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2026年8月

2026年8月24日 (月)

猛暑の高野山・熊野三山と南紀(3)~第3日目 その他

 最終日は、ゆっくりとホテルを出発して、あらぎ島の棚田に向かった。和歌山県の有田みかんで有名な有田川をさかのぼった山あいの部落で、川がΩ字に曲がりくねった、典型的な穿入メアンダー地形の内側が舌状の台地となり、大小の水田54枚が階段状の扇形に形成されている。「国の重要文化的景観」に指定されているとか。でも、かつては、棚田で稲を作らなければならなかった。しかし、今は、その必要性はないのだろうと思う。その証拠に、残っている棚田は、このあらぎ島の部分だけで、その周囲にも、かつて棚田であった痕跡は見られたが、すべて放棄されて耕作されていなかった。おそらく、あらぎ島の棚田は棚田を守るために稲が作られているのだろうと思う。それって、何か矛盾していると思いながら見ていた。似たようなことは、能登の輪島付近の「千枚田」という名で有名な棚田があるが、あそこも景観とか文化の伝統を守るということで、耕作の必要がなくなっているのを、全国から寄付やボランティアを集めて、その保存のために稲作りをしているという。棚田は景観として見ると、美しいといえるかもしれない。しかし、そうまでして、無理してまで稲を作らなければならなかったのはどうしてかを考えると、そこに政治的、経済的な顛倒に思い至るわけで、それがなければ、却って、この地は山の豊かな恵みで暮らしてゆけたのではなかったのではないか。米を無理して作らねばならないかゆえに、そのために豊かになれず、不条理ともいえる棚田のような労苦ばかりの作業を強いられた。そういうことを考えてしまう。ここから、新大阪に出るという大回りして、新幹線で帰った。

2026年8月23日 (日)

猛暑の高野山・熊野三山と南紀(2)~第2日目 熊野三山

 連泊なので荷物を部屋において身軽に、朝8時過ぎに出発。本日観光する熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の三つの神社だという。三社は個別の自然崇拝に起源を持つが、三社の主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されるようになった、ということです。地図を見ると、三社はそれぞれ数十キロ離れた場所にあり、それらの間をつなぐのが熊野古道というわけです。おのおのの神社が単独で参詣者を得るには力が足りないので、三つの神社が提携して三社のセットで参詣するようにして、主要な顧客層である京都から遠路はるばる足を運んでもらって、神社ひとつでは物足りないだろうから、三つの神社をまわるようにして、那智の滝というプラスアルファを追加したというところでしょうか。たしかに現在の、それぞれの神社を単独でみると「こんなものか?」という物足りなさを否定できない。現在がこのようだからと、かつての姿は同じとはいえないでしょうから、留保はつきますが。
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 海沿いの南紀白浜から山に分け入っていく。音無川をさかのぼり、その本流である熊野川の谷間の道に出て、遡ると河原が広くなったとろが開けて集落になっているところ、その中央に熊野本宮大社がある。このツアーは有名な大斎原の大鳥居には寄らず(バスが通過したこ004_20260823232701 とも気づかなかった)、現在の宮の正面、ゲストハウスを兼ねている瑞鳳殿脇の駐車場で、バスを降りた。現在の宮の入り口である一の鳥居はすぐそこ。大斎原の大鳥居ほどではないが、それでも大きな木造の大鳥居。そこから石段を上がる。両側は杉が植えられているので、一見、森閑とした参道を行くような雰囲気。でも、どこか薄っぺらい。側の杉の並木の向こう側に道路が透けて見える。また、石段の両脇に並んでいる幟が、アピールし過ぎというか、うるさい。途中、右手に宝物殿(休日のみ開館らしいので、この日は開いていなかった)を過ぎて、石段上がりきると広場になっていて、御朱印帳の受付とかお守りの売り場がある。目立つのは八咫烏の旗。サッカーの日本代表のユニフォームに使われているようなデザインのイラスト。派手な色遣いとモダン風なデザインは、古い感じの神社の空気のなかで浮いている。これは、熊野速玉神社でも共通して感じられたことですが、宣伝(自己宣伝)が目に付くと感じられました。八咫烏の黒いポストなどという仕掛けは、話題作りのためのあざとさと感じられる。それほど広くない石段の上の1000001892 広場の奥は塀で仕切られ、門を入ると神域ということなのだろうか。この屋根付き土塀と檜皮葺の大きな屋根の立派な門は、京都御所の塀と門のミニチュアのように見える。神社の門と分かるのは、門に大きなしめ縄が渡されていること、大きな門幕が掛けられていることでしょうか。それにしても、門幕は大きい。そして、この門を入ると正面に塀があり、その奥に四棟の本殿が並んでいます。この四つの本殿がバラバラというか向きも違うし、二棟を兼ねているものもあるし、様式も違うというように、統一感がない、チグハグで、とにかく立派に見えるものをとりあえず持ってきたとでもいうような行き当たりばったりのような印象。そういえば、通ってきた神門は、前述のように御所風だし、塀越しに見える本殿の屋根は神いかにも神社風だけれど、柱や庇はお寺の装飾的な機構っぽく見える。そういうチグハグさが目に付く。それは無秩序にも見えるし、軽薄にも見える。それほど広くもない敷地にいくつもの祭神をあつめて祀ってあって、多けりゃいいってもんじゃない、といいたくなる。私の個人的な印象では、神聖さとか神秘性という空気はなくて、むしろ俗っぽくて、神聖にありがたさを演出しようとする意図があからさまで、かえって笑ってしまう。そんな印象でした。 1000001894 1000001900

  帰りは、石段を下り、宝物殿の少し下のあたりで右に小道が分かれていて、それが熊野古道の一部であると。でも石段の脇道だった。
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 次の訪問地である熊野速玉神社まではバスで1時間足らず。熊野川に沿って下っていく。このあたり川というのは、深い谷の底にあって、しかし、河原はひろくて、しかもかなり屈曲している。これは水量が多くて、流が急な暴れ川なのだろう。それをダムや堤防で無理に抑えること1000001902

はできなくて、もともとの流れを尊重せざるをえないのだろうと思われる。それだけに、川沿いにバスで通りながら見える川の景色は、関東地方で見られる景色とはかなり違っていて、一見穏やかなのだけれど、その奥底に激しさが垣間見えるような印象。熊野神社などよりも、この風1000001904 景の方がよっぽど神聖な感じがする。熊野神社のご神体とは、むしろ、この熊野川そのものではないかと思えてくるほど。新宮市の街中に入ったところで熊野速玉神社に到着。バスの駐車場は神社の横手なので正面の鳥居をとおらず、直接、神門から境内にはいる。神門と塀は、熊野本宮大社が土塀に木造の白木が風雨で古びた感じになっていたのに対して、漆の赤が鮮明で、塀はいかにも神社の塀という印象。熊野本宮大社よりもコンパクトな境内。神門を入ると正面に拝殿とそこかに延びる塀を隔てて本殿の対物が四棟並んでいる。ここも、熊野本宮大社以上にとりとめのないほどバラバラな建物。それが、漆塗りの鮮やかな朱が軽薄さというか、さらにいうと安っぽい感じを起こさせる。さらに、説明やら幕やらがうるさいほどあって、ほとんどありがたいさを感じない。やっぱり俗っぽいというか。かつての昔はどうだったのか分からないが、現代では伊勢神宮とか明治神宮とか売れている神社があるので、それに負けないように、客寄せに必死になっているという印象。
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 昼食の後、バスは海沿いの道をしばらく走り、川を遡るように山間にはいってゆく。熊野古道大門坂の広い駐車場で降りて、遊歩道のようになっている(駐車場には、この道を歩く人のために杖の貸し出しが無料でされていた)。いちおう林間の整備された階段の道。10分ほどあるいたところで、待っていたバスに乗り、九十九折の道を上がったところが那智の滝の駐車場。いちおう熊野那智大社の一部ということになっているらしい。駐車場といっても大型バスは2台くらいしか停まれない狭いスペース。駐車場でバスを降りると、すぐ那智の滝の入り口の鳥居が1000001912 あって、河原におりるための石段が始まる。さすがに昔からの名所なので、こういうところは整備されている。石段をおりていくと正面に那智の滝が見えてくる。アングルもちょうど正面で、滝の全容がちゃんと見えるようになっている。うまく見栄えするようにできている。見る側は林間の陰にいて、そこから見上げる滝は陽の光を浴びて明るく映える。こんなに明るい滝は珍しい。これは天然の観光地になっている。日光の華厳の滝のように滝を見るために断崖にわざわざエレベーターを作ってでしか生きことのできない滝見台をつくる必要がない。石段を下りれば、誰でも滝を見ることができる。これは、滝がすばらしいこと以上に、容易に滝を見ることができるシチュエィションが素晴らしい。それだけ、那智熊野大社がロケイションに恵まれているということだ。滝は断層による断崖を川の流れが垂直に落下する。ただ、崖の高さに対して滝の水量は少な目のようで、滝の水はすべて滝壺に落ちるまでいたらず、多くは途中で拡散しているようにみえる。それゆえ、滝の落ちる音は、見ている方には爆音のようにつたわってくるということはなく迫力を感じるというほどではない。それゆえ、少し離れた感じで、滝の姿を絵画のように鑑賞することができる。いわば、墨絵のような静かな風景。300円の入場料を払って、御瀧拝所舞台にいくと、テラスのようになっていて、より間近に滝を見ることができる。延命長寿の水とも伝えられている那智御瀧の瀧壺の水を飲むこともできるという。ご利益としてうまく利用している。滝周辺は、鳥居の内側の、いわば聖域ということで、土産物店やレストハウスのうるさい店も、一応ない。神社の社務所を兼ねた、お守りやおみくじはあるが・・。駐車場にもどり、あらためてバスに乗り、たった数分で熊野那智大社の駐車場(といっても土産物店の駐車場)に着いて、バスを降りる。境内図では左下の郵便局のマークのあたりに、その駐車場はあって、そこから石段を上がり、はるか上に見える本殿を目指す。熊野三山の各神社を巡ってきましたが、面白いことに、これらの神社には門前町のような、土産物店やレストハウスが並んでいるところがありませんでした。これは、特徴的なことかもしれません。平安時代には、すでに京都の皇族や貴族が参詣しに来たという古い観光地であるはずなのに、そういうのに対する民間の施設が、あまり整っていない。庶民を相手にしていなかったということなのか。江戸時代に庶民向けに“お伊勢参り”のブームを作り出した伊勢神宮のように積極的なマーケティングをしなかったのではないか、と思った。ここでは、上りの石段そして坂道に沿って点々と硯を売る店や茶店がある。でも門前市とか門前町というほどでもない。汗をかきながら小高い丘に熊野那智大社の大きな赤い鳥居があって、そこを入ると境内。鳥居を入って右手に朱塗りの本殿がある。ここもそうだが、熊野三山の神社は多く1000001920

の神様を祀っている。おそらく、この信仰(と言っていいのか分からないが)は「何とかのみこと」という具体的な神を対象にしたものでしなくて、山とか、滝とか、川とかいったものを崇め畏れていたのではないか。「何とかのみこと」は後付けで、そういうことにした。そして、そういう信仰は体系化されたものであったわけではなく、天照大神とか伊弉冉尊といった神々は古事記の物語のように体系化されたものではなく、それぞれに別個にあって、あとづけで体系を作られた。その結果が古事記だったのではないか。だから、この熊野三山のように神々の体系を考える前に、ありがたいからと無節操に次々と「何とかのみこと」を神社に取り込んでいった。いわば、スーパーマーケットのようなもの。1000001926 熊野三山を見ていて、そんなことを考えた。これは、いわゆる概念としての「宗教」とはちょっと違うのではないかと思う。おそらく、この体系化においては仏教の体系的な思考方法の与るところが大きかったのではないか。神仏習合というが、それがあって、はじめて神道という体系化されたまとまりが可能となったのではないか。ここで熊野の神社をみていると、そういうことがあからさまで隠されていないというか。考えさせられた。この本殿のすぐ裏手に青岸渡寺がある。こちらの建物の方が古い感じがする。建物や本尊を単独で取り出して見て、どうこう、というのではなく、この場所にあるということが、その価値の根源であると思う。熊野の神社もそうだが、これが東京の町中にあったとしたら、たぶん陳腐な神社、寺ということになってしまうと思う。そんなものだと思った。おそらく、ここはバスのような交通機関でスッと来て、神社や寺を見学するというものではなくて、熊野古道とまではいかなくても、この場所を歩くようなゆっくりとしたペースで、場所を味わうべきところであるように思った。

 

2026年8月20日 (木)

猛暑の高野山・熊野三山と南紀(1)~第1日目 高野山

 今回申し込んだツアーは、季節にかかわらず年間何度も行われているようで、募集が始まるとすぐ満員になってしまう人気のツアーらしい。しかし、今回は8月の猛暑の真っ最中だからだろうか、比較的空いていたようだったので、申し込むことができた。実際に参加してみたら、参加者数は18名と少なかった。男女比はちょうど半々。珍しく男性が多い。
 早朝の8時過ぎ、東京駅から新幹線に乗る。学校は夏休みに入っているので混み合っているかと思っていたら、思いのほか空いていた。駅のホームには人影はまばら。おかげで、新幹線は快適だった。新大阪で下車、バスに乗り換えて、高野山へ向かう。大阪から南下するコースだが、高野山まで100分を超えた。移動だけで結構疲れた。
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 かつらぎから高野山に向かう。つづら折りの急登。バスの揺れで、車酔いしてしまいそうなほど。坂を上りきると高野山の境内の町並み。まずは奥の院へ。中の橋駐車場でバスを降りると、案内人が待っていた。ボランティアのような中途半端なものではなくちゃんとしたガイド。高野山が観光地として洗練されたとこであるということがよく分かった。宗教的な聖地などというものではなく、産業としての観光を洗練させ効率的にさせた一種のテーマパークと思える。昔なら境内への入り口である大門から壇上伽藍を通って1.9キロの道を歩くものだった。自動車などなかった前近代では、京都などの近畿圏から徒歩でつづら折りの山道を上り、ようやく境内にたどり着き、そこからさらに奥に1.9キロの道。それが今日ではバスでそれらをパスし奥の院の手前、中の橋までいけてしまう。そこまでの道路は狭い道ながら、高野山の塔頭の間を縫うようにして、その雰囲気を壊さないような境内の町並み(門前町とはいえない)が、ちょっと古びたというか田舎の素朴なという雰囲気をつくり、日本人にはノスタルジックな、外国人にはサムライのエキゾチックな雰囲気をつくり、それが絵になっている。こんなことは京都でもできていない。結果的にこうなっているのだろうが。とくに、ここを訪れる外国人は、中国人はほとんどいなくて、欧米系が大半をしめるというのもわかる気がする。しれは、歴史的にも高野山は、比叡山(延暦寺)や南都の寺院(興福寺)などと違って、時の権力との距離を巧みにとって力を衰えさせることがなかったということにも通じているように思える。洗練された身の振り方という点で。要領がいいのだ。空海という人への、私のイメージでもある。
1000001875  奥の院とは、端的に言えば空海の遺骨を祀る納骨堂が神域としてあって、そのまわりに有力者や組織集団の墓碑が並んでいる、今日でいえば青山墓地や多摩霊園のようなものだ。それが紀伊の鬱蒼とした針葉樹の大木の森(それだけで神域のような神々しい雰囲気)に墓碑の石柱が並び、古いものは苔むしている。ガイドは、これは織田信長とか、豊臣兄弟とか誰々の墓という説明を面白おかしく説明していく。このような歴史的有名人の墓碑は奥の方で、墓碑だけで遺骨は別(だいたいは地元にあるが、これに対して中の橋付近は新しめというか企業が亡くなった社員や関係者の墓が並んでいる。そのような企業の墓は代表的な商品がデザインされていて面白い。なかには震災の犠牲者や戦争の戦死者の慰霊の墓碑もある。それらは宗教や宗派は関係なく、例えば親鸞や法然の墓碑もある。葬式仏教というもののルーツは、このあたりにあるようにも思えてきます。
1000001879  おそらく空海から弘法大師と一般に呼ばれるようになるプロセスで宗教家・思想家あるいはオーガナイザーから衆生をわけへだてなく救済するヒーローに変質していったのだろうか。それに応じて空海の創った組織である高野山も外面を変化させ、中身もそれに引き摺られるように変質していったのだろうか。それゆえでしょうか、御廟の橋を渡ると聖域ということで帽子を脱がなければならないとか撮影禁止とかされていて、それらしい雰囲気はあるのだが、どこか人工的なつりものめいたギミックな印象がつきまとう。たとえば、この聖域のメインの建築物である弘法大師御殿は鉄筋コンクリートで、室内はエアコンがきいている快適な空間なのだが、外見は古い由緒ある建物に見せている。例えば外壁の色はくすんだ古い建物の色を模している。この建物の裏手に弘法大師の霊廟があるのだけれど、そのつくりは神社の奥の本殿そっくり。神仏習合をうまく使っているのでしょう。そのご都合主義的なギミックさは大衆受けは、中世以降の高野山が生き残るkとができた理由のように思えてくるのです。実際のところ奥の院の建築物に見るべきものはないと言い切ることができます。あるのは、山奥の深い原生林のなかに墓碑が散在する石畳の道を歩くという非日常な雰囲気だけだと思います。そこに神秘をみるのは好みの問題です。少なく私はギミックさを強く感じました。空海という人は、日本では希少な独創的な思想家であると思っているので、その跡はこんなものかと呆れたというところです。
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1000001887_20260820225901  奥の院を一通り回ったら、バスで壇上伽藍に向かいました。もとの高野山のオリジナルなところということらしい。しかし、盆地の狭い場所で駐車場をつくるスペースがなくバスを長時間置けないのか、計画の都合上時間が少なくなっているのか。いずれにせよ30分にも満たない時間しかありませんでした。しかし、それがよかったと思います。建築としては陳腐で、じっくり見るようなものではないから。有名らしい真っ赤の大塔はコンクリートのギミックものだったから。メッキが剥がれる前に、それらから離れてしまえばいい。まあ、こんな山奥の辺鄙で不便なところで凝った建築などできるものでないことは容易に想像がつきます。
 これで、空海については彼の思想を追いかけるだけで十分だと思います。高野山は見る必要はないということを実感できました。
あとは白浜温泉の宿にむかうだけです。

 

2026年8月18日 (火)

山口華楊展(5)~第4章 大成─「偉大なる動物画家」として

Yamaguchihorse  「白い馬」は1952年の作品。緑色の地に白い馬という色の配置は東山魁夷の白馬だなあ。実際、色の感じは近いと思う。説明では琳派の作品を見てインスパイアされて、背景を抽象的にして、白く光る馬が浮き上がるような画面は、写実から次の段階に飛躍する転機となった作品と説明されていました。山口の場合は東山魁夷のような幻想的な画面になることはなく、白馬の白と草原の緑という色の対比が印象的です。
Yamaguchileopard  「黒豹」は1960年の作品。黒はグラデーションを施すのが難しかったのか、シンプルに見えます。そうすると平面的な画面がペラペラで単調になってしまっています。
 「霽」は1968年の作品。「黒豹」では単調になってしまった黒を数羽のカラスを画面に構成して配置することで変化を作り出しています。おそらく、カラスの配置は、緻密に計算されたものではないかと思います。それよりも背景の白の複雑なグラデーションが目に付いてしまって、カラスの黒が背景の白に埋もれてしまうような錯覚を覚えます。この作品のような上から見下ろす視線で、群像として配置して描くという作品は、Yamaguchicrow 山口の場合、少なくありません。三匹の猿を群れの中の部分として配置しているような「猿」、白いタイルのベランダで日向ぼっこをしている犬の親子を描いた「日向」など、その傾向の作品は他にも展示されています。「黒豹」もそうです。そこに共通しているのは、ベースとなっている地がとても印象的ということです。「日向」などは、白い毛の母犬は、タイル地の白に溶け込んで埋没してしまいそうにも見えます。また、「猿」では、猿と地の色が同系統であるため、三匹の猿がそれほど際立っていません。それほど、地が念入りに描かれているし、見るものの視線を誘うのです。このような画面の作り方は、山口という画家に、かなり特徴的なのではないかと思います。
Yamaguchiboon  「月夜野」は1971年の作品。薄い夜霧の中、緑色に光る眼をした狐の姿が神秘的に描かれ、と説明されています。三匹の狐の緑色に光る眼の描写がとても印象的です。その眼はエメラルドを想わせる。それ以上に、薄い夜霧と説明されている背景の緑のグラデーションで作られた平面です。具体的な草木の形態は暈かされて、霧を想わせるヴェールのような白みがかった薄い緑が漂う。その薄ぼんやりした平面は、幻想的といってよく。そこから三匹の狐が、その背景に溶け込み、しかし、浮き出ているというあり方は、現実とも幻とも見えます。そんな中で、三匹の緑色に光る眼だけか、際立って目立つ。それゆえ、その眼が、とても印象的です。
Yamaguchiowl  「木霊」は1976年の作品。京都の北野天満宮にある樹齢約600年の大欅の根っこを描いた幻想的な作品で、老樹のうねる根と、そこに佇む小さな木菟を描くことで、樹木が持つ神秘的な生命力を表現している、と説明されています。「青蓮院の老木」の下部の根の部分を土色にして画面いっぱいに描いている作品です。この作品の特徴は、画面右手に木菟を描いていることで、これがアクセントになっている。木菟のまわりに光っているのは、そこに見るものの視線を集めるためでしょうか。この木菟は非現実的です。木の根の描き方が様式的、デザイン的で、画面を構成してつくっている。山口という画家は、もともとこのような志向の画家であるように、作品を見ているかぎり、私にはそう思えます。
Yamaguchicat  「秋晴」は1976年の作品。澄み渡る秋の空気の中、柿の木の下で日向ぼっこをするリアルで愛らしい黒猫を描いた、動物画の名手・華楊の晩年の代表作として知られ、黒猫は薄い墨線で輪郭を柔らかくぼかし、その上から繊細な毛描きを施すことで、黒猫の毛並みの質感をリアルに表現されている。と説明されています。黒猫は写実というよりデフォルメされ、デザイン的に様式化されています。黒猫というと菱田春草の「黒き猫」などの著名な作品がありますが、それらの様式化された猫のデザインを踏まえられているようも、私には思えます。その一方で、紅葉の葉の多彩で複雑な描き方が印象的です。
Yamaguchifox  「幻化」は1979年の作品。狐を、人を化かす狡猾な動物ではなく、夢幻の世界でのびやかに遊ぶ気品ある存在として描いている。緑色の眼が光る幻想的な情景は、的確な写生によって現実感をもたらす。華楊が生涯追求した写実と、生命への深い洞察が結実した、畢生の傑作である。と説明されていました。この展覧会のポスターでも使われていることから、この作品がメダマなのだろうと思います。ただ、説明の通り、この作品が写実なのかどうかは、疑問が大きい。野生の肉食動物、ハンターとしての狐、人間に対して警戒心を隠さない野生動物としての狐の姿は、ここにないからです。この狐は、そのままというより、山口の描く画面のコマとして適当なものとしての狐です。そこに現実感があるかというと、それらしいデザインでしょう。だからいいのですが。私には、背景の地は緑なので草原ということなのでしょうが、水中のように見えて、水中で遊泳している二匹の狐という現実感のない画面に見えます。そういうところが、この作品の魅力ではないでしょうか。私には、この人は色彩の平面で画面を構成するのが本領の画家に思えます。この作品での狐は狐の形態の平面に私には見えます。写実といいますが、実際に狐の毛を細かく描き込むようなことはしません。これは他の作品でもそうです。リアルに対象を迫真に描くということは為されていないのです。
 私には、この一連の展示を見てきて、山口華楊の作品は、日本画の花鳥画を西洋近代の幻想絵画やキュビスム、フォービスムといった近代絵画的に描いてみせたものと見えます。

 

2026年8月17日 (月)

山口華楊展(4)~第3章 探究─植物表現の生命力

Yamaguchitree  「青蓮院の老木」は1973年の作品。前に見た「葉桜」と同じように画面いっぱいに樹木の枝と根の広がりで覆い尽くすような構成で描かれています。それは、画面が緑色で覆い尽くされるということでもあります。その緑のグラデーションというか緑を基調とした様々な色の微妙な組み合わせが、この作品の魅力になっていると思います。緑で画面を溢れさせるには蔓延るように屈曲しながら伸び広がる根の全面に苔が繁茂し、他方で枝には葉が生い茂る老木は、またとない格好の素材だったのだろうと思います。老木の瘤のついたような太い幹は平面的で、重量感がありません。ペラペラです。それだから、緑の画面が重くならならず、幻想的な画面になっていると思います。そして、老木の形状も作為的で、近世初期の絢爛豪華な襖絵のマニエリスティツクな樹木の近代的なアレンジと言えなくもないと思います。
Yamaguchicockscomb  「鶏頭の庭」は1977年の作品。山口の晩年期といってでしょうか、写実とか気にすることなく自由に(好き勝手に、やりたい放題に)画面を造っている作品です。鶏頭の異形のような紅が鮮烈に目に残ります。それ以上に、その背景の枯草のような草地の複雑な色面と、三つ並んだ石のデザイン図形のような形態と複雑な陰影に視線が吸い寄せられます。鶏頭の花を生かすために描かれているのでしょうが、ルービンノの杯のように地と図が逆転して、背景の方が主体に見えてきます。
Yamaguchipeony  「玄花」は1979年の作品。ますますリアルな写生から遠ざかり、つくりものめいた模型のような牡丹の花です。牡丹の花びらをいくつかの色面となっている平面で作られている。それってキュビスムの初期の立体を面に分解するのに近いような感じ。しかも、その各平面の色が色分けされているので、平面ごとに塗り分けられているのはフォービスムの感じ。とはいっても、抽象の方向に向かわず、具象の形はしっかりと残されている。その組み合わせは、いかにも人工的な感じがする。牡丹というより牡丹のフィギアという感じに近い。生命感とか温かさといったものが感じられず、クリスタルな感じといいますか。冷たい感じが、とてもモダン、あるいは近未来な感じがします。

 

2026年8月16日 (日)

山口華楊展(3)~第2章 系譜─師・五雲から華楊へ

Yamaguchicalf  「犢」は1941年の作品。第2次世界大戦の頃ですが、このような戦時高揚とは無縁の作品を描けていたんですね。この人は輪郭線をはっきりとはさせないところがあるようです。地と図の境界がはっきりしない。横山大観なんかの朦朧体とは違ったかたちで、形態が曖昧になる。たしかに実際の事物には輪郭線などないので、輪郭線など描かないのがリアルなのかもしれませんが、山口の場合は、それとは違った理由があるように思われる。たとえば、仔牛の背景となっている草原の描き方です。まるで霧がかったように、白っぽい色彩のなかに淡い緑の濃淡があって、そこに強い白で草や花が線描のように描き込まれている。幻想絵画、私はルドンを思い出しましたが、さらにいえば草原の抽象化された姿に見えます。そこに輪郭が曖昧な仔牛があると、草原から浮き上って独立しているのではなく、草原という平面の一部になっているように見えます。もっというと抽象化された草原という平面上の模様のちょっと色の濃い部分。これから見ていく山口の作品は、そのような傾向が目立っていくように、私には見えます。1944年の「制空」という作品では、背景の空の描き方で、それがさらに進んでいるように見えます。
Yamaguchideer2  「鹿苑」は1969年の作品。複雑に色を重ねて、全体として淡い幻想的な色面をつくり、その色面を組み合わせることによって、画面を構成させて、結果として鹿の絵が出来上がっているという作品です。全体の背景となっている草原は、緑をベースにして白を重ねているように見えますが、そこに多彩な色が複雑に重ねられて、そのムラが草原を結果として表わすひとつの平面になっています。そして、画面上部には、円形の境界で区切られて、緑の地に白で草が描かれている。それは、写実的なリアルな草原というのではなく、静謐で涼やかな空気感を画面に作り出すような幻想的な平面を作り出していると思います。このような草原という背景の上に5頭の鹿の輪郭をした平面の色面が配置されています。これらの鹿の輪郭の色面は茶色を基調とする鹿の間にグレーと白を基調とする鹿を配して、同系統の色が重ならないようにして、色面が混ざり合わないようにしています。これなど、写実的な鹿の描写よりも、色面の構成で画面を作っている表われのように思います。それででしょうか、草原に鹿が憩でいる様子というより、薄いグリーンの下地から鹿の形の色面が浮かんでいるように見えます。そういう構成された画面の面白さが、この絵の魅力ではないかと思います。
Yamaguchiwait  「待春」は制作年不詳の小品。雪で埋もれた洞穴から顔を覗かせる兎。華楊は「兎が一番可愛らしい」と言い、雪解けの静かな情景の中に、春を待つ生命の息吹を繊細に表現している。と説明されていました。というより、私には、この絵の特徴は画面の大半を占める雪の白い色面の描き方ではないかと思います。白が印象的ですが、真っ白一色ではない。薄いグレーをはじめとする多彩な色を重ねて、しかも、全体が重くならないように、白の印象を妨げないようにして、フワフワしている泡のような印象になっているとこではないかと思います。この作品は、この白い面を見るもので、画面中央のウサギの茶色や若葉の緑は、その白を際立出せるための一種の背景に過ぎないのでは、思えるほどです。
 こうしてみると、山口華楊という画家は色面で画面を造る人できないか、動物や植物は、その色面のための題材にすぎないと思います。

 

山口華楊展(2)~第1章 初期作品

Yamaguchicherry  「葉桜」は1921年の、山口22歳のときの作品。“華楊の自然への飽くなき探求心と、執拗なまでの写実へのこだわりが結実した作品”と説明されていました。でも、ここで描かれているのが、葉桜に見えますでしょうか。枝が垂れ下がっているので枝垂桜でしょうか。それにしても葉が大きいし、多すぎるのではないか。ただ、それゆえに、桜の葉が画面いっぱいに、埋め尽くすように描かれています。余白がないという、結構大胆な構図です。かつて見た船田玉樹の「花の夕」という画面いっぱいにピンクの花が埋め尽くされている構図を思い出しました。山口の「葉桜」の方が先ですが。その一事をもって写生とは言えないのではないでしょうか。この作品では、桜の葉のグリーンが画面を埋め尽くして、そのグリーンのバリエーションが画面にリズムをつくりだしている。画面上のグリーンの諧調が、この作品の主眼だったのではないかと思えてきます。桜の葉はリアルに丁寧に一枚一枚描かれているというのではなく(葉脈とか描かれていない)、葉っぱの形のグリーンの平面が、様々なグリーンである。まるで葉の形による点描のようでもあります。そしてまた、桜の樹の根元のところに蛇が描かれている。そうすると、全体を描く視点は上から鳥瞰的に見下ろすようなのか、というと桜の樹は正面の視線で描かれているように見えます。空間になっていない。このどこが写生なのだろうか。このような作られた画面の中心に桜が描かれている余白に蛇が描かれていると、何か意図があるのではないかと勘繰りたくなります。そんないわくありげな効果を狙っているのでしょうか。若さゆえの衒いでしょうか。
Yamaguchideer  「鹿」は1927年の作品。個々の鹿のポーズは様式化されているとの説明がありましたが、たしかに写生のリアルさではない。身体が無理しているような不自然さ、ポーズのために無理をしている。山口自身は“動物の人間くさいところを描いてみたいと考えるようになった”と語ったと説明されていました。つまり擬人的な表情づけをしているというわけです。寛いでいる母子の情景で、母親が子どもを愛しんでいるような、そして子供が母親のもとで安心しきっているという母と子の愛情の姿が彷彿とされる。つまり、人物画で描くようなことを鹿で描こうとしたというわけです。それって、写生ではないですよね。むしろ。象徴主義的、あるいは幻想的と言えるのではないか。「葉桜」が画面いっぱいに桜の葉で埋めたのに対して、この「鹿」では画面の上半分を大きく空白とって、しかも、その上部の左右の隅に紅葉の色づきはじめる兆しの時期の葉が描かれています。もみじになってしまったのではなく、これから紅葉が始まるという状態ですから全体は緑の葉で、突端は色づきはじめる。となると、一枚の葉のなかの色のバリエーションは却って多彩になります。しかも色合いは微妙です。その細かな色の移ろいを山口は描きたかったのではないか。「葉桜」にしろ「鹿」にしろ、山口の作品は画面をつくっている、そういう意図的な画面作りをしている。

 

2026年8月14日 (金)

山口華楊展(1)

2026年7月23日(木)SOMPO美術館
Yamaguchipos  第1期試験が今日の14時30分に最後の科目が終わった。試験から解放されたところで、真っ直ぐ帰宅する気にならず、近くの美術展を見に、寄り道をすることにした。新宿駅は大規模な改装工事中のようで、改札や通路が仮になって、以前と様相が一変していた。まず、西口広場に出られない。広場がなくなっていた。西口交番を見つけて、漸く位置がわかり、地下道をみつけ(地上は猛暑で、歩く気がしない)、SOMPO美術館に行き着くことができた。
 山口華楊展は始まってから一週間ほどということも、猛暑ということもあるが、来場者はそこそこという程度。1階の無駄に広いロビーでチケットを購入し、エレベーターで5階へ。作品リストだけでなく作品解説も配っていた。作品解説は展示作品のキャプションに書かれていたことが、作品ごとにまとめられていたもので、私のような作品を見ながらメモをとる者にとっては便利なもの。今まで、このようなことをしてくれる美術館はなかったので、ありがたかった。でもこんなことをすれば、図録を買う人が減ってしまうのではないか、と余計な心配をしたりして。
 会場では、山口華楊について、次のように概要が説明されていました。“SOMPO美術館開館50周年を記念し、日本画家・山口華楊(1899~1984)の画業を包括的に紹介する大規模回顧展が開催されます。京都画壇を代表する巨匠でありながら、東京では1999年以来27年ぶりの開催となる本展は、その初期から晩年までの約60年にわたる創作活動の全貌に迫る貴重な機会です。当館が所蔵する代表作3点「葉桜」「猿」「幻化」を核に、写生に基づく独自の動物表現で日本の近現代美術史に確かな足跡を残した山口華楊の芸術世界を存分に堪能できるでしょう。本展の最大の魅力は、山口華楊という画家の、類い稀な観察眼と普遍的な生命観に貫かれた芸術を、その変遷とともに深く理解できる点にあります。華楊は、伝統的な日本画の技法を受け継ぎながらも、西洋絵画の写実性や桃山時代、宋元院体画などの生命表現を取り入れ、現代に通じる洗練された動物画という独自のジャンルを確立しました。彼の作品は単なる動物の描写に留まらず、動物たちが持つ本質的な生命力や、時に人間にも通じる感情、あるいは深遠な精神性を湛えています。幼い頃から並外れた才能を見せ、師である西村五雲の指導のもと写生を徹底。1981年には文化勲章を受章し、国際的にも「偉大なる現代の動物画家」と称賛されるなど、国内外でその功績が高く評価されています。本展では、山口華楊の初期の研鑽から晩年の到達点まで、約60年にわたる画業の全貌を体系的に紹介します。特にSOMPO美術館所蔵の3作品は、彼の芸術の核となるでしょう。”
 上のあいさつには写生が強調されていますが、山口の描く動物からはリアルな迫力や存在感は感じられません。形態には歪みが感じられるし、立体感はなく、動物の毛や羽根は大雑把に省略されています。むしろ、花鳥画に近代的な様相を施したものと、私には思えます。
個々の作品を見て、そのことを確かめようと思います。

 

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