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2025年8月

2025年8月31日 (日)

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(1)

11115_20250905233901  人は自分の人生、自分とは何か、という問いに、物語という形式を使って語りたがる。あるいは、他人のこと、社会のこと、世界のことを、物語という形式で理解、説明したがる。著者が言うように、現在、物語は、本来その形式を適用すべきではない領域にまで蔓延って、むしろ物事の理解の質、或いは人生の質を落とすように作用しているのではないかという。
 我々は、他人を理解したいと思い、他人に理解されたいと願うし、他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願う。そしてまた、自分が誰でありたいかをはっきりさせたいと願う。そのときに、物語がとても便利であることから、『私とは誰か』という問いに対して、物語を語り、自他をキャラクター化することによって、他の誰とも異なる答えを出そうとする。物語ることが、自分の人生にユニークな意義を与えるために必要であると考える者たちも多い。
 しかし、その物語は、しばしば行き過ぎる。物語を用いた自己像の探求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。
物語が批判されなければならないのは、それがけっきょく”語る主体の整合的な理解”へと事実を収斂させていく形式であるから。その収斂の過程で、都合の悪いものは排除され、都合のいいものだけが重みづけられ、世界はあたかも秩序だった形に完了しているかのような様相を呈する。そのことが他者の、或いは他者としての自分の、ひいては無数の他者によって成り立っている世界の未完了性を隠蔽、あるいは収奪してしまうことになる。
 そこで、物語という形式に収束しない、世界の未完了性を取り戻す、それが本書の目的といえる。

 

2025年8月29日 (金)

成瀬巳喜男監督「めし」

11114_20250829233201  小津は二人要らないと松竹をクビになった成瀬巳喜男が東宝で撮った作品。主演の原節子は同じ年に小津安二郎の「麦秋」に出演しているが、別人のよう。
 周囲の反対を押し切って結婚した夫婦も5年が過ぎて倦怠期に差し掛かり、単調な毎日に徐々に自らの生き方に疑問を抱き始める妻。そんなとき、家出して転がり込んできた夫の姪に二人は振り回される。それにより、夫婦の間に生じていた隙間が決定的になり、妻は実家に帰るのだが・・・。しかし、この作品では、原節子演じる妻の心理を日常のキメ細かな描写から見事に紡ぎ出していく。例えば、冒頭の朝食のシーン。茶の間のテーブルを二人が向かい合って座るが、上原謙の夫の背中越しに、となりの台所で朝食の支度をする原の忙しそうな姿を映す。ここでショットは反転して、逆方向の台所から煙草をくゆらしながら新聞を読んでいる上原の姿を映す。朝の光は、茶の間から台所に差しているので、茶の間から台所の方向が明るい。その視角では、背中越しに「めし」という上原と、かいがいしく動き上原に話しかける原の姿。ショットが反転すると、暗い光線に変わって少し肩を落としたような原の背中と、原の方を見ずに視線を新聞に落としている上原。この二方向のショットで、光を受けて夫に話しかける原の顔と、暗い光で反対に肩を落とした疲れたような原の背中を映す。この二つのショットが交互に繰り返されると、原の複雑に心の雰囲気が画面からわかる。これは、夫婦生活について努力を続ける姿と疲れたような背中。しかし、それらは本人が自覚するほどはっきりしたものではなく、いわば白でも黒でもない灰色のどちらとも言えない状態。そういう中途半端さを白黒映画の光と影で巧みに描き出す。こういう灰色というどっちつかずの状態を描くことに関しては、小津安二郎の映画は、白か黒かをはっきりさせようとする。例えば、夫婦が二人で食事をする場面なら、夫と妻をそれぞれ正面から撮って切り返しにする。つまり正面から向き合うだけで、背中から撮って、自身が自覚すらしていないような感情の状態は画面に入ってこない。だからこそ、小津はすっきりして、スタイリッシュなのだが、成瀬はそういうところを突っ込まずにはいられない。この作品でも「麦秋」でも原は、彼女の魅力のひとつである微笑を見せるが、この作品では背中の印象が残るため、微笑をすなおに受け取ることが難しくなる。無理して微笑んでいるとか。その光と影の使い方のなかで、成瀬は原に振り返りの動きをさせる。振り返ることで、影になっていたのに振り返った顔に突然光が当たる。つまり、ここで光と影の区分が逆転する。あるいは光と影という区分の意味がなくなる。その鮮烈さ。それは、単に画面上の光と影というだけでなく、物語をつくる。あるいは、ストーリーの面では、夫の姪の家出娘に振り回される原は、実家に逃げ帰るが、その実家には弟夫婦が母と生活しており、今度は原が実家を振り回す立場になる。そのことを実家の弟に指摘され、そのことに彼女が気づくことが夫との和解に向かうことになるのだが。そのとき、原と上原は向かい合うのではなく、並んで座ってビールを飲む。二人を映す方向はひとつになる。

 

2025年8月28日 (木)

没後50年 高島野十郎展(7)~エピローグ

 プロローグは高島という画家はこういう作品を描くという概要の紹介でしたが、エピローグは何でしょうが。本編で紹介しきれなかった落穂ひろいのようなものでしょうか。そういえば、これまで静物画の展示は、あまりなかったように思います。
Takashimavio  「百合とヴァイオリン」という1920年頃の作品。一見、落ち着いた色調の静物画のようでもあれますが、奇妙な作品です。百合の切花、ヴァイオリン、弓のそれぞれが歪んでいて、それぞれが違う空間に浮かんでいるように見えます。例えばヴァイオリンの手前部分の、本体の底の演奏の際に肩に当たる部分が突き出すような曲線を描いています。ヴァイオリンは奥のネックの方向に行くと、ちょうど百合の花が横切るところで二つ折りになったように屈曲しています。そして黒いネックが不自然に短く、テールピースの黒い部分が小さすぎます。一方弓を見ると、弦(毛)の部分はピンと張られていないといけないのに、くねくねと屈曲しています。だからといって、ダランとして張っていない状態でもない。だから、本来ありえない形になっています。そして、百合の花は、あえて言うまでもなく、茎が不自然なほどくねくねと屈曲しています。そして、さらに、百合とヴァイオリンの位置関係を見ると、百合はヴァイオリンの上に乗っていません。両者の接触部分がないのです。もし、百合の花がヴァイオリンの上に乗っていれば、その接触部分は百合の重さがかかってベタッと変形するはずですが、それがありません。つまり、百合の花は宙に浮いているのです。これらのことから、この「百合とヴァイオン」は、「鉢と茶碗」や「けし」といった作品と同じように、現実にあるものを、そのままに見て、描いた作品ではないということです。とはいっても高島が想像上の光景を描いたのではなく、実際に、目前にヴァイオリンと百合の花を置いて、それを見て描いてはいたのだと思います。“一見写実的に描かれた静物画のように見えて、実は絵作りの要請に従って随所に意図的な歪みが与えられたものであることがわかる。対象と画面、二つの表面を執拗に追う野十郎は、描かれる対象と描いた絵画を外から統合的には眺めない。空間とそのなかに置かれた事物を、理解と計画に従い絵画に表現するのではなく、その方法は微分的で、絵画の表面の生成につれてそこに事物も新たに生成される。建築物のように設計図に従って直線が予め予定された位置実現されるのではなく、細胞が隣の細胞との関係性で次々に生成されるように、線分もまた連続して生成され蛇行する。そのルールは、絵画上のグラフィカルな関係性と一体の野十郎の視覚=触覚=手技を統合した「思考」による。そこに野十郎の絵画の方法の端緒がある。野十郎の「写実」は蝋燭にしても風景にしても、優れて「主観的」で「抽象的」なのだ。(山田敦雄「《百合とヴァイオリン》または蛇行する直線」)”という指摘は、そうだろうと思います。
Takashimapearch  「桃とすもも」という1961年の作品です。“みずみずしく、艶めかしくもある桃とスモモが、画面の中でいくつものV字を構成しながら配置されている。本作をはじめ、ものの配置や明暗が周到に計画されている野十郎の静物画は、息詰まるほどの緊張感に溢れている。桃には思わずふれてみたくなるようなやわらかな質感が与えられ、表面に生えた毛までが克明に描かれている。一方スモモは硬く、光沢感のある様子が生き生きととらえられている。複雑な模様を持つ机上の布や皿など、あらゆる面に野十郎の画力が光っている。背景に意味ありげなぶら下がった緑色の玉が目を引く。”と説明されていましたが、壁を背景にしたテーブルの上に果物が配置され、その果物や布が細密に均等に表現されている。仏教の「慈悲」にあたるような遍く視線をそれらに注ぎ、それぞれを微細なところにも疎かにせず表現している。そういうようなことが言えると思いますが、作品を見ていると、それはそれで、ここの桃やスモモを見ていると分かるのですが、作品としてみると、どこかチグハグな印象を受けます。しかも、リアルな感じがしないで、画面に描かれた桃やスモモに存在感がないのです。それは、フル・コンピュータ・グラフィックスの精緻な画面をみて、精確に描写されているにも関わらず実写とは全く違った画面になっていてリアルな感じを持てなかったことに似ています。例えば、画面手前中央の2つの桃と4つのスモモはそれぞれ細かく丁寧に描かれています。しかし、テーブルの上に乗って在るようには見えません。また、真ん中向かって左側の桃とその右手前の緑色のスモモは接触しているのか、接触せずに離れて置かれているのか分かりません。つまり、テーブルとその上の6つの果物はバラバラでそれぞれの関係が描写されていないのです。どういうことかと言うと、些細なことなのかもしれませんが、柔らかく厚手の布の上に桃が置かれていれば、そのところが微妙に凹んだり皺がよったりするものです。また、丸形の果物が転がらずに、手前の緑色のスモモなどは安定のいいはずの下のヘタで支えるように置かれずに横向きに置かれています。そうであれば、転がってしまわないように後ろの桃に寄りかかるようになっているはずです。そのときに、柔らかい桃は、スモモの重さを預かることになるので、微妙な変化が起こるはずです。それだけでなく、それによって影も変化するはずです。しかし、画面を見ていると、布、桃、スモモは独立した完璧なほど精緻な描写で描かれていますが、それが別々に画面の配置された場所にはめ込まれているようなのです。同じように画面中央上の皿の3つの桃は、皿に載っているように見えず、そこで宙に浮いているようなのです。それらが、画面を全体としてみると“平面的”な感じがするのです。つまり、高島の作品に対して、私が平面的と言っているのは、二次元的というだけでなく、画面のなかにあるものとものとの関係が描かれていないということなのです。空間の中に、実体のある物体が在れば、それはその空間を独占するだけでなく、光を遮ったり、そこに空気は存在できない空気の流れが変わったり、その重量が接触する他の物体に影響を与えたり、と周囲となんらかの関係を構築しているはずなのです。絵画の遠近法は、その関係の一部を描写しようとした技法とも言うことができると思います。その関係のすべてではないにしても、ある程度以上表わすことができているのを、人は立体的と見ることがあると言えるのではないかと思います。奥行きというのは、その手近な感じ方ではないでしょうか。しかし、高島の作品、風景画も静物画もそうですが、を見ていると、そのような関係が考慮されていないように見えます。とくに、静物画は対象とする領域が狭く絞られているので、その特徴がハッキリ現われています。
Takashimapearch2  「すもも」という1948年の作品は、簡素と言うほどシンプルで、白い布と11個のスモモしか描かれていません。しかも、それぞれが細密に描写され、白い布のシワやのおりなす陰影が描きこまれています。しかし、その布と11個のスモモは浮いているのです。この場合、平面の布を敷いて、その上にスモモを置いて斜め上から見ているので、奥行きが生じることはないのですが、だからといって「桃とすもも」のように平面的に見えてしまうのです。それは、高島が風景画では制約があってできなかったことを静物画では、その制約が少ないために実行したことによるのではないかと思います。何かもったいぶった言い方をしていますが、高島の静物画を見ていると、風景画では感じることの少なかった作為を見てしまうのです。作為があることの善し悪しをここで殊更に論じたてるつもりはありませんが、高島の静物画は精緻でリアルに描いているようで、全体としてはつくりごとの薄っぺらさを感じてしまうのは、そのせいではないかと思います。そして、誤解を恐れずに、敢えて附言すれば、高島が後半生で人物画をほとんど描かなかったのは、そのせいではないかと想像してしまいます。人というのは、関係性の存在だからです。むき出しの裸の単独な存在としては生きていけないもので、必ず他者との関係から自らをつくっていくものです。サルトルの即自存在と対自存在の概念を持ち出すまでもないことです。しかるに、高島の作品には、関係という要素が抜け落ちています。高島は即自的な物体を描くことはできても、対自的な人を描くことはできないという自覚があったのではないか、と想像するのです。
Morandi1949  さて、話が飛躍してしまったので元に戻しましょう。高島は静物画では作為を施していると述べました。それは、どういうことかというと、端的に言って“つくっている”ということです。静物画では誰でもやっている、当然のことという声も聞こえてきそうです。たしかに、描くためにちょうどいい配置とか組み合わせを考えて対象を作ることは一般的です。例えばジョルジョ・モランディの静物画は、そういったパターンを何通りもつくって、それぞれを描いて、まるで静物画の配置の実験をしているようでした。高島の場合は、モランディのようなあそび感覚はなくて、あたかも自らを創造主としてひとつの宇宙を創ろうとしているように見えます。その際に恰好な手段として静物画があったのではないか、と思えるのです。それが象徴的に現われているのが、引用した説明で触れられている「慈悲」という言葉です。高島が万能の神であるからこそ、あらゆるものに遍く視線を注いで細密な描写ができるというわけです。というのも、細密に描写されているのは高島に見えるところで、見えないけれど存在しているはずのところは無視されているわけです。その視線の限界の自覚は作品を見ている限り感じられません。そこに高島の視野の狭さまで議論をひろげることもできなくもありません。しかし、そこに私が感じたのは、そういう並外れた執念というのでしょうか。少し譲って強烈な妄念と言ってもいいでしょう。それが尋常でないということです。高島の作品に漲っている迫力、画面から溢れてしまいそうに感じられるそういったものなのです。それは、私にはキレイゴトで済まされるような、展覧会の解説や評伝に説明されているような建前ではなく、もっと何か、本人にも制御できないような、どうしようもない、そんなものに突き動かされてしまうようなもの、そんなものを感じてしまうのです。すごくロマンチックな見方ですが、衆に甘んじることなく、というよりも、普通の人として生活していくことを憚らせるような異常なもの、そんなのがあるように思えるのです。
 実際の静物画が描かれている場面を想像してみて下さい。テーブルの上にすももが置かれている。それを画家が見て描いているわけです。この時、画家はすべてを見ているでしょうか。というより、見えているでしょうか。例えば、画家が見ているすももは立体です。当然、画家が見えている反対側は見えていません。だから、存在しているものを見ようと凝視していれば、見えていない部分があることに気づくはずです。通常の、何の気なしに眺めているのであれば、見えていないところは、見えているところと同じように、見えているところと連続しているだろうと、多分、そこまで考えることもせずに、疑問を抱くこともないでしょう。しかし、見えているところを凝視するように注意深く見ていれば、見えているところだけでも、そこにユニーさが見て取れるわけで、見えていないところが同じようにあるなどとは安易に考える等というとはできないはずです。高島が見えているものだけを忠実に写し取る画家であれば、それで十分なのでしょうが、「慈悲」ということを言い出したり、静物画で宇宙を自分が創造主になったかのように創ることを志向しているひとであれば、その見えていないところを見ようとする、そして見えてきたら描こうとする。そういう志向があるのは当然に思えます。それを、理論で強引に試みようとしたのがキュビスムであったり、セザンヌの複数の視点だったりするのですが、高島はそういうことには見向きもしませんでした。スタイルとしての写実から離れることをしませんでした。そこでは、高島は自身の視線を絶対化していたのではないか、端的に言えば、自身を神と同一視していたのではないかという、私はそういう妄想を抑えることはできません。根拠のない妄想で嗤っていただいて結構ですが、そうでなければ、私には、高島の作品にあるファナティックなまでの迫力を説明する理屈が見つからないのです。
Takashimadragon_20250828234001  さて、「すもも」についてはもう少し。このような私の高島の静物画に対する見方は、多少の偏見もあるでしょうが、そういう見方からすると、「すもも」の形を見ていると、京都の竜安寺の有名な石庭に似ているように思えてきます。白砂の上に数個の石が置かれている。何かを象徴しているのか、よく分かりませんが、それを単に砂と石という物体そのものでしかないと見ると、この庭の価値はなくなってしまうといえるでしょう。そこに何かあると付加価値をつけて見る事を、ここに来た人は強制されるというシステムです。私が「すもも」に竜安寺との類似を見たのは、この作品にリアルを感じさせないことが意図的ではないかと考えたからです。リアルに見えてしまえば、石庭のように象徴的な見方をできなくなります。そこに妄想(想像力といってもいいでしょう)を働かせるように、それを促すことが意図されていたのではないか、ということです。
 これは、静物画という形式だからこそ、高島という画家の特徴が現われやすかったのではないかと思います。高島の他の作品、例えば月をモチーフにして光と闇を描いた作品については、月の光の粒子を一粒ずつ点描するかのように、その光の一粒を画面の中で創造しようとするように見えるのです。それなら、月と月光だけをクローズアップして描けばよいのに、敢えてそうしていないのは、夜の闇を照らし出し、そこに見えるように現われるという世界を隅々まで、自らが創造してしまおうとしてのことではないかと思われるのです。

 

2025年8月27日 (水)

没後50年 高島野十郎展(6)~第4章 仏の心とともに

神社仏閣を描く
Takashimayakusi  「寧楽の春」という1953年の作品。奈良県にある有名な薬師寺の東塔です。三層の屋根の下に裳階があって六重の塔に見える独特にシルエットを、そのまま描いているアングルは、いかにも「皆さんご存知」とでもいえるステレオタイプ、絵葉書的です。東塔は、まるでビルの工事現場にあるような完成予想図のような、正確だが図式的な描き方です。しかし、高島は薬師寺の写真を見てお分かりと思いますが、「寧楽の春」は写真のように薬師寺の風景をそのまま描いているわけではなく、実際の塔がある伽藍には「寧楽の春」の画面のように草木は生えていません。だから、「寧楽の春」は高島が薬師寺東塔を使ってつくりだした架空の風景です。あえて薬師寺東塔に、現実にはない草木を描き加えたのは、高島は描きたかったからということでしょう。それは画面を見れば納得できるのではないかと思います。画面の前面に出ていて印象的なのは、まるで塔を隠すように満開に花開く枝垂桜であり、その下の印象的な赤のつつじの花です。そして、枝垂桜の左側には、高島の初期作品で御馴染みの“くねくね”が裸の若い松の木で登場しています。塔はバックの背景で、この姿がなかったとたら、前景の枝垂桜やつつじがあって松の木やその枝の繁茂が画面の外枠のようになっていて、全体に草木に覆いつくされているのです。これは、私の偏見かもしれませんが、高島の筆は建築に対しては、直線で堅固に構成された構築物を描くのに、何かしら居心地の悪さのようなものがあって、それが崩壊した姿とか古民家のような人の生活のなかで手を加えられてそのプロポーションの均整が崩れたようなものを好んで描いていたように思えます。ここでも、東塔をシンメトリーには描かず、均整のとれたプロポーションを前面に出さず、草木の後景にして、一部を隠してしまいます。均整のとれた安定した姿は、それで止まってしまって、そこから動きは生まれてこないでしょう。そこに高島は躊躇させるところがあったところがあったのかもしれません。高島は、この他にも法隆寺の五重塔を描いたりしていますが、塔よりも雨が印象的だったりと、私には、あまりパッとしないように見えます。この「寧楽の春」でも、点描のような枝垂桜のピンク色の小さな花のひとつひとつが際立っているところです。
仏のかたち・神のかたち
Takashimakiku Pradojan

 「菊の花」(左側)という1956年の、花瓶に活けた菊の花を描いた作品です。とにかく、菊の花の一輪一輪の花びらの一枚一枚を丁寧に描いている執拗さに圧倒される作品です。画家が細筆を握って、一枚の花びらの小さなところの一部に絵の具を何度も塗り重ねていく姿を想像すると、戦慄さえ覚えます。しかし、そのように一輪の花の、一枚の花びらをも疎かにしないで、すべてにあまねく丁寧に行き渡るように描かれた結果として、平板な印象となっていることは否定できません。メリハリがないのです。だからノッペリとして日本画の花鳥画を見ているような印象です。この作品を見ていると、高島は菊の花の生命感を迫力をもって描こうとしたのではなく、菊の花を題材に迫力のある画面を作ろうとしていたことが分かります。それが、さきほどの「すもも」にあった作為が、この作品では、そのように発揮されているということなのではないかと思います。たとえば、ヤン・ブリューゲルは静物画の中でも細密な花を描くので定評のある画家ですが、その「花卉」(右側)という作品と比べてみると、陰影を強調した画面の中で、花の生死が象徴的に描かれていると言われています。傾向の異なる画家なので、単に並べるだけで優劣を問うつもりはありませんが、ブリューゲルは花の諸相を象徴的に描き分けていますが、高島の描いている菊の花は、ひとつひとつはブリューゲル以上に丁寧なのでしょうが、それぞれに個性がなくて、この一輪という唯一さがないのです。コンピュータの画面でいえば、コピー・アンド・ペーストしたように一様なのです。だから、ここで高島の作品から感じられる迫力というのは、そういう労力を厭わずにやり遂げた画家の労力によるものです。以前にも、少し述べましたが、高島は描くというプロセス、つまり自分が行為するということ、もっと言えば、自分が創造主となって宇宙を創造することが重要であって、出来上がったものに対しては、手出しをしない。それは、聖書に書かれているキリスト教の神が人をはじめ万物を創造したあと、人々が様々な試練を受けて、神に対して救いを求め、問いかけを真摯に行なっても、一切答えないのと、よく似ています。
Takashima2025rape  「菜の花」は1965年の作品。「菊の花」は花瓶に活けられた花という小品でしたが、この作品は一面に咲く菜の花の風景という規模の大きな作品で、それに「菊の花」にも負けないほどの執拗さで一花一花、それだけてなく茎も葉も細密に描き込まれています。その迫力がすごい。“柔らかな太陽の光をうけて輝くように咲く無数の菜の花が、「菊の花」と同様に、こちらを向き、絵を見る者を逆に見つめるように対峙している。ごくありふれた春の光景でありながら、日常を超越した何ものかを我々に感じさせる。”と説明されています。この作品は、「菊の花」に加えて「ひまわり」でみた垂直の輪郭線による上昇性も見られます。無数に咲き乱れた菜の花の茎のひとつひとつに、縦に伸びる輪郭線が濃く引かれています。画面では霞がかった春空、黄色い菜の花、緑色の葉や茎、そして褐色の地面というように、色の差異によって水平的な帯状の色面が作り出されて、そこに菜の花の茎の縦に伸びる輪郭線が対比され、水平性と垂直性が重なり合うことで画面に絶妙な安定感が生まれています。
Takashima2025river  「流」は1957年の作品です。岸辺に立って来る日も来る日も渓流を眺めていると、いつしか川の水が止まり、今にも周囲の巌が動き出すように見えた経験を表現したと説明されています。それだからでしょうか、画面での水の流れはどこか無機的で、かえって赤茶けた川岸の岩の方が艶めかしく動き出しそうに見えてきます。
光と闇 太陽と月、蝋燭
 “「月ではなく闇を描きたかった。闇を描くために月を描いた。月は闇を描くために開けた穴です」と野十郎は述べる。月は闇を際立たせるためのアクセントと考えられるが、そう単純なことではないと思われる。闇に穿たれた穴だからだ。ここに野十郎の宇宙観が現われている。月が闇に穿たれた穴だとすれば、闇は光に包まれていることになる。光と闇は入れ子の構造をなしている。この光とは何だろうか。ひとつ言えることは闇以前に光があったということだ。遍照する光の中に闇が内包されている。宇宙空間が闇であるとするならばその果てには光の世界があるのではないかという思念に駆られる。宇宙の果てから到来する光、これが月として観照されている。宇宙の埒外の、いわば時空のない宇宙開闢は以前の光であり、闇を生み出した本源である。よって見る者に名状しがたい懐かしさを抱かせるのかもしれない。ではなぜ闇が生まれたのだろうか。闇は物質を発生させる要因ではないだろうか。ものには絶えず影が寄り添う。光自体に寄り添う究極の影が闇であるとするならば、闇によって光はものへと変換される。万物はすべて光と影の配合で決まるのではないか。野十郎は「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事…」と述べる。彼は花一つ、砂粒一つにも神を見出している。ものみなすべてに光が宿っているのだ。野十郎の作品はカンバスの隅々まで光が均等に渡っている。それは闇もまた偏在していることにほかならない。光をはらんだ闇は形をなし対象として描かれる。それらは超越的な光を宿すものとして自ら輝いているかのように見える。対象はたしかに日の光に照らされて視野に訴えかけるが、野十郎の場合、太陽光ではなく月光に象徴された宇宙に穿たれた穴より到来する光に依拠して描いている。それは内在する光であるため自ら輝いているのである。外部から照らされその姿が顕わになるのではなく、それ自体が「発光体」なのだ。その最たるものが太陽であり、野十郎にとっては描かざるを得ない対象であったはずだ。直視しがたい太陽をモティーフとすること自体、画家として特異である。(江尻潔「距離零の遠い光」)”という想像力をものすごく働かせた解釈がありますが、これでは実際に作品を見る事から離れて、言葉が独り歩きしてしまっていて、具体的にどこがこうなのか?と問われると、行き詰まってしまいそうなので、ただ、高島の太陽や月や蝋燭を描いた作品は、このような事態を招き易いところがあると思います。
Takashimafulmoon  「満月」という1963年の作品。高野は同じタイトルの作品を何点も描いているようですが、これはその中の一点です。夜空に満月が浮かんでいるという非常にシンプルなものですが、満月の光が夜空の波及するようにひろがっていくさまは、とくに月のまわりの光の反映するさまなどは非常に細かく、それこそ光の粒子を一粒ずつ描くように描いています。おそらく昼の太陽を描いても光が強すぎて、光が徐々にひろがり、それとともに徐々に弱まっていく段階のようなものは描くことができないでしょう。夜の暗い影が基調となっていることで、コントラストをつけ易いという都合のよさがあったと思います。それでは、もっと月を大きくえがいて、光と影のコントラストを大きな月をベースにもっと精緻に描くこともできたであろうに、高野はそうしていません。むしろ、影となった木の葉を挿入して月の光と影の描写を邪魔するようなことを敢えて行なっています。たぶん、この作品の構図とか構成は日本画でよくとられる月を題材としたものでは一般的といえるものです。それが、高野のこの作品では違和感を覚えるのです。
Takashimamoon  これに対して「月」という1963年の作品は、夜空の月だけを取り上げた作品です。「満月」よりさらにシンプルです。「満月」もそうなのですが、そのような一見シンプルで、日本画でも一般的となっているような構成で、わびさびとか光と影とかいった風情とは別のところに、高野作品の特徴があらわれていると思います。それは、月明かりの風景にシンボライズするように何らかの風情とか味わいを仮託して表現しようとすることではなくて、もっと過剰なもの、夜の闇の世界もキャンバスのなかで自らが創造してしまおうという野心のようなものです。
Takashimasun50  月に対して太陽です。「太陽」という題名の1975年の作品。すでに見た1961年の「太陽」は、中心部は絵の具を塊のように盛って、そこから四方へ無数の細い線を放射状に描き重ねています。それが、光の源から、周辺にむけて光が行き渡る様を象徴的に描いているようで、太陽なのでしようが、それは光が爆発的に全体を照らしている様です。そこで、高島はその行き渡る光を細い線になぞらえて、その一本一本を精緻に、まるでそれぞれが独立しているかのように描いていきます。その一本一本の線は、中心から周辺に行くに従って光は徐々に弱まっていきます。その変化を色彩を塗り分けて一本の線として、それぞれの線に変化をつけて描いています。その一本一本の線は、中心から周辺に行くに従って光は徐々に弱まっていきます。その変化を色彩を塗り分けて一本の線として、それぞれの線に変化をつけて描いています。それは、以前に高島が風景画において点描の手法で光が物体に届いた点を色彩が混ざらないように猫点を重ねることで描き分けていたことを、光の源では混ざらない線で描いている、ということだろうと思います。とくに、この光の線が、画面下の松の木に降り注ぐように届いて、木の葉を透っていく様子、木の葉が照らされる様子が細かに描かれていました。これに対して、この1975年の「太陽」は、光源である太陽の色彩の多彩さの点では後退し、1961年の「太陽」では、プリズムで見るように多くの色がそこに含まれていたのに対して、こちらの作品では中心を白にして、黄色の広がりというシンプルなものに転換しています。その代わりに、太陽の光が松の木に届いた末端のところの描写が、1961年の作品に比べて重きを置いているように見えます。つまり、太陽の光よりは、太陽の光によって生じる闇を描こうとしたと言えないでしょうか。
Takashima2025untitle  1967年の「無題」は、太陽も月もなくなって光だけになった作品。様々な色の点によって構成されている、瑛九の抽象画のような作品。“太陽という絶対的な光を見つめたのちに目を閉じて、その残光や残像を感じ、それを描いた”ものと説明されていました。光と闇を描くのなら、たしかに光源も要らないはずですね。たしかに理屈です。それを自身の内に輝く光などというもっともらしい理屈をこねたりしないで、太陽の光を見て目をつぶった網膜に映ったものを描いたと、写実であるしているところが、高島らしいと思います。これは、抽象っぽく見えますが、あくまでも写実的な作品というわけです。
Takashima2025candle2  「蝋燭」という一群の作品は高島野十郎という画家のトレードマークともいえると、10年前の目黒区美術館での展覧会では、数十点の「蝋燭」が一室に集められ並べられていました。それは圧巻でしたが、同時に、ひとつひとつの作品をじっくり見る気が起こらなくなってしまいました。しかし、今回は、適当に分けて展示されていたので、構えることなく、作品を見ることができました。さて、蝋燭という題材はヨーロッパでもバロックの光と影の対比を巧みに描いた画家たちも良く取り上げています。例えばカラヴァッジョの影響を受けた画家たちやジョルジョ・ラ=トゥール、あるいはレンブラントなどもそうでしょう。しかし、このような画家たちは蝋燭を作品の中の一部として、中心は蝋燭ではなくて蝋燭によって照らし出された人物だったりするのです。これに対して、高島の場合には蝋燭そのものを、しかもそれ以外ものは画面から排除されているという点でユニークです。それは、ここまで縷々述べてきたように、そもそもバロック絵画の光と影のドラマとは違う発想で描かれているからです。このような高島の作品に対しては、見る側にはものがたりを増幅させた衣装を被ることになりがちです。例えば、“蝋燭が一体何を照らしているのか、絵の中では明示されていないがゆえに、作品は象徴性を帯び、その神秘的で宗教的な雰囲気と相俟って、見る者の心を揺さぶるのである。また我々の心から、喜びや悲しみなど様々な感情を引き出し、穏やかな灯を点してくれるような浄化作用さえあると言える。言うまでもなく「蝋燭」こそは、交錯する光と闇の表現を探求し続けた野十郎の真骨頂である。(高山百合「高島野十郎《蝋燭》の知られざる光」)”という具合です。おそらく、高島自身も、そのようなことを自身で信じていたのかもしれません。私は高島という人が実際どうだったのかには、あまり興味がありませんが、そういLatourmaria3 うファナティックな性格はあったかもしれないということは、容易に想像がつきます。だから、見る者がそれに引きずられることには、とくに否定するつもりはありません。しかし、それは画面を見ているのかといえば、画面を見ていて、そこに見えていないものを敢えて見ようとしているのではないかと思います。画面の上に見えているのは蝋燭です。一連の「蝋燭」のほとんどサムホールという25×16㎝サイズの小さな画面で、中心に一本の火の灯された蝋燭が描かれているだけというきわめてシンプルな作品です。そこで描かれているのは、蝋燭の炎の凄まじいばかりの微細な描きこみです。炎の中心から先端に向かっての光→画面上では色彩のミクロ単位の変化、しかもその光をスペクトル分析するように一様でない要素も交えて描きこまれています。そして、その炎が燃えている空気と炎の光がその空気に映って光が周囲に伝播する空気の変化、それは光だけでなく、蝋燭の炎によって熱が発生し空気の対流が起こり、空気が動き出すのを光の伝播への影響で表わしている。それを実際に見えている以上に、ということは当然画家のつくりごととしてフィクショナルに創造している。それは多分、写実であれば微細すぎて気がつかないことを顕微鏡で拡大して可視化するように、いわば針小棒大な誇張を施して造っているといえます。そこでは照らし出されたものを描かなかったがゆえに象徴性を帯びるというのではなくて、照らしている光をただ描いていたという見方があってもいのではないか、ということです。そのために余計なものを削ぎ落として、他の作品、例えば「月」なら月以外のものは画面から排除して、さらに月すらも穴のようにしてしまう、のと同じように、炎のとその光のために光源である蝋燭は描かなければならないが、それ以外は排除してしまう。それにはサムホールという小さな画面が都合がいいでしょう。そして、蝋燭は排除できないものの、最低限、つまり、定型化に近い描き方にして、炎とその光を強調する。すると、見る者は炎に視線を集中せざるを得なくなります。実際、私は若い頃、登山が好きで、山の上でテントを張って寝て、山脈を縦走したこともあります。その際、テントには電器などありませんから、夜は蝋燭に火をともして灯りとするわけです。テントの夜、蝋燭の火を見ていると、自然に視線が吸い寄せられるようで、しばらく眺めていて時間が経ってしまうこともしばしばで、そこでいろいろなことを考えてしまうことに誘われるのです。現物の蝋燭の火にはそういうところがあります。高島の「蝋燭」は図らずもなのか、意図してなのか、分かりませんが、そういう現物の蝋燭に準じるものが用意されていると思います。

 

2025年8月26日 (火)

没後50年 高島野十郎展(5)~第3章 風とともに

 高島は、欧州留学中に欧州の風景を描き、帰国して戦後になると日本全国を旅して風景を描いたと言います。
水のある風景
Takashima2025spring2  「春雨」は1933年頃の作品。題名は「春雨」ですが、画面では雨が降ってはいません。冬が終わって春の雨が降った後の、あたり一面を覆っていた雪が解け、わずかに雪が残ったあたり一面を覆っていた雪が解け、情景を描いています。つまり、この作品では見えない春雨を描こうとしているというわけです。高島の描こうとした見えないものというのは、内面とか精神などといった抽象的なものではなく、このようなものだということです。
Takashimamorning  「朝霧」は1941年の作品です。 “どこにでもあるような平凡な風景。それだけに朝霧で濡れた枯草の湿った状態や霧に隠れる木立の様子、そして湿気をたっぷり含んだ冷気の感覚がストレートに感じられる。枯草や黒土が細かく描写されているので、朝の山の空気や雰囲気が立ち上ってくる。形として現われてこないものを表現しようとしている。”と説明されていました。これも、空気とか雰囲気とか、どこにでもあるような平凡な風景。それだけに朝霧で濡れた枯草の湿った状態や霧に隠れる木立の様子、そして湿気をたっぷり含んだ冷気の感覚がストレートに感じられる。枯草や黒土が細かく描写されているので、朝の山の空気や雰囲気が立ち上ってくる。形として現われてこないものを表現しようとしている。「春雨」と同じように、見えないものを描こうとしている作品です。
道のある風景
Takashima2025street2 Takashima2025kishida

 「初夏の野路」(左側)は1955年の作品。「春雨」や「朝霧」と同じように、名所とか絶景のような風景ではなく、平凡などこにでもありそうな風景です。道といっても、そこを歩く人の姿もなく、野原の真ん中に道があるというだけの作品。これは、岸田劉生の「道路と土手と塀(切通写生)」(右側)の影響があるように思います。岸田にとって写生への開眼となったと言われる作品を、愚直に追いかけ続ける、というのはいかにも高島という人に似つかわしく思えるのですが。
四季の風景
Takashima2025sunfllower_20250826232601  「ひまわり」という1954年の作品です。“真夏の晴天の下、空へ向かって身を高くするひまわりが描かれている。花びらは一枚一枚精緻に描かれ、葉や茎には独特の陰影表現が施されながらも、画面はまったく影を感じさせないほど明るい光に満ち、大地に根差して立つひまわり生命感あふれる姿が強調されている。ひまわりの茎の部分には、縦に伸びる輪郭線が明瞭に引かれているが、このような独特の輪郭線の表現は、野十郎の絵画の特徴である「上昇性」を強調する効果をもたらしている。”と展示の説明がされていました。たしかに、この作品以外にも高島の作品には上へ上へと向かって上昇していく雰囲気のあるものが、木々のある風景や植物を描いたものを中心に、よく見られます。すでに見た「御苑の春」のように画面の中心に直立する樹木をシンメトリーらしく描くものや、「けし」や「ベニスの海」あるいは「蝋燭」の諸作など、花の茎、船の帆、蝋燭の炎が、ゆらゆらとうねりながら上に向かって伸びるように描かれているのも、そうです。そして、この「ひまわり」もそうです。そして、独特の輪郭線使い方が、それをいっそう強調していると思います。例えば、ひまわりの直立する茎には明確な輪郭線が、よく見ると茎を描くのと独立したように引かれています。それは縦の線だけで、枝分かれして横に伸びた茎には引かれていません。それは意図的なものではないかと思います。それによって上昇性が強調されることで、上に向かって伸びていこうとするひまわりの生き生きとした生命感が強調されることになっていると思います。そして、明確に引かれた輪郭線がそれと分かることで、画面全体がくっきりとして、どこまでも明確に、とくに「ひまわり」では、画面の隅々まで光が当たっているような、映画でいうとパンフォーカスのような印象を与えるものとなっています。それは反面では、陰影を失わせることにもなって、これほどまでに明確に描き込まれ、どこまでも明確なのに、全体としてはのっぺりとした印象となっています。現実的過ぎて、かえって非現実てきになってしまっているといえるのです。
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 「雪の村」(左側)は1958年の作品。絵葉書的といっていい風景です。まるで向井潤吉のノスタルジックな民家の風景画(右側)を見ているかのようです。
Takashimasnow  「積る」という1948年頃の作品です。画像で見る分には、雪のこんこんと降り積もる情景を描いた作品に見えます。一面に雪の降り積もる銀世界のなか一軒の民家と防雪林が、その雪に霞むように映っている。まるでしんしんと雪の降り積もる音だけが聞こえてくる静寂に支配された叙情的な世界、そんな感じでしょうか。しかし、これを実際に会場でみると、この振る雪や積もった雪が大きさや形を変えて点描でひとつひとつが描かれているのです。その異様な迫力、そのひとつひとつを画家が丁寧に筆で描いている姿を想像して、その執念のようなものが恐ろしくなるようです。画面全体が白一色の世界で、その白の点描がそれと分かるというのもすごい技巧と思いますが、それによって白の微妙で多彩なバリエーションが用いられ、この白い世界で陰影がうまれているのです。それには、高島が欧州から帰国してから点描の手法を用いることが多いと思いますが、その点描について考えてみたいと思います。この高島の点描の手法のルーツを求めると印象派に、そのひとつの源があるように思います。印象派は、光を表現しようとしたといいます。その印象派の特徴的な技法として色彩分割というものがあります。普段私たちは何気なく自然光の中でものを見ていますが、その光は単一ではなく、様々な波長の光に分割できるのです。とくに可視光線は分かり易くすれば三原色に分割できます。プリズムに光を通すとそれが現われます。それは、青・赤・緑の三色。 それに比して色(絵の具)の三原色は、青・赤・黄となります。カクテル光線と言われるように、光は三原色が混ざれば白く輝きますが、絵の具は三原色が混ざればグレーに濁って、暗い色になってしまいます。光は混ぜれば混ぜるほど明るく輝きますが、絵の具は暗く沈んでしまうのです。西洋では特にルネサンス以来、空間表現のために遠近法を駆使したり、さまざまな絵の具を考案したりと、技術的な追求には余念がなかったわけです。しかし、この光と絵の具の三原色の特質に違いは如何ともしがたく、現在に至るも未解決のままなのです。色彩分割とは、絵の具を混ぜて中間色を作ろうとするとどうしても濁ってしまうので、絵の具を混ぜずに澄んだ色のままキャンバスに乗せ、隣接する部分に本来混ぜようとする色を乗せ・・・とすることで、あくまでも塗る色自体は澄んだ色・・・ 一筆ごとに澄んだ色を乗せることで、画面全体としては明るく澄んだ色の集合体とするのです。そうしてそこから発せられる光を観る者の目が捉えるときに、観る者の目の中で混ぜて、本来画家が表現したいと考えた色に合成して観てもらおうというものです。(だから印象派の絵は、数メートル、時には10メートル以上離れて観ると、実に深い味わいになります)その原理そのものは印象派を待たずともすでに確立されていたのですが、しかしながらそうした描法は、光から影への、色から色への、滑らかな移行という課題には適せず、絵がはっきりした一筆々々の集合体であることが強調されてしまう・・・そうした欠点を嫌われて、一般的には採用されなかったものだったのです。だから、印象派の画面を見ると原色の絵の具が盛り上げられて置かれたようになっているように見えるところがあります。近寄ってみると粗い感じがしますが、色彩分割の効果を考えて、絵の具の盛り上げ方によって光のニュアンスが変わってくるからなのです。しかし、それではどうしても全体として粗いものとなって大雑把になりがちです。それをもっと細かいところまで表現でTakashimasura きるように突き詰めたのが点描(例えばスーラ「グランド・ジャット島の日曜日の午後」)なのです。分割した光の粒子を点にすることによって粗かった光の表現を細かいものにしていきました。ということは、この点描の点を細かくしていけば、それに従って光の微妙な表現が可能になってくるというのが理屈です。しかし、それには画家の労力は大変なものになっていきます。一筆で塗れてしまうところを数十、数百、数千の点をしかも色を変えながら点描するわけですから、労力は数十倍、数百倍、数千倍になるわけです。だから、印象派から、その発展系といえる新印象派の画家たちでも点描を積極的にやったのはスーラくらいではなかったでしょうか。それを高島は、部分的に、あるいはこの「積る」では、ほぼ全面的に点描を行なったといえるのです。そこには、印象派のような絵の具の混濁を避けるということよりも、光をも分解してしまうというような、高島のもともともっていた視線、あるいは細かいところを執拗に描いてしまう志向性が光を粒子に分解してしまうことに行き着いたのではないかと思えるのです。そういうことを考えると、この「積る」という作品は、高島の志向性が凝縮していると、私には思えてくるのです。本当に、この白は凄いです。

 

没後50年 高島野十郎展(4)~第2章 人とともに

 最初に引用した主催者あいさつの中で、“彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築き、画家としての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。さらには、その芸術観の背景にある美術界や時代の動きを探ることで、美術史のなかに野十郎の画業を位置付けることをめざします。”として、以前の“孤高の画家”という高島のイメージを改めるという意図が、この展覧会にあるようで、それを主に取り上げているのが、この章の展示と言えます。ただ、私は高島の作品が見たいのであって、高島という人物そのものには関心がありません。ここに作品とは別の資料がいろいろと展示され、説明がいろいろとありましたが、素通りでした。高島が孤高かそうでないかで作品の見え方が変わるのでしょうか。変わらないのだったら、それは邪魔な雑音でしかありません。それゆえ、この章で展示されていた作品のことを書くことにします。
郷土の人たち
Takashimafar  「筑後川遠望」という1949年の作品です。春霞がたなびいてぼんやりかすんでいる山並みをバックに、中景の悠々と流れる筑後川をはさんで、満開の桜の枝が浮かび上がる作品です。点描的な細かさは、この作品では満開の桜の花です。粒子のような桜の花のピンクが強い印象となって、目に飛び込んできます。ここでは、アングルは素人の写真愛好家が好むような月並みなものですが、この一部が暴走するような一点豪華主義の突出があります。福岡県出身の高島にとって故郷の風景であるわけですが、ここには、故郷への愛情のような思い入れはなく、旅人のような第三者が冷静というか、冷たい視線があります。それは絵葉書的なところがそうで、高島の個人的な視線が入り込むということは見られません。
時代を超えたつながり
Takashimaself1  「傷を負った自画像」は傷を受けた首と脛からは血を流し、眉間に深く皺を寄せ、目は虚ろで、口は放心したように開けられて、正気ではないような表情です。自画像ということですから、画家が実際にこんな顔をしながら自分を描いているわけはないので、ここに作為があるのは明らかです。そのように、ある意味極端とは言いませんが自分を演じている(まったく関係ありませんが、この作品のポーズと表情は能條純一というまんが家がよく使うヒーローのポーズにそっくりです)のです。そこには、何らかの思いとか主張ということを、本人は明確に意識しているのでないでしょうが、そこに込めてしまう画家としての姿勢が、そこにはあると思います。その意味で、画風は全く異なるのですが牧野邦夫という画家の自画像と似ていると思うのです。牧野は写生といいながら画家自身の幻想的な想像を具現化したような世界をスーパーリアリズムの手法で執拗に描き続けた画家です。牧野は生涯にわたり数多くの自画像を描いていますが、まるでコスプレのように様々な扮装をさせた自身の姿を描いています。ここでの高島は扮装こそしていませんが、自身を主人公にしたものがたりの主人公にように描いています。孤高の画家といった伝記的なものがたりが好きな人であれば、帝国大学在学中に描かれたというこの作品について、絵画を学びたいという自身の希望に反して、周囲の期待から農学部で水産について学んでいる不本意さに懊悩する姿を仮託していると想像を逞しくすることも可能で、一面では高島の作品には、そういうものがたりに媚びる性質もあるようです。牧野とは違って、高島は初期においては自画像を描いていますが、それ以降には、自画像を全く描かなくなります。そのことは、高島という人の描くことへの姿勢が変化したことによるものなのか、単に他に描きたいものが出てきたためなのか、分かりません。
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 「ベニスの港」は1930年の欧州留学中の作品です。帆船の帆をたたんだマストが垂直の線として屹立する、後年の高島の風景画の構図によく表われる先駆と言えるかもしれません。これは、ドイツ・ロマン派のカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの「港の眺望」のやはり帆船のマストを垂直の屹立した線として捉えた構図とよく似ています。前に「御苑の春」がフリードリッヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」に似ているのをお話ししました。ここで、私の妄想ストーリーを少し挿入します。個人的な独断なので、飛ばして次の作品に移っていただいてもけっこうですので、ご自由に願います。さて、ここで高島の作品とよく似た作品を残した二人の画家に共通しているところを考えてみたいと思います。言うなれば、フリードリヒは風景画家であり、ゴッホはアルルの農村風景を好んで描いた画家でもあり、二人は風景をよく描いたということに共通点を見出すことができますが、それ以上に、二人は“見えないもの”を描くというということを公言した画家という点で共通していると思います。“見えないもの”とは二人の画家で全く同じとは言えず、ニュアンスは異なりますが、二人とも目で見えるのは表層の現象に過ぎず、その背後にある何ものか、それは神秘主義的であったり、ちょっと哲学っぽいことを考えていたりしていたようですが。ふたりとも、言葉で説明する概念とか思想とかその類のものが目で見えるものの背後にあって、それを作品に描き込もうという志向性を持っていた画家といえます。だから、彼らは決して見たままを描いているわけではありません。目に見える風景は“見えないもの”を表わすためのものなので、“見えないもの”を表わすためには目に見える風景に手を加えることを厭わなかった人たちです。だから、彼らの構図やタッチといった描き方には、意図的なものがあるはずなのです。だから、そういう画家の構図や描き方を取り入れようとした高島は、二人の画家の“見えないもの”を描こうとした姿勢を、当然理解していたと思います。それは、初期の作品を見ている限りでは、高島は写実的な描き方はしていますが、決して見たままを描いてはいません。そこに、ゴッホやフリードリヒのような“見えないもの”を描くことへの志向があったかは分かりませんが、渡欧して、彼らの作品に実際に触れたのかもしれません。そこで、“見えないもの”を描くというあり方があるということ、それまで自分が見たままを描いていないことに対して、それを後付でも理論づけるような画家たちに出会ったということが、考えられなくもないのです。それは、単に言葉によって説明されるという間接的なものではなくて、直接作品によって身体感覚として具体的に実感できたという深い体験だったのではないかと想像するのです。たしかに、ゴッホもフリードリヒも、どちらかといえばアカデミーとか芸術運動というような衆になじまず孤独に近い画家であったと思います。それが高島の帰国後の生き方に影響を与えたとは言いませんが、描くという姿勢については、その描き方の影響を通じて、何らかの得たものがあったのではないかと想像します。ただ、次のコーナーの展示作品を見ると、その影響のようなものが、すぐ見てわかるほどに表われていません。だから、ここで述べたことは、まったくの見当はずれで出鱈目である可能性も高いのです。これは、ふくまでも私の妄想です。
Takashimakeshi  「けし」は1925年の作品です。これはもう、罌粟の花の毒々しいほどの赤い花を見ると同時に、くねくねと屈曲した茎の異様な姿(現実にはありえないし、こんなに屈曲して、立っていられるはずがない)を見るべき作品であると思います。これは、誇張した表現ではあるのは明白で、高島が単純な写実の画家でないことは、この作品をみても分かります。それにしても、不健康さ、あるいは毒々しさ、もっというと禍々しさが画面から溢れんばかりの印象は、このくねくねの屈曲した曲線から来ているのは、間違いないと思います。そのくねくねの屈曲が全体を支配してしまっていて、ギザギザの葉が丸まったり波打ったりしている描写や、花についても満開でスッキリ開花しているのではなくて、真ん中の花はシンメトリーを崩してくしゃくしゃな様子にしているし、左後方のつぼみから開きかけている花は丸形ではなくて歪んだ形にしています。多分、高島は、この作品を茎から描き始めたのではないかと想像します。それは、茎がか細く、くねくねと屈曲しているのに、まるで鋼のように同じ太さで硬い姿で描かれているからです。つまり、くねくねと屈曲した姿に柔らかさはなく、その恰好で固まっているようなのです。その強固な茎に葉や花があとから附加されて、罌粟の姿になっている。それでは、これは、くねくねの屈曲を採用したから、作品がこうなったというものがたりにはなりますが、肝心のどうして、こんなくねくねした屈曲を、画面がわざとらしくなるにもかかわらず敢えて採用したかには答えていません。これは、私の勝手な想像ですが、ひとつは形状ではないかと思います。もうひとつは、このようなくねくねの姿に動きの要素が内包されているように感じられるからです。こじ付けかもしれませんが、高島という人は、秩序のある静止した姿、例えば西洋絵画の構成でよく言われる黄金比のバランスとか、には興味を示さず、かといってダイナミックな躍動感を活写した作品もありません。風景画でよく描かれるのは川の風景で水の流れる様子であったり、草原や樹木で枝や葉が風に吹かれて揺れる様子(展示されていた作品で「断崖の下」(という作品がまさにそうで、断崖にへばりつくように生えている樹木の枝が、まるで強風に煽られているように屈曲しているのです。これをみると、後で考えてみますがドイツ・ロマン派のフリードリッヒの世界に通じるところがあるように思えます。(たとえば「オークの森の修道院」))、蝋燭の絵では炎が揺れる様子です。つまり、流れるとか、揺れるといった、決してダイナミックではないけれど、つつましく、滑らかな動きを、よく採り上げているように思えるのです。そのような動きを線で追いかけると、くねくねと屈曲した曲線に近い軌跡を描くのです。画面は、この屈曲を入れることで静止した状態が、かすかな動きを与えられることになります。「りんごを手にした自画像」においても、服の襟や裾が揺れる様子を描こうとして、くねくねになってしまったと考えられないでしょうか。そして、他の作品でもそうですが。この「けし」でも細部の描写の力の入れ方といったら。例えば花については花びらの脈まで細かく描きこまれ、顕微鏡で見ているような気分にさせられます。人が普通に花を見る場合には、そこまでは見ないし、花を描く時も、そこまで描くことはしないと思います。しかし、高島は描いてしまう。描かずにはいられない、そういう画家なのではないかと思います。
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 「カンナとコスモス」という1954年の作品です。「けし」から30年経過し、画面は明るくなり、描かれる植物の種類が違いますが、茎がまっすぐになり、くねくね線は影を潜めます。同じ題名の第1章で見た1967年の「けし」では茎がまっすぐになっています。この「カンナとコスモス」は1967年の「けし」に寄った作品で、この間に高島の画風に変化があったのではないかと思います。1967年の「けし」のところで、アンリ・ルソーに触れたところで、ルソーの描く植物は写実とはちがってデフォルメされた姿になっていますが、植物の生命力が写実的なものよりも強調されて迫ってくるところがあります。高島の描く植物には、その生命力ある姿が、過剰となってグロテスク一歩手前の不気味な毒々しさに迫るところがあると思います。それがよく分かる作品です。ただし、1925年の「けし」とは違いますが、高島がルソーと違うのは、ルソーのようなデフォルメをほとんど施していない点です。この作品で描かれているコスモスやカンナの花は細密に写実的に描かれています。しかし、その細密すぎる描写は、普通に人が植物を見る際に目に移る姿とはいささか違うようなのです。細密すぎるようなその姿は、普段は見ないか、見たくないような不気味さ、毒々しさの印象です。さらに画面全体を侵食するような、見る側に繁茂してくるような迫力があります。その植物の姿に見え隠れするのは、くねくねと屈曲する線なのです。それはコスモスの茎であったり、カンナの花弁であったり、その線が動きを与えているのです。それに加えて細密なスーパーリアルな植物が画面に充満し溢れてきそうな過剰なところが、迫力を増しているといえます。おそらく、アンリ・ルソーは画面構成を計算して制作しているので、画面を植物が覆いつくしていますが渾沌とした迫力はそれほどでもありませんが、高島の作品では構成を細部の個々の花や葉の描写が描いているうちに過剰に暴走しているようで、計算を凌駕してしまうように渾沌とした迫力を生んでいます。それが一種不気味さを見る者に印象づけていると思います。
Takashima2025autamn  似たような「秋の花々」は1953年の作品です。雲仙岳と有明海の干潟のぼんやりとした風景をバックにハゲイトウやカンナ、コスモスなどの秋を彩る花々が咲くのを、眩しいほど鮮やかな色彩で、くっきりとした輪郭で細密に描き込まれています。ぼんやりとしたバックとのコントラストが絶妙です。
 「萌え出づる森」は1963年の作品。早春の森の風景を若葉の一枚一枚、下草のひとつひとつまで点描のように細密に描き込まれた作品です。その一つ一つが明確な輪郭で細かく描き込まれているので、かえって全体が平面的に映ってしまっています。そして、現実の森というのは、これほどまでにスッキリしていないで、もっと雑然としているものだろうと思います。この作品の画面の森の木々はきれいに上に伸びていて、折れていたり、節になっていたりというのは見られません。つまり、描かれているものは整理された風景、つまりは絵画として映えるように整理されている。これらのようなことから、この作品の風景には実在感というのが稀薄で、どこか浮いたような、非現実的な感じがします。ルネ・マグリットの「白紙委任状」で描かれた森のギミックな感じに印象が近いものとなっていると思います。

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2025年8月24日 (日)

没後50年 高島野十郎展(3)~第1章 時代とともに

 高島が画風を確立させていく時期の作品です。
ゴッホへの憧憬
 ヴァン・ゴッホは明治末から日本に紹介され、結構人気があったらしい。今も昔も、ゴッホは日本で受けていたようです。地方出身者で、しかも独学で絵を勉強していた高島が得られる西洋の画家の情報など限られていただろうから、辛うじて知ることができたのがゴッホだったということでしょうか。私はゴッホの絵を見ても、単に下手くそとしか思えないので、高島は、ゴッホの他に選択肢がなかったのには、同情を禁じ得ません。
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 「梨の花」(左側)は1930年頃の、ゴッホの作品の影響が強い作品です。ここでは、細かく輪郭をはっきりさせる表現は影を潜め、素早い筆致で大雑把に描かれています。例えば、ゴッホの「鳥のいる麦畑」(右側)の真ん中の曲がりくねるような道や畑の描き方など、よく似ています。あるいは、暖かな春陽で立ち上った陽炎のように空にうねるような筆致が施されているのもゴッホに通じるところがあります。このうねるような線は、これまでも「けし」や「御苑の春」などにもうねうねとうねる線が目立ちますが、高島の作品には特徴的なものです。これは、ゴッホの影響によるものと言えそうです。
写実への覚醒
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 「椿とリンゴ」(左側)は1918年の制作、高島28歳の時の作品です。画家としてのスタートが遅かった高島の習作期とも言える時期に描かれたこの作品は、岸田劉生の「林檎三個」(右側)とほぼよく似ています。ほぼ同時期の両作品。林檎三個を等間隔に一直線に並べるという意図的な配置は、高島が岸田に倣ったと考えてよいのではないかとおもいます。それだけでなく、細部まで執拗に描き込む写実的な描き方は共通していて、高島は岸田を手本にしていたのが分かります。そういえば、岸田劉生は、アルブレヒト・デューラーを通して古典的な写実に目覚めたとのことですが、高島がデューラーの影響を受けた自画像を描いていたのは、岸田を通してのことかもしれません。
Takashimacyawan  「鉢と茶碗」という1922年の作品です。器が3つ横並びの、一見何の変哲もない静物画です。しかし、並んでいる3つの鉢と茶碗が歪んでいるように見えます。3つとも左上に引っ張られるように歪んでいます。画家の視線が斜めからといえば、手前のテーブルの縁は水平です。それと、3つの器の歪みの程度が違うようなのです。画面向かって右の茶碗が一番左上に引っ張られているように見えます。そして、3つの器の歪みの程度に器の模様が関連しているのではないか。一番歪んでいる茶碗は唐草模様でくねくねの蔓が延びています。真ん中の鉢は線の模様がくねっている。これに対して一番左の鉢は緑色に彩色されて模様がハッキリしない。その右側の鉢が歪みが少ない。それに加えて、背景となっている壁が汚れのせいでしょうか、まるで、それぞれの器から煙が湧き出ているような形態になっています。また、3つの器は陶器なのでしょうが、陶器の冷たく硬い肌触りのような描かれ方ではなく、歪みがあるためか、柔らかな感じになっています。それらのことから、この3つの器が静物の固定したものではなく、生き物のような柔らか味と動きの可能性を潜在しているように見えてきます。これは、見たままを描くというのではなく、見えないものを描こうとする岸田劉生の影響を受け、高島が自身の写実としていったことが表われた作品と言えるのではないかと思います。
写実の広がり
 「りんごを手にした自画像」は、1923年の作品です。ここに至ると、主観的な意図に沿うために、写実的な技法にとどまりきれないところに至ったように見えます。すでに見た、3年前の「絡子をかけたる自画像」と同じように画家は僧形に扮しています。それよりも目を惹くのは僧衣の描き方で、全体としてくねくねと波打つように屈曲した線で統一されたように描かれているところです。そうして、さらによく見れば、顔の輪郭も波打っているように見えます。青いりんごを持つ手の指も関節が変に曲がり、これも波打っているように見えなくもありません。このくねくねした曲線で支配されたような画面は、明らかに意図的に描かれたものでしょう。その意図は、かりに伝記的なエピソードからであれば、いくらでも、ものがたりをつくることができるでしょう。あるいは、岸田劉生や後期印象派のファン・ゴッホの影響と言うこともできるかもしれません。岸田劉生は写実を追求した芸術家ですが、写実を通して対象物がもつ「存在の神秘性」を引き出すことを狙って描いたとされています。対象物をリアルに再現するだけではなく自身の内面から呼び起こされた「内なる美」をその作品に投影している。その表われとして、先ほど見ました「林檎三個」の不自然な配置であり、デフォルメされた描写です。それを高島は岸田よりもあからさまに、意識的に行っているように見えます。それは、岸田が存在の神秘性を表わす手段としていたのを、目的に寄らせたように思えます。そういうデフォルメ、あるいは、歪みを見たことから生じる違和感を効果として考えていたと思えるふしがある。それは、写実といっても写真のような枠組みではなく、絵画として成立するという枠組みを前提としていると思えるのです。

 

没後50年 高島野十郎展(2)~プロローグ 野十郎とは誰か

 高島野十郎の概要を紹介するコーナーで、これから展示される各章からひとつずつ作品をピックアップして、こういう作品だというような紹介です。各章をさらに節に細分化して展示されています。
青年期
Takashimaself2 Takashima2025dular  「絡子をかけたる自画像」(左側)という1920年の高島29歳のときの作品。北方ルネサンスのアルブレヒト・デューラーの影響を受けていたと説明されていましたが、たしかにデューラーの自画像(右側)を模したように、正面を向いた姿で自分をとらえていて、まっすぐにこちらを見つめるまなざしの強さ、そして固く結ばれた口もとは、とても印象に残ります。絡子は、禅宗で用いられる法衣の一種で、デューラーの自画像ではガウンを羽織っていたのを模して、使用したのでしょうか。20世紀の様々な絵画運動が起こったなかで、高島は終生、緻密な写実から離れませんでした。とは言っても、理念とか方針として写生とかリアリズムを堅持したというより、絵を始めたときにお手本にした画家が写実的な画風だったことから、そうだったというのではないかと思います。というのも、後で、高島の作品を見ていくと気がつくと思いますが、たしかに写生なんでしょうが、その写生する対象の見方がリアリズムというより、独特の絵画的なものになっているのです。そのひとつの要素が、デューラーの細密な描写をしながら「メランコリアⅡ」のような神秘主義的な作品になってしまうようなところがあると思います。展覧会チラシにある“月ではなく、闇を描きたかった。闇を描くために、月を描いたのです。”という言葉にあるように、単に見えるものを描いただけでなく、見えないものを描くという要素です。それは、見えるものを描いていても、そこに見えないものが反映している。そういう写実です。この自画像の高島の強い視線は、見えないものに向けられているのかもしれません。
Takashima2025candle  高島は「蝋燭」を多数描いていますが、これは最も古いとされる作品。10年前の目黒区美術館の展示では、ひとつの部屋に蝋燭の絵ばかり数十点を集めて、展示されていたので、迫力はすごかったのですが、同じような作品がズラッと並んでいたので、ひとつひとつの作品を見る意欲が失せてしまったことがありました。今回の展示はそうではなく、ひとつ展示されていたので、落ち着いて見ることができました。小さな画面の中心に1本の蝋燭のみが描かれているのみです。その“炎はうねりながら天に向かって上昇する。暗い色調のなかに浮かび上がるように描かれた揺らめく炎、周囲の陽炎が強調される光と闇の対比がドラマティックに表現されている”とキュプションで説明されていました。蝋燭とその炎は見えるものですが、闇は見えません。その見えない闇を描くために、光を描いて、その光から生じる陰を描くことができた、というものでしよう。
Takashima2025apple  「壺とりんご」は1923年の静物画です。 高島は多数の静物画を描きました。「絡子をかけたる自画像」がデューラーの影響なら、この作品はファン・ゴッホの影響が見られる作品です。背景の壁には、炎が燃え上がるようなくねくねした線が無数に引かれていて、ゴッホの晩年の南フランスの風景を描いた際の生き生きとして、線自体が何かを表現しているような線を模しているような感じを受けます。また、りんごのゴツゴツしたところや壺の縁が歪んでいるところなど、ゴッホの模しているところが窺えます。これは想像ですが、九州のそれも都会ではないところで少年時代を過ごし、東京に出てきても大学農学部で学んだということから、西洋の画家の触れるチャンスは少なかったのではないか。そのような中で、出会えることができた画家がゴッホでありデューラーであったりで、たまたま、彼らの作品と出会った高島は、それが絵画というものだというものを植え付けられてしまった。その後、高島はヨーロッパに留学したりもするが、その時にはある程度の年齢になって、絵画観は固まっていて揺るがなかったというのではないか。
滞欧期。戦前期
Takashima2025street  「ノートルダムとモンターニュ通り」は1932年、高島42歳の時の作品です。多くの日本人画家は20代の若いうちに留学して、多大な影響を受けるのでしょうが、高島の場合のような40代では固まってしまっているのではないか。それほど画風の目だった変化は見られません。このころのパリには、20世紀絵画の代表的な画家が集まっていて、最先端の芸術がひしめいていたと思われるのに、です。この作品では、パリの都市の建築物がきっちりと描かれていて、画面の左下にゼラニウムの赤い花が建築の直線的な描写と対照的に、ゴッホ的なうねうねした線で生命感が溢れるような描き方がされて、そこが印象的でした。
Takashima2025tart  「からすうり」は1933年の作品で、高島は植物を描いた静物画を多く描いていて、そのうちの一枚です。また「からすうり」は何点かあり、これは、そのうちの一点です。高島は大学農学部で研究者として過ごしたわけですが、当時の理科系の研究者は観察の記録を残すためにスケッチの技術が求められていたはずです。今みたいにカメラが一般的で性能が高くなかったので、実験や観察したもの、例えば顕微鏡で見たものを、写真に代わって精確な記録にのこすためにスケッチをしていたはずで、高島の写実的な画風の基礎はそういうところにあったのではないかと、個人的に想像します。それだから、形を精確にはっきり分かるように書く必要がありますが、高島が植物を描く際に、茎などの輪郭の線が目立つほどくっきりと描いているのは、そういう事情が原因しているのではないか。しかも、標本のように形態を揃える操作が為されているように見えます。この作品では、中心線を決めて、画面の上部から紡錘型に枝がひろがるように垂れ下がる構図で安定感を作り出しています。
戦後期・柏時代
Takashimaspring Takashimafriedrich04

 戦争中、高島は故郷の福岡県に疎開し、九州の風景を描くと、それから日本国中を旅して、風景画を描き始めます。「春の海」(左側)は1952年に有明海を描いた作品です。潮と泥が綾をなして広がる有明海の干潟の景観を、春霞に煙る雲仙のシルエットを背景にして描いています。警官の広がりと遥かに雲仙をのぞむ奥行とのコントラスト。この作品は、10年前の目黒区美術館でも展示されていて記憶に残っています。その時は、ドイツ・ロマン派のフリードリヒの「ドレスデン近郊の大狩猟場」(右側)という作品に似ていると思いました。このフリードリヒの作品をてがかりに見ていくと、画面は手前の湿原(高島の「春の海」は干潟)と遠景の空の間には境界線のように木々の黒い影があって、その境界線をはさんで対立的な構図になっていて、視線は奥行きよりも水平線の方向、つまり湿原の広がりに導かれます。その行き着く先は、画面に描かれていない、画面という枠を超えた外側の広がりです。高島の「春の海」にも、明らかに同じような視線の方向があると思います。しかし、フリードリヒの作品のような対立的な要素は控えめになり、その分、緊張感は緩和され、視線を導く力は弱まります。その視線は、どこへ行くのかというと、手前の、春の新緑の海岸の草の細密な描写です。いわば、和歌でいう本歌取りのような手法で、風景の広がり、そこに点在する春の息吹に見る者の視線を導いていると言えます。
Takashimarotus  「すいれんの池」は1949年の作品で、新宿御苑の池を描いたという、60号サイズの大作です。そのサイズにもかかわらず、びっしりと細密に描きこまれた濃密な作品です。蓮の池を描いた絵画作品としてはモネが晩年に多数の作品を描いたことは有名で、日本では愛好者が多数いると思いますが、モネの描き方と比べると、高島は几帳面なほど蓮の花や葉、あるいは池の周囲に茂る草や樹林の輪郭をくっきりと描いています。どこまでもくっきりしていて、それは結果として、空気遠近法の遠くになるに従って霞んでいくという描き方をとっていません。そのために、画面の空間に奥行きが感じられず、平面な図面とか図案のように見えます。具体的に言うと、画面手前左の突き出た土手に下草が繁茂しているところが前景で、池の中央に山か建物か分かりませんが影か映っているのをへて右手にこんもりとしTakashimarotus2 た樹木の茂みがあるところが中景、そして正面の池の奥と背後の樹林を後景として、三つの場面がそれぞれあって、それを池の水面がつなぎ目の役割を果たして、三つの景色が同じ空間にあるかのような構成になっています。油絵で西洋絵画の風景画の体裁をとっているので、あまり、そんな風には見えないかも知れませんが、この「すいれんの池」という作品は、前景、中景、後景と、それらをつなぐ池の水面という4つの平面から構成された作品であると思います。だから、例えば、Hishidafalleiseihasi 江戸時代中期の琳派の思い切りデフォルメされたデザイン画のような屏風絵、例えばカキツバタの屏風と本質的にはかなり近いところにある作品といえるのではないかと思います。それは、画面空間が実は平面の組み合わせであること以外に、細密に描きこまれている池に浮かぶ睡蓮の花や葉が明確な輪郭で、まるで植物図鑑の図のように描かれていることが、現実的な存在感、リアリティをむしろ減退させて、図案のように見えてくるのです。睡蓮の白い花が池に浮かんでいますが、その花は、まるでコピー・アンド・ペーストしたように、個々の花に個性がないのです。この点でも琳派の屏風のカキツバタのデザイン図のような、一種の記号のように描かれているのと、手法の本質的なところは共通点が多いのではないか、と思います。初期の習作的な作品を見ている限りでは、高島という人は手先のところ、つまり細部から描き始め、その結果が全体を決めるという行き方をとっているように見えます。そのため画面全体が複雑な構成をとっている作品はありませんでした。高島本人にも、そのことに対する自覚はあったのかもしれません。その証拠というわけではありませんが、高島が渡欧した1930年代のヨーロッパではセザンヌに端緒とする新たな造形を試行する画家たちが活躍していた時代でもあったわけで、ピカソやブラックは言うに及ばず、エコール・ド・パリのムーブメントや抽象も現われていたのを、高島は無視するようTakashima2025rotus に、その影響のかけらも見られません。想像ですが、高島には、そういう新しい造形に必要とされていた構想力のようなものを自身欠いていたという自覚があって、そういうものに手出しできなかったのではないか、と思える。というよりも、渡欧したことで、高島自身、そのことに否応もなく気がつかされたのではないかと思えるのです。これは、私の妄想かもしれませんが、ここで展示されている高島の風景画を見ていると、題材とか、その題材の取り上げ方ということにはユニークさがなくて、むしろ凡庸ですらあるのです。端的に言えば、高島の風景画は絵葉書的なのです。しかし、高島の真骨頂はそこから先にあります。この「すいれんの池」では、コピー・アンド・ペーストされたような白い睡蓮の花のレイアウトで、その白をアクセントにした、一見地味な風景の中で様々な色彩が万華鏡のように点描の細かなボットで交錯しあう複雑さにあります。それは、変な比喩かもしれませんが、琳派の大胆なデザイン的な屏風を顕微鏡で描きなおしたようなものです。この作品から16年後の1965年の「睡蓮」という作品では、1949年の点描のような細部の描写が多少過剰とも言えるほどだったのに対して、日本画のようにスッキリとした画面で、生命感に溢れるというより静謐な感じがします。細密な描写は相変わらずですが、描写は整えられていて、数個描かれている睡蓮の花は植物図鑑の図のような正確に整えられています。そういう睡蓮の花が秩序だっているのは仏画のように見えてきます。
Takashimakeshi2  「睡蓮」と並んで展示されていたのが1967年の「けし」という作品です。静謐で天上の景色のような「睡蓮」とは対照的で、何本ものけしの花が整列して並んでいます。花を支えるすべての細い茎に輪郭線がはっきりと施されているため、茎の縦方向が強調され。まるでけしの花が上へ伸び上がろうとしているかのような不思議な印象を与えます。はっきりとした輪郭線が茎や葉のすべてに施され、まるで線描のような画面は、平面的にみえて(実はけしの茎と茎の間から奥方の山村の風景がうかがえて、奥行きがある)、画面を線で覆い尽くすくらいの印象は、ちょっと作風が違うのですが、アンリ・ルソーの熱帯風の繁茂するジャングルを描いた画面を彷彿とさせます。
Takashima2025cherry  「境内の桜」は1955年の作品です。満開の桜の花のひとつひとつまで精緻に描き込まれているのですが、全体の風景は絵葉書的といってもよく、悪く言えば陳腐です。それが、細かい桜の花の描き込みと、3人の子供たちが満開の桜を気に留める様子もなく遊びに興じている様子は、桜の木の大きさと子供の小ささとの対照も相まって、絵葉書的な陳腐さをぶち壊しています。
 「御苑の春」(右側)は1948年頃の作品で、中心に描かれているのは新宿御苑のモミジバスズカケノキの大樹だそうです。周囲を圧して巨大で、枝を広く張り出し、その枝が屈曲する様子は溢れ出るような生命感があります。「すいれんの池」と同じようにフリードリッヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」を思い出すことができます。中央に大木が1本だけ垂直に屹立する構図と、枝がくねくねとひろがるように伸びている様子がよく似ているように思えます。

Takashimafriedrich02Takashima2025spring

フリードリヒの「朝日の当たる村の風景(孤独な樹)」(左側)では、草原の中央にポツンと立つ一本の老いたオークの木が描かれていて、背景には山が広がり、空には曇り空が広がっています。中央の老木は風雨に耐えながら長年生きてきた存在であり、時間の流れと生命の儚さを同時に示しています。これに対して、周囲の風景は移ろいゆくもので、老木はそれに対して静かに立ち続ける。ここで、老木は孤独、内省、精神的探求を象徴し、個人が自然や神と向き合うシンボルと言えます。これに対して高島の「御苑の春」のモミジバスズカケノキの大樹は、背景に若木の林が控えるように茂っています。高島の「御苑の春」のモミジバスズカケノキの大樹は、フリードリヒのオークの老木と同じように風雨に耐えながら長年生きてきた存在ですが、背景の若木は移ろいゆくものというのではなく、これから風雪に耐えて大樹となっていく可能性の存在です。そこで強調されるのは大樹の孤高さではなく、長年の風雪に耐えながらも枝を繁茂させる生命力であり、自然の大きさ、そして、若木が背景に控える自然の大きさであり、若木と対比される時間が込められているというものです。それらは、さらに大樹の根元の奥には3人の人の姿が小さく描かれていて、自然の大きさと人の小ささが対比的に描かれています。フリードリヒにはなかった人の姿があるわけです。それゆえというわけではありませんが、高島には、フリードリヒのような超越的な見えないものを画面に中に描く志向はなかったのだろうと思います。
Takashima2025teapot  「ティーポットのある静物」は1948年頃の作品で、高島の静物画は食器や果物の配置を慎重に考えて配置による画面が構成されています。そこには、写実といっても、自然のありのまま、カオスよりコスモスとして捉えようとする高島の志向が根本にあると思います。この作品でも、一見バラバラに見えて、リンゴはV字に並べられ、Vの要となる中央のリンゴとグラスを画面の中心線上に配置して安定させています。そして、格子柄のクロースと豊かな模様のドレープが左右に、釉薬が光沢を放つ花瓶と白い磁器のポットの真ん中に透明なガラスという、シンメトリー的に対比をつくる構成になっています。安定した秩序を作り出していると思います。Takashima2025apple2 そして、1966年の「こぶしとリンゴ」は、「ティーポットのある静物」が画面の手前からの強い光でものの質感や実在感を描こうとしているのに対して、この作品では穏やかな光の演出が施されています。すりガラス越しにやわらかな逆光が差し込み、たおやかなこぶしの花が活けられている壺の側面にはリンゴが反射して映り込み、その背景には屋外の花木が透けて見えています。淡い桃色が多用された画面は、全体的に柔らかく穏やかな雰囲気となっていますが、黒い壺とリンゴの赤が画面を引き締めています。
月と蝋燭 光と闇
Takashima2025moon  「月」は1962年の作品です。月夜の風景を描いた作品は少ないが、月のみを描いた作品というのは類例がないと説明されていました。展覧会チラシの惹句にあった“月ではなく、闇を描きたかった。闇を描くために、月を描いたのです。”という高島の言葉は、この作品を指したものではないでしょうか。闇の中の満月が描かれていますが、描きたかったのはその対極の闇だったという。最近は、花火大会は賑やかに花火を連発するものになりますが、もともと、花火を盆の時期に行うのは、夜の闇に煌めく花火を花開かせて、それに目が眩んだあとで、花火が消えた後の闇がより深く感じられるからで。その闇をいつもより強く感じることで死者を悼むものです。つまり、闇をより感じるために光が必要だということは、昔から知られていたことで、高島は盆の花火の代わりに満月を描いた。
Takashima2025sun  「太陽」は1961年の作品です。「月」が闇を描こうとしたのに対して、この作品は光そのものを描こうとしたと思います。太陽は、光の塊を表わすかのように絵具を重ねて盛り上げ描かれ、そこから放射状に色の点描を置くことによって、光のひろがりを表現しています。光を受けた前景の樹木は影となって、黒く塗られています。そのコントラストが、溢れんばかりの太陽の光のまぶしさを強調しています。同じ「太陽」というタイトルで高島と同じように絵具を盛り上げて塊とすることで陽光のまぶしさ、光の強さを表現した画家を思い出しました。それは、ムンクです。あの「叫び」のムンクです。ムンクは高島のように写実の画家ではなかったので、高島よりさらに光の塊を強調しました。しかし、ムンクが描こうとした太陽は、ただの天体ではなく、生命とエネルギーの源泉であり、画面を埋め尽くす太陽の放射線は、強烈な生命力の象徴として、自然界の一部としての人間の存在を示唆している。そこで、使用されている色彩には、暖色と寒色が混在しており、太陽の強烈な熱を表現するとともに、宇宙との神秘的なつながりを暗示していると言えます。太陽から放出される光線が四方八方に伸び、それによって形成される風景は、太陽のエネルギーによって構築されているかのような印象を与えます。まTakashima2025sun2 た、山並み、水面、空の色彩が太陽の周囲で変化している様子は、太陽が自然界に与える影響を視覚的に表現しています。つまり、ムンクの描いた太陽は創造、希望、生命の象徴なのです。フリードリヒの比較のところでも述べましたが、高島には超越的なものをシンボライズするという志向は見られず、ムンクと違って、光を描いた。この後、高島は見えないものを描こうとしたということが言われるのですが、高島にとって見えないものとは、超越的なシンボルではなくて、闇とか光といったものだろうと思います。

 

2025年8月23日 (土)

没後50年 高島野十郎展(1)

2025年8月13日(水)千葉県立美術館
Takashima2025pos  連日続いた猛暑が一息ついたと思ったら、三連休は扇状降水帯の発生で大雨。三連休が終わった今日は、天気も回復したので出かけることにした。JR中央線から千葉方面には何通りかある。中央線で東京駅まで行って、京葉線に乗り換えが一番早く着くのだが、乗り換えの歩く距離が長いのと、東京ディズニーランドに行く人が乗るので混雑しそうと考えて、多少時間はかかるが、御茶ノ水で総武線の各駅停車に乗り換えて千葉駅へ。そこからモノレールで千葉みなとへ。このモノレールが立川や羽田空港のモノレールとちがって懸垂式という、レールの上を走るのではなく、レールからぶら下がる方式で、珍しい。ビルの間を縫うように走るのが、とても面白かった。モノレールの駅を降りて、JRの改札の方に向かって駅を出る。
Takashima2025train  千葉県立美術館は千葉みなとの駅から港の方に歩いて10分ほど。駅前に地図があって、そのとおりに大通りをいけばいい。道は分かりやすい。ただ、入口が分かりにくい。地図には場所と道順は書かれているが、入口はちゃんと書かれていない。駐車場の案内と歩行者用入口の案内の矢印を見つけることができるので、それに従う。駐車場と歩行者用は方向が違うが、結局、どっちに行っても入場できる。駐車場の方が正面入り口のようだ。美術館の建物は広い、そして展示室の天井が高いので、都心の美術館に比べてとても広い、開放的な雰囲気。多少の来館者がいても、展示のコセコセしていないので、個々の展示作品の間が広く取られているので、気にならない。
 ただ、昼過ぎに現地について、さっそく展示を見始め、展示点数も多く、会場も広かったせいもあるが、何よりも、展示作品を見ていて時間を忘れてしまい、昼食をとる機会を失い、腹がへったが、レストランが閉店してしまった。周囲に飲食店を見つけられず、結局、駅まで行ってようやく、おそい昼食をとることができた。
Takashima2025musium  また、展示作品を見ながら、感想や気づいたことを手帳にメモしていたら、係員が親切に声をかけてくれて、鉛筆とA4サイズの画板を貸してくれるという。こちらから何も言わないのに、気がついて声をかけてくれたのは、うれしい。
 主催者あいさつを次の通り引用します。“髙島野十郎(1890~1975)は、福岡県出身で、福岡や東京、千葉にアトリエを構えて活動した洋画家です。生前には、ほとんど知られることはありませんでしたが、没後になって評価が高まり、昭和61(1986)年に福岡県立美術館で初の回顧展が開催されて以降、各地で展覧会が開催され、近年では全国的にもよく知られる存在となりました。
 旧制第八高等学校(現・名古屋大学)を経て東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しながら、周囲の期待に反して画家の道を選びます。独学で絵を学び、特定の美術団体に属さずに、流行や時代の趨勢におもねることなく、自らの理想と信念にひたすら忠実であろうとしたストイックな生き方は、出口の見えない混沌の時代を生きる私たちにも魅力的に映るのではないでしょうか。
 没後50年の節目を機に開催する本展は、これまでに開催されてきた髙島野十郎展を超える最大規模の回顧展です。代表作はもちろんのこと、 彼の芸術が形成されたルーツを遡り、生涯にわたり自身のよりどころとしてきた仏教的思想を読み解きつつ、青年期や滞欧期の作品など、従来の展覧会では大きく取り上げられることがなかった部分にも焦点を当てます。
 また、福岡県立美術館所属の野十郎や関係者による書簡や日記、メモ等の資料をもとに、彼がひとりの人間としてどのように生き、 周囲とどのような関係を築き、画家としての歩みを進めたかという部分にも注目し、野十郎の人間像にも改めて迫ります。さらには、その芸術観の背景にある美術界や時代の動きを探ることで、美術史のなかに野十郎の画業を位置付けることをめざします。
 本展が、野十郎作品の魅力をより広く伝えるとともに、「孤高の画家」と呼ばれてきた従来の野十郎像を見つめ直す機会となりましたら幸いです。”
 高島野十郎については、2016年に目黒区美術館の「没後40年 高島野十郎展」を見て、その作品に魅かれた思い出があります。今回、また没後50年で回顧展が開催されるということで、作品に再会できることを楽しみにしていた。10年前の目黒区美術館と展示の区分は同じようです。個々の作品の配置は少し違いますが、10年前と、私の見方が変わっているかどうかを確かめながら、展示を見ていくことができました。
 それでは、具板的に見ていきましょう。

 

2025年8月22日 (金)

伊藤貴雄「哲学するベートーヴェン─カント宇宙論から《第九》へ」(2)

 ベートーヴェンが生まれ、若い日々を過ごした当時のボンは啓蒙的な領主のもとで自由に学べる環境が作られていた。彼はボン大学の講義の聴講、その人々がドイツにおける啓蒙思想やカント哲学の紹介者だったことも幸いして、ベートーヴェンはシラーやカントの思想と出会うことができ、次第に傾倒していった。そのプロセスで、シラーの「歓喜に寄せて」との出会いがある。
 そして、もともとベートーヴェンにはカントのとくに倫理思想と共通するものがあった指摘する。それがハイリゲンシュタットの遺書に表われているという。カントの「人倫の形而上学上の基礎づけ」の義務についての記述の中で、幸せに溢れた人が生きるのは当然で、それほど道徳的に褒められることではない。しかし、生きる希望を失って死を望む人ほどの人が、それでもあえて生きようとするのは非常に勇気を必要とすることであり、道徳的に価値がある。この世に苦しみのない人間などいない、もっと強い人間に生まれたかったと思う人もいるだろう。しかし弱い人間が、それでもなお強く生きようとするところに意味があるのであって、その姿に触れた他の人々にも勇気を与えることになる。といっているところがある。これは、ハイリゲンシュタットの遺書の姿勢に重なる。このとき、ベートーヴェンはカントの著作を読んではいない。そして、この姿勢は、シラーの「歓喜に寄せて」に重ねることもできる。
 このような姿勢を作品な結実させたのが、オペラ「フィデリオ」である。それは苦悩を突き抜けて歓喜へという理念的形式を確立し、この形式を天動説から地動説への転換をモチーフとしてキーワードの両義性や視点の相対性・複数性といった作品の構造的形式に結実させ、そしてシラーの「歓喜に寄す」の表現を随所にちりばめた台詞によって、シラーの詩のアレンジの仕方を示した。このうち、天動説から地動説への転換は、いわばクライマックスのどんでん返しで、地下牢に囚われた主人公たちが救われ、敵方は断罪されることで、地下の闇から光明の地上へという視覚的転換と、劇の状況としては中世の封建から啓蒙の時代への転換を象徴している。それが歌詞のなかで天動説から地動説として歌われている。このクライマックスにおいて、主人公は男装してたことが、地下牢に囚われていた夫の前で明らかになり、ここで真実が明らかにされ、登場人物たちは自分の視点でしか見ていなかったことが明らかにされる。それゆえ、結末は通り一遍のめでたしめでたしに終わらない。
1810年頃のベートーヴェンの読書記録に、コリン、ゲーテ、シラー、ヘルダー等があり、そこでベートーヴェンが注目したのは、一貫して「苦悩」と「歓喜」との対比であった。あるいは「苦悩」と「歓喜」が不可分であるという考えであった。ここで彼が言う「歓喜」とは、単に「苦悩」から逃れるという消極的意味ではなく、「歓喜」は「苦悩」を通して鍛え上げられるもの、そして積極的に勝ち取られるものである。「苦悩」はむしろ「歓喜」を得るための条件ということになる。従って、彼が考える「歓喜」とは、最初から人間に与えられたものではなく、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」の「突き抜けて」とは、「そこを通じて」という意味なので、「苦悩」を通じなければ、「歓喜」に至ることはできない。「苦悩」の只中にあって、あえて「歓喜」を求め、手にすること、それこそが「突き抜ける」ということの意味合いとなっている。
第九交響曲は、ベートーヴェンがそれまでに獲得した作曲技法のみならず、精神的・思想的世界の総決算とも言える作品である。音楽と詩が一体となり、聴衆に向けた強力なメッセージを形作っている。ベートーヴェンはカントの「天界の一般自然史と理論」を熟読した。同書によれば、宇宙は引力と斥力との緊張関係によって形成される。ベートーヴェンはこの力学を、シラー戯曲の読解にも応用した。これに類する手法を第九交響曲に探すと、たとえば最初の三楽章はすでに歓喜の主題を織り込んで展開している。第四楽章では「われわれの絶望を思い出させる」不協和音から「より心地よい」ものを目指す音の運動が生じる。これらは、螺旋状に無限成長する宇宙の運動を象徴するものと言える。また、シラーの詩は解体され、言葉同士の親和性から新たな秩序が作られる。これも物質の相互作用から銀河が形成される様子に対応する。多様な声が一体となるプロセスと、円環的な信仰を通じて、より深い歓喜を追求する姿勢が示されている。また、ベートーヴェンは、カントの「実践理性批判」のエッセンスも知っていた。カントは「星輝く天空」と「道徳法則」を並置し、いずれの無限性にアクセスするための契機として捉えた。夜空に広がる星々は無限の時空間を教え、それを見る人間に畏敬の念を抱かせる。道徳法則は理性が示す普遍的な規範を教え、人間にみずからの有限性を超えた崇高なものを教える。第九交響曲の合唱導入に際し、「より歓喜に満ちた」という比較級が用いてあるのは、こうした無限性へ向こう歓喜を象徴したものと言える。この曲はカントの道徳法則とシラーの星空の彼方という二概念を象徴的に結びつけ、「歓喜」の実相を追究したものと見てよい。ここで、「歓喜」は単なる感情の表現を超え、全人類が共有する崇高なるものとして描かれている。
 ベートーヴェンはシラーの原詩を、「苦悩を通して歓喜へ」という劇的なストーリーに再構成した。それは苦悩の消去ではなく、苦悩と歓喜との不可分性を描くものである。彼自身、何度も死を考えた。神を呪いさえもした。言書を書くほどの苦悩のなか、それでも芸術を生み続けることが、神から課せられたみずからの使命でもあると思い至った。最も深い苦悩を経験した者が、最も深い歓喜を知る。この経験は第九交響曲の根柢に間違いなく横たわっている。この深い歓喜を彼は全人類とも共有したいと願った。

2025年8月20日 (水)

伊藤貴雄「哲学するベートーヴェン─カント宇宙論から《第九》へ」(1)

11113_20250820235301  ベートーヴェンの音楽の影響力の大きさの理由として挙げられるのは、ひとつに彼自身のドラマチックな生涯があげられる。なかでも「ハイリゲンシュタットの遺書」のインパクト。じわじわと耳が聞こえなくなっていく恐怖の中で、なぜ音楽家の自分がこのように目に遭うのかと神を呪い、何度も死を考えたにもかかわらず、運命と闘う。そのような彼の生涯と重ね合せて彼の音楽に接する。これは、音楽は音だけで楽しむ聴き方に対して、音楽は文学とも哲学とも異なるのに、ベートーヴェン以降、音楽の背景に作曲家の人生を投影するという聴き方が生まれた。その一方、こういう聴き方に対して、音楽は音だけで楽しむというのが純粋であるとして意識化される。
 とはいえ、ベートーヴェンの音楽を彼の人生と無関係なものとして無視することもできまい、として本書では、ベートーヴェンが生前に接した言葉に注目して、それが彼の作った声楽曲や第九交響曲に表われているかを見ていく。例えば、シラーの「歓喜に寄せ」が第九交響曲の合唱で、どのように作り替えられたかを丁寧に追いかけてゆく。そこにシラーやカントの思想の影響があるという。とはいえ、第九交響曲も含めるとしても声楽曲は、ベートーヴェンの音楽の中で主要なものではなく、第九交響曲の合唱についても歌詞の言葉をいちいち聴いているだろうか、むしろ合唱と管弦楽のサウンド効果で荘厳に聴くのであって、そのサウンドには思想とかは関係しているのだろうか。ひいては、ベートーヴェンの音楽の影響力と関係あるのか、そこのところがはっきりしない。

 

2025年8月19日 (火)

本多 猪四郎監督「ゴジラ」

11114_20250819234401  昭和29年の「ゴジラ」第1作。撮影が玉井正夫で美術が中古智だったのを初めて知った。この二人は、もっとも充実していた時期の成瀬巳喜男を支えた人たちだ。「山の音」の鎌倉の何度見ても間取りの分からない迷路みたいな家、それは登場人物たちが心の底では何を考えているか分からない不気味さを想像させる。それは中古智の仕事だったし、成瀬の映画で多用される逆光や薄暗い撮影をさりげなくやっていたのが玉井。例えば「歌行燈」で薄暮の下で花柳章太郎と山田五十鈴が能の舞の稽古をする様子を薄暗い中で二人の舞う影がくっきり浮かび上がる幻想的な光景。そんな人たちが関わっていたとは。よく見れば、白黒の画面で、ゴジラが登場するのはほとんど夜間で、薄暗闇で動く漆黒の何か、あるいは大火災となった銀座で、その炎に浮かびあがるゴジラの姿というのは、現代のゴジラにはない恐ろしい姿だった。おそらく、戦火から10年経っていない当時、夜の闇に大きな炎が燃え盛る東京の光景は空襲に焼かれた体験を再現させるのであり、焼け出された人々の惨状のリアルさは最近のゴジラ映画にないものだった。それだけ、特撮こそ稚拙だが、リアルな恐怖として当時の観客に迫るものがあったのではないか。私は戦争は体験していないけどね。ゴジラって、怪獣映画ではあるけれど、闇の映画だったのね。

2025年8月17日 (日)

難波田龍起展(6)~6.晩年の「爆発」へ

 これまでのコーナーとは違って、ここで作風の大きな変化があったというわけではありません。1980年代に完成の域に達したあとも、1997年に亡くなるまで制作を続けた、ということでその作品が展示されている。
Nambatatred  「コンポジション赤」という1988年の作品です。「原初的風景A」で面に埋没していた線が戻ってきました。この作品では、多数の明確な線が存在しています。ただ、下地の赤が強い色で、しかもその赤が濃いめなので、黒い線は下地の赤に埋もれそうです。そして、この線は以前の作品のような面をつくったり、下地の上で自由に動き回るようなことはしていません。それは、「原初的風景A」で色彩の陰影でニョロニョロの群像を表わしていたのを、線で置き換えたように見えます。下地は赤のモノトーンになり、「原初的風景A」に比べて、禁欲的な印象があります。これを、線を減らして、全体をシンプルにしたら晩年のパウル・クレーになってしまうかもしれません。
Nambatatnon  「無窮A」と「無窮B」は並んで展示されていたので、ワンセットとして見ました。「コンポジション赤」で戻ってきた線は、この作品では、再び下地に溶け込んでしまいました。「図」と「地」の一体化と説明されていましたが、下地の青の濃淡によって、何かの形象らしきものが作品を見る者が認識できるものとなっています。“宇宙か、大地か、あるいは都市か、曖昧ながらも確実にそこにあるなにかの形象が、極めて明瞭に立ち現われてくる。「自然にこのような形象が現われたということはない。事実私の手の動作で描いたのである。…自分が納得できるまで不可解なものを極めていかなければならない。そうした過程を経て心象的な抽象作品は出来上がるのではないかと思う。…すべてわかってしまったら、抽象絵画を描く興味はなくなるものだ。正直なところわからないから描くのである。/手をうごかししてから描くことによって、頭脳は満足し次の指示を与えてくれる。そして手は活発にうごくのである。」(図録P.117)”つまり、難波田自身が意図的にそういうものを描こうとしたというのではなく、描いているうちに自然にこのような形象が現われたというものなのだろうということです。そこには、あらかじめ持っている意図やイメージを必ずしも優先させず、むしろ偶然現われるマチエールやイメージを大事にしながら制作しようとする画家の姿があります。個々に至って、難波田にとっての、これを描こうと言うイメージと描いているマチエールは一体のものとして、どちらかが目的でもうひとつが手段というのではなく、両方が一体となって「生成」されるものとなったといえるでしょう。
Nambatatlife  「生の記録3」と「生の記録4」は両方とも大作ですが、並んでセットとして展示されていたので、そういうものとして見ました。それぞれ、青と黄色のモノトーンで、それぞれの色が深い色合いで画面に吸いこまれそうな魅力があります。“「生の記録」諸作では、色彩は黄褐色、青などの単色となり、線は単色の明暗、諧調により表現され空間と一体化している。線はもはや画家が「構成」するための所与ではない。もはや画家が引こうとして引いた線とも見えない。それは開闢の混沌、劫初の闇のなかから、自ら生成しつつあるかのような線なのだ。画家は「生の記録」諸作に取り組んだ時期に、「近頃の制作の発想は、取りも直さず「生命の創造」につながるのである。言い換えれば、私は生命のながれを内面的に掴んで、そのイメージの定着を画面に求めている。」と書き、また「自分の生きてきた長い道程」を描こうとしたのが始まりとも述べている。しかし、その結果生まれたイメージは、もはや人間の存在すら超えていた、無機物と有機物との区別を超えた、ものの生成、ものの始まりに関わっているように思われる。それはもっとも深い意味での、「生命の創造」といえるのではないか。(図録P.104)”と説明されています。この二つの作品では、「無窮AB」などの作品で画面が青のモノトーンとなり、その濃淡で作られるようになり、線描が下地に溶け込んで一体化していたのを、さらに進めて、画面全体がひとつの色調として現われるものとなりました。その画面をよく見ると、それぞれ三枚一組の一枚ごとに下方から上方へ枝分かれしながら上昇する線らしきものを見分けることができると思います。それはもはや線ともいいがたい微妙なトーンの連なりであり、流れでもあるわけです。そこには、あらやるものを包摂して流れている生命の川のように、様々なイメージがこの「ながれ」の中に溶融されていく。そして、この「ながれ」に沿って、画面には、静かに振動し、呼吸しているかのような気配が漂うのです。
 このあと、大きな展示室から廊下に移って、スケッチやリトグラフあるいは個展のパンフレットなどの資料的なものが並んでいましたが、途中から疲れてしまいました。それは、難波田の作品が疲れを気づかせないほど魅力的だったということだと思います。
 “絵画という視覚的な形式を通じて難波田が追い求めてきたものは、終始、眼には見えないものであった。物事の成り立ち、或いは物事を成り立たせている根源的な力、自然の生成力─これを難波田は「生」と呼び「生命のながれ」と呼ぶ、寺田小太郎が語ったように、難波田の探求は内面の混沌を見つめることによって、現象を超えた本質へ向かおうとするものであったといえよう。ゆえに、外面的な描写に因らず、内面的な方法に因らなければならなかったのである。「私は生命のながれを内面的に掴んで、そのイメージの定着画面に求めているのだ」と難波田はいう。従って、難波田の方法は視覚的なものだけにとらわれてはいなかった。ものの根源を凝視めるその眼差しはトーンやマチエールという触知的な実在感の探求へ向かう。一方、晩年の作品に顕著であるように自然の根源にある生成力自体が、いわば時間的な過程として制作のなかに取り込まれている。…難波田の「抽象」は、本質的なもの、普遍的なものの表現なのである。(小林俊介 前掲書 P.234)”という難波田の捉え方もありますが、このような捉え方は展覧会では明示的には打ち出されてはいませんが、図録で引用されている難波田自身の言葉や文章からは似たような内容がうかがえるので、それほど遠いものではないと思います。それはそれとして、たしかに難波田の作品は、視覚的な写実とは違う方向性を持っていると思います。それは、視覚的な「何か」を描くというものではない。とはいえ、難波田が最終的に抽象表現主義やアンフォルメルに行かなかったのは、「何か」を描くということを放棄するまではいかなかったからだと思います。難波田は視覚的な「何か」を描くことはしなくなりましたが、視覚的でない「何か」を描こうとした。ただし、それは引用の文章のように言葉による概念、例えば「内面」とか「生」という概念ではなく、おそらく、難波田自身も、その「何か」がはっきりとは分からなかったのではないか。それで、その「何か」をはっきりさせる作業とどのように描くかを試行錯誤するのが一体化していた。つまり、どのように描くかが固まれば、描く「何か」が炙り出される。だから、難波田の試行錯誤を追いかけることは視野のひろがり、新しい視野が開かれる、ということにつながる。そういう難波田の作品を追いかける楽しさを、この展示で満喫しました。

 

2025年8月16日 (土)

難波田龍起展(5)~4.形象とポエジー:独自の「抽象」へ

 1970年代はじめ新たな転機が訪れる。“ドリッピング技法は影をひそめ、かわって線と色彩を丹念に紡ぎ出すようにしてひとつの全体へと統合してゆく独自の画風が確立する。これはある意味でキュビスムで想定されるグリッド構造への回帰と言えるが、ドリッピング以前の1950年代の直線の構成がダイナミズムを優先して斜線主体であったの対して、スタティックな水平垂直の構造が明瞭に出てきたことは、結果として画面の統合性を高めることになっている。そうした安定した画面構造のもとで、ゆっくりと成長するような有機的な動きや、時に人影や人物群像、建物などを思わせる形象的なイメージが支配的となる。ここに龍起が当初より心に抱いてやまなかったポエジーと、骨格のある造形への意志の大いなる一致を見ることができる。(会場の展示品リストの説明より)”
Nambatatdeath  「昇天」は1976年の作品です。それまで、ドリッピングで線が蠢いていたのが、ここに至ってほのかに形をとり始めようとする。そんな丹念に紡ぎ出される青と白の空間のひろがりと絡み合う線描をたどると、画面中央に若い男女が向き合うような形象が見え、画面上辺部には若い男性の頭部をおもわせる形象が見えます。“この人影のような形象は、造形的には、「地」の部分の濃色と明色との境目から生まれている。線とトーン、マチエールが一体化したなかから、イメージが生まれてくるのである。(小林俊介 前掲書 P.211)”“この時期の線描が生み出す編み目状の線のつながりは、街や人影、或いは群像など様々なものに見えるが、それは、あらかじめそういったものを描こうとして出来たのではない。むしろ描画するうちに、「ひとりでに」出現したものなのである。(小林俊介 前掲書 P.210)”これらの説明は、このころの難波田の作品が、形のないようで、形があるように見える、でも形ではないという、具象とも抽象とも言える言えない、あいまいで微妙な、境界線をうろちょろしているような画面を指していると思います。
 1978年の「曙」も同じ傾向の作品です。線描の中から、見方によって様々な人の形象が見えてきます。これは、見る人が、様々な形象を見つけて、イメージすることで画面が作られていく、という面があると思います。それだけに、ずっと見ていても、飽きることがない。しかも、これまで難波田の作品では目立たなかった赤がアクセントとなって、画面の彩が豊かになっています。
 「群像A」は1980年の作品です。人の形象があるようなないようなものが、ここでは群像のように折り重なるようになっているため、何かが息づいている、あるいは蠢いているような気配が生まれています。ここでは、今までの難波田には見られなかった赤を基調とした色調が、その気配を強めていると思います。“これらに見られるイメージは「織りなされる」という言葉が似つかわしい。すなわち、そこには時間が孕まれているのである。無論、すべての絵画は、その内容においても描画の過程においても、何らかの時間性を含んでいるであろう。しかし、透視図的な再現描写が、いわば写真のシャッターを切るように一瞬の画像の定着をめざしているのに対して、難波田の作品の描画過程が示すものは大きく異なる。「人影」が積み重なって群像をなしていくような、いわば部分が重なって全体と化すような難波田の作品では、描画の過程が孕む時間そのものが全体の構造を成していく。難波田の作品がしばしば詩や音楽にたとえられるのもこのためであろう。韻律に基づく時間計術である詩や音楽は、まさにそうした時間性が全体の構造に転化し、作品を形作る。難波田の作品も、時間性を孕んだ描画の過程、すなわちリズムが全体の構造を成していく点、「詩的」であり、「音楽的」であるといってよいかもしれない。(小林俊介 前掲書 P.211~212)”
Nambatatbegin  「原初的風景A」という1987年の作品です。“この作品では、筆でそれとして描かれる線は姿を消し、線の要素は面(フォルム)の縁に吸収されている。線と色彩、線と面との対立は解消され、より統一的な画面構造が現出している。もちろん、線が面に吸収された分、画面の混乱をさけるために個々のフォルムの分節に意が注がれるあまり、結果はやや説明的となり、面と面、フォルムとフォルムの相互浸透、ふるいは図と地の反転といった絵画的な楽しさは後景に退いているかもしれない。しかし、鍾乳洞の床に筍状に形成される「石筍」、あるいは堆積物が風雨や浸食で削り取られたあとに柱状に残る「土柱」を思わせる。なにか鉱物的なイメージは極めて魅力的だ。よく見ると人為的な構築物も混ざっているかもしれない。(図録P.116)”この説明では筍状といっていましたが、私には、ムーミンのニョロニョロに見えてしまって、筍ではなくニョロニョロは動くので、画面上のこれも動くように思えて、画面全体が揺れているように見えてしまうのでした。それと、いままでの作品では、その形態が多数あるマスという感じでしたがねこの作品では、個々が個々であるように、それぞれの形態が思い思いに別々に動きそうで、統一感とともに、個々が多様であるいう分散的な方向性が感じられました。
Nambatatmay  「五月の陰影」という1974年の作品です。パステルカラーの色遣いがとても印象的で、それだけで魅力的な作品です。難波田の作品については、とうしても理屈をこねて言葉で語ってしまいがちなところがありますが、実は、この作品のように、感覚的に、ただただきれいで、魅了されてしまう面もあるのです。そして、このあたりの作品になると1950年代の「直線の構成」の太い明確な線や1960年代のドリッピングによるうねうねと動き回る線、というように線が強い存在感をもって目立っていたのが、薄ぼんやりとして消えてしまいそう、あるいは面に埋没してしまいそうになっています。

 

2025年8月15日 (金)

難波田龍起展(4)~3.アンフォルメルとの出会い

 最初にも言いましたが、展示室には説明の類は一切なく、展示区画も明確でなかったので、展示リストを参照しながら会場を回っていると、どこで、このコーナーに替わっていたのか分かりませんでした。実際、「2.戦後の新しい一歩:抽象への接近」と「3.アンフォルメルとの出会い」の違いはよく分かりませんでした。
Fautriervide  アンフォルメルは、フランス語で「形のない」という意味で、第2次世界大戦後のフランスを中心に非定型の芸術として展開された抽象絵画の運動です。戦争による既存の社会や文化の破壊のなかで育った青年層には、例えばサルトルの実存主義運動のような無秩序とか不条理をそういうものとしてありのままに受け入れる者たちがいました。アンフォルメルはそういう風潮のなかで、あらかじめ計算されたような幾何学的抽象に飽き足らず、「形」にとらわれない表現や、怒りや葛藤といった自身の内面をそのままキャンバスにぶちまける表現する。例えば、ジャン・フォートリエは伝統的な油彩画法をかなぐり捨てて、紙に糊を塗りキャンバスに貼り付け、さらに石膏や石灰などをふりかけ、分厚い地を構築し、そのマチエールは生の声や苦悩と等価とされました。
Pollockindean  一方、同じ頃のアメリカでニューヨークを中心に「何」か具体的なモチーフを描くのではなく、感情や精神状態を色や形で表現することを重視して描く画家たちが現われました。その主な特徴として、具体的な対象や形を描かず、感情や内面を表現し、しばしば、大きなキャンバスに描かれ、画面全体が均質で、広がりを持つような印象を与える。そして、絵を描く行為そのものが重視され、キャンバスは「画家の描画行為のフィールド」とみなされる。例えば、ジャクソン・ポロックは、キャンバスを地面に置き、その上に自身が乗って、そこに即興的に絵具や塗料をまき散らしたり、注いだり、垂らしたりして絵の具が盛り上がるほど何度も重ねていきます。それがアクション・ペインティングです。
 これらは1950年代後半に欧米の新しい思潮として日本に紹介され、難波田も刺激を受けたということです。
Nambatatbirth  「発生」は1959年の作品ですが、展示区画は前のコーナーで「昇天する詩魂B」などと同じ区画に展示されていました。並んで展示されていましたが、それに何か違うという感じはありませんでした。しかし、細かく見ていくと、“やや神経質な曲線が執拗に反復され、周縁部をのぞく画面全体を覆っており、彫り込むような線には強い圧が感じられ、息苦しいほどである。”“片暈かしの色彩法がやや図式的、説明的な印象を与えている。(図録P.115)”と説明されています。そして、前の「2.戦後の新しい一歩:抽象への接近」のコーナーの展示作品である「展開B」との連続性も見られます。この作品は「昇天する詩魂B」などと同じように直線を主とする点では共通していますが、画面上方の大きな円盤や曲線と、それが生み出す運動感は「発生」に通じるところがあります。この作品について難波田は“抽象運動というものは、画面上ではオートマチックな操作をやり出すのである。従って抑圧されている潜在意識の自由な上昇は食い止めようとは思わない。無数の斜線を引いてゆくそのリズミカルな運動感に身を任せてしまう”と述べているということです。だから、あえて言えば、ここで、難波田の抽象画が運動感をより強くなってくる。
 「円と角」という1959年の作品です。「発生」とよく似ている作品ですが。「昇天する詩魂B」や「天体の運行」そして「発生」ではハッキリとした輪郭で明確に引かれていた黒い線が、この作品ではぼんやりしています。そのため、「発生」では線により明確につくられていた形が、この作品では崩れてきています。つまり、「直線の構成」ではなくなり始めている。とはいえ、そこに崩壊感はありません。ただ、かっちり構成されているという感じはなくなり、緩さが出てきている。それは、画面全体が切り子面で構成されているように見えて、それぞれの面では輪郭線に近い部分の色を一番濃くして徐々に薄くしていくように着色され、「面」を滑らかに移行させるようになっています。
Nambatatbluepoem  「青の詩」は1962年の作品。明確な直線は消失し、やみくもに線が引かれ、線の交錯による面の分割も細かくなり、同時に筆触が強調されて、動きが加速され、画面全体が振動し始めるのです。線が細くなり、輪郭の明確さがなくなり、切り子面の形態が明確でなくなるとともに、厚塗りの画面によってパセティックな情感が発生している。“「明るい灰色」のマチエールは筆触で沸き立ち、知的な抑制よりも、むしろ「生」の原始的な情熱が表面に押し出される。いわば「生」のエネルギーが全面に押し出された結果、線的な構成という「近代」のイメージは払拭される。筆触が強調され、物質感を増した「地」のマチエールそのものが前提となる。それは、難波田のなかの生命的なもの、すなわち古代的なものの表出である。(小林俊介 前掲書 P.202)”そして、“ここでは、線による「図」が画面のすみずみまで拡がると同時に、「図」が「地」に対して開かれていく、つまり、地と図の区別がなくなり、画面上で一体化していくのである。これは、造形的には片ぼかしの手法によってなされていく、線で囲まれた形態が明るい灰色の「地」に溶け込み、一体化していくのである。こうした「地」と「図」の一体化、すなわち画面の全体化は、進んできている。曲線の交錯によって画面全体が運動感を帯びるとともに、画面が一体感を増してきているのである。これは抽象表現主義の影響を表わすものといってよいであろう。(小林俊介 前掲書 P.203)”これは、最初のコーナーでの「小石川植物園にて」のところで述べましたが、難波田の作品は何かの対象を描くというのではなく、画面に色を置いたり線を引いたりした結果何かが画面に描かれているのが見える、という構造になっている。それが、この作品にも見られると思います。それが、アンフォルメルや抽象表現主義に近いところがあると思います。
Nambatatbluesun  「青い陽」は1961年の作品です。この作品は難波田がエナメル塗料によるドリッピングをはじめて行った作品のひとつだということです。ドリッピングとは液体絵具をキャンバスや他の表面に垂らしたり滴らせたりすることで生まれる模様やデザインを楽しむ技法です。ドリッピングというとジャクソン・ポロックが駆使したことで有名ですが、“難波田のドリッピングによる作品は、ポロックのそれによる作品とは画面の構成自体が異なっている。画面全体がドリッピングで埋め尽くされるポロック作品とは違って、難波田のドリッピングは、背景の「地」に対していわば「図」をなすかのように、まとまって施されている。ポロックのように地と線とが分明つかぬほどに輻輳して、解体した空間の湧き上がるアラベスクを織ることは決してないのである。難波田のドリッピングが、地に対する「図」、すなわちひとつのイメージをなすように働くことは、このドリッピングの手法が採用された動機にも関係していよう。…難波田のドリッピングは描画の意識のコントロールからすこしは自由にさせた線をのせるという、造形主義的にして意図的なところが多分にある。つまり、オートマチスムというよりは造形的な配置としての性格が強いのである。このことは「青い陽」などにみられるように、ドリッピングが画面の左右に密集的に、画面中央で線対称をなすように配されていることが多いことからも分かる。(小林俊介 前掲書P.204~205)”この作品では、黒い細い線がうねうねと曲がったり、折れたり、時には線ではなく黒い塊になっているのがドリッピングによって描かれた部分です。上の引用を私なりに噛み砕くと、幾何学的な抽象は、あらかじめ計算されたデザインつまり設計を行い、その通りに正確に描くわけです。それは完成された姿ですが、動感はありません。生き生きとした感じはなく、冷たい感じなのです。動くということは形が歪むことでもあるわけです。そこで、画面が生き生きとしたものであるためには、正確な設計の完成された姿ではない、つまり完成をぶっ壊すことになる。そこで用いられたのが、あらかじめ設計されたのではなく、その場で即興的に描くということでした。それが、アンフォルメルや抽象表現主義の手法です。しかし、全部をその場の即興で描いたとしたら、それは、これまで描いてきた作品のすべてを否定することになってしまいます。そこで、難波田は画面全体を大雑把Nambatatfight に設計して、ここのところは即興で描くというようにコントロールしようとした。それが、この「青い陽」という作品だというわけです。画面全体がシンメトリー的ですが、厳密というわけではなく、細い線がうねうねしていて動きが感じられます。そこにアクセントのように配された青がとても印象的で、その青が美しい。
 「たたかいの日々」という1963年の作品です。まるでジャクソン・ポロックです。秩序というものがなく、ここから何かをイメージすることはない。しかし、不思議なことに、ポロックの作品に感じられる、猥雑さとか騒々しさが、この作品からは感じられず、反対に静けさを感じます。
Nambatatbluecompo  1963年の「青のコンポジション」という作品です。これは、「たたかいの日々」とは両極端の反対の極のような作品です。「たたかいの日々」が抽象表現主義そのもののような即興的で分散的な作品なら、この「青のコンポジション」は計算された構成の考えられた作品です。この作品は、ドリッピングが使われていません。難波田は、同じ時期に、二つの両極端とも言える作品を制作していた。すなわち、アンフォルメルや抽象表現主義から触発されて、その技法を取り入れたとしても、難波田は、その一方で、それらとは異なる別種の作品も制作していたというわけです。おそらく、そのどちらも難波田という作家の持っているものなのでしょう。それにしても、この作品も、青、深い青が印象的です。
Nambatatcompo_20250815224901  大きな広い部屋に移って正面に大きな作品が並んでいます。「コンポジション」と「ファンタジー青」という二つの作品です。この両作品は、ドリッピング作品の最高傑作といってもいい作品で、全画業を代表する作品と言われることもある、と説明されていました。“色彩・面のシステムとドリッピングによる線のシステムが分離、併存したうえでなお高度に協働して極めて魅力的な絵画空間を生み出している。蜘蛛の糸のように散らされるドリッピングの「黒」は、イメージや絵画平面の二次元性につなぎ止める効果も発揮しつつ、逆説的に色彩の前進や後退、膨張や収縮、コントラストやグラデーションなどの効果を引き立てる役割を担っている。(図録P.116)”ドリッピングによる黒い線は「地」からまったく遊離してしまっているのではなく、むしろ、下地の濃色部分と呼応しながら一体感を保っている。つまり、違和感なく青色調の下地と調和している。このことが、造形的な操作を感じさせない、自然さを生み出している。そして、これらの作品ではドリッピングによる線の動きが抑制されていて、激しさを感じさせない。とはいっても、まったく動きがないというわけではない。むしろ画面が静かに脈打つかのような、いわば「静のなかの動」ともいうべき揺らぎが画面全体にある。この微妙な動きは、下地の深い青のなかに明滅するかのような明色の配置と、その上にドリッピングによる黒い線が浮遊するようにあることによる。また、青い色調の下地は蝋の混入によって半透明になっていて、上層の濃い色との対比で深みのある空間を作り出している。
Nambatatpurple  「紫苑」は1969年の作品。その題名の通り、紫色が印象的で、ドリッピングによる黒い線と下地の紫のグラデーションが、「コンポジション」と「ファンタジー青」の下地の青とドリッピングの黒との関係と同じように、そして、この作品ではサイズが小さくなって、親しみ易くなっています。

 

2025年8月14日 (木)

難波田龍起展(3)~2.戦後の新しい一歩:抽象への接近

 ここで、展示区画が移ります。区画が移ると、展示されている作品がガラッと変わります。展示作品リストで制作年代をみると約10年間の開きがあります。1.と2.との間には10年間のブランクがあることになります。この間に何があったのかといえば戦争です。戦時下で難波田は描けなかったのか、分かりませんが、作品の展示がないので、幻想的な古代を描いていたのが、抽象的な作品に跳躍してしまったように見えてしまう。とれほど唐突に見えます。この間に移行のプロセスがあったはずですが、作品がないので、分かりません。それとも戦争体験が転機となって、難波田自身の大転換があったのでしょうか。“戦争と敗戦を経て、龍起は戦災から復興する都市のビル群、その「直線」にそれまでにない美を発見する。戦後という時代のなかで、龍起はいままさに自らが生きる「現代の現実」に向き合うことを意識し始めていた。龍起はそれまで敬遠してきた抽象への接近を試みるようになり、キュビスムを咀嚼しながら都市を描き、やがて「直線の構成」を経て幾何学的な純粋抽象に到達する。(展示作品リストに書かれていた展示コーナーの説明より)”という説明では、1930年代に“「近代性とは自己分裂の相」であり、「古典性とは自己統一」である。そして近代的自我の自己分裂の耐えがたい不安を克服するため、我々は「古代を自己の内に生かす」ことによって「健康な自己統一を目指して進まなければならない」という”といっていた難波田です。しかも、抽象絵画のようなモダニズムは人間的要素を悉く追放した知性の芸術であり、近代の自己分裂の所産と断じていたのですが、その難波田が抽象画を描くということは自己分裂を自ら招くことになりかねません。
Nambatattown  主観的な想像ですが、戦時中や戦後のそれぞれの統制と荒廃そして混乱という危機的環境、他方で価値観の転換という大混乱という外部的状況で生きのびるために変わらざるを得なかった。それはある意味で甘美な古代の薄暗の神秘に慕っていた自己自身を解放させられた、と言えるのではないか。
 「街」という1951年の作品です。これまでの作品では、近所の自然の風景や古代ギリシャの幻想を描いていたのが、現代の現実である街の風景に転換しています。画面中央にドーム状の物体があるほかは、直線による画面分割で建物がひしめくように描かれているのはキュビスムのようです。戦災で荒廃した東京の地で、都市が建設されていくのに復興の活力、生命力を感じたのかもしれません。この作品を見ていて、方法論としてのキュビスムの理論に従って描いというよ、街の活力を描こうとして、力強い線とか直線の伸びる感じに行き着いた、つまり結果としてキュビスム的な構成になったような感じがします。
Nambatatwood  「森」という1951年の作品です。上記の「街」のように現代の近代的な作品を制作する他方で、それと対照的な、以前の作品に連なるような有機的で、緑色を主調とした樹木を描いた作品も描いていました。まるで、近代性に傾いたことへのバランスをとるようなところがあります。“現実に生きてゆく旺盛な意欲を、我々は取戻したいものです。…私は都会の真中に住んで一勤労者として生活していても、原始的意欲を持ちうる可能性を感ずるのであります。…近代と原始の結婚の可能性を、私は自らのタブロオで実証したいのであります。…自己の生活の身近なものの中から、真実なものが生きると信ずるのです。(図録P.102)”と難波田自身の言葉で説明されています。この二つの傾向の作品は対照的でも、どこか共通した色調をもっていて、この二つの作品では緑色の透明感がとても印象的です。
Nambatatcolor  「色彩によるデッサン」という1951年の作品。前に「小石川植物園にて」で指摘しました、難波田という人は形から捉える人ではなく、結果として形になるという見方をする人、というのが、彼の絵の基本となっているということが、そのまま抽象的な作品になった、と私には見えます。つまり、画面上に色を置いていったところ、植物園の風景になったのが「小石川植物園にて」という作品であり、何の形と言えないものとなったのが、この「色彩によるデッサン」という抽象的な作品と言えるのではないか。はじめから抽象的な画面を設計して抽象画を制作したというのではない。ここにはカンディンスキーやモンドリアンのような計算された冷たさが感じられないのはそのためだろうと思います。画面上の線や塗の揺らぎというか不安定さは感情というか情緒的な内面の揺らぎ表われているように見えるように思います。だから、この作品は抽象画というよりは、表現者である難波田の内面あるいは心の揺らぎを表わしているのではないかと思います。これから見ていく難波田の抽象画は、どこか温かみが感じられるのです。この視点で見ると、先に見た「街」は色ではなく線の交錯によって画面の形がつくられたものと見ることもできると思います。
Nambatatabstruct  「アブストラクトA」という1954年の作品。アブストラクトとは抽象という意味で、そのタイトルの通り抽象画です。この展示で、はじめて現われた抽象画です。直線と四角形で構成され、四角形は黒と赤で塗られているというモンドリアンの「コンポジション」のような幾何学的な抽象画に見えます。でも、この作品は、これまで見てきた「街」や「森」とは傾向が異なり、突飛に見えます。この間隙を埋めるのが、並んで展示されている「私のパレット」という作品です。“龍起は、1953年の夏に生誕の地北海道を訪れ現地の風景や建物などをモチーフに表現の抽象化を進めた。ふる種の風土性をとりこんだ抽象の模索でもあった。それら北海道関連の作品で龍起は、画面を直線で二分する色面分割の構図と、北海道でつかんだという「明るい灰色」を採用した。パレットをモチーフとする本作では、それら北海道関連諸作と同様の色面分割と「明るい灰色」が用いられている。(図録P.113)”と説明されています。想像するに、都会の複雑な風景から北海道のシンプルな風景を見て、視点が変わったのか、「街」の多数の線が交錯するものから単純な画面に志向が変わったのか。それに加えて、この作品では、パレットという平面を描いているわけで、もともと平面なので立体的にみることはできません。そうすると平面を単純化すると、この作品のように抽象画のようになってくNambatatpalet る。このような抽象画の作りかたはイギリスの抽象画家ベン・ニコルソンが参考になっているという説明(小林俊介 前掲書 P.165)もあります。この「私のパレット」をさらに抽象化した、つまり、「私のパレット」の画面からパレットの要素を取り去ったら「アブストラクトA」になる。この作品について、“龍起の全キャリアを通じてもっとも「純粋抽象」に近づいた作品。斜線主体の「直線の構成」から、水平線・垂直線のみのモンドリアン的ないしデ・スティル的な構成へと一挙に飛躍している。…そもそも龍起はモンドリアンを極北とする幾何学的抽象をめぐっては、その思考の徹底性に惹かれつつも、そのいかんともしがたい「非情」さには抵抗を感じていた。(図録P.114)”と説明されています。たしかに、この「アブストラクトA」という作品は幾何学的な印象が強く、黒い線と赤でつくられる図形はたしかに幾何学的ですが、背景の色面分割の色遣いは補色のような対照性はなく、同系列の色分けに近く、緊張感を生じさせるものではない。また、色面を区分する境界も直線で明確にされているわけでもありません。そして、色面の塗りにはムラが残されていて、よく見ると筆の塗り跡もみられます。とくに、「明るい灰色」の大きな色面には汚れのような部分が散在しています。これらにより、幾何学的な抽象性があえて壊されている。それが難波田の限界だったのではないかと思います。1955年の「作品B」も幾何学的な抽象画といえますが、これも塗りにムラがあるし、さらに直線で構成された図形がどこか歪んでいて、緊張感が強くならず、何となく弛んでいるようなリラックスした感じがします。それが、モンドリアンとは一線を画する難波田の個性があると思います。
 難波田の抽象は幾何学的なものから、宇宙的なものへと変わっていきます。 “数年間続けてきた「直線の構成」の試みが大きな成果となって結実した作品。線と面、色彩とフォルム、図と地などあらゆる要素が対立と離合集散を繰り返してひとつの動き、ひとつの空間、一つの時間を生み出している。(図録P.114)”と説明されています。この中の“数年間続けてきた「直線の構成」の試み”は、具体的には次のようなもののようです。“まず、白色絵具による綿密な地塗りの上に、木炭によって形態の手がかりをつかむための細い線がたくさん引かれるのが第一段階である。次に、木炭の線が油彩によって置き換えられ、同時に線と面が交互に強められていく、線で囲まれた形は面をなし、面は「明るい灰色」のマチエールで充填されていくのだから、イメージとマチエールは不即不離の関係にある。この描画過程の中で、木炭による最初の線描は、全てが生かされるわけではなく、あるものは上塗りによって隠れてしまうが、薄い上塗りをかけて、そのまま生かしている部分がある。この透明性を生かしたマチエールと前者の不透明なマチエールが、線描のイメージとからみ合い、せめぎ合いながら、作品を成立させていくのである。…このマチエールを難波田の内部の相反する二つの傾向性、「生」の情熱の解放への欲求と、画面の明晰な秩序付けへの欲求との間の葛Nambatatup 藤の表われである。(小林俊介 前掲書 P.153~154)”これは“混沌とした内面の気体の如き渦巻き形さだかならざるものに、明快な形を与えようとする難波田の内面の葛藤が、自ずと二元論的な形をとったのは確かなようである。実際、この時期の制作について難波田は線と面との烈しいたたかいであると述べている。そして精鋭な精神を線で現すと考えると、面は肉体の欲求にあたるようである。また、地勢と感表われてくるというものである。(小林俊介 前掲書 P.154)”そして、その結果作品の発想は宇宙的なものになっていく、というのです。
「昇天する詩魂B」という1956年の作品。この作品は“高村光太郎の死により、光太郎への鎮魂としての意味をこめて完成されたのである。この作品では、まさに生と死の観念がモチーフであった。難波田は光太郎の死に直面して烈しい怒りのこみ上げてくるのをどうしようもなかったという。それは、死に対する抵抗のごときものであった。難波田にとって、「死に対する抵抗」、すなわち「生」への希求が、造形のテーマとしてはっきり自覚されたのである。…こうした「生」への希求は、画面全体に亀裂が伸びていくかのような、多くの直線と色面による緊張感によって表わされている。(小林俊介 前掲書 P.175)”この作品は、抽象的なんですが、上昇する動きが感じられるダイナミックさ、別の言葉でいえば生命力がある。これは、モンドリアンの幾何学的抽象の静的な画面には絶対にないものです。
 Nambatatstar 「天体の運行」という1956年の作品です。まさに宇宙です。黒い線が直線だったり曲線だったりが、縦横に引かれ、その交錯が至るところに起こり、それが画面にリズム感を生み、円形が動いているように見えてきます。この円形が天体になぞらえることができるというわけでしょうか。しかし、その動きは、天体の運行というより、ピンボール・ゲームの球の動きに見えてしまいます。

 

2025年8月13日 (水)

難波田龍起展(2)~1.初期作品と古代憧憬

 “難波田龍起は大正時代に詩に関心を持つ青年として、高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで絵画に目覚め、やがて画家を志した。制作と生き方の両面にわたって、龍起の自己形成における高村からの感化には極めて大きなものがあった。そして龍起は、「生命の戦慄」を芸術の必須の要件とする高村の思想に励まされ、単なる写実を超え、精神の眼を通して「内的生命」を捉えることを目指していく。また、主にセザンヌに託して色彩の重要性を説いてやまない高村の教えも、龍起の生涯にわたる糧となる。(図録P.102)”
Nambatatqueen  「王女之像」という1928年、本郷絵画研究所に通っていた23歳の時の作品です。上記にあるように、難波田龍起は生来の画家というタイプではなかったようで、むしろ詩人タイプというか言葉で考える人であったようです。だから、「内的生命」などという七面倒くさい理屈を信奉して、それを表現するために描くという観念的なタイプだったと想像できます。絵画研究所、というか絵画塾の教師にとっては生意気に映ったのではないでしょうか。いろいろ調べてみると、難波田は絵画のアカデミックな教育の基礎であるデッサンをいやがって、結局、研究所をやめてしまった、ということです。この作品を見ても、写実的なデッサンに基づいて描いているというより、女性の背景が後光というかオーラのように見えるので、思い込みで描いていたように見えます。おそらく、画集で見て気に入っていたのでしょう、オドィロン・ルドン(例えば、先日パナソニック美術館で見た「ポール・ゴビヤールの肖像」)を真似て、それ風に描いているようです。これだけなら、ただの生意気な餓鬼ですが、難波田龍起がただの餓鬼ではなかったのは、それを一時の迷いとしたのではなく、朴訥に、それを生涯にわたって追求したということではないかと思います。そこまで徹底すれば、頭を下げざるを得ない。
 「小石川植物園にて」という1927年の作品。さきに引用した説明の中の“主にセザンヌに託して色彩の重要性を説いてやまない高村の教えも、龍起の生涯にわたる糧となる”について、高村は「トーン」という言葉で説明していると言います。“トーンとは色調という意味で、光太郎はセザンヌのトーンの美しさに言及しつつ、画面全体のトーンを把握することが重要だと説いた。「トオンが出来上がれば、おのずと形は調って来る」のであり、「先に形をつくって、そこへ色を塗っていくんじゃない」というのが光太郎の考えであった。(小林俊介「難波田龍起「抽象」の生成」P.39)”この説明を実践するように、この「小石川植物園にて」には明確な輪郭線の形跡がありません。つまり、風景を形として把握して、その形をデッサンとして形にして、そこに彩色するというのではなく、樹木はブラウンを筆で一気に線を引き、葉や草は緑の絵の具を点描のように置いていくと、結果として草木の風景が出来上がるという、という画面になっているように見えます。難波田の絵画について「内的生命」とか難しげな言葉で説明されていますが、私には、難波田という人は形から捉える人ではなく、結果として形になるという見方をする人、というのが、彼の絵の基本となっていると思います。これは、私が彼の作品を見た個人的な印象から言っていることで、客観的ではないことは言うまでもありません。
 “龍起は、高村のもとで見たギリシャ彫刻の写真の影響や、高村の勧めで参加した絵画批評会「金曜会」の主催者である川島理一郎からの影響を受け、1930年代の半ば頃より、ギリシャの古代彫刻やレリーフをモチーフとする絵画を集中的に制作するようになった。そこに自己の大きな方向性を見出していく。龍起によれば、「近代性とは自己分裂の相」であり、「古典性とは自己統一」である。そして近代的自我の自己分裂の耐えがたい不安を克服するため、我々は「古代を自己の内に生かす」ことによって「健康な自己統一を目指して進まなければならない」という。だが、実際に訪れることもなく、写真をよすがに想像をたくましくして描かれた古代彫刻は、古典古代の晴朗たるイメージとはならず、あくまでいにしえへの強い憧れ、思慕のイメージとして、龍起独自の濃密なマチエールとともに描き出されている。「健康な自己統一」を謳いながら、「古代」はあくまで近代的な意識の織り目のなかでしか捉えることが出来ないのである。(図録P.102)”難波田にとってのギリシャは、現代批判として現代に対置されたイメージであり、文学なら詩人のキーツやハウプトマンの『ギリシャの春』、あるいは難波田が真似をしたルドンに古代ギリシャの神話世界への憧れを描いた作品があり、そういう傾向に乗じたもののように見えます。
Nambatatpegasas  「ペガサスと戦士」という1940年の作品です。古代ギリシャの美術といえば、均整や調和といった地中海的な明晰さが真っ先にイメージするのですが、この作品がそうであるように、難波田のギリシャを題材にした作品は、そういうイメージからはほど遠く、輪郭はあいまいで、橙色を帯びた茶褐色の色調はカラッとした地中海の青い海というより湿った赤土を思わせるのです。そして、画面の構図は古代ギリシャのレリーフというより、ルドンあるいはギュスターヴ・モローの幻想的なものに似ています。いわば、これは難波田の古代ギリシャ幻想と言えると思います。また、後の抽象的作品で多用されることになる油彩の透明画法が、ここで用いられているそうです。それは油彩の透明性を生かした重層的な技法で、下層から上層に至る複数の絵具層の相乗的効果によって画面の色彩効果が決まる。具体的にいうと、“下層の不透明な塗りと、上層の透明な塗りの組み合わせによって画面上の光学的効果が決定される。この画面上の効果は、ちょうど紙に透明なセロハン紙を被せる行為に喩えることが出来る。たとえば、白い紙に黄色いセロハン紙を被せれば全体として黄色く見えるし、また黄色い紙に青いセロハン紙を被せれば全体として緑がかって見える。(小林前掲書P.77~78)”
Nambatatvenus  「ヴィナスと少年」という1936年の作品です。画面の右半分をヴィナスが占め、画面左のほぼ中央に神殿、その神殿の下にヴィナスを見上げる少年が描かれています。これらの位置関係を表わすような、地と空を区画するような描写はなく、ヴィナスも神殿も少年もそれぞれ宙に浮かんでいるように見えます。これらは、遠近法や三次元的な空間構成や重力などを無視して、自由に配置されているように見えます。先に述べた現代に対するギリシャという難波田の幻想をギリシャという題材を用いて描いたものと思います。これは、デ・キリコが古代の風景を遠近法を逆にして遠近感を混乱させるような幻想として描いたのと似ていると思います。ただ、テ・キリコの場合には騙し絵みたいな遊びの要素が強いですが、難波田の場合は大真面目だろうと思います。もっとも、この作品では、色調や形態の微妙な処理によって、少年は地面に腰を下ろしているようにも見え、またヴィナスや神殿は地続きの平地に立っているようにも見えます。
Nambatatmoon  「月と豹」という1937年の作品です。古代の陶器の模様を模写したような作品です。

 

2025年8月12日 (火)

難波田龍起展(1)

2025年7月 東京オペラシティ・アートギャラリー
Nambatatpos  昨日までの梅雨末期の豪雨が通り過ぎ、東京の空は落ち着きを取り戻しそうだ。天気が回復したら猛暑になりそうなので、曇りがちの今日は絶好だとして、出かけることにした。予定していたより乗り換えがスムーズにいったら、少しつくのが早すぎてしまい。開館時間前に着いてしまった。ここは、開館が午前11時とおそめだったことを失念していた。入口の自動ドアが開かないので、どうしたのかと戸惑っていると、警備員の人が気がついて来てくれて、開館は11時からです、とことわられた。恥ずかしかった。
 以前、難波田史男の展覧会を同じ東京オペラシティ・アートギャラリーで2012年に見ていて、その作品の不安定さというか、明るい色彩を用いながら、どこか陰のあるような世界に強い印象を持っていたので、彼の父親である難波田龍起にも興味を持っていた。まずは、主催者のあいさつを引用します。
 “難波田龍起(1905~1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく画業を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティ・アートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が当館の所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館所蔵品はもとより、全国の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品なども交え、難波田の画業の全貌を20年振りに紹介し、今日多岐な視点から検証するものです。”
 なお、この展覧会の展示の仕方は言葉による説明がなく、説明のキャプションないのはもとより、展示の章立ての表示も、作品タイトルの表示もなく、ただ展示作品リストの番号だけが表示されているものでした。余計な情報にとらわれることなく、作品と向き合ってほしいということなのではないかと思います。たしかに、難波田の作品は、何が描かれてという作品ではなく、作品を見て感じるという作品と言えます。とはいえ、難波田の作品は感性の赴くままに描かれたというものではなく、周到に考えられ計算された、知的な構成とみえるところもあります。全体の展示は制作年代順になっているようでした。これは、展示作品リストを見て分かったことですが、難波田の作品は制作年代によって、作風が変化しているので、難波田の作風の多様さを同時に見ることができるようになっています。
 会場は、展覧会の会期が始まったばかりで、しかも、平日の開館すぐというもあり、来客数は多くはなく、落ち着いて作品を見ることができました。私は、途中から作品を見ることに没頭してしまい、周囲を気にしなくなってしまいました。会場は、それほど広いとはいえないと思いますが、思いの外時間が経ってしまい、ひととおり見たら、疲れてしまいました。
それでは、個々の作品を見ていきたいと思います。

 

2025年8月11日 (月)

塚谷泰生、ピーター・バラカン「ふしぎな日本人─外国人に理解されないのはなぜか」

 3年前に読んだ本の再読。
 著者はデンマークの現地法人でマネージャーとして、現地人の従業員とのカルチャーギャップを感じていて、例えば日本人は「言わなくてもわかる」のに対して、ヨーロッパ人は「言わなければわからない」。その違いは時には互いの大きな摩擦を生むことになる。ヨーロッパ人から見れば、日本人は常識が通じないエイリアンのようなもので、著者は、その違いを説明しようと四苦八苦するが、一般的にいわれる農耕民族説とか武士道とか四季があるといった日本の特徴を説明するが、それらは似たようなものがヨーロッパにもあり、説明にならない。そこで、日本では台風のような暴風雨災害では、農業用水を見に行って、水に呑まれてしまう死者がでるが、ヨーロッパではありえないことに気付く。
 ヨーロッパの畑には水路がない。日本の田んぼには必ず水路がある。稲はもともと暖かい地域の作物で、大量の水を必要とする。だから田んぼには必ず水路が流れている。稲には暖かい水が適しているので、水路をなるべく長くして水が温まるようにする。水温を上げて田んぼに流すと稲の成長がいい。だから、山の方では大きな溜池をつくって、そこに山から来た水を溜めて水温を上げるというやり方をする。
 稲作にとって、水路は大事だ。台風の時など、大切な水路の状態を確かめるために、農家の人々は、見回りをする。そのときに、雨でぬかるんだ土で足を滑らせたり、詰まった水路を直そうとして水路に落ちたりして、命を落とす人が出てしまう。稲は水田に生えてくるが、水没に弱い。
 これに対して、ヨーロッパには農業用水路がない。ヨーロッパの農家は全部天水(雨水)で足りてしまう。ヨーロッパでは1週間に1、2回必ず雨が降る。日本は雨が降らないときは降らなくて。ヨーロッパでは定期的にまとまった雨が降る。だから農業用水の必要がない。
 同じ稲作でもインドや東南アジアはモンスーン地域特有の浮稲農法で稲作をしている。浮稲農法というのは、乾期に川岸の田んぼに種を直播して、雨期に水位が上昇するにしたがって、穂先を水面から出して生育させる方法。雨期になって、田んぼの水位がどんどん上がってくるとイネも同じように浮いてきてコメができる。そこで舟に乗り、水に浮いているイネを刈り取る。このやり方は、個人主義的で、集団に頼らず自分が好きなようにやれる農法だ。ところが、日本の田んぼはみんなで水を管理しなければならない。また、中国は水の管理は厳しくない。黄河や揚子江は川の全長が長い上に、高度差が少ないので、ゆったりと流れるのに対して、日本の川は急峻なところを流れるので、その管理が大変だ。急流で流れが速い川の水を田んぼに引いて稲作に利用するために、溜池をつくったり、常に田んぼに水が行くように管理するには、水路の整備などを集団でなくてはならない。
 そこから、日本人の集団主義的な性格が見えてくる。
 日本で米が主食となったのは、第一にカロリー量が考えられる。狭い耕作面積でより多くのカロリー量をとれるのがコメだった。実際、縄文から弥生に移ると人口が10倍以上に増えている。それはコメを食べることにより栄養状態が改善された結果、死亡率が低下したためと考えられる。第二に収穫の効率、単位面積あたりどれくらいとれるかということ。ヨーロッパのような平原と違って、急峻な山国である日本は耕作面積が限られていたので、より多く収穫できる作物を栽培しようとするのは自然なことだ。そして、第三にコメは連作障害が出ないので、毎年同じ土地に植えられる。
 例えば、ウクライナは一万年ぐらいにわたって草が生えては枯れてを繰り返してきたので土地は栄養が堆積して豊富な黒土で、作物が沢山とれる。それに比べて、日本は山岳地帯が多いので、傾斜地が多い。そこに雨が大量に降ると、土も、土の栄養分も川に流されてしまい、土に溜らない。そもそも、日本の表土は火山の噴火によって火山灰に覆われているから、表土はそんなに古くないし、草が生えては枯れてを長年繰り返したわけではない。それに火山灰水はけがよすぎるので、せっかく養分が溜っても雨が降ると流されてしまう。そこで、麦をつくっても必要なカロリーを満たすことはできない。そこで、効率よくカロリーをとることができるコメを選んだという。しかし、コメはもともと熱帯・亜熱帯の作物で、それを無理して温帯の日本に持ってきたところに、そもそも無理がある。そのひとつとして、タイや東南アジアでは温暖な気候で冬がないため、コメは年に三回収穫できる。だから、夏に蒔いた種がモンスーンの大雨で全滅しても、また冬につくればいい。これに対して日本では年に一回しか収穫できない。もし、台風などで収穫できなければ、その年は収穫がないことになり、それは飢えに直結する。だから、台風が来れば水路を見に行き、命を賭けてコメを守ろうとする。
 さて、そのコメの作りかただ。
 ヨーロッパの畑作は、小麦にしても、ジャガイモにしても、畑を耕して種蒔きの準備をし、種を蒔いたらそれで終わり。種を蒔く時期は、それぞれの農家が自分の考え方で決めることができる。日本の農家は、稲を強く立派に育てておかないと夏の台風の風水害で収穫できなくなる恐れがあるので、それに備えて冬からスケジュールを組んでいる。日本の稲作は、予定されたスケジュール通りに、時間管理をしっかりしないと収穫できない。まず田植えの日程を決めたら、それに合わせて逆算していく。種を蒔く前に水路を整備して、田んぼを耕し、苗代を作り、種を蒔いて苗を作り、四月下旬頃から田植えをする。稲は雑草に弱いので常に雑草を取り除く、苗の発育に合わせて田んぼの水位を調節する。こうした作業によって台風前までに稲をしっかり強く育てる。弱い稲で風害にあって倒れて水没したら収穫できず、下手をしたら飢えることになる。九月下旬に収穫が始まる。水の管理は集落全体のことなので、集落総出で水路の整備をする。また、田植えはある時期に集中して行う必要があるため、綿密な時間管理、集団の管理も行うことになる。日本の稲作は、年一回、失敗が許されないので厳格な時間管理、作業項目、集団の人数管理、調整等とスケジュールが緻密となり、やることが多い。
 また、コメ作りには、どうしても集団による作業が必要になる。例えば田んぼに水を補給する灌漑、つまり、水路をつくって管理することだ。
 ヨーロッパでは、集団ではなく個人で農作物を栽培している。日本ほど地形が急峻ではないので川の水が溢れることはめったにないし、農地を組織的にする必要性がない。しかも、夏場の雨量が多く、毎年安定しているために、とくにヨーロッパ中部は灌漑施設すらない。それと、ヨーロッパは日本より土壌の条件がいい。雨が降って肥沃な土が流されることがきわめて少ないため、堆積土壌で農作物を育てることができる。基本的に適地適作である。
 これに対して日本では、驚くほど何が何でも稲作。川から水路を作り、新田開発に数年を費やす。稲作に適するように農地に手を加え、地形的条件が悪くても、稲作に適合させるように努力し続ける。こうして、稲作を中心に、集団で行動するムラ社会が出来上がった。日本のムラ社会では、集団でものごとを決められていく。農家は集合型で独自の耕作は認められないし、家が隣接しているので他の村人の動きや状態が把握しやすくなっている。村は運命共同体で、隣の人との距離が近いので、誰が何をやっているかはみんなが知っている。和を乱すことは許されない。和を乱すことは稲作の出来不出来にかかわる。場合によってはコメの収穫が少なくなって、飯が食えなくなることもあるなど、生命の危機に結びつく。
 日本が集団主義的なもとは、農業のあり方にある。日本の稲作組織は命令系統が縦軸で、上から下に一方向に流れるようになっている。とくに灌漑、新田開発には資金だけでなく多大な集団の労働力が不可欠だった。指示する指導部、お上のもと、労働力を集中しなければならなかった。
 武士道などというが、江戸時代の武士は、もともと農民だったのが戦国で成り上がったもの。昔の農民は字を書けなかったから、体系的に書かれた農民道というのは存在していなくて、武士の世になって、それが武士道になり代わっただけで、本来、農民道が基礎になっている。集団主義的な農民道という道徳観があり、それがそのまま武士道になった可能性がある。妙な集団主義的な考え方とか家父長制とか、上の者には従わなければならないとか、それらは農民道そのもの。つまり、コメをつくめために集団主義てきになっていた農民が武士に成り上がり、農民のメンタリティが体系化されて武士道になり、それが明治時代になって、外国の文化が入ってきて、自身のアイデンティティとして意識化されるのに伴い、日本人の集団主義が強固になっていった。それは、現代の日本社会に深く根づいている。例えば、厳格なスケジュール管理は定刻通り運営される公共交通だったり、失敗をおそれる慎重に企業経営だったり、個人の能力より平等を優先する報酬だったり、日本の特殊な稲作集団である村は、日本だけに存在する特殊な食料・お金の生産組織だ。お金であり、命の糧でもあるコメの生産のために、日本人が村で全生命をかけて現代まで命をつないできた。ある意味、個人個人の問題ではなく、村単位の問題でもない。その地域、また昔の国、藩の単位だけでもなく、コメづくりは日本国全体の大問題だった。最小単位の稲作組織の個人なんてどうでもいい。さらに村もどうでもいい。米の安定生産・増産をして国民を飢えさせないことは、ごく最近のコメあまりまで、どの時代でも日本の最大の問題だった。しかも明治以前はコメはお金の役割もあった。村は国家の中核の造幣局の役割も担っていた。だから、国家財政を良くするべく、寒い東北でも山岳地帯ですら、貨幣であるコメの増産に向けて無理を重ねていた。お上の言うことをよく聞く、村、藩、地方政府を作り出し、そして強固な中央集権国家を作る必要があった。
 日本独自の気候と地形の中で、農作物を個人がそれぞれの自由気ままに作ると、水路、水管理の面では水田は個人で管理できる範囲を超えている。その結果、最高に条件が合った土地があったとしても、小規模になっていただろう。畑でも対して収穫はとれなくて、人が生きていくためのエネルギーがとれないので、もっと人口が少なくて、国力もなく、日本として独立できなかったかもしれない。
 著者は、これは日本という風土で人々が生きていくために取らざるを得なかったもので、それゆえに、ヨーロッパとの違いが生じているという。とても説得力があるし、いままで常識として日本的と言われてきたことが、あまり根拠のないものだということもよく分かった。
 ただし、ここで比較されているのはヨーロッパだけで、アジアとかアフリカが視野に入っていないのは片手落ちのように思う。

2025年8月10日 (日)

香川元太郎「日本の城」イラスト原画展~全国お城めぐり@日比谷

2025年7月 千代田区立日比谷図書文化館
Castlepos  最近の美術館めぐりは1日に1館ではなく、複数の美術館を訪ねている。いわば、美術館のハシゴ。これは、交通費がもったいないので、折角高い交通費を払ったのだから、1館見たついでに、もうひとつくらい訪ねてみよう。そんなことから、今回は、はじめて訪れた。日比谷公園の日比谷図書館の1階ロビーに展示スペースがあり、そこで催されているのが、今回訪れた展覧会。美術展というより、資料の展示会といったところ。平日の午後だったせいか、会場にはお城好きの男性が一人二人。
 チラシには、こうあります。“主要50城に年間2000万人が集うほど空前の「お城ブーム」が続いています。一方、多くの城郭は、戦災や天災、明治期に解体されるなどの時を経て失われ、今はその姿が分からないことが多いです。『迷走絵本』シリーズの作者として知られる香川元太郎(1959~2024)は、歴史考証イラストの第一人者Castlemusium であり、多数の城郭の復元イラストを制作しました。歴史学の研究成果を踏まえて描かれたイラストには、戦闘の場だけではなく、生活の場としてのリアルな雰囲気も表現されています。専門家とも協力して考証を加えながら描いた作品は、高く評価され、歴史教科書などに多数掲載されています。本展では、香川元太郎が描いた城郭の復元イラスト作品約100点を一堂に展示します。都心の真ん中で、全国のお城を巡る、壮大な歴史ロマンの旅をしてみませんか。”
 会場に入ると、城の分布を示した日本地図があります。その地図のとおりに、太田道灌が築いた時代の江戸城から旅を始め、南関東、東海、近畿、山陽、四国、九州、沖縄、山陰、北陸、甲信越、北海道、東北、北関東の各城をめぐり、最後に壮麗な江戸幕府の江戸城に戻ってくる構成になっています。広くない会場は小さい区画に区切られて、迷路のようになっています。
Castleedo  最初に室町時代の中頃に太田道灌によって築城された江戸城。いまの皇居の本丸のあたりということです。家康の江戸開府いらい埋立や開拓が進んで地形が変わってしまったので、同じ江戸とは思えないし、場所のイメージが掴めないので、現在の同じ場所の写真と並べて、このあたりと示してもらえるとありがたかったです。
 鎌倉時代の鎌倉(下の左側)の全景です。城といっても、戦国時代や江戸時代の城だけでなく、飛鳥時代の都のイラストもあります。ここでの城というのは広い意味の城と捉えた方がよさそうです。ただ、細かく描き込まれているのですが、画面が小さいので、個々の建物がどうだったのかまで、細かすぎてよく見ることができませんでした。私が老人なため衰えた視力では見切れないからなのかもしれのせん。並んで、戦国時代の北条氏による小田原城の総構の全景図(下の右側)がありましたが、そのスケールの大きさは、はじめて見ることができるものでした。ただ、大きすぎて、個々の砦や北条氏のすむ本丸などが細かすぎて、よく分からないのでした。そのあたり、デフォルメして強調してくれるとありがたいのですが、考証のとおりに正確に描かれているので、相対的に本丸の館などは全景のなかに埋もれてしまう。それを探してみましょう、というキャプションがあり、子供はそういうのを喜ぶのかもしれませんが。小田原城なら、いまの小田原城とどう違うのか比べて見たくなるではないですか。それは、私の個人的な趣味かもしれませんが。このように、ここで展示されている城のイラストは、主に郭や砦を含んだ城の全景、ときには城下町おも含んだ全景であり、今の観光写真で見るような天守閣のかっこいいアップとか砦のピックアップではないようです。これは、あとで見る戦国時代の山城の全景では絶大な効果を発揮するのです。

Castlekamakura_20250810234601 Castleodawara_20250810234601

 例えば高天神城(下の左側)です。戦国時代後半、武田氏と徳川、織田氏の間で熾烈な戦闘が行われた山城です。山全体に砦や堀がめぐらされているのが手に取るようにわかります。現在では見ることのできない、その姿は、これほどまでに徹底して城が作られていたのかと、驚くほどです。その姿を、様々な資料や調査の結果をもとに再現しているのは、この作家ならではものだろうと思います。続いて長篠城(下の右側)。そう、織田・徳川連合軍が鉄砲隊を組織して、勇名を馳せた武田家の騎馬隊を壊滅させたのが長篠の戦いだったはずです。でもこれを見ると、騎馬隊が突進できるような平原が見当たりません。画中に目を凝らすと、二・三十名ほどの鉄砲隊の隊列がところどころにあって、白煙が上がっているのが見えます。長篠合戦の鉄砲隊は、じつはそういうものだったのでしょうか。説明がないので分かりません。展示されているイラストの中には、ときに炎が上がっていたり、合戦の模様が描き込まれているのもあります。
Castletakatenjin Castlenagashino

Castleshigisan  それが近畿地区、大和の信貴山城です。松永久秀が信長に反旗を翻し、立て籠もった城に、信長軍が攻め込んでいる場面が描かれています。押し寄せる信長軍の人の多さを、そのひとりひとりを丁寧に描き込んでいて、その労力に頭が下がります。いままで見てきた高天神城や長篠城とは明らかに違います。端的に言えば、これらは砦であるのに対して、信貴山城は明らかに城です。それが一目でわかるのは、このようにイラストでビジュアル化されると多くの言葉を費やすより、容易に実感できてしまいます。それと、このように城攻めの場面が描かれると、どのように攻城されたかが分かります。映画や時代劇での合戦場面は一部をクローズアップされるだけで、全体としてどのように城攻めが行われたのかは、このようなイラストの方が、むしろ分かりやすいのかもしれません。
Castlehimeji Castlesyuri

 姫路城天守閣の透視図(上の左側)です。このような天守閣にクローズアップしたのは、ほかに安土城、大阪城、首里城、松本城ほかいくつかありました。男の子はこういうのが大好きなんです。ずっと昔、今から50年以上前の小学生のころ、小沢さとるの海洋マンガ「青の6号」で、潜水艦や秘密基地の透視図に、マンガのストーリー以上に胸をときめかせていた。そんなころを思い出してしまいました。設計図のような図面では味気ないのですが、このイラストのような城の断面を切ったような外観と内部を同時に見せてくれると、この建物はこうなっているのかと納得しながら見ることができます。また、この中に自分がいるのを想像して、今、自分はここにいて、するとこんなものが見えてくる、などと楽しい想像をすることもできます。同じ天守閣でも首里城(上の右側)はまったく別物で、これを城といっていいのか。これは御殿です。
Castlemastuyama  備中松山城は戦国時代の山城とその城下町が一望出来て、地方では城と城下の関係、つまり、領主はどのように町を治めていたのかが何となく分かるような気がします。これは、軍事面だけでなく、交通、交易の拠点でもあり、領主はそれを押さえていたという特徴がわかります。このように、地方や地域によって城の位置づけや機能が変わってくるので、城のつくりが違ってくる。それがビジュアルで分かるようになっている。
 香川氏の描き方の簡単な紹介がありました。研究家のつくった縄張り図や地形図に碁盤目を描くところから始め、次に次に、斜めに見下ろしたメッシュを描く。まず縦線を、遠くの方が間隔が狭くなるように引く。そうすると碁盤目が正方形から台形になる。正方形は平面だが、台形は斜め上から見た視角になるので、縄狩り図の碁盤目の正方形を台形に当てはめるようにずらしてなぞるように描く。そうすると立体的になるが奥行の部分は、その際に描き足していく。それで、縄張り図に近い、正確なプロポーションを確保できる。これに資料などの情報をもとに細部を描き加えて、彩色をしていくというものです。製図の作業に近いところと、イラストを描くというところの両方の作業が必要なわけです。
Castlekanazawa  金沢城は、江戸時代の加賀百万石の居城です、備中松山城とは全く異なります。軍事施設というより領主の威容を示す意味合いが強くなっている。人々の住む地域と離れていません。細かいのでよく分かりませんが、目を凝らして見ると、豪奢な建物が並んでいるだと思います。あっ、兼六園はどこにあるのでしょうか。
 最後に、江戸城です。金沢城よりもさらにスケールが大きいですね。最初に見た、太田道灌による江戸城と見比べると、とても同じ城とは思えません。私たちはこの城の築城後の歴史を知っているからかもしれませんが、この城にとって、城という軍事的に意味はほとんどなくなって、軍事に使われることはなかったわけですから。ほとんど見世物としての機能しかなく、城としては形骸化していたといえると思います。ですから、堀とか石垣とか郭のような軍事的な威容についても、軍事目的の機能美として見られるものではなく、権威を示す装飾として見られるものになっていると思います。それは、これまCastleedo2 で見てきた軍事施設としての城たちと比べると、言い方は悪いですが、一種のハリボテに映ります。そういう見方ができたことは、ここでの展示を見たからこそではないかと思います。
 今回は絵がどうこうではなく、描かれた城を見て楽しんでいました。

 

2025年8月 9日 (土)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(15)~結びにかえて─近代世界システムとは何であったのか

 第二次世界大戦後の世界では、アメリカのヘゲモニーが確立した。
 地球全体は経済的に一体化し、文字通りグローバルな分業体制となった近代世界システムは、内部ではアメリカの経済力が圧倒的で、製鉄業・自動車、航空機その他、あらゆる工業分野でその優位が確認された。しかも、かつてのヘゲモニー国家、オランダやイギリスとは違って、広大な領土と科学技術利用して、農業生産でも世界的優位確保していた。貿易でも、ヘゲモニー国家となったアメリカに有利な自由貿易の体制が確保された。
 20世紀後半以降の世界システム、つまり、アメリカのヘゲモニーが確立し、ついで衰退していく過程は、世界システムの本質が変化していく過程でもあった。近代世界システムの本質の多くは、今日に至るまで維持されている。しかし、資源供給源としての新たな周辺を得られなくなってしまった。その結果、資源を供給する周辺のシステム内での地位が向上している。

2025年8月 8日 (金)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(14)~第15章 ヘゲモニー国家の変遷─世界大戦への道

 1870年代以降、イギリスのヘゲモニーは衰退しはじめる。アメリカとドイツが、近代世界システム内での地位を向上させ、新たなヘゲモニー国家を目指すことになったからである。オランダやイギリスのような海洋国家と違って、この二つの国は、広大な国土をもつ、大陸型国家という特徴をもっていた。
 こうした中核内の変化と並んで同時に、この頃、近代世界システムは、全体として、決定的ともいえる歴史的変化を経験していた。近代世界システムが地球のほぼ全域を覆い、新たな周辺を開拓する余地がなくなったということである。世界は地球と同義になり、近代世界システムは危機的な状況を迎える。アフリカ分割を契機に、世界がいわゆる帝国主義と呼ばれる領土争奪戦に突入するのはこのためである。
 19世紀最後の四半世紀に入ると、近代世界システムが地球全体を覆い、地球上に近代世界システム、すなわちヨーロッパ世界システム以外の世界システムがなくなってしまった。こうなると、成長、拡大を当然の前提としてきた組んだ異世界システムは、17世紀と同種の危機に陥った。その危機の明白な表われが1873年に始まった大不況であった。19世紀前半であれば、このような危機はあっても、イギリスは、ラテンアメリカなどに、その帝国を拡大し続ける形で、中・長期的にはその経済力を強化し、成長し続けたということができる。ところが、1870年代を転換点として、とくに世紀末になると、状況は大きく変わった。近代世界システムそのものは、いまや地球全体を覆ってしまい、新たな拡大の場所がなくなった。そのため、世界システムの作用の仕方が大きく変わったのである。また、ドイツとアメリカという、二つの新興国が台頭し、中核国家となったばかりか、ヘゲモニー国家としてイギリスの行く手に立ちはだかることにもなった。
 大不況それ自体は、イギリスには直接の影響は比較的少なかったともいわれている。しかし、ドイツやアメリカが大不況からの脱出をはかるなか、唯一の工業国としてイギリスの地位は、このあたりから急速に低下し始める。工業化の波は、すでに19世紀前半にもイギリス以外にも進展し始めていた。そこで、アメリカとドイツの工業化には、イギリスやフランスのそれとは趣を異にする、重要な要素が少なくなかった。すなわち、イギリスが成功した第一次産業革命は、いわば鉄と石炭のそそれ、つまり、素材として木材から鉄への転換があり、エネルギー源としては化石燃料への転換があったが、いまや世界の技術水準はガスと電気の時代となりつつあった。また、イギリス型の小規模な工場ではなく、大規模な経営、大規模な生産組織を特徴とする第二次産業革命の時代に突入しつつあったからである。アメリカの製鉄業や自動車産業、ドイツの製鉄業や化学工業、コンツェルンやトラストのような大組織に支えられた重化学工業には、イギリスは対応できなくなっていたのである。一度できあがった社会や技術の体系は、それが不利で、時代遅れだとわかっていても、これを改変することは難しい。経路依存いとわれるような歴史的難問が、いつもつきまとうのである。
 第一次世界大戦がはじまる1914年までは、工業製品の貿易赤字は、商業・海運サービスと保険、資本輸出の利益で、十分に埋まっていた。イギリスは世界の工場というよりは世界の銀行となったのである。イギリスはモノづくり、つまり工業ではなく、金融とサービス業で生きるジェントルマン資本主義の国となる。それは、17世紀中葉にヘゲモニーを確立したオランダ、その世紀の末以後に示した姿に酷似している。
 世界システムの観点からすれば、19世紀末から20世紀のはじめは、近代世界システムに地球的拡大の余地がなくなるとともに、イギリスのヘゲモニーの衰退と、ドイツやアメリカによる後継争いが顕在化していく時期でもあった。しかし、新たなヘゲモニーが確立するには、なお、20世紀前半の二つの世界戦争を経過せざるを得なかった。

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(13)~第13章 ポテト飢饉と「移民の世紀」・第14章 パクス・ブリタニカの表裏─帝国の誇示と儀礼

第13章 ポテト飢饉と「移民の世紀」
 16世紀にコロンブスの交換の一環としてヨーロッパにもたらされたジャガイモは、18世紀に至って民衆の食糧では重要な位置を占めるようになっていた。とくに、貧しかったアイルランドでは、ジャガイモのおかげで食糧が確保され、人口が増加した。ところが、ジャガイモとときにして、病気が蔓延して凶作となることがしばしば見られた。そうなると、ジャガイモに食糧を依存していたアイルランとなどでは多数の餓死者をだすことになった。このため、アイルランドを離れるものが後を絶たず、アメリカとカナダがその主な移民先だった。
 しかし、19世紀に移民となる人々は、アイルランド人だけではなかった。19世紀は移民の世紀でもあった。イギリス各地から、アメリカやオーストラリアおニュージーランドへ渡った。世紀後半には東ヨーロッパからアメリカへの移民が急増した。こうした人間の大移動は、中核部が工業化の局面に入った世界システムの労働力の配置転換の現われと見ることができる。すなわち、一方では、相変わらず、食糧・原材料供給のための周辺部への労働力が行われた。他方で、中核の高い賃金と生活水準を求めて、労働力の周辺から中核への移動も発生していた。そればかりか、同じ中核国間においても、よりヘゲモニーの近い国への労働力の移動が絶えず起こる。その結果、ヘゲモニー国家の首都には大きなスラムが発生することになる。

第14章 パクス・ブリタニカの表裏─帝国の誇示と儀礼
 1851年のロンドン万国博覧会は、イギリスの技術や生産力の優位を誇示するものであった。そこで催された技術のコンクールでは、圧倒的にイギリスのものが入選した。しかし、このときアメリカから出品されたものが二つが入選した。それかピストルとミシンであり、世紀後半のイギリスとアメリカの技術や生産力の関係を予感させるものだと言われる。
 土地をはじめとする自然資源の豊かなかわりに労働力の不足しているアメリカでは、労働節約的な技術革新がすすむ誘因があったが、イギリスは、労働節約的革新を推進する条件が乏しかった。イギリスはアイルランドからの移民など安価な労働力に恵まれていたので、アメリカのような深刻な労働力不足には直面しなかった。その好例がミシンにかかわる裁縫業である。安価な労働力であるお針子に支えられたイギリスの裁縫業に、アメリカから大量のミシンが流れ込んでくることになる。

2025年8月 6日 (水)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(12)~第12章 奴隷解放と産業革命

 近代以降のイギリス人の食生活において、砂糖は、嗜好品の域を越えて、有力なカロリー源となっているうえ、茶との組み合わせで、イギリス風朝食を成立させ、産業革命期イギリス人の生活基盤の大前提となった。かつての日本人がコメを主食と考えたのと同様の意味で、小麦が産業革命期イギリス人の主食であった、などと考えてはならなない。そもそも英語には主食の概念はないのだから。そしてまた、一日三食を現代の我々は当たり前のこととしているが、イギリスには朝食の習慣はなく一日二食がふつうだった。それが今日のようになったのは17世紀中ごろ以降のことである。産業革命の進行に伴って、イギリス人の民衆のかなりの部分が、都市住民となった。生活環境の都市化は、民衆の生活基盤を一変させた。住宅環境からして、しっかりした調理をする台所がなくなり、無料で採取できる燃料もないままに、短時間で朝食を準備することは不可能となった。ましてや、自宅でパンを焼くなどということは論外となった。他方、工場制度が普及すると、時間規律が厳しくなり、時間にルーズな生活は認められなくなった。さらに工業化と都市化は、労働者家族の構成員のほとんどが家庭外で雇用されることを意味する。この点でも、工業化は長時間を要する調理の可能性の喪失をも意味したのである。このような条件に見事に合致したのが、紅茶と砂糖と店買いのパンやポリッジの朝食である。基本的には、湯を沸かせさえすれば、用意することができる。とくに、紅茶と砂糖はカフェインと即効性のカロリー源として、決定的な意味をもっていた。
 イギリス風朝食は、イギリスを中心として、地球の両側からきた素材によって成立している。言い換えれば、イギリス世界トステムの中核の位置を占めることになったからこそ、このようなことが可能になったのである。
 工業化の開始とともに、砂糖入りの紅茶が労働者の朝食となり、ティーブレイクが一般化したといっても、なお、茶も砂糖も、労働者にとってはかなり高価なものでもあった。イギリスの砂糖が、フランスのそれよりもはるかに高く、国際市場ではまったく競争力がなかった。ただ、本国議会の強力な西インド諸島派のおかげで禁圧的高関税に守られていただけである。東インド会社の強固な独占体制に守られた茶も似た状況にあった。労働者の賃金を抑えたい工場経営者をバックにしたマンチェスター派は、西インド諸島派への攻撃として、まずは奴隷貿易や奴隷制度への批判という形をとった。そうすれば福音主義者の運動とタイアップできたからである。その成果は奴隷貿易、奴隷制度の禁止とんって現われた。強力な西インド諸島派を消滅させ、砂糖の特恵関税の引き下げを実現させた。イギリスの奴隷制度の廃止が、安価な朝食の確保を目的としていた。

2025年8月 5日 (火)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(11)~第11章 「二重革命」の時代

 従来の常識でいえば、18世紀と19世紀の境目には、フランスにいわゆるフランス革命が起こり、イギリスには産業革命が起こった。いっぽうは、市民革命といわれるものの典型とされ、たほうは、世界で最初の工業化の実例とみなされてきた。また、前者は政治的な革命であり、自由・平等・友愛という近代市民社会の基本概念を打ち立てたものとされ、経済革命である後者は、現代世界中に拡大しつつある工業化社会の起点と見なされてきた。そういう意味で、この二つの革命は、近代世界をつくりあげた決定的な要因であった、といわれている。
 しかし、本書はこのような見方に疑問を投げかける。それらがフランスとイギリスで別々に起こったのはどうしてか。両者の違いは、16世紀ら成立していた世界システム内部での経済的余剰のシェア争い、つまりヘゲモニー争いにおいて、イギリスが勝利したということにある。産業革命そのものは、工業制度や都市の発達によって、人々の生活を大きく変えたとはいえ。世界システムに構造的な変化をもたらしはしなかった。中核と周辺からなるグローバルな分業体制としての世界システムは、産業革命によって基本的にならん変化していない・変わったことは、インドやトルコやロシアが18世紀のうちに自立性を喪失し、このシステムに呑み込まれていったということであり、その余剰をイギリスが確保したということである。一方で、イギリスはフランスに比べてたいへんな重税国家となっていた。しかし、国民の税に対する反発はそれほど強くはなかった。反税闘争が革命につながったフランスとは、この点で違う。イギリスの民衆が重税に反発しなかった理由は、イギリス政府が、徴税にあたるべき官僚を、もっとも租税負担の重い中産階級から任命したからであり、貴族に特権を認めなかったからで、それは17世紀末に、イングランド銀行の設立を中心とする財政革命によって確立されたものだった。しかも、イギリス政府は、このような膨大な資金を、ほとんど軍事費と軍事支出のために発行した国債の元利の支払い当てた。その結果、対仏戦争は、資金の豊富なイギリスがつぎつぎと勝利し、大英帝国の形成につながった。かずかずの戦勝は、この重税国家をささえた中産階級を熱狂させ、彼らの支持はますます強化された。この結果、イギリスは軍事力によって自由貿易圏を確保することができ、これを基盤として産業革命に成功した。これに対して、イギリスが帝国を形成し、世界システムの余剰のもっとも大きなシェアを確保したために、フランスは工業化できなくなったのであり、その後もイギリスに対抗するためには、イギリス型の能率的な徴税国家を打ち立てる必要があったのである。それがフランス革命であった。
 工業化が世界システムの中核にしか広がらなかったのと同じように、自由、平等、基本的人権といった近代市民社会の理念も、世界システムの周辺に適用されるときには、中核のそれとは全く異なった意味を与えられるようになった。中核においてさえ、平等の観念は能力主義と結びつく時、容易に各種の新しい差別と結びついた。近代世界システムは、それまでとは違った仕方で、新たな差別を生み出した。世界システムの周辺部は、低賃金によって経済的余剰を生み出し、中核に奉仕する必要があるから、労働コスト引き下げのために強制労働が展開される。産業革命とフランス革命がもたらした新しい編成のなかでは、低コスト労働の確保のために、人種主義や性差別、高齢者の排除などが行われる。人種というのは、生物学的な人間の種類による区別などではない・むしろそれは安価な労働力を抽出するための手段なのである。こうした新型の差別は、フランス革命の理念が、世界各地に浸透するのと同時に、表裏一体をなして、浸透していったのである。こうして、イギリスが担った世界の商業化、すなわち地球上の全地域を世界システムに組み込むという使命を、いわばフランス革命の論理が支えたのである。普遍的な価値観がなければ、全世界を単一のマーケットに組み込むことは困難であったからである。
 フランスに市民革命が起こったのは、世界システムのヘゲモニー争いにおいてフランスが敗北したことが原因であるという。その敗北の理由が財政制度に大きくかかわっている。大徴税請負人の懐を肥やすばかりのフランスのやり方は、国民の反発を招いたのに対して、イギリスのやり方は効率的かつ巧妙であった。ヘゲモニー争いに敗れたフランスとしては、早急に体制を立て直すことが必要になった。それがフランス革命であり、革命のエッセンスはイギリス型の財政・軍事国家への移行にあった。

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(10)~第9章 奴隷貿易の展開・第10章 だれがアメリカをつくったのか

第9章 奴隷貿易の展開
 歴史家エリック・ウィリアムスによれば、イギリスの産業革命は、黒人奴隷貿易と黒人奴隷制度の産物であったという。大西洋奴隷貿易は、植民地における砂糖や綿花の生産とそのイギリスへの輸入とも結びついており、いわゆる三角貿易の形をとっている。三角貿易は、綿花の輸入と綿織物の輸出をともに含んでいたので、奴隷貿易で急成長をとげたリヴァプールの後背地マンチェスターに、綿織物工業が展開した。したがって、資金と製品市場の確保、原料供給のいずれの面でも、奴隷貿易を核とする三角貿易こそが、イギリス工業化の起源であった。同様の関係はブリストルとバーミンガムの鉄工業などの関係についてもいえる。
 奴隷貿易がイギリス経済に与えた影響については、貿易をそれだけ取り出して論じることには意味がない。第一に、初期の綿織物工業に関しては、この貿易が決定的に重要であった。初期の海外綿織物市場はほとんどアフリカとカリブ海植民地によって与えられていた。イギリスにおける初期の綿織物工業は、インド産のそれに代わる典型的な職人代替産業であり、本来国内市場の枠を超えにくいものであったはずだからである。幼弱なイギリス綿工業が三角貿易によって、早くから国外に市場を獲得できたのは大きい。第二に、北アメリカ、とくにニーイングランドでは、カリブ海地域への穀物や材木の輸出などにより、イギリス商品に対する購買力を得ていた。カリブ海植民地なしにはアメリカ北部植民地はありえなかった。イギリスの奴隷貿易、植民地の砂糖生産とイギリスの工業生産は同時並行で急速に成長しているのだ。

第10章 だれがアメリカをつくったのか
 イギリスの近代史は一貫して帝国ないし世界システムとのかかわりの歴史であり、植民地を社会問題の処理場としてきた歴史でもある。失業者は植民地の労働力となるべきだとみなされたし、非行少年や犯罪者、売春婦、反体制派、果ては結婚相手の見つからない女性も、植民地に活路を見いだすことを奨励された。イギリスにとって植民地建設は、このような社会的意味をも十分にもっていた。
植民地時代にイギリスからアメリカに渡った人々の過半数は、期限付きの白人債務奴隷ともいえる年季奉公人であった。年季奉公人の出自としては、イギリスでは生活のできない、いわゆる社会のクズといわれる人々が大半であった。例えば失業者、怠け者、孤児。一方、18世紀のイギリスの犯罪者処刑は、死刑の頻発と恩赦によるアメリカ流刑の多用によって特徴づけられる。刑務所に囚人を収監する方法は費用のかさむ方法であった。流刑は、植民地に労働力を供給しながら、本国の社会問題を解決する一石二鳥の名案であった。

 

2025年8月 3日 (日)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(9)~第8章 砂糖王とタバコ貴族

 1700年前後の赤道以北のアメリカ東海岸。まず赤道から北回帰線のさらに北にかけて、カリブ海植民地が展開する。ここでは、アフリカから連れてこられた黒人が奴隷として使われ、砂糖プランテーション一色のモノカルチャー地帯となっている。その北は北アメリカ大陸の南部植民地があり、タバコのプランテーションが展開する。労働力は、当初、白人の年季奉公人が主体であったが、次第にアフリカからの黒人奴隷に依存する傾向にあった。そのさらに北はニューイングランドは投資に値しない無用な植民地だった。
 まず、その最北部について、世界システムの従属地域は、中核地域からみて、何らかの有用な意味をもっているのでなければならない。イギリスなど、北西ヨーロッパと同じような気候条件で、同じような産物しかもたないニューイングランドは、必然的に無用な植民地とみなされた。投資に値しない植民地は、当然関心を向けられずに放任される。この植民地が、プランテーションではなく、ヨーマン的世界となったのは、そうした状況の反映であった。
 タバコ貴族という言葉がある。アメリカ南部のタバコのプランターがいかに豊かだったかを示す証拠である。彼らは植民地においてイギリスのジェントルマン階級を真似た生活様式を維持し、名士として活動した。これに対して、カリブ海の砂糖プランターたちは王様であった。彼らは不在化してイギリスに住んでいた。同じプランテーションでも、カリブ海とタバコ植民地は違っていた。不在化した砂糖王たちは、現地ではまともな学校がなかったため子弟をケンブリッジやオクスフォードなどに入学させ擬似ジェントルマンというべきものになり、やがてはイギリスの政界に進出することにより、議会に影響力を持つようになる。そして、カリブ海植民地の砂糖を徹底的に保護させた。高率の砂糖関税が、最大の成果であった。
 これに対してタバコ植民地は、不在化しなかった。気候条件がカリブ海より良かったことと、タバコの栽培が他人任せにはできないこともあるが、不在化できるほどの金持ちにはなれなかったというのが最大の理由だ。
 プランターが不在化するか否かは、現地の社会・経済の発展に大きな影響を与える。不在化したプランターは、プランテーションを金のなる木としてしか意識しないから、現地には、道路も学校も公園もつくることはない。上下水道のような生活基盤でさえ、整備されにくい。これに対して、プランターが在地であれば、彼らが彼ら自身のためにつくる施設のかなりの部分が、いわば共通の社会資本となりうる。プランターが作った道は奴隷も歩けるからである。その結果、不在化の進行したカリブ海は、将来の社会発展にマイナスを抱え込むことになった。不在化の進行しなかったアメリカ南部は、モノカルチャーのプランテーション社会としての歪みは受けたが、社会的資本の整備が、カリブ海より、はるかに進んだのである。

2025年8月 2日 (土)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(8)~第7章 ヨーロッパの生活革命

 商業革命が展開するにつれて、ヨーロッパには、アジアやアメリカの新奇な商品が流入した。これに伴って、ヨーロッパ人の生活が一変した。例えば、砂糖入りの紅茶を好むような、今の我々がイギリス的と呼ぶ生活様式は18世紀以降のもので、ヨーロッパ以外の世界から流入したものであった。例えば、茶は中国やインドなどアジアからの輸入であり、砂糖はカリブ海のプランテーションで生産されたものである。イギリス人が茶に砂糖を入れるという、当時は破天荒なことを始めたのは、イギリス人にとっては外国物産、とくにヨーロッパ以外の物産は一種のステイタスシンボルであった。それは、イギリスが、ルネサンスの発祥地である大陸諸国に比べて後進的と意識されていたことへの反発であった。とくに、このころ台頭しつつあった商人たちは、自分たちの財力を誇るために、贅沢をほしいままにしたから、その上の社会層にあたる貴族やジェントルマンたちは、それ以上に贅沢な生活をしてみせなければ、体面を保つことができなかった。このような派手な消費生活の競争のなかで、それぞれステイタスシンボルである茶と砂糖を一緒にして飲むという奢侈が試みられたのだった。この傾向はますます社会の下層にまで及ぶ。こうして、近代世界システムとその作用を示す商業革命とは、イギリス人のあいだに生活革命をもたらすことになったのである。
 近代のイギリス人の生活スタイルをつくりあげた商業革命の主役は、茶や砂糖ばかりではなかった。インドからもたらされた綿織物(キャラコ)も、そのひとつであった。キャラコの消費は大ブームとなり、輸入量が急拡大したが、国内の毛織物業者の猛反発を呼び、輸入禁止の措置が何度もとられた。他方では、世界で最初の産業革命は、綿織物工業から展開する。その意味で、イギリスの産業革命は、次のような手順で生じたと言える。まず、イギリスが世界システムの中心の地位を固める過程で、カリブ海や北アメリカでアフリカ人奴隷が生産した植民地物産やアジア物産が、イギリス国内に引き起こした生活革命があり、そうして成立したイギリス人の生活様式に不可欠なもの、たとえば、輸入綿織物を国産品に置き換える、いわゆる輸入代替が起こった。それが産業革命のスタートである、と。

2025年8月 1日 (金)

川北稔「世界システム論講義─ヨーロッパと近代世界」(7)~第6章 環大西洋経済圏の成立

 16世紀のはじめのイギリスはヨーロッパの位置する小国であった。イギリスにとって16世紀は価格革命の時代であった。この時期、イギリスは人口が増加する。それに対して良質な農地の余裕はないから、食料価格が跳ね上がる。小麦の生産と工業用原料である羊毛の生産や、動力源としての馬の飼育とは互いに競合するから、それぞれの価格が急騰する。他方、人間は相対的に過剰となり、労働力の評価は上がらない。
 その危機に対して真っ先に展開された対応策は、国土すなわち植民地を拡大し、貿易関係をヨーロッパ外世界に広げることであった。17世紀中期のイギリス商業革命と呼ばれる変化だ。それは、1世紀のあいだに貿易の規模が劇的な拡大をとげた。これまで、ヨーロッパの内部に限られていた貿易相手地域が、カリブ海・北アメリカの植民地を中心にアジアや奴隷貿易のアフリカに急展開し、そちらがヨーロッパとの交易を上回る。さらに、この変化に対応して、取引される商品も劇的に変化した。従来の主要輸出品である毛織物をさしおいて雑工業製品、植民地物産であるタバコ・茶・砂糖・綿織物が急成長した。つまり、イギリスの貿易の爆発的成長は、その実態は、主に奴隷制プランテーションで生産される世界商品となった植民地物産の奔流のような輸入を原動力とするものだった。イギリスが世界システムの中核にのし上がったことの反映が、イギリス商業革命であった。それは、奴隷貿易を基軸とする環大西洋ネットワークの中心にイギリスが坐ったことが、ここに反映されている。イギリスが、このような地位に到達する過程では、危機で少なくなった世界システムの経済的余剰の争奪戦が展開されたが、イギリスは17世紀の三度にわたるオランダ戦争に勝利した。その背景には、戦費の調達を可能にした財政革命があった。イングランド銀行の創設と議会制度が信用の基礎となり、資金がイギリスに流れたというのだった。

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