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日記・コラム・つぶやき

2017年12月 1日 (金)

無資格検査問題は日本のものづくりの危機なんだろうか

少し前までは、過剰品質とか生産者の自己満足で生産性が低いとか、暗にうまく手抜きをしてもっと儲けろと示唆していたと思ったら、ちょっとでも儀式化した形式手続を怠っただけで、“ものづくりの危機”ということになってしまう。ちゃんと現状を調べて事実を確認しているのだろうか。フェイクニュースとどこが違うのか、よく分からない。

例えば、日産自動車の無資格検査の問題。「38年も無資格でやっていた」ことで、メディアが散々叩いている。一般のユーザーの立場からすれば、38年間「無資格検査員の完成車検査」で問題が出なかったのだから、「無資格者でも問題ない」ということが統計的に証明されたようなもの。それを「38年も続く不正」などと報道するのはバランス感覚を疑う。何よりも、現在の自動車製造というのは高度な自動化がされ、製造過程でのエラーは、全てセンサーやカメラなどで高精度なチェックが行われる。これに、改善を重ねたマニュアルに基づいたヒューマンな目が要所要所で入る仕組みになっている。メーカーとしては、38年間にわたってクルマづくりに関する「高精度な作り方」を練り上げていて、さらにそれを世界で標準化している。だから海外には、完成検査に関する法令自体が存在せず、それゆえ、問題となっているのは国内のみという。それにも関わらず、社内の高精度な検査をして合格した後に、もう一度最後の工程として38年以上も前からやっている「水をかけて雨漏りを調べる」などといった検査を行うというのは、これはほとんど儀式的な意味合いしかない。むしろ、資格を持つ検査員の完成検査という制度自体に問題がある。その改革の方。が、ものづくりが生き残るために必要なのではないか

日産は、とにかく一般世論に「ルール破りをした日産は悪い」という印象を与えた。それが結果的に「とりあえず制度は守らなくてはならない」という印象論が広まってしまいました。つまり、必要な改革が妨害されたことになってしまった。足を引っ張った責任の多くはメディアにあるのではないか。

2017年11月26日 (日)

最近の大相撲の暴力騒ぎの空疎さ

相撲の力士が競う場である土俵は、字のとおり米を収穫した俵を敷き詰めたもの。田んぼに高く土をも盛り上げて俵で固めたもの。また、力士が登場する花道は、田んぼの畔をとおって力士が登場するところに花を飾ったのが始まりときく(芝居の花道も同じ語源で、芝居というのも畑の芝の草原に座って見たものだから芝居)。この土俵の真ん中の地中には神様が埋められている。それは、相撲というのが豊作の感謝と祈りを神に奉納するもの。その意味で相撲に何事かあれば、ファンよりも神様をまず第一に考えるのが本分のはずで、それによって飢饉になったり不作になってしまうことを、第一に心配すべきが相撲の本分であるはずと思う。

一方、力士というのは異形、荒ぶるもので、それだからこそ神に対して力を奉納できる。賤であることが聖になるもので、その荒ぶる存在である力士に品格などというものを求めるのは、何か変ではないかと思う。国技などということになってしまって、見かけ上の体裁をとりつくっていて筋が通っていないとも思う。(もともと、相撲が国技であることに制度的な根拠はないと言われていて、明治時代につくった常設の場所を国技館と名づけたのが根拠だと言われている)

だから、最近の暴行騒ぎ(現時点では疑いというだけで事実として何も確かめられていないので、それに無責任なコメントを公表すること自体はフェイクニュースと、どこが違うのか)については、相撲ということが何であるかというのが曖昧なゆえに、空騒ぎしているように見える。

芸能人や政治家のスキャンダル暴露競争にみんなが加担して、道徳家めいたもっともらしいコメントを加えて形式的な品行方正を求めて、留飲を下げるバッシングと同じような気がする。

ちなみに、大相撲はスポーツではないのは明白だと思う。スポーツで必要なフェアプレーに反する制度がいくつもあるからだ。

2017年11月25日 (土)

「新しい」ということが成り立つには・・・

「新しい」という価値、例えば新発見というのは、それまでになかったもの、あるいは知りえなかったことを、「新たに」情報として、従来の情報に追加するということだ。そのためには、従来の情報と未知の情報が峻別されていて、それが人々に厳密に共有されているということだ。そのためには、全体ではなくて、限定された部分(限定の仕方といった視点も含めて)の情報を誰もが全く同じに、つまり個人によって解釈が分かれないほどに、共通に持たれているということだ。それを分析という。あるいはまた、個人による解釈の相違を許さないということから、客観的ということになる。これに対して普遍とか永遠というような全体、すべてを包摂した認識ということになるので、論理的に未知とか情報が追加されるということはあり得ない。この場合、情報が追加されることはない、もし、今までにない知識ということがありうるとすれば、曖昧だったことが明確になったとか、つまり、新発見という場合には、新発見の情報はデータの挿入モードと言える。これに対して普遍という場合にはデータの上書きモードで、それぞれデータが更新される。単純化した二分法だけれど。

新発見で部分が追加されてきたのが、既知の情報ということであれば、積み上がったものは疑い得ない確かなものかもしれないが、それ以外のところは分からない。しかし、人は、その分からないところでも存在している。具体的には、医学の分野で病気や身体の不調について、分からないことが沢山ある。実際に原因不明の腰痛などは日常茶飯事だ。しかし、分からないとはいっても、結果的に解決してしまったりしている。

2017年11月23日 (木)

「新しい」ということを考えてみた

「新しい」ということに価値があるということは新しいことだ。近代以降の科学での新発見、資本主義経済での新製品、大衆消費社会での新しい流行といったものが典型的かもしれない。しかし、中世のキリスト教の神という絶対的価値は永遠のもの。つまり、時間を超越しているわけだから新しいも古いもない。真実は過去も現在も将来も正しい。それに対して、新しいというのは、ある時点から新しい。その前の時点では、それがなかったから新しいということになる。さらに、新しいは、より新しいが現れた場合には新しさは消失してしまう。永遠ではなく、ある時点の相対的な期間に限定される。

価値というものさしでみると、「新しい」の反対は「古い」ではない。古いは新しいに対しても古いが、新しいが出現していない時点ですでに古い。だから、新しいは古いの中に含まれてしまう。同等ではないのだ。むしろ、古いは永遠に近い。

しかし、科学は新発見があったからこそ発展する芽を持てた。永遠というのは、ずっと変わらないということで、変わらないということは、進歩がないということも含む。

2017年11月13日 (月)

国会の質問時間枠を取り合うのは筋違い?

国会の質問時間の配分がニュースになっている。国会は何をするところかと言えば、国の方向を様々な立場で議論して、よりよい結論を導くというものではないか、と思う。その際に、質問の時間を予め決めて、政党ごとに配分して、その枠を取り合うというのは筋違いではないかと思う。そもそも時間制限するような性質のことなのだろうか。むしろ結論が出るまで時間などに縛られことなく徹底的に議論するのが筋ではないかと思う。もっというと、あれだけ多数の議員がいて、質問者と回答者だけが発言するという会議なんて、国会以外にはないだろう。普通の会議では、質問者がいて、それに回答がされても、そこから議論が始まっていく、そこでは質問者や回答者以外の参加者が発言して議論が広がり、深まっていく。それが国会や、その委員会では会場に座っている議員は野次るか居眠りをしているだけで、採決の投票するだけではないか。それなら、むしろ、会議という金と労力をかけることは無駄で、質問者と回答者とタイマンでやらせればいい。本当にすべきことは、出席者の発言がまったくない議場で議論が形骸化してしまっているままでいいのか、そこで出席者全員が意見をたたかわすような会議ができるようにすることではないかと思う。

実際、企業の経営の場では、形骸化していた取締役会を活発な議論の場となるように、各企業は取締役会の活性化のために取締役の数を削減したり、権限を委譲したりして社外のメンバーを入れたりして、数年前とは様相を一変させてしまった。国会だって、あの人数で議論は出来ないのだから、議論ができる人数に減らす(とすれば現在の1割未満といったところだろうか)といった根本的な見直しを、どこかの政党が時間枠が何割かなどではなくて、提案しないものだろうか。

2017年11月11日 (土)

音読みと訓読み

 

漢字には、音読みと訓読みってのがある。これは誰でも知っている。音読みというのはオリジナルの発音。漢字は中国語では表音文字のように、中国語の一音節に漢字一文字が対応している。ということは、例えば、シュンと音読みされる漢字は、春、駿、瞬、旬・・・その他に何種類もある。それは、中国語の発音は、それぞれ全部違うということになる。昔の日本人は、それらを聴き分けられなかったから、同じシュンという音読みにしてしまった。今でも、日本人の多くは、英語のRとLを聞き分けることができない。それだけ、発声を聞き分け、使い分ける能力の範囲が狭いのだ。中国人やアメリカ人には言葉の声として存在しているものを、日本人は、その存在に気がつくことができない。存在しないことになっている。

しかし、その弱点を逆手にとって、シュンを聞き分けることができないから、春ははる、瞬はまたたくという意味で識別するようになる。最近まで日本人は漢字を主として表意文字として捉えていたのではないだろうか。実際に、我々は漢字を見て口に出して発声できなくても、意味を分かってしまう。つまり、日本人は漢字をわざわざ日本語に翻訳しなくても、その文字のもっている意味がある程度分かってしまっていた。その結果なったのが、漢文の訓読だ。外国語をそのまま読んで日本語になってしまうという前代未聞、おそらく世界で他に例がないものだ。フランス語と英語で同じアルファベットという文字をつかっていても、フランス語の文章がそのまま英語で読めてしまうことはない。必ず、翻訳して英語に書き直す。これが普通だ。しかし、訓読は、漢文そのままを日本語で読んでしまう。それは、先に漢字の意味を捉えてしまって、あとで日本語にして発声するからだ。その漢字の読み方を訓読という。

この話は、さらに続く。日本人は漢字を意味で捉える。そこから、その意味をパズルのように加減して新しい意味をつくり出すという芸当をやってのけた。中国人は漢字を表音文字と捉えるので、外来語の新しい意味を導入する時には、その外来語の発声に漢字を当てはめようとした。これに対して、日本人は明治の文明開化の際に欧米から導入した新奇の概念の意味を把握し、その意味に近い漢字を当てはめた。自由、人権、民主主義、共産主義などみんなそうだ。それがあったから、あれほど短期間にエリートに限定されず庶民にまで浸透してしまったのだ。あとになって、それらは中国に逆輸入された。もし、それがなく、直接中国語になったとしたら、コミュニズムは発音が近い漢字が当てられたかもしれない。

日本人と漢字との関係はユニークだ。ただし、そういう接し方をしたがゆえに、中国語のニュアンスが切り捨てられて、意味が歪められてしまったということは、荻生徂徠ななどが厳しく指摘している。

ある人に、音読みと訓読みの違いを教えてくれといわれて、余計なことまで妄想してしまった。

2017年11月 9日 (木)

言葉は通じていても、意味は共有していない

花子さんが、付き合っている彼氏とは別の男性と二人きりで酒を飲んでいるところを目撃され、「君は浮気をしている」と彼氏に難詰されたとする。彼女は「浮気なんかしていない」と答えるが、彼氏は「浮気している」と譲らない。彼女は、単に二人で酒を飲んだだけで浮気したわけではない。彼はそれこそが浮気だという。二人の言っていることはそれぞれ間違っているわけではない。だから、二人の議論は、どちらかが間違っていて、その誤りをただすということには至らないので平行線のままだ。このとき二人の間で「浮気」という言葉がともに使われているが、意味・内容ですれ違っている。しかし、二人は共通であると錯覚している。だから彼は彼女を難詰したのだ。彼が難詰したのは、彼女が非を認め謝罪することを期待してのことだろう。だから、彼女は自分に非がないこと、自分の行為は浮気にあたらないことを説明しなければならない。この場合、二人とも正しいにもかかわらず、二人の正しさは、この議論の場では平等ではない。この議論の方向は、仮に彼氏が正しいという設定でスタートし、それに対して彼女はその設定をひっくり返して、彼女の正しさを通せるかどうか、という方向だ。この時、彼氏は「浮気」ということについて、自分の使っている以外の意味内容があるとは想定もできない。きのうの投稿でいうと、彼氏はプラットフォームを作る側の人と言える。

きのうの異なる文化の接触もそうだけれど、人と人との言葉のやりとりについても、実は同じことがいえる。

多様性とかダイバーシティなどいって、企業では外国人の雇用とか試みしているというけれど、普通に人と人との使っている言葉の意味ですら違っているのだから、いま、現に企業の中にいる既存の社員などの人々の、そういう違いについて、果たして、違う方も正しいということに気がついているのか。気がついて、それをすくいあげる努力をしているのだろうか。そこからでも多様性はあると思うのだが。足許を見ろと言いたい気がする。

言葉は同じでも内容は違うのに伝える

「辛い」ということ。例えば、日本酒の「辛口」に、私たちは何の疑問も感じないと思う。また、カレー・ルーのなかでハウス食品工業の製品でバーモント・カレーの「辛口」とジャワ・カレーの「甘口」を比べたとき、矛盾を感じることはない。(二つの商品を知らないかもしれないが)これらについて、例えば、中国の四川省あたりの人々が、同じ漢字を使っている「辛」は舌がヒリヒリして痺れるような感覚、その典型が唐辛子だという。だから、そういう人が辛口の日本酒を辛いとは感じることはない。むしろ甘いと感じるのではないか。この場合の日本酒の辛口は後味の残らないさわやかさのことを言うのだろう。この時に、同じ「辛」でも、日本人と四川省の人では内容が違っている。しかし、同じ「辛」という言葉を共有しているから、内容が違っているとは考えない。外国語の翻訳も、実はそういうものだ。

いまさらクワインの通約不可能性の議論を持ち出すわけではないか。文化の多様性というのは、「辛」は共通しているということを互いの約束として、実は誤解し合って、そのいわば善意の誤解の上に立って、だって共通の地盤に立てなければ互いの違いを認め合うことが出来ない。この時の共通の地盤、つまりプラットフォームをつくる側と、作られる側があって、作られる側は作る側に譲歩することで、はじめて成立する。このとき、譲歩する側は譲歩していることを自覚しているが、譲歩される側、つまりプラットフォームを作る側は譲歩してもらっていることに、おそらく気づいていない。

これが「辛」だからいいのだけれど、「自由」とか「民主」といった言葉について、このプラットフォームを作った側の人々が、今まで譲歩ばかりされていたのが、こんどは譲歩することを迫られ始めて文化多様性とかグーバリゼーションが、話が違うじゃないかと思い始めている。そんな気がする。

2017年11月 5日 (日)

失敗することのむずかしさ

失敗をして、はじめて気がつくことがある。失敗しないと気がつかないことがある。だから、失敗をしないことが最大の失敗だと就職して間もない頃、先輩に教わったことがあった。ある映画評論家がマイケル・チミノの「天国の門」について失敗できるのは才能だと評したことがあった。駄作と失敗作は違う、と。以前に述べたことがあった。実際、それほど多くの作品を見ているわけではないが、「天国の門」ほどの明白な失敗とまではいかないまでも、失敗することができないのでは、と思わされることがある。それは、失敗すらできないというもので、見ても、失望も怒りも湧きおこさない、空白のようなもの。

今は、失敗ができにくい、あるいは失敗させてもらえないような環境なのかもしれない。それは、失敗の反対である成功にもならない、そのどちらにもいかない中途半端なところで落ち着いてしまう(減点を回避して無難ですます、とでもいうか)。

そういうものかと考えていたが、失敗ということが分からない。失敗しているにもかかわらず、自身でそれが分かっていない。それゆえ、失敗ということにならない。そういうこともあるのを、このごろ、目にする。

2017年11月 3日 (金)

東京の電車内の静けさとか異様に見えることがある

二十年以上前に、大阪からきた人から東京の地下鉄では人々がおしゃべりもしていないで、静かで不気味だ、ということを言われたことがあった。その時は、驚いたものだった。しかし、ここ数年、外国で地下鉄やバスを利用して、改めて帰国して、東京の通勤電車に乗ってみると、たしかに異様で不気味に見えた。人間らしさというのは個人の主観的な見方になってしまうが、電車の静寂は人間がいるような生々しさが稀薄に見えた。街角にゴミが目立たず清潔な感じが、衛生的ということは、人間以外のあらゆる生命を殺戮して排除することだ、ということを思い出した。人が生物として生きていくことから遠ざける環境に見えてきた。とはいっても、それから何日も経って、今は、それに再び慣れて、それが当たり前になっていて、外国の賑やかな環境が喧しいと感じる以前の状態に戻っているが。

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