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2026年3月

2026年3月31日 (火)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(5)~第4章 「日本の自然」としての枯山水─中世

 日本の古代王朝は政治権力を失い始め、武力をもって法を守り、秩序を維持することができなくなっていった。王位継承者の選定など、最も重要な政治的決定についても自由な選択ができなくなった。宮廷は政治ではなく、おもに優雅な儀式や宴会、また種々の娯楽の場となった。10世紀の天皇と宮廷は文化と学問の保護者あるいは推進者となっていく。日本社会はこの時期に大きな変化を遂げ、武士によって支配されるようになった。財政的・政治的権力を失った個々の天皇は、政治的身体を維持することで自らの地位を確保することに努めた。武将たちからの献金への返礼として、天皇は彼らにさまざまな官位を与えた。現在の日本の文化の粋は、この時代に発達したものだ。茶道も、華道も、枯山水も、能も、書院造も、この時代の美意識に基づいている。
 「わび」「さび」「幽玄」の美意識が発展したのはこの時代である。この美意識体系は「自然」を通して表現された。平安の文人たちは春の花や秋の紅葉といった従来から考えられてきた「自然」の美しさに焦点を当てていたが、中世に入ると、人々は仏教の末法に親近感を覚え始めた。それは『新古今和歌集』で表現されている。中世文化は過去の古代の王朝に対する憧れやノスタルジックなヴィジョンの産物であり、禅の価値観と類似している。『新古今和歌集』の「自然」や「四季」は『万葉集』のそれと明瞭に対立する。万葉歌人の「自然」は彼らが実際に見た萩と雁で象徴される。稲の収穫の秋がもっとも重要で最も楽しい季節であった。『新古今和歌集』で萩の歌はわずかしかない。
 平安時代から鎌倉時代にかけて、貴族の邸宅は寝殿造と呼ばれる建築様式をとっていた。母屋である寝殿の向かいには池のある庭園があり、南限を形成していた。築山、木々、岩が組み合わされ、阿弥陀仏の西方極楽浄土の風景が表現されている。これは自然の卓越した構築である。それが室町時代の中頃、武士のために、書院造という、貴族の寝殿造とは対照的な建築様式が生まれた。枯山水と呼ばれるその石庭は、広大な「自然」をごく小さな空間に位置づける。その代表としてあげられるのが竜安寺の庭である。「何もない」空間と岩に対して、鑑賞者が独自の解釈を形成するための十分な余地が残されている。小川や池はなく岩の根元には苔が生えるだけで、草木はない。この庭には地面も土もない。土の上には海を象徴する白砂が敷き詰められており、波を模してかき分けられている。そしてそこに浮かぶかのように、大小15個の石が配されている。庭の前のどこに座っても、15個の石がすべて見えることはなく、記憶と想像力が常に知覚に関与していることを示している。合理性の要求を満たす典型的なフランス庭園とは対照的に、庭園の小ささが訪問者に広大な宇宙を思い描かせ、深い感情をかき立てるのだと指摘している。木々を吹き抜ける風の音以外は、まったくの静寂がこの体験の本質的な部分であるが、庭を眺めるために座る木の床は、その上を歩くと鶯の鳴き声が聞こえるようにつくられている。
 この時期に発展したわび茶は、枯山水の二つの重要な特徴、いわゆるミニマリズムの哲学と「自然」の中に組み込まれた実践を、枯山水と共有している。
 まとめると、武士が築いた中世の「自然」は、平安貴族の「自然」とほぼ正反対であり、それまでの奈良時代の農耕的な「自然」ともまったく異なっていた。花も鳥もいない枯山水はミニマリストの創造物であり、その解釈は観る者の記憶と想像力にかかっている。戦国武将たちは地面を見せることを許さず、岩や小石で「日本の自然」を創造したのである。
 この基本的な美意識と哲学は、この時代に発展した茶道「わび茶」にも共通するもので、物質性を否定し「自然」との近さを強調していた。この時代の他の芸術や建築の発展も、こうした美意識や哲学を共有していた。能では、舞台装置がほとんどない無体のなかで体のなかで体の動きを強調するミニマリズム建築である。
 一方では、社会文化的、政治的構造が完全に覆されはしたものの、それは修復され、あるいは強化された。古代における基本的な宇宙的原理である「土/地」の否定的な価値観はそのまま残り、秀吉のような歴史的エージェントにより自らの目的のために利用された。最も重要なことは、朝廷から経済的、政治的、軍事的な権力を奪った武士たちが、依然として天皇が日本社会の頂点に座することをいかにも顕著に物語る昇殿の制度を遵守したことである。

2026年3月30日 (月)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(4)~第3章 農耕民族の四季から文化的に定義された四季へ─奈良時代と平安時代

 中国では、自然という言葉・概念は老子のものとされている。それが日本に渡り、『万葉集』では「おのずから」という意味で用いられた。名詞として使われるようになったのは後代のことで、天地自然の無数の存在を指している。つまり、宇宙の「存在」であって、西洋思想における「自然」のような抽象的な概念ではない。和辻哲郎は人間存在の構造契機としての「風土性」という概念を提唱した。和辻は人間は社会の一員であると同時に個人でもあるという、人間の二面性を指摘している。彼は自然環境ではなく人間を中心とした時間的かつ空間的な概念として風土を捉えた。風土は文化から離れた「自然」ではなく「自然」という生活環境を示唆している。風土という概念は。日本の民族が自然の中で生活していたことを示すものであり、自然を別の範疇・圏域と見なしていたわけではない。風土が日本人の自然概念の根底にある一方で、文化的に定義された「自然」としての四季は、奈良時代の稲作農耕を基盤として、その後、農耕生活を直接参加することなく発展し始めた。
 奈良時代において中国人は強力な他者であり、日本のエリートは、全面的ではないにせよ、唐の中国文明を熱心に取り入れ、吸収したその反面、日本のエリートたちは、中国とは異なる日本人のアイデンティティ意識と折り合いをつける必要に迫られた。『万葉集』は、その後の平安時代のエリート文化とは異なる物語を伝えている。歌人はさまざまな身分の人を含も、廷臣や貴族が中心の後の勅撰和歌集とは異なっている。そこで歌われる季節の基本的な概念は中国から伝わったもので、季節、四季、春夏秋冬、時間性を表わす重要な語が見られる。日本の歌人たちは「季」に関する表現を多く用いたが、中国の歌をそのまま真似たわけではない、それそれぞれの季節を表現するために、宇宙のさまざまな生物を選び、さまざまな意味をもたせたのである。それぞれの季節は特定の花によって定義される。『万葉集』で最も多いのは秋の花の萩である。それは、万葉の人々にとって稲の収穫がいかに重要であったかを物語っている。萩の花の満開は、稲穂の収穫と象徴的に結びついている。桜は平安京に都が移ってから日本人にとって重要な花となったが、『万葉集』の頃には花の中で王座をしめていなかった。農耕民族の宇宙観では、山の神が降りてきて田の神となる。桜の季節「春」は、農民にとって稲の苗を植える時期である。桜の花は秋の稲の豊作を占う。桜と稲のあいだには、象徴的な等価性を確立する儀式や信仰が数多く存在する。『万葉集』の歌における美意識は、後世のそれとは大きく異なっている。米や麦など実用的な植物が美しいとされる。萩が美しいのは、熟した米粒が美しいことを表わしているからである。
 奈良時代の日本の四季が農耕の季節、とくに稲の生育段階に基づく季節であったことは間違いない。当時の日本人にとって、秋は稲の収穫を喜ぶ一年で最も美しい季節であり、それは秋を詠んだ万葉歌が春を詠んだものより圧倒的に多いことからも分かる。このことは、奈良時代には、エリートも民衆も農作業の成長サイクルと密接な関係をもちながら生活していたことを示している。
 奈良時代が稲を神々の住まいとして祝ったとすれば、平安時代は稲に対応する春桜が春の稲である。農耕の宇宙観では、山の神が春になると桜の花びらに乗って降臨し、田の神となる。万葉歌人とは異なり、平安時代の宮廷歌人は平安京から出る機会はほとんどなく、稲や田んぼとは縁遠い生活を送っていた。空間的な区分とそれに関連する価値観については、この時代、階級構造の高度な発達を反映して、穢土に触れないというエリートのための規則が最も明確になった。奈良時代には、桜といえば山桜しかなかった。『万葉集』では、都の貴族がまた中国からの梅の花の美意識を楽しんでいた時代に、無名の歌人や農村出身の歌人による歌のなかになかには桜への言及が見られ、人々のあいだで桜の花が重要視されていた重要視されていたことを示している。やがて8世紀から9世紀にかけて、エリートたちはしだいに日本の桜の美学に傾倒し、その後の歴史を通じて、桜は日本人の集団的アイデンティティの最も重要なメタファーとなった。この時期、奈良時代に中国文明を全面的に取り入れた日本のエリートたちは、そこから脱して「国風文化」を確立した。9世紀には遣唐使が中止されるなど、中国に対する態度が大きく変化したが、中国文明の影響は続いていた。
 平安時代、エリートたちは四季と12カ月を集中的に「文化化」し始めた。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』は『万葉集』とは異なり、選ばれた歌人はすべてエリートである。和歌は四季ごとに分類されている。その多くは憂愁と悲哀に満ちたもので、「かなし」という言葉がしばしば登場する。四季の概念が発展すればするほど、季節は自然から遠ざかっていった。四季が文化的に決められたものであることは、この時代に月が詠まれるのは月に憂愁を連想させる秋に限定されており、あたかも他の季節には月がないかのようであることにもうかがえる。四季はエリートの日常生活、つまり何を着て何を食べるか「四季の料理」をも支配していた。あたかも、文化的に定義された四季が、「自然の」四季という考えをさらに発展させる源になったと見ることができる。廷臣たちの生活の中心は宮廷であり、その高度な文化活動であった。貴族の生活は、彼らが発展に貢献した四季によって逆に制限された。平安宮廷の優雅で華麗な生活の象徴となった十二単は、「自然」を再現するための厳格なデザインと色彩の規範によって管理され、季節ごとに相応しい衣装を身に着けることが要求された。同様に和歌も、文化的に決められた「自然」を季題とたなければならない。文化的に定義された「自然」が四季に分かれ、それぞれの季節や十二カ月で細かく規定されるようになった。これが「日本の自然」「日本の四季」となり、構築された「自然」を「本当の自然」として見るようになったのである。この「自然」は、宮廷の所在地である京都という限られた地域から生まれた。亜熱帯から亜寒帯まで広がる日本の実際の生態系は常に多様であり、宮廷の動植物相は他の地域とはかなり異なっていたにもかかわらず、宮廷で構築された「自然」が「日本の自然」となっていったのである。こうして四季は、文学、音楽、絵画、儀式などの文化活動の発露の基礎となった。大和絵と呼ばれる日本の絵画伝統は、9世紀後半に中国の漢画に支配された伝統から脱却するためな発展したもので、四季を花鳥や自然の風物で表現することに重点を置いた。この時期の和歌が、奈良時代の和歌にくらべて決定的に憂いを帯び、悲しみに満ちていることが多いのは、自然のはかなさに対する嘆きではなく、人生の悲しみの投影だったと解釈できる。「自然」は感情を表現する媒介となった。万葉歌人にとって喜びの秋だったものが、平安貴族歌人にとって悲しみの秋となったのは、そのためである。
 きとめると、奈良時代の農耕歴に基づく「日本の自然」「日本の四季」は、その後の平安時代にはエリートたちの文化的な「自然」「四季」へと発展していった。自然の秋が必ずしも、悲しみ、はかなさ、その他の関連した感情と結びついていないことは、明らかであると思われる。奈良時代の歌人たちにとって、秋は稲の収穫を伴う1年で最も楽しい季節であった。平安歌人たちが秋の歌で悲しみを表現するのは、秋が多くの植物の成長の終わりを告げるからではなく、愛する人のいない寂しさからである。これは、「日本の四季」が、「自然」のなかで実際に何が起こるとは関係なく構築された枠組みのなかで理解され始めたことを例証している。この枠組みは、花の色に由来する配色を含め、視覚的、聴覚的、情緒的な側面をもっていた。一方、精緻に構築された「自然」は、花や月などの自然現象を鑑賞する儀式、和歌の詠唱、日常生活における美意識など、高度に洗練された文化活動を花開かせる足がかりとなった。こうした文化活動を通じて、「四季」は「日本の自然」となり、エリートだけでなく庶民にも受け入れられるようになった。平安時代の発展は、本来の宇宙観における空間的価値観をさらに強固なものにした。平安貴族にとっての「自然」とは、地面に触れることがない花、鳥、蝶が象徴している。

2026年3月29日 (日)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(3)~第2章 清らかな水田─奈良時代初期における「日本の自然」の誕生

 古代、水稲農業が日本に伝わり、天皇制の政治経済の基礎が築かれた。重要なのは、「稲魂」を宇宙の住人の魂の階層の最上位に置くことであった。それに従って基本的な空間区分と価値観が設定され、上は清浄、下は不浄と分類され、田んぼは水田、つまり土のない清らかな水と定義された。第二に、この空間区分は、天皇が垂直(上下)と水平(左右)の区分とそれに伴う価値観を管理するという、宇宙の永続的な地図作成において重要であった。これらの概念は歴史的な変遷を経て「自然化」され、日本の宇宙論の基本原理として機能し、その上いわゆる宇宙論的/象徴論的構造だけでなく、人々や人間以外の動物の分類、そして人々の日常の行動も支配した。
 狩猟採集の縄文時代から稲作の弥生時代へ。日本人が米を主食として採用したことで、一般民衆の生活は改善されずに国家形成と社会階層化が進んだ。古墳時代、税金として米を徴収するようになり、上流階級と庶民の食生活は異なるものとなった。貴族階級の食生活は米中心、庶民は米をほとんど食べられず、おもに粟のような雑穀や、野菜、肉などを食べていた。つまり、稲作は米の生産者であっても、多かれ少なかれ米の消費者ではなかった原因となっている。このように、水稲耕作はその後の日本の歴史における社会的不平等の基礎を築いた。また、この時代にも天皇や皇子たちは狩猟を続け、狩猟は天皇の権力維持に重要な役割を果たした。それはヨーロッパの王たちが行っていたような本格的狩猟とは本質的に異なっていた。古代の天皇や皇子による狩猟には二種類あり、天皇が弓矢で射る狩猟と、御立丘からその様子を見守る狩猟があった。祈狩は、狩猟によって神に吉凶を占ってもらう儀式であった。この狩猟は模擬狩猟であった。
 古代から奈良時代にかけての時代に、朝廷は農耕宇宙論を体系的に発展させ、それを政治的基盤とするように努めた。『古事記』は、天照大神が皇室の祖神として確立された7世紀以降に書かれたもので、天照大神は穀物の魂の母とされている。伝説上の初代天皇である神武天皇は穀霊の息子であり、天照大神が地上の統治に遣わした孫瓊瓊杵尊の曾孫である。天照大神は、孫が天孫の際、保食神から授かった五穀をこれに与え、孫は荒野を瑞穂と五穀の国とし、すなわち「日本」をつくった。
 米粒一つ一つに魂があり、籾殻のなかで米が生きているという考えは、日本だけなく、米を主食とする他のほとんどの文化において、米に与えられて意味の根底にある。日本では、人々は、米を食べることによって米の和魂を体内に取り込む、あるいは、種まき、苗の植え付け、収穫という稲の成長の各段階を祝う儀式を行うことで、米の神の力を活用することができる。豊作を確実にするために超自然的な力を求めることは、天皇を含む呪術的宗教指導者、すなわちシャーマン兼政治指導者によるこれらの儀式の遂行に依存している。毎年の収穫祭儀は、政治指導者の統治を正当化し、指導者の再生を確実なものにし、その権力を若返らせる役割を果たした。天皇は稲に関しての祭祀を行う者であり、それが天皇の権力の基盤となった。

2026年3月27日 (金)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(2)~第1章 日本人の宇宙に住まう者たち

 日本人にとっての「自然」を論じるには、日本人の宇宙に住まう者たちの「日本の自然」における役割を理解することが不可欠である。宇宙に住まう者たちは文化的に選択され、選択されない者たちは排除されている。ここではこのことを主に宗教や昔話等に焦点を当てて検討する。日本固有の宗教である神道がはたす役割は、とりわけ重要である。そのアニミズム的な前提は、宇宙のあらゆる存在に、我々が無生物で呼ぶものを含めた「すべて」に、魂があるということである。しかし「すべて」とは選別されたものであり、例えば縫い針は重要だが、指ぬきは重要でない、ということになる。また、仏教は、日本人の考え方に影響を与え、人間の死後にその魂を慈しむ習慣を導入した。仏教の教義は人間と動物のあいだに明確な境界線や階層を認めない。この魂というものは、日本人の宇宙を理解するうえで極めて重要となる。
 古代における魂への信仰は、程度の差こそあれ、時代を越えて続いてきた。魂を「すべて」の存在に共通する性質だと信じることは、人間、獣、植物、モノといったカテゴリーの境界を容易に越えさせ、それが日本人の宇宙に住まう異なる存在のあいだに連続性をもたらす基礎となっている。魂の最も重要な特性はつ次のようにまとめられる。①目に見えないこと。②非物質であること。③宿るという概念をとること。④死は魂が肉体から離れる現象であること。⑤魂には破壊的な力もあり、魂が滞在していた肉体から不適切に離脱した期にはそれが発生するということ。神々の魂には特別な性質がある。依代という概念は最も重要で、これは神の魂が宿る場所であり、木や岩、動物、人間、とくにシャーマンであることが多い。魂という概念は、言葉、とくに神話にも当てはまる。言葉の魂である言霊とその呼びかけである言挙は対になる概念である。言霊の力は神々を呼びその助けを求める呪文の中で、言葉を発すること、つまり言挙という行為によって明らかにされる。言葉を単なる思考の表象としてではなく、行為として認識する。
 日本では、言葉だけでなく、宇宙のあらゆる存在に宿る、形のない魂こそが本質なのだ。伊勢神宮は、権力の不可視性に対する日本人の信仰を建築的に表現したもので、太陽の女神である天照大神が鎮座する最も重要な神社である。この神は農耕民族である日本人のパンテオンのなかで、間違いなく最も重要な神であり、宇宙に光を与え、作物、とくに稲に暖かさを与える。内宮にいる太陽の女神は、その姿を見ることはできない。参拝は神社を訪れると、手を叩いて見えない神を招き、あたかもそこに居るかのように話しかけ、日用品を供える。神道の神々は自然の存在であり、したがって神が住むための建造物を建てる必要はなく、また彫像として神を表現することもなかった。しかし、6世紀に仏像を重視する仏教が伝来し、普及した。仏教が民間に流布するにつれ、神道も9世紀以降には神社を建て、木像を制作することを余儀なくされた。これは画期的なことで、神道の神々が占める「自然」が初めて可視化され、物質化されることを余儀なくされた。
 神道から生まれた神という概念は、非常に柔軟に、普通の人間以上の力を持つ存在と想定され、仏陀を含むすべての超人的存在を指すのに使われてきた。神は人間であると同時に超人間的存在であり、聖と俗の概念を複雑かつ流動的に適用する必要がある。日本人は神と人間の両方に、善と悪、建設的と破壊的など、両極の性格を力を認めている。人神という概念は、人間と神々が連続体として存在するこの宇宙論の中心である。日本人の神は、キリスト教、ユダヤ教、イスラムのような一神教の神とは全く異なる。神は人間によってつくられることもあれば、その地位を剥奪されることもあるし、人間が神になることもある。その宇宙の住民のヒエラルキーは、人間、超人的力を持つ天皇、次に神々という昇順に構成されている。このような神の概念は、全能の神の存在も、宇宙の住人のあいだに固定された境界線を引くことも許さない。日本の宗教性における神のダイナミックな性格は、日本人が外国の宗教を取り入れた柔軟性と無縁ではない。西洋の宗教観から見れば驚くべくことかもしれない。
 稲は日本人の宇宙の生物のなかでヒエラルキーの頂点を占めている。その次が樹木で、人間や動物よりも上位に位置する。樹木は神の魂が宿る依代として大きな力を持つ。動物の分類は非常に流動的で、境界の交差は非常に頻繁に起こる。ただし、動物についての基本的なルールは上と下という空間的な原理であり、価値観としては美しい/崇高なもの、と穢れたものである。つまり分類の基準は、動物の足の本数ではなく、その形態的特徴によって、穢れた地面とどれだけ接しているかということになる。しかし、この分類は食肉においては非常に柔軟で、胴部が頻繁に分類の枠を越える。また、昔話では、動物が人間に、人間が動物に変身する。
 「日本の自然」を理解するために、この章では、日本の宇宙論における重要な概念である「魂」と「神」、そしてその宇宙に住む重要な住民を紹介してきた。分類の基本的な基準は、形態ではなく、その機能としての行動である。もう一つの点は、分類のシステムは複数あり、すべてではないがほとんどの分類の境界線は柔軟であるということである。
 魂は世界のほとんどの人々にとって大切である。魂は宇宙における万物が共有するものであるとされている。アニミズムは、人間が人間以外の宇宙の住民に自分自身と同一の内面性を帰属させている。すべての民族が人間以外のものにある種の内面性を認めており、それを魂、心などと呼んでいる。アニミズムは、ほとんどの人々の世界観において魂は宇宙のすべての存在に共通するもの、という最小限の定義によって分類規範の境界を越え、変身するための基盤を提供する。日本では、人間以外の動物がすべて人間に変身するわけではなく、時代によって変身する動物も変身方法も異なる。
 西欧では狩猟民族の王が、狩猟と肉食を政治権力の基盤として重要視してきた。対照的に日本では、植物が常に宇宙のヒエラルキーの頂点を占めてきた。しかし西洋でも日本でも、このような社会的/文化的ヒエラルキーの確立は、自然なプロセスでもなければ、厳密に功利主義的根拠に基づくものでもなかった。宗教がこの過程で重要かつ長期的な役割を果たしてきた。

2026年3月26日 (木)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(1)~序章─人類学理論における「自然」

 現代人は「原始の自然」が「そこにあること」を当然視している。ところが実際には、原初的な暮らしを営む人々には、「自然」という観念も言葉もない。「客観的にそこにある自然」というプラトン以来の見解は、当たり前の、それこそ「自然な」ものとされてきたわけだが、そうなった要因は何だったのだろうか。本書はその答えを、日本文化を歴史的過程として理解するうちに見出す試みである。
 環境の認識と理解の手段は民族によって異なる。例えば、ヨーロッパ人は、マーティン・ジェイが視覚中心主義と呼んだものが、神を直接的に知覚することへのテキストの干渉に反対するものとしてルネサンス期に始まり、宗教以外の分野にも広がった。それはさらにデカルトの物理学の称賛につながり、「自然」を「人間が自分自身の支配者や主人公になれるような腹話術師の人形」に変えた。人が自然をどう感じているかは多種多様である。
 農業経済を基盤として建設された国家のなかには、王やエリート男性が、彼らの男性としての、または政治家としてのパワーの証拠として、「野生の自然」の克服を行う伝統がある。狩猟は政治的、軍事的権力の源泉であった。ヨーロッパ社会では狩猟は貴族に限られた特権であり、庶民は王家の森に入ることは許されなかった。そのため、狩猟は食糧源を提供する自給自足の経済活動とはほど遠く、肉の不足からではなく穀物不足の時に民衆の暴動が起こっている。
 都市化に続く普遍的な現象として、多くの社会で、都会人にとっては「田舎」が「自然」となった。都市が生まれると田舎が生まれ、都市住民はしばしば「原始の自然」とのつながり、また再つながりを欲するようになる。彼らにとって「自然」は、採食、牧畜、農業に従事する人々で象徴されたが、実際にはこれらの人々の間に、「自然」は概念としても言葉としても存在しない。樹木やその他の植物をすべて伐採し、自然を徹底的に破壊してつくられた農地は、都市住民の視点では「自然」となる。こうした過程で自然対文化という象徴的な対立が誕生した。多くの脱農業社会では、この二つは対立する概念となり、それぞれに肯定的価値と否定的価値が割り当てられた。都市は人間の業績を表示する文明、その反面退廃した人間の住まう空間を表わし、田舎は原初のピュアな空間、または未開で文明のない場所を指す。例えば、英国の都市部の住民にとって田舎は、穏やかで牧歌的な自然との交わりに満足している、非の打ちどころのないアルカディア人が享受する環境。または反対に、退屈と無作法が競い合う後進的で孤立した世界、そしてそこでは憂鬱と近親相姦の疑いが生じる。
 本書では「自然」という言葉を、人間が占めていない宇宙の空間を指すものとして用いる。私の関心は、その空間がどのように表現されるかであるが、じつは「表現された自然」であるところのものが「本当の自然」として人々に認識されている。その過程を、日本を例にとって歴史的に追究することが本書の目的である。西洋においては古代ギリシアのプラトンが芸術を「自然」の模倣としてはじめて定義した。画家を幻影や真実の模倣者と呼び、模倣芸術は真実から遠く離れており、全体を再現すると主張しながら一部しか提示していないと宣言している。プラトンにとって芸術は真実/自然を生み出そうとして失敗した試みである。日本文学者の白根治夫は、文学、演劇、その他における前近代の「日本の四季」を綿密に研究し、「二次的自然」という用語を用い、「自然」とは、都市に住む貴族にとって「遠く離れた、あるいはめったに見られない、より原始的な自然の代わり」となった自然を指す言葉として使われるようになった。著者の例で言えば、ナマズの絵を描こうとして大津絵のなまずを思い出しながら描いたら、本物とはほど遠いものだった。そこではじめて実際のなまずを見たことがないことに気がついた。視覚的、聴覚的表現が高度に発達した社会では、人々の「自然」概念の源泉としての表現はきわめて重要である。時には、自然とその表現のあいだに微妙な綱引きが起こる。基本的な問題は、その表現は本当に客観的に存在するものとされるものの模倣なのかということだ。
 日本の文化と社会を長期にわたって研究することで、著者は日常と高尚な宇宙観との関係を考察することができたという。その研究によって、宇宙論や存在論などは高次の独立した精神運動ではなく、人々の日常生活に深く関わっていることが明らかになった。それは、上下という宇宙の空間を分類する表象軸と人々の日常生活の行動規定が、相互に歴史的に継続し、また変化をもたらすということである。一連の表象が支配し「自然」になるにつれて、「自然」が後退していくのも見ることができた。その過程で、著者は歴史的変化の複雑さを知ることができたという。それは、単一の個人が権力を行使するのではなく、おもに権力者と権力のない者が自分のプロセスに気づかないまま歴史的変化を導入するというものである。自然の表象を創造した者は、他者に自分の表象を真似するよう言ったわけではないが、後者はたとえば芸術・文化作品を自ら賛美し、それを「真の自然」として喜んで受け取る場合が多い。江戸時代以降は資本主義の発展とともに「自然」は商品化され、それが「客観的な自然」として具体化された。このプロセスでさえ、強制的な圧力を伴うものではなく、人々はプロセスに関与していることを知らずに自発的に参加する。

2026年3月24日 (火)

涅槃会の宝物風入れ、中部地方の寺院と城(2)~第2日目 永保寺、金蓮寺

 名古屋駅前のホテルを朝8時過ぎに出発。日曜の朝の名古屋駅前は混雑していない。東名高速に乗って東に、瀬戸から北上。岐阜県の多治見へ。山の中へ入るようにして、中央西線の線路脇の空き地にバスが停まった。ここが駐車場らしい。まわりに寺院の建築物が見えない。ここに永保寺があるのか、いままで見てきた京都や奈良の社寺とは雰囲気が違う。どこか観光的でない。踏切をわたって田舎の道を歩いていくと道端に仏像が置かれている。ガンダーラ仏像のような、ギリシア彫刻っぽいリアルなスタイルのやせ細ってあばら骨がハッキリしたブッダの姿。とくに看板も何もない。その先に、ようやく道標。坂道を下っていくと、大きな屋根が見えてきた。それが永保寺の方丈の屋根。坂道は、その建物の後ろから寺に入っていく道だった。やがて、方丈の向こうに境内、庭園が広がっているのが見えてきて、そこに入っていけた。境内には黄色いビブスを着用したボランティアのおじさんがいる。普通、お寺に行くときは正面から山門を通って、本堂へてお参りするのですが、これは裏から入るようです。でも、マップを見てもらえばわかるように、マップの一番下の踏切のところに駐車場があるのですが、ここからの道の他には、永保寺へ至る道がありません。そういえば、山門がありませんでした。これは、後で分かったのですが、マップでは永保寺と書かれている方丈の建物から真上に伸びている道に勅使門跡という石碑が建っていました。かつて、ここに門があったというのです。寺はその門に向けて建てられているのです。私が入ってきた道は、近代になって鉄道が通って、寺の裏手にあたる山間部が発展したため、現在はそこからの方が交通の便がよくなったということです。では、正面はどこかというと、マップの左に流れている土岐川の水運が、かつてのメインの交通路だったということで、寺は、その土岐川に正面を向けて建てられているということでした。後に、川の交通は廃れて、門の意味がなくなり、焼失したかなにかがあっても、門が再建されることはなかった、というところでしょう。
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 虎渓山永保寺は臨済宗の寺で、今も若い僧侶が修業をしている修行の場で観光の寺院ではないとのこと。その証拠に拝観料も拝観パンフレットもなかった。普段は、寺院を見学する人は修業の邪魔にならない限りは、境内に自由に入って見ているとのこと。今日は、年に一度の涅槃会で寺宝の風入れということで公開するので、拝観者が多いので地元の人がボランティアとして、案内と交通整理をするのだという。まあ、今回のツアーは、このために日程を組んで、わざわざ東京からやって来たものなのですが…。観光地化されていないというのは本当で、読経の声がどこかからか聞こえてくるし、若い僧侶がボランティアの手伝いに走りまわっている。その手際が、慣れていなさそうで、しかし、一生懸命な感じで、スレていない。それだけで、この寺院に好印象を持ってしまいました。ここは、観光地ではない、お寺なのです。そう感じられるのは、珍しいことです。
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 方丈の建物は平成15年に焼失してしまったのを再建したもので、まだ白木の香りすら残っているような感じ、白壁は、本当に真っ白です。ここでは、実際に若いお坊さんが修業しているところで、普段は入ることができないのだそうです。しかし、今日の涅槃会だけは中にはいることができました。玄関で靴を脱いで上がると、左手が方丈。釈迦三尊像がまつられているが本尊は観音堂の方にあるという。ここは方丈で修業のためだという。若いお坊さんが説明してくれて、御焼香してもいいですよ、といってくれたので、やらせてらう。また、他のお坊さんが、今日だけ、特設の茶店を開いていて、慣れないたどたどしさに、却って好感がもてたりして。そして、玄関から反対の右手にいくと、小さな中庭があって、これがちょっとした枯山水で、渋いのだ。ほかの人は気づかず素通りしている、このさり気なさが何となくいい。かしこまって鑑賞するほどのものでもないのでしょうが、目に留まると、おもわず立ちどまってしまう何かがある。その奥が、宝物の風入れ、つまり今日だけの公開の展示しつで、多くは歴代の住職や禅僧たちの描いた禅画、おおくは達磨をモチーフにしたもの。中には雪舟の作(?)というのもあった。鑑識眼のない私には、並んでいる達磨の禅画はどれも同じように見えて区別がつかなかった。そして、正面に大きな仏涅槃図。室町時代、中国から来た僧が描いたものだという。紙に描いて掛け軸のように表装したのではなく、絹の布地に直接描いたのだそう。これは、涅槃絵図の説明会をやっていて、描かれた内容を、ここに描かれている何であるかをひとつひとつ説明してくれた。すべて忘れてしまったけれど、そういうものかと聞いていました。でも、それを聞いていて、どこかゴーダマ・ブッダがやろうとしていたことと、何か違うような気がしていました。彼は、果たして自分の教えを広く布教しようとか、衆生を救済しようなんて考えていたのだろうか。むしろ、彼のことを聞きつけて、人々に教えを乞われたので、それに応えただけなのではないか。だって、悟っちゃって、いわばあっちの世界に行っちゃった人ですか、今さら、何を好き好んで、こっちの世界に戻ってくるのか、ですよね。あっちへいっちゃった人の、あっちの言葉で語られたって、こっちの人は理解出来っこない。実際、仏教の最初のころの原始経典にはブッダは、尤もらしい教えらしきことは話さなかったと書かれているそうです。この涅槃図に描かれているのは、そういうブッダの姿とは異なる偉い人物です。私が仏教に抱いている違和感は、そういうところにあるのですが、ここで図らずも、その違和感がでてきてしまいました。京都や奈良の観光地化された寺では、感じることすらなかったのに、ここで感じられるとは、どういうことでしょうか。
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 ここからは方丈を出て庭園をまわりました。この庭は夢窓国師が最初に庭を作ったのもので、後に西芳寺、天龍寺の庭園を造るのですが、その四半世紀前のことだそうです。この地は土岐川の曲がったところに突き出した山の上にあり、禅郷の地としては最高であるということで、臥龍池には大きな中島がなく後の天龍寺の地割そのものということです。特徴付けているのは無際橋といわれる反橋(いたみが激しく危険なので、この橋を渡ることはできなくなっていました)で、これは平安時代では俗界から極楽浄土の世界へ入るものであったというみと。橋に続く観音堂は観音の悟り世界に至ることを意味していて、その観音像がこの寺の本尊です。その観音堂の奥に梵音岩といわれる巌。ここから滝が流れていて、深山幽谷の趣です。虎渓山という名からもわかる通り中国の聖地・廬山の風景を模しているそうです。
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 観音堂へは臥龍池の端を行きます。方丈が新築のような真新しさであったのと対照的に古い建築です。そういう比較ができることもあって、殊更に古さ、渋さが際立ちます。室町時代初期の建築で、京都や奈良とは違って戦乱を免れて、当時の姿のまま現存しているとのこと。四隅が反り返った中国風の屋根が特徴的。そして、いつもは周囲の柵の外から外観を見るだけですが、この日だけは、中へ入ることができます。靴を脱いで階段を上がり御堂の中に入ると、他にはないような独特の岩窟式厨子の中に聖観音像があります。堂内は仰々しく装飾されているようなことはなくて、いたってシンプル。そこに写真のような流木を集めて洞窟をつくったような厨子がドンと置かれていて、それはかなりユニークです。ひんやりとした堂内の空気とあいまって、姿勢を正さずにはいられない何かがあります。
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 観音堂から臥龍池のまわりをぐるっと廻り、梵音岩を見ながら、奥へ進んでいくと開山堂があります。ちょっと深山に分け入るような風情があります。開山者の夢窓疎石の像等が祀られています。ここも、普段は入れないのですが、この日だけは中に入れました。特徴的なのは内部で、靴を脱いで入りますが、中国の建築のように石がタイルのように敷き詰められています。見上げると天井が精緻ですごい。
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 開山堂を出て庭園に戻ると、臥龍池から離れるように庭園をあるくと土岐川に出ます。川は屈曲し、対岸に渓谷の岩壁が見えています。水墨画のような風景。聞こえてくるのは、川の流れる水音だけ。お寺は、特別拝観で訪れる人で賑わっているのに、ここは人の姿はなく静寂そのもの。景色も荘厳に感じられて、ここが修行の寺であるということが感覚として分かります。石のベンチに座って、時間を忘れました。仏教の教えがどうこうというよりは、こんなところに座って、こころを落ち着けているだけでいい。
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 次の目的地金蓮寺に向かいます。多治見から愛知県の吉良まで南下します。バスで2時間ほど。このあたり濃尾平野から外れて小さな山が連なるような地形で、金蓮寺は当時は海に面して建てられていたようです。現在は埋め立てが進み、海岸はずっと向こうになって、寺から海を見ることはできません。さて、この金蓮寺は愛知県では唯一の国宝のお堂がある寺なのですが、現在は住職がいないということです。このあたりの土地は人が減って、檀家がなくなって、お寺の経営ができなくなって、住職は他の寺の住職が兼任しているとのことで、普段は人がいないそうです。寺の維持管理は地元の有志がボランティアでやっているとのことです。今回はツアー会社が団体拝観の予約をして、ボランティアの人が案内に駆けつけてくれることになっていました。この人は、バスが予定より早く現地に到着したので、現地のボランティアがまだ来ていなくて、しばらく待つことになりました。数分して、自動車でボランティアのおじさんが到着。みるからに地元のおじさんという人で、地元のなまりのしゃべりは少し聴きづらいところもありましたが、それが却ってよかったです。
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 そんなこともあり、この金蓮寺も京都や奈良の寺院とは違って観光地化されていない、田舎の古びたお寺でした。弥陀堂が国宝に指定され、鎌倉時代の建立の当時の姿のまま現存しているのだそうです。その姿はユニークです。写真を見ると、左側に突き出した部分は右側にありません。これは、お堂に籠る行をする僧侶が寝泊まりするスペースでが、全体の姿は左右対称を崩しています。お堂の正面の柱は細くて、普通の寺柱のように堂々としたところがありません。しかも、この柱は面取りがしてあって角が削られています。細い柱をさらに細く見せようとしている。それは、この部分が平安時代の寝殿造りを模しているからだそうです。写真をみると、正面の真ん中は格子の板があげられて中が見えるようになっています。これは、下の部分も前に倒すようになっています。左右も同じです。これは、平安時代の引き戸や窓がなかった時代に、壁の板を上げて外光を取り入れて、室内を明るくしていた蔀戸です。しかし、それが中に入ると天井は格天井で阿弥陀三尊像の安置されているところは、天井が一段高くなっています。これは寝殿造りにはなく、平安時代の技術ではつくれないということです。その一段高い天井を支える柱は2本しかありません。四角形の天井を2本の柱だけで支えているのですが、そのためには天井の強度と重量のバランスが必要です。そういう技術は鎌倉時代になってからのものだそうです。つまり、この建物は内部は鎌倉時代の様式で外周は平安時代の様式で建てられている。それがとても珍しいというわけです。
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 弥陀堂に安置されているのは阿弥陀三尊像です。中央の阿弥陀如来の両脇には観音菩薩像と勢至菩薩像が並んでいます。写真では分かりにくいのですが、両菩薩像は片脚で立ち、前屈みの姿勢です。このポーズでバランスをとるのは難しいと思いますが、ちゃんとバランスを保って立っているのは仏師の技量の高さでしょう。もともとこれらの仏像は全身に金箔が貼られ、金色に輝いていたそうです。海に面して、海に向かって安置されていた、これらの仏像は、沿岸を行き来する船からも見えていたということです。船乗りたちは海から金色に輝く仏を見て、航海の安全を祈ったそうです。現在は金箔が剥げ落ち黒い地肌が顕わになっていますが、一部に残っている部分があります。
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 本堂は不動明王が本尊だそうですが、秘仏で見ることはできません。中に入ると奉納された絵馬が飾られていました。航海の安全を祈願する絵馬が目につきました。案内してくれたボランティアのおじさんが気さくな人で、自由に中に入らせて見せてくれました。鐘楼の鐘もついていいですよというので、つかせてもらいました。
 地元の人々にまもられている、素朴で、おおらかなお寺でした。
 今日、まわった二つのお寺は、観光地化されていない、いいお寺でした。ここからバスで三河安城の駅に向かいました。新幹線は「こだま」にしか乗れませんが、「こだま」も乗ってみるといいものです。各駅停車になり、停車した駅では「のぞみ」や「ひかり」に抜かれるので3~4分停車しますが、その停車時間に駅の売店に行って飲み物やつまみを調達できるので、車内販売がなくなった「のぞみ」よりも快適でもあります。

 

2026年3月23日 (月)

涅槃会の宝物風入れ、中部地方の寺院と城(1)~第1日目 専修寺、犬山城、如庵

 今回申し込んだツアーは、マニアックのコースで、グルメも温泉もない渋い内容です。集合時間が6時40分と早朝なので、自宅からは始発電車に乗らないと間に合いません。そんなこともあって、参加者は24名と小ぢんまりしたツアーなりました。東京駅から新幹線で名古屋へ、そこから近鉄特急で三重県の津まで。近鉄の名古屋駅は特急が何本も出発する割には狭い駅で、落ち着きがない感じ。売店も小さくて、昼食を買おうと思っていたのですが、弁当はみつからず、おにぎりで済ませました。津駅で降りて、待っていたバスに乗り、10分ほどで専修寺に到着。観光バス駐車場は寺院の裏手にあり、表通りに出ると、専修寺だけでなく、門前の街のたたずまいが、かつて戦乱から身を守るために造られた寺内町が残されている歴史的な姿を留めているのが見えます。
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 門前町のにぎわいというのとは別に、浄土真宗の集落であったことが分かる歴史的な風景に見えました。
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 旅行ツアーの団体ということで、寺から案内人がつきました。僧侶ではなく寺の職員でしょうか、でも、念仏を唱えるのは慣れた感じだったので、さすがに浄土真宗というところでしょうか。案内をしてくれたのは、マップでいうと中央部の御影堂と如来堂とその周辺で、じつに1時間強という長い時間となりました。それだけ熱心というか諄い説明でした。

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 まずは、境内への入り口となっている唐門は、京都の二条城の唐門に似た形ですが、あれほど派手な装飾はありませんでしたが、それなりに彫刻が施されていました。扉の中央に菊の紋があり、勅使門として使われてきたそうですが、現在は観光客も出入りしています。けっこう迫力があります。
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 御影堂は親鸞の木像が安置されている大きな建物です。たたみ780畳敷という広さは、多くの信徒を集めて説教する場であったからだそうです。奈良や平安時代の寺とちがって大衆の信徒を考慮しているということでしょう。貴族や武士といった教養のある人々とは違い、文字が読めないとか教義を理解できないといった大衆に対して、布教や宗教教育を進めるには、分かりやすくビジュアルでアピールするのが手っ取り早い。その結果、大きいとか見てくれが豪華といった目立つことが必要となる。ヨーロッパ中世のゴシックの大聖堂と同じようなものです。また、写真をみると分かると思いますが、建物の右側は大きな簀子みたいもので覆われていますが、これは海風が直接建物に当たらないようにしているものだそうです。この土地は海風は東から吹いてきますから、この部分は東側です。そうすると、この建物は西方浄土のある西を向いて建てられていないことになります。人の都合が、そういう決め事より重視されている。それだけ俗化されている、大衆向けに合わせているのです。建物内部は三つ部分に分けられていて、手前は一般の人が入ることのできる畳敷の広い大間があります。この部分の内装はシンプルで、広い空間にするために柱がありません。そこから柵で区切られた奥が中陣となります。ここは柱や天井が鮮やかな色に彩色されています。いわば、外陣(大間)が現実の俗世界であり、中陣は極楽の色鮮やかな世界。そして、最奥が内陣で金箔が一面に貼られてキンキラキンで、親鸞聖人の像が安置されています。これはいわば、俗世界と極楽浄土の違いをビジュアルで示しているというわけです。
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 もう一つの国宝である如来堂へは渡り廊下─通天橋という─を渡って行きます。如来堂の屋根は裳階があるので二階建てに見えますが平屋です。これは、となりの御影堂が大きいので、それに見合うように建物を大きく見せるために裳階をつけて建物の高さを高くしたそうです。“大きいことはいいことだ”という半世紀前の高度成長時代の標語がありますが、まさにそういう感じです。内部はキンキラキンです。日光東照宮の過剰なほどの装飾に通じるところがあると思ってしまいます。同じ時代ですし。建物の外観はキンキラキンでなくても、中に入るとキンキラキンなんです。本尊は阿弥陀如来立像です。
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 ここからバスで1時間強、中で昼食をとりながら、犬山城へ向かいました。快晴の土曜日の午後ということもあって、かなり混雑していました。天守閣へは入場券を買ってから30分の待ち時間ということで、門から天守閣の玄関まで順番待ちの長蛇の列。天守閣は小さいので入場できる人数に限りがあり、玄関で、入場者の規制をしている。やっとのことで玄関で靴を脱ぎ、ビニル袋にいれて急な階段を上りますが、階段でも順番待ち。最上層の階段は一方通行になっているので、下りの人が使っている間は、上りの人は待たされる。そんな順番待ちばかりでした。そもそも犬山城は現存する最古の天守閣ということですが、天守閣しか残っていない。全体としての城は公園になっていて、天守閣は公園のアトラクションのようなものになっています。それって、天守閣として存在しているのでしょうか。実際のところ、内部は城の設備というか、そういう機能の状態になく、展示場でした。来場する人々も最上層でベランダに出て周囲を見下ろすような展望を楽しんでいるだけという感じでした。たしかに、建設当時の建物が、現在も残っているのですが、形だけで中身はカラッポという感じです。そもそも、お城において天守閣というは意味のあるものなのでしょうか。軍事機能の点で意味があるようには思えません。いわゆるシンボル的意味ということなら、軍事的というより政治的です。それなら、名古屋城や大阪城なら、その政治的意味は分かります。それに対して、犬山という、いわば支城で政治的意味がどこまであるのか。軍事上の重要なポイントであることは分かります。城としての軍事的な機能については全く残っていなくて、観光地の公園になっているだけで、軍事機能がどのようだったか分からない。そこに、機能的に意味のない天守閣だけが残っている。何か、とても空虚な気がしました。混雑のために予定時間をオーバーして出発しました。おかげて、次の訪問が押せ押せになりました。
 今日の最後の訪問地は如庵です。茶室です。犬山城の丘を下りたところ、木曽川に面したところにリゾートホテルらしきものがあって、その敷地内?隣接?している有楽苑。名鉄が管理所有ということ。沿革を聞くと、もともとは織田有楽斎が隠居所を京都につくって、江戸時代は大名家だったから、維持できたが、明治になってやっていけなくなり、三井が買い取った。戦後の財閥解体で、三井もやっていけなくなり、名鉄が買い取った。名鉄は犬山にお城もあるし、明治村もつくったし、観光事業として、さらに、この三井から買い取った如庵も移設した。そんな感じでしょうか。つまり、客寄せのテーマパークみたいなもの。入口からそんな匂いがプンプンしてきました。最初は苑内の茶室に案内されて、お茶をいただきます。私は茶道の嗜みはないので、出されたお茶菓子は外見は凝った風情だけで、味は甘すぎて後味が悪い。お茶は、いま流行の抹茶、おそらく薄茶なんでしょうが、私は、このどこが旨いのか分からない。愚痴をいうようで申し訳ないのですが、何か、出してくる態度が上から目線で、居心地が悪いことこの上ない。そのあと案内された正伝院も如庵も、同じような雰囲気。こういうのが一期一会というものなのだろうか。そもそも、茶道って、こっちが接待してやっているという押し付けがましいものに見える。如庵の建物を見ていると、わざと鄙びたような作為はあからさまだし、窓を段違いにつくるなど、かなり手のかかかることをやらせている。これって、田舎のボロ屋ではないんですよ、とアピールしているようなもの。このあたりが、織田有楽斎という人物のスノッブなところが現われているような気がする。
 そんなこんなで、犬山の城と茶室は観光のテーマパークに振り回されたという感想だった。
 今日は名古屋駅前のホテルに宿泊。ツアー旅行では珍しくグルメの要素がなく、各自と勝手に食べて、ということなので、コンビニでおにぎりか菓子パンでも買って済まそうか。

 

2026年3月22日 (日)

北條正庸─風の旅(5)~会場2

Hojyouhanga  展示室がかわり、ここでは版画やスケッチ、小品、そして再現されたアトリエ等が展示され、最後に最新作の大作が展示されていました。
 版画作品は、ドライポイントやアクアチントといったいわば銅版画でしょうか、全般的に絵画作品にたいして小さな画面の作品です。そのため絵画作品のような複雑な画面構成にはならず、絵画作品では部分を構成する面を単独で作品としているようなところがあります。おそらく、北條が制約と感じた具象からは当初から解放されているといえるのではないか。また、版画は白黒の世界なので色彩は制約されます。そのため、ここ見られた作品は、形だけで勝負しているようなところがあり、この人が本来持っている単純化した形の魅力を絵画作品よりもストレートに味わうことができました。それは、たとえば「颱風に寄す」と会場1に展示されていた「風を待つ日々」が同じシチュエィションであるのに、全く印象が異なることからも分かります。
 最後は、この展覧会のために新たに制作された大作のインスタレイションが展示されていました。墨絵風のモノクロームの大作で、これまでの作風とは大きく異なる作品でした。これから作風が変化していくのでしょうか、そんな予感を誘う作品でした。

 

 Hojyouusukubo 企画展のチケットで常設展も見ることができました。ちょうど「装飾と分離のあわい─ウィン分離派の時代」というのをやっていてクリムトのポスターやムンクやカンディンスキーのリトグラフを見ることができました。その他にマグリットの「大家族」そのほか日本の現代作家の面白い作品を何点か見ました。例えば薄久保友司の「春暁仰花図」白い花は辛夷の花、その下にいる鳥は烏骨鶏だそうです。離れて見ると辛夷の木や花が飛び出してくるような立体感をもって迫ってきます。しかし、近寄って見ると意外と薄い塗りなのに驚きます。
館内は広く、とくに廊下が長くなっていて、それはガラスの窓を大きくとってあって外の景色を眺めてみてもらうためだと思いますが、結構疲れました。もう少しゆっくりしていてもよかったのですが、少ない本数のバスの時間が迫っていたので、そそくさと帰りました。

 

北條正庸─風の旅(4)~めぐりあい 2000~

 2000年当時、自身の作風にマンネリを感じはじめていた北條は物事を把握することの基礎に立ち返るべく、作画の最初に水平と垂直の線を画面に引くというルーティンを徹底しました。時間をかけてグリッドな画面を構成していくなかで頭に浮かんだイメージを素直に造形として表現した結果、家、木、ハートなど記号ともいえるようなかたちが繰り返し作品に現れたということです。そして、2010年代中頃、画風はふたたび具象に転じ、若い頃から足繁く訪れた瀬戸内海の風景のなかに少女、鳥、海景など愛着深いモチーフの数々が、丹念な筆致でモンタージュされた作品群は、人生の来し方と行く末を確かに見据えた、画家の到達点といえるものと説明されています。
 「アトリエの日々」は2000年の作品。また、作風の大きな転換です。上の説明にあるように水平と垂直の線を何本も引いて画面にマス目をつくり、そこに色々なイメージを入れていく。モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」を想わせます。しかし、モンドリアンのような幾何学的な整った印象あるいは冷たさは、この作品には感じられません。マス目が引かれていても、その境界線をまたいで同じ色が塗られていたり、イメージがマス目を貫いていたりしています。マス目のなかにさらにマス目が引かれていたりしています。あるいは、画面には布やブリキ板が貼られたりして、画面が整理されているというより、むしろ無秩序といった方がいい。これまでの作品で馴染みの、さまざまなイメージが無秩序に画面上に描かれていたり、その形が貼り付けられたりしています。それなのにカオス的な混乱とはなっていないで、画面上は静かな印象です。この静けさは、この人の作品に共通していると思いますが、モンドリアンなどの抽象画は画家の精神とか感情といった内面を表現しようとしますが、北條の場合はそうではなく、あくまで存在するものを視覚的イメージとして描いたものを単純化していった結果こうなったということのゆえだろうと思います。パッチワークのキルトみたいだ。
Hojyourome  「ローマの日々」は2007年の作品で、「アトリエの日々」のような作品から、マス目を取り払ったらこうなった、というような作品。しかし、この作品は、さまざまな白が、それぞのイメージに塗り分けられ、最初に展示されていた諸作が青の鮮やかさなら、これは白の深さが印象的。さまざまな視覚的イメージが単純化されていますが、そその単純化された形が、親しみ易い印象でそれらの形は、洗練されている一方で素朴なユーモアすら感じられます。この人の具象を脱したという作品が難解じみた取っ付きにくさがなくて、親しみやすいのは、そういうところに理由があるのかもしれません。
Hojyousummer2  「予感-まぶしい風が来る」は2016年の作品。野原に寝そべる子供を上から見下ろす視点で描いた作品です。これまでのパッチワークのような作品から大きく変わって、一つの場面をそのまま描いているように見えます。具象に転じたというのは、こういうことでしょう。寝そべる子供を描くアングルはこれまで見られなかったし、いままでのパターン化されていたものとは正反対のリアルな方向です。明らかな画面分割が見られなくなり、この画面を見ていると物語的な想像が湧いてくるようです。この作品は、散文的で、どちらかというと詩的な北條の作品の中で異質な感じがします。
Hojyouroad  「岬への道」は2019年の作品。これまでの作品の形の単純化、記号化の方向とは反対の描き込む表し方に変わっています。現代の日本の日常的な光景を描いているように見えます。これが具象に戻ったということでしょうか。画面右下の青い服を着た少女は1985年の「夏の少女たち」の左側の踊る少女と同じポーズであり、1986年の「風の旅」の宙を飛ぶ少女とよく似たイメージです。比べてみると、たしかに描き方は変化していると思いますが、リアルな写実というよりイメージをふくらませてメルヘンチックになるという基本的なところは変わっていないように見えます。画面のつくりについても、これまでの作品のようにマス目だったり四角形だったり水平な線によって画面を分割するのではなく、もっとフレキシブルに分割しています。つまり、右下の林をバックにして青い服を着た少女が躍るようなポーズをとっているところ、樹木の下で犬を連れた3人の人物が近づいてくる自動車に手を振っている場面、海岸でヨットが行き交っている場面、そしてそれらの場面に挟まって道を歩いている人影、という面がそれぞれ不定形で画面に並んでいます。それらの面の相互の関係はよく分からない。強いて言えば、それぞれの面の青と緑が印象的であるということくらい。それらから感じられる視覚的なムード、雰囲気が画面の印象をつくっている。これは、これまで見てきた、初期からのこの画家の作品に共通しているものです。その点で、何度も繰り返しますが、私には有元利夫に通じるところがあると思います。

 

2026年3月21日 (土)

北條正庸─風の旅(3)~いくつかの世界で 1988~1999

 1988年に北條は作風を一変させ、具象画の制約を捨てて、イメージのまま描くようになったといいます。また、陶芸との出会いから陶磁器で用いられるカリオンを顔料として使ったといいます。また1990年から1年間イタリアで暮らした。そういう時期の作品です。
Hojyouconversation  「風景との会話」は1989年の作品。今まで、青が印象的な作品が多かったのが、ここで色調がガラッと変わりました。茶色が目立つ。それだけで作品の印象が大きく変わります。説明では具象画に制約を感じていたとのことでしたが、これって具象的な作品ですよね。さまざまなイメージがコラージュ風に並べられている。それぞれの単体は単純化され、パターン化されています。でも、以前の作品でも、それほど単純化されてはいませんでしたが、樹木はパターン化されていたし、少女だって個性ある人物というより少女のパターンをつくる傾向があった。あえていえば、この作品では、それぞれをアトランダムに並べているというか、画面を構成することをやめたということのようです。ところで、画面左にある八角形の建物は吉岡正人の作品によく登場する建物とそっくりだし、画面右のスカートをはいた人物のシルエットのような姿は有元利夫の描く中世風の人物そっくりです。
Hojyoucloud  「雲いづる」も1989年の作品。「風景との会話」と同じような傾向の作品です。画面中央を占めている白黒の楕円形の物体は雲でしょうか。単純化は風景の描写まで進んでいます。単純化というより戯画化といった方がいいかもしれません。ちょっとしたギミックの感じがして、デ・キリコの形而上絵画を想起させるところがあると思います。見ていて、何か意味ありげに考えてしまいそうな雰囲気があります。
Hojyoubird  「鳥が飛んだ日」は1993年の作品。これも同じ傾向の作品です。この人はベーシックなところで、画面を水平な層だったり四角形だったりと分割して組み合わせる傾向があるようですが、このコラージュ的な画面つくりでも、たり、不規則な図形だったり一つの区画を設定し、それを色面にして、その中に何かのイメージを入れて、その区画を画面で並べています。この作品では、その区画相互の色の配置が、以前の似た傾向の色並べていたのに比べて対抗的な配置が加わって、それで画面の印象がかなり変わってきました。そして、それぞれの区画の中のそれぞれのイメージが、より単純化されて記号に近いところまできています。右上端のイメージは記号化がすすみ線描の抽象のように見えます。それゆえ、抽象というと難解な感じがしますが、ここではそういう感じが全くありません。どちらかというとユーモラスな滑稽さの方がまさっています。
Hojyouuntitle  ここでまた、作風が大きく変わります。抽象画と言っていいでしょうが作品名不詳の人物画、1996年の作です。この作品には画面の分割がありません。そこに何か並々ならぬものを感じます。この作品ではキャンバスの下地で、そこに黒の線で幾何学的な図形のようなものが描かれています。幾何学的な図形のような抽象はピート・モンドリアンっぽいか(赤い円と小さな黄色な円などはモンドリアン的)、というより、この線が明確でなく下地にとけこんでいるようなのはパウロ・クレーの感覚に近いかもしれない。そう、モンドリアンの抽象の冷たさというか、張りつめたような緊張感が、この作品には感じられない。むしろ、ぼんやりとした静けさでしょうか。そもそも、線で描かれているイメージは、これまで見てきた作品で繰り返し用いられていたものを単純化→記号化→抽象化したもので、馴染みのあるものです。それがグラデーションのある深みのあるグレーの地に溶け込みながら黒い線で表わされている。変な譬えですが、古い昔の建築物の古びた壁のくすんで見辛くなった古代の壁画といったらいいでしょうか。
Hojyouboy  「風を待つ少年」は1995年の作品。抽象画である人物画の以前の作品です。この作品は、「鳥の飛んだ日」のイメージの単純化が抽象化とは違う方向に行ったと言える作品です。この作品で用いられているイメージは、鳥であり、人であり、塔のような建物であり、こけまでの作品で繰り返し用いられてきたものです。それらは単純化されパターン化されてきました。この作品でも、その例に洩れていません。しかし、この作品ではこれらは、形態こそ単純化されていますが、形態の内部には模様のようなものが描かれています。つまり、今まで分割された面のなかにあったイメージが、それ自体で面となり、その中に別の何かがイメージとしてある。そういう可能性が見える。層が並んでいるのではなく、層の中に層がある重層的な画面の可能性がある。そうすると、イメージが広がるのとは逆に内側に向かっていく。

 

 

2026年3月20日 (金)

北條正庸─風の旅(2)~飛翔するイメージ 1970~1987

 会場1では、彩色された絵画作品。いわばメイン作品の展示です。まずは美大生のころから具象的なイメージを発展させていった時期の作品です。空と海を思わせる青が瑞々しい初期の作品たち、また少女らが遊ぶ姿を描く「アンリエットの回想」と名付けられた一連の作品が印象的です。
Hojyoufar  「遥夏」は1970年の作品。とにかく、この作品は“青”です。ここで展示されている1970年の作品は作品タイトルに「夏」がつけられていますが、すべて“青”が鮮烈です。画面全体が鮮やかな青に占められている。それがただ一様に塗られているのではなく、何本もの水平な線によって層がかたちづくられてグラデーションがつけられています。それに直交する垂直な線で樹木が描かれている。その樹木の緑が水平の空の青と対立するでもなく、融け合うでもない関係。水平と垂直の交点から斜めに白が、雲でしょうか波打つように流れていく。その波型は、実は垂直に立つ樹木から扇形に広がる葉の葉脈にも同じように波型が流れている。このような層が重なり、交わり、反復する。それらは、おそらく前景に出ているようで、画面の多くを占める青を鮮やかにするためアクセントして機能しているように思える。要は、爽快な青をいかにして表現するか、という作品ではないか思います。この樹木は、日本画の樹木の描き方というよりは図案化されていて記号のような印象です。とはいっても幾何学的な図形のような冷たい印象ではない。あえて手作り的な肌触りを残していて、粗いというか、それがヨーロッパ中世のイコンのような感じを想わせるのです。私が、この人の作品を、有元利夫や吉岡正人にちかいものと感じさせるのは、まず、そういうところからです。
Hojyoublue  「碧い夏」は1972年の作品。これも鮮やかな青の作品です。この青の重層的で、さまざまな青が明確に塗り分けられている。滲んだりすることはなく、薄い青、濃い青の区分が明確で、色の境目がはっきりしている。それって、日本画の絵具というよりは、キャンバスに油絵の具を塗ったかのよう。ただし、この青の爽やかな鮮やかさは油絵の具では出せないかもしれない。しかも、滲んだりすることのない、純粋な青の絵具(顔料)の輝きみたいなもの。この作品では、その色の鮮やかさは青以外にも、右下の揺れるレースのカーテンの白にも言えます。この斜めの波が、その先の白っぽい青、これは雲なのかに及び、水平の層に動きを生み出している。また、このカーテンがあることで、この画面は窓から外を眺めたかのようなイメージとして捉えることもできるようになる。画面に目を向けると、下部の真ん中には垂直の線の樹木が1本。しかし、上部には、青空の下の海原の風景が窓から覗いたように切り取られて配されている。これは、ルネ・マグリットの「大家族」で海岸の風景に鳥の形で空の描写を貼り付けたを思い出す。そして、その上に緑色のリンゴが浮いている。これらは、画家自身がマグリットの異次元の空間に魅了されていたと語ったと説明されていましたが、マグリット的なのでしょう。とはいえ、この作品からはシュルレアリスムの異化という手法とは違うものを感じます。あんまり違和感を起こさせないからです。構成は図式的なところがあるけれど、けっして図式的には感じられない。それを壊すもの、例えば、この作品では、構図はシンメトリーになっていますが、右下のカーテンが、それを壊している。そういう破綻を内包している。不思議ではあっても、マグリットのような意図的なギミックの感じはないのです。
Hojyouwhite  「白い風」は1973年の作品。これも、マグリット的な作品と言えると思います。画面の下の4分の1が水平線で区切られた雲が湧く緑の山。その上は緑のアーチに囲まれた雲が湧く青空。その空の中にはギリシア風の神殿が浮かび、ギリシア風の彫像(翼のないサモトラケのニケ?)が浮かんでいる。神殿より彫像の方が大きくて、また相互に遠近感はない。それゆえ、その上部は空間としてのパースペクティブがなく平面的。神殿、彫像、山、緑の葉のイメージが並列している。その中で、白いギリシア風のイメージには凹凸がある。例えば、神殿の大理石の柱の縦の線や彫像の着用している衣裳のシワの部分は絵の具を積み上げて盛り上がっている。そこは、それ以外の部分が透明な白であるのに対して、絵の具を積み上げているだけにしっかりとした白で、おまけに積み上げたゆえに影を作っている。それは、質感というよりは白の色の変化を作り出している。そうした透明である一方で重量感のある白は、ほかの雲の白とは異質だ。そして、大雑把にいえば、青と緑と白の色面で構成されているというところもある。そそこで、幻想的なイメージは、白と青と緑の色彩から作られている。
Hojyoumemory  「悲しい記憶」は1976年の作品、画面が四角形ごとに分割され、その四角形によって全体が構成されています。画面の下3分の1の部分を占めるのは白い幹で緑の葉を茂らせた樹木が青空をバックに下から見上げるように描かれています。その上、画面の中央には正方形で青空を大きくとって、同じ樹木の葉の茂った部分が上から描かれています。その正方形の背後の余白には、青空なのですが、樹木が反転してシルエットのように描かれています。そして、正方形の上、画面上部は台形、それは正方形を下から斜めに見上げると遠くの側が広がって見える形ですが、その台形いっぱいに茂っている緑の葉の部分が描かれています。つまり、樹木を様々な角度から描いた四角形を一つの画面のなかに上中下と並べて配置している。そこで、みられる空の青と繁茂する葉の緑のレイアウトの多層的、多面的な世界が形づくられています。まるで万華鏡をのぞくような感覚。しかし、その均衡をぶち破るかのように白い鳥が白い軌跡を残しながら墜落してきます。墜落しているのか、同じ白の樹木の幹と連動しているのか、何とも言えませんが、分割された四角形の境界を超えて落ちてきます。それが、何か意味ありげです。ただ、ここでは“意味ありげ”なものとして見ています。それよりも、四角形で分割されているのをぶち破ることで、均衡を壊している白が、逆に青と緑に動きを生ませている。そのように見えました。今まで、マグリット的な作品を何点か見てきましたが、この作品では、マグリットには見られないダイナミックな動き、あらかじめデザインされたものをぶち破るような動きで起こっているということで、マグリットから離れた。そんな印象です。
Hojyouyose  「アンリエットの回想─楽に寄す」は1979年の作品。北条は自身の子供の誕生をきっかけに人物を描きはじめ、幼い我が子の姿を参照した少女が描かれた一連の作品の多くに「アンリエットの回想」と名づけたということ。アンリエットというのは、立原道造が軽井沢の追分で出会った実在の人物(鮎子)との出会いと別れを描いた散文詩的物語『鮎子の歌』のヒロインの呼称から採られたと説明されていました。これまで、画面が多層的ふるいは多面的に分割・構成されていたのが、単体の画面になりました。しかし、現実のリアルな空間とは違う、意図的に作られた空間です。その中央に赤い帽子、白いブラウス、赤いロングスカートの女性(少女)が椅子に座っています。これまでの作品にはなかった赤が印象的です。この女性には表情とか生き生きとしたところがなく、人形か彫像のようです。どこか、ポール・デルヴォーの作品に出てくるような彫像のような女性を想わせます。
Hojyouspring  「アンリエットの回想─春風」は1981年の作品。ヨーロッパ風の街の風景をバックにした横向きの少女が描かれています。この後、少女を描いた作品が何点も出てきますが、その少女を描く角度は決まっていて、横か斜め正面しかありません。背景のヨーロッパ風の風景は一応写実風に描かれているのに対して、少女は平面的で、立体感というか陰影がなくて、全体にメルヘンチックというか絵本のような印象です。右手の親指1本で地球と思しき球体を支えているのが“意味ありげ”です。
 「アンリエットの回想─微風の中に」は1982年の作品。この左の縄跳びをしている少女は、有元利夫の「私にとってのピエロ・デ・ラ・フランチェスカ」の連作の中の一点の縄跳びをしている人の姿を洗練させたような印象です。この辺りからも、私の個人的印象で有元に近い感じを受けます。Hojyouwind 右側で縄を握っている横向きの少女も人形か彫像みたいに表情はなく、二人の少女は静止して宙に浮いているような感じです。それだけ静かでもあります。そして、二人がいる地面は、四角形グレーの組み合わせでグラデーションがつくられていて、前の作品の四角形で画面が構成されていたものの部分的な現われでしょうか。これに対して、少女たちはベタ塗りで四角形からは超越している。それが宙に浮いている印象となるのでしょうか。
Hojyousummer  「夏の少女達」は1985年の作品です。遠景はフィレンツェの風景です。踊っている少女の頭の左に見えるのはサンタマリアデルフィオーレ大聖堂のドームでしょう。その街の赤い屋根と白い壁の風景があって、前景は「アンリエットの回想─微風の中に」の地面と同じ、石畳を思わせる四角いグレーで構成された場面です。遠景が中世からルネサンスの世界で、少女たちのいる前景が現代の世界という二つの世界が並存している。それとも、どちらでもないイメージの世界か。二人の少女は、それぞれに関わり合うことなく、それぞれに画面にいる。このような謎めいたところは、中世の風景をバックにしているところなども、有元利夫であり、吉岡正人の作品に通じる所です。
Hojyoutravel  「風の旅」は1986年の作品。展覧会チラシやポスターで使用されている作品です。画面は左右に分割されて、右半分はフィレンツェの風景。定規で測ったように図面のような遠近法で街並みが描かれています。どっちかというと写生的です。右半分は、少女が空を飛んでいます。こちらはメルヘンチック。この空に浮かぶ人というのは、例えば有元利夫の「重奏」もそうですが、幻想的なイメージです。

 

2026年3月18日 (水)

北條正庸─風の旅(1)

Hojyoupos  宇都宮美術館は、以前にも興味深い企画展を何度も行っていたのを知っていた。とはいえ、距離的な点から、なかなか行けずにいた。しかし、勤めをリタイアした今、時間的な余裕はたっぷりあり、いい機会だから、これを機に出かけてみる気になった。東京西部から宇都宮まで行って帰ってくるのは、結構ハードで、朝早く家を出て、帰宅は夜中になった。疲れた。
 Hojyoumu 東北新幹線で宇都宮駅に降りる。西口の改札を出て、階段を下りたところに5番のバス乗り場がある。そこで宇都宮美術館行き(帝京大学経由)のバスに乗る。本数は1時間に2本程度。宇都宮美術館のホームページ、アクセスのところにバスの時刻表があるので、事前に調べておくのがよい。Hojyoumu2 バス乗り場にバスの運行状況を示すディスプレイがある。この日は、かなり遅れていたので、40分近く待つようなので、タクシーにした。運転手に宇都宮美術館へと行先を下げると、あまり周知されていないようで、帝京大学の先と加えると、ああと分かってくれた。宇都宮駅から美術館まで20分程度、3,600円。美術館は静かな丘の上にある。環境はとてもいいと思う。私は、東京郊外の在住なのでHojyoumu3 都内や近郊の神奈川県や埼玉県の美術館を訪れますが、それ以外の地域に出かけることは、なかなかありません。そういう地域の美術館に出かけるのは旅行のような感覚で、それぞれの地域の美術館にそれぞれの特色があって、楽しみにしています。そのときに、困るのが、東京の感覚で公共交通を前提にしてアクセスを考えると不便になるということです。東京のように電車やバス網が整備されていないところでは交通機関は自家用車がデフォルトになっているのでしょうから、美術館のアクセスも自家用車Hojyoumu4 を前提にされている。この宇都宮美術館もそんな感じです。そこでは、不便とは考えずに、むしろ、日帰りのような急ぎではなく、一泊でもして、付近の温泉にでも寄ってのんびりしていくのがいい、ということでしょうか。今回は、帰りは、ちょうどバスに乗れたので、日帰りで帰ってきました。
 宇都宮美術館は、東京の美術館では考えられないような広い敷地にあり、緑のなか、公園を散歩するような気分で、建物に向かいます。建物内もロビーは贅沢なほど広い。玄関を入って正面奥に受付があり、入場券を買うと、右手の長い廊下を、外の森の風景をゆっくり楽しみながら歩きます。これも、ゆったりとした贅沢な時間です。廊下の先が見えなくて不安になりますが、突き当りに展示室への受付があり、そこで入場券をチェックして、企画展示室に案内されます。
 円形の広いホールを扇の要のようにして、ここへの道と二つの展示室が分岐しています。なんて贅沢な配置でしょうか。敷地のとれない東京では考えられません。展示室も天井が高い。
 さて、北條正庸という人については、この展覧会ではじめて出会う人なので、よく知らない人です。その紹介を兼ねて主催者のあいさつを引用します。
 “本展は故郷の宇都宮でたゆまぬ制作活動をつづけてきた画家北條正庸(1948〜)の大規模な個展です。作新学院高等部時代、地元の画家齋藤富蔵との出会いをきっかけに絵画の道を志します。進学した武蔵野美術大学では麻田鷹司や毛利武彦に日本画を学び、在学中から早くも新制作日本画展で入選を果たし頭角をあらわします。その後は1974年に結成された日本画団体「創画会」を中心に作品を発表していきます。1988年の第15回展で創画賞を初受賞し、1995年には同会会員に推挙されます。また長年にわたり多摩美術大学などで教鞭をとり、後進の指導にも尽力しました。
 北條は「日本画」という伝統的な技法を軸に据えつつも、画風は時代を追うごとに自在に変化をみせています。あざやかな青を基調に静寂とした幻想風景、異国を想わせる街角で遊ぶ少女、異なる時空が描かれた無数の矩形など、さまざまな表現を展開しました。また、それらの画題には“風”という言葉がたびたび用いられており、どの時代においても鳥や空といった風を連想させるモチーフも多く登場します。
<目には見えず、たえず流れ移りゆきながらも、たしかに感じられるもの>
 半世紀以上にわたる制作活動を通じてたえずこの画家の心を捉えていた“風”あるいはそのイメージとはいかなるものだったか?代表作と新作を含むおよそ100点の作品の展観によって迫ります。”
 この文章によれば、北條は日本画家のカテゴリーに入ることになるのでしょうが、いわゆる花鳥風月とか美人画とは全く趣を異にする。むしろ西洋絵画の幻想絵画とか抽象画のような作品です。作風はまったく異なりますが、有元利夫や吉岡正人の作品に触れたときのような静かで詩的な印象を受けました。
 なお、美術館のロビーの奥で、おそらく北條本人が座っていたと思います。気がついた時には、帰りのバスの時間が迫っていたので、あわてて美術館を後にしました。あの時、勇気を出して、声をかけてみればよかった、と後悔しています。
それでは、個別の作品の印象を述べていきたいと思います。

 

2026年3月17日 (火)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(8)~第7章 暇と退屈の倫理学─決断することは人間の証か?

 ハイデガーの退屈論の結論は決断だった。要するに、退屈している人に対して「グタグタしていないで、心を決めて。しゃきっとしなさい」と活を入れることに他ならない。まとめるとこういうことだ。それは次の二点に要約できる。
①人間は退屈し、人間だけが退屈する。それは自由であるのが人間だけだからだ。
②人間は決断によってこの自由の可能性を発揮することができる。
 ハイデガーは人間について環世界を認めない。人間が深い退屈の中で何一つ言うことを聞いてくれない全体へと引き渡される。これは、例えば何もない真っ白で、だだっ広い空間に、ぽつんと取り残される、そんなふうにイメージされる。それは、人間だけが世界そのものと関わることが出来るから。ハイデガーによれば、人間はある物をある物として受け取ることができ、物そのものと関わることができる。したがって、世界そのものと関係をもつことができる。それゆえ、何一つ言うことを聞いてくれない全体へと引き渡されることもありうる。何とでも自由に関わりをもつことができるのだから、何ものとも関わりをもたない状態もありうるというわけ。それに対して、動物は「とらわれて」いて、特定のシグナルから自由になれない。したがって、そのような全体に引き渡されることもないので、退屈しない。
 それに対する著者の違和感は、前章で展開された。
 ここでは決断についてである。ハイデガーによれば、決断するためには、何一つ言うことを聞いてくれない全体に引き渡されることが必要ということになる。ところが、日常生活では物と人とのふとした交流が存在する。決断を目指す者は、そうした機会が実際に目の前にあるというのに、故意に交流の機会を断たねばならない。なぜなら決断は、物や人との関わりが不可能になったところで現れるからだ。決断を欲する者は、わざとそうした関わりを不可能にする。
 周囲に対するあらゆる配慮や注意を自らに免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは決断という狂気の奴隷になることに他ならない。実は、これは楽なことでもあるのだ。そこには「なんとなく退屈だ」の声も聞こえない、決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。人は従いたがるのだ。それは心地よい奴隷状態に他ならない。それは、退屈から逃れようとして決断した人の、その後のことをハイデガーは考えていない、と著者は指摘する。
 彼はある内容を選び取り、決断した。決断したのだから、その決断した内容をただ遂行していかねばならない。決断を下した者は、決断の内容に何としても従わねばならない。そうでなければ決断ではない。簡単に破棄できるなら決断とは言えない。したがって、決断した者は決断された内容の奴隷となる。決断した者にとっては、それまでは周囲の何一つとっても自分の言うことを聞いてはくれないと感じていたし、何をしてよいのか分からなかった。しかし、決断をしたからにも、思い悩む必要はない。決断した内容を、ひたすらこなしていけばいいのだから。それによって、彼は「なんとなく退屈だ」の声から逃げることができた。さてここで、第一形式を思い出す。第一形式において人間は日常の仕事の奴隷になっていた。それは、その方が快適だったから。「なんとなく退屈だ」という声を聞かなくてすむからだ。そうすると、第三形式の退屈を経て決断した人間と、第一形式の退屈にある人間とは同じということになる。つまり、決断には第一形式とおなじように自己喪失ということになる。
 そうなると、第二形式の特殊性が際立ってくる。付和雷同と、ハイデガーは否定的に第二形式の退屈を描いていた。しかし、この第二形式こそは、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものと言える。人間は普段この形式を生きている。それが何かの原因で「なんとなく退屈だ」と感じられると、第一形式=第三形式に投げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事やミッションに打ち込む。そのことで安寧を得る。ハイデガーはこのようなあり方を狂気と呼んだ。自分の奥底から響いてくる「なんとなく退屈」という声から逃れるために奴隷となる。そうなると、人間の生とは退屈の第二形式を生きること、言える。
 ハイデガーは、このような生き方を否定的に描く。
 ここで視点を変えて、アレクサンドル・コジェーヴの「歴史の終わり」の議論を取り上げる。歴史の終わりとは、人間の歴史が、何らかの目的に向かって突き進むプロセスだと前提した上で、その目的が達成してしまった状態のことを言う。コジェーヴは、歴史が終わることは人間が終わることを意味すると述べる。人間は歴史の目的を背負ってきた。与えられたものに満足せず、それを否定し、ひたすら進歩を目指して前進してきた。コジェーヴは、これを本来の人間と呼ぶ。歴史が終わり、目的が達成されたら、人間は、そのようなあり方を続けることができなくなる。それで本来の人間は消滅する。コジェーヴはアメリカに、その終わりが実現したと見ていた。アメリカの大量生産・大量消費社会のことを思い描き、そこには我慢がなく、望むものがすべて与えられる。しかも必要以上に与えられる。彼らには幸福を探求する必要がなく、ただ満足を持続している。そこには「本来の人間」はいない。これが人間の終わりだ。人間が終わったのなら、それは動物だ。動物は、幸福を追求したりせず、ただひたすら満足に浸る。この議論の前提となる「本来の人間」に疑問を呈する。人間はたいてい第二形式の退屈を生きている。時おり、何らかの原因でそれに耐えきれなくなり、第三形式=第一形式へと逃げ込む。そこに逃げ込んだ人間を勝手に理想化しただけである。
 人間は退屈の第二形式の構造を生き、その中でなんとかやりくりしながら生きている。動物は人間と比べて強い本能をもっている。それゆえ、人間に比べて遥かに安定した環世界を、出生と同時に獲得する。それに対して人間は、出生後に非情に不安定な生を送る。不安定とは、環世界が日に日に変化していくことを意味する。人間の発達はめまぐるしい環世界の変化、新しい環世界への移行を伴っている。人間の出生は原則として早産であり、不十分な発達段階のままで生まれる。すると人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えられる。言い換えると、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程だ。はじて保育園や学校といった集団生活に投げ込まれた子供は拒否反応を示す。それは、それまでに彼が築き上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからだ。人間の環世界のなかで大きなウェイトを占めているのが「習慣」と呼ばれるルールである。人間の環世界は習慣に強い影響を受けるものであり、それぞれの環世界は途方もない努力になって獲得されねばならない。習慣は困難な過程を経て創造され、獲得されるものだ。しかも、ひとたび習慣を獲得したとしても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。人は、たびたび習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することを意味する。 
 「この先生は何をすると怒るか?」「誰と仲良くなればいいか?」新しい環境は人に考えることを強いる。そうやって考えるなかで、人は習慣を創造していく、習慣が獲得されれば、考えて対応するという複雑な過程から解放される。習慣を創造するとは、環境を単純化されたシグナルの体系に変換する。人間はものを考えないで済む生活を目指して生きている。
 人間は考えないで済む方向に向かって生きているということは、人間の精神にとっての快とは安定した状態、つまり一定の状態にとどまることなのだ。習慣は人間を一定の安定した状態に保つ。何かを反復することで習慣が生じるということは、何かが快いから繰り返すのではなくて、反復するから習慣が生じ、それによって快が得られるのである。しかし、この快の状態は、退屈という不快を生み出してしまう。人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きてゆけない。だが、習慣をつくりだすとそのなかで退屈してしまう。これは、退屈の第二形式を生きていることと符合する。
 人間とは、概ね第二形式の退屈を生きること、そして時たま、第三形式=第一形式に逃げてまた戻ってくることである。したがって、人間であることは辛い。人間であるとは退屈に向き合って生きることを意味するから。とはいえ、人間は退屈と向き合っていくたの手段をさまざまに開発してきた。だが、人間に残された可能性はそれだけではない。人間にはさらにもう一つの可能性がある。それは、つらい人間的生かせ外れてしまう可能性である。それは考えるということだ。

2026年3月16日 (月)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(7)~第6章 暇と退屈の人間学─トカゲの世界をのぞくことは可能か?

 退屈こそは人間の可能性の現われである。ハイデガーはそう考えた。その可能性とは自由のこと。人間は退屈する。いや、退屈できる。だからこそ自由である。著者は、これに疑問を呈する。退屈できるのは人間だけか、動物だって退屈するのではないか。
 著者は、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」という概念を提示する。私たちは頭の中ですべての生物が投げ込まれている「世界」なるものをイメージする。しかし、いかなる生物もそんな「世界」を生きてはいない。どんな生物もその生物なりの世界を生きている。そうすると、そのような「世界」ではなくて、それぞれの生物が生きている世界を考える必要が出てくる。人間の頭の中で抽象的に作り上げられた、客観的な「世界」なるものではなく、それぞれの生物が、一個の主体として経験している具体的な世界のことだ。これが「環世界」に他ならない。
 環世界の考え方は、単に各生物にそれぞれの世界があるというだけではない。すべての生物はそれぞれ異なった時間を生きている、ということにも及ぶ。時間はあらゆる出来事をその枠内に入れてしまう。だから時間は客観的に固定したものであるかのように見える。しかしそうではない。むしろそのなかを生きる主体こそがその環世界の時間を支配しているのである。
 空間でも同じことが言える。生きた主体から独立して存在する客観的空間は仮説でしかなく、いかなる生物もそのような空間を生きてはいない。たとえば、視覚を持たない生物は視覚を持つ生物とは全く異なった仕方で空間を把握している。そのような生物は、視覚を持ち合わせていないからといって困っているわけではない。聴覚や触覚や嗅覚といった他の感覚を使って空間をはあくしている動物は、人間のように空間把握をもっぱら視覚のみに頼る動物とは異なる空間を生きている。
 ハイデガーのいう「なんとなく退屈だ」という深い退屈において人間は、何一つ自分の言うことを聞いてくれない、すべてがどうでもいい、そう感じるのだった。そして、その退屈は人間の可能性そのものである自由の実現へとつながっていく。しかし、もし人間が環世界を生きているのであれば、そのようなことは説明がつかなくなってしまう。ハイデガーによれば、環世界を生きるとは「とりさらわれ」て生きることであり、それはすなわち「とらわれ」ているという一種の麻痺状態にいることだからだ。だから、ハイデガーは環世界を否定する。人間に環世界を認めるわけにはいかない、と。
 著者はここで、人間も動物と同じように環世界にいることは認める。しかし、まったく動物と同じなのだろうか。環世界は生物ごとに大きく異なる。その間に見出される違いは極めて大きい。その違いとは、具体的には一つの環世界から別の環世界へと移行することの困難によって示すことが出来る。ただし、移動が不可能というわけではない。そしして、人間は、その移動が、他の動物とは比較にならないほど容易にできるという。それだけでなく、人間は複数の環世界を往復したり、巡回したりしながら生きている。これが、環世界において人間と動物との大きな差異である。これを著者は環世界間移動能力と呼んでいる。
 これによってハイデガーの議論を読み直すことが出来る。ハイデガーによれば、人間は「世界形成的」であり、世界そのものを受け取ることができるゆえに退屈する。そしてこの退屈は人間が自由であることの証拠である。そのためハイデガーは、人間に断乎として環世界を認めなかった。そこで著者は、人間も動物同様に環世界を生きているという。ただし、人間は環世界を相当な自由をもって移動できる。ハイデガーはこの能力を絶対視し、人間は環世界を超越できるとしてしまった。そこで、退屈を考えると、人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは人間が相当に不安定な環世界しか持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。ここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。
 しかし、環世界間移動能力は人間だけがもつというわけではない。たしかに、人間は高い環世界間移動能力を持つ。しかし、動物に環世界間移動ができないというわけではない。考えようによっては、動物は人間より高い、ひとつの環世界にひたる能力をもつと言える。それが、著者のハイデガー批判である。

2026年3月15日 (日)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(6)~第5章 暇と退屈の哲学─そもそも退屈とは何か?

 ハイデガーの『形而上学の根本概念』を退屈論として読む。
 ハイデガーはシュペングラーの『西洋の没落』が流行していた当時、次のように考えをすすめた。私たちはいま自分たちの役割を探している。というよりも、私たちはいま自分たちに何か役割を与えざるを得ない。→私たちは、自分で自分にわざわざ役割を与えなければならないほど軽い存在になってしまったのだろうか?もし私たちが自分たちにとって重要な存在であるのなら、わざわざ自分たちの役割を探し当てねばならないなどということにはならないだろうから。→なぜ私たちは自分たちの意味や可能性を見出せないのか?これはまるで、あらゆる物がわたしたちに対して無関心になっているようではないか。→私たちは自分のためにひとつの物語を探している「これこそが私のなすべきこと」と言える何かを探している。→何か変だ。なぜ、そんなことをしなければならないのが?→私たち自身がいま、自分たちにとって退屈になってしまっているのではないか。だから、自分を自分にとって興味あるものにしようとしているのではないか?
 結局、ある種の深い退屈が存在の深淵で物言わぬ霧のように去来し、私たちの周囲を覆い尽くしている。
 ハイデガーは誰もが知っていると同時に、誰もよく知らない現象だとし、二つの分けて考えることを提案する。第一に何かによって退屈させられること(退屈の第一形式)、これは受動的で、退屈なものがあって、それが人を退屈に引きずり込む。第二に、何かに際して退屈すること(退屈の第二形式)で、自分で退屈してしまう、退屈が周囲を覆い尽くしてしまうような感じ、その中で人が退屈してしまう。
 退屈の第一形式について、退屈しているとき、私たちは退屈を抑え込もうとする。退屈を抑え込むにあたって求められるのは気晴らしである。私たちは気晴らしによって退屈を抑え込もうとする。この退屈を通じて行われる退屈相手の闘いは、時間をやり過ごすこと、時間がより速く過ぎ去るように仕向けること。それは、退屈すると、時間がのろく感じられるからである。退屈においては時間がのろい。時間がくずついている。退屈する私たちは、このぐずつく時間によって困らされているのだ。このぐずついた時間が私たちを困らせるのは、それが単にぐずついているだけでなく、私たちを引き留めているからである。私たちは退屈しながらぐずつく時間によって引き止められている。この「引き止め」が退屈を構成するひとつめの要素である。
 さらに問う。なぜ私たちはぐずつく時間によって引き止められると困るのだろうか?気晴らしをするのは時間をやり過ごすためであった。その気晴らしとは具体的に何をすることなのだろうか。気晴らしをしているとき、私たちは何かやるべきことを探している。やるべきことと言っても、その際、その内容はどうでもいい。ここで関心の的になっているのは、やるべき何かをもつことであって、どんなことをやるべきということではない。退屈している私たちは、やるべきことがないと、何もない状態、空しい状態に放っておかれることになる。そして、人は何もすることがない状態に耐えられない。だから、やるべきことを探すのである。時間によって引き止められると、何もないところ、空しい状態に放って置かれることになってしまう。このような「空虚放置」が退屈を構成する二つ目の要素である。
 しかし、現実に何もない状態はあり得ない。何かある。だから、「空虚放置」とは単に物がないということではなく、物が私たちに何も提供してくれないことを意味している。実際に何も提供しないというのではなく、私たちが期待しているものを提供してくれないということだ。まとめると、物が言うことを聞いてくれない。そのために、私たちは「空虚放置」され、そこにくずつく時間による「引き止め」が発生する。これが退屈の第一形式だ。
 次に退屈の第二形式。ここで注意しなければならないのは、第一形式、第二形式というのは、単にいろいろな種類の退屈を分類するというものではないということだ。二つは並んでいない。第二形式は、より深まった退屈である。第二形式の退屈は、特定の何かによって退屈させられるのではなく、何となく、なぜか、いつのまに、それと知らずに退屈している、というものだ。これは、第一形式の退屈の時のような気晴らしが見当たらない。それは気晴らしが、全く異なるからだ。ある特定の行為が気晴らしになるというのではなく、そこでの立ち振る舞いの全体、気晴らしを探していた場所そのものが気晴らしであった。それゆえ、気晴らしが何であるかはっきりと見出せない。第二形式は「何から際して退屈すること」と定義されていた。その「何か」に際して退屈しているのだが、実は同時にそれが気晴らしでもあるのだ。だから、退屈の第二形式においては、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っているのである。第一形式の退屈は、退屈させる対象が明確にあり、それに対する対抗措置として、主体が明確な気晴らしを行う。これに対して、第二形式の場合には、主体の置かれている状況、主体の際している状況そのものが暇つぶしである。その状況は暇つぶしとして作られているのだから、暇つぶしとしての工夫に充ちたその状況のなかには、特定の退屈なものなどありはしない。何か分からないものの中にいるから、私たちは何かやるべきことを求めたりしない。それは投げやりな態度である。そこで何も求めないようになる。ひうして、そこにいる私自身のなかに空虚が生育してくる。それは「空虚放置」である。これは、第一形式の「空虚放置」とは違うタイプのものだ。第二形式の場合は、単純に空虚が満たされぬままになっているというわけではなくて、空虚がここで自らをつくりあげ、現われ出てくる。外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になるのだ。そして、自分自身が空虚のうちへと滑り込んでいくしかしそれは何かによってもたらされたものではなく、自分のなかで空虚が生育するという仕方で起こる。そして、このような空虚の生育が起こるのは、自分が時間を停止させたからである。投げやりな態度になり。もうこれ以上は何も求めないという状態に陥っているからである。私はその停止した時間から空虚のうちへと滑り込むがままに放任されている。とはいえ、放免されているわけではなく、停止した時間へと引き止められている。これが第二形式の「引き止め」である。
 第一形式は暇でありかつ退屈しているにあたり、第二形式は暇ではないが退屈しているにあたる。そこでは気晴らしと退屈が絡み合っている。そこで人が感じているのは、気晴らしと区別できない退屈である。退屈を払い除けるはずのものが退屈になっている。そして、これこそが、私たちが普段もっともよく経験する退屈ではないかと思えてくる。私たちの生活は何のためやらよく分からない気晴らしに満ちている。誰もがその気晴らしを退屈だと感じるわけではない。しかし、時折その気晴らしは退屈と絡み合う。ハイデガーは第二形式には安定があると言っている。退屈と気晴らしが絡み合ったこの形式を生きることは正気の一種である。ならば、人間が正気で生活していくとは、気晴らしと退屈とが絡み合った、この第二形式を生きること。だからこそ、ハイデガーは第二形式の退屈を発見することによって、人間的生の本質を言い当てたと言える。
 さらに、ハイデガーは退屈の第三形式に言及する。それは、「なんとなく退屈だ」というものだ。第一、第二形式は何らかの具体的な状況と関連している。それに対して、第三形式は状況に関わらず、突発的に現われる。だれかとか、どこでとか、どんなときにといったことにかかわらない。そして、この退屈には気晴らしということがありえない。もはや気晴らしは無力である。ハイデガーは、この形式では気晴らしが許されない。それを私たちは分かっている、という。「なんとなく退屈だ」と感じる私たちは、あらゆる可能性を拒絶されている。すべてがどうでもよくなっているのだから。だが、むしろあらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている、とハイデガーは言う。
 退屈の第三形式のなかで、人間は自分の可能性を示される、とハイデガーは言う。その可能性とは、「自由」のことだ。退屈という気分が私たちに告げ知らせていたのは、私たちが自由であるという事実そのものである。言い換えると、私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。退屈するということは自由であるということだ。この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。ではそれをどう実現するのかというと、決断するしかない。つまり、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。ただ、著者は、ハイデガーのこの結論は受け入れ難いという。

2026年3月13日 (金)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(5)~第4章 暇と退屈の疎外論─贅沢とは何か?

 現代は消費社会と言える。消費社会は退屈と強く結びついている。そこで避けられないのが疎外という概念である。
 必要な限度を超えた支出は贅沢といわれる。例えば豪華な食事は、そうでない質素な食事でも生きていくことはできる。贅沢は無駄だといって非難される。たしかに、必要なものが必要なだけあれば、夢人は生きてゆける。しかしそれでは、何かのアクシデントで必要なものが足りなくなれば、困ったことになる。これでは豊かさとはいえない。必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。したがって、必要の限界を超えて支出が行われるときに、人は贅沢を感じる。ということは、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない。
 これに対して、論理的にはそうなるのかもしれないが、気持ち的には釈然としない。そこで、ボードリヤールの浪費と消費の区別を提示する。浪費とは必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。必要のないもの、使い切れないものが浪費の前提である。これは贅沢の条件であり、贅沢は豊かな生活に欠かせない。浪費は満足をもたらす。その理由は物を受け取ること、吸収することには限界があるからだ。浪費はどこかで限界に達する。これは、人類がずっと行ってきた。これに対して、消費は、つい最近の全く新しいこと。消費は対象が物ではない。人は物に付与された観念や意味を消費する。消費されるために物は記号にならなければならない。そして、記号や観念の受け取りには限界がない。浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきた物を受け取っているのではない。
 ここでマーシャル・サーリンズの「原初のあふれる社会」仮説を紹介する。石器時代の狩猟採集民は物を持たなかった。だからといって、彼らが困窮していたというわけではない。狩猟採集生活では少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家であった。だが、それは浪費する事が許される経済的条件のなかに生きているからだ。その社会は、物があふれる豊かな社会であった。彼らの生活の豊かさか浪費と結びついていた。
 これに対して、消費社会は物があふれる社会だと言われる。そうではなく、消費社会の特徴は物の過剰ではなくて稀少性である。消費社会では物がありすぎるのではなく、物がなさすぎるのである。その理由は、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されているからである。生産者が売りたいと思う物しか市場に出回らない。だから物が足りないと言える。消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が消費し続けるように仕向ける。消費社会は浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうから。消費社会は、人々が浪費家でなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることを求めるのである。その結果、消費は贅沢をもたらさない。消費する際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。しかも単に遠ざけているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費に限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられるようになる。そこで退屈が出てくる。消費社会は満たされなさという退屈を戦略的に作り出汁、人々をそのなかに投げ込むことで生き延びている。
 このような状況を疎外と呼ぶ。一般に疎外とは、人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す。消費社会における疎外とは、誰かによってではなく、自分で自分のことを疎外している。それは、終わりなき消費ゲームを続けているのが消費者自身だからである。ただし、著者は疎外という概念に対しては慎重である。それは、疎外に対して、疎外されていない状態を本来の状態として対置され、その本来的ということは強制的でかつ、本来的から外れたものを排除してしまうからである。
 そこで、疎外ということについて、あらためて考える。消費社会が戦略的に作り出す満たされなさのなかで退屈を感じている人間は、何か違う、こんな状態にあるべきではないと感じるのに、疎外という概念にそれはあたる。問題は、その疎外に対する処方箋として、後から本来性という概念が提示されてしまうことなのだ。そこで、疎外と本来性を切り離すことを試みる。
 近代的な疎外概念の起源はルソーにあるとされている。ルソーというと自然状態だが、それは一般に言われるような善良で平和な状態ではない。善良というより邪悪なことが出来ないし、する必要がない。自然人は邪悪が成立しえない客観的条件を生きている。それは価値判断ではなくのための議論ではなく、人間の生の客観的条件を描いたものなのだ。重要なことは、ルソーが自然状態について、「もはや存在せず、おそらくすこしも存在することのない、多分将来も存在しえないような状態」として述べていることである。ルソーは自然状態を、かつて自分が人間がいた状態や戻っていける状態として描いているのでもないし、これからたどり着ける状態として描いているのでもない。ルソーの自然状態は、社会状態を相対的に位置付けるための概念である。あるいは自己愛と利己愛を区別するための概念である。だから、自然状態は理想でもなければ、本来的でもない。ルソーの自然状態というのは、人間の本的な姿を想定することなく人間の疎外状態を描いたものである。本来性なき疎外といえる。
 疎外を前景化したのがヘーゲルでありマルクスである。ヘーゲルによれば、人間はいったん自分に固有の物を投げ捨ててこそ、高い理想を実現できる。自分に固有のものを放棄するプロセスのことを疎外と呼んだ。つまり、人間はいったん自分らしさを疎外されるのだが、その疎外を乗り越えてこそ、高い理想を実現できるというわけだ。ヘーゲルは疎外を肯定的に捉えたが、マルクスは反対に否定的に捉える。資本主義下の工場労働者は特定の作業を強制され、いわば工場設備の一部、部品にされ、不具、奇形にされてしまう。特定の労働の反復を強制されるため、自分の素質を生かすことが出来ない。彼らの製作した商品は資本家のものとなり、資本家はそれによって利潤を独占する。しかし、マルクスの疎外論はパッペンハイムにはヘーゲル的に受け取られてしまう。疎外の苦しみかとそれを克服する努力によって人間は自己自身へ戻る。このことが労働過程に真の意味を与える、と。ここにあるのは本来性への回帰の欲望である。このような誤解を受けてしまったが、マルクス自身は、本来の労働を描こうとはしていないし、労働が廃棄された本来のあり方を求めてもいない。マルクスは本来性を想定することなく疎外について考えている。つまり、ルソーの場合と同様に、マルクスもまた本来性なき疎外について考えている。
 一般的な疎外論が本来性への強い志向をもつのに対して、ルソーやマルクスは本来性を想定することなく、しかし、疎外からの脱却を目指していたのだ。このことは、本来的なものを想定しない疎外論の方がむしろ正統派であるということだ。本来性への志向とは、もともとはこうであったのに、そこから疎外されているから、本来の姿に戻らねばならないという過去への回帰願望のことである。本来的なものとは、もともとそうであった姿として想定されるもののことであり、したがって、本来性という概念は過去形の物でしかありえない。だから本来性にもとづいた疎外論は保守的なものとならざるを得ない。本来性に基づいた疎外論は、現在の姿を否定し、過去の姿へ帰還することを強制するものとなりやすい。ルソーやマルクスは、このような本来性の誘惑に囚われることなく、新しい何かを創造しようとした。戻っていくべき本来の姿などないことを認めたうえで疎外という言葉で名指すべき現象から、目を背けなかった。ボードリヤールは消費と浪費を区別することで、消費社会がもたらした現在の疎外について考えた。その疎外は、暇なき退屈をもたらしている。暇なき退屈は、消費と退屈との悪循環(消費は退屈を紛らわすために行われるが、同時に退屈を作り出してしまう)のなかにある。

2026年3月12日 (木)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(4)~第3章 暇と退屈の経済史─なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

 本性では、その後の歴史の中で、人類がどう暇と退屈に向き合ってきたかを見ていく。
ここで、著者は、あらたて暇と退屈の定義を試みる。両者はしばしば混同して使われている。しかし、両者は違うものだ。暇とは、何もすることがない、する必要のない時間を指している。暇は、暇の中にいる人のあり方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり、暇は客観的な条件に関わっている。それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。そこから両者の関係が問題として見えてくる。両者は必然的に結びつくのだろうか。つまり、退屈しているとき、その人は必ず暇のなかにいるのだろうか。
 ヴェブレンの『有閑階級の理論』を繙くと、かつて、有閑階級つまり暇人は周囲から尊敬される高い地位にある階級だったと書かれている。暇があるということは、余裕があるということであり、余裕があるということは裕福である。すなわち、あくせく働いたりしなくても生きてゆける、そのような経済的条件を手に入れているということだ。反対に、暇のない人とは、自由にできる時間のない人、自分の時間の大半を労働に費やさねば生きていけない人のことだ。いわゆる“貧乏暇なし”ということだ。
 ヴェブレンは、有閑階級は所有という考えが発生すると同時に生まれた階級だという。所有権が制度化されれば、私有財産が存在し始める。私有財産が存在し始めれば、財産の差、つまり貧富の差が生まれ、やがては階級の差も出てくる。有閑階級とは、私有財産にもとづく格差を内在化する社会に特有の階級だということになる。このような富を持つものは、自分たちで生産活動をする必要がない。やるべき仕事がないことこそが彼の力の象徴である。暇であることこそが、尊敬されるべき高い地位の象徴、つまりステータスシンボルである。
 それが19世紀末から20世紀初頭にかけて資本主義の台頭につれて有閑階級の凋落がおこる。富の再配分が見直され、階級差は少しずつ埋まっていった。そこで暇というステータスシンボルのかわりにうまれたのが消費である。どんな家に住み、どんな服を着ているかは、外からでも一目見れば分かる。
 歴史の中で労働に対する負のイメージは少しずつ消えていった。有用な労働は肯定的に捉えられ、むしろ暇を見せびらかすという無駄は非難されるようになった。これはブルジョワ社会の段階を示している。ブルジョワジーというのは裕福である。しかし、彼らは成り上がり、成金である。彼らは金も力もあるが、教養がない。なぜなら平民上がりだからだ。これ対して古い有閑階級、たとえば貴族はこれを知っていた。暇を生きる術を知っていた。彼らは品位あふれる仕方で暇な時間を生きることが出来た。しかし、新しい有閑階級は暇を生きる術を知らない。彼らは暇だったことがないから。彼らは金のためにあくせく働いてきた。だから彼ら新しい有閑階級は、品位あふれる閑暇を知らない。よって暇になるとどうしたらいいか分からない。暇に苦しみ、退屈する。
 さらに20世紀の大衆社会は、ブルジョワジーのみならず大衆もまた暇を手にすることになる。労働者に余暇の権利が与えられたからだ。このことは、暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生したということを意味する。
資本主義が高度に発達し、人々は暇を得た。またそれは「余暇」という形で権利の対象にもなった。これはある意味で近代人がもとめてきた個人の自由と平等の達成でもあった。だが彼らは自分たちがもとめていたものが実際には何であるかを分かっていなかった。人々は突然暇の中に投げ込まれた。そして暇を生きる術をもっていなかったために右往左往した。
 退屈について論じる論者の多くは近代に注目するが、それは近代社会が、それまで潜在的なものに留まっていた退屈の問題を再び活性化したからである。退屈は近代社会が生み出したものではない。だが逆に前章で見た通り、退屈を超歴史化するのも間違っているのであって、人間と退屈のつきあいは人間の生活様式に関係しているのである。

2026年3月11日 (水)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(3)~第2章 暇と退屈の系譜学─人間はいつから退屈しているのか?

 退屈はいつどのようにして発生したのだろうか、退屈の起源はどこにあるのか、これを系譜学の手法、つまり、手元にある現象を切り開いて、その起源を見つけていこうとする。ここで著者は、退屈を近代の産物と捉える立場は近視眼的であるとして退ける。
 そこで著者が注目するのは、「定住革命」。猿や類人猿はグループをつくるが移動しながら生活する。これを遊動生活という。人類も最初はそうだったが、約1万年前に中緯度帯で定住する生活を始めた。日本で言えば、ちょうど縄文時代の始まりに当たる。これは、人類の歴史の中では最近のことなのだ。むしろ、遊動生活の歴史の方が長い。それゆえ、人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、遊動生活にこそ適している。現在の人類が定住生活をしているが、それは遊動生活を維持することが困難になったために、やむを得ず定住化した、と著者は考える。
 食糧生産は定住生活の結果であって原因ではない。遊動生活を行っていれば、食糧に困ることはない。むしろ、定住生活を行うと食糧に困るのだ。人間はすぐに周囲の環境を汚染し、資源を使い尽くすからだ。定住生活者は、何らかの手段で食糧を確保しなければならない。重要なのは貯蔵である。その技術が発達すれば、食糧のない時期にも飢えをしのげる。しかし、ままならない。そこで、食糧生産が促されたのだ。
 では、なぜ定住したのか。それは氷河期から後氷河期にかけて起こった気候変動と、それに伴う動物資源の変化による。それは、狩猟による食糧確保を困難にし、植物性食料や魚類への依存が高まる。そこでは貯蔵が必須となり、それは移動に不向きだ。貯蔵の必要に迫られた人類は、定住を余儀なくされた。
 定住化の過程は人類にまったく新しい課題を突きつけた。人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式はどれも遊動生活にあわせて進化してきたものだからである。だとすると、定住化はそれら能力や行動様式のすべてを新たに編成し直した革命的な出来事であったと考えねばならない。その証拠に、定住がはじまって以来の1万年の間には、それまでの数百万年とは比べものにならないほどの大きな変化が数え切れぬほど起こっている。農耕や牧畜の出現。人口の急速な増大。国家や文明の発生、産業革命から情報革命。これだけのことが極めて短期間のうちに起こった。
 生活していればゴミが出るし、排泄物がでる。定住生活者は、定期的な清掃、ゴミ捨てやトイレの設置によって環境の汚染を防がねばならない。しかし、遊動生活者はそういうことに注意を払わない。彼らはキャンプの移動によって、このような環境汚染をなかったことにできるからである。人類にとって、ゴミ捨て場やトイレを作り、そこを管理するというのは容易なことではなかったと著者は推測する。その名残は今もある。このことから、定住革命というのは一度だけの出来事ではない。定住民がその人生のなかで反復しなければならない革命で、今も行われている。
 その他にも、さまざまな変化が生じた。その中で本書にとって最も重要なのは、定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったことである。遊動生活では移動の旅に新しい環境に適応しなければならない。そこでは絶えず緊張を強いられ、神経や感覚は活性化される。これに対して、定住者の生活環境には変化がなく、感覚を研ぎ澄ます必要はなくなっていく。そこで定住者は、行き場を亡くした感覚や神経を使用する別の場面を求めなければならなくなる。それが、高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系や芸能などの発展に向けられてきた。退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた。その結果が文明である。
 遊動生活は、新しい環境の中で、生活のために必要な情報や資源をすばやく入手しなければならない。しかもそうした場面が日常的に訪れる。移動後、新しいキャンプ地、限られた時間内に相当な課題をこなさなければならない。そうした労苦こそは、遊動生活の困難として考えられてきたが、同時に、そのような負荷こそが、人間のもつ潜在的能力にとって心地よいものであったはずだ。自分の肉体的・心理的な能力を存分に発揮することが強い充実感をもたらすであろうことは想像に難くない。そして、定住生活ではその発揮の場面が限られてくる。毎日、毎年、同じことが続き、目の前には同じ風景が広がる。そうすると、かつての遊動生活では十分に発揮されていた人間の能力は行き場を失う。もっと色々なことができるはずであるのに、することがない。自分の能力を十分に発揮することができない。まさに退屈である。

2026年3月10日 (火)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(2)~第1章 暇と退屈の原理論─ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

 パスカルは退屈と気晴らしについて、次のように考える。すなわち、“人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。”生きるために十分な食い扶持をもっている人から、それで満足していればいい。しかし、人間はそれができない。部屋でじっとしていられないとは、退屈するということだ。それが人間の不幸の源泉なのだという。人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。さらに、その気晴らし、のなかに本当の幸福があると思い込む。その例えとしてウサギ狩りに行く人々はウサギを求めてではなく退屈から逃れるためなのだという。
 それは「欲望の対象」と「欲望の原因」の区別として説明可能だ。「欲望の対象」とは、何をしたい、何が欲しいと思っているその気持ちが向かう先のことで、「欲望の原因」とは、何をしたい、何かが欲しいというその希望を人のなかに引き起こすもののことである。それを、ウサギ狩りにあてはめてみると、「欲望の対象」はウサギであるが、実際にその人はウサギが欲しいから狩りをするのではない。対象はウサギでなくてもかまわない。彼が欲しているのは不幸な退屈から気を紛らわせてくれる騒ぎなのだから。つまり、ウサギは「欲望の対象」ではあるけれど「欲望の原因」ではない。それにもかかわらず、ウサギ狩りをする人は、狩りをしながら、自分はウサギが欲しいから狩りをしているのだと思い込んでいる。つまり、「欲望の対象」を「欲望の原因」と取り違える。
 こう考えると、気晴らしは退屈を紛らわしてくれるのなら何でもいいということになる。ただ、条件はある。気晴らしは熱中できるものでなければならない。熱中できなければ、気晴らしの対象が手に入れば自分は幸福になれると思い込んでいるという事実、自分を騙しているという事実に気がついてしまうからだ。人は、自分が「欲望の対象」を「欲望の原因」と取り違えているという事実に思い至りたくない、そのために熱中できる騒ぎを求める。
 ではパスカルは、どのような解決策を提示しているのか、というと神への信仰である。
 著者は視点を変える。気晴らしになるたには、熱中できるものであることが必要である。その熱中できるためには負の要素、つまりは広い意味での苦しみが必要であるという。退屈する人は苦しみや負荷を求める。ニーチェは何をしてよいのか分からないという退屈の苦しみから逃れるためであれば、外から与えられる深谷苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ、言った。
 続いて、ラッセルを再び取り上げる。取り立てて不自由のない生活を現代人は送っているのだが、しかし、それにもかかかわらず幸福でない。満たされているのだが、満たされていない。近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。ここには独特の耐え難さがある。それはその原因が分からないということだ。
 ラッセルの言う退屈とは自連が起こることを望む気持ちがくじかれたものであるという。この場合の事件とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。人は毎日同じことが繰り返されることに耐えられない。そう考えてしまうことにも耐えられない。だから、今日を昨日から区別してくれるものを求める。もし、今日事件が起きれば、今日は昨日と違った日になる。だから、人は事件を求める。しかし、事件は起きない。そうして人は退屈する。そうであれば、退屈する心が求めているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である。それなら、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいい。そうすると事件の内容はどうでもよいことになる。したがって、最終的に、退屈の反対は快楽ではなく興奮である、と言える。結局のところ、退屈している人間が求めているのは楽しいことではなく、興奮できることなのだ。だから、興奮できるのであれば、苦しさだってかまわない。
 これはいいかえれば、快楽や楽しさを求めることがいかに困難かということでもある。楽しいことを積極的に求めるということは実は難しいことなのだ。しかも、人は退屈ゆえに興奮を求めてしまうのだから、こうも言える。幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を求めることが出来る人である、と。
 そんなラッセルの主張に著者は疑問を提出する。それは彼の示す結論だ。幸福とは熱意を持った生活を送ること。つまり、何か熱中できるものを持つということだ。それでは、退屈している人に、そう言っても、彼らは熱中できるものがないから退屈しているのではないか。それは、例えば、豊かになった社会で、頑張っていた頃が一番幸せだったなどと口にするなら、不幸の中にその人を投げ込んでやればいい、その方が一生懸命に働かなければならないから、幸せになれる、という乱暴な議論に行き着いてしまう。それは、不幸への憧れを生み出してしまう。これは避けなければならない。

2026年3月 9日 (月)

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(1)~序章 「好きなこと」とは何か?

11113_20260309215101  人類の歴史のなかにはさまざまな対立があり、それが数え切れぬほどの悲劇を産み出してきた。だが、人類が豊かさを目指して努力してきたことは事実として認めてよいものと思われる。人々は社会の中にある不正や不便と闘ってきたが、それは社会をよりよいものにしようと、少なくとも建前としてはそう思ってきたからだ。
 しかし、ここに不可解な逆説が現われる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる。人類は豊かさを目指してきた。それなのになぜその豊かさを喜べないのか?この本は、この問いを巡って展開される。
 ここで豊かさについて考えると、国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちに余裕が生まれる。その余裕には少なくとも二つの意味がある。それは、金銭的な余裕と時間的な余裕である。
 では、その富んだ人たちは、その余裕を何に使っているのか?それまで余裕がなかったからできなかったこと、願いつつもかなわなかった好きなことしている、と考えられる。
 では、その「好きなこと」とは何か?
 そこで考察が止まってしまう。好きなことを断定できるだろうか。
 ガルブレイスは『ゆたかな社会』の中で、ゆたかな社会(高度消費社会)では供給が需要に先行しているという。つまり、供給する企業が消費者の欲望を操作している。「好きなこと」は広告やその他の手段によって、企業の都合の良いように作り出されている。著者はそこで、そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか?
 20世紀の資本主義は文化産業が巨大化した。アドルノやホルクハイマーは人間に期待されていた主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出すようになっている。それが「楽しい」ということだったりすると、「好きなこと」は、もはや願いつつかなわなかったことではない。文化産業に与えてもらっている。
 人々は豊かになって時間の余裕を得た。つまり、暇を得た。しかし、人々は暇をどう使ってよいのか分からない。なにが楽しいのか分からない。そこに資本主義がつけこむ。なぜ人々はつけこまれてしまうのか。それは人々が退屈することを嫌うからである。暇な中で退屈したくない。そこで与えられた楽しみに身を委ねてしまう。そこに、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現われる。これが本書の問いである。

 

2026年3月 7日 (土)

庄司矢紗香、ジャンルカ・カシオーリ─デュオ・リサイタル

2026年3月6日(金)サントリー・ホール
11112_20260307232701  プログラムは次の通り
 モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第24番ヘ長調K376
 ブラームス、ディートリヒ、シューマン:FAEソナタ イ短調
 ダラピッコラ:タルティニアーニ第2番
 ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調Op78「雨の歌」
 アンコール ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番から第3楽章
        シューマン:「夕べの歌」
 何十年ぶりとなるサントリー・ホール。地下鉄の神谷町駅で降りて、駅の案内板にサントリー・ホールへの降り口の案内が消えてしまっていた。アーク・ヒルズへの案内もない。この何十年かの間、この駅の周りに、他にあたらしいものが建てられて、サントリー・ホールは霞んでしまったということか。以前は、駅を出てもサントリー・ホールへの案内の道標があったのだけれど・・・。しかたなく、グーグルマップに頼ることにした。周辺の風景も変わってしまって、お上りさん状態。夕方6時を過ぎて暗くなってきたのもあって、アーク・ヒルズに近づいても分からない。カラヤン広場が見えて、ようやくたどり着いたのが分かった。
 開場は予定より早かったようで、ホールの前の人ごみはなく、並ぶこともなく、ホールに入場。今回の座席は2階席正面の前から3番目の列。ステージにはそれほど近くはない。ソロ・プレイヤーの表情や手の動きは、それほどよく見えない。開演時間になって、席がそれほど埋まっていないに気がつく。いままで、オーケストラのコンサートばかり聴いてきたが、オーケストラ以外の演奏会は、こんなものなのだろうか。今回の演奏者は、けっこう有名な人だと思うのだけれど・・・。
 第1曲目のモーツァルト。最初のヴァイオリンの音を聴いて、あれっ?ヴィオラかな、と思った。それほど中音部が充実して鳴っている。それで、とても落ち着いた印象。モーツァルトのソナタは軽快にヴァイオリンが跳び回るようなところがあって、ときにはヴァイオリンがキンキンして聞こえるようなことがあるのだけれど、庄司の演奏は、そういう派手に響くところがなく、終始も落ち着いた感じでした。そして、無理に鳴らしていない。弓を弦に押し付けるのではなく、軽く滑らかにすべるように鳴らしている。そして、ヴィブラートをあまりかけていない。それは、古楽器のノンヴィブラートかというと、そうでもない。細かなヴィブラートはかけているので、音の伸びやかさが古楽器奏法とは違う。古楽器の場合の鋭さ、ときにキンキンしているのとは違う。もっと穏やかで伸び伸びとした音。さらに、庄司は細かな装飾音を細かく刻むようにリズミカルに弾くのではなく、軽く流してしまう。刻まない。ほかの奏者なら、細かい刻みで技量を披露するところであろうに。そこにメリハリがなくなって、ただ流してしまう。その代わり、共演者のカシオーリのピアノの弱音を繊細に弾き分けているのが、よく聞こえてくる。ヴァイオリンは軽く、穏やかに響いている。旋律と細かな装飾音とのメリハリが薄いので、滑らかに、伸びてゆくように響く。そこに音楽の形の主張が薄まるが、繊細に弾かれるピアノを包み込むように伸びてゆく。その結果、聴いている私には、安らかで心地よい音空間が広がる。モーツァルトの、この曲は何度も聴いてよく知っている曲なのに、今、どこを弾いているなどというのは、どうでもよくなって、気持ちいいまま、気がついたら、曲が終わっていた。拍手が起こって、今、曲が終わったことに気がついた。そんな印象。
 第2曲目のFAEソナタは、ブラームスが弟子のディートリヒと師匠のシューマンと共作したという作品。第1楽章はディートリヒ、第2、4楽章はシューマン、第3楽章はブラームスが作曲したという曲。ロマンチックの極みみたいな曲であることは想像がつきます。ふつうなら、たっぷりとヴィブラートを掛けたヴァイオリンで朗々とうたう演奏が想像できます。しかし、庄司は、ヴィブラートは軽くて、爽やかに流すような演奏。
 後半の第3曲目は、はじめて聴く曲で、ダラピッコラというと難解なゲンダイ音楽で有名な作曲家ですから、二十音技法ばりばりの難解な曲かと思っていたら、バッハのシャコンヌみたいな無伴奏のヴァイオリンから始まって、ちょっとびっくり。このあとも重音を効果的に使った悲しげな旋律を対位法っぽく聞かせる。それと、ヴァイオリンの音が軽い。とても聴きやすいし、対位法っぽい絡みを追いかける楽しい聴きごたえがあります。たっぷりとしたボリュームがありながら、聴き疲れはしない。とても楽しかったです。
 最後の第4曲目はブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番。これがプログラムのメインでしょう。この曲の冒頭で、ヴァイオリンがト音を3つ鳴らすという一見無造作な3音から始まります。しかし、それを音楽的に弾くのは難しいと思います。ヴァイオリニストの音楽センスが問われるところでもあります。たいていのヴァイオリニストは旋律的に歌わせたりするのですが、ここで庄司は無造作といっていいほど、サラッと流すように弾きました。あまり、ヴィブラートもかけていなかった。いわば、ヴァイオリニストの腕の見せ所をサラッと流してしまった。その一方でカシオーリのピアノのが音色とタッチを弾き分けて、それがよく聞こえてします。庄司のヴァイオリンは歌うとかヴィブラートを聞かせるとかいう部分を細かく聞かせるというのではなく、全体の音楽の流れをつくりだすことに心を傾けているように感じられました。歌うというより、音楽を前に進める、推進力、いわばグルーヴをつくろうとしている。それは、リズムを刻むとかいうのではなく、音が伸び伸びとながれてゆく、それが推進力をつくりだしていく、そんな感じがします。その流れに乗ってカシオーリがピアノを弾いている。最初に感じた、ヴィオラのような中音部の充実したヴァイオリンの音が、それにハマっている。それは、滔々と流れていく川の流れを思い起こさせる。けっしてスケールの大きい壮大な演奏というわけではないけれど、その流れによって、とても心地よい音環境でした。ロマンチックな演奏家、例えば、フリッツ・ブッシュのようなヴァイオリニストであれば、その流れに溺れていくような感じになるのですが、ここでの庄司の演奏は爽やかで、流れに乗って流れていく、溺れるのではなく、時に風を切ったりするような生き生きとしたところがあります。この演奏も聴いていて、時間を忘れるというか、いつ終わったか分からなくなりました。この演奏をきいていた間は、とてもいい音空間でした。
アンコールのブラームスの第3番のヴァイオリン・ソナタの演奏は、力みの抜けた、爽やかな演奏でした。

 

2026年3月 5日 (木)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(7)~Ⅵ 自然とともに─新たなスウェーデン絵画の創造

 エスカレーターでフロアを上がり、最後の展示室に入ると、今日は“まったりフライデー”とのことで、簡易ベンチを貸し出していて、展示されている絵の前にベンチを置いて座ってゆっくり眺めて下さいとのこと。もっとも、絵の前の最前列にベンチを置くと迷惑になるので、ベンチを置く場所は指定されていました。午後5時過ぎの比較的来場者が少ないゆえ、可能なのでしょう。けっこう、ベンチに座っている人の姿を見かけました。でも、他の人が立って観ているところで、自分だけベンチに座っていると落ち着かないように思います。私が小心者のせいでしょうか。
 “スウェーデンの画家たちがフランスで学んだのは、あくまでフランスの風土を描くのに適した表現技法であり、全く異なる気候や光をもつ北欧の自然には、別のアプローチが必要であった。それはやがて「スウェーデンをどう描くか」という問いにつながり、祖国の自然や民族のアイデンティティを映し出すにふさわしい画題と表現を模索するという、新たな芸術的課題へとつながっていった。”(図録P.176)ということで、さまざまな新しい試みの作品が展示される、ということです。とはいっても、日本人の画家たちは、フランスで表現技法を学んで、帰国して描こうとして、学んで技法では日本の風景を描けないことを痛感させられたわけです。それに比べて、スウェーデンの画家たちは余裕があるというか、日本人の画家たちのような切迫感とか焦りのようなものが感じられない。
Swedishengelsberg  オーロフ・アルボレーリウスの「ヴェストマンランド地方、エンゲルスバリの湖畔の眺め」は1893年の作品。“本作に描かれた、澄み切った水面と夏の緑に太陽の光が降り注ぐ穏やかな自然の情景は、19世紀末の人々によって典型的な「スウェーデンの牧歌的な風景」であった。そのイメージは20世紀に入ってからも生き続け、本作は1935年にスウェーデン旅行協会が実施したコンテストで「最もスウェーデンらしい絵画」に選ばれた。”(図録P.176)と説明されていることから、この作品をはじめとした一連の作品がスウェーデンらしい風景画のパターンをつくったのではないかと追われます。近代の日本で日本画という絵画ジャンルが人為的につくられて、それがいつのまにか伝統的とみなされていったように。実際に、この作品をみていて、どこがフランス絵画と違うのかよく分かりません。
Swedishsunset  ゴットフリード・カルステーニウスの「群島の日没」1907年の作品。「ヴェストマンランド地方、エンゲルスバリの湖畔の眺め」もそうですが、澄み切った、風景を鏡のように映す水面というのは、スウェーデンの風景画の典型的パターンなのかもしれません。そして、薄い青の空も。この作品では夕焼けに赤く染まる岩壁が画面の上半分いっぱいに描かれ、下半分は水面に映っている岩壁で、画面全体を岩壁が占めることになっています。夕暮れで影が濃くなっているその姿は陰翳が濃くて、ベッリクリンの「死の島」に似た不気味な雰囲気を持っています。こちらはベックリンと違って人間の痕跡が画面にないので、なおさら不気味です。
Swedishmoonlight  クスタヴ・フィエースタードの「冬の月明かり」は1895年の作品。たしかに豪雪の風景は北欧ならではです。特徴的なのは、その雪の描き方で、水色、青、白を基調とする小さな点や線を点描のようにリズミカルに重ねています。画像では分かりませんが、実際に見ると、その小さな点はそれぞれ絵の具が重ねられて盛り上がっていて、画面に凹凸を作り出しています。その凹凸が生み出す陰が、画面に立体性と雪の質感を与えている。それが、独特の静かななかにリズム感を生み出している。
Swedishmay  エウシェーン・ヤーンソンの「5月の夜」は1895年の作品です。ここに展示されている作品の多くが点描的で、スウェーデン画家は点描が好きなんでしょうか。この作品では、鈍い色をつかって、夜の淡い光を表現している。とくに、海を隔てた対岸の街の微かな街灯の光が点となって並んでいる。それが海上の霧をわずかに色付かせている。抒情的な雰囲気を作り出しています。
最後のコーナーは大判の画面の風景画が大半を占めて、行き着くところは風景画だったということでしょうか。おそらく、そういうパターンを、このときにつくられていったのだろうと思います。スウェーデンはフランスのような当時の絵画の流行の最先端から離れているとはいえ、同じヨーロッパであることで、日本のような海を隔てた極東とは事情がことなり、同じヨーロッパということで共通する部分も少なくない。それゆえ、スウェーデンの絵画ということについて、日本の場合ほど文化の異質性を画家たちは迫られることがなかった。しかし、そのゆえにスウェーデンの独自性という点についてははっきりしない。そこで、自覚的に差異を際立たせて、独自性をつくっていくことになった。その点で、理念的、その結果としてパターン的になっている。そんな気がします。それには、当時の民族的なナショナリズムの世界的な高揚が影響しているかもしれません。日本の画家たちのように差異を突きつけられたのは明らかに異なる。そのように感じました。日本の異質性は、当時は欧米の文化からは否定的に見られ、それが現在では肯定的に変化したのは時代の変化なのでしょうが、それには1世紀以上の時間がかかった。スウェーデンの場合は、同じヨーロッパということで否定的に見られることはなかったのではないか。展示を見ていて、そのような雰囲気を感じました。

 

2026年3月 4日 (水)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(6)~Ⅴ 現実のかなたへ─見えない世界を描く

 日常のかがやきを描く画家たちがいる一方で、感情や気分といった自身の内面の世界に関心を向ける画家たちもいたということです。彼らは北欧神話や民間伝承を題材に象徴主義的な手法をとったということです。抽象とか神秘主義的な方向性にはいかなかったのが、この人たちの特徴のように思います。
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 アウグスト・マルムストゥルムの「インゲボリの嘆き」(左側)と「フリッティオフの帰還」(右側)です。両方ともエサイアス・テグネールの『フリッティオフの物語』の挿絵として描かれたものです。アウグスト・マルムストゥルムは以前にSOMPO美術館で見た「踊る妖精たち」の作者です。「踊る妖精たち」は、今回の展覧会で最初に見たニルス・プロメールの「草原の妖精たち」を参照しているとのこと。そこで、プロメールの作品に比べて、妖精たちの実体が稀薄になり、まるで霧のような姿で湖上を浮遊している。マルムストゥルムは北欧神話や伝説を主題とした作品を多く制作した人だったそうです。ここで展示されている作品も、スウェーデンの作家エサイアス・テグネールが北欧の伝承であるサーガのひとつに着想を得た物語をもとに描かれたものです。ここで展示されている二つの作品は、神話的な物語の場面ですが、描き方はリアリズム的で、写真を見ているような迫真性があります。あえて言えば、ハリウッド映画の特撮の場面を絵にしたような感じです。この点が、神話を主題とした作品をよく描いたギュスターヴ・モローが象徴主義的というかデフォルメをきかせて画面を意図的に構成してつくっていて、異化作用があるのとは大きく違います。ここでは、さらに色彩の数を意図的に絞って、まるでモノクロの画面で、そこに女性の衣裳の青のみが鈍く抑制されて使われている。それが、白黒映画をみているかのような錯覚を起こさせ、ちょっとした異化効果、あるいは、ノスタルジックな情緒を醸し出しています。
 Swedishold グスタヴ・アンカルクローナの「太古の時代」は1897年の作品です。北欧では、日没後と夜明け前の薄明かりのころ、辺り一面が青い光に包まれるといいます。その時の深い森林をバックにした湖か海の風景を描いた作品と思いました。しかし、水面に浮かぶ二隻の船のシルエットはヴァイキングの乗る昔の船でした。このシルエットが加わることで、北欧の風景画から幻想的な古代を描いた作品になっています。
Swedishlabbmor  ヨンパウエルの「扉を開けたラップモール」という1913年頃の作品。これまでの写実的な描き方とは異なる幻想画風の作品です。そのため、展示されている作品の中で異質な感じがします。“北欧の深い森の奥の、そのまた奥に住む不気味な生き物。頭からつま先まで熊の毛皮をまとい、首には動物の骨をぶら下げている。森と一体化しているような苔に覆われた石造りの家。その扉を開けて、トロルのラップモールが外に出てきた。”(図録P.154)と説明されています。そのとおりに描かれているのでしょうが、一見では、暗くてぼんやりとした画面で、説明されているような具体的なことまで見えてこず、暗闇の中で、何かおぞましいものがモゾモゾ蠢いているような不気味さしか感じられませんでした。油彩画ではなくテンペラで描かれているのも。その独特の幻想的な色彩なのでしょう。
Swedishstreet  エウシェーン・ヤーンソンの「ティンメルマンスガータン通りの風景」は1899年の作品です。これも以前のSOMP美術館の北欧展で見た覚えがあります。背景となっている夜空の渦巻いているところなどはヴァン・ゴッホを想わせるところがあります。しかし、ゴッホの明るさや熱さはなく、暗く冷気が漂ってくるような感じがします。建物からは灯りが漏れていますが、その光は、暗さを引き立たせるものでしかない。
 カール=フレードリック・ヒルの「馬車のいる荒地の風景」(左側)は1878年の作品。“雪が残る寂寞とした黒い大地が広がっている。空には月が浮かんでいるものの、その光は地面を照らすわけでもなく、今にもかき消されてしまいそうな儚さを漂わせている。目印ひとつない荒地をこの馬車は急いでどこへ向かっているのか。”(図録P.162)といささか文学的な説明がされていますが、そんな感じでしょう。画面3分の2以上を茫洋とした雲が広がるグレーの空が占め、残りの下方は雪の積もった白い荒地で、画面全体が薄いグレーと白というモノクロームな世界。カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの「海辺の僧侶」(右側)を想起させるような人の気配のない荒涼とした、それは孤独とか不安のシンボライズかもしれず。画面の下に馬車の黒いシルエットが小さくあって、その馬車の上部にさらに小さく灯りがともっている。それだけが色と感じられる儚さ。何か、その色も今にも消えてしまいそうな、そんな危うさも感じられます。

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スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(5)~Ⅳ 日常のかがやき─“スウェーデンらしい”暮らしのなかで

 ここから、フロアが変わります。
Swedishsister  フランスで制作していた画家たちが故郷へともどり、身近な家族や周囲の人々に目を向ける。“まるで日常に隠された小さな「かがやき」をそっと見つけ出し、ひとつひとつ丁寧に拾い集めていく、かけがえのない営みの繰り返し”(図録P.99)のようでもあった、ということです。
 カール・ヴィルヘルムソンの「画家の妹」という1899年の作品です。明るく開放的な室内は、フランス絵画の肖像画での重厚で装飾的なインテリアの室内とは違う雰囲気です。たしかに空気が違う。これまで見てきたラフな筆遣いとは明らかに異質です。そして、室内のディテールを細密に丁寧に並べるように描き込んでいるのは、ラファエル前派を彷彿とさせます。油絵というより水彩画のような表面なんか、まさにそうです。これって、いわゆるユーゲントシュティルの間接的ではあれ、影響が及んでいるということでしょうか。この点については説明は何もなかったのです、私の個人的な思い過ごしかもしれません。
Swedishbrita  エーヴァ・ボニエルの「家政婦のブリッタ=マリーア・バンク(愛称ムッサ)」は1890年の作品。これも人物画です。印象派などの新しい潮流というより穏健な写実的な作品でしょうか。描かれている女性が北欧のがっしりとした骨太の体格の、典型的なおばさんという女性です。このような女性が単独で正面から描かれるというのは珍しいのではないでしょうか。このおばさんのどっしりとした存在感はすばらしい。
アンデシュ・ゾーンの「画家ブリューノ・リリエフォッシュ」は1906年の作品。これも人物画です。雪の積もった屋外に立つ画家の姿は、いかにも北欧という感じがします。そういうシチュエーションを活かしてか、この作品は白とグレーによって巧みに構成された画面になっていると思います。雪景色というと白一色となりそうですが、Swedishliljefors そこにグレーを散りばめて、影とか雪の積もった質感を表現しています。ラフな筆遣いが、雪のスカスカな質感に似合っている。その景色に立っている画家の着ている服が茶色が少し入っているようですがグレーで、これが白い中にはいることで、白とグレーの構成の中にハマっている。
 カール・ラーションの「カードゲームの支度」(左側)という1901年の作品。展示では、この作品の前にだけ木箱が置かれていて、作品に近寄らないようにされていました。描かれているのは画家の自宅のリビングルームで、パリのような都市のリビングルームとは随分と違う。スウェーデンの田舎の住宅はこのような感じなのか。こういうのが民俗的なところというわけなのか。それにしても、広い室内で、しかも食器をはじめとして調度品がたくさんある。この人は人気画家だったのかどうか分かりませんが、日本人のしがないサラリーマンからみれば、ブルジョワといいたくなる豪華な室内です。これを民俗的といっていいのだろうか。スウェーデンの庶民というのは、こんなにリッチだったのか、と不思議に思います。それとも、この人の視線に入ってくるのは、こういうところで下の方には向かなかったのか。当時のスウェーデンの社会状況を良く知らないので、何とも言えません。横長の画面いっぱいに大きなテーブルがデンと置かれていて。その横に子供がいる。室内は奥行き感かあまりなくて寸詰まりのような感じ。こま構成は、ラファエル前派のJMミレイの「両親の家のキリスト」(右側)を彷彿とさせます。しかも、水彩画のような透明感のある色彩が、ラファエル前派的です。
Swedishgame Millaisdaiku

 同じ画家の「キッチン(『ある住まい』より)」は水彩画ですが、「カードゲームの支度」とおなじような印象の画面です。ラーションは「カードゲームの支度」を水彩画的な画面にするように描いているのがわかります。おそらく、意識的に油絵の重厚さや色彩の鈍さを避けようとしたと思われます。そこに、メルヘンチックという雰囲気をつくり出そうとしている。Swedishkitchen

 

2026年3月 1日 (日)

スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき(4)~Ⅲ グレ=シェル=ロワンの芸術家村

 パリに留学したスウェーデンの画家たちは、バルビゾン派に倣うようにパリ郊外のグレ=シェル=ロワンという村に集まるようになり、そこで生活しながら制作に励むようになったといいます。彼らは、バルビゾン派はもとより、自然主義的、写実主義的な志向だったということです。
Swedishgrez  カール・ノードシュトゥルムの「グレ=シェル=ロワン」という1885年頃の作品。題名の通り、芸術家村のあるグレ=シェル=ロワンの風景を描いたものでしょうか。荒野の風景にしか見えないのですが。農村らしきものは、画面中央の上あたりの白煙で、おそらく蒸気機関車のものでしょう。それにしてもラフな描き方。コローを彷彿とさせます。“どこまでも鬱蒼と茂る草地は、目に見えたままの色をそのまま載せるようにアースカラーの斑点を重ねて表現される。前景の枯れ枝は、たっぷりと絵の具のついた筆で描かれ、かさかさとした質感までも再現するようだ。画面右側の草むらから高く突き出た枝が、我々の視線を黒い鳥の群れが遠くに飛ぶ灰色の空へと導く。”(図録P.78)と説明されています。近くで見ると、前景の枯れ枝の描写なんか、乱雑に線を引いたようにしか見えないのが、少し離れて見ると枯れ枝になっている。Ⅰのところで見たマルクス・ラーションの風景画がドラマチックで物語を想像させるところがあるのに対して、この作品は、素っ気ないほど、単に風景を描いているだけという感じ。これも、バルビゾン派というか自然主義というのでしょうか。そういうのを、そのまま描いている。そういう作品のようです。
Swedishlace  イエーオリ・パウリの「レース編み」という1885年の作品。前の「グレ=シェル=ロワン」に対して、細かい描写の作品。農家の女性が窓辺でレースを編んでいる。室内に陽光が差し込み、そこで女性が仕事をしているのは、その構成といい、フェルメールっぽいと感じさせるところがあります。ただし、フェルメールは田舎の農家を描きませんでしたが。それは、写実的で物語的なところがない。たんに仕事をしているところを描いているというだけ。バルビゾン派のような郷愁を誘うようなところとか、あるいは民俗的な作品にありがちなメルヘンチックなところが皆無なのが特徴的です。そのことが、もしかしたらスウェーデン絵画の特徴のひとつかもしれない。この静かで、落ち着いた雰囲気は、なかなかあるものではない。
Swedishjays  ブルーノ・リリエフォッシュの「カケス」という1886年の作品。左手前のカケスがとまっている草の先っぽの虫食いの黄色い葉の、変色しているのを点描のように、絵の具を積み重ねられているのが、目を惹きます。とまっているカケスの頭部の羽毛の描き方もそうです。それらだけに注目しすぎると、積み上げられた絵の具の鮮やかさに抽象画が見えてきてしまう。ちょっと強烈なところがあります。しかし、離れてみれば、鳥を写実的に描いた作品です。
Swedishgarden  ヨーハン=フレードリック・クルテーンの「リンチュービングの庭」という1887年頃の作品。この人は、デンマークのズケーインという漁村で芸術家村に参加したということです。これまで見てきた画家たちが、バルビゾン派に倣うような作品だったのに対して、この作品は明るい光に溢れています。リンチュービングはスウェーデン南部の都市。スウェーデンに、こんな明るい光に溢れた風景があるとは。まるで、南欧の避暑地のような光で、北欧とは思えません。背後の鬱蒼と茂る木々が、かろうじて北欧の感じを出しています。しかし、木々の緑は明るく爽やかです。この作品には、緑があふれていて、その爽やかさと鮮やかさが印象的です。描き方も細部まで丁寧に描かれています。日常の一場面のようですが、どこか古典的というか、落ち着いた構成になっています。
 これらの芸術家村ですが、バルビゾンの農村に集まった、いわゆるバルビゾン派の画家たちは相互に影響し合って、例えば、コローとミレーは似たような作風になっていったりしたのですが、ここで展示されている作品をみると、そういう傾向は見られないようです。集まって制作していても、それぞれの画家が各自マイペースで別々に制作していたという感じがします。それがスウェーデンの画家たちの特徴といえるのでしょうか。

 

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