東浩紀「訂正可能性の哲学」(9)~第8章 自然と訂正可能性
一般意志は社会の外部に絶対的な力の源泉として君臨する。しかし同時に社会の内部から訂正可能なものでもある。これは一見矛盾している。例えば、ゲームのルールはプレイの外部に存在する。。プレイヤーはルールに一方的に従うしかない。しかし、ルールそのものは、プレイヤーの予想外のプレイや新しい提案によって柔軟に変更されるものでもある。ゲームにはむしろそのような訂正可能性によって持続する。一般意志をね静的で計測可能な集合的無意識としてではなく、動的に訂正可能な言語ゲームとして捉えることで、全体主義への傾きを封じこめ、『社会契約論』の日禹層を未来に拓くことができる。このダイナミズムとはどういうことか。
ルソーの『社会契約論』は、もともと自然が善で文明が悪だといいながら、にもかかわらず社会契約説を引き継ごうとした。その結果、一般意志は人為の産物でありながら、自然の産物だと主張する他なくなってしまった。言い換えれば、一般意志は、自然と文明の二項対立を揺るがすような独特の歪んだ概念にならざるをえなかった。これはまた、ルソーの自然が抱える概念的なねじれとしても捉えることができる。ルソーが自然として称揚しているのは、田舎が本当の自然ではなく、人為的に制作された自然でしかないように、ルソー自身が制作したものなのである。一般意志は超越的でぜたぃ的な存在である。自然も超越的で絶対的な存在である。けれどもそれは同時に訂正可能性に開かれていなければならない。それは、ルソーにおいては、哲学の言葉によって理路整然と語られるのではなく、『新エロイーズ』という小説によって実践的に示される。それは、そういうものでしか語りえないと言えよう。それは小説を丹念に追いかけていくなかで徐々に示される。端的にいえば、真実とうその境界をなくすことで、はじめて自然は訂正される。そして自然が人工的かつ遡行的に発見される。ここには、人間のコミュニケーションへのルソーの深い洞察があるという。ゲームとゲームでないものを区別することは原理的に不可能であるように、人はも自然と自然でないものを区別することはできない。ルソーの言う小さな社会は人工的自然なのだ。人はしばしば、家族成国家なり企業なりの今の姿を、絶対で永遠に続くものだと信じる。でも現実には状況が変わる。家族にしても国家にしても企業にしても、いくらでも姿が変わる。むしろ、その柔軟性こそが共同体を持続させる。我々は、そのことを知っている。だから変化を歓迎する。けれどもやはり、自然が永遠だと信じていたものが訂正され、過去にさかのぼって書き換えられてしまうとき、同時に寂しさも感じざるを得ない。それがルソーの描いた感傷である。
一般意志は、社会の外部な位置する絶対的なものであり、自然に比較される。しかし同時に社会の内部に位置し、文明によって訂正可能なものでもある。それでは、絶対的なものが同時に訂正可能なものであるとはどういうことなのか。そこで、ルソーの著作に戻り、その答えを『新エロイーズ』という小説に求めた。自然は、自然のまま放置すると、自然以外のものへと堕落してしまう。同じように一般意志は、一般意志のまま放置すると、一般意志以外のものに堕落してしまう。そこでルソーは、自然を自然のまま守り、一般意志を一般意志のまま守り、統治を健全なまま維持するためには、小さな社会という人工的自然を創出する必要があると考えた。『新エロイーズ』はそんな思想を寓話かするために書かれた小説だった。
一般意志を単純に善だと理解すると、統治はその善さえ実現すればよいという単純な民主主義理解に導かれる。何度も繰り返しているとおり、その理解はいま人工知能民主主義として再来している。そこでは一般意志は、情報技術の支援によってデータとして把握可能な新たな自然=デジタルネイチャーとして捉え直され、それを可視化し、統治の原とすることが正しい民主主義につながるのだと信じられている。たしかにその解釈には一定の妥当性がある。しかしそれは、最先端の技術用語で語られていたとしても、本質的にはじつに古くさいルソー主義の再来である。常識的な哲学史の理解においては、ルソーこそが、自然は善で、文明は悪で、人間は自然に導かれてさえいれば幸せに生きてゆけると主張した。近代最初の思想家だったからである。落合などは自覚のないルソー主義者なのだ。
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