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2025年12月

2025年12月24日 (水)

紅葉シーズン終わった京都を訪れた~第2日、西芳寺、華厳寺、松尾大社

 西芳寺(苔寺)の拝観には事前予約が必要で、西芳寺のホームページから「日々参拝」の申込みをした。参拝の手数料は4000円で、クレジットで前払い。って高くないか?それなりの内容があるのかな。あとで、メールで参拝のたのQRコードが送られてきた。当日の受付で提示するものだという。同時に身分証明(私はマイナンバーカードを持参)も持参するようにと。前日に、明日が参拝日ですよとの確認のメールが来ていた。本日は、午前9時30分からという朝一番の受付となるので、朝早くホテルを出た。前日のメールでは待機所はないので、時間ぴったりに来るようにと注意があったが、遅れるのはまずいと思い、早めに着くように出かけた。乗り換えがスムーズに行き過ぎて、最寄駅の上桂駅に8時40分ごろに着いてしまった。では、ゆっくりと歩いて西芳寺に向かう。最初は大通りを歩いたが、途中から外れて細い道に入ると、静かな住宅地の道を歩く。京都っぽい風情の道を味わうように歩いているうちに、郊外の雰囲気、山の中に入っていくような風情。ゆっくり歩いても、西芳寺の門前には8時10分ころについてしまった。016

 門は締まっており、門前には、すでに拝観予約した人々が十数人待っていた。その半分は外国人。昨日は、外国人の姿はまったく見なかったが、西芳寺は有名だから、外国人にも人気があるということか。9時25分ごろ、係の人(僧侶ではなく、事務職員が法被をひっかけている)が出てきて、注意書きの紙を配る。そして、拝観者は列をつくって並ぶと、9時30分になって、GRコードを確認して、注意書きを返却する。それで門に入れる。門のところに別の係員がいて、筆ペンとパンフレットを受け取り、本堂に上がって写経して、それが終わったら庭を見学できると説明を受ける。参拝者は受付を済ますと、それぞれに、足早に本堂に向かう(画像のマップは庭の見学コースだけを示しているが、庭の見学の前に池のところで左に曲がって本堂に向かう)。017

 本堂の先に玄関があって、そこで靴を脱ぎ室内に入ると、御朱印の受付や土産物のショップ。そこで並んでいたが、私は興味ないので素通りし、本堂にむかう廊下を進む。廊下の突き当たりに、また職員がいて、写経の用紙(経文の文字が薄く印刷されていて、それをなぞるようにして書くと写経になる)と説明書を配って説明している。これを受け取って、本堂に入ると写経用の座卓が用意されていて、各自が思い思いに好きなところに座って、写経を始める。ここまで、流れがスムーズ。対応が手慣れていて、すごく手際がいい。説明書は日本文と英文の二種類用意されていて、係員は外国人には流暢な英語で説明している。写経の座卓は、正坐に慣れない外国人向けに、椅子と机も用意されている。あまりの手際の良さに、流れ作業に乗っかっているような感じになった。ただし、写経とは、どのような意味があるとか、そういう説明は一切なし。写経といってもお手軽なものだけれど、まがりなりにも修行っぽいことだろうに、お坊さんが立ち会ったり、見ていたりということは一切なし。ビジネスライクという感じが強い。018

 写経を済ませると、本堂正面で書いた写経を奉納し、筆ペンを返して、玄関に戻り、靴を履いて、庭園の見学に向かう。後は、勝手に庭園を見て下さいという。そこから、外人さんは怒涛のように撮影に勤しんでいる。邪魔しては悪いなと気を遣っていたら、歩けなくなるほど。撮影ポイントらしきところでは、撮影の順番待ちで列ができていて、それが通路を塞いで、先へ進むことができない。庭を見学といっても順路は決まっていて、外周の石畳の道をまわるだけで、庭に入ることはできない。また、苔の庭は見せてくれるが、寺の境内については現代に建てられて、来客、つまり見学者の写経に使われる本堂は入れるが、それ以外の歴史ある建物の場所には入れない。見せてくれるのは、有名な(観光客向け)苔の庭だけ。それで、拝観料4,000円??昨日の曼殊院では、素朴さに微笑ましいとおもったが、ここではずっと手際よく効率的に、商売というのが感じられた。そういう印象でで、苔の庭を見ていると、商売という見方になってしまう。この苔の庭というの、修行との関係で、どのような経緯でつくられたのだろうか、と考えてしまった。放っておいたら、苔が生えちゃった、というのでは…。それを、後付けで、これって風情あるとか思っちゃった人がいたりして。それって、例えば、千利休が、当時、ダサいと人気のなかった高麗茶碗を“わびさび”といった名目をつけて、価値があることにして、高い値段で売ったのと似たようなものかも、と想像がふくらんでいく。庭を回るにつれて、だんだんとシラケていくことを抑えることができなくなっていく。見学はトータルで1時間くらい。拝観を終えて、門を出るときに、これから拝観する人々が並ぶ長い行列ができていた。事前予約って、拝観者の数を抑えるたにやっているのでは…。とか、どんどん、印象がエスカレートしていく。まあ、二度と来ないだろうと思う。
 気を取り直して地蔵院へ向かう。しかし、門が締まっている。掲示を見たらお休みとのこと。仕方がないと、引き返し、華厳寺に向かう。この三つの寺は近くて、それぞれ徒歩5分ほどのところにある。
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 あらためて、華厳寺(鈴虫寺)に、道標にしたがって歩くと、真新しい白木の立派な寺が見えてきた。華厳寺の看板が見える。「あれっ?」とおもったら、その先に石段と石碑があった。急な石段を上がるとお地蔵さんがあり、小さな門を入ると先に受付がある。拝観料を払うと、右手の玄関を上がってくださいと言われる。靴を脱いで室内に入ると、こちらへと案内される。部屋からは話し声が聞こえてくる。部屋の案内されると、説法なのか、坊主らしき人が何か話している。席には茶菓子が用意されている。坊主の前には、水槽が並んでいて、中から鈴虫が鳴いているのが聞こえてくる。季節はずれだが、鈴虫寺というのは、このことか。その話は、たしかに上手い。漫談を聞いているようで、人々の気を逸らさない。ここの話は、その気を逸らさない方が優先されているように思える。面白い80%、説教20%といった具合か。鈴虫が鳴いているのは、その80%のうちに入る、舞台効果のようなものではないかと思った。ここで鈴虫が飼われているのは、端的に言えば、客寄せのため?話を聞いていると、巧みに、売り込みが含まれている。西芳寺とは違った方法で、ここも商売気というか、ビジネスとして拝観者(観光客)を集めることに力が入っていて、上手い。それを強く感じた。しかし、私の隣に座っている女性は、説法を聞いて涙を流していた。そんなものか、と驚いた。そういう大衆心理を、突いていたのかと、巧みだと思った。話が終わると、庭を見てまわる。話を聞いていた人々が一斉に庭に出たのだから、賑やかなことこの上ない。昨日の静けさとリラックスとは正反対。ここを出るとき、門のところで入場する人々の長い列ができていた。次の回のお話を待つ人々がこんないるのかと驚いた。
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 なお、今日訪れた二つの寺を腐しているのは、たんに儲け主義だからというのではない。生計を立てる必要があるのだから、儲けることを否定するつもりはない。純粋に精神主義とか、宗教的であるのは、むしろ胡散臭い。とはいえ、今日訪れたところは、由緒ある寺だから、こんなものでも金を集められるという甘えが感じられ、その奥底に拝観者を見下す視線を感じたからだ。被害妄想と言われれば、それを否定しないが、気分が悪くなったのは私の事実だ。
 ここまででは、落胆したままで終わってしまう。それで気分直しのために、松尾大社まで歩いてみることにした。西芳寺川沿いの道は散歩道のようになっていて、道標に従って歩くと、ローカルな住宅地のあいだの静かな道を歩いた。いかにも地元の道という感じで、昨日の山あいの住宅地の道とは、また違った味わいで、これまでの落胆を修正してくれたのだった。この後、月読神社、松尾大社と寄った。松尾大社では、新年の初詣の準備のための工事中で、本殿を見ることができなかった。
 それで、気分の悪さは解消できず、ちょうど昼時で空腹を感じていたが、こんなところにいたくないと、一刻も早く京都を離れたくなって、電車に乗った。指定席の空きを待つのももどかしく、自由席特急券で、最も早い新幹線に飛び乗って、東京に帰った。疲れた。

 

2025年12月23日 (火)

紅葉シーズン終わった京都を訪れた~第1日、曼殊院、圓光寺、詩仙堂、金福寺

 秋の紅葉シーズンが終わったころ、ちょうど12月10日くらいで紅葉の特別拝観が終わるようなので、その終わった後は、拝観者が減って、静かになると思った。それで、15日、16日の1泊2日で、京都を訪れてみた。初日は、前回、修学院離宮を訪れて、その近くにあるというので興味を覚えた曼殊院と詩仙堂。翌日は、訪れるのに事前予約の面倒な手続きが必要だった西芳寺(苔寺)とその周辺の社寺。実際に訪れてみると、事前の予想とは違って、面白くもあり、残念なところもあった。
 東京を朝に出て、京都駅に着いたのは正午のころ。そこから、電車を乗り継いだ。叡山(叡山電鉄の雰囲気は、江ノ電に似たところもあり、地方私鉄のようでもあり、とても風情がある。しかも、今回は正面に大きな輪があるデオ730形に乗ることができた)の修学院駅は、先日、修学院離宮に行った時に乗り降りしたので、二度目。白川通りの途中で左に曲がって行く。多少、道筋が込み入っていると思ってグーグルマップのナビを利用する。ところが、変な横道に入ろうとする。今日、訪問する寺院は京都市内とはいえ、周辺部で、山あいの住宅地に点在している。それぞれに至る道は、住宅地の中を通る、いわば地元の道で、およそ観光客むけの道ではない。観光化されていない静かで落ち着いた道で、そこを歩くのは気持ちが良い。その一方で、そこに入り込むと迷ったような気分になる。途中で勘が働きに従うように切り替えて、詩仙堂からの道標を見つけた。そこから上り坂が続く。結構上る。道が広くなって、右手に武田薬品の薬用植物園の施設が見えてくると、正面の坂道の上に勅使門が見えてきた。立派な門だが、そこを一般の人は通ることができない。
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 ようやく曼殊院に到着。途中、迷ってウロウロしたりして、修学院駅から20分くらいかかった。拝観は左手にまわり、坂を上がる。立派な勅使門とは違い小さな門を入り拝観受付で拝観料を払うと正面の庫裡で、靴を脱いで、下足箱に預け、建物内に足を踏み入れる。下足箱は大きくて、多数の靴が置けるようになっているが、すでに置かれている靴は一足しかない。ということは、私以外に拝観者は1人しかいないということか。結果から言うと、ここで小一時間過ごしたけれど、マップにある建物はすべて廊下でつながっているので、拝観は靴を脱いで建物内をまわる。それだと、ここの建築は、「小さな桂離宮」と呼ばれているそうなのに、その建築の外観を見ることができない、ということになる。ここを建てた人物が、桂離宮を建てた人物の子にあたるそうだそうなのだが、具体的に、どういうところが小さな桂離宮なのか、私には分からなかった。もっとも、ここは寺という感じがしなくて、だれかの別荘のような感じで、なんか俗っぽいというか、修業とか、宗教という雰囲気がない。その点で桂離宮と共通点があるのかもしれない。002

 まず、建物内に入って、大玄関で、展示ケースがあって、何が展示されているのかと見たら、パンフレットや冊子で受付で売っていますという宣伝と、前に当時の天皇が訪問した時の写真と新聞記事で、商売気まるだしだと思った。ストレートなのは、或る意味素朴で、そのイモ臭いところが、微笑ましいとも言える。そういえば、受付で拝観料を支払ったときに入場券とともに渡された説明書きはペラ紙の裏表に文字の説明があるだけで、味も素っ気もない。これでは、よほどのことがないと読む気にならない。写真もないし、せめて、場内マップくらいあればいいのに。スレていないというか。商売気はあるのに、腰を低くして客を集めるほどの積極性はない。いわば、殿様商売。そんな印象を受けた。先に述べたが、それは私には、微笑ましく映る。その先に虎の間ということで、虎の襖絵がある。狩野永徳の作ということで、たしかに永徳の唐獅子図みたいな虎が描かれている。ただ、かなり、痛んでいて、絵の具も落ちているようで、狩野永徳の豪華絢爛さは残っていない。この後も、加納探幽作の襖絵があったが、かなり傷んでいて、劣化が激しく、何が描かれているか判別できない状態だったと思う。それらは、私には古びた襖にしか見えなかった。ここで、順路は左に曲がって、上之台所。厨房です。大きな食器戸棚があって、土間には炉がありました。この先の書院に行くために、通らざるをえないからでしようか。別にもっともらしく見せなくてもいいのに、と思った。見せ方がコナれていないというか、下手ですね。
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 順路は右に曲がって、小さな中庭に出くわす。小さな枯山水。とは言っても、白砂に岩だけというのではなく、草も植わっているし、地面の全部が白砂ではなく、土が露出している部分もあります。ちょうど、来る時の新幹線の車中で読んでいた大貫恵美子の『つくられた日本の自然』のなかで、天と地いうけれど、この二項は聖と賤にも対比され、中でも地すなわち土は穢れのイメージ。それゆえ、高貴な人々は牛車や輿で移動し、直接、土を踏むことを避ける。それは、枯山水で地面の土を露出させず表面を白い砂で覆って隠すことで、賤を否定し、聖のイメージをつくるという。そういう考え方からすると、この庭は中途半端。そのためか、俄かというか、どこか表層的な感じがする。このあたりの寺院で枯山水の庭が流行っているみたいなので、ここでもやってみましたみたいな。そういう俗っぽさというか軽薄な感じが、ここには全体として感じられます。そのため、この枯山水の庭についても緊張感は感じられず、リラックスしていられるのです。私の書き方はネガティブに見えるかもしれないが、この雰囲気を肯定的に捉えている。うるさいの否定はうるさくないであるが、静かではない。うるさいは、邪魔くさいし、静かは緊張感を伴う。しかし、うるさくない、については邪魔くささがなく、しかも緊張感が生じない。そういうリラックスしながらも、落ち着いていられる。うるさいでも、静かでもない。そういう雰囲気が、ここにはあるのだ。そこが、寺というよりは、別荘という方が似つかわしいと思えるのだ。
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 この中庭を経て小書院に至る。襖絵は加納探幽の作らしいが、何が描かれているか判然としない。ここの違い棚は曼殊院棚と呼ばれるそうだが、桂離宮の違い棚と似ているようにも見える。しかしそれは、そういう情報を知った上で見るから、そう見えることで、それ以上ではない。ここから庭園が広がっているのが望める。この庭園が、曼殊院のウリなのだろう。小堀遠州が作庭したという。純粋な枯山水ではない。島に見立てた土盛りには植木はあるし、背景には紅葉が見られる。“禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園”であると、ペラペラのパンフレットに説明されていました。それって、売れっ子のデザイナーに依頼して、「流行の最先端!」とか「クール!」とかいった感じだったのではないか。禅の思想的な抽象性というのは感じられず、感覚的、いわばセンスです。“庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石からひろがり、鶴島と亀島とがある。”とパンフレットに説明されていますが、物語的な説明が容易で、分かりやすいものとなっています。抽象的で、見る者に自分で考えろと突き放すのではなく、分かりやすい物語が設定されていて容易に入り込める。それだけ安心でき、リラックスできる。実際、私は、緋毛氈の敷かれた縁側に佇んで、見るということを意識せずにぼんやりと眺めるとなくのぞんで時を過ごしました。それは、静かで落ち着いた空間で、他に訪れる人もいなかったことも幸いして、ちょうど陽の差しているところで日向ぼっこをするようにして時間を忘れました。癒しの空間、とでも言ってもいい。いい意味で、インテリア的だと思います。
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 廊下が折れ曲がっていて大書院。その角から建築外観の一部を望むことができた。たしかに、桂離宮の佇まいに似ていると思われるところがある。大書院の向かい側には宸殿が新しい建物なのか白木の白が目立つ。画像のマップには宸殿の記載がないが、梅林とされているところに建てられている。ここから盲亀浮木の庭と呼ばれる枯山水の庭が望める。この庭は、ほぼ白砂と岩だけの枯山水。背景が白壁で地面に白砂が敷きつめられているので、全体に鮮やかな白一色の世界になっていて、何だか現実離れしているような、いってみれば幻想的な世界を作っているように見えます。ただ、正面に、天皇陛下訪問記念で植樹された松ノ木が植わっているのが、場違いで、雰囲気を壊している。そのあたりが俗っぽいという感じが面白い。とはいえ、この幻想的な感じも、感覚的なのだ。厳しさは感じられない。浅薄なのだ。それは、いい意味で…。それが曼殊院の印象。
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 曼殊院で小一時間過ごして、来る時に上がった勅使門の坂道を下る。道標に従って、下りきったところで左に曲がると、山間の住宅地の中の細道を歩く。ここから京都盆地を見渡すことができて、景色がいい。静かな住宅地の中をぬうように歩いていくと、15分ほどで圓光寺に到着。この間の散策するような移動は、静かで、心地よかった。曼殊院から行くと、まず駐車場があって、そこを通り過ぎると左手奥の引っ込んだところに圓光寺の門が見える。道を歩いていると、直接、門が見えないので、一見分かりにくい。門を入って、すぐ右手に受付がある。007

 そこで拝観料を石段を上がり、小さな門をくぐると、庭が開けている。奔龍庭というらしい。これも枯山水なんだろうけれど、なんか違う。そう思ったら、平成になって作られた庭ということで、ああ、と納得。アートっぽい感じがする。“渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組であらわした”とパンフレットにある。“通常、庭園の限界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。”とも。これって、アートのコンセプトみたいだ。この庭は門前に広がっていて、方丈に座って、落ち着いて眺めることができるわけではない。庭の前に立って面する、そうなっている。そこで、庭に対する人は、立つなりのアクションを必要とする。庭の中でも、回遊式の庭は人がそこに入って庭の中を歩き回る。つまり、人が庭の中に入り込むので、庭との距離が限りなく接近する、あるいは、庭の中の一部になるという経験をする。これに対して、枯山水の庭に人が踏み込むということはできない。そうすれば、庭を崩してしまうことになる。人と庭との間には距離が存在し、その距離を縮めることはできない。庭と一体化することはなく、距離をおいて対象化する。その場合、人と庭の関係は静的だと思う。この庭は、そういう関係性の上で、静的から動的にしようとする。説明に“あえて未完のまま”なので、それぞれの人が心の中で完成させることを含んでいる。これは、静的な瞑想というのは違うものを求めていると思う。私は、この庭には長居したいとは思わなかった。抽象的でないというか、意味とか物語を見る者に強請る感じがした。左手の瑞雲閣へは靴を脱いで室内に上がる。そこに寺宝が展示されている。そういえば、今回めぐった寺社では、仏像とか書画について、ほとんど記憶がない。今回は、もっぱら庭ばかりだった。反対方向に本堂があるが、入ることはできない。
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 榎戸のような小さな中門をくぐると、回遊式の“十牛之庭”が広がっている。私を含めて3人しか拝観者がおらず、それぞれが、互いに離れるように庭をまわっているので、実質的には一人のような感じ。紅葉の終わった庭の木々は、葉を落として、枯れ木のような冬の様相。しかし、地面には落ちた葉が一面に敷きつめられているかのように、少し色褪せているが、紅葉の残り香のように、地面が鈍い赤や黄に染まっている。まるで秋を惜しむような風情。木々の枝が葉が落ちて、いわば骨だけのような寂しげなさまが、秋への哀惜をかきたてるよう。人の姿がなく、静かな庭で、そんな風情を感じた。この庭はコンパクトで、回遊式といっても、すぐに回れてしまう。そこに池があったり、苔の庭があったり、竹藪があったり、さほど広くはないのに、よくこれだけバリエィションがあるなと思う。しかし、それぞれはミニチュアといってもいいほどコンパクトで、竹藪など十数歩で通り抜けてしまう程度。それは、庭のパーツとして、そこを回遊するとミニチュアなんだけれど、書院にあがって、そこからみると写真のように奥行のある、ひろい世界に見える。書院からは、それぞれのパーツが重なり合って、それぞれの小ささを隠すように重層的で奥行きのある世界に見えてくるように、庭がレイアウトされているようだった。回遊式といいながら、庭に入り込むというより、書院という一つの視点を想定し、そこから見えるという、動的に見えて実は静的な庭であるという。それは、奔龍庭の枯山水と似た構造であると思う。“牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして”つくられたとパンフレットに説明されていたが、奔龍庭と同じように物語的に説明できるのだった。つまり、視点を固定して、そこで、想像して下さいという庭造りというわけだ。それって、コンセプチュアルということではないだろうか。まあ、説明の「十牛図」というのは、どこがどう牛を追う牧童の様子なのか、私には想像できないのだが、現代人には、そういうコンセプトがあるというのは、理解する手掛かりが提示されているので、むしろ、入りやすい。それはモダーンであるということだ。009

 ちょっと古い言葉になったが、ポストモダンとも言えるかもしれない。それは、実際面では、写真の題材にしやすい。「絶景」という最近では手垢がついて凡庸になってしまいがちなSNSの投稿写真に親和的なところがあると思う。そのためか、庭にいた他の人たちは、カメラやスマホのシャッターを切ると、足早に去ってしまった。残された私は、書院に縁側から上がり込めるので、室内の畳に座って、画像のような庭に臨んで、数十分間、誰にも邪魔されずぼんやりと過ごしました。それは禅寺という修行の場というかスピリチュアルな仏教の寺院という空間ではなくて、癒しの場という雰囲気に近い。ここでは、ありがたい仏像も立派な建築も要らない。私は、観光でここに来ているわけですが、それは、レジャーとかリ・クリエイションとかいう目的、何かを求めてくるわけですが、ここには、その何かが必要ない。というか、ただ、呆けて漫然と時を過ごすだけという、何も得られない。そのことが、結果的にリラックスに至る。
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 圓光寺を出て左手に進むと八大神社へと続く坂道を上がる途中に詩仙堂の入り口がある。道から奥まったところに細道を辿ると、寺院というより別荘の通用門のような入口(小有洞の門)がある。詩仙堂は、これまで見てきた寺院よりも、拝観者の姿が割合に見られた。門を入り細道を辿っていくと老梅関の門。そこを入ると、建物があり、靴を脱いで上がると拝観受付。011

 そのまま、建物を奥に進むと嘯月楼で、正面に生垣に囲まれた枯山水っぽい庭が広がっている。圓光寺でのように、畳に座って漫然と庭を眺めようとすると、来る人来る人が、庭を前にしてポーズをとったり、庭を写真に撮ったりしている。不用意に畳に腰を下ろすと、その邪魔になりそうで、落ち着かない。詩仙堂も寺というよりは別荘の雰囲気で、今日、これまで見てきた曼殊院や圓光寺に共通するところがあると思う。この枯山水の庭も、室町時代の砂と石だけの抽象的で、従来の庭の要素を否定したような枯山水とは違う。従来的な庭で、枯山水を美的なテイストとして取り入れているという印象。要素が少ないので、あまり庭を注意して見入る必要がない。そう思える。単に、庭を前にして、呆けて眺めることもなく、ボウッとしている。ただそこにあるという存在と思う。だから、庭を見て、写真にするという対象ではないのではないかと思う。極言すれば、ここにあるだけでいいので、その内容はどうでもいい。注目を引くようなものがあれば、それは邪魔で、そういうものがない枯山水っぽくなっている。012

 ときおり、詩仙堂というと代名詞ともいえる鹿威しの音が聞こえてくる。最初は何かと思ったが、静寂のなかに響く心にしみるような音とイメージしていたが、そうではなく、爆音のテイストがある騒音に近寄っているような音だった。ドスンという音。となりの詩仙の間は読書室ということで、この建物は隠者の別荘なのだろうという思いは強くなる。先に来ているグループが庭に下りて散策しているおしゃべりが聞こえてくる。詩仙堂は、比較的(京都の人気観光地の喧騒に比べれば、むしろ静かといった方がいい)賑やか。それだけ、今日、まわっているところが静かということ。室内を一応見ると、受付のところに戻り、靴を履き、建物の裏口の方にまわり、庭に出る。建物から見ていた庭に出る。枯山水の生垣の外側に蒙昧を洗い去る滝という洗蒙瀑という名の水が湧いている。そこから流れる水は、石段を下りて下方の流葉陌に流れ込んでいる。春夏は花が咲き、秋は紅葉で映えるであろうし、それがウリとなって観光客を集めるのだろう。ここは、圓光寺とは違って、回遊を前提として作られている。それこそ、別荘で気分転換に散策するという庭だろうと思う。鹿威しも石段を下りた二段目の庭の左手に見ることができる。風情があるというものでなく、ゴツい汚れた竹が動いているという印象。
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 詩仙堂の滞在時間は思ったより短かったので、時間ができた。それで近くの金福寺にも足を伸ばした。詩仙堂にいた人々は、こちらには来ず。また静かになる。詩仙堂から裏道のような、観光客が入っていいのかと思ってしまうような細道を道標に従って進む。詩仙堂から5分ほど。坂道の途中で石段の奥に金福寺がある。
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 石段を上がり、山門をくぐると、すぐ建物がある。しかし、受付の窓口に人影はない。窓口左手の木板を木槌で叩いて、人を呼ぶ。すぐに人が出てきて、受付を済ます。今日、四つの寺を回ったが、お坊さんと遭わなかった。寺なのに…。建物内には入れず、受付から右手に進み、門をくぐり庭に出る。ここも庭なのだ。まずは、この画像の左に見える石畳の坂道を上がると芭蕉庵がある。芭蕉がここで過ごしたというのを、後年、与謝蕪村が聞いて庵を整えたのが受け継がれたという。シンプルで小さな庵。庵そのものは地味で、とくにどうこう言うものではないが、そこに俳句がたくさん集められ、いたるところに掲示されている。寺の人がそうしたのだろうが、この奥に蕪村の墓もあり、俳句好きな人をターゲットにして集客を目論んだのだろうか。効果はあったのだろうか。それは別にして、山の中腹で視界が開け、京都盆地を一望のもとに見下ろすように望むことができた。これは、一種の借景と見ることができるのだろうか。
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 建物へは縁側から、庭に面した部分にだけ上がることができる。ご本尊を拝むことができるのではなく、部屋から庭を眺めることができる。ここから見る庭は、こじんまりしている。とりわけ突出したところを見出すことはなく、いってみれば凡庸で、どこにでもありそうな庭。それは、花も紅葉もない季節で華やかさのない時期に見ているからかもしれないが、特徴を取り出すことができなかった。それで、その凡庸さこそが、この庭の特徴ではないかと思えてきた。突出したところがあれば、それは分かりやすいということ。これに対して、ここの庭は、中庸で、凡庸にさえ見える。分かり易そうで、しかし、その中庸さの中に庭を見ていく奥深さがあるかもしれないと思えるところがある。訪問した時間が夕方4時をすぎて、だんだん薄暗くなってきて、ここに来てから誰一人遭わずに、ずっとひとりで過ごしている。そういう状態のなかで過ごしている。そういう状況に、ここの庭という空間は適していると思う。それは、とても個人的な空間。お寺というのは公共的な施設であるはずなのに。
 今日まわったお寺は、みな江戸初期に創建されたい、あるいは、それよりずっと前の時代に創建されても江戸時代に再建または再整備されて現在に至っているという、いわば近世のお寺です。室町かに戦国時代を経て、江戸時代になると社会は安定の方向に向かい、農業生産量が持ち直し始める。そこで、飢餓の危機は後退し、人々の不安は収まる方向に転換する。そこで、仏教は鎌倉仏教がそうであったような、人々の不安や危機感を受け留めるよすがといった存在意味を減退させていく。また、寺請制度のような統治システムに繰り入れられて、幕府の末端機構と化していく。そこでは、国家宗教として政治にコミットすることがなくなり、あるいは人々の心を救済するという超越的な意味も失っていく。そのような近世のお寺の存在は世俗化されていく。それは、コミュニティの世話役だったり、冠婚葬祭だったり、あるいは門前町のような商売の施設に代わっていく。そのような近世につくられたお寺は、スピリチュアルな精神性や公共性は求められなくなる。そこで求められるのは、個人的なもの。例えば、趣味。あるいは、隠退した後の平穏な生活。そういうものを確保し、実現する場。そういうものを、例えば、金福寺の庭や、その庭を眺める書院にいて、強く感じた。それは、こころ落ち着く、癒しの場であるとも言える。
 金福寺を拝観時間終了となる5時近くに出て、あたりが暗くなって、ホテルに向かおうとしたら、門前に地味な喫茶店を見つけた。身体が冷えてしまったので、熱いコーヒーでも飲んで温まろうと入った。おばあさんが暇そうにしていて、裏の山で猿がいて、仏壇にお供えしていたご飯を盗まれてしまった話を繰り返し話してくれた。寒そうだからと、コーヒーの他に日本茶をいれてくれて、話しに付き合ってくれたお礼だと。ちょっと心が温まった。叡電の一乗寺駅まで、暗くなった道を、温かい気持ちで歩いた。

 

2025年12月10日 (水)

没後50年 堂本印象 自在なる創造(6)~5章 アンフォルメルとの出会い

 アンフォルメルは、第二次世界大戦後、1950年代のフランスを中心にヨーロッパで展開された、「非定形」な表現を追求する芸術運動です。伝統的な形式にとらわれず、素材の質感や筆致、描く行為自体に焦点を当て、自己の内面や生命の感覚を表現しようとしました。アメリカの抽象表現主義(アクション・ペインティングなど)と同時代に起こり、日本の「具体」も同様の理念を持っていました。堂本は、いちはやく、この動きに呼応するような動きを見せました。
Doumotomuge  1958年の「無礙」という作品です。「意識」の構成主義的な作品から幾何学的構成が緩くなったという作品です。“モンドリアン風の色面による構成から抜け出すような作風を示している。本作も同様の作風であり、色面は残りつつも細かく分割され、それぞれの区画もあいまいになっている。顔料の飛沫やにじみを用いながら、新たに造形を生み出そうと模索している様子がうかがえる。(図録P.206)”という説明です。私の見るに、堂本の特徴として白色の微妙な使い向けによるバリエーションがありますが、その新たな展開を試みたのがこの作品と思えます。これまでの作品では、白の白色の濃淡とか透明さを用いていましたが、この作品では絵の具を厚塗りにして白地の上に白い線を積み重ねて、いわゆるマチエールを積んで、その影を作り出す。白の透明さではなく白の鮮やかさを前面に出すという新しさを試した作品と言えると思います。
Doumotofujin

 1961年の「風神」という作品は、日本の「具体」運動の白髪一雄のアクションペインティングのようでもあり、前衛書道のようにも見えます。同じ年の「交響」という作品では具体的な事物を題材にしないで、交響という事物でない現象をタイトルにしていて、具体物を連想できDoumotosympho ない、まさにアンフォルメルな作品になっています。ジャクスン・ポロックのようなドリッピングも目立っています。この辺りの作品は、変に説明しようとするより、見ていて「ああ、きれい!」という。
 1968年の「ロゴスの不滅」ではフェルナン・レジェ風の作品になっていて、「交響」のような即興的に描く作品Doumotologos ではなくなっています。
1975年の「善導大師」は晩年の絶筆となった作品ということです。最後に行き着いた境地がヘタウマ風というのが、何か笑っちゃいます。
4章と5章の展示について、書いている言葉が少なくなっていますが、実際の展覧会場では、ここで過ごす時間が長かったです。何も考えず、しばらく作品の前でボゥーッとするように過ごすことが多かったです。そのためか、思っていた以上に会場で過ごす時間が長くなり、閉館時間が近くなってしまいました。入場券では常設展示を見ることもできるのですが、その時間もあまりなくなってしまいました。企画展示場を出るときに係員から常設展示場への案内の声をかけてくれたので、気がついたので、足早でも鑑賞することができました。そこでも堂本関連の展示を見ることができました。係員の親切に感謝です。Doumotozen
 例えば、1975年の「規範への抵抗」という作品は、抽象的な水墨画です。水墨画は抽象的な画面でもあまり違和感はないようです。企画展の展示にはなくて、常設展示にきてよかったです。
 堂本尚郎「魚の店」という1954年の作品。堂本尚郎は堂本印象の甥にあたる人です。油絵画家でアンフォルメルの影響を受けたと言われていますが、堂本印象とはちょっと違う寒色系の色調です。でも堂本印象が、このような作品を描いていてもおかしくないとも思います。
堂本元次の「風なごむ丘」は1983年の作品。堂本元次も堂本印象の甥にあたる日本画家です。堂本印象とは異なった作風の風景画です。堂本印象を中心にして堂本ファミリーの画家が他にもいて、常設展で展示されていました。それらを見ることができたのも良かったです。
他の作品も含めて、じっくり見たかったが、時間いっぱい。閉館時間まで美術館にいたのは、はじめての経験だった。

 

2025年12月 9日 (火)

没後50年 堂本印象 自在なる創造(5)~4章 世界に触れて

 第二次世界大戦後の堂本の活動です。敗戦により連合国の占領を受けて、伝統文化は制限され、かわりに外国文化が奔流のように入ってきます。その中には、戦後の欧米の新しい芸術運動の潮流もあって、堂本はそれらに触れ、自らの作風を大きく変化させていきます。ある意味、そういうところが堂本という画家の真骨頂なのかもしれません。3章で描いていたような作品を描きつづければ、画壇での地位は安泰なのに、全く異質な傾向の作品を
Doumotolady  「婦女」は1948年の作品です。これまで見てきた日本画とは、見てくれの異質な作品です。“戦後混乱期に登場した有閑階級の女性たちが、お茶を楽しみながら立ち話に花を咲かせている。その様子を印象は、やや批判的に見つめモダンな構図と色彩で描き出した。(図録P.204)”と説明されています。ここには、それまでの作品にはなかった諷刺や皮肉が、つまりは作者のメッセージ性という画面そのものが語るのではなくて、言葉などの画面の外側が語るものがある。そういうコンセプチュアルな絵画というのは、それまでの日本画にはなかったものだろうと思います。それと、女性たちの来ている衣裳が真っ黒だったり、真っ赤にベッタリ塗られた平面だったり、あるいはテーブルクロスの市松模様を立体による歪みをなく平面的に描いているなど、平面の組み合わせで画面をつくっていて、どこかギコチない印象を生んでいる。そこがモダーンな軽い感じがします。
Doumoto8  1951年の「八時間」になると、それまでの作風を捨て去ったのでしょうか、現代のオフィスをピカソ風に描いてみました、というような作品。キュビズムの理念とか理論で描いたというよりは、直線と曲線で構成し、デフォルメをきかせた画面が面白そうだから、それで遊んでみました、という感じがします。これをキャンバスに油絵の具ではなく、日本画の材料で行なっているのですから。例えば、画面中央の半開きの白い扉が半透明になっているのはどうしてか。以前から半透明の白を作品で効果的に用いていたから、ここでもやってみたとしか思えない。そのように、キュビズムを遊びとして用いていると思われるところから、堂本というひとにとって絵画、それは日本画さえも、遊びだったりするのではないかと思えてくるのです。だからこそ、こんなに軽薄に当時の最先端の芸術運動を試した作品を発表したりする。
Doumototred  1952年の「トレドの家」では、ブラックなどの初期のキュビズムの風景画に倣ったような、真面目にキュビズムをやっています的な作品もありました。しかも、キャンバスに油彩です。このことは、堂本のあそび感覚のキュビズムのあらわれであるように思われてきます。
 一方、1953年の「窓」はユトリロ風のヨーロッパの街の風景です。ここまで臆面もなく、パクリというか真似て、しかも、それを発表してしまう。一応、画壇で地位も実績もある人が、です。いい齢をして、よくまあ…。しかも、西洋画とはバックボーンが異なるのに、それぞれが様になっている。感心するとともに、笑ってしまいます。Doumotowindow
 1955年の「生活」という作品では構成主義的な抽象画っぽい作品です。“一見、構成主義的な抽象画かと思われるが、よく見ると集合住宅が描かれており、黒く配されているのはそれぞれの窓であることがわかる。白、オレンジ、黄土、紫、そして直観でかたどられた色面が組み合わさり、微妙なニュアンスを有しながら、幾何学的構成で表現されている。生活の光景の中に立ち現われる視覚的な面白さを表す一方で、寓意に満ちた象徴性を潜ませ、鮮やかな色の建物壁面に対して見えない黒い窓の奥にある近代社会の人々の暮らしを暗示しているかのようである。数か所に貼り付けられた厚紙、砂目など、絵肌による表現を工夫して、日本画の画材におけるマチエール表現にも向き合い、Doumotolife モンドリアン風の構成に挑戦しながら、かろうじて具体的な対象を残してはいるが、印象の、色面構成を重視した抽象表現へのさらに進んだ展開を見ることができるだろう。(図録P.206)”と手際よく説明されています。当時の現代建築であるビルディングをデザイン的に描いたらこうなったという、結果として抽象的な画面になったということでしょうか。堂本というとは画面をデザインする人で、そのデザインの方向の選択肢として抽象的なものがあるというのを、モンドリアンなりパウロ・クレーなりの作品を見て、こんなのもありというのを知って、やってみたというもののように思います。これを日本画としてやっているのが興味深い。1956年の「意識」では具体的な対象がなくなって抽象画になってしまいました。
 Doumotoishiki 展覧会チラシの表紙への引用などから3章の展示が、この展覧会のウリになっているように思えますが、私には、この4章の展示が一番面白かったです。この4章の展示がありうることこそが堂本という人の個性の表われだろうと思います。

 

没後50年 堂本印象 自在なる創造(4)~3章 円熟の時代

 堂本はデビュー以来、官展でたびたび入選し、画壇での地位を確立していきました。そうなると、ある程度自由に描くことができるようになって、作品を発表し続ける。そういう時期です。この時期が、具象的な日本画作品の最盛期でしょうか。
Doumotofruts_20251208235501  1930年の「實」という作品です。若い女性が、実をたくさんつけた葡萄の木に寄り添うように立っています。右手には撮ったばかりの葡萄を一房、左手は枝に添えるようなポーズで、これは樹下美人図の様式だそうです。女性のそぱに腰を下ろす少女たちの背後には、鳥居が配された幻想的な景色が広がっています。驚いたのは、立っている若い女性の三つ編みのお下げ髪がほつれた毛まで細やかに描写されていることです。この柔らかな黒い髪とベタッとした面の葡萄の紫色の実と緑色の葉の対比がとても印象的です。
 「蒐猟」は1928年の作品です。蒐猟とは春の狩りを意味するそうです。黒と白の二頭の馬を駆って二人の女性が狩りに向かう場面です。現実には、こんな場面はありえないと思います。まず、これほど馬を相互に接近させて走らせるは困難で、馬のポーズもどこか見得を切っているようなところがあります。左下で走っている猟犬は、ちょっと不恰好で、犬というよりイタチみたいです。しかし、この作品の真骨頂は、白と黒の馬の毛のボカシたような柔らかな表現と、Doumotohunt 風をうけてフワリとたなびく女性の衣裳の表現です。これを描くために、このような題材を選んだのではないかと想像してしまうほどです。そういう風に舞うようなやわらかな表現に対して、手前の梅の花の直線的でしっかりとしたところが対照的です。そして、二人の女性が互いに顔を向け合って、視線を交わしています。まるで応答しているかのような表情。このような生き生きとした表情は、伝統的な美人画でも近代の日本画でも、なかなか見られるものではないと思います。それをこの人は、さりげなく、あっさりとやってしまっているのです。
Doumotokonohana  1929年の「木花咲耶姫」は、今回の展覧会チラシでも使われている作品です。木花咲耶姫は古事記に出てくる神話的な人物。近代の日本画は西洋画の影響というかそれに対抗するためにかで写実を標榜したと思います。それが風景画とか花鳥画などの近代化ということになるのでしょうが、人物画は日本の絵画の本質的なところと齟齬があるのか、結果として描かれた人物に生気がなかったとか、存在感がなかったものだったと思います。例えば安田靫彦の歴史的人物を取り上げた作品なんが、一応大家とされているらしいのですが、人物が死んでいる。こういう状況の中で、堂本の、この作品は歴史画というより幻想絵画として割り切って描かれているみたいで、いわゆる絵空事だからリアルである必要はない。Mireofiria_20251209000001 そこで日本画的な人物表現の特徴をストレートに出しても違和感を生じさせず、むしろモダーンな受け取られ方を可能にしていると思います。満開の桜の下で足元にはタンポポなどの花が咲いている。そこに白い透け透けの衣裳を着た女性が腰を下ろしている。顔は美人画の記号的なパターンですが、それは幻想の二次元的風景ということで違和感はありません。画面全体は二次元的というか平面的で、それが幻想ということにハマる。背景の桜の花はすべて正面を向いていて影がない。足元のタンポポもそう。これは、ラファエル前派のJEミレイの「オフィーリア」の花に囲まれて溺死している美少女の非現実的な画面に通じるところがある。しかも、堂本の特徴の一つといえる白の陰影の使い方の巧みさによって、白い衣裳越しに女性の乳房のふくらみや腰の曲線を表現していて、官能的なところもある。それが、木花咲耶姫という神話の人物、つまり非現実の存在だから安心して目を楽しませることができるわけです。
Doumotoohara  それに対して1931年の「大原談義」は歴史上の事件について資料に忠実に描いた歴史画ということで、歴史の教科書の挿絵のようで、精彩を欠いているように見えます。
 1930年の「雪」という作品です。雪をかぶった蘆の間を白鷺がとんでいる。水辺では、もう一羽が餌をとっている。そういう画面を、蘆の葉は枯れて黄色になった部分を微妙な諧調で塗り分け、蘆の葉に降り積もる雪は陰翳をつけて立体的に描いています。積もった雪と白鷺の白は、堂本得意の白の使い分けです。とくに白鷺は透明感ある白を基調に羽根の模様が強い白で描き分けられています。Doumotosnow とくに画面左側では、飛んでいる白鷺が水平に描かれ、蘆の葉とそれに積もった雪が水平に並んで、画面に白い横線のリズムを作り出しています。横のリズムを貫くように葦の緑の茎が縦の線です。このように画面構成をデザインしている。風景は、そのための口実というわけです。ここにおいて、白鷺が写実的かどうかなどは問題にならない。
 「雲収日昇」は1938年の作品で、水墨画のようなモノクロームの作品です。「蒐猟」や「木花咲耶姫」から10年近く経って、色彩豊かな画面からモノクロームな画面に、色調が変わってきました。“夜明けの陽に照らされて、 山々にたれ込めている雲や霧が収まり、明るくなっていく様が描かれている。中景には細く流れ落ちる一条の滝も見え、遠くの山の頂をやがて昇り来る陽の光がうっすらと暖色に染めていく。松の配置、山の連なり、海へのつながりが心地よく、左手前にひらけた水面には日の出を待つ水鳥たちが浮かんでいる。…墨を基調として、濃淡やぼかしによって描かれ、幽遠な雰囲気を厳かに漂わせる。この風景は見る者を美しく広大な大自然の中に誘い、深く包み込んでくれるかのようである。(図録P.203)”と説明されている。さすがにプロの説明は上手いです。ただ、最後の一文は大げさですが。これも、実際の風景ではなく、想像上、敢えて言えば幻想です。だから、リアリティよりも強調したい雰囲気が出せればいい。上記の説明で挙げられているのは、そういう見る者の想像を刺激するための仕掛けと考えていいと思います。その意味で、私は長谷川等伯の「松林図屏風」を想い出しました。Doumotocloud1
 「夕顔図」は1935年の白黒の諧調で表現された作品です。夕顔は夕方に開花し、翌朝にはしぼんでしまうので、これは月明かりの下で、Doumotoyuugao 美しくも妖しく咲いている場面です。墨の濃淡によって表わされる葉の描写が奥行を生み、花の白さが艶めきの効果を与えていると思います。しかし、これはモノトーンといってもモノクロームというのではない。この白黒の諧調は明暗の諧調ではないのです。それなら、黒い葉の下にグレーの葉があるはずはない。普通に考えれば、そその逆になるはずです。だから、この作品でのモノトーンは見る者にいかに印象的に艶やかに見えるかを考えてデザインされていると思うのです。現実の夕顔の風景ではないのです。敢えて言えば、堂本という人は、描写というより、デザインする人なのだろうという、それが表われている作品だと思います。Doumotosummer 同じようにモノクロームの「夏日好在」は、白黒の濃淡で描かれている画面のなかでスイカの小さな花だけが金色なのは、あざといと言ってもいいのだけれど、とても印象的です。これは、そういう効果を狙って、実際の花の色がどうなのかとは無関係に目立つかどうかという効果の点から考えられている。私には、そのような視点は堂本の作品には一貫してあるのではないか思えるのです。
 この章の最後に1938年の「兎春野に遊ぶ」という1999年の郵便切手にも使われた作品。ファンシーグッズのキャラクターにしてもいいような、カワイイ作品。こういうのを大真面目にキッチリと描いてしまうところが、堂本という画家なのでしょう。作品説明では、注文主の還暦を祝って制作されたということですが、年寄り向けに、このようなファンシーな作品を制作したというのですから面白い。

Doumotorabit

2025年12月 8日 (月)

没後50年 堂本印象 自在なる創造(3)~2章 画壇デビュー

Doumotofukakusa  「深草」は1919年の作品で、帝展に出品され入選したことで画壇デビューとなったということです。“本作は京都の深草や亀岡の山村風景に取材した作品で、実景をもとに印象が構図を整理したもので、農村の家々を手前に描き、その奥に田畑や山を望む主観的な風景画となっている。(図録P.171)”と説明されています。写実よりも画面全体の風情が優先されている。とはいっても、木々が一本一本丁寧に描かれているなど、個々のものは細密といえるほど描き込まれています。ある意味で技巧的に構成され、画面の前景、中景、後景の間にボカシを入れることで、その間を処理している。描かれたのは、現実の風景というよりは物語のなかの理想化されたような懐かしい風景です。このような幻想画風な山村風景として、色調はまったく違いますが、Hayami2015rakuhoku 速水御舟の「洛北修学院村」を思い出します。制作年代がほぼ同じころなので、時代の流行のようなものがあったのでしょうか。しかし、堂本という画家は対象を写実的に描くことはできても、それだけでは飽き足りない人だったということをうかがわせる。
 「石榴」は1920年の作品です。実をたくさんつけたザクロの枝が上下左右に大きく屈曲する様子が画面いっぱいに描かれています。複雑に交差する枝ぶりは画面に流動感を与え、画面中央に静かに佇むリスと対比を見せています。堂本という人は、写生の人ではなく画面をデザインする志向性の人であるように思います。ザクロの枝ぶりはその表われて、動と静の対比だけでなく、直線が屈曲してゴツゴツしたザクロの枝に対して、リスは丸みを帯びた形で柔らかく描かれています。Doumotozakuro また、ザクロの枝がボカシ気味の線で描かれているのに対して、実は明確な輪郭線で描かれています。それらの対比が画面にリズム感を生んでいます。しかし、全体の色調は葉の黄色から枝、実へと段々と濃くなって茶色にいたるグラデーションにあって、画面全体に落ちつき与えています。これは、描く対象よりも描かれた結果としての画面に関心の重点があるということの表われだと思います。
Doumotocat  「猫」は1922年の作品ですが、これも単なる写実ではない。それは、猫のプロポーションを見れば明らかです。猫は白い羽毛を極細の線を一本一本引いてフワフワな質感を表わしています。それに対して、背後の岩とそれに貼りつくような葉は黄土色と緑色を平塗りしたような面としてあって、対比的です。葉の緑に対して猫の白が対比される構成で、その中心に子猫の金色の目が光っていて、これが印象的です。これで、単に猫がかわいいというのではなく、何か神秘的なものに見えてきます。
 1924年の「坂」は、構図がとても面白い作品です。画面中央に坂が大きく配され、それが真っ直ぐに奥に向かっています。手前で直角に左に曲がっていますが、これがワザとらしい。この坂道は不自然に広い。片道3車線ずつ上り下りとありそうな大通りです。このわざとらしいほどの正面からのアングルは、アンリ・ルソーを彷彿とされます。その通りの左に空地と寺の石垣が続き、右には民家が並ぶ。Doumotosaka 中空から望遠レンズによって俯瞰したような、風景の圧縮された遠近感が作品に素朴で戯画的なイメージを与えています。通りには、和装と洋装の人々が行き交い、自転車、人力車、電柱など、まさに大正という時代を表す風俗が描き込まれていて、これらに加え、遠景に描かれた気球や洋館など、作品内にちりばめられた不思議な和洋折衷は見るものを退屈させることがない。その人物もすべて正面でパターン化されていて、大和絵の往来図みたいですが、大和絵の場合は往来を横から見ているのに対して、この作品は正面からです。そして、一番手前に、この坂を見下ろすように土手に腰掛けてスケッチをしている人の後ろ姿があります。いうならば、この画面は、この人が描いていて、その中に自身も入り込んでしまったというのでしょうか。それば画面全体がツクリモノめいたところで、シュールな印象が強い作品です。この人は、描くことはもとより、それ以上に最新の情報を敏感に取り入れて、様々な作品の構想を考えることの方が好きだったのではないか、と思えてきます。
Doumotobust  同年の「乳の願い」という変なタイトルの作品です。インドのヒンドゥー教の関連らしいです。右脇の女性の恰好はインド風ですね。同年の「坂」が坂道を正面から描いているに対して、この作品は牛を真横から描いています。この角度に何らかの意図があるのかもしれません。この画像で見るだけでは分からないでしょうが、牛の全身は白い羽毛を細い線で一本一本引いて表わされています。それは前の「猫」の場合と同じですが、この大きな牛の全身で細かい線を一本一本引くのは、かなりの労力を要したと思います。そのフワフワ感は現物を見ると実感できます。しかも、単に白い線を引くだけでなく、陰影がつけられていて、つまり、細い線の色を微妙に変えていっている。それで牛の立体感や筋肉の凹凸を表わしています。そのフワフワした白い羽毛の牛のからだに赤い手形がペッタンコ貼り付けられているかのように付けられていて、それがとても目立っています。牛の全身のなかで、明確に輪郭が施されているのは、この手形と牛の角の部分だけです。だから、手形が際立っている。それと、これも画像では見えませんが、牛の立っている土の部分に小さな○が無数に付けられているのは何か意味があるのでしょうか。何かあるのか詮索したくなります。
Doumotofootballl  「調鞠図」は1921年の作品です。中国あるいは中央アジア風の衣装を着た人物が蹴鞠をしている。右幅では黄色を帯びた衣裳を着た人物が静かに佇み、左幅では鮮やかな赤色の衣裳を鞠を蹴る躍動感のある姿で描かれ、人物の衣装と動作を対照的に左右に置いています。細かいところですが、白い冠は点を描いて、そのまわりをボカシを入れて表現しています。それは現実にはありえないものです。これらは、すべて想像上のものとして、現実を写したものではないということで、そうすると人物表現も写実的にする意味もなくなります。あくまでも想像上の幻想として人物がリアルでなくても納得できるというわけです。その意味で、想像としていけば、画面を構想、すなわちデザインする際の現実という足枷から解放されることになります。
Doumotoyuima  この辺りから中央アジアからインドへと移り、仏教を題材にした作品が並びます。「維摩」は1923年の作品です。“維摩は大乗経典の「維摩経」に登場する人物で、これによると北インドの都市・昆舎離で暮らしていた富豪の在家信者であったとされる。維摩は大乗仏教の教理に精通した人物であった、釈迦が病にかかった維摩の見舞いに弟子を送ろうとしたが、みな彼の碩学を恐れて尻込みをしたという。ただ一人文殊菩薩のみが維摩のもとを訪ね、「不二法門に入る」の道の解釈について問答を交わした。文殊菩薩はそれは「無言無説」であるとしたのに対して、維摩は黙して語らず、Caravaggiogirolamo 言葉を超越した実相をもってその道を実践してみせたという。この有名な場面を描いたのが本作で、中央に維摩を据え、左下でひざまずいているのが文殊菩薩である。(図録P.200)”と説明されています。維摩もそうですが、左下で跪いている文殊菩薩の姿は、あまり前例が見られない、堂本のオリジナルな発想のデザインではないかと思います。文殊菩薩など仏像で多く見られる姿とは、全然違います。私は、維摩については、前例の仏教画よりも西洋画の聖ヒエロニムスの画像との親和性を感じました。そういうデザインをしてしまうところが堂本という画家の特徴なのだろうと思います。おそらく、そういうデザインのところに力が入っているのではないか。維摩の白い髭の部分は、「乳の願い」の牛の羽毛や「猫」での羽毛を描いた手法を、ここでも用いている。白い羽毛の表現を使いたかったのでしょうか。
Doumotokishibo  続いて「訶梨帝母」は1922年の作品。「維摩」といい、この「訶梨帝母」という仏教関連とはいえ、観音とか何とか如来というようなメジャーなものではなく、マイナーな題材を取り上げています。それは、あまり前例がない、手垢が付いていないので、自分のオリジナルなデザインがしやすいからでしょうか。訶梨帝母は鬼子母神(“おそれ入谷の鬼子母神”)のことで、幼児を捕えて喰らう鬼女であったのが、後に我が子を奪われたた、改心して幼児を庇護する善神となって、あげくに安産の神として親しまれるようになった。この作品で描かれている姿は、入谷の鬼子母神の仏像とは全然違っていて、むしろ西洋画の聖母像に近いように見えます。子供の柔らかな髪の毛や肌の質感は、ダヴィンチやラファエロのスフマートを想わせます。堂本という人は、かなり広い範囲で目配りしていて、その豊富な情報から他の人にはない独自性を持つにいたったように思います。
Doumotokegon  「華厳」は曼荼羅を想わせる大作です。ちょうど、この作品ついて2025年10月28日の朝日新聞の夕刊に記事があったので引用します。“中央に如来、両脇に菩薩が描かれたメインの絵の外側を、55もの小さな絵が取り囲んでいる。表具を含む総寸法は縦4.6m、横3.9m。日本画家の堂本印象が渾身の力で華厳思想の世界観を表わした大作だ。描かれているのは、「華厳経」の「入法界品」に記された物語。文殊菩薩に勧められ、善財童子が悟りを求めて53人の「善知識(仏法を先導する指導者)」を訪ねる巡礼の様子が右上の端から時計回りに続く。壮大な作品は第1回帝国美術院賞となり、印象は画壇の地位を確立した。画家はこの絵を描くため、後に京都・東福寺で管長を務めた尾関本孝から「華厳経」の講義を受けたという。だが、この絵の魅力は、伝統的な形式をなぞるのではなく、独自の創作で華厳思想を表現した点にある。メインの絵で如来を見上げる5人の等身は短く、天使に似ていてどこか西洋風だ。さらに印象は、一切の事物が互いに関係し、重なり合っている(重々無尽の縁起)という華厳経の教えを、55場面をすごろくのようにつなげることで図像化している。”ただ、私が見ていると、どこかペラペラ感があります。それは、薄っぺらいとか平面的というのではなく、つくりものめいた印象があるのです。それと、善知識のもとを訪ねて悟りを開くという物語を描いているはずが、どこか官能的なところが感じられるのです。おそらく堂本という人の性格が信仰という、悪く言えば凝り固まったものに同化しきれなかったのではないかと思われる。

 

2025年12月 6日 (土)

没後50年 堂本印象 自在なる創造(2)~1章 研鑽の日々

 初期の修業時代の作品です。習作やスケッチ、あるいは図案が主な展示です。
Doumotoobake  「おばけ(花街の節分会)」という1912年頃の作品です。“旧暦の大晦日にあたる節分の日に異性装など普段とは異なる恰好をして年末に跋扈する鬼を避けるという風習があり、特に花街のものは有名であった。「おばけ」は「お化髪」と書くとされ、普段とは異なる髪型にすることから、花街などで盛んだったのは髪結いの存在が関係するのではないかという指摘がある。本作では、画面いっぱいに扮装を楽しむ女性たちが描かれ、往時の賑わいを偲ばせる。赤は年越しの色であり、福を招くとされた。また、若い娘の象徴である赤色の鹿の子を使った結綿という島田髷の一種で髪を結い上げている姿も見え、成人女性が娘時代の格好をし、反対に若い娘が成人女性の衣裳を着るなど、自由に扮装を楽しんでいる。(図録P.197)”と説明されています。これって、普通の日本画というパターンの画面構成ではないですね。まず余白がないということ。人(この作品の場合は女性)で画面があふれんばかりです。花街の節分会の景色なんでしょうが、背景というか、どこであるかの舞台が描かれていない、というか人で画面がいっぱいなので描く余裕がない。描かれた人々はそれぞれが思い思いに節分会を楽しんでいるようですが、まるでカオス状態です。しかも花街の女性ということで顔は白塗りで仮面をつけているように見える。かつて浮世絵で遊女を描くことがあっても、白塗りの顔が仮面にように見えるようには描かれなかったと思います。そこに派手な赤色が乱舞しているように見える。これはまるで1Doumotoobake2 9世紀末のベルギーの画家ジェームズ・アンソールの仮面の人物が画面に充満する幻想画みたいです。当時の堂本がアンソールの作品を見ていたとは思えませんが、彼の破天荒さをうかがうことができる作品だと思います。研鑽の日々というから修業時代のお稽古を見せられると思ったから、このような破天荒な作品です。こんなを修業時代に描いていたとは。びっくりです。

 

2025年12月 4日 (木)

没後50年 堂本印象 自在なる創造(1)

2025年10月 京都国立近代美術館 
Doumotopos  今日は、美術館のハシゴをする。遠路、時間とお金をかけて京都まで来たのだから、もとを取り返さなければ、ということで、泉屋博古館から京都国立近代美術館に歩いて向かう。冷泉通りというらしい、住宅地のなかの静かな道路を歩く。観光客の姿は見られない。歩いていると、住宅地の中に、古くて立派な仏閣の建物が現われる。京都らしい風情だと思っていると、平安神宮の近くの大通りに出た。とたんに、観光客でにぎやかな雰囲気に変わった。京都国立近代美術館は平安神宮の門前に京都市図書館など公共施設が並んだ一画にあった。建物の玄関脇の引っ込んだところに小さな入場券売り場があった。入場券を購い、玄関を入ると広いロビーがあった。今まで、少し歩いてきたので、ロビーのベンチに座って小休憩。展示室は階段を上がった3階にある。
Doumotomuseum  まずは、私は堂本印象という画家についての知識がないので、その紹介をかねて主催者のあいさつを引用します。
 “京都市北区の立命館大学衣笠キャンパスの北側に、建物全体を独創的な装飾で彩った京都府立堂本印象美術館があります。この美術館を作家本人が構想し、外観から内装に至るまで自身でデザインを考案したという事実にはただ驚くばかりです。堂本美術館として開館し、のちに作品とともに京都府へ寄贈された美術館の主は堂本印象という日本画家です。
 堂本印象(明治24年(1891)~昭和50年(1975))は、名を三之助、号は印象のほか「いの字」とも称しました。幼い頃より絵を好んだ印象は、京都市立美術工芸学校や京都市立絵画専門学校で学び、画塾「青甲社」にも入門して研鑽を積みました。大正8年(1919)の第1回帝展で初入選を果たしたのを皮切りに、第3回帝展では特選、第6回帝展では帝国美術院賞を受賞して画壇での地位を確立し、帝展や新文展、日展で審査員を務めるなど政府主催の展覧会(官展)を中心に活躍しました。また、画塾「東丘社」を創立し、母校で教鞭を執るなど後進の育成にも貢献しており、昭和36年(1961)に文化勲章を受章、昭和48年(1973)には京都市名誉市民として表彰されています。
 当初は写実を主とし、繊細な筆遣いを特徴としていた印象の画風は、戦後になると抽象的な作風へと移行し、渡欧やミシェル・タピエとの出会いをきっかけに躍動感のある筆のストロークで表現した抽象画へと変貌を遂げます。一人の日本画家がこれほどまでに画風を変化させることは珍しく、この作家の飽くなき探求心と卓抜したセンス、確かな画力を感じさせます。
 没後50年の節目に開催する本展では、京都を拠点として全国的に活躍した堂本印象の代表作といえる官展出品作一堂に集結し、この作家の創造の軌跡をたどります。さらには、画壇デビュー前の水彩画や工芸図案とともに後年に手がけた陶芸作品やデザインの仕事などを紹介することで創作の全貌に迫ります。”
 それでは展示にしたがって作品を見ていきましょう。

 

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