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2024年2月27日 (火)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(6)~第5章 『論理哲学論考』の言語論

 『論理哲学論考』は、生死について、価値について、倫理について、論理についてなどといった哲学が取り組んできた様々な問題は、自然科学のように世界のあり方を探求すれば答えが出るものではなく、また数学のように考えるだけで答えが出るものではない。このような哲学的問題はそもそも思考の限界を超えようとする人間の知的衝動の所産なのだという。そこで取り組むのは、思考の限界を見定めるということだった。ただし、ここでの思考とは言語的思考のことで「論理空間」と呼び、言葉にならない漠然とした思いのようなものではない。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言う。その最大の特徴は、明確に言語優位の考え方を打ち出したところにある。
 ラッセルは、分の指示対象として命題を考え、明大は信念や判断によって構成されていた。信念や判断という心の動きから出発して、命題を構成し、それが言葉に意味を与えるという順番。『論理哲学論考』はこの順番をひっくり返す。言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えはない。だから、矛盾したことや無意味なことは考えることができない。逆に言えば、それ以外のことなら何でも考えることはできる。とはいうものの、思考が言葉に意味を与えるのであれば、思考内容な言葉であれば有意味ということができる。しかし、『論理哲学論考』はその逆のことを言っている。
 『論理哲学論考』は「世界は成立していることがらの総体である。」「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」から始まる。これは、さきのラッセルへの批判であると著者は言う。ラッセルは偽な文の指示対象を確保するために、まず偽な命題の存在を認めた。それに対して、世界は成立していることがらである事実の総体であるとすると非現実のことは存在しない。では、存在するのは事実のみであるのに、非現実の可能性を考えることができるのはなぜだろう?ウィトゲンシュタインは言語があるからだという。
 われわれは「富士山に小惑星が衝突した」という非現実のことを考えることができる。このなかの「富士山」「小惑星」「衝突する」といった要素については様々な事実から取り出すことができる。これを対象と呼ぶ。事実を分解して、その構成要素である対象を取り出す、つまり分節化する。そして、これを組み立て直して「富士山に小惑星が衝突した」という可能な事実を構成するというわけ。
 このように現実に存在する対象を組み立てたら、できあがるものも当然現実に存在することになる。現実に存在する事実。可能な事態ではない。つまり、本当に富士山に小惑星を衝突させることになってしまう。そこで、対象の可能な組み立てを考えるには、対象そのものを組み立てるのではなくて、対象の代理物を組み立てることになる。それが言語だ。「富士山に小惑星が衝突した」という文は富士山に小惑星が衝突したという可能的な事態を表現する。現実の対象を代理する言葉をさまざまに組み合わせると、それがさまざまな可能性を表現する。可能性とは、言語が表現するものとしてのみ、成り立ちうる。
 以上の議論をまとめると次のような手順といえる。
現実事実を対象に分節化する

対象を語で代理する。

語を組み合わせることで可能的な事態を表現する。
 ただし、対象を分節化するという第一のステップは可能的な事態を考えるという第三のステップを必要とする。対象を分節化するのに、それによってどのような可能的な事態が考えられるのかも了解されねばならないという。例えば、「ミケがソファの上で寝ている」という事実があるとする。この事実から「ミケ」という対象を分節化するには、ミケがソファの上でなく、床の上だったり布団の上だったり、あるいは寝ているのではなく、歩いていたり、あくびをしていたりする可能性も了解されているはず。そのような可能性が理解されていないで、ミケはただソファの上で寝ているだけの存在であるとしたら、ミケはソファと一体化し、寝ているという状態だけの存在ということになる。「ミケ」という対象は、他の可能的な事態の中に現われることを想像することができる。そのような可能性を解していなければ、「ミケ」を一つの対象として取り出すことはできない。対象とは必ず何らかの事実のもとにありながら、さまざまな可能的な事態のもとに現われるという仕方で、事実から切り離された存在となる。これは、個体だけでなく、性質や関係も同様だ。したがって、まずむ現実に成立している事実を対象に分節化してから、その後で可能的な事態が思考可能になるのではなく、対象が分節化されるときは、その対象がどのような可能的な事態に現われうるのかも同時に理解される。ある対象について、それがどの可能的事態に現れうるかということをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼ぶ。
 「ミケ」や「寝ている」の論理形式はどうか。世界において我々が出合うのはすべて現実に成立している事実であって、非現実の可能的な事態に出会うなどということはありえない。「富士山に小惑星が衝突した」という可能性は現実には存在しないし、ただ「富士山に小惑星が衝突した」という文が表現するものとしてあるだけである。「富士山」という固有名、「…は小惑星だ」「…は…と衝突した」などの述語を有意味に組み合わせる仕方でのみ、何が可能的な事態なのかが捉えられる。ある語について、他のどの語と組み合わせて有意味な文が作れるかということをウィトゲンシュタインは「論理形式」と呼ぶ。
 われわれは、ただ事実に取り囲まれているだけで、それを言葉で表して、しかも文が語に分節化されてはじめて、非現実の可能性を表わす組み合わせを作ることができる。それゆえ、語の論理形式と対象の論理形式は一致する。さらに、有意味な文の全体と思考可能な事態の全体も一致する。これにより、対象に分節化された世界が言語以前に成立していて、それが言葉に意味を与えるというラッセルの考え方は否定される。
それなら、どういう組み合わせが有意味なのかという論理形式の理解は、どういう文が有意味なのかという理解に基づくことになる。そのどういう文が有意味なのか、どうなるのか?それについて、ウィトゲンシュタインは、有意味の最終的な根拠はわれわれの言語使用にあるという。言葉は、実際に使えているのなら有意味だと、ウィトゲンシュタインは言う。。語の論理形式は実際の言語使用から了解される。「富士山」という固有名や「…は噴火する」「…は…と衝突する」という術語が文から切り離されてくるときには、その語の論理形式、すなわちそれらの語を使ってどういう文が実際の言語の実践で使用できるのかが了解されていなければならない。そして、語の論理形式は、その語の対象の論理形式としても捉えられる。対象の論理形式は、その対象がどのような可能的な事態に現れうるかということだから、このようにして思考可能な事態が捉えられる。
 整理すると次のようになる。
文から語が分節化されるとき、語の論理形式も了解されている。

事実から対象が分節化されるとき、対象の論理形式も了解されている。

対象の論理形式は語の論理形式をもらってきたものだ。

語は対象を代理したものだ
 ウィトゲンシュタインは、われわれがどのように言葉を使っているかという事実をみるが、それを論理的に説明するのではなく、記述する(解明する)ことに努めている。
 フレーゲのような語の意味に対しては意義のような内包的側面を考えることはなく、語の意味は指示対象だとする。その点ではラッセルと同じだが、指示対象を捉えるときには語と対象の論理形式が了解されていなければならない、という点で異なる。
「富士山は噴火する」が有意味であることは、「富士山」の論理形式も「…は噴火する」という術語の論理形式も部分的に明らかにする。
 そうだとすると、「富士山」の論理形式を明らかにするためには「…は噴火する」の論理形式の分かっていなければならない。つまり、ある語Aの論理形式を理解するとは、その語と他の語B、C、D…との組み合わせが有意味な文を作るかどうか理解しているということなので、語Aの論理形式を理解するためには、他の語B、C、D…の論理形式も理解していなければならないことになる。他の語についても同様だ。ということは、一つの語の論理形式を理解するためには、結局はその言語含まれるすべての語の論理形式を理解していなければならないことになる。語の論理形式が分からなければ対象の論理形式も分からない。したがって、対象を分節化することもできないのに、指示対象も定まらないから、その語の意味も分からないことになる。結局は、「富士山」という一つの語の意味を理解するためには、日本語のすべての語の意味を理解しなければならないことになる。これを全体論的言語観と呼ぶ。
 われわれの言語使用の実態は、このようなことになっている。論理的な説明を試みると、部分が先が、全体が先かという循環論に陥ってしまうが、全体が部分からできているだとという単純な構造ではなく、部分は全体との関係で意味を持っていて、部分と全体が緊密に結びついているという。それは、幼児が言語を習得しているありさまをみれば分かる。
 語の意味が分かると、それをもとに論理空間を構成できるようになる。語の意味を理解するとは、その語の指示対象と論理形式が分かるということだから、論理形式の理解をもとに、有意味な文を作り出すことができる。有意味な文は可能的な事態を表現しているので、可能な事態を列挙することができるようになる。現実の世界では、これらの可能な事態のどれかが成立している。「富士山は江戸時代に爆発した」という事態は現実の事実として成立しているが、「富士山は明治時代に爆発した」は事実ではなく可能的な事態にとどまる。論理空間では可能的世界を列挙するが、かといって存在するわけではない。存在するのはわれわれが生きている現実の世界だけだ。可能的な世界は、ただ言語が表現することにより思考可能な世界として立てられる。
 このように現実世界以外の可能的世界が存在するわけではない。事実以外の可能的な事態も存在しない。可能的な事態が指示対象になることはできない。存在しないものを指示することはできないからだ。ところで、語の意味は指示対象だ。指示対象である個体も性質も関係も、現実に成立している事実から分節化されたものだから、現実に存在している。語の理解には論理形式の理解が伴う。現実世界以外の可能的な世界は、ただ言語が表現することによって思考可能な世界として立てられる。だから可能的な事態が指示対象になることはできない。存在しないものを指示することはできない。決して可能的な事態が言語以前に存在して、それが文に意味を与えるのではない。著者は「a」、「b」、「c」、「点灯している」の4つだけの世界を例として考える。「a」、「b」、「c」の3つの点だけがあって、それぞれが点灯したりしていなかったりする。この4つの対象を有意味に組み合わせて作ることのできる可能的な事態は次の3つになる。
A…「aは点灯している」
B…「bは点灯している」
C…「cは点灯している」
この3つの可能的な事態から作られる論理空間は、どの可能的な事態が現実に成立しているかによって、つぎの8つの可能性を列挙する。
世界W1…A-成立、B-成立、C-成立
世界W2…A-成立、B-成立、C-不成立
世界W3…A-成立、B-不成立、C-成立
世界W4…A-成立、B-不成立、C-不成立
世界W5…A-不成立、B-成立、C-成立
世界W6…A-不成立、B-成立、C-不成立
世界W7…A-不成立、B-不成立、C-成立
世界W8…A-不成立、B-不成立、C-不成立
 ここで、「aは点灯している」という文は「aは点灯している」という可能的な事態を表現し、それは単に可能的な事態を述べるだけでなく、この現実世界が「aは点灯している」という事態が成立している世界なのだということを述べている。文は、論理空間に列挙された可能的な世界の中で、それが真になるような可能的な集合を特定する。つまり、「aは点灯している」という文は、現実世界がW1、W2、W3、W4のいずれかだということを述べている。このように分は現実世界がどのようであり得るかに関して、論理空間から可能な世界を取り出すものとなっている。これは、フレーゲの言う真理条件と呼ぶものだ。これは、「aは点灯している」が事実として入力するとW1~W8が成立するか不成立かを出力する関数、それを真偽に置き換えると真理関数と言える。このようにして作られる真理関数の全体こそが、何事かを「語っている」すべてなのだ。真偽は、それが表現している可能的な事態が現実に成立しているどうかを調べることにより、知ることができる。それにより真偽が確定したら、真理関数によって論理空間の真偽が確定する。真理関数は世界のあり方を調べることにより真偽が確定する文なのだ。
 『論理哲学論考』が言う「語る」とは、世界のあり方を記述するということで、それは世界のあり方に応じて真偽が言えるということで、真理関数こそが世界のあり方を「語る」文であるということなのだ、
 このようにして、『論理哲学論考』は「語りうる」ことを規定し、それに基づいて哲学問題を語りえぬものとして、まっとうな「語り」から除外する。『論理哲学論考』の最後近くで、次のように言っている。
 「だがもちろん言い表わしえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。」

2024年2月26日 (月)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(5)~第4章 指示だけで突き進む

 フレーゲは語の意味は文の意味以前に確定すると考える要素主義を批判して、文の意味との関係においてのみ語の意味は決まるという文脈原理を提唱し、また指示対象という外延的側面だけでなく意義という内包的側面も考えるべきだと論じた。ところが、ラッセルは文脈原理を拒否して平然と要素主義的に考え、また、意義という側面を認めず指示対象だけで言葉の意味を捉えようとする。
 まず、著者は指示対象が存在しない固有名は無意味かと問いかける。例えば、19世紀に太陽系で水星より太陽に近い惑星があると考えられてバルカンと名づけられていた。しかし、現在では、そんな惑星はないとされている。その場合、「バルカンは地球より小さい」という文は無意味になる。それは「バルカン」という固有名が無意味だからだ。
 また、「日本の初代内閣総理大臣」について、フレーゲは個体を指すので固有名としたが、日常言語では固有名とされないので、ここでは個体指示語と呼ぶ。これは固有名のように指示対象を持たない場合には無意味ということになる。例えば、日本の初代大統領。とはいえ、日本の初代大統領について、たしかに間違っているとしても、意味は分かると言えなくもない。これに対して、フレーゲなら、意味に指示対象と意義という二つの側面を考えることから、日本の初代大統領には指示対象はないが、意義はあると論じる。しかし、実はこのことはフレーゲの議論の核心を揺るがす問題を秘めている。すなわち、言葉と世界の基本的関係は文の真偽にある。文脈原理に従えば、固有名と述語の指示対象は文の真偽との関係で決まる。このように指示対象のレベルで世界に錨を下ろしているからこそ、意義のレベルが考えられるわけだ。そこで、指示対象がなくても意義だけはあるというと、世界に下ろした錨を断ち切ってしまうことになってしまう。これに対して、ラッセルは一貫して意義という側面を認めない。日本の初代大統領が有意味だとすると、指示対象を持つ、つまり日本の初代大統領は存在するという。これはリアルに存在するわけではなく、実際に指さしなどで指示することはできない。そこで、ラッセルは第二形態へと進む。
 それについては、論理学で考えると、「猫はよく寝る」は「すべてのXに対して、Xが猫であるならば、Xはよく寝る」とう意味になる。一方、「猫が寝ている」はすべての猫ではなく、そういう猫がいるということだから、「あるXが存在して、Xは猫であり、かつ、Xは寝ている」という意味になる。このように論理学の体系では「すべて(all)」と「ある(some)」という論理語が中心的役割を果たす。そこでラッセルはallとsomeに定冠詞theを加える。定冠詞theはただ一つの対象を表わすことを示すものだ。そこで「the初代内閣総理大臣は好色だ」という文は、「Xは初代内閣総理大臣だ」と「Xは好色だ」といいう二つの命題関数を用いて分析できる。そのときも初代内閣総理大臣は主語ではなく、「Xは初代内閣総理大臣だ」という命題関数に読み替えられる。定冠詞theはただ一つの対象を表わしているので「the初代内閣総理大臣は好色だ」は「あるXがただ一つ存在し、Xは初代内閣総理大臣であり、かつXは好色だ」と分析できる。そうすると、「the初代内閣総理大臣」を個体指示語として捉えるのではなく、命題関数を用いて、全体をただ一つ存在するという趣旨の文に読み替えたことになる。
 そして、日本の初代大統領という表現について考えてみると、「the日本の初代大統領は好色だ」は「あるXがただ一つ存在し、Xは日本の初代大統領であり、かつ、好色だ」と分析される。そこで、日本の初代大統領が存在するというのは偽だから、この文は全体として偽ということになる。無意味だったら真偽は言えないので、この文は偽だが有意味なのだ。それで、「日本の初代大統領は好色だ」は偽となり、有意味とされる。この文が偽となるのは「Xは日本の初代大統領だ」という命題関数に当てはまる対象が存在しないから。それは、「the日本の初代大統領」という表現を個体指示語ではなく「…は日本の初代大統領だ」という命題を用いた文として分析したからだ。個体指示語だったら日本の初代大統領は存在するとしなければならないが、「Xは日本の初代大統領だ」という命題関数を用いた仕方で分析されれば、その命題関数に当てはまるものがないとしても、日本の初代大統領という表現が無意味になることはない。命題関数なら当てはまるものがなくても無意味にならない。これがラッセルの二次形態だ。このような読み替えを記述論理と呼ぶ。
 このように記述理論が受け入れられ、ラッセルは指示対象だけで言葉の意味を考えようとする。固有名、述語そして文に対して指示対象だけで説明できるとしたら、とくに文の意味は真か偽の二つしかないことになる。これについて、固有異から考えてみる。「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」という文は、「初代内閣総理大臣」と「伊藤博文」は指示対象が同じで、したがって同じ意味ということになり、置換可能となるはずだが、フレーゲは認識価値が違うという意義を持ち出して、それを否定した。それに対して、記述理論は異議に訴えない解答をすることができる。「初代内閣総理大臣」という語は個体指示語と考えず、「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」し「あるXがただ一つ存在し、Xは初代内閣総理大臣であり、かつ、Xと伊藤博文とは同一人物だ」と分析することができる。伊藤博文という固有名は伊藤博文という人物を指示する。そして「初代内閣総理大臣」は「Xは初代内閣総理大臣だ」という命題関数に読み替えることができる。Xに個体を入力して真偽が出力される。ここではすべて外延的に捉えられる。
 しかし、例えば宵の明星(フォスフォラス)と明けの明星(ヘスペラス)は両方とも指示対象は金星だが、初代内閣総理大臣と伊藤博文の場合のようにはいかない。それは、フォスフォラスもヘスペラスも固有名だから記述理論が使えない。そこで、ラッセルは第三次形態に進む。「フォスフォラス」も「へスペラス」も、すべて述語として分析していく。「フォスフォラスとへスペラスは同じものだ」という文は、「あるXがただ一つ存在し、Xはフォスフォラスであり、かつ、Xはヘスペラスだ」と分析される。これなら、「初代内閣総理大臣」の時と同じやり方で処理できる。これは他のすべての固有名に及ぶことになる。ラッセルは固有名は述語として読み替えられると主張する。例えば、「伊藤博文」という人物を知っているとして、何を知っているのだろうか。初代内閣総理大臣とか、かつての千円札の肖像だったとか、ハルビンで暗殺されたとか、その他にもあるが、結局、このような記述の束でしか捉えていない。だとすれば、このような記述の束を列挙して、それに「ただ一つ存在する」ことを意味するtheをつけて確定記述にしたものが「伊藤博文」という語の実質だという。
 そうなると、今までふつうに固有名されているものが、実は確定記述なのだとすれば、固有名がなくなってしまうことになる。そうなれば、命題関数に入力する個体を表わす表現がなくなってしまう。そうすると、命題関数に入力する個体は何なのか、そしてそれを表わす本当の個体名は何なのかが問題となる。ラッセルが注目するのは、「あれ」とか「これ」という指示語だ。目の前にミケがいるとき、その姿を「これ」として指示する。何が指示されているかというと、今見えている姿だ。ミケという猫はその姿だけでなく、他の機会に出会われる様々な姿や、今年で3歳になるオスだとかいった様々な知識に関わっている。だから、正確に言えば「これもミケだ」となる。そこで今見えているその姿を指示する語である「これ」が本当の固有名というべきというのがラッセルの主張だ。固有名は指示対象が存在しなければ無意味になる。「バルカン」や「伊藤博文」が、その語の指示対象が存在しなくても無意味ではないように思えるのであれば、それは「バルカン」や「伊藤博文」が本当の固有名ではないということになる。それに対して、「これ」や「あれ」という指示語は指示対象がなければ無意味になる。何もないところを指示して「これ」とか「あれ」と言っても、それは意味がない。そうなると、固有名の指示対象となるのが個体だから、本当に個体と言えるのは「これ」とか「あれ」という指示語で指示されるものということになる。それは今見えているかぎりの「これ」であり、直に経験しているもの、そしてその経験を超えたものをいっさい含まないもの、それが本当の個体ということになる。
 そうなると、他人と私が同じものを指示することはできないということにならないか?言葉と世界のつながりをラッセルは指示関係に見る。そして彼は要素主義的に考えるので、語の意味は意味以前に語だけで決まる。それゆえ、固有名と個体の指示関係が言葉と世界のつながりの基本になる。この、言葉と世界の関係がとこで成り立つかを問い詰めていくと今私が経験しているものを「これ」とか「あれ」として指示することに行き着く。それは、コミュニケーションを不可能にしてしまう。そして、固有名が「これ」と「あれ」だけで他は述語ということになる。それはつまり、世界を記述する言葉のほほすべては述語ということになる。
 文の意味を考える。フレーゲの議論では、文の指示対象は真と偽の二つだが、意義という祖君も考えなければならないとされる。ラッセルは意義という側面を認めないので、指示対象だけを考えようとする。したがって、文の意味は真と偽の二つだけということになるかというと、ラッセルは文の意味は命題だという。「ミケは猫だ」という文では、「ミケ」は個体を指示するが、「…は猫だ」という述語の指示対象について、ラッセルは「ねこだ」という性質を指示すると考える。その性質という事実を表わす命題を述語は指すという。そうだとすると、命題は存在するということになる。著者は、一般観念説と変わらないし、それでは個別性と一般性のギャップの問題も再び表われるという。これを批判したのがウィトゲンシュタインだ。

2024年2月25日 (日)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(4)~第3章 「意味」の二つの側面

 これまでのフレーゲの議論に従えば、固有名の意味はその語の指示対象(個体)で、述語の意味は個体として入力して真偽を出力する命題関数だった。では、文の意味は何か。ここでは合成原理が働き、文の意味は文を構成する語の意味が決まれば決まる。それはどういうものか?
命題関数は個体から真偽への関数と言える。「Xは猫だ」はXにミケを入力すれば真を出力する。ということは、「ミケは猫だ」という文において、それを構成する語である「ミケ」と「…は猫だ」の意味が決まったら決まるものというのは、「ミケは猫だ」が真である、だ。つまり、「ミケは猫だ」の意味は真だということだ。フレーゲの採った道は、ここまでの議論は「意味」と呼ばれることのひとつの側面にすぎないとすることで、「意味」にはもうひとつ側面があるという。それは外延と内包という考え方の延長にある。 例えば、「Xは素数を言ってください」と言われて、「2,3,5,7,11,13…」といつまでも言えるのに、素数の定義を知らない子どもがいたらどうだろうか? 私たちはその子どもは素数の「意味」を理解していないと考えるでしょう。 「2,3,5,7,11,13…」という具合にその概念に当てはまる対象を「外延」と言い、「素数とは1と自分自身以外に約数を持たない数だ」といった定義を「内包」と言う。フレーゲは意味の外延的側面を”Bedeutung”(日本では「意味」と訳されることが多いが、本書では「指示」「指示対象」と訳している)、内包的側面を”Sinn”(日本語では「意義」と訳され、本書もそれに倣う)と呼んだ。指示対象はその言葉が何を指すかであり、意義はその言葉がその指示対象をいかに指すかだと言える。ここまでの文の意味は真か偽というのは指示対象という側面、つまり外延的意味に関してのことだという。われわれが、通常、文の意味ということでもつ直感は内包的意味に関わっている。外延的意味は言葉と世界を結びつける基礎であり、指示対象を押さえことにより、言葉と世界との関係が捉えられ、その上で、それが「いかに」結びついているのかが言われうる。文の意義は、文の指示対象は真か偽であるのに対して、その文がいかにして真ないし偽になるのかということだ。例えば、「Xはダイヤモンドだ」と「Xは最も硬い宝石だ」という文章があった場合、Xに同じものを代入すれば真偽は同じになるが、その検証方法は違う。「ダイヤモンド」は「最も硬い宝石」は外延的には同じであっても、その内包的意味、すなわち意義が違うというわけだ。この意義は論理学では真理条件と呼ばれる。
 ここから「文を構成する語の意義が決まれば文の意義が決まる」という「意義の合成原理」と「文の意義との関係においてのみ語の意義は決まる」という「意義の文脈原理」が導かれ、無限に新たな文を生み出せるになるという。
 ここで問題になるのは固有名だ。固有名については指示対象だけを考えればいいような気がするが、それだと「意義の合成原理」が成り立たない。合成原理が成り立たないと、新たな意味の産出可能性を考えられなくなる。それで、フレーゲは固有名にも意義があると考えた。フレーゲは「伊藤博文」だけではなく「初代内閣総理大臣」も同様の指示表現とみなして、これを「固有名」だとしている。固有名が指示対象という外延的意味しか持たないのであれば、「伊藤博文」と「初代内閣総理大臣」は同じ意味だということになる。そうであれば、どちらの固有名を使っても文全体の意味は変わらないことになる。「伊藤博文は初代内閣総理大臣だ」という文と、「伊藤博文は伊藤博文だ」という文の意味は同じということになる。これはおかしい、フレーゲは、それが違うのは認識価値の違いだと言う。「伊藤博文は伊藤博文だ」には何の情報量もない。伊藤博文のことを知らない人でも、「伊藤博文は伊藤博文だ」と言うことはできる。それに対して「伊藤博文は初代内閣総理大臣だ」には情報量がある。このことを初めて知った人知識が増えたことになる。このように知識を増やしてくれることを認識価値と呼ぶ。「伊藤博文は伊藤博文だ」には認識価値がないが、「伊藤博文は初代内閣総理大臣だ」には認識価値がある。その違いを捉えるには、固有名の意味を指示対象だけで考えていたらだめで、固有名にも意義という内包的側面があるからだ、とフレーゲは言う。では、固有名の意義とは何か?固有名の外延的意味である指示対象は個体だから、内包的意味である意義はその個体がいかに指示されるかということになる。「伊藤博文」はその指示対象である人物が歴史上の人物という様態で提示されるのに対して、「初代内閣総理大臣」は総理大臣という官職の初代人物としての様態で提示されることになる。このように固有名にも意義があるのは明らかである。
 しかし、著者は、必ずしもフレーゲの固有名の意義の説明に納得していない。そこから、ラッセルを見ていく。

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(3)~第2章 文の意味の優位性

 そもそも対象の把握は事実の把握とともになされるので、事実と切り離して対象だけを考えるということはされない。例えば、ミケという一匹の猫を見るとき、ミケは必ず何らかの状態にいるか何らかの動作をしているわけで、ミケが寝ているという事実に出会う。ミケという対象だけに出会うということはない。同じように、ミケは猫だという事実にも出会う。しかし、ここまでの議論では、われわれは世界の中で一般的猫に出会うことはないとしてきた。でもミケは猫だという事実には出会う。ミケは寝ているにしても、ミケは固有名だが、寝ているは一般性をもっている。そういうわけで、事実の中には一般性をもった構成要素が含まれている。
 ところで、前章の一般観念説が袋小路に陥ったことについて、フレーゲは、一般観念説が出てきた根底には要素主義、つまり、文は語の意味がつながって形成されるという考え方があるとして、要素主義を批判して文脈主義を主張する。つまり、語の意味を考えるにも、語を文から切り離してひとつひとつの語を単独で考えるのではなく、文全体との関連において考えるべきだという。つまり、語の意味は、文以前にその語だけで決まるのではなく、文全体との関係において決まる。
 では、文は、この章の最初で述べた世界と事実の関係はどうなのか?ミケは寝ているという文はミケが寝ているという事実を表わしている。それでは、文の意味は事実であるのか?文には真もあるが偽もあるし、ミケが寝ているという文は特定の事実をさしていないといった難点(個別性と一般性のギャップ)から、文の意味は事実、つまり、文と事実の関係が指示する関係にある、というのは難しい。そこで、問いを次のように手直しする。真な文でも偽な文でも成り立つような、文と事実の関係は何か。真にも偽にもなるということが、文が事実に対して持つ関係だという。このような真偽を文と事実の基本的な関係と考えると、個別性と一般性のギャップを考慮する必要はなくなる。ミケが寝ているという文は、ある場面での特定の事実のもとで真になったり偽になったりする。個別の事実に対して、一般性をもった文が真になることはおかしいことではない。
 前章で「猫」の意味は猫の一般観念だという考えはなくなった。文脈原理を受け入れ、文と世界の基本的関係は真偽であることを前提とすると、「猫」の意味はどう考えられるのか?「ミケは猫だ」という文では「猫」は述語として用いられている。この文から「ミケ」を取り去ると「…は猫である」となる。「猫」という語(一般名)を文との関係で捉えるのなら「猫」という名詞よりも、このような文から取り出した形となる。つまり、猫という一般名の意味は何かではなく、「…は猫である」という述語の意味は何かというのだ。この形の「…」にはミケだけでなく、タマでもポチでも入れられる。ポチを入れれば「ポチは猫である」という文は偽ということになる。これは、「…」を変数とする関数ということもできる。それゆえ、これを命題関数と呼ぶことができる。
 指示対象説は「猫」という語の意味を文から切り離して、それ単独で「猫」という語の指示対象を求めた。それに対してフレーゲはこれを「…は猫だ」という述語として捉える。これは文の一部であることを意識したものだが、これだけでは文脈原理に従っているというほどではない。「…は猫だ」という述語の意味を「Xは猫だ」という個体から真偽への関数として捉える。ポイントはここにある。真偽は語ではなく、文に対して言われることである。文脈原理に従って、述語の意味が、まさに文との関係において捉えられている。
 固有名の意味は指示対象である。これには文脈原理は当てはまらないだろうか?対象を指さして名づければ、それで固有名の指示の対象が定まるというほど、単純なものではない。例えば、私が何も知らされずに理化学研究所の計算科学研究センターに連れて行かれたが、そういう場所だとは知らされていないで、そこに箱のようなものがずらっと並んでいるところに案内されるとする。それはスーパーコンピュータなのだが、私はそのことを知らない。そこで、「これが富岳だ」といわれても、私は何が富岳なのか分からない。そもそも「これ」が何を指しているのか分からない。何かよく分からない対象を指して、「これが××だ」と名前を与えても、それだけでは何が「××」と呼ばれたか分からない。では、何を分かっていればいいのか、それもはっきりしない。したがって、固有名の意味は文との関係において決まる。つまり、固有名の指示対象は文との関係において定まる。
 文脈原理は文の意味を基本において、そこから語の意味を捉えていこうとする考え方だが、本書の冒頭の問いである新たな意味の産出可能性とは、どのようにつながるのだろうか?要素主義では、一般観念説が袋小路に陥ったりして、それがうまくいかない。それだけではない。要素主義は、それぞれ語の指示対象を明らかにするが、それだけでは「ミケ」「寝ている」という語があるだけで、それらをどう組み合わせればよいのかは分からない。これに対して、命題関数の場合は、「寝ている」は「Xは寝ている」という関数として、Xには個体が変数として入るという組み合わせができる。このように要素主義は語の意味を基本として、そこから文を組み立てようという考え方だから、語の意味は分かったとしても、そこからどうやってちゃんとした文に組み立てれはいいかという問題が残される。一般観念には組み合わせが示されてはいない。それに対して、命題関数は分の一部として取り出されたものだから、Xのような変数のところに個体を入力するということになっている。このように文脈原理の考え方では部の意味を基本として、そこから語の意味を捉えようとするので、語を文に組み立てるのもやりやすい。
 最も単純な文型は固有名と述語から成るものだ。「ミケは猫だ」というように。文はそれだけではない。「猫はよく寝る」というように。このような文を組み立ているには、固有名と述語だけではなく、論理の言葉も必要だ。「猫はよく寝る」という文の場合、「ミケはよく寝る」ならば、固有名+述語だが、「猫」は固有名ではない。では何か、これも「…は猫だ」という述語なのだ。したがって「Xは猫だ」という命題関数として捉えられる。「猫はよく寝る」の「猫」は「…は猫だ」という述語なのだ。「猫はよく寝る」は「猫」が主語で「…はよく寝る」が述語に見えるが、命題関数の考え方からは、「猫」も「Xは猫だ」という命題関数を意味する述語となるので、「猫はよく寝る」は二つの述語を組み合わせた文になる。そうすると
 「Xは猫だ」に当てはまるものはすべて、「Xはよく寝る」にも当てはまる。 
これを論理学に近づけると 
 すべてのXに対して、Xが猫であるならば、Xはよく寝る。
と書くことができる。何かある個体Xについて、それが猫だったら、それは間違いなく寝る、というわけだ。この「ならば」を二つの命題関数をつなぐ論理定項と呼ばれる。固有名、述語、論理定項を組み合わせると色々な文を作ることができる。
このように文を構成する語の意味が決まれば、文の意味は決まるという考え方を合成原理と呼ぶ。新たな意味の産出可能性を考えるときに、合成原理が必要になってくる。ただし、この合成原理が要素主義に向かうと袋小路にはまってしまう。では文脈原理はどうか、というと合成原理と並び立たないようにも見える。ここで要素主義は、文の意味に先立って語の意味が定まるという考え方だ。そうすると、言葉を学ぶことも、文の意味を理解する前に語の意味をすべて理解して、それから文の意味の理解へと進むということだ。しかし、われわれの言語理解はそうではない。文の意味を知らない状態で語の意味だけを学べばいいとは思わない。

2024年2月23日 (金)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」(2)~第1章 一般観念説という袋小路

 本書は著者が様々な問いを投げかけ、それについて様々な例を出しながら解き明かしつつ、そのプロセスで新たな問いが生まれ、その問いにまた例を出しながら解き明かしていく、その繰り返しのプロセスが魅力となっている。その問いかけの最初として、冒頭に「どうして言葉は無限に新たな意味を無限に作り出せるのか」を問う。これについて、「猫が富士山に登った」という例文を提示して、この問いを考え始める。実際に、こんなことはありえない荒唐無稽な文だが、意味はすぐ分かる。それは、文で使われている単語、「猫」も「富士山」も「登った」も分かるし、文型も分かるからだ。「猫が富士山に登った」は既知の語を既知の文法に従って作った文だから、初めて読んでも意味が分かる。こうして、新たな意味の産出の問への答えが見つかる。これを要素主義という。
 ところが、その単語、例えば「猫」の意味は何なのかと問われると、答えるのが難しい。猫を知らない人に猫を言葉で説明しようとすることを考えれば、その難しさがわかる。まず、「猫」も「富士山」も、ある対象をさした、その名前である。「富士山」は固有名で、「猫」は一般名と分けられる。固有名は富士山という固有名詞、特定の一つの個体を指す。このように語の意味を指示対象とする考え方を指示対象説という。これが、一般名にも成り立つかというところで問題が生じる。そこで、一般名の指示対象とは何かという問いが生じる。「猫」という語の指示対象は何だろうか。猫という動物?では実際にどこに存在しているのか?現実に猫一般を実体として指すことはできない。実際に指示することのできるのは、ある特定の個別の猫でしかない。ならば、一般の猫の意味をどうやって理解しているのか、という問いが生まれてくる。それに答えようとしてジョン・ロックが持ち出したのが「猫」という言葉は心の中の一般観念を表しているという考えだ。世界で出会う猫はすべて個別の猫で、これは心の外の世界で、ロックは、猫の指示対象は心の中にあるという。心の外で出会う個別の猫は、大きさ、色、毛の長さ、尻尾の形等さまざまだ。心の中は、そのような個々の猫たちから多様性を剥ぎ取った一般的な猫の観念が形成される。これを抽象と呼ぶ。観念とはイメージのようなもので、これを一般観念説と呼ぶ。
 これを批判したのがバークリーだ。一般的な猫をイメージできるのかという反問だ。これを受けてフレーゲは、さらに、心の中に猫の一般観念が形成されたとして、そのイメージがはっきりしていないと、他人がどのような意味で一般名を用いているか分からない。そこで、他人が猫と言っていると、自分と同じ意味で言っているかどうか分からないことになる。こうして、コミュニケーションが不可能になってしまう。
一般観念説には、別の批判がある。世界は心の外だというが、心の中だって世界の一部で、例えば、私が猫を見てきわいいと心の中で思ったことも世界に含まれる。そうなると、心の中で形成されたものが一般的だとは限らないことになる。そこで、心の外と中を区分して、個別と一般と分けることは成立しなくなるわけだ。
 このようにして、一般観念説は袋小路に陥る。そこで登場するのがフレーゲの説だ。

2024年2月22日 (木)

野矢茂樹「言語哲学がはじまる」

11112_20240222232401  「どうして言葉は無限に新たな意味を無限に作り出せるのか」という問いを考えるプロセスで、様々な問いが生まれ、それについて様々な例を出しながら考え、そこからさらに問いが生まれ、その繰り返しを重ねる。そのプロセスにおいて、フレーゲ、バートランド・ラッセル、ウィトゲンシュタインという言語哲学の系譜を明らかにしていく。対象や事実があって、それを表わすのが言葉であるという常識に異を唱え、言葉の意味は文脈から成り立つと考えたフレーゲ。それを批判して言葉とは対象を指し示すものと考えたラッセル、それを批判して対象というのは人が言葉という枠組で現れると考えたウィトゲンシュタインという思想のドラマは劇的でもある。
 しかし、何よりも本書の魅力は著者はさまざまな疑問を受け止めつつ、さまざまな例を出しながら少しずつ謎を解き明かしていく過程にある。 だから、フレーゲ〜前期ウィトゲンシュタインの議論を一通り知っているという人も面白く読めると思う。

 

2024年2月21日 (水)

ヴィンフリート・メニングハウス「美の約束」(7)~Ⅳ存在が意識を規定する─外見の良さの人格効果

 美しさと美的評価についてのダーウィンとフロイトの系譜学は、哲学的美学が高度に文化的な人間の能力として分析するのが常だった知覚判断結合の進化にとって、包括的なモデルを提供する。これを規定しているのは、美しさに内在する性的魅力刺激と昇華する力という葛藤であり、美しさによる選択と繁殖成功という太古の連関の中断、いや傾向的にはその逆転であり、それゆえ、人生にとって不安定に揺らぐ価値と曖昧な機能を持つ魅力へと美しさが謎めいた変化を遂げることである。1970年代以降、大量のデータによる検証が試みられた。その結果、美しいとされるのはコンセンサスによる真実という前提に従い、美的判断は形態原理したがって膨大なデータ処理により、判断理由として特定の概念を必要とせずに、快不快率と相関させる。それらが信じられ、共有されるかぎりで、各個人への現実の影響甚大な部分となる。
 外見的特徴は、他者とのちょっとした接触や知り合いになるという状況で、最初の、そしてしばしば唯一の情報である。内発的な外見の評定が本質的二他のあらゆるコミュニケーションを調節する。第一印象の純粋に美的な情報内容は、震源の行動にとって根深い制御機能を持つ。かわいい赤ん坊は、両親から微笑みかけられ回数も多く時間も長い。赤ん坊にとってかわいらしさは、手のかかる新生児にたいする攻撃を効果的に減らし、質的に生存機会を改善するのに有利である。身体的魅力は、人間が種としても個としても進化する上で中心的な適応性能である。逆に身体的魅力の不足は、適応不足や不適応に結びつく。それゆえ、美貌は、決して単に皮相なものにすぎないわけではない。それは人生の機会や人生の履歴を、結局は人格を形成する。外見のよい人は、この世に生を受けてからずっと、その愛想、知性とコミュニケーション能力、社会的上昇と職業的成功のチャンスについて下される判断がその外見と深く結びついていることを、敏感に、そして至るところで経験してきたので、そのような肯定的な属性のすべてを具現化し、実際に期待に一致した神格特徴を発達させる。

2024年2月20日 (火)

ヴィンフリート・メニングハウス「美の約束」(6)~Ⅴダーウィンとカントにおける美的「判断」

 ダーウィンが性的選択の進化論を吟味した結果、次のような物語が生まれた。美的な区別の能力は、傾向的には動物界全体で発達し、それゆえ太古の遺伝として人間に伝えられたものである。その第一の適用領域は、自らと同じ種の身体特徴、すなわち成熟して生殖能力を身体の性的二形性で、その機能は配偶行動と繁殖成功のコントロールである。人間においては、美的判断能力の適用範囲と機能の広範囲の拡散が形成されたる文化的に作られた装飾は、身体の外見を変更し、社会的コミュニケーションの一部となっている。そして、本源的な性的対象からの離反が進んで、美的な判断と性的選択の連関は間接的なものとなり、脆くなる。美的自己描出は社会的コミュニケーションで自己の有利な位置づけに結びつく、一方直接的身体とセクシュアリティーの機能が薄まってゆく。カントに代表される哲学的美学は、美的快を性の快から抑圧的に区切る、対象の純粋に形式的なものを顧慮して趣味の事柄で気にいるか否かの反省的判断を下すのみだという。
 カントによれば、美的判断は快の感情として感じ取れるが、この快の感情は本質的に自己触発である。美しい対象の快に満ちた表象は、決してこの対象に接して得られた快でもその対象のための快でもない。そうではなくて、主観が表象によって自己自身を感じ、自己自身を強め再生産させる快である。それゆえ、行為を動機づける因果性をもっている。この美的な快を感じる主観を、自己の能力の自己再生産的な興奮の状態を保持するように努める。人間における美的選好は、性的身体に限定されるものではなく、むしろ付加的に多くの文化的事象による記号的コミュニケーションをコントロールする。一度だけの快の絶頂を避けて、自動的に自己更新し、継続する。
 ここで、前にもどってⅠ「美しさのために」─アドニスの栄光と悲惨 に戻ると、そこで語られているアドニス神話のさまざまなモチーフ―「純粋」で「空虚」な美しさ、「欲望されるもの」であり、構造的に弱者の立場であるということ、ナルシシズム的な自己充足性、ファルス機能の減退と脱セクシュアリティの傾向、そしてその「早世」―は、ダーウィンの美的淘汰論やフロイトの仮説との関連で繰り返し登場する。たとえば「欲望されるものであること」はダーウィンの進化論によって「驚くべきやり方で裏書きされる」とされ、「脱セクシュアリティの傾向」は「進化生物学的な「物語」から完全に抜け落ち」ながら「人間特有の美の効果という「物語」において不可欠の地歩を占めている」と評価され、アドニスの死はリビドーの「自殺的な昇華」をめぐる「フロイトの思弁を立証する物語」として再読される。さらにアドニスの形象は「自己保存の懸念をも度外視する」男性の美貌病理(「アドニス・コンプレックス」)として現代に対する病理学的診断を裏付けるものとなる。

2024年2月19日 (月)

ヴィンフリート・メニングハウス「美の約束」(5)~Ⅳフロイトの仮説─人間の美しさの根源的な文化性

 フロイとは美について「美の派生が性的感覚の領域からである」と言っているが、この点でダーウィンの進化論的な立場に立っている。すなわち、性的選択は対象を美的基準に従って区分する。その基準の発生源には嗜好がある。フロイトとダーウィンは出発点は重なるがそこからの結果は大きく異なる。フロイトは美しさというものは性的興奮を刺激するものからきているが、我々は性的興奮を呼び覚ます性器そのものを美しいと見なすことはできない、と言う。このような二律背反的は人間に特有のものである。クジャクのような場合と違って、性器がある特定の外見をしているために人が美しいと呼ばれることはない。フロイトにとって美しさというのは、セクシャリティという目的のための媒介的な機能である。もし、人間の性器そのものが美しいのであれば、性的興奮と美的興奮は一致する。しかし、両者の間には亀裂がある。そこから美的なものの機能的固有価値と美による昇華の可能性が開ける。その可能性とは、性的興奮が美しくない性器に走ることを、二次性徴と身体の全体像に喚起される美的快が阻む場合である。その時、性的生殖はダーウィン的な機能を停止し、繁殖成功を妨害し、高次の文化に味方する力に転じる。そこに美の自律化の道が開ける。フロイトはクジャクの飾り羽と人間の肌の裸出との間には断絶があるという。裸出した肌への進化は、それと並行して被服の文化がなければ、なしえなかったし、少なくとも生存不可能だった。そこで性的なものが文化的秘匿を義務づけられることになる。クジャクの飾り羽のような可視的なものと人間の肌のように衣服により秘匿され不可視なものの差異は、パートナー選択に新しい状況を生み出した。想像的なものに隠された部分を補完する役割が割り当てられたからである。その結果、性的身体の美しく魅力刺激するものが部分的に想像界へ転移させられることになる。これにより、美的魅力が性的目標を直接追求することから外れる可能性が生じた。人間の性行動は、動物とはカテゴリーが異なり、秘匿する被覆という並行する身体像の想像化に縛られている。
 羽や毛皮が裸の肌と人工的な被覆の二元性となることにより、装飾的な性的記号システムは身体固有の魅力刺激と人工的な補完へと二重化し、それが美的淘汰の構造変化を起こした。オスのクジャクは、メスのクジャクがどのような基準で選択するのかを知る必要はない。オスが必要なのは、飾り羽を持つことだけである。オスはそれ以上の変化を加えることができない。これに対して、人間の場合は、人工的に自らを飾るのであり、異性の嗜好を知らないといけない。そうでなければ、装飾理苦労は効率が悪いし、進化的安定化もできない。異性の視線、自分の身体のハードウェア、つまり見える装飾だけに効果があるだけでなく、ソフトウェアにも組み込まれる。精確な自己観察が求められるばかりでなく、異性の美的選好も知られ、自らの装飾実践の自己統御に利用される。そこで、選択された対象の側に、美的選好と自己観察、自己産出の間に精神的なフィードバックループが生じる。こうして、美しい対象の自己観察は多様な新しい美の効果を開拓することになる。フロイトは、それをナルシシズム的な自己愛と呼んだ。
 たとえば、人間は二足歩行をすることにより身体を直立させるようになる。そのことは、四足歩行において鼻が、相手の性器の高さに位置し、嗅覚により性的刺激を得るメカニズムから離れることを意味する。それは、視覚による遠隔からの刺激の比重が相対的に高まる。二次的な性装飾の視覚的な魅力刺激は、条件反射の力を弱めることと引き替えに相対的な恒常化を果たしている。性的な刺激に比べると、美の享受が提供するのは、穏やかに恍惚とさせる感覚の性質となる。それは性的な結合に移行しなくても、自己充足的にも享受でき、文化的な成果を促す刺激の機能となっていく。フロイトは、ここに文化プロセスの始まりを見ている。性的目標に到達するため、美に対する人間の欲望は、必ずしも目で見ることから始まり、手で触れ、臭いを嗅ぐことを経て、ついには性的合体へと結びつく必要はない。欲望は美の領域全般を超越化する。美しい身体への美的な快は、性以前のもの、極端な場合は非性的なものとなる。美の快が強力で純粋であればあるほど、そして対象が美しければ美しいほど、関心が性器から全体の身体形姿に移る。美の快は性的に興奮させる質とは無関係に、本質的に昇華された快でもある。この昇華は、美的知覚の新しいもの、人間独自のものである。美の志向は、人間の文明化全般の巨大な力の一つとして規定される。
 ダーウィンは、人間が美しさに向かって遺伝的に発達することを、人間が未だ一夫多妻制の集団で生活していた原始時代の現象と考えた。文化と一夫一婦制が進歩する、それとは逆に、種として美しくなるための可能性が消えると見ている。フロイトの思考はここから始まる。彼は人間の身体を、最初から被覆と直立歩行と嗅覚を刺激する性分泌液の価値下落によって文明化されたものとして見る。この美の主要機能は、相変わらず、配偶機会を増大させるままだが、子どもの数の量的な最大化とは結びつかない。最も美しい対象は、自己充足に向かう傾向により、脱セクシュアリティー化を促進する。

2024年2月18日 (日)

ヴィンフリート・メニングハウス「美の約束」(4)~Ⅲダーウィン以後の魅力的な容姿の進化論

 ダーウィンの後の新しい進化論は、1970年代に身体的魅力の経験的研究が行よれることによって進展した。
 まずは、ハンディキャップ説。この説によれば、性的装飾の発達は適応度テストである。例えば、巨大な尾羽による制限にもかかわらず生き延びたクジャクのオスは、それによって優れた生存資質を示したことになり、それゆえ繁殖にとって高品質であることが明らかになる。肥大した尾羽というハンディキャップは、性的装飾のやっかいな付随減少ではなく、むしろ逆で、ハンディキャップのために装飾があり、それが増大的に固定化するプロセスがある。装飾という無駄のコストを費やしても、それを克服できるほどの卓越した適応性を表わしている。このハンディキャップ説は、ダーウィンの自然淘汰と性淘汰の区別を実用選択と信号選択の区別として再定式化している。役に立つ身体変異の選択は、直接に生存能力を高めるが、それに対して、信号の選択は、部分的な自己障害という回り道を選んである種の質を表示し、その質が表示に必要なコスト以上に多くの利点ほもたらす。
 この説を人間の場合に当てはめると、例えば女性の乳腺の周囲に発達した装飾的な脂肪組織は、至高の資源豊かさの顕示だ。若い女性がその胸を成長させていく時期に食物に不足しなかったことを示している。エネルギーを胸と腰の皮下脂肪に無駄遣いしたにもかかわらず思春期を耐え抜いた女性は、その装飾が大きければ大きいほど、それだけ卓越した一般適応度を証明している。ただし、それなら肥満体形でも同じことがいえるわけで、そこに恣意性があることを否定できない。それが美的評価と言えるかもしれない。
 また免疫学的観点からの説もある。個体群の寄生被害の度合いと性的装飾の度合いとの間には相関関係があるという。その結果、性的装飾は、有機体が自らの発達を阻むものすべてに勝利したことを伝える信号ということになる。美しければ美しいほど、彼らの免疫システムは無傷で、完璧な対称形の身体特徴を作り上げようとしている形態形成プログラムが、有害な変異や環境条件が発達を阻むべく繰り出すストレスや障害に屈することなく実行される。その美しさは、それゆえ発達安定の指標であり、有機体の厳しい宿命に打ち勝った勝利を知らせるもので、負荷が大きいほど、それに打ち勝った凱旋は大きい。人間の身体において、美しさと寄生抵抗および免疫力との相関関係は、とくに二つの魅力特徴に適用される。肌がきれいであることと顔や身体部位の対称性である。吹き出物や傷のない肌は臓器疾患から免れている表れであり、日々の美容努力の結果でもある。免疫学説は、美しさを特定の病気にり患しておらず、それらの病気に対する抵抗力が高いという信号を発する否定的な健康記号として取り扱う。それは性的生殖力の直接の表示にも関わっている。女性の美しさは、繁殖帆テンシャルの外面表示、すなわちストレートに数多くの子孫を約束する積極的な健康記号ということになる。しかし、きれいな肌の女性や対称性のプロポーションの女性が多産ということはデータでは検証できない。
 これらの説は創造力豊かな大胆な仮説に走る特徴があるという。
 これらがダーウィンと共有している基本前提は、今日の文化的状況のもとでは大きな制約がかかる。人間は、自らが次々と作り出す環境に、もはや圧倒的に自然適応ではなく、知性に裏付けられた文化適応だけで対応するので、遺伝子的に固定された原始の行動モデルは、変化圧から解放されているため、かつての適応性をすでに失っていても、それだけ妨げられることなく存続できる。これに対して、個別的に行動の遺伝子決定論があるということではない。これらの適応は、文化的に獲得された全く新しいメカニズムと並んで、それと無関係に作用し続けるか、あるいはうまく統御されたり、それどころか禁止されたりする、少なくともその本来の水準で新しい水準で上書きされない限り、それは残っている。原始的気質と過激に変化した文化環境の構造的な同期化は、人間のセクシュアリティを動物界の事象から原理的に区別する。19世紀以降、西洋諸国などで出生数と乳児死亡率が激しく減少し、社会的地位が高く、教育水準が高ければ、子供の数が少ない傾向が見られるようになった。これを、クジャクのモデルとは正反対の結果が生じる。美しさは構造的に子供の数の減少と相関している。ここでは性的装飾にかかるコストが制限的資源の役割となっている。多かい社会的競争と高いファッション支出は、正統的なクジャクモデルに従えば繁殖成功を増大させる手段であり方法であるが、その元来の目的に対して自立し、目的のために必要な資源を文字通り費消する。ファッション関係の支出は、近代化とともに増大し、それゆえに子育てに必要な尽力と資源との競争が激化する。ということは、近代的な人間の文化条件において、増大した美しさ指向は、選好による自己継続を妨害し破壊する。

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