秋の紅葉シーズンが終わったころ、ちょうど12月10日くらいで紅葉の特別拝観が終わるようなので、その終わった後は、拝観者が減って、静かになると思った。それで、15日、16日の1泊2日で、京都を訪れてみた。初日は、前回、修学院離宮を訪れて、その近くにあるというので興味を覚えた曼殊院と詩仙堂。翌日は、訪れるのに事前予約の面倒な手続きが必要だった西芳寺(苔寺)とその周辺の社寺。実際に訪れてみると、事前の予想とは違って、面白くもあり、残念なところもあった。
東京を朝に出て、京都駅に着いたのは正午のころ。そこから、電車を乗り継いだ。叡山(叡山電鉄の雰囲気は、江ノ電に似たところもあり、地方私鉄のようでもあり、とても風情がある。しかも、今回は正面に大きな輪があるデオ730形に乗ることができた)の修学院駅は、先日、修学院離宮に行った時に乗り降りしたので、二度目。白川通りの途中で左に曲がって行く。多少、道筋が込み入っていると思ってグーグルマップのナビを利用する。ところが、変な横道に入ろうとする。今日、訪問する寺院は京都市内とはいえ、周辺部で、山あいの住宅地に点在している。それぞれに至る道は、住宅地の中を通る、いわば地元の道で、およそ観光客むけの道ではない。観光化されていない静かで落ち着いた道で、そこを歩くのは気持ちが良い。その一方で、そこに入り込むと迷ったような気分になる。途中で勘が働きに従うように切り替えて、詩仙堂からの道標を見つけた。そこから上り坂が続く。結構上る。道が広くなって、右手に武田薬品の薬用植物園の施設が見えてくると、正面の坂道の上に勅使門が見えてきた。立派な門だが、そこを一般の人は通ることができない。

ようやく曼殊院に到着。途中、迷ってウロウロしたりして、修学院駅から20分くらいかかった。拝観は左手にまわり、坂を上がる。立派な勅使門とは違い小さな門を入り拝観受付で拝観料を払うと正面の庫裡で、靴を脱いで、下足箱に預け、建物内に足を踏み入れる。下足箱は大きくて、多数の靴が置けるようになっているが、すでに置かれている靴は一足しかない。ということは、私以外に拝観者は1人しかいないということか。結果から言うと、ここで小一時間過ごしたけれど、マップにある建物はすべて廊下でつながっているので、拝観は靴を脱いで建物内をまわる。それだと、ここの建築は、「小さな桂離宮」と呼ばれているそうなのに、その建築の外観を見ることができない、ということになる。ここを建てた人物が、桂離宮を建てた人物の子にあたるそうだそうなのだが、具体的に、どういうところが小さな桂離宮なのか、私には分からなかった。もっとも、ここは寺という感じがしなくて、だれかの別荘のような感じで、なんか俗っぽいというか、修業とか、宗教という雰囲気がない。その点で桂離宮と共通点があるのかもしれない。
まず、建物内に入って、大玄関で、展示ケースがあって、何が展示されているのかと見たら、パンフレットや冊子で受付で売っていますという宣伝と、前に当時の天皇が訪問した時の写真と新聞記事で、商売気まるだしだと思った。ストレートなのは、或る意味素朴で、そのイモ臭いところが、微笑ましいとも言える。そういえば、受付で拝観料を支払ったときに入場券とともに渡された説明書きはペラ紙の裏表に文字の説明があるだけで、味も素っ気もない。これでは、よほどのことがないと読む気にならない。写真もないし、せめて、場内マップくらいあればいいのに。スレていないというか。商売気はあるのに、腰を低くして客を集めるほどの積極性はない。いわば、殿様商売。そんな印象を受けた。先に述べたが、それは私には、微笑ましく映る。その先に虎の間ということで、虎の襖絵がある。狩野永徳の作ということで、たしかに永徳の唐獅子図みたいな虎が描かれている。ただ、かなり、痛んでいて、絵の具も落ちているようで、狩野永徳の豪華絢爛さは残っていない。この後も、加納探幽作の襖絵があったが、かなり傷んでいて、劣化が激しく、何が描かれているか判別できない状態だったと思う。それらは、私には古びた襖にしか見えなかった。ここで、順路は左に曲がって、上之台所。厨房です。大きな食器戸棚があって、土間には炉がありました。この先の書院に行くために、通らざるをえないからでしようか。別にもっともらしく見せなくてもいいのに、と思った。見せ方がコナれていないというか、下手ですね。

順路は右に曲がって、小さな中庭に出くわす。小さな枯山水。とは言っても、白砂に岩だけというのではなく、草も植わっているし、地面の全部が白砂ではなく、土が露出している部分もあります。ちょうど、来る時の新幹線の車中で読んでいた大貫恵美子の『つくられた日本の自然』のなかで、天と地いうけれど、この二項は聖と賤にも対比され、中でも地すなわち土は穢れのイメージ。それゆえ、高貴な人々は牛車や輿で移動し、直接、土を踏むことを避ける。それは、枯山水で地面の土を露出させず表面を白い砂で覆って隠すことで、賤を否定し、聖のイメージをつくるという。そういう考え方からすると、この庭は中途半端。そのためか、俄かというか、どこか表層的な感じがする。このあたりの寺院で枯山水の庭が流行っているみたいなので、ここでもやってみましたみたいな。そういう俗っぽさというか軽薄な感じが、ここには全体として感じられます。そのため、この枯山水の庭についても緊張感は感じられず、リラックスしていられるのです。私の書き方はネガティブに見えるかもしれないが、この雰囲気を肯定的に捉えている。うるさいの否定はうるさくないであるが、静かではない。うるさいは、邪魔くさいし、静かは緊張感を伴う。しかし、うるさくない、については邪魔くささがなく、しかも緊張感が生じない。そういうリラックスしながらも、落ち着いていられる。うるさいでも、静かでもない。そういう雰囲気が、ここにはあるのだ。そこが、寺というよりは、別荘という方が似つかわしいと思えるのだ。

この中庭を経て小書院に至る。襖絵は加納探幽の作らしいが、何が描かれているか判然としない。ここの違い棚は曼殊院棚と呼ばれるそうだが、桂離宮の違い棚と似ているようにも見える。しかしそれは、そういう情報を知った上で見るから、そう見えることで、それ以上ではない。ここから庭園が広がっているのが望める。この庭園が、曼殊院のウリなのだろう。小堀遠州が作庭したという。純粋な枯山水ではない。島に見立てた土盛りには植木はあるし、背景には紅葉が見られる。“禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園”であると、ペラペラのパンフレットに説明されていました。それって、売れっ子のデザイナーに依頼して、「流行の最先端!」とか「クール!」とかいった感じだったのではないか。禅の思想的な抽象性というのは感じられず、感覚的、いわばセンスです。“庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石からひろがり、鶴島と亀島とがある。”とパンフレットに説明されていますが、物語的な説明が容易で、分かりやすいものとなっています。抽象的で、見る者に自分で考えろと突き放すのではなく、分かりやすい物語が設定されていて容易に入り込める。それだけ安心でき、リラックスできる。実際、私は、緋毛氈の敷かれた縁側に佇んで、見るということを意識せずにぼんやりと眺めるとなくのぞんで時を過ごしました。それは、静かで落ち着いた空間で、他に訪れる人もいなかったことも幸いして、ちょうど陽の差しているところで日向ぼっこをするようにして時間を忘れました。癒しの空間、とでも言ってもいい。いい意味で、インテリア的だと思います。

廊下が折れ曲がっていて大書院。その角から建築外観の一部を望むことができた。たしかに、桂離宮の佇まいに似ていると思われるところがある。大書院の向かい側には宸殿が新しい建物なのか白木の白が目立つ。画像のマップには宸殿の記載がないが、梅林とされているところに建てられている。ここから盲亀浮木の庭と呼ばれる枯山水の庭が望める。この庭は、ほぼ白砂と岩だけの枯山水。背景が白壁で地面に白砂が敷きつめられているので、全体に鮮やかな白一色の世界になっていて、何だか現実離れしているような、いってみれば幻想的な世界を作っているように見えます。ただ、正面に、天皇陛下訪問記念で植樹された松ノ木が植わっているのが、場違いで、雰囲気を壊している。そのあたりが俗っぽいという感じが面白い。とはいえ、この幻想的な感じも、感覚的なのだ。厳しさは感じられない。浅薄なのだ。それは、いい意味で…。それが曼殊院の印象。

曼殊院で小一時間過ごして、来る時に上がった勅使門の坂道を下る。道標に従って、下りきったところで左に曲がると、山間の住宅地の中の細道を歩く。ここから京都盆地を見渡すことができて、景色がいい。静かな住宅地の中をぬうように歩いていくと、15分ほどで圓光寺に到着。この間の散策するような移動は、静かで、心地よかった。曼殊院から行くと、まず駐車場があって、そこを通り過ぎると左手奥の引っ込んだところに圓光寺の門が見える。道を歩いていると、直接、門が見えないので、一見分かりにくい。門を入って、すぐ右手に受付がある。
そこで拝観料を石段を上がり、小さな門をくぐると、庭が開けている。奔龍庭というらしい。これも枯山水なんだろうけれど、なんか違う。そう思ったら、平成になって作られた庭ということで、ああ、と納得。アートっぽい感じがする。“渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組であらわした”とパンフレットにある。“通常、庭園の限界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。”とも。これって、アートのコンセプトみたいだ。この庭は門前に広がっていて、方丈に座って、落ち着いて眺めることができるわけではない。庭の前に立って面する、そうなっている。そこで、庭に対する人は、立つなりのアクションを必要とする。庭の中でも、回遊式の庭は人がそこに入って庭の中を歩き回る。つまり、人が庭の中に入り込むので、庭との距離が限りなく接近する、あるいは、庭の中の一部になるという経験をする。これに対して、枯山水の庭に人が踏み込むということはできない。そうすれば、庭を崩してしまうことになる。人と庭との間には距離が存在し、その距離を縮めることはできない。庭と一体化することはなく、距離をおいて対象化する。その場合、人と庭の関係は静的だと思う。この庭は、そういう関係性の上で、静的から動的にしようとする。説明に“あえて未完のまま”なので、それぞれの人が心の中で完成させることを含んでいる。これは、静的な瞑想というのは違うものを求めていると思う。私は、この庭には長居したいとは思わなかった。抽象的でないというか、意味とか物語を見る者に強請る感じがした。左手の瑞雲閣へは靴を脱いで室内に上がる。そこに寺宝が展示されている。そういえば、今回めぐった寺社では、仏像とか書画について、ほとんど記憶がない。今回は、もっぱら庭ばかりだった。反対方向に本堂があるが、入ることはできない。

榎戸のような小さな中門をくぐると、回遊式の“十牛之庭”が広がっている。私を含めて3人しか拝観者がおらず、それぞれが、互いに離れるように庭をまわっているので、実質的には一人のような感じ。紅葉の終わった庭の木々は、葉を落として、枯れ木のような冬の様相。しかし、地面には落ちた葉が一面に敷きつめられているかのように、少し色褪せているが、紅葉の残り香のように、地面が鈍い赤や黄に染まっている。まるで秋を惜しむような風情。木々の枝が葉が落ちて、いわば骨だけのような寂しげなさまが、秋への哀惜をかきたてるよう。人の姿がなく、静かな庭で、そんな風情を感じた。この庭はコンパクトで、回遊式といっても、すぐに回れてしまう。そこに池があったり、苔の庭があったり、竹藪があったり、さほど広くはないのに、よくこれだけバリエィションがあるなと思う。しかし、それぞれはミニチュアといってもいいほどコンパクトで、竹藪など十数歩で通り抜けてしまう程度。それは、庭のパーツとして、そこを回遊するとミニチュアなんだけれど、書院にあがって、そこからみると写真のように奥行のある、ひろい世界に見える。書院からは、それぞれのパーツが重なり合って、それぞれの小ささを隠すように重層的で奥行きのある世界に見えてくるように、庭がレイアウトされているようだった。回遊式といいながら、庭に入り込むというより、書院という一つの視点を想定し、そこから見えるという、動的に見えて実は静的な庭であるという。それは、奔龍庭の枯山水と似た構造であると思う。“牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして”つくられたとパンフレットに説明されていたが、奔龍庭と同じように物語的に説明できるのだった。つまり、視点を固定して、そこで、想像して下さいという庭造りというわけだ。それって、コンセプチュアルということではないだろうか。まあ、説明の「十牛図」というのは、どこがどう牛を追う牧童の様子なのか、私には想像できないのだが、現代人には、そういうコンセプトがあるというのは、理解する手掛かりが提示されているので、むしろ、入りやすい。それはモダーンであるということだ。
ちょっと古い言葉になったが、ポストモダンとも言えるかもしれない。それは、実際面では、写真の題材にしやすい。「絶景」という最近では手垢がついて凡庸になってしまいがちなSNSの投稿写真に親和的なところがあると思う。そのためか、庭にいた他の人たちは、カメラやスマホのシャッターを切ると、足早に去ってしまった。残された私は、書院に縁側から上がり込めるので、室内の畳に座って、画像のような庭に臨んで、数十分間、誰にも邪魔されずぼんやりと過ごしました。それは禅寺という修行の場というかスピリチュアルな仏教の寺院という空間ではなくて、癒しの場という雰囲気に近い。ここでは、ありがたい仏像も立派な建築も要らない。私は、観光でここに来ているわけですが、それは、レジャーとかリ・クリエイションとかいう目的、何かを求めてくるわけですが、ここには、その何かが必要ない。というか、ただ、呆けて漫然と時を過ごすだけという、何も得られない。そのことが、結果的にリラックスに至る。

圓光寺を出て左手に進むと八大神社へと続く坂道を上がる途中に詩仙堂の入り口がある。道から奥まったところに細道を辿ると、寺院というより別荘の通用門のような入口(小有洞の門)がある。詩仙堂は、これまで見てきた寺院よりも、拝観者の姿が割合に見られた。門を入り細道を辿っていくと老梅関の門。そこを入ると、建物があり、靴を脱いで上がると拝観受付。
そのまま、建物を奥に進むと嘯月楼で、正面に生垣に囲まれた枯山水っぽい庭が広がっている。圓光寺でのように、畳に座って漫然と庭を眺めようとすると、来る人来る人が、庭を前にしてポーズをとったり、庭を写真に撮ったりしている。不用意に畳に腰を下ろすと、その邪魔になりそうで、落ち着かない。詩仙堂も寺というよりは別荘の雰囲気で、今日、これまで見てきた曼殊院や圓光寺に共通するところがあると思う。この枯山水の庭も、室町時代の砂と石だけの抽象的で、従来の庭の要素を否定したような枯山水とは違う。従来的な庭で、枯山水を美的なテイストとして取り入れているという印象。要素が少ないので、あまり庭を注意して見入る必要がない。そう思える。単に、庭を前にして、呆けて眺めることもなく、ボウッとしている。ただそこにあるという存在と思う。だから、庭を見て、写真にするという対象ではないのではないかと思う。極言すれば、ここにあるだけでいいので、その内容はどうでもいい。注目を引くようなものがあれば、それは邪魔で、そういうものがない枯山水っぽくなっている。
ときおり、詩仙堂というと代名詞ともいえる鹿威しの音が聞こえてくる。最初は何かと思ったが、静寂のなかに響く心にしみるような音とイメージしていたが、そうではなく、爆音のテイストがある騒音に近寄っているような音だった。ドスンという音。となりの詩仙の間は読書室ということで、この建物は隠者の別荘なのだろうという思いは強くなる。先に来ているグループが庭に下りて散策しているおしゃべりが聞こえてくる。詩仙堂は、比較的(京都の人気観光地の喧騒に比べれば、むしろ静かといった方がいい)賑やか。それだけ、今日、まわっているところが静かということ。室内を一応見ると、受付のところに戻り、靴を履き、建物の裏口の方にまわり、庭に出る。建物から見ていた庭に出る。枯山水の生垣の外側に蒙昧を洗い去る滝という洗蒙瀑という名の水が湧いている。そこから流れる水は、石段を下りて下方の流葉陌に流れ込んでいる。春夏は花が咲き、秋は紅葉で映えるであろうし、それがウリとなって観光客を集めるのだろう。ここは、圓光寺とは違って、回遊を前提として作られている。それこそ、別荘で気分転換に散策するという庭だろうと思う。鹿威しも石段を下りた二段目の庭の左手に見ることができる。風情があるというものでなく、ゴツい汚れた竹が動いているという印象。

詩仙堂の滞在時間は思ったより短かったので、時間ができた。それで近くの金福寺にも足を伸ばした。詩仙堂にいた人々は、こちらには来ず。また静かになる。詩仙堂から裏道のような、観光客が入っていいのかと思ってしまうような細道を道標に従って進む。詩仙堂から5分ほど。坂道の途中で石段の奥に金福寺がある。

石段を上がり、山門をくぐると、すぐ建物がある。しかし、受付の窓口に人影はない。窓口左手の木板を木槌で叩いて、人を呼ぶ。すぐに人が出てきて、受付を済ます。今日、四つの寺を回ったが、お坊さんと遭わなかった。寺なのに…。建物内には入れず、受付から右手に進み、門をくぐり庭に出る。ここも庭なのだ。まずは、この画像の左に見える石畳の坂道を上がると芭蕉庵がある。芭蕉がここで過ごしたというのを、後年、与謝蕪村が聞いて庵を整えたのが受け継がれたという。シンプルで小さな庵。庵そのものは地味で、とくにどうこう言うものではないが、そこに俳句がたくさん集められ、いたるところに掲示されている。寺の人がそうしたのだろうが、この奥に蕪村の墓もあり、俳句好きな人をターゲットにして集客を目論んだのだろうか。効果はあったのだろうか。それは別にして、山の中腹で視界が開け、京都盆地を一望のもとに見下ろすように望むことができた。これは、一種の借景と見ることができるのだろうか。

建物へは縁側から、庭に面した部分にだけ上がることができる。ご本尊を拝むことができるのではなく、部屋から庭を眺めることができる。ここから見る庭は、こじんまりしている。とりわけ突出したところを見出すことはなく、いってみれば凡庸で、どこにでもありそうな庭。それは、花も紅葉もない季節で華やかさのない時期に見ているからかもしれないが、特徴を取り出すことができなかった。それで、その凡庸さこそが、この庭の特徴ではないかと思えてきた。突出したところがあれば、それは分かりやすいということ。これに対して、ここの庭は、中庸で、凡庸にさえ見える。分かり易そうで、しかし、その中庸さの中に庭を見ていく奥深さがあるかもしれないと思えるところがある。訪問した時間が夕方4時をすぎて、だんだん薄暗くなってきて、ここに来てから誰一人遭わずに、ずっとひとりで過ごしている。そういう状態のなかで過ごしている。そういう状況に、ここの庭という空間は適していると思う。それは、とても個人的な空間。お寺というのは公共的な施設であるはずなのに。
今日まわったお寺は、みな江戸初期に創建されたい、あるいは、それよりずっと前の時代に創建されても江戸時代に再建または再整備されて現在に至っているという、いわば近世のお寺です。室町かに戦国時代を経て、江戸時代になると社会は安定の方向に向かい、農業生産量が持ち直し始める。そこで、飢餓の危機は後退し、人々の不安は収まる方向に転換する。そこで、仏教は鎌倉仏教がそうであったような、人々の不安や危機感を受け留めるよすがといった存在意味を減退させていく。また、寺請制度のような統治システムに繰り入れられて、幕府の末端機構と化していく。そこでは、国家宗教として政治にコミットすることがなくなり、あるいは人々の心を救済するという超越的な意味も失っていく。そのような近世のお寺の存在は世俗化されていく。それは、コミュニティの世話役だったり、冠婚葬祭だったり、あるいは門前町のような商売の施設に代わっていく。そのような近世につくられたお寺は、スピリチュアルな精神性や公共性は求められなくなる。そこで求められるのは、個人的なもの。例えば、趣味。あるいは、隠退した後の平穏な生活。そういうものを確保し、実現する場。そういうものを、例えば、金福寺の庭や、その庭を眺める書院にいて、強く感じた。それは、こころ落ち着く、癒しの場であるとも言える。
金福寺を拝観時間終了となる5時近くに出て、あたりが暗くなって、ホテルに向かおうとしたら、門前に地味な喫茶店を見つけた。身体が冷えてしまったので、熱いコーヒーでも飲んで温まろうと入った。おばあさんが暇そうにしていて、裏の山で猿がいて、仏壇にお供えしていたご飯を盗まれてしまった話を繰り返し話してくれた。寒そうだからと、コーヒーの他に日本茶をいれてくれて、話しに付き合ってくれたお礼だと。ちょっと心が温まった。叡電の一乗寺駅まで、暗くなった道を、温かい気持ちで歩いた。
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