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書籍・雑誌

2021年10月17日 (日)

レオ・チン「反日:東アジアにおける感情の政治」

11112_20211017223001  「反日」という表現は、誹謗中傷の常套句となっているという。日本で『反日』というレッテルを貼られるのは(……)主に愛国心がない『非国民』と非難され、共同体から追放されたり、疎外感を味わうことになる。では、旧大日本帝国軍が進出した東アジアでは「反日」とは、どのようなものであるのか。著者は、その方法論として、大衆文化にあらわれる東アジア地域の人々の日本に対する観念、特徴、態度及び情緒を仔細に分析する。
 そこで、炙り出されるのは、敗戦後の帝国日本の突然の消滅、その後の冷戦期のこの地域におけるアメリカの覇権による戦後日本の経済的な台頭こそが東アジア地域における反日・親日主義の高まりに寄与したという事実への、日本にいる私たちの圧倒的な認識不足だという。例えば、台湾を「親日」と単純にとらえてしまう傾向にあるが、「中華民国」という国家こそが日中戦争で大日本帝国と戦った敵国であるということ(中華人民共和国が「抗日」をアピールするが、実は抗日をしたのは中華民国)、そして中華民国が共産党との抗争に敗れて台湾に逃げ、もともとの住民である本省人を強圧的に支配し、70年代まで戒厳令下にあり、そこでは日本は敵国であった。大陸から逃げてきて支配した外省人と本省人との対立が、敵の敵は味方みたいなところで親日の契機の一つになったということ。あるいは、韓国の親日は日本支配下の日本への協力者というよりも、戦後の軍事独裁政権が日本の保守層と癒着するように日本から資金提供を受けていたことに対する民衆の反発。それを背景にした市民運動(後に現在の政党になる)を日本のリベラルは北朝鮮を指示していたため殆ど手を差し伸べることをしなかった。そういう事情は台湾や韓国では民衆レベルで言葉にするまでもなく共有されていることに、日本の側は無知であり、知ろうともしなかった。その一方で、台湾にしろ韓国にしろ、それぞれのナショナリズムが日本という他国に依存し、自立できていない事実も指摘する。
 では、どうすればいいか。著者は感情的なナショナリズムに陥ることなく、リアリズムの立場からの連帯を模索する。それは抽象的すぎて、具体的な処方箋は提示できてはいないことに不満は残る。しかし、「帝国日本が残した未解決のままの帝国と植民地の遺産によって示される東アジアにおける構造的変化」を直視せよという呼びかけは説得力がある。

 

2021年9月29日 (水)

伊藤俊一「荘園─墾田永年私財法から応仁の乱まで」

11112_20210929213701  聖武天皇の時代の天然痘の大流行(人口の1/3が死亡)の復興のために、墾田永年私財法による経済復興事業から始まった荘園が時代につれて変遷し応仁の乱後に解体するまでの歴史が取り上げられている。農地の私有から免田型荘園、領域型荘園そして中世の荘園へと荘園制自体が変遷していく。とくに著者が重点的に取り上げるのが、領域型荘園で、これは在地領主層が院宮王臣家・摂関家が大規模に展開していった広域の地域全体を囲いこむ「領域型荘園」の立荘手続きの最初の核となる土地を中位貴族層の仲介で寄進することで広域の荘園の荘官に化けるという「マジック」の産物なのだという。つまり、在地領主から中位貴族へ、そして最後に院・摂関家へという寄進の段階的流れによって本家・領家・荘官の三階層が生まれたという従来の見方は間違いで本当は三階層は領域型荘園の創建時に同時に生まれたのだという、新しい視点を提示している。
 ただし、著者はよい意味でも悪い意味でも歴史家で、歴史的な変遷を追いかけるには要領よくまとめられているのだが、荘園制というシステムが全体としてどのような構造で、どのように機能しているのかという全体像は分からなかった。著者は、社会経済システムを把握するという発想そのものがないことがよくわかった。例えば、荘園の収穫はどのように流れて、どのように富が生まれて、どのように分配・蓄積されるかということは全く触れられていなのが残念だった。おそらく、土地を私有するということの意味内容は、現代の資本主義的な経済社会とは全く違うものであったと思うのだが、そういうことに興味がある私には、物足りないものだった。

 

2021年9月20日 (月)

大木毅「『太平洋の巨鷲』山本五十六─用兵思想からみた真価」

11112_20210920190601  ロンメルやグデーリアンといったドイツ陸軍の電撃戦の関係者を取り上げてきた「独ソ戦」の著者が、今度は、旧日本海軍の山本五十六を軍事の専門家としての能力から評価を試みた著作。
 山本の戦歴を分析していくと、軍艦の艦長名等の戦場の指揮官レベルの戦術的面や、艦隊指揮といった作戦レベルでの実績は平凡だという。むしろ、彼の特徴は大局的見地に立つ戦略レベルでの能力の高さにあるという。航空総力戦を予想しての軍戦備の推進、日独伊三国軍事同盟は必然的に対米戦争につながるという洞察、さらには対米戦争では必敗となるという認識など、後世では常識となっていることだが、当時に気づいていた人は少なかったし、ましてや明確に表明した者は数えるほどしかいなかった。第1次世界大戦以後の海軍の仮想敵国はアメリカで88艦隊という規模を整備し漸減遊撃作戦が基本戦略だった。つまり、広大な太平洋を航海してくる艦隊を迎撃して戦力を徐々に削って疲れさせるという戦略。しかし、山本は総力戦と工業力の飛躍的進展により、その基本戦略は通用しないことを知る。そこで、唯一求めた活路が短期的に戦力を集中させて、相手の戦意を削いで講和にもっていこうとした。開戦時の真珠湾攻撃はそういう戦略から発想されたもので、そのために教官も動員して航空部隊を編成したり、空母を分散させずに集中させる機動部隊という、リスクをとり長期的な継戦を考えない選択をした。しかし、ミッドウェイ海戦での敗北が、その戦略を破綻させてしまう。そのご、短期的に戦力を大盤振る舞いしたことにより、実質的な戦略的な作戦行動がとれなくなり、山本自身は、その後の戦略を考えられず、いわば弥縫策にかけまわるようになってしまう。
 面白いのは、山本の挫折の大きな要因として、連合艦隊司令長官という本来は作戦レベルでの責任者であるべき立場で、真珠湾攻撃という戦略を発案し、大成功を収めてしまった結果、軍令部という海軍の戦略担当部門を差し置いて山本が戦略を担う結果となり、海軍の戦略が二つの部門で担われることになって、海軍として戦略目標が絞れなくなって、現場の判断が混乱していったことにあったという。その典型が、ミッドウェイ海戦やガダルカナルの失敗だったという。
 阿川弘之の浩瀚な評伝で表わされた人物像とは違ったイメージの山本像で、とても興味深いし、真珠湾の作戦の内容分析は、それだけを取り出しても戦記本とは全然違って面白い。

 

2021年9月12日 (日)

菅賀江留郎「冤罪と人類─道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」

11112_20210912191401  戦前や戦中や戦後に起った冤罪事件を調べ、何故そういう事が起きたかを調べたノンフィクション。静岡県で戦争中におこった連続殺人事件「浜松事件」と戦後6年目に起きた冤罪事件「二俣事件」を取り上げる。「浜松事件」の事件解決に偶然に貢献した刑事が脚光を浴びることになる。しかし、彼の声価は戦時下の内務省と司法省の警察権力をめぐる対立が生みだした虚像だった。その後、敗戦と占領によって内務省は解体され、警察が再編されるなかでその虚像が一人歩きを始める。その刑事は、期待を集めるなかで次々と重大事件を解決したのだが、手段は拷問による自白、証拠の捏造、供述調書の創作という冤罪によるものだった。この本で取り上げた「二俣事件」はその典型だった。
 能力もあり、正義感の強く仲間思いだった刑事が、当時の治安状況や警察の事情からうけたプレッシャーと独り歩きした虚像に押し流されるように、彼は善意のうちに冤罪に手を染めていった。
 どうしてそんなことになったのか、その要因がこの本の副題にある道徳感情なのだと著者は指摘する。人間の本性の一部をなす道徳感情は、人類の進化の過程で獲得した心の性質。それは、仲間を救っておけば、自分が危険に遭ったときに助けてもらえるという互助の心性だ。これが言語によって抽象化、一般化されたときに社会的サンクションに変化する。しきたりとか慣習等と言われる道徳感情のシステム化だ。しかし、この道徳感情は時として短絡に走り、自己破壊的に作用してしまう。変な喩えかもしれないが、5.15事件や2.26事件の青年将校たちは私心なく純粋に国を憂いたがゆえに、責任を感じることも感情も良心の呵責もなく、まともな感覚があればとてもできないことでもやってしまえた、と著者は言う。
 つまり、人は誰でも道徳感情をもっているがゆえに、冤罪の加害者になりえるのだということになる。著者は、それを防ぐためには、多様性の中にいること、つまり自分とは異なる意見をつねに脇に置いて独善の歯止めとすることだという。そこで民主的プロセスというものの意義を再認識させられることになると思う。

 

2021年8月 4日 (水)

ジョージ・マカロフ、ロバート・シラー「アニマル・スピリット 人間の心理がマクロ経済を動かす」

11112_20210804214801  実験室での行動経済学に対して、「経済学の想定する『合理的な人間』というのには無理があるのではないか?」と疑問を提起し、かなり大雑把に人間の「非合理」な部分を取り出し、それを経済現象を説明する道具に仕様とすることを提案しているのがこの本。
 「アニマルスピリット」とは、ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』で使った言葉で、資本家の「チャレンジ精神」や「冒険心」といったものを表す言葉だが、著者たちは人間の合理的でない行動一般を表す言葉として用いた。二人はアニマルスピリットとして指摘するのが、経済に大きく影響する「安心」、「公平さ」、「腐敗と背信」、「貨幣錯覚」、「物語」の5つの要因。 例えば、「安心」の有無は人びとの経済行動を大きく左右し、人びとは「公平さ」を求めてしばしば自己の利益を失う。また、朝三暮四ではないけれど、貨幣の実質的価値が重要だと頭ではわかっていたとしても、多くの人々は貨幣の額面にこだわる(「貨幣錯覚」)。
 ただし、マクロ経済学の数量分析を否定しているわけではなく、それでは経済現象を十分に説明しきれないということ。例えば、マクロ経済学に基づく財政政策が実施されていても、リーマンショックのような金融恐慌は起こってしまう。もし、人々が経済合理性に基づいて行動すればFRBと財務省の行動はリーマンショックを防げたという。それができなかったのは、例えば人々が「安心」を求めて、行動をエスカレートさせてしまった(具体的な物を買うには限度があるが、安心には限度がないから)からという。
 では十分な分析をするためにアニマル・スピリットの影響度がどのくらいで、どのように分析したらいいかという理論構築はできていないで、問題提起に留まっているといえる。2009年に出版された著作なのでしかたないとも言えるが、この著作で批判されている経済合理性ということは、実は一通りではないのではないかと思う。例えば、ミクロ経済では合理的な行動が、マクロ経済では不合理になってしまうマクロの誤謬という現象は、ここで考慮されてもいいのではないかと思う。おそらく、今の日本のデフレ状態の分析には、そういう視点が意味を持ってくるのではないかと思ったりする。この本を読んでいて、そういうことを考えさせられた。

 

2021年7月16日 (金)

若松英輔「小林秀雄 美しい花」

11112_20210716203101  同じ著者の井筒俊彦や池田晶子の評伝がよかったので、苦手の小林秀雄について何かのとっかかりを掴めないかと一抹の期待を抱いて手にしたのだったが、この著者をもってしても小林は手強かったというところか。小林の文章のなかから、精神とか魂といったような語句が散りばめられているとこをアトランダムにピックアップして並べて、それらに小林の伝記的エピソードを付加して、尤もらしいものがたりを作るのが精一杯だったように思う。
 私のころは、小林秀雄は大学入試の現代文の問題で使われることの多い作家で、近代的な批評家の草分けとして権威のある作家だった。それで文庫本になっていた著作を何冊か読んでみたが、評論であるはずなのに、論理の筋道がなくて、何を言いたいのかという内容が、突っ込めば突っ込むほど分からなかった。例えば、代表作といってもいい「モォツァルト」は、有名な街中の通りをブラブラ歩いていて突然頭の中に交響曲40番が鳴り響いたという小説のようなエピソードが小林の個人的な語りで、モーツァルトの音楽とどう関係するのか混乱するばかり。弦楽五重奏曲に対して“疾走する哀しみ”という有名な形容をするが、それがどういうことか内容は分からず、曲のどういうところをどのように聞くと、そういう形容が出てくるのかの説明は一切なく、“疾走する哀しみ”という尤もらしいレッテルに自身の触発されるように主観的な思いが綴られる。その結果モーツァルトの音楽はどうでもよくなる。そうなると、小林と同じように“疾走する哀しみ”と感じられなければ、その批評についていけなくなる。そこで、ついていけなければ、文章が理解する力が足りないとか、モーツァルトが分からないと同義ということになる。私には、小林は、自分はどのようにモーツァルトを捉えようとしているのか客観的に見ようというような厳しさのようなものが欠如しているように見える。
 この著者は苦労して、小林の詩的精神を称揚しているようだが、私には、その著述に穴が見えてしまうことから、却って小林の欠如した印象を強くしてしまった。でも、そういう小林の亜流というか、追随者で権威のようになっている人が少なくない。例えば吉田秀和とか。

2021年6月28日 (月)

古田徹也「不道徳的倫理学講義─人生にとって運とは何か」

11112_20210628215301  例えば、儒教の『論語』の中で孔子が「忠」とか「孝」という今の日本の社会では当たり前のことを繰り返し説いたのは、それが必要だったから。つまり、当時の社会では、それが当たり前ではなかったからで、500年続いた戦国時代は骨肉という言葉があるように、肉親でも自分以外は他人はすべて敵としないと生き残れないような社会だったから(現代の中国でも、そういうところは残っていると思う)。そこで、孔子は、まずは身近な親を敬うことから始めようと言わざるを得なかった。それだけでも、当時としては革命的で、だからこそ孔子は祖国を追放され、彼の学統は迫害されもした。つまり、倫理というのは、それほど反社会的な過激思想でもあった。これは、古代ギリシャのソクラテスも同じで、善とは何かが分かれば人はよく生きることができる、と説いたことで、死刑となった。こういう時の、善を説くというのは、善とは何かというスタートの時点に、つまり、善を実行しようという動機の時点で議論をすることにならざるを得なかった。例えば、18世紀のカントの「善意志」という考え方。人は善をしようという動機のみが善であるという。人に親切するということは、それが善であるから行うというもので、それ以外の動機、例えば、他人から親切な人であると思われたいといった動機が混じっていれば、それは利己心によるもので偽善でしかない。それは、孔子やソクラテスのように善がなかった社会に善ということを作ろうとする際には、そうせざるを得なかったからだ。しかし、現代の日本の社会からみれば、善だろうが偽善だろうが、親切を受けた側にとっては、どっちだって変わらないと思うだろう。そこでは、善をゴールの時点、つまり結果の時点からも見るということが違う。実際に何が違うかというと、たとえ悪意がなくても結果的に悪いことをしてしまったら、それが悪になるかどうか、ということ。著者は、ギリシャ悲劇のソフォクレスの『オイディプス王』を例にあげる。オイディプスは予言を誤解し養父を殺すことを避けるために旅にでて、偶然、実父と知らず殺してしまう。動機の時点では、オイディプスは善意志を持っていた。しかし、偶然の結果、父を殺してしまう。それを後で知ったとき、彼は自身の目を突いて罪をあがなおうとした。もともとの倫理学であれば、道徳的というべきが倫理的に自身を断罪しようとする。そこに、著者は人間の倫理性の可能性を見ようとする。
 道徳を説いた孔子やソクラテスが迫害されたということは、それだけ社会に対して挑戦的だったということ。いわば当時の一般的な人々に危険と感じられた、それほど彼らの言葉は生きていたと言える。しかし、現代のわれわれには、彼らの言葉は、ありきたりの陳腐な説教にしか聞こえなくなっている。それは、彼らの言葉が危険ではなくなって、常識とか、尊重されるべきタテマエとなっている。しかし、社会の状況は彼らの当時に比べて、果たして、道徳的に向上したと言えるだろうか。むしろ、彼らの言葉は万人が現実の社会で当然果たすべき義務として受けとめられている。そして、その義務に従わない者を、傍から、安全なところから容赦なく叩きのめすための手段となっている。例えば、芸能人や政治家等の不倫や失言に対する袋叩きなんかが典型的だ。それは、彼らの言葉が善をスタートの時点から捉えることが形骸化し、原理主義的な権威になってしまった。
 例えば、最近の池袋で元高級官僚の老人がオートマの自動車を暴走させて母子を死なせてしまった事例について、その運転していた当人は過失はないと証言し、それが確かだとすれば、自己は不可抗力で起こったのであり、運転者に責任はないのであり、それを被害者の家族が謝れというのは単に感情的な復讐心に駆られているということで、そっちの方が道徳的でないということになる。さらに、運転者が家族に謝罪したとすれば、責任がない、つまり罪がないのにあやまるということで嘘つきということで、そのことは道徳的に悪ということになるだろう。
 この議論は理性的な考えて倫理としては正しいのかもしれないが、感覚としては釈然としない。その時、例えば、『オイディプス王』の事例、善を知らなかったわけではなく、本人は善の意志があったにも関わらず、結果として悪となってしまったことについて、オイディプスは自身の自分で目を潰して、罪を自覚する。そこに、原理にとどまらない倫理の可能性を考えようとする。ただし、結果についても、人は責任があるというのではないのは言うまでもない。一義的に決めつける議論には収まらないのだということだ。

 

2021年6月 5日 (土)

大熊玄「善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義」

11112_20210605184001  西田幾多郎の「善の研究」第3章善を、その全文を逐一註釈した、アンチョコのような本。「善の研究」は、若い頃に、岩波文庫の旧版を読んだが、翻訳の哲学書に較べて、日本語で書かれているというのが全然違うというのがよく分かって、すごく読みやすかった。概念を几帳面に定義して論理を丁寧に追いかけなくても、スラスラと筋を追えてしまうのが心地よかった。母語というのは、こんなにも違うのかと思った。19世紀の近代哲学の大きな潮流である大陸系の観念論と英米系の経験論の対立を相対的な視点から結局おんなじことを言っているんじゃないのと言っていたと思っていた。しかし、その具体的内容は覚えていない。この註釈では、「善の研究」は題名の通り、善を研究した著作で、第3章善がその中心になっているという。西田の言う「善」は「行為」であり、「行為」の動機として人間の欲求があり、欲求を満たすために人間は「行為」を「意志」する。しかし、意志よりも著者は「意思」を重視する。「意思」には行為の前に人間が思い浮かぶ様々な思念があり、行為の「像」(イメージ)がある。こうした「意思」の下で「行為」が為される。西田にとって「意思」と「行為」は一体のものとなっている。主観・客観の区別ないあるがままの経験が西田哲学の鍵概念となる「純粋経験」である。したがって、「善」を導く「意志」・「意思」・「行為」は主客未分の「純粋経験」に等しいことになる。
 ということは、何が善で、何が悪であるかという善悪を分かつのは神様のような他律的な基準ではなく、人自身にあることになる。そのとき、何が善となるかについて明確には述べていない。その基準があるとすれば、それは他律になってしまうから、あくまでも自律的に分かたれるということは客観的な既設の基準を認めることができないことになる。そこでは、何が善かという分からないということと、どこが違うのかという実践面での疑問に答えることはできないことになる。それは、おのずと善と悪は分かたれるということになってしまうだろうな、というところだろうか。西田かにすれば、そういう疑問は見当外れというなのか、読んでいて、他にも疑問が湧き上がってきた。それだけ刺激を受けたということかもしれない。

 

2021年5月19日 (水)

古田徹也「はじめてのウィトゲンシュタイン」

11112_20210519214501  論説とか評論といった文章を読むということは、書かれている言葉の意味を押さえて、ストーリーをロジカルに追いかけて、文章全体の内容を理解し、情報として取り込むということだろうと思う。哲学書を読むというのは、そういう読みではないということを、そういう読みが通用しない「論理学哲学論考」から教えられた。書かれている言葉の意味を発見し、その文章を追いかけるというより、新しく発見した意味で文章を作るように読むと新しい世界が開ける。まるで詩を読むようなものだ。だって、この本にはストーリーがもともとなかったといっていい、だから、読む人がストーリーを作りながら読んでいくしかない。そういう、「論理学哲学論考」について、序文に“語り得ないものは、語るべきではない”という言葉によって、言葉で語りうるもの、つまり、言葉とそれが表わすものを数学のように一部の隙なくロジカルに構築したものと解説されるケースが多かった。いわゆる論理実証主義がその典型。そして、ウィトゲンシュタインは実は言語には“語り得ないもの”に対して開かれていることに気づき言語ゲームという後期思想に移行したという解説になる。ところが、この著者は、たしかに「論理学哲学論考」は語り得るものと語り得ないものを分けようという試みではあるが、ウィトゲンシュタイン自身は語り得ないものを語ることに挑んでいた、という。だから、彼は論理実証主義を批判し、むしろ同時代のハイデガーの姿勢をリスペクトしていたという。そういう視点で、「論理学哲学論考」の試みを考えると、“語り得ないものは、語るべきではない”ということは、そのために語り得ないものを特定しなければならない。その特定こそは語り得ないものを語ることに他ならない。つまり、そもそも矛盾を抱えている。そう考えると、「論理学哲学論考」の試みは最初から無駄であることを分かってのことであるともいえる。そう考えると後期思想は転回ではなく、「論理学哲学論考」から連続していると考えることもできることになる。何か、ウィトゲンシュタインの哲学は、シジフォスの神話を想わせる。

2021年5月17日 (月)

廣松渉「今こそマルクスを読み返す」

11112_20210517205801  再読のはずなんだが、内容をすっかり忘れていて初めて読んだと同じ。その時は、廣松版の『ドイツ・イデオロギー』が、旧版の岩波文庫のマルエン全集からのと内容が全く違っていて、目から鱗の落ちる思いがして、この人の本を読むと、『資本論』の道が開けるのではないかと思って手に取った、ということだけ覚えている。簡単に言うと、この人の説く『資本論』は資本主義批判で、それは労働者が賃金奴隷の状況にあるというシステム。賃金奴隷制度というのは賃金を反対給付とする形の雇用制度であり。労働者は賃金と交換に労働力という商品を提供する。そもそも、働くということは人が生きて行くということと同じことであり、それが商品となって売り買いされるものになってしまったことが、賃金奴隷制度に陥った。そのために、『資本論』は商品とは何か、それがどのように形成されたかに遡って分析をしたものとする。そういう構成は、マルクスがまだ若くライン新聞の記者だった頃の『ユダヤ人問題によせて』で展開した、ユダヤ人を差別することに賛成するか反対するかという議論ではなく、差別を生じさせるメカニズムを作り変える必要があるといついったものと同じ構成だという。宇野弘蔵の経済学理論として捉えるのではなく、社会変革の理論として理論構成する読みが純粋に理論となっている(いわゆるマルクス主義の革命の著作では、やたら扇情的だけれど、理論になっていなかったり、マルクスの事が全く分かっていなかったりするのとは違う)。
 そういう分析をしながら、現在では世界的な大企業をみれば、マルクスの分析した資本家は存在しない。というのも、企業の持ち主である株主は、労働者の年金を集めた機関投資家のような組織が主体になっている。それゆえ、現代の資本主義社会は、資本家がいなくなり、労働者だけが存在するものになっているという。それは、結果的に社会主義の体制に外形的にはよく似たモノになっているという。この分析は、今の社会の分断への視点として一元化したゆえの分極化というのは、とてもありうると思った

 

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