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日記・コラム・つぶやき

2017年8月 1日 (火)

AIに人間が負けるというのは「能力」の定義が関係する?

 チェスや囲碁、将棋でコンピュータが人間のトップ・プレイヤーを破ることが日常化しているが、そのうちAI将棋の開発者は、ディープ・ラーニングは一定の枠内で収集された過去のデータを学習するもので、将棋の過去のデータを学習し、その応用問題を解いているものだという。つまり、従来のパターンのブラッシュ・アップを突き詰めたものだ。
 現在、企業においても、ビッグデータ解析などで効率を高め生産性を上げることはできる。しかし、それは新しい価値や需要を生み出すものではない。例えば、来店客の購買データをAIで解析し、品ぞろえの効率化をしたとする。だが過去の来店客のデータを解析しても、「店に来たことのない客」や「未来の新製品への反応」はわからない。そうである以上、「固定客にもっと買わせる品ぞろえ」はできるだろうが、顧客の新規開拓や、新製品の開発には直結しない。結果的に、需要や価値を新しく生むことにはつながりにくい。過去のデータから、統計的に例外でも重要な事例に着目し、価値を与えることは人間にできても、コンピュータにはできない。
 そこでは、従来からの仕事を続ける、前例通りとか、ことは人はコンピュータに勝てないし、取って替わられるのかもしれない。現在の雰囲気は「AIですごいイノベーションを起こせば逆転満塁ホームランが打てるという青写真を描こうとしている」というものだという人がいるが、そうだと思う。それは、実際には現状の延命に過ぎず、本質的に保守的な姿勢ではないか。
 AIがディープ・ラーニングなどによってビッグデータというような大量のデータを解析して、例えば将棋や囲碁では、人間のトップに打ち勝つようになっている。企業の現場でも、生産性の向上を図るとか、事務系の人員を少なくとも20%は削減できるとか、事業システムの変革が議論されている。
 上のことに関連して、そういうAIが強さを発揮することというのは、企業が従業員に仕事の進め方で推奨するPDCAをまわすことができること、やるべきことを分析して、具体化し、目標を数量化して、段階的に達成を積み上げ、実績は達成度ではかるということではないか。つまり、企業に勤めて仕事を進めている人の大半が、進めている仕事の進め方の姿勢や、それで人事評価なんかをされていることは、AIに、より適していることにはならないか。戯言かもしれないが、人間は、そのAIがまわすPDCAをうまく使うこと、PDCAを回す前段階の新たな価値を生み出すとか、いずれにせよ、そういう枠の外側に位置できるか、ということになるのではないか。
 例えば、将棋の世界で、藤井四段が将棋ソフトの成果をとり入れて定石に全く新しい視点で価値付与をしようとしている。その新しさで先輩棋士に連勝した。
 そう考えると、企業の現場で求められている「能力」という考え方が変化しようとしているような気がする。
 将棋というゲームに勝つ能力では人間よりもAIの方が優れている。棋士というのは、将棋で相手に勝つということをするもの。したがって、将棋に勝つという能力に優れているのであれば、将棋というゲームの世界において、人間の棋士をリストラしてすべてAIに置き換えればいい。それが能力主義ということを論理的に考えればそうなるでしょうが、実際に、将棋の世界ではそうならない。それは、人間の機械に対する差別意識からなのか。これは、企業の現場でもいえる。能力主義とか、能力重視といって、採用や人事評価において、能力だけで評価するということがフェアであるといわれている。しかし、実際に、それだけで評価している企業はないだろう。それは、能力という考え方がそもそもおかしいのではないか。あるいは。能力といって、そこで求める内容が間違っているのではないか。
 例えば、将棋の棋士は将棋というゲームをする。勝つと賞金を得る。それが棋士というプロの生きる糧だ。だから、将棋に勝つことが必須で、そのための能力を磨いている。しかし、このときの能力は十分であって必要ではないのではないか。それは、棋士が得る賞金はどこから来るのか。それは将棋連盟から。その将棋連盟はどこから収入を得ているのかというと、将棋の大会を主催したり後援する新聞、放送、そして企業からの契約金だ。つまり、宣伝なのだ。とどのつまりは、棋士とは企業のサンドイッチマンなのだ。将棋に勝つということは、その宣伝効果、つまりネームバリューの手段ということだ。したがって、棋士にとって必要な能力は、そのサンドイッチマンとしての存在に関わること。極論をいえば、プロの棋士のプロたる由縁は、将棋をすることではなく、将棋により企業の宣伝をすることであるはずなのだ。そして、これはAIにはできない。だから、AIに取って代わられることはありえないのだ。
 そう考えると、企業現場で、いま、能力として求められ評価されていることは、十分でしかないものといえないか。

2017年7月24日 (月)

ものづくりの追求って?異論?

 休日の昼に、たまたまテレビで日本の自画自賛を煽るような番組をやっているのを見ました。その内容の一部が、裁ち鋏をつくっている職人さんを取り上げて、海外の著名な服飾デザイナーが惚れ込んだということが取り上げられていました。日本の職人の熟練を称揚するような内容で、その職人さんは高齢になっていますが、よりよい鋏づくりに努めていて、ものづくりへの情熱と、その人のつくった鋏が海外で高く評価されているという話でした。
 それは、それで日本のものづくりとか職人魂といったことで自画自賛したくなるだろうし、そうしたい人はそれでいいのですが。それは、ある時期には過剰品質とか生産効率の悪さといったところで、散々批判の対象のなっていたことです。それが批判ではなく、称揚されるようになったのは、状況が変化したのか、というと、そうとも思えません。
 何を言いたいのかというと、その鋏をつくる職人さんを批判するつもりは全くありません。本人が好きでやっていることなのですから。でも、この鋏という規格品を製造し販売するということについて、考えてみると。この職人さんが作っている鋏というのは、現時点でかなり高い品質のはずです。それをより高い品質にすることに、どれだけメリットがあるのかを、ひとつの事業として考えてみると、どうなのでしょうか。職人さんが日夜努力を続けて、少しずつ品質が向上していくとして、その向上した品質をうけとる消費者の側は、それをメリットとして受け取ることがあるのかということです。そして、それだけの労力がかかっているわけですから、それに見合うもの、例えば、品質が向上したことで鋏の価格を上げることができるということができるのか。それがなければ、職人さんが苦労しても、その苦労に見合う対価を受け取れないことになります。それは、外形的にはただ働きということになり、いわばブラック企業です。それを事業として許しているということになります。もし、事業としての合理性を考えれば、よりよい製品をつくるという向上のための努力という方向を、より多くの製品をつくる方向に転換させれば、製造数が増えるので、生産効率は向上し、そり努力に見合う見返りを受ける可能性は高くなるでしょう。また、高い品質の鋏が多くのひとに使われることになるというメリットがあります。
 日本の職人仕事とか、熟練というのは、求道的な精神性のような視線でみられて称揚される傾向があります。例えば、ゴールのない精進というようなあいまいさです。この鋏の場合では、工業製品であれば想定されたスペックがあるとして、それを満たす、つまり100%の完成度に満足することなく、スペック以上のもの、切れ味とか使い易さといったものを120%を目指してしまう。それは、作っている当人は、やっているうちに熱中してしまうでしょうし、そういう場合は好きでやっているのでしょうから、本人は幸せなのかもしれません。しかし、その職人さんも生活のために仕事をしているのであって、その努力をしても収入が増えないのであれば、その家族は、得られるはずの収入を得られないことになるわけです。別に、この職人さんを批判しているわけではありませんが、そういうことを踏まえて、それを周囲で眺めている人は、日本のものづくりということで、無条件に称揚できるのか、私には疑問が残り、テレビを眺めていて釈然としませんでした。かりに、これは個人の職人さんであるわけですが、これが多くの従業員を抱えたメーカーの企業で同じような、利益にならないようなよりよいものを追求する、いわば過剰品質を求めるという場合であれば、手放しで称揚されるでしょうか。個人と企業は違うと言われるかもしれませんが。それで、御マンマを食べているという点では同じではないかと思います。

2017年7月12日 (水)

海外へは歳をとってから?

 恥ずかしながら、私は50歳をすぎて、初めてパスポートを取得しました。いまから30年以上前、私が大学を卒業するころから卒業旅行が一般化し、その後20代でバブル景気を通り過ぎ、若い頃に海外旅行に行ったり、あるいは企業に就職した人で、若いころに海外へ出張や赴任という人が沢山いました。私は、あんまりそういうのには行きたくなくて、務めた会社も海外にそれほど進出していないところだったので、日本の外に出ることはないと思っていました。出たいとなどとは思ってもいませんでしたし。
 しかし、会社の仕事の関係で近隣の国ですが、出かけなくてはならなくなって、若い人には嗤われそうですが、50の手習いのようですが、初老に近いオッサン、というよりジイサンがおっかなびっくりで、とにかく飛行機に乗り、入管を通り、わずか数日ですが行ってきました。それが数年前。それから、何度か、同じところですが、行ってくるようになりました。
 そして、行くたびに、かなり考えさせられて帰ってきます。私が行くのは、仕事の出張なので、観光要素はなく、ホテルも日本語は通じる場合があるとか、食事も現地の会社の人と似たようなところに行ったり、と当初はかなり覚束なくて不安も伴いました(今でも本質は変わっていません)。それだけに、些細な身体感覚の実感で、簡単に言うと異文化を突きつけられています。それが我が身に振り返って、自分の来し方を、結構考えさせられることが、毎回、かなりあります。
 昨日の投稿で、会計に結びつけたところを少し書きましたが、その関連でも、中国の労働者の賃金に対する考え方、人事評価の考え方、例えば、日本では当たり前の定期昇給は中国ではおかしなことというのは、日本でもビジネス書にも書かれていますが、それがどうしてなのかというのは、人々の日常の動きを見て初めて合点がいくもので(とはいっても100%納得しているわけではありませんが)、それは振り返って考えれば、どうして自分は定期昇給を当たり前として受け容れることができたのだろうかと問いに直面させられることでもありました。
 それは、そんなお題目のようなことだけでなく、卑近なところで、風呂にはいることとか、空調の感覚とか、まで。
 そして、それらを考えるようなことができるのは、私の場合、それらのことについて情報とか知識の蓄積がある程度あって、視点を自分で多少は自覚していたからこそ気がつくことができたと思います。もし、これが20代の若い頃のことであれば、新鮮さは感じたかもしれませんが、我が身に問いかけるところまでは出来なかった、多分、そのためのツールも素材も持ち合わせていなかったのではないかと思いました。
 だから、かなり偏見かもしれませんが、海外へ行くのは、思考や感性が柔軟と言われている若いころよりも、ある程度、考えたり感じたりする方法が確立している年寄りになってからの方が発見が多いのではないか。

2017年7月10日 (月)

客観的、抽象的な数字のベースになっている身体感覚の文化ということ

 食事の時に、茶碗でご飯をたべていて、一杯で足りなくて、おかわりをするときに、その茶碗にご飯を一口残して、おかわりを求めますか、それとも茶碗を空っぽにして求めますか。私は、前者が当たり前でしたが、大学の時に友人と旅行していた時に、友人が後者であったのを知って、そういうお代わりの仕方があることを初めて知りました。地方、あるいは育った家庭によって、習慣が違うということです。私の場合は、お代わりを求める時に茶碗に一口残すのは、ご飯が終わっていないからで、食べ終わったときに茶碗を空っぽにする、まあ、そんなことは理屈ではないんですが。しかし、別の考え方では、友人の言では、おかわりを求める時に、ご飯をのこしてあるのは失礼だ、ということだそうです。どちらが正しい、というものでもないだろうと思います。それは、習慣の違いということでしょう。
 似たようなことは、外国、例えば中国や韓国で食事をするとき、全部食べきれないほど出される。それを残すのは失礼と思うのは日本人の慣習で、こっちは食べきれないほどださないのが失礼になるので、むしろ残さなければならないのです。ただ、習慣とは身体感覚で身についてしまったものなので、供された食事を全部おいしくいただくことをしないで残すというのは、何となく、悔いが残るような気がする。
 このようなことは、実際に体験してみて、はじめてそういうものだと実感できるものだろうと思います。机上において情報として得ることができるとしても、具体的に実感することはできないことと思います。それが、抽象化されたり、理論化されていった時に、具体性を欠いた言葉や数字がひとり歩きしたときに、すれ違いが生まれ、その違いは実践の場面で、大きなものとなることがあるのです。
 それは、とくに海外と仕事をする場面で、大事なところで現れるのです。しかし、それに気がつかない人も少なくありません。
 具体的には、企業会計の数字は世界共通で、企業業績については売上高とか利益額などの数字を、国を問わず数値でもって、比較して、良し悪しを判断するだろうし、数字が少なければ、イマイチだろうし、数字が大きければ業績がよいとか実力があるといったことになるものです。日本企業のグループ企業の海外子会社に対しても、その数字によって、ハッパをかけたり、誉めたりします。
 しかし、例えば、中国と日本とでは売上をどの時点で計上するのかという考え方が違うし、それに伴って利益がどう生まれるかという考え方が違うのです。関連して在庫ということの意味が違う。これは、台湾や韓国も、日本よりも中国に考え方が近い。実は、アジアの中で日本の環境というのは特殊なのだ。これは現場に立ち会わないとわからない。立ち会っても分からない人もいますが、それだから問題であると思います。
 中国の慣習では、耐久消費財とか固定資産となるようなものは、あるいは製造業の仕入れ売買のような場合、基本的には代金前払いが原則で、売主は代金を受け取ってから手配して買い手に納品することになっています。そして、代金の支払いを受けた時に売上を計上する、これがルールです。これに対して、日本の場合は売り手が納品し、買い手に代金を請求して、回収することになっています。売上は買い手に納品した時点で計上するのがルールです。何だ、たいそうなことを言っても、そんなに違わないではないかと思われるかもしれません。しかし、これで生まれる実際上の違いは、例えば、納品時に欠品があった時、日本の場合には、欠品は買い手が受け取らないか、あるいは欠品分の代金を払わない。これに対して、中国の場合は売り手は既に代金を受け取っているので、欠品があっても、取り替えないし、代金を返すことなどしない。つまり、買い手は欠品があっても泣き寝入りとなるのです。この場合、買い手は、納品された中に欠品があっても、在庫としては既に金を払っているので、そのまま計上することになる。つまり、在庫が納品の時点で物品と支払った金が合っていない(と見なすのは日本の特殊性)。仮に月末に代金を受け取って、翌日に納品したとすると、売上を計上しても在庫は残っていることになって、その月の利益が一時的に増えることになる。そんなことが通用していると、中国では、生産して納品する業者は、納品した製品に欠品が混じっていても、自分たちがそれで損をすることにはなりません。(最終的には、辻褄があって、めぐりめぐって損をすることにはなるのですが)だから、欠品を減らすことに真摯にならないのです。従って、品質向上への取組みに真剣さや切実さが、どうしても足りなくなるのです。
 中国でこうなってしまっているのは、いくつか理由があります。まず、各企業が正直に帳簿をつけていないこと。そのため、お金が動いた時点で間接税が発生し、領収書と役所に提出しなければならない。企業の帳簿は、その領収書をもとに役所が把握し、企業はそのとおりに帳簿をつけることで、税務当局が企業会計を作っています。その原因は、もともと通貨にたいする信頼性がなくて、その通貨の上に成り立っている企業間の取引の信頼性がうすく、借金の踏み倒しの被害に救済や踏み倒しによる制裁(信用なくした場合に不利になる)といったシステムがしっかりしていないからだ。それには、歴史的な経緯もあるのだけれど。
 だから、数字がいい数値であっても企業の経営の内実や事業の実力はガタガタになっていることは、よくあることだという。それは文化の違いによるものでもあるわけです。

専門家の枠組みが変わって、従来の専門家はAIに取って替わられる?

 この数日の九州の豪雨災害とか北朝鮮のミサイルといったことなど、その報道で専門家のコメントをみていると、全く参考にならないと考えさせられました。私の誤解かもしれませんが、専門家というものをどのように捉えるかということについて、報道をみていて私が感じるのと、報道している側やそこでコメントをしている専門家当人との間で大きな齟齬があることに気づいた。私の捉えていることが、ひとりよがりなのかもしれませんが。
 実際のところ、例えば、九州の豪雨災害というのは全容はどうなのか、それは従来とどう違うのか、それで従来の災害対策を考え直すようなことなのか、つまり、評価とか意味づけということを知りたいとおもうわけです。しかし、そこでコメントしている専門家という人は、今回の豪雨は異常だとか、しかし、どうしてそんな異常なことが起こったのかというメカニズムの説明はなくて、こんな量の雨が一気に降ったから異常だという結果と原因を混同した説明しかなかったり。地盤が特殊だったという説明、そんな特殊な地盤であることが予め分かっていて、従来の対策は適切だったのかとか、許容量はどのくらいだったのか、他に同じような危険のあるところはどうなのか説明もなかったり、といったように毒にも薬にもならないように無駄話しか聞けないという印象でした。
 北朝鮮のミサイルに対しての専門家という人々のコメントは、ミサイル技術の教科書の概説を丸暗記したような言葉しかなくて、実際のミサイルの脅威について、例えば実験で成功しても、それを現実的な軍備として機能するのか、そのためには量産とかメンテナンスとか人員といった運営や、それを支えるロジスティックスなんかを整備できているのか、できていなければ整備するのにどのくらいかかるのか。ミサイルという兵器の物体に限るのであれば、最低限その程度のことを明らかにしてもらえなければ、現実の威力が分からないでしょう。また、兵力というのは外交とか国の戦略の一環ですから、それによってどのような変化があって、それがこちらにとってどの程度の現実の脅威であるかが想像できるのでしょうけれど、そういう評価とか意味付けのようなことは、いわゆる専門家の人は北朝鮮情勢ならそれに限って教科書の説明の丸暗記とか、その程度の説明しか行われない。それなら、記者の書いた記事やニュースキャスターが台本を読み上げるのと変わらないものです。しかも、専門家の人の話し法はへたなので聞きにくく、いってれば時間の無駄です。
ほとんどというよりも、私の聞いた限り全部そうでした。
 いわゆる専門家の人というのは、大学なんかの体制で学部とかいった学問の分野で仕切られた昔からの枠組みのなかで知識や経験を得てきた人ということなのではないかと思います。かつて丸山真男がタコツボといいましたが、その枠組みのなかでの知識や経験だけを積み重ねて、枠組み自体の有効性とか、それ以外のところには知識や経験は及んでいない。いまどきこんな人いないだろうと思っていたら、ニュースなんかに出てくる専門家の話しているのを聞いていると、まさにそんな感じです。話していることが教科書の丸暗記といったのは、従来からの蓄積された知識データをあげて、災害であれば、今回は、その蓄積との差異を話すことばかりだからです。
 でも、こういうのであれば、今、巷で話題の、ディープラーニングするAIにやってもらった方が、ずっと深掘りができて正確で精度の高いものがでてくると思います。こういうのっていうのは、限られた枠組みのなかでデータを蓄積して、その解析と、新たな事態においては、その差異を分析するというのですから、パターンの繰り返しです。つまり、将棋と同じです。要は、パターンが複雑であるということだけです。だから、これから数年かすれば、いま大学にたくさんいる専門家はコンピュータに取って替わられてもおかしくないということだと思います。私には、それは、人がわざわざ頭をひねって労力をかける意味があるのかと思えるのです。おそらく、真摯な企業の現場であれば、生産性が低く、価値創造もできないものは無駄と見なされてしまう、そんな程度ではないかと思うのです。
 おそらく、専門家というものの意味合いが、このような大学なんかの枠組みとは異なる基準で捉えられるものになっているのではないかと思います。前述の災害や北朝鮮のミサイルに関して私が専門家から知りたいというのは、実際の場で、どう対処したら良いのかを考えために必要なこと、情報の切り分けとか評価といったようなことです。それは、実践の必要に応えて枠組みを新たに創造するようなことです。
 これは、報道に限らず、ビジネスの場でも、実際の企業現場でもそうです。例えば、法律行為は弁護士が専門家ということになっていますが、取引の契約書の吟味といった形式的なことでも、法的リスクをあげることができない人が大多数なのです。一般的には、弁護士は専門家だから、企業の従業員なんかよりずっとくわしいと思われています。しかし、私の経験です、有名な大手法律事務所の弁護士で、書類を見てもらって、問題ないと言われたものについて、後で、こういう時はどうすればいいのでしょうかと質問すると、それは問題ですという答えが返ってきて、そういう後付けで問題だといわれたことが数件、極めつけは、それについて株主総会で株主から追求されるリスクをきいたところ会社法の常識では考えられないような素っ頓狂な回答があって驚きました。その後は、懲りたので、この後は書類の吟味を依頼する前に疑問点をさきにあげておくことにしました。それにはちゃんと答えてくれます。しかし、私の基準では専門家というのは、そういう疑問点は私などが思わぬところにあることを指摘してくれるものではないかと思っていました。
 おそらく、そういうことは、特に企業では、日本の場合、かつては現場で問題提起して解決していたのではないかと思えるのです。多分、従来の枠組みのなかでパターンとおりの繰り返しという仕事、マニュアル通りでできてしまう仕事であれば、AIやロボットに取って替わられる運命にあるのではないかと思います。

2017年7月 3日 (月)

株主総会って、ホントに必要?

 このところ、株主総会をめぐって荒唐無稽なことを書き込んできました。かなり馬鹿馬鹿しい議論かもしれませんが、そもそも~と始めてみて、それについて、ちゃんとした説明ができない、まあ、言わずもがなの当たり前のことなので、そんなこと訊いてくるほうがおかしい、と言ったところでしょうか。今日も、その馬鹿馬鹿しいのをもう少しやろうと思います。
株主総会は必要なのか、ということです。会社法で決まっているから、手続き上不可欠だというのは、たしかに理由ですが、では何のために会社法で株主総会をやらなければなないと規定しているのか、といわれて、ちゃんとした答えができるのかどうかです。
 おそらく、欧米系の嗜好性という議論するのが好きなので、会議をおいたということなのかもしれません。そうであれば、株主総会というのは単なる好みの問題です。果たして、それ以外のりゆうはあるのでしょうか。小規模な個人企業や、創業時のベンチャーなどでは、会議などやっているでしょうか。そんな暇はないのではないかと思います。そもそも、会社を維持し、さらに成長させていくために正しい経営判断をしていくことが目的であるはずで、そのために株主総会というシステムが絶対的に適切という保証はどこにもありません。個人事業主がひとりで判断したほうが正しい場合もあるでしょう。そのような効率性の問題であれば、株主総会の必要性は絶対的ではありません。
 また、会社に出資し、会社の所有者である株主の権利保護とか、株主が納得するためという説得のためということであれば、株主の納得と会社の成長とが対立した場合に、株主の納得を取るということになるわけですが。それで理論上よろしいのでしょうか。また、株主は、納得できない場合には会社の株式を売却できるという保障があるわけです。現在の機関投資家等は実際の問題として、一旦取得した株式を売却し難いという事情があるという意見があるかもしれませんが、それは、会社の責任もあるかもしれませんが、株式市場が売却できるようにしなければならないはずで、単に株式市場が怠惰なだけです。
 会社法の条文の意味内容になりますから、会社法の専門家である法律学者や弁護士の偉い先生は、ちゃんとした説明ができるはずですが、そういう文献のようなものは残されていないようです。

2017年7月 2日 (日)

株主に対してもガバナンスを?

 昨日に続いて、株主総会を機に考えることがあって、少し、その中からまとまったものをアップしています。コーポレート・ガバナンスということが、このところよく話題になります。企業不祥事がおこると、そのたびにコーポレート・ガバナンス体制はどうなっているのか、あるいは内部統制が働いていたのかということが追及されるようになりました。また、政府や証券取引所などが主導して、上場企業に対してコーポレートガバナンス・コードがつくられて、従うようになかば義務付けられました。上場企業はその実践の状況を開示したり、あるいは株主総会で説明したり、株主からの質問に対応するようになりました。また、経営体制についても社外取締役を、半強制のようになったり、と動きが活発化しています。
 コーポレート・ガバナンスには、色々な建前はあるのでしょうが、狙いは海外の投資家にとって日本企業はよく分からず、リスクを量りにくいので、彼らの目線にあわせるようにして、投資を呼び込もうというのが狙いということだと思います。そのような本音は分かるのですが。そのような狙いの、そもそもの目的は、企業が健全に成長するということが最終目的であると思います。
 それは建前かもしれませんが、そのためには、投資を呼び込むのも大切で、そのために企業の経営陣にたして株主のことをちゃんと考えろということを制度として形にしたのがコーポレート・ガバナンスであると言えると思います。そこで疑問が生まれてきます。これは私の個人的な偏見かもしれませんが、株式会社という経営体制について、そもそものところで教科書的な説明であれば、株主と経営者というのは株式会社の車の両輪のようなものだと、とこかで習ったような記憶があります。そうであれば、コーポレート・ガバナンスとして経営者にだけ一方的に株主のことをちゃんと考えろというのは、片手落ちではないかと思えるのです。株主は会社の所有者だから、そんな必要はないというのでしょうか。株主は経営者のことをちゃんと考えてあげなくていいのでしょうか。例えば、株式会社に投資をしてその会社が事業を成長させて、会社が発展していて、株価が上がっていったり、配当をたくさん受け取るといった投資の回収をする。そういう姿勢で投資をする株主というのが教科書で説明されているような人々でしょう。でもそうでない人もいるでしょう。時には、その会社に迷惑をかけるために株式を取得する人とか、会社を食い物にすることを目的として株主となる人とか、実際にそういう人振り回されて会社が潰れてしまうこともあるでしょう。そういう株主、これは極端な例かもしれませんが(歴史的事実として、アメリカには日本やヨーロッパにあるような街中の路面電車がないのは、自動車メーカーが自家用車のライバルになる可能性があるからと、路面電車の会社を片っ端から買収して潰してしまった結果だと言われています。)、例えば、株主総会に来て、受付でお土産を受け取って会場に入ることもなく帰ってしまう株主、お土産は総会が終わってから帰りのときに渡しますといったら、ごねて騒ぎ出す株主、株主総会で議長不信任の動議を出して目立つことを楽しみにしている株主。あるいは、議論は分かれるかもしれませんが、アクティビストと言われる投資家の中の一部の人たち。株主にだって色々な人がいます。それなのに、経営者にはガバナンスが必要とか、倫理をもとめる一方で、株主は所有者だからということで、手放しでいいのでしょうか。株主は財産を投資していますが、経営者だって自身の能力、というよりも人生をそこに投資しているわけですから。株主にたいしても、経営者と同じような水準で倫理とかガバナンスを求める必要があるのではないかと思うのです。
 ちなみに、機関投資家に対してスチュワードシップ・コードというのがありますが、これは投資する側のガバナンスとか倫理ではなくて、資金を預かる業務をする人のガバナンスとか倫理ということなので、ここで述べている投資をする側を規律するというものとは違います。

2017年7月 1日 (土)

株主総会は不平等?

 昨日で6月が終わりましたが、6月の終盤は日本の上場会社の定時株主総会が集中して開かれた時期で、テレビや新聞のニュースでも話題になった会社の株主総会が記事になっていました。私は、以前は、会社の中で、株主総会の準備や運営に携わっていたことがあり、今でも、他の人よりは注意して見てしまっています。そこで、細かいことなのですが、ずっと疑問に思っていたことがありました。あまりに基本的なことで、訊ねるのも恥ずかしかったし、自分なりに色々と調べて見ましたが、答えは見つかりませんでした。それは、株主総会の多数決のことなのです。
 会議等の集まりで、何事かを決めようとすれば、メンバーの間で議論を重ねて、疑問点を明らかにし、相手に対して説得が試みられ、利害の対立があれば調整が行われるといった、いわゆる熟議によって、ある人は最初持っていた意見を変えたりすることもあるでしょうし、そういうことを踏まえて最終決議で結果を出すことに至るわけでしょう。理想としては全会一致が望ましいのでしょうが。現実的には、メンバーが多ければ難しいので、多数決ということになるわけです。
 そういう原則は、会議とか議会と名のつくもの、ほとんどすべてにあてはまり、株主総会も例外ではありません。それはそれでいいのですが。株主総会だけに、特徴的で、他の会議ではおよそみられない特徴があります。それは、多数決する際にメンバーの投票権が平等ではないということです。例えば、国会での決議では国会議員が1人1票で決をとります。その中で、国会議員で1人2票を投票できる人はいません。内閣総理大臣であろうが、当選したての無所属の新人議員であろうが、同じように1票を投じます。それが平等です。これは、他の議会でも会議でも原則として1人1票の原則で決議が行われます。しかし、株主総会は違います。株主一人で100票の投票ができるような制度になっていて、それが平等であるということになっているのです。それは、持ち株数に応じて投票するということです。これは、株主というのは会社の持ち主であってお金を投資しているのであるから、その投資に応じて発言権が強かったり弱かったりするのだ、というのが理由の説明としてあるのでしょうが。これって納得できるほど、筋が通っているでしょうか。気持ちは分かりますが、金を出している分、口も出させろということは、果たして平等といえるのか。例えば、国でも地方公共団体でも、税金をたくさん払っている人は選挙権を他の人の数倍持っているでしょうか。あるいは、財産を出し合っている集まりであれば、マンションの管理組合なんて、マンションの部屋の広さや価格は違うし、払っている管理費は一律ではないはずですが、投票権は1人1票です。
 そもそも論でいえば、そもそも人が集まって相談して物事を決める会議とか議会というのは、一人で決めてしまうと間違う確立は半々だけれど、人が集まれば間違う確率は減るし、正しい答えが得られるとは限らないが、正しい答えに近い答えを得る確率が高いからやっているものです。国会にしても、株主総会にしても、政府や会社にとって非常に重要なことを、間違って決めるしまわないために、人が集まって、正解に近い答えを導くのが目的です。そのために、集まった人々が様々な視点から忌憚なく意見をたたかわせる熟議が必要になるわけです。その熟議をおこなうためにも集まる人々が遠慮したりすることのないように平等であることが必要となる。その際に、議論する人々の間にあらかじめ格差があると、遠慮とかあきらめが、議論の前に生じてしまうのではないでしょうか。そうであれば、正しい答えから遠ざかることになってしまう。おそらく、株主総会という会議の議論については、そういう会議の原則とは違う原則がなければおかしいとはずなのですが、それが、私の探し方がおかしいのか、見つかりません。会議での議論という常識から考えると、株主総会は変です。
 ひとつ、理由として想像できるのは、最初に株式会社をつくったときに(歴史の教科書では東インド会社ということになっていますが)、そこで、たまたま、深く考えないでやってしまったことを、何も考えずに前例として踏襲して、みんなか真似して、そういうものということになってしまった、という馬鹿馬鹿しい理由で、今のところ、これが一番納得できるものです。
頭脳明晰で偉い、経営学や会社法の学者が、そうであれば、とっくの昔にひはんしているはずなので、そんなことは、現実にはありえないはずでしようが。

2017年6月25日 (日)

テレビっ子だった

テレビっ子だった。多少は、その記憶が残っている方であると思う。

111111111 多分、筒井康孝の『時をかける少女』を初めて映像化したのは、NHKの少年ドラマシリーズの第一作『タイムトラベラー』ではかったかと思う。この時に主人公の芳山和子を演じていたのが島田淳子だった。この時は丸顔の少女だった彼女は、その後浅野真弓と名を変えて、都会的に洗練れた雰囲気で石立鉄夫とコメディを演じていた。ちなみに、この時の少年ドラマシリーズは、このほかにも眉村卓の「ねらわれた学園」「なぞの転校生」、光瀬龍の「暁はただ銀色」「ゆうばえ作戦」とか、SFの佳作を取り上げていた(少年ドラマシリーズはSFだけでなく、小林信彦の「怪人オヨヨ」、獅子文六の「悦ちゃん」、ギリシャ神話による「少年オルフェ」や「けんかえれじい」なんか精力的にドラマ化していた)。「ゆうばえ作戦」に志摩みずえが出ていた。

ちなみに、浅野真弓が石立鉄夫と共演した「雑居時代」には子役時代の杉田かおるがでていた。また石立鉄夫と共演した村地弘美も忘れがたい。 

1111111112 菱見百合子のアンヌ隊員は、サイズが小さいと思えるほどパッツンパッツンのウルトラ警備隊のユニフォーム姿が鮮烈で、最終回のダンがウルトラセブンであることをアンヌに告白したときに、ガラッとポジからネガに画面が反転して、シューマンのピアノ協奏曲の冒頭のピアノとオーケストラのトゥッティが挿入される衝撃(ディヌ・リパッティのピアノとカラヤン指揮の名録音)は、涙なしには見られない。特撮ものでは、巨大ロボットの活躍するレッドバロンに出ていた牧れいは、とにかく、ミニスカート姿でのアクションがカッコ良かった。たぶん志穂美悦子とともに最初の本格アクション女優だったのではないか。一方、ロボットものでは「ジャイアントロボ」。後にプレイガールにもでていた片山由美子のファンは多いが、天才少女役の桑原友美は、その他にも子供向けドラマにちょくちょく出ていた。これも最終回の少年の命令に背いて(ロボットがら指令に従って動く)、悪の親玉を抱いて自爆するのも、涙を誘うものだった。 

1111111113 日テレ系列の熱血教師が主人公の学園ドラマもよく見ていた。タイトルに「青春」の二文字が必ず使われていた。中でも、浜畑賢吉が教師役の「進め!青春」はすぐに終わってしまって地味だった(その次が、村野武範の「飛び出せ!青春」)が、亀井光代が同僚の教師役だったのが、記憶に残っている。とくに、フェンシング部の顧問という設定で、フェンシングのスーツ姿には、ドキッとさせられた。この学園ドラマシリーズの生徒役で、記憶に残る人は多い。「でっかい青春」に出ていた菊容子。この人は「好き!好き!魔女先生」に主演して“アンドロかめ~ん!”と、ポカンと口を開けた表情で叫んで変身する姿を覚えている。また「飛び出せ!青春」で石橋正次のガールフレンドを演じた大田黒久美。「おれは男だ」で森田健作のライバル剣士の丹下竜子を演じた小川ひろみ。その他にも有吉ひとみ、水沢有美、なんかもそう。 

1111111115 地味な青春ドラマで「あしたに駆けろ!」で優等生を演じていたのが栗田ひろみ。このドラマはすぐ終わってしまったと思うが、ヒロインの鳥居恵子は人気があって、栗田ひろみは今でいえばアイドルのような扱いだった。この人は、その後、倉本聰が、後の富良野に引っ込んでモノローグばかり劇的緊張のない退屈なシナリオを書く前の未だ面白い頃のドラマで「6羽のかもめ」の6人の主人公のひとりとなった。ポッチャリした体形で丸顔の可愛らしい人だったが、不思議な翳りがあった。タイトルのかもめというのはチェーホフの戯曲に由来するが、それに通じる雰囲気があった人だった。

保倉幸恵は一部で根強いファンを持っているようで、高取英や川本三郎らはオマージュの文を発表しているほど。例えば、川本は「マイ・バック・ページ」で1章を割いて彼女の思い出を書いている。NHK銀河テレビ小説というシリーズの「黄色い涙」というドラマで、原作が永島慎二の青春劇画で、歌手、画家、小説家、マンガ家という夢に挫折し悩む主人公たちの行きつけの喫茶店のウェイトレスを演じ、天使のような存在に見えた。

2017年6月19日 (月)

年功序列を、きちんと正確に経営で考えてみたい?

 上場企業の大半は3月決算で、一部の例外を除いてその決算発表が行われ、株主総会が行われ始めています。その決算は、会計基準という一定のルールのもとに行われていますが、そのルールは毎年のように見直しが行われています。その見直しの傾向は、そのひとつが時価会計といわれるもので、その時点での企業の状況を精確に表わそうというものです。決算とは、もともとそういうもので、何をいまさらと思う方も多いと思います。例えば、商売をやっていれば、売上があって、そこから仕入れや経費をさし引いた残りが利益で、それで何かおかしいところがあるのか、と疑問に思われるかもしれません。原則的にはそうなのですが、細かいところを見ると、それだけでは十分でなくなる。例えば、固定資産とその減価償却です。例えば、商売の必要で配達用の自動車を買ったとしたら、その代金を支払います。それは、経費ではなくて、固定資産の購入ということになります。それはなぜかといえば、買った自動車は数年間使用することになるからです。仮に5年間使ったとしたら、5年間の売上に寄与したことになります。それを購入した1年目の経費としてしまうと、自動車を使用した5年間のうち1年目だけに経費がかかってしまうことになります。そこに偏りがあるということになります。そこで、自動車を購入した場合には代金の支払いは経費ではなく、固定資産として計上し、減価償却として5年間に分割して経費として、それぞれの売上に対する経費として計上するというわけです。また、売れ残った製品は在庫として倉庫に残っていますが、もはや売れ残りを定価で販売することはできなくなります。そこで、定価で販売できなくなるということは、定価相当の製品の価値が減少することになります。それを減損といいます。その減損した価値を経費として計上することになります。例えば、貸倒引当金であるとか、資産の評価替え、税効果、その他で様々なことがあります。
1年間という限られた期間だけに関係するものだけに限って売上や経費を計算して、差し引きの収支を計算し、その結果としての財産の状態を厳密に割り出そうとする。それを時価会計と呼んでいます。
 前置きが長くなりました。そこで、そういう傾向のなかで、人件費、とくに給与ということについて、試しに考えてみたいと思います。企業に勤める人の給与は月給として払われますが、その分は給与として経費に計上されます。月給は1か月働いて、その対価ということで経費として計上するということでしょう。でも、その月給というのは、果たして実質をみると1か月の労働の対価なのでしょうか。それは、日本の賃金人事制度である年功序列ということと関係していることです。だんだん薄れてはきていますが、日本企業の場合、新卒で入社すると一律の初任給をもらいます。仕事は入社してから配属されて、当初は新人研修とか、入社してから配属、仕事が決まり、そこで一から仕事を教わって、見習いのような期間が続きます。大企業などでは入社してから数年の間は、そういう扱いで、色々な部署を経験させられるといいます。それは、そういう場合は、その人がやっているのは全部、その1年間の事業に直接貢献しているということではないことになります。つまり、その人のやっているのは、将来のための準備ということで、これから何年か先の事業のためのことをやっているわけです。言ってみれば、研究開発のようなもので、いま開発しているのは何年か後の製品に結実するための費用で、将来の製品の売上のための経費の前払いのようです。とくに大きな企業では入社1年目の新人などは、直接、その年度の事業に関わる労働をしていないでしょう。だから、その人の給与は、将来の事業の売上の経費の前払いということが、その実質ということになるでしょう。その後、若い戦力になったら、低い給与で最前線で戦力となって貢献する。そこでは、給料以上の貢献をして、歳をとったら、その反対。それが年功序列の賃金制度ということになるのでしょうが、それは、事業とそれに関係する経費の動きとずれているところがあります。だから、時価会計の考え方でいえば、事業の状況を正しく反映していないと言えます。これが、アメリカ企業の職務給のようなシステムであれば、事業のためのミッションを人に求めて、その能力を持った人がミッションを行い、その対価として給与をもらう。そういう給与の計上の中身と日本企業の年功給とをおなじように並べるのは、誤解を招くかもしれません。もし、そういう、年度の事業に直接かかわるか否かで人の働きの中身を吟味して、その分だけを年度の経費として、また、以前の前払いの分や後払いの予定の分を計上してみると、その企業の人の内実が、会計上で正確に把握することができることになるのではないでしょうか。それで、同じ社員数でも、その年度費用によって労働生産性の内実の違いが、明らかにあらわれるのではないかと思います。その時、よくいわれる日本企業の労働生産性のことなどが、米国企業と比較できることになるのではないか。
 経営者のなかには、従業員は財産で、賃金は投資のように考えて人財という言い方をする人がいます。そういう人は、本気でそう考えているなら、財産として、人にかかわる費用の面でも本気で考えていないのではないか、そうであれば、上で書いたように考える経営者がいてもいいのではないか。投資家とか、アナリストなんかも、経営者の人に対する考え方を確認することがあってもいいのではないかと思うことがあります。

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