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書籍・雑誌

2018年2月17日 (土)

『資本の世界史』を読んだ。

 『資本の世界史』を読んだ。
 著者はドイツの経済ジャーナリスト。資本主義を資本を投入することで将来のより多くの資本を手に入れる、つまり利益を上げるのを目的とする、要するに指数関数的な成長を生むプロセスだという。この資本というものが近代に生まれたという。資本とお金とは違う。お金は交換手段であるのに対して、生産を効率化するプロセスに伴うのだという。それは18世紀のイギリスで紡績工場主が織機や紡績を機械化したときに始まった。いわゆる産業革命だ。史上初めて人間の労働力が技術によって代用され、それに伴って富が生まれた。ここでつかわれたのが資本。そして、これを境に指数関数的な経済成長が始まった。
それがイギリスの北西部で生まれたのはなぜか。機械は昔からあったし、蒸気機関という動力も以前から知られていた。まして、イギリスは技術の先進地域ではなかった。著者は、その理由をイギリスの賃金が当時の世界で一番高く、そのために人間の労働力を機械で代用することで初めて利潤があがったこと、かつ、労働者の賃金が高くなったので購買力が高まり市場が拡大したことを指摘する。つまり、フランスなどの大陸諸国は利潤を上げるために賃金のダンピングをして、生産力を高め、効率を高めることを考えなかった。
このことは、資本主義経済に不可欠な市場競争というのは近代になって人為的に作られたもので、決して自然にあったものではない。その維持のためには不断の努力、つまり適切なコントロールが不可欠だという。
 著者の言う経済学というのは、自然科学ではなく、歴史学のような事実から特定の意味を引き出すということは、語る(書く)という営みと重なるもものだということになる。
これを具体的な事例分析を進めていくと、従来とは違った地平が広がってくる。それは面白いのだ。
 経済活動というのは、ふつう、儲け即ち利潤を求めるもの。利潤は、単純化すれば、収入と支出の差。ここでちょっと立ち止まって考える。ある企業が儲けるということは売上という収入が仕入という支出より多かったということ。かりに市場にAとBの2社しかないとしよう。A社が儲けたということは、その分だけお金をガメたことになる。市場内のABの関係はAが買ったより売った方が多いので、Bはその逆ということになる。これはゼロサムゲーム、即ち限られたパイの奪い合い。Aが利益を出すことは経済成長に結びつかない。これがヨーロッパで近代を迎える前の経済。
 近代の資本主義経済は、A社が儲けた利潤を、将来に向けて生産規模を拡大しようと考え、将来の拡大する売上のための仕入れや設備を買うことになったという点で、以前とは一線を画す。これをA社とB社だけの市場で考えると、A社が儲けたといっても、A社は儲けた分でB社から買い物をする。そうすると、B社の売上が増えて、B社も儲けることができることになる。このとき、A社が儲けてガメた金は、将来のために使った。それは将来への投資となって、使ったお金は資本ということになる。また、B社も儲けを、将来もっと儲けるために設備や仕入れに投資する。そうすると、儲けの分は市場で売り買いされる量が増えることになる。それは市場規模が大きくなっていく、つまり成長することになる。それが経済成長ということだろう。せっかく苦労して儲けたのを、本当のところ先がわからない未来に向けて投資するという発想の転換。それが資本主義の始まり。それがあったからこそ、18世紀イギリスの産業革命において機械化という挑戦的な投資を実行することにつながった。
 1929年の大恐慌について著者は言う。1920年ころからの技術革新と飛躍的な生産効率化で生産が拡大し、企業の利益が爆発的に増えた。この拡大した生産によって溢れた商品を購入できるように労働者の賃金が相応に上がるべきだったが、経営者は増大した利益を賃金に分配せず自らの懐に入れた。結果として売上は不振になった。利益を懐に入れた一部の裕福な人たちが贅沢をするくらいでは全体の消費は増えないから。需要が増えないので事業投資は滞った。その先にあったのが投機というわけで、投機で儲かれば、労働者を雇ったり機械を買ったりして生産するより効率よく儲かるし、儲けを独占できる。というわけで、ますます投機がエスカレートした。何か、これって、今の日本の政権が賃上げを経済政策として求めている理屈とそっくりではないか。
 これを世界恐慌に拡大したのはヨーロッパに波及したためで、の大きな原因はドイツの事情に在ったという。ドイツは第1次世界大戦に負けて莫大な賠償金を課せられた。ドイツが賠償金を払うためには輸出をして外貨を稼ぐしかなかった。しかし、英仏はドイツから大量の商品が輸入されると自国の雇用が脅かされるため規制した。そのため、ドイツは支払いのために大量に国債を発行した。しかも、信用が低いから利息を高くしないといけない。それに飛びついたのがアメリカの投機家たち。つまり、アメリカは自国への賠償金を間接的に自分で払っていたことになる。それが株価の暴落で資金ショートを恐れた投機家たちが、一斉にドイツの国債や投資を引き上げ始めて、ドイツ経済はあっと言う間に崩壊し、英仏の投資家もドイツに多額の投資をしていたことから欧州全土に波及。何かこれって、最近のギリシャに端を発したユーロ危機と同じではないか。
 その後、各国の財務当局は緊縮策をとったので、経済は収縮の方向に雪崩をうったため、立ち直りの機会を失い、不況は長期化してしまった。結局、アメリカが実質的に不況を脱するのは第2次世界大戦の戦時増産を待たねばならなかったという。

2018年1月31日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(25)

5.人間のペルソナ

キリスト教神学において、人間はたんる動物の一種ではなく特別の存在であり、人間にはペルソナがありますが、動物にはありません。三位一体であったように神にもペルソナはあります。神の場合本質は個別化されていません。神の本質はそれ自体から無限で唯一なので、個別化されません。それゆえ、神において、ペルソナは個別化の原理ではありません。同じように人間のペルソナも、人間の本質を個別化するものでは在りません。ひとりひとり、人間が個体で存在する究極の原理はペルソナではなく、「個別化の原理」です。

スコトゥスは、ペルソナについて、個別化の原理とは違って、ポジティヴな存在性ではない見ています。たとえば、人間知性は人間霊魂の形相というポジティヴな存在性によってあります。しかし、それがもつ個々のはたらき、つまり認識したり愛したりすることのうちには、本性的なはたらきと、自由な意志にもとづく偶然的な作用があります。本性的なはたらきは普遍性を持つので、アリストテレスの哲学においてポジティヴな存在ですが、偶然的な理解のはたらきや信仰のはたらきは、質料的なのでネガティヴです。

6.ペルソナと自己

スコトゥスによれば、神の中のペルソナどうしは、実体的な関係、あるいは、関係的実体です。つまり、ペルソナは複数の実体の間の関係において現われる実体のごときものと言うことができます。

人間においても、他者との関係において現われる実体性が、自己のペルソナであると言えます。実際、ヨーロッパの言語生活では、他者に向かって「わたし」を主張することは日常茶飯事です。つまり他者との関係のなかにある「わたし」です。言い換えると、ペルソナは関係を通じて実体化した「わたし」です。ただし、自己が実体であるためには、ヨーロッパの理解では、不変性、同一性が求められます。

しかし、キリスト教信仰においては、人間どうしの関係よりも神との関係が重要です。なぜなら人が神を信ずるとは、人が神の教えにならうことであり、それは人が、教える神(イエス)をまねることだからです。ところで、神の内で、子は父に対して従順です。子は父の仕組んだ十字架における死を従順に受け入れて死んだということになっています。ところで、人間は神をいわば父として信仰を持っています。それゆえ、信者は子の立場で、神に対して「わたし」であり、父である神に従順でなければなりません。それは同時に修道院の院長という立場に立つ指導者に対しても、従順でなければならないことを意味します。これがキリスト教信仰の従順です。

このような関係は存在上の依存関係としてみることができます。なぜなら、被造物は神に依存する関係を持っているからです。神に依存しなければ何ものも存在しないと考えられています。したがって、被造物のうちで精神をもつものは、この依存関係にもとづいて、神に対する関係として従順であるのが当然と見られるのです。

ペルソナは共有されない性格をもっています。しかし、依存関係は、何かの共有を含んでいます。なぜなら、何か(A)に依存するものは、その何か(A)から、何ものかを分け持っている、つまり共有している、ことによって、依存するからです。例えば、被造物は神から存在を分け持っています。それによって、在ることにおいて被造物は神に依存しています。あるいは神の知性のうちにある人間を分け持っています。それゆえ、人間は人間であることにおいて神に依存しています。その他の点でも同様です。被造物は何であれ、神から分け持った者において、神に依存しています。

他方、ペルソナは共有されないものです。言い換えれば、共有を止めるものです。一方、分割を止めるものが個別化原理です。両者は一見似ていますが、ペルソナは共有を止めるもので、その結果として依存を止めるものです。つまりペルソナは依存の否定を含んでいます。神のうちでも、子は父に従順でありながら、異なるペルソナであるという点では、子は父に依存しません。

被造物のペルソナは被造物であるかぎり、神に依存し、従順であるべきです。他方、ペルソナは、それを止めるはたらきを内包しています。それは存在上、神と必然の関係を持ちながら、他方で、ペルソナのはたらき、すなわち、意志をもつ精神のはたらきにおいて、依存関係を止めるというはたらきです。

依存を止めるなら、精神はそれだけ孤独になるわけです。相手は宇宙のすべてを創った神です。その神への関係を存在する上での必然は別にして、意志的な個々のはたらきにおいて失うなら、むその意志をもつひとりひとりの自分にとって、依存関係をもつことができるものは、宇宙の中に何もないことになります。この状態において現われてくる自分、絶対の孤独です。

2018年1月30日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(24)

3.被造物における個物存在

神の本質は唯一の本質として三つのペルソナに共有されます。しかし、この「複数のペルソナによる共有」は、神の本質の個別化ではありません。なぜなら、教会の教義(信条)によれば、三つのペルソナに共有されている神の本質は、三つのペルソナに分割されているのではなく、ひとつの本質のままです。すなわち、神の本質は三つのペルソナにおいてばらばらではなく、あくまでも同じ「ひとつ」だからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。なぜなら、神の本質は被造物のように「こわれるもの」ではないからです。神の本質は完全に同一だ、というのが教義です。それは、神の本質は、被造物のように「こわれるもの」つまり「分割されるもの」ではないからです。分割されることは、被造物の存在における不完全性です。神は完全な存在なので分割されることない。したがって、スコトゥスにおいて、個別化の原理は神のうちでは一切はたらかない、とみなされます。

アリストテレスは、人間理性に確実に理解されることが真理の特徴であり、それを映すのが質料であるとしました。質料は、形相と対立する実在です。しかし、それは本来の意味では確実な理解を得られないものであり、それゆえに本来的に言われる真理から離れたものです。つまり、アリストテレスの質料形相論は、実在の一部、すなわち、形相のみを真理とみなす論理です。質料という実在のあとの半分は真理ではなく、真理に反してか、反するとまでは言えないにしても、真理から遠ざかって実在するものです。

ところが、信仰から見える世界では、すべては神が創造したものです。そこには質料も含まれます。質料も含め、存在はすべてが真理でなくてななりません。それゆえに中世では、存在が真理に置き換え可能となったわけです。アリストテレスにおいては、真、善、美の置き換えは可能であっても、存在との置き換えはできませんでした。

この理解の変化が、とくに個体のもの「個体性」についての理論に表われています。アリストテレスにおいては、個体は偶然に在るもので確実な真理ではありません。質料と同じような扱いです。これに対して、スコトゥスは個別化の原理は質料でも形相でもなく、質料も形相も「これ」へと収斂する究極の現実態、究極の存在性、と主張しました。スコトゥスはアリストテレスの質料形相論を超えて、「このもの性」という概念をつくりました。それは、形相性のひとつとされ、形相の一部を構成する原理ですが、それ自体は形相でも質料でもない、というものです。しかしスコトゥスは、その実在はポジティヴであると主張します。

4.人間の個体存在

個別化の原理は、被造物の本質の個別化のみに働きます。なぜなら、被造物のみが分割され得るという不完全な存在だからです。とくに物体的なものについては分割が基本です。

個別を意味するラテン語はindividuatioです。言葉の頭にあるinは否定辞です。この否定辞を取ると、「分割すること」という意味の言葉です。したがって、語源的には、個体化は「分割をとめること」を意味しています。被造物の本質は複数のものに分割されるというもので、現実には複数のものが在る、ということになります。これは本質がもともと分割されることで複数のものに共有される性格をそれ自身においてもつからです。その複数のものは「同じ名」、すなわち本質の名で呼ばれるものですが、「これ」と「あれ」は異なる二つのものです。このように本質ないしは本性は分割されますが、「これ」と「あれ」で止まって、それ以上の分割がないという状態を作り出しています。この「止め」を行うのが、スコトゥスの言う個別化です。ラテン語の言葉としては否定辞のつくネガティヴなものをスコトゥスはポジティヴな存在に転換させました。

スコトゥスにおいては石も人間も本質が分割されて各人に共有されていると同時に、それ以上の分割が個別化によって止められて、個体としての個人が生じる、と説明されます。しかし、それはペルソナではありません。

2018年1月29日 (月)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(23)

第9章 自己の存在とペルソナ

1.形而上学的概念と神学

もともと古代ギリシャ哲学においては「存在」ということばの適用範囲は条件付でした。善美は求められるのであっても存在ではなかった。実際、ものが存在するかしないかは偶然的です。真理探究においては、具体的な各々の心理は必然的な仕方で存在すると主張されることはあります。しかし、真理が吟味されるように、存在もまた吟味されることになります。したがって、心の中に存在しても、それが心の外なまで存在するかどうかは、吟味されなくてはならないことになります。心の外に在ることが明瞭なものとは。目に見えるものであり、目に見えるものを直接動かしているものです。

これに対して中世の形而上学は「在る」という主張が十分な吟味を受けたと見なされ、形相や神までも「存在」の領域に当然のごとく入れられるようになりました。アリストテレスでは「存在」の条件であった「質料」が存在の条件から外され、形相のみで存在とみなされ、むしろ質料の条件をもたない存在として形相や神が論じられました。そこには、新プラトン主義的に解釈されたアリストテレスの形而上学の概念がアラビアから伝わったことがベースになっていると考えられます。自然から受け取られた「本性」の概念について、抽象を通じて自然のうちに不完全性・質料性(個別性、偶然性、時間性、変化等々)を取り除けば、自然を超えた領域の存在に一義的に通用する形而上学的概念が得られることになります。それによって神学での神の本性の議論が可能になるというわけです。

そしてこのことは「存在」概念を、自然と超自然の間で一義であると主張することとなります。「存在するもの」すなわちエンスの概念も、抽象と形而上学の論理を通じて被造物の領域にある不完全性を除けば、被造物の限定性を超えて、神にも一義的に適用できる概念ということをスコトゥスは見出します。

同様に、被造物には固有の属性といわれる「一」「真」「善」があります。いかなる存在を取り上げても、「ひとつ」であり、それは何らかの「真」を含み、何らかの「善」を含むという中世では一般化していた説です。これらも「存在」に伴って神と被造物に一義的に述語されます。それ以外にも、端的な完全性と言われる正義や知恵なども、その形而上学的概念はスコトゥスの神学において神と被造物に一義的に述語されます。このような形而上学的概念は、神を科学的に語ることを可能にし、その結果、神学を科学として成立することを可能にしました。

2.神の本性とペルソナ

スコトゥスの神学における神とは何でしょうか。この問いは三位一体の神の本性についての問いということになります。ところで「本性」の概念とは、複数のものに共通に述語できる概念です。たとえば人間の本性は複数の人間に述語できるものです。この「本性」自体がもつ共通性は、まさに本性自体がもつ性格です。それは神の本性にもいえることで、唯一の神の本性であっても、それ自体が複数のものに共有される性格をもっている。それが神の本性が三つのペルソナに共有されて、父も子も聖霊も共通に神であるという述語とつながるわけです。

カトリック教会の三位一体論は、神に近づくことが十分にはできない人間の不完全さにおいて論じられる他ない論です。神の本性はそれ自体から「共有される」ものです。これに対して、ペルソナの特徴は、「共有されない」という性格にあります。ある性質がある複数のものに共有されれば、その複数のものは、同じ性質を有しています。それゆえ、多くのものが同じ名で呼ばれます。複数の個体が馬の本性を共有しているなら、それらは同じく馬と呼ばれるわけです。他方、共有されないものは、唯一それしかありえないということです。「アオ」と呼ばれた馬は、それ一頭のみです。その名で複数の馬が呼ばれることはありません。同様にペルソナのなかの父、子、聖霊は唯一の父であり、唯一の子であり、唯一の聖霊です。それぞれが別の名で呼ばれます。したがって、神の本性は唯一の本性ですが、共有されるものもあるので、父も子も、聖霊も、共通に「神」の名で呼ばれるわけです。それゆえ、イエスという一人の人間=神の子キリストの存在は、唯一の神の子のペルソナが多数のものも間で共通な人間の本性を受け取って、一個の人間イエスになったものと理解されます。つまり基盤となるのは子のペルソナであり、子のペルソナは神ですから、この基盤から見て、イエスは神であるということになります。他方、子のペルソナがそのとき受け取った本性は人間であるから、イエスは人間であるということになります。こうして神であり人である。このようにして神であり人である一個の存在が説明されます。

ちなみに、現代ヨーロッパの実存主義は、この中世のペルソナ思想の現代版と言えます実存主義の個人は「代替できない」と言われます。しかし、代替できない、というのは、「共通でない」ということと同じです。例えば、同じ能力で測られるものは、その能力に関して共通なので、取り替えができる。ある生産ラインのある箇所の作業ができる能力をもつ人間は多数いて、ひとりがだめになったら、他のひとりに取り替えることができる。反対に取り替えが利かないことがらもあります。例えば個人の特殊な能力については、他の人への取り替えが利きません。ところで、ペルソナは共有できないと言われます。これは、ペルソナは取り替えが利かないことを意味します。したがって、実存主義で言われる「代替できない個人」は、「共有できないペルソナ」の意味と同じです。

そしてまた、ペルソナとしての「わたし」とは、「他の誰でもない」という表現でしか言葉にできない何か、です。つまりネガティヴな表現でできないのは、人間がそれ自体を認識することができないからです。すなわち、わたしたちには自己直観(自己の本質を直観する)がない。自分のであれ、他者のであれ、ペルソナ自体の認識は、わたしたちにはない。そのために、「わたし」は「あなたではないもの」であり、「あなた」は「あなた以外のものではない」としか正確には言うことができません。ヨーロッパの個人主義は、神のペルソナの思想に依拠していて、仏教における「自我の無」と同様、こういう点では空虚です。

2018年1月28日 (日)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(22)

7.個別化の原理

事物の本質は、多数の個別的存在に普遍的であり、共通的です。したがって、それを説明する質料と形相も普遍的、共通的です。つまり同じ本質は、同じ形相と質料の複合として説明されます。したがって、スコトゥスによれば、それらのものが個別的に在ることを説明するものではありません。

このことについて、トマス、「ことば」はそれがもつ共通性によって使用されるものでかるから、言葉によって明瞭化される側面を形相と呼ぶのであるから、形相が普遍的でしかないことは明らかです。他方、質料のほうは、明瞭化されない側面を含みます。個別性は、普遍を一般に指示する言葉によって明瞭化できないものですが、それゆえに、質料の側にある、とトマスは主張します。

しかしながら、スコトゥスは、質料が普遍的本質を説明する原理の一方であることは、質料形相論として外すことはできないと言います。だから、トマスの言うような、質料のうちに普遍と対立する個別化の原因性がある認めることはできない。スコトゥスによれば、質料も形相も個別化の原理ではありえない。

スコトゥスは現実に存在することと個別化を分けて、別のものだといいます。現実に存在することは、本質の秩序を横並びに示す「範疇の並列秩序」内のものではなく、その外に位置付けられると言います。範疇の並列秩序は、被造物の存在を区分する範疇であるので、現実に存在することは、範疇を超えて、神にも述語されるからです。これに対して、個別化は被造物の本質の個別化であるため範疇の並列秩序のうちにあるのてなければなりません。つまり、範疇のうちの「白」を個別化して「この白」とする原理は、その範疇のうちにあるのでなければならない、と言います。たしかに現実存在を経験するのは個物に出会う場面です。そのため現実存在は個体性と結び付けられ易いかもしれません。しかしスコトゥスは、現実存在は、いま、ここに在る個体性を通して在るのではなく、本質を通して在ると主張しているからです。というのも現実存在は何よりも第一原理である神において本質を通して在るからです。

それゆえ、スコトゥスによれば、質料によっても形相によっても、存在することによっても、分量によっても、個別化は成り立たないことになります。では、個別化するのは何か、と言えば、何か究極のポジティヴな存在、というほかない。スコトゥスによれば、それ以上の名前は見つけることができないのです。

8.普遍的本質と個別化の存在

もともとアリストテレスは、普遍的知識を追求する科学の世界で、個物はそのデータになる質料にすぎず抽象や帰納によって普遍的本質が見出されれば、その本質に属する個体は区別してひとつひとつを取り出す理由もなかった。つまり、アリストテレスにとって説明されるべきは普遍的本質ないしは真理であって、個別の存在が説明されるべきであるという理由はなかったのです。

ところがスコトゥス神学は、人間は個人として、信仰において正しかったり不正であったりする存在です。あるいは、救世主キリストは神であると同時に個人でもありました。また、直観によって存在するままに受け取られるのもの、個別のものです。そのため、スコトゥスにおいては、現実に存在した、あるいは現実に存在する個別のものが、言葉が表示する普遍的本質によって説明されるべきであり、それが神学と呼ばれる科学なのです。それゆえに、ものが個物として存在する根拠を問うことが課題となってくるのです。

そして、その反対の極がでてくることになります。つまり個体こそが現実に存在すると言うのなら、普遍が現実に存在するという身とは、何を根拠にして言うことができるのか、という問いです。なぜなら、普遍は言葉になっているだけで、直観によって捉えられることはないからです。すなわち、この問いが持つ困難は、個体は見えるが、普遍はただ理性によって触れられるだけであり、論理的な証明しかできないということにあるからです。

スコトゥスは、アヴィセンナに基づいて、実在する自然本性について、次のように解いてゆきます。「馬」の本性を例にとってみましょう。この本性自体には、「存在する」が付帯していない。しかし「存在する」が付帯することによって実在する本性ということになります。これが実在可能な本性です。この意味で本性は実在的と言うことができます。他方、この「本性」に個別化の原理が加われば、「この本性」という個体が生じることになります。したがって、実在するこの馬は、馬の自然本性に、個別化の原理と存在することが付帯して生じていることになります。そしてその一方で、実在するこの馬は、人間の感覚に受け取られ、表象に受け取られ、同時に知性の直観と抽象に受け取られます。そこで、表象に受け取られ、知性の抽象にうと取られた「馬」は、知性のうちで「馬の像」となります。この像は、「馬であること」以上のものを含んでいるわけではありません。つまり個別性も存在性も抽象によって捨てられています。その像に残っているのは、元の「馬であること」のみです。しかし抽象された像は、つぎに普遍を示す「ことば」に置き換えられます。ことばはどれも複数の人々の間で共有されるものですから。このときに、ことばの持つ論理性によって普遍性が「馬」に付帯します。こうして、「普遍的な馬」の概念が生まれます。ただし、ことばの持つ論理性抜きに、その意味(内実)だけを取り上げるならば、それは形而上学者が取り上げる本性ないし本質の概念ということになります。そして、これこそがその本質の第一の概念です。すなわち、個別か普遍かに無差別的で、なおかつ、存在するか存在しないかに無差別的な「本性の概念」です。そしてそれは、実在上も、個別的であることにも存在することにも、先立っている本性です。そして、この本性は、神が宇宙を創るときに最初に知性のうちで考えた本性です。

なお、スコトゥスは本性にも一性が見出されると言います。現実に存在する個体の一性は、その個体の数を数えるときの一ですが、本性の一性は、種の数としての一です。つまり、馬の本性も、人間の本性も、馬と呼ばれ、人間と呼ばれる多数の個体に共通である仕方で、それぞれがひとつです。そしてこの一は、個体の一と比べて、より小さな一であるとスコトゥスは言います。おそらく、個体の一性は、個別化の原理によって他の個体から区別されて明確に作られる一ですが、本性のほうは、それが他の本性とは違う存在として独立に在る、という存在の性格によってのみ、ひとつであるにすぎないからだと推測できるものです。しかしスコトゥスは、この一も、種の本性それ自体の内にあるのではなく、その本性に固有の属性として付帯するものだと言います。

スコトゥスがこのように本性を、その固有の属性から切り離してそれ自体として捉えるのは、形而上学で用いる本性を、正確に神にも一義的に述語できる本性であることを理由づけるためでした。なぜなら、形而上学で用いる本性の概念が、固有の属性としての一も含まないことによって、本性の他は真に何もないものが本性自体の概念であることを確かめ、そのうえで本性を神に適用する、という手法が可能になるからです。つまり、「神は、第一義的に神の本性である」ということが言えるし、その後、本性である故に、その存在にしたがって、固有の属性として、神が第一であり、真であり、善であることを言うことができる。すなわち、神がひとつであるのは、神の本性が本性としての固有の属性としてひとつであるからであって、被造物において、同じ本性を共有する個体がそうであるように、個別化の原理によってひとつではないことを、明確にするためです。

2018年1月27日 (土)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(21)

3.存在の一義性

まず、この存在の一義性で言っている存在という概念は、これまで述べられてきた存在とは違います。後者はラテン語でエッセ(ease、英語でto be)といい現に在るという意味の不定詞で、前者はラテン語でエンス(ens、英語でbeing)といい存在しているものを意味する分詞です。前節の議論を土台にすると、エッセは被造物の本質の外に根拠をもつが、エンスは本質を基体とするものを指しています。そのため、エッスはエンスの一面を取り出した現実存在であり、他方、エンスは神も含めてすべてのものについて言われる存在ということができます。スコトゥスが、ここで議論しているのはエンスの方です。

まず、エンスが多義的、類比的であるということについて。「神は創造者である」あるいは「カラスは黒い」という二つの文では、エンスは多義的です。それは、述語が明らかに異なるからです。他方で、「神は大いなるものである」と「彼の父は大いなるものである」と言うとき、主語は異なりますが、述語は同じです。ところでエンスが指しているのは、述語「大いなるもの」です。命題文の違いは主語の違いです。一方は「神」、もう一方は「彼の父」です。この場合、主語の違いに応じて考えるなら、述語「大いなるもの」の意味は、前者は自分の命を捧げてもいいほど信仰の対象についての述語で、後者では、やはり犠牲になってもやぶさかではない、と思う偉い人です。しかし、後者には、神に比べれば、人間としての限界があります。この違いに着目すれば、エンスは類比的だと言われます。つまり、似たような意味があると同時に、見方によっては意味の違いがあるエンスを含む文の全体から読み取ることができます。

次に一義性について。主語の違いにもかかわらず、述語の概念は、その述語が意味する内容、つまり最小限の意味を常に指している、と判断すること判断することを一義性と言います。言い換えると、主語の違いを述語の中に読み取ることをしない、という判断です。例えば「神は存在しているものである」と「この石は存在しているものである」という二つの文において述語は、同じ「存在している」です。主語の違いをこの同じ述語のなかに読み取れば、述語は一義的ではなくなります。しかし、主語の違い読み取らなければ、述語にある「存在しているもの」は相違がないののであるから、一義的であるということになります。

端的に言えば、スコトゥスの存在の一義性の主張は述語のうちに主語の違いを読み取ることをやめる、という主張です。

4.存在の一義性の本義

このスコトゥスの、主語の違いを述語の中に読み取らないという立場は、論理性の重視、ひいては科学性の重視によるものです。「神は存在するものである」という一文を置くとき、もしも主語である「神」について意味されるものを、述語である「存在しているもの」のうちに読み込むならば、述語の意味が人によって異なる可能性が生じるからです。

「神は第一の存在するものである」、「第一の存在するものは、存在することが必然的である」、「したがって神は必然的に存在する」という三段論法が組み立てられたとき、「存在するもの」と「存在する」の両者が一義的でなければ、この三段論法は科学的正確性を持たないことになります。ここで、「存在するもの」=エンスという概念が一義的であるかどうかが重要となってきます。

スコトゥスは、「神は無限な存在者である」という命題を神学の命題として提出しています。自分たちが信じる神の存在について、スコトゥスはコレが最も適当である、と判断しました。そして宇宙の中には本質が相互に持つ先後の秩序を見て、その第一のもの、第一の原因の存在を、必然的に「在る」と結論した上で、それが「無限な存在」であることを証明しています。

これに対してトマスは、神を「存在そのもの」と定義します。「存在すること」すなわち、エッセは、直観による認識と言えるので、一義的に受け取ることができます。一義的ではあるので、たしかに科学的論証の対象になりますが、「存在することは存在するか」は同語反復になってまうので、論証の組立ができません。そのため、トマスは、神の存在証明に際しては別の概念の秩序を持ち出します。「動かすもの」、「より完全なもの」等々の秩序をもとにして、その秩序は無限に遡ることはできないから、第一のものがその始まりにならなけれはならない、という証明をして、その第一のものが、「私たちが神と呼んでいるもの」である、と証明しています。

つまり、スコトゥスはトマスの神の定義を間違っていると排除しているわけではないのです。トマスの類比説に反対しているわけではないのです。

5.神学における人間

6.スコトゥスにおける「人間」「質料と形相」

スコトゥスによれば、「存在しているもの」の概念は一義的に受け取ることができるわけです。それは、異なる秩序にある異なるものは、それぞれ主語の違いであって、その違いを述語のうちに読み取らなければ、述語は一義的ということになります。これと同様に、さまざまな本質も、実存する多数の個物に共通に一義的に受け取られることになります。そしてアリストテレスの質料形相論が適用されて、それぞれの本質は、形相と質料の複合として説明されます。これは現代的概念を用いれば、人間の本質がDNAの数と配列と、ひれを内に含む細胞質の複合によって生じている、と説明するようなものです。

実際に、本質は形相のみによっても説明できてしまうものです。形相という言語によって明瞭に指示できるものを言うからです。しかし現実に存在し生きている本質は、質料抜きには存在しない、というのが質料形相論です。質料の部分とは、人間の理性、ことばによって明瞭化することができすせにいる何かです。それゆえ、アリストテレスにしたがって本質のうちに質料を複合の一方として認めることは、現実に存在しているものの本質のうちに「分からないもの」の存在を認めることを意味します。

つまり一方に、人間理性に明瞭化できる「ことば」が形作る形相があり、他方に、明瞭化できない何かが質料と呼ばれてあり、その複合として、事物の本質が実際に存在する。ちょうど人間のDNAが、塩基の名前と配列と数については「言語化」できますが、生きている人間の身体に必要なそれ以外のことについては、言語化が難しいように。

2018年1月26日 (金)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(20)

第8章 存在と本質

1.存在論

キリスト教は、世界の創造は神によるものとみなしています。つまり、神は世界の第一原因であり、現実存在(在る)に関する原因ということになっています。これに対して古代の哲学では、現実存在は、個々の事物の偶然的存在として取り上げられました。そのため現実存在は哲学の対象に入りませんでした。なぜなら、科学は必然的かつ普遍的なものについて論じるものだからです。それゆえ古代の哲学は本質をテーマとしました。中世に入って、アリストテレスの哲学がアラビアで解釈されると、世界の創造者である神について論じるようになります。そこで、現実存在についても、第一原因との関係での必然性、普遍性が論じられることになりました。中世の各種の神の存在証明は、この必然性・普遍性に基づく証明です。このようにして中世では神の存在が第一の現実存在であり、神から現実存在を得ることで被造物が在ると見なされました。したがって中世哲学特有のテーマは何よりも現実存在です。

2.スコトゥスにおける存在と本質

存在と本質の区別において言われる存在とは、一般に、ものが現実に在るということで表現される事態を指しています。、これに対して本質はそこに在るものを指して、何であるかという問いに答えられる内容を広く一般に指しています。つまり何かが在ると見出され、次にそれは何か、と見れば「栗毛の馬である」という順です。言うまでもなく、栗毛の方は、狭い意味での本質ではなく、属性と言われるカテゴリーに入りますが、存在という大きな枠では、実体本質も属性本質も、「何であるか」に答えられるものであり、広い意味で、まず存在が見出され、次に本質が見出されるということになります。とはいえ、知性による理解としては、先に本質が理解され、次にそれが在ることが確かめられる。いずれにせよ、知性のうちで本質と現実存在は区別して理解されています。このことは、それぞれの根拠ないし概念が区別されて理解されているということです。

スコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあるといいます。なぜなら現実存在こそがまず在ると言えるものであり、それと比較するなら、本質はまず考えられるもの、つまり知性の対象であって、二義的に在ると言えるものだからです。神学では、神がその知性において考えたものが、次の神の自由意志のもとに、神の外に創られて在るからです。

ここで、スコトゥスは可能態について、現実態に対する可能という意味ではないと言います。スコトゥスが出している例では、人間性が一性に対していわば可能態にある、といっていますが、ここでは人間性が先立って在って、その後で一性が現実態として人間性に加わってひとつの人間性が在る。つまり属性としての一性が人間性を規定して一なる人間性が理解される。というもの。スコトゥスは、それと同じような意味で、本質は存在に対して可能態にあるのではない、といいます。むしろ本質は存在するときも存在しないときもある、という意味でスコトゥスは、本質は現実存在に対して可能態にあると言います。他方、人間性と一性の関係で言えば、むしろ人間のほうが、その属性である一性の必然的原因であるということになります。つまり、スコトゥスは、人間性がなければ一性はありえない、という意味で、人間性は一性の必然的原因だ、ということになります。しかし本質と存在の関係はそれし同じではない。つまり、もし本質と存在の関係が人間性と一性の関係と同じであったなら、まず一定の本質が考えられなければ、その存在はありえない、という意味でり、本質は存在の必然的原因であるという結論に導かれるというわけです。しかしこの結論は誤りです。

現実存在は事物に生起する、とスコトゥスは言います。スコトゥスは存在と本質の区別を、神の事物創造の時において説明します。神が事物を実際に創造する前に、事物の本質が神の知性のうちで考えられる。このとき事物は実際には非存在です。ただ存在する可能性がまったくないかと言えば、そうではなく、神の知性のうちで考えられたとき、それは存在可能ということになります。つまり、存在可能で、なおかつ、実際には非存在ということです。そして、それは次に神の意志がそうであれば、現実存在が与えられて、実際に存在するということになります。したがって存在以前の本質にとっては、現実存在からあとに生起する(付帯する)ことになります。それが現実存在は事物に生起するということだとスコトゥスは説明します。

ところで、この現実存在を与える神は、存在そのものです。したがって、その神がある種の必然存在を与えるなら、それを受け取った本質は、そのことから、必然存在ないし永遠存在となります。とはいえ、存在そのものではないので、神の意志にしたがって限定的に永遠であるにすぎません。したがって永遠存在とか、必然存在であると言っても、その様態は完全な永遠存在の神とはことなるものです。そして創造されたものである限り、現実存在はその本質に生起しないのであって、それ自身から現実存在というわけでは在りません。このように被造物は本質的に、はかない存在なのです。

2018年1月25日 (木)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(19)

11.意志の自由

アンセルムスは意志の自由を、「意志の正直を守る力」と定義したといい、それは有名なことらしい。罪を犯すような、身勝手なまでの自由を「自由」とは呼ばず、むしろ神に対する率直さが自由の根拠であると主張したのです。

この「自由」の概念は、外からの強制にひるまない気概、また誘惑に負けない自負の念と似たものです。実際において、人は何事かを選択するときに、様々な条件を考慮します。その際に、それ自身とは別の誰かの意見や力あるいは利益の誘惑に左右されていては真の自由とは言えません。したがって、何でもありというのが自由なのではなく、むしろ「課題について他からの強制や誘惑に左右されずに自分判断を下すことができる」ということが、自由であるためな必要なことだと言います。

さらに、判断を下すためには、強制や誘惑に左右されないということだけでなく、なんらかの判断基準、つまり真理の尺度が必要になると言います。身勝手な基準での判断は知性が目指す真理による判断ではないからです。例えば、人が人生の重要な場面で選択に迷うのは、人生の真理がはっきりと見えないからだと言います。

アンセルムスは、その真理を教えてくれるのが信仰であり、真理は神が教えてくれると言います。だから、その真理への忠誠心を守って判断することが、アンセルムスにとっては、自由に判断することになります。従って、アンセルムスによれば、神へと真っ直ぐに向かう思い、つまり信仰を失わないことが、意志の自由そのものである。アンセルムスは、これを「意志の正直」と呼びます。

スコトゥスは、第一の自由の根拠をアンセルムスの考えから受け取ってはいません。スコトゥスは第一の自由を意志自身の発動に帰しています。意欲は意志自身が起こしている、という意志の自己機動性が、意志の自由の根拠・原因であるとスコトゥスは見なします。そして、これに基づいて意志には「罪をなすことが起こる自由」があると言います。しかし他方で、完全な自由は、意志の正しさ、正義を求める思い(真理に従う)適合した意志であるという理解においてはアンセルムスと一致します。スコトゥスは原初の自由を意志が働く始点におけるものだと理解することで、アンセルムスを離れ、独自の道を行くことになります。

始点となるのは、始動状態にある意志が具体的なはたらき(欲したり、嫌ったりする)をはじめるところです。ここで発動というのは、そこがはたらきの究極の始点となっていることを意味します。自然な事柄の生起は偶然的であれ必然的であれ、無数の原因が連なる結果です。現実に起きている様々な事象の大部分は、人間が操作できる物ではありません。事象は複雑に影響しあって、偶然的に生起しています。それゆえ、どこにおいても新たな運動の視点があり得ます。とくに生物は、それぞれがある種の自発性を持っています。そういう中にあって、理性をもつ人間は特に他からの影響を必ずしも受けずに、独立して判断して行動する。それゆえ、個人は自分の行動の始点を自由な意志に持つ、と考えたのがスコトゥスです。意志は自身のはたらき(「好む」)と、その反対の「嫌う」というふたちのはたらきの始点を自分の意志自身のなかにもつゆえに自由を持つゆえに、自由を持つと考えたと言います。これが近代人の自由の観念を作っていくことになります。

12.罪が生ずる過程

スコトゥスによれば、自然的能力は一般にその能力に応じた欲求を持っています。その欲求は同時に「便益を求める思い」にもなります。これに対して、「正義を求める思いは」神からのみ得られるものだからです。つまり「正義を求める思い」は真理に従う信仰ということです。他方、自然的能力は神を知っているわけではありません。したがって、自然的能力は、ただ自分の能力に合ったものを求めます。ところで、神以外のものは、神を知るための道具、あるいは神に至るための過程の一部に過ぎない。それゆえ、スコトゥスによれば、「便益を求めるおもい」は便益を求めることであり、肉欲のごとき欲求です。

感覚が周囲のものを認識し、それを求め、知性がそれに従うなら、そこにあるものは「便益を求める思い」です。このような知性が持つ意志は、人生の究極目的を知らず、そのための規範(正義)を知らない意志であるから、過度に対象を求める運命にあります。この種の意志は、正義を求めないために、完全な自由はもちませんが、能力自身に与えられている発動から生じる自由はもっています。それによって罪をなすということが起こる可能性があるのです。

スコトゥスは、信仰を持つ良い意志は神の意志から啓示を受け取り、それを通して神の自由性を得て、それによって持ち前の能力から生まれる欲求を制御して常軌を逸することがないようにできる、と説明しています。ということは、人間には常軌を逸する可能性もあるということで、スコトゥスはその説明もしています。

2018年1月24日 (水)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(18)

8.享受と使用

知性し行動に関わる判断、例えば「盗んではならない」といった実践的命題をもって行動を判断するはたらきです。この知性の働きは、知性自身の欲求、すなわち意志とつながっています。

一方、意志は、知性が持つ(知性のはたらきかけから生まれる)欲求なのであるから、知性の実践的判断を内包することができる欲求です。つまり意志は、個々の感覚能力が持つ欲求のように単純な相を欲求ではなく、多様な相手をもつ欲求なのです。

その場合、意志という欲求がただの欲求ではなく、知性の判断を取り入れた欲求だとすれば、意志がはたらくときに関わる徳という側面を視野に入れなければならなくなります。つまり、正しい、あるいは、良い意志とは美徳(欲求)をもった意志であるし、反対に不正な、悪い意志とは悪徳を持った意志(欲求)ということになります。スコトゥスは、そのような徳の側面を見ていくために、アンセルムスが行った意志の分析を参考に、その用語を導入します。

その前に、アウグスティヌスは享受と使用という対比的な用い方をしました。それは、一方に欲求の真の目的があり、それを受け取って欲求がその目的を満たすもの、それを享受の対象とします。他方で、その目的を達成するための道具があって、それを使用する。このとき目的と手段を取り違えないということ、この態度が秩序を持った正しい生き方であり、良い意志がもつ徳であると言います。これに対して、道具に執着して、本来の目的を道具のようにみなしてしまうと、悪い、転倒した意志ということになります。例えば、金銭は交換の道具に過ぎないものですが、それを集めることを目的としてしまうのであれば、その意志(欲求)は、「享受すべきものを使用し、使用すべきものを享受する」という、転倒した意志、すなわち悪徳を持つ意志ということになります。

9.友愛と肉欲のごとき欲求

この享受と使用の対比は、目的と手段のようなものです。そして、アンセルムスには欲求の働きに関する対比があります。「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」です。全社は目的に対する愛であるのに対して、後者は手段に対する愛という区別です。

スコトゥスは、この「友愛に対する欲求」を、「わたしが愛するものに善を求めるとき、私はその対象を友愛の欲求で愛している」と言います。つまり、相手の幸せ(相手が良ければ、それだけでよい)を純粋に求める、というのが友愛の愛(欲求)です。他方、「わたしが別の愛されるもののためにある対象を求めるとき、わたしはその対象を肉欲のごとき欲求で愛している」と説明します。人は本来愛すべき対象を表向き愛する仕方で、他のものを本当は愛して、愛すべき対象をそのための道具とするとき、愛すべき対象を二義的な愛の対象にとしめている。このとき、人はその相手を「肉欲に似た愛で愛している」といいます。この肉欲に似た愛は、真の愛ではなく、見掛け倒しの悪い愛といえます。ただし、この「肉欲」は身体を土台にした欲求を意味するのではなくて、知性が持つ欲求であるということです。

つまり、知性にとっての目的は、精神的目的であり、高位の事柄です。それに対して、その目的への手段や道具は下位のものということになります。したがって精神的なもののなかでも下位のものは、上位のものから見て、物体のごときものと見なされます。それに準じて、上位のものについての愛から見れば、下位のものへの愛は、肉欲のごとき愛と言えるわけです。スコトゥスは「肉欲」とは言わず「肉欲のごとき」と言っているのは、そのためです。

したがって、精神的な欲求が、肉欲のごとき欲求と見なされることが起きるとしても、おなじものが、つねに肉欲に似たものと見なされるかといえば、そういうことではないのです。たとえば、知識欲は精神的な欲求ですが、最上位の神について、様々なことを知ることによって神に向かうなら、知識欲は目的に役立つ位置にあり、その愛は友愛の愛です。ところが、知識欲によって知識を得た結果、人は傲慢になることがあります。そのような愛は知的であっても下位のものに向かうかぎり肉欲に似た愛ということになります。名誉欲や支配欲も、この種のものと理解していいと思います。

10.正義を求める愛と便益を求める欲求

医師が求める徳についての理解を進めるものとして、さらにもうひとつの区別がアンセルムスにしたがって導入されています。それは「正義を求める思い」と「便益を求める思い」です。この区別も「友愛の欲求」と「肉欲のごとき欲求」の区別に似ています。とはいえ、必ずしも目的と手段の対比ではありません。「正義を求める思い」は、公的に正義の規範を保とうとする思いのことであり、「便益を求める思い」は、便利さや利益を求める思いだからです。したがって、この対比は相対的順位の対比ではなく、絶対的な区別です。正義は徳の根本だと見なされていますし、他方で、便益は自己の利益であるために、美徳とは言えず、正義の規範を超えて考慮されるべきではありません

スコトゥスは至福を求めることは、それ自体は肉欲のごとき欲求であって、友愛の愛ではないと言います。友愛の愛のみが真の目的を享受する愛です。したがって、肉欲のごとき欲求は享受する愛ではない。それゆえ、詩服を求めることはすべての人にあるとしても、だれであれ、その欲求に身を任せることらなれば、肉欲に似た愛しかもつことができなくなる、というわけです。

2018年1月23日 (火)

八木雄二「聖母の博士と神の秩序─ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界」(17)

4.動かす始点となる実体

このときも能動知性を動かすものは何かという問いは、究極の始源である神にまで行くか、そこまで行かないとあれば。能動知性の段階で、「それがそもそも知性を動かす」というところでとどめる、ところから始めることになります。同様に、意志も自分で自分を動かす、というところに始点を置くことになります。

さらにスコトゥスは、感覚についても能動的な「感覚作用」と、それを受けて生まれる受動的な「感覚」を区別しています。

このように動かすものと動かされるものを区別していくと、同一の実体の中に多数の実体があるような言い方になってしまいます。そうなると、一個人の人間的実体のうちに知性の実体が二つあるのか、そこでスコトゥスは、様々なレベルで「形相的区別」を考えています。しっだいとしては同一のもののうちに実在的な区別がそれで可能になると言います。

5.感情と意志かす始点となる実体

このようなヨーロッパの言葉に対して、日本語の場合はどうなのでしょうか。

例えば「感情」について、うれしいとか悲しいという感情は、何かを受けて、という場合が普通です。だから受動と考えてもいいでしょう。怒りも何かのせいで、ということになります。ところが愛とか憎しみは、受動的なところもあるでしょうが、同時に何かを愛するとか憎むというという能動性も持っています。実際のところ、愛する、憎む、嫌うなどは欲求のはたらきであると言われています。したがって、愛するよろこびや嫌われる悲しみは、受動的ではありますが、愛することや嫌うことは能動的なはたらきです。

で、前章までのヨーロッパの議論を思い出すと、このような受動である感情を動かしているものは何なのでしょうか。

まず自分が求めているものが感覚に現われれば(それが感覚を動かせば)うれしいという感情が心に現われます。しかし、この感情に知性の判断が関わるでしょうか。過去の経験を思い出して、「美しく良いものに見えても害を受けることがある」と判断したとき、不安や疑惑の感情を持つ経験は誰にでもあると思います。ヨーロッパの論理では、知性の判断が引き起こす感情は、感覚の受動ではなく知性の受動ということになります。そして知性ないし理性から心が動きを受けたときに生ずるものは、知的な受動であって、むしろ意志の欲求につながる受動です。すなわち、知性の判断を受けて起きた怒りは、感覚的刺激を受けた起きた怒りとは、動かすものが異なる受動として区別されるのです。したがって、怒りや喜びや疑惑を、一様に感情とすると食い違いがおこることになります。強いて言えば、心に起きる受動は、感情ではなく、心情とでも訳して区別しておくほうが、理解の誤差は相対的に少なくなると著者は言います。

すなわち、心を動かして心情を生ずるものに、知性(理性)と感覚がある。したがって、心情については、それを結束する理性と感覚が対比される。日本では理性と感情が対比されるが、ヨーロッパでは理性と対されるのは感覚です。では、このヨーロッパの理性と感覚の違いはどこなあるかというと、感覚には身体性があることで、感覚は身体的器官として考えられるのに対して、理性は特定の身体的器官にあるものとは考えられなかった点です。ちなみに、ヨーロッパの視点で感覚刺激に生まれる感情と対比されるのは、理性から生まれる意志ということになりそうです。しかし、一般的には意志と対比させるられのは感覚刺激で生まれる肉の欲求、すなわち欲望です。

6.理性的か感覚的か

感覚的欲求と意志的欲求は実際にうまくわけられるのか、と著者は問います。

これは、個別感覚と知的直観、感覚表象と知性の抽象の区別に似ています。例えば「愛」という心情や、そこから生じている欲求が、感覚的や肉欲的でないかどうか、理性的であるかどうか、あるいは神の愛や隣人愛かどうか、その違いは、そこから生じている行動、それについての説明、その他によってしか判断することはできません。まして、自分の中にあるものは、自分に都合の良い説明を与えがちなことから、ますます見分けにくくなります。

ここでは、理性と感覚のはたらきから生じる心情(こころが動かされて生まれる思い)の違いに着目すると、欲求は、感覚的なものと理性的なものが対比されていても、それは認識における感覚認識と知性認識の関係の類似に合わせて、理解しなければなりません。つまり、感覚と知性は、認識において協働しているということです。感覚が先に対象に接し、そこから知性認識が可能になります。欲求についても、感覚と理性が心情という欲求の基盤を生み出すことにおいて対比されても、両者から起こる欲求の間には、必ずしも相互に対抗性が見られるわけではなく、むしろつながっています。感覚認識は理性認識に先行するので、感覚的心情は理性的心情に先行し、その心情から生まれる欲求は、同じように、感覚的欲求が理性的欲求に先行している。逆に言えば、感覚的欲求の意識(自覚)なしには理性的欲求の意識(自覚)もないわけであるから、両者のつながりは密接で、論理的な地平・文脈でしか両者を引き離すことはできないと言います。

7.罪の発現

スコトゥスによれば、能力があれば、それに見合った欲求が生まれることになります。視覚能力には美しいものを見たい欲求があり、嗅覚能力にはよい匂いを嗅ぎたい欲求があり、触覚能力には心地よいものに触れたい欲求があるといいます。同じように知性には真理を知りたいという欲求があります。そして認識の側面では、感覚がもつ認識に知性が持つ認識が重なってその区別が見えづらいように、感覚がもつ欲求には、理性ないし知性の能力から生じる欲求(意志と呼ばれる)がつながっていて、それらは互いに見分け難くなっています。

知性が持つ欲求に対して対抗性をもたない場合には、つまり知性の規範がその欲求と共に感覚的欲求に対してある種の規範を与えることがない場合には、感覚的欲求のままに知性の欲求、すなわち意志も働くことになります。このとき、その意志は感覚的欲求と類似して低級なもので、地上的なものを求める欲求になります。そしてそれによって罪が生ずると考えられます。

スコトゥスによれば、知性の欲求(意志)であっても、それ自身だけでは感覚の欲求にひきずられて罪が生ずることを止めることができないといいます。それゆえ、欲求とは別に正義の尺度となるものが心のうちになければならないということです。正義の尺度に諫められて、はじめて意志も単純に感覚の欲求に傾くことを止めることができる、と考えます。正義の尺度とは、一般に道徳と言われるものです。

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