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日記・コラム・つぶやき

2017年10月19日 (木)

コンビニのおにぎりは、おにぎりではない?

ひょんなことから、コンビニでおにぎりを買った。おそらく初めてことになると思うが、一般化しているようだけれど、あれを“おにぎり”というのには、大きな違和感を持った。まず、ご飯が変!!一見白いご飯なのだけれど、ご飯の味ではなくて、何か分からない味付けがしてあって気味が悪い。また、おにぎりというだけあって、ギュッとご飯を握って圧縮するからかたくなって歯ごたえがある。圧縮で味が変化する、と思っていた。コンビニで買ったおにぎりは、にぎった形跡がない。掴んでいると形が崩れてしまうフニャフニャさで、おにぎりの味わいがなかった。ご飯の味がなくなって、にぎった味わいになっていない。おにぎりという食べ物の本質的な概念が変質してしまったことを実感した。美味しいとか、不味いという以前の問題。お米がかわいそうだと思った。

2017年10月16日 (月)

選挙雑感

そもそも政治というのは、「折り合い」で、Aという主張とBという主張があって、議論が始まる。その議論の中で、Aの側の人はBの人がなぜBという主張をしているのかを学び、Bを少しずつ理解する。Bの側人もAの主張を学んで、理解する。さらに、AにもBにも与しないCという少数者や少数意見があることを知り、なぜそれが見過ごされていたかも学ぶ。そういう議論を踏まえた上で、現実的な結論をもたらすために多数決をする。そのプロセス、多数決という結果が民主主義なんじゃなく、多数決にいく「途中」が民主主義の本質だ。(小池さんのいうアウフヘーベンというのは、政治の場合、このような議論(熟議)をするということになるのではないか。)

と考えると、相手と自分たちを敵味方に分けて罵り合うような党派的な行動は、民主主義の理想の姿からはほど遠いと思ってもいい。選挙を戦いになぞらえて、敵の大将の首を奪うこと(政権を奪取すること)自体を目的することは、目的と手段の取り違えと考えることは妄想だろうか。

ただ、争点といって対立を煽るのではなく、「人にはいろんな目的があっていい」「社会にもいろんな目的があってしかるべきで、もう少しゆるやかに考えましょう」という多様性を確保する。相手を尊重する。それこそがリベラル(自由)ではないか。多様だからこそ、社会は良い発展を遂げられる。自由な社会ということを、そう考えるのは、世間離れした空論だろうか。表面的にけれど、選挙におけるそれぞれの主張を仄聞していると、あさましいと正直思ってしまい、現実的な対応をいけないときに無責任になってしまうのだろうけれど。

一部の階層とか集団(企業、宗教団体、組合、諸団体、その他それぞれに既得権益をもつ人々)の利益を代弁し、それを政策として発表し、それを実現させる政治をしようとすると、選挙は戦争に例えられるようになり、自分が有利になるために手段を選ばず、フェイク・ニュースの応酬や一票の格差が平等でないということになったりする。

議員が熟議をすれば考えを変える可能性があるし、そうであれば公約はそれほど意味がないから、政策を信任する選挙などは自由でも民主的でもないことになる。そこでできるのは熟議ができる人を選ぶということになるのではないかと思う。

そこでできるのは熟議ができる人を選ぶということになるのではないかと思う。その場合、何を話しているか(政策、政治的主張)ではなくて、いかに話しているか(お仕着せや借り物ではなく、ちゃんと自分の言葉で話すことができる、しかし、そういう人は、ほとんどいないが)をポイントにすることになるのではないかと思う。

2017年9月12日 (火)

倫理はエゴイズム?

 人を害してはいけない、殺してはいけないといったようなルールに従うとか、倫理的でいるということの動機として、私が、そうであろうとすることからスタートして、みんなもそうだというように考えると、その動機には、私が害されないためというエゴイズムが見えてくる。私が、他人を害さない、殺さない、というのは、私が他人を害したり殺したりすることができるのに、私の意志であえて、そうしないということは、そこには自由があって、そこであえて倫理的であることを選択したということだ。しかし、これを正しいことだからと、他人に求めた場合、私を含めた他人が人を害さないという場合、私自身の身を守ることが目的でもある。そして、それを他人に求める場合には、正しいこと、倫理だから守らねばならないということになって、私自身の身を守るという自己保存の動機を隠すことができる。そして、私を害した、あるいは害しようとした他人を糾弾しようとして、私の個人的な怒りの発露を倫理というタテマエで正しいことをしていることにすることができる。
 おかしな議論に見えるかもしれないが、結果的に、誰もが他人を害することはないし、殺すこともないという社会は安全で安心して暮らせる社会だろう。しかし、他人を害してはならない、殺してはいけないという社会は安全を強制される社会。実際に、違いはないように見えるかもしれない。
 しかし、ことの内容の善悪とか正邪を別に措いて、現在の東アジアの情勢について、孤立した国、あるいは指導者に周りの国々が寄ってたかって正しさを押し付けている、と外形上は、そういう構造に見える。これと同じ構造を、日本の1930年代に見てしまうのだ。当時の日本の指導者というのは、フランクリン・ルーズベルトなどからは現在の金正恩と同じように見えていたのではないか。いわゆるABCD包囲網は、現在の経済制裁と同じようではないだろうか(だから戦前の日本を正当化しようと考える人は論理的に北朝鮮の現在を認めざるを得ないはずだ)。その90年前の日本が行き着いた先は真珠湾攻撃だったのは歴史の教訓。あのとき、どうして戦争を避けられなかったのか、といことについて散々分析や検証が行われてきたものを、教訓として、生かすべき時ではないのか。
 この国は正しくないことをしているというのは簡単で、周囲の国は正しいから制裁することができる、ということだ。ただ、私たちは北朝鮮ではない側にいるということ。どっちが正しいとか正しくないとは、こっちの側で言っていること。
 だからといって、北朝鮮に妥協しろというのではない。生産性のない戯言ではあるのだけれど

2017年9月 9日 (土)

不倫は政治家の能力と関係あるの?

 文春砲とかいって、こういった既婚者の配偶者以外の相手と交際したということを、ことさら不倫としてはやし立て、ジャーナリズムにおいても大きく取り上げることが目立つ。そういうのが、今、うけるこということなのかもしれないが。そういうのは、昭和のはじめに戦争に反対する記事よりも、戦争を鼓舞する報道の方が派手で景気づけになるから人々の受けがいいと、かつ販売部数を伸ばせるとエスカレートしていった挙句翼賛報道になってしまったことに通じるものがあるのではないかと思う。
 そもそも、不倫と政治家としての能力は別の問題ではないか。ましてや犯罪でもない。当然、個人的に失望を覚える人は多いだろう。議員に求める倫理観ということは無視できない。しかし、その人に失望を覚えたのであれば、次の選挙で候補者や所属政党に票を入れなければいい話で、議員辞職までさせて、わざわざ時間と予算を割いてまで補欠選挙を行うような事態に発展させる必要があるのか。
 もしも清廉潔白な人間しか議員になれないのだとしたら、出自から過去の経歴からなにからなにまで調べ上げられ、どこまでも潔白であることを証明できなければ選挙に出馬できないということになる。そんな人間がどこにいるというのだろうか。
 一方、民進党の人々は、蓮舫さんといい、この人といい、女性議員を広告塔として、さんざん利用して、利用価値がなくなると切り捨てることを何度も繰り返すのを見ていると、多様な人々の意見をきちんと聞いたり、尊重するといったことよりも、自己の保身を優先している姿勢が垣間見せてしまっている。この議員さんたちって、浮気なんか、あそびなどとほざいて、けっこうしていそうだけれど。
 そもそも、自立した個人としての男女が、人格的な出会いにより、愛情をもって一対のカップリングをし、夫婦として制度により社会的に認知され、その成果物として子供をつくり、家族という集団を形成し育成し、次の世代を育てる。こういうモデルは産業化がすすんだ資本主義経済の大衆社会に適していたのだろうけれど、現代の社会には適さなくなってきているのでは。フィクションとして結婚とか育児とか教育ということのリアリティーがなくなってきている。いつまでも、それに固執している意味はあるのだろうか、と思うこともある。そういう政策ビジョンを考えてみる方が、離党届の受理なんかの議論するより、よっぽど建設的だと思う。

2017年8月 1日 (火)

AIに人間が負けるというのは「能力」の定義が関係する?

 チェスや囲碁、将棋でコンピュータが人間のトップ・プレイヤーを破ることが日常化しているが、そのうちAI将棋の開発者は、ディープ・ラーニングは一定の枠内で収集された過去のデータを学習するもので、将棋の過去のデータを学習し、その応用問題を解いているものだという。つまり、従来のパターンのブラッシュ・アップを突き詰めたものだ。
 現在、企業においても、ビッグデータ解析などで効率を高め生産性を上げることはできる。しかし、それは新しい価値や需要を生み出すものではない。例えば、来店客の購買データをAIで解析し、品ぞろえの効率化をしたとする。だが過去の来店客のデータを解析しても、「店に来たことのない客」や「未来の新製品への反応」はわからない。そうである以上、「固定客にもっと買わせる品ぞろえ」はできるだろうが、顧客の新規開拓や、新製品の開発には直結しない。結果的に、需要や価値を新しく生むことにはつながりにくい。過去のデータから、統計的に例外でも重要な事例に着目し、価値を与えることは人間にできても、コンピュータにはできない。
 そこでは、従来からの仕事を続ける、前例通りとか、ことは人はコンピュータに勝てないし、取って替わられるのかもしれない。現在の雰囲気は「AIですごいイノベーションを起こせば逆転満塁ホームランが打てるという青写真を描こうとしている」というものだという人がいるが、そうだと思う。それは、実際には現状の延命に過ぎず、本質的に保守的な姿勢ではないか。
 AIがディープ・ラーニングなどによってビッグデータというような大量のデータを解析して、例えば将棋や囲碁では、人間のトップに打ち勝つようになっている。企業の現場でも、生産性の向上を図るとか、事務系の人員を少なくとも20%は削減できるとか、事業システムの変革が議論されている。
 上のことに関連して、そういうAIが強さを発揮することというのは、企業が従業員に仕事の進め方で推奨するPDCAをまわすことができること、やるべきことを分析して、具体化し、目標を数量化して、段階的に達成を積み上げ、実績は達成度ではかるということではないか。つまり、企業に勤めて仕事を進めている人の大半が、進めている仕事の進め方の姿勢や、それで人事評価なんかをされていることは、AIに、より適していることにはならないか。戯言かもしれないが、人間は、そのAIがまわすPDCAをうまく使うこと、PDCAを回す前段階の新たな価値を生み出すとか、いずれにせよ、そういう枠の外側に位置できるか、ということになるのではないか。
 例えば、将棋の世界で、藤井四段が将棋ソフトの成果をとり入れて定石に全く新しい視点で価値付与をしようとしている。その新しさで先輩棋士に連勝した。
 そう考えると、企業の現場で求められている「能力」という考え方が変化しようとしているような気がする。
 将棋というゲームに勝つ能力では人間よりもAIの方が優れている。棋士というのは、将棋で相手に勝つということをするもの。したがって、将棋に勝つという能力に優れているのであれば、将棋というゲームの世界において、人間の棋士をリストラしてすべてAIに置き換えればいい。それが能力主義ということを論理的に考えればそうなるでしょうが、実際に、将棋の世界ではそうならない。それは、人間の機械に対する差別意識からなのか。これは、企業の現場でもいえる。能力主義とか、能力重視といって、採用や人事評価において、能力だけで評価するということがフェアであるといわれている。しかし、実際に、それだけで評価している企業はないだろう。それは、能力という考え方がそもそもおかしいのではないか。あるいは。能力といって、そこで求める内容が間違っているのではないか。
 例えば、将棋の棋士は将棋というゲームをする。勝つと賞金を得る。それが棋士というプロの生きる糧だ。だから、将棋に勝つことが必須で、そのための能力を磨いている。しかし、このときの能力は十分であって必要ではないのではないか。それは、棋士が得る賞金はどこから来るのか。それは将棋連盟から。その将棋連盟はどこから収入を得ているのかというと、将棋の大会を主催したり後援する新聞、放送、そして企業からの契約金だ。つまり、宣伝なのだ。とどのつまりは、棋士とは企業のサンドイッチマンなのだ。将棋に勝つということは、その宣伝効果、つまりネームバリューの手段ということだ。したがって、棋士にとって必要な能力は、そのサンドイッチマンとしての存在に関わること。極論をいえば、プロの棋士のプロたる由縁は、将棋をすることではなく、将棋により企業の宣伝をすることであるはずなのだ。そして、これはAIにはできない。だから、AIに取って代わられることはありえないのだ。
 そう考えると、企業現場で、いま、能力として求められ評価されていることは、十分でしかないものといえないか。

2017年7月24日 (月)

ものづくりの追求って?異論?

 休日の昼に、たまたまテレビで日本の自画自賛を煽るような番組をやっているのを見ました。その内容の一部が、裁ち鋏をつくっている職人さんを取り上げて、海外の著名な服飾デザイナーが惚れ込んだということが取り上げられていました。日本の職人の熟練を称揚するような内容で、その職人さんは高齢になっていますが、よりよい鋏づくりに努めていて、ものづくりへの情熱と、その人のつくった鋏が海外で高く評価されているという話でした。
 それは、それで日本のものづくりとか職人魂といったことで自画自賛したくなるだろうし、そうしたい人はそれでいいのですが。それは、ある時期には過剰品質とか生産効率の悪さといったところで、散々批判の対象のなっていたことです。それが批判ではなく、称揚されるようになったのは、状況が変化したのか、というと、そうとも思えません。
 何を言いたいのかというと、その鋏をつくる職人さんを批判するつもりは全くありません。本人が好きでやっていることなのですから。でも、この鋏という規格品を製造し販売するということについて、考えてみると。この職人さんが作っている鋏というのは、現時点でかなり高い品質のはずです。それをより高い品質にすることに、どれだけメリットがあるのかを、ひとつの事業として考えてみると、どうなのでしょうか。職人さんが日夜努力を続けて、少しずつ品質が向上していくとして、その向上した品質をうけとる消費者の側は、それをメリットとして受け取ることがあるのかということです。そして、それだけの労力がかかっているわけですから、それに見合うもの、例えば、品質が向上したことで鋏の価格を上げることができるということができるのか。それがなければ、職人さんが苦労しても、その苦労に見合う対価を受け取れないことになります。それは、外形的にはただ働きということになり、いわばブラック企業です。それを事業として許しているということになります。もし、事業としての合理性を考えれば、よりよい製品をつくるという向上のための努力という方向を、より多くの製品をつくる方向に転換させれば、製造数が増えるので、生産効率は向上し、そり努力に見合う見返りを受ける可能性は高くなるでしょう。また、高い品質の鋏が多くのひとに使われることになるというメリットがあります。
 日本の職人仕事とか、熟練というのは、求道的な精神性のような視線でみられて称揚される傾向があります。例えば、ゴールのない精進というようなあいまいさです。この鋏の場合では、工業製品であれば想定されたスペックがあるとして、それを満たす、つまり100%の完成度に満足することなく、スペック以上のもの、切れ味とか使い易さといったものを120%を目指してしまう。それは、作っている当人は、やっているうちに熱中してしまうでしょうし、そういう場合は好きでやっているのでしょうから、本人は幸せなのかもしれません。しかし、その職人さんも生活のために仕事をしているのであって、その努力をしても収入が増えないのであれば、その家族は、得られるはずの収入を得られないことになるわけです。別に、この職人さんを批判しているわけではありませんが、そういうことを踏まえて、それを周囲で眺めている人は、日本のものづくりということで、無条件に称揚できるのか、私には疑問が残り、テレビを眺めていて釈然としませんでした。かりに、これは個人の職人さんであるわけですが、これが多くの従業員を抱えたメーカーの企業で同じような、利益にならないようなよりよいものを追求する、いわば過剰品質を求めるという場合であれば、手放しで称揚されるでしょうか。個人と企業は違うと言われるかもしれませんが。それで、御マンマを食べているという点では同じではないかと思います。

2017年7月12日 (水)

海外へは歳をとってから?

 恥ずかしながら、私は50歳をすぎて、初めてパスポートを取得しました。いまから30年以上前、私が大学を卒業するころから卒業旅行が一般化し、その後20代でバブル景気を通り過ぎ、若い頃に海外旅行に行ったり、あるいは企業に就職した人で、若いころに海外へ出張や赴任という人が沢山いました。私は、あんまりそういうのには行きたくなくて、務めた会社も海外にそれほど進出していないところだったので、日本の外に出ることはないと思っていました。出たいとなどとは思ってもいませんでしたし。
 しかし、会社の仕事の関係で近隣の国ですが、出かけなくてはならなくなって、若い人には嗤われそうですが、50の手習いのようですが、初老に近いオッサン、というよりジイサンがおっかなびっくりで、とにかく飛行機に乗り、入管を通り、わずか数日ですが行ってきました。それが数年前。それから、何度か、同じところですが、行ってくるようになりました。
 そして、行くたびに、かなり考えさせられて帰ってきます。私が行くのは、仕事の出張なので、観光要素はなく、ホテルも日本語は通じる場合があるとか、食事も現地の会社の人と似たようなところに行ったり、と当初はかなり覚束なくて不安も伴いました(今でも本質は変わっていません)。それだけに、些細な身体感覚の実感で、簡単に言うと異文化を突きつけられています。それが我が身に振り返って、自分の来し方を、結構考えさせられることが、毎回、かなりあります。
 昨日の投稿で、会計に結びつけたところを少し書きましたが、その関連でも、中国の労働者の賃金に対する考え方、人事評価の考え方、例えば、日本では当たり前の定期昇給は中国ではおかしなことというのは、日本でもビジネス書にも書かれていますが、それがどうしてなのかというのは、人々の日常の動きを見て初めて合点がいくもので(とはいっても100%納得しているわけではありませんが)、それは振り返って考えれば、どうして自分は定期昇給を当たり前として受け容れることができたのだろうかと問いに直面させられることでもありました。
 それは、そんなお題目のようなことだけでなく、卑近なところで、風呂にはいることとか、空調の感覚とか、まで。
 そして、それらを考えるようなことができるのは、私の場合、それらのことについて情報とか知識の蓄積がある程度あって、視点を自分で多少は自覚していたからこそ気がつくことができたと思います。もし、これが20代の若い頃のことであれば、新鮮さは感じたかもしれませんが、我が身に問いかけるところまでは出来なかった、多分、そのためのツールも素材も持ち合わせていなかったのではないかと思いました。
 だから、かなり偏見かもしれませんが、海外へ行くのは、思考や感性が柔軟と言われている若いころよりも、ある程度、考えたり感じたりする方法が確立している年寄りになってからの方が発見が多いのではないか。

2017年7月10日 (月)

客観的、抽象的な数字のベースになっている身体感覚の文化ということ

 食事の時に、茶碗でご飯をたべていて、一杯で足りなくて、おかわりをするときに、その茶碗にご飯を一口残して、おかわりを求めますか、それとも茶碗を空っぽにして求めますか。私は、前者が当たり前でしたが、大学の時に友人と旅行していた時に、友人が後者であったのを知って、そういうお代わりの仕方があることを初めて知りました。地方、あるいは育った家庭によって、習慣が違うということです。私の場合は、お代わりを求める時に茶碗に一口残すのは、ご飯が終わっていないからで、食べ終わったときに茶碗を空っぽにする、まあ、そんなことは理屈ではないんですが。しかし、別の考え方では、友人の言では、おかわりを求める時に、ご飯をのこしてあるのは失礼だ、ということだそうです。どちらが正しい、というものでもないだろうと思います。それは、習慣の違いということでしょう。
 似たようなことは、外国、例えば中国や韓国で食事をするとき、全部食べきれないほど出される。それを残すのは失礼と思うのは日本人の慣習で、こっちは食べきれないほどださないのが失礼になるので、むしろ残さなければならないのです。ただ、習慣とは身体感覚で身についてしまったものなので、供された食事を全部おいしくいただくことをしないで残すというのは、何となく、悔いが残るような気がする。
 このようなことは、実際に体験してみて、はじめてそういうものだと実感できるものだろうと思います。机上において情報として得ることができるとしても、具体的に実感することはできないことと思います。それが、抽象化されたり、理論化されていった時に、具体性を欠いた言葉や数字がひとり歩きしたときに、すれ違いが生まれ、その違いは実践の場面で、大きなものとなることがあるのです。
 それは、とくに海外と仕事をする場面で、大事なところで現れるのです。しかし、それに気がつかない人も少なくありません。
 具体的には、企業会計の数字は世界共通で、企業業績については売上高とか利益額などの数字を、国を問わず数値でもって、比較して、良し悪しを判断するだろうし、数字が少なければ、イマイチだろうし、数字が大きければ業績がよいとか実力があるといったことになるものです。日本企業のグループ企業の海外子会社に対しても、その数字によって、ハッパをかけたり、誉めたりします。
 しかし、例えば、中国と日本とでは売上をどの時点で計上するのかという考え方が違うし、それに伴って利益がどう生まれるかという考え方が違うのです。関連して在庫ということの意味が違う。これは、台湾や韓国も、日本よりも中国に考え方が近い。実は、アジアの中で日本の環境というのは特殊なのだ。これは現場に立ち会わないとわからない。立ち会っても分からない人もいますが、それだから問題であると思います。
 中国の慣習では、耐久消費財とか固定資産となるようなものは、あるいは製造業の仕入れ売買のような場合、基本的には代金前払いが原則で、売主は代金を受け取ってから手配して買い手に納品することになっています。そして、代金の支払いを受けた時に売上を計上する、これがルールです。これに対して、日本の場合は売り手が納品し、買い手に代金を請求して、回収することになっています。売上は買い手に納品した時点で計上するのがルールです。何だ、たいそうなことを言っても、そんなに違わないではないかと思われるかもしれません。しかし、これで生まれる実際上の違いは、例えば、納品時に欠品があった時、日本の場合には、欠品は買い手が受け取らないか、あるいは欠品分の代金を払わない。これに対して、中国の場合は売り手は既に代金を受け取っているので、欠品があっても、取り替えないし、代金を返すことなどしない。つまり、買い手は欠品があっても泣き寝入りとなるのです。この場合、買い手は、納品された中に欠品があっても、在庫としては既に金を払っているので、そのまま計上することになる。つまり、在庫が納品の時点で物品と支払った金が合っていない(と見なすのは日本の特殊性)。仮に月末に代金を受け取って、翌日に納品したとすると、売上を計上しても在庫は残っていることになって、その月の利益が一時的に増えることになる。そんなことが通用していると、中国では、生産して納品する業者は、納品した製品に欠品が混じっていても、自分たちがそれで損をすることにはなりません。(最終的には、辻褄があって、めぐりめぐって損をすることにはなるのですが)だから、欠品を減らすことに真摯にならないのです。従って、品質向上への取組みに真剣さや切実さが、どうしても足りなくなるのです。
 中国でこうなってしまっているのは、いくつか理由があります。まず、各企業が正直に帳簿をつけていないこと。そのため、お金が動いた時点で間接税が発生し、領収書と役所に提出しなければならない。企業の帳簿は、その領収書をもとに役所が把握し、企業はそのとおりに帳簿をつけることで、税務当局が企業会計を作っています。その原因は、もともと通貨にたいする信頼性がなくて、その通貨の上に成り立っている企業間の取引の信頼性がうすく、借金の踏み倒しの被害に救済や踏み倒しによる制裁(信用なくした場合に不利になる)といったシステムがしっかりしていないからだ。それには、歴史的な経緯もあるのだけれど。
 だから、数字がいい数値であっても企業の経営の内実や事業の実力はガタガタになっていることは、よくあることだという。それは文化の違いによるものでもあるわけです。

専門家の枠組みが変わって、従来の専門家はAIに取って替わられる?

 この数日の九州の豪雨災害とか北朝鮮のミサイルといったことなど、その報道で専門家のコメントをみていると、全く参考にならないと考えさせられました。私の誤解かもしれませんが、専門家というものをどのように捉えるかということについて、報道をみていて私が感じるのと、報道している側やそこでコメントをしている専門家当人との間で大きな齟齬があることに気づいた。私の捉えていることが、ひとりよがりなのかもしれませんが。
 実際のところ、例えば、九州の豪雨災害というのは全容はどうなのか、それは従来とどう違うのか、それで従来の災害対策を考え直すようなことなのか、つまり、評価とか意味づけということを知りたいとおもうわけです。しかし、そこでコメントしている専門家という人は、今回の豪雨は異常だとか、しかし、どうしてそんな異常なことが起こったのかというメカニズムの説明はなくて、こんな量の雨が一気に降ったから異常だという結果と原因を混同した説明しかなかったり。地盤が特殊だったという説明、そんな特殊な地盤であることが予め分かっていて、従来の対策は適切だったのかとか、許容量はどのくらいだったのか、他に同じような危険のあるところはどうなのか説明もなかったり、といったように毒にも薬にもならないように無駄話しか聞けないという印象でした。
 北朝鮮のミサイルに対しての専門家という人々のコメントは、ミサイル技術の教科書の概説を丸暗記したような言葉しかなくて、実際のミサイルの脅威について、例えば実験で成功しても、それを現実的な軍備として機能するのか、そのためには量産とかメンテナンスとか人員といった運営や、それを支えるロジスティックスなんかを整備できているのか、できていなければ整備するのにどのくらいかかるのか。ミサイルという兵器の物体に限るのであれば、最低限その程度のことを明らかにしてもらえなければ、現実の威力が分からないでしょう。また、兵力というのは外交とか国の戦略の一環ですから、それによってどのような変化があって、それがこちらにとってどの程度の現実の脅威であるかが想像できるのでしょうけれど、そういう評価とか意味付けのようなことは、いわゆる専門家の人は北朝鮮情勢ならそれに限って教科書の説明の丸暗記とか、その程度の説明しか行われない。それなら、記者の書いた記事やニュースキャスターが台本を読み上げるのと変わらないものです。しかも、専門家の人の話し法はへたなので聞きにくく、いってれば時間の無駄です。
ほとんどというよりも、私の聞いた限り全部そうでした。
 いわゆる専門家の人というのは、大学なんかの体制で学部とかいった学問の分野で仕切られた昔からの枠組みのなかで知識や経験を得てきた人ということなのではないかと思います。かつて丸山真男がタコツボといいましたが、その枠組みのなかでの知識や経験だけを積み重ねて、枠組み自体の有効性とか、それ以外のところには知識や経験は及んでいない。いまどきこんな人いないだろうと思っていたら、ニュースなんかに出てくる専門家の話しているのを聞いていると、まさにそんな感じです。話していることが教科書の丸暗記といったのは、従来からの蓄積された知識データをあげて、災害であれば、今回は、その蓄積との差異を話すことばかりだからです。
 でも、こういうのであれば、今、巷で話題の、ディープラーニングするAIにやってもらった方が、ずっと深掘りができて正確で精度の高いものがでてくると思います。こういうのっていうのは、限られた枠組みのなかでデータを蓄積して、その解析と、新たな事態においては、その差異を分析するというのですから、パターンの繰り返しです。つまり、将棋と同じです。要は、パターンが複雑であるということだけです。だから、これから数年かすれば、いま大学にたくさんいる専門家はコンピュータに取って替わられてもおかしくないということだと思います。私には、それは、人がわざわざ頭をひねって労力をかける意味があるのかと思えるのです。おそらく、真摯な企業の現場であれば、生産性が低く、価値創造もできないものは無駄と見なされてしまう、そんな程度ではないかと思うのです。
 おそらく、専門家というものの意味合いが、このような大学なんかの枠組みとは異なる基準で捉えられるものになっているのではないかと思います。前述の災害や北朝鮮のミサイルに関して私が専門家から知りたいというのは、実際の場で、どう対処したら良いのかを考えために必要なこと、情報の切り分けとか評価といったようなことです。それは、実践の必要に応えて枠組みを新たに創造するようなことです。
 これは、報道に限らず、ビジネスの場でも、実際の企業現場でもそうです。例えば、法律行為は弁護士が専門家ということになっていますが、取引の契約書の吟味といった形式的なことでも、法的リスクをあげることができない人が大多数なのです。一般的には、弁護士は専門家だから、企業の従業員なんかよりずっとくわしいと思われています。しかし、私の経験です、有名な大手法律事務所の弁護士で、書類を見てもらって、問題ないと言われたものについて、後で、こういう時はどうすればいいのでしょうかと質問すると、それは問題ですという答えが返ってきて、そういう後付けで問題だといわれたことが数件、極めつけは、それについて株主総会で株主から追求されるリスクをきいたところ会社法の常識では考えられないような素っ頓狂な回答があって驚きました。その後は、懲りたので、この後は書類の吟味を依頼する前に疑問点をさきにあげておくことにしました。それにはちゃんと答えてくれます。しかし、私の基準では専門家というのは、そういう疑問点は私などが思わぬところにあることを指摘してくれるものではないかと思っていました。
 おそらく、そういうことは、特に企業では、日本の場合、かつては現場で問題提起して解決していたのではないかと思えるのです。多分、従来の枠組みのなかでパターンとおりの繰り返しという仕事、マニュアル通りでできてしまう仕事であれば、AIやロボットに取って替わられる運命にあるのではないかと思います。

2017年7月 3日 (月)

株主総会って、ホントに必要?

 このところ、株主総会をめぐって荒唐無稽なことを書き込んできました。かなり馬鹿馬鹿しい議論かもしれませんが、そもそも~と始めてみて、それについて、ちゃんとした説明ができない、まあ、言わずもがなの当たり前のことなので、そんなこと訊いてくるほうがおかしい、と言ったところでしょうか。今日も、その馬鹿馬鹿しいのをもう少しやろうと思います。
株主総会は必要なのか、ということです。会社法で決まっているから、手続き上不可欠だというのは、たしかに理由ですが、では何のために会社法で株主総会をやらなければなないと規定しているのか、といわれて、ちゃんとした答えができるのかどうかです。
 おそらく、欧米系の嗜好性という議論するのが好きなので、会議をおいたということなのかもしれません。そうであれば、株主総会というのは単なる好みの問題です。果たして、それ以外のりゆうはあるのでしょうか。小規模な個人企業や、創業時のベンチャーなどでは、会議などやっているでしょうか。そんな暇はないのではないかと思います。そもそも、会社を維持し、さらに成長させていくために正しい経営判断をしていくことが目的であるはずで、そのために株主総会というシステムが絶対的に適切という保証はどこにもありません。個人事業主がひとりで判断したほうが正しい場合もあるでしょう。そのような効率性の問題であれば、株主総会の必要性は絶対的ではありません。
 また、会社に出資し、会社の所有者である株主の権利保護とか、株主が納得するためという説得のためということであれば、株主の納得と会社の成長とが対立した場合に、株主の納得を取るということになるわけですが。それで理論上よろしいのでしょうか。また、株主は、納得できない場合には会社の株式を売却できるという保障があるわけです。現在の機関投資家等は実際の問題として、一旦取得した株式を売却し難いという事情があるという意見があるかもしれませんが、それは、会社の責任もあるかもしれませんが、株式市場が売却できるようにしなければならないはずで、単に株式市場が怠惰なだけです。
 会社法の条文の意味内容になりますから、会社法の専門家である法律学者や弁護士の偉い先生は、ちゃんとした説明ができるはずですが、そういう文献のようなものは残されていないようです。

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