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書籍・雑誌

2016年12月20日 (火)

M・H・ニコルソン著『暗い山と栄光の山』

 今でこそ登山というものが一般的に認知され山岳風景は当たり前になっている。しかし、それはずっとそうだったのではない。むしろ17世紀以前では山は大地の疣や瘤であり、病的で醜い邪魔者だった。このベースには地球が完全な球でなければならないという考え方があった。それは神によって作られたものは、その美は均整と調和にあった。現在の不規則な地表の凸凹は人間の罪に対する神の怒りと懲罰の表われだということだった。
それが17世紀の天文学の発達は宇宙空間の厖大な広がりを明らかにし、その中の地球の存在を取るに足らぬものにしたばかりでなく、月や惑星もまた完全な球でないことが明らかになり、宇宙や世界の完全な球体の観念は否定された。
 空間の厖大さに驚嘆した人間は、同じように時間の厖大さにも気がつく。そして長いときを経て大地が徐々に変化して現在の大地の姿になったことに思い至る。大地は神によって作られたものだが、自然の力によって変化を経てきたものと見方が変化する。そして、人間の醜い罪の表われであった山々が、自然の雄大な力の顕現として捉えられるようになって、自然の偉大さと驚異に目覚めていく。そして均衡と調和が美であったことから、新たな美が生まれた。広大な自然が喚起した畏怖と歓喜は“崇高”という新たな美の基準を生み出した。
 ヨーロッパにおける山というものの見方が大きく変化した軌跡を、その表現である詩の変遷から丹念に追いかけたもの。それはまた、古代のお手本をもとに詩をよむことから、詩人が個人として自立し自身のオリジナルな表現を創出していくという新しい創作のありかたの変化と同時期的に変化しているようにも思う。そこで例として引用されている詩のフレーズの多彩さに驚かされる。著名な詩人の作品に限らず、エポックメイキングなものを現代では忘れられた人を掘り起こしているようなのだ。山に関しての詩的表現の変遷を丹念に掘り起こしたものでもある。思うに、登山というのは、圧倒的に個によって為されるものである点で、他のレジャーやスポーツと決定的に区分されると思うからだ。

2016年4月 6日 (水)

佐藤直樹「犯罪の世間学─なぜ日本では略奪も暴動もおきないのか」

2011年の東日本大震災のときに海外のメディアから絶賛されたのは、外国だったらこうした無秩序状態で当然起こり得る略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことだった。つまり、諸外国と比較したときの日本の犯罪率の圧倒的低さや治安の良さだったといいます。それはいったいなぜなのでしょうか。海外と違って、日本には外国には存在しない「世間」があり、法よりも「世間」のルールのほうがはるかに優先されるため、法秩序が崩壊した状態でも、それが外国のように略奪や暴動にただちに結び付かなかったといいます。日本人はみな、法のルール以前に、「世間」のルールに縛られている。というのが本著作の主張です。

西欧諸国はキリスト教の告解の神に自分の内面を告白するというなどから個人が形成され、近代化のプロセスで「世間」に相当するものが解体され、かわりに社会が形作られました。それによって、その個人と個人の関係は契約で明確な言葉によって取り決められ、犯罪については法律で明解に律せられることになりました。その結果、災害などで法秩序が崩壊すれば、個人のエゴが剥き出しになってしまうということになってしまうのです。

また、だからといって、日本がいいのかというと、1990年代のグーバル化に伴う新自由主義の本格的台頭は、例えば雇用における終身雇用制や年功序列制度の解体を招き、競争的環境に人々を叩き込むことになりました。そこでは「世間」という共同幻想が肥大化し、異質なものを排除する同調圧力が強まり、息の詰まるような閉塞状況を招くこととなってしまった著者は言います。

それを、例えば、犯罪に対する考え方が変化してきたことと関連して、次のように説明しています。

日本の「世間」は、犯罪者を穢れとして外部に排除する面と、真摯に反省し謝罪する犯罪者許して内部に包摂する面という矛盾した二つの側面を併せ持っているわけです。

一方で、日本の刑法は、まず、旧派刑法学の影響下で人間は法的な契約主体となりうる自由な人格として認められ、法を破った者は、自らの行為に対する責任を負わされる罪刑法定主義。ここでの刑罰は応報刑として、犯罪行為の軽重に基づいて科せられるということになります。これが、日本の1880年制定の旧刑法であり、例えば殺人罪でも「謀殺」「毒殺」「故殺」「誤殺」といったように殺人類型を細かく区分し、それに応じて刑罰も細かく規定されていました。その後、日本の刑法は1907年に現行刑法が制定され、そこでは殺人罪の条文は1つだけになりました。その分裁判所の裁量となったというわけです。それは19世紀後半に福祉国家に伴うように新派刑法学が、刑罰は応報刑ではなく一定の目的のためで、犯罪者とは自由な意思を持った主体ではなく、実証主義の下で科学的に分析可能な決定論の対象となりました。つまり、犯罪から社会を防衛するという観点から犯罪者を科学的に分析し矯正や教育や治療によって、この危険性を取り除くことを目指すものとなれました。ここでは犯罪の重さではなく、犯罪者の危険性によって刑罰が科される。そのプロセスで刑事政策や社会政策が介入する。そこでの刑罰の判断は様々な要素を加味した複雑なものとなるので単純な基準での判断では追いつかず、都度の判断に近いものとなります。

そして、この新派刑法学による福祉主義的な考え方は、日本の「世間」のウチに生きる人間を許して包摂するという側面と危険を排除するという側面の両方に親和的であったといいます。つまり、制度的なものは近代的であったにもかかわらず、人的関係は伝統的な「世間」のままという畸形的なものとなってしまったというわけです。

さらに、20世紀後半の個人主義の進展により私的空間が拡大し共同体が解体し、他者の排除が一般化した。また経済変動に伴う労働市場の再編により失業者が構造的に増大し、それによる犯罪の増加を制御することで、他者の社会的な排除が進んだ。そこで、欧米で注目されたのが「割れ窓理論」。つまり、割れた窓ガラスが放置されているような場所では、縄張り意識が感じられないので、犯罪者が警戒心を抱くことなく気軽に立ち入ることができ、当事者意識も感じられないので、犯罪者は犯行を抑止されないだろうと思い、安心して犯罪に着手するというものでした。これが、欧米では、福祉主義から排除厳罰主義に転換する契機となりました。一方、これは、日本では「世間」では、現に町内会や自治会が日常的に気をつけてパトロールしていることです。つまり、日本では、基本的な方向性や構造が転換することなく、むしろ、それを強化する結果となりました。それが、今日のがんじがらめに近い治安体制を形成したという説明で、これには、説得力があると思います。

しかし、著者の主張は分かると思うけれど、個人が確立していないと「世間」が残って、共同体の自立的な秩序が残存するということであれば、日本の場合に、田舎はそうだろう、けれど都会で、そういう秩序が残っている説明には苦しいのではないかと思います。他方、個人が確立していないのは日本だけではなく、アジアやアフリカ諸国、あるいはヨーロッパでも東欧やロシアなどもあてはまるだろうが、そのような国々での治安の悪い国はたくさんある。その説明がつかない。議論が性急な気がしました。

「世間」の論理を突き詰めていくと、次のような結論を導くことも可能ではないかと思えてきます。というより、現に、そういうことになっていて、おおっぴらに口にすることはないけれど、そう思っている人は案外少なくないのかもしれない、と思ったりします。つまり、こういうことです。

この著者は、個人ができていない側で「世間」に対して批判的であるけれど、逆に「世間」の側からみていくと、犯罪は秩序に対して排除すべきものということになる。逆方向で言えば、排除すべきものは「世間」の同調から外れるものがそうだ。その意味で、“いじめ”とか“ハラスメント”について、個人ができていて、社会が形成されている側であれば、各個人の人権とか自由が最優先であるから、当然、否定的に見られる。これは、当然のことだろう。これに対して、「世間」という言葉に表われる呪術的な秩序優先の思考で考えると、極めて近い距離感で人が集まって強い同調圧力がかかる下で生活を共にし、高い規律の秩序を維持していけば、そこに強いストレスが伴うのは当然であり、そのストレスを放置すれば危機が蓄積し、ゆくゆくは「世間」を崩壊させてしまう危険がある。それを回避するためにストレスがある程度蓄積したとこで、どこかに放出させることが有効となる。それは、文化人類学なんかの未開人社会の調査で見られるスケープゴートあるいは生贄といったようなストレスを何ものかに集中的に負わせて、その者に対して、聖にしろ賤にしろ、殺してしまったり、追放してしまったり、要は集団からストレスをその者が持って出て行かせるということだ。そのような視点でみれば、“いじめ”などは、まさに結果として、そのような機能を果たしていると言えなくもない。従って、そのような視点にたって考えてみれば、共同幻想としての「世間」による秩序、現実には、現在の日本の安全な治安を維持させるために“いじめ”は近代的な人権の考え方からすれば否定し根絶させるべきものなのだろうけれど、「世間」の維持装置として考えてみるという視点も成り立ちうる。実際のところ、そのような機能を果たすものが無くなってしまった場合、つまり、現象としての“いじめ”を解決したとしても、「世間」の維持のために、代替的に別の事態が発生する可能性は極めて高いということだろうし、そうであれば、“いじめ”をなくそうということに対して積極的に慣れない人が実は少なくなくて、解決の障害がなくならないということになっているのでは、と考えることもできる。

自分で書いていても、ちょっと・・・と思うところもありますが。

2016年2月16日 (火)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(3)

第3章 真理を聴く─ベートーヴェンの第5交響曲

前2章の分析をベースにホフマンが書いたベートーヴェンの第5交響曲に対する評論を読んでいきます。「聴く」という行為の変化や器楽の重視という音楽の捉え方の変化がベースにあって、芸術(音楽)を哲学の一様態と考え方のひとつの具体化として、ホフマンのベートーヴェンの第5交響曲に対する評論は書かれたと見ることができます。ホフマンが主に書いていた幻想的な文学は、当時の哲学の中心問題である現象とその背後にある本体(原因)の間にある隔たりに、例えば物質的なものと精神的なものの間に、どのように橋渡しをするかをテーマとして扱ったものでした。彼のベートーヴェンに対する評論も、その一環として捉えることができます。しかも、書き方についても論文というよりは、警句に満ちた、彼の小説作品に近い書き方がなされています。彼の評論の特徴は、崇高、無限なるもの、有機的形式、そして音楽史におけるベートーヴェンの位置などの点を強調しているところにあります。以下で見ていきましょう。

ホフマン自身は、「崇高なるもの」という言葉をたった一度しか用いていませんが、第5交響曲を表わす言葉としてもっとも中心的で重要な言葉であることは間違いありません。では、「崇高」とは、どのような意味内容なのでしょうか。当時の芸術に対する重要なキーワードであった「崇高なるもの」とは、壮大な大きさ、予期を超え出ていること、そして、感覚を圧倒する包容力をないようとするものでした。美しきものとは異なり、崇高なるものは、歓びよりもむしろ恐れや苦痛という反応を引き出すものであると受け取られていました。エドマンド・バークによれば、崇高なるものの源は、「何であれ苦痛や危険の観念を刺激するもの、すなわち、何であれ恐ろしいもの。または、恐ろしいものに通じるもの、あるいは、恐怖に類似した仕方で働くもの」に見出されたのです。ホフマンがこの評論での、「巨大なもの、測りがたいもの」と「戦慄、恐怖、驚愕、苦痛の梃子」がベートーヴェンの音楽によって動かされるという言及は、まさしくこの伝統のうちにあるのです。彼は、崇高なるものを交響曲という曲種の重要な要素として考えていました。

さきほど、崇高は美とは異なると述べましたが、美と異質というより、美を超えたものと、ホフマンを含めた当時の人々は考えていました。多くの人々が、崇高なるものを、有限なるものと無限なるものの統合のための認識論的な手段であると考えていたというのです。バークは、無限なるものがその大きさや果てしなさ自体を通じて、観る人のうちに畏怖と恐怖の感情を生み出し得ることを論じています。さらに、この恐怖の感覚は、理性の力を圧倒し得るものであって、それにより、精神を高い位置へと運び上げると言っています。

さらに、カントはバークを承けて、崇高なるものの超越性を指摘し、崇高な対象物の観照は、その大きさと規模自体(数学的崇高)、あるいは、力(力学的崇高)のいずれかによって、感覚を圧倒し得るものだからこそ、崇高なるものは、理性と感覚、客観的なるものと主観的なるものとを同一であるまでに統合するように、心を刺激すると言いました。つまり、崇高なるものは、人間の精神をいっそう高い段階の統合へと高める力があるというのです。そして、シラーは、この崇高なるものを感じる能力は、人間の本性の中の最も輝かしい素質だといいました。

従って、ホフマンがベートーヴェンの第5交響曲の特徴としてあげている崇高なるものや無限なるものへの憧れは、単に音楽を聴いて感情的に感動するということ以上に、超越的なもの、もっと言えば哲学的な思考が生まれてくる源泉、絶対精神のようなものを知ることを志向している、と言うことができます。では、哲学の抽象概念が、実際の音楽作品とどのように結びつくのでしょうか。そのために、ホフマンは音楽史におけるベートーヴェンの位置を、とくにハイドンとモーツァルトの交響曲との比較で説明しています。まず、第2章で考えた「聴く」ということの位置づけがこの二人とベートーヴェンの交響曲とでは異なってくるということ、ただしその違いだけでは十分な説明とはなりません。それは、彼らの交響曲には、無限なるものを喚起する力があるという共通点があるからです。そこで、ホフマンは、崇高さの度合いの違いということで、相違点を際立たせようとします。つまり、崇高さの度合いが高まるにつれて、絶対的なものに近づいていくというわけです。これにはヘーゲルが人間の理性について、歴史を通じて段階的に高めてきたのであり、その成長によって絶対的精神に向かっているという考え方とよく似ています。ベートーヴェンの交響曲についても、人間の意識が順次高い段階に過程の上に位置付けられるのです。ハイドンから、モーツァルトを経て、ベートーヴェンに至るのは、まさにそのようなプロセスとして捉えられるのです。

ホフマンは省察力(熟考性)ということを持ち出します。これは、ベートーヴェンの交響曲に対する批判、圧倒的に多様で対照的性格をもつ楽想について、そして、それに伴って、一度聴いただけで新しい作品を吸収する困難ということに対して、インスピレーションに従うだけで作られたのではなく、反省熟考によって深い認識を表わすものとなっているのだから、そこで難解であることが肯定されることになります。この難解さを伴う高度の熟考性という点で、ハイドンやモーツァルトの交響曲と一線を画すことになるのです。ここには、さきほど指摘したヘーゲルの有機的成長という考え方が反映しています。

音楽技法の観点からいえば、ホフマンは、彼の評論の全体を通じて、対照的に見える諸楽想間にある緊密な相互関係性を強調している。有名な冒頭の動機(短─短─短─長)のリズムは、時間の経過と共に変容して、交響曲全体にわたって重要な諸主題のほとんどすべてを生成している。終楽章の意気揚々とした主題でさえ、この冒頭楽想から派生したものとして聴くことができる。こうした関係性は、一般によくいわれているような「統一性における多様性」あるいは「多様性における統一性」への欲求といったこと以上の何かを表わしている。ホフマンにとって、全体のなかにおける諸部分の関係性は、単に芸術的簡潔さの問題ではなく、あるいは、芸術的一貫性の問題ですらなく、絶対的なるものを希求する努力であった。というのも、あらゆる構成要素が重要な役割を果たしているような包括的な全体によってのみ、相反するものの「無差別」が実現され得るからである。

このような有機的なとまり(→成長)という点で、ハイドンやモーツァルトと違いを強調します。このようなベートーヴェンの統一性、つまり、中心的なひとつの楽想の展開、対照的な動きの緊密な統合、葛藤から勝利へと導かれる軌道、それらすべては崇高なるものという全体的枠組みのうちにある、というのは「英雄的」様式と呼ばれるものです。

ただし、著者はホフマンに対する批判として、崇高なるものを強調するあまり、美ということを切り捨ててしまうことになったことを指摘します。実際に、ベートーヴェンの作品には、崇高とはいえない作品があります。例えば、第4交響曲、ヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲作品59の3といった作品です。

また、崇高なるものの強調は、また、初期のロマン主義に特徴的な移ろいやすさ、論理的な枠におさまらない微妙さ、これをアイロニーと著者は定義づけていますが、これは、真理へ途の多様さの表れであるはずなのですが、ややもすると、ホフマンの評論では、その多様さが一本の途に限られてしまう傾向になっている。そのように著者は批判しています。

この後は、当時の歴史的な政治・社会状況と関連させた説明にひろがりますが、音楽そのものの議論から離れるので、ここまでします。

2016年2月15日 (月)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(2)

第2章 思考としての聴取─修辞学から哲学へ

『聴くこと』の革命の第二は、音楽を聴くという行為のあり方、意味づけの変化です。その変化とは、端的に言えば、受動的な姿勢から能動時に想像力を働かせることへの変化です。

18世紀以前の「聴く」というのは、音楽をきいて、心を揺さぶられたり、動かされたりする、いわば受け身の姿勢です。これは、第1章の説明にもありましたように啓蒙主義による音楽が言葉の二次的な代用として捉えられてきたことによると考えられます。言語というのはメッセージを伝えたり、知識や情報を得たり、相手を説得することができます。音楽が、その言語に代わって機能するのであれば、言葉のような明確な情報やメッセージを伝えられないため、相手の感情に訴えかけて、心を揺さぶり動かすことに目的があると考えられることになりました。だから、音楽を作る側である作曲家は、聴き手に音楽が効果を及ぼすことを主眼とすると、考えることになります。音楽が効果を得るために、作曲家が心掛けなくてはならないことは分かりやすいということです。言葉が伝わるためには、言葉の意味を、伝える側と伝えられる側が共有していなければなりません。音楽を言葉に代わるものと捉えるならば、ある感情的な効果を聴き手に生じさせるためには、そういう感情と結びついていることを音楽を伝える側と伝えられる側で共有しているほうがいいということになります。それが分かりやすいということです。しかし、作曲家が新しいメロディを創作することと矛盾するのではないか、それは、作曲家の巧拙は、創作した新しいメロディに対して聴き手は、馴染んだものと受け取るように創り出す点に求められることで、解決されました。そういう作曲家として称揚されたのが、ハイドンです。だから、音楽がわかりやすい、つまり聴き手に効果を生じさせる音楽であるか否かは、ほとんど作曲家の双肩にかかっていたことになります。

これに対して、18世紀以降の新しい「聴く」というのは、聴き手が能動的な姿勢に変化します。聴き手が音楽に対して能動的に働きかける、例えば器楽曲の言葉のようなイメージが限定されない音の響きに対して想像力を働かせて内容を読み取っていくという作業です。いわば以前の音楽は言葉による演説のようなものとして捉えられていました。そこから聴き手が受け取るのはメッセージです。これに対して新しい「聴く」では、演説ではなく観照(瞑想)の対象となりました。聴き手はそこからメッセージではなくて啓示をうけとるのです。神さまから受ける啓示は、人間の言葉ではないので、それを解釈して言葉に置き換える、これは例えば聖書で預言者といわれる人たちが行っていたことです。これに似たようなことを音楽の聴き手が行う。その解釈の際に必要で、重要な働きをするのが想像力(構想力)です。

カントは、このような音楽の「聴く」べき対象を「美」といいました。神様の啓示が渾沌に規範を与えるように、天才的な芸術家によって、独創的な新しい規範が開けるというのです。この規範は、もともとあるものではなく、もとからある規範をなぞるものは模倣とみなされ、芸術的表現ではないとされました。このような、もともとあるのではない規範を見つけ出し、規範であるとするのは、聴き手の想像力によるということなのです。カントは、同じような自然現象の中から規範として法則を見つけ出す科学を芸術と比較して、科学は誰にでも理解し説明できるようになっていますが、芸術は、受け取る人が自身で考え、自分で規範を見つけ出さなければならないのです。カントは、そこに言葉では説明できないもの、限定できないものがあると言い出したのです。それを見つけ出すのが観照という行為です。

このカントの考えを、さらに推し進めたのがロマン主義者たちです。カントの言い出した、言葉では説明できないもの、限定できないものは、限定できない故に無限性となり、言葉では説明できないがゆえに、容易に手が届かないため、我々にとって遠い存在で、それに対して我々は憧れる。音楽の音の広がりは無限性に、言葉のようにメッセージが分からないのは不可知な憧れの対象として、深遠で高踏的な神秘的な真理と同じようなものになっていきました。芸術と哲学が同じものに近づいていったのです。ただし、芸術と哲学は目的地は同じでも、その目的へのアプローチが違うのです。そこで、音楽を「聴く」観照という行為は、哲学の思索と同じようなものになっていきました。むしろ、シェリングのような主観主義的な傾向のある哲学者は、哲学的な思索は理性によって為されるけれど、理性というのは全体があって、そこから論理によって推論していくわけだから、とどのつまりは堂々巡りで、新しいことは入ってこない。その行く先は退行するとかない。むしろ、芸術は、その理性が及ばないところで為されるものであるので、理性による退行の連鎖を打ち砕く、直観により絶対的な真理に触れる可能性がある、と哲学よりも上位に置こうとします。

そして、以前であれば、音楽の責任は作り手である作曲家が一方的に負わされていたのですが、こうなると、音楽から「聴く」ことによって、なにものかを読み取っていく聴き手のほうに責任が移されたということになるでしょう。

そして、さらに、「聴く」ということが変化したことによって、聴き手の側だけでなく、作り手である作曲家の側でも、以前のハイドンのような独創的ではあっても、聴き手に分かりやすいことを第一に作るということから、聴き手が想像力で読み取ろうとするのだから、分かりやすさを考慮しないで、また模倣は独創性と対立するものであるから、聴き手に馴染んだメロディを使うこととは反対に、従来にない聴き手の耳に新しく聴こえるもので、内容の濃いもの、端的に言えば何かがありそうな感じのもの、そこで、難解とか過激ということが価値をもってくることになっていくわけですが、そういうニーズに適合した作品を送り出すのを始めた一人が、しかも典型的だったのがベートーヴェンという作曲家だった、というわけです。

2016年2月14日 (日)

マーク・エヴァン・ボンズ『「聴くこと」の革命』(1)

第1章 想像力をもって聴くこと─美的関心の革命的変化

『聴くこと』の革命の第一は、聴く対象の変化です。その変化とは、端的に言えば音楽作品のヒエラルキーのなかで、声楽に替わって器楽が重視されるようになったということです。そして、ベートーヴェンこそが、器楽を中心に作曲をする、フロンティアのようなひとだったのです。

ここでは、主に哲学の美学思想の変化に、その表れを見ていこうとします。まず17世紀から18世紀にかけての近代のスタートを切った合理主義(啓蒙思想)においては合理的な明晰さが何よりも求められたと言えます。彼らの考え方の根拠は古代ギリシャやローマの古典であり、それを持って中世以来のキリスト教会による宗教支配に対抗しようとしたのです。そのギリシャ哲学の中でアリストテレスが芸術の本質はミメーシス(模倣)にあるという主張を、啓蒙主義は継承したと言います。例えば自然の事物をそのままに描写した絵画や彫刻、あるいは言葉に置き換えた詩などでそれに当たります。それに対して、音楽は自然の事物を直接描写することはできません。雷を描写しようとして、雷の音をそのままに再現することはできません。音楽ができるのは、その雷を受けた人々が受けたのと同じような刺激を思い出すような効果を与えることを行うということです。それは模倣ではないとして、単なる効果であるとして重視されませんでした。かろうじて、声楽は歌詞が詩に準ずるということで、つまり、音楽の要素ではなくて、歌詞の言葉の要素で尊重されたということだった。

それに対して、その同じ事態に対して評価が逆転するという変化が起こります。

そこに登場したのが、カントに始まる観念論哲学です。端的に言えば、カントは単に目の前にある自然を模倣するというのではなく、本質を表わすということを考えます。言ってみれば、目の前に1本の樹木があるとすれば、その樹木を写すのではなくて、樹木の理想の姿(古代ギリシャのプラトンの言ったイデアと重なるのでしょう)を表わすためには、構想力という、想像し理念化することが必要だといいます。

それをさらに進めれば、私たちの目の前にあるものは理想的な姿ではなく、言ってみれば不完全でかりそめのものでしかない。私たちの眼や耳などの感覚を通して入ってくるのは、そういった仮の姿であるので、芸術は、そういう仮の姿を模倣しても意味がない。むしろ、最初から理想を追求して、それを私たちの前に現出させるのが芸術ではないか。という逆転した方向に進みます。そこにロマン主義の無限への憧れとでもいう傾向が拍車をかけることになりました。例えば天国という理想郷は、私たちの眼に見える現実にあるのではなく、現実を超越したもので、私たちは、そこに辿りつくことができません。ただ天国を想って憧れるだけなのです。そして、その天国を表わそうとすれば、現実にないのですから、現実の風景や事物をあてがうわけにはいきません。そのとき、現実を描写しない音楽というのが、実は、現実にない天国に憧れると同じような、間接的な表現に適しているのではないか、ということになってきたのです。

そして、現実に形を持たない理想を体現するものこそが、近代的な思想がもっとも重視する精神なのです。精神と身体などと対比的に並置されますが、身体は現実に具体的に存在し、見ることも触って確認することも出来ます。これに対して精神は見ることも触れることもできない。さきほどの天国と同じなのです。その天国を表わすのに音楽、とりわけ器楽が適しているということになれば、精神を表わすのには、実は器楽が適しているのではないか、ということになってくるわけです。

ここでは、その主張を当時の哲学者や批評家が手を変え品を変え述べたことを紹介してくれて、情報とか話のネタを仕入れるという点でとても重宝しそうです。

しかし、そもそも、ここに私がまとめた議論には、ちょっと無理があるように思えます。だって、音楽がそうであるならば、程度の違いはあれ、言葉だってそうではないですか。言葉そのものは現実の姿そのものを反映しているわけではありません。「いぬ」という言葉が現実の犬を表わすというのは、単なるお約束でしかありません。話を少し戻して、声楽が言葉という明確に描写するものがあるから、という議論でも、音楽における歌詞というのは、単に読むとか、書く言葉と同列に扱ってよいものなのかどうか。これは現代の私の偏見かもしれませんが、音楽のメロディーとか、ハーモニーに乗った言葉から受け取る感じと、普通に話された言葉から受け取る感じは、違うと思っています。例えば、演歌で短調のメロディに乗って「みなと」という言葉を聞いたときと、普通に歌詞カードを読んでいてその中に「みなと」という言葉が出てきたときとで、「みなと」の意味内容が同じとは言えないのではないでしょうか。

ここでの私の要約は、ちょっと無理をしていますが、一番気にかかるのは、なぜに考察があまり及んでいないで、状況の推移の記述に終始していることです。17世紀に器楽が重視されていなかったのは、器楽が言葉のような明確さをもっていなかったまではいきますが、なぜ、明確な言葉があるほうが重視されたのかとか、18世紀後半になって、器楽が重視されますが、器楽の具体的な形を持たないところが逆に価値をもったと説明されていますが、そのような形のない超越的なものが重視されるようになった理由の説明が曖昧なまま突っ込まれていません。だから、結局のところ、全体がモヤモヤしているのです。

2016年2月13日 (土)

「グローバル経済の誕生:貿易が作り変えたこの世界」ケネス・ポメランツ他

英米の学者というのは、ヒュームとか、もっと以前のベーコンの頃からの経験主義というのか、帰納的な論証というのか、個々の具体的な事象を並列するように、並べたてて、まるで例示ばかりで、幹となる論理とか筋を探すのに苦労して、結局、何をいいたいのかと問いたくなるような、焦燥を覚えるものが少なくありません。しかし、語り口が達者な人が書くと、その個々の事象が面白くて、エピソード集を読んでいるように引き込まれることがあるのも確かです。その場合、論理とか骨格は、読む側の解釈に委ねられているように、実は、作者の掌の内で踊らされているに過ぎないのですが。この著作にも、そういう寛大さのテイストが感じられます。主に、ヨーロッパの大航海時代を経て植民地経営が始まった頃から、産業革命を経て、資本主義経済と帝国主義政策が併行して進められ、言うなれば近代資本主義が勃興を発端から成熟に至るまでを、主にアジア、アフリカ、南アメリカのエピソードを紹介し、それぞれの関連をネットワークということで関連付けるような筋立てで、あとは、読む側がイメージを膨らませなさい、というもので、知的スリルを起こさせる読み物としても興味深いと思います。

これは、私の極端な主観的な読みですが、こんな読みも可能です。近代の資本主義は、イギリスで紡績や織物の機械化による生産力の急速な成長を蒸気機関という動力が加速度をつけて、桁違いの生産が経済の底上げをしたことが大きな契機となった、と高校か中学の歴史で習ったような気がする。漠然と、そんなものだと思っています。ところで、単に生産力を増強して大量にものをつくっても、それだけで事業が急速に成長するでしょうか。最近ではシャープが液晶の生産施設に過剰な投資をした結果、経営が傾いてしまったといいます。つまり、生産力を大幅に増強したことで、衰退してしまったということになるわけです。でも、いわゆる産業革命は、革命といわれるほどの急激な経済の成長を遂げました。生産力が増強しながら、シャープのようにはならなかったのです。その違いは何だったのか。それには、産業革命が可能になるための環境が作られていたからだと考えるのが手っ取り早いでしょうか。それは、この著作では、現代で言えば、まさにグローバリゼーションと言ってもいい、抽象的な均一化の世界規模の広がりだったというのです。

その主要なものとして、この著作があげているのが、が交通や流通です。ヨーロッパ世界の東方航路の開拓や新大陸の発見により、長距離の航行が始まりました。船は一度に大量の輸送が可能です。このことによって、陸路のキャラバンとは桁違いの一気の大量の物品輸送、しかも長距離が可能となり、流通に変革が生まれたといいます。これによって、イギリスの機械化された綿工業の原料である綿花を船で大量輸送し、製品を全世界に船でまとまった量を一気に供給することが可能となった。と結果に先回りしすぎました。とは言っても、海上交易は、それ以前もあったはずです。そこで、以前の海上交易は沿岸貿易だったといいます。例えば、インド洋沿岸に多数の港町があり、その間を編み目のように船が行き交っていました。しかし、そこでの交易は小規模な個人の商人が担い、それぞれの港町で入荷した物品を近くの別の港に持って行って売りさばくという、一種のマージン商売だったそうです。港で扱われる商品は、その時その時あるものという不安定なものでした。例えば、インドのある港で、たまたま良質の綿布が作られたので、それをちょうど勝って、隣のビルマに行って収穫直後の米と交換するとか。ただし、このときの綿布も米も常に港にあるとは限りません。つまり、この場合の商人は、その時に港で調達できるものを目ざとく見つけて商売に結びつける目端の利くような人々だったのです。その小さな商売のやり取りが、例えば綿布は転売されて、中国に辿りついたり、と全体として流通が機能していたわけです。しかし、この綿布の流れをみれば、途中で何人もの商人の手を経ているわけで、そのたびにマージンが積まれるので、中国にたどり着く頃にはかなり高額になっているはずです。つまりコストがかさむのです。そひで、ヨーロッパの大型船で沿岸を経ずに直接インドから綿布を買って、ダイレクトに運べば、中間の商人のマージンがかからず、そのマージンを全部自分のものとすることが出来るわけです。しかし、そのような遠距離の公開には大型船が必要です。大型の船舶を使うと、売買する荷を確保できるか予定が立てられないのです。船がいっぱいになるまで荷を積まないと利益が出ないということなのです。遠路、インドまで行っても、綿布が十分に仕入れることができるとは限らないのです。最悪は、インドに着いて、綿布がないので、生産を待っていることに成ります。しかし、船員は確保しておかなければならないので、人件費がかさみ、結局、効率が悪いことになります。そこで、発明されたのが倉庫というわけなのです。つまり、船が来るまでに倉庫に荷を蓄え、船が入港すると倉庫に蓄えた荷を速やかに積み込む、それで船の航行の計画が立てられることになるのです。そのことによって、船大型船の輸送効率が飛躍的にアップします。そして、倉庫に荷を蓄えることがはじまると、それをあてにして、いきあたりばったりではなく、定期的に倉庫に入庫させるということがはじまります。つまり、そのために綿布の材料である綿花を集中的に生産するのです。以前は、自給自足の農業の、余剰として綿花を作っていました。農家も自分が食べることが第一だったのです。しかし、倉庫ができたことによって、自給自足から離れた単一の商品作物をつくるという発想が生まれました。しかし。アジアの農業は自給自足で成立していたため、やり手がいません。そこで、新大陸で農地を開墾して大規模な綿花とかサトウキビを専門に生産するプランテーションがはじまるのです。そのための労働力として地元の農家は使えないのでアフリカから奴隷を調達しました。それが奴隷が活発かして理由です。そして、奴隷はアフリカからアメリカに、どんどん送られます。その奴隷の調達のために、イギリスで生産した綿製品やその対価の銀が使われたのです。このような環境で、綿製品がいったん海上輸送のセンターとして、集められるイギリスで、大量に作ったとしたら、イギリスはぼろ儲けということになります。

このように見て行くと、ほかにも、通貨というものの考え方が、実は変質してきたことが分かります。まあ、ぶっちゃけた話、グローバリゼーションとか、資本主義とか、市場経済とかいいますが、市場とは、別の例で言えば、陸上競技のトラックのようなもので、走って競うということを、普通の陸上では考えられない、凸凹のない、真っ直ぐな場所を人工的につくって、そこで競わせる。そこで、そのような場所で速く走るために特化した人々で競うという陸上競技というスポーツと、市場という場で経済の競争をする公開企業とは、同じようなものです。オリンピックが、そういう特化した陸上競技のスペシャリストを各国で育成するように、各国で企業を育成し、陸上競技の覇者が世界で一番速く走る人と、誰もが思うようになる。実際、その人は、そういう凸凹のない直線を速く走るのには秀でていますが、サバンナで猛獣に追われて、原住民と共に逃げるとして、一番速く走って逃げおおせるということにはなりません。

この著作にも、資本主義の経済合理性は、違う文化環境では、人が共同体で生きていく上では不合理であって、その波に抗うことができず、破滅していく人々の記述もあります。

コインの裏表のようなもので、その両面を視野にもつことは大切なことで、そのような目配りも、少しあるということで、刺激のある著作であると思います。

2016年1月20日 (水)

三谷博「愛国・革命・民主:日本史から世界を考える」

明治維新を他国の近代社会への革命との比較で考え、それをもって現代を見ようとした著作。

論点は多彩で興味深く、それをフィードバックして明治維新に再び目を向けると、その特異性が際立ってくるという、読書の楽しみを満喫させてくれる著作です。明治維新について述べながら、フランス革命や辛亥革命との比較に視点が飛び、その視線が現代の民主制や紛争に及んで、アクチュアリティーと身近さに驚くとともに、それらが見慣れた局面と異なる姿を現してくるので、興味は尽きません。著述は、民主とか革命といった項目に分けられますが、ハッキリ区別させるわけではなく、単に議論の入り口という程度で、関連しあって、さながら迷宮の様相を呈示します。

例えば、ナショナリズムと民主化との関係は、現代では相反する対立的に扱われるのが常識ですが、明治維新においてはナショナリズムこそが民主化を進めていた、という事実を示します。幕末からの幕府という将軍を頂点とした権威主義的体制が崩壊した大きな要因に公論とか公議ということがあったという。これは、現在の視点では民主的な議論といったことになるかもしれなませんが、当時は、老中の寄合の結論を将軍が決裁するという手続が幕府の当初からあって、その展開と考えれば、これは現代でいえば、会社の決定手続きに置き換えれば稟議制に近いイメージが可能です。これが幕府の体制が形骸化するにつれて、形式化が進み、将軍といえども、この手続きを踏まないと権力を行使できなくなっていきました。近代の立憲君主制、例えば、太平洋戦争に際して君主である天皇は主体的に権力行使ができなかったと言われていることに近いイメージといえます。つまり、正当性の根拠が手続を踏むことなのです。これは、お役所の前例踏襲主義、手続を踏まないと何も進まないのと同じです。外観からは近代ヨーロッパの民主政体の法の支配とそっくりな形にみえます。その体制が成熟化したころにペリーの来航があり、老中の安倍正弘が前例を破り広く意見を求めたことを契機にいわゆる雄藩の大名が、その手続に参加しようという空気が一気に広がりました。そうなると実力のある大名が新たに幕政に参加しようとするのと、従来の小藩の大名で実力のない老中との権力争いが生じ、将軍の継承争いも絡み、対立が先鋭化していきます。そのひとつの噴出が安政の大獄です。一方で、この雄藩の家来の西郷隆盛や橋本佐内、あるいは水戸の藩士たちが藩主のために根回しの奔走していたのが、ボトムアップの議論の発生を促すことになります。このとき、雄藩の大名たちが自身の政策的意見の根拠としたのが、国のため、いわゆる人為的なナショナリズムでありました。ただ、幕府内で、その主張するためには幕府=国としてしまうと、幕府の手続主義を認めることになってしまうので、公議を進めるという改革ができないことになります。そこで持ち出したのが天皇という別の権威だったということです。それが勤皇ということでした。一方、ボトムアップの方向の議論が広がり長州などではエスカレートしていきました。そして、正しい主張をしているのだから手段は正当化できると暴力と結びついていき、そのプロセスで勤皇が尊王に変質していった。それが討幕に発展していきます。つまり将軍は公論の邪魔になるという正当化。ここに近代的な民主ということはは出てこない。

それが民主と結びつくのは、明治維新後の自由民権運動のころです。こんどは反政府の主張は薩長の専横は国のためにならない公議を歪めるという、討幕の論理を逆に突きつけていくのです。この自由民権運動を支援したのが、地方の有力者、豪商や地主といった武士以外の人々です。かれらは経済活動に従事していたので、内乱は経済活動の障害となることから、内乱を嫌い、議会での討論を支持しました。これが全国展開するのです。これが西欧列強からは市民に見えたわけです。それを目ざとく発見した伊藤博文のような元勲たちが、西欧への受け狙いと、著者はエエカッコしいとか見栄を張ったという言い方を著者はしていますが、後世へのかっこうつけのような、いい意味での矜持があったから、国会開設を決断したのではないか、というのです。それは、目先にとらわれず、遠く将来を見据え、評価は後世の歴史家に任すという英雄的な決断でもあったわけです。

一部を抜き出しただけですが、NHKの大河ドラマのような怒鳴り散らしながら若い男の子が刀を振り回す幕末ドラマなんぞより、意外性もあるし、展開に手に汗握るほどの面白さがあります。

2016年1月 7日 (木)

イーユン・リー『千年の祈り』

「修百世可同舟」という中国のことわざ。誰かと同じ舟で川をわたるためには、三百年祈らなくてはならない。つまり、どんな関係にも理由がある。人と人とが互いに会って話をするには、長い年月の深い祈りが必ずあった。夫と妻、親と子、友達、敵、道で出会う知らない人、どんな関係でも。例えば、愛する人と愛を交わすには、そう祈って三千年かかる。父と娘なら、千年は祈る。人は偶然に父と娘になるのではないのだ。その関係がよくないものになったことにも理由がある。いいかげんな祈りを千年やった結果なのだ。短編『千年の祈り』で、留学先の米国で離婚した娘をなぐさめようと、中国から、わざわざ娘のいる父親が米国にやってきます。そその父親は離婚の痛手に打ちひしがれているだろう、だから慰めなくてはと、盛んに娘に話しかけます。しかし、当の娘は、それをうるさがって、話をしようとしません。そこには、まだ娘が小さなころに父親がおかした些細な過ちから嘘が生まれ、父親は虚偽の露見をおそれ家族に対して会話をしなくなってしまった事情も要因としてあるようです。はからずも、それをこんどは反対に、父親は娘に会話を拒まれることになってしまったわけです。しかし、実は、娘は父に余計なお節介をしてもらいたくはなかったのでもあるのでしょうが、父に対して口を閉ざしていたのは、優しさからだったということが、娘が思わず口走ったことから明らかになります。父親の嘘を娘は知っていた。つまり、家族は互いに嘘を演じていた、それを十年以上に渡っていたということなのです。ことわざの祈る、つまり、相手をおもうことと、話すというコミュニケーションと口を閉ざすという行為の3つのことが、父と娘、男と女などといった関係のなかで重層的に交錯し、物語をつくっていきます。ここでは、もう一人、父親はイラン人の女性と親しく会話を交わします。しかし、中国人とイラン人、英語が拙い二人は共通の言葉を持ちません。二人は通じない言葉を交わし、交流するのです。ここで、言葉を交わすことと祈る(相手をおもう)ことの別の交感が生まれます。この作品の中で、話すということ、コミュニケートするということのイメージの豊かさ、多様さは、それぞれが交錯するように読み手のイメージを増殖させます。ものがたりなのですが、その言葉の内包するイメージの豊かさは詩ではないのですが、ポエティックと言いたくなります。非常の密度の高い短編で、ずっしりとした重量感をもった10篇の短編で盛られた短編集です。ただし、語り口は平易で、決して読み難い作品集ではありませんない。一見地味ですが、繰り返し読んでも飽きることがない、滋味溢れる短編集です。

2016年1月 3日 (日)

松本大輔「クラシック名盤復刻ガイド」

クラシック音楽の復刻名盤ガイド本のひとつなのでしょうが、ここで主として紹介されているのが1940~50年代の録音で、クラシック音楽の演奏様式がプレイヤーの主観的な解釈を重視し極端な場合には作品の改変も許容するロマン主義から楽譜に忠実に従う新古典主義に、音楽の聴き方が演奏会というライブ中心で録音はその記録という二次的な位置づけからライブと録音は別物でそれぞれ異質な一次的な位置づけ、また録音媒体がSPからLPへの、等といった過渡期のもので、とくに音楽に限ったことではなくても、過渡期とか転換期は伝統的な枠組みのタガが外れたような時期で、従来の常識では考えられないような例外的なといえるようなものたちです。そして、その一部に新たな様式として継承されたものもありますが、決して後の世に繋がることなく、その時だけしか生まれえないような時代のあだ花としてしかありえないようなものもあわせて出現したのです。しかも、ここではさらに、第二次世界大戦の極限の経験、とくに、ここで紹介されているのはドイツ人の演奏家が多いのでナチスの支配体制への何らかのコミットメントとその戦後の彼らの人生を大きく捻じ曲げてしまったことの影響。これらが、ここで紹介されている名盤と呼ばれる録音に、実際に音として表われていることが活写されています。ここで紹介されている録音を実際に追いかけていくと、背後、あるいは底流のそれらのことが具体的に浮かび上がってくるようです。例えば、有名な例であれば、フルトヴェングラーが1943~44年の戦時下のベルリンフィルを指揮した録音は、切迫した戦時下で演奏する人も聴く人も文字通り生命をかけた(明日は死ぬかもしれないという現場)で録音された鬼気迫る演奏。あるいは新進気鋭のピアニストとして将来を約束されたにもかかわらず、戦争に巻き込まれ、ユダヤ人であったために家族、親類、友人をすべて殺され、本人も命からがら脱出したものの神経衰弱で人格が崩壊寸前まで追い込まれる。そこから不死鳥のように復活し、往時の華麗なテクニックを取り戻すことはできませんでしたが、余人をもって届き得ない深い響きで、聴いた人をとらえて離さないものだったという演奏。それほどでもないのでしょうが、カラヤンがナチス党員であったために追放され、下積みのような時代にローカルオーケストラを指揮した追い込まれたような演奏。それらの録音をはじめとして、どのようなところに聴き取ることができるかを、ひとつひとつ地道に具体的に剔抉していくように、紹介していきます。この著者は単にそれをエピソードとして、演奏そのものとは別の付属のものがたりの付加価値を殊更に引き立てるのではなく、演奏そのものを、例えば“爆演”などといった平易な表現で紹介してくれるものです。ガイド本としては、珍しく音楽が聴こえる本です。

2015年11月21日 (土)

『日本映画について私が学んだ二、三の事柄─映画的な、あまりに映画的な』山田宏一著

コンサートの後で感想を語り合う際に、映画ファンの会話を羨ましく思うことがある。この著作にも、そういう会話が至るところに散りばめられている。例えば、黒沢明の有名な「羅生門」。ヴェネチア映画祭で金賞をとり、アカデミー外国映画賞に輝いた、日本映画を世界に知らしめた作品だが、三船敏郎、森雅之、京マチ子の三者がそれぞれの視点で、ひとつの事件を三様の全く異なるものとして表わす。それが、平安京の時代風景の中で幻想的に語られる。それを、著者は陽射しの映画だという。そう、たしかにそうなのだ。事の発端は、真夏の昼下がり、大木の木陰で暑を避けてうたた寝している盗賊(三船)の前を身分のある男女(森と京)が通りかかる。この時大木の梢を鳴らして涼しい風が吹きわたり、寝そべっている盗賊の顔に映る枝や葉の影が揺らぎ、木漏れ陽が射す。男は薄目を開けると、馬に乗った女の足が目に入り、市女笠のヴェールが風にひるがえる一瞬、美しい女の横顔がアップで画面をよぎる。しかも、見上げる男の視線の先には太陽が照り、女の顔は逆光に映える。男は目を瞠り、思わず刀の紐をつかみ、刀を引き寄せる。このとき、無意識のうちに連れの男を殺し、女を奪うことを決心していて、「あの風さえ吹かなければ…」という独白とともに、盗賊の回想の中に描かれる出会い。

そこでは、カメラは逆光を多用させられる。真夏の熱い陽を表わさなければならない。盗賊の顔に映る木漏れ陽を映さなければならない(これを映画史に残る木漏れ陽と称する映画ファンを何人も知っている)、また女の印象的な横顔を逆光に映えるように撮らなくてはならない。だから、この作品の本当の主役は太陽なのであって、フィルムというは光が当たった物体を映すものであるにもかかわらず、その光を発するものを撮ろうとしたという革命的な作品なのだ、という。

映画を語ることのすごさは、それが単に言説として独り歩きしてしまうのではなく、実際に、こういう場面で、このようになっていると、言っていることを、ちゃんと実証できることだ。それは、音楽を語るときに、この作品は宗教的だと評しても、どこがどのようにと具体的に語ることができないのとは対照的なのだ。

しかし、映画のこのような言説は、多分、日本では淀川長治という映画を具体的に語る天才がいたことに、大きく負っていると思う。彼は、徹頭徹尾作品を語りながら、結果として豊かな映画論になっていたという素晴らしい手本を示したからだ。

惜しむらくは、1950年代の人たち、森一生や三隅研二、中川信夫らについて触れられていなかったのが残念。

 

ちなみに、黒沢明の映画のエッセンスをまとめたこの動画を見るといい。「羅生門」「7人の侍」「生きる」「用心棒」「野良犬」といった黒沢明の映画を未だ見たことのない人でも、その特徴的な魅力をたった8分ちょっとで分かりやすく分析してみせた動画。その大きな特徴は、“動き” にあるとし、人物のアクションはもちろん、それを生かすためのカメラワークや編集の流れ、背景まで、あらゆる動きに意味があることをズバリと指摘する。「7人の侍」のあるシーンを、ハリウッドのヒット作「アベンジャーズ」を引き合いに出し、バッサリ切りながら説明する。カメラの動きだけでストーリーになっている黒澤映画の凄さが浮き彫りとなるという説明には、思わず納得してしまう。一部のシーンだけでは物足りなくなり、作品を見たいという欲望を抑えきれなくなってしまう。

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