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音楽

2021年5月25日 (火)

マイラ・ヘス=バッハ「主よ人の望みの喜びよ」

 11112_20210525210401 バッハのコラールをピアノ独奏に編曲したマイラ・ヘス自身による演奏。ディヌ・リパッティの弾いた演奏をよく聴いていたが、こちらの演奏は録音の音質の貧しさもあってか、極めて簡素。冒頭の有名なメロディが骨だけみたいに聞こえてくる。これがリパッティの録音では中声部が豊かに響いてメロディがハーモニーで聞こえてくる。しかも、左手の低音部が活き活きとして、それ自体が一つのメロディにように有名なメロディと絡み合うようになる。それが演奏に前へ前へという推進力を与えて、全体としてポジティブ(前向き)な活力を聞くものに与える。これに対して、ヘスの演奏は、そういう豊かさはなく、テンポも心もち遅めで(決して指が動かないのではないだろうと思う)、リパッティが活き活きとした動きがあるに対して、立ち止まったりするような感じだが、それがリパッティとは違って、跪いて祈っているような、思わず見上げてしまうような演奏になっている。もっと印象っぽい違いをいうと、リパッティの演奏は音楽として美しい、敢えて言えば歌っているとか奏でているという感じなのに対して、ヘスの演奏は語りかけているという印象。例えば、リパッティの弾くメロディは整っていて均整のとれたという美という感じなのに対して、ヘスの弾くメロディはリパッティほど整っていないで、その形が揺れている。その揺れが、語るという感じに近い。それは、ヘスと同時代やそれ以前の時代の演奏家にも言えるのだが、音楽を弾くというのが、抽象的な美というようなメロディを美しく奏でるというのではなくて、メロディを肉声で語るような感覚で弾いていた。だから不安定で揺れたりするのは当たり前で(コルトーの弾くショパンなんて、その典型)、今みたいにミスなく完璧に楽譜通りに弾くのとは違う基準で演っていたというのが、今頃になって、ようやく、何となく少しわかるようになってきた、と最近、ちょっと思う。しかし、ヘスのピアノはモーツァルトなんかの評判が高いようだけれど、未だ、私には味わえていない。反面、リパッティの弾くバッハのパルティータは大好きだ。

2021年4月 1日 (木)

ジャズを聴く(60)~ドン・フリードマン「Metamorphosis」

 ドン・フリードマンのリーダー録音としては5作目に当たり、フリー・ジャズっぽい行き方に接近したものとなっている。「CIRCLE WALTZ」とは印象が異なるが、フリードマンが他のミュージシャンのリーダー・アルバムにサイドメンとして参加した、例えばジョー・ヘンダーソンの「テトラゴン」やブッカー・リトルの「アウトフロント」でのプレイは、このアルバムでの演奏の方が通じているように思える。このアルバムでは、ピアノ・トリオにギターが加わったカルテット編成で、ピアノとギターがユニゾンでメロディを演奏するという変わった響きから、ソロが分岐するように派生していくところにサウンド面での特徴があると思う。そこでは、「CIRCLE WALTZ」で目立っていたピアノの弱音による繊細な響きを打ち消してしまうところもあって、「CIRCLE WALTZ」からフリードマンを聴き始めた人は、違和感を持つかもしれない。しかし、このアルバムを聴くと、決してフリードマンがピル・エヴァンズの真似で「CIRCLE WALTZ」を演ったのではないことを、間接的にでも分かるだろうと思う。
Jazfriedman_metamorphsis Metamorphosis      1966年2月22日録音
 Wakin' Up
 Spring Sign
 Drive
 Extension
 Troubadours Groovedour
 Dream Bells
   Don Friedman (p)
   Attila Zoller(g)
   Richard Davis (b)
   Joe Chambers(ds)  
 最初の「Wakin' Up」は、ベースのイントロに続いてミドル・テンポのスインギーなワルツをピアノとギターがユニゾンで演奏する。この時のフリードマンのピアノは、音量でギターの背後になっていて、コードを押さえてのテーマなので伴奏のようでもある。続くソロがギターなので、ことさらそう聴こえるのか、ピアノはバックで伴奏のようであるけれど、ギターが退くと、その伴奏の形のままソロに移行していく。このような形でフリードマンが演奏全体をリードしている。曲の構造的な面では、「CIRCLE WALTZ」の場合は、この曲では大きな変化はないが、サウンドでの印象が違う。しかし、違いは2曲目の「Spring Sign」で明らかになってくる。冒頭でのギターとピアノユニゾンは、フュージョン・ギターでよく演られる手数の多いテクニカルなギターならではのような早弾きフレーズで、ピアノは無理に合わせているようなギコチなさがある。それが、これまでのハード・バップ的なジャズのメロディとは明らかに違うという印象を最初に与えられる。それに続いてピアノによるアドリブが、ブリッジのように静かにゆっくりとコードを連打していくのだが、それが段々に不協和音になってくところが変わっていて、テーマの早弾きフレーズを断片に分解した破片を散りばめるようなアドリブの展開はクラシックの20世紀音楽のクラスターのような響きを作り出していて、次第にピアノのアドリブがバップ的な展開に落ち着いていくのだが、バックのベースの弓弾きやギターの後のフュージョンのような早弾きが、バップ的なピアノとのミスマッチさが奇妙な響きをつくりだす。そして、ギターにソロがかわった後のピアノのバックが、変拍子と不協和音のオンパレード。弓弾きのベースが、この奏法を生かした重音を不協和音で、変拍子で、それにピアノが合わせると、完全に不協和音と変拍子の世界。次の「Drive」では前曲の傾向をさらに推し進めていくと、メロディの印象がクラシック音楽の十二音技法っぽくなってきて、次第にギターとピアノがビートを細分化して、細かい音を高速で間断なく弾いて、まさに高速のクラスターの響きの世界。背後のドラムスとベースは規則的なリズムを刻まず、まるで全体として浮遊しているような世界をつくりだす。
 「Troubadours Groovedour」のギターとピアノで交互に掛け合うように演奏されるテーマは、ジャズのリズムに乗った十二音技法のように聴こえて来る。それは、まさにこの録音が行なわれた当時のクラシックのコンテンポラリーな実験音楽のような響きでもあり、フリー・ジャズのようでもある。ただし、そのような音楽には理論的な方法論があって、音楽の本質はこうだと頭で考えていく、例えばフリー・ジャズでは演奏での自由を突き詰めて、コードなどの規制から解放されて自由に音楽作りをすることの追求という動機があったと思うが、ここでのフリードマンたちの演奏には、そのような理詰め感じはなくて、あくまでもサウンドの響きの新しさを求め結果ではないかと思う。かれらの演奏には、方法論を追求するような熱さはなくて、いかに聴き手に聴こえるかを測りながら演奏している醒めたところがある。それは、演奏が決して熱気でごり押しのような盛り上がりには至らないことからも分かる。これだけ、フリー・ジャズを演っていても、全体としての演奏には穏やかな静かさが漂っていて、リラックスした雰囲気を失っていない。そこにフリードマンの特徴的な繊細さがあると思う。

2021年2月14日 (日)

ジャズを聴く(59)~ドン・フリードマン「サークルワルツ」

Jazfriedman_circle  このアルバムを一聴すれば、当時のジャズのアルバムでよく弾かれていたピアノのスタイルと明らかに一線を画していることは分かる。
      CIRCLE WALTZ    1962年5月14日録音
 Circle Waltz
 Sea's Breeze
 I Hear A Rhapsody
 In Your Own Sweet Way
 Loves Parting
 So in Love
 Modes Pivoting
  Don Friedman (p)
  Chuck Israels (b)
  Pete La Roca (ds) 

 ジャズという音楽でのピアノという楽器の位置づけはリズム・セクションを形成しているという性格があって、クラシック音楽に比べると打楽器という側面が強かった。そのせいもあってか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストに比べると、音が立ち上がりがストレートで、いわゆる立っている感じが強い。とくにフォルテでの音のスッキリしたクリアな音は、その決然としたアタックによるものか、クラシックのピアニストは通常出せないような音色を持っているピアニストが多かった。それもあるのか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストと違って音の強弱をグラデーションのように使い分けることよりも、フォルテのクリアな音の一本勝負の人が多い。とくに管楽器のバックでリズム・セクションにいるときは、ほとんどがそうだろうと思う。ところが、ドン・フリードマンの、このアルバムを聴いていると、フリードマンは弱音主体でピアノを弾いている。そこに、彼のピアノ演奏の特徴があり、それがこのアルバムでは彼のユニークさを際立たせている。
 ジャズという音楽の大きな特徴として、即興性の重視ということが挙げられると思う。クラシック音楽のような予め楽譜に書かれていることを忠実に再現するというのではなくて、プレイヤー(演奏者)が、その名のとおりプレイ(遊び)するように、その場で音と戯れ、音楽を即興的に生み出していく、聴衆の見ている前で創造してしまうところを重視する。バド・パウエルやセロニアス・モンクといったジャズのピアニストは、ライブ演奏でも、録音でも、その場で音楽が誕生するという感動的な瞬間をたしかに作り出していた。それがジャズの演奏の新鮮さとか生々しい迫力に繋がっている。しかし、そのように即興的に、その場で演奏を創造することに力を傾ければ、そこに先がどうなるか分からないスリルが高い緊張感を生んでいたが、その反面で先が見えないその場限りになるおそれがある。したがって、演奏者は、つねにその時のベストプレイをすることになる。だから、どうしても声高になるきらいがあり、音が大きくなっていく傾向がある。一旦、退くように音の出し惜しみをして小さくしてしまえば、そこで緊張が後退してしまうおそれがある。
 そこで、ドン・フリードマンというピアニストが弱音で演奏するということが、このような傾向に対するアンチ・テーゼと言えるほどのユニークさを持ち得る可能性があるわけだ。弱音でピアノを弾いて聴かせるためには、パウエルやモンクのようにその場で音楽が生まれるという即興性で勝負するわけにはいかない。弱音という退きの要素を聴衆に聴いてもらうためには、一瞬一瞬に目が離せないという行き方ではなくて、ある程度安心して聴き所に注目するような態度をさせる、いわばメリハリをとらせる必要がある。そのためには、演奏が全体としてのプロポーションを見通した上で、聴きどころに注目してもらう、そのような演奏をする必要がある。そこでは、ジャズの大きな特徴である即興性をある程度犠牲にしなければならない。
 他方、ピアノが弱音で演奏しているところ、他のベースやドラムスが自己主張して大きな音を出してしまえば、ピアノの音は埋もれてしまう。したがって、ベースやドラムスもピアノに合わせて、全体としてのアンサンブルの響きを考えていくことが求められる。フリードマンの演奏では、ピアノを含めてプレイヤー個人がソロとして突出することになるとアンサンブルのバランスが崩れてしまい弱音での演奏が聞こえてこなくなってしまうので、バランスを重視する。たとえば、ピアノの響きはピアノと他の楽器の音が融合したサウンド、つまり、ベースとドラムスによるリズムとサウンドのなかから、その響きを通してピアノの音が聴こえて来るという感じになる。それは、クラシック音楽の室内楽の響き方に近い性格のものだと思う。
 その点で弱音も使うビル・エヴァンズと似ていると言われてしまっているひとつの原因となっていると思う。ただ、思うに、このアルバムではフリードマンが意図した以上に評価されてしまって、結局、爾後の彼の音楽を縛ることになって、この後の彼のスタイルがさらに展開されるはずであった可能性への障害となってしまった感もある。
 最初の「Circle Waltz」はアルバム・タイトルでもある、フリードマンのオリジナル曲。ピアノによるテーマが演奏される。それほど美しいとか印象的なメロディではないけれど、このテーマはベートーヴェンの交響曲の動機のように素材として、その後の操作により劇的になったり優美になったりという変化をしていくものになっていると思う。曲全体をとおして、このテーマが途中でも度々聴こえて来る。ジャズの演奏では最初にテーマが呈示されてアドリブに入ると、テーマはどこかに行ってしまって、最後に忘れた頃に戻ってきて演奏が終わるということがよくある。これに対して、フリードマンの演奏は、アドリブの部分に移ってもテーマが反芻され、そこでテーマに色づけがされて、それは繊細さというイメージの比重が大きいのだけれど、アドリブが展開されていくにつれて、テーマが段々と印象を重ねられるような構造になっている。そのような素材としては、このテーマはよくできていると思う。あらかじめ計算され設計されているような性格のものと思う。私の個人的な想像だけれど、ジャズの先端的な傾向は、ビバップやハードバップのコードをベースにした即興から、モード奏法とかその後のフリーといった即興に対する規制を外して自由に即興することを目指していったところにあると思う。これに対して、フリードマンの場合は予め即興の方向を設計するという、敢えて規制していく方向で、演奏のスリルや瑞々しさの代わりに、全体としてまとまりにより、聴き手がリラックスして聴くことができることを選択したのではないかと思う。
 これは演奏の時間的な構造の特徴とすると、空間的な特徴してピアノの演奏が独立していないように思える点があげられる。いわば、他のベースやドラムスに寄りかかっていて、アンサンブルの中で、はじめて生きてくる、つまり、ピアノ単独でフレーズを聴くのは、どこかもの足りなさが残り、ベースのコード伴奏やドラムスによるリズムの刻みによるメリハリが付加されたまとまりとなるとフレーズとして活きてくると思えるのだ。この点で、ピル・エヴァンズのような、ピアノやベースがそれぞれに自立したフレーズを作り出して、それぞれによる二つの別々のフレーズの掛け合いやバトルが高い緊張やドラマを生むということはない。その代わりに、フリードマンのトリオのフレーズにはアンサンブルから生み出される響きの重層性や単独の楽器のキャパでは生み出せないサウンドの厚みがある。
 そして、このテーマがメロディアスでないことに端的に表われていると思うが、フリードマンの繰り出すフレーズはメロディアスな要素が少なく、ほとんど歌わない。それが似ていると言われているビル・エヴァンズとの違いのひとつと言える。つまり、フリードマンの演奏は繊細だけれどリリカルとかセンチメンタルといった要素がほとんどない。フリードマンの繊細さというのは、サウンドの響き、クリスタルのような硬質でクリアなピアノの音で、弱音を駆使して、それを最大限に生かす演奏をするところにある。後年のことになるが、フリードマンがフリー・ジャズを志向して、それっぽいアルバムを残していたり、新感覚派のセッションに参加して、サイドで結構アグレッシブな演奏をしている遠因は、この辺りにあるのではないかと想像させられる。そして、ピル・エヴァンズにはそのような活動への参加はなかったと思う。とくに、エヴァンズとの大きな違いは音の重ね方にあると思う。エヴァンズはコードこそユニークなコード進行による響きを印象付けるけれど、基本的にはメロディ志向のピアニストなので、ブロックコードとリズムを刻む場合は別として、あまり音を重ねようとしないが、逆にフリードマンはメロディを歌わせるところがすくなく、コード変化によって響きの繊細な移り行きを聴かせる志向があるようで、この「Circle Waltz」という曲は彼のオリジナルであるだけに、そういう響きを生かすようにつくられていると思う。最初に述べたようにテーマは、これらのフリードマンの特徴的な演奏によっていじり易い素材としてつくられている。たいへん人工的な演奏で、自然な暖かみとは正反対の曲にいるようなフリードマンの特徴をよく生かしている曲、演奏になっている。
 フリードマンのサウンド特徴が集中的に表われているのが「So in Love」というコール・ポーター作曲のスタンダード・ナンバーの演奏。ソロ・ピアノで他の楽器が入ってこないためか、アルバム中の他の演奏に比べ弱音がさらに多用されて、音の重ね方についても微妙に重ね方をズラしたりといった工夫を駆使して響きのヴァリエーションを多彩にして、一見、繊細なのだけれど、じつは響きの点で攻めの演奏をしている。

2021年1月27日 (水)

ジャズを聴く(58)~エリック・ドルフィー「LAST DATE」

Jazdolphy_last Epistrophy
South Street Exit
The Madrig Speaks,The Panther Walks
Hypochristmutreefuzz
You Don't Know What Love Is
Miss Ann

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Misja Mengelberg (p)
 Jacques Schols (b)
 Han Bennink (ds)

 

 試しに、同じドルフィーのアルバムである「OUT TO LUNCH」を聴いた後で、続けてこのアルバムを聴いてみるとどうだろう。変な形容かもしれないけれど、「OUT TO LUNCH」にある息詰まるほどの過激さは、ここでは見られず、比べると一種の穏やかさに包まれているように感じられないだろうか。ドルフィーが亡くなる数日前に録音されたという伝記的なエピソードから、死を前にした諦念とかそういったストーリーを捏造しようというわけではなく、例えば、ドルフィーの吹く楽器にについて、以前では強い音圧を絶えずかけていて終始楽器が壊れてしまいそうなほど楽器を鳴らし響かせていたのが、ここでは余裕をもってある時は息を抜くように、楽器の残響の余韻を巧みに生かすような鳴らし方をしている。また、「OUT TO LUNCH」の変拍子のオンパレードのような複合リズムで聴く者はノリが許されないようなリズムが、ここでは定速の4ビートを終始キープしているので、安心感がある。もっとも、単にビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められ、ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが売れてくる面白さが見られるのは、いかにもドルフィーらしさは失われていないのだが。
 1曲目の「Epistrophy」は、そういう穏やかさの中でとドルフィー特有の飛翔が入ってくるので、むしろドルフィーの特徴が鮮やかに際立つ。しかも、不思議と違和感を起こさせることが少なく、聴き手にスッと入り込んでくる。出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。それが、今までと違って形の力が抜けてリラックスしていて、しかも、ドラムスとベースがしっかりと4ビートを守って、あまりドルフィーを煽ったりせずにバックに徹しているので、ドルフィーが気持ちよく吹いているのが、聴く者に伝わってくる。そして、ピアノのバッキング。まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノなのだ。5曲目の「You Don't Know What Love Is」では、弓で弾くベースとのデュオで、ドルフィーのフルートが、ちょっとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートに似た半音階的なメロディーっぽいフレーズをテーマに12分にわたるソロを吹いている。それが、彼の専売特許ともいえる咆哮を思わせるようなフリーキーなトーンを、ほとんど混じえずに、フレーズで勝負して、しっとりとした美しい演奏をしている。この演奏をもって、このアルバムの白眉という人も少なくないという。最後の「Miss Ann」は、フリー・ジャズという感じではなくて、ハード・バップの中にドルフィー独特の突飛なフレーズが収まってしまっている。最後に、有名なドルフィーの独白が入るが、それについては尤もらしく論じている人が沢山いるので、それでストーリーをつくって楽しめばいいと思う。ただ、演奏が終わって拍手を短くフェイドアウトさせると尻切れトンボになってしまうので、落ち着いた声を一節いれることで、静かに終わって、余韻を残す効果が出ていると、私は思うので、何をしゃべっているかは、ほとんど気にならない。 

2021年1月17日 (日)

ジャズを聴く(57)~エリック・ドルフィー「OUT TO LUNCH」

Jazdolphy_out Hat And Beard
Something Sweet,Something Tender
Gazzelloni
Out To Lunch
Straight Up And Down

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Freddie Hubbard(tp)
 Bobby Hutcherson(vib)
 Richard Davis(b)
 Tony Williams(ds)

 

 このアルバムはスタジオ録音で、ライブ録音とは全く違ったドルフィーの可能性に触れることができる。ライブ録音と大きく違って、音楽の広がりという遠心的な方向性とは正反対の求心性が色濃く出ていると思う。ライブでは実現不可能な自己完結したような音楽空間、つまり広がっていくのではなくて閉じた世界で空間を埋め尽くそうとするような方向性で、聴く者はまるで母胎のなかの胎児のように空間に包み込まれ、外界から遮断されて、一体化させられていく。空間をシャープに切断するドラミングと、クールに鳴り響くヴァイブが特徴的なサウンドは精緻に計算されて冷静に構成されたもので、そこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は「正確無比に狂った時計」のような様相を示し始めるのだ。アルバム・ジャケットのような。
 一曲目の「Hat And Beard」合計すると9拍になる複合拍子の分割バリエーションに着想を得た楽曲で、トランペット、バスクラリネット、ヴィブラホンがビックバンド風のバッキングでリズミックにアクセントをつける中、ベースとドラムによって提示される導入部は9/3拍子(3・3・3)によって、そして、テーマ部ならびにソロ中は9/4拍子(5・4)という変拍子によって演奏される。と言われても、何のことか分からないという場合は、試しに最初のところを手で拍子をとってみるといい、途中で手拍子が余ってしまうし、楽器によって違うリズムで演奏しているので、どの楽器に合わせればいいのか分からなくなってしまう。基本的にはドルフィーのソロはリズムにノッているのだけれど、細かなフェイクを入れたりして、その上を自由に飛翔しているようで、そこに独特のひねくれたような断片的なフレーズにならないようなフレーズをブチこんで、しかもアルト・サックスからは想像できないヘンテコリンな音色を出してくる。最初から歪んでいた空間が、このドルフィーのソロで、さらに歪む方向に動き始め、ボビー・ハチャーソンのヴァイブが止めを刺す。2曲目の「Something Sweet,Something Tender」は、弓で弾くベースをバックにドルフィーのソロで始まるが、半音階的な要素の入ったメロディーは20世紀初頭のクラシック音楽の難解で前衛的な曲のようだ。曲中に5/4拍子や6/4拍子が短く挿入される作曲手法、或いはテーマ-ソロ-テーマ後に短いバスクラブレイクを挟み再度テーマに戻るというイレギュラーで多彩な展開といった、一見、スローバラードなのだけれど、冷静に組み立てられている。これって、曲の構成とか、展開はフリーなのかもしれないが、演奏はフリーなの?と問いたくなるような、まるでクラシック音楽のようなキッチリとした演奏で、息が詰まりそうなほど。この後のナンバーも、変拍子のオンパレードで、しかも規則的に刻まれるので、従来のジャズの柔軟なリズムから生まれるグルーヴとかスイング感のような、思わず身体が動いてくるノリとはあまり縁のない、楽譜に設定された拍節を実体化して音楽の構築性を出現させる役割を果たしていると思う。それは、1950年ころのクラシック音楽の作曲家たちが人の感情に訴えかけるようなロマンチックな音楽に飽和して、数学の計算のような知的な構成物のような音楽をつくっていったのと、似ているような気がする。とくに、この作品は、ジャズの肉体性とか即興性を犠牲にしても、音楽をつくるとか構成することの自由さを追求していった、ある意味ドルフィーの想像の中で鳴っている音楽を可能な限り再現しようとしたものとは考えられないだろうか。このエッセンスを希釈したり、一部を抜き取って活用したのが、「At The Five Spot」といったアルバムではないと思える。

2021年1月10日 (日)

ジャズを聴く(56)~エリック・ドルフィー「ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.2」

Jazdolphy_europe2 Don't Blame Me
Don't Blame Me (take 2)
The Way You Look Tonight  
Miss Ann (Les) 
Laura 

 

 Eric Dolphy (as,fl)
 Bent Axen (p)
 Erik Moseholm (b)
 Jorn Elniff (ds)

 

 1曲目の「Don't Blame Me」から、定型的な4ビートをベースに、そこから付かず離れずの揺らぎをもってドルフィーのフルートがミステリアスにメロディを、クネクネ捻り、からみつくようなフレージングで吹いて、後半はグルーヴィなノリを構築していくリズム隊とコンビネーションをつくる。ドルフィーのアドリブのフレーズには飛翔があったりするのだけれど、全体としては隠し味のスパイスを利かせる雰囲気で、ハード・バップの枠を形式として尊重している演奏。よく、初心者向け鑑賞ガイド本などで「At The Five Spot vol.1」を紹介されているのを目にするが、こちらの方がフリーを聴き慣れない人には、受け容れ易いのではないか。2曲目の「The Way You Look Tonight」からアルト・サックスに持ち替える。ここからは、自由に、それこそ重力を自由に操る術を持ったアルト・サックスが縦横無尽に空間をかけめぐる。冒頭からスピード全開でパーカーばりの高速アドリブは瞬時の緩みも感じさせない緊張感と猛烈なエネルギーを発散させる。ただ、この演奏には様式性というのを感じてしまう。アメリカとは異質なヨーロッパの聴衆やメンバーに囲まれて、それまで当たり前のように考える必要もなかった音楽風土とか身体性が異なることを触覚レベルで実感したのではないか。これは、聴いている私の個人的な妄想なので、事実と誤解しないでほしい。ただ、ここには、パロディ感覚というのか、高速アドリブを繰り広げていながら、「At The Five Spot vol.1」のような熱さがなくて、冷静で、むしろ、リズム・セクションとのディスコミュニケーションを感じ、形式的に譜面をなぞるように精確なプレイを続けているように見えるのだ。3曲目の「Miss Ann (Les)」でも、冒頭から全開のスピードで飛ばしていくのだけれど。「At The Five Spot vol.1」で紹介したように、ドルフィーは決してフリージャズに与していたわけではなかったけれど、それに近いところにいたし、事実、そういうスタイルの演奏をしていた。この「フリー」については「At The Five Spot vol.1」で触れたが、それが異質な文化のヨーロッパに来れば、無調のゲンダイオンガクがすでに存在し、セリーという規則までつくられている。ジャズそのものは関係ないかもしれないが、ヨーロッパではドルフィーの演っていることが必ずしも「フリー」でないことに気づいたはずだ。むしろ、アメリカにいたときはそこから抜け出そうとしたバップの方が、ヨーロッパでは新鮮に採られた可能性もあるとおもう。そこで、ドルフィーは自らのプレイに少し距離を置こうとしたように、私には見える。「At The Five Spot vol.1」にあった熱さが、ここではあまり感じられなくて、冷静さが目立つのはそれゆえではないか。ある意味、ヨーロッパという他者と出会って、ドルフィーは自身のフレーズをひとつひとつ確認しているように、ここでは見える。4曲目の「Laura」では、だから、ドルフィーのアルト・サックスが単独で複雑なラセン状の曲線を描くような、単に発散・放射するのではなくて、自身にフィードバックして回帰してくるような音楽をやろうとしたフレーズにように聞こえるのだ。それが、彼の早すぎる晩年に穏やかな音楽になっていく機縁が、このあたりの演奏で聴けるのではないか、少なくとも最初の『OUT TO LUNCH』の自己完結した世界をつくって、他のジャズとの境界を閉めてしまうようなところから、ここで扉を開くきっかけのひとつがあった、と私は勝手に想像している。

 

2020年12月28日 (月)

ジャズを聴く(55)~エリック・ドルフィー「ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1」

 エリック・ドルフィーは、アルト・サックス、フルートそしてバス・クラリネットにおいて特徴的なスタイルをもった真のオリジナリティのあるミュージシャンだった。彼の音楽は“アヴァンギャルド”のカテゴリーに分類されたが、彼自身必ずしもコード進行による即興を放棄したわけではなかった(コードに対する彼の譜面はかなり抽象的なものだったが)。彼以外のほとんどの“フリー・ジャズ”の演奏が非常に真面目で堅苦しく聞こえるのに対して、ドルフィーのソロは、多くの場合、恍惚と熱狂をもたらした。彼の即興は非常におおきな跳躍、非音楽的で演説のようなサウンドそして彼自身のロジックを使ったものだった。彼が主として演奏したのはアルト・サックスであったが、ハード・バップ以降の最初のフルーティストであり(ジェームス・ニュートンに影響を与えた)、ソロ楽器としてバス・クラリネットをジャズではじめて使った。彼は、(コールマン・ホーキンス以降)伴奏者なしのホーン単独の演奏による録音を行った最初の演奏者の一人で、それは、アンソニー・ブラクストンの5年も前のことだった。
 エリック・ドルフィーはロサンゼルスでロイ・ポーター楽団(1948~1950)と最初のレコーディングを行い、2年間の兵役に服した後、1958年にチコ・ハミルトンのクインテットに加わるまで、ロサンゼルスで無名のプレイヤーだった。1959年にはニュー・ヨークに移り、間もなくチャーリー・ミンガスのカルテットのメンバーとなった。1960年までには、ドルフィーはプレステージ・レーベルに定期的にリーダー録音を残し、ミンガスとの仕事で注目を得るようになった。しかし、彼の短いキャリアを通じて、自身の尖鋭的な演奏スタイルのゆえに定まった仕事を得るために絶えず苦労していた。ドルフィーは、1960~1961年にファイブ・スポットでトランペットのブッカー・リトルとのセッション、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」への参加及びマックス・ローチとのセッションという3枚の録音を含めて、その他ヨーロッパでの数枚などかなりのレコーディングを残した。1961年末に、ドルフィーはジョン・コルトレーン・カルテットの一員となった。彼らはヴィレッジ・ヴァンガードで保守的な批評家を前にして長大でフリーなソロの“アンチ・ジャズ”をプレイすることによって、彼らに恥をかかせようとした。1962~1963年の間、アメリカで、ドルフィーはガンサー・シェラー楽団で第3の流れの音楽をプレイし、自身のグループではめったに演奏しなかった。1964年、彼はブルーノート・レーベルで彼の古典となった『アウト・トゥ・ランチ』をレコーディングし、チャーリー・ミンガス・セクステット(The Great Concert of Charles Mingusで披露するための、おそらく最も刺激的なベーシストのバンド)とともにヨーロッパへ旅立った。彼はヨーロッパにとどまることを選んだ後、数回のギグを演ったが、糖尿病性昏睡で突然なくなり、36歳の生涯を閉じた。

 

ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1      1961年9月8日録音
Jazdolphy_europe1  Hi Fly
 Glad To Be Unhappy
 God Bless The Child
 Oleo
  Eric Dolphy (fl,bcl)
  Bent Axen (p)
  Chuck Israels (b)
  Erik Moseholm (b)
  Jorn Elniff (ds)
 エリック・ドルフィーがヨーロッパに渡り、現地のミュージャンと即興的にメンバーを組んでライブを行なった実況録音盤。このアルバムでは、ドルフィーのフルートとバス・クラリネットの演奏が収められていて、アルト・サックスはない(vol.2ではドルフィーのアルト・サックスが聴ける)。「At The Five Spot vol.1」のところで、リズム・セクションが規則的なビートを刻んでいると書いた。しかし、このときのメンバーは黒人のジャズの柔軟なリズム感覚が身体に染み付いている人たちだった。そこに無理が生まれ、それにドルフィーは満足できなかったのではないか。ところが、ヨーロッパの白人ミュージシャンたちは、異なる音楽的ルーツをもっていて、オーケストラのような個人が規則を遵守しないと成り立たないアンサンブルの伝統に培われている。vol.2もそうだけれど、この一連のヨーロッパでの実況盤では、メンバーは異なっているが、規則的なビートを当たり前のように厳格に刻んでいる。そこで、ほとんどが定速の4ビートだけれど、単なるビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められる。ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが、「At The Five Spot vol.1」よりも顕著に聞こえてくるのだ。さらに、このアルバムでは、ドルフィーの静の部分にも触れることができる。
 1曲目の「Hi Fly」はドルフィーのフルートとチャック・イスラエルズのベースの2人のデュオ。ドルフィーの思わせぶりなメロティフェイクによる導入部、無伴奏で、芯の太いフルートの音色が軽やかに飛翔してゆくようなフルートのソロに、ベースが後から入ってきて、リズムを刻み始め、テーマメロディとともに演奏に推進力が出てくる。 そしてアドリブパートに入っては、イマジネーション豊かに飛翔していく、まさにエリック・ドルフィーならではのフレーズが後から後から、その足場作りを黙々とこなすイスラエルズの職人気質的ベースワーク。静謐でありながら、厳格にリズムを守るベースは、一種の峻厳さというか精神性すら漂わせ(ドルフィーのフルートがあるからこそなのだが)ている。ドルフィーの楽しげに、だけど適度な緊張感を保ちながら、淡々と綴られてゆく演奏。じわじわと、静かな高揚感が内側から湧いてくる。次の「Glad To Be Unhappy」では、ピアノ・トリオをバックにドルフィーがリラックスしてフルートを吹いている。ドルフィーが優しいメロディが印象的を大切にしたテーマ演奏をフルートで、じっくり聴かせるが、優しいというよりも不気味に緊張感がある、まるで獲物を目の前にして今にも飛びかかろうと息を潜めているライオンの息吹のようなのだ。案の定、しかしアドリブパートに入ると一転、今度は激情迸る展開になる。3曲目の「God Bless The Child」から、バス・クラリネットに持ち替えて、この曲では、無伴奏の単独ソロを披露している。ドルフィーは、この曲の原曲メロディを、おそらくは、わざと出してこない。始めのうち・・・ドルフィーは、なにやら音をまさぐるように、バス・クラリネットの低音域を使ったアルペジオっぽい音階をしつこく続けてくる。そうしてある時~たぶん曲のサビの部分か・・・ここでいよいよ、高い音を吹く。これが・・・とても印象的で、それまでの低い音域でのファットな音圧感豊かな音色とは違う質感の、ちょっと歪んだような、ノドをキュ~ッと絞ったような、そんな悲痛な音色なのだ。でも・・・それが効く。静と動。抽象と具象という感じだろうか。そして最後の「Oleo」ではエキサイティングな演奏で締める。

2020年11月17日 (火)

ジャズを聴く(54)~エリック・ドルフィー「At The Five Spot vol.1」

Jazdolphy  下で紹介しているアルバムの、どの演奏でもいいので聴いてみていただきたい。はじめて人は驚くかもしれない。そこには、これまで紹介してきた他のプレイヤー、例えば、アート・ペッパーでも、ソニー・ロリンズでもリー・コニッツでもいい、ハード・バップ、クール・ジャズなどのスタイルの違いこそあっても、ジャズという音楽であるベースがある。しかし、ドルフィーの演奏は、そういうものが壊れてしまっている、アバンギャルドという言葉のイメージそのままの、「これって、音楽なの?」という感想がでてきても不思議ではない。フレーズはメロディという一般的なイメージには合わず、単に数個の音が続いているだけで、まとまった節に聴こえない(うたわない)。爆音のような音がむき出しでがなりたてている。そこで、かろうじてビートだけが単調に響いている。そんな感じではないかと思う。
 それは、ひとつにはドルフィーが活躍した1960年代はじめから半ばという時代状況も影響している。ジャズの歴史でいえば、ハード・バップは下火になり、大衆音楽としてのジャズの人気が落ち始める中で、新主流派からフリージャズといった試みがなされていた。そして、ドルフィーは、そのハード・バップからフリージャズへの橋渡しのようなスタンスにいたということだ。フリージャズなどというと、難解で敷居の高い音楽とか、でたらめでギャーギャーいってるだけの音楽とかいったイメージで捉えられているのではないかと思うが、聴いていただいた、ドルフィーの演奏は、それに近い印象を受けるのではないだろうか。
 「そんなののどこがいいの?」素朴にそう問いたくなるだろう。たしかに、ドルフィーの音楽は聴く人を選ぶ、誰にでも受け容れられるというタイプの音楽ではない。
 しかし、その演奏の圧倒的なパワーは誰も認めざるを得ないだろう。騒音にしか聞こえない人もいるかもしれないが、それにしても、そのうるささが並外れていることは否定できないだろう。それが、ドルフィーの特徴のひとつを形作っている。
そのひとつの要素として、ドルフィーの音そのもののユニークさがある。例えば、ドルフィーの吹くアルトサックスは楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどにビリビリと楽器自体が鳴りまくる。そこで響いている音はたとえようもなく硬質で、サックスの音の「芯」だけをそのまま大きくしたような、ギュッと中身の詰まった音。音にゆとりがないというか、遊びの部分がなく、聴いていると切迫感がある。うっとりと身を任せたくなるような心地よさなど微塵も感じさせない愚直なまでにシリアスで、そして、でかい、凄い音圧なのだ。とにかく、音をちょっと聴くだけで、あ、ドルフィーだとわかる個性的な音である。フリージャズのアルト奏者のなかには、演っていることはたしかに難解で、時代の先端を行くような立派な演奏かもしれないが、音そのものが貧弱で、フリーキーにブロウしても、その音が爪楊枝のようにこちらをちくちく刺すだけ、というひとがけっこういる。しかし、ドルフィーの音は太い槍のように我々の心臓を貫くのだ。
 そして、メロディになっていない独特のフレーズ。ちなみに、上で説明したようなストレートで心地好さを感じさせない音でメロディをふいても、それに身を任せることができるだろうか。それよりも圧倒的なパワーで力ずくで攻めて来い、といいたくならないだろうか。まさにそうなのだ。あの音で、ビートに乗って、うねるように、巻き込むようにドライブ感に溢れるフレーズが繰り出される。彼独特の咆哮を思わせるような音が跳躍するようにカッ飛んでしまうフリーキーなトーンはデタラメに吹いているように聞こえる。
 例えば、ドルフィーがノッてくると、必ず繰り出してくるパターンがある。それは・・・「パッ・パラ・パーラ・パーラ」というデコボコした起伏を持つフレーズで、ドルフィーは、この1小節4拍のフレーズを、それはもう重い音色でもって、何かが弾け飛ぶような感じで、吹き倒す。そしてこのフレーズが出ると・・・その瞬間、ビートが一気に「解き放たれる」ような感じがするのだ。バンド全体の感じているビート感も一気に爆発するとでも言うのか。そしてそれが、本当に気持ちいいのである。聴く者も突き抜けてしまうのである。だから、ドルフィーは決してデタラメに吹いているわけではない。どんなアルト奏者よりも、「きちんと考えて音を選んで、コントロールしたうえで吹いている」からこそできることなのである。サックスを吹いたことのあるひとならわかるだろうが、あんな極端にオクターブジャンプを繰り返すようなフレーズを吹くのはとてつもないテクニックが必要だ。しかもあのすごい音色であのフレーズを延々と吹き続けるのは、まったくもって人間業でない。
 ドルフィーのアルトのあのフレーズは、いつまでたっても「慣れる」ということがなく、ひたすら我々の心をざわつかせ、いらだたせ、紙ヤスリでこすられるような不安感、不快感をあおる。ドルフィーの音色もそうだが、ドルフィーのフレーズというのもまた、愚直なまでにシリアスである。ソロの出だしを聴くと、ぎゃはははと笑いだしたくなるような演奏なのだが、しだいに「これは笑っていてはいけないのではなかろうか」と思えてき、だんだん聴いているほうも居住まいを正してしまう……そんな音楽である。
 つまり、彼の演奏を聴く者は、聴いているうちに、ドルフィーのデタラメなフレーズのなかに「何か」を見つけて感じとってしまうことになる。同じフリージャズ黎明期の大物プレイヤーであっても、オーネット・コールマンの音楽はどちらかというとわかりやすい。つまり、彼は「そのとき吹きたいように吹く」のであって、言ってみれば、良い意味のデタラメである。そういう気分一発的な演奏というのは、聴く者にとっても、「ああ、もう、わけがわからん」という風にはならず、「なんだかわからないけど、とにかく彼は今、こう吹きたいのだろうな」と納得できる。しかし、ドルフィーの音楽は、どう聴いても、なんらかの楽理に基づいて演奏されているようである。しかし、その理屈がどういうものかさっぱりわからないので、難解ということになってしまう。そこで、ドルフィーの演奏が「何を言っているのかはわからないが、そこには確固としたセオリーが確実に存在していて、音楽総体が発する『意味』は確実にこちらに伝わってくる」という風になっているのだ。

 

At The Five Spot vol.1     1961年7月16日録音
Jazdolphy_five  Fire Waltz
 Bee Vamp
 The Prophet
  Eric Dolphy(as & bcl)
  Booker Little(tp)
  Mal Waldron(p)
  Richard Davis(b)
  Ed Blackwell(ds)
 この録音の少し前に、トランペットのブッカー・リトルが次のようなことを語ったという。「オーネット・コールマンや他の何人かがシーンに登場してきたことはとてもよかったと思う。彼は独自の考えを持っている。つまり、何をすればどうなるかがわかっている。だから、オーネットを批難する人たちの気持ちが理解できない。彼の音楽について論じ合うのはいいと思うけれどね。わたしの場合は、オーネットに比べるとアイディアの面でもっと保守的だ。しかし、彼がやっていることは明確に理解している。そして、それが素晴らしいことも分かっている。やり方さえ分かっていれば、問題など起こらない。純粋に知的な考えに基づいて動く人がいれば、他方では感情にしたがって行動を起こす人がいる。それで、これらの両者が同じ時に同じ場所に到達することもある。思うにバードは、オーネットより演奏面で知的なものを表現していた。オーネットの方は、自分が感じとるものを何でも表現しているように思う。しかし、どちらのやり方も捨て難い」。自身やドルフィーについては触れていないが、当然、オーネットと並べて自分たちを位置付けていたと思うし、その後の録音、つまり、このアルバムでの演奏ではオーネットを意識してか、かなりフリーに近いところにいると思う。
 最初の「Fire Waltz」のアグレッシブなこと。それはオーネットの柔軟さと好対照かもしれず、オーネットの奇妙さというか、プッと吹き出しそうになるユーモラスなところはなく、ドルフィーやメンバーたちのプレイからはシリアスな熱気がストレートに感じられる。ピアノのイントロから、ドルフィーのアルト・サックスによる“ダララ・ラララー・パッパラー”っていう、ほとんど旋律的な上下動のないリズムだけのようなテーマにブッカー・リトルのトランペットのアンサンブルがちょっとだけあって、すぐに続くドルフィーのアルト・サックスは、テーマと何の関連性も見つけられない音の跳躍をしてからフリーに近いようなソロを始める。ここで、少し脱線するけれど今述べた“フリー”というのは若干説明を要する。ガイドブックやライナーなんかではひとこと“フリー”とか書かれていて、それを表面的に流し読みして分かった気になってしまっているけれど、ここでのドルフィーやリトルのソロで即興的に吹いているフレーズは、ほとんどすべて終止形になっていない断片なのだ。彼ら以前の、パーカーやその他のバッパーたちのアドリブは、原則としてメロディが終わったと聴く者が感じる形、それは調性でいうと基音に戻るという形になるのだが、私たちが会話をしていて互いに自分のしゃべっていることが終わるというのは、言い切りの形をとって、それを相手が分かって、そこで替わって相手がしゃべり出す、そういう決め事のようなものだ。それを音楽では有節形式という。要は節回しが終わったということで、それを聴く者は、その終止形でひとまとまりのメロディと理解して聴いている。しかし時には、パーカーだってそういう終止形にしないこともあるが、それは一時的な効果を狙ったり、ほかの楽器とのアンサンブルでトランペットが引き継いで終止形にしたり、あるいはあえて省略して終止形を聴く者に想像させたりするという捻り技なのだ。だから、聴く者はパーカーが即興的に吹くフレーズを味わったり、楽しんだりするのだ。しかし、ここでのドルフィーやリトルはそういったフレーズを終わらせる終止形をとらずに、投げ出してしまう。だから聴いている者はメロディになっているのか分からない。会話をしていて、相手の話していることが終わったのかどうか分からない宙ぶらりんの状態がずっと続いているのだ。しかも、ドルフィーの凄いのは、そこで聴く者がそのように分からないうちに、置いてきぼりにして、すでに次のフレーズに移ってしまうのだ。この演奏のスピード感は、そこに由来すると思う。しかも、ドルフィーの演奏はリズムが大きく揺れる。こんな演奏ではふつう、音楽として崩壊してしまうはずだ。しかし、そうはならない。だから、この演奏はビンビンに緊張感が高い。現実に演奏が崩壊していないのは、バックのリズム・セクションのおかげだ。パタパタとスネアの音数か多いドラムと、中音域を多用したマイナーコードでリズムを刻むピアノは規則的な繰り返しに終始している。そこにはバップの柔軟なノリはなく、機械的なビートに近い。その規則的な刻みが音楽を形にしている。実際のところ、ドルフィーやリトルはこのビートとは無関係に勝手にプレイしているところがままある。それがこの演奏の自由さであり、かつ音楽としてのまとまりが崩壊しないで踏みとどまっていられるところなのだ。しかし、本当に凄いのは、この後だ。演奏の後半、このリズム・セクションが、ドルフィーとリトルに煽られて煽られてか、どんどん捻れて、限りなくフリーに近い、自由度の高いリズム・セクションに変貌していくのだ。例えば、パルシブなピアノのマルが、捻れながらメロディアスに、限りなくフリーに近いソロを後半で演っているのだ。この演奏が、どうして終わることができたのか、今までに数え切れないほど、この演奏を聴いてきたが、未だに分からない。
 2曲目の「Bee Vamp」はブッカー・リトルの曲で、ABACABAという複雑な構成の曲で、小節割りは8-4-8-8-8-4-8になっている、解説されている。例えば、リトルのトランペットとマルのピアノのテーマの受け渡しと伴奏のようなソロのとりあいに、ドラムスのスネアが断片的に挿入してくる。ポリリズムのような重層的なリズム構成などは、リトルの志向性だろう。まるで、近現代のクラシック音楽の精緻な構成をみているようだ。
 そして3曲目の「The Prophet」では、ドルフィーとリトルのユニゾンによるテーマから、ベースとドラムのユニットとピアノ間の異なるリズムの作り出す複合ビートの上で、ドルフィーのアルト・サックスが異質と言っても良い。どうやって思いつくのか判らない、思いっきり捻れた、グネグネなアドリブ・フレーズ。この宇宙人的なフレーズを連発するドルフィーに相対するブッカー・リトルのトランペットも対抗するように吹きまくる、意外と端正なリトルのトランペット。この適度に崩れながらの端正さがドルフィーとの相性抜群に進んでいく。

2020年11月 1日 (日)

ジャズを聴く(53)~スタン・ゲッツ「Stan Getz At The Shrine」

 スタン・ゲッツのプロフィールを簡単に見ていきましょう。
 スタン・ゲッツは、これまでを通じての最も偉大なテナー・サックス奏者の一人で、かつてなかったほどの美しいトーンを有していたことから「ザ・サウンド」と称せられている。ゲッツは主に初期のレスター・ヤングから影響を受けながらも、とどまることなく進化を続け、大きな影響を与える存在にまでなった。
 ゲッツは、まだティーンエイジャーのうちに第二次世界大戦で多くのミュージシャンが徴兵されたために不足が生じたのを捉えて、メジャーなスイング・ジャズのビッグ・バンドでプレイすることができた。16歳になった1943年、ジャック・ティーガーデン楽団に加入、そして1944~45年にはスタン・ケントン、1945年にはトミー・ドーシー楽団と渡り歩いた。その間、ベニー・グッドマンとも、数回、ソロでレコーディングに参加している。ゲッツは1946年7月にでリーダー・アルバムでレコード・デビューを果たし、4枚のタイトルで残されている。第2期ウッディ・ハーマン楽団(1947~49年)在籍時にズート・シムズ、ハービー・スチュワード、セルジュ・チャロフとともにオリジナルの「Four Brothers」でソロをとり、「Early Autumn」でバラードの彼の特徴が開花したことなどで、その名が広く知られるようになった。(当時のウッディー・ハーマンは”ファースト・ハード”と呼ばれるニール・ヘフティー(arr&tp)の生み出すビバップスタイルのバンドを解散し、次の活動に向けて人材を探している状態で、そんな折にロサンジェルスのクラブで見つけたサックス4人のアンサンブル。彼らアンサンブルをビックバンドのウィンドセクションとしてそのまま組み込んで生まれたのが”セカンド・ハード”だった。)ハーマンのもとを去った後、フィルハーモニックでの数回のジャズイベント以外では、死ぬまでリーダーとしてプレイし続けることになる。
 1950年代前半、ゲッツの自身の音楽的アイテンテティを構築するためにレスター・ヤングの影響から脱皮すると、すぐにジャズメンの中でも最も人気のあるミュージャンとなっていった。1950年、ホレス・シルバーを見い出し、数か月間カルテットに引き入れる。1951年のスウェーデン・ツァーの後、ギタリストのジミー・レイニーと共演する刺激的なカルテットを作った。そのカルテットでは、アップテンポの曲での二人のインタへプレイやバラードでの音色のハーモニーは全く忘れられないものとなった。ジミーの「Moonlight in Vermont」ヒットには、ゲッツのプレイでサポートしている。1953~54年ボブ・ブルックマイヤーの加入によりクインテットとなった。そして、その10年間のうちに、何度か麻薬問題があったにもかかわらず、ゲッツの人気は落ちなかった。1958~60年はヨーロッパで過ごした後、米国に戻り、テナー・サックス奏者として彼自身が個人的に大好きだったアルバム「Focus」をアレンジャーであるエディ・ソーターの楽団とレコーディングしている。それから、1962年2月に、チャーリー・バードと「Jazz Samba」をレコーディングした。その中の「Desafinado」の演奏は大ヒットし、これはボサノバの先駆けとなった。次の年、ゲイリー・マクファーランド楽団、ルイス・ボンファ、ローリンド・アルメイダとボサノバ風のアルバムを制作し、それは彼として最高のセールスを記録した「Getz/Gilberto」となった。それは、アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトとのコラボレーションで、アストラッドとジョアン・ジルベルトのボーカルをフィーチャーした「he Girl from Ipanema」によるところが大きかった。
 ゲッツはそれからの10年間はボサノバにこだわったが、その一方で彼のプレイは抑制的になり、ジャズとしては挑戦的な選択をしている。この時代の彼のレギュラー・グループはビブラフォンのゲイリー・バートンが加入したピアノレスのカルテットだ。1964年にはビル・エヴァンスとレコーディングし、1967年にはチック・コリアと古典となってしまったアルバム「Sweet Rain」を制作している。1966~80年のゲッツのレコーディングのすべてが重要だとは言えないが、彼が新しい可能性に挑戦することを恐れないでいることは明らかだ。1971年のオルガンのエディ・ルイスとの「Dynasty」、1972年のチック・コリアとの「Captain Marvel」、1975年のジミー・ロウルズとの「The Peacocks」等は評価が高い。1977年にカルテットでピアニストのジョアン・ブラッキーンを起用した後で、キーボードのアンディ・ラバーンをフィーチャーした新たなユニットでフュージョン・ミュージックの可能性を検討している。ゲッツの2曲でエレキ楽器を試みたが上手くいかなかった。しかし、その試み自体には価値がある。しかしながら、1981年に彼がコンコードでサインし、アコースティク楽器のみで演奏し始めたことは、従来の彼のファンを安心させた。最近のゲッツのサイド・メンはピアノのルー・レヴィの他、ミシェル・フォアマン、ジム・マリニーリー、ケニー・バロンだ。彼の最後のレコーディングは1991年の「People Time」となった。息の若干の短さにもかかわらず、バロンとの素晴らしいデュエットだった。

 

Stan Getz At The Shrine   1954年11月8日録音
Jazgetz_shrine  Flamingo
 Lover Man
 Pernod
 Tasty Pudding
 I'll Remember April
 Polka Dots And Moonbeams
 Open Country
 It Don't Mean A Thing
 We'll Be Together Again
 Feather Merchant
   Stan Getz(ts),
   Bob Brookmeyer(vtb)
   John Williams(p)
   Bill Anthony(b)
   Art Mardigan(ds)

 

 「Flamingo」やたら調子のいい司会の紹介のあと、ピアノの短いイントロに続いてテーマがゲッツとブルックマイヤーのアンサンブルで軽快に始まると、2管の絡み合いから抜け出すように、テーマから派生するようにフレーズが次々に紡ぐように連なっていく。それも中音域のされほど広くない範囲で、どうしてこんなできるのか、というほど自然にメロディが出てくるようだ。その間、テンポは落ちることなく、快速ペースはピアノに引き継がれる。「Lover Man」ではミディアムテンポで2管のアンサンブルでテーマが吹かれるが、ブルックマイヤーに席を譲りながら、アドリブでも2管の絡み合いは続き、後半はゲッツのソロとなるが、スローナンバーにも、適度にオカズを加えながら、上手くブルックマイヤーが絡みやすい間を作ったりするが、もとのテーマがそれほどいいとはいえないので、その展開という行き方をするゲッツはスター時点でハンデを負ったのではないか。次の「Pernod」は軽快なテンポに戻るが、ゲッツはスローバラードよりも、軽快なアップテンポに美メロを乗せて、そのスピード感によってセンチに堕したり、重くなったりするのを避けるのが一番やり易いのではないか、思う。別のところでも触れたが、ゲッツは閃きの人なので、テンポがゆっくりすると、余裕が生じて余計なことを考えてしまってしまうように思う。速いテンポで煽られると、閃きに頼らざるを得なくなって、センスが研ぎ澄まされていくのではないか。
 これは、私個人がゲッツの録音を聴いた印象でだけ述べることなので、スタン・ゲッツという人が実際にどうであったといった実証的な事実とは無関係な妄想と思ってほしい。このページのどこかで、ゲッツは即興のなかで美しいフレーズを閃いてしまうのではないかと述べた。そして、普通であれば、そういう閃きの創造の泉というようなものは、殆どない人もいれば、あったとてしも常時こんこんと湧いてくるようなことはない。だからこそ、泉が湧いてくるように苦労したり、苦しんだりする。普通、ミュージシャンがする苦労とか苦悩というのは、なかなか湧いてこない泉から何とか水をくみ上げようとする点にあると思う。そうやって苦労して組み上げた水だからこそ、大事に扱うともいえる。時に何度も使いまわして、賞味期限を過ぎて腐らせても捨てようとしない人もいる。ところが、ゲッツの場合は、そういう苦労の必要がなかったのではないか。とくに苦労しなくても、普通に閃いてしまう。しかも、湧いてくるフレーズが、みんな他の人にはない美しいものなのだ。まさに天才なのだ。それで本人はいい。けれど、そんなのが一緒にグループを組んでいる中にいたとしたら周囲のメンバーはどうだろうか、やりにくいったらありゃしない。何せ、こっちが苦労してようやく手にしたフレーズを、ゲッツは今思いついたなどと言って、いとも簡単にそれを超える美しいフレーズを吹いてしまうのだから。さらにいえば、それを聴かされる聴衆はどうだろう。美しいフレーズの連続攻撃についていけるだろうか。その都度、その美しさに酔っているうちはいいが、だんだん満腹してしまって、もういいということにならないか。飽きるというのではない。ゲッツの作り出すフレーズの美しさは、そんな生易しいものではない。飽きることができるなら、食傷して受け容れなくて済むのだから。しかし、ゲッツの音楽は美しいのだ、だから飽きることなく、聴けば受け容れてしまう。つまり、受け容れないことを許さないのだ。これは、満腹しても、腹が破裂しても、食べることを止められないような、地獄だ。何か、すごく大げさな書き方になってうそ臭いと思う人も多いかもしれない。これは、極端な書き方かもしれないが、ゲッツの音楽の美しさには、このような恐ろしさと裏腹の危うさがあると、私には感じられる。だから、彼のプレイは、一緒にプレイしているメンバーたちと、息が合いながらも、適当にゲッツの閃きに歯止めを欠けているようなものが一番聴き易いのではないかと思う。だから、アップテンポの快速ナンバーで、ゲッツが閃くいとまをあまり与えないものが、抑制されたバランスの取れた聴き易い演奏になっていることが多いと思うのだ。 

2020年10月15日 (木)

ジャーニー「フロンティアーズ」

11112_20201015214801  1970年代終わりごろ、ロンドンとニューヨークでパンク・ロックと後に言われるバンドたちの活躍が目立ち始めた。当時の欧米の不景気が低所得者層に厳しい状況となったという社会状況と、ロックの音楽的進化が低所得層の若者がノレる、思いを託せる単純さや活力を失って、他方で商業化されたという音楽状況に対するアンチの動きと解釈できる。そのパンクはニューウェイブへと連なっていくが、他方で、アンチにされた従来のロックの中でも、ハード・ロックやプログレッシブ・ロックの要素を巧みに採り入れ、大音量で多数の聴衆を動員するライブをして、大袈裟なアレンジで大仰に盛り上がり、類型的なメロディで聴き易い、まるでマーケティングして、若者の時にロックに親しんだ世代が大人になって購買力がある人々の生活の中で親しみやすいという特色の巨大なセールスを上げたバンドが現われた。それらを総じて、当時の”ロッキング・オン誌”の渋谷氏が産業ロックと呼んだ。その呼称には揶揄が多く含まれていた。ジャーニーはその代表的なバンドとされた。1983年にリリースされた8枚目のアルバムで、彼らの最も勢いのあった時期のアルバム。最初の「セパレート・ウェイズ」は、そういう皮肉の眼を跳ね飛ばすような自信と気合のこめられたナンバーで、今でも、テレビドラマやショーのBGMで効果的に使われるので、どこかで聴いたことがあると思う人もいるだろう。ギターのニール・ショーンはサンタナと張り合った天才少年だった輝かしい実績の才能を発揮し泣きのギターをキメ、ボーカルのスティーブ・ペリーは広い声域の澄んだ声を聴かせ、バラードでは、しっとりと歌い切る。言ってみれば、文句のつけようのない。けれど、パンクの側から見れば、挑戦的でないんだよねっていうことになるのだけれど、ひとつの到達点であることは確か。ジャーニーは前作の「エスケイプ」というアルバムからは、多数のシングル・ヒットが生まれている。この2点が代表作ではないかと思う。

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