えると分かり易い。直接的なものを手にするのではなく、それを適切に加工することこそが重要視される。その加工とは、古代哲学では得られた知識を生活の中で実際に手を動かして試行錯誤することにより、知識を自分ものとすることができた。これが現代ではそういうことが行われない。すでに既存の知識があり、それを利用できるからだ。しかし、現実は常に動いている。だから固定化した知識は現実から遊離してしまう側面を持っている。そういう問題点を削除することによって現実に戻ることを「止揚」という。座学によって過去の哲学者の理論を学ぶことから始めるとして、それらの理論を自分のものとするために、既存の哲学体系を現実と適切に結びつけることによって流動化させる。それが近代の哲学の思考なのだという。
 ヘーゲルは思考が流動的ことについて次のように述べている。感覚によらず純粋に思考されたものは、哲学にとって必要なものではなるのだが、全体の一部としてしか意味を持たない。このような自分で考えて辿り着いた結論としての純粋な核心は真理モドキでしかない。これに固執していては真理に至ることはできない。そこでは、その結論を断念しなければならない。しかし、それは確信を放逐することではなく、流動化させることである。確信は結論ではなく契機なのだという。この確信と並んで契機となるのが五感を通じて知覚される目の前に存在するものである。つまり、思考は改訂が可能でなければならない。もっというと、思考はその間違いを正してくれるものを必要とするが、その正してくれるものが知覚であるという。また、知覚も思考というフレームのもとでのみ意味を持つことができる。知覚された事柄は、それが何であるかを判断する思考の働きを通じてはじめて意味を持つ。それゆえ、思考と知覚は互いを必要とし合っている。そのことをヘーゲルは思考が流動的になると言う。別の言い方をすると、思考が流動的になるということは、自分で考えて正しいと確信したことが、そのまま正しいわけではないことを認めることだ。

2025年5月 5日 (月)

川瀬和也「ヘーゲル(再)入門」(1)

11112_20250507210301  ヘーゲルというと、正・反・合という弁証法による壮大な体系を打ちたてたドイツ観念論の大成者。後に、マルクスやキルケゴールらによって批判された権威の象徴といったイメージが先行して、避けて通っていた。しかし、この本を読んでみると、世界や事物は、捉えどころがなくて、しかも、常に動いている。それを捉えようとして、かりに捉えることができたとしても、ある一瞬でしかない。しかし、それを言葉にするとそのとらえたものが一瞬ではなく永遠のものということになってしまう。実は、捉えどころのないものを、捉えること自体が可能とは言えないのだが。ヘーゲルは、その捉えどころのないというのはどういうことか、一瞬しかとらえられない動いているものを捉えていると錯覚してしまうのは、どうしてなのかを考え続けた人というのが分かる。そもそも、捉えどころのないということを言葉にしようとすれば、言葉にした途端に捉えられたものになってしまう。そうならないように、語ることを試行錯誤していたら、他の人には分からないものとなってしまった。ヘーゲルの著作が難解と言われるのはそのためで、むしろ、結果的ではあるが、分からないことを目指している。
 そうすると、ヘーゲルはソクラテスの無知の知を19世紀にやっていたのではないかと思える。それはとても興味深い。とはいえ、あの何を言っているのかわからない「精神現象学」を手に取ろうとは思えないが。

 

 

はじめに
 著者は「流動化する、ダイナミックな体系を作ろうとした哲学者」というヘーゲル像を提示する。本書は、このヘーゲル像をとっかかりにして、ヘーゲルの「精神現象学」と「大論理学」を読み解いていく。ヘーゲルが著作として公刊したのは、この2作だけだからだ。ヘーゲルのテクストは難解だと言われる。たしかに読みにくい。彼のテクストを読むときには、には独特の感覚が伴うという。そこでは、ヘーゲルの思考のダイナミズムがそのまま文章に投影されていると感じられる、というのだ。例えば、同じ概念を何度も検討し、その意味を明らかにしていく、油断していると、同じ言葉が違う意味で使われもする。これは、ヘーゲルが読めるようになってくると、このことが著者と共に思考するように読者を誘い込む仕掛けになっていることが分かる。これがヘーゲル哲学の「流動性」の表われであるという。この感覚を掴むことがヘーゲル入門の鍵となる、と著者は言う。ヘーゲルの難解な文章、流動化のレトリックに辛抱強く付き合い、自分自身の思考がぐらつく感覚を味わうことができたとき、ヘーゲルの文章から多くの教訓を引き出すことができる。

 

2025年5月 4日 (日)

高馬京子「日本とフランスのカワイイ文化論─なぜ私たちは「かわいく」なければならなかったのか」(2)

第3章 フランスにおける「kawaii」ファッションの構築と伝達
 「kawaii」ファッションは実践者たちにとって、従来の規範的女性像とは異なる「本当の私になれるファッション」とみなされて実践されていた。社会的役割を多く持たない若者は、社会の要求からの個人的逸脱、すなわち個人表現とかアイデンティティを表現する割合が多くなる。彼らの情報源はインターネットが中心で、そこでは言葉が分からなくても原宿ファッションを身に着けた若者の写真を見ながら、それを真似してみる。すなわち、当時、誰もが到達可能なメディアを用い、距離を超えて、実践、伝達することができるファッションだった。カワイイファッションは19世紀のジャポニスムの優劣のあるエキゾティズムの他社ではなく、彼らにとって最も近くて遠い平等の他者としてのエキゾティズムであった。セイフティスペースでは、社会的に規定されていない主我としての自らを「kawaii」ファッションを通して自由に表現する。たとえ「kawaii」ファッションを着用して街中で否定的な視線を浴びようが、そこは仕事場ではなく自分が誰かと特定されない匿名でいられる場所であり、そこで一般化された他者の態度をとる必要ではなく、社会的に規定され押しつけられない、「本当の自分でいられる自分」という主我形成が行われている。しかし、場が変わることで、主我が客我かという違いもある。仲間うちでは、そのうち側での一般化された他者の態度とは、「kawaii」ファッションを上手に着こなすことであり、「kawaii」ファッション着用者としての(客体としての)自我が、そこで形成される。
 しかし、それらがネット上で浸透していく中で、ファッションメディアやファッションブランドは逆トリクルダウン的にそれを取り入れ、発信することとなる。また、ファッションデザイナーに関しても、アプロプリエーション(引用)やオマージュという行為が見られたのである。「kawaii」ファッションは、フランスという文脈の中で、着用者、マスメディア、ファッションデザイナーなど、複数のアクターを通じて構築・発信される。デジタル・メディアが発達し、複数のアクターが自ら情報を拡散できるようになった現在、日本の言語や文化を共有しない他者によって国境を越えた空間の中で発見されたのである。このような着用者、メディア、デザイナーという三者の行為者によるフランスでの「kawaii」ファッションの構築は、それぞれ賞賛/他者流用、自己流用、インスピレーション/尊敬とみなすことができる。主にマスメディアを通じて発信されるグローバル化された西洋ファッションとは異なり、「kawaii」ファッションのような非西洋のトレンドは、デジタル社会におけるトランスナショナルなファッションといえる。
 フランスを事例に、「kawaii」を事例に日本文化が海外の文脈で構築され広がっていく様子を様々な要因を反映しながら分析していくと、このように、フランスにおける「kawaii」ファッションはトップダウン的に均質に構築、伝達されるのではなく、オンラインの発達のおかげでまずメインストリームファッションを追従しないであろう人々に受容され、それらがファッションメディア、そして様々な立場のファッションデザイナーによって様々な意味合いを含意する引用がなされていった。60年代のミニスカートがストリートで流行し、オートクチュール・コレクションにクレージュが取り入れ、そのスタイルが世界に広がり洋裁を通してコピーされた。21世紀はオンライン、SNSを通してフランスをはじめとする世界の愛好家に広がり、それをブランドが追従するかたちで広がっていく。このように流行・伝達の仕方が変容していったのである。
第4章章 フランスにおける「かわいい」未熟な日本女性像の変容
 日本では「かわいい」という言葉が使われるとき、未熟さを含有しながらも「かわい」くあることが規範となっている。それに対して、フランスでもかわいらしさはfile、などという語が若さと結びつき多様に提案される女性像の一つの理想像を表わす形容詞として使われていたが、かわいらしさや若さは、未熟ではなく強さと結びついていた。
 フランスで日本女性像が受容される理由としては、20世紀初頭前後はオリエンタリズムの流れで、フランスで西洋から遅れをとっていたと考えられていた時代の日本女性像はエキゾチックな無文化として享受されていたと言える。現代においては、まずフランス社会に要請される女性像の一つとして、たとえばかわいく、若くても、未熟さを含有しない規範的女性に当てはまらない女性たちのための理想像を提言できている、ということが言える。この未熟さは、幼さという劣等を表わすというよりも、フランスの辞典に所収された「kawaii」の定義にもあったように、大人なり社会なりの要請される規範的女性像のために諦めなければならなくなったもの、大人になる前の夢のある世界を体現するものとして捉えられている。フランスを含む西洋にとっての従来の美を破壊するものとして、「かわいい」を捉えることができる。このように、フランスにおける「かわいい」は、従来の美、規範的美を破壊する他者であり、それが特には否定されたり占有されたりする形で現われるものなのである。
 フランスでは時代によって自分たちの規範とは異なる日本女性の未熟さが、20世紀初頭前後のフランスで、エキゾチズムな存在として構築され、上流階級の女性たちに「ちょっと楽しむため」に占有されていた。21世紀にはオンラインの発達もあり情報を自由に享受できることにより、メインストリームや規範的女性像に違和を感じる人々、と同時に「ちょっと楽しむため」にも少女マンガ、「kawaii」ファッションを通して享受され、幼さの中にある明るさ、自由さという側面を強調していった。日本女性の未熟さというかわいらしさは、20世紀初頭前後のフランスも21世紀初頭前後のフランス、20世紀後半の日本、というようにコンテクストが変わるごとに当事の社会が抱えていた時代の様々な要素と結びつきつつも、日本人女性の未熟さを含有する「かわいい」が繰り返し言及されることで、そのイメージは強化され、結果的にそれぞれの文脈で解釈され構築されてきた。
第5章 なぜ私たちはかわいくなければならなかったのか
 フランスでは、20世紀初頭前後の日本女性像としてキモノスタイルが流行したが、それはメインストリームのファッションではなく一時的流行の特徴として民族的要素として、上流階級のお遊びで「ちょっと楽しむ」ためのものだった。そこには、優劣を前提とする西洋と東洋の二元論的な関係で、西洋の成熟に対する東洋の未成熟。未熟な日本の女性像は、上流階級の女性が自分たちを正当化するために、文化盗用とでもいえる流用をしたものと言える。
 それに対して20世紀後半にフランスを中心に展開したロリータファッション、原宿ファッションといった「kawaii」ファッションや少女マンガなどを中心とした「kawaii」日本女性像は権力的な操作が及ばない形で独自の情報をインターネットなどで「本当の自分になれる」ものとして捉えられるものだった。例えば、日本の「kawaii」ファッションを身に着けているのではなく、西洋の規範的ファッションコード覆すものとして、異文化としての日本からインスパイアさを受け、自分たちのファッションとしてアレンジを行うことになっていった。その潮流はファッションデザイナーにも取り入れられていく。
 フランスにおいて、「kawaii」が必要とされる二つの理由がある。ひとつは、フランスにとっての非規範的なジェンダー像を構築しも規範的ジェンダー像に合致しない人々にもその生きざまを提供することができるから、である。ふたつに、キッチュな文化は想像的であり、かつ楽しさという物を提供する。「kawaii」がキッチュというコピーの前提で語られ、西洋対東洋の二項対立から逃れていなくてフランスが優位性を持てるからである。
 日本において、「かわいい」はその規範的社会の中で生き延びるための装置だった。かわいいが形容するものは時代や場所によってかわってくるが、基本的にはかわいらしさとは規範的なものであると同時に、規範から外れたものにもなりうる。そして、、人から愛され認められるために、女性、さらには男性も「かわいい」くあることを要請される。これに対して、フランスでは、規範的ジェンダーから外れた人々が、社会と戦うための弱者の戦略として、周りから非規範的といわれる未熟さを含有する「かわいい」を求め、社会規範と異なっても「私が私でいる」ことを明示するための装置として提供された。日本の元来の意味での「かわいい」という特徴が選択され、社会の要請する規範的女性像がしっくりしない人々に新たなモデルを提供するものとなった。

 

2025年5月 3日 (土)

高馬京子「日本とフランスのカワイイ文化論─なぜ私たちは「かわいく」なければならなかったのか」(1)

11112_20250507205401  2010年前後フランスを中心に、「kawaii」文化が一部の愛好家の間で隆盛したのを機に、「かわいい/kawaii」についてファッションとジェンダーを中心に様々な角度から検討する。デジタルメディアの発達した現在の情報社会で、日本文化がフランスで受容され、その中で21世紀になってはじめて「kawaii」文化が受容されるようになった。それ以前の、「kawaii」を受容する背景としてのフランスのスタンダードな女性像、美の基準を探りながら、日本人がフランスで「かわいい」存在として認識される、越境文化としての「かわいい」を論じる。
第1章 日本における「かわいい」の変遷
 日本では、1980年代後半から「かわいい」が少女文化のキーワードとして議論されるようになる。それは、庇護すべき弱い存在である子どもの、乗り越えるべきB級文化というニュアンスで否定的に論じられることが多かった。海外の研究者にも関心を寄せる者がいて、幼稚なものとしての「かわいい」文化に対する日本国内の否定的論説を参照しながら、日本の若者が追従した「かわいい」文化を日本社会からの逃避とみなしている。つまり、「かわいい」文化を日本社会の厳格さ、すなわち、日本社会の諸制限の厳しさによって生じた日本特有の文化表象であるという。2010年前後になると、日本のポップカルチャーの普及により「kawaii」が世界を席巻していると言われ始め、「かわいい」が乗り越えるべき否定的なものから肯定されるもの、日本固有の文化として捉えようとし始めた。そこには、近代西洋的な二項対立、成熟(西洋=本物)対未熟(非西欧=偽物)のベースの上で、本物志向へのアンチテーゼという性格を持っていた。
 それ以降の「かわいい」をめぐる議論については、「幼さ」を消費文化として強要する権力と、権力から逃げるのではなく、ただそれを受動的に受けるだけでもなく、社会に抗う抵抗が交差する場としての「かわいい」という表象が構築されてはいた。しかし、「かわいい」は消費文化の中で強要され、ひしてそれを弱者といわれる人々が自立や戦いのために利用しながらも、その行為は結局暗黙裡に未熟さとしてのかわいいを強要されていただけだった。そして、矛盾することに、同時に日本社会では近代世界の強力な観念的意味としての成熟を目指すべく、卒業、脱却すべきかわいいが提示され続けていた。自分たちが社会で受け入れられる、もしくは社会から自由であると思わせてくれる未熟という意味での「かわいい」の要請とその未熟から疎次要すべきという社会からの批判という矛盾が生じていたのである。この「かわいい」をめぐる矛盾のシステムこそが、かわいらしさから逃れられない未熟な弱者を生み出し、「かわいい」という監獄の中に封じ込めてきた。そう著者は指摘する。
第2章 フランス日本における「kawaii」に対する若者の言説、および、メディア言説を通して構築された「kawaii」表象の変遷
 2010年ごろのフランス日本文化に精通していた若者たちの言説によって「kawaii」が構築され始めた。「kawaii」は、主にフランス語のmignonの意味で受け取られていた。同時に、幼児性、クールジャパンといった要素、また、従順性から生じるセクシュアリティを感じさせる女性という日本の伝統的女性のイメージなど日本の「かわいい」の意味とは異なる要素も入り込んでいた。ヨーロッパでは見られない、小さなもの、日本独特のものとして、太陽に対する日本特有のエキゾチックなイメージとして考えられていた。
 日本の「かわいい」という概念を共有してこなかったフランスでは、「kawaii」という言葉は、日本のポップカルチャーがフランスの一部若者の間で隆盛し、日本政府も日本発のポップカルチャーを広げていこうとし始めた時、日本語のニュアンスを引き継がず、このポップカルチャーを示すために自由に解釈された結果として、若者を中心に認識されていた。同時に、20世紀末のフランスの新聞によって形成された世論で現われた「kawaii」という外来語は、ロボット犬AIBOや村上隆の現代アートなど若者たちで使われたより広い意味での日本のポップカルチャーやそれが含有する未熟性を示す語として、外来語より一歩進んで借用語として無用いられ、2018年には辞書にも載るようになった。このようにフランスの文脈で借用語として用いられる際には、日本の未熟性を起点としていた「かわいい」という概念が、フランスで流行した日本のアニメ、ファッションといったポップカルチャー、テクノロジー、逸脱といったフランスで現われた特徴と結びつき借用される。その一方で、「kawaii」はフランス語の借用語として使用されるまでの過程で、日本の未熟性という意味のフランスの文脈に合わせて消し去られて、ポジティブ、心地よさを意味する語としても使われるようになる。しかし、その一方で、未熟な日本女性を形容する言葉として説明なく使用され続けられる。1世紀を超え「kawaii」を用い未熟な日本人女性像が構築され続けることで、それが社会の共有認識として事実であると根付いたのである。

 

2025年5月 2日 (金)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(4)~第3章 Modernist/Cobtemporarian・ルドン 新時代の幕開け 1896~1916

 引き続き神秘的な主題を扱う一方で、装飾的な絵画にも取り組むようになります。神話、宗教、人物などわかりやすい主題も手掛け、なかでも、「花瓶の花」は晩年のルドンを代表する画題となります。技法や表現についても、種類の異なるパステルの重なりがもたらす光の効果や、油絵具でありながらパステルのような輝きを発する描き方を追求しきました。と説明されています。
Redon2son  「わが子」と題されたリトグラフ。タイトルの通りに我が子を描いたものなのでしょうが、写実的で、生き生きとした人の姿です。このような作品を見ると、これまで版画集で見てきた稚拙に見えるようなデフォルメされた人の姿は、拙さによるのでは意図的であったことが分かります。むしろ、人物の素描は上手いと思います。
Redon2eye2 Redon2eye3  「眼をとじて」は同じタイトルでリトグラフ2点と油彩画の3点が展示されていました。先ほど見た「読書する人」あたりから、「わが子」などの肖像のリトグラフもそうなのですが、陰影が施されたノッペリした人の形から立体感のある人間が描かれるようになってきています。しかし、それが油彩画となって、彩色されると、色の濃淡はつけられているのですが、のっぺりしてしまうのです。しかし、それまで版画や木炭スケッチなどの白黒の作品ばかり制作していたルドンが色彩の作品を完成させたものだから、無理もないと言えるかもしれません。この作品は、ルドンの作品における転換点となり、木炭作品を初めて色彩豊かに転用した作品であると同時に、絵画における象徴主義の象徴であり宣言でもある。目に見えるものを捉えるためにスタジオから逃げ出した印象派の画家たちとは異なり、ルドンは外の世界を解釈し、主観的で瞑想的な力強い作品を生み出した。と説明されています。すなわち、以前のルドンの作品は『眼=気球』や『笑う蜘蛛』のように、一見不気味で奇怪な世界を、木炭やリトグラフを用い黒という単色のみで構成される色彩で描いたものが大半であったのが、この作品は幻想的な色彩が溢れていると言えます。また、それまでの『眼=気球』のように、目は闇や精神的内面、孤独、不安、死などへと視線が向けられていたものということで、大きく見開かれていた状態だったの対して、この作品では、その目を閉じ、穏やかで安らぎに満ちた表情を見せているように見えます。さらに、水平線によって前の部分と分けられた下部には、人物の左側を照らす光を反射する水面の宇宙が描かれていると言います。
Redondialoge Redon2dialoge  「神秘的な対話」も同じタイトルのリトグラフと油彩画が並んで展示されていました。やっばり、色を塗るとペッタンコの平面的な画面になってしまうようです。さきほど「わが子」というリトグラフを見ましたが、そこに他に並んでいたのが、ピエール・ボナールやモーリス・ドニやエドゥアール・ヴァイヤールといったといったナビ派の画家たちの肖像でした。このような肖像を描くというのは、これらのナビ派の画家たちと親しくしていたためで、そのナビ派の画家たちの塗りが平面的なのです。ルドンの塗りが平面的なのは、彼自身の志向もあるのかもしれませんが、彼の周囲もそういう傾向にあったことも要因しているかもしれません。それと画面設計においてギュスターブ・モローの影響があると思われる。例えば2人の巫女のポーズ(ここで展示されていた「捕虜」などは、モローの「ペルセウスとアンドロメダ」とそっくりのポーズです)とか、背景に奥行がないとかがないとかがないとか、空間のスケールを小さく収めているといったことです。ピンク色の雲がかかった青空を背景に、祭祀に携わる巫女のような2人が柱の下に並んで立っています。幻想的な花々が画面を優しく彩り、赤い枝がひときわ目を引きます。この2人はのうち1人は流れるようなターコイズブルーのドレスを着ており、もう1人は長い白いドレスを着ています。2人は互いに近づき、会話や無言のやり取りをしているように見えます。白いドレスを着た女性は巻物か羊皮紙を持っています。しかし、特筆すべきは、以前に版画集「起源」のところで指摘した画面を平面によって構成しているということが、この作品では色彩をもった油彩画でも行われるようになったということです。この作品では、ピンク色の雲が浮かぶ青い空が一つの平面で、下部の花が咲いているグレーの地面と神殿の柱、そして人物という平面が重なり合っています。そして、それぞれの平面で基調となる色を違うものにして、それぞれのなかで濃淡を塗り分けている。それが効果的に表われているのが、下部で色を散りばめることで花が咲き乱れているように見せている。しかも、そのぼんぼんやりしたようなところが、幻想的な雰囲気となっている。雰囲気、つまりアトモスフェアです。
Redon2beatrice  「ベアトリーチェ」は1897年に制作されたカラーリトグラフの試みです。ルドンのリトグラフは白と黒の2色でしたが、この作品では多色刷りを試みています。ベアトリーチェは長編叙事詩『神曲』の著者として名高いルネサンスの詩人ダンテが恋焦がれた永遠の女性です。ルドンが蘇らせたのは、とぎれとぎれの記憶を頼りに紡ぎだされた追憶のベアトリーチェです。内気なシルエットと繊細なグラデーションは、頭の底深く残響する起きざまに見た夢のように頼りない。届きそうで届かない、禁断の果実のごとく揺れる面影は、一層芸術家の想像力をかきたてると思います。そんなことより、これは「神秘的な対話」で垣間見えた平面で画面を構成するということが前面に打ち出された作品になっていると思います。ベアトリーチェの横顔が平面で、そこに人間の顔の立体感は感じられず、黄色と青の入ったグレーとのグラデーションで、何らかの雰囲気を作り出している。全体に淡い色彩の画面は横顔と背景という二つの平面から構成されて、それぞれがちょうど正反対の色遣いをすることで対照性をつくりだし、それぞれの平面の中でグラデーションをほどこして、安定感と緊張をつくりだしています。このような構成の作り方は、ルネ・マグリットの「大家族」に似ているところがありますが、マグリットの場合はお遊びという奇を衒って、見る人を驚かすところがありますが、ルドンの場合はベアトリーチェという女性の雰囲気を作り出すのに効果的です。こうして見ると、ルドンという画家は、ものの形とか存在とか色彩(光)といったことより、平面で見ていて、描くという志向を基本として持っていた人ではないかと思えます。今回の展示作品を通して見ていて感じたことです。
Redon2paul  「ポール・ゴビヤールの肖像」という1900年のパステル画。習作やスケッチは別にして、ルトンがこんな普通の?作品を描いていたなんて。幻想的で夢の中にさまよいこんだような色使いも、現世との境界線がなくなってしまったような独特の世界感もなく、ここに描かれているのは静けさに包まれた女性の姿。横向きの彼女の視線は作品を見る者から逸らされており、作品の中での彼女の存在に内省と落ち着きを与えています。柔らかなパステル調は光と影の繊細な相互作用を生み出し、ゴビヤールの横顔と衣装の柔らかな輪郭を強調していると同時に、この作品に夢幻的な雰囲気と被写体の気質への繊細な配慮を与えており、これは象徴主義運動におけるルドンのアプローチと一致しています。微妙な変化と落ち着いた色調で描かれた背景は、私たちの視線を被写体に引き付け、彼女の静かな優雅さを際立たせています。ルドンの技法と色彩の選択は、作品全体に瞑想的な雰囲気をもたらし、象徴主義が表現しようとした、人間存在のより霊妙な側面について観る者を深く考えさせます。
Redon2eye4  「眼をとじて」は1900年ころの油彩画で、先ほど見た同じタイトルで1890年ころのリトグラフと油彩画に比べると、以前の作品は水平線の上に女性の頭部が浮かび上がっているという構成でしたが、こちらは対角線で区切られた二つの空間で構成されています。右上は、前に見た「眼をとじて」と同じような空間で、左下は花が散りばめられた、今後登場する花の絵です。一見、眼をとじた女性は花に囲まれている幻想的な光景に見えます。
Redonorpheus  花に包まれるように囲まれるなら「オルフェウスの死」という油彩画の方でしょう。ギリシャ神話でオルフェウスはニンフ(妖精)たちの怒りをかって殺されてしまい、その首が川に投げ込まれ、持っていた竪琴はアポロンによって天に上げられて「琴座」になったという神話です。竪琴の上にオルフェウスの首だけが描かれていますが、ルドンが別の作品で題材にしたシェイクスピアのオフィーリアの死の場面のように、花々に囲まれています。このしめやかに咲き誇る花々の豊かな色彩は、オルフェウスが生前に弾いたであろう竪琴のメロディーを視覚化したかのようです。このオルフェイスの首だけが描かれるというのは、ギュスターブ・モローの「オルフェウス」の影響でしょうか。私には、同じ頃のベルギー象徴派のジャン・デルヴィルの「オルフェウスの死」を想い起こさせます。また、首だけが描かれるというのは、ルドン初期の版画集「夢のなかで」では顕著に見られるものなので、ルドンという画家の中でずっと持ち続けられているものなのかもしれません。
Redon2windowl  「窓」は1906年頃の油彩画です。ルドンは、暗く病的な幻想的な黒の世界から、明るく革新的な色彩の探求へと移行しました。この「窓」は、ルドンの精神性への強い関心、光の性質の探求、そして文学との継続的な関わり (常に当時の一流作家や思想家と対話しながら制作していた) など、ルドンの作品のいくつかのテーマを取り入れているため、この時代の作品の中でも特に魅力的な作品ということで、今回の展覧会の目玉となっているということです。ルドンの窓への関心は、初期の黒の時代の木炭画やリトグラフを制作していた頃にまで遡り。例えば初期の作品である 「昼」では、ルドンは持ち前の劇的なコントラストを駆使し、真っ暗な内部に木というシンプルな風景を描き、その影から謎めいた顔が浮かび上がるように描いている。ルドンの作品全体に窓が多く描かれていることは、光と影に対する彼の強い関心を物語っており、初期の白黒作品の鮮明なキアロスクーロや、後年の「窓」で見事に表現されたステンドグラスの明るさの探求に顕著に表れていると説明されています。また、ルドンはこの作品で色彩を自由に実験し、珍しい組み合わせや不自然な色調を用いることで、彼の黒の時代の作品に顕著な幻想的な感覚を保とうとした。この幻想的世界は「窓」の中央の部分にはっきり表れている。つまり、赤みがかったピンクやきらめくブルーがアクセントになった拡散した色彩のフィールドの中を女性が進み出て、明らかな文脈を外れて存在する。ルドンは、明白な象徴性は控え、神秘的で瞑想的な雰囲気を優先した。そう説明されています。
Redon2flower  ここから展示室は、花瓶の花が描かれた絵画作品の展示は、別に仕切られた区画に集められていました。その区画に入って、まず目にする「青い花瓶の花々」というパステル画。ルドンは初期のころから生涯にわたって花瓶の花の絵を描き続けたといいます。ただ、習作や友人などの知り合いのために制作していたので、黒い版画などの公開する作品とは別に、個人的に描いていたということです。それが。1900年を過ぎるころから公開すRedonflower2 る作品として多くの作品が描かれるようになったそうです。ここで展示されているのは、そういう作品です。この作品は、パステル特有の淡い色彩で、輪郭線をひいて花の形を明確に描くことはしていないので、全体に薄ぼんやりして、印象派のモネの睡蓮を描いた作品と似た雰囲気があります。ただし、花瓶の置かれた場所がどこかわからないような、花瓶が宙に浮いているような非現実的な光景が、とくに違和感を起こさせません。ここで展示されているルドンの花瓶の花の絵は、装飾的な印象を受けます。「日本風の花瓶」では花々が抽象化しい表現されている、その一方で、花弁や茎や花瓶の描写だけは、形を単純化しながら、その背景は全くの無地というか、具体的な場面はなく、さまざまな色彩でもやがかかるように色づけられた空間のなかにぽつんと花瓶が置かれて、花瓶が落とす影すらなく、宙に浮いている不思議な画面になっています。
 図録を購入してみたら、この展覧会は巡回展らしく、他の美術館を巡回して、東京ではパナソニック美術館で開催されているようで、図録には掲載されていても、会場では見ることのなかった作品がいくつかありました。

 

2025年5月 1日 (木)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(3)~第2章 忍び寄る世紀末:発表の場の広がり、別れと出会い 1885~1895

 ルドンの作品が世紀末のデカダンの象徴として文学者を中心に支持を集めるようになる。ルドンの作品の主題は闇の世界ではなく神秘的な光の世界が選ばれるようになり、その黒色は、光を吸収するかのような暗闇を表現するものから、光そのものを表現するものへと変容していき、油彩やパステルによる制作も始まる。
Redonsadface_20250501233401  1885年の版画集「ゴヤ頌」からは「Ⅱ.沼の花、悲しげな人間の顔」の1点のみが展示されていました。同じタイトルの別の作品を前に見ましたが、同じように真っ黒な背景に対して、それよりも黒い植物が一本生えていて、その実が人間の顔で、それが光って周囲を照らしている。グロテスクな姿です。しかし、人の顔が、前の作品の無表情な横顔とは違い、タイトルで「悲しげな人間の顔」とありますが、デフォルメされたマンガのような、別の言い方をすれば手抜きでスカスカの顔は、悲しいという表情を、タイトルからそのように感じようとしなければ、あるいは記号としてマンガの顔を悲しいと読み込む土台がなければ、そうとは見えないものです。虚心坦懐にみれば、空虚とか不気味といった感想が出てくると思います。おそらく、ルドンは人間の感情とか表情を繊細に表現する作品を、他に制作しているわけでもないので、悲しみとか表情といったことの表現の志向があったのか分かりません。ルドンが人を描いている場合は、顔はぼんやりして細かく描かない、したがって表情がないので、この作品のように目鼻がとりあえず描かれているのは珍しいのではないかと思います。「ゴヤ頌」という版画集のタイトルは何かしらゴヤを意識していたはずで、こじつけかもしれませんが、ゴヤの「巨人」とか「わが子を食らうサトゥルヌス」のような人間の表情など入り込む余地のないグロテスクな画面を意識していたのではないかと思います。ルドンの作品は個人的な感情とか内面といったことにこだわるとか表現するというものには、私には見えないで、これもゴヤの画面とかグロテスクさとか黒さといったことを取り入れた結果こうなったという感じがします。
Redon2profil Redon2profil2  「光の横顔」という同じ題名の作品が二つ並んでいました。両方とも女性の横顔を描いた作品で、背景はただ暗い空間で、そのなかで女性の横顔だけがスポットライトで浮かび上がるように描かれている作品です。女性の横顔はマンガのように省略されて線で輪郭が引かれて、少し陰影がつけられている程度です。それに比べて背景の暗い空間は濃淡が細かくつけられて、いて、明らかに力の入り方が違うのが分かります。私は、右向きの横顔の作品の方が、髪の毛をちゃんと描いていて、表情を浮かべているかのように見えるので、こちらの方が好きです。
Redon2spider 「蜘蛛」という1887年のリトグラフです。これも、花が顔の植物とともにルドンでは、よく知られている作品です。ユイスマンスによる世紀末のデカダン小説「さかしま」の中で、“身体の中心に人間の顔を宿す驚くべき蜘蛛”と表現されたそうです。画面は、薄暗い空間の中へ顔と胴体が一体となった非常に足の長い黒蜘蛛が配されるのみで、わずかに背景として描き込まれているのはタイルの床だけです。そして画面中央に描かれる黒蜘蛛は、あたかも悪知恵を働かせているかのように、にたりと気味の悪い笑みを浮かべ、見る者にある種の不快で邪悪的な印象を与えるものです。この黒蜘蛛とその笑みは、ルドン、そして人間誰しもの心(精神)の奥底(又は心の闇)に潜む欲望や嫉妬など、知性や理性と対極にある存在の象徴として具象化された生物であり、そのような側面から考察すると黒蜘蛛の浮かべる薄笑いは本作と理性を以って対峙する観る者をあざ笑っているかのようでもあるということです。黑蜘蛛は、毛むくじゃらのような感じで、足のように明確な輪郭をもっておらず、線をカケアミのように交差させている薄暗い背景とカケアミの密度の濃さ、つまり黒の濃淡の差だけで、その形をとっています。つまり、画面全体としては、カケアミによる濃淡によってつくられるぼうっとした平面、アトモスフェアといってもいいかもしれません。そういうものとして画面がある。そういう作品になっていると思います。
Redon2ghost  1896年に公表された版画集「幽霊屋敷」からは1点のみ「Ⅱ.大きく蒼ざめた光を私は見た」が展示されています。この版画集は、イギリスの作家バルワー・リットンの小説「幽霊屋敷」に基づくものです。屋敷の奥へ続く板張りの廊下で、左手に部屋への出入口、右に鉄の手すりのついた螺旋状の階段があって、廊下の奥は闇に閉ざされているようです。部屋の扉は閉まっていますが、そこから靄のようなものが外に出てきているように見えます。小説では主人公である「私」が下男とともに見たといっているのを、この版画のタイトルでは「私」という1人に限定しているということです。小説では廊下にぼんやりした光が現れ、私たちはそれを追って階段の上の小部屋に導かれるという部分に続くところです。しかし、この版画では、そういう物語的な展開につながる要素は敢えて排除されているようです。そんなことより、この作品は、タイトルのとおり私が見た大きく蒼ざめた光が、描く対象となっている作品といえます。しかし、それは何だか分かりません。はっきりした形をとっていません。何かが描かれていると思えるのは、床と左側の扉、そして右奥の暗闇に溶け込みそうな階段だけです。あとは、画面中央は暗闇です。その他は、左手の扉近くの白い靄のような広がりです。そこには形のあるものがない。つまり、見えない。ここまで、平面とかアトモスフェアとか言ってきましたが、それらは目に見えないものを描こうとしているというわけで、そのことが前面にあらわれたのが、この作品だと思います。
Redon2sunlight  1891年の版画集「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出のために)」からは1点だけ、「Ⅵ.日の光」が展示されていました。アルマン・クラヴォーというは、ルドンが17歳のころペイルルパートの田舎で引きこもりのような生活をしていた頃にであった独学の植物学者です。若きルドンはクラヴォーから、エドガー・アラン・ポーやボードレールらの文学、進化論など当時の最新科学、さらにはスピノザやインド哲学まで、幅広い読書の手ほどきをうけたそうです。そのクラヴォーが亡くなったのを悼んで制作されたそうです。夢想というタイトルのとおりに幻想的な作品が続きますが、その最後の1葉にあたる、この「日の光」にでは、部屋の暗がりと戸外に満ちた光が対照的な、窓辺の風景でした。室内に漂う微生物のような浮遊体や窓外の樹木が、植物学者クラヴォーを想起させるといいます。一見、普通の窓辺の風景ですが、室内の暗さと窓の向こうの明るさのコントラストが、実は、画面中央の窓の外の光に満ちた樹木ではなく、手前の何もないただ暗いだけの部分の方がメインのように見えてきます。そして、よく見ると、その暗闇のなかに胞子のような丸い物体が浮遊しているなに気がつきます。これに気がついてしまうと、もはや現実の風景ではないことに気づかされてしまうのです。ルドンにしては、さりげなく非現実を描いている。
Redon2reading  「読書する人」という1892年のリトグラフ。物語の師絵のような作品ですが、人物に存在感があるのと、物語の一場面のようなは、ルドンには珍しいので、却って印象に残りました。1893年の木炭スケッチの「悲嘆」という作品。ルドンにしては屈折していないというかストレートすぎて、なにかムンクのような作品です。そして、「二人の踊女」という油彩の作品。しばらく、版画やスケッチのような白と黒の作品ばかり並んでいたのが、久しぶりに色彩が戻ってきました。このあたりから、作品が変化してくるような予感がします。とは言っても、この色彩、何か変です。黄色のグラデーションなのか、すごく鈍い感じがします。また、この作品の画面構成は、どこかギュスターブ・モローを想わせます。実は、この後に、そういうモローっぽい作品がいくつか見ることができます。

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