成瀬巳喜男監督「めし」
小津は二人要らないと松竹をクビになった成瀬巳喜男が東宝で撮った作品。主演の原節子は同じ年に小津安二郎の「麦秋」に出演しているが、別人のよう。
周囲の反対を押し切って結婚した夫婦も5年が過ぎて倦怠期に差し掛かり、単調な毎日に徐々に自らの生き方に疑問を抱き始める妻。そんなとき、家出して転がり込んできた夫の姪に二人は振り回される。それにより、夫婦の間に生じていた隙間が決定的になり、妻は実家に帰るのだが・・・。しかし、この作品では、原節子演じる妻の心理を日常のキメ細かな描写から見事に紡ぎ出していく。例えば、冒頭の朝食のシーン。茶の間のテーブルを二人が向かい合って座るが、上原謙の夫の背中越しに、となりの台所で朝食の支度をする原の忙しそうな姿を映す。ここでショットは反転して、逆方向の台所から煙草をくゆらしながら新聞を読んでいる上原の姿を映す。朝の光は、茶の間から台所に差しているので、茶の間から台所の方向が明るい。その視角では、背中越しに「めし」という上原と、かいがいしく動き上原に話しかける原の姿。ショットが反転すると、暗い光線に変わって少し肩を落としたような原の背中と、原の方を見ずに視線を新聞に落としている上原。この二方向のショットで、光を受けて夫に話しかける原の顔と、暗い光で反対に肩を落とした疲れたような原の背中を映す。この二つのショットが交互に繰り返されると、原の複雑に心の雰囲気が画面からわかる。これは、夫婦生活について努力を続ける姿と疲れたような背中。しかし、それらは本人が自覚するほどはっきりしたものではなく、いわば白でも黒でもない灰色のどちらとも言えない状態。そういう中途半端さを白黒映画の光と影で巧みに描き出す。こういう灰色というどっちつかずの状態を描くことに関しては、小津安二郎の映画は、白か黒かをはっきりさせようとする。例えば、夫婦が二人で食事をする場面なら、夫と妻をそれぞれ正面から撮って切り返しにする。つまり正面から向き合うだけで、背中から撮って、自身が自覚すらしていないような感情の状態は画面に入ってこない。だからこそ、小津はすっきりして、スタイリッシュなのだが、成瀬はそういうところを突っ込まずにはいられない。この作品でも「麦秋」でも原は、彼女の魅力のひとつである微笑を見せるが、この作品では背中の印象が残るため、微笑をすなおに受け取ることが難しくなる。無理して微笑んでいるとか。その光と影の使い方のなかで、成瀬は原に振り返りの動きをさせる。振り返ることで、影になっていたのに振り返った顔に突然光が当たる。つまり、ここで光と影の区分が逆転する。あるいは光と影という区分の意味がなくなる。その鮮烈さ。それは、単に画面上の光と影というだけでなく、物語をつくる。あるいは、ストーリーの面では、夫の姪の家出娘に振り回される原は、実家に逃げ帰るが、その実家には弟夫婦が母と生活しており、今度は原が実家を振り回す立場になる。そのことを実家の弟に指摘され、そのことに彼女が気づくことが夫との和解に向かうことになるのだが。そのとき、原と上原は向かい合うのではなく、並んで座ってビールを飲む。二人を映す方向はひとつになる。











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