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音楽

2023年2月 2日 (木)

Doors「Doors」

11114  ドアーズが1967年にリリースしたファースト・アルバム。当時は、ベトナム戦争の泥濘化にたいする反戦運動や人種差別を糾明する公民権運動、学生運動などの動きにロック・ミュージックがシンクロして、とくに西海岸のサン・フランシスコを中心としたいわゆるシスコ・サウンドとわれるバンドが盛り上がっていた。例えば、ジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッド、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービスといったバンドたち。彼らは程度の差があれ、政治的な反体制運動にコミットしたり共感したりして、政治的な主張を音楽の中に込めていた。これに対して、ドアーズは、同じ西海岸でもロス=アンジェルスを活動の中心にして、ウィリアム・ブレイクの象徴的で内省的な詩に影響を色濃く受け、自己の内面、とりわけ暗黒の部分に沈潜するような世界を歌った。シングル・ヒットした「ライト・マイ・ファイヤー」は「ハートに火をつけて」という邦題のイメージとは違って恋愛で燃え尽きた心の虚ろさを歌ったものだったし、大曲「ジ・エンド」は「終末」を歌い、父を殺し、母を犯すというギリシャ悲劇のオイディプス王を現代に再現する内容だった。このような作品を体現していたボーカルのジム・モリソンは、地を這うような低音の声質で、歌うというよりは呪文を唱えるように響いてくる。だからといって重苦しくて、聴くに堪えないかというと、レイ・マンザレクのクールなオルガンは、ジム・モリソンにたいして鏡が左右反対の姿を映すように独特のポップさを帯びている。このことで、カルト的に陥りそうなジム・モリソンのボーカルにバントのサウンドは距離をおいて、クールな視点を加味し、客観的な広がりを与え、聴きやすいものとなっている。ドアーズ自身の音楽世界は、そういうクールなもので、そして、当時の時代状況でも盛り上がっていたシスコ・サウンドとは一線を画していた。言うなれば、クールな反抗者だったのではないだろうか。彼らのアルバムの中でも、この作品と、次の「まぼろしの世界」が、自己に沈潜するジム・モリソンと、ポップに広がっていこうとするバンドのサウンドが絶妙のバランスを保っていたと思う。

2022年12月27日 (火)

ベアトリーチェ・ラナ「バッハのゴルドベルグ変奏曲」

11113_20221227211501  まず、アリアのかすかな弱音で柔らかく、そっと始まるのと、耳に優しく、弱音でもグレン・グールドのような尖った音に比べて、おやすみミュージックとして作曲されたこの曲の目的に沿っていると思う。しかし、この演奏の面白さは、左手で弾かれるバスの部分にあると思う。バスの部分が何かしら語りかけるように聞こえてきて、右手で弾かれるアリアのメロディより注意がそっちに向いてしまう。バスの落ち着いた低音で、動きの少ないパートが、独りごとの呟きを耳にするような、それで心が落ちくような、その一方で、右手のパートが繊細に弾かれていることもあって、メロディというより装飾的に聞こえる。次の第1変奏でも、バスのパートが短いフレーズを繰り返して躍動的なリズムを刻んでいくのだが、この人の演奏は、この繰り返しに変化を加えて、例えば最初は弱めの音で繰り返しのたびにだんだんと音量が増していく。そうすると、このリズミカルな変奏に劇的な要素が加わり、まるでベートーヴェンのソナタのスケルツォを聞いているような感じになる。全体として、バスの動きが生きいきとした息吹きのような印象となって、独特としかいえない抒情を聞き手に感じさせるものとなっていると思う。とはいってもロマンチックではない

2022年10月 2日 (日)

Led Zeppelin「Ⅱ」

11113_20221002213801  なかなか気がつかないかもしれないが、微かに入っているロバート・プラントの乾いた笑から始まるのが象徴的。ジミー・ペイジのギターのコード・リフから名曲「胸いっぱいの愛を」に入っていく。メロディックなフレーズではなくリズミックなリフの反復に、ベース、ドラムスと楽器が重なって、塊になったところに、ロバート・プラントのボーカルのハイ・トーンで金属的なボーカルが高いところから降ってくるように入ってくる。これを大音量にしてヘッドフォンで聴くと、ロバート・プラントの声が脳の中の上下左右を縦横無尽に走り回るようなのだ。そこでは、歌詞の内容等は別に措いて、まるで“すべてが欲しい”“すべてを奪い取ってやる”というように、欲望を全肯定するように叫びはなっているかのようなのだ。まさに、この曲、この演奏が、すべての欲望を肯定するように煽っているように聞こえる。ある意味、この2枚目のアルバムで、すでに頂点に達してしまったと思えるのだ。
 リフの反復がリズムを形成し、それがノリを生んでいく、この曲ではノリがハードな勢いを生んだ。それをスタイル(様式)として表面的に継承したのがハード・ロック=ヘビーメタルのルーツの一つになったと思う。ツェッペリン自身は、その様式化に陥るのを避けるためか、この同じようなスタイルのノリノリの曲に対しては、必ず曲の中でフェイクを入れたり、ノリを複合的にしたりして禁欲的な姿勢を崩さなかった。その後のバンドの挑戦は、迷走に見えるところもある。
 ただし、アルバムを通して聴くと、この時点においても、レッド・ツェッペリンというバンドは必ずしもハード・ロックのバンドと決めつけることは早計だ。「レイン・ソング」は有名な「天国への階段」の先駆けともいえるドラマチックなバラードだし、「リビング・ラビング・メイド」は軽快なビート・ポップで、多様な音楽の方向性を持ち合わせていたのが分かる。そこには、ハードロックバンドではないツェッペリンの可能性も、ここではあったので、このアルバムがこれほど売れなければ、バンドの方向性は違ったものになったかもしれないと想像することもあるのだ。

 

2022年8月29日 (月)

Peter Gabriel「III」

11113_20220829221701  ジェネシスの初代ボーカル、ピーター・ガブリエルの1980年リリースの第3作目のアルバム。70年代前半にはその名称のとおりプログレッシブ(進歩的)であったプログレは、形骸化し様式的なスタイルの演奏の繰り返しに堕していた。ビック・ネームは解散したり活動を停止し、70年代後半のパンク・ニューウェーブから実験的なバンドも出てくるのを横目に、活動を続けたバンドは商業的には成功したのもあったが、サウンドは大掛かりだが、それはこけおどしで、たんに耳に心地よいだけのBGMとほとんど変わらないものとなっていた。そのなかで、実験的な姿勢を持ち続けた一部の例外が、ピーター・ガブリエルやケイト・ブッシュらで、マニアックに熱狂的な信奉者がついていたと思う。このアルバムは、特徴的なドラムのサウンドと異常なほどのテンションの高さで、彼の作品の中でも突出している。1曲目のバスドラムやスネアの音が残響を途中でぶった切ったような鳴り方のゲートエコーという音響は、ドスンドスンとはらわたの底を叩かれるようで、そこに地底から響くようなガブリエルのボーカルが不気味に湧き上がってくるように聞こえてくる。聴く者を不安に陥れ、野蛮で畏れに満ちた世界に叩き込まれるような錯覚に襲われる。形容するとしたら“カッコイイ!”としか言えないのだ。彼は、この数年後の「SO」が有名だが、個人的には、この「Ⅲ」ほどのインパクトはなかった。

2022年5月29日 (日)

ウルトラヴォックス「システムズ・オブ・ロマンス」

11113_20220529213201  ジョン・フォックス在籍時のウルトラヴォックスが1978年にリリースした第3作目。当時は、シンセサイザーというアナログで音を作るのにホワイトノイズから周波数を調整する手作業の楽器が未だ残っていた頃だ。タンジェリン・ドリームなどの一部のプログレバンドやヴァンゲリスのようなプレイヤーが、それを特権的に使いこなして壮大な音宇宙を創り出していた。その一方で、デジタル化が始まるに伴いクラフトワークや日本のYMOがミニマル・ミュージックをポップスに置き換えたようなテクノ・ポックが生まれた。ウルトラヴォクスは、そのテクノの音宇宙をパンク・ニューウェイブのスピード感あるロックン・ロールに乗せて、ポップでありながらミステリアスで、しかもパンクのアグレッシブなティストを併せ持った斬新な音楽を創り上げた。一曲目の「スロー・モーション」の微かに始まり、次第にうねるように徐々に音量を上げてくるシンセの持続音に、重低音のベースが乗ってきて、ドラムスが聞き手を驚かすように闖入してくる幕開けは、新時代の開始を告げるファンファーレのようだった。
 この後、ジョン・フォックスはバンドを脱退し、引き継いだミッジ・ユーロの主導でリリースされた「ヴィエナ」がヒットし、バンドは人気を得ていったが、同じパターンの繰り返しになって、新たな世界が開けていくようなワクワクした雰囲気を失っていった。

 

2021年5月25日 (火)

マイラ・ヘス=バッハ「主よ人の望みの喜びよ」

 11112_20210525210401 バッハのコラールをピアノ独奏に編曲したマイラ・ヘス自身による演奏。ディヌ・リパッティの弾いた演奏をよく聴いていたが、こちらの演奏は録音の音質の貧しさもあってか、極めて簡素。冒頭の有名なメロディが骨だけみたいに聞こえてくる。これがリパッティの録音では中声部が豊かに響いてメロディがハーモニーで聞こえてくる。しかも、左手の低音部が活き活きとして、それ自体が一つのメロディにように有名なメロディと絡み合うようになる。それが演奏に前へ前へという推進力を与えて、全体としてポジティブ(前向き)な活力を聞くものに与える。これに対して、ヘスの演奏は、そういう豊かさはなく、テンポも心もち遅めで(決して指が動かないのではないだろうと思う)、リパッティが活き活きとした動きがあるに対して、立ち止まったりするような感じだが、それがリパッティとは違って、跪いて祈っているような、思わず見上げてしまうような演奏になっている。もっと印象っぽい違いをいうと、リパッティの演奏は音楽として美しい、敢えて言えば歌っているとか奏でているという感じなのに対して、ヘスの演奏は語りかけているという印象。例えば、リパッティの弾くメロディは整っていて均整のとれたという美という感じなのに対して、ヘスの弾くメロディはリパッティほど整っていないで、その形が揺れている。その揺れが、語るという感じに近い。それは、ヘスと同時代やそれ以前の時代の演奏家にも言えるのだが、音楽を弾くというのが、抽象的な美というようなメロディを美しく奏でるというのではなくて、メロディを肉声で語るような感覚で弾いていた。だから不安定で揺れたりするのは当たり前で(コルトーの弾くショパンなんて、その典型)、今みたいにミスなく完璧に楽譜通りに弾くのとは違う基準で演っていたというのが、今頃になって、ようやく、何となく少しわかるようになってきた、と最近、ちょっと思う。しかし、ヘスのピアノはモーツァルトなんかの評判が高いようだけれど、未だ、私には味わえていない。反面、リパッティの弾くバッハのパルティータは大好きだ。

2021年4月 1日 (木)

ジャズを聴く(60)~ドン・フリードマン「Metamorphosis」

 ドン・フリードマンのリーダー録音としては5作目に当たり、フリー・ジャズっぽい行き方に接近したものとなっている。「CIRCLE WALTZ」とは印象が異なるが、フリードマンが他のミュージシャンのリーダー・アルバムにサイドメンとして参加した、例えばジョー・ヘンダーソンの「テトラゴン」やブッカー・リトルの「アウトフロント」でのプレイは、このアルバムでの演奏の方が通じているように思える。このアルバムでは、ピアノ・トリオにギターが加わったカルテット編成で、ピアノとギターがユニゾンでメロディを演奏するという変わった響きから、ソロが分岐するように派生していくところにサウンド面での特徴があると思う。そこでは、「CIRCLE WALTZ」で目立っていたピアノの弱音による繊細な響きを打ち消してしまうところもあって、「CIRCLE WALTZ」からフリードマンを聴き始めた人は、違和感を持つかもしれない。しかし、このアルバムを聴くと、決してフリードマンがピル・エヴァンズの真似で「CIRCLE WALTZ」を演ったのではないことを、間接的にでも分かるだろうと思う。
Jazfriedman_metamorphsis Metamorphosis      1966年2月22日録音
 Wakin' Up
 Spring Sign
 Drive
 Extension
 Troubadours Groovedour
 Dream Bells
   Don Friedman (p)
   Attila Zoller(g)
   Richard Davis (b)
   Joe Chambers(ds)  
 最初の「Wakin' Up」は、ベースのイントロに続いてミドル・テンポのスインギーなワルツをピアノとギターがユニゾンで演奏する。この時のフリードマンのピアノは、音量でギターの背後になっていて、コードを押さえてのテーマなので伴奏のようでもある。続くソロがギターなので、ことさらそう聴こえるのか、ピアノはバックで伴奏のようであるけれど、ギターが退くと、その伴奏の形のままソロに移行していく。このような形でフリードマンが演奏全体をリードしている。曲の構造的な面では、「CIRCLE WALTZ」の場合は、この曲では大きな変化はないが、サウンドでの印象が違う。しかし、違いは2曲目の「Spring Sign」で明らかになってくる。冒頭でのギターとピアノユニゾンは、フュージョン・ギターでよく演られる手数の多いテクニカルなギターならではのような早弾きフレーズで、ピアノは無理に合わせているようなギコチなさがある。それが、これまでのハード・バップ的なジャズのメロディとは明らかに違うという印象を最初に与えられる。それに続いてピアノによるアドリブが、ブリッジのように静かにゆっくりとコードを連打していくのだが、それが段々に不協和音になってくところが変わっていて、テーマの早弾きフレーズを断片に分解した破片を散りばめるようなアドリブの展開はクラシックの20世紀音楽のクラスターのような響きを作り出していて、次第にピアノのアドリブがバップ的な展開に落ち着いていくのだが、バックのベースの弓弾きやギターの後のフュージョンのような早弾きが、バップ的なピアノとのミスマッチさが奇妙な響きをつくりだす。そして、ギターにソロがかわった後のピアノのバックが、変拍子と不協和音のオンパレード。弓弾きのベースが、この奏法を生かした重音を不協和音で、変拍子で、それにピアノが合わせると、完全に不協和音と変拍子の世界。次の「Drive」では前曲の傾向をさらに推し進めていくと、メロディの印象がクラシック音楽の十二音技法っぽくなってきて、次第にギターとピアノがビートを細分化して、細かい音を高速で間断なく弾いて、まさに高速のクラスターの響きの世界。背後のドラムスとベースは規則的なリズムを刻まず、まるで全体として浮遊しているような世界をつくりだす。
 「Troubadours Groovedour」のギターとピアノで交互に掛け合うように演奏されるテーマは、ジャズのリズムに乗った十二音技法のように聴こえて来る。それは、まさにこの録音が行なわれた当時のクラシックのコンテンポラリーな実験音楽のような響きでもあり、フリー・ジャズのようでもある。ただし、そのような音楽には理論的な方法論があって、音楽の本質はこうだと頭で考えていく、例えばフリー・ジャズでは演奏での自由を突き詰めて、コードなどの規制から解放されて自由に音楽作りをすることの追求という動機があったと思うが、ここでのフリードマンたちの演奏には、そのような理詰め感じはなくて、あくまでもサウンドの響きの新しさを求め結果ではないかと思う。かれらの演奏には、方法論を追求するような熱さはなくて、いかに聴き手に聴こえるかを測りながら演奏している醒めたところがある。それは、演奏が決して熱気でごり押しのような盛り上がりには至らないことからも分かる。これだけ、フリー・ジャズを演っていても、全体としての演奏には穏やかな静かさが漂っていて、リラックスした雰囲気を失っていない。そこにフリードマンの特徴的な繊細さがあると思う。

2021年2月14日 (日)

ジャズを聴く(59)~ドン・フリードマン「サークルワルツ」

Jazfriedman_circle  このアルバムを一聴すれば、当時のジャズのアルバムでよく弾かれていたピアノのスタイルと明らかに一線を画していることは分かる。
      CIRCLE WALTZ    1962年5月14日録音
 Circle Waltz
 Sea's Breeze
 I Hear A Rhapsody
 In Your Own Sweet Way
 Loves Parting
 So in Love
 Modes Pivoting
  Don Friedman (p)
  Chuck Israels (b)
  Pete La Roca (ds) 

 ジャズという音楽でのピアノという楽器の位置づけはリズム・セクションを形成しているという性格があって、クラシック音楽に比べると打楽器という側面が強かった。そのせいもあってか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストに比べると、音が立ち上がりがストレートで、いわゆる立っている感じが強い。とくにフォルテでの音のスッキリしたクリアな音は、その決然としたアタックによるものか、クラシックのピアニストは通常出せないような音色を持っているピアニストが多かった。それもあるのか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストと違って音の強弱をグラデーションのように使い分けることよりも、フォルテのクリアな音の一本勝負の人が多い。とくに管楽器のバックでリズム・セクションにいるときは、ほとんどがそうだろうと思う。ところが、ドン・フリードマンの、このアルバムを聴いていると、フリードマンは弱音主体でピアノを弾いている。そこに、彼のピアノ演奏の特徴があり、それがこのアルバムでは彼のユニークさを際立たせている。
 ジャズという音楽の大きな特徴として、即興性の重視ということが挙げられると思う。クラシック音楽のような予め楽譜に書かれていることを忠実に再現するというのではなくて、プレイヤー(演奏者)が、その名のとおりプレイ(遊び)するように、その場で音と戯れ、音楽を即興的に生み出していく、聴衆の見ている前で創造してしまうところを重視する。バド・パウエルやセロニアス・モンクといったジャズのピアニストは、ライブ演奏でも、録音でも、その場で音楽が誕生するという感動的な瞬間をたしかに作り出していた。それがジャズの演奏の新鮮さとか生々しい迫力に繋がっている。しかし、そのように即興的に、その場で演奏を創造することに力を傾ければ、そこに先がどうなるか分からないスリルが高い緊張感を生んでいたが、その反面で先が見えないその場限りになるおそれがある。したがって、演奏者は、つねにその時のベストプレイをすることになる。だから、どうしても声高になるきらいがあり、音が大きくなっていく傾向がある。一旦、退くように音の出し惜しみをして小さくしてしまえば、そこで緊張が後退してしまうおそれがある。
 そこで、ドン・フリードマンというピアニストが弱音で演奏するということが、このような傾向に対するアンチ・テーゼと言えるほどのユニークさを持ち得る可能性があるわけだ。弱音でピアノを弾いて聴かせるためには、パウエルやモンクのようにその場で音楽が生まれるという即興性で勝負するわけにはいかない。弱音という退きの要素を聴衆に聴いてもらうためには、一瞬一瞬に目が離せないという行き方ではなくて、ある程度安心して聴き所に注目するような態度をさせる、いわばメリハリをとらせる必要がある。そのためには、演奏が全体としてのプロポーションを見通した上で、聴きどころに注目してもらう、そのような演奏をする必要がある。そこでは、ジャズの大きな特徴である即興性をある程度犠牲にしなければならない。
 他方、ピアノが弱音で演奏しているところ、他のベースやドラムスが自己主張して大きな音を出してしまえば、ピアノの音は埋もれてしまう。したがって、ベースやドラムスもピアノに合わせて、全体としてのアンサンブルの響きを考えていくことが求められる。フリードマンの演奏では、ピアノを含めてプレイヤー個人がソロとして突出することになるとアンサンブルのバランスが崩れてしまい弱音での演奏が聞こえてこなくなってしまうので、バランスを重視する。たとえば、ピアノの響きはピアノと他の楽器の音が融合したサウンド、つまり、ベースとドラムスによるリズムとサウンドのなかから、その響きを通してピアノの音が聴こえて来るという感じになる。それは、クラシック音楽の室内楽の響き方に近い性格のものだと思う。
 その点で弱音も使うビル・エヴァンズと似ていると言われてしまっているひとつの原因となっていると思う。ただ、思うに、このアルバムではフリードマンが意図した以上に評価されてしまって、結局、爾後の彼の音楽を縛ることになって、この後の彼のスタイルがさらに展開されるはずであった可能性への障害となってしまった感もある。
 最初の「Circle Waltz」はアルバム・タイトルでもある、フリードマンのオリジナル曲。ピアノによるテーマが演奏される。それほど美しいとか印象的なメロディではないけれど、このテーマはベートーヴェンの交響曲の動機のように素材として、その後の操作により劇的になったり優美になったりという変化をしていくものになっていると思う。曲全体をとおして、このテーマが途中でも度々聴こえて来る。ジャズの演奏では最初にテーマが呈示されてアドリブに入ると、テーマはどこかに行ってしまって、最後に忘れた頃に戻ってきて演奏が終わるということがよくある。これに対して、フリードマンの演奏は、アドリブの部分に移ってもテーマが反芻され、そこでテーマに色づけがされて、それは繊細さというイメージの比重が大きいのだけれど、アドリブが展開されていくにつれて、テーマが段々と印象を重ねられるような構造になっている。そのような素材としては、このテーマはよくできていると思う。あらかじめ計算され設計されているような性格のものと思う。私の個人的な想像だけれど、ジャズの先端的な傾向は、ビバップやハードバップのコードをベースにした即興から、モード奏法とかその後のフリーといった即興に対する規制を外して自由に即興することを目指していったところにあると思う。これに対して、フリードマンの場合は予め即興の方向を設計するという、敢えて規制していく方向で、演奏のスリルや瑞々しさの代わりに、全体としてまとまりにより、聴き手がリラックスして聴くことができることを選択したのではないかと思う。
 これは演奏の時間的な構造の特徴とすると、空間的な特徴してピアノの演奏が独立していないように思える点があげられる。いわば、他のベースやドラムスに寄りかかっていて、アンサンブルの中で、はじめて生きてくる、つまり、ピアノ単独でフレーズを聴くのは、どこかもの足りなさが残り、ベースのコード伴奏やドラムスによるリズムの刻みによるメリハリが付加されたまとまりとなるとフレーズとして活きてくると思えるのだ。この点で、ピル・エヴァンズのような、ピアノやベースがそれぞれに自立したフレーズを作り出して、それぞれによる二つの別々のフレーズの掛け合いやバトルが高い緊張やドラマを生むということはない。その代わりに、フリードマンのトリオのフレーズにはアンサンブルから生み出される響きの重層性や単独の楽器のキャパでは生み出せないサウンドの厚みがある。
 そして、このテーマがメロディアスでないことに端的に表われていると思うが、フリードマンの繰り出すフレーズはメロディアスな要素が少なく、ほとんど歌わない。それが似ていると言われているビル・エヴァンズとの違いのひとつと言える。つまり、フリードマンの演奏は繊細だけれどリリカルとかセンチメンタルといった要素がほとんどない。フリードマンの繊細さというのは、サウンドの響き、クリスタルのような硬質でクリアなピアノの音で、弱音を駆使して、それを最大限に生かす演奏をするところにある。後年のことになるが、フリードマンがフリー・ジャズを志向して、それっぽいアルバムを残していたり、新感覚派のセッションに参加して、サイドで結構アグレッシブな演奏をしている遠因は、この辺りにあるのではないかと想像させられる。そして、ピル・エヴァンズにはそのような活動への参加はなかったと思う。とくに、エヴァンズとの大きな違いは音の重ね方にあると思う。エヴァンズはコードこそユニークなコード進行による響きを印象付けるけれど、基本的にはメロディ志向のピアニストなので、ブロックコードとリズムを刻む場合は別として、あまり音を重ねようとしないが、逆にフリードマンはメロディを歌わせるところがすくなく、コード変化によって響きの繊細な移り行きを聴かせる志向があるようで、この「Circle Waltz」という曲は彼のオリジナルであるだけに、そういう響きを生かすようにつくられていると思う。最初に述べたようにテーマは、これらのフリードマンの特徴的な演奏によっていじり易い素材としてつくられている。たいへん人工的な演奏で、自然な暖かみとは正反対の曲にいるようなフリードマンの特徴をよく生かしている曲、演奏になっている。
 フリードマンのサウンド特徴が集中的に表われているのが「So in Love」というコール・ポーター作曲のスタンダード・ナンバーの演奏。ソロ・ピアノで他の楽器が入ってこないためか、アルバム中の他の演奏に比べ弱音がさらに多用されて、音の重ね方についても微妙に重ね方をズラしたりといった工夫を駆使して響きのヴァリエーションを多彩にして、一見、繊細なのだけれど、じつは響きの点で攻めの演奏をしている。

2021年1月27日 (水)

ジャズを聴く(58)~エリック・ドルフィー「LAST DATE」

Jazdolphy_last Epistrophy
South Street Exit
The Madrig Speaks,The Panther Walks
Hypochristmutreefuzz
You Don't Know What Love Is
Miss Ann

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Misja Mengelberg (p)
 Jacques Schols (b)
 Han Bennink (ds)

 

 試しに、同じドルフィーのアルバムである「OUT TO LUNCH」を聴いた後で、続けてこのアルバムを聴いてみるとどうだろう。変な形容かもしれないけれど、「OUT TO LUNCH」にある息詰まるほどの過激さは、ここでは見られず、比べると一種の穏やかさに包まれているように感じられないだろうか。ドルフィーが亡くなる数日前に録音されたという伝記的なエピソードから、死を前にした諦念とかそういったストーリーを捏造しようというわけではなく、例えば、ドルフィーの吹く楽器にについて、以前では強い音圧を絶えずかけていて終始楽器が壊れてしまいそうなほど楽器を鳴らし響かせていたのが、ここでは余裕をもってある時は息を抜くように、楽器の残響の余韻を巧みに生かすような鳴らし方をしている。また、「OUT TO LUNCH」の変拍子のオンパレードのような複合リズムで聴く者はノリが許されないようなリズムが、ここでは定速の4ビートを終始キープしているので、安心感がある。もっとも、単にビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められ、ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが売れてくる面白さが見られるのは、いかにもドルフィーらしさは失われていないのだが。
 1曲目の「Epistrophy」は、そういう穏やかさの中でとドルフィー特有の飛翔が入ってくるので、むしろドルフィーの特徴が鮮やかに際立つ。しかも、不思議と違和感を起こさせることが少なく、聴き手にスッと入り込んでくる。出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。それが、今までと違って形の力が抜けてリラックスしていて、しかも、ドラムスとベースがしっかりと4ビートを守って、あまりドルフィーを煽ったりせずにバックに徹しているので、ドルフィーが気持ちよく吹いているのが、聴く者に伝わってくる。そして、ピアノのバッキング。まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノなのだ。5曲目の「You Don't Know What Love Is」では、弓で弾くベースとのデュオで、ドルフィーのフルートが、ちょっとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートに似た半音階的なメロディーっぽいフレーズをテーマに12分にわたるソロを吹いている。それが、彼の専売特許ともいえる咆哮を思わせるようなフリーキーなトーンを、ほとんど混じえずに、フレーズで勝負して、しっとりとした美しい演奏をしている。この演奏をもって、このアルバムの白眉という人も少なくないという。最後の「Miss Ann」は、フリー・ジャズという感じではなくて、ハード・バップの中にドルフィー独特の突飛なフレーズが収まってしまっている。最後に、有名なドルフィーの独白が入るが、それについては尤もらしく論じている人が沢山いるので、それでストーリーをつくって楽しめばいいと思う。ただ、演奏が終わって拍手を短くフェイドアウトさせると尻切れトンボになってしまうので、落ち着いた声を一節いれることで、静かに終わって、余韻を残す効果が出ていると、私は思うので、何をしゃべっているかは、ほとんど気にならない。 

2021年1月17日 (日)

ジャズを聴く(57)~エリック・ドルフィー「OUT TO LUNCH」

Jazdolphy_out Hat And Beard
Something Sweet,Something Tender
Gazzelloni
Out To Lunch
Straight Up And Down

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Freddie Hubbard(tp)
 Bobby Hutcherson(vib)
 Richard Davis(b)
 Tony Williams(ds)

 

 このアルバムはスタジオ録音で、ライブ録音とは全く違ったドルフィーの可能性に触れることができる。ライブ録音と大きく違って、音楽の広がりという遠心的な方向性とは正反対の求心性が色濃く出ていると思う。ライブでは実現不可能な自己完結したような音楽空間、つまり広がっていくのではなくて閉じた世界で空間を埋め尽くそうとするような方向性で、聴く者はまるで母胎のなかの胎児のように空間に包み込まれ、外界から遮断されて、一体化させられていく。空間をシャープに切断するドラミングと、クールに鳴り響くヴァイブが特徴的なサウンドは精緻に計算されて冷静に構成されたもので、そこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は「正確無比に狂った時計」のような様相を示し始めるのだ。アルバム・ジャケットのような。
 一曲目の「Hat And Beard」合計すると9拍になる複合拍子の分割バリエーションに着想を得た楽曲で、トランペット、バスクラリネット、ヴィブラホンがビックバンド風のバッキングでリズミックにアクセントをつける中、ベースとドラムによって提示される導入部は9/3拍子(3・3・3)によって、そして、テーマ部ならびにソロ中は9/4拍子(5・4)という変拍子によって演奏される。と言われても、何のことか分からないという場合は、試しに最初のところを手で拍子をとってみるといい、途中で手拍子が余ってしまうし、楽器によって違うリズムで演奏しているので、どの楽器に合わせればいいのか分からなくなってしまう。基本的にはドルフィーのソロはリズムにノッているのだけれど、細かなフェイクを入れたりして、その上を自由に飛翔しているようで、そこに独特のひねくれたような断片的なフレーズにならないようなフレーズをブチこんで、しかもアルト・サックスからは想像できないヘンテコリンな音色を出してくる。最初から歪んでいた空間が、このドルフィーのソロで、さらに歪む方向に動き始め、ボビー・ハチャーソンのヴァイブが止めを刺す。2曲目の「Something Sweet,Something Tender」は、弓で弾くベースをバックにドルフィーのソロで始まるが、半音階的な要素の入ったメロディーは20世紀初頭のクラシック音楽の難解で前衛的な曲のようだ。曲中に5/4拍子や6/4拍子が短く挿入される作曲手法、或いはテーマ-ソロ-テーマ後に短いバスクラブレイクを挟み再度テーマに戻るというイレギュラーで多彩な展開といった、一見、スローバラードなのだけれど、冷静に組み立てられている。これって、曲の構成とか、展開はフリーなのかもしれないが、演奏はフリーなの?と問いたくなるような、まるでクラシック音楽のようなキッチリとした演奏で、息が詰まりそうなほど。この後のナンバーも、変拍子のオンパレードで、しかも規則的に刻まれるので、従来のジャズの柔軟なリズムから生まれるグルーヴとかスイング感のような、思わず身体が動いてくるノリとはあまり縁のない、楽譜に設定された拍節を実体化して音楽の構築性を出現させる役割を果たしていると思う。それは、1950年ころのクラシック音楽の作曲家たちが人の感情に訴えかけるようなロマンチックな音楽に飽和して、数学の計算のような知的な構成物のような音楽をつくっていったのと、似ているような気がする。とくに、この作品は、ジャズの肉体性とか即興性を犠牲にしても、音楽をつくるとか構成することの自由さを追求していった、ある意味ドルフィーの想像の中で鳴っている音楽を可能な限り再現しようとしたものとは考えられないだろうか。このエッセンスを希釈したり、一部を抜き取って活用したのが、「At The Five Spot」といったアルバムではないと思える。

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