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映画・テレビ

2019年5月31日 (金)

アンソニー・マン監督、ジェームス・スチュアート主演の映画「怒りの河」の感想

111111_2 新天地を求めた農民を乗せた幌馬車隊。ジェームス・スチュワート演じる主人公は、その一行の道案内と護衛で、彼はかつて無法者であり、縛り首になりかけたことがある(彼の首には、その縄の痕跡がスカーフによって隠されていた)。彼は改心し、移住する農民たちを助け、彼らと共に新しい生活を目指そうとしていた。その途中で、かつての自分と同じように縛り首にされようとする男を発見し、助けてやる。この男はいったんは主人公と共に農民を助けるが、後に主人公を裏切り、農民たちに届けるべき越冬の食料を略奪、馬も銃も奪われた主人公は彼を追跡する。
 実は、この男はほとんど主人公の分身、さらには主人公そのものといってよいような性質のものである。少なくとも主人公にとって克服すべき過去の自己であり、それを抹殺することが、今の自分の存立を保障するような存在としてある。だから二人の対決は、互いに対峙して撃ち合うのではなく、どちらがどちらとも分からないような取っ組み合いになる。二人が最終的に対決するのは急流の中だ。主人公の分身的存在、力尽き、流されていく。主人公は、投げられた縄をつかみ、ゆっくりと岸辺に辿り着く。常時身につけていたスカーフが流され、首の傷があらわになっている。主人公を助けたのは、かつて縛り首で彼の命を奪おうとした縄だ。
 典型的な西部劇は悪い敵と対決するものだが、現実に裏切り者と対決するここで対決するのは主人公自らの過去でもある。彼の内面の葛藤そのものは見えないが、言葉の端々や、主人公の肉体の痕跡、彼が陥る悪夢、常に何かに追われているかのような異常なまでの切迫感などにあらわれている。この物語が主人の内面のドラマと裏返しになっている。

2019年5月 7日 (火)

フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想

 111111_1 第二次世界大戦、ナチス・ドイツ占領下のプラハで「死刑執行人」の異名を持つ占領副総督ハイドリヒの暗殺事件があったのは史実。それを題材に、その戦争が終わらないうちに、ドイツ系亡命者のブレヒトが脚本を書き、ハンス・アイラーが音楽を、フリッツ・ラングが監督をした作品。それだけが理由ではないが、全編異様な緊張感が張りつめている。その展開に、ポケッとしていると置いてきぼりにされてしまう。説明的な描写を削ぎ落としたソリッドな映像は、禁欲的な美しさを湛えている。例えば、ゲシュタポに逮捕された老父とヒロインが面会するシーンは、ヒロインが待つ無機的な狭い室内に、ドアが開いて光が差し込み老父が入ってくると、その光と影のコントラストにより老父が処刑前であることを暗示させる。それで話は進んでいくが、それについての余計な説明は一切ない。それが、残された家族のやるせなさと、その家族もも同じ運命をたどるかもしれない恐怖が残ってしまう。そういうのが、最後までつづく。監督のフリッツ・ラングは見る者に全体像を明かすことをしないで、主要な登場人物の視点で画面をつくり、それぞれの視点で物語は進行するのだが、そのうちの一人の視点の映像だけを見せて(その同じ時に他の人物の視点で起きていることは見せない)、その断片を一本に繋いでいくと、観衆には見ているストーリーが途中で飛んでしまうような印象で、見る者に緊張を強いる、臨場感が半端じゃない。それが、映像そのものが緊張感を生んでいる。
 まるで抜き身の真剣のような美しさを湛えた作品だと思う。

 

2019年4月21日 (日)

小津安二郎監督の映画「彼岸花」の感想

11111  小津安二郎監督の初のカラー作品ということで慣れないのか、前作『東京暮色』が陰影の濃い画面だった反動からなのか、照明が行き届すぎて、日本間というには影がなく、しかも有名な真赤な魔法瓶といったような非日常的な原色が散りばめられていたりして、まるで宇宙ロケットの中のような抽象的な空間をつくっている。しかし、そこで演じられているのが、前作『東京暮色』をそのまま移したようなドラマで、娘役は前作で自殺してしまった有馬稲子で、ここでは父の理解をえられぬまま東京を離れねばならないという、まるで前作を引きずっているかのように、後期小津作品の娘役では珍しいほど、俯いている姿勢と、泣くシーンが多い。また、佐分利信の演じる父親の頑迷さで娘を見ていないところは、前作の笠智衆に強引さを加えたようなもの。その笠智衆は、男とともに家を出て、バーで女給をしている娘の父親として俯いている。小津は一度噴出してしまったドロドロとしたものを抑えることができないように見える。そこで、『東京暮色』の暗く閉塞したような空間とは正反対の、抽象的な、つまりは浮ついたような空間をつくり、さらに、山本富士子の演じる京都の旅館の娘の佐分利信を煙に巻くようなコミカルな存在や、この後の作品で定番となる中村伸郎や北竜二などの男たちが料亭の座敷で女将をからかいながら他愛もないギャグをかわす場面など作品をコミカルな雰囲気を作ろうとしている。そのためか、全体として一貫していない、どこか分裂した印象を受けてしまう。この作品では、佐分利信、田中絹代、有馬稲子などの家族に、「そんなものかね」といった内容のない相槌と微笑を鸚鵡返しのように交わす儀式のような会話も見られず、娘の結婚前に箱根に旅行した場面でもボートに乗る娘たちを湖岸で見ている夫婦は、『東京物語』の熱海の海岸の老夫婦が背中を並べるように、並んで同じ方向を向いていることはほとんどない。後期の小津作品の中で『東京物語』までの紀子三部作から晩年の作品への変化を、この作品で小津は試行し、迷い、悩んでいる。それだけに、小津が普段見せない、どろどろしたところ、真情を、それを隠そうとしているところまで垣間見ることのできる作品ではないかと思う。

2019年4月16日 (火)

デビッド・リーン監督の映画「ドクトル・ジバゴ」の感想

111111  冒頭。プロローグのような、アレック・ギネスが弟ジバゴの遺児を探してダムの工事現場を訪ねる。終業時間となって労働者が出てくるところ。巨大なダムを、吐き出される労働者の何百、何千人もの群れが埋め尽くすのを、ロングで広角のように撮っていると、まるで人の群れが風景のようになってしまう。そういう空間に圧倒されたところで、本編が始まり、シネマスコープのひろがりいっぱいの白一色の雪原。人で埋め尽くされた空間から、雪で白一色の空間に、その広がりは、映画館のシネマスコープの大きな画面では、目の前に広がる以上に、覆われてしまうような感覚となる。
 それが、この映画のドラマで、他のシーンもあるのだけれどジバゴが徴用された赤軍パルチザンから脱走して、ひとりで雪原を彷徨するするシーンは、白一色の広大な空間の中で、たった一人の人間であるジバゴをロングショットで撮っていると、小さくなって点になって雪原の白の中に融けこんで消えてしまう。人間の小さを表現しているとか、そんな悠長なことを言わせない圧倒的な空間のひろがりの美しいといかいえない、実はそれがドラマを作っている。それ以外のシーンもあるのだけれど、基本的に、人物は引き気味で、カメラが寄らない。ちっぽけな人間、その個人のチマチマした表情とか感情とかは突き放している。そこで語られるジバゴとララーの二人の恋愛。恋愛ドラマのラブシーンなんぞより、二人が画面にいるということが実は大変なことだ、とうのが画面で示されている。それは、室内の黄色いひまわりだったり、とにかく人が白い雪原に消えてしまわないのだから、二人の存在そのものが画面に映し出される。それは残酷であり、ひたむきであり、はかなく、そして美しく映った。

 

2019年3月18日 (月)

小津安二郎監督の映画「東京暮色」の感想

111111  「晩春」以降の小津安二郎監督作品の中でも失敗作という人もいる。かつて、植民地勤務で東京を留守にしていた折に妻に逃げられた初老の銀行家の娘が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえで自殺するというストーリーと、他の小津作品にはない暗く湿った雰囲気の画面とが相俟って、後期の小津作品の中では人気も評価もいまひとつと思う。しかし、そうなることは、小津自身にも分かっていたのではないか、それでも彼は、この作品を撮った。否、撮らずにはいられなかった、そう思うが故に、この作品こそは、小津が映画作家である証しのような作品であると思う。この作品は、後期の小津作品の代名詞ともいえる笠智衆と原節子が共演した紀子三部作の陰画のような作品になっていると思う。例えば、『東京物語』の有名な早朝の熱海の海岸で背中を並べて佇んでいる老夫婦をバックから捉えたシーンを、この作品では有馬稲子が恋人の田浦正巳に妊娠したことを告げるのが同じように東京湾に向かって二人が並んで堤防に腰をおろしているのをバックから撮っている。しかし、ここには老夫婦の心の通い合いとは違って、心を通わすことのないそれぞれが自分のことしか考えていないそれぞれに孤独な男女がいるだけだ。この作品では、後期の小津作品のスタイルの画面が作られているにもかかわらず、その意味とか観る者が受ける印象が陰画のごとく逆方向を向いている。父親を演じる笠智衆は『晩春』の父親と同じように振る舞っているが、『晩春』では娘をさりげなく見守る人の好い父親になっているのに、この作品では善意に逃げる愚鈍さゆえに、妻に逃げられたうえに娘まで失ってしまう依怙地な銀行員になってしまっている。つまり、代表的とされている小津作品は表の面に過ぎず、実はその裏面として、この作品の世界があり、その二つが表裏の関係にある。だからこそ、小津は、この作品を撮らずにはいられなかったのではないか。おそらく、この作品を見ると見ないとでは、例えば『東京物語』の見方が変わってくると思う。

2019年1月27日 (日)

エドワード・ヤン監督の映画「恐怖分子」の感想

000002  人間の恐いのに、何が恐いか分からないという不安を想像させる独特の映像
 警察の手入れから逃げ出した不良少女シューアンとその姿を撮るカメラマン志望の青年シャオチェン、昇進を目論む医師のリーチェンと小説家としてのスランプに陥っている妻のイーフェン。それまで接点を持たなかった人々が、シューアンのいたずら電話をきっかけにして、関係が交錯し、人生が変化を始める。イーフェンは、これに着想を得て書いた小説が文学賞を受賞し、かつての恋人と情事を重ねる。一方、妻に去られただけでなく出世の競争に敗れたリーチェンは・・・
 説明的な要素がなく、人物の表情が抑えられ、台詞も少ないので、特に前半は親しめない人も少なくないかもしれない。退屈を覚えるかも。しかし、端整な画面で映し出される映像は、その繋ぎが、見る者に、どこか不安定でサスペンスな印象を呼び起こす。例えば、冒頭はサイレンの音で、何か事件が起きた事は分かるが、次に道に倒れた男の映像。そして銃声。しかし、撃ち合いになる場面もなく、どんな事件が起こったのか、つまり、現場が出てこないのだ。銃撃戦は音と割れるガラスしか出てこない。この映画、普通の事件の場面に見る者が期待する要素がすべて映されないのだ。そこではサスペンスの緊迫感が伝わってくるが、それ以上に何が起こったか分からない不安を募らせる。また、切り返しショットで人が視線を向けている画面に続く画面が、その視線が見ていたものを映さない。そこで見る者は画面からストーリーを追いかけることがスムーズに行かないのだ。それが物語の安定感を見る者に与えず、映画が現実か夢か、外面か内面かの境界が曖昧になってくる。そこに、「恐怖分子」のタイトルのような分子的な恐怖がうまれてくる。

2019年1月16日 (水)

ゲーリー・クーパー主演、アンソニー・マン監督の映画「西部の人」の感想

000002  強盗団から足を洗って平穏な生活を送っていたかつての無法者(ゲーリー・クーパー)が、再会した昔の仲間や残忍なボス(リー・J・コッブ)との縁を切って真人間になることを目指すというストーリー。クーパー演ずる主人公は、逃れたい過去に強制的に捉われることになる。主人公の伯父に従っていた過去の姿を彷彿させる分身のような従兄弟が、彼に対して裏切り者と敵意を露わにする。つまり、否定した過去に捉われている主人公が、克服すべき過去が強盗団、とくに分身のような従兄弟(ジョン・デナー)として現実に現われ、実際に彼を捕えてしまう。そこから逃れ、彼らと対決することが、主人公にとっては内なる過去の記憶の克服と重なる。
 彼と従兄弟の対決は、撃ち合いの後それぞれクーパーは肩を、デナーは足を撃たれ、クーパーは廃屋の玄関ポーチの床に、デナーはその床下に倒れ込む。二人はポーチの床の上と下で「とうとう二人きりだな」、「お前がずっとそうなると思ってきた通りになったな」と話し、その二人を同じ画面に捉える。この敵同士を上下の構図で映すのはアンソニー・マン特有の垂直の対決構図なのだろうが、狭い空間で接触するほど両者が接近していると、彼らが対決するべくして対決する宿命性が強調される、というより、互いに分身のように見えてくる。最終的には、クーパーはデナーを殺すことで、自分の過去そのものを葬り去る。この対決は自分自身との対決であり、自分の中の悪との対決。それゆえ、戦いに勝ったクーパーは陰鬱な表情を崩さない。周囲に広がっているのはゴーストタウン。勧善懲悪とか、ノスタルジーといった西部劇のスカッとするものとは正反対。現代劇にしてしまっては、身につまされってしまうので西部劇という舞台に移すことで、かろうじて娯楽映画になっている。しかし、このような主人公を脳天気なハリウッド・スターの代表的存在ゲーリー・クーパーが演じているなんて。

2019年1月 6日 (日)

小津安二郎監督の映画「早春」の感想

0343042914219632911  前作「東京物語」の2年後に公開され、「晩春」以降1年1作ペースで制作していた小津には珍しい。それほど「東京物語」というピタリとハマった作品の後で悩んだ小津の姿が想像できる。この作品と次の「東京暮色」の2作は戦後の小津調のなかでも異質な作品となっていると思う。例えば、始まってすぐに蒲田駅の朝の通勤風景のシーンがある。駅に向かって人々がまるで行進するかのように一方向に同じ歩調で歩いている。そこに異様さ、不自然さ、を感じさせられる。これは、画面について小津が美化句を徹底したためと言う人もいるが、しかし、同じようなシーンは実は「東京物語」にもあって、早朝の尾道の港の風景のあとで通学の小学生が倉庫の前を同じように歩いているのだが、そこに違和感はなく、むしろ朝の懐かしい風景として映る。それだけ、「早春」全体に、このシーンを不自然と感じさせる統一感があるということだ。そういう不自然なシーンはそれだけでなく、例えば主人公の勤め先のシーンで社名が書かれているドアを正面に廊下を置くに移動して寄って行くように撮っているのは意味がわからず不気味ですらある。しかしそういうところが、この作品の特徴的な魅力となっているのではないかと思う。
 物語は池辺良と淡島千景の倦怠期にさしかかった夫婦の危機を柱に浮気やサラリーマンの悲哀が絡む。夫婦の危機であれば、「お茶漬けの味」もそう。しかし、「早春」での小津はずっとシニカルだ。「お茶漬けの味」は、もともと出自の違いによってしっくり行っていなかった夫婦が、その違いを乗り越えていく話で、欠落を抱えていた家族が再生していくというパターンだ。これに対して「早春」の夫婦は、夫婦の間に隙間風が吹き始めて、些細なズレがうまれ、それが拡大していくという関係が崩壊していくという話。物語では最後に夫婦はヨリを戻して、一時的な別居は解決して再出発することで終わる。しかし、そこには「お茶漬けの味」の夫婦二人で深夜の台所をあさりお茶漬けを食べる長回しのワンシーンワンショットのようなポジティブな高揚はなくて、夫婦は同じフレームに収まらず、「東京物語」の笠智衆と東山千栄子の老夫婦が同じ方向を向いて並んで座ることも殆どない。「早春」では最後の最後、別居したまま転勤した池辺良の単身赴任先に、淡島千景が訪ね、下宿先の窓辺で二人が並んで外を見る。それがとってつけたように見えてしまう。それゆえ、シニカルな苦味を伴った諦念が漂う。それは、「東京物語」で完成した小津調の映像を自己パロディのように形式化した上でズラしてみせて、見るものに違和感を抱かせることによって。
「早春」が公開された1956年の経済白書には“もはや戦後ではない”と書かれ、戦後復興から高度経済成長へと時代が大きく転換し、伝統的な社会の崩壊が始まった。それまでの小津の作品では戦争で欠落を生じた家族が再生していく話だったのが、この「早春」の夫婦は欠落を抱えておらず、それが崩壊していく話に転換している。時代の変化の影響を受けたとは言わないが、小津自身の作品の転換と時期が重なったのは偶然とは思えない。そこには、小津自身が小津調と言われる映像を距離をおいて客観視し、そこでそれまで疑問すら抱いていなかった自身のアイデイテティを見直している苦味が作品に表われているように気がする。それゆえに、小津ファンとしては、とりわけ愛しい作品。

2018年12月28日 (金)

映画「駅馬車」の感想

1111111  ジョン・フォード監督の代表作というより西部劇といえばこの作品ともいうべき代名詞ともいうべき作品。ジョン・フォード的空間としか言いようのない、遙か遠くまで、見渡す限りひろがる平原を、俯瞰で見下ろすように駅馬車が走る姿。それをみただけで、見る者は、その世界に入り込んでしまう。映画冒頭の騎兵隊に守られるような駅馬車に続いて、逆光の中の騎兵隊、続けてインディアンの騎行が映し出される。この駅馬車、騎兵隊、インディアン、三つの映像だけで、見る者は物語の枠組みが想像できてしまう。これは「むかし。むかし…」ではじまる昔話のように、それだけで現実の世界を忘れて、古老の話す世界に導かれるようなものだ。
 しかし、その入った世界で語られるのは人間ドラマだ。実際、物語は駅馬車の車内や停車場の室内という閉ざされた空間の内部なのだ。そこに居合わせた種々雑多な境遇の乗客たち、彼らの車中の会話、停車場での行動から、本性が次第に明らかになってくる。例えば乗客たちの席の変化だ。最初、売春婦のダラスから離れて座っていた将校夫人のルーシーが距離を縮めていく。車外の平原がどこまでも広がっているのと対照的で、そこに閉じ込められるような車内は密度の高い空間となって、その中の乗客たちの人間関係が濃密に現われる。それは社会の縮図、一種のミクロコスモスでもある。しかも、インディアンの襲撃の脅威がひたひたと迫ってくる。インディアンは姿を現わさずに、護衛すべき騎兵隊が移ってしまったり、停車場の男達や馬が消えてしまったりと恐怖感がじわじわと高くなる(まるでヒッチコックのサスペンスのようだ)。大平原は、どこにインディアンが襲ってくるか分からない空間として駅馬車をとりまいているのだ。それは閉ざされた乗客たちの緊張感を極限まで高める。そして、インディアンの襲撃。疾走する駅馬車は、極限の状況に乗客たちを導く助走なのだ。その結果として、型破りで、善良な市民の顰蹙を買うような人間が危機のときにその人間性を発揮する一方、社会的な権威が失墜する。例えば、気障なギャンブラーのハットフィールドはインディアンに襲われて死んだ女性に自身のコートを脱いでかけてやったり、駅馬車が襲われたときに、ルーシーに自殺のための銃弾を一発残しておいてやったりする。また、飲んだくれの医者ブーンは、酔ってさえいなければ彼の腕は確かであり、ルーシーのために彼はコーヒーで必死に酔いを醒まし、見事子供を取り上げてみせる。一方、その醜悪な本性を明らかにするのが銀行家ゲイトウッドで、彼は護衛の騎兵隊が帰ってしまったことに腹を立て、怒りついでに政府が実業家に干渉しすぎ、銀行に監査に入るなどもってのほかと不満をぶちまける。しかし、それによって自分が監査を恐れている、横領の罪が露見する前に逃亡し、さらに行きがけの駄賃に着いたばかりの大金を持ち逃げしたことが見る者にわかってしまう。そんな乗客たち、敵対していた人間同士が、本来の姿を現わし、危機を共に乗り越えることで連帯する。そこに、この映画のカタルシスがあると思う。
 だから、意外に思われるかもしれないが、この映画では夜の闇と光の対比が活用されている。それが、初めて宿泊するアパッチ・ウェルズでのこと。そこでルーシーが急に産気づき、ダラスがその間ずっと彼女の看病をする。生まれた赤ん坊を抱くダラスが聖母マリアのように見える。その一連のダラスの振る舞いを見てリンゴーは、ダラスが自分の伴侶にふさわしい女性と確信する。この場面が夜に設定されている。ここで、このシーンは仰角気味のカメラアングルで、人々の影を黒々と河辺に投影し、これまでの場面と打って変わった深々と暗い空間を演出する。その暗い空間は、無論赤ん坊が無事に生まれたのかという不安を書きたてるものであるが、それ以上に、このことを機に心を一つにする乗客たちの間の、そしてとりわけダラスとリンゴーの親密さを醸成する。赤ん坊が生まれた後、ダラスとリンゴーは二人、狭く、暗い、遠近法で奥へと抜ける廊下を通って月明かり射す中庭に出るのだが、それは暗い過去を通り過ぎ、明るい場所へ出ようとする二人の未来を象徴している。

2018年12月12日 (水)

映画「東京物語」の感想

200pxtokyo_monogatari_poster_2  小津安二郎の代表作。いわゆる小津スタイルの完成された姿と称える人も少なくない古典的な名作。しかし、「晩春」や「麦秋」といった以前の作品にあったような、ややもするとそのスタイルから逸脱してしまうような突出した細部、つまり破綻が見られない作品ということだ。それは、前作までとは作品の性質の方向性が変っているからと考えられる。「晩春」や「麦秋」は欠落を抱えた家族が娘の結婚という未来が開けたことで新たな方向に再生していこうとする話。あるいは「宗方姉妹」は田中絹代の若妻が夫の死を契機に旧い因習を脱して自立していく話。つまり、これまでの作品はある部分は滅失するところがあっても、新たな展開の可能性がひらけるという話だった。そういう将来というのは、やってみないと分からない未知な部分が多い。それを反映してか、いわゆる小津調のスタイルの映像をはみ出してしまう部分があった。例えば、「晩春」の唐突に映し出される壺とか、「麦秋」の話の展開と無関係に一面の麦畑の映像が映し出されるとか。
 これら対して「東京物語」は東山千栄子の老妻が亡くなる以外には、家族の変化はない話で、それ以前の作品にあった新たな展開の可能性がない。未来が開けていない。つまり、いまあるものがなくなってしまう話だ。ないものをあるという話なら、あるという動きを映像にできるが、なくなる話では、なくなる前のあるということを示して、そのあったものがないという結果を示すしかない。例えば、笠智衆と東山千栄子の老夫婦が同じ方向に並んで座るのを横向きで捉えた場面を、最初の尾道での旅行の準備、長男宅で、長女宅で、熱海の旅館、海岸、上野の寺と同じ構成で場所を変えた場面を何度も映し出す。それは、最後の東山千栄子が亡くなって、残された笠智衆が尾道の自宅で独りで座っている姿と対比させるためと言える。(なくなってしまうことが分かっていて、いまあるものを映し出しているゆえに、叙情的になるのだ)それゆえに、「東京物語」は、なくなる前のあるという状態を見る者に示す。それはいまあるものの確認ということになるので、「晩春」などの作品にあった未知の部分がない。したがって、小津調からはみ出てしまう要素は必要なくなる。その結果、スタティックで安定した画面となる。それが小津調の完成されたと言われる由縁ではないか。そういう先がないからこそ調和した完成されたものと見える。それはまるで、「ファウスト」の中の「時よ止まれ、君は美しい」という悪魔の言葉を体現しているような世界ではないか。
 でも、言い換えれば、それはデッドエンドということではないか。それが証拠に小津は、この後方向性を変えてしまって、これに類するような作品を撮っていない。