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書籍・雑誌

2023年3月23日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(7)~第6章 日中戦争の展開と東亜新秩序

 日中戦争に対して、石原は派兵は華北だけにとどめなければ全面戦争となるおそれがあるとして、不拡大の考えだった。これに対して、武藤は派兵に積極的だったが、海軍からの強い要請があり、派兵を行なった。その後も、石原は戦線を限定しようとしたが、関東軍は華北での戦線を拡大した。中央で石原と武藤が意見対立し統一した戦争指導ができない状態では、現地の軍をコントロールすることは困難だった。これが現地軍の独走を許すことになった。このようにして、日中戦争は全面戦争となっていった。石原は武藤との抗争に敗れ陸軍中央を去った。しかし、陸軍中央には石原の影響は残り、その後も不統一は解消できず、派兵が決まっても、逐次の投入となり、兵力の損害は少なくなかった。
その中で南京侵攻が開始された。参謀本部は反対で、侵攻の事前準備がほとんどなされず、兵站補給が不十分で、現地での食料・物資の略奪が多発することとなった。そのことが南京事件を誘発することになる。石原の影響の残る参謀本部が南京侵攻に反対したのは背景があった。当時、トラウトマンを仲介とする南京政府との和解工作が進められていたからだ。また、彼らは南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していた。
 1938年1月近衛首相は「爾後国民政府を相手とせず」と声明を発表。この声明は、中国のみならず国際社会に対する軽視できない意味を持っていた。当時の東アジアでは、中国の領土保全、門戸開放に関する9か国条約が重要な位置を占めていた。そして、国際社会の承認を受けている中国の正統的な政権は南京国民政府だった。その南京国民政府を日本は事実上否定し、新たな中央政府成立を求めることを表明したのだった。このことは、従来の東アジア国際秩序のあり方とは異なるスタンスに立つことを示唆していた。それが、後の東亜新秩序へとつながっていく。
 日本軍は広大な中国を軍事的に制圧するには、兵力の絶対量が不足していたため、いわゆる「線の支配」にとどまり、「面」を制することはできなかった。軍事的手段による早期解決の可能性はほとんどなくなってしまった。
 11月、近衛内閣は「東亜新秩序」声明を発表した。この声明は、国際社会に対する基本的スタンスの変更を示していた。すなわち、それまでの日中戦争は中国側の排日行為に対する自衛行為とされてきたが、それが東亜新秩序の建設を目的とするものと新たに位置づけられたのである。これは9か国条約を軸とするワシントン体制を事実上否定するもので、それに代わる新しい東アジア国際秩序をつくるという姿勢を示したのであった。この内容は、華北・内蒙古の資源確保とそのための駐兵を主眼とするもので、また、列国の中国権益や経済活動の制限を含んでいた。その意味で従来のワシントン体制の主権尊重、機会均等の原則に明らかに対抗する内容をもっていた。これは、これまでの列国の既得権益尊重の原則を修正するものといえた。
 このワシントン体制批判として「東亜新秩序」は、ヴェルサイユ体制の打破を掲げるナス・ドイツの「ヨーロッパ新秩序」のスローガンにならったものであった。ただし、当時の陸軍中央はドイツとの連携を欲してはおらず、同様に米英と軍事的に敵対すること意図してはいなかった。
 この頃、武藤が陸軍中央に復帰し統制派系が圧倒的な影響力をもつこととなった。
統制派幕僚にとって、日中戦争は必ずしも全面的な中国支配そのものを目的としてはいなかった。次期世界大戦に備え、必要な軍需資源や経済権益を確保することを主要な戦略目標としていた。そのような中国の位置付けは、永田の構想以来、統制派系に受け継がれてきたものだった。次期大戦への対処の問題が、常に彼らの念頭に置かれていたからだ。しかも、欧州ではナチス・ドイツがオーストリアを併合し、チェコのズデーデン割譲など大戦勃発の可能性が現実のものとなりつつあった。その情勢をみた統制派幕僚は、次期大戦への対応を考慮し軍事的弾力性とそれを支える人的物的国力を温存すべきと考えていた。
 一方、近衛内閣の声明に対して、中国はもちろん英米も強く反発した。それまでのアメリカ政府は日本を非難してはきたが、具体的な対日制裁や中国支援は控え、むしろ日米和平を望んでいた。当時の対日輸出は対中輸出の7倍近くを占めていたし、英国も危機的なヨーロッパ情勢への対応に忙殺され中国では権益維持を図るために日本の行動に妥協的態度をとらざるを得なかったからだ。しかし、声明を機に米英は財政的な中国支援に踏み出した。

2023年3月22日 (水)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(6)~第5章 2.26事件前後の陸軍と大陸政策の相克─石原莞爾戦争指導課長の時代

 1933年5月の塘沽停戦協定締結後、日中関係は小康状態が続いた。しかし、1935年になると華北分離工作が始まる。同じ頃、ヨーロッパではナチスドイツが再軍備宣言をし、ヴェルサイユ条約体制が破綻し、緊張が高まった。日本の動きは、欧州の動向と無関係ではない、永田は次期大戦はドイツをめぐってヨーロッパから起こる蓋然性が高まったと見た。のことを念頭に、国家総力戦に対応するための資源確保が現実の要請として強く意識したのだった。
 永田の死亡の翌年、2.26事件が起こり、皇道派および宇垣系の政治色のある上級将校はいなくなった。永田亡き後、強い影響力を持つようになったのは、陸軍省では武藤章、参謀本部では作戦課長となった石原莞爾だった。
 石原は、その頃の日本の在満兵力が極東ソ連軍の3割あまりの劣勢で、しかも戦車や航空兵力では5分の1程度であることを知り、愕然とする。そこで、8割程度の戦力を配備する必要がある。まず、ソ連の極東攻勢政策を断念させることを強調し持久戦の準備が必要で、そこでは米英との親善関係の保持を必須とする。したがって、対支工作は米英との親善関係を保持しうる範囲に制限される。
 石原は、1936年「戦争計画準備方針」を策定。5年後の1941年までに対ソ戦準備を整えるとされ、その中心的な内容は、第一に兵備の充実、第二に持久戦に必要な産業力の大発展を図る。とりわけ満州国の急速な開発を行い、相当の軍需品を大陸で生産できる態勢を確立する。その具体策として、日満産業5ヵ年計画を提出した。これはソ連の社会主義経済論から計画経済による工業生産力の拡充という新しい考え方を導入した計画経済的統制経済論というべきものだった。このような考え方は、第1次世界大戦後のドイツをモデルとした永田の統制経済論には含まれていない観点だった。永田の統制経済論は、現にある工業生産力や技術を、国家的観点から合理的に再編成し統制・管理しようとするものだった。それに対して、石原は、統制・管理だけでなく、国家主導による工業生産力や技術水準そのものの高度化も、目的に含んでいた。石原は国家主導で重工業中心とした生産力の飛躍的発展を図ろうとした。そして、石原は生産力拡充の観点から、国内経済の平和的安定化を重視し、不戦方針つまり平和維持の方針を打ち出した。そのため、ソ連との不可侵条約の可能性も視野に入れていて、そのためにも対ソ戦備の充実が必要だと考えていた。石原はソ連に対しては、北方への領土拡大は求めずに、脅威の排除による満州の平和維持による産業発展や資源確保を優先させていた。これらを遂行するため政治的には、満州国は一党独裁体制とすべきと考えていた。これはソ連をモデルとしたもので、後に武藤による一国一党論に受け継がれていく。このような一党独裁の考え方は永田には見られなかった。永田は、陸軍が独自に国策の具体案を作成し、陸相を通じて内閣に強要するにとどまっていた。
 そもそも、石原の長期戦略はアメリカとの世界最終戦を念頭に、東アジア、東南アジアの英国勢力の駆逐と、そこでの東亜連盟の建設、資源確保に向けられていた。つまり、基本的には南方進出論と言えるものだった。対ソ戦備の充実は、その前提としてソ連の極東攻勢を断念させ、背後の安全を確保しておこうというものだった。そのため、中国に対しても、北支は漢民族の統一運動に包含されるべきとして、従来の分断工作を中止し、国民政府との宥和を志向した。これが外務省の日英の接近に繋がって行った。
 そこに、1937年の盧溝橋事件が勃発する。石原は戦線の不拡大を方針とした。これに対して、武藤や田中新一らの関東軍は拡大を主張し、対立する。石原は戦線を拡大すれば全面戦争となる危険が大きい。中国と戦争になれば長期にわたる持久戦となることは避けられない。しかし、状況としては相当数の精鋭部隊を対ソ国境に配備しておかねばならず、十分な兵力を中国に投入できない。そのような状況下で、中国の広大な領土を利用して抵抗されれば、泥沼に入った状態となり身動きが取れなくなる。今は対ソ戦備に充実に全力をあげるときであり、中国との軍事紛争となれば、その力を削がれる。その時の中国はかつての分裂状況から国家統一に向かいつつあり、民衆レベルでの民族意識が覚醒してきている。そのような中国との戦争となれば。長期の持久戦となる危険が大きく、自らの国防戦線が崩壊する。それに対して、武藤は、中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石らの国民政府は屈服する。それで、軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北を日本の勢力下に入れるべきである。そして、満州と相俟って対ソ戦略体制を強化すべきであり、絶好の好機である。ただ、武藤の、このような中国認識は副次的な理由だった。主要な要因は、石原の欧州戦争不介入論に基づく、華北分離工作の中止や華北権益放棄の方針を打破することにあった。当時の欧州では軍事的緊張が高まっているなか、武藤は次期大戦への対処の観点から、石原の政策に強い危機感を持ち、華北の軍需資源と経済権益をあくまでも確保しようとしたのだった。
 ところで、盧溝橋事件については、当時の中国では、このような小規模な紛争は珍しいことではなかった。それを武藤は事態を拡大させようとしたのか。それは、永田の指導下で自ら起案した華北分離政策を石原が放棄したことに強く反発していた。武藤による石原の不拡大政策への攻撃は、石原の華北分離工作中止への反撃でもあった。その意味で、日中戦争は、石原の華北分離政策に対する反動であり、激しい揺り戻しとして始まったとも言える。

2023年3月21日 (火)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(5)~第4章 陸軍派閥抗争─皇道派と統制派

 1933年、一夕会内部で永田と小畑の政策的対立が表面化する。これが皇道派と統制派の抗争の始まりである。
 二人の対立は対ソ戦略をめぐるものだった。日本の満州政策は、ソ連にとっては北満経営と対立するもので脅威と憤怒を生じさせていた。にもかかわらずソ連が反攻してこないのは、ソ連の国内事情からであった。したがって、ソ連の国力が回復し、英米の対日感情が悪化する等の条件が整えば、チャンスと捉えて反攻してくる明らかだ。そこで小畑は、そのような条件が整う前に、ソ連に一撃を与え、極東兵備を潰滅させる必要があると考えていた。さらに、1936年前後の対ソ開戦を企図していた。
 これに対して、永田は、ソ連は第2次5か年計画が終了しても戦争準備が完了するまで数年かかると見ていた。また、現在の国際情勢は日本にとって有利なものではなく、満州国の迅速な建設が焦眉の課題である。国内的にも挙国一致は表面的なものにとどまり、もし対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整ななどの後にすべきだと考えていた。永田は対ソ戦は、一撃や極東戦備の潰滅で終結する程度のものではなく、国家総動員を必要とする総力戦になると判じていた。そのためには、満蒙のみならず華北・華中の資源が必要であると考えていた。このため、中国への介入に積極的で、中国の反日的行動にはアメリカ海軍力の背景があるとして、対抗意識を強めていた。
 しかし、派閥抗争が本格化したのは陸軍内の人事問題、荒木、真崎などの非宇垣系のトップが一夕会の勢いを抑えようとしたこと、がからんでのものだと言える。
 この時期、陸軍では各部隊に配属されている隊付青年将校の間で国家改造をめざす政治的グループが形成されていた(この主要メンバーが後に2.26事件のメンバーとなる)。永田は軍の統制を乱し、軍部による国家の改革を困難にしているとして許容しない姿勢であった。それゆえか、彼らは、後に皇道派と密接なつながりを持つようになっていく。
 真崎ら皇道派と永田ら統制派は陸軍人事をめぐり抗争を激化させ、ついには永田の斬殺事件が起こってしまった。

2023年3月20日 (月)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(4)~第3章 昭和陸軍の構想─永田鉄山

 永田はヨーロッパで第1次世界大戦を経験し、衝撃を受けた。そして、永田は、大戦によって戦争の性質が大きく変化したことを認識していた。戦車・飛行機などの新兵器の出現と、その大規模な使用による機械戦への移行。通信・交通機関の革新による戦争規模の飛躍的拡大。それを支える膨大な軍事物資の必要。これらによって、戦争が、兵員のみならず、兵器・機械生産工業とそれを支える人的物的資源を総動員し、国の総力をあげて戦争遂行を行う国家総力戦となったとみていた。そして、今後、先進国間の戦争は勢力圏の錯綜や同盟提携などの国際的な関係強化によって、世界大戦を誘発すると想定していた。そこから、永田は、将来への用意として、国家総力戦遂行のための準備の必要性を主張した。永田は戦時に限らず、平時から国家総動員のための準備と計画が欠かせないという。例えば、人員の動員では女性労働力の活用とか、産業動員では軍需品の大量生産に適するように、産業組織の大規模化・高度化を提唱し、それは経済の国際競争力の強化にもつながるものだった。
永田は、これからの戦争は、長期持久戦となる可能性が高いため、経済力が勝敗の鍵を握ると指摘する。それゆえ、例えば、中国やロシアのように現在弱体と考えられている国でも、潤沢な資源を持ち、他国から技術的経済的援助を受けることができれば、徐々に大きな交戦能力を発揮するようになりうる。しかも、交通機関の発達や国際関係の複雑化により、随所に敵対者が発生することを予期すべきだ。すなわち、それまで陸軍は主にロシアを仮想的としてきたが、今後は、同盟・提携関係の存在を前提に、例えば国際関係や戦局の展開によって、ロシアだけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツななどの強国も敵側となる可能性がありうる。仮想敵を特定できないということは、提携関係におけるフリーハンドを意味している。このように世界の強国との長期持久戦を想定するならば、日本の版図内の国防資源はきわめて貧弱であり、近辺に資源を確保する必要がある。この不足資源の確保・供給先として、永田は満州を含む中国大陸を念頭に置いた。また、軍備の機械化・高度化を図るには、それららを開発・生産する科学技術と工業生産力を必要とする。日本の現状は列強に比べて貧弱と言わざるを得ない。そのためには、国際分業を前提とした対外的な経済・技術交流の活発化によって工業生産力の増大、科学技術の進展を図り、さらに国力を増進させなければならないと認識していた。永田は、国防に必要な資源について、国内にあるものは保護に努めて、国内に不足するものは対外的に確保することが肝要だが、自給自足が理想だとしている。それゆえ、平時では工業生産力の発達を図るために、欧米や近隣諸国との国際的な経済や技術の交流が必須だと考えていた。この点で永田は国際協調を否定しなかった。
 他方、原敬や浜口雄幸といった政党政治家も国家総力戦の認識はあった。しかも、そうなった場合、日本は極めて困難な状況に陥ることも理解していた。それゆえに、彼らは国際連盟に積極的に関与し、各国と様々な条約を結び、国際協調による戦争抑止に努めた。
 これに対して、永田はヨーロッパの状況から戦争の原因は除去されておらず、次期大戦は不可避と考えていた。
 国際連盟に対しても否定的に評価していた。国際連盟は、国際社会を「力」の支配する世界から「法」の支配する世界へと転換しようとする志向を含むものである。これは、理念として国際社会における原則の転換を図り、国際関係に規範性を導入しようとする試みであると、永田は国際連盟の意義を理解していた。しかし、永田は国際連盟の定める実行手段が、紛争国に対して、その主張を枉げさせることができる権威をもたない。したがって、国際連盟の行使できる戦争防止手段は実効性と効果が疑わしい。したがって平和維持の保障とかなりえない、と永田は考えていた。
 もちろん永田も、戦争を積極的に欲していたわけではなく、平和が望ましいと考えていた。しかし、国際連盟は戦争を抑止できず、戦争は不可避と見ていた。そこで、もし世界大戦が起これば、列国の権益が錯綜している中国大陸に死活的な利害をもつ日本も、否応なく巻き込まれることになる。したがって、日本も次期大戦に備えて、国家総動員のための準備と計画を整えておかねばならないと考えていた。これは、後の統制派幕僚に大きな影響を与えていくことになった。
 さて、国家総動員の事態となれば、各種軍事資源の自給自足体制が求められることになる。しかし、永田の見るところ、帝国の範囲内の国防資源はきわめて貧弱で、自国領の近辺で必要な資源を確保しなければならないと考えていた。この不足資源の供給先として、満蒙を含む中国大陸の資源が強く念頭に置かれていた。永田にとって、中国問題は基本的には国防資源確保の観点から考えられ、満蒙および華北・華中が、その供給先として重視された。とりわけ満蒙は、現実に日本の特殊権益が集積し、多くの重要資源の供給地であり、華北・華中への橋頭保として枢要な位置を占めるものであった。
 その場合の中国資源確保の方法として、同盟・提携関係による方法は、当時の中国政府の排日姿勢では難しいので、場合によっては、軍事的手段など一定の強制力により自給権の形成を想定していた。そのあらわれが、満州事変であり、その後の華北分離工作であった。
 ちなみに、宇垣も自給自足の確保については同じ認識を持っていたが、米英からの輸入を確保する、そのため米英との衝突は避けなければならないと考えていた。それゆえ、中国に対しては米英と協調してあたるべきと考えていた。これに対しては、永田は、それでは日本は独自の立場、自主独立を貫けないと考え、それゆえに、宇垣派や政党政治が米英協調を基本姿勢とした国防方針に批判的であった。
 このような永田の構想が満州事変以降の昭和陸軍をリードしていくことになる。

2023年3月19日 (日)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(3)~第2章 満州事変から5.15事件へ─陸軍における権力転換と政党政治の終焉

 1931年陸軍はトップは宇垣系で「満州問題解決方針の大綱」を決定。実質的に1年後を目途に満蒙での武力行使に向けて準備を行うというものだった。宇垣系の思惑は、あくまでも既得権益の確保のためのもので、限定的なものにとどまることが想定されており、一夕会とは方向を異にしていた。しかし、1年を待たず3か月後に柳条湖事件が起こり、満州事変が始まる。しかし、海外派兵には内閣の承認と天皇の裁可が必要となるが、民政党内閣は承認しなかった。陸相や参謀本部は、これに従い、不拡大を指示。課長レベルでは、矢は放たれたとして反対。そこで、永田は時局対策を策定。それによれば、不拡大の廟議の決定には反対しないが、軍の行動とは別個の問題で、軍は任務達成のために情勢に応じ適宜の措置をとるべきであり、中央からはその行動を拘束しない。関東軍の出動は自衛権の発動によるものであり、これを機に満蒙諸懸案の一挙解決を内閣に迫るべきであると。
 これに対して内閣は現状維持の方針を変えなかった。これに対して今村作戦課長は単独で帷幄上奏を主張。永田は、内閣の承認なしでの統帥系統のみによる派兵は認められないと反対。永田は、内閣を動かなくては満州事変は正当性と合法性を失い、かつ経費の裏づけを得ることができず、結局は失敗する可能性が高いと考えていた。この場合、海外派兵の経費支出には内閣の決定を必須とし、財政的裏付けのない長期出兵は不可能だったからだ。永田は一夕会をバックにして発言力を強めていく。
 また、若槻内閣が朝鮮軍の満州進出を認めたが、それは南陸相の辞任による内閣総辞職を回避するためだった。政権瓦解によって事態が拡大していけば民政党政権の外交政策が根本的に破壊されるのを恐れたのだった。
 10日後、永田ら七課長会議は「満州事変解決に関する方針」を策定。満蒙を中国本土より政治的に分離させるために、独立政権を樹立し、裏からこの政権を操縦して、懸案の解決を図るというものだった。内閣は南陸相の辞任をちらつかされて引きずられ、ついに10月、軍事占領と独立政権樹立を承認。国際関係でも、ここまでがギリギリ許されると考え、引きずられたのはここまでだった。宇垣系の陸軍トップも対ソ、対英考慮から同じように、これ以上の侵攻には反対だった。これに対して一夕会系は侵攻を支持。
 12月、若槻内閣は総辞職。次いで政友会をバックに犬養毅が首相となった。このさなか、満州国建国が宣言された。
 満州事変について、一般には関東軍に陸軍中央が引きずられたという見解があるが、関東軍に引きずられたというよりは、中央の一夕会系中堅幕僚グループが、それに呼応し軍首脳を動かしたものといえる。
 永田は、また、政党政治に対する強い否定的姿勢と、陸相の進退によって内閣をコントロールすることを意識していた。
 5.15事件で政党政治は終焉を迎え、岡田内閣が成立する。

2023年3月17日 (金)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」(2)~第1章 政党政治下の陸軍─宇垣軍政と一夕会の形成

 1921年バーデンバーデンで、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が集まり、藩閥の打破と総動員体制の整備に意気投合、帰国後の27年に陸士16期を中心に二葉会を結成した。会員は彼らの後輩らも加わり拡大する。彼らが藩閥打破のターゲットとなったのは宇垣一成だった。総動員体制については永田が中心となって活動を進めた。また、二葉会には岡村の影響で支那通の人々が集まり(後の満州事変の関係者も何人かいた)、満蒙への関心を集めていく。7年には、彼らに倣って陸士22期が中心に木曜会が結成され、二葉会と連携していく。
 1928年3月(張作霖爆殺事件の3月前)の木曜会の会合では、東条英機が、戦争準備は対ロシアを主眼として、当面の目標を満蒙に完全な政治的勢力を確立することに置き、その際中国との戦争のための準備は資源獲得を目的とすると意見をまとめた。また、東条は将来の戦争は国家の生存のための戦争となり、アメリカは南北アメリカ大陸で十分なので、アジアには軍事介入しないだろうという見解を付言した。ここで、満蒙領有方針が、陸軍中央内で初めて提起されることになる。
 一般に、満州事変は、世界恐慌下の困難を打開するために、石原莞爾ら関東軍で計画・実行されたものと見られている。しかし、じつは1929年末の世界恐慌開始より1年半前に、陸軍中央の幕僚のなかで、満州事変につながっていく満蒙領有方針が、すでに打ち出されていた。したがって、満州事変は、その企図の核心部分においては、世界恐慌とは別の要因によるものだったという。世界恐慌は、かねてからの方針の実行着手に絶好の機会を与えるものだった。
 また、軍部専制の要因とされている統帥権独立については、ここでは統帥権の利用には無理があると認識されていた。それで、軍人が国家を動かすには、政略がすすんで統帥に追随する、つまり政務当局が自ら軍人に追随する必要があり、それには陸軍に新しい派閥をつくって、それを通じて政治に影響力を行使すべきだと言っている。
 1929年、木曜会と二葉会が合流して一夕会が結成された。この結成は陸軍内の宇垣派に対抗するためで、陸軍人事の刷新、満州問題の武力解決、非長州系将官(荒木、真崎、林)の擁立を方針とした。翌年、永田が軍事課長に就任したのをはじめ、陸軍中央の主要閣僚ポストを独占した。

2023年3月16日 (木)

川田稔「日本陸軍の軌跡─永田鉄山の構想とその分岐」

11114_20230316183801  10年前に読んだ本の再読
 昭和陸軍は、満州事変を契機に、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒し、日中戦争そして太平洋戦争へと進んで行ったというのが一般的な見方。しかし、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一(ここに東条英機がいないというのは、彼があくまでも実務官僚であり戦略的な構想力やビジョンを持てなかった)といった人々が、どのような政戦略構想をもっていたか、その変遷を辿ることによって、一般的な見方とは異なる点が見えてくる。とくに、最近、加藤陽子の日清戦争から太平洋戦争にいたるトップ・リーダー層の社会的・心理的な傾向の変遷を丁寧に追いかけた分析を読んだ後で、本書を読むと、トップの下で実務面をリードしていた人々の認識を追いかけるのに触れると、従来と異なる様相が見えてくる。単純化された、ある意味わかりやすい、一般的な見方は、結果的に、ある種の歪みが現れてしまうと言えるだろうことが、見えてくる。また、時代の制約だけではない昭和陸軍の認識の偏りも、従来の見方とは違った視点で見えてくる。歴史の見方について、啓発されるところが少なくない。
 例えば、著者は第二次大戦をイギリスをドイツが屈服させられるかどうかの戦いだったという視点を提示する。もしドイツがイギリスを屈服させたら、アメリカはヨーロッパでの足がかりを失うとともに、ドイツはイギリスの工業力も手に入れ、大西洋と太平洋から挟撃を受けることになる。こうしたアメリカにとっての安全保障上の重要問題だったから、あえて、日独相手の両面作戦をあえてやった、と。この視点からだと、ドイツがバトル・オブ・ブリテンでイギリスの制空権の奪取を諦めて、踵を転じて独ソ戦を開始したことに対して、ドイツにイギリスに矛先を向けさせない牽制とアメリカが見ていたということ。そのために、アメリカは日本がシベリアでソ連に手出ししないように牽制する。それが対日経済制裁に向かう。このような動きは、現代のウクライナ紛争におけるロシアと中国の位置関係が、当時のドイツと日本の位置関係によく似ている。しかもアメリカの姿勢も同じように見える(だから、中国はかつての日本を教訓としてかなり詳細に勉強したのだろうと分かる)。
 一方、日本は「英米分離は可能か」という神学論争みたいな議論をずっとやっていて、まだ大丈夫だろ、ここまでならアメリカも動かないだろうとタカをくくっているうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまった。1939年6月に天津英仏租界の封鎖に際し、ヨーロッパ情勢に備えるためにイギリスはやむなく中国国内で日本軍の妨害となる行為を差し控えることを受けいれが、その三日後にアメリカはイギリスの代わりのような感じで日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも対日経済封鎖へ踏み切る構えみせて牽制する。こうした事態を観察すれば、米英不可分だということぐらいわかりそうなものだが、武藤は田中らが遮二無二ソ連に飛びかかりそうなので、それを防ぐために、アメリカの対日前面禁輸の可能性があったにもかかわらず、南部仏印進駐を実施してしまい、アメリカはソ連崩壊を恐れて日米開戦を引き起こすかもしれない対日全面禁輸に踏み切る。もし、ソ連が敗れればドイツはイギリスに向かうからだが、これ以上、日本の南進を看過すると、イギリスがアジアやオーストラリアからの物資調達が出来なくなり、それはイギリスを崩壊させるからだ、と。そこで、著者は、一般に、日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だったと思われがちだが、それは正確ではなく、実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐってはじまったのであるという主張する。
 この例もそうなのだが、中国そしてアメリカと戦争したのだったが、相手を直視していないという印象が強い。上記の例でも、イギリスを見ていてアメリカと戦争することになった。この本に書かれている事実は、いろいろと語りたくなるようなものが多い。10年前に読んだときに、どうしてこの面白さに気づかなかったのだろうか。

 

2023年3月15日 (水)

高宮利行「西洋書物史への扉」

11114_20230315213401  書名に惹かれて購入した本。愛書家とかビブロフィリオなどというと澁澤龍彦や紀田順一郎といった人々の随筆を数多く読んでいる身としては、岩波新書でもあるし、ということで中身を見ずに購入した。著者は稀覯書を求めたりする愛書家であるようだし、書物史を研究している学者でもあるようで、「巻物から冊子へ、音読から黙読へ、写本から印刷本へ。ヨーロッパにおける本の歴史を様々な角度から紹介する」というキャッチフレーズを掲げているようで、書物の歴史をめぐる薀蓄が語られていて、面白そうではある。例えば、古代のオリエント世界で紙が発明されていない中で、書物はエジプトではパピルス、ローマでは樹皮を薄く1~3ミリ切った板(これがリブロ=本の語源)、アッシリアの粘土板(←楔形文字)など、様々の形が並立していた。文字が書かれた面に傷がついたりしないために、パピルスは巻物となり、板は二つ折りにされたのが冊子の形の始まりになった。あるいは、印刷製本が始まり、書物の生産量が増えたが、識字率は低かったので、読者は増えず、一人一人の読者の蔵書数が増えたのだという(写本しかなかった時代では、有名な蔵書家といっても、蔵書数は数十冊がせいぜいだった)。そういう薀蓄は、それなりに興味深い。しかし、こんなおいしいネタだったら、もっと深掘りしたり、話が広がるだろうに、思う。このネタが披露されると、はい次と、別の話題に移ってしまうのが勿体ない。材料だけ出されて、料理されていないという印象。

2023年3月13日 (月)

井筒俊彦「ロシア的人間」

11112_20230313223301  哲学者と哲学学者とは違うとして、この井筒俊彦はその典型だろうと思う。プーシキンから始まって、トルストイ、ドストエフスキー等を経てチェーホフに終わる19世紀ロシア文学を論じた著作。1914年生まれという世代からか、分析的な記述はあまり見られず、いわゆる教養主義的なメンタリティの持ち主であることがこの著作には色濃く表れている。「この本を書くことによって私は、19世紀ロシア文学の発展史を通じて、ロシア的実存の秘密を探りながら、同時に、より一般的に、哲学的人間学そのものの一つの特異な系譜を辿ってみようとした」と著者は書いている。この文章にあるように、井筒はものがたりとか表現といったことではなく、文学の内容、彼にとっては実存という生き方を文学に読みこもうとしている。そういう読み方にとって、格好の対象となるのが、ドストエフスキーだったりするので、井筒の読みの姿勢と対象が適合した結果が、この著作だろうと思う。たしかに、ベルジャーエフ、小林秀雄などをはじめとして、ドストエフスキーの小説を題材にして、「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を論じた著作はたくさんある。また、そういう著作の言葉を丸呑みにして、ドストエフスキーの小説をろくに読まずに、ドストエフスキーの「精神」とか「信仰」とか「愛」とか「実存」を語る人を何人も見てきた。おそらく本著の井筒は、そういう心性に近いものだろうと思う。井筒本人は、ちゃんと小説を読んでいるのだろうと思う。しかし、私には、彼がドストエフスキーの小説にワクワク、ドキドキしながら心踊らせて読み耽ったとは思えないのだ。私の個人的な体験では、ドストエフスキーの小説には、そういう面白さが、たっぷりと詰まっている。例えば、『カラマーゾフの兄弟』の終盤の法廷の場面では、殺人事件の弁護で、実は殺人事件などなかったという強引な弁論がされるのだが、その意外さを通り越した荒唐無稽なハチャメチャさに驚いてしまうのだ。『悪霊』だって、言葉遣いは滑稽な物語のものだ。この著作が書かれたのは昭和20年代後半で、そのころにはウケたのだろう。今でも、生真面目な人にはウケるかもしれないと思う。しかし、この著作を読んで、ロシア文学を手に取って読みたいとは、私には思えなかった。

2023年3月12日 (日)

貞包英之「消費社会を問いなおす」(5)~第4章 さまざまな限界

 消費社会の大きな限界となるのが、消費にかかわる自由の配分である。消費が人々がモノを選択し手に入れる自由を保証するが、そのためには当然、貨幣による支払が必要となる。しかし、貨幣は均等に配分されているわけではない。そこには格差がある。ただし、格差はすぐに消費の自由を台無しにしてしまうわけではない。前にも述べたように、格差の拡大は商品の価格低下や多様化を促すことで、消費のゲームをにぎやかにもしてきた。しかし、格差の拡大が、その消費のゲームに参加さえできない者を増やすのであれば、それは問題となる。不公平が生じる。
この不公平の是正を担当するのが国家である。20世紀後半には福祉国家が税金を投入して国民の生活を維持することを目標に掲げていた。これは一定の成果をあげている。ただし、別の問題も生じている。その一つとして、格差の縮小が脱商品化されたサービスの提供によって実現されていることだ。例えば、医療施設や福祉施設の設立や運営を国が直接行い、利用者が貨幣を支払うことのないサービスを提供していることだ。これは、結果的に市場を圧迫し、流通している商品の量と質を縮小させてしまうおそれがある。そのことが、競争をなくしてしまい供給者がサービスを施すという上から目線に陥ってしまう。それゆえ、利用者のニーズから外れていってしまう。この場合、利用者には選択する自由は、結果として、失われてしまうことになる。
 このように消費のゲームに関わる不公平は、十分に対処されているとは言えない。それは、構造的な無理があるためだ。というのも、格差を是正するために、国家は私的消費の権利を取り上げざるを得ないからだ。つまり、格差を是正するには、私的消費を制限せざるをえないのだ。
そしてまた、環境問題も消費社会を限界づける問題である。例えば、二酸化探査排出量の制限はエネルギーの使用の制限につながる。対策として再生可能エネルギーへの切替は、たしかに二酸化炭素排出量を減少させることになる。ただし、再生可能エネルギーへの転換は消費のリバウンドを招く恐れがある。つまり、環境に優しいとして「賢い」または「正しい」消費を動機付け、消費拡大を招くことらなる。結果として、二酸化炭素排出量が相対的に少ないエネルギーでも総体として使用料が増加すれば、総体としての二酸化炭素排出量は減少しない。だからこそ、気候変動のための規制は、皮肉なことに経済成長を根本的な目標とする新自由主義的国家にも受け入れられつつある。それが無経済成長の起爆剤となることに加え、そもそもきせいそのものが新自由主義的国家にとって経済と政治を支配する重要な手段となるからである。
 つまり、いずれもが、国家の拡大と不自由を生むリスクを生じてしまう。

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