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2025年11月

2025年11月30日 (日)

東京都交響楽団1029回定期演奏会Cシリーズ2025年11月

2025年11月29日(土)東京芸術劇場
11112_20251130111201  先月に続いて池袋の東京芸術劇場へ行く。今回は65歳以上の老人割引があるというのでありがたい。受付で身分証明書の提示を求められるかと思って準備していたが、フリーパスだった。
 プログラムは
 モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ K.261
 シューマン:ヴァイオリン協奏曲
 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
で、これはもう明らかにメインはシューマンのヴァイオリン協奏曲で、しかもソリストが庄司紗矢香だから、それで決まり。
 最初のモーツァルトは腕慣らしといった軽い曲だが、実演で聴いた庄司のヴァイオリンの音がバックのオーケストラの弦楽セクションとの格の違いを見せつけられるようだった。独奏ヴァオリンとその伴奏という曲だから、どうしてもソリストの音が前面に出てくる。それでも、音の響きの質が別物なのだ。以前にも、いろいろなヴァイオリニストでコンチェルトを聴いたが、こんなにもオーケストラに対して独奏ヴァイオリンの音の響きが突出しているのは、はじめてのこと。小編成オーケストラのモーツァルトからフル編成のシューマンの協奏曲になっても、それは変わらなかった。庄司というヴァイオリニストは力を込めてバリバリ弾くタイプではない。むしろ、軽くサラッと弾くヴァイオリニストなのだけれど、音の響きの質が違うので、オーケストラの音に独奏が埋もれることがない。この人のヴァイオリンの音を聴いているだけでもいいという、そういうヴァイオリニストだと思う。
 さて、メインのシューマンの協奏曲。オーケストラの合奏による決然とした開始は、第3交響曲「ライン」のような力強さ。「ライン」が明るく伸び伸びとした曲調なのに対して、こちらは少し強張ったような少し悲壮感が漂う。これが第1主題。その直後に対照的で甘美な第2主題となる。これを、CDなどの録音で聴いていると、オーケストラが“いっせいのせ”と斉奏しているように聞こえるが、ここで聴くと全然違う。弦楽セクションが掛け合いするように、少しずつリズムをずらしながら弾いている。それで、テーマの形の輪郭がぼやけるようになる。それは、オーケストラの配置が対向型、つまり、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが隣り合う一般的な配置ではなく、向かい合う配置になっているためだと思う。これは、指揮者の意図なんだろう。シューマンは、おそらく明確な形を避けた。そういうオーケストラの後に独奏ヴァイオリンが第1主題を弾き始める。ブラームスのヴァイオリン協奏曲にも似た、このヴァイオリンの入りは、ヴィビブラートをたっぷりかけた、いわゆるヴィルトーゾ的な見得を切るような人もいる。しかし、そうすると、この後、この第1主題が何度も、延々と繰り返されることになる。そこがブラームスと違うところだ。そして、この第1主題は、おそらくヴァイオリン向きではない。旋律的でないのだ、歌わせにくい。音が繋がりにくい。むしろピアノ向きというか、タッチや音色で、手を変え品を変え弾き分けていくのに適したようなフレーズなのだ。だから、ヴァイオリニストにとっては弾きにくいのではないかと思う。だから、演奏会で取り上げることは少ない、マイナーな協奏曲だ。それを庄司、入りはサラッと弾く。その後の繰り返しは、無理に歌わせようとしないで、むしろ、ピアノ的なタッチというか音の肌触りというか細かなヴィブラートの変化や音色の微妙な変化で弾き分けていく。しかも、オーケストラからは突出した音の響きで、それは決して、庄司の音が大きいというのではないが、この人のヴァイオリンの音ばかりが突出して聞こえてくるのだ。そうすると、その繰り返しは、まるで独奏ヴァイオリンが独り言をつぶやいているように思えてくる。かつて、グレン・グールドがバーンスタイン指揮するオーケストラの前で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を豪壮なオーケストラの出だしのあと、まるでオーケストラを無視するかのように内省的なモノローグを続けたのを想わせる。ブラームスのピアノ協奏曲第1番にはそういう側面がある。グールドはその側面を引き出し前面に押し出した。そこにはブラームスのもともと持っていた性格があったのかもしれないが、シューマンから引き継いだこともあると思う。そういう内省的な性格が現われているのが、このシューマンのヴァイオリン協奏曲なのだと思う。だから、ここでは、独奏ヴァイオリンに華麗なヴィブラートや甘美な歌いまわしは要らないともいえる。むしろ、そういうのを配して、聞き手に語りかけるような語り口。それが、庄司がここで弾いているヴァイオリンではないかと思う。このあと、例えば第3楽章などは、一般的なヴァイオリン協奏曲ならばロンド主題が繰り返される舞曲のような明るく盛り上がって終わるのだが、この曲では、第1楽章の第1主題に似たテーマが性懲りもなく繰り返され、あっけらかんと尻切れトンボに終わってしまう。それは、軽快にカタルシスを得るのではなく、モノローグを最後まで飽かずに続けるというもの。そして、この演奏では、そのモノローグに付きあうというのが、この曲の大きな魅力であることに気がつかせてくるものだった。あえていえば、共感というものが、その先にある。
 後半のベートーヴェンの田園交響曲は、私にはオマケだった。しかし、標題音楽ではなく、交響曲として純音楽的にキチンと演奏しようとしていた。でも、もとがね。こんな曲では…、と。

 

2025年11月26日 (水)

二回目のツアー旅行(紅葉の室生寺、長谷寺、奈良公園)(2)~第2日目、室生寺、長谷寺、談山神社

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 今日の見学先はいずれも山中にある寺社。早朝に街中のホテルを出発し、山中に分け入るように、九十九折の山道をバスで行く。こういうときツアーは便利だと思う。奈良の社寺は交通機関が比較的整備されているとはいえ、電車とバスを乗り継いでいくのは、たいへんだからだ。室生寺への道はバス1台がやっと通れるほどの狭い道で、駐車場もそれほど広くはない。それだけ、来れる観光客も制限されるということだ。門前の賑わいというか、門前町をつくるには山あいの狭い土地なので、2~3件の店がある程度。朝早かったせいもあり、昨日の奈良公園の喧騒とは雲泥の差。むしろ、この門前から森閑とした雰囲気がある。門前町と境内の間には川が流れていて、そこに掛けられている太鼓橋を渡ると室生寺だ。太鼓橋から渓谷とその周辺の紅葉が見られる。それとなく絶景。橋をわたって左に受付を済ませると仁王門。

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山中の狭い土地に建てられているので、東大寺のような大きな建物は無理なため、室生寺の建物はコンパクトなものとなる。仁王門という名の通り、門には金剛力士像があります。東大寺南大門の金剛力士のようなダイナミックな力強さではなく、筋肉質な金剛力士の姿を写実的に表現していますが、どこか可愛らしい。それぞれ赤と青で彩色した2体は、さながら赤鬼と青鬼のようです。「泣いた赤鬼」。ここから、鬱蒼と茂った深い森の中の伽藍が始まる。左手に石段を上がると金堂。特別拝観で、別に入場料を払えば中の仏像を間近に見られる。

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とは言え、小さな御堂で、テラスのような外側からも中の仏像を見ることができる。照明のない堂内は、外から見ると薄暗く、中の仏像は薄闇にぼんやりと浮かぶよう。取り立てた個性は感じられないが、簡素で、仏像らしい仏像。ただし、人々は堂内の仏像よりも、外の紅葉の方に目が向いている。ここの仏像は特別に目を惹くというのではなく、ただそこにあるといった感じに近い。そこがホッとするというところではないかと思う。国宝や重要文化財に指定されているらしいのだが。そこから、さらに石段を上ると本堂。私のような寺社巡りの素人には、金堂と本堂ってどう違うの?と不思議に思う。たんに仏像の置き場という使い道しか、現代の素人の私の視点からは、それくらいしか思えない。この寺は別名女人高野と呼ばれて、高野山は密教修業の道場であるわけで、女人高野というのだから、ここでも修業するのだろうと思うが、金堂とか本堂は、人がいる場というのではなく、そこで僧がいて修業しているというのではなさそう。ここから、さらにまた石段を上がると五重塔がある。杉の大木が生い茂る深い山を切り開いて、斜面のちょっとした広場に御堂を建てて、それらは狭いので、ひとつの広場にひとつの御堂しか建てられないので、斜面の別々の広場に御堂を建ててそのそれらの間は斜面になるので石段をつくってつなぐようにしている。したがって、それぞれの御堂から御堂への移動は石段の上り下りになる。この上り下りはけっこうな運動となる。これが室生寺のひとつの特徴となると思う。それはまた、この寺を訪れる観光の面では、ある程度の労力を要することになり、気やすく訪問しにくい。その反面、静けさを保っている。五重塔は室生寺の写真というと五重塔がまず取り上げられるほど有名だが、実際にみると、小さい。写真の方が立派に見える。
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 五重塔の裏から奥ノ院に向かう道がある。体力に自信のない人は、この先はあきらめて、ここで引き返す。私は、室生寺の魅力は、この先の奥ノ院に続く石段の道にあると思う。この部分が深い森を最も実感できる。深閑とした森に分け入っていくように石段が視界の限り続いている。そこを一歩一歩上っていくのは、森に入り込んでいくような錯覚にとらわれる。先が見えない道は無限に続くような錯覚に陥る。奥ノ院に向かうとうのではなく、森の中、どこか神秘的なところに向かっているかのような…。長い上り坂に初老の身体は堪えるのもたしか…。10分ほど歩いていると先に奥ノ院御影堂が見えてくる。やっと長い上り坂が終わるという安心と同時に、この神秘的な空間が終わってしまったのも残念な気持ち。御影堂からは視界が開けて、下方に広がる盆地が一望できて、それはそれで絶景。でも、私には、森の中の石段がよかった。帰りは同じ石段を下る。途中、朝の勤行だろうかオレンジ色の僧衣をまとった僧侶の方々が石段を上ってくるのとすれ違った。あの動きにくい僧衣で、草履で、観光客を励ましながら上ってくる。「お疲れ様」と声を掛けたら、「毎日行き来しているから、慣れっこです」との返答。ああ、この僧は修業している人なのだと思った。帰りの途中、本堂からちょっと脇に入ったところに北畠親房の墓があるというのでお参りした。杉の木立に囲まれた静かな一画で小さな石が積まれた墓標で、説明がなければそれと分からない。訪れる人も数少ないのではないか。そこで、この旅行で、はじめて手を合わせた。
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 室生寺は建築とか仏像とかいうよりも、この静けさ、深閑とした空気が最大の魅力で、言葉にしにくいし、これは実際に行かないと分からない。
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  室生寺から長谷寺までは、山間の細い道を行く。ツアーのバス旅行はこういうときに便利。長谷寺は室生寺ほどではないが、こちらも山間に位置する。駐車場は狭いし、寺から離れたところにある。しかし、門前町はできているし、室生寺に比べて観光地化が進んでいる。

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入山受付を済ませて、仁王門をくぐる。東大寺、室生寺と山門を見てきたが、この長谷寺の門が一番手が込んでいて立派に見えた。ただ、この先すぐに長谷寺のウリである登楼が始まるので、ほとんどの人は素通りして登楼に向かう。昨日の東大寺二月堂の出口の下り廊下を想わせる。室生寺の石段ほどではないが、こちらもそこそこ長い。また、こちらは観光地化されているのか、登楼を上るのに体力的にきつい人には車で迂回して上まで送ってくれるサービスもある。

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そのせいもあって、訪れる人は室生寺より多く、その分賑やか。登楼の分岐の階段に花が一面に飾られていたり、境内のレストハウスがあったりと、観光サービスも見える。登楼を進む途中から見ることのできる紅葉の景色が、この季節の長谷寺観光のウリということになっているらしい。

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登りきったところが本堂で、崖っぷちに立てられてテラスのように張り出た外廊下は、京都清水寺の舞台のようだ。ここから下の景色を見下ろすと紅葉の風景が一望出来て、撮影ポイントとなっている。ここで人々は一様にシャッターを切っていた。でもここだけの話、紅葉の絶景ってワンパターン、陳腐なんだよね。陳腐だからこそ、安心して楽しめるということもある。ここは、そういうほのぼのとした絶景であるということ。ここから本尊を覗くことができるが、特別公開をやっていて、本堂内に入れて本尊に触れることができるという。本尊は十一面観音像。大仏ほどではないが大きなケバケバシイ仏像、と思う。特別料金を払うと、左手に香をかけられ、5色の紐を巻かれる。堂内に入ると、跪いている人がいて、その後ろに行列ができている。

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目の前には本尊の仏像。その足元に跪いて、仏像の足の甲の部分に触れて、熱心に拝んでいる。仏像に触れることができるということは、そういうことだったのか。不思議に思ったのは、何でいる人が見な、単に触るだけでなく、仏像に触れて熱心に拝んでいたこと。中には若い人もいる。人々は、皆、それほどまでに信仰深いのか。仏像の足の甲は人々が次々に触れたためか、つるつるに光っていた。よく考えれば、仏教と仏像は別のはずで、仏像は寺院というビジネスに庶民を呼び込むためのツールにすぎないはずです。ゴーダマ・ブッダが仏像を拝んだ話などきいたことはなく、ブッダは瞑想のメソッドを指導しただけですから、仏像など必要なかった。仏像を拝むこととブッダの教えを実行することとは無関係です。その意味で、この長谷寺の金ピカの派手な観音像は人々へのアピールという点で、機能的な仏像だろうと思います。私の好みから言えば悪趣味ですが。東大寺のハリボテに比べれば、ましだと思います。本堂を過ぎると、あとは帰るだけで、五重塔は修繕工事中で見ることはできず本坊の特別公開にも行ってみました。とくにお金を払って見るほどではなかった。
 ツアーでは、ここで昼食となるが、各自で自由に摂れということ。こういうの困るんだ。昼食時のピーク時間を過ぎていたためか、門前町の店は多少空いてきており、声をかけられたのを幸いに店に入れた。東京の店舗とはちがって、食券とかスマホでの注文ではなく、店員に直接注文し、帰りに下足番を兼ねたおばあさんにテーブルナンバーを告げると、いくらですと精算するという、アナログな懐かしい方式。スレていないのに、なぜかホッとした。
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 そして、最後の訪問先である談山神社に向かう。室生寺、長谷寺、そして談山神社と段々と観光地化、俗化してくる。談山神社も山の中。門前は狭く、駐車場から距離はある。しかし、売店は賑やかで、呼び込みがうるさいほど。紅葉の名所として有名とのことで、結構訪れる人が多い。受付を済ませて、鳥居をくぐると石段を上がる。室生寺や長谷寺ほどではないが、そこそこの長さ。2つの寺の石段を上がって、足腰に疲れが出ている老人には、少しキツくなった。石段を上がったところが拝殿。靴を脱いで上がって、テラスのようになっている外廊下から下を見下ろす。周囲を紅葉に囲まれて絶好の撮影スポットになっている。ここで皆さん記念撮影。ここが談山神社のポイントなのかもしれない。建物は古いらしいが、それだけ。この裏手に本殿があり、直接行くことはできないので、ここから窓越しに見る。その他、十三重塔が日本で唯一ということだが、あるので見たという程度のもの。それが独特の美しさがあるというのでもない。だいたい、塔というのは仏教寺院で仏舎利を収めるためのもので、神社とはべつもののはず。だから、ここにあること自体がおかしい。そんな理屈をいってもしょうがないのだが、十三重というのは、五重塔では勝てないので、屋根の数を多くすれば勝っていると単純に考えたとして思えない。ここから、バスで一気に京都駅に戻るので、途中でもよおさないようにトイレに行くことしか考えられなかった。
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 今回は一泊二日でけっこう歩いた。室生寺は、石楠花の季節にもう一度来てみたいと思う。

 

2025年11月25日 (火)

二回目のツアー旅行(紅葉の室生寺、長谷寺、奈良公園)~第1日目、奈良公園 2025年11月20日

 東京駅日本橋口の集合時間が朝8時10分なので、朝の通勤時間に被る。大荷物を持ってラッシュの電車に乗った。東京駅で降りたら、新幹線の改札のあたりは、キャリーバッグを引いた人がたくさんいた。この人たちの大部分は旅行のようだ。それで、ちょっと安心した。早朝にもかかわらず集合場所には、たくさんの人でごった返していた。今回申し込んだのは、おひとりさま限定のツアー。全参加者数は21名で、うち男性は私を含めて3名。つまり、ほとんどが女性。そこで、女性のコミュニケーション能力に驚く。全員が単独申し込みのはずなのに、顔合わせの最初から、以前からの友人のように親しげに打ち解けている。これに対して、男3人は、それぞれ黙り込んで、孤立している。東京から京都までの新幹線、3人掛けシートに男3人黙りこくっていた。対照的に女性の席はおしゃべりに花が咲いていた。男ってダメだと、こういう時、思う。
 京都で新幹線を降りたら、外国人観光客の姿が目に付く。しかし、先月来た時ほど込み合ってはいなかった。今回は、京都は通過点で、すぐさまバスに乗り換え。参加者数が21名なので、1シート、つまり2人掛けの座席を1人で使える。ゆったりとしたいい気分。ここから奈良に向かう。1時間の車中で昼食。
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 春日大社に12時半頃に到着。今日は、ここ奈良公園で4時間半を過ごす。まずは春日大社。奈良公園の中央である県庁から、公園内とはいえ上り坂を10分足らず。駐車場でバスを降りると、境内は日本人より外国人が多い。参道には鹿が数頭。春日大社は山の中腹の斜面にへばりつくように建てられている。本殿周りの回廊は左右対称ではない。それがさらに鬱蒼と茂る杉の大木に囲まれて、その全容を見ることができないようになっている。それは、左右対称で、どこまでも明解な西洋のモニュメンタルな建築とは明らかに異なる文化だということが明白。

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そこが面白いところかもしれない。もともとは御蓋山を神としてまつり、その山域を神域として社を建てていたのだろうと思うけれど、今は、周辺に開発の手が伸び、深閑としていた(言い換えれば放っておかれた)神域は公園の一部となり道が縦横に伸び、その一画に神社の建物があるということになっている。広い参道とか玉砂利とか、後からのとってつけた感がありあり。本殿の建物は、最初は小規模な祠だったのが、平城京ができたりして、後から継ぎ足しで規模を大きくした感がありあり。様式はごちゃごちゃで、とにかく“らしく”立派にしてみました。

103 朱の漆で金がかかってますといった見栄があからさま。そういうのって、神道の常套だよね。本殿の朱塗りの回廊と、その奥の区切られた立ち入りができない大宮の本殿の、いかにも古代的な社との建築様式の異質さ(ちぐはぐさ)。そして、それほど広くない、というか狭い回廊内に小さな社を詰め込むようにようにして、それぞれが別々の神様を祀っている。通勤ラッシュの満員電車のようにあれもこれもと詰め込んでいる。権威を高めようと盛っているのが透けて見えるというか。それを恥も外聞もなく、正直に行っているのがいかにも神道だなと思う。日本人は、そういうの好きなんだと思う。私も日本人だし。そういうのをひとつひとつお参りしてしまうんだよね。それと、権威の拍付のために、後代の著名人にあやかるというところ、回廊の釣り燈籠にはひとつひとつ寄進者の名が刻まれていて、徳川将軍だの戦国大名だの歴史小説のヒーローの名が目白押し。有名な誰々も寄進しましたということで権威を高めるというやり方。こういうのを虎の威をかるともいうんだけれど、これって、現代なら友達の親戚に大スターの誰々がいるといってあたかも自分がそのスターと縁続きのようにして自分の拍付をしているのと同じ。結局は自身に実力がないといっているようなものなのだけれど…。そういうことを気にしないで、昔から堂々とやっているところ、そういうを見て、ありがたいと思ってしまう。平和だと思う。そういう思い遣りが、安穏をつくりだすかもしれない。春日大社を見て、ぶらぶら境内を歩き回っていて、そう思った。ここは、ひとつひとつ、とくに取り上げて注目するようなモノってないんだよね。このあと、東大寺など奈良公園をみてまわるのだけれど、その全体に対する印象は、ハリボテ、大雑把というもので、春日大社は、その前触れとなったのでした。
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 春日大社から東大寺まで、駐車場が別々なので、バスで移動。広い公園だけれど駐車場は小さく、バスは留めて置けないのでいったん客を降ろしたあと回遊するという。駐車場近くの氷室神社を参拝した後、東大寺に向かう。2時間ちかくの時間の余裕があるので、たっぷり見ることができる。修学旅行では行かなかったので、還暦を過ぎて、大仏初体験なのだ。奈良公園の南大門に向かう通りは人も鹿も春日大社周辺よりずっと多い。それでも、ツアーの添乗員やバスの運転手によれば、今日の人出は、それほどでもないという。平日だからということだ。休日は、これよりも多いのかと思うと、あまり想像したくない。それと、午後の3時過ぎの時点では気にならなかったが、帰りの時間の夕方5時ごろになると放し飼いにされている鹿の糞が増えて、それを踏んづけないように注意しなければならないのと、糞の臭いが公園全体に立ち込めて、汚い公衆便所のような感じになっていた。
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 東大寺に向かうと、正面に南大門。その向こうに大仏殿の屋根が見える。南大門は、たしかに大きい。でも、どこか貧相という印象。実際はそうではないのだけれど、骨がむき出しというのか、全体に潤いのない、パサパサというか、薄汚れたまま放置されているというか、そんな感じ。あれだけ大きいから、手入れの手が届かないのは仕方のないことは分かる。それにしても…。門の石段は高くて、上り下りに苦労する。そして、門を入るときに仕切があって、それをまたぐのもまたたいへん。これって、もしかしたら、この門は人が行き来することを、そもそも想定していないのではないのか。現代の動きやすいズボンや運動靴でも、ちょっと苦労するのだから、昔の服装では、もっと苦労するだろう。馬とか車は、まず、通れない。だから、門の左右に道ができている。門を通らずに、回り道をする方が一般的だったのではないか、と思ったりした。

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この南大門には、金剛力士像がある。鎌倉時代の仏師運慶と快慶の傑作とされている。たしかに、パターン化されたなかで小手先の趣向の変化に凝るしかない仏像に比べて、ダイナミックな力感に溢れて異彩を放っている。ポーズも生き生きとして躍動感に満ちている。それも、南大門で日に曝して置いてあるというのがいい。宝物館や博物館の方が保存の環境としては理想的なんだろうけれど、あるべきところに在るという感じで、存在感を増している。陽がさしてくる角度によって陰影が変化し、それによって像の様相が変化する。つまり、見る時間によって像の見え方が変わってくる。これは、行きの3時過ぎと帰りの5時近くに、この像を見たときの印象が違っていたのだから確かだ。しかし、前に金網が張ってあって、金網越しというのが、見る者に距離感を強く感じさせるというか、像を見るまえに金網が目に入ってしまって、距離感がおかしくなり、平面的に感じさせられてしまう。
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 南大門から広い道をいくと、中門の前に囲まれた回廊があって、その中に大仏殿があり、そこに入るには入場料を払わなければならない。左手に入場口があって、入場券売り場で行列ができていた。外国人観光客が多く、売り場で何か話し込んでいる人が多く、なかなか行列が進まない。その脇を修学旅行が団体入口を通り過ぎていく。小学生だろうか、賑やかだ。こんなとの一緒になったら、うるさくていやだ。早く通り過ぎていってほしい。ようやくのことで入場券を買って、入場すると、左手に大仏殿が見えてきた。この回廊で大仏殿を背景として記念撮影のポイントと思われるところで、多くの人が一様にカメラやスマートフォンを構える。誰かが撮影したら、その同じ場所で同じように撮影するように、その場所の前で撮影の順番待ちの行列ができる。その行列が通路をふさぎ渋滞が生まれる。さらに、一人が何度もシャッターを切るので、なかなか行列が進まない。数歩先のところで撮影しても、それほど変わらないのに、同じ場所で撮影しようとする。でも、熱心に撮影しているようだけれど、撮影した画像を確認すると、満足げにそそくさと、その場を去り、景色を見ているようには見えない。写真の画像という平面になってしまうと捉えることのできない空間の広がりや奥行のパースペクティブで景色を見ることができるのは、二つの目によってなのに。わざわざ現地に行って、実物を見る意味はそういうところにあると思うのだけれど。大仏殿は南大門と同じような建築様式のように見える。南大門が骨だけなのに対して、贅肉が付いた印象。とくに屋根の豪勢さが目立つ。

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ただ大きい。規模に圧倒される。逆に言うと、それだけ…。大仏殿は左側が入口で、内部を大仏を中心として時計回りに一周する一方通行の順路。大仏像はたしかに大きいのだろうけれど、大きさを実感できない。大きいというスケール感が迫ってこない。なんか大雑把というか雑なつくりという感じで、大きさというメリットを生かすことができず、セコい印象。大きさがおおいさになっていないのだ。たとえば、顔は平面的で、四角い板に鼻の出っ張りを真ん中に付けて、目と口の穴をあけたような手抜きの顔で、全体として間抜けな顔。マンガのキャラでいうと、図体ばかり大きくて、のろまで頭がまわらない脇役のよう。大仏の身に着けている衣の表現なんかも、大雑把で皺の処理なんかが雑。大きなものを作ろうとして、その大きさに技術が追いついていない。無理して、背伸びした結果、中途半端なものがてきでしまって、それでも“しかたがない、まぁいいか”って妥協して、中途半端のまま放りだしたという感じ。大仏の写真で正面からのものが少なくて、斜めの方向で下から見上げるようにアングルの写真が多いのは、そのアングルだと、顔のまぬけさが感じにくいから、というのが実物を見て分かった。光背の浮彫なんかも細部までちゃんとできていないし、デザインも定型的で面白みがない。順路を進んで大仏の背の方に回ると、大仏殿のなかで売店が並んでいて、ここで商売かよ、とシラケてしまった。その一画で、柱の穴くぐりは行列ができて、その穴から顔をだすところが記念撮影のポイントになっていて、そこでキャッキャ騒いでいる。威厳もへったくれもありはしない。まあ、これは一度みれば十分。そういうものだ。今回は、遅ればせながら、その体験ができたということだ。大仏殿を出て回廊を左に曲がると入場口の反対側で、そこが出口。外国人観光客が、そこから入ろうとして警備員ともめていた。
 大仏殿を出て、左手の坂を上がって二月堂、三月堂に向かう。こうしてみると、境内は広い。しかし境内全体の設計というのはないのだろうか。行き当たりばったりに建物が建てられて、配置という発想はないみたい。観光する側では、探検気分で歩けるので、悪くはない。大仏殿とこれらの御堂の往復で、ちょっとしたウォーキングになるくらい。それほど広い。二月堂と三月堂は並ぶように配置されていて、まずは三月堂(法華堂)へ。正面から見る外観は大仏殿のミニチュア版で、南大門、大仏殿、三月堂と建築様式が統一されている。ここではじめて、この寺の思想らしきものをうかがうことができそう。ここの拝観は入場料が必要で、個々の御堂で、それぞれ入場料を払うのは、遊園地でアトラクションごとにチケットを買わされるのと同じで、東大寺はテーマパークと発想が似ている。靴を脱いで御堂に上がる。ここは大仏殿の喧騒とはうってかわって静かな佇まい。照明はないが、差し込む自然光で堂内は暗くはない。とはいっても、安置されている仏像を細部まで見ることができるほどではない。でも、その方が仏像の見方としてはいいのかもしれない。仏像を正面にして、反対側、つまり拝観者側の壁には段差がしつらえてあり、それがベンチのようになっているので、それに腰掛けて、じっくりと仏像を眺めることができた。それは、静かで落ち着いた時間だった。東大寺にきて、はじめて落ち着いた時間を過ごすことができた。ここの仏像の中心は不空羂索観音。

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この仏像については写真でよく見たが、顔がよくわからなかった。それが実物を見ると、金箔が部分的にはがれてしまって、それを写真にするとおおきな斑のようになって顔形がわからないようになっているのがわかった。ここで、ちゃんとした顔をみることができた。そんなこともあって写真とはだいぶ印象が異なる。静かで落ち着いた、普通に仏像だった。大仏が大雑把だったのに比べて、普通に仏像というのは、なんだか救われたような気分になる。この御堂のなかでも、この不空羂索観音像以外の四天王などの像は塑像で、のっぺりとしていて、ハリボテという印象。昔、地方の観光地にあった秘宝館の人形のような、表面的なイミテーションのような。あえていえば、その偽物感というか、ハッタリの感じが大仏に通じるところがある。それを静かな三月堂のなかで落ち着いて見ている、向き合っている、というのはなかなかすてきだと思う。これって、もしかして“わびさび”の源流なのかも。
 次いで、となりの二月堂に。隣といっても二月堂は小高い丘の上にあるので石段を上っていく。ここは、堂内に入れないので、無料。テラスのようになっている外回りを歩く。あのお水取りで大きな松明を持った僧が走りまわるところだ。そのテラスからの眺めは奈良公園を一望できる。といっても、公園の眺めそのものは別に大したことはない。ただ、見下ろすというのがいいのだろう。二月堂は、そういうロケーションにあるということだ。この御堂の本体よりも、出口となり下りの廊下、屋根付きの下りの石段がよかった。この石段を下りて、大仏殿の裏手を回る道は、通る人も少なく、静かで風情のある雰囲気だった。大仏殿の裏手を散策しながら、正倉院と戒壇院を目指したが、残念ながら拝観時間が終わって閉まっていた。しかたなく、大仏殿の正面に戻ったが、そのころは鹿の糞の臭いが充満してきて閉口した。

 

2025年11月14日 (金)

生誕151年からの鹿子木孟郎(6)~「中国青銅器の時代」

Kanokogichina  鹿子木孟郎展はこのくらいにしてロビーに戻ったら、他にも「中国青銅器の時代」の展示をやっていたので、ちょっと覗いてみました。こういうのには、全く知識がなくて、見方も分からないので、ただ眺めるだけでした。いちおう挨拶を引用します。“模と範が生み出す青銅芸術──いまから約三千年前の殷周時代、古代の工人たちのイマジネーションと超絶技巧によって生み出された青銅器の数々は、美術工芸の「模範」としてのちの時代に大きな影響をおよぼしてきました。今年、約半世紀ぶりのリニューアルを迎えた泉屋博古館では、世界最高峰とも称される住友コレクションの青銅器を、新しくなったブロンズギャラリーにて一挙に公開。動物をかたどったユーモラスで愛らしいものから、金属ならではの厳しくも優美なる造形まで、中国古代の青銅芸術を存分にお楽しみいただけます。秋季は殷周青銅器の鋳造技術にせまる特集展示を公開。奥深き殷周青銅器の世界へとみなさまをご案内いたします。”
 Kanokogichina2 たしかに、考古学的な価値といったことは全く分かりませんが、造形的におもしろいものは、いくつもありました。
 「虎卣」は、後肢で立ち上がった虎が大きく口を開け、人を丸呑みするかのような姿。人は赤ん坊のように虎に抱きついている。これがどのような意味をもつのか、この像が何に使われたのかは分からないらしいですが、この造形そのものが面白い。
Kanokogichina3  「饕餮文方座簋」の器の正面の模様が饕餮です。中国の古代神話の魔を食べるという怪物で、貪るということから器の文様に用いられたということです。この左右対称の図案としても面白い。
 銅鏡もたくさん展示されていました。鏡というくらいだから、見ている私の姿は写っているのだろうかと探しましたが。そういうのではなさそうです。ただ、表面に浮彫のように文様がつけられているのは、かなり複雑で興味深かった。
展示品を見ていたら、係員の人が声をかけてきて、説明してくれて、とても親切だったのですが、この後の予定もあって、長居できないのが残念でした。ロビーでゆったりしている人も見かけましたが、ここは展示品を見ながら、ゆったりと時を過ごすのに、いい場所だとおもいました。午後いっぱいくらいの時間をかけてゆっくりすごしたい場所です。今度来るときは、たっぷりと時間をとるようにしたいと思いました。

 

2025年11月13日 (木)

生誕151年からの鹿子木孟郎(5)~第4章 象徴主義の光を受けて─不倒の画家、構想の成熟

 展示の最終章です。いままで回顧展というと展示の最終章は画家の晩年の作品となって、枯れてしまうというか、最後のひとつ前くらいが最盛期で、盛りを過ぎて力が抜けてしまうことが多かった。しかし、この展覧会では、鹿子木は最後まで上昇を続けたのが作品を見ていて感じられます。最終章が最盛期と言えます。つまり、ここが今回の展覧会の核心部です。
Kanokogitree  「木の幹」という作品です。“本作は鹿子木の自宅近くにある下鴨神社の境内に広がる糺の森を舞台に、悠久の時を経た老木の姿を捉えた作品である。画面中央に描かれた巨木は、ねじれた幹と広がる根元に力強さを宿し、周囲の木々や地面との対比によって圧倒的な存在感を放っている。背景には複数の木立と人影が控えめに置かれ、森が人々の営みと共にあることを示すと同時に、老樹の孤高を引き立てている。鉛筆による細密な描写と部分的に用いられた彩色は、樹皮の質感や樹勢の複雑さを忠実に伝え、静謐な森の空気感と自然への畏敬の念が画面全体から感じられる。糺の森が育む記憶と時間の重みを象徴するかのような、荘厳で力強い作品である。(図録P.185)”と説明されています。このような孤高の老樹の焦点を当てた作品は、他の画家にも、例えば高島野十郎の「御苑の春」があります。高島のモミジバスズカケノキの大樹は、風雨に耐えながら長年生きてきた存在ですが、背景の若木は移ろいゆくものというのではなく、これから風雪に耐えて大樹となっていく可能性の存在です。そこで強調されるのは大樹の孤高さではなく、長年の風雪に耐えながらも枝を繁茂させる生命力であり、自然の大きさ、そして、若木が背景に控える自然の大きさであり、若木と対比される時間が込められているというものです。それらは、さらに大樹の根元の奥には3人の人の姿が小さく描かれていて、自然の大きさと人の小ささが対比的に描かれています。これに対して、鹿子木は高島のように他の木や人の姿が老樹と対比的に扱われているわけではなく、そこにあるから描いたという感じです。高島の作品に比べて、鹿子木の老樹には重量感が稀薄で、しかも、背景となっている他の木々は老樹と対比的になるほどは存在感がありません。つまり、描写に力が入っていない。これは、たまたま瘤がある老木を細密に描いた結果、何か意味ありげに見えてきた、という作品であるように、私には見えます。ただし、そういう老木を見つけて、描いたということには、それなりの意味はあると思います。
Kanokogilady  「婦人像」は展覧会チラシでも使われた作品です。こちらに向かって何かを訴えかけるような表情をしている。このような顔は、これまでの鹿子木の作品には見られませんでした。それは、物体としての人の顔の形を明確に描くということから、もう一歩進めて、生命感とか生気といったものも描く対象に入ってきたということでしょうか。それとも、日本人の扁平な顔を立体的に陰影をつけて描くやり方が分かったからでしょうか。それにしても、この女性の顔は竹久夢二の描く女性に似ていると思ってしまうのですが。しかし、やはり鹿子木は形のひとなのだと思います。例えば、人の肌と着物の布の質感の違いといったことは、見ていても分からない。描き分けられていない。明確ではないんです。そのくせ左手前のソファーに掛けられている白いレースは、その形や織り目という形が細かく描かれています。その透けているところには拘りがあるかのごとくです。ただし、レースの柔らかな質感は分かりません。
Kanokoginude4  「浴女」は、19世紀フランス象徴主義のシャヴァンヌの壁画を想わせる作品です。“緑に包まれた水辺の風景のなか、裸婦が枝に手をかけて立つ姿が描かれている。右手で枝を握り、左腕で布を支えるその姿勢には、慎ましさとかすかな緊張が漂う。顔はやや俯き加減で、内に向かう感情がにじむ。肌は温かみのある色彩で描かれ、身体の曲線と量感が自然に浮かび上がる。背景の草木は鮮やかな緑と細やかな筆致で描かれ、画面に幻想的な空気を添えている。画面下部に描かれたハグロトンボが、自然の気配をさりげなく強調する。(図録P.213)”と説明されていました。背景の草木は、ひとつひとつは細密で写実的なのですが、全体としては奥行を欠いて平面的で、その草木の配置が恣意的で、どこか意味ありげです。現実にはない幻想的な風景を作っています。まあ、こんなところに裸女がいること自体が現実にはありえないでしょう。日本人画家の描く幻想的風景というと、仏教的なものや伝統的な山水画のようなものになるのが普通ですが、ここまでヨーロッパの幻想画風のものは珍しいのではないでしょうか。しかも、鹿子木は描写力が半端ないので、個々の草木などは細密でリアルに描かれていて、その描写が却って幻想性を高めている。しかも、その中心にいる裸女は純日本的な女性です。シャヴァンヌの象徴的作品との大きな違いは、シャヴァンヌの場合は女性は象徴的で美そのものとでもいうように女性一般としていわば女性の理想像のように個人性を剥奪されて一般化されて描かれているのに対して、鹿子木のこの作品では、おそらくモデルの女性でしょうか、鹿子木は写生的に描くことを止められなかった。女性一般としてではなく、誰々さんが描かれている。幻想的風景のなかにリアルが入り込んでいる。幻想的世界に一人の現実の女性がいるのです。そこが、この作品をユニークなものにしていると思います。
Kanokoginude5  「画家の妻」という作品は、どこかラファエル前派を想わせる作品です。室内の描写は細密です。床に落ちた白い花は何か意味ありげです。そんな西洋風の空間に純日本的な顔つきと身体の小柄な女性が裸体でいることに違和感をおこさせず、むしろそれゆえに幻想的な空間を作り出している。鹿子木のヌード作品は、美の理想というものでもなく、かといってエロチックな官能性を感じさせるものでもない。あくまでも写実なのです。このように写実的に描いているのに、そこに一味加えるだけで、出来上がった画面は幻想的なものになっている。現実を突き抜けたといいましょうか。晩年の鹿子木の作品には、そういう作品があります。こんな作品は、おそらく鹿子木以外にはありえないものではないかと思います。
 「光を求めて」は暗闇に古代風の衣装を着た女性を写実的に描いている。それが、かえって神秘的に見えるという作品です。

 

2025年11月12日 (水)

生誕151年からの鹿子木孟郎(4)~第3章 再び三たびのヨーロッパ。写実のその先へ

 鹿子木は帰国後、その2年後に再び渡欧します。当時、洋行は一度だけでも大事業のはずですが、たいていは洋行帰りを大きな実績として国内での地位を確立して、そこにおさまることで出世を果たすのがパターンでしょう。しかし、鹿子木は、間をおかず再渡欧するというのは、出世をして安定した地位を築くことに興味がないのが、絵画を追求しようという向学心がそれに勝るのか、それ以上に多額の費用がかかる留学について資金面での援助があったのか。資金面でのパトロンはあったのは説明されていますが、鹿子木という人は一途な性格というか、絵のことを考えたら、出世などといった他のことは二の次にするか忘れてしまうようなところがあったのではないか。それがこのような事実から窺うことができます。
 芸術の都パリで修業して帰国したものの、ヨーロッパの光や空気とは異なる日本を描こうとすると、ヨーロッパを描くのに適した手法では、うまくいかず、多くの画家はギャップに悩むというのが多いようです。鹿子木も例外ではなく、最初の留学から帰国後に描いた作品には、ギコチなさが見えます。そこで、多くの画家は、学んできた手法を日本の環境に合わせてアレンジしていく、つまり、妥協していくわけです。それが、その画家の個性の確立ということになっていくわけです。ところが、鹿子木はそのような妥協をしなかった。それよりも、彼は、パリでの修業が不十分だったから、無帰国してからの作品が満足いくものにならなったと考えたのではないか。それで、再度、パリに渡り、不十分と思われた修業をやり直し、今度は突き詰めようとした。鹿子木には、そんなストーリーが当てはまるような気がします。彼の作品を見ていると、勝手に、そんな想像をしたくなってきます。
Kanokogired  「赤い服の西洋婦人」は二度目の渡欧時の作品。「黄昏」の日本人の顔はベッタリと塗り絵みたいだったのに対して、この作品では繊細なグラデーションで顔の陰影が描かれています。これは、鹿子木の上達なのか、ヨーロッパで西洋人の顔を描いているからなのか。たしかに、彫の深い西洋人の顔は立体として陰影をつけやすい。それだからというわけではないのでしょうが、鹿子木の絵画では西洋人は形体・物体として見ることができるのに対して、日本人は陰翳とかが上手く描かれていないで、それゆえに物語を想像させるように描かれているような気がします。
Kanokogidriver  「車夫一服」という作品は、おそらく二度目の渡欧の直前に、日本にいる時に描かれた作品だと思います。“板敷の部屋の片隅でひとりの逞しい和服の男が腰かけて一服している。手には煙管と煙草入れを持ち、煙管から白煙が上がっている。足元の床にはマッチ箱がひとつ。また、画面空間に奥行をもたらしている壁から垂れた布地や着物の質感表現の違いなどにも細かい注意が払われている。…重厚な明暗法で処理された画面が印象的だが、男の顔や手足の部分は明暗表現だけでなく、骨格や筋肉の付き方と筆の動きとが的確に対応した表現がなされ、なおかつ皮膚の感触まで伝わってくるリアルさである。(図録P.106)”と説明されていました。しかし、私には「赤い服の西洋婦人」に比べると粗いというか雑に見えます。顔の陰影のグラデーションが大雑把に思えるのです。西洋人の彫の深い顔の骨格には適している描き方が、日本人の扁平な顔には大雑把になってしまう。扁平な顔の動きは小さく、西洋人には無表情にも見えてしまう日本人の顔は、西洋人の顔に適した描き方では表情を捉えきれないのかもしれません。しかし、顔を骨格という形体の本質で捉えるという点には、鹿子木は惹きつけられたのでしょう。それゆえ、アカデミックな描き方の修得にこだわっていたのだろうと思います。
Kanokogikamo  「加茂の競馬」は帰国後、「車夫一服」の7年後の作品です。「車夫一服」のころの暗褐色を基調とした色調から、強い陽光の下という明るさが画面を支配しています。たとえば白い衣の馬の世話をしている人たちの影は紫色に着色されています。あるいは奥の森の影も紫色です。これにより、強い陽光の下で、影も光によって薄くなる様子が、それで、画面全体に暗い黒がなくなって、明るさが阻害されるものがなくなった。そして、その明るい画面で馬に乗る人物と、その馬の飾りの赤が強く映える。それが、陽光の当たる明るさをさらに強調しています。それほど強調される光で、画面で描かれる馬や人物たち、その他の諸物の形がくっきりと表わされる。この明確な形は強い陽光の下であるということから不自然さを感じさせることがない。印象派とは異質な光の表現で、これは鹿子木独自の光の表現ではないでしょうか。特筆すべきは、印象派は光そのものを表現しようとしますが、鹿子木は強い光に照らし出される形の明確さを表現しようとしている違いです。
Kanokogimaiko  「舞妓緑陰」という作品。緋毛氈をかけた床几の上に腰掛けた舞妓が草花が生い茂る庭先で、お茶と甘味で一服する様子です。それにしても、生い茂る草木の勢いはどうでしょう。まるで侵食してくるかのように暴力的に画面全体を覆い尽くすよう。その草木の強い緑色に対して舞妓の腰掛ける緋毛氈の赤がつよく対立していて、互いに緑と赤が強調されています。この緑の侵食はタイトルの「緑陰」という言葉から想像されるイメージを超えて不自然です。そして、そんなところで、一服している舞妓の姿は異様ですらあります。舞妓の顔はボカされていて、表情をうかがい知ることはできません。そして、右上に白い提灯が宙に浮いています。一見、のほほんとした風景のようですが、現実にはありえない異様な光景。いわば幻想的風景です。写実を突き抜ける鹿子木の姿が少しずつ現われてきたのではないかと思います。
Kanokogiriver2  「運河」は三度目の渡欧の際のパステルによる作品です。ベルギー象徴派の画家クノップフの「ブリエージュの思い出──ベギーヌ会修道院入口」という作品を想い起させる作品です。このパステル画では、まず水路に映る橋と建物の影が目に入りますが、次の瞬間、見る者は空の青に目を移す。この鮮やかな青色は,運河周辺の建築物すべてをシルエットにしてしまう程に強い。水路に地上の形態が影となって映し出されているように、この空のもとでは,地上の建築物は悉く影と化してしまう。この光と影の強い対比が、この作品の特徴となっています。そこに象徴派的と言いますか、何か意味がありそうな雰囲気が感じられます。

 

2025年11月11日 (火)

生誕151年からの鹿子木孟郎(3)~第2章 タケシロウ、太平洋を渡ってパリまで行く。

Kanokoginude2  鹿子木はパリでアカデミスムの絵画を学びます。それまで、鹿子木は風景や静物のスケッチが主に、身近な人物の半身像はあるものの、全身像の人体デッサンはそれほど行っていなかったといいます。鹿子木はパリで“ジャン=ポール・ローランス教室に入学した鹿子木は、西洋絵画の基礎である人体デッサンに熱心に取り組み、コンテや木炭によるデッサンからやがて的確な陰影表現を油彩で行う《裸体習作》へと進(図録P.75)”んだと説明されています。例えば、「男裸体習作(背面)」という木炭によるスケッチです。線によって形を捉えることから、面としての構成になってきています。これにより、重量感が加わっています。描かれているのが、形態から物体に変わってきていると思います。
Kanokoginude3  「裸婦(後向き)」は油彩画です。渡欧前の「日本髪の裸婦」と違って、こちらの裸婦は肉が弛んで垂れ下がっている。それが、そういう身体の形として描かれているのではなく、肉の重みで垂れ下がっているとして描かれている。何か回りくどい言い方ですが、肉の重量感がリアルに感じられるような質感が表現されている。それは、形ではなく、物体として肉体を捉えるようになってきている、ということでしょうか。そしてまた、この作品は「日本髪の裸婦」とは光の当て方が反対で、こちらを向いている背中が陰になっています。光はこちらを向いていない正面に当てられています。こちらから顔は見えません。それゆえ、「日本髪の裸婦」には物語を想像させるところがありましたが、この作品にはそれがありません。ただ物体としての肉体がそこにある。そういう作品になっています。それが彼の渡欧のひとつの成果ということでしょうか。
Kanokogiold  「髭の老人」という作品は、まるでレンブラントのようです。ここには、鹿子木が現地で模写した作品がいくつか展示されていますが、それらはアカデミズムといいますか伝統的な作風の作品ばかりです。当時のヨーロッパ留学は、例えば黒田清輝のように最新の流行を日本に持ち帰って、その紹介者として日本国内での権威者となるのが一般的だったと思います。これは絵画の世界に限らず、学問や技術の世界ではヨーロッパ留学で最新の書籍や資料を持ち帰るが出世コースだったわけです。しかし、鹿子木は最新流行を追うことなく、むしろ流行からは古いとされたアカデミスムの伝統的な絵画を学んでいたようです。それは、彼が対象を捉えるに際して、明確な形を第一と考えるからだと思います。そういう彼にとっては、アカデミスム絵画の方に親しみを感じたのでしょう。そこに、鹿子木という人の、流行などといったものによそ見をしない、よく言えばゴーイング・マイウェイ、悪く言えば視野の狭いところがあると思います。
Kanokogiwhite  ここで展示されている渡欧時代の鹿子木の油絵作品は、総じて暗い色調のものが多く、「白衣の婦人」も例外ではありません。この作品の趣向は印象派にもありそうなのですが、印象派ならは降り注ぐ陽光の下で、それを遮るように帽子をかぶり、白い服が陽光を受けて光るように映えるという明るい作品になるところです。しかし、この作品は暗褐色の背景の中に白い帽子と白い服の女性が光を発するかのように浮き上がるという、バロック絵画にありがちな明暗のコントラストを強調した画面になっています。全体の雰囲気は影を主体としていて暗い。顔は帽子の影となって、よく見えません。
Kanokogiriver  「川辺夕景」という作品は、欧州から帰国後に、京都鴨川流域の下賀茂から上賀茂周辺を右岸から眺めた夕景を描いたと説明されていました。渡欧時代にクールベの「嵐の海」を模写した作品が並んで展示されていましたが、よく似ています。絵の具をベタッと塗り重ねていくのはクールベに倣ったものでしょうか。それにしても、調子が暗くて重い。日本の風景には重すぎるように思います。戦前のパリ留学帰りの画家が日本の風景を描くと、南欧の明るくカラッとした光とはちがって湿った日本の光と風景に、パリ仕込みの感覚が対応できず色調などの表現に悩んで、重苦しい作品を一時描くことが少なくなかったように見えます。鹿子木の作品もそうなのでしょうか。しかし、パリにいたころも暗い色調の作品を描いていたので、この作品は鹿子木のもともと持っている性格が表われているのでしょうか。それにしても、以前の緻密な風景のスケッチとは、どこか異質な感じがします。プラスアルファがあるような。
Kanokogievening  「黄昏」はパリからの帰国後の作品です。“一日の労働を終えて庭先に集い佇む農夫一家を柔らかい黄昏の光のなかで写実的に捉えている。…暗褐色の下地に、固定した光線が各モチーフの形態を浮き出すように彩色を微妙かつ丁寧に重ねる写実表現にぶれはなく、とりわけ光が生み出す陰影の違いを表現した人体表現の充実ぶりは目をみはるものがある。画中の赤と白、緑の色彩はローラン譲りの色使いだが、白い布を通して幼子の顔に当たる柔らかな光は、一方で赤い衣を鮮やかに強調もしている。この幼子を中心とした構図からキリスト教における聖家族と見立てることも可能だろう。幼子背後の黄昏の空が頭光のようにも見え、画面に敬虔で犯しがたい雰囲気を与えている。(図録P.104)”と説明されていました。しかし、私には、以前の風景スケッチにあったような緻密な写実が影を潜めてきたように見えます。色彩のグラデーションも、どこか大雑把で、塗り絵のような感じがしなくもありません。日本風景の情緒が西洋画的な描写とうまく噛みあっていないようにも見えます。それよりも、風景を写実的に表す以上に、何らかの雰囲気とか空気感を表わそうとしているように見えます。
 ここでの作品は、いわば鹿子木の習作の時期、自身の画家としてアイデンテティを模索している時期の作品と言えると思います。その萌芽的なものは随所に見られましたが、鹿子木が画家として確立していくのは、この後の作品からということになります。

 

2025年11月10日 (月)

生誕151年からの鹿子木孟郎(2)~第1章 「不倒」の油画道への旅が始まった。

Kanokogimother  まず、修業時代の習作のような作品からで、「養母」という作品。この後、風景のスケッチを見ていくのですが、まさに写生というものになっています。同時代の日本画の画家たちのスケッチでも、風景や静物のスケッチは、ある程度写生的なものとなっているのに、人物は写生からはかけ離れた、様式的なターンの踏襲にとどまっています。例えば美人画の顔が浮世絵の焼き直しだったりする。それに比べれば、この作品は、少なくとも伝統的な日本の絵画のパターンを踏んでいません。おばあさんは美人のパターンを踏んでいなくて、老婆の顔をちゃんと描いている。その点が、鹿子木という画家の伝統から離れた新しさだろうと思います。黒一色の背景から、黒い羽織と黒に近い深い緑の着物という、日本画では考えられないような地味で深みを感じさせる色調で、白ではないくすんだ肌色の老婆の顔を浮かび上がらせています。しかし、近代日本の西洋画家の肖像画のような重い感じはしません。水彩画であることからかもしれませんが、それは、その正面からの顔はシワや、それがうつる陰影を克明に描いているにもかかわらず、老婆の顔が平面的であるからかもしれません。
Kanokogigirl  同じように正面のアングルの人物画として「少女の顔」という作品です。この作品は「養母」が水彩画であるのに対して、こちらは油彩画です。水彩画と油彩画では絵の具の性質が異なるので、色の使い方や絵の具の扱いが不慣れなのが分かります。不慣れなのか、鹿子木という人が油絵の具の色とは合わない感性の人なのかは分かりませんが、ベタッと平面的に塗っているという印象です。塗り絵の範疇を出ていない。その範囲内で陰影をつけようとしている。そのためなのか、右側に強い光を当てて明暗のコントラストを強調するようにして、顔の陰影を表現しようとしているように見えます。まだ、細かなグラデーションをつけるには至っていなくて、ベッタリとしている。それとも、陰影のグラデーションを色の変化として見るという感覚がないのか。もともと、日本の絵画には、そういうものが見られないからかもしれません。しかし、これらの作品から、それらが習作的に作品であるからこそ見えてくるのは、鹿子木という画家が、ものの形をハッキリと捉えるという特徴です。
Kanokogiprofile  「横向きの男」は19歳の時の木炭によるデッサンです。前の女性像がそれぞれ彩色すると、どこか写実から離れてしまうのに対して、こちらは、まるで写真のように写実的です。彩色された作品では見られなかった陰影の微妙なグラデーションは、ここでは緻密に描かれています。このころの鹿子木は彩色ということが、デッサンで形を捉えて描写するということに比べて、追いついていないと思います。しかし、形を捉えるということには秀でていた。スケッチは一流。これは、鹿子木という人の対象を色彩ではなく、形として捉えていたということを示しているのではないかと思います。彼は、終生、この明確な形を捉えて表わすということをやめなかった。それはここで展示されている作品を見ていくと、分かります。それが、このころ、すなわち、画家の修業時代から明確に表われている。
Kanokogikomagome  こんどは風景のスケッチです。「駒込坂上り口」は1892年の東京の駒込の風景ということです。画面左手前から奥へと緩やかに伸びる道の途中に、馬に引かれた荷車が描かれています。遠景には木々の茂みや田園が広がっている。明治の中頃で、18歳の若者が、これほどの西洋画的なスケッチを描いていたというのは驚きです。当時の鹿子木が学んでいた小山正太郎の不同舎では、“紙の四辺に鉛筆で枠を引き、そのなかに風景を収める(図録P.42)”という手法が採られていると説明されていました。風景は、日本画の画家も比較的写実的なスケッチを残していますが、それは人物画に比べて、線描の輪郭を捉えやすいからでしょうか。鹿子木の、このスケッチは草木や地形、そして家屋などを明確な形として捉えて、それを鉛筆の線で描いています。その線には迷いがなく、1本スゥーと伸びるように引かれています。細かな線を何本も引いて、その繋がりで1本の線となるような描き方もでき、それは間違いのリスクを低下させることができます。しかし、鹿子木はリスクを採って、決然と1本の線を引いています。そこに集中力を感じます。それゆえ、線に強さが感じられます。それは、対象には明確な形があり、それを捉えているという確信がある故だと思います。鹿子木の線は、ただ強いだけでなく、線の濃淡や太さの使い分けが繊細で、それが彩色にも勝る陰影や質感を表現している。
Kanokogiakasaka  「赤坂風景」は、「駒込坂上り口」の2年後の木炭によるスケッチです。奥へと続く広い道沿いに家々が軒を連ねる街並みの風景です。左右に配された建物群と落葉した背の高い木々は、緻密な線描によって繊細に表現されています。中央の道の土の質感や建物の風合い、空の広がりにいたるまで、陰影と線の変化によって、どこか湿った空気感が表現されています。まるで。セピア色に色褪せた古い白黒写真を見ているようです。「駒込坂上り口」より、さらに繊細な線描で、空気感まで表現されていると言えます。
Kanokogimother2  「老女」は「赤坂風景」と同じ年の油絵作品です。暗い背景の中に左から光が当たり、陰影の深く老女を描いています。日本人の顔は西洋人に比べて扁平なので、正面から描くと前に見た「養母」のように平面的になってしまうので、立体的に描くために工夫が為されていると思います。その結果が、バロック絵画、レンブラントのような光と影のコントラストを強調したような画面になっています。後年の岸田劉生に通じるところがあるようにも見えます。しかし、どこか彩色がギクシャクしていて、陰影がうまく表現されているとは言い難い。そのあたりが、鹿子木が留学する動機のひとつだったのかもしれません。
Kanokoginude  「日本髪の裸婦」という作品です。これも輪郭がハッキリしていて、明確な線描の下絵に従って色が配されていることが分かります。あくまでも形が先行している。描き方として、絵の具を置いて、それでつくられる面から画面が構成されるのではない。形が第一で、それに陰影や質感が加えられていくのが分かります。それゆえなのか、この人の裸婦像はエロス的要素が感じられない。この裸婦も若い女性なのでしょうが、野暮ったいというか田舎娘でアカ抜けていない。その代わり、鹿子木の人物画は描かれている人物の物語を想像させるところがあります。

 

2025年11月 8日 (土)

生誕151年からの鹿子木孟郎(1)

2025年10月 泉屋博古館 
Kanokogipos  東京地方の朝は肌寒いが、上着を着ずに出かける。少し寒いが我慢して、新横浜で新幹線に。新大阪行きの「のぞみ」は満席だったが、名古屋で半分が降りてしまった。京都で降りる人は少なかったので、噂に聞く混雑は免れたと思い、ほっと一息。と思ったら、地下鉄に連絡する八条東口の改札は大荷物の外国人観光客で渋滞していた。地下鉄は満員。途中で東西線に乗り換えると、ようやく席に座れた。蹴上駅で下車。道路に出ると、ここも観光客の姿。まあ、東山の寺院の散策路なので仕方がない。細い道を少し歩くと、金地院(これって黒衣宰相の金地院崇伝?)、そして南禅寺。さすがに南禅寺は人が多い。その大半が白人の観光客。ここを足早に通り過ぎて、永観堂の方に向かう。永観堂なんて比較的地味なのに門前には列が出来ている。混んでいるなあという感想が思わず漏れる。永観堂を過ぎると銀閣寺への散策路と別れ、静かになった。でも、道の雰囲気、風情は変わらない。泉屋博古館は、その一画に静かに佇むようにある。地下鉄蹴上駅から泉屋博古館は歩いて20分足らず。途中に寺院が散在する風情ある道なので、時間をとって途中の寺院に参詣したりして寄り道しながらゆっくり散策するのもいいと思う。
 Kanokogimuseum 泉屋博古館は玄関脇にベンチがあって、中に入らなくても、ちょっと休憩できるようになっている。玄関をはいると、すぐ受付と広くゆったりしたロビー。なんか、とても贅沢な空間の使い方をしている。企画展の展示室へはロビーの奥の中庭の向こうの別館に行く。中庭も芝がきれいで、しばらくそこでのんびりしたくなるようなところ。東京の泉屋博古館とは全然違う。実は、この鹿子木孟郎展はこの後東京の泉屋博古館に巡回する予定なので、東京に来るのを待っていてもよかったのだが、無理をして京都まで来て、この美術館の雰囲気で見たのはよかったと思う。参観者は、それほど多くはなく、落ち着いた雰囲気。着物姿の女性が見られるのが京都らしい。
 いつものように鹿子木の紹介もかねて主催者の挨拶を引用します。
 “1874(明治7)年、現在の岡山市に旧岡山藩士の3男として生まれた鹿子木孟郎(1874~1941)は、14歳で洋画家・松原三五郎の天彩学舎に入学、18歳で上京し、小山正太郎の画塾・不同舎に学びました。洋画の草創期に青春を過ごした鹿子木は、絵画の中心が伝統的なアカデミズムから印象派などの新しい芸術運動へと移り行く時代に留学しました。鹿子木は都合3度パリへと留学し、19世紀フランス・アカデミズム「最後の歴史画家」と称されたジャン・ポール・ローランドに師事し、また象徴主義の画家ルネ・メナールに接するなど、多くの学びと新しい刺激を受けました。そして帰国後は、文部省美術展覧会の審査委員を務めるなど、関西洋画壇の中心的な作家として活躍する一方で、自身の画塾を主宰し、京都高等工芸学校講師や関西美術院の第3代院長務めるなど、多くの後進を育てています。
 Kanokogimuseum2 鹿子木はフランス・アカデミスムの正統を継承して日本への移籍を試みつつ、一方で日本独自の油彩画の確立を目指していきました。その作品は、観る者の視線を釘付けにするような力強い写実表現が最大の特徴ですが、さらにはメナールを通じた象徴主義といった同時代絵画の刺激を受けた豊かな展開も認められます。
 鹿子木孟郎の回顧展は、2001(平成13)年に府中市美術館で開催されてから四半世紀ぶりの開催になります。本展覧会は、生誕150年を記念して、広く知られた画家の代表作から、新たに発見された作品まで、鹿子木の画業をたどることができる作品を紹介するものです、日本近代洋画に本格的な写実表現を移植した鹿子木の足跡と、次々と押し寄せる西洋絵画の新しい思潮のなかで、写実を貫きとおした鹿子木の魅力を再確認する機会です。”
 日本の洋画の歴史の中で、写実的作品を描く人の中には、偏執的性格の強い人が何人かいます。岸田劉生とか、先日見た高島野十郎もそうですが、写実ということに執拗に拘泥しているうちに、いつしか写実の枠を超えて思いもかけないような作品を描くにいたる。画家本人は写実だと思っているので、質が悪いのですが、妄執の果てに、といったことなんでしょうが、そういう規格外の写実家、鹿子木もその一人だと思います。もちろん、そういう画家は、とても魅力的です。
それでは作品を見ていくことにしましょう。なお、会場で配布されている展示作品リストと販売されている展覧会図録の番号は一致しないので、展示作品を図録で見直すにはちょっと不親切です。

 

2025年11月 2日 (日)

上村松園と美人画の軌跡(3)~第2章 東西で活躍した個性豊かな美人画家たち

 階段を3階に上がり、第2展示室に向かいます。第1展示室と同じように、暗闇の行き止まりで、自動ドアが開いて、展示室に入ります。上村松園の作品は、もう出てきません。展覧会タイトルやチラシであれだけ前面に出していながら、展示の半分もないとは…。過剰な宣伝というか、上村目当てできた人なら“金返せ!”です。私も、ちょっとシラケてしまいました。結局は、所有している作品を手を変え品を変え、もっともらしいタイトルで並べて、客を集めている、と誹謗中傷を加えたくなります。
Uemurakabura  気を取り直して、とはいってもテンション低めですが、見ていきましょう。鏑木清方の「雪つむ宵」という作品です。何年も前に、東京の国立近代美術館で鏑木の回顧展を見たはずですが、まったく覚えていません。新たな気もちで作品を見ましたが、上村の作品と区別がつかない、と思いました。強いて違いを見つけると、鏑木の作品の方が描き込みが深い。そして、上村は背景を描かないのに対して、鏑木は背景を描いている、ということでしょうか。そのため、鏑木の作品は物語の一場面という動きが感じられるところがあります。つまり、上村が描いているのは、一般的な美人のイメージですが、鏑木の場合は背景がきちんと描かれているために、ある場面という限定がされて、そこに位置づけられているということです。つまり、美人の差別化がなされるのです。例えば、美人と言っても、庶民にとっての美人と上流階級にとっての美人は違いがあります。庶民的美人が、気高いのとは、なかなか両立しません。庶民的美人なら、気高いはお高くとまっているに価値が逆転してしまいます。鏑木は場面を特定することによって、庶民的か気高いかの区別のどちらかに限定するということをしました。それは、映画や演劇のヒロインのような、その背後に物語を想像させるような美人です。これに対して、上村の場合は、そういう背景のない、ただ美人という抽象的なものです。現代でいえば、化粧品の宣伝写真やあるいは男性向け雑誌のグラビアページのような、こういう顔が美しいとか、こういう身体が魅力的だとか、そういうものです。
Uemuraito  伊東深水の「春の雪」という作品。上村の「人生の花」と似たようなポーズで、上村は後ろからのアングルであるのに対して、伊東は前からのアングルで描いています。前方からということは、顔が見えることになり、伊東は目、とのわけ瞳を描いています。しかし、伊東は美人の瞳の記号を作ろうとしているように見えます。少女マンガの星の入った瞳のようなパターンです。それは、上村のように個人を描くことと美人画のパターンという相容れないものの間で妥協を模索したのとは違い、時代の変化にそくした美人の記号の更新をしようとしていると言えます。だから、そのパターンの外にはみでるような、現代女性を描いた「海風」という作品では、女性は美人に見えません。
Uemuraokamoto  岡本神草の「追羽根」という作品です。羽根つきをしている女性の落ちてくる羽根を待ち受けて、今にも打とうとしている姿です。女性は上を向いているので、顔を仰角で描いています。これでは美人の顔を美人として描くのは難しい。美人画としては、かなり苦しいと言えるのではないでしょうか。これは、美人画の新しい試みと見ることもできます。この展覧会は美人画の軌跡というタイトルなので、そういう見方をすることになります。そのような視点では、この作品は、美人画に新たな方向性を与えようとするひとつの挑戦と見ることができます。しかし、それは結果として、その挑戦は美人画の方向性を限定してしまった。それが繰り返されると、徐々に袋小路に追い込まれていくように思います。その試みは挑戦的であると思いますが、結果として行き着くところは美人画の否定という結果になってしまう。中村貞以や谷角日沙春の作品には、美人画の否定と言ってもいい。

 

2025年11月 1日 (土)

上村松園と美人画の軌跡(2)~第1章 上村松園と近代に活躍した女性画家たち

Uemuramiyagawa  上村松園の作品と思ったら、18世紀の浮世絵。宮川長春の「括り枕と美人図」です。このような作品を見ると、上村松園の美人画への影響が分かります。例えば、上村松園が17歳の時に描いた「四季婦女図」では同じような顔の描き方をしています。この作品の作者名を伏せた上で見ると、江戸時代の浮世絵と間違えてもおかしくないと思います。修業時代の習作のような作品でしょうか。ここには、上村が江戸時代の美人画の伝統に連なっているということが分かると思います。ただ、江戸時代の浮世絵Uemurafore では身体のバランスやポーズが不自然だったりするのですが、上村は近代的な視点で自然と思われるように描いています。そうすると、近代的であるように見える。当時では、そこが上村の美人画の特徴だったのではないかと思います。
  それが、22歳の時の「一家和楽之図」という作品では、しゃがんでいる幼児は写実的に見えます。また、左で縫物をしている女性の顔は、それまでの浮世絵の顔とは明らかに違っています。このあたりで上村の顔ができてきたのだろうと思います。浮世絵での記号のような美人のお約束に則っていたUemurafamily 「四季婦女図」とは異なり、記号的なお約束を追求するあまり、近代の科学的な視点では考えられないような歪んだ顔から、そういう視点で不自然と思われないような顔の形になっています。ただし、それは西洋画のような骨格の構造を踏まえたようなものではなく、浮世絵の顔を近代的な視点で不自然でないものにアレンジするというものです。近代的にアレンジされた浮世絵、それが上村の美人画ではないかと、ここでの展示を見ていて、思いました。
Uemuramude  「浴後美人図」のような裸婦像では、上村が西洋画のような科学的な身体構造を把握したデッサンができていないのが分かります。骨格とか筋肉の構造が理解されているのではなく、便宜的に乳房が身体にくっついているという感じです。こういうのは、着物を着せてしまうと身体は隠されるわけです。そこでポロが出ることはない。上村に裸婦像が少ないのは、上村自身がそういう自らの弱点を自覚していたからかもしれない。この作品を見ていて、そんなことを思いました。
Uemuralife  「人生の花」という作品。「浴後美人図」の次にこの作品を見ると、着物を着せることで、どれだけ身体描写を誤魔化せるかということが分かります。顔を描く時と着物を描く時とでは、線の太さが違います。そのことで、着物による形が強くなって、顔や身体の線は、両者が重なるところでは負けてしまいます。つまり、着物の下に埋もれてしまう。 身体については、着物と重ならない顔とその周辺だけを描けばよいのです。そして、その貌についてです。顔には陰影がありません。立体として捉えられていない。鼻はくの字型の線で表現されています。当然、顔の筋肉とかそういうものは表現の対象になっていません。だから、顔の筋肉の動きでつくられる表情というものを描くことはない。そのことを上村は自覚しているのか、顔を描く際のアングルが決まっているようです。とくに多いのは、斜め後ろからの視点で顔を描くことです。そうすると、くの字でえがく鼻が不自然になりません。また、斜め後ろからでは、表情がよく分からないので、描かなくても不自然になりません。そしてまた、表情をつくるときの大事なポイントである目について、上村は瞳をあまり描きません。多くは伏し目がちというのか、睫毛を描いて目としています。それが、斜め後ろからの角度では、目を瞳まで描かなくても不自然になりません。総じて、浮世絵の美人画の文法で顔を描いているのですが、それが近代的な視点で不自然にならないために、斜め後ろからというアングルを多用しているように見えます。このことを、上村は意識的に行っているのかは分かりません。
Uemurashizuka  「静御前」は努力して歴史考証を行い描いたという作品だそうですが、ほぼ正面から顔を描いていて、記号としての顔で、歴史的人物になっていないし、そもそも独立した人格がないので平板というか、歴史画としては退屈な作品になっています。一応のかたちは取り繕っていますが、サマになっていないのです。そういうことを上村は、ある程度自覚していたのではないでしょうか。私には、そう思えます。だからこそ、色々な試みをしていたのではないかと思います。そもそも、日本の伝統的絵画で人物の表情を細かく描いていたでしょうか。そもそも、表情というものがあったのでしょうか。当時の武士は、涙を見せるな、歯を見せるな(笑うな)と教育されていたといいますし、つまり無表情です。謹厳な武士というのは無表情と同じです。あるいは、当時の演劇である歌舞伎芝居は顔を厚く白塗りし、隈取りを施していました。これで表情をつくるのは無理です。そこでは、そもそも表情を必要としていなかった。面を被る能もそうです。表情というのは、独立した個人の自己表現です。しかし、それは近代西洋で成立した個人という極めて限定された文化というわけです。しかし、19世紀は、その西洋文化が世界を支配していた。当時の日本は国として生き残るために、西洋に追いつくことを必要とされていた。そういう風潮を、世相に敏感な上村松園は感じ取っていたのでしょう。だから、社会で評価されるためには、近代化=西洋化に乗っていかなければならない。それは、絵画では西洋絵画を取り入れるということでしょう。上村は、それを美人画(浮世絵)でやろうとした。しかし、そもそも浮世絵と西洋文化は土壌が異なる。ある面で、両者は水と油のようなところがある。とくに、この作品では静御前という特定の他の人とは違う一個の独立した個性ある人物を描かなくてはなりません。しかし、美人画は、もともと、人々が美人と思っている一般的イメージを視覚化した画像のようなもので、その画像に個人としての個性とか存在は求められません。むしろ邪魔なのです。上村は、この作品のような試行をし、失敗を重ねながら、表層のところで部分的でも妥協できる地点を探した。それが、顔を描くアングルといったことです。その後、上村は、この妥協点から、洗練を進めていくようになります。
Uemuragirl  「かむろ」という作品では、正面に近いアングルで顔を描いています。少女を描いているので、伏し目がちというのは似合わないのでしょうか。ここでは瞳を描いています。しかし、その瞳はこちらに向けられたものではなく、そこに意識の光を見出すことはできません。少女マンガの星の入った瞳のような、それ自体が美しさの記号とでもいうような瞳です。むしろ、この作品の主眼は、少女の着物の朱と帯の薄緑、そして襟と髪の毛の黒の配色にあると思います。朱の着物の下半分には梅の花が白く抜けるように描かれています。これ以降の作品は、浮世絵の美人画を近代的視点で自然に見えるように人物を描き、その人物の着物やアクセサリーに趣向を凝らすようになっていきます。いわば着せ替え人形です。そこでは、着物とアクセサリーのコーディネイトをいかにセンス良くこなすかが重点となり、絵はそれをもっとも映えるポーズをとらせて描くというものになっていきます。このとき、描かれる人物は、その着物を着せ、ポーズをとらせる、いわば服屋のマネキン人形のようなものです。それが上村の妥協点だったように思えます。これ以降の展示作品は、その方向での、さまざまなバリエィションと見ることができます。
Uemurarain  例えば「雨を聴く」という作品では緑の着物が映えます。そして、「雨を聴く」という作品タイトルが情景を想像させます。上村の作品は、ほとんど背景が描かれず、人物の存在は抽象的で、空間に在るというものではありません。だから、作品タイトルがその代わりに、見る者の想像を喚起させ、勝手にその人物のいる場面を想像させるのです。これは、一種のプロデュースのセンスといっていいと思います。私が感心するのは上村のそういうところです。この人は、絵そのものというよりは、絵をいかに見せるかということに配慮した人だと思います。敢えて言えば、そこが上村の近代的性格ではないでしょうか。この作品を最初に見た宮川長春の「括り枕と美人図」と見比べると、その見せ方の違いは明白です。上村の作品が、いかにもモダンに見えます。
Uemurasnow  「初雪」という作品。“かじかんだ右手を袖の中に入れ、蛇の目傘を白く覆う雪の重みを感じながら支えている女性。左手では着物の褄をとり、転ばないように恐る恐る、高下駄を踏みしめつつ歩みを進めています。「いやぁ怖いわぁ」とでも言いながら笑っているのでしょうか。”という説明がありました。そのために、顔の造作が崩れています。浮世絵的なお約束のくの字型の鼻、おちょぼ口のバターン、線を引いたような目を顔にバランスよく配置することで美人の顔をつくっているので、表情をつくるために、それらのパーツの形をいじると、配置のバランスに影響し、顔が崩れてしまう。この作品を見ていると、美人の顔を維持しながら表情をつくることに、上村が悩んでいたことが想像できる気がします。それは苦悩に近かったのではないかとも思えて、どこか痛々しいとも思えてきます。
 展示室は細長い部屋で、入って右側に上村の作品が並び、反対の左側には 「上村松園と近代に活躍した女性画家たち」のうちの、近代に活躍した女性画家たちの作品が並んでいます。ここに並んでいるのは、上村が妥協した点に飽き足らず、さらに進めようとした画家たちの作品が並んでいます。それは、私には袋小路に入り込んでいく苦闘のように見えます。
 梶原緋佐子の「髪」という作品です。上村はおちょぼ口のパターンを脱することがありませんでしたが、この作品では口が写実的に描かれています。それがキリッとした表情を目と関連して造っている。しかし、この女性は必ずしも美人に見えるとは限らない。そして、栗原玉葉の「夕べ」では目がパッチリと開いて瞳が描かれています。
Uemurashima  島成園の「舞妓」という作品は、顔が少し立体的に描かれ、リアリズムの兆しが垣間見えます。どこか竹久夢二を思わせるような不健康で退廃的な雰囲気がします。それは、舞妓という、いわば風俗業のもともともっていたものが写実的な描写によって表われてきてしまったと言えるかもしれません。これではもはや、脳天気に美人を眺めて楽しむというものではなくなっていると思います。美人というよりは不気味です。

 

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