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映画・テレビ

2018年11月15日 (木)

映画「牯嶺街少年殺人事件」の感想

111111  エドワード・ヤン監督の映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」の感想。
 この映画の舞台は1960年の戒厳令下の台湾。蒋介石が共産党との戦いから台湾に敗走し、人民解放軍がいつ攻めてくるか分からないという切迫した時代の空気が充満していた。その台湾では、中国本土から多くの人々が共産党支配から台湾に逃亡し、外省人と呼ばれ、もともと台湾に住んでいる本省人との仲はきわめて微妙な緊張感が張りつめていた。本作の主人公の少年の家族は外省人であり、彼は優秀な成績でありながら中学の夜間部にしか入れない。その中学では、彼と同様の境遇の少年たちが徒党を組んで、暴力構想を繰り広げていた。しかも、同じグループのなかでも内部対立を抱え、事態は錯綜し、混迷を深めていた。その中で、主人公の小四は一人の少女と出会う。登場人物も多数に渡り、粗筋を要約しようとして途方に暮れてしまう複雑な話なのだが、同じカメラアングルで捉えた空間を何度も異なる瞬間に描きだすことで、位置関係や人物関係の推移を表現していて、映画を見る目線は、そこにも吸い寄せられる。例えば、主人公が父親と自転車で並んでいる場面が数回出てくる。そのたびごとの微妙な違いが、父と子がそれぞれに追い詰められていく変化を表わしている。そういう映像が約4時間にわたり、弛緩することを許さないが如く、緊張を強いられる。というより、目が離せない。というと、楽しいとはかけ離れた難しい映画と誤解されそうだが。例えば、少年たちの抗争のなかで襲撃するシーン。台風による暴風雨の夜、停電で真っ暗となった状態で、気配を察した敵側が何本も灯されていた蝋燭を一息に吹き消す瞬間に、暗闇の中で暴力が炸裂する。罵声と共に少年たちは相手に襲いかかるのだが、暗闇の中で、時折わずかな光の中で人影がもつれ合う部分だけか断片的に映る。全部見えないだけに、切迫した緊張と血腥い暴力の匂いのようなものが強烈に感じられる。その禍々しさや生々しさが迫力となって迫ってくる。死の匂いというのか。そういう時間と空間に包まれるというのは、滅多にあるものじゃない。
 私は、この映画のどこまでを見れていたのだろう、と見終わった後、途方に暮れてしまい。また、見なくては、見たいと思わせられてしまう。そういう映画だ。私にとっては。

2018年10月25日 (木)

映画「真昼の決闘」の感想

11  フレッド・ジンネマン監督、ゲーリー・クーパー主演の映画「真昼の決闘」の感想。
 新婚の妻(グレース・ケリー、実はデビュー作)と共に町を去ろうとしているゲーリー・クーパー扮する保安官のもとに、かつて逮捕した男が出獄、お礼参りにやって来るとの知らせが入る。このまま去ろうという妻の意見を振り切って町に戻った保安官は住民に加勢を求めるが、誰も助けてくれない。男の汽車が到着する時間が迫る。それまでの1時間あまりを実時間として、頻繁に時計の針を示して、緊迫感を高める構成が斬新と言われた。ハワード・ホークスは、こんな情けない保安官と殺伐とした話に反発して、名作「リオ・ブラボー」を制作したという。
 この映画の魅力は保安官が孤立無援になっていくプロセスの陰惨さにある。彼は、自身の誇りと職業倫理のために町に残り、男を迎え撃つ決心をするが、妻にすら理解されない。町の人々は彼の功績を評価すると言いながら、彼がいるから男は復讐に来るのだから、さっさと逃げてくれればいいと思っている。かつて、彼を温かく包んでいたはずの環境が、掌を返したようによそよそしいものに変わってしまう。もはや何を信じていいのか分からないという底なしの不安。それをカメラは常に俳優の目の高さではなく腰のあたりのややローポジション、そこから仰ぎ見るショットは映画に重苦しい雰囲気を与えて、しかも、頻繁にカットを変えて落ち着かない。画面の中の保安官は、最初は人々と共に映っていたのが、次第にひとりだけの画面になっていく。
 そして、最後、彼は保安官のバッジを路上に投げ捨てて街を去る。彼は町そのものを捨てたということだ。その前に彼は町から見捨てられていた。彼にとっては、その町は守るに値しなかったという苦い認識。そういう、社会が一瞬のうちに、個人に対して暴力的になる。その恐ろしさを現代劇では、あまりに身につまされる。西部劇だからこそ可能になった。だから、現代の私が見ても、リアルに共感できる。そういう作品だと思う。

2018年10月12日 (金)

小津安二郎『お茶漬の味』の感想

200pxochazuke_no_aji_poster  小津安二郎のフィルモグラフィーをみると戦後は1年に1作のペースで作品を制作し、例えば
  晩春(1949年)
  宗方姉妹(1950年)
  麦秋(1951年)
  お茶漬の味(1952年)
  東京物語(1953年)
という順番に制作されている。このうち、私の印象なのだけれど、「晩春」と「麦秋」の2作品と「宗方姉妹」と「お茶漬の味」の2作品は、印象が異なっている。(そして、敢えて言えば、「東京物語」は、これらの両方のタイプを統合したような作品と言える。)その違いとは。例えば、最初の方で小暮美千代が佐分利信の亭主を騙して、淡島千景らと修善寺温泉に旅行するところで、列車のシーンがあるが、列車の窓にキャメラを進行方向に向けて固定するようにして、前から景色が次々と迫って流れてくる様を映している。まるで、リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」が列車が迫ってくるのと逆に、景色が迫ってくるとでもいうような迫力あるシーンなのだ。しかし、「晩春」の笠智衆と原節子が電車で鎌倉から東京にでてくるシーンのアクションカッティングを駆使したダイナミックな躍動感に比べると、枠に収まった感じなのだ。どういう事かと言うと、「お茶漬の味」の列車のシーンはストーリーの説明として収まっていて、その中で迫力あるシーンになっている。これに対して、「晩春」の電車は、単に人が移動するという説明を超えて、その列車の躍動感が過剰で、観客に何かがありそうだという期待や不安を抱かせるという、その迫力がストーリーを創り出そうとするところがある。「晩春」や「麦秋」には、そのような個々のシーンや画面の細部に過剰さが、溢れるように見出すことができる。そして、それが実はストーリーを紡いだり、リアリティーを作り出したりしていて、それが映画の豊かさとなって結実している。これに対して、「お茶漬の味」は、そういう逸脱を抑えて骨格であるストーリーである小暮美千代と佐分利信のやりとりに焦点を絞り、個々のシーンはそれを効率よく説明するように作られている。従って、列車のシーンには過剰さが邪魔になってしまう。「お茶漬の味」がそうなっている、ひとつの理由は、たとえば小暮美千代が作品の中頃で、スレ違いの夫婦であることに苛立つところにある。これは、「晩春」で能を見た帰りに、原節子が笠智衆に対して苛立って怒りを爆発させるシーンとの違いに見ることができると思う。原節子の苛立ちには父親への嫉妬だったり、自身に縁談が無理強いされていることへの不満だったり、このままの生活がずっと続かない不安だったりとか、様々なことが複雑に絡み合って出てきたものだ。それは言葉や理屈では割り切れない、言葉や理屈にはならないこと、だから、それは言葉で説明できないし、映像で直接表すこともできない、そういうものを表しているのが原節子苛立ちといえる。しかし、そのことを原節子は言葉にはできないけれど、分かっている。それを小津監督は分かっていて、シーンを作った。だから、そこに至るまでに、過剰な細部が不安な影のようなニュアンスをさり気なく、見せてくれている。つまり、ストーリーと関係ない細部が語っているのだ。これに対して、小暮美千代は同じように言葉にできないのだけれど、そういうものが自分の中にあることを自覚していない。彼女は、自分が苛立っていることを意外に思い、そういう自分にさらに苛立つのだ。そこで、彼女は思ってもいなかった自分を表しだす。それは、今まで、表層の見えるものだけを禁欲的に描いてきた小津映画にはなかったものだ。だから、観客は、突然、彼女が苛立ちことに驚く、その驚きが逆に画面に観客を引き寄せ、共感やあるいは反発といった感情移入に誘うことになる。
 前作「麦秋」で原節子が子持ちの医師と結婚することになり、結果的に親子三代の大家族が散り散りになってしまうという結末を悲劇でもなく、メデタシメデタシでもない、その一日が終わり、また、明日がくるという淡々とした終わり方になる。そこに名場面も名せりふのない。そういう一日の終わりが実は、真実を映し出し、見る者の感情をえぐってしまう作品になっている。しかし、そんなことをしている人間それ自身が、自身がどう思っているのか。その感情とか、内面とかを自身でも分からないのだ。だから、この作品の結末も、夫婦がよりを戻したとも、互いに諦めの境地になったとも取れるものとなっているが、それとても、どうなのか本人達にも分からない。その分からないのを分からないままに描こうとしている。(その時に、現実の場面がリアルに前面に出てきてしまっては、その分からなさに、かってに外側から理屈付けることになってしまうのだ。)それが、見る者にとっては、自身のとって切実なものとして否応なくコミットさせられてしまう。そういう作品になっていると思う。

2018年9月23日 (日)

小津安二郎監督『宗方姉妹』の感想

111  小津安二郎が監督した「晩春」以降の作品は小津調とよばれ、「晩春」で小津調が生まれ「東京物語」で完成したと、一般的には言われているようだが、私には「晩春」「麦秋」に対して「東京物語」は異質に感じられていた。全然違うじゃないか、と思っていた。それが「宗方姉妹」を見て、その間がつながったような気がした。小津の作品には
  晩春─麦秋
 (風の中の牝雞─)宗方姉妹─東京物語
という二つに性格分けできる作品の系統付けができるのではないか。小津調というと、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排すること、といったことが具体的に挙げられが、これらが、上記に作品に、すべて見られる。しかし、そのあらわれが異なって見える。「東京物語」では、その小津調がスタティックなのだ。スタイルがすでにあって、それに従って作品が作られている。つまりスタイルをなぞっているように見えるところがある。例えば移動撮影。田中絹代と高根秀子の姉妹が薬師寺を訪れたシーンで、寺の風景を横にためるように移動するカメラが映しだす。それは、「東京物語」と行き場を失くした老夫婦が上野で途方にくれて佇むシーンで、寛永寺の塀を移動で映したのを思い出した。固定ショットで画面をつくる小津の作品ではカメラが移動するのはただ事ではない、何かあったのでは見る者の心をざわめかせる。それが証拠に「晩春」では、心にもやもやを抱えた原節子をカメラが追いかけて移動するだけで、画面は不安を掻き立て、それが的中するように原節子は走り出し、感情を高ぶらせる。しかし、「宗方姉妹」の薬師寺のシーンでは何も起こらない。心のざわめきは宙ぶらりんになってしまう。「晩春」や「麦秋」では、そういう個々の小さなシーンが、それぞれ意味をもつように、物語を生んでいく。婚期の遅れた娘を愛しながら心配する父親とのやりとりというストーリーはあっても、小さな物語が遠心的に生じて作品に豊かな広がりをつくっていく。これに対して「東京物語」もそうなのだが、「宗方姉妹」では田中絹代演じる節子とかつての恋人宏と夫の三村の三角関係と、それを妹の高嶺秀子演じる満里子が絡んでくる。そのストーリーが中心となって、ドラマをつくる。いわゆる、小津調は、そのストーリーをうまく表わす手段となっている。そこでの俳優の演技はストーリーを内面化した心情を表わすロマンチックな、いわゆる役になりきるような演技だった。他の小津の作品では、あまり見られないストーレートに愛を相手に告白するところや、恋人どうしを一つの場面で向い合せることまでしている。これに対して、節子と三村の心が離れてしまった夫婦は同じひとつのシーンで向き合っても、部屋の奥と手前で、すれ違うようにしながら、画面はまよこからの場面として、表面的には向き合っているが、実はすれ違っているところを暗示している。小津というよりは、成瀬巳喜男の俳優の演出を想わせる。それは、作品の冒頭のところの節子の登場シーン。大学の研究室でソファーに座った後姿で登場して、教授が部屋に入ってくると、節子が振り返って、顔を見せる。まるで、成瀬の印象的な振り向きのようだ。これに対して「麦秋」では「宗方姉妹」にある激しい感情をあらわすような演技は見られず、画面の中に俳優がいて、その全体がシーンをつくって物語を生んでいく外面の関係が心情を見るものに想像させるようなのだ。だから、「宗方姉妹」も「東京物語」にも悲劇的な要素を多く持っている。笠智衆は癌で余命が短い設定だし、節子が三村と別れることを決心した時に、当の三村は心臓麻痺で死んでしまう。節子は、そういう死の影に囚われて終わる。初めの方で、姉妹が薬師寺を訪ねて、東塔を臨んで二人で並んで腰掛けるシーンがあって、そこでは姉妹は別々に立ち上がって歩き始めるが同じ方向に合流する。一方、最後近くで、同じ薬師寺で、同じように節子と宏が腰掛け、連れだって立ち上がるが、ここで節子は宏に別れを告げる。同じシチュエーションで初めと終わりで対比するように変化させる。これによって、節子と宏の別れの印象を強める。これは、「東京物語」で最初と東山千栄子の葬儀のあとで尾道のフェリーの乗り場で、朝の通勤風景と、人けのない風景を対比的に見せる。同じ手法をつかっている。これに対して「晩春」も「麦秋」もスタートから死による欠落を抱えているが、そういう初めと終わりの変化を対比的に見せるようなことをしていない。小さなシーンを繰り返して、そういう大きな変化はなくて、ずっと続くというのを淡々として見せて、小さな変化が少しずつ起こっていくところに淡い諦念というか、あっけらかんとしたような明るさを感じさせるようになっている。
 おそらく、この作品では新東宝という他社で、気心の知れた小津調を一緒に作ってきた小津組でないスタッフと小津調の画面をつくるために、突き放して、客観化した決まった形のスタイルとして認識したのではないか。画面をつくることがストーリーを生むことはできないので、物語の筋を中心的な柱として、作品を構成させた。その結果、「東京物語」に通じるような一貫したストーリーが、見る者には分かりやすいもの、シンプルで感情移入しやすくなる結果となった。

2018年2月20日 (火)

小津安二郎監督『晩春』の感想

Late_spring_japanese_poster  1949年公開のいわゆる小津スタイルの最初の作品。笠智衆演じる初老の父親が原節子演じる婚期の遅れた娘を嫁にやる騒動とその後の悲哀という内容。鉄道の風景の静止したようなカットをまるで脈絡のないように続け、次第に風景から家、室内へ、そして人物へと滑らかにカットが切り替わっていく冒頭は、「東京物語」では抒情性を生み、東山千栄子の演じる老母の死の哀しみをシンボリックにする伏線にもなる手法に発展していく原点にもなっている。しかし、そのようないわゆる小津スタイルに収まりきれないシーンも数多くある。例えば、父娘が鎌倉から東京に出かけるために電車に乗るシークエンス。このダイナックな映像はアクション映画の類型的な列車のシーンに比べてはるかに躍動感に満ちている。他にも原節子が街路を歩くのを後ろから移動で追いかけるシーンのサスペンス溢れる映像とか。ここには小津スタイルの完成形ともいえる「東京物語」の統一感はない。ここにはスタイリストには程遠い小津がいて、その統一感のなさに小津の迷いが感じられる。思うに、小津は手探りで制作を始めたのではないか。映画史では前作「風の中の牝雞」の失敗の後の起死回生ということになっている。それは、結果としてのことではないか。例えば、父娘が京都に旅行にでかけ、旅館で並んで寝るシーンの室内灯に移る二人の脂ぎったような顔は、近親相姦と見紛うばかりだし、能を見た後で娘が父を難詰し逃げるように駆け出していくのは不自然なほどの激しさだし、さらにそれを後ろからの移動撮影で追いかけるのはフィルムノワールのようでもある。それは空回りと言えなくもないが、そこに小津の焦りとも表現衝動を抑えきれないとも、を感じ取らされてしまう。
 しかし、この作品が小津の他のどの作品にもない感動をもたらすのは、そのようにあがきながら、小津が、ここで何かを見つけ掴んだことを作品のなかで感じ取れることだ。例えば、原節子演じる娘が駆け出すシーンは数回あり、それをカメラが後ろから追いかけるが、その場合は彼女が哀しみなどの強い感情にとらわれた時で、その思いをつのらせるのは、実はそれを映像として表わしているのは彼女の演技ではなくて、その後にでてくる部屋の廊下のシーンだ。小津スタイルの特徴である定点観測のような固定ショット。それはモンタージュではない、二つのシーンをつなげ方で、日常の坦々とした些細なことをつなげていくことが、人生の真実そのものにつながっていくことではないかということだ。それに気づかされれると、一見破綻にちかいような脱線が、実は些細な日常と、結果として関係づけられてしまうという力技に気づかされてしまう。最初、淡々として人形のように見える役者の動きが、最後にはこれ以外にないと感情移入してしまうように見方が変わって行ってしまうのも、そのせいだ。
 だから、この作品の最後は、娘が結婚してメデタシでもなく、愛する娘が去ってサビシイでもなく、その一日が終わり、また、明日がくるという淡々とした終わり方になる。そこに名場面も名せりふのない。そういう一日の終わりが実は、真実を映し出し、見る者の感情をえぐってしまうことになってしまう作品になっている。

2018年2月13日 (火)

『この世界の片隅に』を見た。

 この作品は、戦時下の普通の人々の生活の視点から、徹底した時代考証の正確さと当時を生きた人々に対するリスペクトの姿勢で、戦争のリアルな姿を描いたといったことを言われる。しかし、多分、こんな見方をする人は少ないと思う。それは、一番最初のところ主人公が海苔を町に届けにいって途中で道に迷っているところを、屑拾い大男に拾われて、背負っている籠に放り込まれ、そこで未来の伴侶となる男性と出会う。この大男が山坊主のようだし、海苔から月や星形を切り抜いて望遠鏡に貼って、それを大男に見せたら夜になったと勘違いして眠った隙に逃げ出した。何か荒唐無稽なと思っていたら、主人公のすずが妹に絵を描きながらお話しを作っていたという落ちで結ばれる。ここが、私には、このアニメ作品の基本構造とか話の中心になっていて、戦争云々というのは、そのための題材と思えた。
 では、私の思った、この作品の基本構造とは、主人公のすずという人は、ずっと絵を描き続ける人で、日常の見たこと、経験したこと、あるいは料理のレシピのようなメモまで描いていた。しかも、その描いた絵が、この作品のアニメの絵柄と同じだということだ。アニメだから、そんなものだという意見もあるかもしれないが。そのことは、主人公の描いたものが、このアニメ作品の風景と一致するということは、このアニメの世界は主人公が描いたもの、という。その主人公は描きながら、その世界にいる。だからこそ、この作品はすずのモノローグで進行するし、すずの視点で、この人の周囲の風景や人々の行いを映し出していく。それが、シンボリックに提示されたのが、さきに述べた最初のシーン。だから、すずは語る人であって、行動する人ではない。この作品の中で、モノローグでは雄弁なのに、生活の場面では自分の意思を表すことはおろか、言葉も少ない。行動も受け身に終始する。それが、空襲で右の掌を失うと、絵を描くことができなってしまう。その後、すずは、次第に家族や人々に対して言葉を発し、主体的な行動するようになっていく。この作品が感動的なのは、それでもすずがモノローグをやめないということにあると私は思う。描くという手段を奪われながらも、すずがそれ以降も語ることを続けているのは、以前と違って意識的に敢えて語っているということで、そこに彼女の決然として、語るということを選択したことが表れている。この作品のドラマは、私にはそこにあって、それにはリアリティーと共感を誘う強い説得力があると思った。それは、この物語を、しかも、アニメという表現媒体でなければできない物語だった。まったくジャンルは違うけれど、スティーブン・キングの「スタンド・バイ・ミー」(小説の方)の感動に通じるものを感じた。語るということをめぐってのメタ・ストーリーという意味では、今、この作品を見ることの切実さは十分あると思う。

2018年2月11日 (日)

『メッセージ』の感想

Arrival2016  ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画『メッセージ』を見た。「突如地上に降り立った巨大な宇宙船。謎の知的生命体と意思の疎通をはかるため雇われた言語学者のルイーズは、物理学者イアンとともに“彼ら”が人類に何を伝えようとしているのかを探っていく。そしてその言語の謎が解けたとき、彼らが地球にやってきた驚くべき真相と、人類に向けたラストメッセージが明らかになる…。」という惹句のSF映画。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』というSF小説を原作としている。この小説の題名は、「あなたの人生」の物語で、ふつう言い方であれば、私の人生だったり、彼女の人生ということになろう。主人公の言語学者は、その謎の知的生命体の言語とかコミュニケーションの手段を解明しようとする。“ヘプタポッド”と名づけられた知的生命体や、その言語のあり方の小説では想像するしかなかったのを映像化が見事で、いわゆる特撮映画とかスペースオペラとは一線を画した、SFのテイストを強く感じさせる映像を見ているだけでもうっとりするほど。“ヘプタポッド”が最後まで謎のままなのは、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』のような宗教的SFを彷彿させる。しかも、映像として美しい。
 ただ、原作の小説の特徴的な要素、たとえば、時間をぶつ切りにした場面を並べ替えることで、物語が現在と過去と未来を縦横に行き交い、その境界が失せて、それらがおなじ画面にいっしょくたになってしまう。それが実は、この物語そのものである。それはまた、私とあなたの境界が消失し、それがひとつの場面にいっしょくたになる。「あなたの人生」は私の人生と重なり、“ヘプタポッド”の人生でもあるとなる。それをパフォーミングアートでもある映画にしようとするので、難解な印象になる。そのあらわれは、最初の主人公と娘との場面で、その娘の成長と死がフラッシュバックで描かれ、その後に巨大な宇宙船の場面となる。で、このふたつの場面が平行のまま映画は進む。“ヘプタポッド”との場面に、フラッシュバックがとこどころで挿入されるが、そのふたつの関係が分からず、映画のストーリーが細切れになってしまうようで、分かりにくいことこの上ない。しかし、このフラッシュバックは回想と思っていたら、それは未来の記憶ということで、それは最後ちかくなって主人公が中国の軍人の暴走を食い止めるところで明らかになる。主人公は“ヘプタポッド”の言語を分析しているうちに、その時間や空間の認識構造を身につけていた。つまり、主人公はフラッシュバックで明らかになっている娘を成長させて死なせてしまうことを記憶することになる。最後に、結婚して娘を生むことを決心する。その結末は、私は、映画を見終わってから分かった。それが、この映画のドラマをつくっていた骨格であって、それが感動を呼ぶものであったことを。だからというわけではないが、この映画は繰り返して見ると、面白くなってくる。

2017年11月16日 (木)

シンゴジラを見た

シンゴジラをテレビで見た。怪獣映画としてのカタルシスのない怪獣映画というのが第一印象。印象的だったのが、映画の後半、最終形態になったゴジラが神奈川沖の海から上陸して、都心に向かって歩行するシーン。団地のような規則的に建物がずっと並んでひろがっているゴジラをはるか上空から見ていて、ゴジラが豆粒のように小さい。そこには、怖ろしい破壊者とか、畏怖すべき荒ぶるものといったものではないゴジラの姿が映っていた。怪獣らしくなかった。

Img_2_m 全編の中で、ゴジラが暴れるシーンは少ないし、このゴジラは自発的に破壊をしない。というより、自発的な行動をしない。だから、そこにいる理由がない。それで、似ているとおもったのが、ウルトラマンに出てきたガバドンという怪獣。子供の落書きが実体となってしまったという怪獣で、ただ現われただけという存在。ガバドンはじっとしているが、ゴジラは動くし、攻撃を受ければ防御はする。しかし、それ以上はしない。その代わりに映画の多くのシーンは主要な登場人物が早口で議論しているところで、怪獣映画というより、議論の映画と言った方が似つかわしいくらい。そこで話されているのは、もっぱらゴジラとは何か、いかに記述すべきかという議論。ゴジラ自身にそこにいる理由がないのを、登場人物たちが侃々諤々の議論をしている。そういうストーリーのように見えた。

例えばこういうこと、映画作品そのものからは離れてしまうかもしれないが、最初に現われたゴジラは、いったん海に消えてしまう。その後、二度目に神奈川沖から出現したゴジラは、最初の現われたゴジラとは大きさもかたちも変化していた。それは別物のようで、最初に現われたゴジラと二度目に現われたゴジラを同じゴジラなのだろうか。映画では、お約束だから話は進む。しかし、まるっきり違うのが、日を置かず現われたのであれば、別の個体あるいは別の生物の可能性はある。だからゴジラという言葉が指すのは何か、この時点でははっきりしていない。言葉が真であるのは、言葉と、その指すものが一致していることだ。しかし、その指すものが同定できない。この場合ゴジラは、その現われたのであるかもしれないという可能性でしかない。この場合、ゴジラは存在しているとは言えない。それは、ゴジラが存在していないと同じことだ。

それで、物語は牧という学者のデータを解析する。それは、ゴジラという概念の確定に他ならない。一方でゴジラの細胞の破片の分析によって、データとの一致を検証したことによって、ゴジラという概念と実在が一致したというわけだ。つまり、ゴジラは存在する。

それは、こじつけの屁理屈かもしれないが、言語論的展開による存在論がそのまま実践されている。

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2016年12月17日 (土)

小津安二郎監督『麦秋』の感想

B0b49703c131af1cbbdc7094f1b97278_2  小津安二郎の映画というと、戦後に制作された諸作での固定カメラのローアングルポジションで初老の父親が婚期の遅れた娘を嫁に出すホームドラマというイメージが強い。この「麦秋」もそのパターンで、両親と長男夫婦に二人の子ども、そして子どもたちの叔母にあたる長女が同居した三世代の家族で、婚期の遅れた長女の結婚を巡って話があって、最後に長女の結婚を機に両親が田舎に引っ込み、嫁入りの長女と三つに分割してしまうという話で、必ずしもハッピーエンドというわけでもない。かといって「秋刀魚の歌」のような寂しい終わりになるのでもない。「麦秋」のラストシーンは故郷の大和に移った菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が並んで語り合い、菅井一郎は悟ったような、諦めたような口調で、これでいいとか、幸せだったと語り、東山千栄子は、どこか釈然としないところを残しつつ諦めたように、これでよかったのかと応える。ふと、二人が見上げると、一面に麦の穂が実っている光景に切り返す。二人は室内にいて、視線を向けたところが麦畑というのは、チグハグな印象で、几帳面なほど論理的にショットをつなげる小津作品では珍しい(しかし、この作品では頻発していて、それがこの作品を際立たせている)が、この麦畑はパンフォーカスのスーパーショットで、麦畑の広がりと奥行きと、風に揺れるその麦の穂のひとつひとつにまでピントが合っているという現在では不可能な超絶技巧を見ているだけでも圧倒される凄いものだけれど。そこで作品は終わってしまう。二人の会話はこの作品のテーマを話し合っているかのような内容のものなのに、その結論はうやむやにして、麦畑を映して終わってしまう。そこでは、結論らしきものは語られない。このラストシーンは、この作品の性格を象徴していて、作品全体を通して、そういう姿勢は一貫していると思う。
 この作品を私が偏愛しているから、かなり偏った見方をしていて、他の人は必ずしもそう感じ取るとは限らないと思うが、この作品は、上述のラストシーンについて述べたところで触れたように、例えば長女の原節子が家族の全面的な賛成を得られない嫁入りで秋田に行ってしまって、家族が分解するように分かれてしまったことについて、よかったか、そうでなかったと、どちらかともいわず、どちらでもあるし、どちらでもないという、言葉や理屈にはならないこと、だから、それは言葉で説明できないし、映像で表すこともできない、そういうものを表そうとした作品といえる。しかし、表すことはできないということを小津監督は分かっていて、そういう作品を作った。そこが「麦秋」という作品の突出したところなのだけれど、ここで小津監督は、表すことができないのだから、表さないことで「麦秋」を制作した。何か、言葉遊びをしているように思われるかもしれない。作品の中で言えば、原節子演じる長女は、28歳という設定だけれど、妙に明るく(この場合は落ち着きがなく、わざと子どもっぽく振舞っているようで)まるで中学生か高校生のように無邪気にはしゃいでいる。職場の上司から縁談を紹介されても、曖昧な態度に終始し、挙句の果てに近所の子持ちのやもめの医師との結婚を勝手に決めてきてしまう。家族から、どうしてと理由を問われても答えない。多分自身でも分からないのかもしれない。そういう不可解というか、わからないことを、分からないとしてそのまま淡々と出している。すべてが決まった後で、原節子と兄嫁の三宅邦子が砂浜を歩くシーンがある(このシーンでは小津作品の中で唯一クレーン撮影をしている。そこでは大きな驚きを見る者に与える)。そこでは、家族が分断することになったのは自分のせいだと原節子は嘆いてみせ、結婚する幸福感でいっぱいというのではなく、対する三宅邦子はただ受け容れるという姿勢で、それがいいか悪いかラストシーンの老夫婦のどっちつかずをここで示している。それは単に表面的に言葉で語ってもしょうがないことなのだ。言葉にしてしまえば、決めつけてしまうことになる。少なくとも、そこで言わないということは、原節子が結婚することを否定することにはならない。制作している小津監督も、結婚を否定することはしない。だから、少なくとも、原節子が結婚することは否定しないことで認めている。これを見ている私の側に敷衍すれば、ある行為をするということについて、たとえよい結果を招くとは限らない、むしろ悪い結果を招くことがあっても、それを事前の段階でだからと言って駄目だと決め付けられないことは、人生の諸場面で沢山ある。私たちは、日々そのような場面に出くわしている。そこで敢えて行動を起こすことがあるし、その際にちゃんと考えて判断しているとは限らない。理由なく行動してしまうことだってたくさんある。「麦秋」には、そういうところが何件も出てくる。例えば、映画には登場しない次男省二は出征したまま。終戦後年月が経って、もう帰ってこないことはほぼ確かで、諦めてはいるのだけれど、東山千栄子は未だ待っている。それは未練ではない。未練というのは、戦死したのが明らかになって帰ってこないのが分かっても待ち続けること。ここでは、帰ってこないと、はっきりさせる、見切りをつけているわけではない。それは、省二を愛しているが故のことだ。だから希望を持っているのだ。傍から見れば、希望というより願望に近いのかもしれないが、当人は、はっきりしていないことは、一方で希望になる。だから、一見、ポジティブな明るさがある。日常生活の些細なことで、そういう曖昧であるからこそ、そこで前向きになれることが、実際にある。そのとき、原節子はわざとらしいほど朗らかだし、菅井一郎の父親は何もしないで、ただ今はいい時代で幸せだと受け容れてしまう。しかも、そういうところで、スタイリッシュで几帳面な演出が身上の小津監督が、画面のつなぎをチグハグにしたり、他の作品ではほとんどしない移動撮影を挿入したりするのだ。そこでは、意図的にストーリーの論理的な構成を崩している。現実の日常の日々なんて、ストーリーが進むようにトントン拍子で話が進まないのだ。それを、この作品では、きちっとした映画の進行を崩し、映画のストーリーを進めるのに必要な言わなければならないことを敢えて言わないことで、そういうところを作ろうとしているように思える。そこで見るにゆだねようとしているのだ。だからこそ、そこに余韻が生まれる。小津作品は叙情的と評されることが多いが、他の作品では叙情を表現しているのだけれど、この「麦秋」では叙情的に見る者に提示している。そこが「麦秋」という作品の特異なところではないかと思っている。

2016年7月30日 (土)

須川栄三監督『蛍川』の感想

D0291816_641911 どうということのない、寧ろ凡庸とすら言い得るようなシーンで、目頭に痛みが疾り、鼻の奥がむず痒くなる。気が付くと溢れ出ようとする涙を堪えるのに必死になっている。宮本輝の芥川賞受賞作が原作の「蛍川」という1987年制作の映画。昭和37年の富山が舞台で、タイトルバックに冬の雪。雪。雪。学校の校庭、一面に積もった雪。移動でゆっくりカメラがまわり、下駄箱に思い詰めたような学ランの中学生。カットが一転して三国連太郎が座敷で大勢の芸者相手に遊び興じている様になる。件の中学生に似た二三才の男の子が所在なげに廊下を往復している。カメラがパンして庭は一面の雪。多分回想のシーンなのか、紗がかかったように映しだされる。次の画面では、また学校、女の子があわてて雪の校庭を走る。行き先は、雪の川原で、そこでは二人の男の子が対峙している。二人は女の子をめぐって喧嘩を始めようとしていた。劣勢の方はカッターを取出し、相手を傷つけてしまう。白一色の雪面に赤い血が点々と。女の子は物陰に隠れたまま、出る機会を失してしまった。この女の子はエイコ、カッターを取り出したのはタッちゃん。二人は幼なじみ。物語の始まりはここから。この間、たったの数分だけれど、雪がとても印象的。風景として美しいのは言うまでもない。その雪が人物に寄り添うように、それぞれのシーンでそれぞれに意味をもってくる。といっても、人物の心理がイメージ化されているという矮小なものではなく、あくまでシーンとしてそれ自体雪なのだ。それがとても美しい。回想の庭の雪、校庭の雪、川原の雪、みんな違う。それは、雪にうつった光の反映なのかも。この映画はそういう光に満ちている。(実は、この雪の白さをそのまま映すのは大変難しい。例えば、今川昌平がカンヌ映画祭でグランプリを獲った「楢山節考」、雪は白になっていなくて、青みがかかってしまっている。)
  今年は多い年であるという。春に大雪が降る年は、夏蛍が大発生する。これは幼なじみの二人が幼い頃聞いた話。しかも、この蛍を見た男女は結婚する運命にある。これが、この映画を貫く一本の太い縦糸となっている。二人はこれをそれぞれに信じている。話は専らタッちゃんの側で進行していく。タッちゃんの家は三国連太郎の父親が事業に失敗して破産寸前。そんなためもあって、それとも思春期独特の含羞なのか、彼はエイコに想いを打ち明けられないでいる。ノートのページ一杯にエイコの文字を書き散らしたり、彼女の赤い傘を握りマスターベイションさえしようとする。(タッちゃんは主人公であるはずなのに他者へのはたらきかけというような行動をおこさない。彼はずっと受け身で、彼の周囲で事態は起こるたけ。他方、エイコは専ら話題にはなるものの存在感は稀薄。)美しい少女となったエイコに想いを寄せる男子生徒は多く、タッちゃんは不安な毎日。現に、親友のケンタも「エイコはいいのう」が口癖。そんな彼にとって、幼い頃の二人で蛍の大群を見ようという約束が唯一の頼みの綱だった。その彼の父親が脳血栓で倒れてしまう。蛍の話を二人に話してきかせたのは、この父親だった。この辺りの語り口は少しばかり退屈で、私は雪を主に見ていました。(主役のタッちゃんとエイコに動きがなく、二人の俳優が上手くないので残念です)諄いようですが、この雪がとてもいい。
 桜が満開の春。外は雪景色。この年は、春の大雪となった。父親は蛍の大発生を保証した。そんな折り、タッちゃんはケンタから、下校途中、エイコの写真を受け取る。ケンタは日頃からエイコへの憧れを広言していた。こっそりと彼女の机の中から頂戴してきたらしい。しかし、ケンタはタッちゃんもまた、エイコに密かに好きなのを気付いていた。友情のしるしとケンタは写真を譲ったのだ。その一方で二人の友情の不変を彼は言う。ケンタはタッちゃんを釣りに誘うが、タッちゃんは断ってしまう。その夜、部屋でエイコの写真に見入るタッちゃん。と、玄関で戸を叩く音。誰かと出てみると、当のエイコが雨に濡れて立ってる。彼女はケンタの死を伝えに来た。あわてて自転車に乗るタッちゃん。このシーンがとても印象的。横なぐりの雨のなか、堤防に沿って自転車を走らすタッちゃんをカメラがパンで追う。カットが代わって自転車を追って走るエイコを正面から捉える。顔面に雨を受け、傘もささずにビショ濡れなって走るエイコ、と降りつけるのは雨だけではなく、桜の花びらが混じっている。ケンタは釣りに行って川に落ちて溺死したらしいことがわかり、タッちゃんは無我夢中で自転車を走らせる。この雨中のシーンは、いくつかのカットに割られているが、その中で雨で渦巻く川の水面をとらえたカットが二三ある。夜で、さらに雨の中ゆえ、川面はほの暗く、そこに散り敷いた桜の花びらはほの白く映ります。この、川面に浮かび、流れで舞っている花びらは、イメージとして、しんしんと降る雪に連なり、そしてクライマックスの蛍の乱舞につながっているように思えてならない。ケンタの死は事故死以外ではないだろう。しかし、タッちゃんはそう言ってすますことはできない。直接的には、直前に誘われた釣りを断っていた。それも、断らなければならない理由などはなかった。あきらかに事故に関わっているのをタッちゃんは自覚している。そこにはまた、同じように共にエイコに恋をしたことがからまり、そして、死の報を持ってきたのが他ならぬエイコであったわけだ。自転車の疾走シーンにはそうした一切が折り重なりあったものとなっている。白の群舞という視覚的イメージが、冬の雪、春の桜、夏の蛍と季節と共にどんどん展開されていく、ここには生と死が性がこめられている。そして、これらが「蛍川」というタイトルの蛍の川のような群舞というラストのクライマックスに一気に収斂していく。冷静にみれば、構図は凡庸ですらある。蛍というのは青白く光るものだが、ここではグリーンがかってしまっている。しかし、森の奥で蛍の大群が乱舞する光景は、そういったスペクタクルだけで目を瞠らせるわけではない。蛍が数日という短い命のあいだに、次の命を生むべく、狂ったように相手を求めて交尾をするということが、ここまでずっと描かれてきたものを高らかに謳いあげるのがすばらしい。ラストの蛍の乱舞の中、タッちゃんとエイコの抱擁する様子が次第に蛍のように光輝いていくのは、エロスという以外に言いようがない。春になってからの約1時間は、胸がジーンとなり放しで、小さいエピソードがどんどん二人を蛍を見る以外にない状況へ追い込んでいく。この作品は、沢山の小さいエピソードが全部伏線となってストーリー全体にからまっていて、それが生と死のテーマに繋がっていく、とても骨太の構造をもっています。それがこのラストで一気に花開く。たぶん、この作品は傑作でも名作でもない、けれど私には心に残る作品のひとつ。

 

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