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音楽

2020年9月19日 (土)

ジャズを聴く(51)~スタン・ゲッツ「Stan Getz At Storyville 」

 村上春樹はスタン・ゲッツについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 
 「スタン・ゲッツは情緒的に複雑なトラブルを抱えた人だったし、その人生は決して平坦で幸福なものとは呼べなかった。スチームローラーのような巨大なエゴを抱え、大量のヘロインとアルコールに魂を蝕まれ、物心ついてから息を引き取るまでのほとんどの時期を通して、安定した平穏な生活とは無縁だった。多くの場合、まわりの女性たちは傷つき、友人たちは愛想をつかせて去っていった。しかし生身のスタン・ゲッツが、たとえどのように厳しい極北に生を送っていたにせよ、彼の音楽が、その天使の羽ばたきのごとき魔術的な優しさを失ったことは、一度としてなかった。彼がひとたびステージに立ち、楽器を手にすると、そこにはまったく異次元の世界が生まれた。ちょうと不幸なマイダス王の手が、それに触れるすべての事物を輝く黄金に変えていったのと同じように。そう、ゲッツの音楽の中心にあるのは、輝かしい黄金のメロディーだった。どのような熱いアドリブをアップテンポで繰り広げているときにも、そこにはナチュラルにして潤沢な歌があった。彼はテナー・サックスをあたかも神意を授かった声帯にように自在にあやつって、鮮やかな至福に満ちた無言歌を紡いだ。ジャズの歴史の中には星の数ほどのサキソフォン奏者がいる。でもスタン・ゲッツほど激しく歌を歌い上げ、しかも安易なセンチメンタリズムに堕することのなかった人はいなかった。僕はこれまでにいろんな小説に夢中になり、いろいろなジャズにのめりこんだ。でも僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説であり、スタン・ゲッツこそがジャズであった。あらためて考えれば、この二人のあいだにはいくつかの重要な共通点が見いだせるかもしれない。彼ら二人の作り出した芸術に、いくつかの欠点を見いだすことはもちろん可能である。僕はその事実を進んで認める。しかしそのような瑕疵の代償を払わずして、彼らの美しさの永遠の刻印が得られることは、おそらくなかっただろう。だからこそ僕は、彼らの美しさと同時に、彼らの瑕疵をも留保なく深く愛するのだ。
 僕がもっとも愛するゲッツの作品はなんといってもジャズ・クラブ<ストリーヴィル>における二枚のライブ盤だ。ここに含まれている何もかもが、あらゆる表現を超えて素晴らしい。月並みな表現だけれど、汲めども尽きせぬ滋養がここにはある。たとえば「ムーヴ」を聴いてみてほしい。アル・ヘイグ、ジミー・レイニー、テディー・コティック、タイニー・カーンのリズム・セクションは息を呑むほど完璧である。とびっきりクールで簡素にして、それと同時に、地中の溶岩のようにホットなリズムを彼らは一体となってひもとく。しかしそれ以上に遥かに、ゲッツの演奏は見事だ。それは天馬のごとく自在に空を行き、雲を払い、目を痛くするほど鮮やかな満天の星を、一瞬のうちに僕らの前に開示する。その鮮烈なうねりは、年月を越えて、僕らの心を激しく打つ。なぜならそこにある歌は、人がその魂に密かに抱える飢餓の狼の群を、容赦なく呼び起こすからだ。彼らは雪の中に、獣の白い無言の息を吐く。手にとってナイフで切り取れそうなほどの白く硬く美しい息を…。そして僕らは、深い魂の森に生きることの宿命的な残酷さを、そこに静かに見て取るのだ。」

Stan Getz At Storyville   1951年10月28日録音

 Jazgetz_live Thou Swell
 The Song Is You
 Mosquito Knees
 Pennies From Heaven
 Move
 Parker 51
 Hershey Bar
 Rubberneck
 Signal
 Everything Happens To Me
 Jumping With Symphony Sid
 Yesterdays
 Budo

  Stan Getz (ts)
  Al Haig(p)
  Jimmy Raney (g)
  Teddy Kotick (b)
  Tiny Kahn (ds)

 もともとLPレコードでは二枚組だったものが、CD化に際して1枚にまとまったもの。上で村上春樹の文章を引用しているけれど、彼はこのライブ録音を手放しで絶賛している。彼は、何らかの思い入れもあるのだろうけれど、そういうものと関係なく、とにかくプレイを聴けば、ゲッツは、クール、洒脱に、美しいメロをとにかくまきちらすようにサックスを吹いている。中域~高域にかけて、甘いメロディを疾走する。そこには障害など何もないかのように、後のモダンジャズのプレイヤーのように突っかかったり、停滞したり、ブローしたりして重くなる事なく、「優しい管楽器」として、テナー・サックスを操る。均整がとれていて、温かみを感じさせるもので、しかしどこかヒヤリとした感覚を秘めていて、開放的にパッパラパパラとぶちかますような音楽とは正反対の、夜の音楽――深夜のクラブで、手だれのバックバンドを従え、クールネスとメロディアスを同時に表現するような音楽と言える。
 最初の「Thou Swell」では、音色の変化を楽しむかのように、まるで奏者が2人いて掛け合いをしているような、一人でボケとツッコミを違った音色でやっているさりげないユーモアは、リラックスした雰囲気をつくり上げる。「The Song Is You」では軽快にテンポが速まり、ギターが絡みながら、2本ホーンの掛け合いのようなテーマ提示の後、快速のアドリブ展開が、肩の力が抜けた、柔らかいビロードの流れのような滑らかに推移するのが圧巻。踊るように、歌うように・・・。続く「Mosquito Knees」も快速ナンバーで、畳み掛けてくる。ここでのゲッツのフレーズのスピード感、小気味よい音数の多さは、そういう意識はないかもしれないが、後年のバップのバトルに参加してもひけをとるものではないだろう。しかも、その細かな速いフレーズが歌っている。5曲目の「Move」は引用した村上春樹も絶賛しているが、リズム部隊と一体となってゲッツが疾走しているナンバー。その疾走の中から「パッパラパー」みたいな細切れに出てくるフレーズがすべて歌うようなのだ。そこに単に速いだけのスピードとテクニックだけを誇示するようなところは皆無なのだ。だから、楽しい。そしてvol.1のラスト「Parker 51」で、さらに加速し、全員がスピードの限界辺りを果敢に突き進んでいて、ゲッツは様々なアイディアを繰り出してくる楽しさは特筆ものだ。2曲続けて限界ギリギリのスピードでプレイしているにもかかわらず、熱血のような熱さとか激しさを、ほとんど感じさせずに、洒落ですよみたいな軽快で涼しげに聴こえてきてしまう。実は、ギターもメロディアスだし、リズム部隊も変則的なリズムをとったりと、様々にゲッツに仕掛けていて、ゲッツはそれに応えるように、アドリブの本領を発揮している。
 当時のゲッツの音色は、音が小さく、か細い感じで、力強さに欠ける。例えば、50年代後半のソニー・ロリンズと比べれば、柔らかいのだろうけれど音がスカスカ抜ける「ヒョロヒョロ」とでも形容したくなるものだ。しかし、ロリンズの音は力強くゴツゴツした黒人的なハードバップには適しているが、ゲッツの音は目指す方向が違うものなのだ。
ゲッツは、独特の柔らかくて肌理(きめ)の細かい肌触りのいいシルクのような音色で、テーマの元メロディを生かしながら自在に展開させてセンスのいいとしか言えないフレーズを繰り出してくる。多分、この粋なフレーズは直感的な閃きのように自然に湧き上がってくるような類のものだ。このような「閃き」を生かす~という点では、ソニー・ロリンズと同じタイプ(音色やフレーズは全く対極だが)かと思う。そうして・・・いい「閃き」が湧いた時のゲッツは・・・本当に凄い。テーマの部分では元のメロディを崩したりもするが、しかしそれは元メロディのツボをちゃんと生かしたようなフレーズであって、そしてひとたびアドリブに入れば、ゲッツはもう吹くのが楽しくて仕方ない・・・という風情で、迷いのない、そして見事に歌っているフレーズを次々と繰り出してくる。スローバラードでの叙情溢れるフレーズももちろん素晴らしいのだが、急速調でのスピードに乗った淀(よど)みのないフレージングときたら・・・それはもう、本当に生き生きとした音楽がそこに立ち現われる。
 ゲッツの吹くフレーズには理論で分析したような跡はまったくない。閃きによって生まれた自然なフレーズを、あたかも「そういう音しか出なかった」ように思える自然な音色で吹く・・・。これら2つの要素がまったく違和感なく、ごく自然に溶け合っている。つまり、ゲッツは、自分の音色に合うフレーズを自ら生み出したのだ・・・いや、自分のフレーズに合う音色を創り出した。そうして、ひとたび彼がテナーを吹けば、それがテーマであってもアドリブであっても・・・そこには本当に「自然な歌」が溢れ出るのだ。

2020年9月 5日 (土)

ジャズを聴く(50)~スタン・ゲッツ「STAN  GETZ  QUARTETS」

Jazgetz  スタン・ゲッツの特徴として、まずあげられるのは彼のテナー・サックスの音だ。同じテナー・サックスでもソニー・ロリンズのようなすーッと伸びるような、太くて、広がりのある、どちらかというゴツゴツした音色と比べると、ゲッツの音色は細くて、ヒョロヒョロした感じに聞こえる。それは、ロリンズには力強さでは及ばないものの、柔らかくて肌理の細かい滑らかな音色といえる。とくにゲッツは高音域を多用したので、なおさら、その印象が強くなっている。ロリンズのような吹き込んだ息をすべて音にして大きく鳴らそうとしていない、その代わりに、その音になっていない息が様々な働きをしている(例えば、耳に聞こえないけれどα波は気分をリラックスさせる、ゲッツの音とは直接関係ないけれど)、そういう音の出し方をしているということだ。
 そして、彼の演奏の仕方、つまり彼の即興は、圧倒的な「今・ここ」の感覚なのだと思う。先取りでもなく後付けでもなく、即興によって音楽が生成されていく瞬間をそのまま聴き手に提示してしまい、それがこの上なく美しい音楽になっている、という奇跡的なものだ。瞬間的な閃きによって、分かり易く美しいメロディが自然に湧いてくるというもので、漫然ときいてしまうと、その完璧さに即興的に紡ぎだされたことが分からないほどなのだ。あまりに自然なために、チャーリー・パーカーのアドリブで目の当たりにするような先行きの分からないようなスリルや緊張感を直接ぶつけられるようなことは表面的には、ない。それが、ゲッツが「クール」と呼ばれる所以なのではないか。
 そして、彼の即興演奏の作り出すフレーズが音楽的な美しさだけで勝負しているということだ。そこには情緒的な要素、センチメンタルな甘いメロディとかマイナー・コードの効果に頼るとか、あるいは、ビブラートとか陰影といった音の装飾をつける、というような一種のごまかしをしていない、ということだ。だから、冷たいと言われるかもしれないが、彼の紡ぎだすメロディは純粋に美しい。 

 

STAN GETZ QUARTETS

Jazgetz_quart  There's A Small Hote
 I've Got You Under My Skin
 What's New
 Too Marvelous For Words
 You Steeped Out Of A Dream
 My Old Flame
 My Old Flame (alternate take)
 Long Island Sound
 Indian Summer
 Mar-Cia
 Crazy Chords
 The Lady In Red
 The Lady In Red (alternate take)
 Wrap Your Troubles In Dreams

 

 #8,9,10,11  1949/06/21
  Stan Getz (ts)
  Al Haig (p)
  Gene Ramey (b)
  Stan Levey (ds)
 #1,2,3,4   1950/01/06
  Stan Getz (ts)
  Al Haig (p)
  Tommy Potter (b)
  Roy Haynes(ds)
 #5,6,7,12,13,14  1950/04/14
  Stan Getz (ts)
  Tony Aless (p)
  Percy Heath (b)
  Don Lamond (ds)
 スタン・ゲッツという人は、誤解を恐れずに言えば、スタイルは全く異なるソニー・ロリンズもそう思うが、天然とても言うしかないその場の思いつきで即興的に素晴らしいフレーズを次から次へと繰り出してしまえる天才であると思っている。ゲッツは活動期間も長く、その間に紆余曲折もあり、プレイスタイルも変遷したが、そのベースは変わっていないと思う。そして、そういう思いつきをストレートに、それだけの1本勝負で体当たりのプレイをしているのが、初期の録音に残されていると思う。とはいっても、このアルバムのサウンドは体当たりのプレイ等という言葉から連想されるド根性の熱血とはほど遠い、スマートで洗練された儚げなサウンドを堪能できる。
 最初の「There's A Small Hotel」から4曲目の「Too Marvelous For Words」が1950年1月に録音されたもので、どれも、素晴らしいプレイを聴くことができる。「There's A Small Hotel」ではアル・ヘイグの湿り気を帯びたようなピアノのイントロがなんとも歌心のあるもので、その軽快なテンポに促されるように、スウィンギーなリズムに乗って流麗なゲッツのソロが浮遊するように、多彩な音色を駆使して、音色が変わるたびにフレーズも変わって、まるで複数のゲッツがプレイしているようなめくるめく眩惑的なプレイを堪能させられる。3曲目「What's New」は人気のバラードだが、ゲッツのか細い、柔らかい音が儚さを際立たせるが、けっしてヤワではなく、その即興は譜面通りに吹いていると思うほど完璧に感じられ、むしろ遊びがないと感じられるほどだ。
 5曲目の「You Steeped Out Of A Dream」から7曲目の「My Old Flame (alternate take)」そして、12曲目の「The Lady In Red」以降の曲は1950年4月に、前とは違うメンバーで録音され、マイクの位置やスタジオ、機材が違うのか、音質が異なって、デッドな響きでゲッツのサックスが近くにダイレクトに聞こえてくる。この録音は、ほかの柔らかでほんわりした音質とは少し異質だが、「You Steeped Out Of A Dream」はスタン・ゲッツ畢生の名演とされた決定的なバージョンと言われる。ソフトにかすれる音色で穏やかなテーマをアドリブで、その湿り気を帯びたムードを壊さぬようにしながら、これでもかというほどフレーズを繰り出してくるさまに圧倒される。
 8曲目の「Long Island Sound」から11曲目の「Crazy Chords」は1949年6月の録音で、「Long Island Sound」の軽快なテンポのナンバーでは、少し熱くなるようなプレイで、次の「Indian Summer」ではミディアムテンポながら、控えめにブローするような一幕もあって、この時に録音されたプレイは総じて熱い力が入っているような感じだ。
 スタン・ゲッツは白人による天才的なテナー奏者、クール・ジャズの創始者といったレッテルが貼られ、この録音はその初期のクール・ジャズの絶頂期の記録とか言われても、後のモダンジャズのプレイを聴きなれた耳からは、曲は短くてあっけなく終わってしまうし、肝心のゲッツの音はスカスカで弱々しい印象で、ハードさが足りないように感じられないか。クラシック音楽でいえば、マーラーやブルックナーなどの後期ロマン派の規模の大きく、長大な交響曲を聴きなれた耳でモーツァルトを聴いた時に感じる難解さに近いかもしれない。巷のジャズのガイドブックなどでも、聴きにくいとして、ゲッツの録音では、後年のボサノバをプレイしたアルバムがヒット作ということもあり、このような初期の録音は参考程度の紹介でお茶を濁しているケースが多い。

2020年8月12日 (水)

ジャズを聴く(49)~ソニー・ロリンズ「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD」

村上春樹はロリンズについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 
 ロリンズのテーマのメロディの崩し方、あるいは自由な間の取り方は、優れた歌手がメロディを自由に自分の個性に合わせて崩し、伴奏者にはきちんとリズムを取らせながら、好きなタイミングをとらえて歌に入り、自分なりの間を創造してしまうのに通じている。ロリンズは、それと同じことをサックスで行っているのだ。くずし、間の取り方のうまさに加えて、ほとばしり出るアドリブの奔流が凄まじい。ただ、ロリンズの場合は、嵐のような即興フレーズでも、原曲のイメージとかけ離れてしまわないところが、歌心を称賛される理由である。優れた歌手は、歌を自在に自分の懐に引き付けてしまう。つまり、個性的な表現だ。それは歌い手の声そのものとなって、一つの定型にまで高められるだろう。ジャズでも似たようなことは起こる。優れたジャズメンは楽器を通して自分の声を持っている。ロリンズももちろんそうした一人だ。しかし、本当に即興の精神に忠実なジャズメンは、それを日々新たな、そのときの自分の声としなければ満足しない。つまり、あらかじめ練習し、考え抜いた上で、定型的表現へ向かうということはやらない。一つ間違えれば収拾のつかない混乱に陥ることも恐れず、果敢にそのとき、この世に生まれ出る歌声を求めるのが、ジャズの歌心なのである。

A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD   1957年11月3日録音

 Jazrollins_village Old Devil Moon
 Softly As In A Morning Surise
 Striver's Low
 Sonnymoon For Two
 A Night In Tunisia
 I Can't Get Started

 

 Sonny Rollins (ts)
 Wilbur Ware (b)
 Donald Bailey (b)
 Elvin Jones (ds)
 Pete La Roca (ds)

 

 ブルー・ノートからリリースされた3枚目のアルバム、ピアノレスのトリオを率いてヴィレッジ・ヴァンガードに出演した時のライブ録音である。ライブということもあるのだろう、ここでのロリンズは伸び伸びと奔放にプレイしている印象で、それが聴き手に気持ちよさを感じさせる。だが、凄い演奏をしているのもたしかで、それを聴く者に心地好さを与えてしまうロリンズはすごい。
 最初の「Old Devil Moon」は、有名な『Saxophone Colossus』の「St. Thomas」を彷彿させるような、ラテンのリズムでくだけた調子で、ぶっきらぼうに吹かれるテーマのあとで繰り広げられるロリンズのアドリブは、ドラムのエルヴィン・ジョーンズの煽りも受けて、まさに奔放さ全開。次の「Softly As In A Morning Surise」は、ウィルバー・ウェアのベースのイントロが、まるでベース・ソロのような煽りで、それに応えるようなのか、スタンダードなテーマ・メロディを吃音のようなフレーズで吹くと、しみじみとしたメロディがユーモラスに変貌してしまう。曲全体はイントロからベースが支配して、ロリンズのテーマの吹きようで、ユニークな「Softly As In A Morning Surise」の行き方が、ここで決まったという印象で、ここからベースの煽りにロリンズが時にわざと外したりながらのソロは遊び心満載で、エルヴィン・ジョーンズのドラム・ソロも付き合うようにリズムを時折無視したように間を外して遊んでみせる。これはベースが全体を支配している上での遊びだろうことは、ベースの力強い弾力的な響きからも分かる。ここでのプレイは、とにかく3人とも音圧が凄いのだ。3曲目の「Striver's Low」はロリンズのオリジナル曲で、全編アドリブといっていいほどロリンズは全開のプレイ。その高速のフレーズは、あのジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドにも引けをとらない迫力。しかも、コルトレーンの無機的なのに比べて、ロリンズはメロディアスでもある。「A Night In Tunisia」では、ピアノレス・トリオの編成を採用したことで、ロリンズのこのときばかりともいえる大胆なプレイが聴ける。曲も向いているのだろうけれど、テーマ・パートではひとりでボケとツッコミをやっているような箇所もあって、最初と二番目のコーラスを繋ぐ間奏部分で、オリジナルのコード進行を踏襲しながら大胆にメロディを発展させるところは、凄いとしか言いようがない。最後の「.I Can't Get Started」はバラードで、バラードで締めるというのは、レコードという録音媒体の制約でそうなってしまったというだけなのだろうけれど、ここでのロリンズはライブ録音ということからはやる気持ちもあっただろうが、それを抑えてじっくり自身のフレーズと向き合ってみせる。豪快なプレイに真髄を発揮するロリンズだが、このように落ち着き払った演奏をするときも魅力を放つ。ぶっきら棒に吹き始めるテーマ・メロディが独特の歌心に繋がって、ピアノのコンピングがなくても豊かな楽想を感じさせる。さっきも述べたが、たった3人で、これほどのパワフルな音空間を作り出してくるのに身を任せるように聴いていて、締めはバラードというのは、また最初にもどって聴きたくなる誘惑を抑えきれない。

2020年8月 1日 (土)

ジャズを聴く(48)~ソニー・ロリンズ「Newk's Time」

 ソニー・ロリンズは活動暦が長く、ずっとトップ・プレイヤー君臨し続けた巨人のようなプレイヤーと言えるでしょう。その間、時代の変化やジャズを愛ずる状況の変遷などによって、また、本人の伝記上の様々なエピソードは紹介やネットの検索によって容易に知ることができるでしょうが、その長い活動期間のなかでプレイスタイルを変化させてきている。それに対する好き嫌いは、ファンによって色々と分かれると思う。ここでは、私個人の主観で、つまりは好き嫌いでアルバムを紹介しているので、ここにコメントしているのは、あくまでも私の好みであって、そういうものとして読んでいただきたい。しかし、そのためには、私の好みとはどのようなものかを、明らかにしなければフェアではないだろう。そこで、私はソニー・ロリンズのプレイをこのようなものとして捉えているということを以下で簡単に述べておきたいと思う。
 端的に申し上げると、ソニー・ロリンズのプレイ(アドリブ)の特徴は、“言うべきことを言い切ってしまう”潔さと責任感にあると思っている。このような言い方は、音楽の用語でもなく実際の演奏とは関係のない言葉の上での精神論のように受け取られるかもしれない。具体的に言うと、ロリンズのフレーズというのは、様々なヴァリエーションがあるけれど、そこに一貫して流れているのは、有節形式で終わらせることではないかと思う。つまり、フレーズというのは、2つ以上の音が続けば何かしら音形として受け取ることができるから、さまざまな可能性はあるけれど、ロリンズの場合は、基調となるコードの上で、最後の音は主調に必ず戻る形になる。聴く者にとっては、メロディが終わったと感じる形を必ずとっているということだ。ロリンズのアドリブのフレーズがうたうようだというのは、ここにひとつの大きな要因があると思う。しかし、このような形で徹底してフレーズを作るというのは、実は大変なことなのだ。まずは、そういう形でフレーズを作ることが出来とは限らないということだ。それはまた、フレーズを作る際に、その可能性を限定して絞ってしまうことになるわけだ。何しろ終わり方が決まってしまうのだから。その制約でフレーズを作るのが大変ということ。そして、もうひとつの困難として、そのようにフレーズを終止形にしてしまうと、後にプレイを続けるのが難しくなるということだ。プレイを続けるには、何時までも終わらない形で、つまりは、フレーズの尻を中途半端にして、次のフレーズに連続させれば、後から後からフレーズを繋ぐことができる。実際、そうやって延々とプレイする人もいる。しかし、いったん終止形のフレーズにしてしまうと、その後で新たなフレーズをつくって始めなければならない。したがって、このように終止形のフレーズにこだわるには、それなりの決心が要る。
 他方で、そういう決心ができたからと言って、すぐにそれがプレイでできるとは限らない。そのためには、フレーズを作る即興的な創作力が要るだろうし、それがあってたとしても、例えば、ジョン・コルトレーンのようにいったんフレーズを作ったとしても、何か言いたいことを言い切れていないと感じてしまい、そのフレーズに満足できず、足りない分を付加するように、別のフレーズを足して行って、それが続いてしまう。結果として、プレイが音で埋め尽くされてしまうことになってしまう。コルトレーンの場合は極端な例かもしれないが、フレーズをつくっても、必ずしも満足しきれないケースは他のプレイヤーでも少なからずあろう。しかし、ロリンズの場合には、そこでコルトレーンのように次のフレーズを足すことをしない。そこには、求めたことをすべて満たしたフレーズを毎回作ってしまっているのか分からない。しかし、私には、そうとは思えず、そこではロリンズは、その場合には、あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないかと思う。
 その理由は、ロリンズのつくるフレーズはよくうたうといわれるけれど、陰影とか情緒的なニュアンスのようなものは混じっていないのだ。ロリンズはぶっきらぼうなほど、フレーズを朗々とストレートに吹く。もし、フレーズにもの足りなさを覚えれば、そこに陰影をつけたり、クラシック音楽でいうテンポルバートのようにリズムのズレといった小細工を施すこともできるだろうが、ロリンズはそういうことをすることはない。彼のフレーズがうたうと言われる一方で、彼のプレイが豪快とも言われるのは、そのためではないかと思う。チマチマとした小細工をあえて捨てているからだ。
 このように、ロリンズは有節形式のフレーズをつくるということ1本で勝負している。そこに私の見るロリンズの特徴がある。その、私に言わせれば、ストレート一本勝負をもっとも直接的に聴くことのできるのは、1955年から1960年の沈黙までの間に録音されたアルバムということになると思う。
 くどいかもいれないが、これは私の個人的な好みである。

 

Newk's Time      1957年9月22日録音

 

Jazrollins_new Tune Up
Asiatic Raes
Wonderful! Wonderful!
The Surrey With Fringe On The Top
Blues For Philly Joe
Namely You

 

Sonny Rollins (ts)
Wynton Kelly (p)
Doug Watkins (b)
Philly Joe Jones (ds)

 

 ブルー・ノートでの「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD 」の前に録音した2枚目のアルバム。世評の高い「Saxophone Colossus」などに比べてワイルドに吹きまくったハード・バップの傑作といてもいいのではないか。とこかく、ここには絶好調という感じで、直球勝負のアドリブを豪快にキメていて、サックス奏者であれば、こうやりたいと思わせるようなカッコよさに溢れた内容になっていると思う。
 1曲目の「Tune Up」。初っ端からキレの良いシンバルワーク、絶妙のスネアを活かしたフィリー・ジョーのドラミングが炸裂する。この挑発に乗るようにロリンズの軽快にテーマを吹くと、そこから加速するようにアドリブに移るとテーマの変奏のような入り方から、次第に分解するようにフレーズを分割していって、様々な大きさの断片的なフレーズを重ねて、畳み掛けていくようにしてテンションを高めていく。その加速を煽るようにシンバルワークの良く響くドラムスがいて、ウィントン・ケリーのピアノがよく随いて行っている。次の「Asiatic Raes」はトランペットのケニー・ドーハムのオリジナル、「Lotus Blossom」の別名曲。ラテン・ビートに乗って「Lotus Blossom」のよく知られたテーマの後で、ドラムの短いインターバルの後、ピアノがテーマを伴奏のように弾くのをバックに一転してアドリブに突入すると、そこからは正統派4ビートで、時折不協和音なのか音をわざと外しているのか分からないような音が混じって、ロリンズの凄いのはそこで違和感を聴き手に持たすことなく、いかにも自然に聴かせてしまって、ワイルドに暴れているくらいにしか感じさせないところ。ロリンズのプレイの豪快さと、形容されることは多いけれど、決して爆発するようなブローを連発するわけではないし、コルトレーンのようにごり押しのパワーで圧倒するわけではない。必ず音楽性の魅力で聴き手に迫っている、例えば、アドリブの断片のひとつひとつのどれをとってもメロディとなって、それなりにうたっている。それが、自然に聴けてしまう、大きな要因なのだろう。とどのつまりは、アドリブのフレーズすべてに有機的な意味が通っているということ。こうやって言葉にすると、どうということもないけれど、これは実際に即興でプレイする場合には、大変なことなのだろうと思う。戯れに、ピアノのキーボードを何気なく叩いても意味のある、うたうようなフレーズはなかなか出てこない。それを瞬間的に外れ無しで、こともなげにやってしまう(ように見える)ロリンズの凄みというのは、このアルバム全編に行き渡っている。次の「Wonderful! Wonderful!」は、ロリンズのオリジナル。前曲のムードをそのまま引き継いだような曲展開、つまり悠然としたテナーサックスにイケイケのリズム隊という対決姿勢が鮮明なのだ。4曲目の「The Surrey With Fringe On The Top」は、まさしく圧巻と言うほかない、ロリンズのアドリブの凄みを嫌というほど味わうことができる。この時代では珍しい、テナー・サックスとドラムスのデュオですが、ロリンズもフィリー・ジョーも挑戦的な音を連ね、剣豪同士の真剣勝負に似た緊張感が漂っている。ロリンズのアドリブはテーマのヴァリエイションを展開させるように進む、言い換えれば、原曲メロディを大切にした歌心のあるアドリブから、次第に途方もないところに連れて行かれる。最後はフェイドアウトしてしまうが、まるでドラムスと二人だけで対話しているような孤絶の道を進もうとするような剥き出しの骨ばかりの音楽に、削ぎ落としていく様相が凄まじい。この最後のところは孤高という形容が浮かんでくる。次の全然ブルーでなくごキゲンな「Blues For Philly Joe」に続いて、最後の「Namely You」で、はじめてテンポがミディアムに落ちる。ロリンズは、スローナンバーで、嫋々とメロディをうたわすことはなく、どこまでも剛直に吹くのだが、それでいて、間の取り方やフレージングで朗々とサックスを鳴らしている

2017年12月30日 (土)

ジャズを聴く(47)~アイク・ケベック「ヘヴィ・ソウル」

 アイク・ケベックは、素晴らしい“大衆的な”サクソフォン奏者であったが、その存命中は多くの批評家から実力を過小評価された。彼は、シンプルでありながら単純すぎるやり方では求め得ない魅力的な音楽を表現して見せた。彼は音色やスタイルの点で、とくにコールマン・ホーキンスのような明白なスイングジャズの傾向にあった。しかし、ケベックは単なるホーキンスのまねに終わっていない。彼は巨大なブルースのトーンや攻撃的だったり歓喜しているフレーズで、楽しげなアップ・テンポの曲や叙情的なスローブルースやバラードを演奏した。彼の演奏には、間違った指使いや複雑なものはなく、ストレートに心情から発せられるソロだった。ケベックは、かつてピアニストやパートタイムのタップダンサーもやったことがあるが、40年代にテナー・サックスに転向し、カウント・ベーシーとも協演した。彼は、ケニー・クラーク、ベニー・カーター、ロイ・エルドリッジと言った人々がリーダーを務めたニューヨークのバンドたちと協演した。彼はケニー・クラークと共同で「モップ・モップ」を作曲し、後にその曲はコールマン・ホーキンスによってビバップの最初期のセッションとしてレコーディングされた。ケベックは、40年代中頃から50年代はじめにかけて、キャブ・キャロウェイの楽団と協演し、その派生ユニットであるキャブ・ジャバーズとも協演した。ケベックは40年代にブルー・ノートで78枚ものアルバムに参加し、またサヴォイでもレコーディングを行なった。彼の歌である「ブルー・ハーレム」は大ヒットした。ケベックは、ラッキー・ミランダーと協演し、キャロウェイとレコーディングも行なった。アルフレッド・ライオンは40年代後半にケベックをブルー・ノートのアーティスト・アンド・レパートリー、つまり、アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作の担当者にした。後に、ケベックは多くの将来性ある才能をライオンに紹介した。ケベックは、しばらくの間、バンド・リーダーと兼任していたが、50年代後半まで、ブルー・ノートのためにレコーディングと才能の発掘に集中することとなった。彼がライオンのもとに連れて行った人々の中には、セロニアス・モンクやバド・パウエルもいた。ケベックは、モンクのブルー・ノートのデビュー盤のために「Suburban Eyes」を書いた。彼は50年代の終わりごろから、再び、演奏活動を始め、ソニー・クラーク、ジミー・スミス、歌手のドード・グリーンやスタンリー・タレンタインとブルー・ノートのセッションを行なった。彼の再会した音楽活動に対して、以前に彼を酷評した批評家から注目浴び評価を受けていたその時、1963年、ケベックは癌で死去した。

HEAVY SOUL  1961年11月16日録音
Jazquebec_soul  Acquitted
 Just One More Chance
 Que's Dilemma
 Brother Can You Spare a Dime
 The Man I Love
 Heavy Soul
 I Want a Little Girl
 Nature Boy
 Blues for Ike
 Ike Quebec (ts)
 Freddie Roach (org)
 Milt Hynton(b)
 Al Harewood (ds)
 『It Might As Well Be Spring』の1ヶ月ほど前に録音された、このアルバムでのケベックの演奏は『It Might As Well Be Spring』とほとんど変わりはない。このアルバムの特徴としては。オルガンのフレディ・ローチが積極的であるところと、アップ・テンポの多少はアグレシッブな演奏が含まれていることだろう。
 アルバム最初の「Acquitted」は気合の入ったアップ・テンポのナンバーで、『It Might As Well Be Spring』がゆったりとした演奏でリラックスして始まるのとは対照的。リズム・セクションがマイルス・デイビスの「マイルストーン」を想わせる4ビートを痛快にたたき出す。そこで、オルガンのフレーズが突っかかってくる。そのようなバックに対して、ケベックは野太い音で、メロディックなフレーズを歌わせる。ちょっとしたミスマッチの感はあるが、それが不思議とハマってしまう。次の「Just One More Chance」で、ぐっとテンポが落ちて甘いバラードになると、『It Might As Well Be Spring』の時と同じような、ゆったりとしたグルーヴで昭和歌謡のムードのようにケベックのサックスがすすり泣く。3曲目の「Que's Dilemma」では、最初の「Acquitted」と同じようなアップ・テンポの曲で、1曲目と同じようにアグレッシブなリズム・セクションに対して、アナクロとも言えるスタイルで鷹揚と構えるケベックのサックス。しかし、こちらの演奏ではアドリブにはいると次第に演奏が厚くなって、とくにオルガンやベースが突っかかってくるよう。
 こうして、ケベックの演奏を聴いていると、ジャズのルーツが民衆から生まれてきた音楽であることを、同時代の他のプレイヤーよりも強く感じる。ケベック自身は、ベースとなるスタイルが「中間派」ではあっても、バップのスタイルを無視していたわけではないし、R&B等のほかの大衆音楽の動向にも目配りしていたのは、ブルー・ノートで先鋭的な才能を発掘していたことからも分かる。その一方で、ケベックにはバッパーやその後の先端的なジャズ奏者たちのような、自由な即興を追求するとか、ユニークな演奏を目指すとか、そういった自己自身に根ざし、発せられる表現衝動とか欲求のような要素があまり感じられない。それよりも、大衆的な音楽として人々に受け容れられ、その人々の間で心地好い空間をつくりだすことでよしとする姿勢があるように思う。ケベックの生きていた時代では、それが後進性のように映ってしまったのではないか。しかし、その後のジャズが他のジャンルの音楽とのコラボレーション等を通じてサウンド志向になったり、環境音楽やワールドミュージックの方を向いたりするなかで、音楽スタイルは別にして、ケベックの姿勢を間接的に受け継ぐ人が出てきているように思う。
 そして8曲目の「Nature Boy」は、ケベックの音楽の底力というべきか、ミルト・ヒントンが弾くベースとのデュオという虚飾と贅肉をギリギリのところまで拝した編成で、ボン・ボンと骨太の深い音で爪弾かれるベースと、剥き出しのメロディのようなフレーズで対話する。短い時間だけれど、部屋とそっと独りでいつくしみように静かに聴いていたい演奏。

2017年12月29日 (金)

ジャズを聴く(46)~アイク・ケベック「春の如く」

Jazquebec  テナー・サックス奏者。ここでは、実際の響きを具体的に言葉にして、読んだ人がその音楽を響きとして想像できるように心掛けているつもりだが、ここでは比喩的な言い方を許してもらいたい。このページで取り上げているミュージャンの大半はライブ演奏では「俺の演奏を聴け」とばかりに、自分の主張を音楽で表現したり、音楽自体が重要であるというようなことで、音楽を創ることに全身全霊をかけ、聴き手にも相応の緊張を求めている。ある意味、自分が神のように自由にやりたい放題の演奏をして、聴き手に押し付けるところもある。しかし、これに対してケベックの場合には、ライブに集う人々の間に楽しい時間や空間をつくる手段として演奏しているような音楽をやっているように思える。例えば、ライブハウスのテーブルについて、とくに音楽を聴いていなくて酒を飲んでいる人を否定することなく、音楽で、その人が気持ちよく酒を飲めるような雰囲気に自然となっていることでよしとする。そういった性格の音楽をやっているプレイヤーではないかと思う。
 ケベックの音楽スタイルは、中間派といわれ、彼が音楽活動していた時には、時代のジャズであったバップに比べて、昔のハーレム・ジャズとかスィングとかを引き摺ったアナクロと言われるようなスタイルだった。それは、例えばアドリブで走ったりしないで、彼の吹くフレーズのひとつひとつがメロディックで親しみ易く、それを聞きやすくするために野太い音でメロディがはっきりと分かるように朗々と吹いている。それだから、聴きようによっては昭和の歌謡曲ムードをキャバレーで演っているようにも聴こえる。そういう通俗性がある。しかし、そういうコテコテさに陥ってしまう一歩手前のところでの寸止めの一線をケベック自身がわきまえていて、その一線を越えないでとどまっているところで下品にならず品格を保っている。例えば、ブロウを派手にブチかましてオーバーブローになることはなく、サブトーンですすり泣くような吹き方をするときでも抑制がきいているので、悠々としたハートウォームなトーンとして聴こえてくる。そのため、聴き手はリラックスして、安心して身を委ねることができる。
 このように書くと、単に心地好いだけのムード音楽と受け取られてしまうかもしれないが、ケベックの演奏には抑制が効いており、その土台には自己の音楽を冷静で客観的に見る視線と、過剰を律する自己に対する厳しい姿勢があって、それが彼の演奏に品格を与えている。
T MIGHT AS WELL BE SPRING   1961年12月29日録音
Jazleeknitz_har  It Might As Well Be Spring
 A Light Reprieve
 Easy Don't Hurt
 Lover Man
 Ol' Man River
 Willow Weep For Me
 Ike Quebec (ts)
 Freddie Roach (org)
 Milt Hinton (b)
 Al Harewood (ds)
 『春の如く』という邦題と、緑色の基調のジャケットデザインが、このアルバムの雰囲気に寄り添うようで、見事に印象を表わしている。
 最初の「It Might As Well Be Spring」は、ゆったりとしたオルガンのイントロに導かれるように入ってくるケベックのサックスの音。あまりにも低くゆったりと吹かれる。それは、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズの演奏に慣れた耳には、いかにも一時代前の古臭くも聞こえる演奏は、却って新鮮で衝撃的に響く。ドロドロといっていいほどのスローテンポの演奏で、野太いテナーサックスの音色、溜めに溜めたようなグルーヴ感。スタンダードナンバーのブルージーなテーマを、ケベックのサックスで聴くと、まるでひとむかし前の切ない歌謡ムードを想わせる。それは、ジャズが通俗的な大衆音楽であることを、今さらながらに想い起させる。そのあとに続くアドリブパートもビバップのようなハイテンションになることなく、少しテンポは上がるものの、大らかでリラックスしたトーンが一貫している。しかも、ケベックの吹くフレーズはメロディックで朗々としている。バックも、ケベックに寄り添うように、フレディ・ローチのオルガンは冒頭の「ショワー」というシャワーのようなサウンドは、聴く者を一気に、この世界に招き入れてしまうもので、ゆったりと気持ちの良いテンポを形づくっていて、ミルト・ヒントンのベースは、ゆったりと大股で歩くように「ズンズン」と弾かれている。ケベックを中心に4人の奏者が、ビバップより以前のハーレムジャズをルーツにする中間派と呼ばれるスタイルで一貫していて、居直ったような自信に溢れる演奏をしている。
 次の「A Light Reprieve」は、アップ・テンポの曲になり、若干ドラムスが煽るようなところ見せるが、ケベックはいっこうに動じることなく悠々とした演奏を崩さない。
4曲目の「Lover Man」もスタンダード・ナンバー。1曲目に輪をかけたスローな曲で、バラードのように立ち止まって歌うというのではなく、そのスロー・テンポでもグルーヴするノリは超絶的と言えるかもしれない。1曲目と同じように野太い音でサブトーンというよりはブレス漏れになりそうなほどのしのび泣くようなソウルフルなサックスの暖かい響きで、歌心あふれるフレーズを次から次へと繰り出してくる。
 次の5曲目の「Ol' Man River」は、このアルバムでもっとも急速なナンバーで、スイングするケベックは緊張感の高い演奏を展開し、後半にはリズム・セクションもそれにつられて徐々に盛り上がってくるのだが、どこか鷹揚としているように聴こえてくる。
このアルバムは全体としてスローテンポのゆったりとしたナンバーがほとんどで、ケベックのアナクロな野太い音に酔うようにして、リラックスして身を委ねていたい。

2017年6月29日 (木)

 私はブルックナーをこう聴いている(15)~ⅩⅥ.第3楽章(2)

 クライマックスの後、ヴァイオリンの循環モチーフの繰り返しをバックに中間部を予告するかのような舞曲風の旋律が奏でられる短い経過部分。そして、前章の部分を繰り返します。[0:50~2:20]
 この楽章はヴァイオリンの循環モチーフの繰り返しでてきていると思います。このモチーフはそれほど長くはなく、またよくうたうメロディというのでもないので、このモチーフの繰り返しが謂わば通奏低音のように楽章全体のリズムをつくりだしているように聞き取ることができます。そこでブルックナーの繰り返しを聴くということが、この楽章では一つのポイントとなっています。繰り返しを聴くということでは、前章でも申し上げました同じことを同じように繰り返すか否かという点、この点においてはブルックナーの繰り返しは何かしら前回とは変化が見られるということがあります。前章の記述では部分的なことに終始しましたが、この楽章全体においては通奏低音となっているヴァイオリンの循環モチーフがカノン風に変奏されている。ブルックナーには珍しい変奏曲として聴くこともできるということが挙げられます。通奏低音の変奏といえば、バッハ等で有名なパッサカリアという形式がありますが、そこまで厳格に受け取る必要はなく、ロマン派の作品に多い性格変奏(バッハのゴールドベルク変奏曲とかブラームスのハイドン・バリエィション等)的な受け取り方をしてほしいと思います。ここでは、その他の点について述べさせて下さい。
 さて、ここで話がブルックナーから離れます。モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番イ単調K310をマリア・ジョアオ・ピリスというピアニストの1974年の録音で聴いたときの印象です。第1楽章の提示部のあと展開部への間の短い経過句の演奏です([C37-7387] 19 0:40~2:20)。付点リズムの和音に乗って前打音の導きで第1主題、そして長調に転調して第2主題の提示が行なわれます。その後、左手のバスがドソミソという分散和音をずっと弾き続けるところがあります。
 註 *1:[C37-7387] 19 0:40~2:20

2017年6月28日 (水)

 私はブルックナーをこう聴いている(14)~ⅩⅤ.ブルックナーと大友克洋

 大友克洋は「アキラ」や「童夢」といった作品を書いたまんが家です。芸術家ブルックナーと低俗な漫画家を同列に並べるのは不謹慎との声もあることでしょうが、その点は私の独断と偏見ですのでどうかお許し下さい。
Bruknerohtomo2  左図の女の子の絵をご覧下さい。この子は、物語の中では一応可愛い女の子とされてはいるのですがそうは見えません。目が小さくて吊り上がっている、鼻も低い、よく外国の漫画にあるような典型的な日本人の顔に近い、要するにミもフタもない日本人の顔になっています。少女まんがを見るまでもなく他のまんがの場合ならば、可愛い女の子を描くときは、目が大きくパッチリしていて(瞳に星が輝いている)鼻筋が通っているのが普通です。まんがというのは単なる絵だけではなくて約束事が沢山ありまして、これが可愛い女の子だというときには、その女の子に絵に可愛い女の子の記号を描くことが必要です。それが瞳の星だったり、その他であるわけです。二流のまんが家なら、たとえ絵が下手でもその記号と話の上でそうだという約束になっていれば、読者はそういうものとして読むものなのです。極端なことを言えば、女の子は美人とブスの二通りいれば、絵としてのまんがは成立してしまいます。美人は憧れの対象、ブスはギャグの対象です。そこで、美人には憧れ、ブスには諧謔という記号が数多くあるのです。しかし、大友克洋は図のようにどちらでもない女の子を描きました。つまり、憧れも諧謔も大友克洋のまんがにはないのです。
 Bruknerohtomo さらに、右図、殺した人間をぶつ切りにして冷蔵庫に入れたという場面です。私には人を殺してしまったという血生臭さのようなものが全く感じられません。死体を処理するときに流される血はただの大量の液体になっていて、死体は徹底的にただの物質になっているのです。ここで描かれている人間は、憧れやギャグの対象にはなりえません。むしろ、人間=生理的肉体とでもいうような描かれ方をしています。また、冷蔵庫の中を見てみて下さい。卵や飲料のビンが死体と一緒に描かれています。まんがというものは、必要でないものは省略してしまうものですが、ここではこういうディテールが描き込まれています。これは意図的なものです。つまり、人間の死体とビンが等価に扱われているというわけです。そういう人間を描くのに、細くて均質な線が用いられています。だから良いとか悪いとか倫理的に判断しない、倫理を飛び越えてこのキレのいい線が人間や物質を表現している。別の言い方をすると、何かとりつくシマのないという感じもします。あらゆる思い入れを排除する、それが大友克洋の軽みの正体だと思います。
 人間の内面のあらわれとしての感情を表現する旋律が空虚であること、素材としての音がゴシックのアーチのように等価に扱われていること。こんなところに、ブルックナーと大友克洋の接点を見出しているのです。表層的な存在などというと難しく感じられるでしょうか…。
 そもそも、人間が内面を有するという考えには、自分という輪郭を設定して(それを自意識とか自己とか言うのでしょうが)その輪郭の外側と内側があって、それらは違うものだという前提が設定されています。その違いを拡大していくと、外側で他人と接している自分は偽の自分で、本当の自分は内側にあるのだという認識に結び付いてしまうものです。他人と関係する自分は偽で、自分自身が認識する自分のみが本当なのだということになる。そうすると、自分の内面というものが何か充実した実体を持っているかのように思われてくるのです。たとえば、誰も自分を理解してくれないというような感情は、そういうところから出て来易い。こういう感情というのは十代の思春期の子供が陥りやすい。最近では、尾崎豊の歌などに端的にうたわれています。(だからと言って、尾崎豊の歌が良いとか悪いとかということではないので、誤解しないでほしいと思います。)私の場合も例外ではありませんでした。しかし、こんなことは社会に出て生活を為すなかで他人と接する自分を受け入れることで意識しなくなっていくものと思います。私の場合は、未だにそういった意識を消すことはできないではいます。ただ、『本当の自分』などというものはどこにもないと思っています。
 自分というか『本当の自分』などというものが、一時期の私にはプレッシャーでしたが、そんなものはとこにもないと思うことで気が楽になったのでした。『本当の自分』というものがあって、いつもそれとの距離を感じて、ズレを意識せざるをえなくなって、そのくせ『本当の自分』が何なのかなどは曖昧で判るわけがないですから。誰も自分のことを誤解している、何もわかっていない等とうそぶいてみても、当の自分だってわかってはいないのです。それで落ち込んでしまう。けれども、『本当の自分』なんてものはなくて、ただ他人や自分の目に映る自分があるだけなのです。それでプレッシャーを払い除けることができたんです。自分では内向的とおもっていても、他人が社交的だと見ているのならそれは事実なわけです。もっと言えば、自分などというものは、非連続的にストロボのように点滅している瞬間瞬間の点の集合のようなもので、それがあたかも連続しているかのように連なって見えているだけなのだ、というように。自分でも自分と思えない行動をすれば、他人(私が自分を見るときにも対象化しているわけですから、当然私も他人に含まれます。)にはそういうものとして見える。それは嘘でも偽でもなく、その限りで事実なだけだ。それならそれでいいではないか。そう思えば、いくらでも自分を変えることができる、何をしてもいいということになります。
 そうしてみると、大友克洋のまんがのクールさ、ミもフタもない視線、乾いた笑い、軽み、それらが、私にとっての大問題だった内面性とかメッセージとかテーマなどというものが転倒して感じられました。内面が反転すれば表面なわけで、同じものであるはずなのにどこか虚ろに見えてしまったのです。謂わば大友克洋のまんがにミもフタもないけれど等身大の自分を見ることができました。“おまえなんて、こんなもんだ。”という具合にです。ブルックナーの音楽もこれに通じるところがあるのです。愛想のなさとか、壮大な音の構築をしながら実は内側は空虚であることとか、素材としての音がどれが主でどれが従ということなく等価であることや、ディテールに固執することとか、その他諸々が敢えて言えば尾崎豊のようなものからの解毒剤の役をはたしてくれたのでした。それが、このような小文を草した動機でもあります。その意味で、ブルックナーの音楽の対して過剰な思い入れや尤もらしい意味付けや神話の靄に包み込んでしまうのを避ける所以です。ミもフタもない音楽です、ミもフタもなく聴こうではありませんか。
 ※偉そうなことを尤もらしく書きましたが、私は未だにふっ切れてはおりません。例えば「みにくいあひるのこ」という童話があります。醜いと言われ続けた子供が実は白鳥の子供だったという話。白鳥は美しい鳥でしょう。だからと言って誰の目にも醜いその子供が白鳥の子だから美しいのだと評価が変わるわけはないのです。しかし、本人にとっては醜いという事実を認めるのは苦しいことです。白鳥の子供という『本当の自分』 は美しいというのは、そんな当人にとって都合のいい逃げ場です。私も逃げ場を放棄するのは辛いことで、どうしても決心がつきかねて逡巡しているのが現状です。

2017年6月27日 (火)

私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1)

 これまで、細部に拘泥したり、寄り道をしたりで大分長く書いてしまっております。この第3楽章で、全体の半分を通過したことになります。しかし、ブルックナーのこの交響曲は前半に較べて後半は尻すぼみのように短くなっているので、この記事も予定の7割通過という感じです。もう少しでので、お付き合い願います。
 ヴァイオリンの循環するモチーフの繰り返しで、第3楽章は開始されます。これは第1楽章冒頭の“暗い波のような動き”の低弦の前のめりの上昇音階によく似ていて、両者のつながりを聴く者に想わせます。第1楽章では、この上昇音階に上方から被さるようにヴァイオリンの下降音階が降りて、双方の動きが絡み合います。さて、この第3楽章では上方からの下降音階の代わりに、低弦のピチカートが対応しています。まずヴァイオリンがモチーフを1回だけ語尾を下げない問い掛けのようなかたちで弾くと、ヴァイオリンの休止に差し挟むように低弦のピチカートがそれに応答します。それをもう1回。但し、この2回目はヴァイオリンは同じように問い掛けるのですが、応えるピチカートはほんの少しだけトーンが高くなります。この後3回目に至ってヴァイオリンはモチーフの語尾を上げて休止することなくモチーフを循環させます。対応するかのようにピチカートが追い掛けるように応答のモチーフを循環させる。そしてヴァイオリンのモチーフを弦楽器の各パートが受け渡しをするように重なりながら、クレッシェンドしていって小さなクライマックスに達します。そこでは、前半を弦楽部によってヴァイオリンの循環モチーフが主題提示のように強音で演奏されると、後半では金管部が対応するピチカートのモチーフを刻みます。[0:00~0:50]
 第1楽章の“暗い波のような動き”では、分散和音の上昇音階に対して下降音階、前拍に対して後拍、というように対比的な要素が並列されていました。この第3楽章では、ヴァイオリンの循環モチーフが推進力を持って前へ…と行こうとする傾向があり、低弦のピチカートはその動きを押し止めようとするような静止する傾向があって、両者の併存が劇的な動きを感じさせます。つまり、こうです。最初のところはヴァイオリンのモチーフがワンフレーズで、それが前へ行こうとする流れをつくります。しかし、休止とともに低弦のピチカートがその流れを堰き止める。もう1回。こんどは流れの勢いが強くなったのかピチカートのトーンが少しだけ高くなります。聴いている私は、ヴァイオリンの変化には気が付きませんでしたが、ピチカートのトーンが少しだけ高くなったのでヴァイオリンの変化があったのかもしれないと回想してしまうのでした。(このように繰り返しに着目してみると、同じことを同じに絶対に繰り返さない作曲家がいて、ブルックナーもショパンやモーツァルトなどと共にその仲間に入ると私は思います。)そして3回目。ヴァイオリンのモチーフが循環しはじめると流れは止まることなく勢いづきはじめます。静止する傾向のピチカートは勢いづいた流れを追い掛け押し止めようと何度も繰り返します。そして、強音での奔流のような音の洪水、そこでの循環モチーフが主題のように提示されます。流れは、何度か押し止められることで、ピチカートという堰に勢いをためられます。その堰を破り、勢いが増して流れを再開します。ただ単に前へ進むだけならスゥーッと流れていってしまうのを、一旦勢いをとどめることでグッと勢いをためて、凝縮した勢いを一気に放出することでカタルシスを生み出す。おそらくここで、ブルックナーを聴く人は、音の動きをとめることのうちに音楽の運動が生み出されるという逆説に気付かずにはいられないと思います。まして、ブルックナーの交響曲には、オーケストラの全楽器が音を止めてしまうという瞬間が確かに存在しているわけです。言うまでもなく、それはブルックナー休止のことです。この瞬間、音楽の演奏ということについて作曲家たちが周到に回避していたすべてが、一挙に許されてしまっていることで、聴く私を途方もなく動揺させるのです。と同時に、例えば演奏会場でオーケストラが音を出すのをやめてしまった時、客席にいる私は舞台上に自分自身と同じものを認めずにはおられず、そのことによって思わず粛然とするほかはないのです。いままさに演奏会という場を共有しつつある自分は、舞台の上で楽器を外すオーケストラと同じ姿勢で椅子に座って、同じように自ら音を発することを放棄し、静寂のなかで聴覚を集中しているわけです。音楽を聴くとは、総休止のときのように自らは音を発するという動きを止めたまま、集中して聴きいるという姿勢の上に成立する体験のことです。それを、便宜的な分類ですが、音を発する側も受け取る側もこの瞬間全く同じに共有してしまう。まるでお互いの境界が取り払われてしまうような経験です。そう思うと、私はここで音楽の演奏そのものの限界に触れてしまったかのように緊張せざるをえなくなってしまいます。しかし、音楽を聴くという体験は、日常生活のなかでのほんの一瞬にすぎません。演奏会が終われば、私は席をガサガサと立ち友人と感想を語り合うでしょう。日常の動きのなかで色々な物音を無意識のうちに発することになるでしょう。そうです、こんな体験はそう長くは続かないのです。そこでここでの演奏はいったいどうなってしまうのでしょうか。
 このとき、一つの転倒がおこるのです。休止は音楽の流れを一旦堰き止めることで、矯めをつくり勢いを増幅させるのではない。この音楽は休止というものを持ってしまったが故に、音の動きという例外的なことを開始しなければないないという関係が成り立ってしまう。このような転倒という現象によって、音楽を聴く私の現実の時間と音楽を聴くという時間とが重なり合うとき、音を発することをやめたオーケストラの各パートが、その徹底した静止ゆえに却って音楽全体に動きを与える契機となる。この場合の動きとは、音楽とそれを聴く私との関係がそれまでとは異なった意味を持ってしまうことをも含有することになってしまいます。アリストテレスは「詩学」のなかでドラマには発見と逆転が必要であると言っています。そして発見と逆転が同時に起こるのが望ましい。たとえばソフォクレスの「オイディプス王」では、オイディプスは自分がよき王となることを望むが故に、自分が父親殺しであり母親と結婚したことを発見する。こんなことを知ってしまったら、引っ繰り返らざるをえない。つまり、彼の人間としての存在が逆転してしまうのです。ブルックナーの音楽が、それほどの深刻さを持っているとは言い切れません。しかし、聴く者と聴かれる音楽との関係を転倒させてしまうだけのものは、確かに認めざるをえません。その意味で、この休止は劇的な動きを生み出していると言うことができると思います。ですが、聴く者にこのような試練とも言いうるものを課すブルックナーという音楽は、単にすばらしい音楽として済ませてしまうことはできるのでしょうか。
 つい、キィボートを叩く指先に力が入ってしまいました。第3楽章のこの部分にブルックナー休止があるわけではないのに、記述が飛躍してしまいました。

2017年6月23日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(12)~ⅩⅢ.ブルックナーとブラームス

 私という人間がブルックナーの音楽をどのように聴いているかを具体的にお話してきたつもりですが、ここでブルックナーの特徴と申しましても結局は私の個人的な感性のものなので、他の作曲家と比較することで、よりブルックナーの特徴が泛かび上がるのではないかと思います。とくにここでは、オーケストラの中低音を強調することで重量感溢れる響きをする点や、旋律の動きが和声の分厚い伴奏を伴う点、ソナタ形式等の音楽のかたちでガッチリ枠をつくりその中で音を自律的に動かしていくことで音楽をつくる点などでブルックナーと共通点の多いブラームスと比較してみることにします。
E11ja01  ブラームス晩年のピアノ小品を「間奏曲集」というタイトルのもとにグレン・グールドが演奏したレコード(グレン・グールド「ブラームス間奏曲集」)があります。この中の、例えば変ホ長調のOp117-1という作品は右手でスコットランド民謡をおもわせる素朴なメロディを淡々と弾き、左手で和音の伴奏をつけるという、全体としてもきちんとした三部形式にまとめられた、至って単純なものです。これをグールドは左手の和音伴奏をするとき、和音を構成する音を少しずらして弾きます。分散和音という程ではないのですが、これによって、左手の音が途切れなく連続しているように聞こえてきます。それだけではなく、単純に和音を弾いていたときは、ターン ターンと音に規則的な隙間ができていて、それがリズムを刻むように作品全体を秩序付けていたのに気づかされます。これは、失って甫めて気が付く体のもので、最近リリースされたヴァレリ・アファナシエフの演奏(ヴァレリー・アファナシエフ「ブラームス後期ピアノ作品集」 [COCO-75090])などでは顕著に聞き取れるものです。これをグールドは少しずらして弾くことで、この規則的なリズムを崩してしまいます。するとどうでしょう。作品全体の印象が、まるで今にも崩壊してしまいそうな、はかなげなものに変貌してしまうのです。そして、和音をずらし気味に弾くことで、それまで和音の響きの中に隠れていた、その一つ一つの音が現われるにつれて、度重なる転調などの際に、内声部に思いもよらなかったメロディが幾つも現われてくるのです。このような、未知のメロディの発見は素晴らしい体験なのですが、それだから、この演奏がいいというのではありません。ブラームスという厳格なほどがっちりとした構成で作曲した人の晩年の形式が裸で顕わになっているような作品が、実はちょっとのことで崩壊してしまいそうな危うさを持っていたこと、また強い形式感の裏には驚くほど豊穣なメロディが隠されていたこと、それが形式が崩れることで一気に花開いたこと、たった数分の小品にストイックな形式と豊穣なメロディとのこれほどまでの強い緊張があったことを、この演奏がまざまざと見せ付けてくれたことです。
ブラームスの音楽の魅力的な部分は、聴いている私には、常に隠されているものです。ロマンティシズムの枢要である内心を表わした旋律は、ブラームスの音楽では、あからさまにはならないのです。内声部の充実した分厚い響きのなかに、それは埋もれています。それを、幾重もの響きの襞をかきわけながら探していく、これがブラームスの音楽を聴く醍醐味です。
Remyakei  内声部が分厚く充実していることで接着剤のように機能して、テナーの高音部とバスで全体を支える低音部が一体となり、全体がひとつの塊のように聞こえてくる。ブラームスの音楽に感じられる重厚さとか渋さといったものは、こういう音づくりから生まれるものと考えられます。油絵の具をパレットの上で混ぜていくと最終的には渋く重々しいグレーになります。様々な絵の具を様々に混ぜることによって、このようなグレーに様々なニュアンスを与え、これを使い分けて微妙な光と影のニュアンスを表現した画家にレンブラントがいます。彼の代表作「夜警」は夜の闇と夜警の人々の持つ明かりの織り成す微妙な陰影が描かれています。そこでの夜の闇を表現している黒やグレーの色が、画面の上で一様ではないのです。画面上の場所によって色合いが異なっているのがわかるのです。多分絵の具の混ぜ具合が全部違うのでしょう。黒やグレーとして表面にあらわれている色の背後に様々な色が様々に隠されている。一見すると、一面に黒やグレーが塗られている地味で暗い作品のようですが、その背後には驚くほどバラエティに富んだ世界が隠されている。気が付いてみれば、その汲めども尽くせぬ豊かさの虜になってしまっている。それがレンブラントの魅力です。中間色に終始するようなブラームスのオーケストレイションには、レンブラントの色彩のような隠された豊かさがあります。それが、例えばグレン・グールドの演奏のようにはからずも露呈された時、あまりの豊かさに戸惑うのです。
 このようにブラームスの音楽は、<あらわれたもの>と<隠されたもの>の二極構造になっていて、主眼は後者にあります。上でも申しましたように、それを探し求めることがブラームスの音楽を聴く、ひとつの醍醐味と言うことができます。これに対して、ブルックナーの音楽には<隠されたもの>が存在しません。どこまでもあっけらかんとして、すべては表層に露わになっているのです。但し、そのすべてを聴くか否かは聴く者に任されているのです。その意味でブラームスなどに較べれば、聴き手にとってはなんと残酷な音楽なのでしょうか。

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