難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(1)
人は自分の人生、自分とは何か、という問いに、物語という形式を使って語りたがる。あるいは、他人のこと、社会のこと、世界のことを、物語という形式で理解、説明したがる。著者が言うように、現在、物語は、本来その形式を適用すべきではない領域にまで蔓延って、むしろ物事の理解の質、或いは人生の質を落とすように作用しているのではないかという。
我々は、他人を理解したいと思い、他人に理解されたいと願うし、他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願う。そしてまた、自分が誰でありたいかをはっきりさせたいと願う。そのときに、物語がとても便利であることから、『私とは誰か』という問いに対して、物語を語り、自他をキャラクター化することによって、他の誰とも異なる答えを出そうとする。物語ることが、自分の人生にユニークな意義を与えるために必要であると考える者たちも多い。
しかし、その物語は、しばしば行き過ぎる。物語を用いた自己像の探求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。
物語が批判されなければならないのは、それがけっきょく”語る主体の整合的な理解”へと事実を収斂させていく形式であるから。その収斂の過程で、都合の悪いものは排除され、都合のいいものだけが重みづけられ、世界はあたかも秩序だった形に完了しているかのような様相を呈する。そのことが他者の、或いは他者としての自分の、ひいては無数の他者によって成り立っている世界の未完了性を隠蔽、あるいは収奪してしまうことになる。
そこで、物語という形式に収束しない、世界の未完了性を取り戻す、それが本書の目的といえる。













































































































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