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書籍・雑誌

2022年1月23日 (日)

塚谷泰生、ピーター・バラカン「ふしぎな日本人─外国人に理解されないのはなぜか」

11112_20220123222701  自分の意見を強く主張しない日本人の引っ込み思案な性格は、外国人には理解しがたいという。この要因となる日本の集団主義は、世界にも稀なほど高度な労働集約で行われる稲作に起源がある。
 稲はもともと熱帯・亜熱帯の農作物で、温帯気候の日本には適さなかったのが、徐々に品種改良により寒冷地栽培ができるようになった。しかし、そこには無理があったために、日本での稲作には多くの困難が伴うものとなった。例えば、熱帯のタイやインドでは、水田に種を直播きして収穫を待てばよく、二期作や三期作ができるので、仮に台風等で一度不作になっても、年内に再度収穫がある。だから、一度の不作でも飢えることはない。これに対して、日本は1年に1度しか作れないので、稲作の失敗は飢えに直結してしまう。だから失敗は許されない。
 日本には火山が多いので土地は火山灰土で痩せている。しかも酸性土壌で、養分が少ないうえに水田では水の確保も必要なのに、軽石のようなものだから、水を溜めておきにくい。そこで、表土を突き固めて水が抜けにくくする必要がある。そういう田んぼを単につくるだけでなく、水を確保するための灌漑、治水を集団作業で行わなければならない。このような田んぼや水といった準備が整ったら、農作業、例えば田植えだ。品種改良された日本の稲はひ弱なので雑草との生存競争に勝てない。だから、ある程度成長した苗で田んぼに植えて、種の状態の雑草に対してスタート時点で競争の優位を作り出す。そうしないと日光の吸収などで収量に影響する。この田植えを短期間で集中的にしなければならないので。集落総出で、集団で一気に終わらせる。地形、地質、気候に恵まれていない日本の農業は個人で稲作ができないほど労力が必要なため、集団で働くことを前提とせざるをえない。つまり、個人では生きて行けなかった。毎年の梅雨の具合とか夏場の気温、度重なる台風の襲来、収穫時期ら米が穫れるかどうかで、生命が脅かされる危険をはらんでいたのが日本のコメ作りだった。集団で取組み、失敗しないようにお互いを監視しながら、リスクを最小限にとどめるための仕組みが常に必要とされた。集団の中で誰かが勝手な行動をしたり手を抜いたりして機能しないと、それが連鎖して全体に影響を及ぼし、最悪の場合は収穫ができずに全滅してしまう。このことを全員が認識して互いを監視してまで、すべてを厳格に着実に計画通りに作業する必要があった。
 そのような集団、いわゆるムラでみんなでいることで、ようやく食べていくことができた。その結果共同で稲作することが生活、生命の基点となって、個人の幸せとか利益というより、その食料・お金の生産組織である集団の利益の利益が優先されるようになったのは無理もない。集団の組織が暗黙のルールを用意し、人々はその中におとなしく収まっていればよかった。欧米のように、議論とか個人の考える訓練をしてこなかったのは、必要なかった、むしろ邪魔であったからだ。
 ちなみにヨーロッパの農業は、広大な平地と豊かな土壌に恵まれ、端的にいえば好きな時に種を蒔いて、収穫を待てばよかった。だから、個人個人が各自バラバラで、すきなように農作業して収穫ができた。そこには、個人を主張できる余裕があった、と日本の側から言うことができる。著者は、グローバルな視点で、このような日本の文化は守りの姿勢で、ヨーロッパのような攻撃的な文化には競争に負けてしまうという。私には、著者の視点はヨーロッパの人から見て、日本の特徴を説明するのに、とても説得的だが、あくまで視点はヨーロッパ的というバイアスがあると思う。いい意味でも悪い意味でも。

2022年1月20日 (木)

田口茂「現象学という思考 〈自明なもの〉の知へ」

11112_20220120221601  何の疑いもなく「確か」だと思われていることは、当たり前なことだから殊更に「確か」であると言われることはなく、そのような言わずもがなの「確か」を探究しようとするのが現象学というものだ、という。
 たとえば、科学も、当たり前を探究する。リンゴが木から落ちるのは当たり前で、誰もが知っている。しかし、この当たり前の事実を重力という力によって説明するということは、決して自明ではない。科学は自明なことを事実として前提した上で、そこに潜んでいる新たな事実を明るみにだす。これに対して、リンゴが木から落ちるのなぜ当たり前と思えるのか、を問うのが現象学の姿勢だという。ここで、当たり前、つまり「確か」であるということを絶対的に追究したものとしてデカルトの方法的懐疑がある。「確か」なものを究極に追究して「我思うゆえに我あり」に行き着いたというが、釈然としない。そうではなく、われわれが「確か」であるとは、どのような状態を指しているのか。例えば、人が自転車に乗っている時、ペダルを漕いだりハンドルを左右に動かしていたりという複雑な身体運動を意識しているわけではない。この意識は当たり前ゆえに言わずもがな、確かであるという信頼ゆえに、あえて問わない、つまり意識として現われてこない。このときのような、人が事物や経験に対して、どのように向かい合っているかという構造が現象学のテーマとなってくる。それは、人と事物との関係であり、人と人との関係である。
 フッサールの現象学の解説というと竹田青嗣の著作に、たいへん世話になったが、竹田の解説では私つまり主観が事物つまり客観をどのように認識するのかという議論になって、新カント派の主観論と見分けがつかなくなるところがあった。この著作の説明では、カントの物自体と現象という考え方とは、そもそも異質であるということがはっきり分かる(カントはデカルトの究極の系譜を引き継いでいるだろうから)。でも、この著作の解説では、フッサールからハイデガーやシェーラーに連なっていくことが分からなくなった。
 哲学の専門用語を使っていないので、読み易いが、考えさせられる、というより考えながら読む著作だと思う。

2022年1月12日 (水)

古田徹也「いつもの言葉を哲学する」

11112_20220112224801  新聞に連載したコラムをまとめたもので、それぞれのコラムは一話完結だが、それぞれの話は生活の具体的場面で息づく言葉のありようをエピソードとして取り上げている。そこに底流する著者の姿勢は、言語とは生きた文化遺産であり、言葉を用いるということはそれ自体、人々の生活のかたちの一部である、ということ。他方で、多くの言葉には物事に対する特定の見方が含まれているということ。言葉というものには、このような特徴があるために、ここで、言葉の古い用法や誤った用法などに触れることによって、普段は気に留めていなかった物事に注目したり、それを従来とは異なる仕方で捉える機会を得ることができる。
 そういう言葉の機能は反面で行き過ぎると、普段用いられる語彙や表現形式といったものに対する過度の規格化や「お約束」の蔓延といった事態を招く。この事態が言葉の平板化や応答の形骸化を招き、言葉の勢いや熱量といったものが物事の真偽や価値の代用品となるに至る。昨今の「炎上」という現象は、その現代的なあらわれだろうと思う。
 このような言語をめぐる危機的な状況を見据え、応答の形骸化すなわち、ありがちな言葉(常套句)を小気味よくやり取りするような思考停止ではなく、反対に迷いながら意識的にしっくりくる言葉を手探りすることを提示する。この模索の際には、われわれは自分にとって既知の言葉の中で迷う。つまり、しっくりくる言葉の選択は、自分がこれまでの生活の中で出会い、馴染み、使用してきたものの中から。それゆえ、言葉の探索は自ずと、これまでの自分自身の来歴と、自分が営んできた生活のかたちを振り返ることになる。
これって、「自分の言葉」で語るということと同じだよな、と思う。

 

2022年1月 5日 (水)

佐藤道信「〈日本美術〉誕生 近代日本の『ことば』と戦略」

11112_20220105203801  絵を見て、いい絵だというとき、なぜか?という問いは、根源的な問いだが、いわゆる“専門家”はそういう問いが一番困る。それは知識の前提以前の「そういうことになっている」ことを問われるからだ。それが「絵画」とは何かというようなことで、絵を描く画家はそんなことを考えないかもしれないが、「いい絵だ」と語る場合には、そういうことを突きつけられる。そこには、語る人の主体が問われる。そういうのを形づくっているのは語りの文法というもので、「日本画」という前提が日本の歴史の中で、「日本美術」は明治期、「絵画」他多くの用語とともに形成されてきたことを明らかにしようとした著作。
 もともと日本には「美術」という概念はなかった。「美術」は 1873 年のウィーン万博に参加するためにドイツ語を翻訳した造語だという。明治政府は殖産興業の一環としてジャポニスムを外貨獲得の手段として美術工芸品をアピールするため海外の博覧会に積極的に参加した。その主務官庁は商工省であり農商務省であり、主に扱ったのは彫刻や陶磁器などの工芸品や浮世絵で、これらは産業として扱われた。江戸時代では、これらは職人により製作されていたので、後に工芸品として区分された。こういう動きとは別に同時期にナショナリズムが生まれ、西洋の芸術という高尚なものに該当するものとして「日本美術」を西洋の美術に対抗するものとして考えられた。その「日本美術」の対象となったのは、大名お抱えなど武士向けの狩野派や文人画や朝廷や公家、寺社向けの大和絵、これらは職人というより武士やそれに近い人が制作していた。伝統的絵画とされ、宮内省や文部省が管轄した。それが伝統文化とされたり、教育の対象として捉えられていった。この二つに分けられたことが現代では、浮世絵や工芸品は書画骨董として扱われ、学校の美術の時間に教えられるものは日本画や西洋絵画が美術として扱われるように二極分化していった。つまり、「日本美術」というのは、美術とは何かという本質を問い概念を形成したのではなく、士農工商の身分や役所の管轄の区分を引き継いで、それらの寄合として作られたといえる。それゆえ、画壇という狭い世界のなかで政治的な権力闘争が作品の評価に連動する(例えば岡倉天心の東京美術学校の追放により大観や春草らの朦朧体が否定された)。それが太平洋戦争の敗戦により、戦前の旧体制が否定され、戦前は近代、戦後は現代と区分され、近代の日本画は画壇で捨てられ、画家のなかでは伝統が断絶される。それにしたがって、近代日本画は美術から骨董の扱いに移されていった。それが高度経済成長のころに地方を中心に美術館が多数設立され、近代美術品がコレクションの対象となって歴史的な文化財として扱われるようになる。
 これは、西洋における「絵画」は、一貫して普遍的に絵画であり、例えば、イギリスで絵画に対してイギリス画というジャンルがつくられることはなかった。その対比が「日本画」の人工的なところと、ご都合主義ともいえるところが目立つのだった。そこで、最初のところの問いについて、専門家は答えることができないということに行き着くのだろうと、私は思うのだ。

 

2021年12月24日 (金)

渡辺浩「日本政治思想史〔17~19世紀〕」

11112_20211224222101  先日読んだ『明治革命・性・文明:政治思想の冒険』が面白かったので、同じ著者の著作。『明治革命・性・文明:政治思想の冒険』の前史を扱ったと言える。書名からは専門的な学術書のように見えるが、全然違う。著者も述べるように、専門知識を前提にしない一般向きに書かれた概説書になっている。とはいっても、無味乾燥な教科書ではない。17世紀から19世紀、ほぼ江戸時代から文明開化期までの、日本の政治思想をいくつかのポイントをあげて、それらを繋いで全体像を描いていく、そのポイントの選び方のセンスの良さと、各ポイントの描き方が単独で取り出しても面白く、本格歴史エッセーと呼ばれるべきものとなっている。
 伊藤仁斎、荻生徂徠といった儒者から海保青陵のような姿勢の経世済民の学者、福沢諭吉といった人たちの思想の概説は単なる紹介の域を超えて、彼らが時代の中で何を考えたかを活き活きと伝えてくれて、丸山真男の『日本政治思想史研究』ではさっぱり分からなかった仁斎の「愛」について、はじめてイメージすることができた。
 徳川幕府の統治体制というのは、強いパワーに裏打ちされた権力支配が安定し定着したもので、そのシステムが安定すると権力がいちいち指示しなくても、末端は権力の意向を忖度して自主的に随従するという、いわば「無為にして治まった」状態を生んでいた。そうなると権力は拡散し、各人は先例通りに動く、外見上は合意による統治の形に見えた。しかし、それが変革を試みたら、絶対と見えていた権力が、実は統治者の慣れによる受忍によって機能していたこと、いわゆる「裸の王様」であったことが暴露される。それがペリー来航と、その後のごたごたで明らかになり、そこから砂の楼閣が崩れるように、わずか15年で瓦解してしまった。だから、安定した支配体制の下では、権力にとって正統性は不可欠ではなく、それを保障する思想は切実に求められなかった。朱子学にしても武士道にしても、思想というのは趣味の域に留まるか、体制に反抗する人々が求めるものでしかなかった。それが、ペリー来航後に支配の安定が崩れると、それが切実なものとなって、例えば朱子学は西洋の文明をとり入れる下地として実体的な機能をもつものとなって、人々の行動の変化に関わっていくものとなっていった。それは、現代から見ると、江戸時代から朱子学は幕府のイデオロギーであったように見えてしまった(丸山真男の著作などは専ら、このような考えを補完するものと言えた)。思想家の事蹟や構想をただ並べただけの凡百の解説書のような思想史の捉え方をする、気楽な現代の思想史の捉え方に対して一石を投じるものでもあり、実はここで取り上げられている、仁斎も徂徠も宣長もそういう問題意識を強く持っていた人々で、彼らの方法論の根幹にかかわるものであったことは、著者が彼らに秘かに共感するところがあったのではないかと感じられる。
 また、上述のように、徳川幕府の統治体制というのは、強いパワーに裏打ちされた権力支配が安定し定着したもので、そのシステムが安定すると権力がいちいち指示しなくても、末端は権力の意向を忖度して自主的に随従するという、いわば「無為にして治まった」状態を生んでいた。そうなると権力は拡散し、各人は先例通りに動く、外見上は合意による統治の形に見えた。そんな体制でペリーが来航して開国を求めるという先例にない事態への対応を迫られた時、当時の幕府中枢である老中阿部正弘は諸大名に意見を求め、禁裏に報告した。幕府独断に人心がついてくるか自信がなかったから、禁裏も諸大名も合意したという正統性を求めたと言える。
他方で、権力の専横から議論による合意を儒学が後押しした。第一に賤しい民にも下問を恥じないのは治者の美徳であるということ、第二に自ら内面を「省察克治」しつつ「講習討論」することは学問・修身の基本であり、同じように広い一致をみた「公論」は「理」に適っている。これが五箇条の誓文の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」へと至る。
 明治政府の大日本帝国憲法による帝国議会は、西洋的な議会というより上記の五箇条の誓文に表わされた古い「公議」「公論」である面が強いという。そうなると、大日本帝国憲法を改正したことになっている日本国憲法による現在の国会は、帝国議会の場合と同じように、古い「公議」「公論」を引き継いでいることになる。つまり、欧米の議会で行われている議論とは違うものを求められているということになる。それは、問題提起を含んでいると思う。

 

 

2021年12月15日 (水)

岡野友彦「院政とは何だったか~『権門体制論』を見直す」

11112_20211215225501  日本史の教科書で、院政とは譲位後の天皇が上皇として権力を握り続けることで、天皇が最高権力者であった律令体制から藤原氏が実権をにぎる摂関政治、そして上皇に権力が移った院政、そして武家政権に移るという説明しかなされていない。どうして院政の上皇が譲位したというだけで天皇に対して権力を持てたかということは分からない。荘園が発達した当時、天皇自身は荘園を持つことはできなかった。なぜなら、公地公民の建前で、天皇は形式的には国内はすべて天皇の土地ということになっているので、その一部をあらためて荘園として天皇の所有とすることは二重に所有することになってしまうので、できなかった。そのかわりに荘園を持つことができたのが天皇を辞めた上皇だった。上皇は日本最大の荘園領主で、天皇は荘園からの収入がなく、父親である上皇の管理する荘園からの収入で生活していた。そのため、天皇は上皇に逆らうことができなかった。
 現代の常識にとらわれる我々は、古代に日本という国家が誕生して以来、今日に至るまで、つねにその時代の政府が税を徴収し、その税収によって国家を運営し、官職である貴族や天皇はそこから給料を得ていたと思ってしまうが、律令制度の国家財政は10世紀末には破綻してしまっていたため、摂関貴族や上皇といった権力者は、それぞれの荘園からの収入を基本的な経済基盤としていた。そこで荘園とは何かということなんだが、それが日本史の教科書では説明できていない。
 例えば、征夷大将軍という官職は、足利家や徳川家という家のものとなって、家の代々の長が相続するものとなっていた。国司などの公地公民制のもとで徴税を担っていた官職も征夷大将軍と同じように藤原氏とか各地の家の所有物のように代々が相続されるようになっていた。そうなると国司の所轄する公地とそこから徴収する税は、見かけ上は私有地と収入と区別がつかなくなる。徴収した税は最終的には中央の国庫に納めるわけだが、公地が荘園という領有にかわったところで、中央に納める税は中央の上皇や摂政関白に寄進するという形に変わる。これは上の方で、逆に下の方では、農民は公地としてあてがわれる口分田から、所有を認められる墾田に変わり(それが荘園)、税を国司に納めることから寄進することに変わる。つまり、律令制度の公地公民とその徴税が荘園制と寄進ということに置き換わったということで、荘園制度は中世ヨーロッパの荘園領主のような大土地所有ではなかった。こうすると、教科書の古代、中世、近世、近代といった時代区分が揺らいでくる。

 

2021年12月13日 (月)

笹澤豊「〈権利〉の選択」

11112_20211213224801  「権利」という日本語を普段使っているが、これは外来語であり、英語では「right」だ。ところで、単にrightの意味を考えると「正しい」というのが本筋だ。たしかに権利に当たる「right」には正しいとか正義という意味合いが含意されている。しかし、日本語の「権利」という語には、「権」は力という意味合いで、「利」は利害とか利益の意味合いで、正しいという本意が抜け落ちてしまっている。そのことに疑問を持ったことから始まって、実は「権利」という日本語はrightの実態の深層を突いていたのではないかという結論に辿り着く。その議論がなんとスリリングだったことか。「えっ?こんなだった?」という嘆息が洩れてしまうほど。
 「権利」という訳をした一人に加藤弘之がいる。加藤はrightを「利を保護する力」という意味に捉えた。国家が人民の利を保護する、利の侵害から護る機能を認めるということを認めたからだという。これは、近代国家の市民の所有権や自由競争を封建的な横槍から護ったという外形と重複するところがある。しかし、この考え方では自然権といういわば天賦人権論とは結びつかない。これに対して、福沢諭吉は『学問のすすめ』の中でrightに「権理」の語を充てる。人民の権(力)には理(正当性)があるという自然法の考え方を意識してのものだった。福沢は、その後『国会論』において、天賦人権論といえども、それを受け容れようとしない勢力に対しては、力によって対抗するのは当然であり、それはつまり「理」を受け容れることを迫る力であると言った。そこに至って、福沢はrightの訳語を「権理」から「権利」に替えた。ここで、福沢はrightに含意されていた正しいを排除する。実際のところ、明治政府のリーダーたちは富国強兵という目標を掲げた。これはrightの人間は平等に配慮され尊重されねばならないという立場と対立することになる。しかし、当時の人々は、この富国強兵に乗っかることが自己の利益の増大につながると判断して、政府を支持した。そして、その人々の判断が独り歩きして昭和初期には却って政府を煽って戦争への道を踏ませてしまうに至る。ここで、国家を支配するのは最も力のある者という「権」が多数である人民、大衆でありうることに繋がる。これは言ってみれば、実は人民主権ということになる。福沢は、そういう在り方を洞察したからこそ、「権理」を「権利」に替えたのだと著者は分析する。そうであるとすれば、rightに基づく人民主権というのは建前に過ぎず、実際は前述のような利をベースにしてパワーゲームだったということになる。天賦人権論はそういう実体を隠蔽するフィクションとして機能していたという意外な結末に導かれる。
 もっとも、このような概観はフィルターをかけた読みによるもので、この著作の議論は、よく言えば精緻、悪く言うと細かすぎて読み通すには根気が必要で、読者に忍耐力を要求するものであることは否定できない。

 

2021年12月 9日 (木)

小坂井敏晶「格差という虚構」

11112_20211209215501  刺激的なタイトルだが、格差が重大な問題として扱われている。その格差というのは平等と対比して考察されている。とはいえ、各個人はそれぞれ違う、言い換えれば差がある。そこで、結果の平等ではなく機会の平等をうたう。つまり、均等な機会を万民に与え、自由競争をさせる。その結果生まれる差か公平だという。能力や功績に応じた収入と地位を保障する原理、これをメリトクラシーとよび、法の下の平等も同じ考えによる。本書はこのメリトクラシーの欺瞞を暴き出していく。かつては強力な身分制度により、階級間の移動は困難だった。それに比べれば、個人の能力によって地位が決まるメリトクラシーは一見正当なものに思える。しかし、この考え方の根本となる「個人の能力」などと言えるものは存在しない。個人の能力が違うからその結果として成果に差が生じるのではなく、そもそも格差があって、その格差を正当化し、公平であると説明するために能力というツールが生まれたのだという。その分析のプロセスで、格差にまつわる言説をひとつひとつ解体していく。どうしたら格差が無くなるか、どのような世の中にしていくべきか、そんなことは語られない。人間がひとりひとり違う以上、格差はなくならないし、格差が小さくなれば嫉妬や苦しみはむしろ大きくなる。それよりも、格差が社会においてどのように受容・隠蔽および反発されていくのか、前提となる仕組みを明らかにしていく。
 では、そもそも格差があるという、どういうことか。人間というのは他者との比較を通じてアイデンティティを育むものだ。他者との差が「私」をつくる。だから格差のない社会に人間は生きられない。そこで格差を減らせば、その小さくなった違いに人はますます固執する。つまり、格差で生まれる苦しみは減らない。格差は、人間が社会をつくり、そこで生存する生き物であることと切り離すことはできない。シニカルな議論が続くが、そこで、どうすればいいか。著者なりの結論に興味がある人は、手に取って読んでほしい。ここで簡単に要約してしまうと、おそらく著者の真意は伝わらないだろうと思う。

 

2021年11月21日 (日)

大木毅「日独伊三国同盟『根拠なき確信』と『無責任』の果てに」

11112_20211121180801  第二次世界大戦前夜の日独防共協定から日独伊三国軍事同盟の締結となり、対米宣戦に至ってしまう、ドイツに惑わされ、利害損失を十分に計算することなく、枢軸国と結び米英と戦うに至るまでの経緯を物語風にまとめたもの。著者は、これを主役のいない物語という。長期的な見通しも、確固たる戦略もない脇役が、次から次へと立ち現われ、ただ状況に翻弄されるなか、利己的に動き回る。その行く先が奈落の底であるとも知らず。皇国の存亡、国運の浮沈といったことを、当時の政府や軍部の指導者たちはしばしば口にしたが、心の底では国が滅びるなどありえないと高を括って、国益よりも自身や組織の保身、あるいは功名心を優先した。歴史家の加藤陽子が、破滅の回避のチャンスはいくらでもあったのに、自覚でも無自覚でも、それらのすべてチャンスをことごとく外していってしまったのを、彼らは受け身で対していたと分析した。この著作では、それを群集の集団心理のような個人が主体的責任を持ち得ない行動の積み重ねとして描写する。
 しかし、これは現代の日本でも、それを批判できるのか、とも投げかけている。例えば、バブルの頃には、日本経済の繁栄は永遠に続く、地価は右肩上がりのままだといったあり得ない言説が真顔で唱えられていた。それほどの誤謬でなくても、親方日の丸意識もとに税金を浪費する政治家や官僚は、後を絶たない。最近の政策論議などもそうだが、国家財政が破綻し、彼らを養えなくなる事態が来ないという保証などどこにもないという危機感を自覚しているとは到底見えない。この著作で取り上げられている戦前のリーダーたちと、どこが違うのだろうか、と思ってしまう。ただし、そんなことを思っているということは他人事となってしまう、言われても反論しようもないのだが。

 

2021年11月15日 (月)

山根貞男「東映任侠映画120本斬り」

11112_20211115204001  東映の任侠映画というは1960年代後半から10年くらいの間に量産された一連のプログラム・ピクチャーで、マスコミとか偉い識者のセンセイ等の言説では当時の学生運動の盛り上がりと結びつけて全共闘の学生たちの反体制的な情念を受け留めるものとして、アジテーションに「異議なし」と応じるのと同じ声が映画館の中で「健さん」という声がかかって、人気を博したなどと語られている。しかし、リアルタイムで新宿の映画館で見ていた著者によれば、詰めかけていた客の大半は下駄ばきのニイチャンやネエチャンたちで学生らしき人は少数派だったという。明治とも大正とも昭和初期とも特定できないが昔っぽい風景で、着流し姿の男が容易に手にすることができないはずの日本刀を携行し、非道を重ねる悪玉をやっつける。これは、ハリウッド映画の西部劇が歴史的事実の根拠が稀薄なノスタルジックなファンタジーだったのよう同じようなので、高度経済成長のあくせく働く人々の日々の鬱屈を受け留める娯楽だったと指摘する。
 そして、この著作の白眉は、そういう視点で120作もの任侠映画をひとつひとつ語っていること。健さんなどのヒーローを讃美するのでも、単にあらすじを語るのでもなく、それぞれの映画としての楽しみを語っていて、それらを読んでいると、映画をみたくなるところ。例えば、加藤泰という監督の特徴であるローアングル(ローアングルというと、小津安二郎監督の固定ショットが有名だが、それとは印象が違う)で撮られた藤純子の仁義を切る姿の美しさと、その視線の低さが社会のどん底であるやくざの低さに視線を落として世界が見えてくるという没入の感じを見る者に持たせるといったことなど。実際、緋牡丹お龍の、今から見るとちょっと倒錯したような美しさに目を見張ってしまった。

 

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