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映画・テレビ

2016年12月17日 (土)

小津安二郎監督『麦秋』の感想

B0b49703c131af1cbbdc7094f1b97278_2  小津安二郎の映画というと、戦後に制作された諸作での固定カメラのローアングルポジションで初老の父親が婚期の遅れた娘を嫁に出すホームドラマというイメージが強い。この「麦秋」もそのパターンで、両親と長男夫婦に二人の子ども、そして子どもたちの叔母にあたる長女が同居した三世代の家族で、婚期の遅れた長女の結婚を巡って話があって、最後に長女の結婚を機に両親が田舎に引っ込み、嫁入りの長女と三つに分割してしまうという話で、必ずしもハッピーエンドというわけでもない。かといって「秋刀魚の歌」のような寂しい終わりになるのでもない。「麦秋」のラストシーンは故郷の大和に移った菅井一郎と東山千栄子の老夫婦が並んで語り合い、菅井一郎は悟ったような、諦めたような口調で、これでいいとか、幸せだったと語り、東山千栄子は、どこか釈然としないところを残しつつ諦めたように、これでよかったのかと応える。ふと、二人が見上げると、一面に麦の穂が実っている光景に切り返す。二人は室内にいて、視線を向けたところが麦畑というのは、チグハグな印象で、几帳面なほど論理的にショットをつなげる小津作品では珍しい(しかし、この作品では頻発していて、それがこの作品を際立たせている)が、この麦畑はパンフォーカスのスーパーショットで、麦畑の広がりと奥行きと、風に揺れるその麦の穂のひとつひとつにまでピントが合っているという現在では不可能な超絶技巧を見ているだけでも圧倒される凄いものだけれど。そこで作品は終わってしまう。二人の会話はこの作品のテーマを話し合っているかのような内容のものなのに、その結論はうやむやにして、麦畑を映して終わってしまう。そこでは、結論らしきものは語られない。このラストシーンは、この作品の性格を象徴していて、作品全体を通して、そういう姿勢は一貫していると思う。
 この作品を私が偏愛しているから、かなり偏った見方をしていて、他の人は必ずしもそう感じ取るとは限らないと思うが、この作品は、上述のラストシーンについて述べたところで触れたように、例えば長女の原節子が家族の全面的な賛成を得られない嫁入りで秋田に行ってしまって、家族が分解するように分かれてしまったことについて、よかったか、そうでなかったと、どちらかともいわず、どちらでもあるし、どちらでもないという、言葉や理屈にはならないこと、だから、それは言葉で説明できないし、映像で表すこともできない、そういうものを表そうとした作品といえる。しかし、表すことはできないということを小津監督は分かっていて、そういう作品を作った。そこが「麦秋」という作品の突出したところなのだけれど、ここで小津監督は、表すことができないのだから、表さないことで「麦秋」を制作した。何か、言葉遊びをしているように思われるかもしれない。作品の中で言えば、原節子演じる長女は、28歳という設定だけれど、妙に明るく(この場合は落ち着きがなく、わざと子どもっぽく振舞っているようで)まるで中学生か高校生のように無邪気にはしゃいでいる。職場の上司から縁談を紹介されても、曖昧な態度に終始し、挙句の果てに近所の子持ちのやもめの医師との結婚を勝手に決めてきてしまう。家族から、どうしてと理由を問われても答えない。多分自身でも分からないのかもしれない。そういう不可解というか、わからないことを、分からないとしてそのまま淡々と出している。すべてが決まった後で、原節子と兄嫁の三宅邦子が砂浜を歩くシーンがある(このシーンでは小津作品の中で唯一クレーン撮影をしている。そこでは大きな驚きを見る者に与える)。そこでは、家族が分断することになったのは自分のせいだと原節子は嘆いてみせ、結婚する幸福感でいっぱいというのではなく、対する三宅邦子はただ受け容れるという姿勢で、それがいいか悪いかラストシーンの老夫婦のどっちつかずをここで示している。それは単に表面的に言葉で語ってもしょうがないことなのだ。言葉にしてしまえば、決めつけてしまうことになる。少なくとも、そこで言わないということは、原節子が結婚することを否定することにはならない。制作している小津監督も、結婚を否定することはしない。だから、少なくとも、原節子が結婚することは否定しないことで認めている。これを見ている私の側に敷衍すれば、ある行為をするということについて、たとえよい結果を招くとは限らない、むしろ悪い結果を招くことがあっても、それを事前の段階でだからと言って駄目だと決め付けられないことは、人生の諸場面で沢山ある。私たちは、日々そのような場面に出くわしている。そこで敢えて行動を起こすことがあるし、その際にちゃんと考えて判断しているとは限らない。理由なく行動してしまうことだってたくさんある。「麦秋」には、そういうところが何件も出てくる。例えば、映画には登場しない次男省二は出征したまま。終戦後年月が経って、もう帰ってこないことはほぼ確かで、諦めてはいるのだけれど、東山千栄子は未だ待っている。それは未練ではない。未練というのは、戦死したのが明らかになって帰ってこないのが分かっても待ち続けること。ここでは、帰ってこないと、はっきりさせる、見切りをつけているわけではない。それは、省二を愛しているが故のことだ。だから希望を持っているのだ。傍から見れば、希望というより願望に近いのかもしれないが、当人は、はっきりしていないことは、一方で希望になる。だから、一見、ポジティブな明るさがある。日常生活の些細なことで、そういう曖昧であるからこそ、そこで前向きになれることが、実際にある。そのとき、原節子はわざとらしいほど朗らかだし、菅井一郎の父親は何もしないで、ただ今はいい時代で幸せだと受け容れてしまう。しかも、そういうところで、スタイリッシュで几帳面な演出が身上の小津監督が、画面のつなぎをチグハグにしたり、他の作品ではほとんどしない移動撮影を挿入したりするのだ。そこでは、意図的にストーリーの論理的な構成を崩している。現実の日常の日々なんて、ストーリーが進むようにトントン拍子で話が進まないのだ。それを、この作品では、きちっとした映画の進行を崩し、映画のストーリーを進めるのに必要な言わなければならないことを敢えて言わないことで、そういうところを作ろうとしているように思える。そこで見るにゆだねようとしているのだ。だからこそ、そこに余韻が生まれる。小津作品は叙情的と評されることが多いが、他の作品では叙情を表現しているのだけれど、この「麦秋」では叙情的に見る者に提示している。そこが「麦秋」という作品の特異なところではないかと思っている。

2016年7月30日 (土)

須川栄三監督『蛍川』の感想

D0291816_641911 どうということのない、寧ろ凡庸とすら言い得るようなシーンで、目頭に痛みが疾り、鼻の奥がむず痒くなる。気が付くと溢れ出ようとする涙を堪えるのに必死になっている。宮本輝の芥川賞受賞作が原作の「蛍川」という1987年制作の映画。昭和37年の富山が舞台で、タイトルバックに冬の雪。雪。雪。学校の校庭、一面に積もった雪。移動でゆっくりカメラがまわり、下駄箱に思い詰めたような学ランの中学生。カットが一転して三国連太郎が座敷で大勢の芸者相手に遊び興じている様になる。件の中学生に似た二三才の男の子が所在なげに廊下を往復している。カメラがパンして庭は一面の雪。多分回想のシーンなのか、紗がかかったように映しだされる。次の画面では、また学校、女の子があわてて雪の校庭を走る。行き先は、雪の川原で、そこでは二人の男の子が対峙している。二人は女の子をめぐって喧嘩を始めようとしていた。劣勢の方はカッターを取出し、相手を傷つけてしまう。白一色の雪面に赤い血が点々と。女の子は物陰に隠れたまま、出る機会を失してしまった。この女の子はエイコ、カッターを取り出したのはタッちゃん。二人は幼なじみ。物語の始まりはここから。この間、たったの数分だけれど、雪がとても印象的。風景として美しいのは言うまでもない。その雪が人物に寄り添うように、それぞれのシーンでそれぞれに意味をもってくる。といっても、人物の心理がイメージ化されているという矮小なものではなく、あくまでシーンとしてそれ自体雪なのだ。それがとても美しい。回想の庭の雪、校庭の雪、川原の雪、みんな違う。それは、雪にうつった光の反映なのかも。この映画はそういう光に満ちている。(実は、この雪の白さをそのまま映すのは大変難しい。例えば、今川昌平がカンヌ映画祭でグランプリを獲った「楢山節考」、雪は白になっていなくて、青みがかかってしまっている。)
  今年は多い年であるという。春に大雪が降る年は、夏蛍が大発生する。これは幼なじみの二人が幼い頃聞いた話。しかも、この蛍を見た男女は結婚する運命にある。これが、この映画を貫く一本の太い縦糸となっている。二人はこれをそれぞれに信じている。話は専らタッちゃんの側で進行していく。タッちゃんの家は三国連太郎の父親が事業に失敗して破産寸前。そんなためもあって、それとも思春期独特の含羞なのか、彼はエイコに想いを打ち明けられないでいる。ノートのページ一杯にエイコの文字を書き散らしたり、彼女の赤い傘を握りマスターベイションさえしようとする。(タッちゃんは主人公であるはずなのに他者へのはたらきかけというような行動をおこさない。彼はずっと受け身で、彼の周囲で事態は起こるたけ。他方、エイコは専ら話題にはなるものの存在感は稀薄。)美しい少女となったエイコに想いを寄せる男子生徒は多く、タッちゃんは不安な毎日。現に、親友のケンタも「エイコはいいのう」が口癖。そんな彼にとって、幼い頃の二人で蛍の大群を見ようという約束が唯一の頼みの綱だった。その彼の父親が脳血栓で倒れてしまう。蛍の話を二人に話してきかせたのは、この父親だった。この辺りの語り口は少しばかり退屈で、私は雪を主に見ていました。(主役のタッちゃんとエイコに動きがなく、二人の俳優が上手くないので残念です)諄いようですが、この雪がとてもいい。
 桜が満開の春。外は雪景色。この年は、春の大雪となった。父親は蛍の大発生を保証した。そんな折り、タッちゃんはケンタから、下校途中、エイコの写真を受け取る。ケンタは日頃からエイコへの憧れを広言していた。こっそりと彼女の机の中から頂戴してきたらしい。しかし、ケンタはタッちゃんもまた、エイコに密かに好きなのを気付いていた。友情のしるしとケンタは写真を譲ったのだ。その一方で二人の友情の不変を彼は言う。ケンタはタッちゃんを釣りに誘うが、タッちゃんは断ってしまう。その夜、部屋でエイコの写真に見入るタッちゃん。と、玄関で戸を叩く音。誰かと出てみると、当のエイコが雨に濡れて立ってる。彼女はケンタの死を伝えに来た。あわてて自転車に乗るタッちゃん。このシーンがとても印象的。横なぐりの雨のなか、堤防に沿って自転車を走らすタッちゃんをカメラがパンで追う。カットが代わって自転車を追って走るエイコを正面から捉える。顔面に雨を受け、傘もささずにビショ濡れなって走るエイコ、と降りつけるのは雨だけではなく、桜の花びらが混じっている。ケンタは釣りに行って川に落ちて溺死したらしいことがわかり、タッちゃんは無我夢中で自転車を走らせる。この雨中のシーンは、いくつかのカットに割られているが、その中で雨で渦巻く川の水面をとらえたカットが二三ある。夜で、さらに雨の中ゆえ、川面はほの暗く、そこに散り敷いた桜の花びらはほの白く映ります。この、川面に浮かび、流れで舞っている花びらは、イメージとして、しんしんと降る雪に連なり、そしてクライマックスの蛍の乱舞につながっているように思えてならない。ケンタの死は事故死以外ではないだろう。しかし、タッちゃんはそう言ってすますことはできない。直接的には、直前に誘われた釣りを断っていた。それも、断らなければならない理由などはなかった。あきらかに事故に関わっているのをタッちゃんは自覚している。そこにはまた、同じように共にエイコに恋をしたことがからまり、そして、死の報を持ってきたのが他ならぬエイコであったわけだ。自転車の疾走シーンにはそうした一切が折り重なりあったものとなっている。白の群舞という視覚的イメージが、冬の雪、春の桜、夏の蛍と季節と共にどんどん展開されていく、ここには生と死が性がこめられている。そして、これらが「蛍川」というタイトルの蛍の川のような群舞というラストのクライマックスに一気に収斂していく。冷静にみれば、構図は凡庸ですらある。蛍というのは青白く光るものだが、ここではグリーンがかってしまっている。しかし、森の奥で蛍の大群が乱舞する光景は、そういったスペクタクルだけで目を瞠らせるわけではない。蛍が数日という短い命のあいだに、次の命を生むべく、狂ったように相手を求めて交尾をするということが、ここまでずっと描かれてきたものを高らかに謳いあげるのがすばらしい。ラストの蛍の乱舞の中、タッちゃんとエイコの抱擁する様子が次第に蛍のように光輝いていくのは、エロスという以外に言いようがない。春になってからの約1時間は、胸がジーンとなり放しで、小さいエピソードがどんどん二人を蛍を見る以外にない状況へ追い込んでいく。この作品は、沢山の小さいエピソードが全部伏線となってストーリー全体にからまっていて、それが生と死のテーマに繋がっていく、とても骨太の構造をもっています。それがこのラストで一気に花開く。たぶん、この作品は傑作でも名作でもない、けれど私には心に残る作品のひとつ。

 

2016年7月28日 (木)

中原俊監督『櫻の園』の感想

51uofwhx4nl 原作は吉田秋生のまんがで、高校の文化祭で『櫻の園』を上演する高校生たちの人間模様を描いたもの。まんがでは、主な4人の登場人物がそれぞれ主人公となった4編の連作短編集で、4人の視点で、この文化祭の一日が語られます。これを映画化したものですが、原作の吉田秋生独自の世界とも言うべき微妙でセンシティブな世界を、例えば、ネームの微妙さ、ダイアローグとモノローグが複雑に絡み合い、ときに双方が一緒になってしまってどちらともいえない話者の心情が読者の前に披瀝されるというのは、内面のモノローグと会話を区別しなければならないなど映画ではおそらく実現不可能です。
 原作を一度でも読んだことのある人であれば、映像となったこと自体に戸惑いは必至で、それに輪をかけるように、最初のシーンは思わせぶりなクレーンを使った移動撮影の長回しなど、余計にしか見えなかったり、したがって印象は、やたらうるさい、喧しい、というものでした。演劇部の高校生たちというモブシーンを前面に出したかったからなのか、整理のしかたが下手なせいか。(下手でわざとらしい演技もその原因。)演劇部員をそれぞれ描き分けようという意図は推察できるのですが、ストーリーの中では意味のない人物を思わせぶりにクローズアップしたりと、中途半端と言うしかなく、そのため最初は、メインの出演者である中島ひろ子演ずる志水由布子や白鳥康代演じる倉田知世子(この映画での倉田はハッキリ言っておまけ)、そしてつみきみほの演じる杉山紀子がその他大勢の中に埋没してしまっていました。原作のように櫻の園の高校生群像を毎回一人の人間をピックアップさせつつ描くことは、この映画では失敗か放棄されていたようです。セットはチャチで、カメラのアングルも落ち着かず、最初の30分などは散漫で、何をやっているのだか。ただ女の子がワーワー騒いでいるのを、そのままフィルムに定着させましたとしかいえないものでした。
 しかし、中島演じる志水さんとつみき演じる杉山さんが同じ画面に登場するようになると、俄然停滞していた映像が動き出します。それは、誰もいない演劇部の部室で、白鳥演じる倉田さんの着る衣装を志水さんが抱き締めているところに、杉山さんが表からはいってきてしまうところ。志水さんが倉田さんに想いを寄せていることを、杉山さんに見つかってしまいます。これ以前の志水さんは、まるで糸の切れた凧のように、あっちへフラフラこっちへフラフラと、存在感が稀薄で、科白も自らを出すというのでなくて、受け身で便宜的な会話に終始していました。ところが、彼女は一線を踏み出したということでしょうか、このシーンで先に「御免なさい」と言った杉山さんをたしなめるということをします。そして、それ以降の彼女の行動には明確な意志が通りはじめるのです。進路指導室で、屋上でアップをする際、彼女は、杉山さんに自己を開け広げるかのように話しはじます。「私ね…」と。そして、人知れず部室で想う人の衣装を抱き締めるだけであった彼女が、本番前で緊張している想い人をあれこれと励ますことになります。こころなしか、ずっと俯き加減だった彼女の姿勢は、段々と胸を張り、まっすぐ前を向き始めるように変わって行きます。その意味で、クライマックスは彼女が倉田さんと二人で写真を撮るシーンです。ここで、はじめて志水さんは中島は隠すようだった表情を満面にあらわすのです。映像は写真を撮っているカメラとダブり、固定した画面に二人が近寄ってくるのです。普通の映画であればカメラが演技者に近寄るのですが、ここでは逆に演技者二人がカメラに近寄ってきます。二人がカメラに向かって「もっと近く…」と寄ってくる。二人のこちらへ近寄ってくる直線的な動き。二人がこちらに近付くにつれて、二人の距離が近寄ります。二人の顔が大きくアップになってくるにつれて、二人の顔がくっついていく、それに従って志水さんの表情がどんどん豊かになって生き生きとしてくる。(それに比べて、このときの倉田さんはずっと生気がなくて残念。)ごくありふれた、直線的で単純な動きだったのですが、私はカシャッとシャッターを押したところで映画が終わってもいいと思う。それくらい、このシーンでの志水さんはドラマチックでした。
 最初に、まんがの繊細な世界を映像で再現するのは不可能と言いましたが、このシーンを以て原作のまんがとは全く別の世界をつくることに成功したと思います。まんがにはない二人の直接的な動きの雄弁さというか、この動きの中に、原作のネームから引用した科白を超える雄弁さが感じられました。志水さんは、髪にパーマをかけた理由を「目覚めたの」と言いながら(映画の最初の方でパーマをかけたことに周囲が理由をたずねるシーンがあります)、実は彼女は目覚めきれなかった。その逡巡が最初の頃の存在感のなさだった、それがこの時に分かります。原作では、彼女がパーマをかけるかどうか葛藤が描かれていて、それが彼女が「目覚める」ために決心するプロセスと、しかしパーマをかけても逡巡していることが掘り下げられているのです。それを、映画ではパーマをかけてしまったところから始めているのです。つまり、彼女が一線を踏み越えるところに焦点を絞り、そこにドラマを集約させました。その結果、原作が抒情的なら、映画の方は劇的さらには叙事的なものとなっている。
 しかし、ものがたりは、ここで終わらず、さらに続きます。実は写真の二人を、中島を背中で見ていた人がいたのです。杉山さんです。そう、杉山さんは志水さんの陰画のような存在として、志水さんが倉田さんを想うように、杉山さんは志水さんを想っているのです。彼女も志水さんと同様にこの公演に期するところがあったはずです。彼女は、そのために禁煙をしました。また、友人に志水さんと同じ舞台を踏むことを「あこがれの人が…」と話していました。しかし、二人の行動は全く逆で、志水さんが杉山さんには「私って…」と話すのに対して、杉山さんは「志水さんて…」と話しているのです。おそらく杉山さんは、志水さんが目覚めたのと、逆な表れではあっても目覚めていたと思います。それが「好き」と倉田さんに告白した志水さんの背後にあって陰影を与えることになりました。この映画の深さはこんなところにあるのです。死水さんたちが写真を撮っている陰で杉山さんは禁煙していた煙草を吸っている、ということなのです。そして、これ以降のシーンは杉山さんのためにあると言っても過言ではありません。ここに至って志水さんは科白らしい科白がなくなっていき、杉山さんの目に映る存在となっていきます。そして、ラストシーンでは、舞台に出ていく志水さんを舞台袖の暗がりで杉山さんが見守っている、ということになるわけです。ということは、実は杉山さんが想う、志水さんを間接的には映していることになるわけです。もしかしたら、志水さんは倉田さんに対して、杉山さんのように見守るだけという決断をしていたかもしれなかった。それはそれで、もうひとつの目覚めと言えるでしょう。しかし、志水さんは「好きです」と言ってしまいました。そのことで、杉山さんは黙って志水さんを見ることにしたとも思えます。そして、志水さんは、杉山さんが見守る中「行きます」と自らにとも倉田さんにともなく言うところで映画は終わります。 

蛇足かもしれませんが、細かいことで、火のメタファーについて。この映画で火というものが象徴的に使われていると思います。演劇部員の彼氏が忘れた煙草とライターを。まず、志水さんが拾います。彼女は火を点けることができませんでした。これは、「目覚めた」といいながら未だ目覚めきれていない彼女を象徴していると思います。そして、進路指導室で再度試みようとして、杉山さんに取り上げられてしまいます。その杉山さんも、登場前に喫煙で補導されて大騒ぎとなった事情があります。彼女はすでに火を点けていたわけです。そして、倉田さん。開演前の緊張を克服できない彼女は、公演が中止になればいいとうそぶき、火を点けるとは反対に、消防のベルを鳴らしてしまいます。彼女は結局最後まで、受け身の存在で終わってしまいます。一方、志水さんのパーマを見て気が付いてしまった杉山さんは、一度はライターを取り出す。しかし、実際に火を点けたのは、表で志水さんと倉田さんが二人で写真を撮っているときでした。火が付いていたのは、杉山さんと表にいた志水さん。映画の最後で舞台に出た志水さんは、火を点けるのではなく、ローソクの火を消すのです。最初、火をつけることすらできなかった彼女は、最後で易々と火を消してしまえたわけです。ここに至って火にシンボライズされたものを彼女は超越しえたと思います。杉山さんは、同様に火を自由にしえた、というわけです。

2016年1月11日 (月)

『戀戀風塵』の感想

お正月の時間に、DVDを借りて見た映画。

台湾の侯孝賢の1987年監督作品。山中を縫うように、小さなトンネルを何度もくぐるローカル線の鉄道の車中で、並んで吊革につかまる少年と少女から物語は始まる。少年は学校の卒業と同時に台北に出て、働きながら夜間高校に通う。少女は、その後卒業を待って、後を追うように台北に出る。台北で働く2人は、強い絆で結ばれ、お互いに助け合いながら、お盆の里帰りを何よりも楽しみにしていた。やがて時がたち、お互いを意識し始めた2人だったが、少年は兵役につくことになる。少女は少年にたくさんの手紙を書く、彼も手紙を楽しみに待ち、返事をするが……。

このような粗筋を書くと、幼馴染の男女が恋心を抱く青春の淡い初恋と、そのほろ苦さということになってしまうのだけれど、引き気味のカメラアングルは若い二人を突き放すように遠目に映すので、細かな顔の表情をうかがわせることはない。空間の広がりのなかで二人の姿を捉える。カメラはずっと固定で、移動やパンのようなケレンは交えず、ほとんど常に正面から二人の姿を同じ画面の中に収める。しかも、二人は恋人同士が向き合うという位置関係でなく、志を同じくする同志のように同じ方向を向いて横に並ぶ位置関係でいることがほとんど。二人が向き合うときは、テーブルをはさんだり、窓ごしであったり、間に介在物をはさんでという。サイレント映画のような映像に語らせるところで、説明的になることなく、二人の(心理的あるいは物理的、社会的)距離を見せているので、沢山の表現がされているにも関わらず淡々とした、端正な印象を与える。二人の距離が一気に縮まるように各々の姿を正面から映す切り返しショットで向かい合うよう場面は、少年がオートバイを盗まれる直前と、病に倒れた時という不穏さと同居していて、このあとの不吉さを仄めかす。他にも、雲とか靄とか煙のようなたゆとうものの扱いもそう。たとえば、冒頭の緑の木々は心なしか微かな靄につつまれているようだし、少年の乗るオートバイが別れを告げた印刷工場の玄関口に残す排気煙、多くの人が吸う煙草の煙、線香や冥銭を燃やす煙、それらは風塵として画面に刻まれていく。中でも強い印象を残すのは少年が兵役に就くために駅に向かうのを見送る祖父が鳴らし続ける爆竹の白煙。少女が働く仕立て屋を少年が尋ねた時に隣が火事になる不穏な煙は、最後の雲を仄めかす。やがてカメラは再び上空の雲を捉える。少年が軍務に服する金門の林の梢を一面蔽う、その雲だ。少女の結婚を知り慟哭する少年をじっと見据えたのちに映し出されるこの雲は、それまで描かれてきたそれらとは明らかに違う様相を呈している。それはあたかも永遠に時を止めたかのように、重苦しくそこに停滞している。だが真に驚くのは次の瞬間だ。この不動の雲を捉えたカメラはやがて、カメラのほうが、横滑りに動いていくのだ。悲しみと悔恨で一処に滞り続ける彼の痛みを、まるでそっと押し流すように。単なる横移動に過ぎないこのオーソドックスなカメラワークなのだけれど、この移動は、それまでの固定していた画面を破り、見るものに大きな衝撃を与える。ラスト、分厚い雲間から洩れる陽光が山あいをゆっくりと移動しながら照らしていく。再び流れはじめたその雲と同じ速度で人物のセリフで口にしたり、感情をあらわにしたり、ストーリーでそれらしい決着をつけるわけでもない。しかし、この見る者を切なくゆさぶるのは、どうしてなのだろうか

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