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映画・テレビ

2024年5月19日 (日)

岡本喜八監督の映画「日本のいちばん長い日」

11115  この映画の制作は1967年で白黒の映画は珍しかったと思う。カラー作品が普通の常識からは、白黒は単に色がないとか、古臭いと見えるかもしれないが、白黒だから見えてくるものがある。例えば、白黒の小津安二郎や成瀬巳喜男の映画で印象的な光は、カラーフィルムでは見ることができない。この作品では、例えば汗だ。湧いてくる汗の粒が頬につくる陰や夏用の軍服に汗が染みて黒く映ったり、このメリハリは白黒ならでは。汗は熱さ、それは8月15日という夏の日の暑さであり、終戦の詔勅という熱い日、関係する人々の緊張や疲労の汗(冷汗)だ。この映画は、そういう暑さ(熱さ)を映し出している。
 この映画は、ポツダム宣言の受諾、それを国民に知らしめる玉音放送とそれを阻止しようとする陸軍青年将校による叛乱の一日を描いた。前半は内閣による閣議や天皇が出席した御前会議などポツダム宣言を受諾するか否かの議論が延々と続く。会議の動きのない場面をひとつの台詞が終わるや否やかぶせるように発される台詞。矢継ぎ早なカット構成があったかと思えば、息が詰まるほどの静寂を画面に焼き付けたり、そのテンポ、間が見事で、終戦の詔勅の文言をめぐって、山村聡演じる米内海相と三船敏郎演じる阿南陸相が激論を交わす。互いに戦死者や戦地に残る兵士を思い主張を譲らない様子をカットバックを繰り返すことで、見る者の視線の運動を促す。それに加えて、議論の応酬を鈴木貫太郎首相が脇で眺めている姿を垣間見せて、その熱さを見ている者に冷や水を差す。それは客観的な視線であり、戦争を終わらせられない体たらくを見る視線でもある。議論がまとまり、詔勅に大臣たちが署名するシーンには、児玉飛行場でこれから出撃を待つ特攻隊に愛国婦人会の襷をかけたおばさんたちが日の丸を振って「若鷲の歌」を歌うシーンが重なる。この飛行場のシーンは映画で3回出てくるが、次に出てくるのは、天皇が詔勅を読んで玉音放送の録音をする場面に重なる。天皇が「ここに忠良なる臣民に…」と読み上げる声に、出撃する飛行機のエンジン音が重なる。三度目には、ラスト近く、玉音放送がラジオから流れる場面の一つで、飛行機が飛び立った後の飛行場で特攻隊員の出撃で飲んだ杯が片付けられないまま人々が整列して放送を聞いている。前半の会議が静なら、後半は一転して活劇になる。若手将校が近衛連隊で反乱を起こす。これまでの冷めた視線の存在が、この反乱を起こす将校たちが狂気じみて見えてくる。映画は、オールスター総出演の戦争活劇であり、ことさらに告発や教訓めいたメッセージは発せられない。2時間半が、あっという間に感じられる娯楽映画だが、熱く迫るものがある。

 

2023年4月10日 (月)

ピーター・ウィーアー監督「刑事ジョン・ブック」

11113_20230410204201  この映画の粗筋とか、アーミッシュの村を舞台にしているというような特徴は、宣伝惹句やそこかしこでのコメントで散々言われているので、先刻承知という方は多いのではないか。で、そのことは、これ以上触れない。では、この映画について何を語るか。
 この映画は視線によって語られるものがたりということ、とくに事件の目撃者であるサミュエルという少年の視線に立たないと、犯人が見つからないし、話が進まない。それは冒頭のシーンから分かる。アーミッシュの人々が集まり並んで、画面のこちらを見つめている目が映し出される。
 また、視線のやり取りは母子が列車に乗って、車窓から少年が空に浮かぶ気球を見上げて手を振ると、切り返して宙(の気球)から列車を見返す。あるいは、乗換のターミナル駅で少年は同じ目線の少女と視線を交わし、ロビーの女神像を見上げると次は逆に少年を見返す。このように、最初の数シーンで、この映画が視線のドラマであることをあきらかにしている。
 その後で、少年は駅のトイレで殺人の場面に遭遇するのだが、そこでは少年が見つめる目だけがあって、応える視線はない。だから少年は犯人に見つからずにすむ。それは、犯人は少年の眼線の高さまで、自分の目線を下げないから視線が交錯しないからといえる。その後、事件となり少年と目線を落として話をするのがハリソン・フォード扮する刑事ジョン・ブックだった。そして、警察署内で人々が少年に好奇の視線を送るなかで、少年はさまよい表象棚の犯人の写真が掲載された新聞に行き着く。警察署のなかで、少年の視線に応え、少年と同じ目線の高さになることができたのはジョン・ブックだけで、だから彼は少年が警察署の壁に貼ってあった写真に気がつき事件の犯人を行き着くに至るのだ。これらは、言葉を介することなく、視線のやりとりでドラマが形作られる。
 また、ジョン・ブックと少年の母親レイチェルとの間に生まれる愛の、それぞれの視線で表現される。さらに、アーミッシュの村に母子がもどり、ジョン・ブックが村に入り込むと、彼らをとりまく人々のかわす視線は、村人が総出で共同の納屋をつくるシーンで最高潮に達する。材木とロープで骨組みを組むのにジョン・ブックや村の男たちが攀じ登り、ロープや材木や釘あるいは道具を手から手へと手渡しで渡っていく、それにつれて家が形づくられていく、それだけでなく一息入れるレモネードも手渡しで伝えられる。その手渡しと同時に人から人へと交わされる視線が、ジョン・ブックを見上げるレイチェルの視線と、応えるブックの視線、そのやり取りを見つめる村人でレイチェルにほのかに思いを寄せるダニエルの視線が、それらが交錯し、行き違い、重なるさまは、まるでオーケストラの交響曲のようでもある。その視線が、それぞれの人々の思いのせて、そのなかで、ブックは村人に受け容れられ、ブック自身もレイチェルへの思いを募らせていく。ダニエルとブックの間に友情の萌芽が芽生える。それが、この映画のクライマックスであり、この抒情的な風景とアクションは、何度みても新たな発見があるし、映画的興奮を何度も誘う。

 

2022年3月21日 (月)

塩田明彦監督の映画「黄泉がえり」の感想

11113_20220321200901  九州、阿蘇地方のとある地域で死者が次々とそのときの姿でよみがえるという不思議な現象が発生。厚生労働省に勤務する川田(草彅剛)は、故郷でもある現地に向かい、死んだ親友、俊介の恋人だった葵(竹内結子)と再会、調査を開始。最初はSFかホラー映画のような感じで、客観的を装うロングショットを多用し、死者が帰ってくるエピソードを川田が調査していく形で淡々と描写する。それが、後半、葵が死者のよみがえり(映画の最初のところで、恋人の死から立ち直れない彼女がカウンセリングを受け、その帰り道で友人の運転する自動車に便乗する場面が、さりげなく挿入されている。映画の中頃で、その車が崖から転落してペチャンコになったのを警察が発見するシーンがある)だったことが分かる。それは、川田が現地に調査で訪れ、彼女との再会を強く望んだことで、彼女のよみがえりを無意識のうちに思ったためであることに、川田が気づく。それを機に川田は現象の観察者という立場から、当事者に変わるのだ。それとともに画面は、ロングショットからミディアムやバストショットという視線が近くに寄ったり、画面が動き始める。つまり、客観的に見ていられなくなり、参加する視線に変わるということ。それは、実は川田という登場人物だけでなく、映画を見ている観客にも、変化を促すようでもある。映画の観客は画面とは距離をおいて、映画の中で起こっていることとは無関係に、映画館の快適な椅子に座って、ポップコーンを頬張りながらスクリーンを見ている。映画とはそうして楽しむものだが、この映画は、そうではなくて画面に参加しにいらっしゃいと誘っている。そういうことを意図的に試してみることで、映画を見るといは、どういうことかを、さりげなく問いかけていると思う。そういう意味で、とても興味深い映画だとおもう。ちなみに、よみがえりの現象の種明かしのようなことは一切明かされない。

2021年6月10日 (木)

鈴木卓爾監督の映画「嵐電」の感想

11112_20210610210001  ストーリーや概要を記すことは難しい。というかほとんど意味がない。だって明確な起承転結はないんだから、一昨日の分かり易さを第一とする人々には、見る対象に入ってこない作品だと思う。一応、中年、若い大人、高校生の3つの恋の話があることはあるが、一筋縄に進まず、行きつ戻りつする。そのうちに過去と現在の区別がつかなくなり、その繰り返しに巻き込まれているうちに、いつの間にか未来に来ていることに気付く。というより、現実に幻想が交錯する。その特異な空間にいきなりきしみ音を立てながら侵入してくる嵐電の車両。まさに映画的空間、そして疾走する路面電車のアクション。実際のところ、電車に乗ったら、そこには乗り合わせた人々の人生の断片が飛び交っているんだよね。それらが、この映画では、見る者に語りだす。要は、それに耳を傾けるかどうかなのだ。実は、それこそが、似たような映像メディアでもテレビドラマやアニメとは違う、映画の醍醐味なんだが。

2021年1月 4日 (月)

城定秀夫監督の映画『アルプススタンドのはしの方』の感想

11112_20210104195801 高校演劇大会でグランプリをとった原作を見て感心したことがあったので、試しに見てみた。あまりにワンショット・シチュエィションの舞台演劇的な作品だったので、これは映画にはならないだろうと、たいして期待していななかったが、その期待をいい意味で裏切られた佳品で、思わぬ収穫だった。
 舞台はタイトルの通り高校野球の応援席の端っこの目だだぬところで4人の生徒。そんなところで観戦しているような生徒だから、熱心な応援をするわけでもない。二人の演劇部女子。当然、野球に関する知識も興味もゼロ。犠牲フライも知らなければ、グラウンド整備も知らない。そこに元野球部の男子生徒が加わり、その三人を少し離れて優等生の委員長が見ている。最初は、二人の女子に男子が野球を教える頓珍漢な会話がギャグとなって笑いを誘う。そんな演劇部の女子ふたりが、はじめは興味のなかった野球に徐々に肩入れしていく様子が、高校湯球の熱さに引き込まれていく様子が、観客の感情移入を誘う。
 高校に入れば、自分より才能があって、輝いている人にいくらでも遭遇する。今まさにマウンドに立っている「園田くん」もそのひとり。でも、その「園田くん」でさえ強豪である対戦校の「松永くん」にはかなわない。そんな構図と、去年の近畿大会をインフルエンザで棄権した演劇部女子のやりきれなさが、徐々に重なり合ってくる。そして、「園田くん」に勝てない負い目から野球部を辞めた彼は、今、ここにいる。一方、どんなに才能がなくても決して諦めなかった「矢野くん」は、ついに試合の終盤で初めて出場のチャンスを掴んだ。ただし、園田くんも矢野くんも画面には登場しない。
 一方、トップであることが存在価値のように思っていた委員長は、テストで失敗し順位を下げて失意にいた。
 諦めた人と、諦めなかった人。
 スポットライトを浴びる人と、アルプススタンドのはじの方でそれをただ見ている4人。
 「矢野くん」は送りバントを指示されて…
 何者にでもなれると夢見るには、もういろんなことを知りはじめて、でも「しょうがない」とすべてを諦められるほどまだ老成してはいない。その4人の中途半端さのリアルさが、大袈裟な誇張もなく、坦々と演じられるのだが、目が離せなくなって、
 甲子園を舞台にした映画なのに野球の場面が全くなくて、観客席の端の場面だけで展開する。その限定された場面で豊かな映画的な動きや映画的空間が、感動を生んでいく。例えば、4人の登場人物の座り位置、立ち位置を彼らの感情のフェーズが変わる度に入れ替え、画面内で出し入れし、最初はバラバラで、通路を挟んで遠慮がちに座っていたりする。それが、感情がひとつひと通って近づいていくたびに、位置がひとつずつ近づいていく。それがクライマックスでは一列に並ばせ、4人が感情を爆発させ、そこで「しょうがない」というあきらめで嵌めていた箍をぶち破る。

2020年6月18日 (木)

アンソニー・マン監督の映画『グレン・ミラー物語』の感想

1111  周防正行の「Shall we ダンス?」でダンスホールを俯瞰で撮ったシーンは、「王様と私」ではなく、この映画へのオマージュであると一人信じている。それ監督のアンソニー・マンの個性とも言えるは縦の構図と、ホールでダンスをしている人々の動きに躍動感がなくてマスゲームのように機械的に統制されていたところが、そっくりだったから。この映画は、音楽家の伝記と夫婦愛の物語なんだが、変なところが、やたら目につく映画だった。グレン・ミラーが軍隊に志願して閲兵式の軍楽隊の指揮をするシーンで、行進する軍隊の制服の色が常識では考えられないほど色とりどりだったり。あっ、さっきのダンスホールのシーンでもダンスしている人々の服の色が不自然なほど揃っていたり。それが、スイングといいながら、全然グルーヴしないグレン・ミラーの音楽を映像の雰囲気で表わしてしまった、そういう作品だったと思う。
 極めつけは、映画の最後、グレン・ミラーの乗った飛行機が行方不明になって、彼の残した録音がラジオから流れて、それを聞く妻役のジューン・アリスンが夫を失った悲しみを乗り越える姿を映していることで、最後はグレン・ミラーではなくて、グレン・ミラーの妻の映画にしてしまった。そういう、細部にたくさんの見所があり、それらがサイドストーリとしてスピンアウトして、物語がひろがっていく映画だった。

 

2020年3月29日 (日)

リリアーナ・カヴァーニ監督の映画「愛の嵐」の感想

111_20200329210401  ウィーンのホテルの初老のフロント係の男性と有名な指揮者の妻となった女性が偶然再会する。女性はユダヤ人で第二次世界大戦の際に強制収容所に入れられ、救出された過去をもつ。男性は、その収容所にいた親衛隊の将校で、未だ少女であった彼女を弄んだのだった。男は、その罪を逃れるため、隠れた生活を続けていた。それが過去を知る彼女と出遭ったことで、周辺が慌ただしくなる。その結果、二人は、ホテルの部屋に閉じ込められることになる。極限的な状況で二人は、かつても倒錯的な関係を甦らせる。主演女優のシャーロット・ランブリングが若作りして十代の少女になりきって、上半身をサスペンダーだけで隠したヌード姿で、ストリップを踊ったり、鞭で打たれたりするシーンが話題になった映画。
作品としてみれば、ユダヤ人の迫害とか、ドイツの戦争犯罪とか尤もらしいゴタクを並べて格好をつけているが、内容は単なるポルノだろうと、監督のリリアーナ・カヴァーニは好きではない。しかし、閉じ込められた中で、食物が底を突き飢えに苦しむ二人の、男性が冷蔵庫に食べ残しのジャムを見つけて舐める。それを女性がみつけると、男性は舐めつくした後、それで、男性に口づけして舌を差し込み、男性の口中のジャムを奪おうとする。愛の行為である口づけが生存をかけた戦いになる。その時の女性のジャムを口のまわりにつけて、まるで口紅のようになって、獣のような顔つきをしていた、そのシャーロット・ランブリングを見るだけで、この映画の価値がある。ちなみに、男を演じていたのはダーク・ボガード。ビスコンティやベルトリッチなどのヨーロッパ系の監督の作品ではお馴染みの男優。

 

2019年9月16日 (月)

小津安二郎監督の映画「浮草」の感想

11111_20190916204101 松竹映画所属の小津安二郎が大映に出向いて制作した作品。普段の気心の知れたスタッフではなく、勝手の違う大映のスタッフと他流試合のような共同作業。それで、他の作品の隙のない完璧な仕上がりでは見えてこないものが垣間見える。キャメラが名匠宮川一夫ということもあり、旅芸人の一座が拠点とする劇場が高台を仰ぎ見る縦構図で奥行をもってとられていたり、一座のお披露目のパレードを縦構図の俯瞰で撮ったりと普段の小津作品では見られない画面。そこに映り込んでいるのは奥行と動き。宮川のキャメラは小津独特のローアングルの固定ショットも、微妙な距離感が違う。大映の俳優たちも、その距離感で演じると、生々しさが残る。小津独特のオウム返しのようなセリフのやり取りが、表面的な言葉の響きにとどまらず、実質、つまり意味を含んでしまうようなのだ。だから、いつものドライでスタイリッシュな映像とは違って、どこかジメっとした重さを含んでいる。それゆえに、小津作品では珍しい土砂降りの雨が降り、京マチ子と中村鴈治郎は感情を露わに怒鳴り合う。まるで画面の奥行が映り込んでしまったのと同じように、人間の奥の感情が表に出てしまった。それは、他の作品で隠され、スタイリッシュな映像では慎重に秘匿され、わずかに仄めかされていたものが、この作品では、隠しきれず噴出してしまったかのよう。
 旅芸人の一座という舞台設定も、意味深で、劇場の舞台は普段の小津作品の作品で演じられているもので、その舞台裏、つまり、この作品のドラマは、その画面の背後に隠された奥行が、この映画のドラマとなっている。つまり、小津の映画の構造そのものがドラマのプロセスとなっている、小津自身が自分の映画をメタレベルでドラマにしているのではないかと思われるような作品。

 

2019年5月31日 (金)

アンソニー・マン監督、ジェームス・スチュアート主演の映画「怒りの河」の感想

111111_2 新天地を求めた農民を乗せた幌馬車隊。ジェームス・スチュワート演じる主人公は、その一行の道案内と護衛で、彼はかつて無法者であり、縛り首になりかけたことがある(彼の首には、その縄の痕跡がスカーフによって隠されていた)。彼は改心し、移住する農民たちを助け、彼らと共に新しい生活を目指そうとしていた。その途中で、かつての自分と同じように縛り首にされようとする男を発見し、助けてやる。この男はいったんは主人公と共に農民を助けるが、後に主人公を裏切り、農民たちに届けるべき越冬の食料を略奪、馬も銃も奪われた主人公は彼を追跡する。
 実は、この男はほとんど主人公の分身、さらには主人公そのものといってよいような性質のものである。少なくとも主人公にとって克服すべき過去の自己であり、それを抹殺することが、今の自分の存立を保障するような存在としてある。だから二人の対決は、互いに対峙して撃ち合うのではなく、どちらがどちらとも分からないような取っ組み合いになる。二人が最終的に対決するのは急流の中だ。主人公の分身的存在、力尽き、流されていく。主人公は、投げられた縄をつかみ、ゆっくりと岸辺に辿り着く。常時身につけていたスカーフが流され、首の傷があらわになっている。主人公を助けたのは、かつて縛り首で彼の命を奪おうとした縄だ。
 典型的な西部劇は悪い敵と対決するものだが、現実に裏切り者と対決するここで対決するのは主人公自らの過去でもある。彼の内面の葛藤そのものは見えないが、言葉の端々や、主人公の肉体の痕跡、彼が陥る悪夢、常に何かに追われているかのような異常なまでの切迫感などにあらわれている。この物語が主人の内面のドラマと裏返しになっている。

2019年5月 7日 (火)

フリッツ・ラング監督の映画「死刑執行人もまた死す」の感想

 111111_1 第二次世界大戦、ナチス・ドイツ占領下のプラハで「死刑執行人」の異名を持つ占領副総督ハイドリヒの暗殺事件があったのは史実。それを題材に、その戦争が終わらないうちに、ドイツ系亡命者のブレヒトが脚本を書き、ハンス・アイラーが音楽を、フリッツ・ラングが監督をした作品。それだけが理由ではないが、全編異様な緊張感が張りつめている。その展開に、ポケッとしていると置いてきぼりにされてしまう。説明的な描写を削ぎ落としたソリッドな映像は、禁欲的な美しさを湛えている。例えば、ゲシュタポに逮捕された老父とヒロインが面会するシーンは、ヒロインが待つ無機的な狭い室内に、ドアが開いて光が差し込み老父が入ってくると、その光と影のコントラストにより老父が処刑前であることを暗示させる。それで話は進んでいくが、それについての余計な説明は一切ない。それが、残された家族のやるせなさと、その家族もも同じ運命をたどるかもしれない恐怖が残ってしまう。そういうのが、最後までつづく。監督のフリッツ・ラングは見る者に全体像を明かすことをしないで、主要な登場人物の視点で画面をつくり、それぞれの視点で物語は進行するのだが、そのうちの一人の視点の映像だけを見せて(その同じ時に他の人物の視点で起きていることは見せない)、その断片を一本に繋いでいくと、観衆には見ているストーリーが途中で飛んでしまうような印象で、見る者に緊張を強いる、臨場感が半端じゃない。それが、映像そのものが緊張感を生んでいる。
 まるで抜き身の真剣のような美しさを湛えた作品だと思う。