東京都交響楽団1029回定期演奏会Cシリーズ2025年11月
2025年11月29日(土)東京芸術劇場
先月に続いて池袋の東京芸術劇場へ行く。今回は65歳以上の老人割引があるというのでありがたい。受付で身分証明書の提示を求められるかと思って準備していたが、フリーパスだった。
プログラムは
モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ K.261
シューマン:ヴァイオリン協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
で、これはもう明らかにメインはシューマンのヴァイオリン協奏曲で、しかもソリストが庄司紗矢香だから、それで決まり。
最初のモーツァルトは腕慣らしといった軽い曲だが、実演で聴いた庄司のヴァイオリンの音がバックのオーケストラの弦楽セクションとの格の違いを見せつけられるようだった。独奏ヴァオリンとその伴奏という曲だから、どうしてもソリストの音が前面に出てくる。それでも、音の響きの質が別物なのだ。以前にも、いろいろなヴァイオリニストでコンチェルトを聴いたが、こんなにもオーケストラに対して独奏ヴァイオリンの音の響きが突出しているのは、はじめてのこと。小編成オーケストラのモーツァルトからフル編成のシューマンの協奏曲になっても、それは変わらなかった。庄司というヴァイオリニストは力を込めてバリバリ弾くタイプではない。むしろ、軽くサラッと弾くヴァイオリニストなのだけれど、音の響きの質が違うので、オーケストラの音に独奏が埋もれることがない。この人のヴァイオリンの音を聴いているだけでもいいという、そういうヴァイオリニストだと思う。
さて、メインのシューマンの協奏曲。オーケストラの合奏による決然とした開始は、第3交響曲「ライン」のような力強さ。「ライン」が明るく伸び伸びとした曲調なのに対して、こちらは少し強張ったような少し悲壮感が漂う。これが第1主題。その直後に対照的で甘美な第2主題となる。これを、CDなどの録音で聴いていると、オーケストラが“いっせいのせ”と斉奏しているように聞こえるが、ここで聴くと全然違う。弦楽セクションが掛け合いするように、少しずつリズムをずらしながら弾いている。それで、テーマの形の輪郭がぼやけるようになる。それは、オーケストラの配置が対向型、つまり、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが隣り合う一般的な配置ではなく、向かい合う配置になっているためだと思う。これは、指揮者の意図なんだろう。シューマンは、おそらく明確な形を避けた。そういうオーケストラの後に独奏ヴァイオリンが第1主題を弾き始める。ブラームスのヴァイオリン協奏曲にも似た、このヴァイオリンの入りは、ヴィビブラートをたっぷりかけた、いわゆるヴィルトーゾ的な見得を切るような人もいる。しかし、そうすると、この後、この第1主題が何度も、延々と繰り返されることになる。そこがブラームスと違うところだ。そして、この第1主題は、おそらくヴァイオリン向きではない。旋律的でないのだ、歌わせにくい。音が繋がりにくい。むしろピアノ向きというか、タッチや音色で、手を変え品を変え弾き分けていくのに適したようなフレーズなのだ。だから、ヴァイオリニストにとっては弾きにくいのではないかと思う。だから、演奏会で取り上げることは少ない、マイナーな協奏曲だ。それを庄司、入りはサラッと弾く。その後の繰り返しは、無理に歌わせようとしないで、むしろ、ピアノ的なタッチというか音の肌触りというか細かなヴィブラートの変化や音色の微妙な変化で弾き分けていく。しかも、オーケストラからは突出した音の響きで、それは決して、庄司の音が大きいというのではないが、この人のヴァイオリンの音ばかりが突出して聞こえてくるのだ。そうすると、その繰り返しは、まるで独奏ヴァイオリンが独り言をつぶやいているように思えてくる。かつて、グレン・グールドがバーンスタイン指揮するオーケストラの前で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を豪壮なオーケストラの出だしのあと、まるでオーケストラを無視するかのように内省的なモノローグを続けたのを想わせる。ブラームスのピアノ協奏曲第1番にはそういう側面がある。グールドはその側面を引き出し前面に押し出した。そこにはブラームスのもともと持っていた性格があったのかもしれないが、シューマンから引き継いだこともあると思う。そういう内省的な性格が現われているのが、このシューマンのヴァイオリン協奏曲なのだと思う。だから、ここでは、独奏ヴァイオリンに華麗なヴィブラートや甘美な歌いまわしは要らないともいえる。むしろ、そういうのを配して、聞き手に語りかけるような語り口。それが、庄司がここで弾いているヴァイオリンではないかと思う。このあと、例えば第3楽章などは、一般的なヴァイオリン協奏曲ならばロンド主題が繰り返される舞曲のような明るく盛り上がって終わるのだが、この曲では、第1楽章の第1主題に似たテーマが性懲りもなく繰り返され、あっけらかんと尻切れトンボに終わってしまう。それは、軽快にカタルシスを得るのではなく、モノローグを最後まで飽かずに続けるというもの。そして、この演奏では、そのモノローグに付きあうというのが、この曲の大きな魅力であることに気がつかせてくるものだった。あえていえば、共感というものが、その先にある。
後半のベートーヴェンの田園交響曲は、私にはオマケだった。しかし、標題音楽ではなく、交響曲として純音楽的にキチンと演奏しようとしていた。でも、もとがね。こんな曲では…、と。











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