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書籍・雑誌

2025年6月18日 (水)

八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(5)~Ⅳ.イエスの教えの探究

 前章までのことを土台として、福音書に伝えられているイエスのことばを吟味していく。
 イエスが行った山上の垂訓は、マタイによる福音書では八カ条で掲載されている。その最初の一句が、「心の貧しいものは幸いである」であり、そして「天の国はその人のものだから」と続いている。「天の国はその人のものだから」は「心の貧しいものは幸いである」ことの理由だ。「心の貧しいものは幸いである」の意味は、貧しい者は、その心が幸福である、と理解すればいい。この「貧しい者」がどんな人を指しているのかが問題となる。ふつうは、貧しい人は金銭に余裕のない人を指す。しかし、イエスは金銭に関して、「皇帝のものは皇帝に返せ」と教えていた。それらのことから、どうやら「皇帝のもの」の体制から離れた場所は、金銭は流れていないので、そこにいる人間は金銭を持たない。それを金銭の流れている社会から見れば、貧しい状態である。金銭が存在しないところは、貧しい人しかいない。一方「幸い」すなわち、こころが幸福な状態にあるというのは、イエスの言い方なら、神のものである自分の生死を、自分の意のままにしようとする状態をやめて、それを神に任せている心の状態である、と言える。ということは、すべてを神に委ねて、自分では何も考えず、何もしないでいることが幸福なことなのだろうか。イエスによれば、そうではなく、天の国に生きることは、正しく生きることで、正しいことをすることを考え、実行する生活が、心が幸福な状態であるという。イエスは、ただひたすら正しいことを実行する生活をしなさいと言っているだけ。我々が生きるのは、神から貸し与えられた「いのち」を分け持っているからであり、その「いのち」は神のものである。それゆえ、「いのち」を不正に利用すれば、不正利用という罪になる。
 この「いのち」が自分のところらあるから自分は現に生きている、だからそれは自分のものだと、疑問なしに生きている。感謝なしに生きている。このような人は、天の国を知らない。幸せに生きることを知らない。天の国とは異なる国に生きている人だと、イエスは言う。そういう人も、神から「いのち」を受け取っているのだから、生きてはいる。ただ幸福な状態で生きているとは言えない。生きているとは、「いのち」を受け取っていることであると認識し、そのことに感謝して、現に自分が生きていることだけで、その恩返しを考えなければならないと思って、生きることが幸福に生きることである。
 我々の人生が充実するためには、心の充実が不可欠である。むしろ身体的欲求よりも、心の必要を満たすことの方が、人生の充実のためには優先度が高い。なぜなら、人生の充実度受け取るのは身体ではなく、心だからである。心が働いて、はじめて心が、自分が生きていると実感する。心の満足度抜きには心の人生は充実しない。
 これまでの説明がよく分からないのは、これが分かるためには、ヨハネやイエスによれば、悔い改めが必要だからである。悔い改めがない人、不足している人は、神が与えた正しい生き方を捨てたことが原因で繰り返している自分の罪に気付くことができない。その気付きが不足している。イエスの言うことが分からないのは、自分の心の罪に気付くことのできる能力を、心が失っているからである。そのため、本人が気づかぬうちに罪を重ねている。そういう人は、神のいる天の国にいる人ではない。だから、本書は、何かのきっかけで奇跡がおきて、読者に悔い改めが分かることが起きたときにために、説明をしている。
 山上の垂訓については最初の一句について、これで説明した。後の七句は素通りしていい。山上の垂訓は最初の一句だけを大切に説明すれば、それで十分だという。
 次に、マタイによる福音書に次の一節がある。
 “あなたがたは、わたしが律法や預言者の教えを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのである。”
 この律法の基本はモーゼの十戒である。十戒はイスラエルの神との契約の中で信者側が守らなければならない条件として提示されたもので、信者がこの条件を守れば、神は信者に永く恵をもたらすという契約である。戒自体には刑罰はない。しかし、イスラエルは、その戒を実際生活でできる限り守ることができるように、律を定めた。しかし、ユダヤ人の国家は存続できなかった。そこで、祭司たちは宗教によって民族の維持を試みた。そのため、近代の国家なら国家が定める規律が別建てになるが、ユダヤ教では古代の国家において一般的であるように、律法ないし戒律の名で戒と律が一つに結びついた。したがって、イエスの教えは、現代では罰則をもつ国家の法律規定と見られがちな戒を、あくまでも純粋な宗教規律として受け取るように求められている。十戒は、本来神との契約であり、信仰に属する事項である。したがって、本来は神を信じる心の諸規律である。イエスは、その目的を信仰が本物であるか試す尺度であると考えた。要するに、戒が顕わそうとしているのは、じつは、戒を完全に守る正しい信仰があれば、それだけで実現する心の姿である。言い換えれば、どの戒が述べていることも、それが自然に守られている心の状態であるとき、その時だけ、その人は神に認められ、神に見守られた生き方をしている、ということである。信仰は心の世界にある。その内容を理解するためには、心の内で自分が神を前にしているところ、神を前にして一対一で神に約束する場面を想像してみるといい。すなわち、天国にいて神に会っている。天国にいつづけるために、神からは十の戒を求められる。この求めに応じることは、人間なら誰でもできると、神は考えている。だから、それをある人ができないとき、つまり十戒を守れないとあれば、その人は神が作った本当の人間でないとされ、天国を追放される。十戒がこのようなものだとすると、神は、あくまでも一人一人の個人を相手に、十戒を示している。十戒の契約は、民族に対するものではなく、個人が神と一対一でする契約である。そして契約を守っている間だけ、その信仰は神に認められている。そこで、守るか守らない課は、個人にまかされている。信仰を持つとは、他者とは無関係に、個人が自由に決められる選択である。実際神を信じるかどうかは、あくまでも自分の「いのち」をどのように自覚するかという自分個人の問題である。すなわち、「いのち」は、神が与えたもので神が主であると考えるか、「いのち」は自分が所有すると考えるかである。

2025年6月17日 (火)

八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(4)~Ⅲ.マタイによる福音書を中心に

 四福音書は、使徒言行録に書かれた事実と複数の使徒の手紙に書かれた期間を通じて、キリスト教会の教えが一つに固まってきた過程で、おおよその形が見えた後に、その信仰に即して、使徒たちが自分たちの信仰の正統な根拠を人々に明らかにするために、言い換えると、使徒たちがユダヤ守旧派に対抗して甲的にキリストの証人となるために、書かれたものである。そしてそれはキリスト教会がユダヤ教から離れ、一個の独立した教会となるための武器となった。本書では、マタイによる福音書イエスの教えを析出するための基礎とする。そのために、マタイを吟味の対象として取り上げ、この作品の中からイエスの教えを析出することで、キリスト教会の教えとの違いも、おのずと明らかにできると考える。
 イエスはヨハネと同様に、パリサイ派を偽善者と呼んで非難している。偽善者とは、心を隠して、表に表われる行動や態度だけをよくつくろう者たちだ。表にあらわれる行動より、心が本当に神の教えに従うことをイエスは求めていた。つまり、ものごとを感じたり考えたりする「心」が、その原点(主体自身)から、これまでとは違う生き方をすること、つまり信仰を根本的に変えることを、教えていた。原点から生き方を変えることは、それまでしていた心の生活をすっかり、全体的に変えることである。行動や態度だけでなく、心のはたらきの全体を含めて変えることである。心の原点は私という主体の原点であり、心の中心だから、そこから変わることは、心のすべてが変わることだからである。これは決してたやすいことではない。実際、イエス自身、ヨハネから教えを受け、洗礼をうけた後、荒れ野に入って、悪魔の試みを受けたと言われている。
 修行によりヨハネの教えの実践を身につけたイエスは、人がふだん常識と見ている社会がもっている全体を無にするように言う。イエスはパリサイ派からローマへの納税について問われた時、「皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい」と述べた。「皇帝のもの」とは皇帝の肖像があるローマの銀貨であり、市場で通用する。しかし、「皇帝のもの」であるかぎり皇帝の所有である。一方、「神のもの」とは、神の所有である。それは何より我々の生死である。生きている間、我々は自分のいのちを自由に使用して、自由にいろいろな場面で様々なことを決めているが、生まれてくることと死ぬことは、自分の自由とならない。生きる根底にある生死の選択は、いつになるか、どれも全面的に神の決定事項である。この自由にならないものは、我々の所有ではない。自分のものであるなら、自分でどのように処分しようが自由である。しかし、他人のものは、その他人が決めることである。銀貨は皇帝の許される範囲、つまり国内のみで使用できる。
 金銭は、市場での商品の売買に用いられる。商品をいったん金銭の額で価値評価することによって、ものの交換が容易になった。さらに労働も金銭の額で価値評価が可能となったために、労働についても市場での取引が可能となった。そして、それは異なる種類の労働が、それぞれの社会評価を受けて異なる金銭の額で売買されることを意味していた。最終的に国家という枠の中で人間の集団は、各種の労働単位で分業体制をとり、集団の維持・発展を目的とした秩序を形成した。ところで、その秩序は、社会的評価の秩序であり、労働評価の秩序だった。この集団に属する個人は、その社会の各種の評価において金銭の一時保有を認められ、使用の自由が認められる。そして個人の生活がこの社会集団の役割分担に依存する。受け取る金銭に自分の生活を依存させるだけ。個人は国家の頭を頂点とする社会に従属する。反対に、依存させないだけ、個人は国家を頂点とする社会から離脱することができる。
 イエスが「皇帝のものは皇帝に返せ」と言って金銭から離れることを促したのは、それによって心の自由が完全なものになるからである。そして心が完全な自由をもつなら、自分の「いのち」という、神が自分のところに置いたものを、神に返すことも、自由にできる。つまり、自分のいのちのはたらきを神の意のままにすることができる。そして神の意のままに生きることができれば、人の心と一致して、神の自由と喜びを味わうことができる。
 金銭が支える生活は各自がその一端を担う分業体制あっての生活である。イエスは、それを皇帝に返せと言った。しかし、金禅を返してしまえば、分業体制の中で生きることはできなくなる。つまり、皇帝が統制していた社会体制のもとでの生活が実質できなくなる。分業体制を土台にして生きる生活しか知らない者には、分業体制から離れた生活は、とうてい想像できない。我々がものごとを現実的に思考するうえで持っている知識は、分業体制の生活の中で経験したことから得た知識しかない。「皇帝のものは皇帝に返せ」と言われたとき、我々が生きていくうえで前提にしていた当たり前の知識を、すべて全くなしにしなさい、とイエスは言う。
 「皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい」は、皇帝のものを返し、そして神のものを神に返す。「神のもの」とはわれわれの生死であり、言い換えれば、神が我々に一時的に与えた「いのち」である。それを神に返すとは、それが神の所有であることを認めること、すなわち、自分がどのように生きて、どのように死ぬかは、神に任せることだとイエスは言う。我々は、ふだん、自由な人間だと思い、自分の判断で生きている。それを止めてイエスの言葉に従って判断する。それは、どういうことか。イエスの言葉は神に聴けと言っているのに等しい。生きるすべてを神に返すとは、神の意のままに生きろということだ。金銭を用いて皇帝の体制の下で、その命令の下で生きることを拒否して、神の言うことを聞いて生きるということ。したがって、皇帝の下での命令は皇帝に返す。では、神の言うことを聞くとはどういうことかというと、イエスは教会で祈るとは言っていない。祈るとは人間の言葉を神が聞くということで、イエスが言っていることとは逆である。イエスは、あくまでも神のことばを聴くことだ。つまり、祈るということは、自分の願いを神に聞き届けてもらうというのが一般的だが、イエスの教えによれば、それは間違いで、自分の願いを否定して、神が自分に求めることを実現することを祈りは可能にするものだという。このように、イエスの教えを理解するためには、週間的に無自覚もっている言葉の意味付けを脱して、あらためて教えの言葉の内容をよく吟味しないと理解できない。
 イエスが、ヨハネから受け取った教えは「悔い改めよ、天の国は近づいた」であった。「悔い改め」のギリシャ語は「メタ・ノイア」であり、もともとの意味は正しい思考に従うという意味内容である。この正しく考える対象を自己自身とすれば、それは自己を省みるということであり、自己を省みれば、自ずと己の罪が見え敵だ、それによって罪を悔い、その反省が心を改めることにつながる。これは、まさにソクラテスが行ったような哲学の方法だ。これに対してキリスト教会の解釈は、イエスの死後に残された使徒の思いによる解釈で、イエスが十字架で死んだが、彼は神であり人間の原罪を神に赦してもらうためにだった。そこには、脅迫の雰囲気がある。
 これに対して、前記の解釈には脅しの雰囲気はない。正しく考えたのなら、おのれの罪を認める上に、その結果を話せるはずだ、とヨハネは言う。原因となる心が正しいのなら、その心が生み出す結果としての言動も、正しいものであるはずだ。したがって、「ちゃんと考えています」というなら、その結果を示すことができるし、その結果は、罪を認めて告白することである。そして、この罪とは、必ずしも実際に行った犯罪ではなく、心の中の罪である。つまり、他者の目に明らかな犯罪行為ではなく、他者の目から隠れた心の罪である。これは、盃の内側をきれいにするという譬えにつながる。そして、メタ・ノイアが正しくなされたら、これまで偏見に執していた心が改まって正しい心になるという結果が出る。逆に、自分の罪を自ら気付いて告白することを、ごまかしなしに、実際に確実にしなければ、正しい結果は得られない、というわけだ。このように、メタ・ノイアの教えは、心の中の教えであって、心の外に実際に見ることはできない。したがって、それ自体は言葉で明らかにすることはできない。したがって、福音書に伝えられたイエスの教えが、我々にとって難しい理由は、実際に悔い改めた経験がなければ、その教えを理解できないものだからである。そして、福音書に書かれたイエスの教えの断片は、正しく悔い改めをするための方法を示しているのではなく、もしも正しく悔い改めることができたなら、もつことのでる正しい心の説明である。つまり、結果だけを語っている。それを読む我々は、実際に悔い改めた経験がなければ、書かれた言葉を正しく理解できないのである。
ヨハネもイエスも、肝心なこと、すなわち、どうすれば心を改める結果が得られる悔いが、心の内でできるのかを、教えてはいない。それは、説明できないこと、教えることができないことだからだ。

2025年6月16日 (月)

八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(3)~Ⅱ.イエスの教えを理解するために

 イエスの十字架上の死についてパウロが作り出した物語は、後に正式にキリスト教会の教義となった。その物語は神のうちに父と子を想定し、父と子が理解し合うことがむずかしい関係と、それでも無言のうちに相互に響き合う愛を、一つの神のうちに想定している。つまり父と子がたとえ敵対した関係になろうとも、愛は、二人の間に正しい関係をもたらすことを教えている。また、それまでにあったユダヤ教の神は、民衆を戦いの勝利に導き、日頃から厳しく叱咤する国王のごとき、賢い、単純な神であった。それに対してパウロが描き出した神は、同じように力強くありながら、同時に、民衆のなかの人間味を具えた、雑味のある神であった。多くの感情を想像させる総合的な神であった。パウロの教える信仰には、したがって見たところ良い教えの混合がある。しかし、かえってその多彩な説得力が功を奏して、パウロの教えるキリスト教信仰はギリシャ文化地域とローマ人たちの間に、広く伝わった。
 パウロが宣教したこととは異なり、イエスが教えたのは、まず「悔い改め」であったと、福音書にはある。しかしその内容をキリスト教会が編集した聖書から読み取るためには、まず前もって知っておかねばならないことがある。すなわち、キリスト・イエスの教えがそもそもどういうものであったかを探るためには、我々が一般に手に取る聖書全体が、イエス自身ではなく、キリスト教会の編集に基づいていることを知っていなければならない。そしてその聖書のうちの福音書を読み解くためには、さらに、書かれていることばを吟味して、イエスがいつも「あること」を前提にしていることを、あらかじめ知っておく必要がある。イエスが話した内容を繰り返して読んでいると、イエスはいつも、一人ひとりの「心の中のこと」を話しているのが分かる。パリサイ派は律法という外形にしか目を向けない。実際行動を規制するユダヤの律法を厳格に守ることが信仰だと思っている。彼らは心の中のことは一切顧みない、イエスは飲み物を入れる杯を譬えに取り上げて、杯の内側が汚れていれば、その杯は杯としての働きができない。それに比べて外側の汚れは、当面は無視できる。同じように心が清ければ、身体の汚れは研運は無視できる。悪い行動や発言は内側の心がきれいかどうかであって、身体のそれではないからである。キリストの教えは目には見えない「心の中のこと」についての教えである。目に見える身体やその行動についての教えではない。したがって、他人の様子をどれほど知っても、あるいは、世間の出来事をどんなに知っても、また、たくさんの本を読んでいても、自分の心の中を見ることができない人は、キリスト・イエスの教えを学ぶことはできない。
 誰でも経験しているように、他人の心の中は、見ることができない。直接見ることができるのは、自分の心の中だけである。心の中としては、それしか人は実際に見ることができない。ところで人は、自分が知っていることによってのほか、新たなことを知ることはできない。したがって、人は自分の心の中ですでに経験したことによってのみ、イエスが教えようとした「心の中のこと」を、自分の体験に基づいて知ることができる。そしてさらに言えば、自分で考えたことがあるだけ、他者の考えを理解することができる。深い思索の結果生まれている文面がむずかしいのは、自分にその経験、同じだけの思索の経験がないからである。心の中でのみ経験されることについて思索を深める経験を持たず、心の外に在って眼に見えるもの、手でつかめるものしか信用できないなら、人は心の中でも、そういうものばかりを追う。そのような人は、外に在るものに対する自分の欲望に従う。そういう習慣に染まっている。したがってそういう人は、そういう心の体験しかできない。そういう心にはイエスの教えは決して届かない。すなわち、欲望から離れて、自分の心の中を熱心に見ようと考えないと、「心の中の教え」であるキリスト教の教えは、学ぶことができない。人は見たことも聞いたこともないことについては、言われても何のことか分からず、学ぶことができないからだ。
 キリスト教は、一般に神であり人であるイエス・キリストが唯一の救い主であると信ずることによって、人が救われる宗教だと言われている。しかし、そういうお題目を唱えていれば救われる、というものではない。少なくとも、聖書の内容を知っている人から、神であり人であるイエス・キリストがどういう存在か、どういうことを言っていたかなどを教えてもらわなければ、そして、教えてもらった後でイエス・キリストを神のような人をイメージ的なければ、救われるものではない。つまり、心に響かなければ、キリスト教を信じる条件が整わない。
 使徒の信仰とイエスの教えのズレがある。パウロが言う一人は誰しも罪びとであるという理解は、たしかにイエスの教えに含まれている。パウロは、イエスが十字架に架けられたことによって他の皆の罪が贖われたと言う。しかし、このようなパウロの理屈はイエス自身の教えには含まれていない。キリスト教会はイエスの教えではなく、使徒の教えの方を取っている。それがイエスを神と信じることである。
 イエスの言う信仰、あるいは信ずるという言葉の意味を、自分が今思っている通りのものだと、キリスト者でない者が安易に考えることはできない。神という言葉が指しているものも、信ずるという心の働きも、目に見えるものなら、姿形、色、位置、大きさ等々によってそれぞれ区別できる。声や音や肌触りによっても、ある程度は言われたことの区別ができる。そのようなものなら、冷静に、つとめて客観的に当の物を見れば、ほかの人が理解したと同じ意味に、言葉から受け取ることができる。しかし、目に見えず、耳に聞こえず、触れることもできないものとなると、そうはいかない。その意味を知るためには言葉に頼るしかない。しかも、その頼るべき言葉が意味しているものが、目に見えない、耳に聞こえない、触れることができないものだとすれば、想像してみるほかない。イエスが口にする神とか愛とか聖霊などは、目に見えない、手に取ることができない、指し示すことができないものである。
 他方、目に見えないものを言っているという点では、パウロたちの信仰も同じである。しかし、パウロたちの信仰は、言う巣の十字架上の死のショックを起点として生まれていると推察できる。イエスの教え自体は、弟子を襲ったショックの背景に押しやられている。イエスの死を悲しんだ者たちの間で悲しみを分かち合い、ようやく楽しかったことができるようになった時、こんなことがあったあんなことがあったと、想い出を語り合う中で触れられたのが、イエスのおしえだった。それを聴くことで生まれたパウロの教えの中では、イエスの教え自体は、イエス自身を神のごとき人と信じる信仰の後ろに、切り離すことができない尾のように引きずられているだけだったように見える。あるいはキリスト教会という名のリヤカーの荷台に乗せられた宝だったように見える。

2025年6月15日 (日)

八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(2)~Ⅰ.キリスト教の原像

 著者は、まず、信仰を次のように定義する。人が大人になり、いのちを根幹としたいきる活動そのものに心の眼が開き、その生を、自ら確実な仕方で持ちたいと願うようになったとき、どうすればまさに自分がもついのちに、自分の人生を賭けることができるか、言い換えると、この生で正しいと、自分自身で信じられる生き方ができるか、目に見えないその道を、ことばにして教えてくれる、というものである。
 福音書の四編にはイエスの生涯の主要な活動が記されている。そして新約聖書後半の使徒たちの活動と手紙には、キリスト教会が生まれる歴史が記されている。使途は複数人いる。各自、死んだイエスの受け止め方は同じではなかった。実際意見の相違から内部で分裂騒ぎも起きたらしい。しかし聖書の中には意見に矛盾がなかったかのように記されている。これは一冊の書物として編集されるときには常に起こることである。新約聖書は、使徒たちの手紙が書かれた後に福音書ができた。したがって福音書の記述には、イエスの生涯の記述、彼の活動の見解が大きく反映されている。使徒たちがどれほどすぐれた良心の持ち主であろうとも、自分たちの思いを抜きに、すでにこの世の者ではないイエスの姿を思い描くことはできなかったはずである。しかも福音書の最も大事な部分は、イエスが語った教えである。他人の思想を完全に、そのまま正しく理解して、しかも他者に伝えきることは、まず不可能と言える。
 “聖書を、これから抵抗なく読んでいくためには、まず一般的なキリスト教信仰の内容を頭に置いておく必要がある。その中で、日本人に理解しにくいのが三位一体論である。我々は見た目の姿でしか二人の人間を区別することが一般的でない。そのため、一つの神における二つの人格を区別するということが理解できない。さらに、聖霊をもうひとつの別人格として理解することは難しい。キリスト信者になるためには、神が三位一体であることを理解できなくても、信じることが求められる。また、キリスト者となるためには、同時に「罪の告白」が必要となる。「罪」というのはモーゼの十戒に類型的にあげられている罪である。この類型にあてはまる罪があればその罪を神父の前で各自が告解することで、神に対して心を開くことである。つまり、告解を通じて神が、告解した者の心を見出すのである。”
 キリスト教会の誕生の経緯は、イエスの死から始まる。
 過ぎ越しの祭りの夜、イエスは暴漢の集団捕まった時、側にいた弟子たちは、自分も捕まるのではないかと恐れ、イエスを見捨てて一目散に逃げ去った。後日、イエスが磔刑に処せられるところを彼らは目にした。昼間はローマ人による治安が維持されていたので安全が確保されていた。普段は、夜間は危ないので市外に逃れていたが、この日は市内で食事を提起要してくれる人物が現われ、弟子の懇願を断れずに市内に留まったのを知った祭司が動いたためだった。弟子たちは、事後に自分たちの過ちに気が付いた。しかし、それで自分たちを責めることはせず、イエスとの距離の近さが妬ましかったユダのせいにして、自分たちの怒りをユダに向けた。しかし、自分たちの過ちは事実として帳消しにできなかった。その弟子たちの間で、聖なるものであったイエスは神の子であり、だから三日で復活したという噂が広がった。それは、イエスの死に深く傷ついていた弟子たちの心に希望を与え、その痛みを軽減することとなる。いつしかイエスの死を悼む弟子たちの間でイエスの復活が事実として信じられるようになり、復活したイエスを見たという弟子が現われた。復活が信じられれば、イエスが神であると信じることは容易だった。そして復活した後、弟子たちに見守られながら点に返ったことになった。そのように考えることで、弟子たちは、自分たちの周りに今はイエスがいないことを悲しみつつ、納得することができた。このように信じて気を取り直した弟子たちは、イエスの思いを受け継ぐべく、イエス・キリストの伝道を始め、使徒を自称した。
 弟子たちにとって、イエス・キリストはただのラビではなく、人生の真理を教えてくれた師であった。人生の真理を教える知恵は「いのちそのもの」を端的に教えることばでなければならない。すなわち、いのちの世界全体の地平で「生きる」方向に我々を導いてくれる。これは、例えば学校で教えられる科学の知識や相対的な世間的常識のような良くも悪くも活用できる情報とは別のものである。それは、我々に自分のいのちが正しく生きる道を示すものであり、我々を心の迷いから救い出し、自由なところに連れ出し、我々の心に本当のいのちを与えるものである。その教えは神聖なものとなり、そういうものが真の宗教の真理であり、生きる方向を整える道である。その教えに従おうとする心持ちを信仰という。信徒たちにとって、イエスはそれを教えてくれた師であったが、彼らは、その教えをなかなか飲み込めなかった。できないうちに師を失ってしまった。教えは、分からないまま、その言葉だけが彼らの耳に残った。
 使徒たちが集まり、その旨に懐いた最初期の信仰の源は、イエスが教えた信仰ではなく、イエスを十字架で失った彼らの深刻な悼みであり、悲しみであった。同時に復活の希望という癒しであった。復活の希望は彼らの悼みを和らげ、救いになった。この当初にあった信仰を保存するのが十字架にかけられたイエスの像である。ただし、偶像崇拝になってしまうので、十字架だけをその象徴にした。
 もしも、イエスが声をかけて弟子となった人たちの間だけでキリスト教会が作られ、そこまでだったら、キリスト教は今日のような形で残らなかっただろう。彼にーらの信仰は、彼らが味わった苦悩によって生まれてもので、普遍的なものではなかったからである。それが、今日のような形で残ったのはパウロの存在によるところが大きい。その一方で、イエスの直接の弟子たちは、イエスが主であったことを見聞きした証人であると宣言して、教会の中で一定の地位を得ていた。彼には集会でイエスの思い出を語り合った。復活の話も出たはずだ。それは弟子たちの想像をまじえた記憶となって次代の教会員の耳に入るようになった。そして、イエス亡き後数年のうちに、心を落ち着けた弟子たちの胸には、イエスという類まれな人間がいたこと、イエスが自分たちを導いてくれたことを、他の人々に伝えなければならないという思いが残った。
 パウロは、はじめ、キリスト教徒を捕らえ、告発する人間であった。ところが、ある時神の光に打たれと言われる。パウロは突然キリストの使徒となった。このような信仰上の天候が起きるのは、特別な場合だ。すなわち、それまでの信仰によっては救われない心がその人間に内在していて、新たな信仰がその部分に直接光を当て、その心がすっかり活き活きとした別のものに変わってしまう場合である。パウロは、自分の内に湧き出してくる欲望の数々が、律法の精神に違反する行動を促してくることに、ある時気付いた。律法を知ったことでかえって律法を犯そうとする欲望が湧き出してくる。それを抑えようと懸命になった。表向きは律法を厳格に守る優れたユダヤ教信者として振る舞い、内心では自分の罪に苦しむという板挟みに遭っていた。そこで、パウロはイエスが罪びとを招き、救おうとしていたことを知った。その救いが聖霊によってあることを知らされる。そこで、理性の原理では救われなかったパウロは、それとは別の原理によって救われることを、イエスの弟子から教えられた衝撃を受けたのだった。ところが同時に、自分がイエスの弟子たちとは異なり、イエスの生前を知らず、十字架の悲惨な死を見ていないことに、気づかざるを得なかった。パウロは、イエスの活動と死と復活の証人になれなかった。そしてさらにイエスの弟子たちがもつ悲しい経験に共感できなかった。他の弟子たちとは異なり、高度の理性的精神の持ち主であったパウロは、そのためには自分が納得できるイエスの十字架上の死の意味を考えるほかなかった。理性的に納得した後でなければ、パウロのように理性の強い心は、弟子たちの苦悩に十分に共感することができなかったのである。
 パウロは、キリストによってはじめて律法の力が強められて肉の力に打ち克つことができたと語る。すなわち、キリスト・イエスは神の子ではあるけれど、人間の肉体をもってこの世に遣わされたと、パウロは言う。そしてその肉は、肉であるかぎり、律法の精神を殺してしまう力を持っている。つまり肉は律法を無視して罪を成し遂げる力を持っている。ところが、イエスは罪を犯さなかった。神が持つ霊の力が、肉を持っていても罪を犯さないことができることを、示したのだ。
 パウロは、ユダヤ教の教義とともにギリシャ哲学などヘレニズム世界の教養を身に付けていた。彼は自分が耳にしたイエスの教えに沿うように、イエスの十字架の死を説明しようと考えた。彼は、十字架上の死の意味を、罪の赦しを得るための生贄と理解することで、自分と同じようにイエスの生前を知らない人間でもキリストの死を納得できるものにした。この説明に納得し、イエスの死によって、おのれの肉に宿った罪深さを神に赦してもらえたと考えることができた。人々はパウロの説明によってイエスを神の子と信じ、イエスの死を特別に悼み、弟子たちに認めてもらえるキリスト教徒になることができた。この説明は、多数の他人の罪を、イエスが自分ひとりの残虐な死をもって返上することができた、あるいは、無化することができたという話である。パウロは、神の子の死と無復活という納得しにくい事実を、イエスを知らない人々に説明する物語を作ることができた。このように、イエスの十字架上の死の意味がパウロによって説明されたことによって、キリスト教会はイエスの直接の弟子を超えて、広く信徒を得る教義を持つことができた。
 パウロはもともとユダヤのインテリに属していた。イエスの直接の弟子たちは学識のない貧しい人たちだった。彼らに迎え入れられるためには、かれらと共感する必要があった。しかし、この共感は、イエスが弟子たちに求めていたものではない。イエスの教えは、個々人が独立して受け取るべき信仰であって、信仰のために仲間を必要とするものではなかった。これは、それまでにない特別なものであった。それはまた、隣人愛というイエス独自のものとなる。一方、普通の生活を送る人間同士の間では、喜びや悲しみの共感は一般的なものだ。これは、パウロが示した共感とも相通じるもので、仲間内の共感を大切にするものと言える。これに対して、イエスの隣人愛は敵に対しても善を行えというという教えで、あくまで独立した個人があらゆる相手に対して、常に正義を守るという教えである。時には仲間内の共感は集団の結束を高めて敵対する集団に対立することを促すこともある。パウロは、この隣人愛の独自性を認識していない。
 パウロは、奇跡のような特別なしるしも、哲学も必要なく、預言者イザヤの言うように、人間は知恵があると驕っているが、本当に知恵がある人間など一人もいないという。人間は本質的に愚かだから、愚かに事を通してしか神を知ることはできない。かみは、それをよしとした、と言う。パウロは、自分が語る突飛な物語こそが、神が愚かな人間を救うために用意した愚かな道だと宣言した。一般に言われるキリスト教は、パウロの、この宣言で生まれた。このパウロらわってつくせれた物語と、それに伴う心情が、キリスト教会が信者に音L信仰の根幹ないし基礎をなしている。したがって、使徒たちの信仰の底にある、不正な死についての悔やみがもつこの世の悲しみと、イエスの復活という神話によって約束された将来への希望である。しかし、イエスの教え自体は、内容的には、それとは別である。イエスの教えは福音書の形で残された。
キリスト教において福音書に記されたイエスの教えを誠実に学ばなければならないのは、教会の司祭職の位置にある者であり、彼らは必要に応じて一般信徒の疑問に答えなければならないので、二つ(パウロとイエス)の教えとそれに基づく二つの信仰は、区別して置かなければならない。ところがキリスト教会はパウロの時からその区別をしていない。新約聖書の使徒たちの手紙とは別になっている福音書の主な内容は、キリスト教会が教える一般的な信仰内容とは別に理解することができるものであり、本当はむしろ別に理解されねばならない内容である。ただ、パウロがそれらを安易につないでいるために、混同ないし理解の混乱が起きている。

八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(1)

11114_20250618234801  キリスト教の聖典である聖書は、歴史の流れに沿って、その都度書かれたものではない文書が書かれた順番は、事実の順番ではない。同じひとつの文書でも、全体が一人の人の手で一挙に書かれたものではなく、後に同じ人があるいは他の人によって除かれた部分や書き加えられた部分がある。聖書は、過去を大切に記録しようという意図で書かれたというより、むしろ部族ないし集団が他者から身を守り集団を発展させるための武器だったのではないかと著者は言う。新約聖書に関しては、使徒の手紙が先に書かれ、四編の福音書はその後に書かれた。使途の手紙に書かれた使徒たちの考えのもとにキリスト教会が誕生し、そのキリスト教会のもとで、聴き伝えられていたイエスの言行が福音書に書き留められた。
 ギリシャ語の使徒という言葉の意味に従えば、使徒はイエスの教えを受けて、それを伝道するために派遣された人々ということになろう。しかし、実際の使徒は、たんにイエスの教えをきいていただけで、理解していなかった。使徒たちは決して優れた理解力を持った弟子ではなく、凡人であり、ただひたすら「イエスがキリストである」ことばかり伝道したらしい。例えば、シモンもアンデレもイエスの教えを聴いたことで弟子になったのではない。二人は、イエスの語ったことのほとんどを、右から左へ聞き流していた。彼らはイエスが安息日に会堂で教えることで人々から受け取ったお金のおこぼれを与っていただれだった。福音書に記されたイエスの言葉は、イエスが亡くなったあと、うろ覚えにあった数少ない彼らの記憶が書き留められたにすぎない。福音書はむ、その記憶の断片と共に、弟子たちの思いから生まれたいくつかの物語を加えて、伝道が成功した後、文書作成のために必要な財が教会に集まり、文書を作る能力を持つ者の手で、その後に書かれた。
 このことが意味することは、福音書の内容は、イエスの教えそのままではなく、使途の手紙に書かれたキリスト教会が持つに至った思想によって手が加えられ、編集され彩色されている、ということである。
 また、日本人にとって異なる文化のキリスト教という宗教を理解することは、様々な理由で難しい。そもそも宗教は「信ずる思い」という主観を中核としているために客観的な形が見えない。客観的な知識として理解しようとすると、たいへん難しいことになる。例えば、「罪を贖う」という言い方。「贖う」とは何かを買い取ることを意味する。あるいは「罪を償う」という言い方もある。当時の当地の慣習で、牛や羊の肉を祭壇で焼くことで罪を償うことができるとされていた。すなわち、大切な宝である牛や羊を神に捧げることでで、神から自分たちの罪を赦されるということだった。これは、日本の神との関係にある供物とは異なる。供物は神への感謝であるが、キリスト教は人の罪が赦されるという発想なのだ。これは日本人には異質の発想と言える。
 本書は、教会の正統な狭義の説明に納得がどうしてもいかない人たちに向けて、むしろどうしてキリスト教会ではキリストについて現在為されているような説明があるのか、その理由を明らかにするとともに、あわせて人間イエスが本当に教えたと思われるものを、教会の説明とは別に見つけようとしている。したがって日本文化の中で育ち、それを基礎にして考えざるをえない人間が、福音書の記述の考察から見えるものを、あえて提示する。

 

2025年6月13日 (金)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(16)~結論 素材の思想家としてのマルクス

 物象化は人間の認識や意志によって成立するのではない。人間の行為に随伴する一定の様態でのかかわりによって成立する。労働が私的労働として行われるならば、私的生産者は生産物に対してそれに価値を与えるようにして関わり、労働が賃労働として行われるならば、賃労働者は生産手段に対してそれを資本とするようにして関わる。このような諸個人の関わりこそが、価値や資本を生み出し、物象化された生産関係を絶えず再生産しているのである。
 さらにそこから、マルクスの物象化論のひとつの重要な核心は、近代の転倒構造を明らかにすると同時に、その特異性、すなわち、社会的承認関係やそれに基づく人間の素材への関わり方が物象の力に依存した極めて特異な形態で編成されることを明らかにしたことにあった。マルクスは資本主義的生産様式の表層に現われる自由や平等を搾取や支配に対立させたのではない。物象の人格化としての自由や平等こそが、人間の振る舞いを人格的再生産の論理、素材的再生産の論理から乖離させ、様々な軋轢や矛盾を生み出すことを見抜いていた。マルクスは、この素材的再生産の攪乱に変革の根本的根拠を見出していた。だからこそ、物象化による素材的世界の攪乱の具体的様相を捉えるために、物象自身の論理を素材からさしあたり徹底的に分離して解明し、そのうえで物象の論理が素材的世界をいかに変容させていくかを具体的に分析すること、このことも物象化論の重要な核心をなしたのである。つまり、マルクスにとって、形態だけでなく、それによって包摂され、編成される素材も重要な分析対象であった。
 著者は、マルクスは素材の思想家であったという。
 例えば、経済学批判における形態への着目もつねに素材との連関で捉えられなければならない。マルクスは素材的次元での軋轢とその原因を理解するためにこそ、形態の論理を分析した。マルクスが商品章、とりわけ価値形態論において徹底的に意志や欲望の契機を排除して無意識の形態的論理を明らかにした所以である。この無意識の形態的論理は、私的労働にもとづく社会的分業を前提するならば、素材自体の論理とは関わりなく成立するのであり、素材的次元において様々な軋轢や矛盾をもたらさざるをえない。無意識の形態的論理が貫徹する物象化された関係においては、所有のあり方は根本的に変質し、人間の欲望も変容させられ、人格の物象化と物象の人格化の絡み合いの中で、価値の主体化としての資本が素材的世界を編成する決定的な力として現われる。マルクスが素材の思想家であるという意味は、マルクスが素材を理念的に重視したということではない。形態と対立する素材という契機に着目し、素材自身の具体的なあり方に常に注目していたということに他ならない。マルクスが関心を持っていたのは、素材という理念ではなく、その具体的なあり様である。これを把握するためには、形態を素材から分離し形態の論理を掴むことが必要であるが、それだけではなく、素材そのものの論理をその具体的な対象に即して具体的に把握することが必要となる。だから、マルクスは素材的世界における様々な差異に深く分け入り、それぞれの具体的な論理を捉えようとした。

2025年6月12日 (木)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(15)~第7章 価値の主体化としての資本と素材的世界(4)

第4節 小括
 価値の主体化としての資本は生産過程を包摂し、その素材的な次元に大きな影響を及ぼす。資本は、形態的包摂と共に、ただちに大きな軋轢を抱え込むことになる。
 第一に、資本が生産過程を形態的に包摂し、資本関係を成立させるためには、賃労働者が生産手段に対してそれを自らにとって疎遠な価値とするようにして関わり、自らの労働に資本の機能としての労働という形態を与えることが必要となる。それゆえ、この資本関係においては、自己増殖する価値の担い手としての生産手段が主体となり、生産者はむしろ客体となる、という転倒が生じる。賃労働者に対して物象としての生産手段が敵対的なものとしてあらわれ、資本はここに軋轢を抱え込むことになる。この段階での軋轢は、資本が生きた労働という人格によって担われる主体的行為を資本の機能として形態的に包摂することから生じるのであり、それは疎外として現われる。
 第二に、形態的包摂において、価値増殖という一面的な論理に従って絶対的剰余価値生産が行われ、労働の延長が可能な限り追求される。この際限のない延長は、労働者の文化的生活や健康を破壊し、最終的にはその生命すら消尽し尽くすことになる。このことは、長期的には、資本の存立にとってこの素材的条件を破壊することにさえなるか、資本は自らの力によってはこの傾向に歯止めをかけることはできない。
実質的包摂においては、資本はさらに深刻な軋轢に直面する。
 資本は、実質的包摂においてより発達した生産力を実現し、規律化された従属的な賃労働を生み出すことによって、たんに素材を形態に従わせるだけでなく、素材的世界自体を自らに適合させる。生産関係、カテゴリーの特殊な規定性は、特殊的な物質的生産様式の発展と産業的生産諸力の特殊な段階とともにはじめて真実となるのである。このことは、一方では人間たちの素材的世界への抵抗を困難にし、資本により適合的な人格的担い手を形成する。しかも、生産過程だけに限定するのではなく、流通過程、総過程における物象化の重層化、それに伴う物化の進展を考えるならば、形態の論理は素材的世界にいっそう深く侵食していく。しかし、資本は、この傾向に歯止めをかけることはできない。
それゆえ、資本はけっして素材的世界を相対として包摂することはできない。

 

2025年6月11日 (水)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(14)~第7章 価値の主体化としての資本と素材的世界(3)

第3節 資本による素材的世界の編成─直接的生産過程を題材として
 資本主義的生産過程においては、価値は私的労働の媒介として要請されるだけでなく、むしろ家庭の規定目的となり、過程の主体となる。際限のない自己増殖をめざす価値の運動こそが、関係の決定的な動因となり、これが他のあらゆる素材的要素に影響を及ぼしていく。そこで資本の運動には三つの局面がある。第一に、直接的生産過程の局面であり、第二に、流通過程の局面であり、第三に、資本主義的生産過程の局面である。
1.資本のもとへの労働の形態的包摂と素材的編成
 資本主義的生産関係においては、生産過程の主体は資本である。生産過程、したがってまた労働過程は資本そのものの過程として行われる。それゆえ、労働は資本のもとへ包摂され、資本の機能としてなされる。このような資本のもとへの労働の包摂は二つの形態がある。ひとつは資本による労働の形態的包摂である。これは、生産力などの素材的条件と関わりなく、資本にどれだけ生産過程を包摂しているのか、ということに関わる概念である。
 できる限り大きな剰余価値を吸収しようとする衝動は資本主義的生産関係に固有のものである。近代以前の社会であれば、生産物の交換価値ではなく、使用価値が優位を占めいているので、剰余労働は、ある諸要求の範囲によって制限されているので、剰余労働に対する無制限な欲求は生産そのものの性格から発生しない。だが、余剰労働が剰余価値という形態をとる資本主義生産関係では、その欲求は無制限なものとなる。それは、具体的には労働時間の延長である。しかもそれは、素材的契機を含む。それは、賃労働者の再生産のための素材的条件への障害そして破壊である。
2.資本のもとへの労働の実質的包摂と素材的論理の変容
 資本は絶対的剰余価値の生産が限界にぶつかると、相対的剰余価値の生産という形でより多くの剰余価値を獲得しようとする。そして、そのために生産過程の形態的包摂を基礎にして、生産の素材的自要件じたいを変容させ、生産力を向上させようとする。これが資本のもとへの労働の実質的包摂ということだ。これは単に技術的条件を変革し、物理的な生産力を高めるというだけではない。ここでの技術的条件の変革は、生産の局面における人間の素材への実践的態度をも変容させる。それによって、生産様式は素材的次元においてもより資本主義的生産関係に適合的なものに変容させられていくのである。
(1)形態的包摂にともなう変化
 形態的包摂を基礎とした実質的包摂が進展する前に、形態的包摂のみを前提するだけでも。素材的次元の態度は変容している。
それは第一に、資本家は生産過程においては生産手段および労働力を単なる価値増殖のための手段としてしか見なさない。彼にとっての関心は、生産手段の価値を維持しつつ新価値を不可視、価値を増殖させることであり、労働力の人格的担い手じたいの再生産を顧慮することはない。これは前近代にはなかったことである。第二に、労働が賃労働という形態をとることによって、労働者が労働の蔬菜的内容に無関心になるということだ。そして第三に、形態的包摂によって労働の強度が高められる。
(2)素材的次元での従属的態度の形成
 資本は、相対的剰余価値の生産のために、生産力の上昇を目指し、生産過程の素材的条件を変容させル。これは、単なる労働手段の変化として現われるだけではなく、労働様式の変化として、したがって人間の自然に対する実践的態度の変化として現われる。それは、生産力の発展とともに労働者の熟練の解体と資本による生産的知識の独占という結果をもたらす。
(3)社会的労働の資本の生産力としての現象
 以上にみてきた生産力の発展を通じて、社会的労働の生産力が資本の生産力になるという転倒が現実的なものとなる。資本の生産力という転倒の現実的成立は、次の二つの事態を意味する。第一に、資本が生産過程をたんに形態的に無包摂するのではなく、実質的に包摂し、生産の素材的条件自体を資本に適合的なような変容させ、他方、無所有者としての賃労働者は単独では何の生産力も持たない存在に貶められるということである。資本にとって生産の目的は価値増殖でしかなく、その目的のために、より高い生産性を実現できるよう、生産の素材的条件を変革する。
 第二に、資本による素材的条件の変容はもっぱら剰余価値生産の観点にしたがってのみなされるのであり、したがって社会総体としての素材的再生産自体はそこではまったく問題にされないということである。それゆえ、資本の実質的包摂は、形態的包摂と同様に、素材的次元での再生産の攪乱をもたらさずにはいない。

 

2025年6月10日 (火)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(13)~第7章 価値の主体化としての資本と素材的世界(2)

第2節 価値の主体化としての資本
1.価値の自立化の深化
 資本において価値は主体となる。この価値の主体化によって、商品生産関係において示された物象と人格の関係の転回はより強固なものとなり、価値の運動が素材的世界を編成し、変容させていく。
 商品生産関係においては、価値という社会的力を獲得することによって労働生産物の運動が諸人格の行為を制御するようになるとはいえ、価値は依然として私的労働の生産物を社会的に通用させるために要請される形態にすぎなかった。そこでの商品流通においては、生産物交換、すなわち社会的労働からそれでみずからを表わす様々な素材の変換が運動の内容をなしていたからである。それゆえ、労働生産物の価値が貨幣によって表現され、価値が貨幣として自立的な形態を獲得するとしても、商品の価値が単純な流通においてとる自立的形態、貨幣形態は、商品交換を媒介するのみであって、運動の最終の結果において消え失せる。ここでは、価値は過程の進行にとって必要な媒介でしかなく、過程を支配する主体とはなっていない。
 ところが、資本においてはそうではない。価値は過程の主体となる。価値は社会的素材代謝のために要請される労働生産物の社会的属性であるというだけではない。貨幣の量的増大が目的となる流通G-W-G´では、価値こそが過程の主体となる。私的労働にもとづく社会的分業における素材代謝の必要から労働生産物が価値をもたざるをえないというだけでなく、むしろ、その関係を前提にしたうえで、価値自体が過程の支配的主体として、自己増殖する価値としてG-W-G´という流通形態を貫徹する。つまり、価値は貨幣形態あるいは商品形態を取りながら、自己増殖する主体となり、それがG-W-G´を貫く支配的契機となる。ここでは、価値は過程の支配的主体として一つの自立的形態を貨幣という形でもつ。それゆえ、貨幣は過程の出発点および終点となる。それゆえ過程の目的を為す。このような流通形態において、価値は過程の主体となる。こうして価値は資本となる。資本においては、価値は特定の素材に担われることによって意味を持つのではなく、貨幣におけるよりも、さらに高い自立性を獲得する。
 資本においては、価値概念自体は変容していないものの、価値の自立化ははるかに高い力能をもって出現する。商品生産関係だけを考察するなら、価値は私的労働の媒介として要請され、貨幣によって表現されることで自立的形態を獲得するにすぎず、この関係を規制する極めて重要な契機をなすにしても、流通過程そのものを直接的に規定する支配的契機にはなっていない。また、生産過程においても、物象の人格化においてみたように、生産が徐々に価値形成という性格を帯び、はじめから商品生産として遂行されるようになっていくにしても、価値の運動が生産過程を包摂し、その運動の一部として生産が行われるのではない。商品生産はいまだ私的生産者が社会的分業において素材的欲求を満たす手段として行われているのであり、そこでの価値形成じたいが目的となっているのではない。ところが、価値増殖が追求される資本主義的生産様式においては、価値こそが過程の動因をなすのであり、過程全体の一支配者であり、規定者なのである。それゆえ、価値は流通過程だけではなく、生産過程をも貫く、むしろ、労働力商品の消費過程である生産過程こそが価値増殖の秘密であり、資本にとって決定的な重要性をもっていると言えるだろう。ここでは、生産はもっぱら価値増殖のためになされるのである。したがって、価値という概念の独自の重要性は、資本においてより明確に理解することができる。そこではじめて価値それ自体がはるかに高い力能において出現するからである。
2.資本の存立と物象の人格化および人格の物象化
 資本の成立を考えるうえで重要なポイントは次の二点である。第一に、資本主義的生産関係は商品を論理的に前提する、ということである。資本主義的生産関係においては、諸個人ははじめから物象の人格的担い手として登場し、人格の物象化と物象の人格化の絡み合いのなかで資本というより高次な物象的関係が成立する。しかしながら、資本は商品生産関係を前提するとはいえ、この前提からだけでは資本の存立を説明しきれない。資本関係が成立するためには、商品生産関係においては想定することのできない資本の人格的な担い手、及び労働力商品の人格的な担い手が存在しなければならないからだ。これが第二の点だ。
 以下では、資本主義的生産関係においてはじめて現われるについて見ていく。
(1)資本家
 資本主義的生産関係の成立を前提するなら、資本家が資本家たろうとすれば、この社会的機構の圧力によってたえず、資本の人格的担い手として振る舞うことが要求される。資本家は剰余価値を自己消費することもできるが、そのようなことをすれば彼は資本家としての自己の存在を維持できなくなってしまう。それゆえ、彼は貨幣を流通に投下するだけでなく、それをより大きな規模で投下し、競争に打ち勝たなければならない。このような外的強制のもとでの資本家の意志行為の媒介によって、価値増殖の論理が貫かれる。
(2)賃労働者
 労働力商品を市場において見いだすための本質的条件は二つある。第一に商品としての労働力は、ただ労働力がそれ自身の所持者によって、すなわちそれが自身の労働力である人格によって商品として売りに出されるかまたは売られる限りにおいてのみ、そのゆえにのみ市場に現われるのであり、自分の労働能力、自分の人格の自由な所有者が存在しなければならない。第二に、労働力の所持者が、自分の労働の対象化された商品を売ることができないので、自分の生きた肉体のうちにのみ現存する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならない、ということである。
 商品生産関係においては生産手段の問題が捨象されており、それに伴い、生産及び生産者の性格についても生産者が詩的営みとして生産するという規定与えられていたにすぎなかった。しかし、全面的な商品生産関係自体、現実には、無所有の賃労働者の存在なしには成り立ちえないものであった。商品であるということが、資本主義的生産物の支配的で規定的な性格であるということこそ、この生産様式を他の生産様式から区別する。このことは、労働者自身がただ商品の売り手としてのみ、それゆえ自由な賃労働者として現われ、したがって労働は一般に賃労働として現われてくることを含む。それゆえ、商品生産関係では、生産手段の問題を考えはじめると、生産者が生産手段の所有者であるかぎり、商品生産関係の全面化はありえない商品生産関係の根底にある私的労働は、生産手段を排他的に所有する資本家が賃労働者から労働力商品を購買し、生産過程において労働力商品を消費することによって、賃労働の形態においてなされなければならない。直接の生産者は、労働力商品を売り、賃労働を遂行する賃労働者である。他方で、労働力商品の人格的担い手としての賃労働者は、商品生産関係を前提としなければその存在を考えることはできない。無所有者が労働能力を物象として販売するためには商品生産関係という基礎が必要であり、しかも賃金によって生活するためには基本的な生活手段が商品化されていなければならないからである。しかしながら、賃労働者は、資本家にようには商品生産関係における人格との論理的な連続性を持たない。賃労働者は自らの労働能力を労働力商品として販売し、賃金で生活していくために商品生産関係を必要とするが、賃労働者に固有の人格的性格はこの商品生産関係における物象の人格化からは論理的に生成しない。生産手段及び具体的な生産過程を捨象していた商品生産関係においては、資本主義的生産過程において実際に生産を担う賃労働者の人格は捨象されていた。労働能力商品が人格的担い手となるためには、無所有であり、自らの労働能力以外は商品として販売するものがない、という外的条件だけでは十分ではない・無所有者が資本の要求を受け入れ。資本家に自発的に従属して労働することが必要となる。このような従属的関係は、論理的に考察しても、たんに物象の人格的担い手であることからは生まれてこない。そのような従属的態度の形成は、歴史的に、暴力にもとづく規律訓練によってなされるほかはない。
(3)生産過程における資本家と賃労働者
 労働力商品の消費過程は資本による直接的生産過程だ。資本家によって駆動させられる資本の規定的目的は、価値増殖であり、剰余価値の獲得である。それゆえ、資本による直接的生産過程は本質的には価値増殖過程に他ならない。他方で、労働力の消費過程が価値増殖過程であるためには、その過程で社会的使用価値を生産しなければならない。社会的使用価値だけが価値の担い手となりうるのであって、資本家はこれを販売することによって生産過程において増殖させた価値を実現し、資本の運動を成立させることができる。したがって、価値増殖のためには、労働力商品だけでなく、それによって使用価値を産出するための素材的要素、すなわち労働対象および労働手段からなる生産手段が必要である。資本主義的生産関係では生産手段は基本的に所依品化されているので、資本家はこれを市場で購買し、入手する。価値増殖過程では、生産手段は積極的な役割を果たさず、生産過程で消費された分の価値が生産物に移転されるだけである。だが、労働過程においては、生産手段は素材的に重要な役割を果たすのであり、それなしには価値の担い手たる使用価値を生産できず、したがって剰余価値を生産することができない。資本にとって。生産手段は生きた労働によって対象化される抽象的人間労働の吸収者としての意義を持つものであり、そのかぎりでのみ意義を持つ。
 生産過程においては資本家の役割は後退するが過程の監督者、指揮者として機能する。これに対して賃労働者は一定時間における労働力の使用権を資本家に販売したのであり、賭けの労働力は生産過程においては資本家のものであり、資本家によって消費される使用価値となる。生産過程において賃労働者は、形態的には資本に合体され、自分種瀬氏に属するものであることを止めているのであり、生産手段と同様に資本家のものでしかない。他方、素材的には人格的機能としての労働を自分の意志で遂行しなければならない。つまり、賃労働者は生成過程における価値増殖という資本の機能を、彼の人格の機能として果たさなければならない。賭けは自身の自由な意志にもとづいて資本家の意志に従属する。このような関係が物象の人格化であるとともに人格の物象化である。
 生産過程の中では、彼らはこの過程の諸要因の人格化された機能者として、資本家は資本として、直接的生産者は労働として相対するのであって、彼らの関係は自分自身を価値増殖する資本の単なる要因としての労働によって規定されている。このような資本家と労働者の物象に対する関わりによって、高次の物象的関係である資本主義的生産関係が成立する。そしい、この関係がいったん成立すると、この関係自体が資本主義的生産関係を、したがってまた資本家と賃労働者という人格的担い手を再生産する。

 

2025年6月 9日 (月)

佐々木隆治「マルクスの物象化論─資本主義批判としての素材の思想」(12)~第7章 価値の主体化としての資本と素材的世界(1)

第1節 価値概念と素材的次元
1.叙述の方法と論理的転回の意義
2.価値の発生と歴史的次元
 商品生産関係においては、諸個人は一方で欲望が社会的に発展しており、他者の労働に依存しているが、他方で私的諸個人として分裂している。それゆえ、諸個人の私的労働は直接には社会的性格を持たず、生産物と生産物の関係をつうじてはじめて社会的性格を獲得するほかない。だから、生産物という物が物象として社会的力を獲得するのである。言い換えれば、人間たちは私的個人へし分裂しているために、自らの生産物に純粋に社会的な力を与えることによって社会的な関係に入るほかない。このとき生産物に与えられる社会的属性のことを価値と呼び、価値という属性を持つに至った物を商品と呼ぶ。諸個人はこの過程を自覚的に行っているわけではない。私的諸個人への分裂ゆえに、無意識のうちに維持用のようなこの過程を形成することを強いられているのである。すなわち、価値とは、分裂した私的諸個人が物に社会的な力を与えないでは、相互に関連し合うことができないという、商品生産関係において人間の意志や欲望と関わりなく必然的に成立せざるをえない自決戦的関係を示すために要請された概念である。諸個人の労働が私的労働になっているために物に価値を与えることを余儀なくされ、また、物に社会的力の表現を与えるために価値表現関係に入らざるをえず、商品語と表現される形態と実体の必然的連関が形成される。このようなことから、物象化は物の価値化と言うことができる。
3.価値と価値実体
 物象化を前提すれば、価値実体が労働であることは当然のことである。というのは、私的個人へと分裂しているがゆえに、諸個人は労働を直接に社会的に通用させるかわりに、労働生産物に価値という社会的力を与えざるをえないからである。つまり、労働が社会的総労働の一環であることを直接に確証するのではなく、物象的連関を媒介して確証しているにすぎないのだから、価値は労働の社会的性格の一定の反映であるほかない。だが、それはあくまでも一定の反映でしかない。というのも、価値として対象化されるのは労働の現物形態からその有用的性格を捨象した抽象的人間的労働だからである。他人の欲求を満たすという有用労働としての社会的性格は、商品の使用価値において間接的、事後的に確証される。だが、社会的総労働の一部分を支出したという意味での抽象的人間的労働としての社会的性格は、商品の現物形態、あるいはその使用価値においては示されない。それは、私的生産者たちの関わりによってのみ発生する純粋に社会的なもの、すなわち価値という純粋に社会的な力において示され、間接的、事後的に確証される。それゆえ、価値は、使用価値のような物的対象性をもたず、まぼろしのような対象性、抽象的な対象性となるほかない。このように、抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物の純粋に社会的な属性として対象化されたものこそが価値である。
 商品生産関係においては、私的労働は自らの社会的性格を商品において表現しなければならないが、その際、労働の一契機である抽象的人間的労働だけが生産物が持つ純粋に社会的な力、すなわち価値として対象化される。ここでは、私的労働は抽象的人間的労働としてのみ互いに関連し合うことができる。これに対して、人格的結合にもとづく近代以前の社会においては、具体的労働が直接に社会的意味をもつものとして通用し、関連し合うことができた。それゆえ、抽象的人間的労働という労働の一契機が、労働が社会的に通用する形態として独自の社会的意義を獲得するのは、物象化された社会においてのみである。しかしながら、抽象的人間的労働は私的労働の社会的形態をなすというだけではない。抽象的人間的労働は労働の現物形態から特殊な有用労働としての側面を捨象したものであり、いかに一契機でしかないとはいえ、依然としてそこには素材的契機が含まれている。その限りでは、抽象的人間的労働はいかなる特殊歴史的な社会的形態の労働にも含まれる素材的契機である。これは個々の労働者の素材的な人間労働力の支出が直接にその労働生産物の価値量を決定するなどということを意味するのではない。物象化された関係に特有の社会的媒介、すなわち無意識のうちに諸行為をつうじて一定の社会的関係が必然的に存立するという媒介を通じて、形態と素材とのあいだにある一定の関係が成立するということを意味している。
4.価値量について
 商品生産関係においては諸個人の私的労働は直接に社会的性格を持たず、その社会的性格は物象の社会的力、すなわち価値として表わさなければならない。この価値に反映されるのは抽象的人間的労働の社会的性格であり、一面的であるとはいえ価値には現実の労働実践が反映される。つまり、商品生産関係が再生産され維持される限りでは、その商品の生産に社会的に必要とされる人間労働の量を価値として表現せざるをえない。そうでなければ、社会的総労働の配分が成立せず、この関係の再生産が成り立たなくなるからだ。
 このことは、商品生産関係を共同体的社会的分業の物象的依存関係による置き換えとして捉えると、明らかである。一定の多様な社会的欲望が存在し、それを社会的分業において充足する。自由な諸個人からなる共同社会が存在すると仮定するなら、その社会においても社会的総労働を人間労働一般の支出という観点から社会的に配分していることは明らかである。つまり、欲望を社会的に充足するのに必要なだけの人間労働をそれぞれの部門に配置して、総体として社会の再生産を成り立たせようとする。この社会を素材的欲望と社会的分業のあり方はそのままに私的諸個人の全面的物象的依存関係に置き換えるならば、ある商品の価値量がその商品に社会的に必要とされる労働時間によって規定されることは明らかである。というのも、そうでなければ以前の社会と同じように適切に労働を配分し、素材的欲望を充足させ、社会を再生産していくことができないからである。
5.価値概念の「実践的・批判的」意義

 

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