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音楽

2021年1月27日 (水)

ジャズを聴く(58)~エリック・ドルフィー「LAST DATE」

Jazdolphy_last Epistrophy
South Street Exit
The Madrig Speaks,The Panther Walks
Hypochristmutreefuzz
You Don't Know What Love Is
Miss Ann

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Misja Mengelberg (p)
 Jacques Schols (b)
 Han Bennink (ds)

 

 試しに、同じドルフィーのアルバムである「OUT TO LUNCH」を聴いた後で、続けてこのアルバムを聴いてみるとどうだろう。変な形容かもしれないけれど、「OUT TO LUNCH」にある息詰まるほどの過激さは、ここでは見られず、比べると一種の穏やかさに包まれているように感じられないだろうか。ドルフィーが亡くなる数日前に録音されたという伝記的なエピソードから、死を前にした諦念とかそういったストーリーを捏造しようというわけではなく、例えば、ドルフィーの吹く楽器にについて、以前では強い音圧を絶えずかけていて終始楽器が壊れてしまいそうなほど楽器を鳴らし響かせていたのが、ここでは余裕をもってある時は息を抜くように、楽器の残響の余韻を巧みに生かすような鳴らし方をしている。また、「OUT TO LUNCH」の変拍子のオンパレードのような複合リズムで聴く者はノリが許されないようなリズムが、ここでは定速の4ビートを終始キープしているので、安心感がある。もっとも、単にビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められ、ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが売れてくる面白さが見られるのは、いかにもドルフィーらしさは失われていないのだが。
 1曲目の「Epistrophy」は、そういう穏やかさの中でとドルフィー特有の飛翔が入ってくるので、むしろドルフィーの特徴が鮮やかに際立つ。しかも、不思議と違和感を起こさせることが少なく、聴き手にスッと入り込んでくる。出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。それが、今までと違って形の力が抜けてリラックスしていて、しかも、ドラムスとベースがしっかりと4ビートを守って、あまりドルフィーを煽ったりせずにバックに徹しているので、ドルフィーが気持ちよく吹いているのが、聴く者に伝わってくる。そして、ピアノのバッキング。まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノなのだ。5曲目の「You Don't Know What Love Is」では、弓で弾くベースとのデュオで、ドルフィーのフルートが、ちょっとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートに似た半音階的なメロディーっぽいフレーズをテーマに12分にわたるソロを吹いている。それが、彼の専売特許ともいえる咆哮を思わせるようなフリーキーなトーンを、ほとんど混じえずに、フレーズで勝負して、しっとりとした美しい演奏をしている。この演奏をもって、このアルバムの白眉という人も少なくないという。最後の「Miss Ann」は、フリー・ジャズという感じではなくて、ハード・バップの中にドルフィー独特の突飛なフレーズが収まってしまっている。最後に、有名なドルフィーの独白が入るが、それについては尤もらしく論じている人が沢山いるので、それでストーリーをつくって楽しめばいいと思う。ただ、演奏が終わって拍手を短くフェイドアウトさせると尻切れトンボになってしまうので、落ち着いた声を一節いれることで、静かに終わって、余韻を残す効果が出ていると、私は思うので、何をしゃべっているかは、ほとんど気にならない。 

2021年1月17日 (日)

ジャズを聴く(57)~エリック・ドルフィー「OUT TO LUNCH」

Jazdolphy_out Hat And Beard
Something Sweet,Something Tender
Gazzelloni
Out To Lunch
Straight Up And Down

 

 Eric Dolphy(as,bcl,fl)
 Freddie Hubbard(tp)
 Bobby Hutcherson(vib)
 Richard Davis(b)
 Tony Williams(ds)

 

 このアルバムはスタジオ録音で、ライブ録音とは全く違ったドルフィーの可能性に触れることができる。ライブ録音と大きく違って、音楽の広がりという遠心的な方向性とは正反対の求心性が色濃く出ていると思う。ライブでは実現不可能な自己完結したような音楽空間、つまり広がっていくのではなくて閉じた世界で空間を埋め尽くそうとするような方向性で、聴く者はまるで母胎のなかの胎児のように空間に包み込まれ、外界から遮断されて、一体化させられていく。空間をシャープに切断するドラミングと、クールに鳴り響くヴァイブが特徴的なサウンドは精緻に計算されて冷静に構成されたもので、そこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は「正確無比に狂った時計」のような様相を示し始めるのだ。アルバム・ジャケットのような。
 一曲目の「Hat And Beard」合計すると9拍になる複合拍子の分割バリエーションに着想を得た楽曲で、トランペット、バスクラリネット、ヴィブラホンがビックバンド風のバッキングでリズミックにアクセントをつける中、ベースとドラムによって提示される導入部は9/3拍子(3・3・3)によって、そして、テーマ部ならびにソロ中は9/4拍子(5・4)という変拍子によって演奏される。と言われても、何のことか分からないという場合は、試しに最初のところを手で拍子をとってみるといい、途中で手拍子が余ってしまうし、楽器によって違うリズムで演奏しているので、どの楽器に合わせればいいのか分からなくなってしまう。基本的にはドルフィーのソロはリズムにノッているのだけれど、細かなフェイクを入れたりして、その上を自由に飛翔しているようで、そこに独特のひねくれたような断片的なフレーズにならないようなフレーズをブチこんで、しかもアルト・サックスからは想像できないヘンテコリンな音色を出してくる。最初から歪んでいた空間が、このドルフィーのソロで、さらに歪む方向に動き始め、ボビー・ハチャーソンのヴァイブが止めを刺す。2曲目の「Something Sweet,Something Tender」は、弓で弾くベースをバックにドルフィーのソロで始まるが、半音階的な要素の入ったメロディーは20世紀初頭のクラシック音楽の難解で前衛的な曲のようだ。曲中に5/4拍子や6/4拍子が短く挿入される作曲手法、或いはテーマ-ソロ-テーマ後に短いバスクラブレイクを挟み再度テーマに戻るというイレギュラーで多彩な展開といった、一見、スローバラードなのだけれど、冷静に組み立てられている。これって、曲の構成とか、展開はフリーなのかもしれないが、演奏はフリーなの?と問いたくなるような、まるでクラシック音楽のようなキッチリとした演奏で、息が詰まりそうなほど。この後のナンバーも、変拍子のオンパレードで、しかも規則的に刻まれるので、従来のジャズの柔軟なリズムから生まれるグルーヴとかスイング感のような、思わず身体が動いてくるノリとはあまり縁のない、楽譜に設定された拍節を実体化して音楽の構築性を出現させる役割を果たしていると思う。それは、1950年ころのクラシック音楽の作曲家たちが人の感情に訴えかけるようなロマンチックな音楽に飽和して、数学の計算のような知的な構成物のような音楽をつくっていったのと、似ているような気がする。とくに、この作品は、ジャズの肉体性とか即興性を犠牲にしても、音楽をつくるとか構成することの自由さを追求していった、ある意味ドルフィーの想像の中で鳴っている音楽を可能な限り再現しようとしたものとは考えられないだろうか。このエッセンスを希釈したり、一部を抜き取って活用したのが、「At The Five Spot」といったアルバムではないと思える。

2020年12月28日 (月)

ジャズを聴く(55)~エリック・ドルフィー「ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1」

 エリック・ドルフィーは、アルト・サックス、フルートそしてバス・クラリネットにおいて特徴的なスタイルをもった真のオリジナリティのあるミュージシャンだった。彼の音楽は“アヴァンギャルド”のカテゴリーに分類されたが、彼自身必ずしもコード進行による即興を放棄したわけではなかった(コードに対する彼の譜面はかなり抽象的なものだったが)。彼以外のほとんどの“フリー・ジャズ”の演奏が非常に真面目で堅苦しく聞こえるのに対して、ドルフィーのソロは、多くの場合、恍惚と熱狂をもたらした。彼の即興は非常におおきな跳躍、非音楽的で演説のようなサウンドそして彼自身のロジックを使ったものだった。彼が主として演奏したのはアルト・サックスであったが、ハード・バップ以降の最初のフルーティストであり(ジェームス・ニュートンに影響を与えた)、ソロ楽器としてバス・クラリネットをジャズではじめて使った。彼は、(コールマン・ホーキンス以降)伴奏者なしのホーン単独の演奏による録音を行った最初の演奏者の一人で、それは、アンソニー・ブラクストンの5年も前のことだった。
 エリック・ドルフィーはロサンゼルスでロイ・ポーター楽団(1948~1950)と最初のレコーディングを行い、2年間の兵役に服した後、1958年にチコ・ハミルトンのクインテットに加わるまで、ロサンゼルスで無名のプレイヤーだった。1959年にはニュー・ヨークに移り、間もなくチャーリー・ミンガスのカルテットのメンバーとなった。1960年までには、ドルフィーはプレステージ・レーベルに定期的にリーダー録音を残し、ミンガスとの仕事で注目を得るようになった。しかし、彼の短いキャリアを通じて、自身の尖鋭的な演奏スタイルのゆえに定まった仕事を得るために絶えず苦労していた。ドルフィーは、1960~1961年にファイブ・スポットでトランペットのブッカー・リトルとのセッション、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」への参加及びマックス・ローチとのセッションという3枚の録音を含めて、その他ヨーロッパでの数枚などかなりのレコーディングを残した。1961年末に、ドルフィーはジョン・コルトレーン・カルテットの一員となった。彼らはヴィレッジ・ヴァンガードで保守的な批評家を前にして長大でフリーなソロの“アンチ・ジャズ”をプレイすることによって、彼らに恥をかかせようとした。1962~1963年の間、アメリカで、ドルフィーはガンサー・シェラー楽団で第3の流れの音楽をプレイし、自身のグループではめったに演奏しなかった。1964年、彼はブルーノート・レーベルで彼の古典となった『アウト・トゥ・ランチ』をレコーディングし、チャーリー・ミンガス・セクステット(The Great Concert of Charles Mingusで披露するための、おそらく最も刺激的なベーシストのバンド)とともにヨーロッパへ旅立った。彼はヨーロッパにとどまることを選んだ後、数回のギグを演ったが、糖尿病性昏睡で突然なくなり、36歳の生涯を閉じた。

 

ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1      1961年9月8日録音
Jazdolphy_europe1  Hi Fly
 Glad To Be Unhappy
 God Bless The Child
 Oleo
  Eric Dolphy (fl,bcl)
  Bent Axen (p)
  Chuck Israels (b)
  Erik Moseholm (b)
  Jorn Elniff (ds)
 エリック・ドルフィーがヨーロッパに渡り、現地のミュージャンと即興的にメンバーを組んでライブを行なった実況録音盤。このアルバムでは、ドルフィーのフルートとバス・クラリネットの演奏が収められていて、アルト・サックスはない(vol.2ではドルフィーのアルト・サックスが聴ける)。「At The Five Spot vol.1」のところで、リズム・セクションが規則的なビートを刻んでいると書いた。しかし、このときのメンバーは黒人のジャズの柔軟なリズム感覚が身体に染み付いている人たちだった。そこに無理が生まれ、それにドルフィーは満足できなかったのではないか。ところが、ヨーロッパの白人ミュージシャンたちは、異なる音楽的ルーツをもっていて、オーケストラのような個人が規則を遵守しないと成り立たないアンサンブルの伝統に培われている。vol.2もそうだけれど、この一連のヨーロッパでの実況盤では、メンバーは異なっているが、規則的なビートを当たり前のように厳格に刻んでいる。そこで、ほとんどが定速の4ビートだけれど、単なるビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められる。ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが、「At The Five Spot vol.1」よりも顕著に聞こえてくるのだ。さらに、このアルバムでは、ドルフィーの静の部分にも触れることができる。
 1曲目の「Hi Fly」はドルフィーのフルートとチャック・イスラエルズのベースの2人のデュオ。ドルフィーの思わせぶりなメロティフェイクによる導入部、無伴奏で、芯の太いフルートの音色が軽やかに飛翔してゆくようなフルートのソロに、ベースが後から入ってきて、リズムを刻み始め、テーマメロディとともに演奏に推進力が出てくる。 そしてアドリブパートに入っては、イマジネーション豊かに飛翔していく、まさにエリック・ドルフィーならではのフレーズが後から後から、その足場作りを黙々とこなすイスラエルズの職人気質的ベースワーク。静謐でありながら、厳格にリズムを守るベースは、一種の峻厳さというか精神性すら漂わせ(ドルフィーのフルートがあるからこそなのだが)ている。ドルフィーの楽しげに、だけど適度な緊張感を保ちながら、淡々と綴られてゆく演奏。じわじわと、静かな高揚感が内側から湧いてくる。次の「Glad To Be Unhappy」では、ピアノ・トリオをバックにドルフィーがリラックスしてフルートを吹いている。ドルフィーが優しいメロディが印象的を大切にしたテーマ演奏をフルートで、じっくり聴かせるが、優しいというよりも不気味に緊張感がある、まるで獲物を目の前にして今にも飛びかかろうと息を潜めているライオンの息吹のようなのだ。案の定、しかしアドリブパートに入ると一転、今度は激情迸る展開になる。3曲目の「God Bless The Child」から、バス・クラリネットに持ち替えて、この曲では、無伴奏の単独ソロを披露している。ドルフィーは、この曲の原曲メロディを、おそらくは、わざと出してこない。始めのうち・・・ドルフィーは、なにやら音をまさぐるように、バス・クラリネットの低音域を使ったアルペジオっぽい音階をしつこく続けてくる。そうしてある時~たぶん曲のサビの部分か・・・ここでいよいよ、高い音を吹く。これが・・・とても印象的で、それまでの低い音域でのファットな音圧感豊かな音色とは違う質感の、ちょっと歪んだような、ノドをキュ~ッと絞ったような、そんな悲痛な音色なのだ。でも・・・それが効く。静と動。抽象と具象という感じだろうか。そして最後の「Oleo」ではエキサイティングな演奏で締める。

2020年11月17日 (火)

ジャズを聴く(54)~エリック・ドルフィー「At The Five Spot vol.1」

Jazdolphy  下で紹介しているアルバムの、どの演奏でもいいので聴いてみていただきたい。はじめて人は驚くかもしれない。そこには、これまで紹介してきた他のプレイヤー、例えば、アート・ペッパーでも、ソニー・ロリンズでもリー・コニッツでもいい、ハード・バップ、クール・ジャズなどのスタイルの違いこそあっても、ジャズという音楽であるベースがある。しかし、ドルフィーの演奏は、そういうものが壊れてしまっている、アバンギャルドという言葉のイメージそのままの、「これって、音楽なの?」という感想がでてきても不思議ではない。フレーズはメロディという一般的なイメージには合わず、単に数個の音が続いているだけで、まとまった節に聴こえない(うたわない)。爆音のような音がむき出しでがなりたてている。そこで、かろうじてビートだけが単調に響いている。そんな感じではないかと思う。
 それは、ひとつにはドルフィーが活躍した1960年代はじめから半ばという時代状況も影響している。ジャズの歴史でいえば、ハード・バップは下火になり、大衆音楽としてのジャズの人気が落ち始める中で、新主流派からフリージャズといった試みがなされていた。そして、ドルフィーは、そのハード・バップからフリージャズへの橋渡しのようなスタンスにいたということだ。フリージャズなどというと、難解で敷居の高い音楽とか、でたらめでギャーギャーいってるだけの音楽とかいったイメージで捉えられているのではないかと思うが、聴いていただいた、ドルフィーの演奏は、それに近い印象を受けるのではないだろうか。
 「そんなののどこがいいの?」素朴にそう問いたくなるだろう。たしかに、ドルフィーの音楽は聴く人を選ぶ、誰にでも受け容れられるというタイプの音楽ではない。
 しかし、その演奏の圧倒的なパワーは誰も認めざるを得ないだろう。騒音にしか聞こえない人もいるかもしれないが、それにしても、そのうるささが並外れていることは否定できないだろう。それが、ドルフィーの特徴のひとつを形作っている。
そのひとつの要素として、ドルフィーの音そのもののユニークさがある。例えば、ドルフィーの吹くアルトサックスは楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどにビリビリと楽器自体が鳴りまくる。そこで響いている音はたとえようもなく硬質で、サックスの音の「芯」だけをそのまま大きくしたような、ギュッと中身の詰まった音。音にゆとりがないというか、遊びの部分がなく、聴いていると切迫感がある。うっとりと身を任せたくなるような心地よさなど微塵も感じさせない愚直なまでにシリアスで、そして、でかい、凄い音圧なのだ。とにかく、音をちょっと聴くだけで、あ、ドルフィーだとわかる個性的な音である。フリージャズのアルト奏者のなかには、演っていることはたしかに難解で、時代の先端を行くような立派な演奏かもしれないが、音そのものが貧弱で、フリーキーにブロウしても、その音が爪楊枝のようにこちらをちくちく刺すだけ、というひとがけっこういる。しかし、ドルフィーの音は太い槍のように我々の心臓を貫くのだ。
 そして、メロディになっていない独特のフレーズ。ちなみに、上で説明したようなストレートで心地好さを感じさせない音でメロディをふいても、それに身を任せることができるだろうか。それよりも圧倒的なパワーで力ずくで攻めて来い、といいたくならないだろうか。まさにそうなのだ。あの音で、ビートに乗って、うねるように、巻き込むようにドライブ感に溢れるフレーズが繰り出される。彼独特の咆哮を思わせるような音が跳躍するようにカッ飛んでしまうフリーキーなトーンはデタラメに吹いているように聞こえる。
 例えば、ドルフィーがノッてくると、必ず繰り出してくるパターンがある。それは・・・「パッ・パラ・パーラ・パーラ」というデコボコした起伏を持つフレーズで、ドルフィーは、この1小節4拍のフレーズを、それはもう重い音色でもって、何かが弾け飛ぶような感じで、吹き倒す。そしてこのフレーズが出ると・・・その瞬間、ビートが一気に「解き放たれる」ような感じがするのだ。バンド全体の感じているビート感も一気に爆発するとでも言うのか。そしてそれが、本当に気持ちいいのである。聴く者も突き抜けてしまうのである。だから、ドルフィーは決してデタラメに吹いているわけではない。どんなアルト奏者よりも、「きちんと考えて音を選んで、コントロールしたうえで吹いている」からこそできることなのである。サックスを吹いたことのあるひとならわかるだろうが、あんな極端にオクターブジャンプを繰り返すようなフレーズを吹くのはとてつもないテクニックが必要だ。しかもあのすごい音色であのフレーズを延々と吹き続けるのは、まったくもって人間業でない。
 ドルフィーのアルトのあのフレーズは、いつまでたっても「慣れる」ということがなく、ひたすら我々の心をざわつかせ、いらだたせ、紙ヤスリでこすられるような不安感、不快感をあおる。ドルフィーの音色もそうだが、ドルフィーのフレーズというのもまた、愚直なまでにシリアスである。ソロの出だしを聴くと、ぎゃはははと笑いだしたくなるような演奏なのだが、しだいに「これは笑っていてはいけないのではなかろうか」と思えてき、だんだん聴いているほうも居住まいを正してしまう……そんな音楽である。
 つまり、彼の演奏を聴く者は、聴いているうちに、ドルフィーのデタラメなフレーズのなかに「何か」を見つけて感じとってしまうことになる。同じフリージャズ黎明期の大物プレイヤーであっても、オーネット・コールマンの音楽はどちらかというとわかりやすい。つまり、彼は「そのとき吹きたいように吹く」のであって、言ってみれば、良い意味のデタラメである。そういう気分一発的な演奏というのは、聴く者にとっても、「ああ、もう、わけがわからん」という風にはならず、「なんだかわからないけど、とにかく彼は今、こう吹きたいのだろうな」と納得できる。しかし、ドルフィーの音楽は、どう聴いても、なんらかの楽理に基づいて演奏されているようである。しかし、その理屈がどういうものかさっぱりわからないので、難解ということになってしまう。そこで、ドルフィーの演奏が「何を言っているのかはわからないが、そこには確固としたセオリーが確実に存在していて、音楽総体が発する『意味』は確実にこちらに伝わってくる」という風になっているのだ。

 

At The Five Spot vol.1     1961年7月16日録音
Jazdolphy_five  Fire Waltz
 Bee Vamp
 The Prophet
  Eric Dolphy(as & bcl)
  Booker Little(tp)
  Mal Waldron(p)
  Richard Davis(b)
  Ed Blackwell(ds)
 この録音の少し前に、トランペットのブッカー・リトルが次のようなことを語ったという。「オーネット・コールマンや他の何人かがシーンに登場してきたことはとてもよかったと思う。彼は独自の考えを持っている。つまり、何をすればどうなるかがわかっている。だから、オーネットを批難する人たちの気持ちが理解できない。彼の音楽について論じ合うのはいいと思うけれどね。わたしの場合は、オーネットに比べるとアイディアの面でもっと保守的だ。しかし、彼がやっていることは明確に理解している。そして、それが素晴らしいことも分かっている。やり方さえ分かっていれば、問題など起こらない。純粋に知的な考えに基づいて動く人がいれば、他方では感情にしたがって行動を起こす人がいる。それで、これらの両者が同じ時に同じ場所に到達することもある。思うにバードは、オーネットより演奏面で知的なものを表現していた。オーネットの方は、自分が感じとるものを何でも表現しているように思う。しかし、どちらのやり方も捨て難い」。自身やドルフィーについては触れていないが、当然、オーネットと並べて自分たちを位置付けていたと思うし、その後の録音、つまり、このアルバムでの演奏ではオーネットを意識してか、かなりフリーに近いところにいると思う。
 最初の「Fire Waltz」のアグレッシブなこと。それはオーネットの柔軟さと好対照かもしれず、オーネットの奇妙さというか、プッと吹き出しそうになるユーモラスなところはなく、ドルフィーやメンバーたちのプレイからはシリアスな熱気がストレートに感じられる。ピアノのイントロから、ドルフィーのアルト・サックスによる“ダララ・ラララー・パッパラー”っていう、ほとんど旋律的な上下動のないリズムだけのようなテーマにブッカー・リトルのトランペットのアンサンブルがちょっとだけあって、すぐに続くドルフィーのアルト・サックスは、テーマと何の関連性も見つけられない音の跳躍をしてからフリーに近いようなソロを始める。ここで、少し脱線するけれど今述べた“フリー”というのは若干説明を要する。ガイドブックやライナーなんかではひとこと“フリー”とか書かれていて、それを表面的に流し読みして分かった気になってしまっているけれど、ここでのドルフィーやリトルのソロで即興的に吹いているフレーズは、ほとんどすべて終止形になっていない断片なのだ。彼ら以前の、パーカーやその他のバッパーたちのアドリブは、原則としてメロディが終わったと聴く者が感じる形、それは調性でいうと基音に戻るという形になるのだが、私たちが会話をしていて互いに自分のしゃべっていることが終わるというのは、言い切りの形をとって、それを相手が分かって、そこで替わって相手がしゃべり出す、そういう決め事のようなものだ。それを音楽では有節形式という。要は節回しが終わったということで、それを聴く者は、その終止形でひとまとまりのメロディと理解して聴いている。しかし時には、パーカーだってそういう終止形にしないこともあるが、それは一時的な効果を狙ったり、ほかの楽器とのアンサンブルでトランペットが引き継いで終止形にしたり、あるいはあえて省略して終止形を聴く者に想像させたりするという捻り技なのだ。だから、聴く者はパーカーが即興的に吹くフレーズを味わったり、楽しんだりするのだ。しかし、ここでのドルフィーやリトルはそういったフレーズを終わらせる終止形をとらずに、投げ出してしまう。だから聴いている者はメロディになっているのか分からない。会話をしていて、相手の話していることが終わったのかどうか分からない宙ぶらりんの状態がずっと続いているのだ。しかも、ドルフィーの凄いのは、そこで聴く者がそのように分からないうちに、置いてきぼりにして、すでに次のフレーズに移ってしまうのだ。この演奏のスピード感は、そこに由来すると思う。しかも、ドルフィーの演奏はリズムが大きく揺れる。こんな演奏ではふつう、音楽として崩壊してしまうはずだ。しかし、そうはならない。だから、この演奏はビンビンに緊張感が高い。現実に演奏が崩壊していないのは、バックのリズム・セクションのおかげだ。パタパタとスネアの音数か多いドラムと、中音域を多用したマイナーコードでリズムを刻むピアノは規則的な繰り返しに終始している。そこにはバップの柔軟なノリはなく、機械的なビートに近い。その規則的な刻みが音楽を形にしている。実際のところ、ドルフィーやリトルはこのビートとは無関係に勝手にプレイしているところがままある。それがこの演奏の自由さであり、かつ音楽としてのまとまりが崩壊しないで踏みとどまっていられるところなのだ。しかし、本当に凄いのは、この後だ。演奏の後半、このリズム・セクションが、ドルフィーとリトルに煽られて煽られてか、どんどん捻れて、限りなくフリーに近い、自由度の高いリズム・セクションに変貌していくのだ。例えば、パルシブなピアノのマルが、捻れながらメロディアスに、限りなくフリーに近いソロを後半で演っているのだ。この演奏が、どうして終わることができたのか、今までに数え切れないほど、この演奏を聴いてきたが、未だに分からない。
 2曲目の「Bee Vamp」はブッカー・リトルの曲で、ABACABAという複雑な構成の曲で、小節割りは8-4-8-8-8-4-8になっている、解説されている。例えば、リトルのトランペットとマルのピアノのテーマの受け渡しと伴奏のようなソロのとりあいに、ドラムスのスネアが断片的に挿入してくる。ポリリズムのような重層的なリズム構成などは、リトルの志向性だろう。まるで、近現代のクラシック音楽の精緻な構成をみているようだ。
 そして3曲目の「The Prophet」では、ドルフィーとリトルのユニゾンによるテーマから、ベースとドラムのユニットとピアノ間の異なるリズムの作り出す複合ビートの上で、ドルフィーのアルト・サックスが異質と言っても良い。どうやって思いつくのか判らない、思いっきり捻れた、グネグネなアドリブ・フレーズ。この宇宙人的なフレーズを連発するドルフィーに相対するブッカー・リトルのトランペットも対抗するように吹きまくる、意外と端正なリトルのトランペット。この適度に崩れながらの端正さがドルフィーとの相性抜群に進んでいく。

2020年11月 1日 (日)

ジャズを聴く(53)~スタン・ゲッツ「Stan Getz At The Shrine」

 スタン・ゲッツのプロフィールを簡単に見ていきましょう。
 スタン・ゲッツは、これまでを通じての最も偉大なテナー・サックス奏者の一人で、かつてなかったほどの美しいトーンを有していたことから「ザ・サウンド」と称せられている。ゲッツは主に初期のレスター・ヤングから影響を受けながらも、とどまることなく進化を続け、大きな影響を与える存在にまでなった。
 ゲッツは、まだティーンエイジャーのうちに第二次世界大戦で多くのミュージシャンが徴兵されたために不足が生じたのを捉えて、メジャーなスイング・ジャズのビッグ・バンドでプレイすることができた。16歳になった1943年、ジャック・ティーガーデン楽団に加入、そして1944~45年にはスタン・ケントン、1945年にはトミー・ドーシー楽団と渡り歩いた。その間、ベニー・グッドマンとも、数回、ソロでレコーディングに参加している。ゲッツは1946年7月にでリーダー・アルバムでレコード・デビューを果たし、4枚のタイトルで残されている。第2期ウッディ・ハーマン楽団(1947~49年)在籍時にズート・シムズ、ハービー・スチュワード、セルジュ・チャロフとともにオリジナルの「Four Brothers」でソロをとり、「Early Autumn」でバラードの彼の特徴が開花したことなどで、その名が広く知られるようになった。(当時のウッディー・ハーマンは”ファースト・ハード”と呼ばれるニール・ヘフティー(arr&tp)の生み出すビバップスタイルのバンドを解散し、次の活動に向けて人材を探している状態で、そんな折にロサンジェルスのクラブで見つけたサックス4人のアンサンブル。彼らアンサンブルをビックバンドのウィンドセクションとしてそのまま組み込んで生まれたのが”セカンド・ハード”だった。)ハーマンのもとを去った後、フィルハーモニックでの数回のジャズイベント以外では、死ぬまでリーダーとしてプレイし続けることになる。
 1950年代前半、ゲッツの自身の音楽的アイテンテティを構築するためにレスター・ヤングの影響から脱皮すると、すぐにジャズメンの中でも最も人気のあるミュージャンとなっていった。1950年、ホレス・シルバーを見い出し、数か月間カルテットに引き入れる。1951年のスウェーデン・ツァーの後、ギタリストのジミー・レイニーと共演する刺激的なカルテットを作った。そのカルテットでは、アップテンポの曲での二人のインタへプレイやバラードでの音色のハーモニーは全く忘れられないものとなった。ジミーの「Moonlight in Vermont」ヒットには、ゲッツのプレイでサポートしている。1953~54年ボブ・ブルックマイヤーの加入によりクインテットとなった。そして、その10年間のうちに、何度か麻薬問題があったにもかかわらず、ゲッツの人気は落ちなかった。1958~60年はヨーロッパで過ごした後、米国に戻り、テナー・サックス奏者として彼自身が個人的に大好きだったアルバム「Focus」をアレンジャーであるエディ・ソーターの楽団とレコーディングしている。それから、1962年2月に、チャーリー・バードと「Jazz Samba」をレコーディングした。その中の「Desafinado」の演奏は大ヒットし、これはボサノバの先駆けとなった。次の年、ゲイリー・マクファーランド楽団、ルイス・ボンファ、ローリンド・アルメイダとボサノバ風のアルバムを制作し、それは彼として最高のセールスを記録した「Getz/Gilberto」となった。それは、アントニオ・カルロス・ジョビンとジョアン・ジルベルトとのコラボレーションで、アストラッドとジョアン・ジルベルトのボーカルをフィーチャーした「he Girl from Ipanema」によるところが大きかった。
 ゲッツはそれからの10年間はボサノバにこだわったが、その一方で彼のプレイは抑制的になり、ジャズとしては挑戦的な選択をしている。この時代の彼のレギュラー・グループはビブラフォンのゲイリー・バートンが加入したピアノレスのカルテットだ。1964年にはビル・エヴァンスとレコーディングし、1967年にはチック・コリアと古典となってしまったアルバム「Sweet Rain」を制作している。1966~80年のゲッツのレコーディングのすべてが重要だとは言えないが、彼が新しい可能性に挑戦することを恐れないでいることは明らかだ。1971年のオルガンのエディ・ルイスとの「Dynasty」、1972年のチック・コリアとの「Captain Marvel」、1975年のジミー・ロウルズとの「The Peacocks」等は評価が高い。1977年にカルテットでピアニストのジョアン・ブラッキーンを起用した後で、キーボードのアンディ・ラバーンをフィーチャーした新たなユニットでフュージョン・ミュージックの可能性を検討している。ゲッツの2曲でエレキ楽器を試みたが上手くいかなかった。しかし、その試み自体には価値がある。しかしながら、1981年に彼がコンコードでサインし、アコースティク楽器のみで演奏し始めたことは、従来の彼のファンを安心させた。最近のゲッツのサイド・メンはピアノのルー・レヴィの他、ミシェル・フォアマン、ジム・マリニーリー、ケニー・バロンだ。彼の最後のレコーディングは1991年の「People Time」となった。息の若干の短さにもかかわらず、バロンとの素晴らしいデュエットだった。

 

Stan Getz At The Shrine   1954年11月8日録音
Jazgetz_shrine  Flamingo
 Lover Man
 Pernod
 Tasty Pudding
 I'll Remember April
 Polka Dots And Moonbeams
 Open Country
 It Don't Mean A Thing
 We'll Be Together Again
 Feather Merchant
   Stan Getz(ts),
   Bob Brookmeyer(vtb)
   John Williams(p)
   Bill Anthony(b)
   Art Mardigan(ds)

 

 「Flamingo」やたら調子のいい司会の紹介のあと、ピアノの短いイントロに続いてテーマがゲッツとブルックマイヤーのアンサンブルで軽快に始まると、2管の絡み合いから抜け出すように、テーマから派生するようにフレーズが次々に紡ぐように連なっていく。それも中音域のされほど広くない範囲で、どうしてこんなできるのか、というほど自然にメロディが出てくるようだ。その間、テンポは落ちることなく、快速ペースはピアノに引き継がれる。「Lover Man」ではミディアムテンポで2管のアンサンブルでテーマが吹かれるが、ブルックマイヤーに席を譲りながら、アドリブでも2管の絡み合いは続き、後半はゲッツのソロとなるが、スローナンバーにも、適度にオカズを加えながら、上手くブルックマイヤーが絡みやすい間を作ったりするが、もとのテーマがそれほどいいとはいえないので、その展開という行き方をするゲッツはスター時点でハンデを負ったのではないか。次の「Pernod」は軽快なテンポに戻るが、ゲッツはスローバラードよりも、軽快なアップテンポに美メロを乗せて、そのスピード感によってセンチに堕したり、重くなったりするのを避けるのが一番やり易いのではないか、思う。別のところでも触れたが、ゲッツは閃きの人なので、テンポがゆっくりすると、余裕が生じて余計なことを考えてしまってしまうように思う。速いテンポで煽られると、閃きに頼らざるを得なくなって、センスが研ぎ澄まされていくのではないか。
 これは、私個人がゲッツの録音を聴いた印象でだけ述べることなので、スタン・ゲッツという人が実際にどうであったといった実証的な事実とは無関係な妄想と思ってほしい。このページのどこかで、ゲッツは即興のなかで美しいフレーズを閃いてしまうのではないかと述べた。そして、普通であれば、そういう閃きの創造の泉というようなものは、殆どない人もいれば、あったとてしも常時こんこんと湧いてくるようなことはない。だからこそ、泉が湧いてくるように苦労したり、苦しんだりする。普通、ミュージシャンがする苦労とか苦悩というのは、なかなか湧いてこない泉から何とか水をくみ上げようとする点にあると思う。そうやって苦労して組み上げた水だからこそ、大事に扱うともいえる。時に何度も使いまわして、賞味期限を過ぎて腐らせても捨てようとしない人もいる。ところが、ゲッツの場合は、そういう苦労の必要がなかったのではないか。とくに苦労しなくても、普通に閃いてしまう。しかも、湧いてくるフレーズが、みんな他の人にはない美しいものなのだ。まさに天才なのだ。それで本人はいい。けれど、そんなのが一緒にグループを組んでいる中にいたとしたら周囲のメンバーはどうだろうか、やりにくいったらありゃしない。何せ、こっちが苦労してようやく手にしたフレーズを、ゲッツは今思いついたなどと言って、いとも簡単にそれを超える美しいフレーズを吹いてしまうのだから。さらにいえば、それを聴かされる聴衆はどうだろう。美しいフレーズの連続攻撃についていけるだろうか。その都度、その美しさに酔っているうちはいいが、だんだん満腹してしまって、もういいということにならないか。飽きるというのではない。ゲッツの作り出すフレーズの美しさは、そんな生易しいものではない。飽きることができるなら、食傷して受け容れなくて済むのだから。しかし、ゲッツの音楽は美しいのだ、だから飽きることなく、聴けば受け容れてしまう。つまり、受け容れないことを許さないのだ。これは、満腹しても、腹が破裂しても、食べることを止められないような、地獄だ。何か、すごく大げさな書き方になってうそ臭いと思う人も多いかもしれない。これは、極端な書き方かもしれないが、ゲッツの音楽の美しさには、このような恐ろしさと裏腹の危うさがあると、私には感じられる。だから、彼のプレイは、一緒にプレイしているメンバーたちと、息が合いながらも、適当にゲッツの閃きに歯止めを欠けているようなものが一番聴き易いのではないかと思う。だから、アップテンポの快速ナンバーで、ゲッツが閃くいとまをあまり与えないものが、抑制されたバランスの取れた聴き易い演奏になっていることが多いと思うのだ。 

2020年10月15日 (木)

ジャーニー「フロンティアーズ」

11112_20201015214801  1970年代終わりごろ、ロンドンとニューヨークでパンク・ロックと後に言われるバンドたちの活躍が目立ち始めた。当時の欧米の不景気が低所得者層に厳しい状況となったという社会状況と、ロックの音楽的進化が低所得層の若者がノレる、思いを託せる単純さや活力を失って、他方で商業化されたという音楽状況に対するアンチの動きと解釈できる。そのパンクはニューウェイブへと連なっていくが、他方で、アンチにされた従来のロックの中でも、ハード・ロックやプログレッシブ・ロックの要素を巧みに採り入れ、大音量で多数の聴衆を動員するライブをして、大袈裟なアレンジで大仰に盛り上がり、類型的なメロディで聴き易い、まるでマーケティングして、若者の時にロックに親しんだ世代が大人になって購買力がある人々の生活の中で親しみやすいという特色の巨大なセールスを上げたバンドが現われた。それらを総じて、当時の”ロッキング・オン誌”の渋谷氏が産業ロックと呼んだ。その呼称には揶揄が多く含まれていた。ジャーニーはその代表的なバンドとされた。1983年にリリースされた8枚目のアルバムで、彼らの最も勢いのあった時期のアルバム。最初の「セパレート・ウェイズ」は、そういう皮肉の眼を跳ね飛ばすような自信と気合のこめられたナンバーで、今でも、テレビドラマやショーのBGMで効果的に使われるので、どこかで聴いたことがあると思う人もいるだろう。ギターのニール・ショーンはサンタナと張り合った天才少年だった輝かしい実績の才能を発揮し泣きのギターをキメ、ボーカルのスティーブ・ペリーは広い声域の澄んだ声を聴かせ、バラードでは、しっとりと歌い切る。言ってみれば、文句のつけようのない。けれど、パンクの側から見れば、挑戦的でないんだよねっていうことになるのだけれど、ひとつの到達点であることは確か。ジャーニーは前作の「エスケイプ」というアルバムからは、多数のシングル・ヒットが生まれている。この2点が代表作ではないかと思う。

2020年10月 4日 (日)

ジャズを聴く(52)~ソニー・ロリンズ「SONNY ROLLINS VOL.2」

Jazrollins_vol2 Why Don't I?
Wail March
Misterioso
Reflections
You Stepped Out Of A Dream
Poor Butterfly

 Sonny Rollins (ts)
 J.J. Johnson (tb)
 Horace Silver (p)
 Thelonious Monk (p)
 Paul Chambers (b)
 Art Blakey (ds)

 煽るブレイキー。この勢い溢れる焚きつけっぷり。これによって煽られまくったロリンズは、一音でも多くの音を吹きたくて吹きたくてたまらなかったのだろう、ドラムスとの4小節交換の箇所など平気ではみ出しまくっているし、このはみ出しっぷりが逆に演奏にものすごい推進力を生みだしている。しかも、ロリンズだけではなく、冷静な印象の強いトロンボーンのJ.J.ジョンソンも音の速射砲さながらに丸太い音を連射する。ブレイキーに煽られてか、はたまたブレイキーに煽られたロリンズに感化されてか、とにもかくにもJ.J.もノリノリ元気。この豪快な勢いで燃え盛る炎に向けて、もっと燃えろとばかりに火をくべ、団扇で煽りまくるのが、名手ホレス・シルヴァーのピアノと、ポール・チェンバースのベース。こうなると、ロリンズの快進撃は止まらない。そこに乱入する、セロニアス・モンク。
 最初の「Why Don't」。メンバー全員が一丸となったテーマ吹奏が、いきなり強烈で、この冒頭のトゥッティのキメの短いリフを随所の節目節目に折り込みながら、最初からロリンズのソロは全開に縦横無尽に暴れるように豪放に吹きまくる。続くJ.J.ジョンソンが冷静ながら、テンポとテンションを落とさないでいると、背後からアート・ブレイキーのドラムが迫るように煽る。しかし、これは最初の小手調べ。次の「Wail March」アート・ブレイキーが十八番のマーチドラミングのイントロで一発カマしてから、力強いテーマが始まり、すぐさま高速4ビートで J.J.ジョンソンがスーパーテクのアドリブを聴かせる。しかも背後ではアート・ブレイキーが襲い掛かるように煽る。続くロリンズは、最初からブローを繰り広げる。ここでのロリンズは吹きたくてしょうがないという風情。3曲目の「Misterioso」では、セロニアス・モンクが乱入して、なんと1台のピアノをホレス・シルヴァーとセロニアス・モンクの2人が弾いたという。曲はモンクのオリジナルで、最初セロニアス・モンク自身がピアノでミステリアスなメロディをリードし、ホーン隊が加わっての合奏から、ロリンズが全く異質なフレーズで乱入しムードを描き回しているのに、ちゃっかりバックでモンクがリードしている、この2人の駆け引きは凄い。続く、ピアノ・ソロはモンクで、ロリンズに輪をかけて異質なフレーズをぶち込んで、コードワークは大混乱の様相のはずなのに、といっているうちにピアノの調子が変わり、ぐっとファンキーに。しかし、よくもこんな脈絡のない展開にリズムをつけられると感心しているうちにロリンズのソロとなってハード・バップ調になんとも閉じた後、モンクのピアノが最初の調子に強引に持って行って、本当に終わったの?次の「Reflections」のモンクのオリジナルで、モンクのピアノから始まる。ロリンズがメロディを朗々と吹いてアドリブのオカズを広げていくと、モンクはそのメロディの情感をはぐらかすようなピアノで、そこにアグレッシブに切れ込むロリンズのサックス。これがスリリング。スローバラードなのだろうけれど、このスリルと緊張はただ事ではなく。先の予想がつかない。次の「You Stepped Out Of A Dream」では、明らかにモンクとは違うホレス・シルヴァーのファンキーなピアノが、なんと安心を誘うのだろう。そこから、軽快なテンポでハード・バップなアドリブをロリンズが快速にとばす。最後の「Poor Butterfly」はテンポをおとしたミディアム・ナンバー。これも凄い演奏なのだけれど、モンクの乱入の次元の異なるプレイから、ようやく安心して終わることができた、というところ。

2020年9月19日 (土)

ジャズを聴く(51)~スタン・ゲッツ「Stan Getz At Storyville 」

 村上春樹はスタン・ゲッツについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 
 「スタン・ゲッツは情緒的に複雑なトラブルを抱えた人だったし、その人生は決して平坦で幸福なものとは呼べなかった。スチームローラーのような巨大なエゴを抱え、大量のヘロインとアルコールに魂を蝕まれ、物心ついてから息を引き取るまでのほとんどの時期を通して、安定した平穏な生活とは無縁だった。多くの場合、まわりの女性たちは傷つき、友人たちは愛想をつかせて去っていった。しかし生身のスタン・ゲッツが、たとえどのように厳しい極北に生を送っていたにせよ、彼の音楽が、その天使の羽ばたきのごとき魔術的な優しさを失ったことは、一度としてなかった。彼がひとたびステージに立ち、楽器を手にすると、そこにはまったく異次元の世界が生まれた。ちょうと不幸なマイダス王の手が、それに触れるすべての事物を輝く黄金に変えていったのと同じように。そう、ゲッツの音楽の中心にあるのは、輝かしい黄金のメロディーだった。どのような熱いアドリブをアップテンポで繰り広げているときにも、そこにはナチュラルにして潤沢な歌があった。彼はテナー・サックスをあたかも神意を授かった声帯にように自在にあやつって、鮮やかな至福に満ちた無言歌を紡いだ。ジャズの歴史の中には星の数ほどのサキソフォン奏者がいる。でもスタン・ゲッツほど激しく歌を歌い上げ、しかも安易なセンチメンタリズムに堕することのなかった人はいなかった。僕はこれまでにいろんな小説に夢中になり、いろいろなジャズにのめりこんだ。でも僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説であり、スタン・ゲッツこそがジャズであった。あらためて考えれば、この二人のあいだにはいくつかの重要な共通点が見いだせるかもしれない。彼ら二人の作り出した芸術に、いくつかの欠点を見いだすことはもちろん可能である。僕はその事実を進んで認める。しかしそのような瑕疵の代償を払わずして、彼らの美しさの永遠の刻印が得られることは、おそらくなかっただろう。だからこそ僕は、彼らの美しさと同時に、彼らの瑕疵をも留保なく深く愛するのだ。
 僕がもっとも愛するゲッツの作品はなんといってもジャズ・クラブ<ストリーヴィル>における二枚のライブ盤だ。ここに含まれている何もかもが、あらゆる表現を超えて素晴らしい。月並みな表現だけれど、汲めども尽きせぬ滋養がここにはある。たとえば「ムーヴ」を聴いてみてほしい。アル・ヘイグ、ジミー・レイニー、テディー・コティック、タイニー・カーンのリズム・セクションは息を呑むほど完璧である。とびっきりクールで簡素にして、それと同時に、地中の溶岩のようにホットなリズムを彼らは一体となってひもとく。しかしそれ以上に遥かに、ゲッツの演奏は見事だ。それは天馬のごとく自在に空を行き、雲を払い、目を痛くするほど鮮やかな満天の星を、一瞬のうちに僕らの前に開示する。その鮮烈なうねりは、年月を越えて、僕らの心を激しく打つ。なぜならそこにある歌は、人がその魂に密かに抱える飢餓の狼の群を、容赦なく呼び起こすからだ。彼らは雪の中に、獣の白い無言の息を吐く。手にとってナイフで切り取れそうなほどの白く硬く美しい息を…。そして僕らは、深い魂の森に生きることの宿命的な残酷さを、そこに静かに見て取るのだ。」

Stan Getz At Storyville   1951年10月28日録音

 Jazgetz_live Thou Swell
 The Song Is You
 Mosquito Knees
 Pennies From Heaven
 Move
 Parker 51
 Hershey Bar
 Rubberneck
 Signal
 Everything Happens To Me
 Jumping With Symphony Sid
 Yesterdays
 Budo

  Stan Getz (ts)
  Al Haig(p)
  Jimmy Raney (g)
  Teddy Kotick (b)
  Tiny Kahn (ds)

 もともとLPレコードでは二枚組だったものが、CD化に際して1枚にまとまったもの。上で村上春樹の文章を引用しているけれど、彼はこのライブ録音を手放しで絶賛している。彼は、何らかの思い入れもあるのだろうけれど、そういうものと関係なく、とにかくプレイを聴けば、ゲッツは、クール、洒脱に、美しいメロをとにかくまきちらすようにサックスを吹いている。中域~高域にかけて、甘いメロディを疾走する。そこには障害など何もないかのように、後のモダンジャズのプレイヤーのように突っかかったり、停滞したり、ブローしたりして重くなる事なく、「優しい管楽器」として、テナー・サックスを操る。均整がとれていて、温かみを感じさせるもので、しかしどこかヒヤリとした感覚を秘めていて、開放的にパッパラパパラとぶちかますような音楽とは正反対の、夜の音楽――深夜のクラブで、手だれのバックバンドを従え、クールネスとメロディアスを同時に表現するような音楽と言える。
 最初の「Thou Swell」では、音色の変化を楽しむかのように、まるで奏者が2人いて掛け合いをしているような、一人でボケとツッコミを違った音色でやっているさりげないユーモアは、リラックスした雰囲気をつくり上げる。「The Song Is You」では軽快にテンポが速まり、ギターが絡みながら、2本ホーンの掛け合いのようなテーマ提示の後、快速のアドリブ展開が、肩の力が抜けた、柔らかいビロードの流れのような滑らかに推移するのが圧巻。踊るように、歌うように・・・。続く「Mosquito Knees」も快速ナンバーで、畳み掛けてくる。ここでのゲッツのフレーズのスピード感、小気味よい音数の多さは、そういう意識はないかもしれないが、後年のバップのバトルに参加してもひけをとるものではないだろう。しかも、その細かな速いフレーズが歌っている。5曲目の「Move」は引用した村上春樹も絶賛しているが、リズム部隊と一体となってゲッツが疾走しているナンバー。その疾走の中から「パッパラパー」みたいな細切れに出てくるフレーズがすべて歌うようなのだ。そこに単に速いだけのスピードとテクニックだけを誇示するようなところは皆無なのだ。だから、楽しい。そしてvol.1のラスト「Parker 51」で、さらに加速し、全員がスピードの限界辺りを果敢に突き進んでいて、ゲッツは様々なアイディアを繰り出してくる楽しさは特筆ものだ。2曲続けて限界ギリギリのスピードでプレイしているにもかかわらず、熱血のような熱さとか激しさを、ほとんど感じさせずに、洒落ですよみたいな軽快で涼しげに聴こえてきてしまう。実は、ギターもメロディアスだし、リズム部隊も変則的なリズムをとったりと、様々にゲッツに仕掛けていて、ゲッツはそれに応えるように、アドリブの本領を発揮している。
 当時のゲッツの音色は、音が小さく、か細い感じで、力強さに欠ける。例えば、50年代後半のソニー・ロリンズと比べれば、柔らかいのだろうけれど音がスカスカ抜ける「ヒョロヒョロ」とでも形容したくなるものだ。しかし、ロリンズの音は力強くゴツゴツした黒人的なハードバップには適しているが、ゲッツの音は目指す方向が違うものなのだ。
ゲッツは、独特の柔らかくて肌理(きめ)の細かい肌触りのいいシルクのような音色で、テーマの元メロディを生かしながら自在に展開させてセンスのいいとしか言えないフレーズを繰り出してくる。多分、この粋なフレーズは直感的な閃きのように自然に湧き上がってくるような類のものだ。このような「閃き」を生かす~という点では、ソニー・ロリンズと同じタイプ(音色やフレーズは全く対極だが)かと思う。そうして・・・いい「閃き」が湧いた時のゲッツは・・・本当に凄い。テーマの部分では元のメロディを崩したりもするが、しかしそれは元メロディのツボをちゃんと生かしたようなフレーズであって、そしてひとたびアドリブに入れば、ゲッツはもう吹くのが楽しくて仕方ない・・・という風情で、迷いのない、そして見事に歌っているフレーズを次々と繰り出してくる。スローバラードでの叙情溢れるフレーズももちろん素晴らしいのだが、急速調でのスピードに乗った淀(よど)みのないフレージングときたら・・・それはもう、本当に生き生きとした音楽がそこに立ち現われる。
 ゲッツの吹くフレーズには理論で分析したような跡はまったくない。閃きによって生まれた自然なフレーズを、あたかも「そういう音しか出なかった」ように思える自然な音色で吹く・・・。これら2つの要素がまったく違和感なく、ごく自然に溶け合っている。つまり、ゲッツは、自分の音色に合うフレーズを自ら生み出したのだ・・・いや、自分のフレーズに合う音色を創り出した。そうして、ひとたび彼がテナーを吹けば、それがテーマであってもアドリブであっても・・・そこには本当に「自然な歌」が溢れ出るのだ。

2020年9月 5日 (土)

ジャズを聴く(50)~スタン・ゲッツ「STAN  GETZ  QUARTETS」

Jazgetz  スタン・ゲッツの特徴として、まずあげられるのは彼のテナー・サックスの音だ。同じテナー・サックスでもソニー・ロリンズのようなすーッと伸びるような、太くて、広がりのある、どちらかというゴツゴツした音色と比べると、ゲッツの音色は細くて、ヒョロヒョロした感じに聞こえる。それは、ロリンズには力強さでは及ばないものの、柔らかくて肌理の細かい滑らかな音色といえる。とくにゲッツは高音域を多用したので、なおさら、その印象が強くなっている。ロリンズのような吹き込んだ息をすべて音にして大きく鳴らそうとしていない、その代わりに、その音になっていない息が様々な働きをしている(例えば、耳に聞こえないけれどα波は気分をリラックスさせる、ゲッツの音とは直接関係ないけれど)、そういう音の出し方をしているということだ。
 そして、彼の演奏の仕方、つまり彼の即興は、圧倒的な「今・ここ」の感覚なのだと思う。先取りでもなく後付けでもなく、即興によって音楽が生成されていく瞬間をそのまま聴き手に提示してしまい、それがこの上なく美しい音楽になっている、という奇跡的なものだ。瞬間的な閃きによって、分かり易く美しいメロディが自然に湧いてくるというもので、漫然ときいてしまうと、その完璧さに即興的に紡ぎだされたことが分からないほどなのだ。あまりに自然なために、チャーリー・パーカーのアドリブで目の当たりにするような先行きの分からないようなスリルや緊張感を直接ぶつけられるようなことは表面的には、ない。それが、ゲッツが「クール」と呼ばれる所以なのではないか。
 そして、彼の即興演奏の作り出すフレーズが音楽的な美しさだけで勝負しているということだ。そこには情緒的な要素、センチメンタルな甘いメロディとかマイナー・コードの効果に頼るとか、あるいは、ビブラートとか陰影といった音の装飾をつける、というような一種のごまかしをしていない、ということだ。だから、冷たいと言われるかもしれないが、彼の紡ぎだすメロディは純粋に美しい。 

 

STAN GETZ QUARTETS

Jazgetz_quart  There's A Small Hote
 I've Got You Under My Skin
 What's New
 Too Marvelous For Words
 You Steeped Out Of A Dream
 My Old Flame
 My Old Flame (alternate take)
 Long Island Sound
 Indian Summer
 Mar-Cia
 Crazy Chords
 The Lady In Red
 The Lady In Red (alternate take)
 Wrap Your Troubles In Dreams

 

 #8,9,10,11  1949/06/21
  Stan Getz (ts)
  Al Haig (p)
  Gene Ramey (b)
  Stan Levey (ds)
 #1,2,3,4   1950/01/06
  Stan Getz (ts)
  Al Haig (p)
  Tommy Potter (b)
  Roy Haynes(ds)
 #5,6,7,12,13,14  1950/04/14
  Stan Getz (ts)
  Tony Aless (p)
  Percy Heath (b)
  Don Lamond (ds)
 スタン・ゲッツという人は、誤解を恐れずに言えば、スタイルは全く異なるソニー・ロリンズもそう思うが、天然とても言うしかないその場の思いつきで即興的に素晴らしいフレーズを次から次へと繰り出してしまえる天才であると思っている。ゲッツは活動期間も長く、その間に紆余曲折もあり、プレイスタイルも変遷したが、そのベースは変わっていないと思う。そして、そういう思いつきをストレートに、それだけの1本勝負で体当たりのプレイをしているのが、初期の録音に残されていると思う。とはいっても、このアルバムのサウンドは体当たりのプレイ等という言葉から連想されるド根性の熱血とはほど遠い、スマートで洗練された儚げなサウンドを堪能できる。
 最初の「There's A Small Hotel」から4曲目の「Too Marvelous For Words」が1950年1月に録音されたもので、どれも、素晴らしいプレイを聴くことができる。「There's A Small Hotel」ではアル・ヘイグの湿り気を帯びたようなピアノのイントロがなんとも歌心のあるもので、その軽快なテンポに促されるように、スウィンギーなリズムに乗って流麗なゲッツのソロが浮遊するように、多彩な音色を駆使して、音色が変わるたびにフレーズも変わって、まるで複数のゲッツがプレイしているようなめくるめく眩惑的なプレイを堪能させられる。3曲目「What's New」は人気のバラードだが、ゲッツのか細い、柔らかい音が儚さを際立たせるが、けっしてヤワではなく、その即興は譜面通りに吹いていると思うほど完璧に感じられ、むしろ遊びがないと感じられるほどだ。
 5曲目の「You Steeped Out Of A Dream」から7曲目の「My Old Flame (alternate take)」そして、12曲目の「The Lady In Red」以降の曲は1950年4月に、前とは違うメンバーで録音され、マイクの位置やスタジオ、機材が違うのか、音質が異なって、デッドな響きでゲッツのサックスが近くにダイレクトに聞こえてくる。この録音は、ほかの柔らかでほんわりした音質とは少し異質だが、「You Steeped Out Of A Dream」はスタン・ゲッツ畢生の名演とされた決定的なバージョンと言われる。ソフトにかすれる音色で穏やかなテーマをアドリブで、その湿り気を帯びたムードを壊さぬようにしながら、これでもかというほどフレーズを繰り出してくるさまに圧倒される。
 8曲目の「Long Island Sound」から11曲目の「Crazy Chords」は1949年6月の録音で、「Long Island Sound」の軽快なテンポのナンバーでは、少し熱くなるようなプレイで、次の「Indian Summer」ではミディアムテンポながら、控えめにブローするような一幕もあって、この時に録音されたプレイは総じて熱い力が入っているような感じだ。
 スタン・ゲッツは白人による天才的なテナー奏者、クール・ジャズの創始者といったレッテルが貼られ、この録音はその初期のクール・ジャズの絶頂期の記録とか言われても、後のモダンジャズのプレイを聴きなれた耳からは、曲は短くてあっけなく終わってしまうし、肝心のゲッツの音はスカスカで弱々しい印象で、ハードさが足りないように感じられないか。クラシック音楽でいえば、マーラーやブルックナーなどの後期ロマン派の規模の大きく、長大な交響曲を聴きなれた耳でモーツァルトを聴いた時に感じる難解さに近いかもしれない。巷のジャズのガイドブックなどでも、聴きにくいとして、ゲッツの録音では、後年のボサノバをプレイしたアルバムがヒット作ということもあり、このような初期の録音は参考程度の紹介でお茶を濁しているケースが多い。

2020年8月12日 (水)

ジャズを聴く(49)~ソニー・ロリンズ「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD」

村上春樹はロリンズについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 
 ロリンズのテーマのメロディの崩し方、あるいは自由な間の取り方は、優れた歌手がメロディを自由に自分の個性に合わせて崩し、伴奏者にはきちんとリズムを取らせながら、好きなタイミングをとらえて歌に入り、自分なりの間を創造してしまうのに通じている。ロリンズは、それと同じことをサックスで行っているのだ。くずし、間の取り方のうまさに加えて、ほとばしり出るアドリブの奔流が凄まじい。ただ、ロリンズの場合は、嵐のような即興フレーズでも、原曲のイメージとかけ離れてしまわないところが、歌心を称賛される理由である。優れた歌手は、歌を自在に自分の懐に引き付けてしまう。つまり、個性的な表現だ。それは歌い手の声そのものとなって、一つの定型にまで高められるだろう。ジャズでも似たようなことは起こる。優れたジャズメンは楽器を通して自分の声を持っている。ロリンズももちろんそうした一人だ。しかし、本当に即興の精神に忠実なジャズメンは、それを日々新たな、そのときの自分の声としなければ満足しない。つまり、あらかじめ練習し、考え抜いた上で、定型的表現へ向かうということはやらない。一つ間違えれば収拾のつかない混乱に陥ることも恐れず、果敢にそのとき、この世に生まれ出る歌声を求めるのが、ジャズの歌心なのである。

A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD   1957年11月3日録音

 Jazrollins_village Old Devil Moon
 Softly As In A Morning Surise
 Striver's Low
 Sonnymoon For Two
 A Night In Tunisia
 I Can't Get Started

 

 Sonny Rollins (ts)
 Wilbur Ware (b)
 Donald Bailey (b)
 Elvin Jones (ds)
 Pete La Roca (ds)

 

 ブルー・ノートからリリースされた3枚目のアルバム、ピアノレスのトリオを率いてヴィレッジ・ヴァンガードに出演した時のライブ録音である。ライブということもあるのだろう、ここでのロリンズは伸び伸びと奔放にプレイしている印象で、それが聴き手に気持ちよさを感じさせる。だが、凄い演奏をしているのもたしかで、それを聴く者に心地好さを与えてしまうロリンズはすごい。
 最初の「Old Devil Moon」は、有名な『Saxophone Colossus』の「St. Thomas」を彷彿させるような、ラテンのリズムでくだけた調子で、ぶっきらぼうに吹かれるテーマのあとで繰り広げられるロリンズのアドリブは、ドラムのエルヴィン・ジョーンズの煽りも受けて、まさに奔放さ全開。次の「Softly As In A Morning Surise」は、ウィルバー・ウェアのベースのイントロが、まるでベース・ソロのような煽りで、それに応えるようなのか、スタンダードなテーマ・メロディを吃音のようなフレーズで吹くと、しみじみとしたメロディがユーモラスに変貌してしまう。曲全体はイントロからベースが支配して、ロリンズのテーマの吹きようで、ユニークな「Softly As In A Morning Surise」の行き方が、ここで決まったという印象で、ここからベースの煽りにロリンズが時にわざと外したりながらのソロは遊び心満載で、エルヴィン・ジョーンズのドラム・ソロも付き合うようにリズムを時折無視したように間を外して遊んでみせる。これはベースが全体を支配している上での遊びだろうことは、ベースの力強い弾力的な響きからも分かる。ここでのプレイは、とにかく3人とも音圧が凄いのだ。3曲目の「Striver's Low」はロリンズのオリジナル曲で、全編アドリブといっていいほどロリンズは全開のプレイ。その高速のフレーズは、あのジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドにも引けをとらない迫力。しかも、コルトレーンの無機的なのに比べて、ロリンズはメロディアスでもある。「A Night In Tunisia」では、ピアノレス・トリオの編成を採用したことで、ロリンズのこのときばかりともいえる大胆なプレイが聴ける。曲も向いているのだろうけれど、テーマ・パートではひとりでボケとツッコミをやっているような箇所もあって、最初と二番目のコーラスを繋ぐ間奏部分で、オリジナルのコード進行を踏襲しながら大胆にメロディを発展させるところは、凄いとしか言いようがない。最後の「.I Can't Get Started」はバラードで、バラードで締めるというのは、レコードという録音媒体の制約でそうなってしまったというだけなのだろうけれど、ここでのロリンズはライブ録音ということからはやる気持ちもあっただろうが、それを抑えてじっくり自身のフレーズと向き合ってみせる。豪快なプレイに真髄を発揮するロリンズだが、このように落ち着き払った演奏をするときも魅力を放つ。ぶっきら棒に吹き始めるテーマ・メロディが独特の歌心に繋がって、ピアノのコンピングがなくても豊かな楽想を感じさせる。さっきも述べたが、たった3人で、これほどのパワフルな音空間を作り出してくるのに身を任せるように聴いていて、締めはバラードというのは、また最初にもどって聴きたくなる誘惑を抑えきれない。

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