無料ブログはココログ

経済・政治・国際

2014年5月16日 (金)

マルティン・ゼール「自然美学」(32)

第5章 芸術の偉大さ

1.美的なものの三つの次元

自然美の分析は一般美学への導入でもあった。自然が実際に包括的な美的現象であるならば、そうであるほかはない。美的知覚の基本的可能性は、自然美を例として言い表され─またそのようにして最初の諸考察は理解することが可能だったのである。自然への美的連関を了解するためには、三つの知覚方式が説かれねばならなかったが、それらは必ずしも自然とのみ関係した知覚方式ではない。強烈な美意識を燃え上がらせるのは常にまた自然であるに違いないということは、その裏面として、目指されるものは自然である必要はないということもある。観照、照応経験、投影的に想像企図のきっかけとなるのは自然である必要はない。それにもかかわらず自然は特別な仕方でこれらの諸直観のそれぞれを実現する。自然の美的知覚は、美的観察が有する基本的可能性のまがうことなき変種である。それはより弱い意味においても、また強い意味においても、変種なのである。自然は、観照的・照応的・想像的な知覚のその度ごとの特殊な活動領域であり、非-自然的な対象の場合との相違はここでは程度の問題である。その統一体における自然美は、これら三つの次元の無比の結合であることが明らかであり、非-自然的な現実性との相違はここでは原理的性質のものである。まさに包括的なものとして、自然美はきわめて特殊なものであり、またまさに特殊なものとしてきわめて包括的なものなのである。

このことは、我々がしばらくの間、その目線を変えて、一般的な美的観察の導きの糸として、自然ではなく芸術を選び取るならば、より明確になる。芸術の諸表現形式もまた、美学への範例的な導入の出発点でありえただろう。美的なものの統一性は美的なものの統一的現象のうちに埋没しまうことはない。美的知覚は、自然からもまた芸術によっても提供されることのない様々な対象や様々な機会において、知様に発火することができる。美的なものは、言い換えるならば、決して統一性のうちに埋没してしまうことはない。美的なものは、その根本的な知覚形式の分離と結合、無差別と相互作用とにおいて存立するのである。それゆえに美的なものは、その導入時においては、行動の方向づけのさいにその対象の感性的及び/あるいは感覚的な存在性と含蓄性を頼りにするような知覚は美的なものである、とするような切り詰めた規定で済ませる他はなかったのである。

自然に対する美的な関係を、これらの諸関係のうちに位置づけること。この目的のために私は美的実践の三つの次元について手短に新しい説明をすることにする。美的実践はこれまでもっぱら知覚の実践として語られ、ごく周縁的に産出の実践として語られるということが、自然美の方向づけにはつきものであった。美的実践について一般化しようとする新たな記述は、この一面性を正さねばならないただしこの修正は人が期待するほど大きな意味を持つものではない。というのも多くの活動領域において美的な製作というものは、極めて重要なものではあるが、あらゆる美的な産出はそれに反して、産出されるものとの知覚的出会いのために生じるのであるから、産出という観点は、理念的には二次的なものに止まるのである。美的な産出における特殊なものは、美的形成作用がそれに向けて生起する知覚方式への回帰によってのみ捉えられるのである。美的経験は従って、産出の実践をしばしば前提とし、また同時に産出の実践であることが稀でないような知覚実践として了解されなくてはならない。

従って美的実践の三つの次元は、美的対象の三つの基本的次元がそれに対応しているのであるが、それらは、観照的注意、照応的現在化及び生動的想像である。観照的注意は空間内-事物に関係しており、そこで人間の身体的-感性的な知覚能力は、このことへ専念することによって顕著なものとなる。照応的現在化は、個人的及び集団的生の可能性に関係しており、そこでその可能性の意味はこの生の連関の内に直観されるものとなる。生き生きとした生動的想像は、人間の視形式と世界との出会いに関係しており、そこでその働きによって新しく描き出される提示物の実現可能性が同時に意識されることになる。観照的態度が何ら固有の産出実践とは言えないのに対し、照応的知覚と想像的知覚はともに産み出す行為でありえるし、あるいはそのようなものを含みえる。照応的知覚は、また同時に行為世界の決定的な形式であり、しばしばこのような形式の人為構造に当て嵌められる。想像的知覚は、また同時に世界像を形成する視形式の建設的な分節化であり、何れの場合にもそのような人工物にあてはめられる。美的なものの第二、第三の機能にとって、活動的な形成作用の本質的な構成要素は、「現前化」や「想像」という表現それ自体のうちに含まれているようなものだから、(両者は、生産的行為と同様に受容的行為にも、また為すことにも為されることにも関係し得る)再びまた次のように簡略に言うことができる。美的実践は、観照的注意であるか照応的現前化であるか、あるいは生き生きとした生動的想像であるか、あるいは同時にそのいくつかである。

 

a.想像

想像という概念は、芸術とのかかわりあいなしには成り立たない。我々は美的実践という包括的な概念から芸術ではなく自然を取り去ることができる。別の言い方をすると、制約のない美的実践というものは、芸術なしには考えられないが、自然はなくても考えられる。美的芸術というものは、おそらく今後さらに詳しく規定されることになるような意味において、美的自然というものより基本的なものであろう。このことは、想像的美的能力の一般的主題化から導き出される第一の帰結である。

美的想像は、芸術との関わりなしには成り立たないけれども、しかし一定の芸術作品の現前がなくても十分に展開することができる。この意味において、美的想像は芸術なしでも成立し得る。想像的な美的知覚は、必ずしも直接ではないにせよ、少なくとも間接的には芸術作品とかかわりがある。我々は、かろうじて可能な芸術の場合でさえもそうなのであるが、世界を芸術の様式において観察することができるに過ぎない。なぜなら、世界の側における芸術の想像的な諸構成というものが、我々にはすでに与えられているからである。投影的で美的な想像の受容を前提としているのである。

しかし同時に、芸術の生産的想像は(芸術家の側も芸術鑑賞者の側も)、世界の諸現出─とりわけ自然に対して芸術が戯れながら投影する能力に依存しているのである。投影的な即興が芸術作品なしでは成立し得ないように、芸術作品の新種の構成は、既知あるいはなお未知の芸術様式における世界の知覚なしには成り立たない。しかしそれは、芸術的想像の美的機能が、直截的及び間接的な芸術知覚によってだけ規定されうるのではなく、両者に共通なものによって規定されうるということである。想像的美的知覚は、芸術作品に間接的ないし直接的に関連しており、それは、そうした関連において諸状況や諸対象が人間にとって親しみ易い意味地平で生じる生き生きとした生動的知覚に他ならない。このような視形式の知覚は、意味深長な世界内存在の描写の知覚としてたんに可能であるにすぎない。芸術はこのような提示物を産出し、また芸術の(様式における)あらゆる知覚は、二つのものに、すなわち、この提示物としての芸術およびそのように解放された視形式とに関連しているのである。

このような共通性にもかかわらず、私が一つの芸術作品を知覚するのか、あるいはあたかも芸術であるかのような何らかのものを知覚するのかということの間には、非常に大きな違いがある。芸術の永続的な諸作品への関係は、その束の間の仮象への関係とは全く別物である。芸術形式のうちに世界を知覚することに価値があるかどうかということは、たしかに芸術作品の意味にとっての試金石であり、芸術によって公表された視形式との立ち入った対決は、芸術作品の厳密な構成と最終的にはたしかに関係しているに違いない。そしてさらに、すなわち芸術が世界形成的な視形式の表現として成功すればするほど、それだけ芸術は、通常、生の形態としてあるいは観照の対象としてもより成功するのである。観照的かつ/あるいは照応的な諸々の長所の展開によって芸術的想像の仕事を成し遂げることは、芸術的想像の多くの諸形式の論理にかなったことである。想像的描写によって果たされた描写の超越のこの論理は、しかしたんに何かをではなくてそこにおいて自己をも描写にもたらすところの諸客観に即してだけ発展することができるのである。すなわちこの論理は、それが示すものばかりではなく、同時にそれが現にそうであるところのものを示す。芸術作品のこの性質は、その投影的現実化において必然的に失われる。それゆえに自由な美的想像は、芸術との直接的な出会いに較べてつねにまた貧弱である。

最近聴いたCD