東フィル演奏会「アルプス交響曲」
およそ20年ぶりのオーケストラの演奏会。会社勤めを定年になり、老母が亡くなって独り暮らしにもどったのを機に、出かけてみた。まずは、チケットが高くなったのに驚き(国内オケで1万円…)、会場前のチラシ配りがいなくなった、会場にはいったらスマホが通信圏外になった、ひと目で外国人とわかる人が多い(座席の周囲で複数の英語や中国語の会話が聞こえた)。Rシュトラウス中心のプログラムというファン向けにもかかわらず、客席は、ほぼ満席。これら、以前との変化は新鮮だった。
会場の東京オペラシティコンサートホールはサントリーホールなどよりは一回り小さいようで、フルオーケストラには音が響きすぎる感じ、しかし、一時のサントリーホールのように音が割れるようなことはなく、よかったのが。おそらく天井が高く、音がそちらに抜けるせいかもしれない。そのためか、1階の後ろから4分の1の席だったが、オーケストラの音がマスとしてこちらに向かってくるような感じがなく、ステージでフワフワと浮いているような感じ。オーケストラの生演奏を聴く際には、弦楽器の弦を弓が擦る音というよりも音の震え(これはCDなどの録音では分からない)が音の存在感を実感できるのだが、ここではそれが感じられなかった。その代わりに、管楽器はラッパの向きが客席の方を向いているので、こちらに音が向いてくるので、直接聞こえてくる。そのため、オーケストラ曲を聴く醍醐味のひとつである、弦楽セクションと管楽器のケンカがみられず、管楽器がメインのパートでは弦楽セクションの音がほとんど聞こえてこない感じだった。
ところで、Rシュトラウスのオーケストラ曲というのは、音をこねくりまわすように頻繁に動かして落ち着きがないというイメージがある。例えば「ティルオイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」なんかが顕著なのだけれど、いじくりまわすような動きには、ユーモラスなどと一般に解説されるようだが、私には空回りはていてスベッているというか、変な譬えだが大阪文化を知らない東京人が吉本のコントを見たときのような印象で、連発されるギャグの作為的な不自然さシラケてしまうというものだった。それが、晩年近くの「4つの歌」とか「メタモルフォーゼン」あたりの曲は、そういう空回りが少なく、今回演奏された「アルプス交響曲」は空回りが少ない方の曲で、私には、Rシュトラウスのなかでは比較的聴きやすい方の曲だったと思う。
それが今回の演奏では、弦楽セクションと管楽器パートが競い合うということがみられないので、楽器パートの奏する音楽の線の絡み合いの面白さは聞き取れず、弦楽器の音が靄のようにステージ上にたちこめているのを管楽器の音が突き破ってこちらに届いてくるとか、あるいはその靄に融合してそれが客席にひろがってくるような感じになっていた。そうすると、派手でゴージャスなRシュトラウスのオーケストレーションの響きが、まるで大河が氾濫するように音の響きがホールに溢れて、客席の私は音楽を追いかけるとか、繊細に細部に注目するなどといったことなしに、その大河の響きに身を任せて浸っている。そういう体験をすることができた。指揮がどうとか、演奏がとうといったこととは、考えることもない。ただ音の響きに身を任せているうちに、気がついたら演奏が終わった。だから、具体的にどういう演奏だったか、覚えていない。
久し振りの演奏会。また、何かしら聴きに行ってみようと思えた。
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