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書籍・雑誌

2025年9月11日 (木)

辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(5)~第5章 あの戦争はいつ「終わる」のか─小さく否定し大きく肯定する

 第1章が「あの戦争」はいつ始まった だったが、最後の第5章は終わりを考える。一般的な終戦の日である8月15日は天皇の玉音放送の日で、ポツダム宣言受諾は前日の14日であるし、正式な降伏文書への調印は9月2日。国際的には、調印の9月2日をもって戦争終結とみなすのが一般的である。しかし、ここで問いたいのは、「あの戦争」を特別なものとしてでなく、歴史上の存在として捉えるようになるのはいつか、端的に言えば、戦後が終わるのはいつかという問い。
 日本において、「あの戦争」が特別な位置を占めているのは、国立の近現代史博物館が存在しないという形で象徴的に現われている。その背景には、「あの戦争」をいかに描くべきかについて、いまだ社会的合意が成立しておらず、展示を試みればすぐに加害と被害のバランスをめぐって政治的な論争に発展するという特有の事情がある。
 この左右に分裂した国民の物語が樹立・統合されるかたちで「あの戦争」がおわることを望むが、実際にはどうなのか。
いま、実際に進行しているのは、戦争記憶の風化である。かつて国家の命運を左右する一大事として語られ、多くの人々にとって人生と切り離せない問題だった戦争が、いまや切実な関心の対象ではなくなりつつある。こうした状況を踏まえれば、「あの戦争」が事実上終わるというのが、最も現実的なかたちとしてありうる。もうひとつ考えられるのは上書きというかたちだ。より大きな戦争、あるいはそれ以上に深刻な歴史的体験が到来すれば、「あの戦争」は特権的な位置を失い、新たな物語によって置き換えられる。
 しかし、著者が理想としてこだわるのは、「あの戦争」が然るべきところに落ち着くという可能性である。そのためには、われわれが日本の歴史を語る際に、100点かゼロ点かといった極端な発想にとらわれる必要はない、という視点をすすめる。日本では右派と左派がしばしばそうした二項対立に陥ることで、歴史論争が硬直し、建設的な対話が困難になってきた。しかし、近代日本の歩みを、欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない。とくに歴史博物館のような公的な機関の歴史展示は、基本的には自国の歩みを肯定しつつも、過ちや課題についても正直に記す姿勢が望ましい。その意味で、満点を目指すよりも、あえて65点くらいを目標とするほうが現実的で、かえって誠実な立ち位置になりうるのではないか。具体的には、戦中日本の行動を小さく否定することで、日本という国自体を大きく肯定する。
 最後に結論として、「あの戦争」を語る際に、「あの戦争」だけに焦点を当てるべきではないということだ。真珠湾攻撃や特攻隊といった個々の現象について理解を深めることも重要だが、なによりも大切なのは、それらにいたるまでの歴史の過程や構造を見つめることだ。「あの戦争」は、日本の近現代史という長い時間の流れのなかに位置づけて、はじめてその全体像が立ち上がってくる。そうした視点に立つことで、ようやくあの戦争は、過剰な肯定にも否定にもならず、落ち着くべきところに落ち着くのではないか。そしてそれが可能なのは、戦後80年という時間を経たいましかない。
 「あの戦争」は、日本という国が近代の激流の中で何を選び、何を失い、何を残したのかを象徴的に映し出す、特別な鍵である。そこには、われわれが歴史を通じて見つめるべき現在もまた映り込んでいる。だからこそ、われわれはこれからも、現在とのつながりを意識しつつ、より妥当な落としどころを模索しながら、その意味や位置づけを解釈し続けなければならない。

2025年9月10日 (水)

辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(4)~第3章 日本に正義はなかったのか─八紘一宇を読み替える

 「あの戦争」で日本が掲げた理想は、これまでプロパガンダと否定されることが多かった。他方で、それへの反動から過剰に称賛する動きもある。これらについては、単純に白か黒かで割り切れるものではなく、その中間に見落とされた答えが見つかるのではないかという。そこで、その掲げられた理想の意味を問い直そうと試みる。
 日米の開戦に際して、当時のインテリが解放感や爽快感を表明したという記録は少なくない。日中戦争はいかに美辞麗句を並べたとしても、同じアジアのなかで強国日本が弱い中国に攻め入っているという側面が否定しきれなかった。中国のナショナリズムに対抗するかたちで日本の特殊権益を守ろうという主張には、ある種のやましさを感じざるを得なかった。しかし、相手が米英とかとなった途端、状況は一変した。両国は超大国であり、広大な植民地を支配している。日本は、その、その支配構造に正面から挑む立場になった。「アジアの解放」という戦争目的にぴったりと当てはまる。これでようやく戦争の意義が明瞭になったと受け止めたのである。
 このような知識人の高揚には背景がある。それは近代日本が置かれていた中間的な立場である。すなわち、脱亜入欧とアジア主義というという、相反する価値観の間で揺れ動いていたのである。日本はアジア諸国に先んじて近代化を達成し、列強の一画に加わっていたという自負を持っていた。しかし他方で、かつて欧米列強により圧力にさらされ、それをはねのけて独立を保ったという被害者としての記憶も抱えていた。そのため、日本は欧米に対等な扱いを求めながらも、現実には人種的・文化的な差別や偏見に直面し、屈辱や疎外感を拭いきれなかった。しかしだからといって、アジアに対して同胞として接しようとしても、今度は朝鮮や台湾を植民地支配している事実が障壁となり、欧米と何が違うのかという厳しい視線を向けられることになった。こうした分裂した自己認識は、近代日本のアイデンティティの中核をなしていた。そして、そのねじれを一挙に解決したのが日米開戦だったのである。
 プロパガンダはそれを増幅させたものにすぎない。
 日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議で、国際連盟の規約に人種差別撤廃の内容を付け加えるように提案した。この提案は米英などの反対により退けられた。しかし、日本の行動は、国際社会に強い印象を残し、一定の同情と共感を呼ぶ結果となった。実際に米国のアフリカ系住民のあいだで、日本は人種平等の理念を体現しようとする国として称賛の対象となっていたとされる。もちろん、これには裏面がある。この提案の背後には、米国などにおける日本移民排斥問題があり、それを是正しようという国益上の動機があった。これを全面的に讃美するのはやりすぎだが、だからといって単なる国益のただの方便にすぎないと切り捨てるべきでもない。評価は、その両端のあいだに見出されるべきなのである。
 明治・大正期のアジア主義は民間の思想家や活動家によって唱えられていた周縁的な位置にあった。1930年代に日本が大陸への進出を進める中で、国家もアジア主義のスローガンを掲げるようになっていく。日中戦争がはじまると1938年、近衛首相によって東亜新秩序が戦争目的として宣言される。いわば、付け焼刃的にアジア主義が台頭したのである。この流れの中で登場したのが「八紘一宇」というスローガンである。これは「日本書紀」に記された神武天皇のことばに由来する。国をひとつの家のように統一しようという意味だといえる。これを大正時代の田中智学という日蓮主義者が「八紘一宇」という言葉を造語し、日本はこの精神に基づいて道義的に世界を統一すべきという主張を展開した。
 しかし、そもそも日本が日米に宣戦布告したとき、宣戦の詔書に記された戦争目的は自存自衛だった。東亜新秩序という目的はあとづけで付け加えられたものだった。それゆえ、具体的な内容は曖昧ものとしたものだ。実態は、日本が中心となり、他国・他民族はそれに従うという構想だった。それゆえ、大東亜共栄圏の具体像が対外的に語られることはなかったし、各地の独立を推進するような措置が積極的に講じられることもなかった。
 では、日本の理想は現在に普遍的な意味を全く持たないとはいいきれなと著者はいう。例えば、1943年の大東亜会議に出席したフィリピン代表ラウレルの批判をとめることができなかった。彼の主張が大東亜共同宣言の理念に基づいていたからだ。大東亜共栄圏は、アジア全体の共存共栄を目指すもので、日本だけが栄えても意味がない。ラウレルは大東亜共同宣言を文字通り受け取ることで、にほんか、日本が欧米列強に取って代わりアジアを搾取することがないように釘を刺したのである。これが批判として成立したのは、大東亜共同宣言に日本の思惑を超える、一定の普遍性が備わっていたからに他ならない。また、三笠宮は「支那事変に対する日本人としての内省」において、国家理念として掲げるべきはまず道義の実践であり、それを果たしたさきにこそ「八紘一宇」がおのずから達成されるという構図となっている。逆に、理念として八紘一宇を掲げるだけで道義が欠けば、それはたんなる物理的・軍事的な支配の正当化にすり替わってしまう。三笠宮は、その順序の誤りを厳しく指弾している。
 近代日本は、脱亜入欧とアジア主義のあいだで彷徨した国だった。いま取り上げるべきは、そのアジア主義の側面に他ならなかった。そのためには、まず近代日本がとった誤った行動をきちんと否定しながらも、日本の理念が内包していた八紘一宇は普遍的な用語として再解釈され、「大東亜共同宣言」も部分的に普遍性を含んだテキストとして読み直されうる。そこでは、過去をただ否定するのではなく、批判的に見つめながら、そこにあった別の可能性を救い出して見ることはできる。
 ヨーロッパや米国の人権宣言や独立宣言も、当時は白人男性を中心としたものだった。しかし、その人種差別的・女性差別的な歴史を批判的に検証しつつ、同時にその内部にあった普遍的な価値を掘り起こすことで、今日でもなお人類共通の知的財産として評価されている。これに限らず、歴史の読み直しは、人類が有史このかた繰り返し行ってきた知的営為であり、けっして珍奇なことではない。同じように、日本もまた、自らが掲げた理想と、その裏にあった現実とを直視しなければならない。過酷な植民地支配や占領統治の事実を覆い隠すのではなく、それを率直に認めたうえで、アジア主義という理念に込められていた潜在的な力を見出し、それを現在と未来につなぐことが重要である。例えば、世界に先駆けて人種差別撤廃の提案をした日本だからこそ、外国人・他民族にたいする差別には断固として反対するというように。

2025年9月 9日 (火)

辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(3)~第2章 日本はどこで間違ったのか─原因は「米英」か「護憲」か

 戦前の日本に対する一般的な負のイメージは狂信的な精神主義に支配され、合理的な判断ができないまま、圧倒的な国力差のある米国に無謀な戦争を仕掛けたというものだろう。それは否定できないが、そんな単純なものではない。そのとき大切なのは、過去の人々がどのような状況におかれ、いかなる選択肢の中で生きていたのかを、自己の問題として想像し、理解しようとすることだ。ということは、「あの戦争」の結末を他者の失敗として距離を置いて眺めるのではなく、過去のわれわれが経験したものとして引き寄せて考えるということだ。それが、現在のわれわれが歴史を学ぶ時に必要なことだという。
 当時の日米の国力差は機密事項であったわけでもなく、日本の指導層は長期戦になれば勝ち目がないことを十分に理解していた。にもかかわらず、開戦に踏み切った理由は、当時の日本の置かれた状況から考える。1941年、米国は日本への石油禁輸に踏み切った。石油供給の大半を米国に依存していた日本は、兵器のほとんどが稼働不能となる。そこで、これまで以上に米国との外交交渉に臨んだ。その一方で、交渉決裂を想定した場合には戦争によって資源を確保する選択肢を真剣に検討した。この二つの選択肢が時限式だった。つまり、時間が経てばたつほど、石油の備蓄が減る。石油がなくなる前に戦って活路を見いだすしかないという強硬論を抑えられなくなる。そこにハル・ノートの提示があった。それが日米開戦の決定打になった。現代のわれわれは敗戦という結果を知っているから、このときハル・ノートを受けいればよかったと無責任に言うことができる。しかし、当時の、将来の見通しが立たないなか、限られた時間と情報のもとで、撤退という選択肢に関係各所の同意を取り付けるのは不可能に近かった。そこで採られたのは、座して死をまつよりは死中に活を求めるというイチかバチかの選択肢だった。困難と知りながら、他に現実的な選択肢を見出せなかったのだ。
 では、歴史を遡って米国の石油禁輸の原因となった、日本軍の仏印進駐をしなければよかったのか。この背景には、第一次世界大戦以来の資源確保への強迫観念があった。総力戦の次第には石油などの物資の安定的な確保が必須だったが、当時の日本には資源の自給ができていなかった。そのために、東南アジアという資源地帯への進出の機会を永らくうかがっていたのだった。かりに、このときに仏印進駐を思いとどまっていたとしても、別の機会に南方に進出していただろうし、結果的に米国と衝突していた可能性は高い。これは、日本の構造的な脆弱さに起因するものだから、日本そのものが大きく変わらなければ、似たような結果に至ってしまう。
 このような米英との協調というような、歴史のイフを考えるのは、現在の視点、敗戦と戦後の日米関係を前提に、遡及的に考えた後付けの理屈にすぎない。そもそも日本は、第一次世界大戦の戦勝国で、五大国の一画を占める勝ち組だった。それにもかかわらず、そこから離脱を余儀なくされる事情があったことを見逃してはならない。その背景として、米英に対する根深い不信感と、日本の人種的な孤立感は無視できない。その象徴的な例として、著者は近衛文麿を取り上げている。米英との協調は容易ではなかったのである。
 かりに、米英と強調できて第二次世界大戦で連合国に与することができたとして、それで日本は、今日のような繁栄と安定を享受できるだろうか。別のかたちで深刻な困難をまねいていた可能性がある。歴史とはつねに現在からの解釈であり、現代の価値観が揺らげば、その評価もまた変わりうるということである。したがって、単純に「ああすればよかった」と過去を裁くことは危うい。時代が変われば、かつての最善策が逆に悪手とされることもあるからだ。それゆえ、当時の人々を愚かだと断じることは慎まなければならない。
 これまで、対外関係の面から見てきたが、目を転じて日本の内部事情を見ていく。当時の日本の統治システムの特徴を著者は「司令塔の不在」と指摘する。大日本帝国憲法は分権的であり、首相の権限は弱く、国論を一本化するのは困難だった。また、各所、例えば陸海軍も一枚岩ではなく、両者の間に利害対立があり、それぞれの内部に軍政と軍令という二重構造が存在していた。この憲法を主導した明治元勲たちが健在だったころは、彼らの人的ネットワークがうまく補完していた。しかし、世代交代が進むと、秀才型の分権的な枠内での思考、行動に秀でた者たちに占められるようになっていく。そこで統合的な意思決定は不可能になっていく。こうして、司令塔が不在で、各所の調性と妥協のなかで動いていくようになった。
 国運を賭けた対米戦争という例外的な非常事態において、明治元勲のように当時の幕府体制や身分といった制度の枠を超えて考え行動したような人物はリーダーたちの中にはいなかった。危機的な状況のときにリーダーたちがうまく国の舵取りができなかったひとつが大日本帝国憲法の仕組みにあったが、誰もが、その枠組みの中で行動したがゆえに、戦争への道を回避できなかった。いいかえれば、「護憲」が国を滅ぼしたとも言える。
 歴史とは、無数の要因が絡み合って展開するものであり、ここを変えれば、ああはならなかったと簡単に語れるほど単純ではない。

2025年9月 8日 (月)

辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(2)~第1章 あの戦争はいつはじまったのか─幕末までさかのぼるべき?

 あの戦争は、一般的には1941年12月8日の真珠湾攻撃を始点とする見方が広がっている。太平洋戦争という呼ばれ方は、この見方と重なる。しかし、これでは中国との戦争が抜け落ちてしまう。当時の日本では大東亜戦争と呼んでいた。日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件を機に始まったとされている。実際、真珠湾攻撃の前から日本は中国で戦争を続けていた。あるいは、1931年9月18日の柳条湖事件を契機とする満州事変を始点とする、いわゆる15年戦争という見方もある。この見方の背景には、日本画大陸侵略を一貫して計画的に進めてきたという見立てがある。これに対しては、残された資料による実証主義的な立場から、停戦協定が結ばれ、満州事変の戦闘は一応終わり、その後、日中間で外交交渉による軍事衝突回避の可能性が模索されていた。それゆえ、満州事変から日中戦争へ一直線につながるのではない、という批判がある。この背景には、日本の大陸政策は必ずしも計画的で一貫したものではなく、場当たり的な選択を積み重ねたものだったという見立てがある。あるいは、15年という期間を限定したことで、それ以前の日本の対立進出を視野から外してしまう視野限定のおそれもあり、著者はこれを採らない。それに代わって、アジア太平洋戦争という呼称が、近年使われる。あるいは、研究者の間で、もはやイコール右翼とは言い切れない大東亜戦争という呼称を敢えて使用する動きもある。
 近年の歴史研究は、左右のイデオロギーを批判し、従来の大きな見取り図を解体し、事態を細分化していく傾向にある。しかし、その結果、専門外の人間にとっては、何が重要なのか、どの説が正しいのか、全体像が見えにくくなっている。そこで、大きな見取り図を再構築すべきという批判的な意見もある。その一つの試みが、第一次世界大戦から、「あの戦争」の起点を見直そうとする動きである。この見方は、日本がなぜあのような行動をとったのか、その背景にある内在的な論理を理解するためには有効な見方と言える。第一次世界大戦は総力戦の時代の始まりとなった。日本は、その実態を把握するため若手の軍事エリートをヨーロッパに派遣した。彼らは総力戦の本質を見抜いたが、同時に、日本は国力や資源を決定的に欠き、総力戦には耐えられないという厳しい現実に気がついた。とくに陸軍の中堅幕僚たちは、いまだ長州閥が権力を握る旧態依然とした陸軍を改革し、日本を総力戦に耐えうる高度国防国家へと転換することを目指した。さらに、その先に見据えたのは、日本が単独で総力戦総力戦を戦い抜くための資源確保という課題だった。彼らは、大東亜戦争の頃に陸軍の要職を占めた軍人たちだった。しかし、彼らは一枚岩だったわけではなく、その後、分裂して烈しく対立する。陸軍だけでなく、海軍、官界、政界でも勢力が分立し、派閥対立や政治的駆け引きが、政治を動かしていた、日本が一貫して侵略を計画していた、などは実態とはかけ離れていた。ただそれでも、陸軍が台風の目であり、その中でも彼らエリート軍人たちの間で、第一次世界大戦後の日本をどうすべきかという問題意識が共有され、総力戦への対応を進めていったことも否定できない。それは上意下達の軍隊において彼らを下剋上に走らせるほどの危機感を持たせるものだった。
 第一次世界大戦の、もう一つの大きな影響は民族自決の潮流だ。もともとはオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国の解体への対応の手段としてとられたものが、世界各地に波及し、ナショナリズムが活発化していった。中国では列強に奪われた領土を回復しようとするナショナリズムが活発化していった。日本では満州に保持していた特殊権益を不安定化させた。そこで、満州軍閥の張作霖に影響力を及ぼす形で権益を確保しようとした。それが後に1928年の鉄道爆殺事件につながっていく。それが満州事変へと至る。
 その後、日中戦争で中国の主要都市を占領していったが、資源の問題は解決しなかった。それだけでは必要な資源を確保しきれなかったからだ。その最も重要なものが石油だった。そこで注目されたのが、東南アジアだった。しかし、この地域は列強の植民地であり、日本が容易に手を出せる状況ではなかった。転機が訪れたのは、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まったことで、列強は対ドイツに注力せざるを得なくなる。当然ながら植民地に動揺が走った。それは日本にはまたとない好機だった。中国との戦争を続ける一方で、この地方への本格的な進出を図った。
 そこで大きな障害となったのが米国だった。ヨーロッパ諸国と違い参戦していなかった米国は、第二次世界大戦にかかりきりではなかった。当時の日本は石油をはじめ各種資源を米国に依存していて、その供給によって日中戦争を継続することができていた。だから、米国と衝突することは自滅行為に等しかった。1940年のフランスの弱体化に乗じて仏印に進駐し、さらにその直後日独伊三国同盟を締結した。日本側は米国の対応を楽観視していたが、米国は連合国の植民地への直接的な脅威と受け止め、日本への石油の全面禁輸という措置を取ってきた。これに驚いた日本がまごついている間に、米国は事実上の最後通告であるハル・ノートを送ってくる。そこで万事休すとなった日本は、米国との戦争に踏み切る。
 この道筋を見ていると、基本的に日本は第一次世界大戦を背景に、中国におけるナショナリズムの高まりや、第二次世界大戦の勃発に伴う国際情勢の激変に対応しながら、国家としての自立を模索していた。少なくとも、満州事変を契機に日本が突如として変質していったわけではなかった。だが、その試行錯誤の果てに、もっとも衝突を避けるべきであった米国との対立を深めてしまった。このとき、注目すべきは、日本の対外政策が一貫した指導のもとで進められていたわけではないという、構造上の問題である。実際にひとつひとつの行動の背景を細かく辿ってみると、国内の派閥抗争に加えて、急変する国際情勢に翻弄されて場当たり的な対応を繰り返していた実態が浮かび上がってくる。そこには、まさに司令塔の不在と呼ぶべき状況が存在していた。
 これまで見てきたように、「あの戦争」の見方は分かれる。それは歴史が究極的には科学ではないからだ。科学の大きな特徴は再現可能性である、同じ手順で実験すれば、同じ結果が得られるのが前提なのだ。ところが歴史には再現可能性がない。歴史上の出来事は二度と繰り返すことができない。史料を基に事実らしきものを発掘することはできる。しかし、その事実らしきものにどのような意味を与え、何を重要と見なすかは解釈の問題となる。そして、その解釈は個人の関心や時代の雰囲気によって大きく影響を受けざるを得ない。そして、「あの戦争」をどのように捉えるかは、この解釈の領域に属する。
 このような歴史観について、自分はその解釈を採らないと反論することはできても、その解釈自体を完全に葬り去ることは難しい。ましてや、「あの戦争」は今日の世界秩序や国際関係の基礎となっており、さまざまな価値観や利害が衝突しやすい。これまでは日本国内に議論を追ってきたが、そこに海外の視点を加えれば、さらに多様性が増すだろう。例えば、中国では抗日戦争、ロシアでは大祖国戦争と呼ばれるように、戦争の名称自体が大きく異なってくる。このように、「あの戦争」の捉え方は、ほかの歴史的な出来事以上に多様性を帯びやすく、さまざまな歴史観が生まれるのも、ごく自然なことと言える。
 歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもない。重要なのは、なぜ当時の日本がそのような選択をしたのかを深く理解し、わがこととして捉え直し、現在につなげることにある。そのためにも、われわれはあの戦争を解釈し続け、適切な物語を模索し続けなければならない。われわれが為すべきことは。物語の否定ではない。物語の絶え間ない選択なのである。

2025年9月 7日 (日)

辻田真佐憲「「あの戦争」は何だったのか」(1)

11114_20250911233701  「あの戦争」と鍵括弧で表わしている戦争。1945年8月15日に敗戦の放送をした戦争について、何を指すのか(いつ始まったのか)、その名前すら定まっていない。それだから、戦争は何故始まったのか、そして回避できなかったのか、という議論は長い間、様々なところで続けられたが、その戦争というものが何を指すのか定まっていないのだから、その議論が論争となっても、成立するのは難しい。そして、歴史の事実と解釈が混同され、それが問題をさらにややこしくしている。解釈には立場があり、往々にして、現在のわれわれの立場から高みの見物のように当時を見渡している。「あの戦争」を孤立した出来事として語るのではなく、幕末・明治維新以来の近代史全体のなかに位置づけ直す。それは、日本の過ちばかりを糾弾することでも、日本の過去を無条件に称賛することでもない。過ちをすなおに認めながら、そこに潜んでいた正しさの可能性を掘り起こして現在につなげる。それを試みようとする。
 個人的には、なぜ戦争を回避できなかったのかという議論は、敗戦や荒廃した国土や多数の死者という結果を知っているからこそ言えることで、当時の人々は今しか見えない限られた視野で行動せざるを得なかったことを見落としている。そしてまた、かりに戦争を回避できたとしたら、現在はどうなっていただろうか。少なくとも、これほど平和で恵まれた社会になっていたとは考えられない。少なくとも、軍隊や軍国体制は残り、植民地の矛盾を抱えていたわけで、1941年の開戦は避けられても、危機が消失したわけではない。その状況で、経済成長に国が一丸となるなどということができるだろうか。あの戦争を回避できたかを現在の視点で自分のこととして考えるというのは、そういうことではないだろうか。だから、加藤陽子の著作を感心しつつも、他人事として語っていると思ってしまうのは、そのためだ。

 

2025年9月 5日 (金)

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(6)~第5章 おもちゃ批判の哲学

1.原初、世界はおもちゃだった
 おもちゃ遊び、他愛もない遊び、意味のない遊び、子どもたちがあらゆるものをおもちゃにして遊ぶ、最もプリミティブで、ルールをもたない遊び。おもちゃ遊びは、大人が最も注目しない遊び。それ以上に消し去ってきた遊び。
 おもちゃ遊びの特徴は次の三点にまとめられる。
 ①脱目的性:偶然で目的がない
 ②中動相性:おもちゃが私になり、私がおもちゃになる
 ③同調と浮遊:軽やかな裏切り
 第一におもちゃ遊びは、偶然に起こり、目的がない。おもちゃの遊び手は、何か具体的な目的をめがけては遊ばない。おもちゃ遊びは、必然的で目的をもった物語、ゲーム、パズル、ギャンブルの遊びとは異なる遊びだ。物語は過去を語り、未来に向けて自己をキャラクター化したり、ゲームは成功に向かってスキルアップしたり、パズルは一意な正解に向かって悩んだり、ギャンブルは不明性の崇高に触れたりしようとする。けれども、おもちゃはただ成り行きにしたがって遊びが始まり、どこかで終わる。それが脱目的性。第二に、おもちゃで私が遊んでいるとき、私がおもちゃであそんでいるつまりが、いつのまにか、私でおもちゃが遊んでいるような気持になる。遊びのこうした関係は、私ともの、遊び手と遊び相手との間におのずから生じる主客わかちがたい関係を中動相性的な関係と呼ぶ。第三に、おもちゃは軽やかに裏切る。おもちゃと私が遊ぶとき、そこには軽やかさがある。おもちゃを用いた遊びはいつも信頼や安心の雰囲気に満ちている。緊張や恐怖というよりも、伸びやかな軽さがある。けれども、あんしんだけがあるというわけではない。おもちゃ遊びは思い通りにいかないことが多い。おもちゃ遊びには浮遊がある。
2.すべてを破壊する「おもちゃ遊び」
 物語、ゲーム、パズル、ギャンブルの四つは、遊びの王道だ。物語を演じる、ゲームをプレイする、パズルを解く、ギャンブルで賭ける。どれも私たちが人生のさまざまな局面で取り入れられている遊びのあり方だ。重視する構造はそれぞれに異なる。物語的主体であれば、時間的な構造が重視され、自己語りが行われ、物語的な理解が試みられる。ゲーム的主体は、勝敗を決定づけるルールを通じて、達成感やスキルを高める。パズル的主体は、分かちなさのなかに一つの解を追い求める推論の楽しみを味わい、ギャンブル的主体は、偶然に身を委ね崇高を垣間見ようとする。おもちゃ的主体はこれら四つの遊びが作り上げる理解・ルール・解・崇高を破壊する。おもちゃ遊びには意味や目的がなく、偶然の遊びを優先するからだ。物語的な理解、ゲーム的ルール、パズル的なじりじり、ギャンブル的賭けを破壊し、おもちゃに変えてしまう。おもちゃ的主体は、物語の整合性を守ろうとはしない。統一性を意図的に放棄する。私はこういう人なのだ、と自己語りをする人に向かって、でもこういう反例もありますよね、と意地悪したりする。
 大人はしばしば、物語やゲームにおいてゴールや結果に価値を置き、パズルでは正解、ギャンブルでは勝利のリターンにこだわる。それらは仕事や学習、家庭生活といった場所で、社会的費用や報酬構造とも結びついている。人は物語的であるほど、ゲーム的であるほど、パズル的であるほど、ギャンブル的であるほど、人生の意味を見つけやすいかもしれない。おもちゃ遊びの中には、人生のだいそれた意味はあまりない。物語のようなエモさも、ゲーム的なフロー状態も、パズル的なハッとする経験も、ギャンブル的な崇高も、何もない。ただ、朗らかな遊びの雰囲気がそこにある。そして、飽きたら終わって、次の遊びをはじめたり休んだりする。
3.遊び遊ばれ、ニルヴァーナ
 異なる価値観や規範の中で生きる相手に対して、相手の想定外の行動や発言を柔軟に受け止め、自分を一時的に別の自己を遊んでみること、それは演技や偽りではない、相手の世界に一度旅してみること。こうした態度は、異文化・異人種の人たちが互いを自分と等しく主体的な存在として認め合う道筋を作り出し、愛や連帯を可能にする。
 私たちは遊んでいける。異なる世界を生きながら、すなわち、物語的世界、ゲーム的世界、パズル的世界、ギャンブル的世界を生きながら、しかし、誰もがおもちゃ遊びをして、異なる世界に旅することに挑戦できる。おそらく、おもちゃ的世界というのは、他のすべての世界とつながる交通経路のような細く伸びた世界なのかもしれない。他の世界で一貫した論理に呑みこまれそうになりながら、それから逃れ出て、すぐに他の世界へと旅していける。おもちゃ遊びには機械的な力がある。物語やゲーム、パズルやギャンブルがそれぞれ大切にしている構造を壊してしまう。ときに暴力的にもなり、倫理的な危うさもある。しかし、この破壊は愛する知覚の実践と矛盾しない。おもちゃ的主体はさまざまな人々を必ずや傷つける。ても、それは、異なる世界に入るときにね必ず摩擦が起きるのと同じことだ。その傷つけ方が、軽やかで、互いのよさを潰してしまわないようなものであったとしたなら、それは喜ばしいことだ。もとろん、同じ世界で生きていけば、摩擦は少なくなっていく。同じ物語、同じゲームのルール、同じパズルの問題、同じギャンブルに興じているあいだは、それぞれの世界のしっかりとした構造がそれぞれのメンバーを支えて、守ってくれる。けれども、この世界全体には、無数の世界が入り組んで息づいている。それゆえ、本当は、そこここで、世界同士の衝突は起こっていて、免れない。それを見て見ぬふりできるのは、いつも必ず強者でありマジョリティである。弱者やマイノリティは、摩擦のなかで身をすくめることを余儀なくされる。特定の遊び方を強要される。けれども、誰もが互いの世界を行き来して、摩擦し合うとき、そのとき、愛する知覚がそこここで実践されることになる。自分たちの世界に安住するだけではなく、他の世界との摩擦を見出して、その摩擦をむしろ遊べるようになる。
 おもちゃ遊びには独特の責任感と倫理がある。それは責任感を持たない責任感である。自分の遊びに固執しないこと、他の人の遊びに首を突っ込むこと、摩擦の中で遊ぶこと。それがおもちゃ的倫理である。この反倫理的な倫理が、おもちゃ遊びの重大ではない重大さを生み出している。責任感を持たない責任感。それは、一つの遊び方に没入しすぎない倫理である。人が社会で集団として協調し、交渉し、生きるためには、物語的な生き方が有用である。自分がどういう人間なのかを面接で語らせることでその人を把握しようとする。あるいは、ゲーム的な世界観で生きることで仕事のキャリアづくりに人々を駆り立てる。現代の日本ではおそらく物語的・ゲーム的な生き方が最も堅実な生き方だと見なされている。物語的・ゲーム的な生き方、遊び方に没入することは難しくない。しかし、これらの生き方に入り込みすぎると、私たちの自己理解が歪められていく。自己語りは誤解を生みだし、ゲーム的スキルアップの発想は改善ではなく、ハックすることに人を専念させる。そうした主体は、物語的な自分、ゲーム的な自分に責任感を持つ倫理のなかを生きている。これに対して、おもちゃ遊び的な生き方とは、それらに接近して一緒に遊びながら、しかし、それらの遊び方に没入しすぎない態度を指す。責任感を持たない責任感とは、一つの遊び方に没入しすぎないことで、自己の疎外から距離を取ろうとする姿勢を意味する。
 もしおもちゃ的主体が、ただ自己の楽しみだけに没頭するのではなく、相手の世界を面白がり、互いに軽やかに遊び合うことができれば、それはある特殊な連帯へと転じる。それは共通の連帯というよりも、その場所でともに遊ぶ連帯だ。物語的な意味を共有することでつながるのが共感の連帯だとすれば、おもちゃ遊びによる連帯とは、異なる遊びの論理を生きているはずの人々が、その遊びの論理を一時的にせよ崩壊させて、その場でおもちゃ遊びをしてみることによって生まれる。おもちゃ遊びは確かに、そこで人類の生活が営めるようなしっかりした地盤やルールを持つわけではない。しかし、そのおもちゃ遊びのルールのない遊びの中で、異なる世界を生きる人々と一緒に、しばし同じ世界で時間を過ごせる。

 

2025年9月 4日 (木)

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(5)~第4章 ギャンブル批判の哲学

1.人はなぜギャンブルに飛び込むのか
 人がギャンブルに惹かれる理由を「アクション」という概念に求める。アクションとは、生き生きとしたとか活発な状態を指す。都市生活、賃有働をしている人々にとって、日常生活はそれほどアクションに満ちていない。毎日同じ時間に電車に乗って、だいたい同じ作業をして、また別のだいたい同じ仕事をこなしていく。組織や家族のなかで割り当てられた役割をこなす生活のリズム。これは、アクションを求める人にとっては物足りない。ゆえに、刺激的で、暴力的な行為に飛び込むことで、スリルにつながる機会を見つけ出そうとする。それに応えるのがギャンブルというわけだ。
 アクションを追求する人は、リスクを引き受け、勝敗や結果が明確になる瞬間を迎える過程そのものを欲望する。勝利と利益を求めているのではない。異質なリズムだ。経験したことのない緊張感を味わいたい。自己の運や実力がどこまで通用するかを試したい。こうした願いが人々をギャンブルへと駆り立てる。
 このような人々は日常に飽いていた。毎日の生活をつまらないものとしていた。その理由は、その状況に自分が必要ないと感じているからだ。必要とされていれば、人は無関心ではいられない。しかし、日常生活において、人は多くの場合、自分でなくてもよいことに従事する。そのため、状況的退屈の状態になり、いつしか慢性的退屈の中に入り、最悪の場合は人生全体に対して関心を持たなくなる。ギャンブルを好む人は、そのような日常生活を贈るのは自分でなくてもよい、他の誰かでも代替可能であると感じている。というのも、日常ではアクションが起こることは少ないが、彼らにとって自分の本来的な状態とは、ギャンブルをしているとき、アクションをしているときであり、そうでない日常は非本来的である。つまり、ギャンブルをする動機のひとつは、退屈な日常からの離脱と考えられる。
2.ギャンブラーが生きる「現実」
 ギャンブルにおける美的経験を「ひりつき」というキーワードを持ち出す。「ひりつき」を経験するためには、何かを賭けることか必要になる。ギャンブルに参加するとき、その人には、自己がどれくらい失われるかが明確に把握され。その恐怖が選択に重みをもたせる。明確に毀損のリスクを把握し、自分の意志で身を投げ入れるとき、しかし、ギャンブルの結果自体はどこまでも不確定である。このような人がギャンブルに参加するとき、彼らは運を支配しようとする。結果をどこまでもコントロール可能にしようとする。そのために、競馬ならば馬の状態や競馬場のコンディションなどを情報収集し、それらを比較検討して賭ける。ギャンブルを構成する不明さを理性的に塗りつぶしていくことで、可能なものにしていく。しかし、逆説的なことに、そうすることで初めて、理性では把握できない莫大なコントロール不能領域の輪郭が浮き上がってくる。その輪郭から察せられる巨大な不明性を認識するのだ。これを「崇高」という概念で特徴づけることができる。
 人生はギャンブルだと言われることがある。たしかにコントロール不能なところがあり、不確実性でもある。しかし、人生はギャンブルのようであるが、ギャンブルではない。ギャンブルは明確なルールや合理的な対戦相手、そして何を賭けているかがはっきりしている。ところが人生はそうではない。人生は完全にコントロールできないという点で極度にランダムだが、そのランダムさが大きすぎるゆえに、私たちは不確実性の輪郭をうまく掴むことができない。不明性の輪郭をロ威嚇化させるためには、明晰なルールと合理的な対戦相手が必要になる。これらはコントロール可能な領域と何を賭けるのかを明確化する。明確なルールは不明性を炙り出すための前提なのだ。そして、ギャンブルにおける「ひのつき」は確率の次元での崇高体験である。
 ここで物語的主体との関係を考える。物語的主体は、人生を首尾一貫したストーリーとして捉え、過去の経験や未来への期待を一つの語りへ編み直す。そこでは、自己の変化や苦難も物語の一部として統合されるため、生きる意味やアイデンティティを物語に託しやすい。これに対して、ギャンブル的主体は、自分を運に賭けることで、自己変容を体験し、何らかの超越を目指す人物像である。ギャンブル的主体・自己は、自分の存在を、物語のように過去に結びつけるのでもなく、ゲームのように未来に向かって跳躍するのでもなく、過去でも未来でもない、偶然へと投げ出すのだ。
 物語とギャンブルの相性は一見すると非常に悪い。ギャンブルとは、不明さに自らの身を投げ入れることで、変容的経験を期待するものである。それはあらかじめ合理的に判断できないという点で、物語的語りとは異なった不可逆な可塑性をもっている。それゆえ、物語を切断する力がギャンブルにはある。その一方で、ギャンブルは、物語にせよ、ゲームにせよ、パズルにせよ、他の遊び方を呑み込み、この世界での秩序を未来へと放り込むことで、まったく別の可能性を開こうとする力を持っている。しかし、ギャンブルは、そこに留まり続けることはできない。ギャンブル的主体は退屈な日常に戻らなくてはならない。
3.ギャンブル的生の解放
 現在、ギャンブル的主体が生の実感を感じられる居場所・職業は限定的だ。もしかすると、社会が安全になればなるほど、社会がリスクを飼い慣らそうとすればするほど、ギャンブル的主体によって生を感じられる場所が減らされるかもしれない。それゆえ、ギャンブル的主体は自分の生の実感を感じるために、カジノやパチンコや競馬場などの限定されたギャンブル的環境に行く必要が生まれてくる。ギャンブル的主体が、社会で活躍できる場はかなり限られている。

 

2025年9月 3日 (水)

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(4)~第3章 パズル批判の哲学

1.陰謀論と考察の時代
 パズルは、ジグソーパズルなどのように謎解きをベースとする表現形式である。そこでは、謎、ヒント、解決の瞬間、パズルの仕掛けの鑑賞などが実践されている。私たちはパズル的な理解のあり方から、自己や世界を理解することもできるし、実際にしている。自己を閉塞する危険、情動を乗っ取られる危険、キャラクターになりきってしまう危うさが物語にあるとすれば、パズル的な自己にはそのような物語の危険からは切り離されている。パズル的なありようをする人は自己よりも外の世界に強い関心を持つから。著者はパズル的な世界理解の実例として考察と陰謀論をあげている。
 考察とは、例えば、作品に特定の正解となる解釈があるものとして作品を解釈する実践を指す。ただし、決して正統的な批評ではなく、作品を自分の独特な解釈を語るのだ。自分ならではブリコラージュした分析枠組みを作ることで、彼の枠組みは達成される。それは健全な推論や精査に耐えうる議論を目指すというよりは。形式にこだわらない仕方で作られている。考察は二次創作と言える。一方、陰謀論の語りの魅力は、陰謀論に辿り着くまでのプロセス自体にあるという。物語とは違い、陰謀論は、自分で謎を発見し、それをさまざまなてがかりを用いて分析していき、一つの答えを得るという陰謀論的なプロセス自体が美的経験を与える。そこでは、物語的な解釈の楽しみではなく、パズル的な謎解きの楽しみがある。考察も陰謀論も、唯一無二の正解があるという確信に基づいている点で共通している。そこには、謎を明らかにしたいという欲求、とりわけそれを自分が発見したい、さらにはそれを他人に共有し、説得したいという欲求がある。
 他方で、人には「ハッとする」ことに喜びを感じる。考察や陰謀論では、この「ハッとする」経験が非常に重視され、実践の核となる動機となっている。この「パッとする」経験が核となる表現形式であるパズルとの関係が明らかになる。
2.パズル化するポストモダン
 パズルの特徴として、次の点があげられる。第一に正解がただ一つであること。向かう先が潜在的に一つだと分かることで、一点しか気にしなくてよくなり、集中できる。特定の手順を辿れば、必ず答えに辿り着ける。その信念があるから、難しい謎にもある程度付き合える。だが、もし、正解が一つでないとしたら、あるいは正解がないとしたら、不安になり、パズルをしなくなるだろう。第二に、「じりじり」を経た「思いつき」がパズルの美的経験の特徴となっている。パズルを解いているとき、もう少しで辿り着きそうなのにと、「じりじり」する。さっぱり分からない状態から、少しずつ手がかりが見えて、解けそうで解けない。瞬間、答えを思いつく。これがパズルならではの美的経験の一つだ。第三に、パズルには答えが分かったときの「すっきり感」がある。最後にエレガンスがある。これはパズルの解法の純粋さ、問題の開示の仕方の明瞭さや、謎の仕掛けの美しさ、さらには解答の簡潔さに関する美的経験だ。
 これを陰謀論に当てはめてみると、陰謀論は世界の問題に対して一意の正解があるという前提に立つ。これは安心を生み出し、集中を可能にするからだ。陰謀論は、あるはずのないたった一つの答えを世界に押し付けるものだから、それがないと陰謀論の存在自体があやしくなる。そして、陰謀論は「じりじり」を経た「思いつき」、そして「すっきり感」と「エレガンス」の楽しみを味わう。考察も同じだ。
 パズルは物語とも合体する。物語内に配置されたパズル的要素は、鑑賞者をただの読み手から問題を解決する当事者へと引き込み没入感を飛躍的に高める。物語的パズルは、移動や収集そのものが目的というよりは、プレイヤーに世界への興味を喚起させ、複雑に入り組んだ物語の断片を自力で繋ぎあわせることへと誘う。物語とパズルの組み合わせは、作品への没入をより濃密なものにしていく。ここで、物語的自己とパズル的自己の比較を試みる。物語的自己は、人生を一貫したストーリーとして捉え、過去の経験や未来への期待を一つの語りへと編み直す。そこでは、自己の変化や苦難も物語の一部として統合されるため、生きる意味やアイデンティティを物語に託しやすい。一方、パズル的自己には、人生や世界を「謎」として切り出汁、いかに解決へ至るかを追求する姿勢が際立つ。それは通時的ストーリーを紡ぐことはないが、代わりに、一つひとつの問題を解決する行為そのものに喜びを見出す。
3.答えなき、なぞなぞとしての世界
 パズル的理解がもたらす快感のピークは、一意の答えを見出した瞬間にある。人々はその痺れるような快感にハマっていく。だが、世の中というものは、たいてい一つの答えでは答えきれない。そもそも解が存在しないような謎も少なくない。世界をパズルに見立てる思考の過ちは、世界を見くびっているところにある。世界の問題が解けないという事実そのものが、私たちを解釈に誘い続け、考えることの意義深さを与える。答えがないからこそ、いつまでも問い、一つ明らかになるたびにまた不明さが増える。世界はますます謎めいて魅力的になる。
 パズルの推論形式の基本はアプダクションだ。それゆえ、パズルで鍛えられるのは仮説形成のところまでで、しかし、本来のアプダクションは、複数の仮説を形成して、それらを比較することでまともな知識になるというものだ。それゆえ、ただひとつの仮説を形成することにとどまるパズルは、根本的には仮説ポルノなのである。

 

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(3)~第2章 ゲーム批判の哲学

1.人生はゲームなのか
 物語以外の理解の仕方を、著者は「遊び」に求め、同じように考察していく。
 「人生はゲームである」という言い方、人生をゲームにたとえる言説は少なくない。ロール・プレイング・ゲームなどのように、進学や就職など、人生の各ステージには明確なクリア条件があり、それを満たすことで自分が成長し、新たなステージへと進めるのだと考える、また、失敗すればゲームオーバーとなる。モンスターを倒し、経験値を積み、レベルアップして、ボスを倒し、最終的なゲームクリアに向かうロール・プレイング・ゲームのような流れを人生に投影する。このような譬えが前提とするのは、人生の諸問題自体を数値化できるという発想だ。このような結果主義的な思考が強まるほど、他者との比較に勝つ、社会で高い地位に到達するといった行為が重視されやすくなる。言い換えれば、ゲームでクリアを目指すように、人生というゲームにおいてクリアが至上命題となる。これは、効率性や生産性、結果という実績を重視する、資本主義の考え方と親和性が高い。
 しかし、ゲームには明快なルールやゴールが設定されているが、現実の人生はそれほど単純ではない。数値化されない困難や、定義しづらい幸福、あるいは失敗がもたらす学びなど、攻略というメタファーでは取りこぼしてしまう価値が多く潜んでいる。
2.ゲーム的主体と力への意志
 人生はゲームであるというメタファーを私たちが使う理由。これを考えるヒントを著者はビジネスの現場に見出す。労働者が必要とするのは賃金だけではなく、意味もある。それは人生における意味である。一日の大半の時間を労働に費やすのだから、そこに何らかの意義深さを私たちは求める。しかし、労働自体は労働者が自らしたいことではなく、意義を求めることは難しい。そこで、今の仕事にどんな意味があるか分からないという労働者の悩みを廃棄することを提案し、仕事を通じて自分の介在価値を見つけていくと仕事の意味になると主張する。仕事の内容に意味を求めるのではなく、自分がその仕事をうまくやり遂げることに意味を求めるべきというのだ。
 このような考え方に使われるのがニーチェの「力への意志」の概念だ。ニーチェはニヒリズムへの対抗概念として「力への意志」を提示した。幸福は不可能であるのは、すべての欲求を充足させることができない。私たちは何かを欲求して、それが叶うと充足感を得る。しかし、満たされた欲求は、当たり前となり、充足感がなくなる。そうすると、何か足りないと感じ、何かを求める。それは、いわば何かを欲求することを欲求するということだ。こうなると、欲求は際限がなくなり、満たされることはなくなる。これに対して、ニーチェは小さな障害が克服されるとすぐ別の小さな障害が生じ、これが再び克服されるプロセスを含む抵抗と勝利のゲームへの意志として「力への意志」概念を提示する。「力への意志」とは、抵抗してくるものに対抗しようとする努力することを意味する。欲しいものを得るのではなく、そのプロセスに充足感を見いだす。ニーチェはキリスト教の教えに従うことに意味を見いだす人生が崩壊した時代において、抵抗を克服する活動を愛するような力への意志を発揮することそのものに幸福を見いだすことを提示した。人々は、そこでより強大な苦悩を見いだすことを喜びとし、その抵抗が強ければ強いほど、より創造的な対抗する力を発揮することができる。より強くなることができるのである。
 このニーチェの力への意志は、そのまま人生はゲームであるメタファーに利用できる。しかし、このとき、力への意志の発揮する方向性の吟味が必要であると著者は指摘する。また、克服に失敗しとき、彼を支えるものがなくなってしまう。ゲーム内の皇道理由がそのまま、日常全体にも持ち込まれて、本来はもっと多様であるはずの日常の目的や動機を遮断してしまう危険がある。
3.競争しながら、ゲームを疑う
 物語的な自己理解とゲーム的な自己理解を比べて見る。物語的自己は、第一に通時的自己経験という自己を過去に存在し、未来にも存在するものとして捉える。第二に、ある種の比較的大規模な首尾一貫性の追求、単一性の追求、パターンの追求という形式性で、これは通時的自己経験に何らかのパターンや統合性を与えるものである。第三に物語的自己が自分自身と自分の人生を、例えば喜劇や悲劇といった物語りジャンル形式に合わせて認識する。第四に、物語的自己は記憶を削除し、要約し、編集し、並べ替え、強調することで、自分の人生の事業における見方を改訂できる。
 これに対してゲーム的自己は、第一に通時的な経験というより、ひとまとまりのプレイがゲームごとに反復され、それが連なったもの。第二に、物語的自己のように形式を見つけ出そうとするというよりは、課題の設定とそれに対する挑戦という観点から形式的発見が行われている。第三に、ストーリーテリングではなく、目標志向のゲームプレイとして経験がカテゴライズされ、第四に過去の出来事の再編集というよりゲームごとに指し手の選択を改訂し、わりよいゲームプレイを目指していく。もともとゲームは、必ずしも物語性を重視していなかった。将棋やチェスにはストーリーはなく、プレイヤー同士の判断が勝敗を分ける。しかし、コンピュータゲームの発展によりRPGが生まれ、物語とは不可分になっていく。
 人は、人生に物語性を求める傾向がある。自分の生き方や経験をストーリーとして理解し、そこにアイデンティティを見出そうとする。そこにさらにゲームのような成長システムが組み込まれると、自分は人生の主人公として日々タスクをこなし、レベルアップしていくといった人生理解が可能になる。こうした人生理解は、モチベーションを高めるポジティブな手段にもなりうるが、それは物語的不正義を発生させる危険と同時に、ゲーム的なメタファーによる視野狭窄を生み出しもする。しかも、その二つの個別の悪さが体現されるというだけではなく、両者が組み合わさることで生じる悪さもある。人生をRPG的に捉えることは、あらゆる出来事をクエスト達成のための通過点とみなす態度を助長しかねない。人間関係の葛藤や挫折、悲しみも、レベル上げのための必要なイベントと解釈してしまえるから。そこにある一回一回の痛みや、本当になすべきだったのかという倫理的な葛藤がなきものにされるかもしれない。物語的ファクターとゲーム的メタファーの融合によって。物語的な自己陶酔の危険と、ゲーム的で数値的な強迫観念が同時に呼び寄せられる。両者が互いの理解を強固にし合うことで、他の人生理解へと脱出することを許さないような環境が、社会全体で作られていってしまうことが、いかにおそろしいことか。

 

2025年9月 1日 (月)

難波優輝「物語化批判の哲学─<わたしの人生>を遊びなおすために」(2)~第1章 物語批判の哲学

1.他人を物語することは正しいか
 物語はいたるところで語られている。物語が重視され、重宝がられている理由を、著者は3点をあげる。第一に、私たちが他人を理解したいと願い、他人に理解されたいと願いからということ。物語的な語りは、過去と未来に意味を与える。自分や他人の過去の行為の理解を可能にし、未来の行動の予測可能性を高めるために有用であるということ。現代では、私たちは複数のコミュニティを渡り歩く。幼い頃から長い付き合いをしている人は少ない。そのため、他人にいつも自己紹介をしなければならない。その手段として、物語が用いられる。人々が対面したり協働したりするとき、その人の素性を知らない場合に、その人の語りをその人の過去を理解するための資源として用いたり、語りを介して親密さを作り出したりする。第二に、私たちが他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願うからだ。物語的な語りは、特定の人々の行動への共感、あるいは反感を人々に抱かせ、良きにつけ悪しきにつけ、人々を動かすことができる。物語を見聞きした者に、意図した対象への意図した情動を呼び起こす。第三に、自分が誰であるかをはっきりさせたいと私たちが願うからだ。「私とは誰か」という問いに対して、物語を語り、自他をキャラクター化することによって、他の誰とも異なる答えを出そうとする。物語ることが、自分の人生にユニークな意義を与えるために必要であると考える者たちも多い。先祖伝来の物語、自分の生まれてきた意味、家計を継ぐという責務、国家を経由したアイデンティティ。伝統的な、はっきりとした物語が存在しなければならないほど、私たちは自由に自分たちのあり方を説明できるようらなる。
 他方で、このような物語化が問題になる理由を著者は次のように指摘する。第一にも物語を通した願いはときに欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。第二に、物語を通じて画面の向こうの誰かと情動をリンクさせたいという願いは、その人がもともと持っていた情動が、誰かの思惑通りに上書きされてしまうということや、可能だった別の仕方での情動理解を狭めてしまうことにつながる。誰かのデザインした情動に、自分の情動がチューニングし始めてしまうのだ。第三に、物語を用いた自己像の探求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。
 要は、自分というものを他人にも自分にも理解してもらうとき、物語にして語ると分かりやすいということ。そして、物語として語ると共感を得やすいということ。その反面、物語にすると、既存の物語パターンに当てはめられがちで、そこに作為が入り込んでしまい、時には嘘が混ざってしまう。さらに、その嘘の混じった物語が独り歩きして、本当のようになってしまうということだ。
2.自分語りの罠
 この自分を理解してもらいたいという願いについて、それを正しく語ることかできるかということを考える。
 これには、私たちは自分自身を語ることで互いに理解し合えるということが前提されている。しかし、自己語りに対して、著者は、私たちの語りは知らぬ間に過去を妨げ、自己の虚飾を作り上げ、さらには他人への不当の解釈という暴力へと転じる危険を隠し持っていると疑問を呈する。例えば、就職活動の面接で、応募者はしばしば「これまでの人生」について自己語りを強要される。そこでは、応募者は自分自身の来歴を正直に説明するように見えて、実際は、聞き手である面接官の心に響くような特定の筋書きを意識して自己が再構成されている。このような物語化を強いることには嫌悪感を覚える。
 類似したものとして歴史哲学における「歴史的語り」は、単なる事実の再現ではなく、再解釈のプロセスであるとされている。そのような視点から自己語りを批判的に眺めると、私たちの日常的な「自分の物語」がどのようにして恣意的なフレームワークを介して形作られているのかが見えてくる。つまり、私たちの自己語りは、ただ過去をありのままに記述するのではなく、常に何らかの枠組みのもとで語り直す行為である。この点で自己語りは歴史的語りに似ている。逆にいうと、ある事件が起こったとき、当時の人がその事件のすべてを理解することは不可能だ。一つの出来事についての真実全体はその出来事が起こってからずっと後になってからでしか分からない。これに対して、後に生きる人、たとえば歴史家は、当時の人々が知りえなかったデータや理論や道具を用いて、俯瞰することができる。つまり、歴史学的叙述は、過去の復元に加えて、過去がどのような意味を持っていたのかをより広い視野で解釈し、現在において過去がどのような意味を持つのかを再解釈する営みでもある。私たちは過去を理解するというとき、思い出すのではなく、語り直す。過去をそのまま思い出すことはできない、なぜなら、過去とは本質的に、現在の私たちの語りによって更新されていくものだから。
 しかし、歴史家という専門的訓練を経たものにより学問的な方法論化された歴史的語りと自己語りは違いもある。その違いは、第一に自己語りの改訂排除性があげられる。歴史的語りは、複数の語り手によって常に批判可能だ。その語りがよりよい過去制作であるかを検証するプロセスが明確化され、その語りが訂正されていく。これに対して、自己語りは、他人からの事実確認も訂正も乏しい状況で行われている。そこに独善に陥る危険に常にさらされている。第二は、目的閉鎖性である。自己語りは、これまでの自分の来し方を特定の目的に従って再配置する。自分の人生を成長物語やサクセスストーリーへとまとめ上げる際、事実上存在しない必然性や運命的な伏線を見いだそうとする。それゆえ、自己語りは、歴史的語りであるだけでなく、物語的語りでもある。物語的語りは単なる時間的な列挙ではなく、ゴールに向かうための計画や障害克服のプロセスを中心に展開される語りだ。これは、改訂排除性と関わりながら、これまでの人生を何らかの目的に向かうものとして理解する点で、次のような問題を引き起こす。文学作品では登場人物の偶然的な出会いも必然的な伏線や意味づけして機能しているが、現実の人生にはそのような必然的パターンは保証されていないし、存在しない。また、歴史的語りもある意味で、目的論的な説明を目指すが、一つの歴史は複数の説明に開かれていることが了解されている。これに対して、自己語りは、自分の過去に目的論を無理やりはめこむことで文学作品のような必然性や運命性を人生に付与する危険がある。
 要するに、自分を理解してもらいたいという願いについて、その自分を正しく語ろうとすると、独善的で自分にとって都合のよいものになってしまいがちで、それは自分語りの構造的なものだという。
3.感情と革命
 前節では「理解の願い」に対して正しい過去の語りとは何かを考えたが、続いて、「情動のリンクの願い」に対して情動との正しい距離感がどこにあるのかを考える。
 自分を理解してもらいたいという願いでも、人は理性によって客観的に理解するよりも、感情的に共感してしまう。人は感情に左右される。しかも、日常生活で感じられる感情は偏っている。したがって、人は感情の追体験や発露を求めて芸術、表現、物語に向かう。物語は情動のアートであり、あらゆるドキドキ、恋心、不安、喜びを安全に味わうことができる。命の危険なしに恐怖を楽しみ、避妊を気にせず性的興奮に入り込み、新しい恋を始める必要なく恋愛感情を楽しむことができる。著者は、私たちが、このように物語に触れ、情動に触れたいと思う理由として、次のような点をあげる。第一に、私たち人間にとって、適切に情動を感じること自体が喜びになりうるから。人は情動を感じることで、自分の特定の能力を発揮することができる。第二に、情動によって他人とつながることもまた別の意味で喜びであるからだ。
 私たちは自然そのままの、天然の情動をもつわけではない。文化の中で情動性は作り出される。どのような習慣をもつ社会の中で生きるかによって、私たちがどのようなタイプの怒りや悲しみを抱き、他人に伝えてよいかが変わる。例えば、私たちが何に嫌悪感を感じるかは、一見生得的にみえるが、そうではなく、文化的に習慣づけられたものだ。具体的な例として、悪臭は私たちに普遍的な悪臭というものは存在しない。情動の規範性は、ときに抑圧的に働く。私たちの生きる社会は、特定のマイノリティの情動をきちんと受け止められなかったりするような「情動的不正義」が広がっている。つまり、情動には何らかの規範性があり、その規範性はときに悪さをする。とりわけマイノリティに、どのような情動を感じるべきかを強制することがある。
 この無垢な情動というのはなく、情動的足場として物語が必要とされる。というのも、第一に、情動は文化的に異なる。つまり、社会的に構築されることが指摘されている。人類普遍の情動は、あってもいくつかのものに限られるし、何に対してどのような情動を抱くかについては文化によって大きく異なる。第二に、私たちは、自分たちの情動を構成している。つまり、社会的なヒントや状況を手掛かりに情動を作り出し、把握している。自分たちの手で自分の感じたい情動を意識的にデザインしている。第三に、情動を作り出す足場だ。私たちは、自分たちだけで情動を作るのではなく、何らかの具体的な表象を介して情動を感じる。それは表情や身振りに始まり、映像や絵画、音楽、匂い、味に広がる。情動的足場なしに感じることができない。物語は私たちの情動的足場として機能する。私たちは物語に影響を受けるのではなく、物語を使って情動を抱くのだ。
4.キャラクターをアニメートする
 最後に、自己像の願いに対して、柔かい理想をいかに描くかを考える。
 人は自分をキャラクターにするのが好きだ。物語は、キャラクター化と結びついて個々人の自己理解の手助けともなりうる一方で、ステレオタイプや固定的な役割分担を生み出す力も持つ。それは安易なラベル貼りや自己の固定化を誘発する。もともと、人は社会生活において、それぞれの場所やシーンで出会う人ごとに、異なる自己を演出し、コミュニケーションしている。仕事場や家庭といった状況において、他者に与える印象を管理・調整しながら、様々な役割に応じて、自己のパフォーマンスを行う。このような複数形の私の集まりが私であり、あらゆる状況から離れた本当の私は存在しえない。
 キャラクター化は、単なる役割演技や自己呈示を指すのではなく、自己の外部に他者を創出し、それを通じて自分を再構成する(これを文化人類学者のシルヴィオはアニメーションと呼ぶ)プロセスを含んでいる。例えば、理想的な他者や物語の憧れのキャラクターを模倣し、その行動や価値観を取り込んで、自分の中で再構成していくことで、新たな振舞い方のスタイルが生まれる。結果として自己の更新が進んでいく。しかし、いい面ばかりではなく、危険もある。それは第一に、よい振る舞いは文脈依存的で、物語的なものでは学びようがないところもある。こういうキャラクターになりたいといっても、そのキャラクターは物語の状況の中で成立しているもので、現実のありようとは違う。だから、キャラクターを。そのまま現実にあてはめるのは無理がある。第二に、悪い理想を模範者として誤って認識するリスクがある。第三に、フィクションの登場人物への共感は、実在の人物への共感とは異なる次元で生じるために、現実の人間を模倣するのとは違う格別の注意が必要である。
これまでの物語批判の議論を整理すると次のようになる。第一に、物語は自己理解と他人の理解を弱めたものにしうる。それに抵抗するためには、明晰さの誘惑に立ち向かう必要がある。第二に、物語は情動をフレーミングすることで、抑圧を生み出しうる。徳のある人の情動を理想とすることで、物語による情動の支配を回避することができる。第三に、キャラクターを理想とする実践の功罪を分析し、何かを称賛を介して理想とすることは、徳を高めることにつながりうるが、危険も潜んでいる。

 

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