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2026年8月23日 (日)

猛暑の高野山・熊野三山と南紀(2)~第2日目 熊野三山

 連泊なので荷物を部屋において身軽に、朝8時過ぎに出発。本日観光する熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の三つの神社だという。三社は個別の自然崇拝に起源を持つが、三社の主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰されるようになった、ということです。地図を見ると、三社はそれぞれ数十キロ離れた場所にあり、それらの間をつなぐのが熊野古道というわけです。おのおのの神社が単独で参詣者を得るには力が足りないので、三つの神社が提携して三社のセットで参詣するようにして、主要な顧客層である京都から遠路はるばる足を運んでもらって、神社ひとつでは物足りないだろうから、三つの神社をまわるようにして、那智の滝というプラスアルファを追加したというところでしょうか。たしかに現在の、それぞれの神社を単独でみると「こんなものか?」という物足りなさを否定できない。現在がこのようだからと、かつての姿は同じとはいえないでしょうから、留保はつきますが。
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 海沿いの南紀白浜から山に分け入っていく。音無川をさかのぼり、その本流である熊野川の谷間の道に出て、遡ると河原が広くなったとろが開けて集落になっているところ、その中央に熊野本宮大社がある。このツアーは有名な大斎原の大鳥居には寄らず(バスが通過したこ004_20260823232701 とも気づかなかった)、現在の宮の正面、ゲストハウスを兼ねている瑞鳳殿脇の駐車場で、バスを降りた。現在の宮の入り口である一の鳥居はすぐそこ。大斎原の大鳥居ほどではないが、それでも大きな木造の大鳥居。そこから石段を上がる。両側は杉が植えられているので、一見、森閑とした参道を行くような雰囲気。でも、どこか薄っぺらい。側の杉の並木の向こう側に道路が透けて見える。また、石段の両脇に並んでいる幟が、アピールし過ぎというか、うるさい。途中、右手に宝物殿(休日のみ開館らしいので、この日は開いていなかった)を過ぎて、石段上がりきると広場になっていて、御朱印帳の受付とかお守りの売り場がある。目立つのは八咫烏の旗。サッカーの日本代表のユニフォームに使われているようなデザインのイラスト。派手な色遣いとモダン風なデザインは、古い感じの神社の空気のなかで浮いている。これは、熊野速玉神社でも共通して感じられたことですが、宣伝(自己宣伝)が目に付くと感じられました。八咫烏の黒いポストなどという仕掛けは、話題作りのためのあざとさと感じられる。それほど広くない石段の上の1000001892 広場の奥は塀で仕切られ、門を入ると神域ということなのだろうか。この屋根付き土塀と檜皮葺の大きな屋根の立派な門は、京都御所の塀と門のミニチュアのように見える。神社の門と分かるのは、門に大きなしめ縄が渡されていること、大きな門幕が掛けられていることでしょうか。それにしても、門幕は大きい。そして、この門を入ると正面に塀があり、その奥に四棟の本殿が並んでいます。この四つの本殿がバラバラというか向きも違うし、二棟を兼ねているものもあるし、様式も違うというように、統一感がない、チグハグで、とにかく立派に見えるものをとりあえず持ってきたとでもいうような行き当たりばったりのような印象。そういえば、通ってきた神門は、前述のように御所風だし、塀越しに見える本殿の屋根は神いかにも神社風だけれど、柱や庇はお寺の装飾的な機構っぽく見える。そういうチグハグさが目に付く。それは無秩序にも見えるし、軽薄にも見える。それほど広くもない敷地にいくつもの祭神をあつめて祀ってあって、多けりゃいいってもんじゃない、といいたくなる。私の個人的な印象では、神聖さとか神秘性という空気はなくて、むしろ俗っぽくて、神聖にありがたさを演出しようとする意図があからさまで、かえって笑ってしまう。そんな印象でした。 1000001894 1000001900

  帰りは、石段を下り、宝物殿の少し下のあたりで右に小道が分かれていて、それが熊野古道の一部であると。でも石段の脇道だった。
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 次の訪問地である熊野速玉神社まではバスで1時間足らず。熊野川に沿って下っていく。このあたり川というのは、深い谷の底にあって、しかし、河原はひろくて、しかもかなり屈曲している。これは水量が多くて、流が急な暴れ川なのだろう。それをダムや堤防で無理に抑えること1000001902

はできなくて、もともとの流れを尊重せざるをえないのだろうと思われる。それだけに、川沿いにバスで通りながら見える川の景色は、関東地方で見られる景色とはかなり違っていて、一見穏やかなのだけれど、その奥底に激しさが垣間見えるような印象。熊野神社などよりも、この風1000001904 景の方がよっぽど神聖な感じがする。熊野神社のご神体とは、むしろ、この熊野川そのものではないかと思えてくるほど。新宮市の街中に入ったところで熊野速玉神社に到着。バスの駐車場は神社の横手なので正面の鳥居をとおらず、直接、神門から境内にはいる。神門と塀は、熊野本宮大社が土塀に木造の白木が風雨で古びた感じになっていたのに対して、漆の赤が鮮明で、塀はいかにも神社の塀という印象。熊野本宮大社よりもコンパクトな境内。神門を入ると正面に拝殿とそこかに延びる塀を隔てて本殿の対物が四棟並んでいる。ここも、熊野本宮大社以上にとりとめのないほどバラバラな建物。それが、漆塗りの鮮やかな朱が軽薄さというか、さらにいうと安っぽい感じを起こさせる。さらに、説明やら幕やらがうるさいほどあって、ほとんどありがたいさを感じない。やっぱり俗っぽいというか。かつての昔はどうだったのか分からないが、現代では伊勢神宮とか明治神宮とか売れている神社があるので、それに負けないように、客寄せに必死になっているという印象。
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 昼食の後、バスは海沿いの道をしばらく走り、川を遡るように山間にはいってゆく。熊野古道大門坂の広い駐車場で降りて、遊歩道のようになっている(駐車場には、この道を歩く人のために杖の貸し出しが無料でされていた)。いちおう林間の整備された階段の道。10分ほどあるいたところで、待っていたバスに乗り、九十九折の道を上がったところが那智の滝の駐車場。いちおう熊野那智大社の一部ということになっているらしい。駐車場といっても大型バスは2台くらいしか停まれない狭いスペース。駐車場でバスを降りると、すぐ那智の滝の入り口の鳥居が1000001912 あって、河原におりるための石段が始まる。さすがに昔からの名所なので、こういうところは整備されている。石段をおりていくと正面に那智の滝が見えてくる。アングルもちょうど正面で、滝の全容がちゃんと見えるようになっている。うまく見栄えするようにできている。見る側は林間の陰にいて、そこから見上げる滝は陽の光を浴びて明るく映える。こんなに明るい滝は珍しい。これは天然の観光地になっている。日光の華厳の滝のように滝を見るために断崖にわざわざエレベーターを作ってでしか生きことのできない滝見台をつくる必要がない。石段を下りれば、誰でも滝を見ることができる。これは、滝がすばらしいこと以上に、容易に滝を見ることができるシチュエィションが素晴らしい。それだけ、那智熊野大社がロケイションに恵まれているということだ。滝は断層による断崖を川の流れが垂直に落下する。ただ、崖の高さに対して滝の水量は少な目のようで、滝の水はすべて滝壺に落ちるまでいたらず、多くは途中で拡散しているようにみえる。それゆえ、滝の落ちる音は、見ている方には爆音のようにつたわってくるということはなく迫力を感じるというほどではない。それゆえ、少し離れた感じで、滝の姿を絵画のように鑑賞することができる。いわば、墨絵のような静かな風景。300円の入場料を払って、御瀧拝所舞台にいくと、テラスのようになっていて、より間近に滝を見ることができる。延命長寿の水とも伝えられている那智御瀧の瀧壺の水を飲むこともできるという。ご利益としてうまく利用している。滝周辺は、鳥居の内側の、いわば聖域ということで、土産物店やレストハウスのうるさい店も、一応ない。神社の社務所を兼ねた、お守りやおみくじはあるが・・。駐車場にもどり、あらためてバスに乗り、たった数分で熊野那智大社の駐車場(といっても土産物店の駐車場)に着いて、バスを降りる。境内図では左下の郵便局のマークのあたりに、その駐車場はあって、そこから石段を上がり、はるか上に見える本殿を目指す。熊野三山の各神社を巡ってきましたが、面白いことに、これらの神社には門前町のような、土産物店やレストハウスが並んでいるところがありませんでした。これは、特徴的なことかもしれません。平安時代には、すでに京都の皇族や貴族が参詣しに来たという古い観光地であるはずなのに、そういうのに対する民間の施設が、あまり整っていない。庶民を相手にしていなかったということなのか。江戸時代に庶民向けに“お伊勢参り”のブームを作り出した伊勢神宮のように積極的なマーケティングをしなかったのではないか、と思った。ここでは、上りの石段そして坂道に沿って点々と硯を売る店や茶店がある。でも門前市とか門前町というほどでもない。汗をかきながら小高い丘に熊野那智大社の大きな赤い鳥居があって、そこを入ると境内。鳥居を入って右手に朱塗りの本殿がある。ここもそうだが、熊野三山の神社は多く1000001920

の神様を祀っている。おそらく、この信仰(と言っていいのか分からないが)は「何とかのみこと」という具体的な神を対象にしたものでしなくて、山とか、滝とか、川とかいったものを崇め畏れていたのではないか。「何とかのみこと」は後付けで、そういうことにした。そして、そういう信仰は体系化されたものであったわけではなく、天照大神とか伊弉冉尊といった神々は古事記の物語のように体系化されたものではなく、それぞれに別個にあって、あとづけで体系を作られた。その結果が古事記だったのではないか。だから、この熊野三山のように神々の体系を考える前に、ありがたいからと無節操に次々と「何とかのみこと」を神社に取り込んでいった。いわば、スーパーマーケットのようなもの。1000001926 熊野三山を見ていて、そんなことを考えた。これは、いわゆる概念としての「宗教」とはちょっと違うのではないかと思う。おそらく、この体系化においては仏教の体系的な思考方法の与るところが大きかったのではないか。神仏習合というが、それがあって、はじめて神道という体系化されたまとまりが可能となったのではないか。ここで熊野の神社をみていると、そういうことがあからさまで隠されていないというか。考えさせられた。この本殿のすぐ裏手に青岸渡寺がある。こちらの建物の方が古い感じがする。建物や本尊を単独で取り出して見て、どうこう、というのではなく、この場所にあるということが、その価値の根源であると思う。熊野の神社もそうだが、これが東京の町中にあったとしたら、たぶん陳腐な神社、寺ということになってしまうと思う。そんなものだと思った。おそらく、ここはバスのような交通機関でスッと来て、神社や寺を見学するというものではなくて、熊野古道とまではいかなくても、この場所を歩くようなゆっくりとしたペースで、場所を味わうべきところであるように思った。

 

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