佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(11)~第6章 物象化と所有
第1節 既存の所有論解釈の諸問題
所有論はマルクス研究の最重要課題の一つとされてきたが、いまだにマルクスの所有論が精確に理解されているとは言い難いとして、既存の学説に批判を加えている。
第2節 近代的私的所有の特異性
1.物象化と近代的私的所有
前提として、商品生産関係における諸個人は、私的諸個人として分裂しているが、他方では欲望が社会的に発展しており、他者の労働に依存している。このような関係では、諸個人の私的労働は直接には社会的性格をもたず、生産物と生産物の関係を通じてはじめて社会的性格を獲得するほかない。だから、諸個人の具体的労働が直接に社会性をもつのではなく、むしろ生産物という物が物象を通して社会的力を獲得する。このような社会的力としての価値という属性を持つにいたった有用物を商品と呼ぶ。そして、商品という物象を媒介として成立する。孤立した私的諸個人の全面的な物象的依存関係を商品生産関係という。また、このような商品生産関係では直接的な人格的結合が断ち切られているために、物が物象として社会的力を獲得し、人格の社会的関係が物象の社会的関係として現われる。これが物象化である。このように商品生産関係では物象化が不可避であるからこそ、マルクスは「資本論」を商品という物象から始めたのだった。
そこで、物象化された関係では、諸個人は生産物を商品とすることによってのみ社会的連関に入ることができるのであり、商品所持者たちはここでは、その意志をそれらの物にやどす諸人格、すなわち商品という物象の人格的代表者でしかない。このような商品所持者がそれぞれの意志に基づいて、互いを物象の所有者として、商品所持者として承認し合うことによって、商品交換を行う。すべての商品はその所持者にとっては非使用価値であり、その非所持者にとっては使用価値である以上、商品所持者は自らの欲望を満たす商品を自らが所持する商品と引き換えに手に入れようとする。このような欲望を満たそうとする諸個人の意志が一致したところで、互いに権利主体として承認し合い、交換がなされる。この相互承認が契約というものだ。契約という権利関係は物象化された経済関係の反映である。
つまり、物象化された関係が所有の前提になっている。ヘーゲルのいうように、市民社会においては単なる事実上の取得である占有が契約を通じて社会的に承認されることによってはじめて所有となることができる。マルクスは、単に社会的に承認された占有として所有を定義するだけで満足していない。商品生産関係においては、この社会的承認が物象を媒介にしてしかなされない。社会的承認という人格的関係によって成立する所有は、商品生産関係においては物象の力に依存してしか成立しない。そこから商品生産関係における所有の排他的性格も出てくる。この関係で社会性をもつのは人格ではなく、人格から独立に社会的力をもつ物象であり、所有はもっぱらこの物象の自立的な力に巣損して為されるからである。この関係において所有は、物象の自由な処分権として現われる。所有が物象の自立的力にもとづく以上、所有者は他の人格的関係と関わりなく、それを排他的に処分できるからである。そしてさらに、物象の人格化。つまり、商品は自分だけでは市場に行くことはできず、具体的な意志と欲望を持つ人間に担われなければならない。その人間が物象の代表者。担い手として行為する。これが物象の人格化である。このような単なる物象の所持者たちが、互いの欲望を満たす物象の所有者として承認し合うことによって私的所有が成立する。
2.共同体的所有と近代的私的所有
前項の議論だけではいまだ抽象的であり、実践的・批判的な意義を十分に果たしていない。ここでは、近代的私的所有及びそれを生み出す生産関係を歴史的に捉え直し、その無特異性が持つ意味を明らかにしていく。
第一に、近代以前の本源的な所有形態では、生産者が生産条件に対して、それを自分の諸条件とするとするようにして関わる。ただし、この関わりということは近代的所有のイメージとは異なる。近代的私的所有では、諸個人は物象の所持者として登場し、互いを人格化された物象として承認し合うことではじめて所有が成立する。所有は物象に媒介され、また、その物象を生産する労働に媒介されて現象するほかない。これに対して、本源的所有では、労働者の所有関係は労働の結果ではなく、前提である。つまり、生産者たちははじめから自然的生産条件に対してそれを自分の所有物とするようにして関わるのである。その意味で、生産者たちは自分の自然的生産諸条件に対して、それをいわば延長された身体をなすにすぎない自分自身の自然的諸前提とするようにして関わる。ここでは自然は人間の非有機的身体である。つまり、人間と自然は異なるものとして区別されつつも、人間にとって自然は自らの有機体、すなわち身体を成すと言ってもいいような関係が成立している。これに対して、近代的所有では、生産者たちが生産条件に対して本源的な関わりを形成していないからこそ、物象を生産する労働の結果として私有が現われることになる。
第二に、この本源的所有は、個人が共同体や共同社会の成員であることを前提とする。所有が社会的形態規定である以上、その在り方を本質的に規定するのは人間たちのあいだの関係である。人間たちは、自分たちが共同体や共同社会の一員であるということに媒介されてはじめて、大地をはじめとする生産諸条件を本源的に所有することができる。
第三に、本源的所有形態では、生産の目的は共同社会の成員としての諸個人の再生産であり、それを可能にする諸条件に再生産である。これに対して、近代社会では富が生産の目的である。これは物象化のもとでは価値生産として現われ、したがって諸個人にとっては総体的疎外として現われてしまう。したがって、同じような見える経済的事象も古代と近代では、その意味が異なってくる。
そこで、本源的所有でも所有を成り立たせるのは、近代的所有と同じように社会的承認なのだが、その内実はことなる。本源的所有では、諸個人は、生まれながらにして共同体成員であるから、土地や生産手段を本源的に所有することができる。つまり、生まれながらにして所有者である。ところが、近代では本源的所有者であることはありえない。物象を媒介として契約を結ぶことによってしか、所有者となることはできない。また、その結果として所有形態と素材との関係が異なる。近代的所有の場合、所有は物象の人格的担い手同士による承認関係によって成立する。したがって、その関係は価値関係という素材から独立に成立する論理によって規定されざるをえない。価値関係は諸人格の意志や欲望とは関わりのない商品語の論理に基づくからである。本源的所有はそうではない。ここでは、社会的形態規定としての所有形態それ自体が素材と密接な関係をもっている。この場合、前近代で問題となるのは諸個人の再生産を可能にする使用価値の生産である。生きて活動する人間たちと、彼らが自然とあいだで行う素材代謝の自然的、非有機的諸条件との統一、だからまた彼らによる自然の取得は、説明を要するものではなく、歴史的過程の結果でもない、当然のこと。それゆえ、所有形態は、素材的次元と不可分に一体化したものとして形成される。
だから、前近代的所有形態から近代的所有形態への移行に際して、自然と人間の関係を根本的に変革する大転換が必要だった。一言で言うと、大地に対する人間の本源的な関わりを断ち切るということだ。
みのような近代的所有=本源的無所有の成立は、同時に、資本・賃労働関係の成立でもある。マルクスは資本・賃労働関係の成立の歴史的条件として次の四点をあげる。
第一に、生産する個人が大地に対して、それを自分の生産条件とするようにして関わることが否定されること、すなわち諸個人の大地からの引き剥がしである。大地の本源的所有が共同体や共同社会の媒介を必要とし、逆にこのような所有形態が共同体や共同社会の基礎をなす以上、これ同時に共同体や共同社会の解体であり、人間の徹底的な個別化である。第二に、労働者が用具の所有者として現われる諸関係が解体することである。ここで言う諸関係とは、具体的にはツンフトなどの同職組合制度を指している。そこでは組合・職人制度のもとで労働組織、労働用具、労働様式が世襲され、特殊な技術は継承されることで用具の専有が保障されていた。このツンフトが解体されるということ。第三に、消費手段に対する本源的な関係が失われることである。第四に、生産者自身が直接的に客体的生産諸条件に属し、そのようなものとして取得されている諸関係の解体である。これは同時に第三の消費手段に対する本源的な関係を破壊し、無所有者を大量に発生させる。資本にとって必要なのは労働者ではなく、労働だけであり、労働者個人の生存を保証する必要はない。労働力を購買することによってその使用価値である労働だけを手に入れようとするのである。前近代的な人格的支配関係では人格に対する支配を手に入れようとするので、従属する人格生存を維持することが支配に直結する。要約すれば、これらはすべて、生産する個人の生存条件にたいする本源的な関係の徹底的な解体であり、むき出しの状態に置かれた無所有者、つまりプロレタリアートの創出である。
第3節 取得法則転回と本源的蓄積の差異と意義
1.近代的私的所有にたいする批判としての所得法則転回
前節で言うように、商品生産関係だけを考察したとしても、諸個人は本源的には無所有であるほかはない。ここでは所有は物象の力に基づく排他的所有である。諸個人は物象の偶然的な諸連関を通じてしか所有を成立させることができないからである。それゆえ、交換価値が生産システム全体の客観的基礎であるという前提は、そもそもはじめから個人に対する強制をうちに含んでおり、個人は交換価値を生産するものとしてかろうじて生存するのであり、したがって、彼の自然的存在の全体的否定がそこに含まれている。このような近代的私的所有に内在する矛盾が現われる。たとえば、物象の所持者どうしが互いの物象の使用価値を欲し、交換を成立させるための契約を結ぼうとする場合には、物象の等価性だけしか問題にならない。その交換がどのような帰結をもたらしても、物象の等価性にしたがって交換する限りでは、その交換は公正なものとして認められる。だからこそ、貨幣所持者である資本家と労働力保持者である賃労働者が相対する資本主義的生産関係においては、商品生産者の所有法則、すなわち等価物交換による取得はそれ自体の論理に従って絶えずその反対物である資本主義的取得法則に展開せざるをえない。
だから、自己労働に基づく所有は、はじめから仮象でしかない。物象化された関係では、所有が労働の前提となる共同体・共同社会とは異なり、所有が労働の毛作家として現われる関係が現実に構造化されているからである。近代において所有は物象に基づく関係としてしか成立しないので、所有がその物象を生産する労働の結果として現象する。それゆえ、自由と平等のもとに現われる流通部面だけに注目し、物象を生産する労働をめぐる関係を捨象すると、必然的に自己労働に基づく所有という仮象が生まれることになる。だからこそ、理論的にも物象化の根源として労働の私的性格を捉えたとしても、主体的な労働力と客体的な労働手段との関係を捨象する限りで、この仮象が認められる。このような仮象を生み出す近代的所有のあり方そのものが、現実には、本源的な無所有であるほかない。
こうしてもー、自己労働に基づく所有という仮象を生み出す商品生産の所有法則が他人労働の取得に転化することは論理的に必然となる。というのも、まさに自己労働に基づく所有という仮象自体が全面的な物象化の産物であり、全面的な物象化とは論理的には諸個人の本源的な無所有にほかならず、現実には物象としての労働者から切り離された生産手段と無所有の労働者の関係によって成立する資本主義的生産関係として、実現されるほかないからである。資本は商品生産の所有法則により他人労働を取得し、この他人労働が新たな他人労働を取得する物象的な力となる。過去の対象化された労働が生きた労働を支配する。商品生産及び商品流通に基づく取得の法則または私的所有の法則は、明らかに、それ独自の内的で不可避的な弁証法によって、その直接の対立物に転回する。
自己労働に基づく所有という幻想を生起させる、単なる労働の結果としての所有が、本源的所有の解体としての生産関係の全面的物象化において構造化されており、それゆえ、現実には他人労働による他人労働の取得に必然的に帰結せざるをえない、ということをマルクスは言おうとした。全面的物象化のもとでの、物象だけに依存した、一面的で排他的な所有、すなわち近代的私的所有=本源的無所有こそが問題の根源であることを、マルクスは捉えていた。
2.マルクスにおける共同性と「個人的自由」
マルクスは、物象を通じて他人労働を搾取して生産するという場合の私的所有と、生産手段を所有し自分の労働によって生産するという場合の私的所有を区別する。前者は非生産者による生産手段の私的所有であり、後者は生産者による生産手段の私的所有である。より具体的な歴史的実在形態としては、前者は資本主義的生産様式における私的所有であり、後者は農業あるいは手工業の小経営における私的所有と言える。前者は価値増殖が目的となるが、後者は使用価値の生産が有意である。この両者の相違は決定的で、後者では生産者と生産手段との本源的な統一は破壊されていない。それは自分で働いて得た、いわば個々独立の労働個人とその労働諸条件との綜合にもとづく私的所有である。このような私的所有では、生産者は土地、生産手段に対する本源的な関わりを失っていない。このような小経営的な指摘所有は、資本主義的生産様式の成立を妨げるものとなっている。そして、このような前近代的な私的所有で実現される自由な個性は、物象化のもとでの自由とは異質なものである。物象化のもとでの自由は一切の個人的自由の完全な止揚であり、物象的諸力という形態をとる社会的諸条件のもとへの個性の完全な屈服である。これに対して、生産者自身が生産手段を所有する私的所有では自由な個性が開化する。なぜなら、資本主義的生産様式におけるように生産者と生産手段の素材的関わり方が生産者に敵対する物象の力によって決定されるのではなく、むしろ生産者自身の自由な意志によって決定されるからである。したがって、両者の自由を混同してはならない。このような所有、つまり共同体こそが自由の根源であった。
3.「個人的所有」の再建の意義
マルクスは言う。
“資本主義的生産様式に照応する資本主義的取得は、独立した個人的労働の必然的帰結にほかならない私的所有の第一の否定をなす。だが、資本主義的生産は、自然の変態を支配する宿命に従って、みずからそれ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、労働者の私的所有を再建するだけではなく、資本主義時代の獲得物にもとづく、すなわち協業、および土地を含むあらゆる生産手段の共同占有にもとづく、労働者の個人的所有を再建するのである。”
資本主義的生産関係においては個人的所有、すなわち前近代的な私的所有は否定されなければならない。第一に、個人的所有は何らかの共同体所有ないし人格的紐帯を前提しており、第二に諸個人の生産手段及び生活手段ヘの本源的な関わりが否定されておらず市場形態を阻害する素材的関係が存立しているために、全面的な物象化=資本主義を成立させるためには、この個人的所有を廃絶する必要があった。それを実際に遂行したのが、本源的蓄積である。しかし、他方、この全面的物象化としての個人的所有の否定としての資本主義的生産様式のなかから変革の契機が生まれてくる。
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