無料ブログはココログ

« 2026年3月 | トップページ | 2026年5月 »

2026年4月

2026年4月29日 (水)

読売日本交響楽団 第657回定期演奏会

2026年4月28日(火)サントリー・ホール
11112_20260429231701  サントリー・ホールでアイヴァー・ボルトン指揮読売日本交響楽団の演奏で、エルガー作曲のオラトリオ「ゲロンティアスの夢」を聴いてきました。
 この曲、ユーチューブで見つけて以来、読書や事務作業のBGMによく利用しているのですが、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」に感じがよく似ていて、刺激的な金管楽器の咆哮がなくて、弦楽器と木管楽器の分厚い響きが主体で、そこにコーラス等の人声が加わって、淡々と進むというか、とはいっても退屈というのでもなく、ときおりそれなりに美しいメロディが聞こえてくるので、作業がはかどり、いつのまにか演奏が終わっているという曲です。そんな曲を実際に聴いてみてもいいのではないか。コンサートホールでオーケストラと合唱の響きに包まれるというのも甘美なのかもしれない。座席は2階席中央の前の方。響きは悪くない席です。
 何度の聞いている曲のはずですが、楽曲の構成とかこの曲に特有のメロディとかは全く覚えていません。捉えどころのない曲か思っていましたが、そういう聞かせ方というか、聞き手に対して、そういうことをアピールしていないことがなんとなく分かりました。BGMではなくて、向き合って聴こうとすると、音楽がいっこうに進まないのです。同じところにいて、うじうじしているような感じ。進むことをせずに、立ち止まって、そこで色々なことを繰り返すような音楽ならわかります。この曲は立ちどまっているのではなく、実際、モチーフを繰り返すことはなく、いろいろな楽想がでてきます。しかし、音楽が進むという感じではなく、そこに留まっている、進めない。それゆえ、出てくるメロディの印象が残らない。第1部は途中で寝てしまいました。気持ちよく眠れたといえば、そうなのですが。音楽が気持ち良い時間空間を作ってくれたというより、音楽を掴もうとして、できないので疲れたというところでしょうか。途中休憩をはさんで第2部は、ステージ後方のディスプレイに表示される歌詞の翻訳も追いかけながら聞きましたが、歌詞を読んでいても、進行していないことが分かりました。そもそもの歌詞、おそらくオラトリオの台本が進むように書かれていない。人間が死んだらどうなるかを扱った宗教的な詩らしく、19世紀のイギリスで支持を得ていたらしい。ゲロンティアスという男が亡くなって魂となり、守護の天使に導かれて天上を旅し、神を垣間見た後に煉獄に至るという話だそうです。ドラマがないんです。エルガーは、その台本に音楽をつけたということなのでしょうね。それゆえ、オラトリオといっても、ヘンデルの作品のようにドラマティックにぐいぐいと聞き手をひきつけて、この後どう展開するのだろうかと、興味が前に前に向いていく、というところがないわけが分かりました。この曲は演奏会場で、演奏に向き合って聴くような音楽ではないということが、よく分かりました。なお、演奏そのものはよかったと思います。

 

2026年4月11日 (土)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(6)~5.ニューヨークで花開いた「幽玄」の世界

 展示室が階段左の部屋に移ります。
 岡田は、1953年のニューヨークでのはじめての個展を機に自分なりの抽象表現を見いだし、彼の作品は「ユーゲニズム」と評されたといいます。その個展の招待状の中で、“岡田の作品は空想や詩的な瞑想を含むイメージを、線から成る簡潔な形として画面に固定するという、日本人に際立った能力を想起させる”と紹介され、その展覧会評では、岡田の“作品が暗示的で、哀愁があり、深く感じられ、静かに説得力がある点が東洋の感性と結び付けられる”と評されています。「ユーゲニズム」は幽玄から作られた造語ですが、これらの評にある、静けさや瞑想的と受け取られたことの表われです。
Okadasilver  「銀」は1954年の作品。具体的な形体もなく、幾何学的な図形もなく、色面が画面上に配置されているというだけ。ペインティングナイフやローラーなどを使って生み出した繊細な画面と、淡い色彩塗り重ねた色面で構成されている。岡田の、このような抽象的な作品はどうして生まれたのでしょうか。岡田自身は、自分の作品を抽象画とは言っていないとのことです。もともと、彼の絵画は色面で画面を構成していた、人物や静物を題材にした具象的な作品でもそうだった。つまり、もともとの色面による構成は具象でも抽象でも変わりはない。抽象画を描くために色面で画面をつくるのではなくて、色面で画面をつくっていたもののなかに抽象的なものもあるということ。おそらく、抽象画家とは、順番が違うのだろうと思います。それゆえ、岡田には色面というのは理念とか理論とかいったもののための手段として生まれたのではなく、もともとそういう見方をしている実体的な感覚によるものなのだろうと思います。
Okadablack  「黒と象牙色」は1955年の作品。このあたりの作品は色がタイトルになっているようです。色で作品を構想していたということがタイトルに現われている、というか、おそらくこの人は目指すべき形をあらかじめ決めて描くのではなく、制作のとっかかりとしてキャンバスに色を置いて始めていく。最終的なイメージ、そのプロセスのなかで見えてくる、そんな感じではないでしょうか。この作品では、幾何学的な図形による構成と見えながらも、モンドリアンのような計算された画面設計にあるキッチリとしてところがありません。明解さではなく曖昧さ。画面の四角形は境界がぼやけていて、形が正確でない感じがします。それが情感だったり詩的に見えてくるのでしょうか。
Okadabetween  「間隔」は1957年の作品。縦2メートルを超える大画面には、多様なモチーフが絶妙な距離感で配置され、静けさと緊張感が共存するさざ波のような感覚を呼び起こします。特筆すべきは画面を占める白の表現。同じ白でも、麻のキャンバス地の天然の色を残したり下層に塗った別の色を絶妙に透かしたり。よく見ると、大胆さと緻密さが共存した質感は重層的で複雑です。
Okadawhite  「黒と白」は1958年の作品。大胆に配された形象は真黒というよりも緑がかったニュアンスのある色合いで、背景との境に見える手書きによるわずかな線のブレやかすれとも相まって、印象的だが落ち着いた雰囲気です。白一色の背景は、薄塗りのなかにも微妙に塗り方に変化を持たせ、奥行きある画面となっています。ここでの形体そのものには意味がありません。その形体の揺らぎだったり、色面の塗りの感触に、見る者が感じる、あるいは想う。そういうところは、同時代に、同じニューヨークで活躍したマーク・ロスコの作品に通じるところがあると思います。ただし、ロスコは大きなサイズの作品による迫力で見る者を圧倒するようなところがあり、強引に見る者を瞑想的な雰囲気に連れ出すよう押し付けがましさがありますが、この岡田の作品は、そういうところがなく、静かに、そこにある。
Okadavertical  「垂直」は1962年の作品。岡田は1958年に、一時帰国します。そこで、あらためて自身の身の回り小さなものの美しさに気づいた、自身のルーツへの回帰を経験したといいます。彼は、ニューヨークにもどり、千代紙や包装紙などの子供の頃に夢中になったものをアトリエの壁にコラージュするようになったそうです。この作品は、垂直な線がモチーフとなっていますが、色面の重なりと、それらが接する線に幾重もの色彩が見られ、また絵の具だまりなどもコラージュのように見えます。とくに、画面の中央を垂直な白く太い線が両断しているところなどは、その明確な断ち切りの感じがそうなのですが、では、断ち切られた画面を見ると、左右があっているところもあれば、そうでないところもある。それぞれの面において色の境界が曖昧だったりといった、一種の“あそび”があって、それが見る者の多様な解釈というか、自由さに開け放たれている。それは、並んで展示されている「《垂直》のためのエスキース」を見ると分かります。
Okadaplum  「梅」は1965年の作品。白い色面が梅の花の形に見えるような気がする。その白はぼんやりとしていて、あえて言えば、朧夜にほの白く浮かび、漂うその香りまでも含めた梅のイメージ、その香るような感じが、ぼんやりとした白。それに対して背景はフラットで対照的。この「梅」と並んで展示されていたのが同じ1965年の「重」という作品。白の背景に黄色の入った白い太い斜めの線がOkadaheavy 浮き上がっている。色面の広がりと平面性が強調され、形象も極めて簡潔に表されている。色面の平面的な広がりと同時に、幾層かの色面を重ねていくことによって、画面奥方面へ深まり、広がっていく空間が感じられる。 その色面は、一見すると色紙を貼り付けたような、単純な色彩で構成されているかのように見えるが、その一つ一つに微妙な色調とマチエールがあることに気づく。この二つの作品は並んでいると対照的で、互いを引き立てているように見えます。
Okadacloud  「雲と子供」は1966年の作品。油絵なのに紙のコラージュに見える、抽象の中に具象を溶け込ませた作品です。この頃、岡田は紙を貼って構図を練る手法を好み、色面の重なりや紙をちぎった跡を思わせる白い輪郭線には、千代紙を破って遊んだ思い出がうかがえます。
Okadaassan  「アッサンブラージュ」は1973年の作品。 “重ねられた色紙のような構図や視覚的効果を重視した表現が見られる。一見抽象的な画面も、その色彩によって、紙が破られたときに現われる有機的な線や、折ったときに現われる直線、重ね合わされたときに見えてくる影などの描写を指摘できることがある。そま一方で、同時にさまざまな手法に取り組んでおり、岡田の抽象的と形容される作品の中には、具象画を描くのと同じ視点と方法に基づいている場合があると言えよう。(図録P.8)”と説明されています。大和絵の雲の重なりを見ているような作品です。
この展示室の抽象的な作品を見ているうちに、だんだんと言葉で説明することができなくなっていきました。ただ、黙って見ていて、あまり考えずに呆としているうちに時間が経ってしまう。
 「ダブルランドスケープ」は1974年の作品。2m×4.5mという大規模な作品です。1970年代になって、「梅」や「帆掛船」といった具象的なイメージが再び画面に現れるようになった岡田謙三の画風は、晩年になるにつれ、日本の古典的な装飾美を思わせる画面へと変化する。この作品では、題名にも表れているとおり、左右で作風の異なる二重の風景が展開し、作者の中の具象と抽象とのせめぎ合いのようにも見て取れる。とりわけ左側の画面には、日本の伝統的な「八橋」のモチーフや草花が認められ、作品全体に配された色面は金雲のようでもある。左右に分かれるカンヴァス、それぞれの画面に記されたサインなどから考えて、本作が分割可能な作品として描かれた可能性もあるが、2面で連続する構図からは、日本の障壁画や屏風を連想させるようです。
Okadalandscape

 「春風」は1979年の作品。抽象的な作品なのでしょうが、まるで大和絵の絵巻物を見ているような、画面中の白が日本画の花鳥画の白のグラデーションのように見えてきます。
 時間を忘れてしまうようで、気がついたら閉館時間が迫っていました。

 

2026年4月10日 (金)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(5)~4.ニューヨークへの挑戦

 岡田は、1950年、ニューヨークに渡ります。当時のニューヨークは抽象表現主義の中心地。“荒く大きな筆触や、にじむように広がる色面、全身を使って滴らせた絵の具が大規模なキャンバスを一様に覆う”ような作品は、岡田には、当初、理解しがたいものだった説明されています。そこでの試行錯誤が展示されている作品です。
Okadabanbu  「竹」は1952年の作品。これまでの作品は形体を単純化し、抽象的と言えるほどに要素を切り落としていましたが、それでも、その描かれているのが人であったり何らかの物であることは分かりました。しかし、この作品では、それが分からない。作品タイトルが「竹」ということなのですが、描かれているのが竹であるということは、そう言われても分からない。そういう何かわかる形ということを捨て去った作品と言えると思います。これは抽象表現主義の影響ということなのでしょうか。岡田の作品には珍しいほど筆触が大きく残っています。“画面右上では、初めに大まかな構図を決める線を引いて絵の具を重ねている。次いで、先端の尖った物で引っ掻いた細かな線を付け、茶色で白でこの時期特有の揺らぎのある形を描いている。また、流動性のある絵の具が上下左右方向に垂れており、キャンバスを回転させながら制作したと見られる。全体に光沢がなく、粒状のものが混入したような複雑な層がつくられている。(図録P.83)”岡田の画面は全体として落ち着いた静かな雰囲気がありますが、この作品では動感があると思います。
Okadaflower  「花」は1954年の作品。「竹」の色面によって画面が構成されてつくられている方向性の作品です。この作品では、そのような画面に、花や草のようなものが散らされている。たとえば、和服の花柄模様のような感じです。この作品では、その散らされているのは写実的な花ではなく、抽象化された花のようなものです。ここで感じたのは、日本画の伝統的な花鳥画を、当時の現代絵画風にアレンジしたということです。
Okadarain 「雨」は1959年の作品。例えば、江戸時代の浮世絵、歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」のような雨の描写を抽象絵画のように描き直した、そんなふうに見える作品です。作品タイトルの「雨」は、何本も引かれた斜線が雨を連想させるからだと思います。しかも、絵の具の厚みや質感の異なる色面がコラージュのように配置されている。このような画面は、当時のアメリカ人から見れば日本的なのでしょう。これらの作品について、当時のニューヨークでは、“一杯に描き込まれた絵と数個の形が描かれているだけの解放的な絵、ほとんど抽象に近い完全な単純化”とリアリストと呼んでもよいほど細部まで正確な描写という両極端な要素を、一つの作品の中で組み合わせしようとし始めている”と評したということです。

 

2026年4月 9日 (木)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(4)~3.目黒のアトリエでの再出発

 終戦後、岡田は目黒のアトリエに戻り、戦前から試みていた女性像や群像などの人物表現に取り組んだそうです。戦後の混乱は、価値観の大きな変化と新しい文化を促し、それに応じるように岡田の作風は変化し始める、という展示内容です。
Okadasilk  「シルク」は1947年の作品。2×3.2という大画面です。戦時中の息苦しいほどの迫真性と重厚さから大きく変化しています。「シルク」とはフランス語でサーカスのことで、題材が戦争とは異なるので、画面の感じも変わるのでしょうか。しかし、ここには「群像習作」のような人々が折り重なるようなところはなく、画面にサーカスの道化師や踊り子は並列しています。画面全体には奥行感がなく平面的です。岡田によれば、地ぬりしたカンヴァスに、まず中間色より少し明るい色の面を、調子を変えながら配置するのだと言います。こうしてできた色の面から発想して、テーマをかためていったということです。そのためでしょうか、使われて色が限られた単色の色面があります。しかし、作品に近づいて、よく見ると単色に見える色面はけっして単色ではなく、その面には複雑に多様な色が塗られています。それが独特のくすんだような色調を作り出していて、それが「群像習作」の切迫さとは異なる非現実的な画面をつくっていると思います。それぞれの道化師や踊り子たち形が単純化されているのは、色の面から画面が発想されているからでしょうか。デザイン的な感じがします。それを生かすように、それぞれの画面上の配置が工夫されているのでしょう。このような動きのあるデザインされた群像が平面的に工夫されて配置されているというのは、「鳥獣戯画」を想起させる。
Okadaatorie  「アトリエ」は1949年の作品。人物の形態は、さらに単純化され、この作品では、線で輪郭を描くだけのようになっています。例えば、画面右手のモデルと思しき立っている人物は、白地の背景に黒く輪郭が線で引かれていますが、その中身、つまり身体には、背景の白と同系統の彩色がされていて、一見では線でしか人物の存在が分からないような感じです。あるいは、画面中央のテーブルとその上の食器は単純化されて、図案のデザインのようです。それが黒い衝立を背後にして、白が浮き上がるように目立ちます。画面は、この黒を除いて、全体が白か淡い色調のグラデーションが基調となっており、そこにテーブルのようにデザインっぽい線描が描かれていると、全体として洗練されたおしゃれな雰囲気を感じさせます。こういうお洒落なところは、岡田の持って生まれたセンスのようなところで、この人の作品に共通してあると思います。
Okadafive  「五人」も同じ1949年の作品です。五人の人物が思い思いのポーズで画面に並んでいます。単純化された形態は、ただ人物が、どのようなポーズをとっているかしか分からず、その人物が若いか年をとっているか、どんな服を着ているか、といったことは分かりません。そういった要素は描かれていません。そういった要素が切り捨てられ、単純化されて、線で輪郭のみが描かれた人物は、抽象画やピカソなどのキュビズムの絵画のようにも見えます。しかし、それらとは違う。それは、抽象とか具象というのではなく、岡田の想うイメージを描いているとしか言いようのないものなのだろうと思います。そして、人物は形の輪郭を線で描かれ、その輪郭の内側を色面として塗り絵のように色が置かれるかというと、そうでもない。この作品では、輪郭と色面が分離して、別々になってきている。例えば、画面下部の三角形や四角形の色面が並んでいるのは、何か意味があるのか、何かを描いているのか。私には分かりませんが。そういうのが画面にある。

 

2026年4月 8日 (水)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(3)~2.戦時中 中国大陸や疎開先の風物

 1940年代前半の日本は日中戦争から太平洋戦争に入っていきます。岡田は当時は植民地であった満州を訪れて、作品も残しています。その後、戦争記録画も描きました。
Okadafamily  「満人の家族」は1942年の作品。この作品は、岡田が1941年から翌年にかけて旅行した、満州での体験をもとに描かれたものたせということです。多くの日本人が、朝鮮半島や中国大陸に足を踏み入れるようになった時代、朝鮮や台湾、中国に取材した絵画作品が急増したそうです。その中でも岡田の描いた満州の人々の群像は、スラリとした体形、人物のポーズと配置、色使いに、どことなく洗練されたおしゃれな雰囲気さえ漂わせているのが特徴的だということです。つまり、パリ帰りの洗練された都会的なテイストで描いている。例えば、画面の透けて見えるような薄塗りの重なりは、藤田嗣治のようです。「高原」とは違う画肌のつくりをしています。これは、モチーフが違うので使い分けをしているのでしょう。そのような技法の使い方の成熟が見られる。
Okadagunzo Okadafujita

 「群像習作」(左側)は1943年の作品。とにかく圧倒されました。この作品だけ、展示された作品の中では異質で、突出していました。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(右側)の無数の人物が折り重なるように配置された群像表現との共通点が見られると説明されていましたが、藤田の「アッツ島玉砕」は戦争の狂気が恐ろしいほど迫ってくるのに対して、この作品は大きな運命に翻弄される人々の悲劇を伝えているように見えます。ここで描かれているのは戦場から逃れようとする人々の群れでしょうか。人々は折り重なり、それぞれに動き、それらが緻密に構成されています。それぞれの人の顔は描き込まれておらず、表情などは定かではないのですか、身体の動きによって、ひとかたまりの群衆というマスではなく、個々の人が個々に描かれているように見えます。それが、合わさって、全体として見る者に迫ってくる。また、複雑な色遣いが、色調のトーンをずっしりと重いものにして、臨場感のある作品になっていると思います。
Okadafarmar  「農婦」は1945年、空襲を逃れて宮城に疎開していたころの作品です。疎開先の農家の婦人を描いたのでしょう。とはいえ、田舎の農家の女性にはどうしても見えない。西洋人か満州の女性のようなエキゾチックな雰囲気があります。

 

2026年4月 7日 (火)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(2)~1.パリから目黒のアトリエへ

 岡田は、東京美術学校(現 東京藝術大学)入学から約2年後の1924年にパリへ渡ります。第一次世界大戦終結により、世界各国から芸術家が集い、活気に満ちたパリでの日々は、若き日の岡田にとって全てが新しく、視野の広がる経験となりました。モンパルナスのカフェなどに集まって議論していた芸術家たちの仲間に加わり、後に確立する抽象的な作風の基礎となる考え方にも触れ、さながら「心の訓練のようだった」と振り返っています。1927年の帰国後は、戦前から戦後にかけての時代のうねりの中で、これまで培ってきた技巧や様式から離れ、新たに実験の日々を積み重ねていきます。
Okadahill Chavannesmori

 展示室への入り口がロビーのようになっていて、そこに大作「高原」が展示されていました。これは1939年の作品で、岡田がフランスから帰国して、国内で試行錯誤の末に制作されたと言えます。1.9m×2.5mという大きな画面に多数の裸の人々(主に女性)が音楽に興じている様子です。描かれている光景はフランス象徴主義の画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「諸芸術とミューズたちの集う聖なる森」を想わせる。画面上に十数人の人たちがひしめき合うようにいて、中には楽器を弾いたり、踊り出す人もいる。それなのに、画面全体としては静謐な感じがします。人々の配置とポーズを綿密に計算したのだろうと思います。それと、全体の色調が落ち着いたものとなっている。人々の描き方は、裸体を強調して、人の肌を輝かしく描くような人はせず、地味でくすんだ色を使っています。この人々は石像に見えないこともない。ペンティングナイフで細かく色を塗り重ねて、複雑な色彩や質感を表わす特有の画肌をつくった表われと言えます。これは、パリで藤田嗣治が「グラン・フォン・ブラン(素晴らしき白)」という独自の画肌で注目されたことを追いかけるようにして、この画家が作り出したもののように思います。それは、この作品より以前の作品を見ていくことで、分かると思います。
Okadastilifel  「静物№1」は1922年、つまり東京美術学校で学んでいたころの作品です。茶色い棚の上に果物や食器が並ぶ、シンプルな構図の地味な印象の作品ですが、よく見ると実にたくさんの色が使われていることに気づきます。光や陰影の部分には、現実の色とは異なるピンクや黄色、水色などが用いられています。さまざまな色が重なり合うことで、暖色からは温かみが、寒色からは透き通るような透明感や涼やかな印象が生まれ、見るたびに異なる感情が呼び起こされます。それだけ豊かに色彩が用いられているにもかかわらず、画面全体の印象は色鮮やかで多彩というのではなくて、地味で落ち着いたものとなっています。それは、色を点のように短いストロークで散りばめ重ねていく、印象派とは違う筆触分割のような描き方のためだと思います。そのせいか、輪郭が曖昧になっているように見えます。最初に見た「高原」のような画肌は、習作時代のこの作品から、その萌芽が見られる。
Okadahanauri  「花売り」は1936年の作品。おそらく、岡田はパリから帰国後、このような女性を描いた小品を何枚も描いて中堅作家として認められていったのでしょう。それにしても、背景の壁には、どれだけ多くの色が塗られていのだろうか。その複雑な色合いがさりげなくある。とはいえ、人物には立体感とか肌の柔らかさの質感とか、あるいは空間のパースペクティブといったことは、あまり感じられず、この人は写生とか形にはそれほど重きを置かない人であることが想像できます。「静物№1」から14年後の作品ですが、その間、たとえばフランス留学時や帰国したころの作品が見られないのが残念です。
Okadamakuma  「幕間」は1938年の作品です。この作品では、「高原」でのペンティングナイフで細かく色を塗り重ねて、複雑な色彩や質感を表わす特有の画肌が現われています。例えば肌の色の中にグレーが混じっていたりする。「静物№1」や「花売り」でもあった多彩な色を点のように細かく画面に置いていく点描のような描き方。それは、ここでは幕間の休憩時、客席の女性たち劇場の薄暗い照明の下でぼんやりと映しているようです。
 このような描き方は、風景画では同じ年の「巴里風景」では、ユトリロの描くバリの風景と似たような画肌に見えます。岡田の描き方は、このようなユトリロや藤田嗣治のようなパリの画家たちの影響があるのではないかOkadapari

 

2026年4月 6日 (月)

岡田健三─パリ・東京・ニューヨーク(1)

Okadapos  夜にサントリー・ホールの演奏会を聴きに行くので、少し早めに自宅を出て、この展覧会に寄っていくことにした。目黒の駅に着いたのは午後3時過ぎ。権の助坂を下って目黒川を渡って、美術館まで歩く。目黒川沿いの桜は枝が着られていて、未だ桜の芽が見えない。花の数を抑えているのだろうか。目黒川沿いの公園の中に美術館はある。
 美術館に着いたのは3時半過ぎで、人影はパラパラ。平日の午後であり、そんなものか。来館者は一人で来ている人がほとんど。だから静かな雰囲気。
 岡田健三という人については何も知らないので、その紹介を兼ねて主催者の挨拶を引用します。
 “目黒区美術館では、戦前に欧米で学んだ画家や、戦後から現在まで国際的に活躍した画家、さらに地域と深くかかわる作家や、制作を支える素材や技法の特質をよく示す作品などを収集し、展覧会等を通じて紹介してきました。今回は、1920年代のパリと1950年代以降のニューヨークという二つの都市で創作活動を展開し、1935年には目黒区自由が丘にアトリエを構えて活動した画家・岡田謙三(1902~1982)を取り上げます。
 岡田は、東京美術学校(現 東京藝術大学)入学から約2年後の1924年にパリへ渡りました。一足先に同地でその才能を開花させた藤田嗣治と出会い、以後、生涯にわたって親交を結びます。また、同時期に諸外国からパリに留学していた若き芸術家との社交の場で、絵画の枠にとどまらない多様な意見に耳を傾けながら自身の表現を模索しました。1927年の帰国後は、二科会を中心に継続的に作品を発表し、中堅作家としての地歩を築きます。しかし、やがて大きな時代のうねりが、岡田に、これまで培ってきた技巧や様式を手放し、再度異国の地で実験と挑戦の日々を重ねる決意を促します。戦後早々に見据えていた渡米を1950年に果たすと、今度はニューヨークを中心に席巻していた抽象表現主義の画家と交流を持ち、苦悩の末に、淡い色面を組み合わせた独自の作風を確立させました。自身の根源的な感性への回帰の中に築き上げた静謐で力強い表現は、パリとニューヨーク、そして目黒のアトリエでの模索の日々を抜きに語ることはできないでしょう。 この三つの都市での経験に影響を受けながらダイナミックに変遷した岡田の作風を、初期から晩年までの代表的な作品や、その制作を支えた画材や素材、エスキース等の資料とともに、検証いたします。”
 それほど期待もしていなかった展覧会ですが、たいへん魅力的な作品が並び、とても充実した時間を過ごすことができました。展覧会のサブタイトルや主催者あいさつにある三つの都市とかそこでの交流とかいったことが前面にでると社交家が趣味的に絵を描いたと誤解してしまいそうですので、もっとこの画家の作品の魅力を前面に打ち出してもいいのではないかと思いました。例えば「幽玄な抽象」とか、もっともこれでは岡田の一面を言い表しているにすぎませんが。
 展示は階段を上がって2階の展示室です。

 

2026年4月 5日 (日)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(10)~終章 

 「日本の自然」では植物が最も重要で、「自然」の住民のなかでは最高の地位を占める。その中でも稲と米の魂は最も崇高な神であり、宇宙の中でも最重要の存在である。稲と米で代表される「自然」は、非情に慈悲深い。貨幣としての米目は純粋なお金としての性質を失わず、寺社が執り行う祓いや祈禱などへの対価ともなり、人々の感覚に馴染んでいる。単一の意味を持つ米は清いだけに初穂料として躊躇なく受け容れられるが故に、かえって消費主義を推進する。結果として「自然」とその住民は高度に文化化される。
 農業は、採集経済から産業革命へという進歩の道に人類を導いた一方で、工業化・都市化した社会に住む者にとって農業は、近代化で堕落する前の清い自己の象徴でもある。こうした歴史の解釈のなかで、「自然」が永遠不変のものとしてそこにあると考えられている。しかし、ここで見過ごされているのは、農業は人類による最初の大規模な自然破壊だということである。農業は樹木を切り倒し、草原を農地にすることから始まる。この見地から考えると、稲が「日本の自然」の表象であるという解釈は純粋に文化的な解釈である。自然はまず農業で破壊され、工業化で美化されるという普遍的な歴史過程において、日本では軍国主義や消費主義などが、環境に対してかなり破壊的な力の行使を可能にしてきた。したがって、「日本の自然」とは何てあったかを理解することが重要である。「日本の自然」とは、人間の手が加えられていない、そこにある自然だという思い込みの間違いを認識したうえで、「日本の自然」とは何てあったかを理解する。
 このプロセスで重要なことは、宇宙の時間的・空間的分類構造と日々の活動が歴史を通じて相互に補強し合っていることである。平城京や平安京が建造されたときに、宇宙の空間的な区分とその価値がつくり出された。それは北にある天皇の座へと人々が「あがり」、南に「さがる」という視点からなされ、前者には正の価値が与えられた。都の左右も天皇の座から見た左右である。この構図は、『古事記』でも再現されている。このときに、宇宙論的な空間スキームがしっかりと確立されていたのである。この8世紀の天皇の在地を基盤にした宇宙の空間的区分は、天皇制自体の浮き沈みと関係なく歴史的に継続した。
 また、『万葉集』では、自然を時間的に区切る習慣は、環境の変化を文化的に解釈し、取り入れることである。環境を時間的に区分する四季は、稲の成長段階を基にしていた。その成長段階は宮廷人だけでなく、種々の人々によって歌に詠まれた。しかし、歴史が下ると、「自然」を文学的に表現することはほとんど宮廷人の専売特許となり、宮廷の外に出ることが少ない宮廷人は「自然」に直接触れることがないまま、「自分たちの自然」を描くようになった。このプロセスにおいては、文化諸方面のエリートが和歌、儀式、建築等の活動によってこれをリードしており、「日本の自然」がつくられた、表象されたものになってゆく過程において大きな役割を果たしたことは否めない。そうしてつくられた自然を、今度は着物の色や柄などで四季という自然としての生活のなかで再現し、そのやり方について文化的な規定を発展させるに至った。江戸時代以降は庶民が自分たちの創造した庶民文化、たとえば日常生活における料理などを通じて、環境と相互関係のなかで文化的な時間の区切りを積極的につくった。このような宇宙的原理が長期にわたって維持されたのは、それが民衆の日常生活における思考と行動の原理にもなったからである。しかし、このプロセスにおいては、宇宙論的な原理も日常的な活動も、歴史を通じて同じ意味を持ち続けていたのではない。古代において皇帝が持っていた、時間と空間の両方を規制する権力は、皇帝の権威の不可欠な一部であった。しかし、古代末期以降、その権威は低下し、さまざまな社会集団が軍事的、政治的、経済的な権力をもつようになった。空間的・時間的原則は、日常的な活動のルールとして存続し、エリートだけでなく民衆をも巻き込んだ。「あがる」という行動は、単なる行動ではなく、汚れた地面を離れることである。
 自然という実態はなく、象徴は必ずしも、物質的な原型を必要としない。たとえば枯山水。鑑賞者は受け身ではなく、記憶と想像力を働かせて理解しなければならない。自然がこの庭園のモデルになったとは誰も考えない。江戸時代、商人文化の勃興とともに、「日本の自然」を表現するさまざまな芸術が生まれた。芸術は自然を再現するためのものではなく、彼らが「自然」として創造したものは、フラクタルなものでも、ミニチュアでもない。著者は、「日本の自然」に物体的な原型がないという、いわば無物体原則の発想は、魂に対する日本人の考え方から発想したという。物体をもたないという概念は、魂を定義するものであり、日本文かにおいて最も重要な信念であり概念である。魂は目に見えず、物体をもたず、持ち主から離れ、不適切に取り扱われる時点で巨大な力を生み出す。つまり、日本の「自然」の表現には三つの異なる伝統がある。第一に、「自然」は人間の創造物を刻み込むための白紙と見なされる。刻み込まれるのは最小限の物体的なもので、十分に空白が残る。第二に、彼らが「自然」として創造するものはけっしてフラクタルではない。最小限の物体性によって、バフチン的な意味での対話的な体験が生まれ、鑑賞者が自らの記憶、経験、感情を用いて解釈に参加するように誘われる。第三にこうした「自然」の創造過程に人が手を入れることを隠すのである。

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(9)~第8章 消費主義の文化的基盤

 消費主義は世界的な現象であり、日本だけが特別なことではない。しかし、「自然」を破壊する消費主義が日本で許容されていることについては説明が必要だろう。その理由は「日本の自然」と調和して生きるのが日本人であると、広く信じられているからである。ここでは、この一見不可解な現象の理解を試みる。その際に注目するのは、社会生活における民間信仰の役割と「純粋なお金」としての米であり、それらの文化的ロジックである。
 日本における消費主義の特徴は、それが民間信仰に基づいた習慣に依拠していることである。このような消費主義と民間信仰の共存は、科学技術が高度に発達した近代社会では普通はあり得ないと仮定されている。この仮定にはいわゆる社会進化論に由来するものであり、近代を理解する上で支配的な理論である。社会進化論では、宗教の確立と呪術の排除が救済の手段であり、理性が近代の特徴である。この場合、宗教と呪術の区分が明確ではない。にほんとくに日本の場合、神道と仏教を日常生活で分類することは難しいし、神道と仏教の儀式を民俗宗教の儀式と区別することもできない。例えば、おみくじやお守りは宗教儀式なのか、迷信なのか、そんな区別は日本人には無意味だ。また、社会進化論の基本テーゼは、合理性による判断を通じて過去から現在へと一直線に進歩する過程である。日本では、その理性という概念は近代哲学の輸入によってもたらされた。もともとの日本人の考えでは、理性よりも社会性と悲しみも含めての感情的豊かさが人間を規定している。
 西洋では呪術の儀式は、組織化された信仰集団の一部ではなく、個人が特定の目的のたに行うものであり、その効能は実行の時点で評価される。その反対に宗教的儀式を行う者は社会的集団を代表し、その集団の一般的な利益のために宗教的儀式を行う者でもあり、その検証が直ちに評価されることはない。つまり、宗教は集団的な活動であり、呪術は個人的な活動である。しかし、社会性は日本の民間信仰の重要な側面であり、人々にとってその主な機能は社会的関係の中にある。たとえば、良縁を神社や寺院で祈願することが、それである。それ以上に多いのは、家族の病気回復を祈るなど、家族その他の人を気遣う目的である。このような民間信仰の慣習は基本的に人間関係を確立し、維持し、強化するものである。他国から見ると非常に高頻度で贈答が行われている日本では、このような民族宗教の習慣が見られるのは予期されることであり、日本における社会性の重要性を示すものでもある。
 多神教と一神教の違いは非常に複雑だが、多神教はアニミズムをより容易に受け容れる。キリスト教は人間には絶対的な価値があるという考えに基づいており、神の家には英雄や賢者の魂だけでなく卑劣な者、最低の者、すべての魂が入る余地があるとする。これは神聖な宗教的信念である。対照的に、人間以外の宇宙の存在の魂を信じることは呪術的信仰だとされた。アニミズムは日本の宗教性の中核であり、現在もそうである。
 「お金」は非常に複雑な事象であり、ほとんどの社会で数多の象徴的意味をもつ。したがって、消費主義や資本主義はすべての社会に一様に侵入するのではなく、侵入は人々のお金の使い方に依存する。清浄な貨幣から不浄な貨幣への歴史的経過は、世界一様ではない。日本では、「自然」の象徴である米は、神々への捧げものであると同時に、中世から近世にかけて、金属貨幣が不純とされていた時代には、金属貨幣よりも好ましい交換手段であり続けた。貨幣と米との決定的な違いは、貨幣が複数の意味を持っているのに対して、米の意味は単一ということである。これは、交換手段としての米が、もともと宗教的な、より広義には宇宙論的な意味を保持しているからである。

2026年4月 3日 (金)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(8)~第7章 「日本の自然」の家畜化・商品化

 近代は、国有化・軍事化の一方で資本主義化のプロセスでもある。
 家畜化という用語は、歴史上、動物を使役したり食用にする文脈で使用されてきたため、誤解を招く可能性がある。ここでは、「日本の自然」に住まう人間以外の生物がペットとして人間の領域に持ち込まれる習慣を指して使う。ペットは、馬や牛など人間のために使役される他の家畜動物とは異なる。日本語では、ペットには伴侶動物と愛玩動物の意味があるが、この分類は厳密なものではなく習慣的なものである。
 現代日本人の生活における「自然」のもう一つの重要な側面は自然食品である。
 消費主義とは、人々が必需品でない商品を購入するように駆り立てる社会的および経済的プロセスである。消費主義は資本主義研究における重要な分野で、主観的な楽しみの価値と自我、我々の欲望や感情が、所有する物のなかで生き続けることである。それを物への愛着や消費への欲求だけでなく、所有物によって定義される自己意識、つまり、所有物こそが自己ということだ。現代で最高潮に達した日本人の消費主義の始まりを江戸時代に見ることができる。ペットは単なる商品ではなく、安らぎ、愛情、そして友情をもたらしてくれる。ペットの追悼式や埋葬は、購入する商品であるだけでなく、喪失に対処する方法でもある。これらは、必ずしも美しいことではないものの、主観的側面と呼ばれる。ペットバギーに乗ったペットは、宇宙空間の分類として地面(下)に与えられた価値と、消費主義・資本主義の相互促進の成功物語である。もう一つの目覚ましい成功物語は、ペットブームとアニミズムの出会い─ペットの魂をより手厚く、より高価な葬式で弔うことを実現したことだ。アニミズムはこうして資本主義の肥沃な土壌となった。

2026年4月 2日 (木)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(7)~第6章 「日本の自然」の国有化と軍事化─近代

 ここでは、「日本の自然」がいかにして、政治的に定義された国民国家として日本の一部となっていったかを探っていく。1853年の黒船来航により、日本は開国を余儀なくされる。当時の国際政治では、強力な軍隊と、近代国家のため呑むあらゆる制度的装置の建設、そして「人民」を「国民」にする「国民化」を必要とした。当時は、日本だけでなく世界のいたるところで権威主義が台頭した時期だった。日本は現人神としての天皇を統率者として軍国主義化を進めた。
 1888年、児童生徒のための修学旅行が始められる。生徒たちが「近代日本」に感銘を受けるよう、国指定の重要文化財や産業開発の現場を訪問させた。これは日本が近代的な国民国家を築き上げようとしているときに、青少年を国民化する効果的な方法として機能した。1872年、アメリカのイエローストーンに倣って、国立公園を始めた。この目的は「自然」を保護するという純粋な、あるいは理想主義的なものとはほど遠く、経済的な理由によるものであった。日本に外国人を呼び込むことを期待した観光産業振興の試みであった。
 人民の政治的国民化が進む一方で、米、桜、富士山は日本人の集団的自己の象徴として残った。近世末期、日本人が中国人に対抗して自らのアイデンティティを確立しなければならなかったとき、彼らは日本人の比喩として国産米を強調し、他のアジア人の比喩としての外国米とは区別した。18世紀から19世紀にかけて、土着主義の学者たちは日本人のアイデンティティを確立しようと努力し、農耕思想と稲作農業を原初的な日本人のあり方を表わすものとして選んだ。中国人に対するこのような態度と、優れた日本人のメタファーとしての国産米の使用は、明治時代にも続いた。明治になると、西洋人が支配的な他者となり、象徴的な対立は「米対肉」という形をとった。西洋人が日本に来るようになった初期の他者性の特徴は、彼らの屠殺と肉食であった。日本人が自分たちのアイデンティティをどう築くかが急務となるなか、西洋を模倣することに反対し、米食や稲作は日本人が優れている証拠だと主張する者もいた。前時代の芸術家たちが、泥のない清らかな水を湛えた田んぼに注目したのに対し、自然の国有化と軍国化の時代には日本人の食としての米がより重視されたようだ。欧米が視野に入ってきたことで、日本人は他のアジア人との差別化を余儀なくされ、一方で、欧米に対抗する日本人のアイデンティティを確立しなければならなかった。
 本章では、米の他に桜や富士山が「日本の自然」のシンボルとして、日本が激しい国有化と軍国化に支配された時代に、その意味を次々と変えていった。

2026年4月 1日 (水)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(6)~第5章 「日本の自然」としての水田、桜、富士山─江戸時代

 徳川家による江戸幕府は全国を支配する、巨大なパノプティコンとなり、社会の頂点から底辺に至るまで、国民全体が日常生活における微細な規則によって厳格に管理されるようになった。この時代は、国内での紛争がなく、泰平の世が続いた。その間、商業が発展し、本格的な都市化と市場経済化が進んだ。都市化はたんに自然を破壊して都市を建設しただけでなく、製造業、サービス業、生産的農業を発展させた。今日目撃する強力な消費主義の基盤は、この時期にしっかりと確立された。この発展の立役者は商人階級であった。国内が平和になり、対外的な戦争もなくなったことで、皮肉にも武士階級は存在意義と経済力を失った。商人階級は巨大な経済力を獲得し、歌舞伎、日常生活を題材にした川柳、四季を題材にした俳諧、貴族の琴ではなく三味線、そして何よりも浮世絵といった庶民文化が開花した。浮世絵の多様なテーマのなかでも歌舞伎役者、力士、芸者というスターの地位を獲得した三大グループは、実際には士農工商の身分制の外に置かれていた。浮世絵は、現在のニューヨークやパリに相当する都である江戸への旅の証となり、田舎者がおみやげとして持ち帰るものとなった。浮世絵は、ほとんどの日本人にとって手の届かない幻想の世界を描き、そのため人々に仮想の快楽感を与えたのである。その結果生じた新たな社会的相互作用を資本主義の台頭と結び付けて、徳川後期の文化を「遊びの文化」と特徴づけている。その一方で、後期には外国からの脅威に晒され、それに反発するように、文化的ナショナリズムの発展を促した。庶民文化の発展、文化的ナショナリズム、大規模な都市化は、しばしば複合的な力となり、「日本の自然」の表現に変化をもたらした。
 庶民文化の台頭とともに、江戸時代には、従来の貴族の時間性とは異なる時間性が、庶民の生活の中から生まれた。日本人と環境・自然の関係を大きく変えたのは、京都から江戸への首都移転である。山に囲まれた京都とは対照的に、江戸をはじめとする商業の発展で栄えた都市は、まったく異なる環境にあった。京都は盆地で海から遠く、都市を囲む山林は豊富な菜食生活を支える。江戸をはじめとする水路のある都市の住民は、魚食を多く取り入れていた。日本人には旬─とくに魚の旬─には非常に大切で、歳時記には、魚の旬を中心に、自然の季節に基づいた生活が生き生きと伝わってくる。このような食文化の新たな展開は、俳諧という媒介を通じて広く普及した。俳諧はもはや貴族趣味に固執することなく、それまでの和歌の伝統が避けてきた食に関する話題をふんだんに取り上げた。
 江戸時代には、集中的か広範な都市化によって、多くの日本人が米の生産から遠ざかっていた。こうした現実とは裏腹に、この時代のさまざまな芸術は稲とその生育、そしてそれにまつわる儀式をモチーフに選んだ。江戸時代の激しい都市化は、農業国家であった日本に変化をもたらし、米と稲作を「日本の自然」として再構築した。最も明白なレベルでは、稲の成長は1年の四季を象徴している。清らかな水が入った水田、田植え歌などは、春や初夏の最も身近な兆候であり、それは誕生と成長の時期である。稲束に象徴される稲刈りは、秋という季節と収穫の喜び、そして成長期の終わりとして想起される。このような稲の成長のサイクルが、日本人全体にとっての季節の目印になっているということは、驚くべきことである。都市生活者、漁師、その他、稲作に従事する人以外のすべての人々にとっても、生活は稲とその成長によって示されるようになった。言い換えれば、以前の時代にエリートたちが花や鳥によって体系化した四季は、稲の成長段階に合わせて修正されたのである。
 この時期「自然」を形づくるための大規模な取り組みが展開された。ヨーロッパの宮殿やその他の大邸宅の庭園は徹底的に文化化されており、ほとんどの場合、庭師の創造的な才能を誇示している。対照的に日本庭園は、人間の手によって完全に形を変えられたにもかかわらず、樹木の根、枝、幹に至るまで人間の手が加えられた痕跡を丹念に隠している。また、ミニマリズムの伝統である枯山水庭園や茶道とともに、「自然」のミニチュア化は盆栽や箱庭に取り込まれた。盆栽とは、遺伝的に木を矮小化するのではなく、「自然」を再現するために注意深く育てることである。
 世界的に勢いを増す西洋植民地主義の脅威が日本に及ぶにつれ、日本人は集団としての自己意識を確立することで文化的ナショナリズムを発展させた。その際に彼らが「日本の自然」の象徴として選んだのは、稲であり、桜であり、富士山である。同時にこれらは19世紀半ばに江戸で起こった集中的な都市化のプロセスに対抗するためのシンボルでもあった。
 都市化が農村を生み出したのは、世界の他の地域においても同じだか、錦絵で「日本の自然」を表現するために選ばれたシンボルは実際には「農村という自然」ではない。旅人はしばしば田んぼを背景に描かれる。これは、東海道と基礎街道が地方とつなぐ江戸という大都市における変化や無常の縮図と、米と稲作という永遠普遍の日本が、コントラストとして描かれているのである。泥と汗と肥料の現実から遠く離れた稲と田んぼは日本の美しさを思い起こさせる。注意すべきは、江戸時代以前の花鳥風月や枯山水の自然には、「日本の自然」の象徴として稲や水田は含まれていなかったということである。これらが江戸の絵師たちによって描かれるようになったのは、未曽有の経済変動期であり、農村がその急速な発展に全面的に参入した時代であった。最大都市の江戸では商人階級の庶民文化が花開いた。貴族や武士が農民でなかったと同じように、江戸の商人や芸術家たちも農民ではなく、農民の生産物の消費者であった。本書のテーマにとって重要なのは、これらの錦絵に描かれた田んぼが水田であることである。水田は透明できれいな水を湛え、地面を見せない。稲穂が実る秋には、黄金色の稲穂が黄金色の波のように風にそよぐ姿が描かれる。つまり、稲と田んぼは汚れのない「日本の自然」を象徴している。

« 2026年3月 | トップページ | 2026年5月 »