山口華楊展(2)~第1章 初期作品
「葉桜」は1921年の、山口22歳のときの作品。“華楊の自然への飽くなき探求心と、執拗なまでの写実へのこだわりが結実した作品”と説明されていました。でも、ここで描かれているのが、葉桜に見えますでしょうか。枝が垂れ下がっているので枝垂桜でしょうか。それにしても葉が大きいし、多すぎるのではないか。ただ、それゆえに、桜の葉が画面いっぱいに、埋め尽くすように描かれています。余白がないという、結構大胆な構図です。かつて見た船田玉樹の「花の夕」という画面いっぱいにピンクの花が埋め尽くされている構図を思い出しました。山口の「葉桜」の方が先ですが。その一事をもって写生とは言えないのではないでしょうか。この作品では、桜の葉のグリーンが画面を埋め尽くして、そのグリーンのバリエーションが画面にリズムをつくりだしている。画面上のグリーンの諧調が、この作品の主眼だったのではないかと思えてきます。桜の葉はリアルに丁寧に一枚一枚描かれているというのではなく(葉脈とか描かれていない)、葉っぱの形のグリーンの平面が、様々なグリーンである。まるで葉の形による点描のようでもあります。そしてまた、桜の樹の根元のところに蛇が描かれている。そうすると、全体を描く視点は上から鳥瞰的に見下ろすようなのか、というと桜の樹は正面の視線で描かれているように見えます。空間になっていない。このどこが写生なのだろうか。このような作られた画面の中心に桜が描かれている余白に蛇が描かれていると、何か意図があるのではないかと勘繰りたくなります。そんないわくありげな効果を狙っているのでしょうか。若さゆえの衒いでしょうか。
「鹿」は1927年の作品。個々の鹿のポーズは様式化されているとの説明がありましたが、たしかに写生のリアルさではない。身体が無理しているような不自然さ、ポーズのために無理をしている。山口自身は“動物の人間くさいところを描いてみたいと考えるようになった”と語ったと説明されていました。つまり擬人的な表情づけをしているというわけです。寛いでいる母子の情景で、母親が子どもを愛しんでいるような、そして子供が母親のもとで安心しきっているという母と子の愛情の姿が彷彿とされる。つまり、人物画で描くようなことを鹿で描こうとしたというわけです。それって、写生ではないですよね。むしろ。象徴主義的、あるいは幻想的と言えるのではないか。「葉桜」が画面いっぱいに桜の葉で埋めたのに対して、この「鹿」では画面の上半分を大きく空白とって、しかも、その上部の左右の隅に紅葉の色づきはじめる兆しの時期の葉が描かれています。もみじになってしまったのではなく、これから紅葉が始まるという状態ですから全体は緑の葉で、突端は色づきはじめる。となると、一枚の葉のなかの色のバリエーションは却って多彩になります。しかも色合いは微妙です。その細かな色の移ろいを山口は描きたかったのではないか。「葉桜」にしろ「鹿」にしろ、山口の作品は画面をつくっている、そういう意図的な画面作りをしている。
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