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音楽

2025年11月30日 (日)

東京都交響楽団1029回定期演奏会Cシリーズ2025年11月

2025年11月29日(土)東京芸術劇場
11112_20251130111201  先月に続いて池袋の東京芸術劇場へ行く。今回は65歳以上の老人割引があるというのでありがたい。受付で身分証明書の提示を求められるかと思って準備していたが、フリーパスだった。
 プログラムは
 モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ K.261
 シューマン:ヴァイオリン協奏曲
 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
で、これはもう明らかにメインはシューマンのヴァイオリン協奏曲で、しかもソリストが庄司紗矢香だから、それで決まり。
 最初のモーツァルトは腕慣らしといった軽い曲だが、実演で聴いた庄司のヴァイオリンの音がバックのオーケストラの弦楽セクションとの格の違いを見せつけられるようだった。独奏ヴァオリンとその伴奏という曲だから、どうしてもソリストの音が前面に出てくる。それでも、音の響きの質が別物なのだ。以前にも、いろいろなヴァイオリニストでコンチェルトを聴いたが、こんなにもオーケストラに対して独奏ヴァイオリンの音の響きが突出しているのは、はじめてのこと。小編成オーケストラのモーツァルトからフル編成のシューマンの協奏曲になっても、それは変わらなかった。庄司というヴァイオリニストは力を込めてバリバリ弾くタイプではない。むしろ、軽くサラッと弾くヴァイオリニストなのだけれど、音の響きの質が違うので、オーケストラの音に独奏が埋もれることがない。この人のヴァイオリンの音を聴いているだけでもいいという、そういうヴァイオリニストだと思う。
 さて、メインのシューマンの協奏曲。オーケストラの合奏による決然とした開始は、第3交響曲「ライン」のような力強さ。「ライン」が明るく伸び伸びとした曲調なのに対して、こちらは少し強張ったような少し悲壮感が漂う。これが第1主題。その直後に対照的で甘美な第2主題となる。これを、CDなどの録音で聴いていると、オーケストラが“いっせいのせ”と斉奏しているように聞こえるが、ここで聴くと全然違う。弦楽セクションが掛け合いするように、少しずつリズムをずらしながら弾いている。それで、テーマの形の輪郭がぼやけるようになる。それは、オーケストラの配置が対向型、つまり、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが隣り合う一般的な配置ではなく、向かい合う配置になっているためだと思う。これは、指揮者の意図なんだろう。シューマンは、おそらく明確な形を避けた。そういうオーケストラの後に独奏ヴァイオリンが第1主題を弾き始める。ブラームスのヴァイオリン協奏曲にも似た、このヴァイオリンの入りは、ヴィビブラートをたっぷりかけた、いわゆるヴィルトーゾ的な見得を切るような人もいる。しかし、そうすると、この後、この第1主題が何度も、延々と繰り返されることになる。そこがブラームスと違うところだ。そして、この第1主題は、おそらくヴァイオリン向きではない。旋律的でないのだ、歌わせにくい。音が繋がりにくい。むしろピアノ向きというか、タッチや音色で、手を変え品を変え弾き分けていくのに適したようなフレーズなのだ。だから、ヴァイオリニストにとっては弾きにくいのではないかと思う。だから、演奏会で取り上げることは少ない、マイナーな協奏曲だ。それを庄司、入りはサラッと弾く。その後の繰り返しは、無理に歌わせようとしないで、むしろ、ピアノ的なタッチというか音の肌触りというか細かなヴィブラートの変化や音色の微妙な変化で弾き分けていく。しかも、オーケストラからは突出した音の響きで、それは決して、庄司の音が大きいというのではないが、この人のヴァイオリンの音ばかりが突出して聞こえてくるのだ。そうすると、その繰り返しは、まるで独奏ヴァイオリンが独り言をつぶやいているように思えてくる。かつて、グレン・グールドがバーンスタイン指揮するオーケストラの前で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を豪壮なオーケストラの出だしのあと、まるでオーケストラを無視するかのように内省的なモノローグを続けたのを想わせる。ブラームスのピアノ協奏曲第1番にはそういう側面がある。グールドはその側面を引き出し前面に押し出した。そこにはブラームスのもともと持っていた性格があったのかもしれないが、シューマンから引き継いだこともあると思う。そういう内省的な性格が現われているのが、このシューマンのヴァイオリン協奏曲なのだと思う。だから、ここでは、独奏ヴァイオリンに華麗なヴィブラートや甘美な歌いまわしは要らないともいえる。むしろ、そういうのを配して、聞き手に語りかけるような語り口。それが、庄司がここで弾いているヴァイオリンではないかと思う。このあと、例えば第3楽章などは、一般的なヴァイオリン協奏曲ならばロンド主題が繰り返される舞曲のような明るく盛り上がって終わるのだが、この曲では、第1楽章の第1主題に似たテーマが性懲りもなく繰り返され、あっけらかんと尻切れトンボに終わってしまう。それは、軽快にカタルシスを得るのではなく、モノローグを最後まで飽かずに続けるというもの。そして、この演奏では、そのモノローグに付きあうというのが、この曲の大きな魅力であることに気がつかせてくるものだった。あえていえば、共感というものが、その先にある。
 後半のベートーヴェンの田園交響曲は、私にはオマケだった。しかし、標題音楽ではなく、交響曲として純音楽的にキチンと演奏しようとしていた。でも、もとがね。こんな曲では…、と。

 

2025年10月26日 (日)

読響日曜マチネー2025年10月

2025年10月26日(日)東京芸術劇場
11112_20251026215301  池袋の東京芸術劇場へ行くのは何十年ぶりだろうか。改装があったようで、私が覚えているのは玄関ロビーから5階の音楽ホールまで直通のエスカレーターがあって、まるで空中散歩するようだった。今は、2階までいって、乗り換える。そのエスカレーターは壁にくっつくルートになり、以前の空中をエスカレーターが進むものではなくなった。以前のは転落しそうな感じがしていたから、安全上、こうなったのかもしれない。
 演奏会14時開演で、開場は1時間前の13時。13時20分ごろ会場へ。入口では演奏会チラシを配っている。あれっ?この前の東京オペラシティでは配っていなかったが、ここでは配っている。演奏会場によってチラシを配ったり、配らなかったりするのか。ちなみに、そのチラシを見たが、以前、何十年か前の私がよく演奏会に行っていた頃は、チラシの中身は海外オーケストラの来日公演の宣伝がいくつもあったのに、ひとつもない。ピアニストやバイオリニストの宣伝も少ない。円安では海外から日本に演奏家を呼びにくくなっているのか。その代わりにほとんどが国内演奏家の公演の宣伝。また、国内オーケストラの今後の予定を紹介するチラシはなくなって、スポット的なもの、とくに今は年末の第九演奏会ばかり。東京芸術劇場は大きなホールで、収容人数も多い。この時間ですでに会場内の来場者は多い。開場は13時なんだけれど、ホールには13時30分まで入れないとのことなので、会場内のロビーで入場待ちの人々で椅子は埋まっていて、座れないひとが扉の前で並んでいる。私か買ったチケットは3階席。比較的安い席だが、高齢者がおおく、若い人の姿はあまり見られなかった。開演10分前には、席に着くように放送があり、ほぼ座席は埋まっている。その時に、「演奏が終わった後の余韻を楽しんでもらいたいので、指揮者がタクトを降ろしてから、拍手をしてください」という放送が聞こえてきた。余計なお世話で、そんなことまで、わざわざ放送するのかと呆れた。これは、最近名古屋フィルの事務局がX(旧ツィッター)の早すぎるブラボーへの投稿をして、炎上したことの影響だろうか。昔から、ブラボーや拍手のフライングする目立ちがりやはいたが、馬鹿がいるくらいに嘲いとばしていたと思う。このように表立って、ルールみたいにするのは野暮という暗黙の了解みたいなものはあったと思う。何か窮屈だなあ。
 さて、演奏ですが、まずディーリアスの序曲があって、次にチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番です。ピアニストのパヴェル・コレスニコフはアンコールでショパンのワルツ第19番を弾いたのがとてもよかったのですが、この人は、穏やかな抒情的な性格のピアニストのように思えます。チャイコフスキーの派手でダイナミックな協奏曲には、あまり似合わない感じがしました。有名な冒頭のホルンのファンファーレのような出だしからピアノのダイナミックなコード連打では、低音が聞こえてきません。それゆえ、ピアノがこちらに迫ってこない。高音部のキラキラ音だけが響いてくるのですが、チャラチャラした軽い感じです。序奏部が終わって、本体部分に入りますがオーケストラと競うようなところでは、ピアノの音はオーケストラの音に埋もれて聞こえなくなってしまう。読売日響というオーケストラは、力強い演奏をするようで、時には暴力的と思えるほど強く弾いていて、協奏曲の総奏部分ではかなり強く演奏する。これに対して、ピアニストは、それほど音が大きくないし、その音もキレがないというか丸い感じで、オーケストラの音らに大きさで対抗できないし、オーケストラの音を切り裂いて聞こえてくるような音でもない。それをピアニストも分かっているのだろう、かなり無理をして弾いている感じがする。そこで無理をしていて余裕がなさそうで、この人が持っている抒情性が、例えば第2楽章のオーケストラの弦楽器のピッツィカートに乗ってピアノがゆっくりと弾くところも、あまり抒情的にメロディがうたうまでいかない。どこか、オーケストラに負けないように音を出すのに必死な感じ。そして、第3楽章でオーケストラの煽るように強く大きい音を出すから、ピアノは追いついていくのに必死という感じ。フィナーレはピアノがオーケストラに引きずられるようだったが、それなりに盛り上がった。会場は盛り上がっていたが、その後で、アンコールで弾いたショパンは、本番が終わってホッとしたのだろうか、肩の力が抜けて、しんみりとして、いい演奏だった。こっちの方がよかった。
 後半はブラームスの交響曲第1番。前半の印象から爆演になるのかと思ったら、その予想は外れでもなかった。まず、序奏のティンパニの音の強いこと。そして、金管の演奏に抑えがない感じ。ブラームスの響きのイメージって金管楽器も木管楽器も弦楽器に包まれるようにして、全体が融合するように一体となって聞こえてくると思っていた。しかし、この日のオーケストラは金管が抑制なく咆哮するように響き、弦楽器がそれに負けないように強く弾いていて、まるでケンカしているみたい。そこから強い緊張感が生まれている。まるで、昔のソ連のオーケストラがショスタコーヴィチやチャイコフスキーを演奏しているような響き。しかも、指揮者のエドワード・ガードナーはフレーズに溜めをつくらないで、ソリッドにタテ乗りのリズム。即物的な印象の響き。ブラームスのロマン的なところを抑えて、この曲のカチッとした構造的なところを全面的に押し出したような演奏をしている。それが、金管と弦楽器がケンカするような緊張感の高い、強い音で演奏される。聞く者には、構造的というかガッチリとした緊張感の高い演奏として聞こえてくる。第1楽章なんかガチガチに緊張した演奏だった。第2楽章は緩徐楽章で木管楽器がメロディをうたわせて掛け合いをするところがあるのだけれど、この指揮者は溜めをつくらないので、掛け合いにならず、メロディを木管楽器が次々と入れ替わり立ち替わり弾くように変わる。そこは、ゆっくり弾くというのではなく、ソリッドなリズムでメロディが次々と出てくるというカチッとしたものとなる。そして第4楽章では、ベートーヴェンの歓喜の歌に似たメロディがうたわれるところでカタストロフィに達するというのではなくフィナーレに至る経過のひとつになる。そして、高い緊張でフィナーレが高揚して終わる。これは、ドラマではないし、いわば純音楽的と言っていいのだろう、立派な演奏だった。緊張感は強い。とはいっても、聴いている私は入り込めない演奏だった。読響って野性的なんだね。

 

2025年9月13日 (土)

東フィル演奏会「アルプス交響曲」

11113_20250913234801  およそ20年ぶりのオーケストラの演奏会。会社勤めを定年になり、老母が亡くなって独り暮らしにもどったのを機に、出かけてみた。まずは、チケットが高くなったのに驚き(国内オケで1万円…)、会場前のチラシ配りがいなくなった、会場にはいったらスマホが通信圏外になった、ひと目で外国人とわかる人が多い(座席の周囲で複数の英語や中国語の会話が聞こえた)。Rシュトラウス中心のプログラムというファン向けにもかかわらず、客席は、ほぼ満席。これら、以前との変化は新鮮だった。
 会場の東京オペラシティコンサートホールはサントリーホールなどよりは一回り小さいようで、フルオーケストラには音が響きすぎる感じ、しかし、一時のサントリーホールのように音が割れるようなことはなく、よかったのが。おそらく天井が高く、音がそちらに抜けるせいかもしれない。そのためか、1階の後ろから4分の1の席だったが、オーケストラの音がマスとしてこちらに向かってくるような感じがなく、ステージでフワフワと浮いているような感じ。オーケストラの生演奏を聴く際には、弦楽器の弦を弓が擦る音というよりも音の震え(これはCDなどの録音では分からない)が音の存在感を実感できるのだが、ここではそれが感じられなかった。その代わりに、管楽器はラッパの向きが客席の方を向いているので、こちらに音が向いてくるので、直接聞こえてくる。そのため、オーケストラ曲を聴く醍醐味のひとつである、弦楽セクションと管楽器のケンカがみられず、管楽器がメインのパートでは弦楽セクションの音がほとんど聞こえてこない感じだった。
 ところで、Rシュトラウスのオーケストラ曲というのは、音をこねくりまわすように頻繁に動かして落ち着きがないというイメージがある。例えば「ティルオイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」なんかが顕著なのだけれど、いじくりまわすような動きには、ユーモラスなどと一般に解説されるようだが、私には空回りはていてスベッているというか、変な譬えだが大阪文化を知らない東京人が吉本のコントを見たときのような印象で、連発されるギャグの作為的な不自然さシラケてしまうというものだった。それが、晩年近くの「4つの歌」とか「メタモルフォーゼン」あたりの曲は、そういう空回りが少なく、今回演奏された「アルプス交響曲」は空回りが少ない方の曲で、私には、Rシュトラウスのなかでは比較的聴きやすい方の曲だったと思う。
 それが今回の演奏では、弦楽セクションと管楽器パートが競い合うということがみられないので、楽器パートの奏する音楽の線の絡み合いの面白さは聞き取れず、弦楽器の音が靄のようにステージ上にたちこめているのを管楽器の音が突き破ってこちらに届いてくるとか、あるいはその靄に融合してそれが客席にひろがってくるような感じになっていた。そうすると、派手でゴージャスなRシュトラウスのオーケストレーションの響きが、まるで大河が氾濫するように音の響きがホールに溢れて、客席の私は音楽を追いかけるとか、繊細に細部に注目するなどといったことなしに、その大河の響きに身を任せて浸っている。そういう体験をすることができた。指揮がどうとか、演奏がとうといったこととは、考えることもない。ただ音の響きに身を任せているうちに、気がついたら演奏が終わった。だから、具体的にどういう演奏だったか、覚えていない。
 久し振りの演奏会。また、何かしら聴きに行ってみようと思えた。

 

2024年9月 8日 (日)

ジネット・ヌヴーの弾く「ブラームスのバイオリン協奏曲」

11113_20240908000301  クラシックでもジャズでも歴史的名演と呼ばれる録音がある。その多くは、のちに物語の尾ひれがついて、演奏そのものを離れて、後付けの物語が独り歩きして、実際に録音を聴くと拍子抜けしてしまうものも少なくない。
 この録音も、物語的要素がたくさんある。1948年5月3日ハンブルクにおける、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団によるブラームスのバイオリン協奏曲。バイオリンはジネット・ヌヴー。当時のドイツは第二次世界大戦の敗戦国で、1948年は未だ、ハンブルクという街角にも人々の心にも、その爪痕が色濃く残されていた。そこにフランス人若い女性バイオリニストが乗り込んできて、ドイツ音楽の真骨頂ともいうべきブラームスの協奏曲を弾くという。もし、日本で戦後の占領時代にアメリカ軍の軍楽隊が「君が代」をジャズ風にアレンジして、「どうが、すごいだろう」という態度で演奏してみせたとしたら、当時の日本人は、どう思うだろう。このブラームスの演奏に対しては、当時のハンブルクでは複雑な受けられ方をしたのではないか。
 それが証拠に、演奏の開始のオーケストラによるトゥッティは、およそシラケきっているというほど生気がない。テンポが不安定でダラしない。管楽器のピッチが合っていなくて、弦楽はバラバラで弾けていない。それが、ヌヴーのバイオリンが入ると激変する。オーケストラに火が灯り、やがて炎となって、しまいには全体が激しく燃焼するにいたる。当時の録音で、音質はよくないのだが、ヌヴーの熱演に引っ張られ、煽られることによって、オーケストラの気合の入り方が手に取るように変わっていく、目に見えてノリに乗っていくのが分かる。ヌヴーのバイオリンの音は硬質で、例えば、泰一楽章の最初のバイオリンの入りは、とても鋭い感じで、しかも他の人とは違って短く音を切って、巻き気味にはいる。それが息をつかせぬ緊張感として聞こえる。この掴みでオーケストラが引き込まれる。そこからの、この若いバイオリニストが手を変え品を変え、オーケストラ(プラス聴衆)を巻き込んでいく、時には、標準的な演奏から外れて(今日の正確な演奏ではありえない)、第1楽章の終わりごろには、オーケストラの音色が全く変わっている。この会場にいた聴衆は、それこそ一期一会の演奏に遭ったのだろうと思う。この録音は、そのことが分かる。
 それは、この人の弾き方はブラームスの内省的な面をあまり考慮していないというか、例えば第1楽章で第2主題に入っていくところは、ディミヌエンドしていって独り言のようにひそやかに歌うところを、この演奏では、むしろクレッシェンドして(おそらく譜面とは反対に弾いているのだろう)強く弾き切っている。それがオーケストラを煽ることになって、掛け合うオーケストラの音の高揚感がもの凄いことになる。しかも、このときのビブラートのバリエーションが凄い。一瞬一瞬の変化で、次にどういう音が出てくるか分からない。こんな風に煽られるオーケストラは堪ったもんじゃない。こういう強い演奏は、聴く人によっては押し付けがましく、うるさく聞こえてしまうだろう。しかし、この場のこの演奏では、それがハマっているのだ。だからこそ、この時、この場だけの一回こっきりのものだったと思う。ヌヴー自身も、これだけハイテンションに約40分弾き切るなんてことは、何度もできることではなかったと思う。

 

2023年11月28日 (火)

コンスタンティン・シチェルバコフによるショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」

11113_20231128234001  ショスタコーヴィチという作曲家については、ソ連が現実に存在していた世代には「ヴォルコフの証言」などが想起されて、専制支配による監視社会で、体制への迎合する作品の創作を強制され、そういった作品の中に本音を潜在させるという屈折を読み取ろうとする傾向がある。15曲ある交響曲などは、今でも、そのような紹介をされ方がいまだにある。しかし、この「24の前奏曲とフーガ」とピアノ曲は、JSバッハのいわゆる「平均律クラヴィーア曲集」と同じタイトルをとっているように、バッハに倣った構成で、本音とタテマエといったような屈折はあまり感じさせられず、むしろ、フーガを複雑に織り上げることに嬉々としているような印象をうける。この作品を聞いていると、複雑にすることにたいする過剰な嗜好、複雑フェチとでも言いたくなるようなとこがある。本音とタテマエの屈折などというのは、作品を複雑にしたいという嗜好の現われのひとつではないかと思えてくるほど。
 ただし、この曲の初演者であるタチアナ・ニコライエーワによる録音は、恣意的に一部を強調的に浮き立たせて、フーガの複雑さを弾ききれていないところがある。このコンスタンティン・シチェルバコフの演奏は、フーガの複雑さをいかに響かせるかという表面的な効果に専心しているように聞こえる。若い頃のポゴレリチがスカルラッティやハイドンで演ったような軽い打鍵で、沢山の音を同じ時間に詰め込む表層的な戯れのような、それでいて軽快なノリのある。ショスタコーヴィチの音楽って、こういう性質のものだったのではないかと思う。

 

2023年5月10日 (水)

Crosby, Stills, Nash & Young「Déjà Vu」

11113_20230510210001  クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは、1960年代の終わり頃、いくつか作られたスーパーグループのひとつで、それぞれに人気のあったCS&Nとニール・ヤングがドッキングしたもので、それゆえに2枚のアルバムを出して、短期間で活動を終えました。その後、それぞれはCS&Nとニール・ヤングに戻り、それぞれで活動を続けました。CS&Nはアコーステッイク・ギターと3人の息の合ったコーラスでフォークソングっぽい曲をきれいに歌うグループで、このアルバムのなかでも代表曲の一つ、Teach Your Children (『小さな恋のメロディ』という映画の最後のシーンで、主人公のマーク・レスターとトレイシー・ハイドの2人がトロッコをこいで大人たちから逃げていくシーンのバックにこの曲が流れ、とても印象的でした。これも当時の時代を象徴するようなシーンだったと思います。)のような演奏にこの個性が表われています。これに対して、ニール・ヤングはバッファロー・スプリングフィールドを脱退しソロシンガーになった後で、鋭い音色の切り込むようなギターでハードに歌い、後に次第にロック色を強めていく傾向を持った人で、このなかでも Helplessのようなソロナンバーを謳っています。このような傾向の全く違う2組が同じグループになり、それぞれの個性が如実に出たり、曲の中でぶつかったりアルバム全体を通して高いテンションが一貫しているものとなっています。異質なものが組み合わされたことにより、収録されている曲も多様で聴きあきることもなく、当時の60年代後半という時代状況も反映していて、Woodstockという曲は、伝説のロックフェスティバルを歌ったものです。(このグループも参加しています)それが、単に完成度の高い美しい作品という以上の、エナジーに溢れたというのか、パワーも感じさせるところもある、これもロック音楽と力強く肯定できるものが感じられたものでした。

2023年2月 2日 (木)

Doors「Doors」

11114  ドアーズが1967年にリリースしたファースト・アルバム。当時は、ベトナム戦争の泥濘化にたいする反戦運動や人種差別を糾明する公民権運動、学生運動などの動きにロック・ミュージックがシンクロして、とくに西海岸のサン・フランシスコを中心としたいわゆるシスコ・サウンドとわれるバンドが盛り上がっていた。例えば、ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッド、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービスといったバンドたち。彼らは程度の差があれ、政治的な反体制運動にコミットしたり共感したりして、政治的な主張を音楽の中に込めていた。これに対して、ドアーズは、同じ西海岸でもロス=アンジェルスを活動の中心にして、ウィリアム・ブレイクの象徴的で内省的な詩に影響を色濃く受け、自己の内面、とりわけ暗黒の部分に沈潜するような世界を歌った。シングル・ヒットした「ライト・マイ・ファイヤー」は「ハートに火をつけて」という邦題のイメージとは違って恋愛で燃え尽きた心の虚ろさを歌ったものだったし、大曲「ジ・エンド」は「終末」を歌い、父を殺し、母を犯すというギリシャ悲劇のオイディプス王を現代に再現する内容だった。このような作品を体現していたボーカルのジム・モリソンは、地を這うような低音の声質で、歌うというよりは呪文を唱えるように響いてくる。だからといって重苦しくて、聴くに堪えないかというと、レイ・マンザレクのクールなオルガンは、ジム・モリソンにたいして鏡が左右反対の姿を映すように独特のポップさを帯びている。このことで、カルト的に陥りそうなジム・モリソンのボーカルにバントのサウンドは距離をおいて、クールな視点を加味し、客観的な広がりを与え、聴きやすいものとなっている。ドアーズ自身の音楽世界は、そういうクールなもので、そして、当時の時代状況でも盛り上がっていたシスコ・サウンドとは一線を画していた。言うなれば、クールな反抗者だったのではないだろうか。彼らのアルバムの中でも、この作品と、次の「まぼろしの世界」が、自己に沈潜するジム・モリソンと、ポップに広がっていこうとするバンドのサウンドが絶妙のバランスを保っていたと思う。

2022年12月27日 (火)

ベアトリーチェ・ラナ「バッハのゴルドベルグ変奏曲」

11113_20221227211501  まず、アリアのかすかな弱音で柔らかく、そっと始まるのと、耳に優しく、弱音でもグレン・グールドのような尖った音に比べて、おやすみミュージックとして作曲されたこの曲の目的に沿っていると思う。しかし、この演奏の面白さは、左手で弾かれるバスの部分にあると思う。バスの部分が何かしら語りかけるように聞こえてきて、右手で弾かれるアリアのメロディより注意がそっちに向いてしまう。バスの落ち着いた低音で、動きの少ないパートが、独りごとの呟きを耳にするような、それで心が落ちくような、その一方で、右手のパートが繊細に弾かれていることもあって、メロディというより装飾的に聞こえる。次の第1変奏でも、バスのパートが短いフレーズを繰り返して躍動的なリズムを刻んでいくのだが、この人の演奏は、この繰り返しに変化を加えて、例えば最初は弱めの音で繰り返しのたびにだんだんと音量が増していく。そうすると、このリズミカルな変奏に劇的な要素が加わり、まるでベートーヴェンのソナタのスケルツォを聞いているような感じになる。全体として、バスの動きが生きいきとした息吹きのような印象となって、独特としかいえない抒情を聞き手に感じさせるものとなっていると思う。とはいってもロマンチックではない

2022年10月 2日 (日)

Led Zeppelin「Ⅱ」

11113_20221002213801  なかなか気がつかないかもしれないが、微かに入っているロバート・プラントの乾いた笑から始まるのが象徴的。ジミー・ペイジのギターのコード・リフから名曲「胸いっぱいの愛を」に入っていく。メロディックなフレーズではなくリズミックなリフの反復に、ベース、ドラムスと楽器が重なって、塊になったところに、ロバート・プラントのボーカルのハイ・トーンで金属的なボーカルが高いところから降ってくるように入ってくる。これを大音量にしてヘッドフォンで聴くと、ロバート・プラントの声が脳の中の上下左右を縦横無尽に走り回るようなのだ。そこでは、歌詞の内容等は別に措いて、まるで“すべてが欲しい”“すべてを奪い取ってやる”というように、欲望を全肯定するように叫びはなっているかのようなのだ。まさに、この曲、この演奏が、すべての欲望を肯定するように煽っているように聞こえる。ある意味、この2枚目のアルバムで、すでに頂点に達してしまったと思えるのだ。
 リフの反復がリズムを形成し、それがノリを生んでいく、この曲ではノリがハードな勢いを生んだ。それをスタイル(様式)として表面的に継承したのがハード・ロック=ヘビーメタルのルーツの一つになったと思う。ツェッペリン自身は、その様式化に陥るのを避けるためか、この同じようなスタイルのノリノリの曲に対しては、必ず曲の中でフェイクを入れたり、ノリを複合的にしたりして禁欲的な姿勢を崩さなかった。その後のバンドの挑戦は、迷走に見えるところもある。
 ただし、アルバムを通して聴くと、この時点においても、レッド・ツェッペリンというバンドは必ずしもハード・ロックのバンドと決めつけることは早計だ。「レイン・ソング」は有名な「天国への階段」の先駆けともいえるドラマチックなバラードだし、「リビング・ラビング・メイド」は軽快なビート・ポップで、多様な音楽の方向性を持ち合わせていたのが分かる。そこには、ハードロックバンドではないツェッペリンの可能性も、ここではあったので、このアルバムがこれほど売れなければ、バンドの方向性は違ったものになったかもしれないと想像することもあるのだ。

 

2022年8月29日 (月)

Peter Gabriel「III」

11113_20220829221701  ジェネシスの初代ボーカル、ピーター・ガブリエルの1980年リリースの第3作目のアルバム。70年代前半にはその名称のとおりプログレッシブ(進歩的)であったプログレは、形骸化し様式的なスタイルの演奏の繰り返しに堕していた。ビック・ネームは解散したり活動を停止し、70年代後半のパンク・ニューウェーブから実験的なバンドも出てくるのを横目に、活動を続けたバンドは商業的には成功したのもあったが、サウンドは大掛かりだが、それはこけおどしで、たんに耳に心地よいだけのBGMとほとんど変わらないものとなっていた。そのなかで、実験的な姿勢を持ち続けた一部の例外が、ピーター・ガブリエルやケイト・ブッシュらで、マニアックに熱狂的な信奉者がついていたと思う。このアルバムは、特徴的なドラムのサウンドと異常なほどのテンションの高さで、彼の作品の中でも突出している。1曲目のバスドラムやスネアの音が残響を途中でぶった切ったような鳴り方のゲートエコーという音響は、ドスンドスンとはらわたの底を叩かれるようで、そこに地底から響くようなガブリエルのボーカルが不気味に湧き上がってくるように聞こえてくる。聴く者を不安に陥れ、野蛮で畏れに満ちた世界に叩き込まれるような錯覚に襲われる。形容するとしたら“カッコイイ!”としか言えないのだ。彼は、この数年後の「SO」が有名だが、個人的には、この「Ⅲ」ほどのインパクトはなかった。

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