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音楽

2026年7月22日 (水)

読売日本交響楽団 第694回名曲シリーズ演奏会

2026年7月21日(火)サントリー・ホール
001_20260722231801  梅雨明け直後の猛暑の日。今日は神谷町から歩く気がしないので、溜池山王駅からサントリーホールへ。それでも、少しの間の歩きでも、汗ダラダラ。
 プログラムは次の通り、暑っ苦しい。
ヘンツェ:夢見るセバステイァン
ベーメ:トランペット協奏曲
  トランペット マティアス・ヘフス
   アンコール:ブラームスの間奏曲Op.118の2
R・シュトラウス:アルプス交響曲Op.64
  指揮 セバスティアン・ヴァイグレ

 

 前半のヘンツェの晩年の作品は日本初演とのこと。昔懐かしいゲンダイ音楽。大編成のオーケストラで、打楽器なんかがステージからあふれるほど。15分ほどの曲で、不協和音の不安定で暗い感じの部分とオーケストラが咆哮する大音量の部分が交互にくる。響きによる圧倒をねらっているのか、とにかくかき鳴らしている。オーケストラがトレーニングしているみたい。15分で終わったから、まあ、いいか。
 2曲目がトランペット協奏曲。ロマン派のピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲をトランペットでもやってみようという感じの曲。独奏者のトランペットは巧い人だろうと思う。頑張って吹いていた。朗々と高らかに鳴らす、というより、細かなパッセージを流麗に演奏するというのは、一般のトランペットの演奏のイメージを崩すものだったかもしれない。バイオリンが、ヴィルトーゾ風に細かな技巧を流麗にひけらかすのに似ている。でも、それだけかな・・・。トランペットという楽器はロマン派的な情緒的な細かなニュアンスの表現に向いていないということが、却ってよく分かる。そして、曲そのものに魅力あるかな?たんにもの珍しいという、それだけのように思った。
 後半は、R・シュトラウスのアルプス交響曲。交響曲というタイトルですが、交響曲の4楽章形式とか、ソナタ形式といった形式にはなっていません。交響詩です。とはいえ、ティルオイゲンシュピーゲルの愉快ないたずらとか、英雄の生涯といった曲の、ちょこまかしているというか、こまっしゃくれた、といいたくなるようなオーケストラが動き回るようなフレーズが、私には、どうも苦手で、落ち着かないのですが、この曲は、そういうところが少ないので、この人にしては聞きやすい曲といえます。「ヤッホー」とでも聞こえてきそうな2音をモチーフにして、各楽器で持ち回りにして鳴らしまわるような響きで、しかし、ソナタ形式のように展開されるのでも、フーガのように各声部で関係をつくって音楽を構築するのでもなく、いろんな楽器から、そのフレーズが聞こえてきてカラフルだねえ、という曲です。今回の演奏は、そのモチーフを歌わせたり、楽器間での掛け合いをして、有機的に、つまり情緒的に聞かせる、というよりは、はっきりとフレーズを聞かせることに主眼を置いているようで、それだけに劇的なところは後退して、すこし淡白な印象ですが、その反面、響きの多彩さが前面に出る。それだけに、威勢よく鳴らすという、このオーケストラの性格には適した演奏だったと思います。かつてのソ連のオーケストラを聞いているみたいな、音の響きの厚みと圧倒的なボリューム。R・シュトラウスには、このような表層的なボリューム重視の演奏が似合っていると思う。

 

2026年7月 6日 (月)

ハーゲン・クァルテット演奏会

2026年7月5日(日)ミューザ川崎シンフォニーホール
002_20260706114101  ミューザ川崎には、はじめて行く。以前に演奏会に足繁く通っていた頃には、なかった施設。JR川崎駅の改札をでて2階のコンコースをいくと左手に通路があってショッピングセンターのような建物。改札から徒歩5分、その奥に大きな階段を上がるとシンフォニーホール。建物の構造がよく分からない。受付でチケットのチェックを受けると、2階席に向かうエスカレーターが小さくてわかりにくい。2階のロビーは広くて、ホワイエが目立ったりしているのだが、ホールの入り口がわかりにくい。ホールにはいるが、座席のブロック割が細かくて、座席の表示がわかりにくく、自分の席を見つけるのに苦労した。ホールのデザインはステージの四囲を客席が囲むモダンでスタイリッシュな印象。それゆえに、音の通りはよさそうだが、残響はデッドなのではないか。天井が高いし、室内楽だと音が上に行ってしまって、客席には、あまり届かないのかも、心配になる。あとで、実際に演奏を聴いたら、その予想の通りだった。今回は弦楽四重奏の演奏をオーケストラ向けの大ホールで聴く。聴衆のキャパの関係もあるのか、ステージの裏側や両横の席は閉鎖して、ステージの前側の席のみに聴衆を座らせていた。その席は満席の状態。
 プログラムは次の通り。
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番イ短調Op.29-1、D804「ロザムンデ」
シューベルト:弦楽五重奏曲ハ長調Op.163、D956
 このプログラムは30年ほど前に、東京文化会館小ホールでウィーン弦楽四重奏団の演奏会で同じ曲目で聴いたことがあって、あれはシューベルトの歌謡性が前面に出て、その世界に浸りきることができたいい演奏会だった。ハーゲン・クァルテットもウィーン系の人々とのことで、期待していた。実際には、その期待とは、全然異なる演奏会だった。
 前半の「ロザムンデ」四重奏曲。3人の波形のような伴奏に第1ヴァイオリンが主題を始める冒頭。最初の波形が微弱音で、聞こえるか聞こえないかというほど、そこに乗る第1ヴァイオリンもまた微弱音。なんというかモノローグのつぶやき。しかも、この第1ヴァイオリンは、あまり歌わない。一般的なこの曲の演奏では、はじめからシューベルト特有の優しいメロディが曲を進めさせていくというのとは違う。以前聴いたウィーン弦楽四重奏団の演奏とは全くの別物だと、この時点で判明。しかも、この第1ヴァイオリンはメロディをフレーズごとに切るような弾き方で旋律が連なるようなところがない。そして、このフレーズの中で細かく強弱をつけている。それは、フレーズの中で人の息づかいが聞こえてくるような印象。これらが、全体に微弱音でひそやかに、しばらく続く。これは、シューベルトの歌というより、ためらいがちに、フレーズ切れることで、ときに口ごもったりするようにためらいがちに、訥々と内心を呟いているような演奏。この曲の優しく明るい歌というより、重苦しい感じに。パッと音楽が盛り上がるところでは、むしろ沈潜するような感じ。第2楽章の有名な「ロザムンデ」のメロディも全然歌わない。これは、最晩年の未完成交響曲みたいになっている。後半の楽章は、歌が舞踏に移り変わっていって、楽しげなダンスになって軽やかに終わっていくのだが、この演奏では、音量は増えて行くものの、テンポが速くなり、緊張感が高くなるだけという、ちょっと悲愴な感じになる。とても、重い演奏。
 後半の弦楽五重奏曲は、シューベルトの死の直前に、最晩年の「冬の旅」の重い世界を突き抜けた明るい歌をうたった音楽。そうなるのかどうかを期待した。四重奏に加わった五人目のチェリスト北村陽は見下されたというか、ビジターの独奏する方のチェロではなく伴奏の方のチェロをさせられている。ここでちょっといやな予感。シューベルトの弦楽五重奏曲はモーツァルトやブラームスの弦楽五重奏が四重奏にヴィオラが加わるのと違ってチェロを加えたのは低音部を充実させるためだったというのが、よく解説される。私は、それだけではないと思う。加わるのがヴィオラよりも、より独奏的な性格がつよいチェロであることによって、独奏という四重奏の団体性とは異質の、より開かれた感じになるということがあると思う。それを、今回の演奏では独奏チェリストにではなく四重奏団のチェリストがチェロの独奏的なパートを務めることによって開かれた感じがなくなるのでは、と危惧したが、そのとおりの演奏になってしまったと思う。この曲の突き抜けたような感じではなく、閉じ籠もったような息苦しい演奏になってしまったと思う。それは、とくに後半の第3楽章、第4楽章が力任せのようになって、力んでいるだけの乱暴とすら感じられてしまうほどの演奏になっていた。たしかに緊張感は高かったが。この曲の第2楽章は弦楽四重奏の幻想的に歌うメロディを加わったチェロが、その歌を肚で受けて、具体的にはチェロの楽器の胴体の中にいれて共鳴させて、それをピツィカートで応えるところがある。ここでのチェロのピツィカートは単なるチェロの弦を弾く音だけでなく、他の四重奏の響きや歌を含みこんだ深い響きとなって聞こえてくるものなのだと思う、しかも、単音のようなピツィカートは実は、その単音に歌が凝縮されているというシューベルトの歌の極限の姿がここにあると思うのだが…。ここでの演奏は第1ヴァイオリンとチェロとの掛け合いに矮小化されてしまった。それはそれで聴けるものではあるのだが、それは何もこの曲でなくても、他のシューベルトでもあるのだから。それでは弦楽五重奏でなくてもよかったのに…。
 全体として、いい演奏だったと思う。この団体の現役最後のツアーということなので、演奏する側も思い入れがあって、力が入りすぎたのかもしれない。それなら「死と乙女」四重奏などの演奏の方がよかったのではないか、と思ったりした。

 

2026年6月17日 (水)

読売日本交響楽団 第693回名曲シリーズ演奏会

001_20260617234901  サントリー・ホールで小林研一郎指揮読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきました。コバケンの熱演でしたが、約二十年ぶりに見たコバケンは爺さんになったという印象。たしかに演奏らは熱がありましたが、何か晩年の朝比奈隆の指揮した演奏会みたいな熱狂的な信者の集会のような雰囲気が少なからず感じられました。私には、ちょっとついていけない。
 プログラムは次の通り
ショパン:ピアノ協奏曲第2番ヘ短調Op.10
  ピアノ 牛田智大
   アンコール:ブラームスの間奏曲Op.118の2
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調Op.64
   アンコール:アイルランド民謡「ダニーボーイ」

 

 前半の演奏が終わって休憩時間となり、人々が席を立とうとしたちょうどその時、地震がありました。けっこう揺れて、サントリーホールの天井から吊られた雲形が揺れによってぶつかって、ガチャンと大きな音がしていました。また、人々のスマートフォンのアラームが一斉になり出して、一時場内が騒然としました。ちょうど演奏が、おわったところで地震が起こった、そのタイミングはよかったと思いましたそれが、この演奏会では、一番印象に残りました。あと、指揮者がコバケンだからなのでしょうか、これまでいってきた読響の演奏会に比べて老人の客がとくに多かったように見えました。
 前半の演奏については、ショパンの第2ピアノ協奏曲は、ショパンコンクールの決勝で、この曲を選択して優勝した人はいないという噂を思い出しました。同じショパンの第1ピアノ協奏曲に比べて、劇的な盛り上がりがないというか、よくいえば淡々としている。悪く言えば、曲そのものが平板としている。今回の演奏を聞いていて、そういう曲だということがよく分かりました。そんな曲を盛り上げるのはピアニストの力量に負っているのでしょう。今日のピアニストは、そういうピアニストだったと思います。バックのオーケストラもどこか気の抜けたような薄い音で、それは、後半のチャイコフスキーのオーケストラとは別のオケかと思わせるほどだったので、分かりました。
 後半のチャイコフスキーはコバケン節が炸裂といっていいのでしょう。コバケン節といっても、メロディを歌わせるというのではないのですが、例えば、終楽章にはいった冒頭でロンド主題を朗々と謳うところなど、この指揮者は、メロディを歌わせることもなく、メロディを長くフレージングするのではなく、メロディの途中で細かく切ってしまう。それでは無機的で無愛想になってしまうが、この演奏はメロディの中に細かな強弱をつけて、メロディの演奏が波打つようになると、そこに動きが生まれる。それでうまれるグローヴがコバケン節なのではないか思います。それと、フレーズの入りに力が入る弾き方がされているので、弾きぶりに気合が入っている印象を全体に与える。オーケストラ全体が、がなり立てるといっていいほど、鳴らしている。各演奏者が、まるで競っているかのようで、それが全体としての演奏に強い緊張感を生み出している。それが、コバケンの熱演なのだということでしょうか。また、この指揮者は、あまりテンポを変えません。終楽章はロンド主題の繰り返しで、終わりに向かって段々とテンポが上がっていって、それにつれて盛り上がる演奏が好きなのですが、この指揮者はテンポを上げることをしません。盛り上がりは、主に音量の大小のメリハリで作り出しています。それに加えて、メロディの弾きぶりに強弱をつけて波を作り出すグローヴを指摘しましたが、それをロンド主題の繰り返しでは強調するように行い、繰り返しが重なるようになると、波が重層的になって、波が波を生むようなダイナミックな動きとなって、独特の盛り上がりをしていました。こういうのもありなのか、と思いました。独特のノリです。会場はかなり盛り上がっていたようです。たた、私の好みではありません。この曲は、もっと盛り上がるはずなのだが、というのが正直な感想です。

 

2026年6月 4日 (木)

小山実稚恵リサイタル<未来永劫>

001_20260604231101  2026年6月3日(水)サントリー・ホール
 サントリー・ホールで小山実稚恵の演奏会を聴いてきました。
 プログラムは次の通り
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op109
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op110
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op111
アンコール:JSバッハ:平均律グラヴィーア曲集第1巻から第1曲プレリュード
 東京は台風直撃の暴風。日中の予定はすべてキャンセル。でも演奏会は予定通り開かれるとのことで、夕方から都心にでかける。ちょうど雨がやんだが、電車は台風で外出を控えた人が多かったようで、空いていた。サントリー・ホールのあるアーク・ヒルズは、今日は人の姿はすくない。いつもと違う雰囲気で会場にはいった。1階席はだいたい埋まっているが、2階席は半分ほどが空席。私の席は舞台の後ろ側のP席。一番前で、ピアニストはすぐ目の前で、指の動きがよく見える。この人の実演を聴くのは初めてですが、テレビで演奏する映像を何度も見ていて、スムーズに弾く人だという印象を持っていました。しかし、曲目がベートーヴェンだからなのでしょうか、妙に力が入って、とくにフォルテのところは力ずくで弾いているように見えました。それゆえか、意外とフォルテの音が濁っていて、テレビで見たショパンの演奏とは印象が異なっていました。とはいえ、ショパンの演奏で感じた、サラッと弾いてしまうところは、今日のベートーヴェンの演奏でもそうでした。
 最初第30番のソナタの冒頭。ベートーヴェンの晩年のピアノ・ソナタではめずらしい前向きで推進力のあるメロディですが、このひとの演奏は、楽譜の小節ごとに完結しているような弾き方で、整っているのですが、繰り返すメロディがつながって、まるで一本の糸のように繋がっている感じがしません。それゆえ、メロディが曲を進めていくような感じがしなくて、ひとつひとつのメロディが整って配置されている、という感じになっていました。それゆえ、第2楽章で、音が強くなって、アグレッシブにテンポアップするところが、推進力が一気に高まるという、この曲の前向きなところが強く印象付けられるところが、ゆっくりした第1楽章から、活動的な第2楽章に場面転換するという感じになります。ピアノ・ソナタの演奏としては、今日の演奏の方が整っているのでしょうが、私には、ちょっと物足りない。第3楽章はベートーヴェンの晩年のソナタに特徴的な変奏曲形式で、長くなってしまうところ。悪く言えば、呆け老人の繰り言といもいえる垂れ流しのような音楽。この人の演奏は、節度があるというか垂れ流しになるような惑溺を許さない。ややもすると単調になってしまいがちなところが、そうさせないのは、上手いピアニストだと思いました。とはいえ、変奏曲なのに、各変奏が始まったときに驚きとか、ワクワクするところがあまりなく、サラッと流れてしまう。引っかからない、キレイな演奏なのですが。
 第31番のソナタのつくりは第30番のソナタと同じようです。しかし、こちらは第30番のように前向きなところがない。第1楽章がゆっくりとしたメロディで始まりますが、こちらは後ろを振り返るような印象で、後ろに重心があるメロディです。それを、この人は、やはりサラッと弾く。それゆえ、重くならず、曲は止まらないで進みます。そして、「嘆きの歌」のある第3楽章あたりから、本人も乗ってきたのか、顔の表情をいろいろつけたり、上体を揺らしたりして、外からは没入しているかのような仕草をみせるようになると、フォルテの音が濁りがちに。しかし、演奏じたいは、キチッとテンポは守るし、整った演奏を崩すことはありません。しかし、この人は自然体で弾く人かと思っていましたが、没入する仕草をしているのは意外でした。似合っていないと、私には思えます。
 休憩のあと、最後の第32番のソナタ。第1楽章のいかにもソナタ形式というカッチリとした音楽は、今日のプログラムの中では、この人の演奏スタイルに最も合っているのではないかと思われるところで、とてもいい演奏だったと思います。安心していられる。本来、この人は職人的というのか、突出した名演をするような天才型のタイプではなく、度重なる演奏を安定したレベルを維持して、毎回、安心して聴いていられる、というタイプの人のように思います。そういうのに、この第1楽章の演奏は、ユニークとか突出しているというのはないが、安定している、というのは、この場合褒め言葉です。それが第2楽章では、早めのテンポでサラッと弾いてしまう。引っかかってこない。ゆっくりとしたメロディックなところから急にテンポアップするところは、たんに速度が変わったというだけにしか聞こえない。ここは、ゆっくりした瞑想的なメロディかに一転してダンス・ミュージックのような身体が動き出すような感じと、清澄なところから一転して俗的なところに降りてくるような(その後、再び上がっていくのですが)そういうイメージを抱かせるところなのですが、テンポが変化したというだけで終わってしまう。純音楽的と言えるのかもしれませんが・・・
 会場には、ピアノを習っているという感じの親子連れの姿が多く目立ちましたが、そういう人には、お手本として聴かれるような演奏なのでしょう。私には、いまひとつ、物足りない演奏でした。

 

2026年5月27日 (水)

読売日本交響楽団 第692回名曲シリーズ演奏会

2026年5月26日(火)サントリー・ホール
002_20260527005101  サントリー・ホールでシルヴァン・カンブラン指揮読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきました。プログラムは次の通り
  メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」Op.26
  コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35
     ヴァイオリン イリア・グリンゴルツ
  ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調Op.88
 会社を退職して、学生の身分となり、時間の余裕ができたので奮発して年間会員になりました。席は2階席の前から5番目の真ん中あたり。悪くない場所だと思ったのですが、意外と音が来ない。今日の演奏でも、オーケストラは音は出ていたようなのですが、席まで迫ってこない。ライブの迫力を感じたいと思うのですが、ちょっと物足りない。定期会員なので、1年間ずっとこの席です。オーケストラのコンディションもあるし、次回は違った感じになるかもしれないと、前向きにいきましょう。
 最初のメンデルスゾーンは結構カラフルな演奏ですが。この曲はシンプルなフレーズを繰り返していくのですが、その繰り返しを各管楽器が持ち回りで受け渡すようにソロのように演奏しているところなど、各管楽器のそれぞれ音色のコントラストが鮮やかで、とてもカラフルに聴けました。しかし、この曲の全体としてほの暗い音色はあまり感じられず、明快で、ちょっと明るいかんじ。弦楽器によるさざ波のようなリズムが、波というよりは機械的なリズムのようで、ロマンチックな雰囲気のしない演奏でした。
 コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲は初めて聴きました。コルンゴルトはオーストリア人で年代的にロマン派の影響が強い人かと思っていたら、ヴァイオリンの曲なのに、思い入れのあるようなメロディが聞こえてくることはない。ロマンチックな感情移入という雰囲気はなくて、美しいのでしょうが、どこか突き放した感じの曲でした。ヴァイオリニストのグリンゴルツも思い入れたっぷりに歌い上げるというタイプではなく、淡々と美しい音色とサラッと弾くタイプの人だったのも、そう聞こえた要因かもしれません。第1楽章の真ん中あたりでカデンツォのパートがてできたりして面白い趣向もありましたが、全体の構成が凝っている感じですが、曲全体の盛り上がりとか、メロディに魅入られるといったところはなくて、趣味的というか、凝った趣向を、こんなことやっていると知的に楽しむような曲ではないかと思います。高級志向の、よくできたBGMという印象です。
 最後のドヴォルザークの交響曲第8番で、この指揮者の傾向がよく分かりました。私の好みからいって、この指揮者はこういう曲は向いていないと思いました。この人は、すごく冷静で、細部に目を配って、均整のとれた美しい演奏をするような指揮者だと思います。まずテンポをきっちり守る。それが演奏全体のプロポーションをハッキリさせるところはあます。しかし、この曲はノリで大きく盛り上がる魅力があります。しかも、この指揮者のリズムはアクセントが弱く、平板にきこえるので、リズムのメリハリがなく、それがこの曲では、生き生きとした感じが失われるように感じられます。ダイナミックな、この曲が、止まっているように感じられるところがありました。でも細かいところでは、管楽器の音色が際立っていたり、聴きどころはあるのですが、とはいえ、管楽器もあまり歌っていないように感じられました。終楽章は、テンポが色々に変化して、ノリが変わっていって、その変化に聴衆が巻き込まれていくところがあると思うのですが、そういうところは単調に聞こえてしまい、聞いていて乗せられてしまう感じはしませんでした。オーケストラは、よく音は出ていたと思います。ただ、先週聴いたチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の鳴りを経験してしまうと、いまひとつ物足りない。
全体としては悪くない演奏だとは思うのですが。

 

2026年5月21日 (木)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団演奏会

2026年5月19日(火)サントリー・ホール
002_20260521005001 シューマン:歌劇「ゲノフェーファ」序曲 Op.81
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.77
   ヴァイオリン:ジャニーヌ・・ヤンセン
   アンコール:JSバッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番よりガボット
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調OP.64
 オーケストラの来日演奏会何で何十年ぶりだろうか。以前に聴いたときに比べてチケットは倍額以上、年金生活者で、他にお金を使うようなこともないので、演奏会を選べば、行けないこともない身分だから、これを機に海外オーケストラも聴きに行きたいと思う。この演奏会は、それほど高価でもなかったので、最初はこの辺りでとチケットを買ったのだったが。よかった。とてもいい演奏会だった。
 席はシルバー割引のS席で、1階の前から9列目の右端。舞台を見上げる角度で、オーケストラの弦楽器奏者を間近に見ることができる。オーケストラの配置が対向型なので、目の前にいるのは第2ヴァイオリンか。
最初のシューマンの序曲は、いかにも変拍子というのが対向型の弦楽器配置のせいでよく分かる。リズムを刻むのが、管楽器によるメロディとちょっとズレているように感じられる。はっきりズレているわけではないので、何か不安定な感じがする。それがいかにもシューマン。ただ、オーケストラは、そういう変な曲についていくのが精一杯という感じ。
 次がブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリニストは背が高くて。がっしりとした体格の女性。指揮者のヤルヴィよりも大きい。その女性が全身を大きく動かして演奏する。まるでダンスをしているように見えるほど。ダイナミックといえばよいが、落ち着かない。演奏は元気いっぱい。この人の演奏で、この曲を聴いていると、ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、ヴァイオリンがソロで、歌でいえばアカペラで演奏される場面がない曲でないということがよく分かった。独奏ヴァイオリンがソロで弾き始めようとすると、オーボエやフルートがすぐに絡んできて、戦慄が掛け合いをしたり、相互に前に出たり後ろに下がったりする。今日の演奏では、それがたまにヴァイオリンの演奏を邪魔しているようにも聞こえてくるところがある。このヴァイオリニストは、まるでバトルをするようにエキサイトして弾いていく。一節を引き終わると、拳を握って高く掲げあげそうな表情をしている。「カモーン!」とか言いそう。そんな雰囲気。見ていて、独奏ヴァイオリンはこの曲では、絶えず他の楽器の侵入をうけ、単独で気持ち良く弾かせてもらえない。これって、ヴァイオリニストには結構つらい曲なんだろうな、そんな感じがした。このヴァイオリニストのバトルしているような雰囲気は、緩徐楽章である第2楽章もあって、この人は味わい深く旋律を歌わせるというタイプではないようだ。音色も、とりたてて甘美というのでもない。それが第3楽章は、この人のタイプに一番合っているのか、生き生きして、盛り上がる。かなりテンポを変えて、オーケストラを煽る。もう若手という年齢でもないが、若いという感じの元気のいい演奏だった。たまには、このようなブラームスも悪くない。会場も盛り上がったし。それが、アンコールでバッハの無伴奏のひとつを弾いたのだが、これがよかった。元気のいいブラームスとは打って変わって、落ち着いた演奏。盛り上がっていた会場を一気に沈黙させるほどの迫力があった。
 後半のチャイコフスキーは冒頭のオーボエのソロから、オーケストラの音が、これまでとは変わったような気がする。最初は、よく鳴っているという感じだった。演奏のつくりは、強弱のコントラストをつけたり、劇的に盛り上げたり、あるいは憂愁のメロディに惑溺させるというような、特徴的なものではなく、淡々と演奏するという傾向。よく言えば純音楽的、その一方で、物足りないと感じる人が出てきてもおかしくない。第2楽章になって、ホルンが長いフレーズを途切れることなく、音が霞むこともなく吹ききった辺りから、「もしかしたら…」という予感がしだした。最初よりもオーケストラの鳴りがよくなっているのだ。ホルンの演奏は、気合が入っているのが伝わってくる。それを感じたのは、私だけではないらしく、周りの客席でも、期待感みたいな雰囲気が高まってくる感じがした。それは、オーケストラの面々にも伝わっているのも分かるような感じする。音の気合がさらに高まったような気がしたから。それが終楽章になって、ロンドのような繰り返されるテーマを弦楽器が弾いた時、これは来るということが、会場全体で分かった、という雰囲気。終楽章の演奏は、具体的に語ることはできない。何度も演奏会に足を運んだとしても、滅多に出会えることもない本物、そういう演奏だった、と私は思う。久し振りの海外オーケストラの演奏がこれほどのものだった。そうしたら、これから何度も行かざるを得なくなるではないか。最初にこれほどの演奏を聞かされてしまったのだから。

 

2026年4月29日 (水)

読売日本交響楽団 第657回定期演奏会

2026年4月28日(火)サントリー・ホール
11112_20260429231701  サントリー・ホールでアイヴァー・ボルトン指揮読売日本交響楽団の演奏で、エルガー作曲のオラトリオ「ゲロンティアスの夢」を聴いてきました。
 この曲、ユーチューブで見つけて以来、読書や事務作業のBGMによく利用しているのですが、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」に感じがよく似ていて、刺激的な金管楽器の咆哮がなくて、弦楽器と木管楽器の分厚い響きが主体で、そこにコーラス等の人声が加わって、淡々と進むというか、とはいっても退屈というのでもなく、ときおりそれなりに美しいメロディが聞こえてくるので、作業がはかどり、いつのまにか演奏が終わっているという曲です。そんな曲を実際に聴いてみてもいいのではないか。コンサートホールでオーケストラと合唱の響きに包まれるというのも甘美なのかもしれない。座席は2階席中央の前の方。響きは悪くない席です。
 何度の聞いている曲のはずですが、楽曲の構成とかこの曲に特有のメロディとかは全く覚えていません。捉えどころのない曲か思っていましたが、そういう聞かせ方というか、聞き手に対して、そういうことをアピールしていないことがなんとなく分かりました。BGMではなくて、向き合って聴こうとすると、音楽がいっこうに進まないのです。同じところにいて、うじうじしているような感じ。進むことをせずに、立ち止まって、そこで色々なことを繰り返すような音楽ならわかります。この曲は立ちどまっているのではなく、実際、モチーフを繰り返すことはなく、いろいろな楽想がでてきます。しかし、音楽が進むという感じではなく、そこに留まっている、進めない。それゆえ、出てくるメロディの印象が残らない。第1部は途中で寝てしまいました。気持ちよく眠れたといえば、そうなのですが。音楽が気持ち良い時間空間を作ってくれたというより、音楽を掴もうとして、できないので疲れたというところでしょうか。途中休憩をはさんで第2部は、ステージ後方のディスプレイに表示される歌詞の翻訳も追いかけながら聞きましたが、歌詞を読んでいても、進行していないことが分かりました。そもそもの歌詞、おそらくオラトリオの台本が進むように書かれていない。人間が死んだらどうなるかを扱った宗教的な詩らしく、19世紀のイギリスで支持を得ていたらしい。ゲロンティアスという男が亡くなって魂となり、守護の天使に導かれて天上を旅し、神を垣間見た後に煉獄に至るという話だそうです。ドラマがないんです。エルガーは、その台本に音楽をつけたということなのでしょうね。それゆえ、オラトリオといっても、ヘンデルの作品のようにドラマティックにぐいぐいと聞き手をひきつけて、この後どう展開するのだろうかと、興味が前に前に向いていく、というところがないわけが分かりました。この曲は演奏会場で、演奏に向き合って聴くような音楽ではないということが、よく分かりました。なお、演奏そのものはよかったと思います。

 

2026年3月 7日 (土)

庄司矢紗香、ジャンルカ・カシオーリ─デュオ・リサイタル

2026年3月6日(金)サントリー・ホール
11112_20260307232701  プログラムは次の通り
 モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第24番ヘ長調K376
 ブラームス、ディートリヒ、シューマン:FAEソナタ イ短調
 ダラピッコラ:タルティニアーニ第2番
 ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調Op78「雨の歌」
 アンコール ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番から第3楽章
        シューマン:「夕べの歌」
 何十年ぶりとなるサントリー・ホール。地下鉄の神谷町駅で降りて、駅の案内板にサントリー・ホールへの降り口の案内が消えてしまっていた。アーク・ヒルズへの案内もない。この何十年かの間、この駅の周りに、他にあたらしいものが建てられて、サントリー・ホールは霞んでしまったということか。以前は、駅を出てもサントリー・ホールへの案内の道標があったのだけれど・・・。しかたなく、グーグルマップに頼ることにした。周辺の風景も変わってしまって、お上りさん状態。夕方6時を過ぎて暗くなってきたのもあって、アーク・ヒルズに近づいても分からない。カラヤン広場が見えて、ようやくたどり着いたのが分かった。
 開場は予定より早かったようで、ホールの前の人ごみはなく、並ぶこともなく、ホールに入場。今回の座席は2階席正面の前から3番目の列。ステージにはそれほど近くはない。ソロ・プレイヤーの表情や手の動きは、それほどよく見えない。開演時間になって、席がそれほど埋まっていないに気がつく。いままで、オーケストラのコンサートばかり聴いてきたが、オーケストラ以外の演奏会は、こんなものなのだろうか。今回の演奏者は、けっこう有名な人だと思うのだけれど・・・。
 第1曲目のモーツァルト。最初のヴァイオリンの音を聴いて、あれっ?ヴィオラかな、と思った。それほど中音部が充実して鳴っている。それで、とても落ち着いた印象。モーツァルトのソナタは軽快にヴァイオリンが跳び回るようなところがあって、ときにはヴァイオリンがキンキンして聞こえるようなことがあるのだけれど、庄司の演奏は、そういう派手に響くところがなく、終始も落ち着いた感じでした。そして、無理に鳴らしていない。弓を弦に押し付けるのではなく、軽く滑らかにすべるように鳴らしている。そして、ヴィブラートをあまりかけていない。それは、古楽器のノンヴィブラートかというと、そうでもない。細かなヴィブラートはかけているので、音の伸びやかさが古楽器奏法とは違う。古楽器の場合の鋭さ、ときにキンキンしているのとは違う。もっと穏やかで伸び伸びとした音。さらに、庄司は細かな装飾音を細かく刻むようにリズミカルに弾くのではなく、軽く流してしまう。刻まない。ほかの奏者なら、細かい刻みで技量を披露するところであろうに。そこにメリハリがなくなって、ただ流してしまう。その代わり、共演者のカシオーリのピアノの弱音を繊細に弾き分けているのが、よく聞こえてくる。ヴァイオリンは軽く、穏やかに響いている。旋律と細かな装飾音とのメリハリが薄いので、滑らかに、伸びてゆくように響く。そこに音楽の形の主張が薄まるが、繊細に弾かれるピアノを包み込むように伸びてゆく。その結果、聴いている私には、安らかで心地よい音空間が広がる。モーツァルトの、この曲は何度も聴いてよく知っている曲なのに、今、どこを弾いているなどというのは、どうでもよくなって、気持ちいいまま、気がついたら、曲が終わっていた。拍手が起こって、今、曲が終わったことに気がついた。そんな印象。
 第2曲目のFAEソナタは、ブラームスが弟子のディートリヒと師匠のシューマンと共作したという作品。第1楽章はディートリヒ、第2、4楽章はシューマン、第3楽章はブラームスが作曲したという曲。ロマンチックの極みみたいな曲であることは想像がつきます。ふつうなら、たっぷりとヴィブラートを掛けたヴァイオリンで朗々とうたう演奏が想像できます。しかし、庄司は、ヴィブラートは軽くて、爽やかに流すような演奏。
 後半の第3曲目は、はじめて聴く曲で、ダラピッコラというと難解なゲンダイ音楽で有名な作曲家ですから、二十音技法ばりばりの難解な曲かと思っていたら、バッハのシャコンヌみたいな無伴奏のヴァイオリンから始まって、ちょっとびっくり。このあとも重音を効果的に使った悲しげな旋律を対位法っぽく聞かせる。それと、ヴァイオリンの音が軽い。とても聴きやすいし、対位法っぽい絡みを追いかける楽しい聴きごたえがあります。たっぷりとしたボリュームがありながら、聴き疲れはしない。とても楽しかったです。
 最後の第4曲目はブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番。これがプログラムのメインでしょう。この曲の冒頭で、ヴァイオリンがト音を3つ鳴らすという一見無造作な3音から始まります。しかし、それを音楽的に弾くのは難しいと思います。ヴァイオリニストの音楽センスが問われるところでもあります。たいていのヴァイオリニストは旋律的に歌わせたりするのですが、ここで庄司は無造作といっていいほど、サラッと流すように弾きました。あまり、ヴィブラートもかけていなかった。いわば、ヴァイオリニストの腕の見せ所をサラッと流してしまった。その一方でカシオーリのピアノのが音色とタッチを弾き分けて、それがよく聞こえてします。庄司のヴァイオリンは歌うとかヴィブラートを聞かせるとかいう部分を細かく聞かせるというのではなく、全体の音楽の流れをつくりだすことに心を傾けているように感じられました。歌うというより、音楽を前に進める、推進力、いわばグルーヴをつくろうとしている。それは、リズムを刻むとかいうのではなく、音が伸び伸びとながれてゆく、それが推進力をつくりだしていく、そんな感じがします。その流れに乗ってカシオーリがピアノを弾いている。最初に感じた、ヴィオラのような中音部の充実したヴァイオリンの音が、それにハマっている。それは、滔々と流れていく川の流れを思い起こさせる。けっしてスケールの大きい壮大な演奏というわけではないけれど、その流れによって、とても心地よい音環境でした。ロマンチックな演奏家、例えば、フリッツ・ブッシュのようなヴァイオリニストであれば、その流れに溺れていくような感じになるのですが、ここでの庄司の演奏は爽やかで、流れに乗って流れていく、溺れるのではなく、時に風を切ったりするような生き生きとしたところがあります。この演奏も聴いていて、時間を忘れるというか、いつ終わったか分からなくなりました。この演奏をきいていた間は、とてもいい音空間でした。
アンコールのブラームスの第3番のヴァイオリン・ソナタの演奏は、力みの抜けた、爽やかな演奏でした。

 

2026年1月25日 (日)

読売日本交響楽団 第283回日曜マチネーシリーズ2026年1月

11112_20260125220901 2026年1月25日(日)東京芸術劇場
 シューマンのヴァイオリン協奏曲が、オーケストラが違うとはいえ、続けて定期演奏会で取り上げられるなんて、めったにないことだ。場所も同じ等級芸術劇場。最近、この曲にハマっているし、この前聴いた、庄司矢紗香の演奏と聴き比べも楽しいと思って、出かけることにした。プログラムは次の通り
 エミーリエ・マイヤー:「ファウスト」序曲
 シューマン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調
 メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」
 ヴァイオリン:イザベル・ファウスト
 指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
 シューマンのヴァイオリン協奏曲の出だしでオーケストラが第1主題をトゥッティで演奏するところ、前回聴いた都響と違って、音が大きく、とくに金管楽器が元気なのが目立った。しかし、日本のオーケストラってこんなに上手になったのかと感心もする。例えば、朝比奈隆のCD録音などを聞くとオーケストラが揃っていない(ただし、朝比奈はアンサンブルを統率することに意識のないという下手な指揮者だったが)、とくにホルンやトランペットがフレーズの頭の音が出ないことがよくあった。それが、今の日本のオケはちゃんと頭から音がしっかり出ていて、しかも揃っていて、フレーズが伸びやかで、安心して聴いていられる。ただ、読響は金管の元気がよすぎる傾向があって、ドイツものより、ロシアものなんかの方が向いている感じがする。また、弦楽部の低弦にドスが利いていないので、シューマンのこの曲の第1主題が無機的で、聴衆に迫ってくるような凄みがでてこないのが残念。そして、オーケストラの主題提示のあと、ヴァイオリンが入ってくる。イザベル・ファウストのヴァイオリンは流麗で伸びやか。実は、ユーチューブなどで聴いたこの人の印象と、かなり違うので驚いた。もっと力づくで、弓を弦に強く押し付けて大きくて太い音、その実中身が伴わないスカスカの音というイメージをもっていた。ところが、実際に聴いてみたら、ギスギスしたところのない、中身のたっぷり詰まった音だった。第1主題を切り込むように入ってくるところも、無駄な力みがなくスウッと入ってくる。無機的というより流麗。そのあと、このフレーズを繰り返していって抒情的な第2主題につなげていくのだが、ここが、いってみれば音楽的。繰り返しをまるで変奏曲のように手を変え品を変えて変化をつけて飽きさせない。それが、だんだん無機的なところから流れるように徐々に変化していって、最後にメロディックな第2主題につながっていく。その間無理がない。庄司紗矢香のつっかかってくるような演奏とは対照的。しかし、こんな滑らかに第2主題に流れていってしまうと主題の対立関係を意識しなくなってしまう。実際、庄司紗矢香の演奏のように、たえず、こちらにむかって語りかけてくるような感じはなく、ひたすら綺麗に流れている。それは、とても心地よい。しかし、これってシューマンなの?シューベルトじゃないよね?聞く者の心をひっかくような棘はどこへいってしまったのか。そう、あまりにひっかかるところがなく、心地よい演奏に、途中で眠くなってくるほど。それはそれで気持ち良い時間ではあったけれど。
 後半は、メンデルスゾーンの「スコットランド」交響曲。この曲は標題音楽だとよく言われるのだが、私にはその意味が分からない。スコットランドの風景を描写している解説するひとが少なくないのだが、どの音が、どのような風景を表現しているのか、その関係が分からないから。ここにあるのは、音だけだと思うのだけれど、違うのだろうか。そういう解説をしている人は、その点を具体的に説明してほしいのだが、そういう説明は聞いたことがない。冒頭の入りは、そうっと入ってくるのだが、それは単に弱音というのではなく、オーケストラがあえて力を抑えて、その力をたくわえるような感じ、この後で爆発しそうな、そういう劇的な緊張感に溢れている。これって標題音楽とか、そういうものじゃないよね。その爆発しそうな、という期待に応えたのが、最終楽章の入りの弦楽部が切れ込むように入ってくるところから、テンションが上がって盛り上がった。そこに行く前も、第2楽章のスケルツォも軽やかな感じではなく、力の入った、ちょっと重量級っぽいものだったり、メンデルスゾーンというよりちょっとショスタコーヴィチが入っていたような印象。全体に劇的で元気いっぱいな熱演だった。

 

2025年11月30日 (日)

東京都交響楽団1029回定期演奏会Cシリーズ2025年11月

2025年11月29日(土)東京芸術劇場
11112_20251130111201  先月に続いて池袋の東京芸術劇場へ行く。今回は65歳以上の老人割引があるというのでありがたい。受付で身分証明書の提示を求められるかと思って準備していたが、フリーパスだった。
 プログラムは
 モーツァルト:ヴァイオリンと管弦楽のためのアダージョ K.261
 シューマン:ヴァイオリン協奏曲
 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
で、これはもう明らかにメインはシューマンのヴァイオリン協奏曲で、しかもソリストが庄司紗矢香だから、それで決まり。
 最初のモーツァルトは腕慣らしといった軽い曲だが、実演で聴いた庄司のヴァイオリンの音がバックのオーケストラの弦楽セクションとの格の違いを見せつけられるようだった。独奏ヴァオリンとその伴奏という曲だから、どうしてもソリストの音が前面に出てくる。それでも、音の響きの質が別物なのだ。以前にも、いろいろなヴァイオリニストでコンチェルトを聴いたが、こんなにもオーケストラに対して独奏ヴァイオリンの音の響きが突出しているのは、はじめてのこと。小編成オーケストラのモーツァルトからフル編成のシューマンの協奏曲になっても、それは変わらなかった。庄司というヴァイオリニストは力を込めてバリバリ弾くタイプではない。むしろ、軽くサラッと弾くヴァイオリニストなのだけれど、音の響きの質が違うので、オーケストラの音に独奏が埋もれることがない。この人のヴァイオリンの音を聴いているだけでもいいという、そういうヴァイオリニストだと思う。
 さて、メインのシューマンの協奏曲。オーケストラの合奏による決然とした開始は、第3交響曲「ライン」のような力強さ。「ライン」が明るく伸び伸びとした曲調なのに対して、こちらは少し強張ったような少し悲壮感が漂う。これが第1主題。その直後に対照的で甘美な第2主題となる。これを、CDなどの録音で聴いていると、オーケストラが“いっせいのせ”と斉奏しているように聞こえるが、ここで聴くと全然違う。弦楽セクションが掛け合いするように、少しずつリズムをずらしながら弾いている。それで、テーマの形の輪郭がぼやけるようになる。それは、オーケストラの配置が対向型、つまり、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンが隣り合う一般的な配置ではなく、向かい合う配置になっているためだと思う。これは、指揮者の意図なんだろう。シューマンは、おそらく明確な形を避けた。そういうオーケストラの後に独奏ヴァイオリンが第1主題を弾き始める。ブラームスのヴァイオリン協奏曲にも似た、このヴァイオリンの入りは、ヴィビブラートをたっぷりかけた、いわゆるヴィルトーゾ的な見得を切るような人もいる。しかし、そうすると、この後、この第1主題が何度も、延々と繰り返されることになる。そこがブラームスと違うところだ。そして、この第1主題は、おそらくヴァイオリン向きではない。旋律的でないのだ、歌わせにくい。音が繋がりにくい。むしろピアノ向きというか、タッチや音色で、手を変え品を変え弾き分けていくのに適したようなフレーズなのだ。だから、ヴァイオリニストにとっては弾きにくいのではないかと思う。だから、演奏会で取り上げることは少ない、マイナーな協奏曲だ。それを庄司、入りはサラッと弾く。その後の繰り返しは、無理に歌わせようとしないで、むしろ、ピアノ的なタッチというか音の肌触りというか細かなヴィブラートの変化や音色の微妙な変化で弾き分けていく。しかも、オーケストラからは突出した音の響きで、それは決して、庄司の音が大きいというのではないが、この人のヴァイオリンの音ばかりが突出して聞こえてくるのだ。そうすると、その繰り返しは、まるで独奏ヴァイオリンが独り言をつぶやいているように思えてくる。かつて、グレン・グールドがバーンスタイン指揮するオーケストラの前で、ブラームスのピアノ協奏曲第1番を豪壮なオーケストラの出だしのあと、まるでオーケストラを無視するかのように内省的なモノローグを続けたのを想わせる。ブラームスのピアノ協奏曲第1番にはそういう側面がある。グールドはその側面を引き出し前面に押し出した。そこにはブラームスのもともと持っていた性格があったのかもしれないが、シューマンから引き継いだこともあると思う。そういう内省的な性格が現われているのが、このシューマンのヴァイオリン協奏曲なのだと思う。だから、ここでは、独奏ヴァイオリンに華麗なヴィブラートや甘美な歌いまわしは要らないともいえる。むしろ、そういうのを配して、聞き手に語りかけるような語り口。それが、庄司がここで弾いているヴァイオリンではないかと思う。このあと、例えば第3楽章などは、一般的なヴァイオリン協奏曲ならばロンド主題が繰り返される舞曲のような明るく盛り上がって終わるのだが、この曲では、第1楽章の第1主題に似たテーマが性懲りもなく繰り返され、あっけらかんと尻切れトンボに終わってしまう。それは、軽快にカタルシスを得るのではなく、モノローグを最後まで飽かずに続けるというもの。そして、この演奏では、そのモノローグに付きあうというのが、この曲の大きな魅力であることに気がつかせてくるものだった。あえていえば、共感というものが、その先にある。
 後半のベートーヴェンの田園交響曲は、私にはオマケだった。しかし、標題音楽ではなく、交響曲として純音楽的にキチンと演奏しようとしていた。でも、もとがね。こんな曲では…、と。

 

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