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日記・コラム・つぶやき

2017年6月25日 (日)

テレビっ子だった

テレビっ子だった。多少は、その記憶が残っている方であると思う。

111111111 多分、筒井康孝の『時をかける少女』を初めて映像化したのは、NHKの少年ドラマシリーズの第一作『タイムトラベラー』ではかったかと思う。この時に主人公の芳山和子を演じていたのが島田淳子だった。この時は丸顔の少女だった彼女は、その後浅野真弓と名を変えて、都会的に洗練れた雰囲気で石立鉄夫とコメディを演じていた。ちなみに、この時の少年ドラマシリーズは、このほかにも眉村卓の「ねらわれた学園」「なぞの転校生」、光瀬龍の「暁はただ銀色」「ゆうばえ作戦」とか、SFの佳作を取り上げていた(少年ドラマシリーズはSFだけでなく、小林信彦の「怪人オヨヨ」、獅子文六の「悦ちゃん」、ギリシャ神話による「少年オルフェ」や「けんかえれじい」なんか精力的にドラマ化していた)。「ゆうばえ作戦」に志摩みずえが出ていた。

ちなみに、浅野真弓が石立鉄夫と共演した「雑居時代」には子役時代の杉田かおるがでていた。また石立鉄夫と共演した村地弘美も忘れがたい。 

1111111112 菱見百合子のアンヌ隊員は、サイズが小さいと思えるほどパッツンパッツンのウルトラ警備隊のユニフォーム姿が鮮烈で、最終回のダンがウルトラセブンであることをアンヌに告白したときに、ガラッとポジからネガに画面が反転して、シューマンのピアノ協奏曲の冒頭のピアノとオーケストラのトゥッティが挿入される衝撃(ディヌ・リパッティのピアノとカラヤン指揮の名録音)は、涙なしには見られない。特撮ものでは、巨大ロボットの活躍するレッドバロンに出ていた牧れいは、とにかく、ミニスカート姿でのアクションがカッコ良かった。たぶん志穂美悦子とともに最初の本格アクション女優だったのではないか。一方、ロボットものでは「ジャイアントロボ」。後にプレイガールにもでていた片山由美子のファンは多いが、天才少女役の桑原友美は、その他にも子供向けドラマにちょくちょく出ていた。これも最終回の少年の命令に背いて(ロボットがら指令に従って動く)、悪の親玉を抱いて自爆するのも、涙を誘うものだった。 

1111111113 日テレ系列の熱血教師が主人公の学園ドラマもよく見ていた。タイトルに「青春」の二文字が必ず使われていた。中でも、浜畑賢吉が教師役の「進め!青春」はすぐに終わってしまって地味だった(その次が、村野武範の「飛び出せ!青春」)が、亀井光代が同僚の教師役だったのが、記憶に残っている。とくに、フェンシング部の顧問という設定で、フェンシングのスーツ姿には、ドキッとさせられた。この学園ドラマシリーズの生徒役で、記憶に残る人は多い。「でっかい青春」に出ていた菊容子。この人は「好き!好き!魔女先生」に主演して“アンドロかめ~ん!”と、ポカンと口を開けた表情で叫んで変身する姿を覚えている。また「飛び出せ!青春」で石橋正次のガールフレンドを演じた大田黒久美。「おれは男だ」で森田健作のライバル剣士の丹下竜子を演じた小川ひろみ。その他にも有吉ひとみ、水沢有美、なんかもそう。 

1111111115 地味な青春ドラマで「あしたに駆けろ!」で優等生を演じていたのが栗田ひろみ。このドラマはすぐ終わってしまったと思うが、ヒロインの鳥居恵子は人気があって、栗田ひろみは今でいえばアイドルのような扱いだった。この人は、その後、倉本聰が、後の富良野に引っ込んでモノローグばかり劇的緊張のない退屈なシナリオを書く前の未だ面白い頃のドラマで「6羽のかもめ」の6人の主人公のひとりとなった。ポッチャリした体形で丸顔の可愛らしい人だったが、不思議な翳りがあった。タイトルのかもめというのはチェーホフの戯曲に由来するが、それに通じる雰囲気があった人だった。

保倉幸恵は一部で根強いファンを持っているようで、高取英や川本三郎らはオマージュの文を発表しているほど。例えば、川本は「マイ・バック・ページ」で1章を割いて彼女の思い出を書いている。NHK銀河テレビ小説というシリーズの「黄色い涙」というドラマで、原作が永島慎二の青春劇画で、歌手、画家、小説家、マンガ家という夢に挫折し悩む主人公たちの行きつけの喫茶店のウェイトレスを演じ、天使のような存在に見えた。

2017年6月19日 (月)

年功序列を、きちんと正確に経営で考えてみたい?

 上場企業の大半は3月決算で、一部の例外を除いてその決算発表が行われ、株主総会が行われ始めています。その決算は、会計基準という一定のルールのもとに行われていますが、そのルールは毎年のように見直しが行われています。その見直しの傾向は、そのひとつが時価会計といわれるもので、その時点での企業の状況を精確に表わそうというものです。決算とは、もともとそういうもので、何をいまさらと思う方も多いと思います。例えば、商売をやっていれば、売上があって、そこから仕入れや経費をさし引いた残りが利益で、それで何かおかしいところがあるのか、と疑問に思われるかもしれません。原則的にはそうなのですが、細かいところを見ると、それだけでは十分でなくなる。例えば、固定資産とその減価償却です。例えば、商売の必要で配達用の自動車を買ったとしたら、その代金を支払います。それは、経費ではなくて、固定資産の購入ということになります。それはなぜかといえば、買った自動車は数年間使用することになるからです。仮に5年間使ったとしたら、5年間の売上に寄与したことになります。それを購入した1年目の経費としてしまうと、自動車を使用した5年間のうち1年目だけに経費がかかってしまうことになります。そこに偏りがあるということになります。そこで、自動車を購入した場合には代金の支払いは経費ではなく、固定資産として計上し、減価償却として5年間に分割して経費として、それぞれの売上に対する経費として計上するというわけです。また、売れ残った製品は在庫として倉庫に残っていますが、もはや売れ残りを定価で販売することはできなくなります。そこで、定価で販売できなくなるということは、定価相当の製品の価値が減少することになります。それを減損といいます。その減損した価値を経費として計上することになります。例えば、貸倒引当金であるとか、資産の評価替え、税効果、その他で様々なことがあります。
1年間という限られた期間だけに関係するものだけに限って売上や経費を計算して、差し引きの収支を計算し、その結果としての財産の状態を厳密に割り出そうとする。それを時価会計と呼んでいます。
 前置きが長くなりました。そこで、そういう傾向のなかで、人件費、とくに給与ということについて、試しに考えてみたいと思います。企業に勤める人の給与は月給として払われますが、その分は給与として経費に計上されます。月給は1か月働いて、その対価ということで経費として計上するということでしょう。でも、その月給というのは、果たして実質をみると1か月の労働の対価なのでしょうか。それは、日本の賃金人事制度である年功序列ということと関係していることです。だんだん薄れてはきていますが、日本企業の場合、新卒で入社すると一律の初任給をもらいます。仕事は入社してから配属されて、当初は新人研修とか、入社してから配属、仕事が決まり、そこで一から仕事を教わって、見習いのような期間が続きます。大企業などでは入社してから数年の間は、そういう扱いで、色々な部署を経験させられるといいます。それは、そういう場合は、その人がやっているのは全部、その1年間の事業に直接貢献しているということではないことになります。つまり、その人のやっているのは、将来のための準備ということで、これから何年か先の事業のためのことをやっているわけです。言ってみれば、研究開発のようなもので、いま開発しているのは何年か後の製品に結実するための費用で、将来の製品の売上のための経費の前払いのようです。とくに大きな企業では入社1年目の新人などは、直接、その年度の事業に関わる労働をしていないでしょう。だから、その人の給与は、将来の事業の売上の経費の前払いということが、その実質ということになるでしょう。その後、若い戦力になったら、低い給与で最前線で戦力となって貢献する。そこでは、給料以上の貢献をして、歳をとったら、その反対。それが年功序列の賃金制度ということになるのでしょうが、それは、事業とそれに関係する経費の動きとずれているところがあります。だから、時価会計の考え方でいえば、事業の状況を正しく反映していないと言えます。これが、アメリカ企業の職務給のようなシステムであれば、事業のためのミッションを人に求めて、その能力を持った人がミッションを行い、その対価として給与をもらう。そういう給与の計上の中身と日本企業の年功給とをおなじように並べるのは、誤解を招くかもしれません。もし、そういう、年度の事業に直接かかわるか否かで人の働きの中身を吟味して、その分だけを年度の経費として、また、以前の前払いの分や後払いの予定の分を計上してみると、その企業の人の内実が、会計上で正確に把握することができることになるのではないでしょうか。それで、同じ社員数でも、その年度費用によって労働生産性の内実の違いが、明らかにあらわれるのではないかと思います。その時、よくいわれる日本企業の労働生産性のことなどが、米国企業と比較できることになるのではないか。
 経営者のなかには、従業員は財産で、賃金は投資のように考えて人財という言い方をする人がいます。そういう人は、本気でそう考えているなら、財産として、人にかかわる費用の面でも本気で考えていないのではないか、そうであれば、上で書いたように考える経営者がいてもいいのではないか。投資家とか、アナリストなんかも、経営者の人に対する考え方を確認することがあってもいいのではないかと思うことがあります。

2017年6月13日 (火)

オリンピックとかのイベントに期待するのはやめた方がいい?

 パンダの出産があったというニュースがありました。これはたいへん、おめでたいことだとは思います(ただ私には全く興味がもてないものですが)。そのもの珍しさ、いってみれば非日常的なイベントに引き寄せられる野次馬のような人々で動物園の入場者が普段を大きく上回り、動物園周辺の土産物店や飲食店が波及効果で売上が増えたり、便乗商品がつくられて一定の売上をあげたりする。いわばパンダ出産による経済効果が試算されていて、267億円にもなるそうです。大金です。関係者には切実で利益は喉から手が出るほど欲しいとは思います。でもそれは一過性のもので、その事業自体が拡大するわけではないのです。他方で、一時的ではあっても売上規模が増えれば、それに対応して従業員をふやしたり、規模を拡大しなければならなくなるでしょう。つまり、コスト構造も大きくなるわけです。だけど、売上増大が一過性であれば、イベントが終わると売上規模は元に戻って、少ない規模に減ってしまいます。その一方でコスト構造を拡大させたのを元に戻すことは、縮小させることになります。しかし、これは場合によってはリストラ(レイオフ)を伴うなど困難なことです。いったん大きくしてしまったのを、縮めるというのは大変なことなのです。かつて、バブル景気が崩壊して以来、日本企業は縮小に苦吟してきました。当時は、足掻くように本業以外に手を出して、多角化を図ることにより、縮小から逃げようとして失敗を重ねました。それだけ、やりたくないのです。そこで、売上規模を落とさないように、新たなイベントを求めて、一過性の売上の夢をもう一度と、図ることになるわけです。それが繰り返されると、一種の麻薬中毒のような事業運営に陥る危険もある。実際のところ、地方のシャッター商店街の活性化策でイベントを始めたはいいが、イベント頼みに陥って、イベントを開かないと集客できないようになり、イベントを絶やさないようにしているうちに商店街の本業と両立できず、人々は疲れてしまい、次第に本業が等閑になって、却って疲弊を早めたというケースもあるということを聞きます。
 オリンピックや万博も経済効果に期待する向きもあるようだけれど、イベント頼みになる危険は高いのではないか。イベントが終わった後の、つまりは祭りの後の喪失感が蔓延することは避けられない。これも同じです。
 地道に収入を重ねていたサラリーマンが、ある日宝くじで一等を当てて、億単位の多額な賞金を得たとして、それはおめでたいことでしょうが。いわばあぶく銭です。何もしないで、大金を得ることができしまうと、毎日セコく働くのがバカバカしくなって、他方で金遣いが荒くなって浪費癖が抜けなくなり、生活が荒れて、しまいには身を持ち崩すといった例が多いと聞きます。イベント頼みの事業と同じように、私には見えます。
 道徳めいたタテマエかもしれないませんが、脇見などしないで普段の日常的な事業を成長させることを、進める方が好ましいと思うのです。これは、私の偏見なのだろうし、良い悪いではなくて、好き嫌いで書いています。

2017年6月12日 (月)

人生とは自分の存在意味を消し去るためにある?

 『史記』の「五帝本記」は中国古代神話の国の始まりを記したものです。そこには、伝説の皇帝堯舜のエピソードが書かれています。伝説の皇帝堯がお忍びで市井に赴き、庶民の暮している姿を見て、自らの治世がうまくいっていけるかを確かめようとしました。そこで彼は街中で老人が、平穏な生活を謳歌しているのを見ます。老人は、皇帝なんているのか?と歌っていたといいます。皇帝を前にして失礼な話です。これは、中国古代の政治の理想ということとして司馬遷は語っていると考えられます。道教的な思想というのか。言ってみれば、理想の政治とは政治がなくなるということ。“万人の万人による闘争”が人というものであれば、それを治めるには政治が不可欠です。そういう闘争が起こらない世界を創り上げるのが政治の目的ということになるでしょう。もし、かりにその目標を達して、そういう世界が実現したとしたら、政治というのは必要なくなる。
 それは政治に限らず、人と人との関係において、人の理想の目標が、自身の存在意義を消失させてしまうものがあるといえるのではないでしょうか。実際に、その理想を粛然と受け入れている人々がいます。何か畏れ多いものと思われるかもしれませんが、ひとつの見方として、親が子を育てあげると、子は大人になって独立します。つまり、親を必要としなくなるわけです。とどのつまりは、親は子を大人に育てる。自分を必要としなくなるために子を育てる、ともいえるのではないでしょうか。
 こじつけかもしれなませんが、見方によっては、警察の目的は犯罪などおこらず人々が安心して暮らせる世の中を作ることとすれば、そうなった時に警察は必要なくなるわけです。また、真理を究明することが学問研究の理想だとすれば、もし真理に到達したときに学問は不要になるわけです。それは絵に描いた餅のようなもので、辿りつけない理想として、それが分かっていても、そこを目指して、眼の前の瑣事に足掻いているのが実情であるにしても、です。ある種、人の生き方には、そういうところがあるのではないでしょうか。この二つの例は職業でもあるわけです(経済や宗教にも同じことが言えるのではないでしょうか)が、このような究極には自己否定を目指すということ、これは人間にしかできないこと。決して、コンピュータには代替できないではない、と最近思うようになってきました。人生とは、自分の存在意味をなくすことを目指す。それは、まるでニヒリズムのように聞こえてしまいます。こんなことを若い人に言っても、理解できないでしょう。しかし、私のような年齢になって、人としてそれを心の奥底に持っているかどうかは、見ている地平が異なるものです。ということを言い切れる境地には至っていないのが、正直言って、寂しいのですが。
 私が、今、勤め先で従事している仕事は、集団の理想の姿になったのであれば必要のなくなるものであるはずです。そして、その実現を究極の目標として仕事をしているわけです。その理想を持っていなければ、私は保身をしていることになります。また、そういう理想をもてる仕事こそが、企業のなかで、コンピュータには、絶対に代替できないものであるはずです。技術でも、人事でも、営業でも、そういうところがあると思います。

2017年6月 6日 (火)

欧州のテロ事件についての無責任な放言

 このところ、ヨーロッパを中心に市街地などでテロ行為があって、多数の人々が犠牲になった事件が頻発しています。先日の英国のコンサート会場での事件については、その当日のコンサートを開いていたミュージシャンが、同じ市内の別の野外会場でより多くの人を集め、豪華ゲストも参加した大々的なコンサートを開いていたのが報道されていました。犠牲者への哀悼とか、テロに屈しない姿勢とか、色々な意味づけはできるでしょう。また、以前にパリで新聞社がテロに遭った時は、街の人々が屈しないとデモンストレーションを繰り返していたのが報道されてもいました。だからといって一般化してしまうのは強引かもしれませんが、ヨーロッパの文化というのか、暗黙の前提なのでしょうか、こういう場合、正面から戦おうとする、その姿勢を鮮明にしようとする。たとえ、暴力には力でも、暴力に対して平和的に対するのであっても、それらは手段の違いだけであって、いわば売られた喧嘩を正面から受けとめ買っていることでは同じです。この場合、やり過ごすとか、静観するといったことは、選択肢にそもそも入っていないように見えます。それは、まるで、ゲーム感覚、あるいは中世の騎士道の一騎打ちの姿勢を見ているようです。沢山の死者がでたことに対してゲーム感覚という言葉は不謹慎かも知れませんが、勝負する、ということがまず前提で、逃げるというようなことは考えられない。この場合、勝負することには理由付けは必要ないでしょうが、逃げる場合には、「なぜそんなことするのか?」ということを言われることになるし、倫理的に正しくないと言われることになりそうです。それはヨーロッパというローカルな地域の特殊な考え方と私には見えることがあります。最初のところで少し触れた、テロに遭った近くで大々的なコンサートを開いて、こみよがしに人を集めて、間接的にテロの理不尽さを説いたり、屈しない姿勢をみせたり、当人たちは自身を鼓舞しているのでしょうが、それは他方では、相手側を挑発することでもあるでしょう。そのメリット、デメリットを衡量することよりも、自分たちの旗幟を鮮明にして主張するのを最優先する。この場合、別の視点でみれば不合理です。しかし、当人たちにはそんなことは考えていないし、報道でも、その人たちの姿勢を称揚している。そこに偏向が、私には見えてきます。そして、当人たちや報道は偏向とは思わず、普遍と思っている。というよりも、当たり前なので、それを意識などしていない。そこに、異文化に対する深層での拒絶があるように見えてしまいます。自分たちは絶対に正しくて、相手は絶対的な悪という、単純化された二元論。あからさまに口に出して言うわけではありませんが。このような場合、両者の間の対立は深まるばかりで、行き着くところまでいくしかないところに追い立てているように見えます。
 こんなことは、私が他人事として、これらの事件を見ているから、言えることかもしれません。

2017年5月29日 (月)

テロ対策とか治安維持とかは右翼に対してはどうなの?

  「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案について、その共謀という構成要件が問題となっていて、戦前の治安維持法の再現となってしまうという。こんな議論は的外れかもしれないけれど、昭和初期に政党政治が瓦解して軍国主義体制に一気に傾いた原因のひとつに、515事件や226事件のような軍人によるテロや血盟団のような右翼によるテロがあったと思う。これに対しては治安維持法は全く機能しなかった。515事件や226事件の犯人たちは治安維持法による裁判ではなくて、軍法会議で裁かれている。これらの結果民主的な体制が崩壊していったわけだけれど、このような軍隊や右翼のテロを防ぐことができなかったことに対する反省。あるいは、そうならないためにどうするか、ということは検討されてきたのだろうか。今回のテロ等準備罪については、どちらかという左翼的なもの、市民運動的なもの、イスラムなどの海外からのものを想定していて、右翼とか、もっというと、憲法に反する法律を国会で暴力的に共謀してつくってしまうことに対して対象とすべきではないか、といったことは議論の対象とすべきではないかと思うのは、的外れなのだろうか。

2017年5月24日 (水)

新人偏重?

 将棋に関する話題つながりということで、ちょっと苦しいこじつけですが、中学生でプロ棋士になったという人が、公式戦で連勝を続けているということで、一般のニュースでも取り上げていることを知りました。過去に、そのような人は現われなかったという破格の人なのだということは分かりますが、その実力としては、四段ということで、将棋の世界であればA級というトップリーグにはほど遠いところにいる人しかないわけです。彼は、将来を期待されているかもしれませんが、所詮、その程度の人です。ボクシングで言えば4回戦ボーイのようなものでしょうか。4回戦ボーイが連勝を続ければ、話題になりますが、そこで彼が連勝したとはいっても、世界タイトル戦のようなレベルの相手ではなく、4回戦において連勝しているということではないかと思います。
 とくに将棋の世界に限ったことではありませんが、企業においても、新卒の新入社員のための入社式は、毎年4月1日のニュースで必ず取り上げられます。そしてまた、新入社員や、あるいは企業内の人事異動によってはじめての業務に就いた人に対しては、初心者向けの研修や入門書が沢山あります。例えば、新入社員のための研修やハウトゥー本。また、初めての営業のための入門書、初めての人事担当者むけセミナーとか、たくさんあります。しかし、それ以降の本や講座は、バタリとなくなってしまいます。
 これは、私の偏見かもしれませんが、新人とか入門者にたいしては、とても親切で至れり尽くせりで、人々は何くれとなく、眼を配っています。しかも、少し目立つ新人が出てくると、大スターのように称揚しています。
 それが新人の段階をすぎると、急転直下、無視に近い扱いとなってしまいます。
でも、本質的には、14連勝した新人棋士の将棋よりも、名人戦の攻防の方がすごいはずです。また、企業では、新入社員よりも現場の最前線で身体を張っている中堅の人が事業を支えているはずです。私は、新人はいなくても、いいけれど、このような人たちがいなければ将棋も企業も存続できなくなる、そういう存在だと思います。本来であれば、そういう人にスポットライトをもっと当てるべきではないかと思うのです。
 また、企業の業務の研修の話題を少しフォローしますが、初心者段階を過ぎた、実際には業務2年目程度の人は、未だ、自分で考えて自己啓発できるほど、業務を自分のものにできる人は多くないと思います。そういう人向けの教育とか研修というもの、初心者としてひととおりのこと、業務がどのようなものかが、だいたい分かったから、それから、どのように進んでいくかという、いわば第2段階程度は、初心者向けと同じように定型化していると思います。だから、初心者向けと同じように、第2段階向けのハウトゥー本やセミナーが充実していてもいいのではないかと思います。

2017年5月23日 (火)

コンピュータにはできない将棋や囲碁のプレイ つづき

 もともと、囲碁や将棋が日本で長い時間をかけて、独特の発展を遂げて、広く普及したのは、武装集団である武士たちにとって戦場のシミュレーションとして、教育や訓練の働きを持っていたからではないかと思います。囲碁というのは、陣地取りの攻防ですし、将棋は機能の異なる駒を駆使した戦略の駆け引きを抽象化したものだろうと思います。そのうちに、囲碁や将棋をゲームとして楽しまれるようになった、ということを想像します。
 そこで、前回の続きですが、コンピュータによって、このゲームで勝つことを、確実に勝つ、効率的に勝つことを追求することは、戦場のシミュレーションという本来の目的に適ったものと言えると思います。しかし、それでは、そのシミュレーションを実際の戦場に応用できるのでしょうか。囲碁や将棋は、戦場の駆け引きや敵味方の形勢の流れをエッセンスとして取り出したものだろうと思います。しかし、実際の戦場では人間である兵士が動くわけで、ゲームの駒のように疲れ知らずでもなく、決められたとおりに動けない場合も多々あるでしょう。その他にも、ゲームでは切り捨てられた要素が沢山あり、それらは時々刻々変化している、ということでしょう。したがって、囲碁や将棋は、戦場での姿勢とか原則的なところのシミュレーションということでしょうか。しかし、その姿勢とか原則があって、多様な情報を整理して活用し、実際の戦略や行動に移っていくというところでしょうか。そのなかで、囲碁も将棋も二人が相対するという形式の意味というのが、あると思います。それは、戦場では部隊が相対するとき、それぞれの部隊はバラバラではなく統一された行動をとるわけで、それは指揮官が統合しているわけです。そこで、その指揮官はどのような行動を指示するかを予測することになります。その時、指揮官は機械ではないので、予想できないような指示をするかもしれない。というのも、人間は感情によって突飛な判断をすることがある。だから、相手の心を読むといったことを必要とするわけです。囲碁や将棋には、その要素があります。場合によっては、相手の心を読むだけに留まらず、相手の心に何かを書き込もうとすることすらあります。例えば、相手を心理的に追い詰める、騙す、油断させるといったことです。それは、実際の戦場においても、応用可能ではないかと思います。
 そして、現代の囲碁や将棋の棋士たちのゲームを人々が楽しんでいるのも、実は、相対する二人の棋士の心理的な駆け引きを、見ることができる点は大きいと思います。それは、見る側にとっては、物語を生んでいくものでもあると思います。というのも、戦場では天候とか、地形とか兵士の状態(士気、疲労他)などといったゲームに入ってこないことが、現代のゲームではその代わりに別のことがあると想像できるからです。それが、見る者の想像をふくらませて、物語を豊かなものにしています。そうでなければ、将棋や囲碁を題材にしたマンガや映画が生まれることはなかったでしょう。しかし、それらのことはゲームで確実に勝つということとは関係ありません。むしろ邪魔です。だから、コンピュータによって行われるゲームでは、そのような要素か切り捨てられてしまうのでないかと思うのです。そうなった囲碁や将棋を人々は見たいと思うでしょうか。そうなった囲碁や将棋に、人はどのような楽しみを見出すのでしょうか。それがよく分かりません。

2017年5月22日 (月)

コンピュータにはできない将棋や囲碁のプレイ

 人工知能の技術の進展のめざましさは、囲碁や将棋といったゲームで人間のトップ・プレイヤーをコンピュータが打ち負かすことが珍しいことではなくなってきています。もはや、人間はコンピュータには勝てない、というところに来ているのではないか、というほどでしょうか。ある棋士がインタビューでコンピュータと人間の違いについて、コンピュータは手に思い入れがないということを言っていましたが、それは、人間の棋士は、次の一手を考えるときには、これまで経過を物語の流れのように捉えていて、その流れで考えるといいます。当然、そこには、それまでの自分が打ってきた手に対して思い入れのようがあるということで、その棋士がいうには、人間は、その物語に思考を縛られてしまうといいます。そこで、選択された手は、後で考えれば、その局面で最適の一手でないこともある。これに対して、コンピュータの場合には、その時の最適の一手を、何の思い入れなしに選択できる。それが大きな違いといいます。おそらく、コンピュータは、次の一手について可能性のあるいくつかの選択肢について、リスクとメリットを比較衡量して、確率の高いものを選択していることになると思います。もしそうであるとすると、純粋に確率計算だけで成り立っていて、偶然性が排除されれば、確率の確度が高まっていくのと同時に、次の一手が決まっていってしまうことになるのではないでしようか。偶然のハプニングが起こらないのであれば、勝つための確率の高い手を選択する。つまりは勝利に向かって最短コースを一直線に向かうわけで、まわり道を必要はないでしょう。それを突き詰めれば一本道ということになるのでは。つまり、最強の手です。もし、そうなってしまったのであれば、最初の一手で、あるいはゲームが始まったときに、すでに結果は決まってしまうことになるわけです。その時、ゲームは果たして面白いのでしょうか。
 おそらく、人間のプレイヤーであれば、さきほどの棋士が語っていたように、必ずしも最適の一手を選択するわけではないため、究極の勝利に向かって一直線ということは、目標としていても、到達は不可能に近いものだったはずです。不可能であったからこそ、それを目指して切磋琢磨する棋士たちのプロセスを見て、面白かったり、感心したりすることができたわけです。たぶん、そういうことはゲームに勝つということに関しては、役立たないノイズでしかありません。しかし、もしかしたら、将棋や囲碁を人が楽しむのは、実は勝つという確率計算の部分ではなく、ノイズの方だったのではないかもしれないと思うようになりました。それは、おそらく、コンピュータがゲームをする場合に、ノイズを排除していると思えるからです。その行き着く先が究極の一手ということになるのではないか。そして、もし、その究極の一手が実現した時に、将棋や囲碁の意味、それを人がプレイする意義とは何か、ということが問われることになるのではないか、と思います。
 現在のところでは、そのような意義を考えることは、誰もしていませんが。なぜ人は将棋をするのか、囲碁をするのか。トランプでもなく、サッカーでもなく、その他のもろもろではなく。そして、そのなぜをゲームにおいて体現するようなプレイを目指すプレイヤーがいてもいいのではないか、それは必ずしもゲームに勝つこととイコールではありませんが、全く別ということではないでしょうが。もし、それが実現したとしたら、それはコンピュータでは、到達できないのではないかと思います。

2017年2月16日 (木)

IRの腕の見せどころ、あるいは存在価値?

 こんなブログを見た。
 この会社に酷似した会社を知っている。
 B to B の機械メーカーで、独自の技術をもつ特殊な装置を扱うことから堅実な経営を続けてきた。一昨年、新社長が就任し、経営陣の世代交代が進み、ここで紹介されている会社と同じように
 ◇経営陣の報酬制度の変更 (固定報酬のみだったのが、一部について業績連動報酬を導入)
 ◇監査等委員会設置会社への移行
 ◇外部人材・若手人材の積極的な登用
 ◇コーポレートガバナンスポリシーの明示(ジャスダックでは義務ではないので、自発的)
 これらは氷山の一角で、水面下ではこのようなことが矢継ぎ早にでてくることが可能になるような体制の根本的な変化が起きている。
 そういうことがIRが伝えきれていないのは、たいへん寂しいことだ。多分、それは「別にそんなにアピールすることではないでしょ」ということではなくて、IR担当者は、その会社で何が起こっているかを把握できていない、その意味が分かっていないのだろうと思う。こういうとき、IRは投資家や市場に伝えることも重要なのだけれど、それと同じくらい、今、この会社で起こっていることの意味を明確に言語化し、定義づけること、それを経営陣に市場の視点としてフィードバックし、おそらくこの会社の社内で、分かっていない従業員が大半のはずだから、そこにメッセージをおくって認識を促すサポートをすることが重要なのだと思う。それは、IR担当者の腕の見せ所などではなく、IRという業務の存在意味を問われていると思う。
 また、10年近く金庫株として保有してきた自己株の消却を決めたということは、それまで漠然と将来に備えてと金庫株で保有していたのは、実はどうするか方針が定まっていないから、とりあえず保有していたはずで、それを敢えて消却することにしたということは、方針が定まったか、あるいは漠然としていた方針が絞られたということだ。多分、その会社のIR担当者は自己株消却の決定という事実しか見ていないと思われる。それで、慧眼の投資家とミーティングをすれば馬鹿にされてしまうだけのことで、折角、経営陣がリスクをとって挑戦的であるのに、それが伝わらないと見られてしまうのは、寂しい。多分、当事者であるIR担当者は、そのことを指摘しても、何を言われているのか意味が分からないのだろうと思う。

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