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2026年2月

2026年2月27日 (金)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(3)~Ⅱ パリをめざして─フランス近代絵画との出合い

 19世紀後半、若い芸術はパリを目指し、そこで印象派をはじめとした新しい表現に出会う。彼らが特に魅了されたのは、人間や自然の姿をありのままに描こうとする自然主義やレアリスムだったということです。
Swedishstep  カール=フレードリック・ヒルの「モンティニー=シュル=ロワンの階段」は1876年の作品。パリのフォンテーヌブロー郊外の風景だそうです。深い葉に覆われた丘陵の岩肌が露出した急斜面や舗装されていない道、人工的な階段。岩肌や砂利道のゴツゴツした質感を絵の具を置いて積むように盛り上げて、表面に凸凹をつくることで表現しています。そして、茂る草や木の葉の緑は粗く、筆でサッと描かれています。このあたり描き方は、前のコーナーの丁寧さとは対照的で、フランスの印象派とか自然主義などの粗い筆致から点描的になっていくものに倣っている。これは、前のコーナーの画家たちとは、単にお手本が替わったというだけの違いのように見えます。ちなみに、このヒルという画家は、後のコーナーでは、別人のように変貌します。
Swedishreading Swedishmone

 エリーサベット・ヴァーリングの「ストックホルム群島で読書する女性」(左側)は1890年頃の作品。モネの「日傘をさす女」(右側)と風情がそっくりです。このようにそっくりに描けてしまうことに、驚きました。これは、技巧的にできるとか、恥も外聞もなくやってしまう図々しいところとか、そういうことではないんです。例えば、同時代の日本人の画家が、パリで印象派の作品に触れて、これはいいと思って、日本に帰国したら、このような印象派のパクリのような作品を制作できるか、というと、おそらく難しいのではないかと思います。それは、このような描き方では、日本の光や空気を描くことはできない。それで、フランス帰りの画家たちが、留学で修得した技術では日本の風景などをうまく描くことができないと悩むことが多かったといいます。そこには、陽射しの違いとか、空気の違いとか、例えば、フランスのカラッとした明るい光は、日本の湿潤とした空気や、そこを通ってくるどんよりとした陽光とは決定的に異なるのです。それが、この「ストックホルム群島で読書する女性」では、印象派そのものという描き方がなされている。ここには、フランと日本との違いは、フランスとスウェーデンにはないということが言えると思います。つまり、モネと同じように描いても、まったく見当はずれにはならない。そこには、パリの光や空気とスウェーデンのそれらとは、共通しているのだろうと思えてきます。まあ、同じヨーロッパ大陸にあるのですから、空気や光は共有していたと言えるかもしれません。だから、スウェーデンの絵画は、フランスの絵画に対して、日本の絵画ほど違わない。かなり共通していて、言わば、標準語に対する方言みたいな位置にスウェーデン絵画は位置づけることが可能だというように見えます。スウェーデン絵画などといいますが、遠く離れた日本人の目からみれば、印象派のフランス絵画との違いは、分からないのです。同じような西洋絵画なのです。
Swedishgirl Milletbostonsheepgirl

 ヒューゴ・サムルソンの「落穂拾いの少女」(左側)という作品。バルビゾン派、例えばミレーの「羊飼いの娘」(右側)とかコローの「草刈」などを彷彿とさせます。これは、スウェーデンの農村の風景なのか、お手本となったフランスの風景なのか分かりませんが、日本人の私の目からは、どっちか分からない。それほど、両者は大きく違わない。まあ、当人たちには違うのは当たり前なのでしょうが。というのも、「ストックホルム群島で読書する女性」でても思ったのですが、日本人の西洋画家たちがフランス留学から帰国すると、フランスで習った通りでは日本の風景を描けないとして、深刻に思い悩んだ人が少なくなかったということを聞きます。彼らは、苦闘の末に独自の画風を編み出したりしたわけです。しかし、ここで展示されている作品たちを見ていると、そのような葛藤の痕跡を見て取ることはできませんでした。スウェーデン画家たちは日本人画家たちのような葛藤を迫られることはなかったように見えます。ここに、スウェーデン絵画とフランス絵画の同質性を見てしまうのです。その場合、スウェーデン絵画の独自性というのは、人々がこれはフランス絵画とは違うという差異を意識して、はじめて生まれる、そういう意識的なものだったのではないかと思えてきます。
 Swedishlady アンナ・ノードグレーンの「車窓の女性」という作品は、ここで並んでいるなかで、ちょっと異質な感じがしました。周囲の粗い筆遣いに対して、この作品は滑らかで、優雅な雰囲気があります。「ストックホルム群島で読書する女性」などの絵筆の短いストロークで点描のような描き方ではなく、筆の痕跡を残さないような滑らかさは、古式というか、そういう雰囲気を狙っているのか。平面のような列車から女性の顔が飛び出してきたような、奥行を感じさせないのは、ラファエル前派のJMミレイの肖像画を見ているかのようです。

 

2026年2月26日 (木)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(2)~Ⅰ スウェーデン近代絵画の夜明け

 19世紀半ばのスウェーデン美術は、ドイツやフランスのロマン主義から大きな影響を受けた風景画が描かれた。その後、19世紀後半のパ リで流行り出した戸外での風景画制作が、新しい表現の可能性として捉えられたということです。

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  ニルス・プロメールの「草原の妖精たち」(左側)という1850年の作品です。北欧の神話か民間の伝承を絵画にしたものでしょうか。“沈む太陽が地平線を赤く染める黄昏時、薄い衣を身にまとった少女たちが、広々とした草原で手を繋ぎ、輪になって踊っている。美しくもあどけなさの残るその顔は、ドレープが優美な曲線を描く衣裳と同じように、没個性的で神秘的な雰囲気を漂わせている。輪になって踊る少女たちの体は宙に浮かんでいる。少女たちは現実の存在ではなく、この地に宿る妖精である。画面左奥の馬に乗った二人の人物は、あたかも自然には妖精が存在するのが当たり前であるかのように、この幻想的な光景に驚くような素振りは見せていない。”(図録P.30)とくに、少女たちの薄絹の白が印象的です。背後の森は、いかにもロマン派的な描き方で、何か意味ありげです。このような神話か伝承を幻想的に描いた絵画は、以前にSOMPO美術館で見た、アウグスト・マルムストゥルムの「踊る妖精たち」(右側)もフィンランドのロベルト・ヴィルヘルム・エクマンの「イルマタル」もそうでした。いずれも、妖精は白い薄絹を身にまとい、絵画は、その白がとても印象的で独特でした。これは、北欧の絵画に共通する特徴なのでしょうか。
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 イエーオリ・フォン・ローセンの「大ステーン・ステューレのストックホルム入場」(左側)は1864年の作品。いわゆる歴史画になるのでしょうか。描かれているのは15世紀の出来事ということですが、画面の印象は古色蒼然としている。色彩が黒ずんだ感じで、長い年月でくすんでしまったような感じがします。画面は芝居の舞台のようなつくりで、歴史的建築の壁画によくあるようなスタイルです。それゆえ、15世紀の中世に描かれたと言われたら、信じてしまいそうです。それが、この画家の特徴なのだそうです。しかし、石畳の石のひとつひとつまで描き込まれており、かなり緻密な描写であるのは、中世というより近代のこだわりでしょう。それと、画面全体がくすんでいるなかで中央の人物の頭巾や馬上の人物の上着や掲げられている旗の赤が、とても際立っています。この画家は、ベルギーの歴史画家ヘンドリック・レイスにならったと説明されていましたが、たしかに、この作品はレイスの「シャルル5世の勅令」(右側)とよく似ている。
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 マルクス・ラーションの「荒れ狂うボーヒュースレーンの海」(左側)という1857年の作品。荒れ狂うように海岸に打ちつける高波。海岸に座礁した帆船と、そこから脱出した人々が岩場に孤立している。曇天の下、雲の切れ間から射し込む陽光がスポットライトのように座礁した帆船と岩場に取り残された人々に絵を見る人の視線を誘います。荒れ狂う波、明暗のドラマチックな描写は精緻で迫力があります。ここには、巨大で厳しい自然に対して人間は小さいとか、荒波の荒天でも雲の切れ間から青空が垣間見えるといった様々な暗示が見えるのは、いかにもロマン主義的です。この作品も、ドイツの画家アンドレアス・アッヘンバッハの影響があるといい、アッヘンバッハの「ノルウェー沖の嵐」(右側)によく似ています。ラーションの作品の方が、はるかに精緻ではありますが。
Swedishsnmmer  エードヴァッド・バリの「夏の風景」という1873年の作品。スウェーデン中部の湖水地方の牧畜の風景ということです。ラーションとは対照的な平穏な風景です。ラーションのような執拗なほどの細かさはありませんが、これまで見てきた画家たち、丁寧に画面に描き込んでいるところが共通していると言えるでしょうか。“スウェーデンの白樺の森を発見した”と言われているとのことです。でも、こののんびりとしたような平穏な風景といい、ちょっと粗さを残しながらも丁寧な描写をしているところなど、イギリスの風景画家コンスタブルを想起させるところがあると思います。
 これまで見てきた作品は、プロメール以外はどれも誰々を想い出させるという誰々風の作品で、描写が丁寧というところで共通しています。ちょうど、日本が明治維新で西洋画を取り入れる際に、黒田清輝らの外光派がフランスの印象派を真似た作品を多数制作したのと同じようなことでしょうか。フランスやドイツに行って、そこで流行っている絵を見て、これはいい、と自国に持っていった、そういうことでしょうか。スウェーデンでは、彼らの作品は新しい絵画として受け容れられた。彼らはフロンティアとして評価された。

 

2026年2月25日 (水)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(1)

2026年2月6日(金) 東京都美術館
Swedishpos  再び美術館めぐりをするようになって、改装された上野駅の公園口の人ごみに閉口し、上野公園の美術館の混雑に辟易するようになって、自然と足が遠のくようになりました。入口で長い行列に並ぶのは嫌だし、予約するくらいなら、遠慮させていただく。とはいえ、それでも見たいと思う展示もないわけではなく、そこで一計を案じて、金曜日は、平常日の閉館時間である午後5時以降も開館時間を延長して8時までやっているのを利用することにしました。上野駅に着いたのは、午後5時半ごろ、陽が落ちて、周囲は暗くなっていましたが、駅前の広場には、まだ多くの人がいましたが、公園に進み、東京都美術館に向かうと、だんだんと人影は少なくなりました。チケット売り場で並ぶこともなく、会場へ。まだ、会期が始まって1週間くらいだから空いているかと思っていましたが、それでも、そこそこの人がいました。混雑して作品の前で順番待ちの行列こそありませんでしたが。鑑賞の支障のない程度。これがもし、会期の後の方で、昼間であったりしたら…、想像したくもありません。実際に来ていた人は、時間が時間なだけに勤め帰りの人が多いかと思ったら、制服の高校生もいたり、カップルもいたり、さまざまでした。しかし、グループは少なく、1人か2人といった少人数の人々で、それなりに来館者がいても、会場内は静かでした。それで、落ち着いて作品を鑑賞できたのもよかった。
 ここで、主催者のあいさつを引用しておきます。
 “ヨーロッパ北部、スカンディナヴィア半島に位置するスウェーデンは、約2万4千もの小さな島や岩からなるストックホルム群島、岩礁が続く海岸線、森林や湖、そして北極圏に広がる山岳地帯など、雄大な自然風景に恵まれた国として知られています。
 今日、私たちが思い描く「スウェーデンらしさ」が見いだされたのは、スウェーデン美術の黄金期といわれる1880年代から1915年頃にかけてのことでした。本展はこのスウェーデン美術の黄金期に焦点を当て、その展開を84点の絵画で体系的に紹介する、日本で初めての展覧会です。
 1870年代後半からスウェーデンの多くの若い芸術家たちは、芸術の中心地であったフランスへ赴き、新たな美術の潮流に触れるなかで、人間や自然をありのままに描くレアリスムに魅了されました。やがて彼らは故郷スウェーデンへ戻ると、自国のアイデンティティを示すべく「スウェーデンらしい」芸術の創造を目指すようになります。厳しくも豊かな自然や北欧ならではの光、そして身近な人々との暮らしの中にあるささやかな喜び─スウェーデンの画家たちはこうした「日常のかがやき」に描くべきモティーフを見いだし、親密で情感をたたえた表現で描き出しました。
 彼らのまなざしは、自然とともに生きる暮らしの豊かさ、そして現代のスウェーデンにも息づくウェルビーイングという考え方へとつながっているのではないでしょうか。本展が、皆様の身近にある「日常のかがやき」に、そっと光を当てるひとときなれば幸いです。”
 スウェーデン国立美術館も含めた北欧美術については、一昨年のSOMPO美術館の「北欧の神秘」展で一部を見たのでしたが、その時の印象は、その時々の流行を自国風にアレンジして、差別化を図るという傾向でした。主催者あいさつにある「スウェーデンらしさ」というのが、そういうである面は否定できないと思います。しかし、印象派以降のフランス絵画がセザンヌを経て、抽象の方向に向かって言ったのに対して、スウェーデン絵画は抽象に進むことなく、あくまでも伝統的な具象から一歩も出ることはなかったのは、「スウェーデンらしさ」のゆえかもしれないと思いました。それらについては、これから作品を見ていくことで、分かってくると思います。

 

2026年2月21日 (土)

塩谷亮 刻を描くリアリズム

Shiotanipos  佐藤美術館へは総武線・中央線各駅停車の千駄ヶ谷駅で降りて、信濃町の方向に進む。坂を下りるようにして、線路をくぐって、道なりに進むと、二つ目の信号で信濃町方向に進むように右折すると、すぐ、道の右側のビルに佐藤美術館の看板が見つかります。入口は小さくてわかりにくいのですが、エレベーターで2階に上がり、入場受付をします。2階が受付とミュージアムショップになっています。なお、ロッカーは設置されていないので、大きな荷物があるような場合には、受付で預かってもらいます。展示室は3階から5階で、エレベーターで移動します。エレベーター待ちが面倒な人は、エレベーター右手の鉄のドアを開けると階段(非常階段みたい)があるので、そこで上下します。各階の展示室はビルの一室です。部屋の真ん中にソファーが置いてあって、アンビエント・ミュージックがBGMで流れていて居間に飾られている絵画を見ているような雰囲気です。
 Shiotanimu 塩谷亮という画家のことは写真みたいなスーパリアリズムの画家ということ以外は知らないので、その紹介を兼ねて主催者のあいさつを引用します。
 “このたび佐藤美術館では、現代写実絵画の第一線で活躍する画家・塩谷亮(1975年生)による初の大規模回顧展を開催いたします。
塩谷は11歳の時に松本竣介の《Y市の橋》に心を打たれ美術に開眼、西洋古典絵画の画集と出会った中学時代を経て、武蔵野美術大学油絵学科に現役で合格。古典技法の習得に情熱を注ぎ、現代美術志向の波にも流されることなく、自らの信じる道を貫きました。
 卒業と同時に二紀展へ初入選し、2002年には27歳で初個展を開催。その透徹した写実力は瞬く間に注目を集め、やがて訪れる写実絵画の再評価の潮流とともに、写実画壇の中心的存在となっていきます。
 塩谷の目指すリアリズムは、単なる「写し取り」ではありません。対象を深く見つめ、古典技法を土台に、気配や空気感といった目に見えないものを描き出すことに本質があります。人物や風景、静物に至るまで、すべてのモティーフに丁寧に向き合い、その背後にある自然観をキャンバスに結晶させていく――その姿勢は、万物に魂が宿るとする「アニミズム」の精神とも響き合っています。
Shiotanimu2  塩谷は15年前に念願の田舎へ転居し、海・山・川・田畑に囲まれた環境の中で、日々の暮らしや散歩を通して自然や動物の生命感に圧倒され、人間もまた自然の一部であることを実感しながら制作しています。制作の合間、アトリエに程近い畑の家庭菜園で土いじりをし、時には収穫したての自然の恵みを絵の中に登場させています。
 2009年には文化庁在外研修員として滞在したイタリア・フィレンツェでは、ボッティチェリやレオナルドの模写を通して西洋古典技法の根源に触れ、日本人としての感性をより明確に見つめ直しました。
 写実画家の多くが17世紀オランダ~近代フランスの技法を用いる中で、塩谷は15~16世紀イタリア・ルネサンス期の技法に基づく制作を行っています。過渡的な油彩技法ながら、支持体となる板に乾性油による層を重ねることで、独特の奥行きや透明感、塩谷ならではの気品漂う芳しき色彩と柔らかなアウラに包まれた空間が生み出されるのです。
 今回の展示では5歳で描いた絵から高校・大学時代の習作、デビュー以降の代表作、最新作まで約50点を一堂に展観します。さらにアトリエの再現や公開制作も行うことで、写実絵画の創作の現場に迫ります。
 写実とは何か、いのちある存在を描くとは――30年にわたり一貫して問い続けた画家の軌跡を多面的にご紹介する本展は、デジタル化が進む現代だからこそ、修練を積んだ手わざでしか掴み取ることができない存在の神秘や生命の息づかいを感じるはずです。
 塩谷亮の未来に向けての新たなる決意を示す珠玉の絵画世界を、是非この機会にご堪能ください。”
 写真のような写実的な絵画は、書店でも画集が平積みにされているなど一定の人気があることなどから、平日の夕方という(私が訪れたのは閉館前の1時間ほど)時間にもかかわらず、館内には人の波が途切れず、広いとは言えない室内で、常に一つの作品の前に数人がいました。上野界隈の美術館とは違い、カップルの姿はなく、一人の客がほとんどで、そのせいかおしゃべりする人はなく、静かでした。きているひとは、スマートフォンで撮影すると、足早に立ち去る人が多く、絵の前で立ち止まる人は少なく、人の流れはスムーズでした。
 では、展示されている作品について述べていきたいと思います。

 

 まず、3階から見て行きます。
 「第1章 刻を描く」というコーナー。“戦争やパンデミックという現代の混乱の中でも、変わらない人間の尊厳と生きる実感を描き続ける。時代を映しながらも、個人の内面に深く寄り添った近年の作品群。”ということでした。
Shiotaniukrine  「ウクライナの少女」という作品。髪の毛の一本一本まで緻密に描かれていて、人物の背後の石壁の窪みのひとつひとつまで細密に描き込まれています。筆の後は見つからず、スフマートとは違うのだろう、写真みたいだ。ウクライナの少女という作品タイトルが“戦争やパンデミックという現代の混乱の中でも、変わらない人間の尊厳と生きる実感を描き続ける。時代を映しながらも…”ということなのだろうか。でも、これって作品タイトルを知らなければ、この女性がウクライナの人だということは分からないし、さらに戦争という混乱の時代を映していることまでは気がつかないのではないだろうか。そういう情報を抜きにして、この画面だけから“変わらない人間の尊厳と生きる実感”をどうやって、見る者は感じ取ることが出来るのだろうか。たんに、私が鈍感なだけということかもしれないが。写真みたいで巧みだ、とは思う。
Shiotaniearth  「地の脈動」という作品。静物画ということでしょうか。赤蕪の土のついた株を白地に置いたもので、土の一粒まで描き込まれているかのようです。これも写真のような緻密な描写です。でも、私にはそれ以上でもそれ以下でもない。ここに題名のような「地の脈動」を想像することはできませんでした。精密な赤蕪です。どうも、この人は、画面に過剰な意味づけをしたいようです。そのわりには、画面を構成としようとか、そういうことで画面で語ろうというところはあまりないようです。
Shiotaniresonance Shiotanidaria

 「Resonance」そして「Daria」という作品が並んでいました。同じモデルさんを描いた作品ですね。写真のように忠実に描かれているので、そういう識別が容易です。これは、人を理想化するとか、画面をつくる中で人という存在とすることはかえって難しいのではないか。この二つの作品は、赤い布が人物のバックにあること、そして、人物が仰臥して、それを上から見下ろすアングルで描いている点が共通しています。展示されている作品では、このアングルの作品が目立ちました。この作家は、モデルを見下ろす、上から目線が好きなんでしょうか。
Shiotanikanon  「KANON-15years old」という作品を見ると、髪の毛だけにとどまらず、顔や腕のうぶ毛まで描き込まれています。それゆえ、15歳の少女の肌の柔らかさの感じを表わすことが出来ていると思います。その近視眼的な微細さは凄いと思います。しかし、背景に目を転じると、窓の外の風景は書割のようです。たしかに、形態は正確なのかもしれませんが、類型的に見えてしまい、屋外の感じ、空気感というか、家屋の存在感がない。背景が遠いという感じがしない。この人の描写というのは室内の手の届く範囲内と、屋外とではレベルが異なる。空間の広がりということがないのです。
 同じ3階のフロアで、「第2章 気を描く」というコーナーの展示もされていました。“目には見えない「気配」や「空気感」を、いかにして画面に写し取るか。形や色彩を超えた、移りゆく感情と時の流れを描く塩谷特有の抒情性に迫る。”と説明されています。
Shiotaniaizu  「奥会津霧景」は風景画ですが、この人の写真のような精密な描写は、風景では書割のようになるようです。私が思い出すのは、ルネ・マグリットの描く騙し絵のような、らしいけれど、わざとらしい風景です。マグリットの場合は、仕掛けをしていると、見ている者に分からせるように、あえてそのゆうに描いているところがありますが、この人は大真面目に描いているように見えます。“目には見えない「気配」や「空気感」”というより、あくまで表層の形で、霧も幻想的というよりは、霧の粒子の一粒一粒が明確に描かれているようで、図鑑とか科学の教科書の図を見ているような印象です。
Shiotaniflower  「花韻」は静物画の一種なのでしょうか。このような近景では、この人の細密な描写は生き生きとしてくる。構図は17世紀スペイン・バロックの静物画、ボデコンに似ているのですが、ボデコンに感じられる神秘性はなく、明確そのもの。それが、この人の味なのでしょう。
フロアを4階に上がります。
 「第3章 初期作品」というコーナー。“少年時代から絵画を愛した青年の出発点。オランダ絵画に影響を受けた高校時代から美術大学での形成期まで、画家としての基礎を築いた貴重な作品群”
Shiotanistillife  「静物(17歳)」を見ると、この人は、最初から写実一辺倒ではなく、画面を想像で創るということもやっていたことが分かりました。ただし、画面で使われていた各パーツの描写は上手に写されたものでした。この方向へは進まず、写実的な方向に進んだわけですね。分かる気がする。
 同じフロアで「第4章 揺らぎの中で」というコーナー。“美術大学卒業後、三次元空間の再現に新たな視点から挑む。平面的な構成や、ダブルイメージを用いた作品など、表現の可能性を探求した転換点の作品群。”ということです。
Shiotaniafternoon  「午後の陽」は郊外の風景ですが、生い茂る草の葉の一枚一枚を明確に描き込んでいるようですが、それが見る者にはハッキリしすぎて、かえって現実感がなく、またその先の家屋は定規で引かれたような几帳面な直線で描かれているようにみえて、これもまた現実感がない。ここに人影がないのも分かるような気がして、生命感がないのです。精巧に作られたミニチュア模型のような感じです。それは、意図的にとのように描かれたというのではなく、そうなってしまったように見えます。
Shiotanimorning  「朝の情景」は、「Daria」と同じように仰臥した女性を、上から見下ろすアングルで描いた作品です。並んで展示されていた「晩夏」も同じようなアングルです。しかも、このアングルの作品は、どれも大画面です。何でしょうか。女性を見下ろしたい願望があるのか、と勘繰りたくなります。
Shiotanitomorow  「明日」という作品は、女性が鏡に映った自分を見ているのを描いたという、この人にしては、凝った構成の作品です。ちょっと奇を衒っているようにも見えます。この人の魅力は、微細に写実的に描くことを突き詰めれば、突き詰めるほど、描かれたものが現実感を失っていくところにあると私には思います。つまり、描写を追求するほど、嘘くさくなる。それが魅力だとおもうので、構図で凝ったりすると、その魅力を殺いでしまうと思えるのです。
 そして、このフロアでは「第5章 東洋と西洋」のコーナーもありました。“イタリア留学を経て「日本人が描くリアリティとは何か」を深く探求。自然信仰の象徴・那智の滝を描いた代表作を中心に、東西の精神性や様式美が融合した作品群。”
 「颯」と「月華」は裸婦像です。写実的に忠実に描いてると思うのですが、「月華」の女性は頭部と身体のバランスがチグハグに見えてしまう。この前に見た小出楢重の裸婦像は大胆にデフォルメしていましたが、こちらの方が自然に見えてしまいました。
Shiotanisatsu Shiotanimoon

 最後の5階は、「第6章 絵の生まれる場所」というコーナーで、アトリエが再現されていたりしましたが、とくに印象に残ったものはありません。
 この画家は写実絵画ということですが、以前に見たスペイン・リアリズムの画家アントニオ・ロペスのような風景画を見ていて、実際に、その風景の前に立っているような錯覚に陥る、ということはありませんでした。あくまでも、上手な写実的絵画なのです。例えば、「地の脈動」という作品で、土が一粒一粒描かれていますが、その土は殺菌消毒された土の外形で、実際の細菌やバクテリアが蠢いているような土ではないのです。要するにキレイゴトで、現実の生々しさとか存在感が稀薄なのでした。

 

2026年2月14日 (土)

小出楢重 新しき油絵(4)~第4章 芦屋での円熟期 1926~1931

 第3章はパスしますが、1926年、小出は芦屋の洋館にアトリエを構え、そこで洋風の生活スタイルをしながら制作をしました。それが彼の晩年の充実した豊饒の時代となった。
Koidestillife3  1928年の「卓上静物」(京都国立博物館)。小出は、裸婦とならんで静物画も数多く制作しました。ここでの裸婦ほどではありませんが多数の作品が展示されています。“静物は裸婦と並んで楢重が好んで手がけたテーマで、残された油彩画の数は、実は裸婦像よりも多い。健康体ではない画家がアトリエで自由にアレンジできる題材であったことも、多作の理由の一つであろう。なかでも独創的なのが、黒光りする台の上に野菜や果物を所狭しと並べた蔬菜静物のシリーズである。代表作の「卓上静物」(本作品)では、丸皿に置かれた二尾の魚を、玉ねぎ、にんじん、かぼちゃ、きゅうりなどのなじみのある野菜がひしめきあう。…楢重は「静物にあっては、例えば卓上菜果の図を作るに、それらの題材は自由に画家の希望通りに並べかえ取りかえることが出来る。その代わり、なまじっか、自由が利くところにかえって構図上のむずかしさが起こってくる」とし、細工をしすぎて不自然にならないよう注意を払った。「卓上静物」も、暗い背景に映える鮮やかな色彩によって蔬菜そのものの魅力が引き立つとともに、雑然と見えつつも一定の秩序をもって構図がまとられており、楢重の卓越した手腕が発揮されている。”(図録P.168)と説明されていました。この説明からは、計算された画面構成ということですが、私にはクネクネとした筆の流れが黒いテーブルをキャンバスのようにして線が流れている。抽象画的なものを感じます。
Koideself3  同じ1928年の「帽子を冠れる自画像」。小出の自画像は、東京美術学校の卒業制作を別にしてパターン化されていると思います。細長い顔立ちの強調、斜め横を向いた顔の角度、こちらを見据えるまなざし、丸い帽子などが、「Nの家族」から共通しています。そして、「帽子をかぶった自画像」からは、このパターンに口もとの3本線が加わりました。この「帽子を冠れる自画像」が最後の自画像になるということです。この作品は、白いカーテンや窓から屋外の風景が見えているのが、他の自画像にはない特徴といえます。
Koidesyu  同じ年の「周秋蘭立像」。チャイナドレスの女性の立像ですが、モダンでスマートに見えます。1925年の「帽子をかぶった自画像」と同じようなテイストでこの女性を描いたという作品になっています。同じ年の自画像は、これらとは違って、明るさとスマートさがあまりなくて、何か暗い感じがします。翳があるというか。作品を並べて見ていると、それが分かります。
 この円熟期に裸婦像が多数描かれ、何点もの裸婦像が展示されていましたが、『ハイライト 楢重の裸婦像』としてコーナーを分けて、代表的な裸婦像がまとめて展示されていましたので、併せて見ていきたいと思います。
Koidenude5  先ずは1927年の「裸婦」です。“人間にとって他の何物よりも強き美しさを示すものは人間の裸身であろう。従って永く描きつづけて興味の続くものも裸身である。それから、人間がよく了解するが故になおさら他の万物よりもごま化しの利きにくい処のものであり、その色彩の複雑にして微妙である処、一ヶ所として一様な平面や線を持たない処、あらゆるデリケートな凸凹において、線において、その立体において、そのかたさ、滑かさ、その軟かさ、その構成の整頓せる事において、さようなあらゆる点において、一般裸身を描く事がわれわれ画家にとっては最もよき終生のモチーフであり、画家の喜びであり、またその困難さにおいては初学者にとって最も興味ある手本としてこれらが多く描かれ用いられる訳であろうと考えられる。”という小出自身の言葉にあるように、彼は裸婦の肉体をモチーフとして描くことを重視していた。例えば、基礎的な修業では裸体デッサンは必須で、西洋絵画の伝統において裸婦は重要なのだから、真面目な小出は追究していってしまった、という感じがします。
 『ハイライト 楢重の裸婦像』のコーナーは、以下のような裸婦の作品ばかりが並んた一画で、閉館時間が近づいて人影がなくなり、コーナーに私と女性の係員と二人だけとなると、何か気詰まりな雰囲気でした。私の気の持ち方でしょうか。とにかく見ていきましょう。
Koidenude6 Koidematisse

 「裸女結髪」(左側)は1927年の作品。女性の後ろ姿をとらえた裸婦像で、上半身と下半身、そして両腕が生み出す空間という四つの三角形、そして後頭部は円形、中央に髪の束が垂直な直線を組み合わせた幾何学的な構図が用いられています。マティスの「髪結い」(右側)の構図によく似ていますが、胴体の長さや腰から太ももにかけてのラインは西洋人的でなく、日本人的です。ほっそりと華奢な身体、真っすぐと伸びた後ろ髪、そして肌の微妙な色合い。描かれた女性は顔が描かれていません。小出は日本人女性の肌について、“黄色に淡い紅色、淡い緑が混ざった肌の色合いに西洋の裸体にはない温かみと肉感を感じる”と述べているそうですが、彼は試行錯誤を繰り返し、絵具を塗り重ね、ついに艶を帯びた日本人特有の肌をつくり上げたと言えます。まっすぐに伸びた背中の形や縮尺も、実際の女性の体からはかけ離れているほどデフォルメされている。これは、例えばルノワールのようにふくよかで柔らかく、女性らしさ全開という雰囲気とは正反対で、日本的な裸体表現として工夫されている。その背中を真っ黒な髪の毛が縦断している。その黒は濃厚で、むしろ、髪の毛自体の存在感の強さが魅力的です。西洋絵画には、裸婦像は人間の理想化された人体を描くものという伝統があると思います。その理想というのは、人間は神の似姿としてつくられた、というキリスト教的な世界観によるものです。しかし日本の世界観の中に、神を起源とする理想的な裸婦像はあいません。そこで現実に見たものの魅力を西洋的な技法を応用して、理想的な美ではない非均整的な美として表現することになるわけです。一方で、日本の女性の肉体が、白人女性と異なるため、小出は、日本女性のフォルムや肌の質感を、西洋の伝統のように理想化されたものではなく、ある種のリアリティを維持しながら、単純化しその魅力が際立つように描いている。それは、1920年代のパリで墨や筆、日本画の技法を駆使して、「乳白色の肌」「乳白色の下地」と称されたマチエールをつくりだして国際的に評価された藤田嗣治と対照的といってもよいかもしれない。
Koidenude7  「裸女と白布」は1929年の作品です。小出は1927年に芦屋に転居して高い天井の広いアトリエを手に入れることができたので、寝台に人物を横たえて全体をとらえることができることができる十分な広さを確保できた。それまでの狭い和室のアトリエではできなかった横臥する裸婦を描くことが出来るようになり、横臥像が数多く描かれるようになります。“横たわる裸婦をやや上から見下ろすことで、画面の半分以上を寝台や床面が占め、場面設定の不自然さがなくなったほか、モデルは身体をひねったり腰を曲げたりよじったりすることが可能となり、日本人モデルの身体的特徴をデフォルメした個性的な裸婦像が展開されることになる。” (図録P.212)
Koidenude8  「横たわる裸身」は1930年の作品。“楢重の晩年の裸婦像には、マティスとの類似がたびたび指摘されてきた。画家自身は「マチスが近代技法の特質を最もよく生かした画人」と称賛するが、具体的な言及はない。単純化された人体フォルムや装飾的な画面構成はマティス風ともいえるが、表層的な模倣でないことは確かである。蔵屋美香は…「マティスは、女性の身体に幾何学的操作を加えて画面の秩序に従わせること、その肉のやわらかい盛り上がりを描き表わすことを両立させようと試みていた。小出がマティスのこの点に惹かれ、作品をなぞっていた可能性は高い」としてきする。…原田光は楢重の絵画は「全体を把握しようとする構成の意志と、部分において、対象を味わいつくそうとする写実の意欲が、衝突している」と表現したが、楢重の絵画が内包する二つの方向性、写実と装飾、ないしは幾何学による画面構成について、それらを融合しようとする試みは、その後の裸婦像制作の中で少しずつベクトルを変えながら展開されてゆくのである。「裸女と白布」は、人体の写実描写を損なうことなく、全体を堅牢な縦横の構図でまとめ上げ、白、赤、青そして裸身の黄味がかった色彩を見事に配置したものであり、一方、胴を引き伸ばし尻を異様なまでに大きくした「横たわる裸身」は、身体の幾何学化の極限ともいえるだろう。”じっさいに、マティスの同じ題名の裸婦作品と見比べてみましょう。たしかに、マティスの裸婦は身体を単純化し、身体を歪めるほどデフォルメを施しています。画面全体は鮮やかな色彩と模様のような背景の中に裸婦が位置づけられている。裸婦は画面の一部にあてはめられているような感じです。小出の作品は、そうではない。マティスに比べれば、裸婦の肉体には存在感があり、肌の色もマティスの単に色が鮮やかで印象的というのではなく、相対的に写実的で生き生きとした感じがします。マティスが絵画的といえるのに対して、小出の方は身体論みたいな感じがします。
Koidenude9  同じ1930年の作品で「立てる裸婦」です。“だいたい、私自身は西洋人よりも日本の女の方が好きなのだ、それで裸体をかく時にでも、私は決して理想的なものを求め度くない、各のモデルに各様の味があるのだから面白いのである、人の顔が各違っている如くに。”と小出自身の言葉があるということですが、西洋人の体型より日本人の体型の方が好ましいと言っているわけです。ここで描かれている裸婦の体型は、西洋人と比べると胴長短足の日本人的な体系を強調しています。しかも、安産型といいますか、下腹がのっぺりとひろがり、尻が垂れる下半身を極端に強調しています。
Koidenude10  同年の「前向きの裸女」。小出の裸婦の特徴をまとめると次のようになると思います。 “単体で、画面の横あるいは縦幅いっぱいに描かれる。場面設定は裸婦が登場しても違和感がないよう工夫をこらしたもので、布をかけた寝台やソファ、絨毯や机などの調度品が空間を演出すると同時に、装飾的な効果をもたらしている。モデルの顔は奥を向いているか、正面向きでも目鼻が単純化され、個としての女性を意識させない。冷静な観察眼でとらえられた身体は、画家にとっては、静物と同等の一つのモチーフとなる。そして何よりも魅力的なのは、曲線が連なる身体の流麗なラインと、艶やかで美しい肌の色合いである。大胆な簡略化とデフォルメにより、胴の長さや腰から太ももの大きさを強調しつつ形成されるフォルムは、最晩年の1930年になるほどなめらかな造形になり、様式化を極めてゆく。また、黄色に淡い紅色、淡い緑が混ざった肌の色合いに西洋の裸体にはない温かみと肉感を感じる、と画家が述べたように、色彩は複雑に塗り重ねられ、同じく最晩年に向かってより伸びやかになって、艶を帯びた魅力的な肌の質感を創り上げるのである。”(図録P.208)
 このあと、企画展を見終わって常設展の展示にも寄って見ました。そこでは「二科展に集った個性」ということで作品が展示されていました。小出楢重が二科展の会友であったことに、関連して、常設展も連動した展示をしているのでしょう。興味深かったです。

 

小出楢重 新しき油絵(3)~第2章 大阪での創作と欧州への旅 1917~1925

 小出は東京美術学校を卒業し、故郷の大阪に帰りますが、文展に落選を続けます。1919年の二科展で賞をうけ、画家として認められ、短期間でありますが欧州に出かけます。いわば、画家として認められ、独り立ちしていく時期です。
Koideladyn  「N夫人像」は1918年の作品です。それまで描いていた風景画に比べると作風が少し異なるように見えます。例えば夫人の着ている着物も、肩掛け、背後の布も、また、椅子や書物にしても、すべて厚みのあるどっしりとしたもので、色彩も強く、十分な厚みをもってつけられ、風景画にはない重厚さがあることです。人物画といっても人物より、その周囲を飾り立て、画面全体をさまざまな色彩で溢れさせるという方向性は学生時代の「自画像」や「銀扇」にも見られましたが潜在的で、この作品では前面に表われてきたと思います。人物と周囲のものとは、ほとんど同じくらいの重点を置いて描かれています。背後の布は左3分の1が濃い青、右3分の2が赤みを帯びた朱色でそこに夫人の頭髪の黒があります。また肩掛は所々、Koidelady 赤紫を帯びた黒、着物は緑の地に赤みのある黄色の模様、肘掛の厚い布地は今まで述べてきた色が混ざり合った暗色です。寒色のなかには暖色、暖色の中には寒色の模様というように、寒色と暖色の配置、組み合わせによって独自の色彩効果をあげようとしている。全体に重量感があって、これだけ色彩に溢れているのに落ち着きがあります。洋風の室内空間に日本人がいてもギャップが感じられない。ここに日本人の油絵での人物表現の新しい形が見えてきている。
  前年の「婦人像」では「N婦人像」の意識的な画面構成はされていなくて、写生に近く、より地味な印象です。
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 「Nの家族」(右側)は1919年の作品で二科展の入選となり、これで画家として広く認められたということです。同じ年に「芸術家の家族」(左側)という作品も制作していますが、おそらく「Nの家族」に先行して試行的に制作したのではないかと思います。ほとんど同じ構成の作品ですが、両者を見比べると「Nの家族」の方が、人物の描かれたかたちがハマッたようだし、静物や背後の配置も構成的で、画面の緊密の度が高くなっている。この作品あたりから、対象を写実的に描くということから演劇の場面のように画面を構成するという方向に変わってきて、小出の個性が形をとり始めたといえると思います。そのために描写も写実的なものからデフォルメを施すことが必然的なものとなっていく。例えば、「Nの家族」では手前の卓上に北方ルネサンスの画家ホルバインの画集が描かれていますが、人物の配置や描き方、あるいは重厚な色遣いは、そのホルバインを取り入れているし、卓上左の果物の描き方はセザンヌを想わせる。北方ルネサンスと近代の新しい絵画が違和感なく同居している。そのためにか、例えば手前の卓上の物と人物とのバランスが合っていないで、卓上の白いテーブルクロスがゴワゴワというか布の柔らかささがなく、人物の存在感を食おうとしている。のように、画面の各部分をあえてチグハグにしている。そこに、小出の計算が働いていると思います。これだけチグハグにして画面が成立させているのは、裏で緻密な計算がされていなければならないと思います。そこで感じられるわざとらしさ。それは、まるで演劇の舞台といっているようです。それには、画面の演劇的構成のために必要なツールとして採られている。
Koideume  「少女お梅の像」も翌年の二科展で入選し、会友に推挙されることになり、小出の画家としての地歩が固まったということです。この作品あたりから、絵の具を塗るということから置いてマチエールとして盛り上げ、すこし点描的なやり方に変わっていきます。そして、「Nの家族」に比べると、色遣いが重厚ではあるものの次第に明るくなっていく。そして、写実から演劇的という方向をさらに進めていきます。例えば、手がバランスを欠くほどに大きく、顔は子どもではなく大人で深刻な感じがします。それは、人物の姿勢の緊張感が画面全体に漲っていることについて効果的です。どこか、岸田劉生の「麗子像」の写実を通り越して、化け物のように見えてくるのに似ているようにも思えます。
Koidenude1  「裸女立像」は1921年の制作で、小出が初めて制作した、渡欧以前では唯一の裸婦像。手先・足先を含む全身を正面から描くのは後年の作品にはなさそう。“1914年3月に東京美術学校西洋画科を卒業して以来、7年もの間油彩の裸婦を発表しなかったのは、制作環境が大きく影響したためであろう。楢重が待望のアトリエを手に入れるのは1919年2月のこと、それ以前は間借り状態で、裸婦モデルを使った制作は難しかったと想像できる。”(図録P.211)つまり、小出は裸婦を描きたくても描くことができる環境にいなかったということになるでしょうか。絵画としては、前年の「少女お梅の像」の延長線上にあると言っていいでしょうか。青い壁の室内に、配置こそ違いますが箪笥や赤い布、白い花瓶などがあり、中央に1人の人物がやや左を向いて描かれているところが共通しています。背景(室内)の描写は緻密かつ重厚で、これもそうです。また、粘り気のある絵具を細かく塗り重ねてく濃密な描き方は「お梅の像」よりさらに進んでいて、その濃厚さはヴァン・ゴッホを想わせるところがあります。
Koidestillife1  「静物」は1919年の制作。「Nの家族」の左手前の卓上の皿に盛った果物が、さらに極端に描かれているような作品です。極端なほどの遠近法でテーブルが描かれているように見えますが、その実奥行のパースペクティブがとられていないで、平面で、しかも手前のテーブル上の果物と奥のテーブルの生花との大きさのバランスがおかしい。背景は壁なのか、たんに色が塗ってあるだけなのか判然としません。果物の価値の歪みはどこかセザンヌを想わせます。
Koideautamn  「秋の風景」は1920年の作品。前に見た「山の初夏」と比べると、はたして同じ人が描いたのか分からないほど違います。「山の初夏」では流れるような筆遣いだったのが、この作品では、粘り気のある絵具を細かく塗り重ねて、マチエールのように積み上げ、盛り上がるようにしています。ゴッホやセザンヌのようです。それが、「山の初夏」にはない重量感、そこからの存在感が感じられます。これらの作品で、小出は、自身の作風を確立したように見えます。そして、このあと渡欧します。
 5か月という限られた期間とはいえ、現在とは違い、ヨーロッパに行くのは船旅であり、費用は多額になるでしょう。それを給費留学でもなく、自費で、画壇に認知されたとしても駆け出しの画家に賄えるものではなく、小出が裕福な商家の出身であるからこそ可能だったのではないか。そういう点で、この人は深刻な生活の悩みというのはなかったのではないか。そこに、小出の底辺には楽天的にものが流れていたように思えます。それは、作品のも底流していて、貧乏くささがない。渡欧のあと、作品中の室内の背景を西洋的にしてしまうのですが、そんなことができてしまうのも、そもそもそんな発想がでてくるのも、そういうことがあるのではないかと思います。たしかに、肩身は狭かったのかもしれませんが。
Koidestillife2  「喇叭のある静物」は1924年、欧州から帰ってきた後の作品です。一見しただけで、以前の静物画とは違います。例えば黒いテーブルの表面の艶。テーブル上に置かれた白い壺の姿が鏡のように反射して映っています。以前の、絵の具を厚く積み上げるのではなく、薄く溶いて塗り重ねるような描き方で、透明感が出ています。全体として、以前のゴテゴテしたものから洗練された印象に変わりました。フォルムは、以前とは変わらないのに、全体の印象は別物です。
Koideflower  「貝殻草」は1923年の作品。ヤン・ブリューゲルをおもわせるような花の絵です。そんなにデフォルメされているようには見えず、装飾的なものへの好みを、小出は持っていると思います。裸婦の背景の装飾的な模様だったり、と同じように、生花も装飾的なものとして細かく丁寧に描かれている。
Koideboy  「ラッパを持てる少年」は1924年の作品。展覧会チラシにも使われていた作品で、欧州帰りの代表作ということでしょうか。ラッパは「喇叭のある静物」で描かれていたものと同じでしょう。ラッパはこれらの作品以外にも、「帽子をかぶった自画像」など、いくつかの作品の中で描かれているので、小出のお気に入りのアイテムだったのでしょう。画面は、中央に赤い服を着た少年が配されており、赤、黒、肌色のコントラストが非常に印象的です。当時の日本の油絵において、これほど鮮明な色彩と明確な輪郭線で子供の純粋さを表現した作品は目を引くものだったといいます。しかも、少年の着ている赤い上下の服には縦縞がつけられており、少年の頭髪はまっすぐ縦の毛並が黒髪のなかに縦に赤や白が引かれ、背景の青い壁は縦に筆がスクロールされていて、画面が全体に縦の線が流れている。それに対して画面下方の床のところは渦巻き模様がほどこされ、縦の線を受け留めるようになっていて、単純な構成ながら、画面に流動性を生んでいます。それが、少年が少し硬直したような表情を際立たせている。
Koideself2  「帽子をかぶった自画像」は1925年の作品で、「ラッパを持てる少年」と並んで展示されていました。両作品をセットとして見るのがいいかもしれません。渡欧前の人物画は、ゴテゴテした印象があって、画面にたくさんのものを詰め込むようなところがありましたが、「ラッパを持てる少年」やこの作品は、画面が整理されてすっきりとしたものに変わりました。また、「ラッパを持てる少年」が画面に動きがある作品だったのに対して、こちらは静的で、モノクロームっぽい色調で、落ち着いた、より洗練された印象を受けます。それまでの黒っぽい重い色彩から離れ、明るく透明感のある色調が特徴です。また、帽子や服の質感が巧みに表現されており、質感描写への執着が伺えます。この作品では、画家制作中のカンヴァスの前に立ち、鏡に映る自身の姿をじっと見つめる姿は、「ラス・メニーナス」の片隅に描かれているベラスケスの姿を彷彿とさせるところがあります。おそらく、ベラスケスと同じように画家としての自負が表われていると思います。“もし時代の如何なる影響があるにもかかわらず、油絵というものに一生をゆだねる覚悟をもつ以上は、先ず画家として勉強の最も初めにおいて西洋の伝統と古格とその起る処の生活に触れなければいけないと思う。そして絵画の組織を極め基礎を固めなければならぬ。”という小出の言葉がキャプションされていましたが、この言葉の通り欧州からの帰国後、生活スタイルを洋式に改めたといいます。それで、この作品でも室内の様子が洋式に統一されていて、それが洗練された印象を強めていると思います。
Koidenude2  1925年の油絵の「裸婦」(アーティゾン美術館)です。この展覧会では裸婦の作品が多く展示されています。小出は裸婦を沢山描いているようです。“私は絵の基礎工事となり、肥料ともなるべき充分の科学的な素描の仕事をする事を勧めるのである。即ち絵画芸術の奥儀にまで飛ぶ事をしばらく断念して、出来得るかぎりの正確さにおいて、石膏あるいは人体の実在をよく写実する事である。そして自然の構造とあらゆる条件を認識すべきものである。”という小出の言葉がキャプションされていましたが、小出は西洋美術を描く上で裸婦は重要だから、描くべきと考えて、裸婦に挑戦したということになりそうです。たしかに、小出という人はクソがつくほど真面目で、その真面目ゆえに滑稽に映る。そういうところがあって、それが自画像のデフォルメされた形に表われているように見える。そこで、真面目に裸婦に挑んだ、というというわけです。たしかに、この作品もそうですが、描かれた裸婦にエロチシズムを感じられません。女性の人体の肉付きと、それをいかに特徴的に描くかということばかり考えて描かれているように見えます。この場合、描かれている裸婦は、思い入れとか情緒的なものはなく、石膏像と変わらぬ単に観察の対象という感じです。顔を描くのが等閑にされているのは、個人としての人格ではなく、肉体の標本のように捉えているからかもしれないと思ってしまいます。そして描かれている裸婦は、「帽子をかぶった自画像」のようなスマートな人物描写とは異なる肉体の凸凹を強調し、それを筆触と色彩で大胆に描くという、マティスとかピカソのような近代絵画っぽい作品になっています。
Koidenude3  同じ1925年の「裸女立像」(三重県立美術館)。小出楢重は、美術雑誌『みづゑ』四月号に「裸婦漫談」という一文を載せているのですが、そこで、日本人である画家が、油彩によって日本人のモデルを用いて裸婦を描く場合、躊躇せざるを得ない二つの点を指摘しています。一つは、西洋の美の規範で理想化しかねる形体と色彩の処理。あと一つは裸婦を置く背景の問題です。日本女性の体は確かに西洋人とは異なった比例を有するが、小出楢重はそれは充分美しいと主張します。しかし水浴図などのなどの伝統をもたず、浮世絵の中の遊郭や浴場に裸婦を見てきた日本人の目に、いかにして新しい裸婦を馴染ませるのかに画家は苦心するといいます。この作品では、日本髪の女を洋室の小部屋に据えることで、一つの均衡を保とうと試みています。構図の中心に背面で立つ裸婦の重心は、うなじから背中を通り脚に抜けるS字曲線と、左右の小道具、左の脇机とその上の香水瓶、右の後向きの椅子によって安定していると言えます。女性の背中のS字曲線と左手のテーブルのS字脚、右手の椅子の背もたれから脚にかけての曲線が、画面にリズムをつくりだし、グレーや濃い茶色の暗い背景に対して裸婦の白い肌がコントラストで映えています。
Koidenude4  また、同じ年の「裸女」(兵庫県立美術館)。小出は日本では現実味に乏しい裸婦というテーマに必然性を与えるために、西洋や中国のおしゃれな家具や小物をアトリエに設え、裸婦が生活している自然な空間」を作り、そこに横たわる姿をモダンに表現しました。この翌年、楢重は当時流行していた洋風建築に転居しますが、この作品はそれ以前にアトリエとして使っていた和室に外国製の敷物を敷いて描いたものだということです。画面を見ると、裸婦は顔を背け、腰を大きくひねった姿で横たわっていますが、身体を大胆にデフォルメして画面に構成しつつ、豊満な肉のあたたかみやヴォリュームを際立たせるというこの手法は、マティスの裸婦像に影響を受けたものと思われます。楢重独特のねっとりとしてつやのあるマチエールにより、日本女性の肌の色や質感がよく表現されています。それが小出の日本の裸婦の試みとしてある、というわけです。

 

2026年2月12日 (木)

小出楢重 新しき油絵(2)~第1章 画家になるまで 1887~1916

 東京美術学校の日本画科に入学し、途中で西洋画科に転科します。同校を卒業後、画家をめざすも芽の出ない時代が続きます。いわゆる修業時代の作品です。
Koidetravel  「三泊旅行スケッチ」は1906年の水彩画。小出の出身は商家で芸術的な環境とは言い難いなかで、好きで絵を描いていたのでしょう。水彩画として、形をしっかり捉えられた、ちゃんとした水彩画で、風情さえ感じられるものとなっていると思います。当時はみづゑ(水彩画)による絵葉書流行の時代で、描写にも一つの型が生まれてきているということですが、ここにはその影響が見られる。これでは、東京美術学校の西洋画科に入れるような体系的な勉強を重ねていたわけではないということです。それで、小出は入試倍率の高い西洋画科には入ることができず、志願者の少なかった日本画科に何とか滑り込むことができたということでしょうか。
Koiderakan2 「羅漢図(李龍眠模写)」は1908年の作品。東京美術学校在学時の日本画作品です。李龍眠は北宋時代の人で羅漢図といえばこの人という評価の高い人で、日本でもそれを真似た李龍眠様の龍がさかんに描かれたということです。並べてあげているのは、室町時代に日本で描かれた李龍眠様です。小出の模写は、素直で、のびのびとした感じですが、古色を模さず明るく描かれています。このあたりにも、小出の志向が抑えきれずに出てしまっていると言えるのではないかと思います。小出の言葉が展示のキャプションで添えられていました“東洋画を天国とすると西洋画はこの世である。あるいは極楽と地獄の差があるかもしれない。ところでわれわれ近代の人間にとっては極楽の蓮華の上の昼寝よりは目のあたりに見る処の地獄の責苦の方により多くの興味を覚えるのである。その事が如何にも私を油絵に誘惑した最大の原因でもある如く思える。”現実をリアルに描きたいということでしょう。小出は、日本画の素材では到底自分の要求を満たすことができなかったのでしょう。友人に群青と緑青を桝一杯浸かって描いてみたいと語っていたとのことで、小出には色彩を充満させた豪華な装飾画の制作を意図するところがあったらしい。さらにいっそう小出を魅了したのは、油絵の具独自の張りのある色沢や密度や、強靭さであり油絵特有の写実的表現であり、重厚で艶のある油絵の具の色沢は、小出にとってもともと子供の頃からの嗜好と深い結びつきをもっていたのではないか、と。
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 そして素描は1911年というから東京美術学校在学中のものでしょうか。西洋画の素描を習得しようと懸命に努力したものということです。形態はきっちり捉えられているし、女性の肌の柔らかな質感まで表現されている。しかも、情感までも漂っている。このまま写実的な方向に行ってもいいのではないかと思わせるほどです。
Koideself  「自画像」は1913年の作品で東京美術学校の卒業制作となりました。当時の東京美術学校西洋画科は黒田清輝をはじめとして外光派といわれる人たちが教師の主流であったそうで、その教育も印象派の影響をうけた外光派の手法を指導していたそうです。しかし、小出の作品は、外光派でもなく、かといって外光派の教育に反発した生徒が拠り所とした後期印象派でもなく、写実的で、古典的な表情を示しています。レンブラントや岸田劉生を想わせるような、この「自画像」は、暗い室内に左右から射し込んだ光によって、人物の首から上だけが、ポッカリと暗い画面に明るく浮かび上がっています。青黒色の暗い色調の中で、顔と、背景のもやもやした浮世絵人物に、僅かに赤系統の色が施されて、にじむような美しさを見せ、左右の光線によって円みや立体感を出そうとしている。素直な写実描写で、後の小出の特徴はまだでていません。
Koidesilver  「銀扇」も卒業制作の作品です。暗い室内に人物を立たせ、顔や身体の一部に光を当てて対象を明るく浮かび上がらせいますが、小出の大正初期の油絵には、こうした明暗処理の古典的効果を好んで描いた作品がいくつかあります。少女の着物は濃い紫色で、暗い背景とともに明暗の効果を強めるために、色彩は抑えられ、色数が少ない。とはいえ画面下部の、敷物のさまざまな色模様の、画面への装飾的な働きかけは、裸婦の周囲をゆたかにしきさいで飾り立てる後年の作品につながっていく要素が現われていると思います。
Koidemountain  「山の初夏」は1915年の作品です。小出は東京美術学校卒業後、故郷の大阪に戻ります。彼の実家は老舗の薬屋で、油絵という芸術とは無縁の商人町にあります。そこに、小出楢重が収入のあてもなく家族や親類、そして近所に気を遣いながら、絵を制作する生活に入る。肩身が狭いでしょうね。でも、現代で言えばプータローで生活できるのですから、経済的には恵まれていたと思います。周囲から見れば、自分勝手な放蕩息子です。それゆえ、というわけではありませんが、小出は展覧会で入選するという権威を得(これは画家として認められることでもあります)ようとするわけです。しかし、もっとも権威があるとされた文展には、落選を続けます。この作品は第2回院展で入選を果たします。とはいえ、官展である文展とは大阪での知名度は届かないものでした。この作品は、奈良の風景を描いたもので、近景は平坦な草地で、中景右寄りに土坡があり、その背後に赤松の大木があります。遠景は若草山を想わせるなだらかな小山で、中景の起伏には緑濃い樹木の茂みが描かれています。近景は明るい緑、中景から遠景にかけては濃い緑で、その中に赤松や地肌の明るい褐色が画面の色彩に変化を与え、アクセントになっています。外光派とも後期印象派ともつかず、自然に直面しながら彼なりの素直な写生画です。とくに筆の流れがマチエールとなって、生命力を感じさせる。また、その絵の具の色の塗りを生かすために風景の形態が円くデフォルメされている。
Koidesunset  「道頓堀の夕陽」は同じ年の制作。赤い夕陽の空が明るく川面に映えるほんのひとときの風景で、橋上には白い浴衣の子供や夕涼みの人々が佇み、川向うには中座がみえる芝居茶屋の灯がともっています。光の使い方は印象派風のところがあり、色彩も筆触も柔らかく、絵の具も薄く塗られている。これらの風景画は、東京美術学校の卒業制作の暗闇の中からスポットライトが当てられて人物が浮かび上がるという明暗の対比から、明るく柔らかい画面に作風が変わっていきました。

 

2026年2月11日 (水)

小出楢重 新しき油絵(1)

Koidepos  今年はじめての美術展。この展覧会は大阪の中之島美術館で開催されていて、巡回で府中にまわってきたものです。それを待っていました。去年までなら勤めがあって、正月休み明け早々に美術館に出向くなどということはできなかったが、リタイアした身分になってそういう贅沢を満喫しています。武蔵小金井駅でバスに乗り込むと、平日の午後というのに、ほぼ満員状態。これは、美術館に行く人が多いのかと思っていたら、停留所のたびに降りていく。結局、美術館の最寄の一本木の停留所で降りたのは私一人だけだった。停留所でバスを降りると、進行方向に歩き、信号のある交差点の向こうが美術館のある公園の入り口。府中市美術館へは京王線の東府中駅から公園を散歩がてら歩いていくことが多いのですが、今日は風が冷たく、寒いので、バスで行くことにしました。館内は暖房が利いていて暖かく、コートをロッカーに預けて、エスカレーターを2階に上がると展示室。来館者は数えるほど。落ち着いてゆっくりと見ることができました。後で、気がついたら、昼過ぎに出かけて、美術館の閉館時間ギリギリまでいました。展示されている作品に惹かれたのはもちろんですが、のんびりとした気持ちで、館内を回ることができたのも大きいと思います。
 小出楢重については、この展覧会の主催者あいさつを引用するのがいいと思います。
 “西洋由来の油絵を日本人としていかに描くか─。小出楢重が活躍した1920年代の日本では、多くの洋画家がこの課題に直面しました。「新しき日本へ新しき花を発祥させるには根のない木を植えてはいけない」(「油絵技法」)と述べる楢重は、西洋の模倣ではない、日本に根差した油絵を追求し続けた画家であり、その作品は近代日本洋画の一つの到達点を示すものとして高く評価されています。
1887(明治20)年、大阪に生まれた小出楢重は、東京美術学校(現、東京藝術大学)を卒業後、1919(大正8)年の二科展に初出展した「Nの家族」で樗牛賞を受賞。32歳で画壇へのデビューを果たします。1921年から翌年にかけての欧州への短い旅で、西洋美術の根底にある歴史や伝統を目の当たりにし、日本人としての油彩画の創作を強く意識するようになりました。帰国後はより洗練された作風によって二科展を中心に活躍し、関西の洋画壇を代表する画家として存在感を示します。1926年の芦屋への転居後は一層充実した創作活動を展開し、1931(昭和6)年に43歳で急逝するまで、静物画や裸婦像を中心に比類のない個性を持つ傑作を数多く生みだしました。
 本展では、楢重の初期から絶筆にいたるまでの画業を各時代の代表作とともにたどり、創作の軌跡を展観します。特に、日本人女性の裸身を魅力的に表現し、楢重芸術の真骨頂とされる裸婦像については、晩年の傑作を選りすぐり一堂にご紹介します。また、楢重が芸術性を高めたガラス絵をはじめ、日本画、挿絵、装飾、随筆など、多岐にわたる分野で発揮された才能にも光を当てるとともに、1924年に大阪で開設され、関西の洋画教育をけん引した信濃橋洋画研究所の活動を特集します。
 本展が改めて楢重のめざした「新しき油絵」の魅力を発見するとともに、その人柄や交友関係、画家が生まれた時代などにも思いを馳せる機会となれば幸いです。”
 展覧会チラシを見るかぎりではデフォルメのきいたゴッホなんかの系統なのかと先入観をもっていましたが、この展覧会で、その偏見を見事に打ち壊されました。この人は、ゴッホのような天然ではなく、計算ずくで、このような作品を描いていた。それでは、個々の作品を見ていこうと思います。

 

2026年2月 7日 (土)

初冬の奈良、京都旅行(5)~第3日目その2 桂離宮

 桂離宮へは阪急の桂駅から住宅地の中を歩いて20分ほど。駅の改札を出ても、案内の表示もなく、どちらの降り口へ行けばいいのか迷うほど。観光地ではない、普通の郊外のベッドタウンの駅。どこかで昼食を摂ろうと思ったものの、気の利いた店が見つからず、コンビニでパンを買って、現地でパクつくことにする。大通りをわたって、神社を過ぎると、木々が茂る公園のようなところ。そこが、桂離宮の入り口のところ。
 桂離宮の見学については、ホームページで予約できた。この時期に咲く花はないし、紅葉も終わったので、予約しやすかったのか、1ヶ月前でも予約ができました。13時という午の時間のせいもあるのでしょうか。30分前に見学者用の門に着いたら、待っている人は4人しかいないし、当日受付でも見学できるとのことでした。ベンチに座っている人に、確認したら、13時の見学は20分前から受け付けが始まるとのこと。その人は、雪景色の桂離宮を見たくて、秋のうちに予約していたのに、このところ暖かい日が続いて、雪が降らなかったので残念がっていた。いろいろと考えもあるものと感心しました。桂離宮の見学は、日本語の案内する見学時間と英語で案内する時間が別々に設定されていて、以前に見学した修学院離宮のように、外国人と日本人が一緒に見学することは、あまりないようです。ちょうど20分前に係員の人が出てきて、許可証を確認すると門に入れてもらえて、見学者待合所で身分証遺書を提示して、手数料の1000円を払います。修学院離宮は無料でしたが、こちらは自販機に払います。現金か、またはスイカも使えます。そうすると、首から下げる入館証を受け取り、待合所で待機します。トイレも済ませます。売店もあり、ちょっとしたお土産も売っています。私は、荷物を持っていたので、ロッカーに預けます。13時ちょうどに見学が始まりました。見学者は10名ほど。係員の人は、少ないと言っていました。おかげて、説明を含めた対応がリラックスしたアットホームな雰囲気になりました。その雰囲気は、とても気持ち良かったです。

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 見学は、マップの矢印の道順で進みます。参観者出入口に集合して、見学の注意を受けた後、離宮に入っていくのですが、通路に竹の棒で通せんぼしてあって、それを案内者が外して、通路に入っていきます。ああ、普通は入れないところに入っていくのだ、ということを実感しました。最初に案内されたのが御幸門。

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 離宮内から御幸門に向かったので、門を出る方向となります。それのように御幸門を出ると、広い道が延びていて、その先には表門があります。表門は、天皇が来た時にのみ開かれるという御成門ですが、屋根のないシンプルな門です。以前に見た修学院離宮の門と似ています。しかし、天皇のための門としては、かなりシンプルです。前回、京都に来た時に見た、曼殊院の勅使門の豪壮さと比べると、簡素を通り越して、貧相ですらあります。似たような時期の建築なのに、どうしてこんなにも違うのでしょうか。それは、別に考えるとして、この簡素さが、例えば、有名なブールノ・タウトの『日本美の再発見』での桂離宮の讃美に繋がったのではないかと思います。ノイエ・ザッハリヒカイトの美意識を有していたタウトには、京都の寺院の豪壮な建築は装飾華美にしか見えなかったのではないか。実際に『日本美の再発見』のなかで、日本の建築が重い瓦を屋根に乗せているのは理不尽だと何度も述べています。石積みのゴシック建築の聖堂を日常的に見ていたタウトにしてみれば、意志の重みの負担をいかに逃がすかという西洋建築の課題をあざ笑うかのように、わざわざ屋根を重くさせている日本の建築は理不尽にしか見えなかったのかもしれません。それに対して、桂離宮の書院もそうですが、最初に目に触れたであろう、入口の門は重さがないという点で、彼には理解しやすかった。それを簡素という言い方にすると、無駄をそぎ落とすノイエ・ザッハリヒカイトの美意識に沿ったものとなる。そんなストーリーの想像に駆られてしまいます。私には、桂離宮の評価というのは、そういう偶然が重なって、結果として高い評価になったと思えるのです。たしかに、桂離宮全体には、さまざまな意匠が仕掛けてありますが、そこに思想的なもの、世界観のような統一的な意志のようなものは感じられないのです。結果としてこうなったという偶然ではないかと思えるのです。

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 さて、表門から入ってくると、御幸門から、道は急に狭くなります。天皇は、表門を輿に乗って入ってきて、御幸門の前で輿を下りて、徒歩で御幸門を入ったということです。それで、御幸門は人が2、3人通れる程度の小さな門です。そして、門を入る正面には生垣があって視界を塞がれます。道はすぐ右折します。見学は、御幸門で、いったん、この道を引き返します。御幸道というこの道は青黒い小石をまんべんなく密に敷きつめて粘土で突き固め、やや中高に反りをつけて、つまり、心持ち道の中央が盛り上がるようになっていて、水はけや歩き易くする工夫がされているということです。驚くべきは、その小石は定期的に敷きかえられているとのこと。

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 御幸道を中ほどまで戻ると、生垣の途切れたところを南に向かって直角に曲がります。小石敷の道をいくと、飛び石伝いの細道に入り外腰掛けに行き着きます。この先の松琴亭の待合所ということで、茶室の準備ができるまで、客はここで待つための建物です。屋根つきのベンチのようなものです。修学院離宮には、こういうのはなかったと思います。桂離宮には、このようなベンチから四阿そして茶室にいたるまで、さまざまな建物が庭園内に散在しているのが特徴だと思います。きちんとした建築というのではなく、悪く言うと中途半端、完全な家というには、ちょっと足りない。例えば、すべての面を壁がなくて、ある方向が開放されている、半分しか完成していないように見える。そういうのがいくつもあります。それが特徴的だと思います。その不完全さが“わびさび”の美学というか。完璧で調った美に対するオルタナティブな美として、例えば千利休の侘び茶に代表される“わびさび”です。ベンチのような建物を、ちょっと離れた茶室の待合として建てる。それを離宮全体の構成の一部にしている。でも、当時の事情から考えれば、“わびさび”はカウンター・カルチャーと言えるのではないか。おそらく、桂離宮の場合は、現実的な事情もあったのではないか。それは、予算の制約。スタンダードな意匠の豪華な別荘をつくれるほどの財政ではないので、低予算でできるように、開き直って“わびさび”にしたのではないか。それは、京都にある近世の庭園と見比べると、桂離宮が突出して簡素であるように思われるからです。しかも、最初から“わびさび”の思想で離宮をつくったのなら、もっと統一性があってもいいのですが、どこか行き当たりばったりのところがあるのです。だから、やむを得ずこうなった、と考えた方が自然に思われます。

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 また、ここにある手水鉢です。画像では、四角の石に白い菱型があります。この白いのは白砂が菱型に詰められているからで、本来は、この菱型はへこんでいて、そこに水が湛えられて、その水で手を洗うといいます。しかし、今は、水は湛えられておらず、この画像のように白くなっています。これは、普段、水を溜めておくとボウフラが湧いたり、雨水がたまって、石が侵食されたりしてしまうので、砂を詰めて、水が溜らないようにしているそうです。それで、天皇や来賓が来た時には、砂を取って、水を入れて、柄杓を添えるのだそうです。離宮内には、このような手水鉢が他にもいくつかあり、それぞれ用意するとのこと。何か細かいことですが、管理の手間が大変なのだと驚き(呆れ)ました。

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 さて、外腰掛けの正面には蘇鉄山が盛り上がっていて、蘇鉄が植えられています。南国風の風景で、画像の風景がそれです。しかし、私が見学した、この時期は冬で、寒さに弱い蘇鉄には菰が巻かれて、保温が図られています。そのため、広がっている大きな葉が菰に収められてしまっています。そのため、普段なら広がる葉で隠されていた、蘇鉄の向こうの景色を垣間見ることができます。これは、この時期だけのことだそうです。つまり、普段なら蘇鉄の葉に遮られて見ることのできない、つまり、見えないようにされているここからの景色が、この時期だけは見ることができる。そのため、普段は制限されている視野が、例外的に制限を免れているのです。それは、ある意味では、ここで視野を塞がれていて、この先で、突然、視界が開けて、池と州浜が見えると、今までとは違った世界が開けるという視界の転換が、一部予見できてしまうことでもあります。しかし、それはまた、そういう仕掛けの裏舞台を垣間見ることができるわけでもあります。そのおがけで、この庭園は、このように視界を隠して、視野を制限して、場所によって見える景色を限定することで、場所が変わると、そこから見える景色が全く変わってしまう。一種の騙し絵のような作りになっていることが分かります。それは、庭を実際の広さ以上に広く、奥行きのあるように錯覚させる効果をもつものです。それに気がいたのは、冬枯れで木々の葉が落ちて、普段なら葉が繁って視界が塞がれていたのが、隙間から塞がれていた視界を垣間見ることができたからです。ここでも、蘇鉄が菰まきされて、大きな葉で隠された視界を除くことができたわけです。この庭は、視界を限定することにより、庭の地点によって、限られた視界から決まった景色を点景としてしか見ることができないわけで、場所が変わると場面転換するように景色が換わるということになっています。つまり、この庭は、場面ごとの点景で構成されている、いわば静的な景色なのです。その各景色がピクチュアレスクというか絵になる景色なのです。一応、庭を回遊するわけですが、庭の中にいるという感じではなく、場所ごとに庭を眺めるという観察者の立場になる、つまり、いる場所は庭の中なのですが、位置づけは離れて眺めるという外部にいるようなのです。回遊すれば、歩くに応じて景色が動くのですが、この庭には、そのような動きがないのです。だから、写真の撮影ポイントは決まってくる。誰が撮影しても同じ写真になってしまう。それって、陳腐化しやすいのですが、それが、或る意味で、桂離宮を有名にしているのだろうと思います。

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 外腰掛けの一帯をでると一気に視界が開けて池が見えて、その先にこれから向かう松琴亭が遠望できます。その池辺に小石が敷きつめられて先端に灯籠が立っている州浜と呼ばれるらしい。その向こうに石橋があって天橋立になぞらえているとのこと。そうは見えない。桂離宮って、そういう重箱の隅をつつくような細かなところで、変にこだわっているようにみえるところがあると思います。全体の構成といい、こういう些細なところにこだわるところといい、ここを作った人は相当な偏屈な性格のような気がします。そして、ここではじめて書院の建物が見えてきます。この庭園の回遊コースは書院を要にした扇のようなかたちになっているので、書院を様々な角度から眺めることができ、その角度によって様相が変化するので、その変化を楽しめるようになっています。画面の真ん中左に古書院が見えています。まん中右は月波楼です。

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 石橋を渡って松琴亭。茶室です。桂離宮には四季それぞれに茶室があるということで、ここは冬に適した茶室で、室内には暖を取るための石炉が設けられていて、冬の月は、明け方に西に下がっていく「有明の月」を望んでいたそうです。また、にじり口が設けられているので、桂離宮の中でも格式の高い茶室ということです。茅葺屋根で縁側が開け放たれていて、田舎の家屋みたいですが、室内は幾何学的な市松模様の襖があったりしてモダンな感じで、そのギャップが面白い。そういえば、茅葺屋根とか障子といった日本的な意匠を取り去って、フォルムだけを取り出してみると、直線だけで構成されていて、装飾的なものが何もないのは、とてもモダンな感じです。これを20世紀の初頭に、ブルーノ・タウトのような現代建築の先駆となるような建築家が評価したのも分かるような気がします。高層ビルのパターンを直線的な構造に共通するものが、たしかにあります。でも、これって意図的にこうしたというというより、結果的に、こうせざるをえなかったのではないか、と思える。経費や工期の制限とかから、こうせざるをえなかった。その分、細部の細工に趣味性を持ちこんで、ちょっとした贅沢で我慢したとか、そんな感じです。幾何学模様の襖は、加賀藩の献上らしいので、ただそれを使ったというだけのことでは、と思ってしまいます。全体としての桂離宮は、統一的な世界観で設計されたものというより、場当たり的に、都度、追加で作られ続け、その結果として最終的に現在のような形になった、という感じがします。それが、かたまってから、それが定着し、その後長い年月で、人々の意識のなかでそういうものとして固定化され、これを統一的なものとして見られるようになった。その理屈は後から、いくらでもつけられる。私のような庶民からすれば、この庭園の中に、茶室のような小亭をいくつも建てること自体に、何か不合理さを素朴に感じます。そのあたりに統一性とか合理性とかの面で、疑問を覚えてしまうのです。その場合、その都度、あれが欲しいと欲求が起こって、追加するように建てたという方がピッタリするようも思えるのです。

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 松琴亭から先に進むと道が細くなり、飛び石のちょっとした山道の趣です。土橋が現れ、大中島に渡ります。ちょうど、今の時期は、冬支度で橋に菰播きのように藁が巻かれていて、足元に注意しながら渡ります。案内人の人がひとりひとりが渡るのを見守ってくれていました。親切ですね。ほんらいなら、ここから樹間の道で視界が塞がれて、頂上にでて視界が開けると、書院の全景を見ることができるようになるのですが、今の時期は、木々の葉が落ちているので、視界が塞がれることなく、書院の眺めが歩くたびに角度がかわって変化してくるのを木々の隙間越しに見ることができます。いわば、いつもなら静的にしか楽しめない眺めを動的に楽しむことができるわけです。この島は小高くなっており、その頂上に春に使われる茶室・賞花亭があります。ここは、庭園の中で、もっとも高いところになります。島にはツツジが多く植えられているため、花をめでる(賞賛する)意味で「賞花」と名付けられているそうです。高台にあるため眺望に優れ、愛宕山も綺麗に見えます。突然視界がひらける、驚きと感動というのは、今までの道で垣間見てきたので薄れてしまうので玉に疵ですが。

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 賞花亭は、二方が開け放たれて、土間を真ん中にしてコの字形に畳を腰掛けのようにした、休憩の四阿のような建物です。まん中の土間に竈と炉があって茶をたてるこができる。南側の窓からは背後の谷が奥深く見えて深山の雰囲気が味わえる一方で、開放された正面からは眼下の池越しに書院を見下ろすことができるという対照を見えることができる。峠の茶屋の雰囲気ということです。
 ここからは池ぞいに書院の景色を横目に南の笑意軒に向かいます。途中梅の木が植えられていて、春は花の景色となるだろうことが分かります。この時期は、落葉が多くて、その掃除に、人がいました。このように書院を様々な角度から違って見えるということは、反対に書院からは、庭の景色が点景のように様々な場面として見ることができるということです。けっして、全体を俯瞰することがなく、つまみ食いするようにそれぞれの場面として、味わう。それが桂離宮の特徴だろうと思います。ここの見学は、案内人に随いてグループで回るのですが、各人が自由に三々五々に散歩するのではなく、一団が庭の地点を一緒に移動することで、場面の転換を一緒に体験する、その転換の効果を共有することで、その体験はより劇的になります。その意味で、ここの見学の方法は、結果としてかもしれませんが、桂離宮の見学には適したっていると思います。
 このあと書院の前を通り、近くにその建物を見ると、見学も終わりに近くなります。参観者出入口で、首から下げた入門票を返すと見学は終わりです。ちょうど1時間でした。
 私は、帰りの新幹線の時間があるので、すぐに駅に向かって歩き出しました。しかし、時間の余裕があれば、このあたりは木が植えられた公園のようになっているので、ここで少し、時間を過ごすのもいいかもしれません。私と一緒に回った人は、見学の時間が分かっているので、帰りのタクシーを予約していて、ちょうど門前に来て待っていました。

 

2026年2月 6日 (金)

初冬の奈良、京都旅行(4)~第3日目その1 法然院、永観堂

 ツアー3日目は自由行動です。午後4時ごろの新幹線の切符を受け取って、それまで各自が行動。ホテルでのんびりする人もいるようですが、私は朝8時に地下鉄蹴上駅近くのホテルを出ました。ネットで調べたら銀閣寺の拝観が8時30分からということみたいで、朝一番のまだ人の少ない時間を狙おうということで、歩いて20分ということで向かいました。しかし、銀閣寺に着いたら拝観は9時からということ。私の情報は間違いだったのか。30分を手持無沙汰で待つのもしんどいし、寒いので、近くの法然院に行くことにしました。住宅地の中を10分ほど歩き、坂をのぼったところが法然院。山間の古刹という空気が濃厚です。山門は茅葺で、簡素な味わい。境内に入ることはできますが、普段は、建物内に入ることはできません。朝露がのこる境内は、しっとりした雰囲気で、人影がなく静かそのもの。いい意味で、観光という雰囲気ではなく、修行する寺院という印象です。山門を入ると、山門を入ると、両側に白い盛り砂があり、白砂壇というのだそうです。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味しているということです。朝のこの時点で、きっちりできているということは早朝から、砂を揃えていたのでしょうか。白砂壇に振り返る山門に趣があります。この白砂壇から伸びる真っ直ぐな道を行くと苔むした小さな庭をながめて本堂。ひだりに回ります。本堂は格子がはまっていて、中へ入ることはできず、格子ごしに中の本尊を望むことしかできません。早朝は、まだ戸があけられていなくて、中は暗くて、本尊の姿どころか様子すら分かりません。ただ、中に人の気配がして、静かに朝の勤行をしているらしいことが想像できました。思わず手を合せました。信仰心など持ち合わせていませんが、ここは、そんな雰囲気があります。心が静まるような感じです。ちょっと失礼だったかもしれませんが、靴を脱いで階段に腰掛けて、しばらく過ごしました。私が京都の寺社に心惹かれるのは、歴史的な建築とか、仏像とか、季節の美しい風景などよりも、このような静かで心が落ち着く空間なのだろうと思います。静かな場所は京都以外にもありますが、それが深い落着きと、そこに少しばかりの神秘的な風情が加味されるのは京都にしかない。その典型をここで味わっている。そんな充実した時間でした。本堂の階段に腰掛けていて、しばらくしても、他に誰とも遭わないのですから。気がついたら、結構な時間を過ごしていました。

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 もっとゆっくりしていたかったのですが、銀閣寺に引き返しました。すでに拝観ははじまっており、中学生でしょうか、修学旅行らしきグループが並んでいました。10人足らずのグループが引率の人について、いくつかいました。引率の大人は先生ではないような、揃いの制服のようになものを着ています。グループにいろいろと説明をしています。ガイドさんでしょうか。制服の胸のあたり○○タクシーというマークが見えます。タクシーの運転手さんでした。あとで、銀閣寺のトイレで一緒になると、タクシーの運転手どうしで、お疲れと声を掛け合っていました。半世紀前の私の頃とは違って、今の修学旅行は、グループでタクシーを雇ってガイドまでしてもらうらしい。驚きました。それにしてもタクシーの運転手さんたちのガイドは上手い、脇で小耳にはさんだ程度ですが、とても詳しい説明で、ときに身近な話題を混ぜたりして、聞き手を飽きさせない。それに対して、中学生たちが素直に聞いている姿勢にも驚きました。私のころは、こんなに従順ではなかった。修学旅行なんて、先生に煩く注意されて、それでも勝手な行動をとる奴は少なくなかったし、だいたいおしゃべりしていて、ガイドの説明なんて聞かなかったし聞こえなかった。それに比べると、ギャップを感じました。そんな印象で、銀閣寺をたしかに拝観しましたが、覚えていません。ただ月見台と周辺の砂の造形が、意外と雑なつくりだったという印象は残っています。
 ただ、私が中学生のころ、修学旅行で銀閣寺から永観堂、南禅寺などの東山の寺院をめぐって三十三間堂まで至る計画をたてていたのが、ある事情により、できなくなってしまったのが、心残りでした。今回は、機会を得たので、その一部でも実現しよう思いました。午後は桂離宮の予約をしているので、午前中はそれに充てようと思いました。
 今のところ、法然院、銀閣寺とリベンジ(?)できました。
 銀閣寺から哲学の道をしばらく歩きます。琵琶湖疏水にそって散歩道が整備されています。平日の朝ということで観光客の姿はあまり見られず、道沿いのカフェやショップも開店していません。その代わりに地元の人が、掃除をしていたり、犬を連れて散歩していたりといった光景が見られました。私の自宅付近の小川沿いに整備された散歩道と変わりありません。ただ違いは、お洒落なカフェなどの観光地のものがあるくらいです。私には、それらが雰囲気を崩しているように見える。景色のなかに違和感があります。これは、私の好みでしょうが。

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 そもそも、哲学の道というネーミングの恣意的に思えます。西田幾多郎という人は書斎の人ではないでしょうか、もしくは禅寺に通った。それが彼の思索で、ルソーのように道を散歩しながら思索を重ねたというという人ではないのではないか。まあ、今、哲学の道を散策する人が西田を知る人もほとんどいないし、彼の足跡を追うというのもないだろう。大正から昭和初期のかけての教養主義にどっぷり浸かった旧制高校生にとって西田の『善の研究』は必読書であり、そこから西田のファンとなって京都を目指したフォロワーが京都学派を形成するようになる(三木清とか戸坂潤とか)。そういうのを追いかけて、その周辺を若者たちがうろついて、その道を哲学の道などと名付けてなぐさめとした、というあたりではないか(事実無根の妄想ですが)。その程度の雰囲気が似合っているように思えます。現在では、自動車も入ってこないし、疏水沿いに並木のように木々が植えられているので、散歩道として気持ちよく歩けた、というくらいでいいのではないかと思います。20分くらい歩いて、途中で坂を下ると、永観堂に向かいます。

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 永観堂は通称で正式には禅林寺というらしい。通りに面した総門には永観堂ではなく永観堂禅林寺と大きく掲げられています。ここでいいのかなと、ちょっと迷います。昨年の10月に、この近くの泉屋博古館に行くときに、ここを通りましたが、その時は紅葉の季節の始まりなのか、外国人観光客で溢れていました。それで、その時は避けるように足早に歩き去ったのですが、今日は人影もなく閑散としています。それで、落ち着いて様子を見ることができました。総門から奥に広い道がまっすぐ伸びています。そこを行って階段を上がると中門があります。この中門脇に拝観受付がありました。これは通りから見えない。門は豪壮で立派なのに、この拝観受付は仮ごしらえの小屋みたいな建物で、あまり観光客相手に力が入っていないのか。じっさい、1月は閑散期なのか、この後も全体として拝観者を放っておくような雰囲気が感じられ、むしろ、好ましかった。中門を入ると広場のようになっていて、寺事所関係の大きな建物があって、その横に玄関があります。簀子が敷かれてあって、そこに靴が並んでいたので、ここで靴を脱いで建物に入っていくようです。そこに、説明も案内もないのですが、どうやらそのようです。玄関脇にビニール袋の入った箱があるので、脱いだ靴を袋に入れて持ち歩くらしい。それも説明がないのですが、それをしないで、玄関に脱いだままの靴もありました。荷物もあるのでどうしようか迷いましたが、結局持っていくことにしました。

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 マップをみると分かると思いますが、永観堂の伽藍は敷地内の地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれています。だから、玄関を上がって、廊下伝いに各建物に行くことができ、それぞれの建物内に入って仏像や絵画を拝観することができるようになっています。また、高低差のある各建物をつなぐ廻廊は、階段の上がり下がりや、屈曲した経路となっていて、ちょっとした迷路をめぐるような趣もあるのでした。

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 玄関を上がると小さな中庭を囲むように建物が配置されています。この池泉庭園は、境内の放生池のミニュチュアのようにも見え、小さな池の周りに様々な植え込みが、適度に伸びやかに植えられていて、リラックスした印象の庭園です。マップを見ると境内の中央に放生池を中心とした立派な庭園があり、そのほかに建物と建物の間に小さな庭園がいくつもあります。そのどれもが、禅寺の庭園のような堅苦しいところがなく、ゆったりとしていてリラックスできるものとなっています。このお寺の歴史的経緯を振り返ると、もともとは貴族の別荘だったのを寺院にしたというらしいので、その名残と言えるかもしれません。それが、修行とか宗教的な雰囲気があまりしない理由の一つかもしれません。とはいっても、応仁の乱ですべてが消失してしまって、建物はすべて近世以降のものだそうです。

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 まずは、左の古方丈に進みます。中庭に面した側はガラス戸になっていて、ガラス越しに庭園を望むことができます。室内を見ると、襖絵が豪華。寺院というより、邸宅の応接間という感じ。書院として使われていただけに、冬の日は硝子戸を締めて日向ぼっこをしながら、ガラス越しに庭を、振り返ってキンキラの孔雀の絵を眺めて、まったりしていたくなります。そんなのんびりした空間。孔雀の襖絵に目が行きがちですが、欄間の板に描かれている雀は加納元信の筆とか、かすれて、見辛くなっているので、筆の見事さとかはわかりません。隠されていました。
廊下の突き当たり、つまり建物の向こう側に小さな庭園がありました。古さを感じさせないので、現代のものでしょうか。何か微笑ましい。廊下伝いに瑞紫殿そして隣接の釈迦堂と、ちょうど中庭のまわりを時計回りにまわるように進みます。釈迦堂には広い縁側のようになっていて、中庭にのぞんで縁側に腰掛けるようにして、中庭にのぞんで小休憩。のんびりした時間だなあ。静かだ。振り返れば、釈迦堂の襖は長谷川等伯と伝えられる襖絵が。たしかに有名な松林図に通ずるような感じもしないではない。襖絵のことはよく分からないのですが、永観堂って、寺院というより、絵と庭で、貴族が山荘でリラックスする場といった方が似つかわしい。宗教的というよりも、俗っぽい。

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 気を取り直して進むと左に折れて、中庭とはお別れ。そうすると正面に勅使門(マップには唐門となっています)があります。これは勅使を迎えるための門だそうで、門の前庭の小判形の盛砂は、勅使が踏んで身を清めるためのものだそうです。白砂が盛られているのは、早朝に見た法然院のもそうでしたが、あそこは、本当に身が洗われるような清澄な空気だったのに比べ、こちらは明るく開けていて、ちょっと豪華で、法然院のような純粋さというか精神的な雰囲気はあまりないです。やっぱり、俗っぽいかな。唐門は、豪壮な門構えです。

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 ここから左に曲がって、釈迦堂のまわりを一周するように廊下を歩きます。中庭の反対側に、また小さな庭園があり、これは池泉庭園と枯山水が同居しているような、これは禅寺の世界観を表現した庭園とは全然性格の異なるものだということが分かります。そんな堅苦しく考えないで、と言われているような感じです。

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 渡り廊下から一番大きな御影堂。堂内はベンチが並んでいて、仏像や法然上人像などが並んでいます。ここは、さっと通って、廊下をぐるっと一周して、渡り廊下の階段を上がります。臥龍廊と呼ばれているそうで、急な階段です。突き当りの分岐に水琴窟がありました。ふつう水琴窟って、地面を掘って、甕を埋めるのですが、ここのは、大きな甕が置かれている。この水琴窟の前で、外国人観光客に日本人のおばさんが何か話していました。水琴窟とは何かの説明をしようとして悪戦苦闘しているみたい。ヨーロッパには水琴窟なんてないでしょうから、言葉で説明しにくいのでしょう。それで、ちょっと口出ししました。指を口に当てて、listenと。微かに、キン、キン…独特の水音。Water sound like music と拙い英語で、フランス人だという若い男性は、何となくわかったよう。それから、彼と少し話しました。日本に憧れて、来日したと。日本は伝統が廃れないで、現代文明とうまく共存している。フランスは分断が進んで、伝統が断絶している。できれは、そういう日本に住んでみたい、と。若いうちは、隣の芝生は青く見えるものだと思いました。いろいろ体験してみるのは、わるいことではないでしょう。ちょっとした出会いでした。この後、さらにもうひと上りして阿弥陀堂に向かいました。本尊の見返り阿弥陀像は、壇上の厨子に収められているため、遠目で暗くなっているため、よく見えません。それがありがたいということなのでしょう。みかえり阿弥陀には近づけませんが、背後の仏画や他の仏像には近寄って見ることができます。そっちの方も悪くない。堂内には、ベンチが並べられているので、仏壇を眺めながら、しばらく座って過ごしました。ほかに訪れる人もなく、誰にも邪魔されることがありませんでした。もっとそこに居たかったのですが、暖房もなく寒くて、身体が冷え切ってしまうので、席を立ちました。落ち着いて仏と対峙するというより、静かな空間でのんびりした、という感じです。

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 このあと来た道を惹き返し、玄関に戻ります。靴を履いて、建物から出ると、放生池を中心とした庭園を散歩します。建物の間の小さな庭とちがって、独立した広い庭園で、遊歩道ができています。小さな公園のようです。公園のようだというのは、とくに特徴があるというのではなく、何気なく入って、そこでのんびりできるという意味です。永観堂の評判は、紅葉がきれいということで、その季節になると、この公園のような庭園は、紅葉見物の人々でいっぱいになり、茶店が出たり、まるでイベント会場のようになるらしい。そんなことよりも、永観堂の魅力は、宗教性を感じさせない静かさ、安穏さ、出はないかと思います。のんびりできる空間。今回、のんびりしすぎて、1時間半も滞在していました。このあと、他も回ろうと思っていたのですが、永観堂で時間を取りすぎてしまいました。午後は桂離宮の予約があるので、ここで、きりあげて、桂に向かうことにしました。昼食を食べる時間はとれるだろうか。

 

2026年2月 4日 (水)

初冬の奈良、京都旅行(3)~第2日目その2 京都御所、迎賓館

 2日目の午後は京都御所と迎賓館を拝観します。バスは中立売御門を入って駐車場に止まりました。木造の門をバスがくぐって入るのは、ちょっとびっくりです。京都御所や仙洞御所があるこの一帯は京都御苑というそうですが。画像のように、玉砂利の広い道のあいだに植木があり、広大な公園になっています。京都御所は桂離宮や修学院離宮などとはちがって事前予約は必要ないとのこと(以前は事前予約の手続が必要だったと思う)。しかも無料です。清所門から御所内に入りますが、荷物チェックと金属探知機のセキュリティチェックを受けます。まるで、空港で飛行機に乗るときみたいです。チェックを通ると、首から下げる入門票を受け取ります。

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 ここからは、建物内には入れませんが、自由に歩き回ることができます。ちょうど、職員による案内が始まるところだったので、ついていきました。大勢の人がぞろぞろついていっています。マップの赤線で示されているのが、そのコース順路です。建物は、全体に立派に見えるように作られているというかんじです。でもどこか正統性とか、純粋という感じはしないですね。ごった煮というか、立派そうに見えるのを無節操にもってきて盛ってあります、という感じでしょうか。言っちゃ悪いが“成金趣味”という言葉が脳裏をよぎりました。権威を示すと言っても、いったい誰に向けて示すのでしょうか。御所には一般の人は、もちろん入れません。だから見ることなんかできない。御所に入ることが許されるのは殿上人に限られる。つまり、内輪です。だから、権威を示し、示されるのは朝廷とその関係者のみです。だから、御所を立派な建築にして、すごいなどと圧倒されるのは、内輪の人々です。ということは、立派に御所でアピールできるのは内輪だけ。それゆえ、内輪ですごいねと感心する。これって自己満足以外の何ものでもないでしょう。ということは、この京都御所には、実際的な意味はないことになります。まあ、何度も戦乱等で焼かれて、その度に再建されて、往時の姿を思い出しながら、その時の手法で建てたので、やむを得ないのかもしれません。
メインの紫宸殿には正面から入ることはできません。門ごしに遠目に眺めることになります。この後、脇から斜めに見ることができました。南面のこのあたりが公的な正面ということになるというわけです。古代風の風味で、当時の実質的権力である武家との違いを見せながら、できるだけ権威を見せるように立派に(そうすると武家の書院風になってしまう)、そういう感じです。その結果、プロポーションは陳腐な豪華に終わっている。その方が、人々が感心しやすいというわけでしょうか。

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 紫宸殿の裏手にまわると清涼殿です。これも幕末に再建された建物で、平安時代は日常の生活の場であったが政事や祭事に使われるようになった、と。案内の説明では、細かなところで形式的な決まり事が沢山あって、それを踏まえて造られているとか。プロポーションが陳腐だから、細部で差別化するしかない、それで細かいところに拘泥するというパターンですね。何か、京都御所、期待していたんですが、思惑が外れて、思わず悪口のような口調になりがちです。

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 東側は庭がしつらえてあって、御池庭です。池を中心とした回遊式庭園ということで、上の画像の橋は、英国のエリザベス女王が訪れたとき、ここから池の鯉に餌をやったということです。そういう絵になる庭で、日本庭園として過不足なく揃っている庭だろうと思います。以上。そういう庭です。それだけです。それ以上のものはない。一度みて、立派だと思う。立派な庭。以上です。その後は、他は…と、目が移ってゆく。写真には撮った。そして記憶に残らない。そういう庭です。

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 ここで、案内はまだ続きますが、迎賓館の予約時間となりました。途中で切り上げて、隣の迎賓館に向かいます。
 迎賓館は予約が必要なようです。今回は、ツアーで予約をとってくれているので、その一員としてです。まず、入館票を受け取り首から下げます。手荷物(リュックサックや一定以上の大きさのカバンは持ち込み禁止)をロッカーに預け、まずは拝観の注意を受けます。ガイドレシーバー(案内人の説明はワイヤレスマイクで、このレシーバーを通じて聞く)を耳に装着して、京都御所の時と同じようにセキュリティチェックを受けます。それらを済ませると、スリッパに履き替えて、玄関から迎賓館の建物に入ります。全体として、豪華ホテルの宴会場ですね。ただ、金がかかっているということと、細かいところにやたら拘っているということが分かりました。ここまで拘って、誰が分かるのかしらと疑問に思うほどです。海外の要人を接待する場になるということですから、仕方のないことなのでしょうか。ここに対する興味は、そういうところだけなのでしょう。迎賓館というから期待していたのですが、とどのつまりは宴会場でした。たしかに豪華です。以上、です。職員が説明を熱心にしてくれましたが、どこが自慢げというか、悪く言うと自画自賛みたいな印象でした。もういいや。

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2026年2月 3日 (火)

初冬の奈良、京都旅行(2)~第2日目その1 法隆寺

 2日目は、ゆっくりと朝9時に出発。宿泊した奈良駅前のホテルでは、昨日まで奈良で開かれていた日韓首脳会談の警備の応援でかけつけた県外の地方警察官が多数泊まっていました。昨日、日韓の首相が訪問していた法隆寺に、これから向かいます。1日ずれてよかったです。法隆寺は、昨日とは変わって静かでした。半世紀前に高校の修学旅行で訪問したと思いますが、まったく覚えていません。初めてと言ってもいいでしょう。

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 観光バス駐車場から南大門に通じる並木道を行きます。この道は法隆寺の核心部である西伽藍から真っ直ぐに伸びた正面の参道です。並木道の両側には土産物店や食堂などの観光客相手のショップが軒を連ねています。平日の朝10時ころなので、まだ開店している店はなく、人影もまばらです。南大門の左右には築地塀がひろがっていて、南大門を入ると境内ということになります。門の先は左右を築地塀で囲まれた広い参道です。この築地塀の向こう側は寺院ですが、観光客は入れません。参道をすぎると広い境内がひらけて正面に中門と廻廊に囲まれた西院伽藍の威容が見えてきました。

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 これは、法隆寺の特徴と言えるのかもしれませんが、11月に訪れた東大寺が開放的で、境内の各建築が追加追加で増えていった結果こうなったという感じであったり、昨日訪れた長谷寺が山腹の地形に合わせるようにわずかな平らなところに建物を建てていったり、といったりとは違って、法隆寺は世界を設計するように、その設計に従って人工的に全体をつくった、ある種の世界観の具現化という感じが強くするのです。偶然によって結果的にそうなったとか、地形などの制約があって、それに合わせざるをえなかった、というのではなく最初に世界観があり、それに従って設計し、その設計のもとに世界を人工的に作り上げたというのです。そして、南大門を入ると築地塀によって隙間なく囲われて、外とは隔離されている。つまり、ここだけ異世界のように明確に分けられているのです。大和という地にはあるが、そこにあって、その地の自然とか伝統といったもともとのものとは別世界が、人工的に作られている。それが法隆寺であると思われるのです。そして、法隆寺の内部は幾何学的といえるほど整理されて、秩序づけられている。これは、フランスのヴェルサイユ宮殿の幾何学的な庭園に通じるところがあると言えるかもしれません。実際、中門の外側は広場になっていて池があったり木が植えられているのですが、それが、いわゆる日本転園的な配置ではなく、木は直線的に並べて植えられている。これは、未完成や不均衡を避けない、日本的といわれる美学ではないですね。むしろ、シンメトリーとか完璧を志向しているところがある。コスモスといったらいいでしょうか。これは、これまで見てきた奈良や京都の古い寺院とは明らかに異質です。

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 法隆寺の核心部である西院伽藍に向かいます。廻廊で囲まれた、五重塔、金堂、金堂という、法隆寺といえばこれというのが西院伽藍で、ここに入るのは拝観料を支払います。ちなみに拝観料をとられるのは、この他に夢殿のある東院伽藍、そして宝物殿である大宝蔵院の3カ所で、他は無料です。廻廊の西端で受付をすると、眼前に五重塔が、奥に金堂が並んでいます。建物は、教科書などの写真で見たとおりだ、というのが印象です。ただ、金堂の手すりの木材が新しそうに見えたので、適宜補修していることがわかりました。この五重塔は、おそらく日本の寺院のパターンをつくったといえるのではないか。もともとはストゥーパといい釈迦の遺骨を奉安するためのものだったはずが、日本各地の寺院に数多ある五重塔は、たった一人の人物の遺骨を分けて収めることなどできはしないはずで、法隆寺の五重塔だって本当に釈迦の遺骨があるのか疑わしいですが、ともかくも、寺院に五重塔があるのは立派だという認識が、ここから始まった。それを真似て他の寺院が作られるようになったと言えるのではないか。つまり、パターン化、形骸化です。法隆寺は日本の寺院のパターンをつくった存在と言えるのではないかと思います。それは、五重塔にも現われていて、フロンティアならではの、未だパターンが固まっていないゆえの試行錯誤の後が残っています。当時としては破格に思えるほどの高く細長い建築で、土台をやけにどっしりとさせていて、安定感はあるものの、重いというか、例えば、奈良の興福寺や京都の東寺の五重塔のスマートさはありません。金堂にしても、木造だから日本建築何だろうけれども、フォルムは中国や朝鮮の建築の感じがしなくもありません。

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 法隆寺のフロンティアとしての印象は建物だけでなく、仏像には、それがより濃厚に感じられます。金堂は中に入ることができて、本尊の釈迦三尊像がそこに安置されています。内部はライトアップなどはされていなくて、窓から差し込む天然光のみで、すこし薄暗いなかで、手すりで隔てられて近寄ることはできず、遠目に見るようになっています。飛鳥時代の鞍作止利の作と伝えられる、この仏像は、金堂の内部でも、このまわりに並んで立っている後の時代の仏像とは明らかに様式が異なっています。その印象は、どこか落ち着かない。形式が馴染んでいない感じがします。顔は後の時代の仏像に比べて、日本人には馴染みがない感じですし、全体に頭の大きさが不均衡な感じがします。この後の奈良時代以降の仏像は、このような感じのものは造られなくなっていると思います。仏像のパターンが形成されていくプロセスにおいて、この釈迦三尊像はひとつのパターンの試みであった、そういうフロンティアならではの不安定感と、突出した感じが、今で言えばチャレンジ的なところが表われていると思います。そういうところからも、法隆寺が日本の寺院のなかでも、とくに異質と感じられるのです。

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 奥の講堂は、平安時代に再建されたということで、五重塔や金堂にくらべて、安心感があるというか、フロンティアというかんじがなくなっています。見るからに日本建築で、金堂などに合わせて装飾的なものは抑制されていますが、中門のようなエンタシス式の柱ではなくストレートであるし、全体に直線は抑えられ、屋根は曲線的です。見ていて、日本的であることが確認できてしまう。もともと書院として使われていたからかもしれませんが、金堂に比べると開放的です。これは、平安時代の建築であることも起因しているのでしょうか、開放的ということは内と外の境界が曖昧で、法隆寺全体の外とは隔絶した異世界を構築するというコンセプトからは外れるような建築になっていると思います。ここだけ日本的なのです。講堂内部は明るく、安置されている薬師三尊は金堂の釈迦三尊にくらべると日本の仏像らしい仏像です。

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 廻廊をめぐり東の端が出口です。鏡池があり、聖霊院で御朱印の受付をしていて、聖徳太子像などがあります。その先を左に入ると改札があり、そこで拝観料を払って入ると、先に大宝蔵院があります。玉虫厨子とか百済観音などの保存に特別な注意が必要なものを、保管する博物館のような施設です。外観は周囲に合わせていますが、平成になってからの現代建築です。ここで展示されている宝物の中で、第一に挙げられるのは百済観音です。これは有名ですよね。写真などでみると、顔が黒く映っていて造作がよく分からないので、劣化して顔は潰れてしまったように想像していたのですが、実物を見たら、そんなことはなくて、顔はしっかりしていました。いわゆる仏像の顔ではなくて、観音像というには装飾や仕掛けがなくて、単に人物彫刻と言った方がいいかもしれません。普通の人が仏像の衣裳をまとってポーズをとっている、というようなさりげない姿で、無理がなく自然に見える。これは、金堂の釈迦三尊像とは違った方向で、日本の仏像の試行錯誤としてこんな風に作ってみました、というように見えます。この姿を引き継いだような仏像は、他には見当たらないのではないでしょうか。そういうユニークな仏像としてあると思います。これらの仏像を見ていると、仏像というものが仏教という宗教において崇拝する偶像として作られているものではないと思えてきます。少なくとも日本では、仏像は宗教とは関係ないと言える。宗教で拝む対象としてあるのなら、人々に受け容れられるために試行錯誤する必要などないはずです。拝むべきは、絶対であるはずですから。仏教が伝来した中国なり朝鮮の仏像をそのまま、これを拝めといえばそれで済むはずです。そうではなくて、日本で人々に受け容れられる形を模索するというのは、受けるか否かという愛好品的なあり方であったことの表われではないでしょうか。現代の日本でも、仏像は仏教信仰とは別物として愛好されている。博物館の仏像展などに人々が押しかけるは拝む対象ではないからでしょう。そういうのは、飛鳥時代から、そういう受け容れられ方だったのではないか、とくに百済観音を見ていて強く思います。私は、この像に宗教性は感じられませんでした。人物彫刻としては美しいと思います。ここでの展示も四方から見ることができるようにガラスのケースに入れられて、部屋の真ん中におかれてある、というのは拝むべき仏像としてではなく、美術品として展示されているように見えます。

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 仏像は他にも夢違観音などが展示されていました。その他、目立ったのは玉虫厨子です。厨子というから持ち運びできるものだと思っていましたが、こんなに大きいとは思いませんでした。納められている仏像は小さいのに。下段の四面は釈迦や聖徳太子の場面が描かれているとのことですが、写真では黒くなってしまっていて分からない。実際にも、黒く変色していて、目を凝らすと何となくわかる。工芸品として貴重なんでしょうね。ほかにも、仏像とか刀剣とか工芸品とか沢山展示されていました。好きな人には何時間あっても足りないのだろうと思います。適当なところで出ると、休憩所があって、さらに進むと左手に東大門があります。
 東大門を抜けると築地塀の広い道が延びていて(南大門を抜けたときと同じような感じです)、その先が東院伽藍ということです。四脚門のところで拝観受付があり、拝観料を払うと廻廊で囲まれた東院伽藍に入ります。伽藍と言っても、西院に比べると小さくて、中央に夢殿があって、あといくつかの建物がある。それらは中にはいることができない。それゆえ、西院伽藍と同じようではない。

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 夢殿は石段を上がって、テラスのようなところを回ることができます。窓から中を見ることができますが、中は暗くて、雑然としていて、本尊の観音像は厨子の中にしまい込まれていて見ることができません。夢殿は八角形の外観が期待を持たせますが、その程度です。それで、さっと見てしまったら、時間が余ったので、東院伽藍を出たところで案内の表示があった中宮寺に向かいました。予定外ですが、時間はあるからいいでしょう。右手に向かいます。
 法隆寺の奥に、オマケのようにくっついてある、という感じです。画像の門は、法隆寺に比べて小さく、拝観者は向かって左の入り口で拝観料を支払って入ります。この門を入った辺りは法隆寺の続きという雰囲気なのですが、右奥の本堂に至ると様相が変わります。鉄筋コンクリートの現代建築は本尊の半跏思惟像を劣化させずに保管するために必要だったもしれませんが、それで古代の寺院という印象は吹っ飛んでしまいました。靴を脱いで本殿にあがると畳敷きで座れるようになっており、エンドレスのテープで説明が流されていました。何か郷土資料館で展示を見せられているような気分でした。

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 この本尊、半世紀前は弥勒菩薩像と呼ばれていたはずです。今は、菩薩半跏像あるいは如意輪観音ということで、ちょっと戸惑いました。樟の木を使った寄木造で、部材ごと丁寧に仕上げて組み合わせて造られているとのこと。つまり木材だから、保存方法が悪いと劣化するということです。全身黒光りしているため鋼鉄で作られたような印象を受けるが、表面にと石を粉末状にした「との粉」に生漆を混ぜた「錆(さび)漆」が塗られ、その上に白土を重ねてから、さらに彩色されていた。その錆漆の表面が燈明の油煙でいぶされたなどで黒光りするようになったとか。実際に実分をみると表面に木目の凸凹の痕跡を見ることができます。それで木像であることが分かりました。この本堂は、本尊を保管し、見せるための施設だろうと思います。ここに信仰ってあるのでしょうか。ある意味、展示物(見世物)にして稼ぐという意図が明け透けですね。この仏像には繊細な美しさがあるとか、これまで色々な人が言葉を残していますが、私には、繊細とかいう味わいをぶち壊しているように思います。私の勝手な思い込みなのでしょうが。そういう雰囲気のなかで、この仏像だけをとりだして、「う~ん、繊細だ」などと鑑賞できるほど、割り切ってみることは、私にはできません。こういうのって、全体の雰囲気のなかで感じるものだろうと思いますから。

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 シラケてきたところで、ツアーの集合時間が近くなったので、急いでバスに戻ることにしました。急いだせいで中宮寺のチケットとパンフレットを、どこかに落としてしまいました。あまり、思い出に残るほどでもないので、まあいいかと気をとり直しました。
 ここから、バスで京都に移動し、午後から京都御所を拝観します。移動中にサンドイッチで軽く昼食。

 

2026年2月 2日 (月)

初冬の奈良、京都旅行(1)~第1日目 長谷寺、聖林寺

 旅行会社のツアーは三回目になります。東京駅で集合して新幹線に乗り、名古屋で11時前に降りて、バスに乗り換えます。湾岸(海沿い)に三重から奈良に、昼食はバスの中でおにぎりをぱくつくことに。山越えで奈良県に入り、13時過ぎに山中の長谷寺に到着。去年の11月、紅葉のシーズンに来た時と違って、観光客の姿があまり見られません。その表われとして、11月に来たときは降車と乗車で分けられていた観光バスの駐車場が単一になっていました。駐車場には私の乗っていたバスしかいないので、駐車場が足りなくなるおそれはないということでしょう。とはいっても、長谷寺は山中の狭い土地に建てられ、周辺の門前町もその狭い土地にあるため、近くに大型バスの駐車場の土地が確保できず、5分ほど歩くことになります。前回11月に来たときは、その道にはひっきりなしに自動車が通過していたのですが、今日は自動車が通りません。安心して歩けるし、車の音が聞こえず、静かです。そして、人がたむろしていた仁王門の前の拝観受付のところも静か。仁王門の金剛力士像をゆっくり眺めて、門を入ると、登楼が始まのます。長谷寺というとここが有名。また前回の11月のときは、周囲の山々の紅葉が映えて華やかで、人々で賑わい、おまけに登楼には花が飾り立てられていた。いかにも観光地という、しかもあか抜けていないといった風情だったと記憶しています。ただ、一応評判の観光地に来たという実績作りで来た程度の印象しかありません。それが、人ごみがなくなって、がらんとした登楼の坂を見上げているだけで、こうも印象が変わるとは思いませんでした。紅葉も終わり、初冬の華のないところで、人影の少ないのは、閑寂とした風景に見えました。同じ登楼が、前回とは全く別のものになっていた。それで、とても好ましく思えでした。なによりも、ここはお寺だった、ということが実感として、はじめて分かったのでした。この坂を上がるということが、修行ということでもないでしょうが、宗教的なものに一歩一歩近づいていく、そういう場であるということが、今回は分かります。

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 本堂は観光シーズンではないので、本尊の特別拝観はありませんでした。それて、本堂の通路から遠目に十一面観音を眺めます。お寺の職員でしょうか、数分おきに回ってきて、観音像に手を合わせ、蝋燭を灯していきます。あれは、観光客に対する牽制なのか、お坊さんではないので、お勤めではないでしょうね。

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 これは、私の好みなのでしょうが、こういう寺院に求めているのは、歴史的価値とか美術的な美しさとか宗教性とかもあるのでしょうが、それらは個々の建築や仏像や絵画を単独に取り出して、その絶対的価値を云々するのではなく、お寺全体の雰囲気とか環境の中で、それと一体となってはかられるものではないかと思います。その雰囲気として、静かであること、閑寂であるということは欠かせない。観光客に人気があり、訪れる人で賑やかになるということと、そのことは対立します。閑寂であると、人は、ひとりとして放り出され、そこで自身を顧みることを促されます。そういう環境が寺社という場なのではないか。寺院の建築とか仏像とかその歴史とかは、それを促すツールとしてある。だから、賑やかであった場合に、ツールの機能は発動しなくなってしまうのではないか。日常の毎日は、どちらかというと喧噪のなかにあるので、静かな環境で落ち着いていられる場というのは、意識して探して出かけないと見つからない。そういう応える場として、こういうところがある。それゆえ、人々があえて訪問する。静かな長谷寺が、前回訪問の時とは、別物として見えてきたときに、思いました。

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 ここから、聖林寺に向かいます。長谷寺から山を下って、別の山へ向かいます。山あいの住宅のおくにひっそりと聖林寺があります。伽藍というほどものはなく、山あいの狭い敷地にひしめくように御堂が建っている。急な階段を上がり、小さな門を入ると、すぐ本堂。本堂の地蔵菩薩は、よく道端にある石造のお地蔵さんを坐像にしたような感じ、ユルキャラのようでもあります。ちょっと期待しましたが、本堂で集まってすわり、職員の説明を聞く。そのあと、本尊の十一面観音像は階段を上がって別館の展示場にあります。古い仏像の保管のための施設ということなのでしょうが、これは信仰の対象というより、考古学的な遺産あるいは美術品の扱いです。観音像としては、それなりのものだと思います。ここは全体として、場所が不利ななかで観光客の誘致にあくせくしている、という印象が残りました。他人事ながら大変だなと思いました。

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 あとは食事して宿に向かいます。

 

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