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書籍・雑誌

2020年9月25日 (金)

海上知明「戦略で読み解く日本合戦史」

11112_20200925213501  実証主義的な歴史は、しばしば科学としての歴史ともいい、一次資料を尊重し、伝聞や想像を排除し事実を客観的に掘り起こそうとする。しかし、そういう証拠から分かるのは点としての出来事で、ともすれば出来事の羅列になってしまう。それは、無味乾燥にも映る。教科書で習う歴史がつまらないのは、そのせいで、歴史の流れが掴めない。しかも、その出来事の捉え方について、そういう事実があったとしても、その出来事の見方によって、意味づけが変わってくる。
 例えば、平安末期の源平の争い。源義経の鵯越で有名な一の谷の合戦。義経率いる少数の精鋭部隊による奇襲攻撃は、戦国時代の織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦と並び、旧日本陸軍では少数の部隊が大軍を破る戦略として研究され、「迂回」という呼び方で太平洋戦争時物量で優る連合軍に無謀な奇襲を企てる(例えば、インパール作戦、第一次ガダルカナル奪還作戦)ことに影響を与えたと言われる。それは、義経や信長が勝ったという結果としての事実しか見ていないからで、そのプロセスを推測する想像力を欠いているからだという。それを、著者は戦略的な観点から推測することを試みる。義経が鵯越の崖を降りたことに対して、陣地の平氏からは見えないかもしれないが、一の谷は水軍の拠点で、湾内には水軍の船が多数停泊していたはずで、海からは崖がよく見える。海から矢を射かけられれば、崖を駆け下りる義経軍に防ぐことはできない。実は、このとき後白河法皇が平氏に和議の命が届けられていたという。それで、平氏は武装解除の準備を進めていた。つまり、この戦いは、始まる前に結果が出ていた。つまり、後白河法皇の戦略的勝利というのが隠された事実。この結果を残す正史の資料は、後白河法皇が平氏を騙したとは書けないので、その事実を秘したという。義経のとった奇襲作戦は、それ単独では成り立つことはなく、それを奇襲として成立させるための道具立てを周到に準備することが必須。しかし、そのような準備は記録に残されることはない。
 著者は、このように一次資料に表われた出来事を表層的な事象であるとして、その背後に隠されたものを見抜くために戦略というキーワードを使って発掘しようとする。戦略といっても、例えば経済学の分析の基礎には人々の合理的行動という考え方があって、マーケティング理論にも通じるが、戦略的思想とは同じルーツだという。経営戦略というのも、そのあらわれで、社会科学的な方法論とも言える。そこで、見えてくる歴史は、筋立てが論理的で、深堀の推測がどんどんできてしまう面白さがある。例えば、一の谷の合戦については、なぜ源氏は、ここを攻めたのかという理由を考えると、平知盛の海上封鎖による京都の包囲作戦が成功して、源氏が不利になりつつあったということがある。木曽義仲は京都に留まったため疲弊した愚を避けるため、西国に侵攻するしかなかった。いわば、平氏に誘い込まれたらしい。そうすると源平の戦いの見方が変わってくる。そういう歴史は無味乾燥からは、ほど遠い。

2020年9月14日 (月)

玉木敏明「海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム」

11112  近代ヨーロッパ、とりわけイギリスで産業革命がおこって経済が急成長して、とれと同時並行するように海外支配を進め覇権を握れたのはどうしてか。近代ヨーロッパ以前にも、イスラムもモンゴルも中国も帝国を形成し、それなりに経済を発展させたが、どこが違うのか。
 産業革命についての一般的な議論は、蒸気機関などの技術革新がおこり生産量が圧倒的に飛躍したことによって資本主義経済となり、規模が急拡大したという言い方がなされる。著者は、それに対して、そんなに生産量が増えたって、生産したものを消費することがなければ、成り立たないのではないか、という問題意識を提出する。それがシーパワー、つまり海上交通の支配という視点に注目する。イスラム、モンゴル、中国といった帝国はシルクロードに象徴されるように領土内の交易路の安全は保障できるが、領土以外、つまりグローバルで安全を保障できない。そこで、交易をする商人は、盗賊などの危険に備えて自前で防衛をしなければならない。そこで多大な運輸コストがかかる。しかも、陸上交上交通は、領土として独占的に領有できないが、結節点である港を支配し、軍艦を護衛として船団を組むことで、安全な大量輸送が可能となる。しかも、商人はイギリス海軍に護衛してもらうので防衛コストがかからない(また、軍隊との方でも帝国のように領土全体に兵を駐在させることに比べれば、はるかにコストはかからない)。それによって大量生産した安価な製品の交易が可能となり、グローバルな大量販売のネットワークが形成された。そこで生産の技術革新が意味を持ってくる。そういう議論。たしかに、イギリスの後に、覇権国家となったのはアメリカで、やはりシーパワーの国だと納得した。

 

2020年9月10日 (木)

佐藤義之「レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで」

11111_20200910214601  エマニュエル・レヴィナスという哲学者は、リトアニアに生まれたユダヤ人で、第二次世界大戦中にドイツの捕虜収容所に収容され、ほとんどすべての親族はドイツ軍によって虐殺されてしまった。レヴィナス自身は過酷な運命を生き延びたことは、他者に対する責任を追及した彼の倫理哲学に大きな影響を与えたとされ、レヴィナスは人は何のために生きるのかを徹底的に考え抜いた哲学者だといわれる。それゆえか、彼のことを紹介・解説する場合、往々にして、彼が極限的な状況を生き延びた体験を強調し、彼の思考は、そういう極限から生まれた特権的なものだと言わんばかりで、ややもすると、そういう極限を経験しないで、のほほんと平穏に過ごしたものには手の届かない特権的なありがたい教えだというように、宗教みたいにおしつけるものが多い。
 それに対して、この著作は、レヴィナスはハイデガーに学んだ現象学の徒であり、彼の有名な他者論は、記述不可能な「他」を記述して論じるようという試みだったと指摘する。著者は、現象から出発しているのだから、逆に事象に落とし込めるはずでしょと繰り返し指摘する。それで、私にも、切り口の端緒だけでも、そうだったのかと納得できた。しかし、だからといって、レヴィナスが、どのように考えたかを理解できたかというと、レヴィナスの記述は、ワープを繰り返して遠いところに行ってしまうようなので、現時点では、まだまだ手が届かないでいる。

 

2020年8月29日 (土)

戸高一成、大木毅「帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる」

11111_20200829211301  大和ミュージアム館長と『独ソ戦』著者との対談。かつて二人は、『歴史と人物』という雑誌の毎年の終戦日と真珠湾の特集号で帝国軍人の証言を集めたり、海軍軍人の反省会に関わっていたりした。普通、歴史学者は資料を渉猟し、読み込んでいくが、文字化し文書に残された記録は理性によって作られたもので、歴史を動かすのは必ずしも理性だけではなく、人は感情でも動く。とくに第二次世界大戦、日本が英米と開戦したのは、理性で考えれば負けると、しかし、感情では、負けると分かっていて戦った。それが肉声の証言では、語られる言葉ではなく、その語られ方で表われてくる。ときに、理性で構築された文章は、作られてしまうことがある。そこで、当たり前のことなのだけれど、あらためて言われてみれば、そうだと分かってくること。帝国軍人とはいっても、公務員の一種に過ぎないということ。そう考えると、例えば「失敗の本質」で分析された軍部の構造的な問題は、役所の官僚体質のバリエーションで、それだからこそ、後世の企業経営者などが他人事ではないと参考にする理由が、そういうところにあることが納得できる。ここで語られる、当時の軍人たちの貴重なエピソードは、そのことを裏付けている。例えば、出世する軍人の大半は中央の役所に残って、減点主義の生き残りに落伍しなかった人々だったということ。サムライ的な気質を持った人は、そういう出世コースから外れた前線に飛ばされた人たちに多かったという。
 くつろいだ対談で、そこで語られる軍人たちのエピソードや人柄はたいへん面白いので、あっという間に読めてしまった。しかし、現代の組織の中で生きる我々にとって、必ずしも他人事とは言えない、身につまされるようなところがある。

 

2020年8月27日 (木)

兼原信克「歴史の教訓─「失敗の本質」と国家戦略」

11111_20200827212001  著者は、今の安倍政権の初期の頃に設立当初の国家安全保障会議(NSC)で、国家安全保障戦略の策定を事務方の中心となった人物。そういう人物が日本の近現代史を概観し、これからの国家戦略について述べている著作。特に注目すべき点と思われるのは、日露戦争後の大正から昭和初期の、いわゆる戦前の日本の国としての選択について、善悪とか正しかったかどうかとか国益にかなうものだったかという視点で述べられていたのに対して、国家戦略が存在しなかったという視点で批判している。新しい視点ではないかと思う。著者の経歴から、そういう視点で歴史を遡り、現代の国家安全保障戦略を検証したかったのではないかと思わせるところがある。
 例えば、日露戦争後に策定された第一次国防方針では、日英同盟が所与のものとされており、「なぜ日英同盟が国益に資するのか」と言う外交戦略(政略)に関する部分が薄く、国防方針(軍略)に重きがかかっていることである。陸奥や小村のような優れた外交官による情勢分析と帝国国防方針が帝国外交方針と組み合わされば、真の国家安全保障戦略となりえたであろうが、日本ではそこまで外交と軍事を統合させた文書が政府によって策定されたことはない。学術界でも外交史と軍事史をバランスよく組み合わせた日本近代史がなかなか書けないのは、日本政府がそのような総合的な戦略思考をしてこなかったために、そもそもその手の文書がないからである。と指摘する。この後、国防戦略は軍事戦略とイコールになって、外交とは縦割りで、それぞれが独走していってしまう。その結果、いわゆる戦略上の仮想敵国のすべてと戦ってしまったのが太平洋戦争だった。そこでは仮想敵国との戦争をいかに避けるかという戦略が考えられることはなかった。
 そういう議論は、とても興味深いところがある。しかし、著者が関わった現代の国家安全保障戦略では日米同盟を、日露戦争後の第一次国防方針で日英同盟を所与のものとしたのと同じように所与のものとしていないだろうか。そう考えると、戦前に国家戦略がなかったと批判する刃は、そう批判する著者自身も避けられないのではないかと思えてくる。それを意識していないようにも見える。そこが、ここで語られている歴史がチグハグな印象を受ける遠因になっていると思う。

 

2020年8月21日 (金)

「イギリス近代史講義」川北稔

11111_20200821214201  世界史の教科書を開くと、その多くの部分を帝国が占めている。帝国とは、中華帝国、古代ローマ帝国、イスラムの帝国あるいはモンゴル帝国等皇帝がいて、皇帝とは王の上にいて、世界を支配する。実際の中華帝国はアジアの一部を支配しているだけなのだが、意識として世界を支配している。つまり、並ぶものがない唯一の存在。皇帝は全体を支配し権力や武力を独占し、他の者には持たせない。だから、各地の有力者から武器を取り上げる傾向が強い。だから、帝国というシステムは内部は比較的平和で、戦争は帝国の外との戦いで、支配者は内部の反乱などをさせないように抑えることに心を砕く。そのため、武器等の戦の技術は発達しないことが望ましいとされる。基本的に平和だが、停滞した世界になりやすい。
 これと違うのが近代の西欧世界で、帝国ではなく王の統治する主権国家が並び立つ。ヨーロッパという世界全体は統制のとれないシステムで、イギリス、フランス、ドイツなどの主権国家は、それぞれが喧嘩をするように互いに戦い、負けないように兵器の開発競争を始める。それだけでなく、武力を高めるためには、その基盤である国力を高めねばならず、そのために経済成長の競争をしなければならなくなる。
 マルクスの『資本論』では資本主義という経済システムが拡大再生産という経済成長の姿勢を生み出したという説明をしているが、上記のような歴史の流をみると、近代ヨーロッパの特異な体制システムが競争という姿勢を生み出し、そのマインドが資本主義の動機を生んだという、マルクスのいう原因が実は結果だったという議論になる。まるで、資本論を逆立ちして読みたくなるような発想の転換を促される。これも、歴史を見る面白さだろうと思った。あるいは、先日読んだ記号論の発想を歴史に一部応用したという側面もある。まるで、ゲームを楽しんでいるような面白さに溢れた本。

 

2019年7月27日 (土)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(10)~終章 世界に住み込むということ

 本書では知覚経験は多感覚的でマルチモーダルであることを示すとともに、五感についてそれぞれマルチモーダルであることを見てきました。そこで出てきたのが視覚中心主義への批判です。現代の我々の世界と生活は視覚中心主義になっている。実際のところ、多くの人々が一日の大半の時間をスマートフォンとパソコンの画面を見て過ごしているわけです。
 そこで、視覚中心主義は、そもそもどこから来たのかを探っていきます。
 著者が、たどり着いたのはアリストテレスです。『形而上学』のなかで、人間というものは、もともと感覚とくに視覚を好む。それは効用を求めてとかいうのではなくて、感覚すること自体が好まれるといいます。とくに視覚なのは、他の感覚より物事についてよく分かると、より詳細な知を得られるからだといいます。理性的動物としての人間の本性である知への愛を視覚は具現しているというわけです。

2019年7月23日 (火)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(9)~第2章 感覚のスペクトル(7)

5.生態学的現象学の観点から
 知覚経験はマルチモーダルでありながら、その都度固有な感覚様相のあり方を示すことを、どう理解するか。それを、シュトラウスとギブソンを手がかりに考えてきました。両者のアプローチには違いがあり、敢えて単純化すれば、ギブソンは知覚の「何を」という側面に焦点をあわせたのに対して、シュトラウスは現象学的な「いかに」に焦点をあててきた。そこで著者は両者が補い合うような結合、つまり生態学的現象学を模索します。
(1)感覚の部分的等価性
 知覚経験における「なにを」という側面と「いかに」という側面の二重面的な性格を見ていこうと言います。例えば、我々が異なった感覚様相を通して同じ対象を知覚的に経験している。例えば、同じ火を見たり、熱さを感じたり嗅いだりしている。この場合、異なった種類の知覚システムを等価とみなしています。これはギブソンの議論ですが、このときシステムの間に違いがあるとしても、それはそれぞれの様相でピックアップされる情報の詳しさの程度の差に還元されます。
 他方で、例えば、我々が火を見ている場合、火は多様な色とかたち、それらの変化する姿などをまとって現われます。例えば、この場合の色は、色一般として現われているのではなく、火が現われる場合に示す特有の色のあり方をともなって現われています。火の色の現われ方のモードはカッツの導入した概念で光輝色というあり方を示しているといいます。それは物の色である表面色やスペクトル光の示す面色などとは明らかに異なった現われ方をしています。それに対して、火のかたちは定かでなく、姿を変幻自在に変化させながら、それに触れることはできない、ないしは触れると痛みをもたらすようなあり方をするものとして現われています。それは表面色とは異なった触覚的性質といえます。このような仕方で火という情報は色の特定の現われ方のなかに具現しているということもできます。光輝色と表面色の違いと言えるでしょう。
 この例を知覚経験のマルチモーダルな性格という観点に拡大して考えてみると、カッツの述べる色彩の多次元性は、色彩に現われるマルチモダリティであると同時に、対象が主体に対して持っているアフォーダンス(意味づけ?)が示されていると考えられます。消防自動車の赤のような表面色は、そこに抵抗を見て取ることができるという点で触覚的要素を示していると同時に、硬い表面のもつアフォーダンスが示されています。他方で、火の赤は不安定な光の動きによって触覚的意味が示されると同時に、それに触れると痛みを感じさせ、危害をもたらすようにアフォーダンスが示されるということができます。この意味で、色彩の多次元性の内実を構成しているのは、対象のもつ多感覚性、つまりマルチモダリティを意味していると同時に多様なアフォーダンスが示されていると言えます。
 ギブソンは、この多様なものを連合するのではなく、区別するのが知覚の問題であると言います。これは光輝色という見え方だけでなく、音や他の対象でも同じようなことが、つまり多次元的に起きているといいます。我々が各々の感覚様相において火に対応する現われ方のような特定の現われ方を見出すことができるとするなら、異なった感覚様相を横断して対象の同一性を理解可能にする要因は、共通した核のようなものではなく、それぞれの感覚的現われ方に備わる多次元性ということになります。知覚経験の「何を」の側面が「いかに」の側面と切り離しがたく結びついているからには、異なった感覚様相を横断して経験される同一性は、同一の中核が存在するというのではない。したがって、知覚経験の対象の同一性は、経験の外部で前提されたり、決定されたりするものではなく、経験を通して、その内部でその現われ方に即して構成されるものとみなされねばならない。シュトラウスによれば、知覚経験の対象としての全体性は、つねに補足を必要とすると同時に補足を可能とする仕方でしか登場しない「全体」、つまり「非-全体」だからです。そして、マルチモダリティという特質によって、対象の同一性はその現われ方に内在的な仕方で捉えることができるのです。
 したがって、知覚はどの様相のもとで実現する場合であっても、部分的には等価なのだと言えます。見られる火、触れられる火は、感覚様相の違いに応じてそれぞれ違ったものいいたくなるほど異なった現われ方を示すと同時に、他方では視覚的に現われた火の色の現われ方の中に、その音や暖かさや匂いもそして触れる官職への連関が示されている、と言えます。
(2)痛みをともなった感触
 ギブソンは、痛みは対象の危険性を意識化するうえで有用なものであることを認めています。例えば火の危険はやけどをした痛みによって知ることができます。それ対象の価値評価を含み回避行動を喚起する機能で、生きるために不可欠です。にもかかわらず、他方でギブソンは、痛みは観察者の身体のみに関係し、世界との知覚的関係からは切り離されたものであることを強調します。このふたつは矛盾しているように見えます。
 前者は、痛みというのは身体にとっては有害で避けるべきことを示す情報であるが、それのみでは環境についての知覚をもたらすことはない。それに対して、痛みをともなう接触により、触覚的知覚が成立しているために、環境の情報得ることができるということです。
 これに対して、後者は痛みは知覚に干渉する、あるいはその妨げになることが強調されます。シュトラウスも、この後者の点を強調しますが、そうであるとすると、痛みは感覚のスペクトルの中でも、他のさまざまな感覚と単純に並列することができないことになります。痛み以外の感覚は世界との関係を可能にし、我々に様々な知覚的世界を開示してくれます。それに対して、痛みの感覚の機能は、世界との関係を妨害し、世界へのアクセスをむしろ閉ざしてしまう傾向を持つからです。しかしながら、世界との妨害された関係もまた、あくまで世界との関係のなかで生ずるものであり、世界との関係の多様性に応じて妨害されたあり方も多様です。その多様さは主体が世界ならびに世界の中の対象とどのような関係を結んでいるかに依存しているからです。これらのことから、痛みの経験を単純な知覚経験の一種のように性格づけることはできないとして、著者は痛みの特殊性を強調します、次からは、それぞれの感覚がマルチモーダルでありながら、固有の特徴を示していくのを見ていきます。

2019年7月22日 (月)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(8)~第2章 感覚のスペクトル(6)

4.「感覚のスペクトル」のモデル
 これまでの議論を踏まえて、まとめて感覚様相のスペクトルのあり方を直観的分かりやすくするためのモデルを提示します。それを色彩のスペクトルの応用とでもいうものです。我々が日常的に見ている色をスペクトル分析してみると、日常的に赤、黄、緑、青などのように原色といわれている色は、実際には混合したスペクトルから成っている色ということです。つまり、すべての波長の要素を含んだ色ということです。この色彩スペクトルの例と類比的に、我々が日常生活の中で、純粋に視覚経験、聴覚経験などとみなしている経験もまた、実際には多様なすべての感覚様相の混合によって成立している。つまり、マルチモーダルなのだと考えます。しかしそのなかで、どのような感覚様相が支配的となるかによって、あるいはどのような対象に注意をむけるかによって、その都度の感覚様相が確定したものとみなされる。

2019年7月18日 (木)

村田純一「味わいの現象学─知覚経験のマルチモダリティ」(7)~第2章 感覚のスペクトル(5)

(2)ギブソンの感覚論
 現代の感覚論で媒質の重要な働きを強調しているのがギブソンです。ギブソンによると動物と人間の生活している環境は、古典的な物理学が描くような、空虚な空間のなかに様々な対象が位置を占めているような世界ではなく、その環境を構成しているのは、媒質、物質そして両者を区分けしている面であると言います。たとえば、地上でもっとも基本的な物質は大地であり、最も基本的な媒質は空気と水です、大地と空気の間の境界面を形成するのは地面であり、それは動物の知覚や行動の基盤です。
 媒質のおもな機能は情景を用意し、知覚を可能にする点にあります。このように考えると、知覚は刺激を受け取ることから始まるのではなく、媒質内の情報をピックアップすることによって成立すると言うことができます。したがって感覚様相を特徴づける(物理的)規準として考えられるのは、刺激ではなくて、媒質内に実現している情報のあり方ということになります。つまり、媒質の違いに対応して違った仕方で実現する情報のあり方に応じて、感覚様相が区分されることになるというわけです。そして、感覚器官という概念もまた違った仕方で理解されることになるでしょう。身体活動を通して情報を能動的に探索することが知覚の基本である以上、探索活動を行う身体のシステム全体が感覚器官とみなされなければなりません。このような考え方が。知覚システムとしての感覚というギブソンの感覚観を形成することになりました。
 さらに媒質は、個体とは違って、動物の運動を妨害するのではなく、支援することによって、動物の多様な運動を可能にする役割を担っています。媒質のこの特徴は、知覚は、媒質内の情報をピックアップするという働きによって実現されるのです。
(3)生態学的観点からの帰結
 以上のようなギブソンの考え方は古典的な知覚の理論の受け身の姿勢とは反対の方向性で感覚概念を解釈しようと試みます。
  a.動物の感覚
  b.感覚・運動・媒質
  c.五感という感覚観
 感覚の数を五つとみなす一般的な見方に対して、ギブソンは新たな見方をします。五つの感覚様相の区分はあいまいになって意味をなさなくなっているが、外部への注意の五つの様式の反映としての意味があると言います。それは、身体の知覚装置を方向づけるための五つの主要な方法です。聞く、触る、嗅ぐ、味わう、見るという方法です。これらは、「耳-頭部システム」、「手-身体システム」、「鼻-頭部システム」、「口-頭部システム」、「眼-頭部システム」の調節と探察的な運動によって実現するものです。ただし、特に食物摂取は、嗅ぐことと味わうことという二つの注意の様式が共働していて、鼻と口は不可分な仕方で機能していると言います。さらにギブソンは、基礎定位システムを重要な基礎的なシステムとしています。これによって、重力や外部からの力を検知して、身体的平衡状態を実現しているものです。
 このようなギブソンの見方によれば感覚器官は解剖学的な単位ではなく、探索的知覚活動の中で用いられる道具として捉えられることになります。このような道具の使用は、注意の方向を構成するという仕方で身体の運動感覚的な働きの一部を形成しています。つまり、身体各部の位置や運動に関係する自己受容感覚と呼ばれ意識のあり方と密接に結びついて実現しています。
 我々は五感に対応する知覚システム起動させながら活動していて、そのなかで注意を引く対象に対応する感覚のあり方が、その知覚経験のあり方を規定しているという具合に理解することができます。しかし、その感覚も、決して他の感覚から切り離された純粋な視覚であったり、純粋な聴覚であったりするわけでなく、他の感覚と不可分に結びついて成立しています。さらには、五感に対応する「耳-頭部システム」をはじめとしたシステムとして成立しています。そのなかのひとつのシステムが注意の働きを担い、その調節と探索的な運動によって関心のある対象の知覚を実現するときに、感覚器官を導く運動感覚ないし自己受容感覚にも注意が向けられることになり、感覚の働きがごく自然に理解されるようになります。
 このことから、例えば、味覚について言えば、五感すべての感覚が共働して実現するマルチモーダルな経験なのだけれど、日常的には、ひとつの感覚様相とみなされて、他の感覚様相から区別されている。その理由として考えられるのは、食物摂取にける注意の一貫性です。そこには様々な感覚が働いていますが、食物の味覚、つまり、味わいというそのアフォーダンスに対して一貫して注意が向けられていることによって、この活動を導いている感覚が、食物の味を味わうことであるとみなされるという仕組みになっている、と言えます。こうして、感覚の区分とは、その時々の注意の向け方に依存しているのであり、それは同時に経験の中で世界のどのような対象へと応答しているか、ということによっても想定されているのです。これが世界とのコミュニケーションとして実現する身体的世界内存在としての感覚のあり方に他ならないのです。

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