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書籍・雑誌

2018年5月17日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス─理性と神秘」

 山本芳久「トマス・アクィナス─理性と神秘」を読んだ。
 私の受けた歴史教育ではヨーロッパの中世とは暗黒の時代で、その時代の哲学は煩瑣で非科学的という先入観を植え付けられてしまった。しかし、スコラ哲学や神学の議論に触れてみると、哲学者同士で哲学バトルをやっているし、毛現代の哲学の課題のすべてはここで生まれていた。その中でアクイーノの聖トマス、つまりトマスアクィナスは中世ヨーロッパのスコラ哲学の大成者。フランチェスコ会のボンヴェントラ、オリヴィー、ウィリアム・オッカムのような過激に突出した人々に対して、ドミニコ会のトマスは中道の大家だと著者は言う。例えば、忘れられていたアリストテレスがアラビアから逆輸入された時に、保守派は拒絶し、急進派は盲目的に従うの間の中道のトマスは、アリストテレスのテクストに密着して、その理性的な方法論を援用してキリスト教神学を読み直していった。保守も急進も、大層なことを言うが、現状に手をつけないのに比べて、どっちがラディカル(根源的=過激)か・・・。
 今、宗教を信じるということは科学と対立する不合理な受け取られ方をしているが、その端緒はマルティン・ルターであって、トマスの中道的な行き方は科学的な理性と信仰を対立するものでない。「神」と呼ばれる絶対的な何ものかが存在するとしたら、それは原理的に人間理性による把握を超えているはずだから理性によって探求しても意味がない、とトマスは考えない。だからといって逆に、人間理性によって「神」を理解し尽くすことができるとも考えない。すべてを把握できるはずという傲慢からも、何も理解できるはずがないという諦めからも解放されて、理性は、理性を超えたものとの出会いにおいて、その無力さを露わにするのではなく、むしろ、その本領を発揮する。自らの力を超えたものを理解すべく格闘するなかで、自らが、思いがけないほどの豊かな力を有していることをあらためて自覚していくことができる。そのような格闘こそが、トマスの驚異的な知的達成の原動力があった。と著者は紹介する。
 かなり魅力的にトマスを紹介する。しかし、と私は思う。そういう信仰と理性の捉え方をしているなら、「神」がなくてもやっていけるのではないか、と思う。日本的な発想かもしれないが、「そんなもんじゃないの」とか「しかたない」と語ると、ここで言っている「神」をこれらに置き換えることができてしまう。
 日本語の「信じる」とヨーロッパ系の言語の「believe」の内容は違うのではないかと思います。例えば、信頼と信用と信仰は意味が違いますが、これらをまとめて「believe」です。自然科学の法則、例えば惑星の軌道がいままではそうだったからといって、これからもそうだということの理由はありません。だから、今までもそうだから、これからもそうなるというのは信じている。そういうベースがあって探求する、理性が働く。聖トマスの信仰論にはそういう論述があるそうです。
 しかし、日本語では、それを信じるとは、おそらく言わない。「そんなもんだ」というような諦念にも似た言い方をしているのではないか。存在もそうです。妄言でしょうか。

2018年5月11日 (金)

古田亮「日本画とは何だったのか 近代日本画史論」

 明治維新の時点で「日本」という実体はなかった。例えば「日本語」という統一的なものは存在せず、そういう意識なかった。あったのは地域のローカルな言葉のみで、上級武士、つまり江戸の留守居役たちが情報交換や意思疎通をするために作られたことば、あるいは吉原という遊郭でどの地方からのものも客を受け入れるための廓言葉という人工言語、あるいは軍隊では長州の奇兵隊がベースになっていたため長州弁を(~であります)軍隊言葉としたとか、あった。それを、対欧米だけでなく植民地支配の必要性もあって「国語」をつくっていったのが、1900年頃。
 日本画も同じようなもので、もともと日本画はなかった。それは、ヨーロッパから芸術としての絵画が入って来て、それに対して、日本にはそういうものがないのか、ということに対抗して考えられたもの。そこには明治国家のアイデンティティと、明治初期の美術工芸品の輸出により外貨獲得を目論むために世界標準に適合させようとすることから、日露戦争後は欧米と芸術でも対等であるいう国威発揚と国民国家の確立を目論む、そのために日本オリジナルで世界標準のレベルとして日本画を人為的に確立していった。その端緒の思想をつくったのが岡倉天心とフェロノサといった人々で、フェロノサの好みによって、その日本画から浮世絵は工芸であるとして排除され、若冲や暁斎のような個性的な画家も外されてしまったという。
 幕末の日本にイギリスから駐日総領事として赴任したオールコックは日本には絵画は存在しないとして次のように言う。“<絵のような美しさ>を描こうとする傾向が顕著であるがために、かえって<絵そのもの>に至ることがほとんどない。つまり日本人は絵画を生み出すことがないのだ。”流行していた北斎や広重の浮世絵版画や掛軸も絵巻も屏風も絵画には当たらない、それは工芸品とかデザインを中心とした装飾品として受け容れられた。万国博に出品された日本画は油絵と並べられると誰が見ても見劣りがした。色の鮮やかさ、重厚さという入り口で全然違った。額装と掛軸という展示方法を比べただけで違ったという。
そこで、日本画の額装を試してみると絵が額に負けてしまう。そこで、額に負けない絵として見つかったのが、尾形光琳などの琳派の絵で、日本の絵では珍しい原色に近い鮮やかな色を厚くベタ塗りして隙間がないものだった。しかし、それ以外の日本の絵がそうでなかったのは理由があった。日本の家屋には重厚で広い壁がない。額装され分厚く絵具で彩色された重厚な絵画を掛ける場所がない。かりにあったとしても絵画の主張が強すぎて浮いてしまう。日本の家屋に釣り合うのは狭い床の間の一部のように当てはまってしまう家具のような掛軸だった。つまり、絵画というのは欧米の独特な住空間だからこそ生まれた産物であった。これに対して近代の日本は住空間も激変し、それに旧来の絵(掛軸や襖絵など)は適合できなくなった。そこで新たな住空間に適合する絵が模索された。それが近代の日本画という考え方もある。しかし、戦後の団地に典型的な住空間は絵を飾る余裕が失われていき、日本画が生きる場をなくしてしまうことになっていった。
 著者はそういう意味で、植民地でうまれたクレオールという概念が日本画の性格に当てはまるという。音楽でいうとジャズがそういう性格のもので西欧のクラシック音楽と黒人音楽がまざって、それらとはまったく違った独自のものができた。日本画も、同じように狩野派や土佐派のようなやまと絵とは違う、浮世絵でもない、文人画でもない、しかし西洋の絵画とも違う独自なものをつくってしまった。しかし、ジャズが今、かつての巨人たちが亡くなって形骸化していったのと同じように、日本画も体現していた画家たちが故人となって滅んでしまった。今あるのは、パロディか新しいアートだという。
 それは、日本画だけでなく、音楽でも演劇でも文学でも当てはまる、芸術であれば欧米には普遍的な価値があって、常にそこに立ち帰るものとして古典というものがある(ギリシャ・ローマがそう。その古典を復興するというのがルネサンスだった)。しかし、日本にはそういうものがない。だから、日本画で、たかだか100年前の横山大観が古典として扱われてしまうことがあり得るということだ。本質的には、それだけバラバラであるというのが、しいて言えば、この国の文化の特徴と言えるかもしれない。
 これらを総括して著者は次のように言う。“個物は種を否定するのでなければならない。個物は自由でなければならない。併し又種を離れて個物はない、種を否定することは個物自身の死である。故に種は個物の種、個物は種の個物として、矛盾的自己同一として種的生命と云ふものがあるのである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、形が形自身を限定すると云ふことができる。種とは自己自身を形成する形である。そこに作ることであり、生まれることが死することである。” という西田幾多郎の「矛盾的自己同一」。これを『日本画とは何だっのか』の著者は日本画に置き換える。すなわち、“画家は日本画を否定するものでなければならない。画家は自由でなければならない。しかしまた日本画を離れて画家はない、日本画を否定することは画家自身の死である。故に日本画は画家あっての日本画、画家は日本画あっての画家として、矛盾的自己同一として日本画的生命というものがあるのである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、形が形自身を限定すると言うことができる。日本画とは自己自身を形成する形である。そこに作ることが作られることであり、生まれることが死することである。”これはサラリーマンと会社とのありかたにも通じるのではないかと思う。

2018年4月26日 (木)

與那覇潤「知性は死なない 平成の鬱をこえて」

 “世界秩序の転換点でもある平成という時代に、どうして「知性」は社会を変えられず、むしろないがしろにされ敗北していったのか。精神病という、まさに知性そのものをむしばむ病気とつきあいながら、私なりにその理由を、かつての自分自身にたいする批判をふくめて探った記録。”と著者自身が語っているが、書き下ろしの体裁になっているけれど、一貫性が感じられず、自身の罹患のことを語ったものと反知性主義が蔓延している状態について語ったことの二本立てで、小文を連発したのを集めたエッセイ集として読んだ。
 著者は「知性」の立場、端的に言うと、身体と理性の二元論的な立場で感情などは身体に起因するものであるのに対して、理性に起因する論理で言葉を組み立てるということ。それを思想として堅持するのであれば、行動にも反映しなければならないのではないか、という倫理的な立場。言ってみれば知行合一。例えば、嫌韓や反中が盛り上がった風潮のなかで、相手の国の言っていること自体は内容的に、リベラルと言われる人々がずっと主張してきたことと重なるわけで、その人々が、韓国や中国の主張に関して「反日を感情的に煽って政治に利用するのは問題だが、言っている内容は正しい。いきりたつ日本人こそ戦前の反省が足りない」というような敢然と筋を通す人が、なぜ出てこなかったのか。反知性主義が蔓延しているということについては、知性が衰えて感情とか身体に起因ものが優勢になったという二元論でとらえるのではなく、そういう分類は物事をストックとして捉えているものだという。そうでなくてフローとして捉えるべきだはないかという。それは、例えば知性の立場ではこういう考えだという、どう考えるかという道筋ではなくて、こういう考えというラベルで知性か感情という分類をしてしまっている。こういう主張は保守とかリベラルという固定化させてしまっていることだ。
 それが端的にあらわれているのが、マルクスの解釈だ。共産主義というと私有財産をなくしてみんなが平等になるというように一般的に理解さされている。しかし、マルクスは金持ちと貧乏人の対立ということは言っていない。彼が言っているのは資本家と労働者だ。お金もちと資本家とは違う。資本とは、お金が投資されて事業を作り出すようなものなったものだ。現ナマが箪笥のなかでへそくりとしてしまわれているのは、いくら大金でも資本ではない。マルクスは、そのお金ではなく資本を対象とした。事業を生み出す資本というのは、公共的な性格が強い。だから社会共有のものとして流通させるべきではないのか。それがマルクスの考え方ではないかという。それでは、むしろ資本主義を純粋化させるような考え方ではないかということになる。そうだとすれば、著者のいうフローとして捉えるということは、たいへんな困難を伴うが、自分で考えろということに収斂することになると思う。それだけ自分で考えていない人が多いということだ。耳が痛い。

2018年4月14日 (土)

佐々木俊尚「広く弱くつながって生きる」

 “従来の人間関係は会社や学校、家族の中だけで形成される濃く、狭く、強いものだった。しかし、終身雇用制度が危うくなり、リストラが起き、人口が減り、家族形態が変わってきたことで、働き方や暮らし方が多様化した今、人間関係で消耗しているのは勿体無い! リーマンショックと東日本大震災を契機に、人とのつながり方を変えたことによって、組織特有の面倒臭さがなくなり、世代を超えて友達ができ、小さい仕事が沢山舞い込むようになった著者。そのコツは、浅く広くつながることだった。息苦しさから解放される、現代の人間関係の提言書。”という惹句は、上から目線の説教だったり、安易なハウツーの気休めに思われがちだが、著者は自身が実践している現場の報告として、こういうのもあり、という書き方をしているので、それなりに納得できる。
 長年の会社勤めで築いた人脈は、実は会社の取引によるもので、リタイアしてしまえば、一夜にして崩れてしまう。一方、地域のコミュニティは崩壊しつつある。そこで縁を頼って仕事をことなどは期待できない(往々にして、終身雇用制の会社勤めをしていた人は、このことに気づかず、定年後に、こういう縁に期待しがち。実際にそれができるのは、ほんの一握りの突出した専門能力や実績のある人に限られる)。そうなったところでは、趣味でも、ボランティア活動でも、ちょっとした関係、言ってみれば弱いつながりを、ひとつではなく、いくつもつくっていくという関係のあり方を提案する。その時にものをいうのは、会社員の実績でも能力でもなく、“いい人”であるということ。ただし、この“いい人”であるには、会社員にとっては、ほとんどの人は変わらなければならないだろう。書き方はやさしいが、これは実は厳しい、たいへんなことだと思う。
 少なくとも、終身雇用制のもとで長年にわたり会社を勤め上げたという人が、定年でリタイアしたら、もはや、生き方を変えていかなければ、その後に残された長い人生を台無しにしてしまうという厳しい現実を突きつけられていることが、その言外にある。優しい書き方をしているが、私にとっては厳しい、つらい本でもある。

2018年2月26日 (月)

高山真「羽生結弦は助走をしない」

 高山真「羽生結弦は助走をしない」を読んだ。
 フィギアスケートのフィギアとは人形ではなく、図形のことで、このスポーツはもともと氷の上に図形を描くもの。私の年齢であれば、カルガリーオリンピックのころまではコンパルソリーといって、正確にスケートの軌跡で図形を描くプログラムがあったのを覚えている人も多いと思う。従って基本はスケートの薄い刃を自在に操って美しいトレースを正確に描くの。したがって注目されるジャンプ以外の、例えばスーと伸びていくトレース、上半身の振り付けと密接に絡み合っているようなエッジワーク、そのスピード、そして振り付けとエッジワークの融合から生まれる音楽との一体感。それらすべてのトータルパッケージがフィギアスケートの魅力だという。そして、羽生結弦というスケーターは、そのトータルパッケージで抜きんでている。それを例えば、テレビ中継の解説やスポーツ新聞の応援記事や人情ストーリーでは説明してくれない具体的な解説をしてくれる。例えば、羽生が4回転ジャンプの前後にどんなステップやターンを入れてエッジワークでつないでいくかをひとつひとつ説明していくが、その密度の濃さの異常なほど突出している。それを可能にする羽生のスケーティング、下半身の蹴る力によって推進力を得るのではなく、厳密な体重移動により、瞬間的に適切なエッジに乗る。いわば、体重移動だけで滑ってしまう技術だという。
 スタートのひと漕ぎの後、左足のフォアインサイドから、一瞬のターンでバックアウトサイドにエッジが替わるところ。このターンの滑らかさと、バックアウトに替わってからの、糸を引くような迷いのないトレースが見事。
 コンビネーションジャンプのための助走にあたる漕ぎから、すでに曲の音符と足さばきがピッタリ一致している。助走に続くコネクティングステップは、エッジを動かすことで成り立つステップに対してはピアノの短い音、エッジを動かさないからこそ成立するイーグルに対しては長めに伸びる音を合わせている。単に曲のイメージだけではなく音符やリズムにまで厳密にエッジワークを合わせている。これが、この曲を選んだ必然性やこの曲で滑る意味を、非常にクリアに主張している。
 単独の4回転サルコーを着氷し、そのスムーズなトレースの延長線上に、パーフェクトにフリーレッグを置いていき、アウトサイドのイーグル。そしてエッジを替えて、インサイドのイーグルへと移行する。ここまでが4回転ジャンプのトランジション。インサイドのイーグルになってから、キュッとスピードが上がっているのは、非常に正確なエッジに乗っているから。その時のインサイドのイーグルの際の背中のアーチが素晴らしい。こんなイーグルを4回転ジャンプ着氷後にいれることは常識では考えられない異常なことで、羽生にしかできない。
 こういう解説の仕方がある。一見マニアックな専門用語の羅列にようだけど、これを映像を見ながら読むと、いかに羽生が演技しているのか、他のスケーターと違うのか分かる。そして、これがテクニカルエレメンツの加算点(出来栄え)の理由であり、プログラムコンポーネンツつまり表現力の点数になるというわけ。これをアピールするようにやっているのが女子のメドベージュワで、この人のパフォーマンスは、いかにもゴテゴテに飾り立てた感じがする。
 これを読むと、実際、先日のオリンピックの羽生の滑りで、最初の4回転ジャンプをとぶ前に、いかに多くのことをやっているか、例えば、左右両足のエッジワークと音楽のリズムが一致している(ネイサン・チャンなどはジャンプをとぶために歩数を揃えることに集中して、羽生のような配慮をする余裕はない)ことなどを気づいてしまう。これを読んで、はじめて、同じジャンプをとんでいるのに点数がなぜ違ってくるのかの理由が分かった。

2018年2月17日 (土)

『資本の世界史』を読んだ。

 『資本の世界史』を読んだ。
 著者はドイツの経済ジャーナリスト。資本主義を資本を投入することで将来のより多くの資本を手に入れる、つまり利益を上げるのを目的とする、要するに指数関数的な成長を生むプロセスだという。この資本というものが近代に生まれたという。資本とお金とは違う。お金は交換手段であるのに対して、生産を効率化するプロセスに伴うのだという。それは18世紀のイギリスで紡績工場主が織機や紡績を機械化したときに始まった。いわゆる産業革命だ。史上初めて人間の労働力が技術によって代用され、それに伴って富が生まれた。ここでつかわれたのが資本。そして、これを境に指数関数的な経済成長が始まった。
それがイギリスの北西部で生まれたのはなぜか。機械は昔からあったし、蒸気機関という動力も以前から知られていた。まして、イギリスは技術の先進地域ではなかった。著者は、その理由をイギリスの賃金が当時の世界で一番高く、そのために人間の労働力を機械で代用することで初めて利潤があがったこと、かつ、労働者の賃金が高くなったので購買力が高まり市場が拡大したことを指摘する。つまり、フランスなどの大陸諸国は利潤を上げるために賃金のダンピングをして、生産力を高め、効率を高めることを考えなかった。
このことは、資本主義経済に不可欠な市場競争というのは近代になって人為的に作られたもので、決して自然にあったものではない。その維持のためには不断の努力、つまり適切なコントロールが不可欠だという。
 著者の言う経済学というのは、自然科学ではなく、歴史学のような事実から特定の意味を引き出すということは、語る(書く)という営みと重なるもものだということになる。
これを具体的な事例分析を進めていくと、従来とは違った地平が広がってくる。それは面白いのだ。
 経済活動というのは、ふつう、儲け即ち利潤を求めるもの。利潤は、単純化すれば、収入と支出の差。ここでちょっと立ち止まって考える。ある企業が儲けるということは売上という収入が仕入という支出より多かったということ。かりに市場にAとBの2社しかないとしよう。A社が儲けたということは、その分だけお金をガメたことになる。市場内のABの関係はAが買ったより売った方が多いので、Bはその逆ということになる。これはゼロサムゲーム、即ち限られたパイの奪い合い。Aが利益を出すことは経済成長に結びつかない。これがヨーロッパで近代を迎える前の経済。
 近代の資本主義経済は、A社が儲けた利潤を、将来に向けて生産規模を拡大しようと考え、将来の拡大する売上のための仕入れや設備を買うことになったという点で、以前とは一線を画す。これをA社とB社だけの市場で考えると、A社が儲けたといっても、A社は儲けた分でB社から買い物をする。そうすると、B社の売上が増えて、B社も儲けることができることになる。このとき、A社が儲けてガメた金は、将来のために使った。それは将来への投資となって、使ったお金は資本ということになる。また、B社も儲けを、将来もっと儲けるために設備や仕入れに投資する。そうすると、儲けの分は市場で売り買いされる量が増えることになる。それは市場規模が大きくなっていく、つまり成長することになる。それが経済成長ということだろう。せっかく苦労して儲けたのを、本当のところ先がわからない未来に向けて投資するという発想の転換。それが資本主義の始まり。それがあったからこそ、18世紀イギリスの産業革命において機械化という挑戦的な投資を実行することにつながった。
 1929年の大恐慌について著者は言う。1920年ころからの技術革新と飛躍的な生産効率化で生産が拡大し、企業の利益が爆発的に増えた。この拡大した生産によって溢れた商品を購入できるように労働者の賃金が相応に上がるべきだったが、経営者は増大した利益を賃金に分配せず自らの懐に入れた。結果として売上は不振になった。利益を懐に入れた一部の裕福な人たちが贅沢をするくらいでは全体の消費は増えないから。需要が増えないので事業投資は滞った。その先にあったのが投機というわけで、投機で儲かれば、労働者を雇ったり機械を買ったりして生産するより効率よく儲かるし、儲けを独占できる。というわけで、ますます投機がエスカレートした。何か、これって、今の日本の政権が賃上げを経済政策として求めている理屈とそっくりではないか。
 これを世界恐慌に拡大したのはヨーロッパに波及したためで、の大きな原因はドイツの事情に在ったという。ドイツは第1次世界大戦に負けて莫大な賠償金を課せられた。ドイツが賠償金を払うためには輸出をして外貨を稼ぐしかなかった。しかし、英仏はドイツから大量の商品が輸入されると自国の雇用が脅かされるため規制した。そのため、ドイツは支払いのために大量に国債を発行した。しかも、信用が低いから利息を高くしないといけない。それに飛びついたのがアメリカの投機家たち。つまり、アメリカは自国への賠償金を間接的に自分で払っていたことになる。それが株価の暴落で資金ショートを恐れた投機家たちが、一斉にドイツの国債や投資を引き上げ始めて、ドイツ経済はあっと言う間に崩壊し、英仏の投資家もドイツに多額の投資をしていたことから欧州全土に波及。何かこれって、最近のギリシャに端を発したユーロ危機と同じではないか。
 その後、各国の財務当局は緊縮策をとったので、経済は収縮の方向に雪崩をうったため、立ち直りの機会を失い、不況は長期化してしまった。結局、アメリカが実質的に不況を脱するのは第2次世界大戦の戦時増産を待たねばならなかったという。

2018年1月31日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(25)

5.人間のペルソナ

キリスト教神学において、人間はたんる動物の一種ではなく特別の存在であり、人間にはペルソナがありますが、動物にはありません。三位一体であったように神にもペルソナはあります。神の場合本質は個別化されていません。神の本質はそれ自体から無限で唯一なので、個別化されません。それゆえ、神において、ペルソナは個別化の原理ではありません。同じように人間のペルソナも、人間の本質を個別化するものでは在りません。ひとりひとり、人間が個体で存在する究極の原理はペルソナではなく、「個別化の原理」です。

スコトゥスは、ペルソナについて、個別化の原理とは違って、ポジティヴな存在性ではない見ています。たとえば、人間知性は人間霊魂の形相というポジティヴな存在性によってあります。しかし、それがもつ個々のはたらき、つまり認識したり愛したりすることのうちには、本性的なはたらきと、自由な意志にもとづく偶然的な作用があります。本性的なはたらきは普遍性を持つので、アリストテレスの哲学においてポジティヴな存在ですが、偶然的な理解のはたらきや信仰のはたらきは、質料的なのでネガティヴです。

6.ペルソナと自己

スコトゥスによれば、神の中のペルソナどうしは、実体的な関係、あるいは、関係的実体です。つまり、ペルソナは複数の実体の間の関係において現われる実体のごときものと言うことができます。

人間においても、他者との関係において現われる実体性が、自己のペルソナであると言えます。実際、ヨーロッパの言語生活では、他者に向かって「わたし」を主張することは日常茶飯事です。つまり他者との関係のなかにある「わたし」です。言い換えると、ペルソナは関係を通じて実体化した「わたし」です。ただし、自己が実体であるためには、ヨーロッパの理解では、不変性、同一性が求められます。

しかし、キリスト教信仰においては、人間どうしの関係よりも神との関係が重要です。なぜなら人が神を信ずるとは、人が神の教えにならうことであり、それは人が、教える神(イエス)をまねることだからです。ところで、神の内で、子は父に対して従順です。子は父の仕組んだ十字架における死を従順に受け入れて死んだということになっています。ところで、人間は神をいわば父として信仰を持っています。それゆえ、信者は子の立場で、神に対して「わたし」であり、父である神に従順でなければなりません。それは同時に修道院の院長という立場に立つ指導者に対しても、従順でなければならないことを意味します。これがキリスト教信仰の従順です。

このような関係は存在上の依存関係としてみることができます。なぜなら、被造物は神に依存する関係を持っているからです。神に依存しなければ何ものも存在しないと考えられています。したがって、被造物のうちで精神をもつものは、この依存関係にもとづいて、神に対する関係として従順であるのが当然と見られるのです。

ペルソナは共有されない性格をもっています。しかし、依存関係は、何かの共有を含んでいます。なぜなら、何か(A)に依存するものは、その何か(A)から、何ものかを分け持っている、つまり共有している、ことによって、依存するからです。例えば、被造物は神から存在を分け持っています。それによって、在ることにおいて被造物は神に依存しています。あるいは神の知性のうちにある人間を分け持っています。それゆえ、人間は人間であることにおいて神に依存しています。その他の点でも同様です。被造物は何であれ、神から分け持った者において、神に依存しています。

他方、ペルソナは共有されないものです。言い換えれば、共有を止めるものです。一方、分割を止めるものが個別化原理です。両者は一見似ていますが、ペルソナは共有を止めるもので、その結果として依存を止めるものです。つまりペルソナは依存の否定を含んでいます。神のうちでも、子は父に従順でありながら、異なるペルソナであるという点では、子は父に依存しません。

被造物のペルソナは被造物であるかぎり、神に依存し、従順であるべきです。他方、ペルソナは、それを止めるはたらきを内包しています。それは存在上、神と必然の関係を持ちながら、他方で、ペルソナのはたらき、すなわち、意志をもつ精神のはたらきにおいて、依存関係を止めるというはたらきです。

依存を止めるなら、精神はそれだけ孤独になるわけです。相手は宇宙のすべてを創った神です。その神への関係を存在する上での必然は別にして、意志的な個々のはたらきにおいて失うなら、むその意志をもつひとりひとりの自分にとって、依存関係をもつことができるものは、宇宙の中に何もないことになります。この状態において現われてくる自分、絶対の孤独です。

2018年1月30日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24)

3.被造物における個物存在

神の本質は唯一の本質として三つのペルソナに共有されます。しかし、この「複数のペルソナによる共有」は、神の本質の個別化ではありません。なぜなら、教会の教義(信条)によれば、三つのペルソナに共有されている神の本質は、三つのペルソナに分割されているのではなく、ひとつの本質のままです。すなわち、神の本質は三つのペルソナにおいてばらばらではなく、あくまでも同じ「ひとつ」だからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。なぜなら、神の本質は被造物のように「こわれるもの」ではないからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。それは、神の本質は、被造物のように「こわれるもの」つまり「分割されるもの」ではないからです。分割されることは、被造物の存在における不完全性です。神は完全な存在なので分割されることない。したがって、スコトゥスにおいて、個別化の原理は神のうちでは一切はたらかない、とみなされます。

アリストテレスは、人間理性に確実に理解されることが真理の特徴であり、それを映すのが質料であるとしました。質料は、形相と対立する実在です。しかし、それは本来の意味では確実な理解を得られないものであり、それゆえに本来的に言われる真理から離れたものです。つまり、アリストテレスの質料形相論は、実在の一部、すなわち、形相のみを真理とみなす論理です。質料という実在のあとの半分は真理ではなく、真理に反してか、反するとまでは言えないにしても、真理から遠ざかって実在するものです。

ところが、信仰から見える世界では、すべては神が創造したものです。そこには質料も含まれます。質料も含め、存在はすべてが真理でなくてななりません。それゆえに中世では、存在が真理に置き換え可能となったわけです。アリストテレスにおいては、真、善、美の置き換えは可能であっても、存在との置き換えはできませんでした。

この理解の変化が、とくに個体のもの「個体性」についての理論に表われています。アリストテレスにおいては、個体は偶然に在るもので確実な真理ではありません。質料と同じような扱いです。これに対して、スコトゥスは個別化の原理は質料でも形相でもなく、質料も形相も「これ」へと収斂する究極の現実態、究極の存在性、と主張しました。スコトゥスはアリストテレスの質料形相論を超えて、「このもの性」という概念をつくりました。それは、形相性のひとつとされ、形相の一部を構成する原理ですが、それ自体は形相でも質料でもない、というものです。しかしスコトゥスは、その実在はポジティヴであると主張します。

4.人間の個体存在

個別化の原理は、被造物の本質の個別化のみに働きます。なぜなら、被造物のみが分割され得るという不完全な存在だからです。とくに物体的なものについては分割が基本です。

個別を意味するラテン語はindividuatioです。言葉の頭にあるinは否定辞です。この否定辞を取ると、「分割すること」という意味の言葉です。したがって、語源的には、個体化は「分割をとめること」を意味しています。被造物の本質は複数のものに分割されるというもので、現実には複数のものが在る、ということになります。これは本質がもともと分割されることで複数のものに共有される性格をそれ自身においてもつからです。その複数のものは「同じ名」、すなわち本質の名で呼ばれるものですが、「これ」と「あれ」は異なる二つのものです。このように本質ないしは本性は分割されますが、「これ」と「あれ」で止まって、それ以上の分割がないという状態を作り出しています。この「止め」を行うのが、スコトゥスの言う個別化です。ラテン語の言葉としては否定辞のつくネガティヴなものをスコトゥスはポジティヴな存在に転換させました。

スコトゥスにおいては石も人間も本質が分割されて各人に共有されていると同時に、それ以上の分割が個別化によって止められて、個体としての個人が生じる、と説明されます。しかし、それはペルソナではありません。

2018年1月29日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(23)

第9章 自己の存在とペルソナ

1.形而上学的概念と神学

もともと古代ギリシャ哲学においては「存在」ということばの適用範囲は条件付でした。善美は求められるのであっても存在ではなかった。実際、ものが存在するかしないかは偶然的です。真理探究においては、具体的な各々の心理は必然的な仕方で存在すると主張されることはあります。しかし、真理が吟味されるように、存在もまた吟味されることになります。したがって、心の中に存在しても、それが心の外なまで存在するかどうかは、吟味されなくてはならないことになります。心の外に在ることが明瞭なものとは。目に見えるものであり、目に見えるものを直接動かしているものです。

これに対して中世の形而上学は「在る」という主張が十分な吟味を受けたと見なされ、形相や神までも「存在」の領域に当然のごとく入れられるようになりました。アリストテレスでは「存在」の条件であった「質料」が存在の条件から外され、形相のみで存在とみなされ、むしろ質料の条件をもたない存在として形相や神が論じられました。そこには、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレスの形而上学の概念がアラビアから伝わったことがベースになっていると考えられます。自然から受け取られた「本性」の概念について、抽象を通じて自然のうちに不完全性・質料性(個別性、偶然性、時間性、変化等々)を取り除けば、自然を超えた領域の存在に一義的に通用する形而上学的概念が得られることになります。それによって神学での神の本性の議論が可能になるというわけです。

そしてこのことは「存在」概念を、自然と超自然の間で一義であると主張することとなります。「存在するもの」すなわちエンスの概念も、抽象と形而上学の論理を通じて被造物の領域にある不完全性を除けば、被造物の限定性を超えて、神にも一義的に適用できる概念ということをスコトゥスは見出します。

同様に、被造物には固有の属性といわれる「一」「真」「善」があります。いかなる存在を取り上げても、「ひとつ」であり、それは何らかの「真」を含み、何らかの「善」を含むという中世では一般化していた説です。これらも「存在」に伴って神と被造物に一義的に述語されます。それ以外にも、端的な完全性と言われる正義や知恵なども、その形而上学的概念はスコトゥスの神学において神と被造物に一義的に述語されます。このような形而上学的概念は、神を科学的に語ることを可能にし、その結果、神学を科学として成立することを可能にしました。

2.神の本性とペルソナ

スコトゥスの神学における神とは何でしょうか。この問いは三位一体の神の本性についての問いということになります。ところで「本性」の概念とは、複数のものに共通に述語できる概念です。たとえば人間の本性は複数の人間に述語できるものです。この「本性」自体がもつ共通性は、まさに本性自体がもつ性格です。それは神の本性にもいえることで、唯一の神の本性であっても、それ自体が複数のものに共有される性格をもっている。それが神の本性が三つのペルソナに共有されて、父も子も聖霊も共通に神であるという述語とつながるわけです。

カトリック教会の三位一体論は、神に近づくことが十分にはできない人間の不完全さにおいて論じられる他ない論です。神の本性はそれ自体から「共有される」ものです。これに対して、ペルソナの特徴は、「共有されない」という性格にあります。ある性質がある複数のものに共有されれば、その複数のものは、同じ性質を有しています。それゆえ、多くのものが同じ名で呼ばれます。複数の個体が馬の本性を共有しているなら、それらは同じく馬と呼ばれるわけです。他方、共有されないものは、唯一それしかありえないということです。「アオ」と呼ばれた馬は、それ一頭のみです。その名で複数の馬が呼ばれることはありません。同様にペルソナのなかの父、子、聖霊は唯一の父であり、唯一の子であり、唯一の聖霊です。それぞれが別の名で呼ばれます。したがって、神の本性は唯一の本性ですが、共有されるものもあるので、父も子も、聖霊も、共通に「神」の名で呼ばれるわけです。それゆえ、イエスという一人の人間=神の子キリストの存在は、唯一の神の子のペルソナが多数のものも間で共通な人間の本性を受け取って、一個の人間イエスになったものと理解されます。つまり基盤となるのは子のペルソナであり、子のペルソナは神ですから、この基盤から見て、イエスは神であるということになります。他方、子のペルソナがそのとき受け取った本性は人間であるから、イエスは人間であるということになります。こうして神であり人である。このようにして神であり人である一個の存在が説明されます。

ちなみに、現代ヨーロッパの実存主義は、この中世のペルソナ思想の現代版と言えます実存主義の個人は「代替できない」と言われます。しかし、代替できない、というのは、「共通でない」ということと同じです。例えば、同じ能力で測られるものは、その能力に関して共通なので、取り替えができる。ある生産ラインのある箇所の作業ができる能力をもつ人間は多数いて、ひとりがだめになったら、他のひとりに取り替えることができる。反対に取り替えが利かないことがらもあります。例えば個人の特殊な能力については、他の人への取り替えが利きません。ところで、ペルソナは共有できないと言われます。これは、ペルソナは取り替えが利かないことを意味します。したがって、実存主義で言われる「代替できない個人」は、「共有できないペルソナ」の意味と同じです。

そしてまた、ペルソナとしての「わたし」とは、「他の誰でもない」という表現でしか言葉にできない何か、です。つまりネガティヴな表現でできないのは、人間がそれ自体を認識することができないからです。すなわち、わたしたちには自己直観(自己の本質を直観する)がない。自分のであれ、他者のであれ、ペルソナ自体の認識は、わたしたちにはない。そのために、「わたし」は「あなたではないもの」であり、「あなた」は「あなた以外のものではない」としか正確には言うことができません。ヨーロッパの個人主義は、神のペルソナの思想に依拠していて、仏教における「自我の無」と同様、こういう点では空虚です。

2018年1月28日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22)

7.個別化の原理

事物の本質は、多数の個別的存在に普遍的であり、共通的です。したがって、それを説明する質料と形相も普遍的、共通的です。つまり同じ本質は、同じ形相と質料の複合として説明されます。したがって、スコトゥスによれば、それらのものが個別的に在ることを説明するものではありません。

このことについて、トマス、「ことば」はそれがもつ共通性によって使用されるものでかるから、言葉によって明瞭化される側面を形相と呼ぶのであるから、形相が普遍的でしかないことは明らかです。他方、質料のほうは、明瞭化されない側面を含みます。個別性は、普遍を一般に指示する言葉によって明瞭化できないものですが、それゆえに、質料の側にある、とトマスは主張します。

しかしながら、スコトゥスは、質料が普遍的本質を説明する原理の一方であることは、質料形相論として外すことはできないと言います。だから、トマスの言うような、質料のうちに普遍と対立する個別化の原因性がある認めることはできない。スコトゥスによれば、質料も形相も個別化の原理ではありえない。

スコトゥスは現実に存在することと個別化を分けて、別のものだといいます。現実に存在することは、本質の秩序を横並びに示す「範疇の並列秩序」内のものではなく、その外に位置付けられると言います。範疇の並列秩序は、被造物の存在を区分する範疇であるので、現実に存在することは、範疇を超えて、神にも述語されるからです。これに対して、個別化は被造物の本質の個別化であるため範疇の並列秩序のうちにあるのてなければなりません。つまり、範疇のうちの「白」を個別化して「この白」とする原理は、その範疇のうちにあるのでなければならない、と言います。たしかに現実存在を経験するのは個物に出会う場面です。そのため現実存在は個体性と結び付けられ易いかもしれません。しかしスコトゥスは、現実存在は、いま、ここに在る個体性を通して在るのではなく、本質を通して在ると主張しているからです。というのも現実存在は何よりも第一原理である神において本質を通して在るからです。

それゆえ、スコトゥスによれば、質料によっても形相によっても、存在することによっても、分量によっても、個別化は成り立たないことになります。では、個別化するのは何か、と言えば、何か究極のポジティヴな存在、というほかない。スコトゥスによれば、それ以上の名前は見つけることができないのです。

8.普遍的本質と個別化の存在

もともとアリストテレスは、普遍的知識を追求する科学の世界で、個物はそのデータになる質料にすぎず抽象や帰納によって普遍的本質が見出されれば、その本質に属する個体は区別してひとつひとつを取り出す理由もなかった。つまり、アリストテレスにとって説明されるべきは普遍的本質ないしは真理であって、個別の存在が説明されるべきであるという理由はなかったのです。

ところがスコトゥス神学は、人間は個人として、信仰において正しかったり不正であったりする存在です。あるいは、救世主キリストは神であると同時に個人でもありました。また、直観によって存在するままに受け取られるのもの、個別のものです。そのため、スコトゥスにおいては、現実に存在した、あるいは現実に存在する個別のものが、言葉が表示する普遍的本質によって説明されるべきであり、それが神学と呼ばれる科学なのです。それゆえに、ものが個物として存在する根拠を問うことが課題となってくるのです。

そして、その反対の極がでてくることになります。つまり個体こそが現実に存在すると言うのなら、普遍が現実に存在するという身とは、何を根拠にして言うことができるのか、という問いです。なぜなら、普遍は言葉になっているだけで、直観によって捉えられることはないからです。すなわち、この問いが持つ困難は、個体は見えるが、普遍はただ理性によって触れられるだけであり、論理的な証明しかできないということにあるからです。

スコトゥスは、アヴィセンナに基づいて、実在する自然本性について、次のように解いてゆきます。「馬」の本性を例にとってみましょう。この本性自体には、「存在する」が付帯していない。しかし「存在する」が付帯することによって実在する本性ということになります。これが実在可能な本性です。この意味で本性は実在的と言うことができます。他方、この「本性」に個別化の原理が加われば、「この本性」という個体が生じることになります。したがって、実在するこの馬は、馬の自然本性に、個別化の原理と存在することが付帯して生じていることになります。そしてその一方で、実在するこの馬は、人間の感覚に受け取られ、表象に受け取られ、同時に知性の直観と抽象に受け取られます。そこで、表象に受け取られ、知性の抽象にうと取られた「馬」は、知性のうちで「馬の像」となります。この像は、「馬であること」以上のものを含んでいるわけではありません。つまり個別性も存在性も抽象によって捨てられています。その像に残っているのは、元の「馬であること」のみです。しかし抽象された像は、つぎに普遍を示す「ことば」に置き換えられます。ことばはどれも複数の人々の間で共有されるものですから。このときに、ことばの持つ論理性によって普遍性が「馬」に付帯します。こうして、「普遍的な馬」の概念が生まれます。ただし、ことばの持つ論理性抜きに、その意味(内実)だけを取り上げるならば、それは形而上学者が取り上げる本性ないし本質の概念ということになります。そして、これこそがその本質の第一の概念です。すなわち、個別か普遍かに無差別的で、なおかつ、存在するか存在しないかに無差別的な「本性の概念」です。そしてそれは、実在上も、個別的であることにも存在することにも、先立っている本性です。そして、この本性は、神が宇宙を創るときに最初に知性のうちで考えた本性です。

なお、スコトゥスは本性にも一性が見出されると言います。現実に存在する個体の一性は、その個体の数を数えるときの一ですが、本性の一性は、種の数としての一です。つまり、馬の本性も、人間の本性も、馬と呼ばれ、人間と呼ばれる多数の個体に共通である仕方で、それぞれがひとつです。そしてこの一は、個体の一と比べて、より小さな一であるとスコトゥスは言います。おそらく、個体の一性は、個別化の原理によって他の個体から区別されて明確に作られる一ですが、本性のほうは、それが他の本性とは違う存在として独立に在る、という存在の性格によってのみ、ひとつであるにすぎないからだと推測できるものです。しかしスコトゥスは、この一も、種の本性それ自体の内にあるのではなく、その本性に固有の属性として付帯するものだと言います。

スコトゥスがこのように本性を、その固有の属性から切り離してそれ自体として捉えるのは、形而上学で用いる本性を、正確に神にも一義的に述語できる本性であることを理由づけるためでした。なぜなら、形而上学で用いる本性の概念が、固有の属性としての一も含まないことによって、本性の他は真に何もないものが本性自体の概念であることを確かめ、そのうえで本性を神に適用する、という手法が可能になるからです。つまり、「神は、第一義的に神の本性である」ということが言えるし、その後、本性である故に、その存在にしたがって、固有の属性として、神が第一であり、真であり、善であることを言うことができる。すなわち、神がひとつであるのは、神の本性が本性としての固有の属性としてひとつであるからであって、被造物において、同じ本性を共有する個体がそうであるように、個別化の原理によってひとつではないことを、明確にするためです。

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