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映画・テレビ

2020年6月18日 (木)

アンソニー・マン監督の映画『グレン・ミラー物語』の感想

1111  周防正行の「Shall we ダンス?」でダンスホールを俯瞰で撮ったシーンは、「王様と私」ではなく、この映画へのオマージュであると一人信じている。それ監督のアンソニー・マンの個性とも言えるは縦の構図と、ホールでダンスをしている人々の動きに躍動感がなくてマスゲームのように機械的に統制されていたところが、そっくりだったから。この映画は、音楽家の伝記と夫婦愛の物語なんだが、変なところが、やたら目につく映画だった。グレン・ミラーが軍隊に志願して閲兵式の軍楽隊の指揮をするシーンで、行進する軍隊の制服の色が常識では考えられないほど色とりどりだったり。あっ、さっきのダンスホールのシーンでもダンスしている人々の服の色が不自然なほど揃っていたり。それが、スイングといいながら、全然グルーヴしないグレン・ミラーの音楽を映像の雰囲気で表わしてしまった、そういう作品だったと思う。
 極めつけは、映画の最後、グレン・ミラーの乗った飛行機が行方不明になって、彼の残した録音がラジオから流れて、それを聞く妻役のジューン・アリスンが夫を失った悲しみを乗り越える姿を映していることで、最後はグレン・ミラーではなくて、グレン・ミラーの妻の映画にしてしまった。そういう、細部にたくさんの見所があり、それらがサイドストーリとしてスピンアウトして、物語がひろがっていく映画だった。

 

2020年3月29日 (日)

リリアーナ・カヴァーニ監督の映画「愛の嵐」の感想

111_20200329210401  ウィーンのホテルの初老のフロント係の男性と有名な指揮者の妻となった女性が偶然再会する。女性はユダヤ人で第二次世界大戦の際に強制収容所に入れられ、救出された過去をもつ。男性は、その収容所にいた親衛隊の将校で、未だ少女であった彼女を弄んだのだった。男は、その罪を逃れるため、隠れた生活を続けていた。それが過去を知る彼女と出遭ったことで、周辺が慌ただしくなる。その結果、二人は、ホテルの部屋に閉じ込められることになる。極限的な状況で二人は、かつても倒錯的な関係を甦らせる。主演女優のシャーロット・ランブリングが若作りして十代の少女になりきって、上半身をサスペンダーだけで隠したヌード姿で、ストリップを踊ったり、鞭で打たれたりするシーンが話題になった映画。
作品としてみれば、ユダヤ人の迫害とか、ドイツの戦争犯罪とか尤もらしいゴタクを並べて格好をつけているが、内容は単なるポルノだろうと、監督のリリアーナ・カヴァーニは好きではない。しかし、閉じ込められた中で、食物が底を突き飢えに苦しむ二人の、男性が冷蔵庫に食べ残しのジャムを見つけて舐める。それを女性がみつけると、男性は舐めつくした後、それで、男性に口づけして舌を差し込み、男性の口中のジャムを奪おうとする。愛の行為である口づけが生存をかけた戦いになる。その時の女性のジャムを口のまわりにつけて、まるで口紅のようになって、獣のような顔つきをしていた、そのシャーロット・ランブリングを見るだけで、この映画の価値がある。ちなみに、男を演じていたのはダーク・ボガード。ビスコンティやベルトリッチなどのヨーロッパ系の監督の作品ではお馴染みの男優。

 

2019年9月16日 (月)

小津安二郎監督の映画「浮草」の感想

11111_20190916204101 松竹映画所属の小津安二郎が大映に出向いて制作した作品。普段の気心の知れたスタッフではなく、勝手の違う大映のスタッフと他流試合のような共同作業。それで、他の作品の隙のない完璧な仕上がりでは見えてこないものが垣間見える。キャメラが名匠宮川一夫ということもあり、旅芸人の一座が拠点とする劇場が高台を仰ぎ見る縦構図で奥行をもってとられていたり、一座のお披露目のパレードを縦構図の俯瞰で撮ったりと普段の小津作品では見られない画面。そこに映り込んでいるのは奥行と動き。宮川のキャメラは小津独特のローアングルの固定ショットも、微妙な距離感が違う。大映の俳優たちも、その距離感で演じると、生々しさが残る。小津独特のオウム返しのようなセリフのやり取りが、表面的な言葉の響きにとどまらず、実質、つまり意味を含んでしまうようなのだ。だから、いつものドライでスタイリッシュな映像とは違って、どこかジメっとした重さを含んでいる。それゆえに、小津作品では珍しい土砂降りの雨が降り、京マチ子と中村鴈治郎は感情を露わに怒鳴り合う。まるで画面の奥行が映り込んでしまったのと同じように、人間の奥の感情が表に出てしまった。それは、他の作品で隠され、スタイリッシュな映像では慎重に秘匿され、わずかに仄めかされていたものが、この作品では、隠しきれず噴出してしまったかのよう。
 旅芸人の一座という舞台設定も、意味深で、劇場の舞台は普段の小津作品の作品で演じられているもので、その舞台裏、つまり、この作品のドラマは、その画面の背後に隠された奥行が、この映画のドラマとなっている。つまり、小津の映画の構造そのものがドラマのプロセスとなっている、小津自身が自分の映画をメタレベルでドラマにしているのではないかと思われるような作品。

 

2019年5月31日 (金)

アンソニー・マン監督、ジェームス・スチュアート主演の映画「怒りの河」の感想

111111_2 新天地を求めた農民を乗せた幌馬車隊。ジェームス・スチュワート演じる主人公は、その一行の道案内と護衛で、彼はかつて無法者であり、縛り首になりかけたことがある(彼の首には、その縄の痕跡がスカーフによって隠されていた)。彼は改心し、移住する農民たちを助け、彼らと共に新しい生活を目指そうとしていた。その途中で、かつての自分と同じように縛り首にされようとする男を発見し、助けてやる。この男はいったんは主人公と共に農民を助けるが、後に主人公を裏切り、農民たちに届けるべき越冬の食料を略奪、馬も銃も奪われた主人公は彼を追跡する。
 実は、この男はほとんど主人公の分身、さらには主人公そのものといってよいような性質のものである。少なくとも主人公にとって克服すべき過去の自己であり、それを抹殺することが、今の自分の存立を保障するような存在としてある。だから二人の対決は、互いに対峙して撃ち合うのではなく、どちらがどちらとも分からないような取っ組み合いになる。二人が最終的に対決するのは急流の中だ。主人公の分身的存在、力尽き、流されていく。主人公は、投げられた縄をつかみ、ゆっくりと岸辺に辿り着く。常時身につけていたスカーフが流され、首の傷があらわになっている。主人公を助けたのは、かつて縛り首で彼の命を奪おうとした縄だ。
 典型的な西部劇は悪い敵と対決するものだが、現実に裏切り者と対決するここで対決するのは主人公自らの過去でもある。彼の内面の葛藤そのものは見えないが、言葉の端々や、主人公の肉体の痕跡、彼が陥る悪夢、常に何かに追われているかのような異常なまでの切迫感などにあらわれている。この物語が主人の内面のドラマと裏返しになっている。

2019年5月 7日 (火)

フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想

 111111_1 第二次世界大戦、ナチス・ドイツ占領下のプラハで「死刑執行人」の異名を持つ占領副総督ハイドリヒの暗殺事件があったのは史実。それを題材に、その戦争が終わらないうちに、ドイツ系亡命者のブレヒトが脚本を書き、ハンス・アイラーが音楽を、フリッツ・ラングが監督をした作品。それだけが理由ではないが、全編異様な緊張感が張りつめている。その展開に、ポケッとしていると置いてきぼりにされてしまう。説明的な描写を削ぎ落としたソリッドな映像は、禁欲的な美しさを湛えている。例えば、ゲシュタポに逮捕された老父とヒロインが面会するシーンは、ヒロインが待つ無機的な狭い室内に、ドアが開いて光が差し込み老父が入ってくると、その光と影のコントラストにより老父が処刑前であることを暗示させる。それで話は進んでいくが、それについての余計な説明は一切ない。それが、残された家族のやるせなさと、その家族もも同じ運命をたどるかもしれない恐怖が残ってしまう。そういうのが、最後までつづく。監督のフリッツ・ラングは見る者に全体像を明かすことをしないで、主要な登場人物の視点で画面をつくり、それぞれの視点で物語は進行するのだが、そのうちの一人の視点の映像だけを見せて(その同じ時に他の人物の視点で起きていることは見せない)、その断片を一本に繋いでいくと、観衆には見ているストーリーが途中で飛んでしまうような印象で、見る者に緊張を強いる、臨場感が半端じゃない。それが、映像そのものが緊張感を生んでいる。
 まるで抜き身の真剣のような美しさを湛えた作品だと思う。

 

2019年4月21日 (日)

小津安二郎監督の映画「彼岸花」の感想

11111  小津安二郎監督の初のカラー作品ということで慣れないのか、前作『東京暮色』が陰影の濃い画面だった反動からなのか、照明が行き届すぎて、日本間というには影がなく、しかも有名な真赤な魔法瓶といったような非日常的な原色が散りばめられていたりして、まるで宇宙ロケットの中のような抽象的な空間をつくっている。しかし、そこで演じられているのが、前作『東京暮色』をそのまま移したようなドラマで、娘役は前作で自殺してしまった有馬稲子で、ここでは父の理解をえられぬまま東京を離れねばならないという、まるで前作を引きずっているかのように、後期小津作品の娘役では珍しいほど、俯いている姿勢と、泣くシーンが多い。また、佐分利信の演じる父親の頑迷さで娘を見ていないところは、前作の笠智衆に強引さを加えたようなもの。その笠智衆は、男とともに家を出て、バーで女給をしている娘の父親として俯いている。小津は一度噴出してしまったドロドロとしたものを抑えることができないように見える。そこで、『東京暮色』の暗く閉塞したような空間とは正反対の、抽象的な、つまりは浮ついたような空間をつくり、さらに、山本富士子の演じる京都の旅館の娘の佐分利信を煙に巻くようなコミカルな存在や、この後の作品で定番となる中村伸郎や北竜二などの男たちが料亭の座敷で女将をからかいながら他愛もないギャグをかわす場面など作品をコミカルな雰囲気を作ろうとしている。そのためか、全体として一貫していない、どこか分裂した印象を受けてしまう。この作品では、佐分利信、田中絹代、有馬稲子などの家族に、「そんなものかね」といった内容のない相槌と微笑を鸚鵡返しのように交わす儀式のような会話も見られず、娘の結婚前に箱根に旅行した場面でもボートに乗る娘たちを湖岸で見ている夫婦は、『東京物語』の熱海の海岸の老夫婦が背中を並べるように、並んで同じ方向を向いていることはほとんどない。後期の小津作品の中で『東京物語』までの紀子三部作から晩年の作品への変化を、この作品で小津は試行し、迷い、悩んでいる。それだけに、小津が普段見せない、どろどろしたところ、真情を、それを隠そうとしているところまで垣間見ることのできる作品ではないかと思う。

2019年4月16日 (火)

デビッド・リーン監督の映画「ドクトル・ジバゴ」の感想

111111  冒頭。プロローグのような、アレック・ギネスが弟ジバゴの遺児を探してダムの工事現場を訪ねる。終業時間となって労働者が出てくるところ。巨大なダムを、吐き出される労働者の何百、何千人もの群れが埋め尽くすのを、ロングで広角のように撮っていると、まるで人の群れが風景のようになってしまう。そういう空間に圧倒されたところで、本編が始まり、シネマスコープのひろがりいっぱいの白一色の雪原。人で埋め尽くされた空間から、雪で白一色の空間に、その広がりは、映画館のシネマスコープの大きな画面では、目の前に広がる以上に、覆われてしまうような感覚となる。
 それが、この映画のドラマで、他のシーンもあるのだけれどジバゴが徴用された赤軍パルチザンから脱走して、ひとりで雪原を彷徨するするシーンは、白一色の広大な空間の中で、たった一人の人間であるジバゴをロングショットで撮っていると、小さくなって点になって雪原の白の中に融けこんで消えてしまう。人間の小さを表現しているとか、そんな悠長なことを言わせない圧倒的な空間のひろがりの美しいといかいえない、実はそれがドラマを作っている。それ以外のシーンもあるのだけれど、基本的に、人物は引き気味で、カメラが寄らない。ちっぽけな人間、その個人のチマチマした表情とか感情とかは突き放している。そこで語られるジバゴとララーの二人の恋愛。恋愛ドラマのラブシーンなんぞより、二人が画面にいるということが実は大変なことだ、とうのが画面で示されている。それは、室内の黄色いひまわりだったり、とにかく人が白い雪原に消えてしまわないのだから、二人の存在そのものが画面に映し出される。それは残酷であり、ひたむきであり、はかなく、そして美しく映った。

 

2019年3月18日 (月)

小津安二郎監督の映画「東京暮色」の感想

111111  「晩春」以降の小津安二郎監督作品の中でも失敗作という人もいる。かつて、植民地勤務で東京を留守にしていた折に妻に逃げられた初老の銀行家の娘が、不良とつきあううちに妊娠し、子供を堕ろしたうえで自殺するというストーリーと、他の小津作品にはない暗く湿った雰囲気の画面とが相俟って、後期の小津作品の中では人気も評価もいまひとつと思う。しかし、そうなることは、小津自身にも分かっていたのではないか、それでも彼は、この作品を撮った。否、撮らずにはいられなかった、そう思うが故に、この作品こそは、小津が映画作家である証しのような作品であると思う。この作品は、後期の小津作品の代名詞ともいえる笠智衆と原節子が共演した紀子三部作の陰画のような作品になっていると思う。例えば、『東京物語』の有名な早朝の熱海の海岸で背中を並べて佇んでいる老夫婦をバックから捉えたシーンを、この作品では有馬稲子が恋人の田浦正巳に妊娠したことを告げるのが同じように東京湾に向かって二人が並んで堤防に腰をおろしているのをバックから撮っている。しかし、ここには老夫婦の心の通い合いとは違って、心を通わすことのないそれぞれが自分のことしか考えていないそれぞれに孤独な男女がいるだけだ。この作品では、後期の小津作品のスタイルの画面が作られているにもかかわらず、その意味とか観る者が受ける印象が陰画のごとく逆方向を向いている。父親を演じる笠智衆は『晩春』の父親と同じように振る舞っているが、『晩春』では娘をさりげなく見守る人の好い父親になっているのに、この作品では善意に逃げる愚鈍さゆえに、妻に逃げられたうえに娘まで失ってしまう依怙地な銀行員になってしまっている。つまり、代表的とされている小津作品は表の面に過ぎず、実はその裏面として、この作品の世界があり、その二つが表裏の関係にある。だからこそ、小津は、この作品を撮らずにはいられなかったのではないか。おそらく、この作品を見ると見ないとでは、例えば『東京物語』の見方が変わってくると思う。

2019年1月27日 (日)

エドワード・ヤン監督の映画「恐怖分子」の感想

000002  人間の恐いのに、何が恐いか分からないという不安を想像させる独特の映像
 警察の手入れから逃げ出した不良少女シューアンとその姿を撮るカメラマン志望の青年シャオチェン、昇進を目論む医師のリーチェンと小説家としてのスランプに陥っている妻のイーフェン。それまで接点を持たなかった人々が、シューアンのいたずら電話をきっかけにして、関係が交錯し、人生が変化を始める。イーフェンは、これに着想を得て書いた小説が文学賞を受賞し、かつての恋人と情事を重ねる。一方、妻に去られただけでなく出世の競争に敗れたリーチェンは・・・
 説明的な要素がなく、人物の表情が抑えられ、台詞も少ないので、特に前半は親しめない人も少なくないかもしれない。退屈を覚えるかも。しかし、端整な画面で映し出される映像は、その繋ぎが、見る者に、どこか不安定でサスペンスな印象を呼び起こす。例えば、冒頭はサイレンの音で、何か事件が起きた事は分かるが、次に道に倒れた男の映像。そして銃声。しかし、撃ち合いになる場面もなく、どんな事件が起こったのか、つまり、現場が出てこないのだ。銃撃戦は音と割れるガラスしか出てこない。この映画、普通の事件の場面に見る者が期待する要素がすべて映されないのだ。そこではサスペンスの緊迫感が伝わってくるが、それ以上に何が起こったか分からない不安を募らせる。また、切り返しショットで人が視線を向けている画面に続く画面が、その視線が見ていたものを映さない。そこで見る者は画面からストーリーを追いかけることがスムーズに行かないのだ。それが物語の安定感を見る者に与えず、映画が現実か夢か、外面か内面かの境界が曖昧になってくる。そこに、「恐怖分子」のタイトルのような分子的な恐怖がうまれてくる。

2019年1月16日 (水)

ゲーリー・クーパー主演、アンソニー・マン監督の映画「西部の人」の感想

000002  強盗団から足を洗って平穏な生活を送っていたかつての無法者(ゲーリー・クーパー)が、再会した昔の仲間や残忍なボス(リー・J・コッブ)との縁を切って真人間になることを目指すというストーリー。クーパー演ずる主人公は、逃れたい過去に強制的に捉われることになる。主人公の伯父に従っていた過去の姿を彷彿させる分身のような従兄弟が、彼に対して裏切り者と敵意を露わにする。つまり、否定した過去に捉われている主人公が、克服すべき過去が強盗団、とくに分身のような従兄弟(ジョン・デナー)として現実に現われ、実際に彼を捕えてしまう。そこから逃れ、彼らと対決することが、主人公にとっては内なる過去の記憶の克服と重なる。
 彼と従兄弟の対決は、撃ち合いの後それぞれクーパーは肩を、デナーは足を撃たれ、クーパーは廃屋の玄関ポーチの床に、デナーはその床下に倒れ込む。二人はポーチの床の上と下で「とうとう二人きりだな」、「お前がずっとそうなると思ってきた通りになったな」と話し、その二人を同じ画面に捉える。この敵同士を上下の構図で映すのはアンソニー・マン特有の垂直の対決構図なのだろうが、狭い空間で接触するほど両者が接近していると、彼らが対決するべくして対決する宿命性が強調される、というより、互いに分身のように見えてくる。最終的には、クーパーはデナーを殺すことで、自分の過去そのものを葬り去る。この対決は自分自身との対決であり、自分の中の悪との対決。それゆえ、戦いに勝ったクーパーは陰鬱な表情を崩さない。周囲に広がっているのはゴーストタウン。勧善懲悪とか、ノスタルジーといった西部劇のスカッとするものとは正反対。現代劇にしてしまっては、身につまされってしまうので西部劇という舞台に移すことで、かろうじて娯楽映画になっている。しかし、このような主人公を脳天気なハリウッド・スターの代表的存在ゲーリー・クーパーが演じているなんて。