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書籍・雑誌

2017年10月11日 (水)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(22)

5.擬人化される脳

この幼児を不自由と見なしうるのは、幼児からすれば超越的な位置にいる自由の担い手、すなわち大人です。幼児を客体と見なす主な理由はその知的能力の低さということなるでしょうが、かといって、幼児は知的能力の低さのみによって不自由なのではないし、幼児と対比された大人も、幼児にはない知的能力をもっていることによって自由なのではありません。幼児と大人を対比するとき、私たちは自らを大人の側に重ねて事情を理解する。そのとき大人の側には知的能力だけでなく、われわれの自由が与えられていて、この付与が幼児にできないことができる大人を、幼児にはない自由を持った大人として理解させるとともに、その自由との対比のもとで、幼児を不自由と見なすことを可能にします。

このとき、私たちはこの大人を擬人化しているということがてきます。これは、通常の意味での擬人化、つまり、人間が持っているある具体的能力を、人間以外の対象に与える擬人化、ではありません。火星人やプログラムを儀人化するとき、われわれは自由とは何かを理解したうえでのその能力をそれらに与えるのではなく、、自由とは何かが分からないままに火星人やプログラムに自由を与える。重要なのは、この意味付与をする視点の位置で、火星人の事例では、その視点は火星人の内部に、プログラムの事例ではプログラムの世界の外部にあります。火星人の事例が超越論敵なのは、視点のこの位置によるものです。われわれ人間は火星人の自由に支配されることによって「本当は不自由」なものとなりますが、しかし火星人の超越的な自由とは何なのかは決して説明されず、われわれはただ、われわれの自由を火星人に譲り渡すことでも超越論的に不自由な存在となるわけです。

これは、日々の生活に直結してきています。というのも、今日の脳科学の発展は、とうにんではなく「脳がさせている」という種類の認識が、あらゆる人間の様々な行為についてあてはまるということなってきています。脳が火星人のような「させる」側のものとして、すなわち操作の主体として擬人化されることで、その支配下にあるすべての人間は「本当は不自由な存在」とみなされるというわけです。重要なのは、そのような脳-人間関係の理解が、火星人やプログラムの事例と同じように─自由とは何なのかの解明を保留したまま進行する点です。脳は、我々を不自由にさせる主体としてのみ、擬人的に自由の側に位置できます。つまり、人間は自らの自由をそれが何なのか不明確なままに脳に比喩的に譲渡するすることにより「不自由」な存在となりますが、この構図はどこまでも、我々人間の側から意味を与えられたのです。脳がわれわれに何かを「させる」ことができるのは、脳を自由の主体として擬人化しうる限りにおいてのことです。その擬人化が終わるとき「させる/される」という観点もまた消えることになります。人間が自ら完全に不自由と見なし、脳に比喩的に譲渡しうる自由がその概念的源泉において枯渇した際には、もはや脳が「させる」側にあることの意味を理解することもなくなるでしょう。

 

6.フランクファート・ケース再考

7.自由とは何だったのか

自由という概念をアマルガム(合金)として、自由のさまざまな成分には人称性が伴い、そのひとつに目を向けると、自由と似ても似つかないものに見えると著者は言います。

著者はアマルガムとしての自由の図式化を試みますが、三種類の人称(一人称、二人称、三人称)を頂点とする三角形です。われわれが自由と呼ぶものは、このそれぞれの頂点から提供された頂点のアマルガムであって、そのうちの単一の頂点からのみ捉えられる者ではないといいます。ここに自由の豊潤さがある反面、不安定な合金としての脆さがある。というのも、各人称の純粋な中間点に我々は立ちことができない、それゆえに我々は随時この三角形のどこか一点を自由としてとりだすほかはないからだ。つまり、われわれは、一人称かニ人称か三人称かのいずれかの場合でしか在ることはないということです。それらから独立した純粋に存在することはないということです。

その詳しい説明を著者は進めていきますが、全体として、自由は、各部分の成分が不均一なアマルガムの総体出合って、自由の成分比率として唯一正しいものはないと言います。そして、その総体としての自由は、不自由と相反するものではなく、(むしろ不自由はその一部である無自由と反する)世界が自由であることは、アマルガム全体の無化を意味する。つまり、われわれが自由であるとは、三角形全体の内部を動き続けることであり、そのどこか特定の一点を、自由として固守することではありません。

人間の経験がいずれかの人称的観点らみに固定されていたら、自由意志論は難問とはならず、そもそもそれほどの形而上学的概念にすることもなかったといいます。しかし、人間の経験は、三つの人称的世界を出入りする形態をとっており、そうした出入りを続ける人間が正常な人間であり、それは反応的態度の実践者でもあるのです。この正常な人間というのは自由な人間ということになります。これは、このような人々の知的能力の高さが自由をもたらすということではなく、このような正常な人間に共通している知的限界である特定の人称的観点のみを徹底することができないことが、無自由ではない、自由の世界の住人にしている、と著者は言います。

 

8.悟りと欺き

ここで述べられていることを知るとは、いったいどういうことだろうか、と著者は最後に問いかけます。それを知ることで、生活に何か変化はあるというのでしょぅか。すなわち、自分が無自由な世界の住人であると知ることによって。

ここで述べられてきたのは、運命の受容の勧めではないし、自由意志を持たない存在としての無我の境地に至ることでもない。そのような悟りへの意図は、無自由な世界に生きる無自由な私にとって無縁のものであり、ここでの議論の精神をその根底において裏切るものだといいます。なぜならそこでは、私は自由ではないと知ることで何らかの救いを得ようとする自由が、まさに私の自由として用いられているからです。

 

2017年10月10日 (火)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(21)

4.なぜ道徳的であるべきか

一般に倫理は一人称的観点から基礎付けられている。この私が倫理的でなければならない理由の探求から、すべての人々が倫理的であるべき理由を得ようとしている。現実問題として、私以外のすべての人々が倫理的であってほしい理由は、第一にほかならぬ私が害されないためだろう。そして、私的な反応的態度としての怒りを公的な道徳的態度に結びつけることで、私を害した人物を他の多くの人々ともに糾弾できる状況を得ることができる。しかし、これは利己主義そのものだろう。そこで倫理的な基礎付けでは見えなくされる

なぜ道徳的でなければならないか、という問いに対しては、人間一般が道徳性を持つことが、人間一般にとって高利性を持つという議論がある。しかし、これでは人間一般ではなく、私が道徳的でなければならない理由にはなりません。これに対して、著者は二つの答えを提示します。道徳的になるか否かを自由に選択できる私は、すでに二人称化された私であり、他者から見た他者なのであるから、人間一般が道徳的であるべき理由と同じ理由のもとで、道徳的であるべきだ、というものです。この答えは、私もまた社会的存在であるから他者のことを考慮すべきだ、といった答えとは微妙に異なります。私が私を自由と見なす以上、私が他者から道徳性を求められる主体(他者から見た他者)であることを、私はすでに知っており、だからこそ私は私を自由と見なしえた、という点こそが重要です。この点をおさえた後でなら、「私が道徳的であるべきことは知っているが、しかし、道徳的判断を他の価値判断よりつねに優先すべき理由はない」と考えることはできるし、そのようなことは私以外の他者にもできる。

そして、もう一つの答えは、複雑なものとなります。「なぜ私は道徳的でなければならないか」という表現で問われているのは、この、内側のない、まったく一般性を持たない存在である私がなぜ道徳的であるべきか、ということです。したがって、人間一般が道徳的でなければならない理由は答えにはなりません。そこで、私たちは、次のようにして分岐問題と再び向き合うことになります。

内側のないものとしての私は、ある時間のある場所の身体を中心に、すべてをあからさまにして「立ち現れ」ています。心の隠された面などは、そこにはありません。「私の心のすべてを私が知っているわけではない」と答えるのは、私を二人称化し、私の言動・思考の系列に合理的な解釈を与えようとするときです。すなわち、自由な私がなぜあんなことをしたのかが私には分からず、その理由は私にも隠された私の内面にあると答えたときのように。しかし、わたしのそのような二人称化を経ることなく、「立ち現れ」るものをただ眺めるかぎり、すべてはありのままにある。

このような私の内側のなさは、現実性、そして現在性、つまり今であること、と重なります。現実における現在はすべてありのままにあり、その背後には何もありません。分岐問題をやり過ごすために選択の起点を隠す場所はありません。これは時間分岐図での主体の定位と現実の現在の形而上学的な定位の違いを読み取ることができます。他者=主体=自由が時間の影響であるとかれば、私=現実=現在は時間の核です。前者は後者によって開かれた時間分岐図への寄生物ですが、その寄生物の力がなければ、私は自由な主体にかれません。

内側のない私が、可能性の時間分岐において特定の方向に進むべき理由があるのだろうか。現実における現在をその私と重ね見るとき、道徳的理由であれ他の理由であれ、未来選択の理由はありません。「なぜ私は道徳的でなければならないか」という問いが、内側のない私の次元にて受け止められたとき、その意味での私は無自由であって、選択肢を自分で「選ぶ」ことはありません。この現実の歴史における私が道徳的な人間であったなら私は道徳的であろうし、不道徳な人間であったなら私は不道徳ということになるでしょう。

まったく当然のことながら、この次元における私が道徳的であるべき理由は存在しません。その私はもう主体ではなく、自由と不自由の埒外にいます。それは、道徳への自由も不道徳への自由ももたず、より正確に言えば、道徳への不自由や不道徳への不自由も持ちません。内側がないとはそういうことで、自由とは他者のことであねとは、ここでの叙述の反転したものです。

もし子どもが「なぜ悪いことをしてはならないか」を聞いてきたら、その子どもが、自分は悪いことをすることもしないこともできると考えて、その意味で当人を自由と見なしているのであれば、もはや、このような問いを実践的に問わないはずです。実践的な問いとなりうるのは、ある特定の行為が悪いか否かであり、そして、ある観点における悪と別の観点における悪(例えば公共的な損害と私的な損害)のどちらを避けるべきかというようなものです。この領域を超えて「なぜ悪いことをしてはならないか」と問うのは、なぜ私を自由と見なさなければならないのかを問うことであり、そこに答えるべき答えはありません。

2017年10月 9日 (月)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(20)

3.二人称の自由

決定論内部で峻別可能な「できる」「できない」の区別があったとしても、その区別をただちに「自由」「不自由」の区別に置き換える議論には、他者への反応的態度に導くものが介在しなければ成立し得ない、と著者は言います。

著者は、他者が他者であること自体に求めます。それは、他者の人称的な不可視性に反応的態度への誘因に見出されます。この実践上の反応的態度とは、自分自身や見知らぬ他者を含めた主体一般への態度であると同時に、何よりも目の前の特定の他者への態度です。それが道徳的態度に移行するには主体の一般化が不可欠です。つまり、他者にとっての他者としての自分や、まったく私と接点のない不特定の他者をも含めた主体に対する反応的態度を育てることで自責や公憤ということが生じると著者は言います。この反応的態度源泉はあくまでも目の前の具体的な他者であり、それこそが第一義の主体です。この観点に立つとき、私自身や見知らぬ他者といった主体は、事後的に構成された抽象物としての主体ということになります。

雪や金魚や文房具に対しては怒りを抱くことはないけれど、われわれは他者という対象に対しては怒りを持つのは、その対象に対する最上級の存在論的承認ということができます。人々がしばしば、無視されるよりは憎まれることをむしろ望むというのは、そこに理由があるということでしょう。その一連の過程は、不可視な内側があるものとしての他者の承認です。その承認は、単なる物体としての身体運動を自由意志に身体運動に変えるのです。

同じことは私についても当てはまります。ある一人称主体としての「私」が私自身を自由と見なすとき、つまりは、私が私のある行為を自由意志によるものであったと理解するとき、私は私を他者としているわけです。他者にとっての他者であるものとして、私を見ているというわけです。ここでは、私が私を他者として見ることで、自由意志の非存在を不可視とする領域を確保できる点が重要です。

私が私の一人称経験のみを見る限り、そこに不可視のものはありません。私が他者に腹を立てるのは、何か観察可能な立腹すべき事実があることに加えて、人称的に不可視な領域(内面)があり、そこに立腹すべき事実、例えば悪意による行為選択を想像するからではないかと考えられます。そうであるなら、自由意志というのは、本質的に二人称的なものであり、二人称性の承認自体が自由意志の承認と結合しているということになります。いわば、自由とは他人のことなのです。これを著者はニ人称的自由と呼びます。

他者に不可視な領域があることは、他者の外面的な行動が不条理であることとは別のことです。立腹すべき事実の想像の場合には、他者の行動に何らかの規則性を見出そうとします。それは合理性の承認に結びつくもので、例えば、性格、好み、信念などとして理解されることになるものです。もし、他人の行為が規則的に、機械のように、全部分かってしまうのであれば、立腹すべき事実を想像することはできなくなります。

このような構図は、自己知覚理論を図地反転させたものに当てはまります。自分自身を他者として見ることで自己認知の材料を増やすのではなく、逆にその材料を減らす、つまりは自分自身に不可視な領域を設ける、これによって、自己を自由と見なすことができるようになるからです。行為者がある行為の理由を考えることには二つの意味があると著者はいいます。一つは、行為者自身にしか観察できない内面的過程を言語化することで、外面的(行動主義的)な行為の記述を詳細に補うこと。すなわち、一般的な意味での動機などょ語ることです、もう一つは分岐問題との関連において、そのような内面的過程のうちに行為の本当の要因が実際にはなくても、他者から人称的に秘匿されている内面的過程の存在が示されることで、そこに本当のよういんがあるかのように自他に信じさせることできるわけです。

著者はまとめます。人称的に不可視な他者の内面のうちに行為の本当の要因があると信じること─実際にはなくてもあると信じること─、それによって私は他者を自由な主体と見なす。すなわち他者を、両立的自由をもつだけでなく、諸可能性の選択をなす自由意志をもつものと見なす。そして自分自身をも、他者にとっての他者とみなすこと─そして他者からも他者として扱われること─によって、私は私自身を自由な主体と見なす。いわば認知的エラーとそのエラーの存在への無知が、人間を自由な存在としている。

2017年10月 8日 (日)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(19)

2.ストローソンとデネット

ストローソンの「自由と怒り」について、雪や金魚や文房具などに対してわれわれは反応的態度をとらず、客体への態度─処置や管理や回避といった─をとります。たとえそれらの事物によって何らかの害を受けたとしても、他者に害されたときのような怒りを抱くことはありません。誰かがあなたを突き飛ばしたとして、あなたが反応的態度をとらず─怒りを感じず─客体への態度をとることがある。あなたを突き飛ばした人物が幼児やある種の精神薄弱であるようなとき、あなたはその人物に対して客体への態度をとることがあるでしょう。彼らを遠ざけたり、訓練したりすることはできるけれど、それは機械の不具合に対処するようなものであり自由な主への態度ではありません。また、誰かが転倒しそうになってあなたを突き飛ばしたような場合にも、あなたは客体に対する態度をとることがあります。

しかし、すべての人間対して客体への態度のみをとることはできないでしょう。われわれが客体への態度をとるのは、上述の二種類の場合であり、その場合において用いられている基準は、決定論の正否と関わりがないからと言えます。たとえば、幼児と成人との区別は、一般的な知的能力の差によっているのであって、決定論とは関係ありません。

ここで興味深いのは決定論のなかで峻別することが可能な「できる」「できない」の違いがあるということです。例えば、デネットによるコンピュータによるチェス対局の議論です。このプログラムは、決定論的メカニズムに従っています。同じ状況では、必ず同じ手を指すということです。そこで、二つのチェス・プログラム、AとBを繰り返し対局させるとします。擬似乱数や学習機能を利用することで、AとBは毎回異なる内容のチェスを指すことができますが、積み重ねられた対局の内容全体は法則的に決定されています。それぞれのプログラムの優劣により、AとBの対戦成績に大きな差が生じるというとき、AがBより強い理由として、それが法則的決定論に従っていたていたというのは、デネットは馬鹿げていると言います。AがBより強いのは、Bよりも優れた何らかの特性を備えているからです。例えば、定跡の膨大なデータベースであったり、局面の優劣を数値化する採点システムであったりといったものです。その意味でAはBと異なり、多彩な城跡を駆使し、形成を的確に判断することもできるわけです。たとえ法則的決定論の内部においても、AにはBにできないことが「できる」と述べることは意味を持つわけです。

決定論的世界では、幼児や精神薄弱者だけでなくあらゆる人間は、定められたことしかではない前提です。しかしそのような世界でも、幼児や精神薄弱者にはできないことを通常の成人はできる、というような「できる」ということに意味があるのは確実です。人は、まさにその事実によって、ある人物に反応的態度をとめか客体への態度をとるかを日々判断しています。

将棋やチェスの棋譜においては、分岐問題すべてかき消されています。棋譜はその本性上、可能性の時間分岐点を記述しません。例えば、将棋の初期局面から先手は三十数種類の手のうちのひとつを指し、後手もまたそれらの手に対して、それぞれ三十種類の手のうちの手を指すことができます。棋譜ではこのプロセスが「▲7六歩 △8四歩」といったように記されます。ここには▲7六歩と△8四歩の間の分岐点や、そこでの選択については記されていません。つまり何が決定的な選択要因であったかについて棋譜が教えてくれるものはありません。

「▲7六歩 △8四歩」という棋譜は,30×30通りの指し手の中から、ただ一通りだけ選ばれたものと言えます。表面上、ここには「▲7六歩 △8四歩」という情報しか表れていませんが、そこには残りの指し手の可能性が背景情報として含まれています。棋譜は、そこに書かれた現実だけでなく、書かれていない他の可能性にも言及したものとして読まれていると言えます。このような背景の可能性を網羅できるか否かに、将棋と人生の違いがあると著者は言います。人生においては、実行された選択のほかにどのような選択が可能であったかを、将棋のように網羅的にすることはできません。

2017年10月 7日 (土)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(18)

第4章 無自由世界

1.他我問題の反転

心理学と神経科学の側面から、人間の意思決定においては、自覚的な決断の意識に先立ち、潜在的心理過程や脳神経活動が生じており、それらが実際の選択をひき起こしていること。自覚的意識はそうした諸原因を取り逃がしており、むしろ、選択が実際になされたあとから事後遡及的に不正確な理由が作られる。つまり、諸可能性のひとつを現実化する心理的決断などもともと存在しないという説です。しかし、これまでの議論から、たとえ心理的な決断が存在しないとしても、分岐問題は生じているわけです。

分岐問題への回答を多寡占的決定論に求めるとき、諸可能性の分岐は消失し、「未来の諸可能性のひとつを自由に選び取る主体」も「未来の可能性の一つを不自由に押し付けられる客体」も姿を消してしまいます。このとき人間は、決定するもの/決定されるものとしての、自由/不自由の対の外部におり、言わば、無自由な世界の住人となっています。すべての出来事は起こるままに起こるし、とくに、時間非対称な決定/被決定関係は維持し得ないでしょう。このような世界の描像は、一般的な意味での決定論を超えたものです。

他方で、分岐問題の回答を偶然(=分岐)の存在に求めるとき、可能性の現実化には常に、無根拠な偶然が介在することになります。あなたはいま手を上げることも上げないこともできたのだとすれば、そのどちらかが現実的であることには、一回性をもった偶然が関わることになります。そこに選択の主体はおらず、誰かの選択を押し付けられる客体も存在しません。心理的・神経科学的要因を持ち出しても、このことに影響はない。このような世界の描像は、諸可能性の分岐が存在する点で単線的決定論と異なるものの、すべての出来事はやはり起こるままに起こるということです。この場合でも、人間は、決定/被決定関係としての自由/不自由の埒外にあるという点で、無自由な世界の住人であると言えます。

これは、自由意志が偶然の一種でありうるということを否定するものではありません。この場合、自由意志と偶然は何か同じものの二つの側面でありうるということです。

三人称的観点における一回性を持った無根拠な偶然は、他の成分と協働しなければ、自由意志は見なせない。それを考えていくのが本章です。

最初の心理学、神経科学の知見を他我問題との関連で分岐問題に結び付けて考えていきます。そもそも、他我問題は、二人称的な他我の不可視性に由来するといいます。この場合の二人称は、目の前の他者それ自体を意味していて、これに対して一人称は私自身を意味しています。ある一人称主体としての「私」は、他者の意識がどのようなものかを知りません。他者がどれほど痛そうにしても、その痛みを私が感じることはできません。他者がどれほど痛そうにしても、その痛みを私が感じることはできず、私に分かるのはその他者が痛みに関して私と同じ振る舞いをすることだけです。視覚についても、聴覚についても、主観的経験は文字通り主観の中だけで限られます。その意味で、私は他者の存在を真に知ることはできません。

ここで注目すべきことは、自由意志と意識がその可視性について、人称的に逆転しているということです。この場合、自由意志についての可視性とは、その非存在についての可視性です。自分自身において自由意志の存在は疑わしい。これは第2章での議論ですが、内面観察をすればするほど、身体運動の感覚や姿勢変化の予期を超えた、自由意志の内観とは何かが分からなくなっていきました。自己内省によって捉えた自由感については無知ゆえの錯覚である可能性が否定できず、より深刻な問題として、分岐問題と直面したのです。すなわち、諸可能性選択の起点を時間分岐図に定位できないということです。結局のところ、行為者の一人称的な意識の内部に、自由意志の存在根拠を見出すことは難しいということです。もしも、他者の意識が見えたとしたら、一人称の場合と同じ結論となったでしょぅ。しかし、二人称の不可視性を確認したばかりです。他者の意識は見えません。ここで、他者の意識が見えないからこそ他者の身体運動の背後に自由意志のはたらきを想定すると考える余裕が生まれる余地があることになります。

2017年10月 6日 (金)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(17)

7.過去可能性

前節での考察は、過去が諸可能性もつことを前提としていました。しかし、可能性とは実現可能性のことであるなら、過去はすでに決定されていることだから、あてはまらないという議論があります。この同じ議論は過去だけでなく、現在にも同じように当てはまるでしょう。また、この議論の前提となっている単線的決定論が正しいとすれば、過去・現在にいての諸可能性がないのと同じに未来についての諸可能性もないことになります。そして、現実に選ばれなかった過去の可能性が消失すると考えることは、過去時点のみの可能的歴史が消失すると考えることとは異なります。過去における可能性の分岐の消失は、消失した枝の先にある歴史全体の消失を意味します。それゆえ、過去の可能性の消失は、ありえた現在や、ありえた未来の消失を含みます。例えば、人は過去になした行為について後悔するとき、過去になし得たほかの行為の可能性について考慮するとともに、そちらの可能性によって開きえた未来についても、失われた未来として、考慮して、むしろそれこそが後悔の引き金となるからです。

現実化しなかった過去の諸可能性は、今から現実化することはありえいので、もう可能なものではなくなっているでしょう。この過去の可能性はもう「ない」ですが、「あった」のであって、最初からなかったのではありません、そうでなければ過去についての反事実的な仮想のすべては、たんなる空想と同じになってしまいます、

過去の反事実的な諸可能性は、もはや実現可能性ではありません。しかし実現可能性だったものでもあります。それらは今後も瑛九に、実現可能だったものであり続けます。アリストテレスはもはや存在しませんが、彼はかつて存在していました。かつて存在したものについて語ることは、そもそも存在しないものについて語ることとは異なります。

それゆえ、過去の反事実的な可能性の枝は保持されます。現在から見た諸可能性の樹は刻々と縮小し続けますが、時制眺望的な見た諸可能性の樹は変化しません。そしいこのことは、論理的可能性に対する実現可能性の先行という見解と矛盾しません。

 

8.補遺

著者は、分岐問題を通じて、この世界は無自由な世界かもしれないと疑ってきたと言います。もしそかれが事実だとすれば、可能や必然といった様相概念を無知ゆえの錯覚として、そま原因を検討すべきと言います。

この章で様相について考察したのは、そのためでもありました。可能性というものが、すべて幻だとするなら、その幻の源泉のひとつは時間の動性にあると。ある全体が他の全体になることを動的に捉えることなしに、可能性の幻視は生じないと。

過去から未来へと続く時間系列は、可能的な今の系列と見なされます。いま現実に今ではない過去や未来の時点も、今であることが可能なのだから、それらは可能的な今たと言えます。これは私でない他者を可能的な私と見なす議論につながるものです。どの過去やどの未来も、たまたま今になったりならなかったりするのではなく、いわば必然に(その時点において)今となる。どの他者も、たまたま私になったりならなかったりするのではなく、いほば必然的に(その人物において)私となる。こうした指標詞は明らかに現実とは異なる構造を持っています。にもかかわらず、今になることや私になることを可能性の現実化に喩えるのは、可能性という幻に関する言語の越境を許している。

この越境は、時間的動性の無視によるものです。未来が「今」に「なる」ことを可能性の現実化に喩えるとき、言語的な「ありうる」は「なりうる」に先立つように見えるし、それどころか、「なる」にさえ先立ってしまうように見えます。つまり、論理的可能性が様相とと無縁な単なる動性(時間的推移)に対してさえ、先立つかのような構図が得られる。

たとえ、この世界が本当は自由でなく、様相概念のすべては錯覚だとしても、未来が「今」に「なる」ことを同様の錯覚として片付けるべきではない。「ありうる」と「なりうる」がともに幻だとしても、「なる」が幻であるとは限らない。むしろ「なる」だけは生き残ったとき、私たちは無自由な世界を垣間見て、特殊な洞察を得られるのではないか。

2017年10月 5日 (木)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(16)

5.現実と可能性の紐帯

現実世界にいる「私」は、私や私の周辺についての指標的な知識を持ち、この現実世界にいることを知っています。その「知識」は、論理や文法や生活形式の外にあり、もちろん自然法則についても、その外にあるわけです。この現実世界とまったく同じ論理・文法・生活形式そして自然法則に支えられた諸可能世界があるとして─それらの諸可能性はタイプ的な無矛盾性のもとで開かれる─それらの諸可能世界のどこに私がいるのかを、タイプ的な知識から知ることはできません。

ここで重要なことは、私や私の周辺についての現実的で指標的な知識でさえも、それを世界の事実として述語的に記述したら、一種のタイプ化してしまうということです。つまり、現実世界についての個別的知識も、言葉にしてしまうと、その言葉のうえでは、複数の諸可能的世界においても成立しうるタイプ的知識に読みかえられてしまうということです。この個別性を尊重することが、個別的知識の由縁ですから(たとえばこつなんかが代表的でしょうか)、この現実世界の内部から「これが現実であり、私だ」と直接示されるわけです。しかし、そのこと自体を世界について言葉にして表現することはできません。

最初のそれらの諸可能世界のどこに私がいるのかを、タイプ的な知識から知ることはできませんに戻りましょう。例えば、「ここに私の手がある」「私の名前はLWである」「私は月に行ったことがない」といった知識をどれだけ並べてみても、それらをもとに諸可能世界のどこに私がいるのかを知ることはできません。これらの条件を満たす「LW」が、この現実世界と同じ論理や法則のもとで生きている諸可能世界は、論理的可能性のもとで無数にあります。「私はここにいる」と手をあげたとしても、同じように手をあげている可能世界は無数にあります。そして私自身ですら、それら私の無数の「私」のうち、どれが私なのかを、記述的知識によって知ることはできません。現実にいずれかの人物であることによってしか、どれが私であるのかは分からず、「ここにいる」と手をあげているから、それが私なのではないのです。

これが私なのは、たんに(諸可能性のなかでタイプ的に)手をあげているからではなく、現実手をあげているすんらい゛ありも私的な個別的知識とは、どんなこれなのかを知っていることです。だからこそ、その個別的知識は通常の意味での知識ではありえず、他の、通常の知識を知識たらしめる、基礎としての知の「河床」になるといいます。すなわそれは、そもそも何かが(現実が)在ることについての、知識以前の知識です。

信長タイプについて我々が何を知ろうとも、現実の信長という人物をつかまえることはできません。それどころか、現実の信長という人物が存在することさえ保証できません。現実の信長についての諸可能性を知るには、信長タイプについての諸可能性を現実の信長という人物の現実性へとつなげ、その現実性の内側から諸可能性を開かなくてはなりません。それこそが、時間が様相に先立つという言い方で著者が述べたかったことだと著者はいいます。

 

6.言語的弁別

分岐問題における二叉の分岐図は、ふたつの歴史集合の樹形図として読むことを考えてきました。他方、これを原理的な可能性として考えれば、未来の諸可能性の分岐を、歴史集合ではなく個別の歴史として描くことが可能であることになります。歴史のあらゆる細部に関して完全な言語的弁別を行い、それに応じて樹形図を描くならば、そして、あらゆる分岐が何らかの命題の真偽によって弁別できるなら、この樹形図は二叉の分岐(真か偽)のみで構成されるものとなるでしょう。

そうであれば、世界を構成する原子的な要素は、樹形図における二叉の分岐の真偽に対応する事態ということができます。もし、このように考えるのであれば、世界の原子的要素である諸事態は、真偽それぞれの実現確率が純粋に二分の一となるかもしれません。しかしこのような枝の個別化は、実践上不可能です。諸可能性の弁別はその目的に応じた粗さをもち、弁別されるのは、ある集合と他の集合です。私がこれから病院に行くことは、「病院に行く」諸可能的未来のうちどれか一つへ進むことであり、これと見定めた個別の未来に進むことではないのです。

それゆえ、最初に見た樹形図は可能性の樹形図で、その可能性の弁別が言語的かつ実践的になされているならば、どの枝も諸可能的歴史の集合の略記とみなすことができるということです。それゆえ、未来の細部について完全な記述を与えられることはない。

これから私が病院に行くとして、「病院に行く」歴史には無数の諸可能性があります。百歩で病院に着く歴史と百一歩で病院に行く歴史とは別の歴史です。また診察時に、シチリアの火山が噴火している歴史もまた、別の歴史です。私が自宅に戻った瞬間も飼い猫の毛がちょうど何本であるかによっても、歴史は無数の諸可能性を持っています。

この歴史のような直示的表現に頼ることなく、諸可能性としての歴史からただひとつの歴史を指示するには、諸可能性のあらゆる言語的弁別に対して特定の記述を考えて当てはめていかなければなりません。たとえば、先ほどの私は何歩で歩いて病院に着いたか、診察時に火山は噴火したか、帰宅時に猫の毛は何本あったか、ひのような問いにいちいち答えねばならない。これは不可能であり、このような言語的弁別をどこまで繰り返しても、ただ一つの歴史にいきつくとはありません。また、未来の場合と同様に記憶の集積でなし得るのは、過去の諸可能性を絞り込むところまでです。

過去の諸可能性が無数にあるとき、現実の過去を指示する唯一の方法は、直示的表現を用いることです。いま私のいる「この歴史」こそが現実の歴史であるという事実によって、「この歴史」における過去は、現実の過去となります。つまり、「この今」と地続きの過去こそが現実の過去というわけです。そうであれば、そうした過去への直示は、「この今」への直示に依存することになります。しかし今への直示についても、過去と同様の指摘ができます。樹形図上の枝は可能的集合であるから、個別的時点としての「この今」は、樹形図上のどの点とも同一ではありえないことになります。どの点も可能的瞬間の集合であるためです。とはいっても、「この今」は、その集合つまりは点の内部にはあるといえるとおもいます、それがどこに在るのか知るのに、私たちは自分の周囲、つまり「この今」がどのような内容の世界かを見ることで、樹形図のどこにいるかを探るでしょう、とはいえ、このような作業続けても、個別的な点に至ることはなく、指示集合が絞り込まれるのが精一杯です。したがって、「この今」の直示とは、樹形図上の一点を捉えることではなく、樹形図上のどこかは不明でも、定まった位置を持つものとしてそれを指すこと、そしてその一点を含むものとして歴史集合としての枝を思考することです。

これは指標詞に類する指示ですが、通常の直示も本質的に同じ作業を伴うと著者はいいます。「この今」の直示とは、樹形図上のどこかは不明でも、定まった位置を持つものして、示すことです。そしてむしろ、その一点を含むものとして、歴史集合としのて枝をし行為猫とです。

目の前の何らかの対象を指すことは、その対象の諸性質だけでなく、まさにその対象が含まれるただ一つの個別的な今(現実)を指すことでもあるからです。そうでないなら、その対象と実践的に識別不可能なほど類似した諸可能的対象のうち、どれがその対象なのかはけっして定まらない。「私」が指したものがそれなだ、と言えるのは、その「私」が「この今の私」としてすでに把握されているときだけです。

すでに述べたように、「この今」を樹形図上に個別に定位することはできません。にもかかわらず、それは形而上学的に定位されており、諸可能性の樹形図はむしろ、その定位を核に構成されます。すなわち、「この今」を含む何らかの枝がまず存在し、その枝のもつ諸特徴が他の可能性と弁別されることで、樹形図は時間的に展開していく。一般に、面識された対象には認識を超えた無数の細部があるとされるが、この形而上学的な信頼は、「この今」の定位への信頼と通底している。「この今」が樹形図上の一点に形而上学的に定位されるとき、その点から他の点への時間的連続性をもって、「この歴史」の全体が思考される。もし分岐が未来方向にしかないなら、「この今」の定位によって同時に、「この歴史」の過去もひと通りに決まる。

2017年10月 4日 (水)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(15)

3.論理的可能性

ある言語を「知っている」と言うとき。われわれはあたかもその言語について、有意味かつ可能な語の配列のすべてを手にしているかのように考えます。誰一人並べたことがなく、これからも誰一人並べることのない語の配列、つまり時間的には一度も実現されていない配列、もそれが有意味な文ならば可能的にある。すなわち、言語を知る者にとって、すべての有意味な文は、ないのにある。

例えば、足し算を知っていると言うとき、私たちはあたかも足し算について、有意味かつ可能な語の配列のすべてを手にしているかのように考えます。すなわち、足し算を知る者にとって、すべての有意味な足し算はないのにある。たとえば、792792+790661=1583453という足し算が、いま初めて達成されたものだったとしても、それ以前にもこの足し算は有意味な文としてあった、ということを私たちは、もともと知っていた、ということです。

ある言語における有意味な文の集合に関して、その言語を知る人は、任意の語の配列がその集合に属する文か否かをかなり正確に峻別できる。そしてその能力は、これまで現実に並べられた配列だけでなく、これから現実に並べられるかもしれない可能的な語の配列にも適用され、その適用の正確性について言語使用者は高い自負をもっている。このとき、その人物はあたかもその言語について、有意味な語の配列のすべてを可能的に手にしているかのように見える。

このような有意味かつ可能な語の配列は時間的に実現されるものでしょう。それゆえ論理的可能性は、それが語の配列可能性に依拠する以上、語の配列の時間的な実現可能性にも依拠せざるをえません。にもかかわらず、上の例のようように、私たちがある言語を本当に知っているのならば、論理的可能性は実現可能性から切り離されたものとなるでしょう。そのとき、語の有意味な配列可能性は、それが時間的に実現し得るからではなく、無時間的に成立し得るからこそ可能であると見なされます。これが様相の無時間化であり実現に関わらない可能性です。

では、西から陽が昇るというような常識とかけ離れていても論理的に矛盾がなければ良いということになる。

論理的可能性とは有意味かつ可能な語の配列のなかから無矛盾な諸命題を抽出した際、それらによって表象される事態のこです。そしてこの抽出においては、明示的な矛盾の有無だけでなく、非明示的な矛盾の有無が、つまり、ある性質と他の性質との矛盾の有無が問題になります。「白いライオン」は無矛盾ですが、「丸い四角」が矛盾ということになるのは、白いこととライオンであることのあいだに矛盾が生じていないのに対して、丸いことと四角いことのあいだには矛盾が生じると見なされるからです。こうして、論理的に可能な事態はタイプ的に構成され、論理的可能性の画定がこのタイプ的構成を要するというわけです。

 

4.タイプからトークンへ

固有名が用いられるときも、実質上、上記はあてはまるでしょう。織田信長についての論理的可能性は、信長のタイプ的な特性、例えば人間であることなどによって定まるのであり、それゆえ信長のある特性をもとに示された論理的可能性は、同じ特性をもつ別の存在にも当てはまることになります。この場合の信長の論理的可能性にどれだけの制限がかけられるのでしょうか。結局、それは個々人の直観に委ねられているということてしょうか。

ライプニッツによれば、主語概念(この場合の信長)には、その主語に現実に結びつくすべての述語が内属している。例えば、信長にとって、桶狭間の戦いで勝利したこと、比叡山を焼き討ちにしたこと、明智光秀に裏切られたことは、分析的に真です。それでは、信長が桶狭間で敗れた可能性については、現実世界以外の可能世界にいる、現実の信長にそっくりな人物(信長の対応者)についての事実といういうことになります。この場合、他の諸可能世界にいる信長は、現実の信長の諸性質をほとんど満たす人物です。ここで肝心なのは、いったん信長タイプ論理的可能性に吸収されることになるということです。信長という概念による論理的可能性は信長タイプに制約されます。だから、論理的に可能な事態は、この世の信長という個人との直接のつながりを持たない。信長タイプが百歳まで生きることが論理的に可能であるからと言って、その可能性はまだ、現実の信長その人に繋がっていません。そこには、普遍と個体との紐帯がないと著者はいいます。

現実の信長は信長タイプの一例ということになります。したがって、百歳であることが信長タイプにとって無矛盾であるなら、現実の信長も百歳であることが可能だということになります、しかし、現実の信長は五十歳で死んだのであり、それが事実であるからには、信長という人物が百歳でありえたという意味理解を拒むことができます。

現実の信長が個人として百歳でありえたということの正確な意味は、それが百歳になりえるということです。それが単に信長タイプの一例であるだけでなく、その個人自体として実現可能性をもつということです。その意味で、信長個人の実現可能性も、信長タイプの論理的可能性の内にありるます。

現実の信長その人についての論理的可能性というのは、ありません。そして、信長タイプについての論理的可能性現実の信長に結び付けるには、論理的可能性(ありうる)を実現可能性(なりうる)に昇格させなければならないということになります。

2017年10月 3日 (火)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(14)

第3章 実現可能性

1.時間と様相

時間と様相(可能性様相)について、分岐問題の直観と対応して考えていきます。可能世界意味論は量的かつ静的(無時間的)に様相を扱う、と著者はいいます。静的に並んだ可能世界のうち、一つ以上で成り立つならば可能、すべて成り立つなら必然といった数量的把握に対して、可能性とは、未来へと世界が変化していく中で選ばれていくものではないかか、と問いかけます。

可能世界意味論では、ある世界から別の世界への到達可能性が話題にされます。しかし、現実主義において、別々であれば全体が別の全体になることはありえないことです。著者は、全体としてのある世界が別様の世界でありえたかどうかは、その世界内のある個体が別様でありえたかどうかにも関わります。例えば、眼の前の飼い猫について、この猫が我が家の飼い猫でなかった可能性はどうでしょうか。今現在の日時において、この猫が、我が家の猫でない可能性を認めるためには、そのような可能世界がたんに存在するだけでは足りず、さらに、この現実世界がその可能世界でありえたのでなければなりません。というのも、考慮されているのは、この特定の猫の可能性だからです。この猫の対応者がどこかの世界にいるだけでは足りないし、この猫の反事実的可能性の表象─それは猫でない─が現実世界内にあるだけでも足りないのです。そうてはなく、この猫があの猫(我が家の猫でない可能性としての猫)でありえたが問題なのあって、この猫があの猫になりえたか、すなわち、この世界があの世界になりえたかが問題になるのです。

この場合、この世界が別の世界でありえたことを静的に掴むことはできるのだろうか。ある全体が別の全体でもありえたことを、あくまで静的に捉えようとすれば、二つの全体はトークン的に断絶してしまいます。

ルイスは現実を指標詞とみなしました。指標詞とは全体としての世界を現象的に制限します。「今」だけ、「ここ」だけ、「私」だけがすべて、と言った形です。客観的な全体を見るなら当然こんなことはいえません。にもかかわらず、今、ここ、私において現実に世界が開かれているとして、この制限された世界こそが全体と言いたくなる現象論の引かれることも事実です。

しかし、このような指標詞のなかで、「今」だけは動的で違うと著者はいいます。ある全体が別の全体でありうることは、ある全体が別の全体になりうることと独立に理解できません。この直観は、形而上学と認識論をつなげます。というのも、何らかの指標的制限において全体としての世界が与えられているとき、その全体以外に他の全体があることをわれわれは決して認識できないはずですが、時間の流れの認識はその特別な例外に見えるからです。

 

2.スコトゥスとアリストテレス

他の可能世界を実際に見ることはできません。この現実世界も含めて、諸可能世界は、どれもそれ自体として全体であって、私は一度にひとつの全体しか見ることができません。私が、この世界にいるかぎり、この世界が全体なのであり、この世界から他の全体を見ることはできません。もし仮に、あちらの全体が見えたのなら、そのときは、こちらの全体が見えない。というよりは、あちらの全体が、こちらの全体になっているということなのです。

他の可能世界の認識不可能性は、ある全体から他の全体を見ることができないということです。しかし、そうであるにもかかわらず、どうして私たちは、可能性について様々な認識(諸可能世界)を語ることができるのでしょうか。それには、何らかの手段で他の全体を見ているからに他なりません。その手段として考えられるのは時間認識以外にないというのが著者の主張です。概念的分析を行うなら、まず「ありうる」があって、そこに「なる(時間的推移)」が加わることによって「なりうる」が理解される。そこで様相は時間に先立つということになります。ここで全体としての世界について「ありうる」を理解するためには、「なりうる」の認識が不可欠です。その「なりうる」から「なる」を引くことで、「ありうる」を得ることができる。そのプロセスは、時間が様相に先立つことを示している、と著者はいいます。一般には、様相は時間的推移と切り離された概念であって、無時間的ということは論理的なものです。しかし、これは言語によって時間的な全体の推移を、無時間的な全体の推移(=論理可能性)に作り変えられているからだ、と著者はいいます。これは哲学史を遡れば、中世のドゥンス・スコトゥス以降、必然性・偶然性といった様相概念を時間の流れから切り離し(時間的に継起する因果関係に依拠したものでない)、ある瞬間において成立する様相概念をうちたてた、と著者はいいます。それが可能世界の先駆になった。

アリストテレスは、ある時点で何か、たとえばAが実現した場合、A以外の可能性はその時点で消滅する、と考えていた。つまりそれまではいくつかの可能性があったとしても、現実がその一つとして実現したとき、他の可能性はすべてつぶれている。

原因の一瞬のはたらきのうちで偶然か必然かが区別できるためには、言い換えると、結果を待たずにその区別ができるとすれば、原因自体において、両者が区別できなければならない。つまり、原因がはたらいた時点において、それが偶然であるか、必然であるかが見分けられなければならない。それゆえスコトゥスは、偶然の特徴を「同じ瞬間にAであると同時に非Aでありうる事象」と規定した。他方、この特徴をもたない事象は必然的な事象である、

2017年10月 2日 (月)

青山拓央「時間と自由意志─自由は存在するか」(13)

8.それぞれの値段

著者は思考実験を試みます。すなわち、人間に劣らぬ知性をもった異星人が、実際の人間の生活を見ずに、人間の書いた哲学書などを大量に精査したとする。その結果、自由と決定論をめぐる論争に対して、どのようなことを言うだろうか。

異星人は人間社会で倫理を維持させることに利害関係がないので、倫理に反する見解も、事実の追求において躊躇なく掘り下げていく。例えば、分岐問題について、諸可能性のひとつを現実化する力を持った出来事は、歴史の中に時間的に存在しえない。人間の行為によってであれ、他のいかなる自然現象によってであれ、それによって諸可能性の一つが現実化されるというとはありえず、このことは法則的に決定論の正否にかかわりはない。それゆえ、他行為可能性と起点性をあわせもつものとしての自由意志は、それが偶然の一種でないならば、実在しない。

このような見解を、ここではEと呼ぶことにします。このような見解は社会が倫理的にたちゆかなくなるようなものなので、人間であれば、賛成しないでしょう。しかし、異星人にはそんなことを気にしません。ここで、Eの内容を吟味すれば、自由意志か実在か非実在かについても、自由意志が責任の帰属に必要か否かについても、中立的であることが分かります。

社会に現実に生きる人間は、このような態度をとることは難しいでしょう。社会が倫理的であり、様々な規範が守られていることによって、自身の生きる場所を得ています。しかし、この世界が倫理的である理由や、そうでなければならない理由を与えるような形で、つまり、自由に対する規制の側から、自由や決定論について考えるのは難しい。すなわち、今日までの社会が倫理的であり、そして社会がこれからもつねに倫理的でなければならないのなら、倫理が可能であるための有責性の基盤(自由)を人間は普遍的にもたねばならないか、あるいは有責性なしでの倫理の基盤を新たに人間は見つけねばならない。だが、ごく単純な事実として、社会がこれからも常に倫理的でなければならない脱倫理的な(そして自然的な)理由はなく、それゆえ、倫理を可能にするような何かの性質・能力を人間がもつことに必然性はない人間が今日、自由の理念をもっていることは、世界がその理念を可能とするような構造を必然的にもつことをまったく保証しない。

進化論的な生存競争の観点から、ある種の利他行為に関する人間の性質・能力が自然淘汰において有利だとしても、これは変わりません。今日の人間たちには倫理的な生存戦略といっても、その戦略自体は倫理的でも非倫理的でもなく、生存に有利であるから、それに従って社会の倫理ができているということです。そもそも、自然界は、人間社会が倫理的であれ非倫理的であれ、存続することに関心がなく、明日人類が滅んでも、それだけのことだからです。

Eがもし正しいとして、倫理の維持を望む一般的人間にとって、安上がりなのは、どのようなケースか、著者は様々なケースを考えてゆきます。

そのなかで、カントのニ世界論はきわめてコストの高い回答ということになります。自由意志も偶然も働く余地のない決定論的世界(現象界)のほかに、自由意志の働くもうひとつの世界(仮想界)が必要なのだから。この要請はカントにとって、倫理が可能であるための超越論的条件です。しかし、社会が常に倫理的であるなければならない理由はないという単純な事実の前では、カントの回答はコストが高いだけでなく、異星人や自然界のような倫理と関係ない存在にとっては説得力をもちません。

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