八木雄二「福音書を哲学する─キリスト教会の誕生とイエスの教え」(5)~Ⅳ.イエスの教えの探究
前章までのことを土台として、福音書に伝えられているイエスのことばを吟味していく。
イエスが行った山上の垂訓は、マタイによる福音書では八カ条で掲載されている。その最初の一句が、「心の貧しいものは幸いである」であり、そして「天の国はその人のものだから」と続いている。「天の国はその人のものだから」は「心の貧しいものは幸いである」ことの理由だ。「心の貧しいものは幸いである」の意味は、貧しい者は、その心が幸福である、と理解すればいい。この「貧しい者」がどんな人を指しているのかが問題となる。ふつうは、貧しい人は金銭に余裕のない人を指す。しかし、イエスは金銭に関して、「皇帝のものは皇帝に返せ」と教えていた。それらのことから、どうやら「皇帝のもの」の体制から離れた場所は、金銭は流れていないので、そこにいる人間は金銭を持たない。それを金銭の流れている社会から見れば、貧しい状態である。金銭が存在しないところは、貧しい人しかいない。一方「幸い」すなわち、こころが幸福な状態にあるというのは、イエスの言い方なら、神のものである自分の生死を、自分の意のままにしようとする状態をやめて、それを神に任せている心の状態である、と言える。ということは、すべてを神に委ねて、自分では何も考えず、何もしないでいることが幸福なことなのだろうか。イエスによれば、そうではなく、天の国に生きることは、正しく生きることで、正しいことをすることを考え、実行する生活が、心が幸福な状態であるという。イエスは、ただひたすら正しいことを実行する生活をしなさいと言っているだけ。我々が生きるのは、神から貸し与えられた「いのち」を分け持っているからであり、その「いのち」は神のものである。それゆえ、「いのち」を不正に利用すれば、不正利用という罪になる。
この「いのち」が自分のところらあるから自分は現に生きている、だからそれは自分のものだと、疑問なしに生きている。感謝なしに生きている。このような人は、天の国を知らない。幸せに生きることを知らない。天の国とは異なる国に生きている人だと、イエスは言う。そういう人も、神から「いのち」を受け取っているのだから、生きてはいる。ただ幸福な状態で生きているとは言えない。生きているとは、「いのち」を受け取っていることであると認識し、そのことに感謝して、現に自分が生きていることだけで、その恩返しを考えなければならないと思って、生きることが幸福に生きることである。
我々の人生が充実するためには、心の充実が不可欠である。むしろ身体的欲求よりも、心の必要を満たすことの方が、人生の充実のためには優先度が高い。なぜなら、人生の充実度受け取るのは身体ではなく、心だからである。心が働いて、はじめて心が、自分が生きていると実感する。心の満足度抜きには心の人生は充実しない。
これまでの説明がよく分からないのは、これが分かるためには、ヨハネやイエスによれば、悔い改めが必要だからである。悔い改めがない人、不足している人は、神が与えた正しい生き方を捨てたことが原因で繰り返している自分の罪に気付くことができない。その気付きが不足している。イエスの言うことが分からないのは、自分の心の罪に気付くことのできる能力を、心が失っているからである。そのため、本人が気づかぬうちに罪を重ねている。そういう人は、神のいる天の国にいる人ではない。だから、本書は、何かのきっかけで奇跡がおきて、読者に悔い改めが分かることが起きたときにために、説明をしている。
山上の垂訓については最初の一句について、これで説明した。後の七句は素通りしていい。山上の垂訓は最初の一句だけを大切に説明すれば、それで十分だという。
次に、マタイによる福音書に次の一節がある。
“あなたがたは、わたしが律法や預言者の教えを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのである。”
この律法の基本はモーゼの十戒である。十戒はイスラエルの神との契約の中で信者側が守らなければならない条件として提示されたもので、信者がこの条件を守れば、神は信者に永く恵をもたらすという契約である。戒自体には刑罰はない。しかし、イスラエルは、その戒を実際生活でできる限り守ることができるように、律を定めた。しかし、ユダヤ人の国家は存続できなかった。そこで、祭司たちは宗教によって民族の維持を試みた。そのため、近代の国家なら国家が定める規律が別建てになるが、ユダヤ教では古代の国家において一般的であるように、律法ないし戒律の名で戒と律が一つに結びついた。したがって、イエスの教えは、現代では罰則をもつ国家の法律規定と見られがちな戒を、あくまでも純粋な宗教規律として受け取るように求められている。十戒は、本来神との契約であり、信仰に属する事項である。したがって、本来は神を信じる心の諸規律である。イエスは、その目的を信仰が本物であるか試す尺度であると考えた。要するに、戒が顕わそうとしているのは、じつは、戒を完全に守る正しい信仰があれば、それだけで実現する心の姿である。言い換えれば、どの戒が述べていることも、それが自然に守られている心の状態であるとき、その時だけ、その人は神に認められ、神に見守られた生き方をしている、ということである。信仰は心の世界にある。その内容を理解するためには、心の内で自分が神を前にしているところ、神を前にして一対一で神に約束する場面を想像してみるといい。すなわち、天国にいて神に会っている。天国にいつづけるために、神からは十の戒を求められる。この求めに応じることは、人間なら誰でもできると、神は考えている。だから、それをある人ができないとき、つまり十戒を守れないとあれば、その人は神が作った本当の人間でないとされ、天国を追放される。十戒がこのようなものだとすると、神は、あくまでも一人一人の個人を相手に、十戒を示している。十戒の契約は、民族に対するものではなく、個人が神と一対一でする契約である。そして契約を守っている間だけ、その信仰は神に認められている。そこで、守るか守らない課は、個人にまかされている。信仰を持つとは、他者とは無関係に、個人が自由に決められる選択である。実際神を信じるかどうかは、あくまでも自分の「いのち」をどのように自覚するかという自分個人の問題である。すなわち、「いのち」は、神が与えたもので神が主であると考えるか、「いのち」は自分が所有すると考えるかである。
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