辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(5)~第5章 あの戦争はいつ「終わる」のか─小さく否定し大きく肯定する
第1章が「あの戦争」はいつ始まった だったが、最後の第5章は終わりを考える。一般的な終戦の日である8月15日は天皇の玉音放送の日で、ポツダム宣言受諾は前日の14日であるし、正式な降伏文書への調印は9月2日。国際的には、調印の9月2日をもって戦争終結とみなすのが一般的である。しかし、ここで問いたいのは、「あの戦争」を特別なものとしてでなく、歴史上の存在として捉えるようになるのはいつか、端的に言えば、戦後が終わるのはいつかという問い。
日本において、「あの戦争」が特別な位置を占めているのは、国立の近現代史博物館が存在しないという形で象徴的に現われている。その背景には、「あの戦争」をいかに描くべきかについて、いまだ社会的合意が成立しておらず、展示を試みればすぐに加害と被害のバランスをめぐって政治的な論争に発展するという特有の事情がある。
この左右に分裂した国民の物語が樹立・統合されるかたちで「あの戦争」がおわることを望むが、実際にはどうなのか。
いま、実際に進行しているのは、戦争記憶の風化である。かつて国家の命運を左右する一大事として語られ、多くの人々にとって人生と切り離せない問題だった戦争が、いまや切実な関心の対象ではなくなりつつある。こうした状況を踏まえれば、「あの戦争」が事実上終わるというのが、最も現実的なかたちとしてありうる。もうひとつ考えられるのは上書きというかたちだ。より大きな戦争、あるいはそれ以上に深刻な歴史的体験が到来すれば、「あの戦争」は特権的な位置を失い、新たな物語によって置き換えられる。
しかし、著者が理想としてこだわるのは、「あの戦争」が然るべきところに落ち着くという可能性である。そのためには、われわれが日本の歴史を語る際に、100点かゼロ点かといった極端な発想にとらわれる必要はない、という視点をすすめる。日本では右派と左派がしばしばそうした二項対立に陥ることで、歴史論争が硬直し、建設的な対話が困難になってきた。しかし、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない。とくに歴史博物館のような公的な機関の歴史展示は、基本的には自国の歩みを肯定しつつも、過ちや課題についても正直に記す姿勢が望ましい。その意味で、満点を目指すよりも、あえて65点くらいを目標とするほうが現実的で、かえって誠実な立ち位置になりうるのではないか。具体的には、戦中日本の行動を小さく否定することで、日本という国自体を大きく肯定する。
最後に結論として、「あの戦争」を語る際に、「あの戦争」だけに焦点を当てるべきではないということだ。真珠湾攻撃や特攻隊といった個々の現象について理解を深めることも重要だが、なによりも大切なのは、それらにいたるまでの歴史の過程や構造を見つめることだ。「あの戦争」は、日本の近現代史という長い時間の流れのなかに位置づけて、はじめてその全体像が立ち上がってくる。そうした視点に立つことで、ようやくあの戦争は、過剰な肯定にも否定にもならず、落ち着くべきところに落ち着くのではないか。そしてそれが可能なのは、戦後80年という時間を経たいましかない。
「あの戦争」は、日本という国が近代の激流の中で何を選び、何を失い、何を残したのかを象徴的に映し出す、特別な鍵である。そこには、われわれが歴史を通じて見つめるべき現在もまた映り込んでいる。だからこそ、われわれはこれからも、現在とのつながりを意識しつつ、より妥当な落としどころを模索しながら、その意味や位置づけを解釈し続けなければならない。



最近のコメント