無料ブログはココログ

書籍・雑誌

2017年12月 8日 (金)

橋爪大三郎「丸山真男の憂鬱」

「丸山眞男の憂鬱」を読んだ。

丸山真男には岩波新書青版の『日本の思想』で出会った。岩波新書青版は、コンパクトな外観とは裏腹に下手な単行本よりも難しいという評判で、この本も典型とされている。しかし、私の感想は、晦渋な言葉づかいなどがあって読み難いのはたしかだが、論旨は明快で何が言いたいのか曖昧なエッセイなんぞより却って、分かりやすいと思った。『現代政治の思想と行動』も『忠誠と反逆』もそうだった。ただ、『日本政治思想史研究』だけは、チンプンカンプンだった。

著者は、その『日本政治思想史研究』を批判的に読み解く。江戸時代の幕府統治の正統性のイデオロギーとしての朱子学の変遷を追いかけ、その過程を自然から作為とし、その完成者を荻生徂徠に見る。これに対して、発展史としてみると、荻生徂徠という完成者以前の儒者たちは徂徠の出現のための踏み台ということになり、ヘーゲルの言う死体累々の思想史と批判し、例えばとして山崎闇斎を取り上げる。丸山は闇斎とその学派を教条主義、リゴリズムと切って捨てる。しかし、闇斎から言わせれば、仁斎や徂徠は朱子学を摘み食いして、自分の思想を展開したにすぎない。闇斎こそは中国の現実の政治から生み出された朱子学の論理が、政治風土のまったく異なる日本の現実政治に当てはまらないことを真正面から受け止めた人だった。他の儒学者が、“あるもの”を語ったのに対して、闇斎は“あるべきもの”を語った。その具体的な例として、闇斎だけが易姓革命を現実政治の論理として追究しようとした。支配者の正統性は“あるべきもの”として徳をなえているから。だからそれは裏を返せば、徳がなければ支配の正統性はないことになる。そして、この思想は間接的に水戸学に継承され、幕末の尊王討幕の思想的根拠を提供するようになる。つまり、明治維新に繋がっていくのは、丸山が近代性を備えているとした徂徠ではなく、教条主義と切り捨てた闇斎ではなかったか。著者は、そこに丸山の近代性の歪みを指摘する。

闇斎に関する記述は、目から鱗だった。興奮した。そして、丸山真男という近代合理主義の権化のような人のデモーニッシュな面があることに気づかされた。

丸山真男は1946年に創刊間もない「世界」に「超国家主義の論理と心理」を発表したことが大きな反響を呼び、一躍、時代の寵児となる。当時の読者は、丸山の超国家主義とか無責任の体系とかいった耳新しい難解そうな概念に、決別すべき悪を、自分たちの外側にあるもののようにイメージすることができた。それによって皇国史観にまみれた過去と決別し、責任を特定の人々に押しつけ、それ以外の日本人が免責される理屈づけにもなった。

それは、他方で日本社会の構成員を二つに引き裂くことになった。しかし、戦前には軍部や皇国史観を振りかざす人々は実際にいた。それに対して、それ以外の人々の実体のカテゴリーはなかった。

丸山が「日本政治史研究」で荻生徂徠を封建体制を擁護する御用イデオロギーからその批判から近代思想の萌芽となったとして高く評価したのは、決別すべき戦前の思想に対する逆張りとなった。結果として、丸山は都合よい逃げ道を供給うる存在となった。人々に、そう受け取られることで丸山は自縄自縛になっていった。

それは、生臭い現場を離れて高所から建前をかざして正論とほざくような、ある種のお気楽な議論に絡み取られていった、ということだろうか。言ってみれば、そこに悪いということを排除している。悪意つまり意志ということではないかと思った。

2017年12月 2日 (土)

ジョン・パウエル「ドビュッシーはワインを美味にするか?」

「ドビュッシーはワインを美味にするか?─音楽の心理学」を読んだ。

音楽が人間に与える心理的側面。私たちの生活の中にある身の回りの音楽が人間に与える影響を考えた著作。とはいっても、理論的な著作というより、BGMで購買活動や味覚がかわるか、音楽を聴くと頭がよくなるか、といった話題に寄り道するエッセイ風の読み物。

例えば、音楽に才能は必要かということについて調べると、イギリスでコンクールに入賞した学生とそれ以外の学生を調べるとふたつの学生のグループを分けたのは練習時間の差という単純な事実に行き着いたという。なかでも、ひとりで練習した時間の違いだったという。アンサンブルやセッションには楽しさがあるが、ひとりで行う単純で退屈な反復練習を休みなく続けたかどうか、それが分岐点だった。だから、敢えて、この人たちに才能があったとすれば、達成に必要なこと続ける才能だった。著者は、さらに、この人たちが練習を続けることができるのはなぜかを求める。この人たちは退屈なはずの練習を愉しんでいたという。そのキッカケは子供の頃に最初についた先生がフレンドリーで、子供が好きな先生を喜ばせるため懸命に練習するようになったということだったという。

これは、会社に勤め始めて、初めての上司か先輩が尊敬できる人や仕事の楽しさを教えてくれるような人で、その人のために、とか一緒に苦労する経験を持てた場合に、その仕事自体が好きになって、苦に耐えられるのと、よく似ている。

才能云々を口にするのは、往々にして、音楽の夢を諦めた人が「私は才能に恵まれなかった」というところで使われるということも、仕事をやめるときに「自分には向いていない」ということが多いのと、よく似ている。

2017年11月28日 (火)

佐藤友亮「身体知性─医師が見つけた身体と感情の深いつながり」

佐藤友亮「身体知性─医師が見つけた身体と感情の深いつながり」を読んだ。

医学部での医者になるための第一歩、解剖学の実習ではスケッチが必修ということで、その最初の頃の学生たちは「見たまま」を写生するのだが、絵の巧拙は別にして、不定形なぐしゃぐしゃの絵画を描いていたのだが、実習が進むと器官の機能や相互のつながりを把握していくと、人体の構造が反映されるような図を描くようになるという。学生たちは、「見たまま」を見たのではなく、「そういうものが見えるはずだと信じているもの」を見ていた。解剖学的な知識が身についてくると人間の身体を解剖学的に、つまり医学的に把握する。それが医師の認識の第一歩。そして、数年間、知識をたっぷり蓄積して、現場の医師として患者の前に立つとき、知識の隙間、つまり患者の症状は医学の知識の分類に当てはまらないので原因を特定できない、さらに予測が出来ない、という場面に遭遇することになる。その時に、医学部では習わなかった現場の医師の経験、つまり医師の身体感覚を身につけなければならなくなる。

近代の自然科学の中心である医学の体現者である医師の現場では、近代思想の基本である心身二元論が成り立たないところであったということ。この現場では知性は身体感覚と切り離すことはできないものとして成立している。それを著者は身体知性と呼ぶが、身体と切り離せない以上、感情とも切り離せない。そこでは、感情に左右されない分離独立した知来ということが医師の現実では機能しないことになる。

著者は、このようなところから知性のあり方を考え直し、模索しようとする。

このあと、著者は東洋的な思考の再評価をしようとしているが、医学部の知識を作っていることばやロジックで、それをしようとしているようで、接ぎ木のような発想なのか、それはちぐはぐな二兎を追う者は一兎も得ず、ということになりかねない気がした。

2017年11月21日 (火)

アウグスティヌス――「心」の哲学者

「アウグスティヌス――「心」の哲学者」を読んだ。

アウグスティヌスは、ヨーロッパの思想史では古代と中世の狭間にいて、その橋渡し、あるいは画す存在という評判ではないか。彼の伝記を心の哲学者という視点で記述していく。この人の「告白」のエピソード、例えば梨を盗んだことを殊更に告白したり、マスターベーションに耽ったことを露悪的に暴露したりして、ある意味で道徳オタクみたいな病気の入ったところがある。それを心の哲学というのは、ありだとは思うが、アウグスティヌスが狂信的なほど倫理にのめり込んでいったのには、その思想か人となりに何らかの理由があったのではないか、そういうのを期待していたのだが、それはデフォルトとして、つまり、真摯な善の追究者としてスタートしていた。かつて下村寅太郎がアッシジの聖フランチェスコを「小さき花」の純真な子供のような人というイメージと裏腹になっている峻厳な修行者である側面を焙り出して見せたようなものを期待していたのだが、まあ、そのようなことを求める私自身の性格の捻じ曲がったところあるからかもしれない。

2017年11月20日 (月)

「エドワード・ヤン 再考/再見」

「エドワード・ヤン 再考/再見」を読んだ。

池袋のビルの地下の30~40人くらいしか入らない小さな映画館で「牯嶺街少年殺人事件」を見たのは何十年前だったろうか、3時間の大作を窮屈な姿勢で一気に見たときは体力的にも疲れた、それよりも目の前で何が起こったのかよく分からなかった。ほとんどが夜の暗い画面で光と人のアクションで、ハイテンションが最初から最後まで途切れることがなかったことだけを覚えている。私には、この人の作品は1度見ただけでは分からず(何しろ説明描写が皆無という不親切極まりないのだ)、そもそも、出てくる人物がみんな存在感があって、誰が主役か分からないほど。しかし、誰をとっても力的でもっと見たくなってしまう。それで、2度目で「ああ!」とため息をもらし、それ以後病み付きになってしまう。例えば「恋愛時代」ではエレベータの扉が開閉するだけなのに涙を抑えきれない感動を引き出してしまうのだから。

この人は共に台湾ニューウェーブを担った侯孝賢が様式美といえるほど明確なスタイルを確立していったのに対して、制作した作品ごとにスタイルが異なる。それを当人は、高級フレンチレストランの完璧な技術をもって行き届いた模範的な接待をするギャルソンと、田舎の年老いたおばあちゃんの落ち度はあるかもしれないで接待などとは言えないが朴訥で肌触りの感じられる振る舞いとの違いと比喩的に言う。当人は形式化以前の素朴な真心、つまり初心のところでとどまっていると言う。それは、映画の画面で完結させることをあえて追求しないという姿勢で、そのために、いかに緻密にショットを考えているかといったことは、何となくそんな感じはしていた。

もし、エドワード・ヤンという映画作家に興味を覚えたら、試しに『ヤンヤン夏の想い出』でも見てほしい。この中のイッセー尾形に驚くとともに、魅せられてしまうから。

2017年11月12日 (日)

倉田剛「現代存在論講義Ⅰ-ファンダメンタルズ」

倉田剛「現代存在論講義Ⅰ-ファンダメンタルズ」を読んだ。

観念や対象から、その対象に隠されてきた言語に目を転じたのが言語論的展開。その動きでは、従来からの存在論を否定したという。しかし、最新の科学、技術的な要請もあって言語論的展開後の分析の対象として再び考えるべきこととしている。例えば、最近注目の自動運転を考えれば、「何が対象として存在するか?」が基本的な課題となっているだろう。したがって、この新しい存在論とは「何が存在するか」を基本的な問いとする。それは、20世紀初頭にハイデガーが提起した存在論的差異という概念で、存在と存在者を峻別し、存在、即ち存在するとはどういうことか、を問いかけた。これに対して、新しい存在論、つまり、この著作は峻別した別の側、つまり存在者の方を追究しようとする。

「存在論とは、実在の構造を体系的に表象することを目的とする人工物である。実在の構造は、主にカテゴリーの階層およびカテゴリー間の関係を記述するという仕方で表象される。」と説明する。言ってみれば、存在ということを言葉で説明する際に、その言葉の意味や記述の構造をしようということだ。

例えば、「雪は白い」という場合、この文が真であるということは、この文と文の指していることが一致するということ。で、この文について、人は、この「雪」はある特定の雪を見ている。しかし、この雪だけに限らない全ての雪を指すだろう。この時、「雪」とはすべての雪をさす。そうでないと文は真とならない。このとき、人によっては普遍的な「雪」なるものが存在すると考える。または、この雪、あの雪とさしていってすべてを検証するか。「雪」ならまだしも、「白い」についてはどうするか。「白い」は存在するのか。まるで中世哲学の普遍論争ではないか。そう考えると、かなり些末と思われる細かすぎるほどの議論をしているが、スコラ哲学を現代でやっていると思えてきた。

2017年11月10日 (金)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(13)

終章 日本の立憲主義と国際協調主義

このような経緯を踏まえて著者は主張します。

日本国憲法には、政府が国民の福利を守るために行動する義務を負っているという原理の基に作られ、決して日本という国家自体に自身の存立を守る権利があるとはうたっていません。しかし、終戦直後の八月革命説で国民が革命を起こして憲法制定連力を握ったという物語が捏造され、日本国憲法は国民=国家が自らの意思に従って自らを守ることを正当化する装置となりました。その結果、国際協調主義の理念は軽視されていきました。

一方、実態としての日本国家体制、安全保障体制は日米安全保障条約によってつくられたもので、憲法体制と安保体制が「表」と「裏」の側でそれぞれを意識し、無視しあう関係を形成しました。

そのなかで最低限の自衛権の概念によって自衛隊が擁護され、日米安保体制が擁護され、最低限が合憲という発想が広範に浸透していきました。単に個別的自衛権が合憲で、集団的自衛権が違憲という線引きが便宜的になされることにつながっていきました。

他方で、日米安保体制に依存して、軽武装ですませることで高度経済成長を達成することができたという繁栄の神話が日本人の思考回路を支配しました。すでに半世紀前の経済成長は再現することはできないし、当時の冷戦という世界情勢はなくなっています。このような事態は安保法制の議論にも影響していると著者はいいます。立憲主義とは権力に制限を課することという通俗的な議論に対して、そもそもは社会の構成原理は簡単に変更してはならないという根本規範であるという信念のことだといいます。権力だけでなく一般国民をも服する原理なのです。その根本規範はは憲法が定める根本的な社会構成原理、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を擁護することなのです。たから政府は国民の信託を受けて、そのために最大限の努力をする義務を負っているのです。

したがって、今回の安保法制もそうだったし、これまでもそうだったが、日本という国家の存立自体が、あたかも重要原理であるかのような錯覚がまかり通って、主権者である国民が権力者を制限していく物語を夢想するだけでは、日本国憲法が規定する社会構成原理が溶解していくことになると著者は警鐘を鳴らします。

まずは、ここから議論をスタートさせてはどうかと著者は提案しているようです。

残念ながら、では、具体的にどうするのかには著者は言及していません。

2017年11月 9日 (木)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(12)

第5章 冷戦終焉は何を変えたのか?─1991年湾岸戦争のトラウマと同盟の再定義

第一節 冷戦終焉と日米同盟の行方

1985年にプラザ合意が結ばれ、冷静体制において輸出主導の無経済発展を遂げる「自由主義陣営の工場」としての日本モデルは終焉を迎えます。これにかわる新しい時代の経済政策として、円高を背景にしたバブル景気が引き起こされた後、本格的な冷戦の終焉後の世界の始まりとともに、1990年代に入るとバブルかはじけます。

アメリカの態度は、冷戦時代の自由主義陣営の工場として日本を反共の砦として擁護することら大きく変化します。経済面では日本は競争相手となりました。日本政府の従来の外交政策は冷戦という特異な時代の条件において馬出されたもので、将来にわたり維持できるものではないという認識が徐々に広まり、外交に関心を持つ人々の間で集団的自衛権違憲論を主張する内閣法制局への不信感が募られていきました。

1991年の湾岸戦争には日本は参加ませんでしたが、集団的自衛権ではない形として多額の資金援助を行いました。しかし、それは関係国に感謝されない結果に終わり、日本の政策決定者たちは大きなショックを受けます。いわゆる湾岸戦争のトラウマです。従来の軽武装が冷戦時代の古い考え方であったのが明白に示された形になりました。この湾岸戦争の後、国際貢献の必要性をめぐる議論が活発化します。1992年いわゆるPKO協力法が成立します。

このPKO協力法は、PKO以外の活動についても規定しており、日本から見て国際的な平和・人道支援活動と言えるものに関する諸規定を一つの法律に盛り込んだものです。それは、国際貢献をしなければならないという政治的要請に対応するために法律ができたため、すでに存在している国際的な諸活動の体系に合わせて法体系を整備することができなかったのでした。貢献する日本中心の視点で作られた法律なので、貢献の窓口となる国際社会の仕組みにあわせた法律ではないのでした。しかもこの日本政府の視点の中心にはアメリカとの同盟関係の維持がありました。

1996年にいわゆる日米新ガイドラインが定められ、2001年9月11日以降、アメリカが対テロ戦争に乗り出していくと、日本は同盟国として最大限の貢献を果たすようになっていきます。政権はいわゆる特措法という時限立法でアメリカ軍などへの後方支援活動に自衛隊が海外にかり出されていく、それに伴い、PKOには手が回らなくなっていくというおかしな事態となって行きます。その結果として、湾岸戦争のときのように、日本が批判を受けることはなくなりました。

つまり、PKO協力法を通した国連PKOへの貢献は、直接的な軍事支援ではない国際支援活動を通じた様々な貢献、という位置づけの中で見いだされたひとつの活動でしかなかったのです。国連PKOそれ自体の重要度に着目して行うというよりは、日米同盟体制を枠組みとした国家体制の中で、日本に可能なもろもろの周辺的な国際貢献活動を行っているにすぎない。活動の優先順位が日米同盟体制の維持の観点から序列づけられていることに変わりはなかったと言えます。

日米安保条約は、冷戦時代の国際情勢を前提にして、反共同盟の構築として設定されたものです。冷戦が終焉し、共産主義運動の脅威が過去のものとなった時代に、性格の変容を迫られることは必至でした。情勢が変わってもなお日米同盟体制を維持するのであれば、新しい性格の規定、および追加的な補強活動が為されなければなりませんでした。それをアメリカ側から迫ったのが、ジャパン・ハンドラーズと呼ばれる親日派、たとえばアーミテージと言った人々です。そこには集団的自衛権行使の容認が含まれていました。

このあと、安倍政権の誕生により安保法制懇がつくられ、第二次安倍政権での安保法制の成立へと進んでいきました。

2017年11月 8日 (水)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(11)

第二節 1972年政府見解

1971年のニクソン・ショック。日本に事前通告なしに、訪中とドル金兌換停止宣言。1972年、佐藤政権を継いだ田中政権は日中国交回復を実現した。そうした情勢の中の参議院決算委員会で内閣法制局長が質問に答えたのが1972年の政府見解です。

その特徴として第一に指摘できるのは、「わが国はみずからの存立を全う」するために「自国の平和と安全と維持しその存立を全うするために必要する自衛の措置をとる」という、「国家」が主語をなった論理構成で自衛権が擁護されていることです。ここで「国権の発動として」という文言は、国家が自分自身を守る際に依拠する自然権的な権利というような趣旨で用いられています。国家法人説の擬人法的な発想に基づいて「国家が自分自身を守る自然権」だけが基本権として認められるという論理構成となっています。

第二の特徴として、「必要な自衛の措置」は「必要最小限の範囲にとどまるべき」なので、集団的自衛権は違憲だ、という論理攻勢が定まったことです。国家が自分自身を守るのが自然権的な国権であり、したがって「必要最小限」で「憲法が容認する措置」だという確信に訴える表現があるだけです。

第三の特徴として、憲法十三条を根拠にした自衛権の擁護をしていたということです。初めて集団的自衛権に関する政府見解を文書にするにあたり、憲法典上の根拠を示す試みがなされたということです。

この資料提出に至った委員会での質疑応答のやりとりのなかで「自衛権発動の三要件」を内閣法制局の解釈として明確化して主張しました。「憲法九条が許しているのはせいぜい最小限度のものであって、わが国自身が侵害を受けた場合に、その侵害を阻止し、あるいは防ぐために他に手段がない、そういう場合において、しかもその侵害を防止するために必要最小限度の攻撃に限って行ってもよろしいと、いわゆる自衛権発動の三要件とか、三原則とか申されておりますけれども、そういうものに限って、そういう非常に限定された態様において、日本も武力の行使は許されるものであろう」といういわゆる最小限度論です。

 

第三節 1981年政府見解

1981年5月の議員の質問に対して出された答弁書は。政府の集団的自衛権概念の定義として繰り返し参照される文書です。

「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている」

日本政府としては、必要最小限度の範囲が個別的自衛権の行使という概念で説明される範囲と一致するため、集団的自衛権の行使は必要最小度の範囲を超えると定義されると考えられることになります。ここではもはや、なぜ必要最小限度が個別的自衛権と合致するといえるのかについては説明されなくなっています。個別的自衛権と集団的自衛権のそれぞれに必要最小限度があるという考え方も放棄されたようです。

2004年1月予算委員会の答弁で法制局は、かつて集団的自衛権が部分的に行使可能であるという理解があったが、現在は集団的自衛権が実力の行使に係る概念であるという理解が定着したために否定されている、としました。集団的自衛権の全てが違憲であるのは、かつて行使可能とも言われた部分の集団的自衛権を集団的自衛権ではないと考えことによってということになります。言い換えれば、日本政府が理解する意味での集団的自衛権を日本は行使できないという結論ありきの議論になっているわけです。

この底流には、日米安保条約に対する自信を政府が持つようになったことがあります。とにかく、日本は日米安保体制で上手くやってきた。今後も同じ体制で上手くやるべきだ。このような風潮は政府のみならず世論にも流れていました。それが集団的自衛権違憲論による軽武装路線の維持という政策に反映されていたと言えます。

他方、貿易赤字に苦しんでいたアメリカでは、日本政府に対して安保条約にただ乗りしているという批判が艶くなってきていました。

2017年11月 7日 (火)

篠田英朗「集団的自衛権の思想史─憲法九条と日米安保」(10)

第4章 内閣法制局は何を守っているのか?─1972年政府見解と沖縄の体制内部化

第一節 沖縄返還と集団的自衛権

集団的自衛権の行使を違憲とする政府見解を述べた文書が初めて作成されたのは、1972年10月のことでした。その伏線は沖縄返還を達成した佐藤内閣に始まります。

佐藤内閣は、非核三原則を提唱し、沖縄返還を実現しつつ、他方ではアメリカに日本のための核報復体制を要請したり、沖縄への核持ち込みを密約で認めたりするなど、二枚舌での外交を行いました。「裏」でアメリカの安全保障の傘を強く求め、「表」では集団的自衛権は違憲なので行使し得ないと説明する立場を確立しました。特に重要なのは、沖縄の返還後も米軍基地を米軍が自由使用することを容認する取り決めをしたことです。基地の自由使用は。集団的自衛権違憲(=日本が行使している状態の否定)を強調する姿勢と表裏一体の関係にあります。サンフランシスコ講和条約の際に日本の沖縄に対する「残存主権」が認められながら、米側から「極東に緊急事態が続く限り米国が沖縄を保有することは日本にとっても有利」という判断が示されたのは、「米国が沖縄を保有していれば、日本は沖縄基地からの戦闘機発進について責任を持たなくて済む」という考えに基づくものでした。

内閣法制局長は、国会で「集団的自衛権に基づく相互援助行動は、憲法が当然認めている自衛権の範囲には含まれない」と発言し、「日本が武力を行使できるのは、日本に対して武力攻撃があった」場合に限られると説明しました。この発言はアメリカが集団的自衛権の他の下にベトナム戦争で行っている軍事行動の正当化をめぐる議論においてでした。沖縄返還で譲歩を引き出すためにジョンソン政権のベトナム政策への指示を表明した佐藤政権は、野党の攻撃に晒されながら、必死に日本の実質的関与がないことを強調しました。

1969年にアメリカはニクソン政権の下でベトナムから撤退しました。これも原因して、沖縄返還交渉においてアメリカは、沖縄返還を機に、日本本土の米軍基地が事実上の自由使用化状態になるように交渉しました。そして、アメリカ側が、日本本土は日本が防衛し、極東防衛を日本の支援を受けて米軍が担当するするという方向で日米同盟体制が進展したと理解したのに対して、日本側は引き続き日米安保条約は日本だけを防衛するものであり、日本に無関係な米軍の行動は事前協議の対象である(いずれにせよ日本と無関係な米軍独自の行動にすぎない)という理解を堅持しました。1972年の時点において、日米同盟は双方の思惑が食い違い始めていました。日本側は、「裏」の理解では紛れもない基地の自由使用容認を、「表」向きでは何も変化はないという態度で押し通し、さらに集団的自衛権は違憲(したがって米軍の軍事行動に日本は一切関知しない)という見解で押し通しました。アメリカが行っている軍事行動に日本の基地が使われている場合、日本の安全に関する事柄であれば日本との関係におけるアメリカ側の一方的な集団的自衛権の行使ということになります。また、日本の安全とは無関係である場合、日本はこれを自国に無関係な軍事行動として黙認する。米軍基地及び米軍の行動は、基本的に日本国憲法とは無関係であり、日米安保条約に関しても単に事前協議という手続をとるだけで実質的な関与はない。これは実質的には米軍の基地の自由使用です。その代わりに、ベトナム戦争の現実が進行中の時代にあって、在日米軍が日本から離れて行う戦争に、日本は一切関知しない、という突き放した議論を行われました。

当時の返還前の沖縄はベトナム戦争の米軍出撃基地でした。通常は、戦争に使われることを知って基地を提供するのは、戦争行為への支援であり、集団的自衛権の行使に該当します。それにもかかわらず内閣法制局は、゜憲法が禁止している集団的自衛に日本が参加することはできず、沖縄が返還されてもそれは同じだと強弁します。実際には、事前協議では日本国憲法を適用して米軍の行動を審査するわけではないので、実際には自由使用を黙認する仕組みとなっていました。そのときに黙認した米軍の軍事行動は、例えば北ベトナムの空爆は、少なくとも集団的自衛権を一切行使しない日本からみれば、アメリカが勝手に行っている行為であり、日米安保条約を通じて日本が関与している要素などは一切ない単なる外国軍の行為に過ぎないものというわけです。

 

第二節 1972年政府見解

1971年のニクソン・ショック。日本に事前通告なしに、訪中とドル金兌換停止宣言。1972年、佐藤政権を継いだ田中政権は日中国交回復を実現した。そうした情勢の中の参議院決算委員会で内閣法制局長が質問に答えたのが1972年の政府見解です。

その特徴として第一に指摘できるのは、「わが国はみずからの存立を全う」するために「自国の平和と安全と維持しその存立を全うするために必要する自衛の措置をとる」という、「国家」が主語をなった論理構成で自衛権が擁護されていることです。ここで「国権の発動として」という文言は、国家が自分自身を守る際に依拠する自然権的な権利というような趣旨で用いられています。国家法人説の擬人法的な発想に基づいて「国家が自分自身を守る自然権」だけが基本権として認められるという論理構成となっています。

第二の特徴として、「必要な自衛の措置」は「必要最小限の範囲にとどまるべき」なので、集団的自衛権は違憲だ、という論理攻勢が定まったことです。国家が自分自身を守るのが自然権的な国権であり、したがって「必要最小限」で「憲法が容認する措置」だという確信に訴える表現があるだけです。

第三の特徴として、憲法十三条を根拠にした自衛権の擁護をしていたということです。初めて集団的自衛権に関する政府見解を文書にするにあたり、憲法典上の根拠を示す試みがなされたということです。

この資料提出に至った委員会での質疑応答のやりとりのなかで「自衛権発動の三要件」を内閣法制局の解釈として明確化して主張しました。「憲法九条が許しているのはせいぜい最小限度のものであって、わが国自身が侵害を受けた場合に、その侵害を阻止し、あるいは防ぐために他に手段がない、そういう場合において、しかもその侵害を防止するために必要最小限度の攻撃に限って行ってもよろしいと、いわゆる自衛権発動の三要件とか、三原則とか申されておりますけれども、そういうものに限って、そういう非常に限定された態様において、日本も武力の行使は許されるものであろう」といういわゆる最小限度論です。

より以前の記事一覧