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書籍・雑誌

2026年4月 5日 (日)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(10)~終章 

 「日本の自然」では植物が最も重要で、「自然」の住民のなかでは最高の地位を占める。その中でも稲と米の魂は最も崇高な神であり、宇宙の中でも最重要の存在である。稲と米で代表される「自然」は、非情に慈悲深い。貨幣としての米目は純粋なお金としての性質を失わず、寺社が執り行う祓いや祈禱などへの対価ともなり、人々の感覚に馴染んでいる。単一の意味を持つ米は清いだけに初穂料として躊躇なく受け容れられるが故に、かえって消費主義を推進する。結果として「自然」とその住民は高度に文化化される。
 農業は、採集経済から産業革命へという進歩の道に人類を導いた一方で、工業化・都市化した社会に住む者にとって農業は、近代化で堕落する前の清い自己の象徴でもある。こうした歴史の解釈のなかで、「自然」が永遠不変のものとしてそこにあると考えられている。しかし、ここで見過ごされているのは、農業は人類による最初の大規模な自然破壊だということである。農業は樹木を切り倒し、草原を農地にすることから始まる。この見地から考えると、稲が「日本の自然」の表象であるという解釈は純粋に文化的な解釈である。自然はまず農業で破壊され、工業化で美化されるという普遍的な歴史過程において、日本では軍国主義や消費主義などが、環境に対してかなり破壊的な力の行使を可能にしてきた。したがって、「日本の自然」とは何てあったかを理解することが重要である。「日本の自然」とは、人間の手が加えられていない、そこにある自然だという思い込みの間違いを認識したうえで、「日本の自然」とは何てあったかを理解する。
 このプロセスで重要なことは、宇宙の時間的・空間的分類構造と日々の活動が歴史を通じて相互に補強し合っていることである。平城京や平安京が建造されたときに、宇宙の空間的な区分とその価値がつくり出された。それは北にある天皇の座へと人々が「あがり」、南に「さがる」という視点からなされ、前者には正の価値が与えられた。都の左右も天皇の座から見た左右である。この構図は、『古事記』でも再現されている。このときに、宇宙論的な空間スキームがしっかりと確立されていたのである。この8世紀の天皇の在地を基盤にした宇宙の空間的区分は、天皇制自体の浮き沈みと関係なく歴史的に継続した。
 また、『万葉集』では、自然を時間的に区切る習慣は、環境の変化を文化的に解釈し、取り入れることである。環境を時間的に区分する四季は、稲の成長段階を基にしていた。その成長段階は宮廷人だけでなく、種々の人々によって歌に詠まれた。しかし、歴史が下ると、「自然」を文学的に表現することはほとんど宮廷人の専売特許となり、宮廷の外に出ることが少ない宮廷人は「自然」に直接触れることがないまま、「自分たちの自然」を描くようになった。このプロセスにおいては、文化諸方面のエリートが和歌、儀式、建築等の活動によってこれをリードしており、「日本の自然」がつくられた、表象されたものになってゆく過程において大きな役割を果たしたことは否めない。そうしてつくられた自然を、今度は着物の色や柄などで四季という自然としての生活のなかで再現し、そのやり方について文化的な規定を発展させるに至った。江戸時代以降は庶民が自分たちの創造した庶民文化、たとえば日常生活における料理などを通じて、環境と相互関係のなかで文化的な時間の区切りを積極的につくった。このような宇宙的原理が長期にわたって維持されたのは、それが民衆の日常生活における思考と行動の原理にもなったからである。しかし、このプロセスにおいては、宇宙論的な原理も日常的な活動も、歴史を通じて同じ意味を持ち続けていたのではない。古代において皇帝が持っていた、時間と空間の両方を規制する権力は、皇帝の権威の不可欠な一部であった。しかし、古代末期以降、その権威は低下し、さまざまな社会集団が軍事的、政治的、経済的な権力をもつようになった。空間的・時間的原則は、日常的な活動のルールとして存続し、エリートだけでなく民衆をも巻き込んだ。「あがる」という行動は、単なる行動ではなく、汚れた地面を離れることである。
 自然という実態はなく、象徴は必ずしも、物質的な原型を必要としない。たとえば枯山水。鑑賞者は受け身ではなく、記憶と想像力を働かせて理解しなければならない。自然がこの庭園のモデルになったとは誰も考えない。江戸時代、商人文化の勃興とともに、「日本の自然」を表現するさまざまな芸術が生まれた。芸術は自然を再現するためのものではなく、彼らが「自然」として創造したものは、フラクタルなものでも、ミニチュアでもない。著者は、「日本の自然」に物体的な原型がないという、いわば無物体原則の発想は、魂に対する日本人の考え方から発想したという。物体をもたないという概念は、魂を定義するものであり、日本文かにおいて最も重要な信念であり概念である。魂は目に見えず、物体をもたず、持ち主から離れ、不適切に取り扱われる時点で巨大な力を生み出す。つまり、日本の「自然」の表現には三つの異なる伝統がある。第一に、「自然」は人間の創造物を刻み込むための白紙と見なされる。刻み込まれるのは最小限の物体的なもので、十分に空白が残る。第二に、彼らが「自然」として創造するものはけっしてフラクタルではない。最小限の物体性によって、バフチン的な意味での対話的な体験が生まれ、鑑賞者が自らの記憶、経験、感情を用いて解釈に参加するように誘われる。第三にこうした「自然」の創造過程に人が手を入れることを隠すのである。

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(9)~第8章 消費主義の文化的基盤

 消費主義は世界的な現象であり、日本だけが特別なことではない。しかし、「自然」を破壊する消費主義が日本で許容されていることについては説明が必要だろう。その理由は「日本の自然」と調和して生きるのが日本人であると、広く信じられているからである。ここでは、この一見不可解な現象の理解を試みる。その際に注目するのは、社会生活における民間信仰の役割と「純粋なお金」としての米であり、それらの文化的ロジックである。
 日本における消費主義の特徴は、それが民間信仰に基づいた習慣に依拠していることである。このような消費主義と民間信仰の共存は、科学技術が高度に発達した近代社会では普通はあり得ないと仮定されている。この仮定にはいわゆる社会進化論に由来するものであり、近代を理解する上で支配的な理論である。社会進化論では、宗教の確立と呪術の排除が救済の手段であり、理性が近代の特徴である。この場合、宗教と呪術の区分が明確ではない。にほんとくに日本の場合、神道と仏教を日常生活で分類することは難しいし、神道と仏教の儀式を民俗宗教の儀式と区別することもできない。例えば、おみくじやお守りは宗教儀式なのか、迷信なのか、そんな区別は日本人には無意味だ。また、社会進化論の基本テーゼは、合理性による判断を通じて過去から現在へと一直線に進歩する過程である。日本では、その理性という概念は近代哲学の輸入によってもたらされた。もともとの日本人の考えでは、理性よりも社会性と悲しみも含めての感情的豊かさが人間を規定している。
 西洋では呪術の儀式は、組織化された信仰集団の一部ではなく、個人が特定の目的のたに行うものであり、その効能は実行の時点で評価される。その反対に宗教的儀式を行う者は社会的集団を代表し、その集団の一般的な利益のために宗教的儀式を行う者でもあり、その検証が直ちに評価されることはない。つまり、宗教は集団的な活動であり、呪術は個人的な活動である。しかし、社会性は日本の民間信仰の重要な側面であり、人々にとってその主な機能は社会的関係の中にある。たとえば、良縁を神社や寺院で祈願することが、それである。それ以上に多いのは、家族の病気回復を祈るなど、家族その他の人を気遣う目的である。このような民間信仰の慣習は基本的に人間関係を確立し、維持し、強化するものである。他国から見ると非常に高頻度で贈答が行われている日本では、このような民族宗教の習慣が見られるのは予期されることであり、日本における社会性の重要性を示すものでもある。
 多神教と一神教の違いは非常に複雑だが、多神教はアニミズムをより容易に受け容れる。キリスト教は人間には絶対的な価値があるという考えに基づいており、神の家には英雄や賢者の魂だけでなく卑劣な者、最低の者、すべての魂が入る余地があるとする。これは神聖な宗教的信念である。対照的に、人間以外の宇宙の存在の魂を信じることは呪術的信仰だとされた。アニミズムは日本の宗教性の中核であり、現在もそうである。
 「お金」は非常に複雑な事象であり、ほとんどの社会で数多の象徴的意味をもつ。したがって、消費主義や資本主義はすべての社会に一様に侵入するのではなく、侵入は人々のお金の使い方に依存する。清浄な貨幣から不浄な貨幣への歴史的経過は、世界一様ではない。日本では、「自然」の象徴である米は、神々への捧げものであると同時に、中世から近世にかけて、金属貨幣が不純とされていた時代には、金属貨幣よりも好ましい交換手段であり続けた。貨幣と米との決定的な違いは、貨幣が複数の意味を持っているのに対して、米の意味は単一ということである。これは、交換手段としての米が、もともと宗教的な、より広義には宇宙論的な意味を保持しているからである。

2026年4月 3日 (金)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(8)~第7章 「日本の自然」の家畜化・商品化

 近代は、国有化・軍事化の一方で資本主義化のプロセスでもある。
 家畜化という用語は、歴史上、動物を使役したり食用にする文脈で使用されてきたため、誤解を招く可能性がある。ここでは、「日本の自然」に住まう人間以外の生物がペットとして人間の領域に持ち込まれる習慣を指して使う。ペットは、馬や牛など人間のために使役される他の家畜動物とは異なる。日本語では、ペットには伴侶動物と愛玩動物の意味があるが、この分類は厳密なものではなく習慣的なものである。
 現代日本人の生活における「自然」のもう一つの重要な側面は自然食品である。
 消費主義とは、人々が必需品でない商品を購入するように駆り立てる社会的および経済的プロセスである。消費主義は資本主義研究における重要な分野で、主観的な楽しみの価値と自我、我々の欲望や感情が、所有する物のなかで生き続けることである。それを物への愛着や消費への欲求だけでなく、所有物によって定義される自己意識、つまり、所有物こそが自己ということだ。現代で最高潮に達した日本人の消費主義の始まりを江戸時代に見ることができる。ペットは単なる商品ではなく、安らぎ、愛情、そして友情をもたらしてくれる。ペットの追悼式や埋葬は、購入する商品であるだけでなく、喪失に対処する方法でもある。これらは、必ずしも美しいことではないものの、主観的側面と呼ばれる。ペットバギーに乗ったペットは、宇宙空間の分類として地面(下)に与えられた価値と、消費主義・資本主義の相互促進の成功物語である。もう一つの目覚ましい成功物語は、ペットブームとアニミズムの出会い─ペットの魂をより手厚く、より高価な葬式で弔うことを実現したことだ。アニミズムはこうして資本主義の肥沃な土壌となった。

2026年4月 2日 (木)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(7)~第6章 「日本の自然」の国有化と軍事化─近代

 ここでは、「日本の自然」がいかにして、政治的に定義された国民国家として日本の一部となっていったかを探っていく。1853年の黒船来航により、日本は開国を余儀なくされる。当時の国際政治では、強力な軍隊と、近代国家のため呑むあらゆる制度的装置の建設、そして「人民」を「国民」にする「国民化」を必要とした。当時は、日本だけでなく世界のいたるところで権威主義が台頭した時期だった。日本は現人神としての天皇を統率者として軍国主義化を進めた。
 1888年、児童生徒のための修学旅行が始められる。生徒たちが「近代日本」に感銘を受けるよう、国指定の重要文化財や産業開発の現場を訪問させた。これは日本が近代的な国民国家を築き上げようとしているときに、青少年を国民化する効果的な方法として機能した。1872年、アメリカのイエローストーンに倣って、国立公園を始めた。この目的は「自然」を保護するという純粋な、あるいは理想主義的なものとはほど遠く、経済的な理由によるものであった。日本に外国人を呼び込むことを期待した観光産業振興の試みであった。
 人民の政治的国民化が進む一方で、米、桜、富士山は日本人の集団的自己の象徴として残った。近世末期、日本人が中国人に対抗して自らのアイデンティティを確立しなければならなかったとき、彼らは日本人の比喩として国産米を強調し、他のアジア人の比喩としての外国米とは区別した。18世紀から19世紀にかけて、土着主義の学者たちは日本人のアイデンティティを確立しようと努力し、農耕思想と稲作農業を原初的な日本人のあり方を表わすものとして選んだ。中国人に対するこのような態度と、優れた日本人のメタファーとしての国産米の使用は、明治時代にも続いた。明治になると、西洋人が支配的な他者となり、象徴的な対立は「米対肉」という形をとった。西洋人が日本に来るようになった初期の他者性の特徴は、彼らの屠殺と肉食であった。日本人が自分たちのアイデンティティをどう築くかが急務となるなか、西洋を模倣することに反対し、米食や稲作は日本人が優れている証拠だと主張する者もいた。前時代の芸術家たちが、泥のない清らかな水を湛えた田んぼに注目したのに対し、自然の国有化と軍国化の時代には日本人の食としての米がより重視されたようだ。欧米が視野に入ってきたことで、日本人は他のアジア人との差別化を余儀なくされ、一方で、欧米に対抗する日本人のアイデンティティを確立しなければならなかった。
 本章では、米の他に桜や富士山が「日本の自然」のシンボルとして、日本が激しい国有化と軍国化に支配された時代に、その意味を次々と変えていった。

2026年4月 1日 (水)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(6)~第5章 「日本の自然」としての水田、桜、富士山─江戸時代

 徳川家による江戸幕府は全国を支配する、巨大なパノプティコンとなり、社会の頂点から底辺に至るまで、国民全体が日常生活における微細な規則によって厳格に管理されるようになった。この時代は、国内での紛争がなく、泰平の世が続いた。その間、商業が発展し、本格的な都市化と市場経済化が進んだ。都市化はたんに自然を破壊して都市を建設しただけでなく、製造業、サービス業、生産的農業を発展させた。今日目撃する強力な消費主義の基盤は、この時期にしっかりと確立された。この発展の立役者は商人階級であった。国内が平和になり、対外的な戦争もなくなったことで、皮肉にも武士階級は存在意義と経済力を失った。商人階級は巨大な経済力を獲得し、歌舞伎、日常生活を題材にした川柳、四季を題材にした俳諧、貴族の琴ではなく三味線、そして何よりも浮世絵といった庶民文化が開花した。浮世絵の多様なテーマのなかでも歌舞伎役者、力士、芸者というスターの地位を獲得した三大グループは、実際には士農工商の身分制の外に置かれていた。浮世絵は、現在のニューヨークやパリに相当する都である江戸への旅の証となり、田舎者がおみやげとして持ち帰るものとなった。浮世絵は、ほとんどの日本人にとって手の届かない幻想の世界を描き、そのため人々に仮想の快楽感を与えたのである。その結果生じた新たな社会的相互作用を資本主義の台頭と結び付けて、徳川後期の文化を「遊びの文化」と特徴づけている。その一方で、後期には外国からの脅威に晒され、それに反発するように、文化的ナショナリズムの発展を促した。庶民文化の発展、文化的ナショナリズム、大規模な都市化は、しばしば複合的な力となり、「日本の自然」の表現に変化をもたらした。
 庶民文化の台頭とともに、江戸時代には、従来の貴族の時間性とは異なる時間性が、庶民の生活の中から生まれた。日本人と環境・自然の関係を大きく変えたのは、京都から江戸への首都移転である。山に囲まれた京都とは対照的に、江戸をはじめとする商業の発展で栄えた都市は、まったく異なる環境にあった。京都は盆地で海から遠く、都市を囲む山林は豊富な菜食生活を支える。江戸をはじめとする水路のある都市の住民は、魚食を多く取り入れていた。日本人には旬─とくに魚の旬─には非常に大切で、歳時記には、魚の旬を中心に、自然の季節に基づいた生活が生き生きと伝わってくる。このような食文化の新たな展開は、俳諧という媒介を通じて広く普及した。俳諧はもはや貴族趣味に固執することなく、それまでの和歌の伝統が避けてきた食に関する話題をふんだんに取り上げた。
 江戸時代には、集中的か広範な都市化によって、多くの日本人が米の生産から遠ざかっていた。こうした現実とは裏腹に、この時代のさまざまな芸術は稲とその生育、そしてそれにまつわる儀式をモチーフに選んだ。江戸時代の激しい都市化は、農業国家であった日本に変化をもたらし、米と稲作を「日本の自然」として再構築した。最も明白なレベルでは、稲の成長は1年の四季を象徴している。清らかな水が入った水田、田植え歌などは、春や初夏の最も身近な兆候であり、それは誕生と成長の時期である。稲束に象徴される稲刈りは、秋という季節と収穫の喜び、そして成長期の終わりとして想起される。このような稲の成長のサイクルが、日本人全体にとっての季節の目印になっているということは、驚くべきことである。都市生活者、漁師、その他、稲作に従事する人以外のすべての人々にとっても、生活は稲とその成長によって示されるようになった。言い換えれば、以前の時代にエリートたちが花や鳥によって体系化した四季は、稲の成長段階に合わせて修正されたのである。
 この時期「自然」を形づくるための大規模な取り組みが展開された。ヨーロッパの宮殿やその他の大邸宅の庭園は徹底的に文化化されており、ほとんどの場合、庭師の創造的な才能を誇示している。対照的に日本庭園は、人間の手によって完全に形を変えられたにもかかわらず、樹木の根、枝、幹に至るまで人間の手が加えられた痕跡を丹念に隠している。また、ミニマリズムの伝統である枯山水庭園や茶道とともに、「自然」のミニチュア化は盆栽や箱庭に取り込まれた。盆栽とは、遺伝的に木を矮小化するのではなく、「自然」を再現するために注意深く育てることである。
 世界的に勢いを増す西洋植民地主義の脅威が日本に及ぶにつれ、日本人は集団としての自己意識を確立することで文化的ナショナリズムを発展させた。その際に彼らが「日本の自然」の象徴として選んだのは、稲であり、桜であり、富士山である。同時にこれらは19世紀半ばに江戸で起こった集中的な都市化のプロセスに対抗するためのシンボルでもあった。
 都市化が農村を生み出したのは、世界の他の地域においても同じだか、錦絵で「日本の自然」を表現するために選ばれたシンボルは実際には「農村という自然」ではない。旅人はしばしば田んぼを背景に描かれる。これは、東海道と基礎街道が地方とつなぐ江戸という大都市における変化や無常の縮図と、米と稲作という永遠普遍の日本が、コントラストとして描かれているのである。泥と汗と肥料の現実から遠く離れた稲と田んぼは日本の美しさを思い起こさせる。注意すべきは、江戸時代以前の花鳥風月や枯山水の自然には、「日本の自然」の象徴として稲や水田は含まれていなかったということである。これらが江戸の絵師たちによって描かれるようになったのは、未曽有の経済変動期であり、農村がその急速な発展に全面的に参入した時代であった。最大都市の江戸では商人階級の庶民文化が花開いた。貴族や武士が農民でなかったと同じように、江戸の商人や芸術家たちも農民ではなく、農民の生産物の消費者であった。本書のテーマにとって重要なのは、これらの錦絵に描かれた田んぼが水田であることである。水田は透明できれいな水を湛え、地面を見せない。稲穂が実る秋には、黄金色の稲穂が黄金色の波のように風にそよぐ姿が描かれる。つまり、稲と田んぼは汚れのない「日本の自然」を象徴している。

2026年3月31日 (火)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(5)~第4章 「日本の自然」としての枯山水─中世

 日本の古代王朝は政治権力を失い始め、武力をもって法を守り、秩序を維持することができなくなっていった。王位継承者の選定など、最も重要な政治的決定についても自由な選択ができなくなった。宮廷は政治ではなく、おもに優雅な儀式や宴会、また種々の娯楽の場となった。10世紀の天皇と宮廷は文化と学問の保護者あるいは推進者となっていく。日本社会はこの時期に大きな変化を遂げ、武士によって支配されるようになった。財政的・政治的権力を失った個々の天皇は、政治的身体を維持することで自らの地位を確保することに努めた。武将たちからの献金への返礼として、天皇は彼らにさまざまな官位を与えた。現在の日本の文化の粋は、この時代に発達したものだ。茶道も、華道も、枯山水も、能も、書院造も、この時代の美意識に基づいている。
 「わび」「さび」「幽玄」の美意識が発展したのはこの時代である。この美意識体系は「自然」を通して表現された。平安の文人たちは春の花や秋の紅葉といった従来から考えられてきた「自然」の美しさに焦点を当てていたが、中世に入ると、人々は仏教の末法に親近感を覚え始めた。それは『新古今和歌集』で表現されている。中世文化は過去の古代の王朝に対する憧れやノスタルジックなヴィジョンの産物であり、禅の価値観と類似している。『新古今和歌集』の「自然」や「四季」は『万葉集』のそれと明瞭に対立する。万葉歌人の「自然」は彼らが実際に見た萩と雁で象徴される。稲の収穫の秋がもっとも重要で最も楽しい季節であった。『新古今和歌集』で萩の歌はわずかしかない。
 平安時代から鎌倉時代にかけて、貴族の邸宅は寝殿造と呼ばれる建築様式をとっていた。母屋である寝殿の向かいには池のある庭園があり、南限を形成していた。築山、木々、岩が組み合わされ、阿弥陀仏の西方極楽浄土の風景が表現されている。これは自然の卓越した構築である。それが室町時代の中頃、武士のために、書院造という、貴族の寝殿造とは対照的な建築様式が生まれた。枯山水と呼ばれるその石庭は、広大な「自然」をごく小さな空間に位置づける。その代表としてあげられるのが竜安寺の庭である。「何もない」空間と岩に対して、鑑賞者が独自の解釈を形成するための十分な余地が残されている。小川や池はなく岩の根元には苔が生えるだけで、草木はない。この庭には地面も土もない。土の上には海を象徴する白砂が敷き詰められており、波を模してかき分けられている。そしてそこに浮かぶかのように、大小15個の石が配されている。庭の前のどこに座っても、15個の石がすべて見えることはなく、記憶と想像力が常に知覚に関与していることを示している。合理性の要求を満たす典型的なフランス庭園とは対照的に、庭園の小ささが訪問者に広大な宇宙を思い描かせ、深い感情をかき立てるのだと指摘している。木々を吹き抜ける風の音以外は、まったくの静寂がこの体験の本質的な部分であるが、庭を眺めるために座る木の床は、その上を歩くと鶯の鳴き声が聞こえるようにつくられている。
 この時期に発展したわび茶は、枯山水の二つの重要な特徴、いわゆるミニマリズムの哲学と「自然」の中に組み込まれた実践を、枯山水と共有している。
 まとめると、武士が築いた中世の「自然」は、平安貴族の「自然」とほぼ正反対であり、それまでの奈良時代の農耕的な「自然」ともまったく異なっていた。花も鳥もいない枯山水はミニマリストの創造物であり、その解釈は観る者の記憶と想像力にかかっている。戦国武将たちは地面を見せることを許さず、岩や小石で「日本の自然」を創造したのである。
 この基本的な美意識と哲学は、この時代に発展した茶道「わび茶」にも共通するもので、物質性を否定し「自然」との近さを強調していた。この時代の他の芸術や建築の発展も、こうした美意識や哲学を共有していた。能では、舞台装置がほとんどない無体のなかで体のなかで体の動きを強調するミニマリズム建築である。
 一方では、社会文化的、政治的構造が完全に覆されはしたものの、それは修復され、あるいは強化された。古代における基本的な宇宙的原理である「土/地」の否定的な価値観はそのまま残り、秀吉のような歴史的エージェントにより自らの目的のために利用された。最も重要なことは、朝廷から経済的、政治的、軍事的な権力を奪った武士たちが、依然として天皇が日本社会の頂点に座することをいかにも顕著に物語る昇殿の制度を遵守したことである。

2026年3月30日 (月)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(4)~第3章 農耕民族の四季から文化的に定義された四季へ─奈良時代と平安時代

 中国では、自然という言葉・概念は老子のものとされている。それが日本に渡り、『万葉集』では「おのずから」という意味で用いられた。名詞として使われるようになったのは後代のことで、天地自然の無数の存在を指している。つまり、宇宙の「存在」であって、西洋思想における「自然」のような抽象的な概念ではない。和辻哲郎は人間存在の構造契機としての「風土性」という概念を提唱した。和辻は人間は社会の一員であると同時に個人でもあるという、人間の二面性を指摘している。彼は自然環境ではなく人間を中心とした時間的かつ空間的な概念として風土を捉えた。風土は文化から離れた「自然」ではなく「自然」という生活環境を示唆している。風土という概念は。日本の民族が自然の中で生活していたことを示すものであり、自然を別の範疇・圏域と見なしていたわけではない。風土が日本人の自然概念の根底にある一方で、文化的に定義された「自然」としての四季は、奈良時代の稲作農耕を基盤として、その後、農耕生活を直接参加することなく発展し始めた。
 奈良時代において中国人は強力な他者であり、日本のエリートは、全面的ではないにせよ、唐の中国文明を熱心に取り入れ、吸収したその反面、日本のエリートたちは、中国とは異なる日本人のアイデンティティ意識と折り合いをつける必要に迫られた。『万葉集』は、その後の平安時代のエリート文化とは異なる物語を伝えている。歌人はさまざまな身分の人を含も、廷臣や貴族が中心の後の勅撰和歌集とは異なっている。そこで歌われる季節の基本的な概念は中国から伝わったもので、季節、四季、春夏秋冬、時間性を表わす重要な語が見られる。日本の歌人たちは「季」に関する表現を多く用いたが、中国の歌をそのまま真似たわけではない、それそれぞれの季節を表現するために、宇宙のさまざまな生物を選び、さまざまな意味をもたせたのである。それぞれの季節は特定の花によって定義される。『万葉集』で最も多いのは秋の花の萩である。それは、万葉の人々にとって稲の収穫がいかに重要であったかを物語っている。萩の花の満開は、稲穂の収穫と象徴的に結びついている。桜は平安京に都が移ってから日本人にとって重要な花となったが、『万葉集』の頃には花の中で王座をしめていなかった。農耕民族の宇宙観では、山の神が降りてきて田の神となる。桜の季節「春」は、農民にとって稲の苗を植える時期である。桜の花は秋の稲の豊作を占う。桜と稲のあいだには、象徴的な等価性を確立する儀式や信仰が数多く存在する。『万葉集』の歌における美意識は、後世のそれとは大きく異なっている。米や麦など実用的な植物が美しいとされる。萩が美しいのは、熟した米粒が美しいことを表わしているからである。
 奈良時代の日本の四季が農耕の季節、とくに稲の生育段階に基づく季節であったことは間違いない。当時の日本人にとって、秋は稲の収穫を喜ぶ一年で最も美しい季節であり、それは秋を詠んだ万葉歌が春を詠んだものより圧倒的に多いことからも分かる。このことは、奈良時代には、エリートも民衆も農作業の成長サイクルと密接な関係をもちながら生活していたことを示している。
 奈良時代が稲を神々の住まいとして祝ったとすれば、平安時代は稲に対応する春桜が春の稲である。農耕の宇宙観では、山の神が春になると桜の花びらに乗って降臨し、田の神となる。万葉歌人とは異なり、平安時代の宮廷歌人は平安京から出る機会はほとんどなく、稲や田んぼとは縁遠い生活を送っていた。空間的な区分とそれに関連する価値観については、この時代、階級構造の高度な発達を反映して、穢土に触れないというエリートのための規則が最も明確になった。奈良時代には、桜といえば山桜しかなかった。『万葉集』では、都の貴族がまた中国からの梅の花の美意識を楽しんでいた時代に、無名の歌人や農村出身の歌人による歌のなかになかには桜への言及が見られ、人々のあいだで桜の花が重要視されていた重要視されていたことを示している。やがて8世紀から9世紀にかけて、エリートたちはしだいに日本の桜の美学に傾倒し、その後の歴史を通じて、桜は日本人の集団的アイデンティティの最も重要なメタファーとなった。この時期、奈良時代に中国文明を全面的に取り入れた日本のエリートたちは、そこから脱して「国風文化」を確立した。9世紀には遣唐使が中止されるなど、中国に対する態度が大きく変化したが、中国文明の影響は続いていた。
 平安時代、エリートたちは四季と12カ月を集中的に「文化化」し始めた。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』は『万葉集』とは異なり、選ばれた歌人はすべてエリートである。和歌は四季ごとに分類されている。その多くは憂愁と悲哀に満ちたもので、「かなし」という言葉がしばしば登場する。四季の概念が発展すればするほど、季節は自然から遠ざかっていった。四季が文化的に決められたものであることは、この時代に月が詠まれるのは月に憂愁を連想させる秋に限定されており、あたかも他の季節には月がないかのようであることにもうかがえる。四季はエリートの日常生活、つまり何を着て何を食べるか「四季の料理」をも支配していた。あたかも、文化的に定義された四季が、「自然の」四季という考えをさらに発展させる源になったと見ることができる。廷臣たちの生活の中心は宮廷であり、その高度な文化活動であった。貴族の生活は、彼らが発展に貢献した四季によって逆に制限された。平安宮廷の優雅で華麗な生活の象徴となった十二単は、「自然」を再現するための厳格なデザインと色彩の規範によって管理され、季節ごとに相応しい衣装を身に着けることが要求された。同様に和歌も、文化的に決められた「自然」を季題とたなければならない。文化的に定義された「自然」が四季に分かれ、それぞれの季節や十二カ月で細かく規定されるようになった。これが「日本の自然」「日本の四季」となり、構築された「自然」を「本当の自然」として見るようになったのである。この「自然」は、宮廷の所在地である京都という限られた地域から生まれた。亜熱帯から亜寒帯まで広がる日本の実際の生態系は常に多様であり、宮廷の動植物相は他の地域とはかなり異なっていたにもかかわらず、宮廷で構築された「自然」が「日本の自然」となっていったのである。こうして四季は、文学、音楽、絵画、儀式などの文化活動の発露の基礎となった。大和絵と呼ばれる日本の絵画伝統は、9世紀後半に中国の漢画に支配された伝統から脱却するためな発展したもので、四季を花鳥や自然の風物で表現することに重点を置いた。この時期の和歌が、奈良時代の和歌にくらべて決定的に憂いを帯び、悲しみに満ちていることが多いのは、自然のはかなさに対する嘆きではなく、人生の悲しみの投影だったと解釈できる。「自然」は感情を表現する媒介となった。万葉歌人にとって喜びの秋だったものが、平安貴族歌人にとって悲しみの秋となったのは、そのためである。
 きとめると、奈良時代の農耕歴に基づく「日本の自然」「日本の四季」は、その後の平安時代にはエリートたちの文化的な「自然」「四季」へと発展していった。自然の秋が必ずしも、悲しみ、はかなさ、その他の関連した感情と結びついていないことは、明らかであると思われる。奈良時代の歌人たちにとって、秋は稲の収穫を伴う1年で最も楽しい季節であった。平安歌人たちが秋の歌で悲しみを表現するのは、秋が多くの植物の成長の終わりを告げるからではなく、愛する人のいない寂しさからである。これは、「日本の四季」が、「自然」のなかで実際に何が起こるとは関係なく構築された枠組みのなかで理解され始めたことを例証している。この枠組みは、花の色に由来する配色を含め、視覚的、聴覚的、情緒的な側面をもっていた。一方、精緻に構築された「自然」は、花や月などの自然現象を鑑賞する儀式、和歌の詠唱、日常生活における美意識など、高度に洗練された文化活動を花開かせる足がかりとなった。こうした文化活動を通じて、「四季」は「日本の自然」となり、エリートだけでなく庶民にも受け入れられるようになった。平安時代の発展は、本来の宇宙観における空間的価値観をさらに強固なものにした。平安貴族にとっての「自然」とは、地面に触れることがない花、鳥、蝶が象徴している。

2026年3月29日 (日)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(3)~第2章 清らかな水田─奈良時代初期における「日本の自然」の誕生

 古代、水稲農業が日本に伝わり、天皇制の政治経済の基礎が築かれた。重要なのは、「稲魂」を宇宙の住人の魂の階層の最上位に置くことであった。それに従って基本的な空間区分と価値観が設定され、上は清浄、下は不浄と分類され、田んぼは水田、つまり土のない清らかな水と定義された。第二に、この空間区分は、天皇が垂直(上下)と水平(左右)の区分とそれに伴う価値観を管理するという、宇宙の永続的な地図作成において重要であった。これらの概念は歴史的な変遷を経て「自然化」され、日本の宇宙論の基本原理として機能し、その上いわゆる宇宙論的/象徴論的構造だけでなく、人々や人間以外の動物の分類、そして人々の日常の行動も支配した。
 狩猟採集の縄文時代から稲作の弥生時代へ。日本人が米を主食として採用したことで、一般民衆の生活は改善されずに国家形成と社会階層化が進んだ。古墳時代、税金として米を徴収するようになり、上流階級と庶民の食生活は異なるものとなった。貴族階級の食生活は米中心、庶民は米をほとんど食べられず、おもに粟のような雑穀や、野菜、肉などを食べていた。つまり、稲作は米の生産者であっても、多かれ少なかれ米の消費者ではなかった原因となっている。このように、水稲耕作はその後の日本の歴史における社会的不平等の基礎を築いた。また、この時代にも天皇や皇子たちは狩猟を続け、狩猟は天皇の権力維持に重要な役割を果たした。それはヨーロッパの王たちが行っていたような本格的狩猟とは本質的に異なっていた。古代の天皇や皇子による狩猟には二種類あり、天皇が弓矢で射る狩猟と、御立丘からその様子を見守る狩猟があった。祈狩は、狩猟によって神に吉凶を占ってもらう儀式であった。この狩猟は模擬狩猟であった。
 古代から奈良時代にかけての時代に、朝廷は農耕宇宙論を体系的に発展させ、それを政治的基盤とするように努めた。『古事記』は、天照大神が皇室の祖神として確立された7世紀以降に書かれたもので、天照大神は穀物の魂の母とされている。伝説上の初代天皇である神武天皇は穀霊の息子であり、天照大神が地上の統治に遣わした孫瓊瓊杵尊の曾孫である。天照大神は、孫が天孫の際、保食神から授かった五穀をこれに与え、孫は荒野を瑞穂と五穀の国とし、すなわち「日本」をつくった。
 米粒一つ一つに魂があり、籾殻のなかで米が生きているという考えは、日本だけなく、米を主食とする他のほとんどの文化において、米に与えられて意味の根底にある。日本では、人々は、米を食べることによって米の和魂を体内に取り込む、あるいは、種まき、苗の植え付け、収穫という稲の成長の各段階を祝う儀式を行うことで、米の神の力を活用することができる。豊作を確実にするために超自然的な力を求めることは、天皇を含む呪術的宗教指導者、すなわちシャーマン兼政治指導者によるこれらの儀式の遂行に依存している。毎年の収穫祭儀は、政治指導者の統治を正当化し、指導者の再生を確実なものにし、その権力を若返らせる役割を果たした。天皇は稲に関しての祭祀を行う者であり、それが天皇の権力の基盤となった。

2026年3月27日 (金)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(2)~第1章 日本人の宇宙に住まう者たち

 日本人にとっての「自然」を論じるには、日本人の宇宙に住まう者たちの「日本の自然」における役割を理解することが不可欠である。宇宙に住まう者たちは文化的に選択され、選択されない者たちは排除されている。ここではこのことを主に宗教や昔話等に焦点を当てて検討する。日本固有の宗教である神道がはたす役割は、とりわけ重要である。そのアニミズム的な前提は、宇宙のあらゆる存在に、我々が無生物で呼ぶものを含めた「すべて」に、魂があるということである。しかし「すべて」とは選別されたものであり、例えば縫い針は重要だが、指ぬきは重要でない、ということになる。また、仏教は、日本人の考え方に影響を与え、人間の死後にその魂を慈しむ習慣を導入した。仏教の教義は人間と動物のあいだに明確な境界線や階層を認めない。この魂というものは、日本人の宇宙を理解するうえで極めて重要となる。
 古代における魂への信仰は、程度の差こそあれ、時代を越えて続いてきた。魂を「すべて」の存在に共通する性質だと信じることは、人間、獣、植物、モノといったカテゴリーの境界を容易に越えさせ、それが日本人の宇宙に住まう異なる存在のあいだに連続性をもたらす基礎となっている。魂の最も重要な特性はつ次のようにまとめられる。①目に見えないこと。②非物質であること。③宿るという概念をとること。④死は魂が肉体から離れる現象であること。⑤魂には破壊的な力もあり、魂が滞在していた肉体から不適切に離脱した期にはそれが発生するということ。神々の魂には特別な性質がある。依代という概念は最も重要で、これは神の魂が宿る場所であり、木や岩、動物、人間、とくにシャーマンであることが多い。魂という概念は、言葉、とくに神話にも当てはまる。言葉の魂である言霊とその呼びかけである言挙は対になる概念である。言霊の力は神々を呼びその助けを求める呪文の中で、言葉を発すること、つまり言挙という行為によって明らかにされる。言葉を単なる思考の表象としてではなく、行為として認識する。
 日本では、言葉だけでなく、宇宙のあらゆる存在に宿る、形のない魂こそが本質なのだ。伊勢神宮は、権力の不可視性に対する日本人の信仰を建築的に表現したもので、太陽の女神である天照大神が鎮座する最も重要な神社である。この神は農耕民族である日本人のパンテオンのなかで、間違いなく最も重要な神であり、宇宙に光を与え、作物、とくに稲に暖かさを与える。内宮にいる太陽の女神は、その姿を見ることはできない。参拝は神社を訪れると、手を叩いて見えない神を招き、あたかもそこに居るかのように話しかけ、日用品を供える。神道の神々は自然の存在であり、したがって神が住むための建造物を建てる必要はなく、また彫像として神を表現することもなかった。しかし、6世紀に仏像を重視する仏教が伝来し、普及した。仏教が民間に流布するにつれ、神道も9世紀以降には神社を建て、木像を制作することを余儀なくされた。これは画期的なことで、神道の神々が占める「自然」が初めて可視化され、物質化されることを余儀なくされた。
 神道から生まれた神という概念は、非常に柔軟に、普通の人間以上の力を持つ存在と想定され、仏陀を含むすべての超人的存在を指すのに使われてきた。神は人間であると同時に超人間的存在であり、聖と俗の概念を複雑かつ流動的に適用する必要がある。日本人は神と人間の両方に、善と悪、建設的と破壊的など、両極の性格を力を認めている。人神という概念は、人間と神々が連続体として存在するこの宇宙論の中心である。日本人の神は、キリスト教、ユダヤ教、イスラムのような一神教の神とは全く異なる。神は人間によってつくられることもあれば、その地位を剥奪されることもあるし、人間が神になることもある。その宇宙の住民のヒエラルキーは、人間、超人的力を持つ天皇、次に神々という昇順に構成されている。このような神の概念は、全能の神の存在も、宇宙の住人のあいだに固定された境界線を引くことも許さない。日本の宗教性における神のダイナミックな性格は、日本人が外国の宗教を取り入れた柔軟性と無縁ではない。西洋の宗教観から見れば驚くべくことかもしれない。
 稲は日本人の宇宙の生物のなかでヒエラルキーの頂点を占めている。その次が樹木で、人間や動物よりも上位に位置する。樹木は神の魂が宿る依代として大きな力を持つ。動物の分類は非常に流動的で、境界の交差は非常に頻繁に起こる。ただし、動物についての基本的なルールは上と下という空間的な原理であり、価値観としては美しい/崇高なもの、と穢れたものである。つまり分類の基準は、動物の足の本数ではなく、その形態的特徴によって、穢れた地面とどれだけ接しているかということになる。しかし、この分類は食肉においては非常に柔軟で、胴部が頻繁に分類の枠を越える。また、昔話では、動物が人間に、人間が動物に変身する。
 「日本の自然」を理解するために、この章では、日本の宇宙論における重要な概念である「魂」と「神」、そしてその宇宙に住む重要な住民を紹介してきた。分類の基本的な基準は、形態ではなく、その機能としての行動である。もう一つの点は、分類のシステムは複数あり、すべてではないがほとんどの分類の境界線は柔軟であるということである。
 魂は世界のほとんどの人々にとって大切である。魂は宇宙における万物が共有するものであるとされている。アニミズムは、人間が人間以外の宇宙の住民に自分自身と同一の内面性を帰属させている。すべての民族が人間以外のものにある種の内面性を認めており、それを魂、心などと呼んでいる。アニミズムは、ほとんどの人々の世界観において魂は宇宙のすべての存在に共通するもの、という最小限の定義によって分類規範の境界を越え、変身するための基盤を提供する。日本では、人間以外の動物がすべて人間に変身するわけではなく、時代によって変身する動物も変身方法も異なる。
 西欧では狩猟民族の王が、狩猟と肉食を政治権力の基盤として重要視してきた。対照的に日本では、植物が常に宇宙のヒエラルキーの頂点を占めてきた。しかし西洋でも日本でも、このような社会的/文化的ヒエラルキーの確立は、自然なプロセスでもなければ、厳密に功利主義的根拠に基づくものでもなかった。宗教がこの過程で重要かつ長期的な役割を果たしてきた。

2026年3月26日 (木)

大貫恵美子「つくられた日本の自然─「日本の自然」はどのように語られてきたか」(1)~序章─人類学理論における「自然」

 現代人は「原始の自然」が「そこにあること」を当然視している。ところが実際には、原初的な暮らしを営む人々には、「自然」という観念も言葉もない。「客観的にそこにある自然」というプラトン以来の見解は、当たり前の、それこそ「自然な」ものとされてきたわけだが、そうなった要因は何だったのだろうか。本書はその答えを、日本文化を歴史的過程として理解するうちに見出す試みである。
 環境の認識と理解の手段は民族によって異なる。例えば、ヨーロッパ人は、マーティン・ジェイが視覚中心主義と呼んだものが、神を直接的に知覚することへのテキストの干渉に反対するものとしてルネサンス期に始まり、宗教以外の分野にも広がった。それはさらにデカルトの物理学の称賛につながり、「自然」を「人間が自分自身の支配者や主人公になれるような腹話術師の人形」に変えた。人が自然をどう感じているかは多種多様である。
 農業経済を基盤として建設された国家のなかには、王やエリート男性が、彼らの男性としての、または政治家としてのパワーの証拠として、「野生の自然」の克服を行う伝統がある。狩猟は政治的、軍事的権力の源泉であった。ヨーロッパ社会では狩猟は貴族に限られた特権であり、庶民は王家の森に入ることは許されなかった。そのため、狩猟は食糧源を提供する自給自足の経済活動とはほど遠く、肉の不足からではなく穀物不足の時に民衆の暴動が起こっている。
 都市化に続く普遍的な現象として、多くの社会で、都会人にとっては「田舎」が「自然」となった。都市が生まれると田舎が生まれ、都市住民はしばしば「原始の自然」とのつながり、また再つながりを欲するようになる。彼らにとって「自然」は、採食、牧畜、農業に従事する人々で象徴されたが、実際にはこれらの人々の間に、「自然」は概念としても言葉としても存在しない。樹木やその他の植物をすべて伐採し、自然を徹底的に破壊してつくられた農地は、都市住民の視点では「自然」となる。こうした過程で自然対文化という象徴的な対立が誕生した。多くの脱農業社会では、この二つは対立する概念となり、それぞれに肯定的価値と否定的価値が割り当てられた。都市は人間の業績を表示する文明、その反面退廃した人間の住まう空間を表わし、田舎は原初のピュアな空間、または未開で文明のない場所を指す。例えば、英国の都市部の住民にとって田舎は、穏やかで牧歌的な自然との交わりに満足している、非の打ちどころのないアルカディア人が享受する環境。または反対に、退屈と無作法が競い合う後進的で孤立した世界、そしてそこでは憂鬱と近親相姦の疑いが生じる。
 本書では「自然」という言葉を、人間が占めていない宇宙の空間を指すものとして用いる。私の関心は、その空間がどのように表現されるかであるが、じつは「表現された自然」であるところのものが「本当の自然」として人々に認識されている。その過程を、日本を例にとって歴史的に追究することが本書の目的である。西洋においては古代ギリシアのプラトンが芸術を「自然」の模倣としてはじめて定義した。画家を幻影や真実の模倣者と呼び、模倣芸術は真実から遠く離れており、全体を再現すると主張しながら一部しか提示していないと宣言している。プラトンにとって芸術は真実/自然を生み出そうとして失敗した試みである。日本文学者の白根治夫は、文学、演劇、その他における前近代の「日本の四季」を綿密に研究し、「二次的自然」という用語を用い、「自然」とは、都市に住む貴族にとって「遠く離れた、あるいはめったに見られない、より原始的な自然の代わり」となった自然を指す言葉として使われるようになった。著者の例で言えば、ナマズの絵を描こうとして大津絵のなまずを思い出しながら描いたら、本物とはほど遠いものだった。そこではじめて実際のなまずを見たことがないことに気がついた。視覚的、聴覚的表現が高度に発達した社会では、人々の「自然」概念の源泉としての表現はきわめて重要である。時には、自然とその表現のあいだに微妙な綱引きが起こる。基本的な問題は、その表現は本当に客観的に存在するものとされるものの模倣なのかということだ。
 日本の文化と社会を長期にわたって研究することで、著者は日常と高尚な宇宙観との関係を考察することができたという。その研究によって、宇宙論や存在論などは高次の独立した精神運動ではなく、人々の日常生活に深く関わっていることが明らかになった。それは、上下という宇宙の空間を分類する表象軸と人々の日常生活の行動規定が、相互に歴史的に継続し、また変化をもたらすということである。一連の表象が支配し「自然」になるにつれて、「自然」が後退していくのも見ることができた。その過程で、著者は歴史的変化の複雑さを知ることができたという。それは、単一の個人が権力を行使するのではなく、おもに権力者と権力のない者が自分のプロセスに気づかないまま歴史的変化を導入するというものである。自然の表象を創造した者は、他者に自分の表象を真似するよう言ったわけではないが、後者はたとえば芸術・文化作品を自ら賛美し、それを「真の自然」として喜んで受け取る場合が多い。江戸時代以降は資本主義の発展とともに「自然」は商品化され、それが「客観的な自然」として具体化された。このプロセスでさえ、強制的な圧力を伴うものではなく、人々はプロセスに関与していることを知らずに自発的に参加する。

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