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音楽

2017年3月25日 (土)

ジャズを聴く(45)~バリー・ハリス「ブレイキン・イット・アップ」

Breakin' It Up     1958年7月31日録音
 Jazharris_breakin All The Things You Are
 Ornithology
 Bluesy
 Passport
 Allen's Alley
 Embraceable You
 SRO
 Stranger In Paradise
 Barry Harris(p)
 William Austin(b)
 Frank Gant (ds)
 バリー・ハリスが28歳の時に作った初リーダー盤。彼の演奏の印象は地味で、自身のスタイルの根本となっているバド・パウエルのようなエキセントリックなところがない。それが、よく分かるのがこのアルバム。
 最初の「All The Things You Are」は、ミディアムスローでシミジミとした情感の表現は、しかし決してダレることのないビートの強さがあって、何度聴いても飽ることがない。次の「Ornithology」や「Allen's Alley」では、テンポがあがり、バックの気持ちよいブラシを感じながら、いかにもパウエルの影響を受けたピアニストといった演奏をしている。そこからは躍動感に満ちたプレイが飛び出してくる。それも力づくの勢いとは違う。ベーシストとドラムとの調和を保ちながら生み出されるスピード感。それが心地よい。パウエル派と呼ばれるピアニストは少なくない。中でもハリスは最高峰のひとりだということをみせつけるようだ。その出発点を、初々しく見事なまでに示してくれたのがこの作品である。 

2017年3月24日 (金)

ジャズを聴く(44)~バリー・ハリス「プレミナード」

 バリー・ハリスは、20世紀後半のハード・バップの主要なピアニストの一人であり、バド・パウエルにとても近しい響きを、長年にわたって持ち続けた。また、彼はセロニアス・モンクの影響をうかがわせていたが、彼自身のスタイルはバップの領域を出るものではなかった。彼は1950年代のデトロイト・ジャズ・シーンの重要なメンバーの一人で、そのころからジャズの教育者でもあった。ハリスは1958年にリーダーとして最初のレコーディングを行い、1960年にニューヨークに出た。そこでキャノンボール・アダレイのクインテットに短期間在籍した。彼はまた、デクスター・ゴードン、イリノイ・ジャケ、ユセフ・ラティーフ、ハンク・モブレーとレコーディングを行い、コールマン・ホーキンスとは晩年に至るまで10年間たびたび共演した。1970年代には、ソニー・スティットの2つの素晴らしい録音(「チューン・アップ」と「コンステレイション」)に参加し、その他様々なレコーディングを行なった。ハリスは70年代中頃から、彼自身のトリオで演奏することが殆どになり、リーダーとてレコーディングを行なった。

Preminado  1960年12月21日、1961年1月19日録音
Jazharris_preminado  My Heart Stood Still
 Preminado
 I Should Care
 There's No One But You
 One Down
 It's The Talk Of The Town
 Play, Carol, Play
 What Is This Thing Called Love
 Joe Benjamin (b)
 Elvin Jones (ds)
 Barry Harris (p)
 スタンダードとオリジナルを組み合わせて吹きこんだピアノ・トリオ・アルバム。歯切れがいいタッチと明解なフレージングに絶好調ぶりがうかがわれる。バド・パウエルの影響を受けたパウエル派の代表的な人で、終生そのスタイルを貫いたのも珍しい。このアルバムでもパウエルが取り上げた曲も演奏している。例えば、「I Should Care」では、パウエルが用いたコードをわざと倣うようにして、しかも、その上で独自のフレーズを弾いていて、単なるパウエルのフォロワーではなくて、オリジナリティをもったピアニストであることを示している。そこにハリス独特の歌心が認められる。最後の「What Is This Thing Called Love(恋とは何でしょうか)」では、速いテンポでコロコロと転がるような指使いの歯切れのよいノリは、いかにもバド・パウエルの影響を受けた人らしいが、バド・パウエルのように、その快速フレーズを最後まで力ずくで押し通すことはしていない。パウエルのようなパワフルなスリルは、ここにはない。その代わりに、パウエルにはないとろけるようなムードがある。それは、フレーズの端々に散りばめられた抜けが独特の歌心となっているからだ。歌心などというと、軟弱にメロディを歌わせるために部分的に演奏を崩すなどと誤解されては困る。「It's The Talk Of The Town」を聴いてもらいたい、失恋を歌った古いスタンダードナンバーだが、しっかりしたタッチでカッチリと弾かれるのだが、その朴訥として調子は、むしろしんみりとした味わいが深くなる。

2017年3月23日 (木)

ジャズを聴く(43)~バリー・ハリス「バリー・ハリス・アット・ザ・ジャズ・ワークショップ」

Jazharris  バリー・ハリスは、ハンク・ジョーンズの兄弟やトミー・フラナガンらとデトロイトでジャズ・シーンを形成していた。同じデトロイト出身のピアニスト、ハンク・ジョーンズやトミー・フラナガンもバド・パウエルの影響を受けたいわゆるパウエル派と言われる人たちであり、スタイルは似ている。この3人については“玄人受けするミュージシャン”としてある程度ジャズを聴き込んだ人でなければ、それぞれの違いを味わうことは難しいと言う人もいる。彼ら3人とも、若いころは他人の伴奏で数多くのレコーディングに参加している点でも共通していて、そのせいか、バリバリ弾いて、自分の個性を強烈に主張するタイプでなく、共演者を引き立てながら全体の演奏を組み立てていくところも似ている。そういう演奏の性格から特徴的な個性、これといったものを、分かり易く呈示してくれていない。そういうところが“玄人受けするミューしシャン”と称されてしまう由縁だろうと思う。
 この3人を比べて聴いてみると、例えば、バリー・ハリスとトミー・フラナガンを比べると、フラナガンはずっと詩情豊かなスタイリストと思われている。一方ハリスにはバラード演奏も知り尽くしているにもかかわらず、激しいドライブ感を持つピアニストといったイメージがある。ハンク・ジョーンズやフラナガンよりも直系のパウエル派といったイメージが、ハリスの演奏にはある。実際の響きで言うと、ハンクとフラナガンがもっともブルージーな時でも、照り輝く太陽の明るさを感じさせるのに対し、ハリスの演奏はどことなく屈折した、暗いハード・バップ特有のエネルギーを感じさせる。この傾向はとくにミディアム・テンポの曲で現われ、こうした状況でのハリスは、なんともいえぬ魅惑的で深いグルーヴを生み出すといえる。
 ハリスの演奏はビートの表面をなぞったりビートの上に浮いているのではなく、自らをビートにしっかりはめこんでいる。これによって─堅実なベースとツボを押さえた激しいドラミングとともに─重いスイング感をつくり出している。ハリスはフレーズの最初のビートを不意を突いたように激しく叩いているが、しだいにその音量は弱まっていく。こうしたすべての要素が「味わいながら演奏する」というハリスの姿勢を決定的なものにしている。その点で、ハンクやフラナガンよりも、ハリスは激しくスイングするピアニストと言える。
 しかし、バド・パウエルのようなエキセントリックなほどの強引さ、アグレッシブさはなく、他のミュージシャンの演奏を聴いて全体のバランスや調和を考えて、最終的には落ち着くべきところに収まる結果となっている。
Jazharris_workshop_2
Barry Harris At The Jazz Workshop
 Is you or is you ain't my baby   
 Curtain call
 Star eyes
 Moose the Mooche
 Lolita
 Morning coffee
 Don't blame me
 Woody'n you
 Barry Harris (p)
 Sam Jones(b)
 Louis Hayes(ds)
1960年5月15、16日録音
 キャノンボール・アダレイのメンバーたちとのサンフランシスコのライブ録音。これぞピアノ・トリオというような演奏が詰め込まれているのだけれど、正攻法で外連味のないところは、他方で突出したところがなくて、地味な印象を与えてしまうのは惜しい。
 最初の「Is you or is you ain't my baby」は、ライブの劈頭を飾るには地味で、これから始まるぞという迫力に乏しいのだが、古いR&Bナンバーの秘められたペーソスとか、やるせなさみたいな情感を大切したバリー・ハリスの解釈が絶品で、ハリスの抑えたような歌いまわしの魅力が溢れている。同じパウエル派でも、ハンク・ジョーンズやトミー・フナガンのような人であれば、こういうミディアム・テンポの曲では、もうちょっとさわやかさのようなものが感じられるのだけれど、ハリスの演奏は、どことなく屈折した暗いハード・バップ特有のエネルギーを感じさせ、それが魅惑的で深いグルーヴを生み出している。ハリスのバラードは味わいが薄いと言われることがあるが、たしかにフラナガンのような繊細さはないが、このグルーヴをどう感じるかがハリスの歌心を感じられる境目になるのではないか。この後は、正統的ともいえるバップの演奏が続く。正統的だけれど、地味で渋い。「Lolita」はラテン・リズムのテーマから、アドリブに入ってアクセルが入るようにシングル・トーンで突っ走るところは手に汗を握る。ハリスの演奏はビートの表面をなぞったりビートの上に浮いているのではなく、自らをビートにしっかりはめこんでいると言える。ここでは、堅実なベースとツボを押さえた激しいドラミングとのコラボレーションによって、重いスイング感をつくり出している。さらに、ハリスはフレーズの最初のビートを不意を突いたように激しく叩いているが、しだいにその音量は弱まっていく。これを“聴いているとフレーズが吹き飛ばされていくようだ”と評した人もいるが、こうしたすべての要素が“味わいながら演奏する”というハリスの演奏を形作っていると思う。それが、この曲だけでなく、とくにアップ・テンポの演奏に顕著に認められる。

2017年1月11日 (水)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(7)~Ⅴ.再び音楽を定義するということ

 ここまで、勿体をつけて散々迂回をしてきました。そこで、最初のところでの[音楽]の定義に戻ります。
 音楽というものは、視点に基づきかたちとして成立する自由を有しています。だから、基本的な視点の異なるだけ、それに基づいて形成される音楽も異なってくるわけです。それは、砂浜に広げた網が、広げ方によってさまざまな図形を描くのと同じです。
 ここでの違いとは、Ⅱのところで考えた差異という概念を当てはめることが可能です。音楽の音の価値付けは、また各視点による音楽そのものの価値付けにも通ずるというわけです。差異は同一性を前提としている、ということはⅡのところで詳しくお話しました。差を感じるためには、同じ土俵の上で比較してみることが必要なのですから。ということは、色々な人が色々に[音楽]を定義してみせるのも、そこに或る共通なものを前提にしていることになるのです。それが一体何かは、これまでのところで、私なりにお話した通りです。そして、この共通なものこそが、最初のところで定義した「音楽以外の何物でもない」ものである、と私は思います。
 「音楽とは音楽以外の何物でもない」という定義は、一見同語反復に感じられます。しかし、音楽作品で一つの音形が繰り返される度に全体との関係で意味が異なってくるのと同様に、右の定義での二つの「音楽」という言葉は意味が異なるのです。ですから、これは「音楽」の定義の場合としてのみ、同語反復ではないのです。私としては、こういう定義の仕方自体が音楽的な遣り方に思えます。

2017年1月10日 (火)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(6)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(3)

④音楽は自由だについて
 かなり前ですが①の最後のところで少し触れたことについて、ここで考えてみたいと思います。自由というと、勝手気儘に音楽を聴いていい、というように受け取られるかもしれません。それでは前章の最後で述べたことと矛盾します。しかしここではまず、二つの次元で考えてみます。
 第一の自由は表現の自由とも言えるもので、表現と意味の間にみられるものです。これは①のところで述べたことです。つまり、ある音形がある意味を分節し形成したとして、この意味の内容とその音形の間には、必然的なつながりはないということです。つまり、表現と意味は表裏一体といいながら両者の間には、論理的な必然性などないのです。ではどうして、表現と意味は表裏一体といったことと矛盾しないのでしょうか。自由というのは、個人の勝手気儘というのではなく、例えば自然法則のように所与の必然ではないということです。表現と意味の結びつきは、人間の社会的営みの中で積み重ねられた文化によるものなのです。ですから逆説的な言い方ですが、表現と意味の絆の必然は、それが自由であるがゆえなのです。
 これに対して、第二の自由は、価値の自由とでも言うべきものです。前のⅢのところで、音楽の個々の音あるいは音形の存在価値は全体としての音楽との関係や他の音や音形との関係から決定されることをお話しました。つまり、ある音形が深遠な思想を表わしているというような音楽以外のところに存在する価値が反映していたり、音形そのものに個別絶対の価値があると言ったことはないわけです。それは、ひとつの自立した閉じた体系の中での相対的なものです。ですから同じ音形を別の音楽作品の中で用いた場合、その音形の価値は全く違ってくると言えるのです。また、音楽というものは、それに関わる人間の視点に依存するということを前章で明らかにしましたが、価値を決定する体系自体も、最終的には視点に左右されるということになります。このように、音の存在価値について、自然法則のような必然的なルールはないのです。むしろ、聴き手である私の視点のほうが音楽という体系によって規制されていることも考えられ、私は音楽外の現実を音楽を通して捉えているとも言えるのです。これが、価値の自由です。
 ここでの二つの次元での自由についてです。表現と意味のむすびつきによって表わされたものは、元々音楽という体系の網をかけることによって現われたものなのです。そこで表現と意味というのは、あくまでも音楽という体系の中でのこととなります。それゆえ、表現の自由は価値の自由の結果的産物と言うことができます。この第二の自由が、価値の恣意性ということであるなら、価値を生ぜしめる関係としてのタテとヨコの関係のいずれともかかわっているということは、当然言えることです。
 ところで、ここでの自由というのは、個人の勝手気儘ではなく、謂わば人間のつくる社会でのルールみたいな人工的な、もっと端的に言えば便宜的なものだということは前に述べました。しかし、これがルールをつくった社会の中で、個人にとって、それがつくられたものではなく、元からあった絶対的必然的なものとして感じられる、という転倒した事態が起こります。ルールがつくられた当初の生き生きとしたところを失い、惰性と化して、個人には拘束としか感じられなくなる。個人の意識の中で、ある音や音形と、特定の感情やイメージが分かち難く結び付いてしまっている。本来相互的な、表現と意味がそれぞれ独立して実体を持って存在しているかのように受け取られてしまう。それだけならまだしも、音楽という体系が視点によりかたちづくられたものではなく、あたかも実体があるかのように受け取られてしまうということがあります。
 これは、本来なら個人の内発的な活動であるべきものが、押しつけられたもの、自分とは無縁な必然の世界にがんじがらめに閉じこめられたものとなってしまったことによると言えます。例えば、音楽を作曲家や演奏家の具体的な感情や思想を伝達する手段と見做してしまう立場などは、そう言えるのではないでしょうか。もっと卑近な例で言えば、解説書に書かれていることを、唯一無二金科玉条の如くみなして、その通りに音楽を聴こうとする。それ以外を間違いとするような立場があてはまると思います。
 このような転倒した事態においてさえ、それが如何に必然的に見えようとも、表現の自由のところで述べた通りで、表現と意味の必然性はそれが自由である限りにおいてなのです。つまり、個人が社会というものを形成する過程において、営々と積み上げられてきた共通の文化の中においてのみ必然のように見えるのです。必然などと言ってももとをただせば単なる約束事なのです。でなければ、音楽表現の進歩などということは、不可能になります。このような約束事は個人の活動の集積です。だから約束事を変えるのもまた個人の行為であるはずなのです。たしかに自由というのは、勝手気儘ではありません。しかし、だからと言って、音楽を教科書通りに聴く必要などないはずです。何と言っても、それは人間のつくったものなのですから。

2017年1月 9日 (月)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(5)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(2)

③かたちと実質
 表現と意味の表裏一体となった音楽とは、砂浜にひろげられた網のようなものです。この網次第で、砂浜には様々な模様が描かれることになります。そしてこの網自体は実体として存在するものではありません。この網をつくりひろげたのは人間ということができます。この網の目の織り成すのをかたちと呼び、かたちに対立するものとして実質というものを措くことにします。つまり、音楽の本質はかたちにあると言ってもよいと思います。 前の章で、音楽は感覚に訴えるものであるが故に、その表現が意味より優位に立つと言いました。例えば、ある音形をレガートで弾くか、スタカートで弾くかによって、その意味が変わってくるというわけです。そうなると、元の音形そのものはいったいどうなるのでしょうか。別々のものになってしまうのでしょうか。例えば、変奏曲において、聴き手は次々に変奏によって形を変えて現われるテーマを、形が変わっても同じものとして捉えます。この二つの例は一見矛盾するような様相を呈しています。しかし、これは同一性の問題なのです。
(注)同一性というと耳慣れないかもしれません。しかし、例えばアイデンテティの訳が自己(自我)同一性というと少しは身近に感じられるのではないでしょうか。ある人に対するのと、別の人に対するのでは、私は違う顔を示します。しかし、その私はひとつなので、それらの違う私に共通する同一のものがあるはずです。同一性をそういうものと受け取って下さい。かと言って、私は音楽を聴くことに、自分を見つけるということを重ねるような真摯な人間ではありません。
 同一性には、実は二種類考えられるのです。ひとつは実質のレヴェル、もう一つはかたちのレヴェルです。このことは、次のような例から説明することにします。A氏が昨日、東京駅午前九時発の「ひかり」を利用したという話を聞いたB氏が、「私も先月同じ列車を利用した」と答え、C氏が「私も昨日、Aさんと同じ列車に乗っていた」と言ったとします。ここで、B氏とC氏は、それぞれ「同じ列車」と言ったわけですが、この両者の内容は、その文脈から言って異なるものであることは、明らかだろうと思います。B氏の言う「同じ列車」は、列車の出発時刻、発着駅等の視点からみたもの、つまり時刻表上での同一性ということができます。これに対し、C氏の言う「同じ列車」は物理的な車輌、同じ乗務員という視点の同一性ということができます。この時、B氏の視点はかたちの視点C氏の視点は実質の視点と言うことができます。つまり「ひかり」という列車を構成しているのは、車輌の数とか素材、乗務員の構成や乗客の数といった実質ではなく発車時刻、発着駅、道程といった条件にほかならないのです。つまり、その「ひかり」を他の列車から区別する一切の差異、対立関係が「ひかり」の構成物なのです。
 音楽の表現とは、個々の音の物理的な鳴り響きといった実質ではないのです。もしそうならば、音楽と自動車のクラクションの音にかわりはないことになってしまいます。音楽は、一種の体系であると前のところで述べましたが、表現の面でもそれが当て嵌まるのです。音楽の表現において、かたちが本質的な構成をしているが、実質がそれを支えているわけです。
 次に、音楽の意味の面を見てみましょう。意味というものが、これまでの説明からかたちによって構成されていることは言うまでもないことだと思います。つまり、音楽の意味というものは実体として在るのではなく、ある視点によって切り取られ区分整理された一種の現象であるわけです。
 とすれば、意味の面での実質はどういうものと考えられるのでしょうか。比喩的にいえば、音楽の外に存在する人間によって体験可能なあらゆるものとでも言ったらよいでしょうか。これまで、音楽とは音楽以外のものを表わし、伝える手段ではない、と繰り返し述べてきました。それと矛盾するようなことがここに出て来てしまいました。これは、音楽以前にその対象となる現実が存在するのか、そして、その存在するとはどのようなことなのか、ということです。意味というからには、その指し示す対象を当然想定してしまいます。例えば、聴き手は音楽に、それが何を表わしているのか聴き取ろうとします。この対象は音楽外の現実と言ってもいいのでしょうか。これに対して、私は「否」と答える立場にあるのは、これまでの文章から明白です。仮に、作曲者や演奏家の「思い」とか「メッセージ」とか「感情」等を伝えようとするなら、言葉というより直接的なものがあるわけです。ウィアーザワールドのメッセージは専ら言葉、即ち歌詞のみによるものです。このメッセージの意味は言葉によって分節整理された言語の現実ということができます。音楽は、この言語と同じように、言語とは別個に音楽の現実を分節整理するのです。つまり、音楽以前に存在する現実とは、音楽というかたちの網の目をかけられる前の砂浜のようなものです。私の前のテーブルの上に、一つのコップがあるとします。このコップを私は、一杯の水を飲む道具としてみなす、つまり意味を与えることによって、はじめて単なるガラスの塊がコップとして私との間に関係が生じるわけです。私がコップを認識するのはその限りにおいてです。ここで、新たにかたちに対立する実質の性格が問題となってきました。表現や意味が、幾分かの留保を含むとはいえ、本質的にかたちであると言う場合にしても、現実に音楽が生ずる時には必ず、それぞれの実質に支えられていなければならないはずです。実際の個別の演奏なり作品なりが存在しているのは、実際の鳴り響きですし、それは音楽という関係において意味づけられた実質です。とすれば、実質というのは、表現や意味というかたちによって分節、区分整理されたものなりか、あるいはまた、音楽以前に存在する現実のことなのか。実質というものが両義的な性格を有していることになります。
 ここで、実質をかたちの対立概念とするならば、当然前者の性格のみをとることになるはずです。そこで、とり残された後者を、取りあえず仮に素材とよぶことにします。
 これまで議論はちょっと煩雑で、読んでいて混乱してしまったかもしれません。そこでここで整理してモデルを考えましょう。表現と意味には、かたちと実質という二項対立が実は、かたちと実質、そしてそれらと素材という二重の二項対立があったのです。表現の素材とは、かたちとは無関係の、音楽とは別個の単なる物質としての音です。これに対して、表現の実質は表現のかたちがあってはじめて存在する音楽の音、と対比的に言うことができます。これと同様に、意味の素材は、さきほども言ったように、音楽以前に存在する現実です。そして、これに対し意味の実質とは素材がかたちという網の目によって分節整理された、つまり意味付けされたものです。ここでの三者の関係は、素材はかたちによって分節整理される以前の、謂わば混沌として捉えられるものです。この素材を表現と意味というかたちを通して分節整理したものが実質です。音楽の聴き手にとって、聴き取られるのは、表現と意味が一枚の紙の裏表のように不分離一体の状態のもの、即ち表現イコール意味が、聴き手の心の中に残す刻印としてなのです。
 こう考えると、実質というのは聴き手がある視点で素材から切り取ったものだと言うことができます。ここでいう視点とは、かたちの網の目をかたちづくるものに他なりません。つまり音楽という体系(差異の関係)は、私という聴き手との関係によって意味を付与されて、はじめて存在しうるわけです。この意味で、音楽は聴き手である人間がつくる関係に先立っては存在しえないのです。音楽というものは、聴き手である私にとって、意味が付与されない限り、ただの音でしかないのです。聴き手である私は、素材である音に働きかけて、これに意味を付与する、つまりは素材を実質化する、それが音楽を聴くという行為の一環でもあるわけです。ここで、聴き手が素材に意味を付与すると言っても、それは勝手気ままに行なわれるというのではありません。その行為は他方で、意味を持つ音楽に規制されるものでもあるわけで。聴き手である私の意識もまた、一種の意味を与えられることになります。こうモデル化してみると、かたちというのは、音楽という閉じた体系の中での表現と意味との相互依存関係を形成するばかりでなく、聴き手が音楽を聴くという関係をも形成することがわかります。

2017年1月 8日 (日)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(4)~Ⅳ.独断と偏見によるクラシック音楽を聴く時の「意味」(1)

 前章では、クラシック音楽全般を念頭に置いて、音楽というものの表れ方にについて考えてきました。そしてここからは、私が個々の演奏等を聴く時のことを主に、音楽の現われについて考えてみたいと思います。ですから、前章では音楽能力と対比の上での一般的な音楽を扱ったのに対し、この章では具体的な音楽と対比の上での一般的な音楽を扱うことになります。
 これまでの文章で散々[意味]とか価値とか意味などという言葉を濫用してきました。読んでいるうちに、おそらく頭が混乱してしまっているのではないかと思いますが、もう少し我慢して下さい。ここでは表現との関係で意味について考えてみたいと思います。
①音楽はものごとの伝達手段か
 作曲家や演奏家と聴き手の間に、ある程度の共通のルールの存在を音楽は前提にしているということは前章でのべました。その際、言葉というものの構造と比較しながら、それを参照しつつ議論をすすめてきました。しかし、私が音楽を聴くということと、言葉を聞いたり話したりということは、根本的に違うもののはずのように思います。音楽は言葉と似たような点が多々ありますが、言葉のような流通のしかたはしません。言葉は、それが事物であれ感情であれ概念であれ何かを指し示すように見えます。例えば、「いぬ」という言葉で、私は、現実の隣のポチだったり、動物図鑑の犬という種だったりのある生き物を連想します。一見それらは不可分にむすびついているようにも見えます。
(注)この言葉についての議論は、言葉というものがそういうものだ、ということではなく、一見そう見えるということです。言葉は決してある動物を犬と名付けるだけのものではありません。
 音楽には、こういうことは考えられないと思います。ある音形があるものを指す、ということが厳然とルールになっている、などということは聞いたことがありません。しかし音楽は言葉では表わせないもの、例えば感情等を伝えるではないかという反論がおこりそうです。たしかに、この音楽は深い悲哀の情に充ちているとか、あるいは生命を躍動させるような歓喜を謳いあげている、などという形容を用い、一定の特殊化された感情を音楽が表わし聴き手に伝えていると見做されているように見受けられます。また、短音階や短調は何か悲しい感情を表わすものと受け取られてもいるようです。しかしだからと言って音楽が「悲しい」という感情を表わし伝えるものだ、つまりは伝達の手段、コミュニケイションの道具だ、と言ってしまってよいものでしょうか。「悲しい」を伝えるのなら、何もまわりくどい音楽などというものに頼ったりせず、直接「私は悲しい」と言えば、それで終わりだと思うのですが。それ以上に、現実の日常生活で感じる喜怒哀楽というような個別に区分整理された感情は、あくまで言葉という関係の世界の中でのものだと思うのです。つまり、元々「悲しい」という感情があって、それを言葉で「悲しい」と名付けたのではなく、「悲しい」ということばが、ある種の感情か気分を「悲しい」という視点で異質に思われる感情か気分から区別したものです。「悲しい」というのは、書店の本棚という感情気分から言葉という私の好みで取り出した数冊の本というわけなのです。ですから「悲しい」はあくまでも言葉であってその以外ではないのです。日常の言葉の中で生活している私にとっては個別の感情は言葉の関係の中で区分されているものです。ですから私が音楽を聴いて、ある個々の感情を感じるのは、音楽がそれを表わし伝えているからではなく、音楽が聴き手である私に働きかける一種の効果・作用であると考えられます。つまり、音楽に「悲しい」感情を感じるというのは、あくまでも音楽を聴く際の随伴現象なのだと言うことができると思います。
 音楽の意味とは、音楽という閉じた体系の中での関係において成立するものだと思います。つまり、音楽外のあるもの(言葉によってあらわされたもの)を指し示すために、ある音形が存在するというのではないのです。その反対に、ある音形があって、それにより表わされるものが初めて生まれるのです。つまり、音楽自体が意味であって、また音のあらわれでもあるのです。この両者が表裏一体となって初めて音楽は成立するものと思います。ことば、ある感情気分の中から「悲しい」という言葉のあらわれをもって「悲しい」にあらわされる意味を分節区別したように、音楽もある音形をもって分節区分をすることにより意味を生じさせるのです。但し、だからち言って、聴き手である私がその音形と分節区分された気分感情を必然的なものとして結び付けなければならないか、というとそんな必然性はないはずです。つまり、ある音形とそれが分節区分したものの間に、両者を結びつける必然性はない、自由であるはずだと思うのです。これについては、後の章で詳しく議論したいと思います。
②表現と意味
 前章の内容から音楽が表現と意味を同時に有する二重の存在であることがわかっていただけたかと思います。音楽を一枚の紙に例えれば、表現と意味はその表と裏と言うことができます。もしこの紙の表に鋏を入れたとすると、表のみならず裏も切れてしまいます。 音楽において、表現と意味は相互依存の関係にあります。両者それぞれがお互いの存在を前提としているのです。前のところで、ピアニストがピアノを弾いたのと、猫が鍵盤の上を駆け回ったものとの違いを意味の有無で考えました。つまりこの両者が音の響きにおいて、全く同じだったとして、ピアニストの演奏を音楽と見做すのは、その響きに意味があると見做すからです。そしてその限りにおいてピアノの響きは音楽の表現であるわけです。ですから、表現の成立には意味の存在が前提されていると考えられます。また他方、音楽の意味は表現によって区分整理され、音楽という体系に位置付けられたものなのですから、意味は表現なしには成立しえませせん。但し、だからと言って、表現と意味が対称的とはかぎりません。音楽では意味に対し表現が優位に立つと考えられます。これは音楽というものが感覚に訴えるものであると考えるからです。つまり、一つの音形をピアノで弾く場合、もしこの音形とその意味が不可分で両者が対等なら、音形の意味がひとつなのだからそれをレガートで弾いてもスタカートでも同じことになはずです。ところが、レガートで弾くか、スタカートで弾くかでは、音楽では全然違うものになってしまうのです。 そして当面、表現と意味は不分離です。
 最後に、表現は単なる物理的な音ではないし、意味は音楽とは別個に存在する音楽外の現実を指すのではないということです。これを「うつわ」と「なかみ」に言い換えれば、表現は既成の「なかみ」を盛る「うつわ」ではなく、意味にしても「うつわ」という鋳型に流し込む「なかみ」に終わるものではありません。

2017年1月 7日 (土)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(4)~Ⅲ.クラシック音楽をもとに音楽の在り方を考える(2)

④音楽は対立を内包した体系
 音楽の音は音楽という体系によって意味付けされる、つまり価値を付与されることによって、物理的な音から[意味]をもつ音楽の音となります。これは、どういうことでしょうか。例えば、私が買物で、一冊の本を買うとします。私はその本に買うべき価値を見出だしたわけです。他に沢山の本がある中で、その本だけを特別のものとして、他から区別したのです。但し、この本の価値は、絶対的なものではなく、私という視点から見出だされた相対的なものにすぎません。げんに私以外の人は、その本を手に取ることもしないことだってあるのですから。つまり、私は自分の視点により、沢山の本の中から、一冊の本を他の本とは区別し、他とは違うということで、買うべき価値を与えたということになります。音楽という価値付けの体系も、これと同じ働きをします。
 音楽の中の音は、それが音である限りにおいて、皆同じです。まして、前章でものべたように、音それぞれの価値は、その音に固有のものではありません。ですから、個々の音を単独で取り出してみれば、その価値は同一なのです。この時、それぞれの音の価値は、私が沢山並んだ本の中から一冊の本を他とは違うと区別したことにより価値を見出だしたように、他の音とは違うということで決まるのです。[意味]付けとは、そういう働きです。音楽の音達は、相互に同一でありながら、他方でお互いの違いにより区別される、という相反するものの対立のなかにあります。音楽という体系は、このような対立を常に中にもっているのです。価値付けるということは、区別するということであり謂わば、差異を生み出すということで、この対立はこのような働きの前提となるものです。つまり、対立が価値を生み出すのと思うのです。
⑤関係とは何か
 音楽の音は、音楽という体系の中で価値付けられている、前章で述べました。それが、どういうしくみなのか、ここで少し考えてみたいと思います。前章で述べた通り、価値というものは固有の実体はないのです。あくまで、体系の関係の中で相対的にあたえられるのです。ということは、関係のしかたによって、価値というものの在り方もかわってくるわけです。音楽を私が聴くとき、ある音を美しいと思うか否かは、その音自体の絶対的な美しさというよりは、私の聴き方によって決まる、と思うのです。関係とは、この場合、私の聴き方に相当します。
⑥タテの関係とヨコの関係
A)タテの関係
 関係というものの現われ方で、まず考えられるのが顕在的なタテの関係です。ここでまた、少し脇道に逸れて、言語のことを考えてみましょう。たとえば[太郎が花子をなぐった]という出来事があったとします。現実に起こったことは、太郎の手が振り上げられ、それが空間を移動し、花子に到達したという過程です。これを図式的に捉えれば[太郎]から発した[なぐる]という行為が[花子]に到達したということになります。これをそのまま言語に置き換えてみると[太郎]─[なぐる]─[花子]という順番になります。ところが、この順番では日本語としては不自然に感じられます。つまり、[太郎]─[なぐる]─[花子]の過程という現実とは別に、言語は固有の規則のようなものを持っていると考えてよいのではないでしょうか。このように、単語では言葉が規則に従って配列され、それが文という関係を成し、そこに意味が表れてくると考えられます。ここでの、個々の単語の意味は、文での位置や他の単語との関わりによって生まれます。[なぐる]という単語が現実の[太郎]の行為と結びつくと聞き手に理解されるようになるわけです。このような表れ方をタテの関係と呼ぶことにします。但し、音楽と言語とは違います。音楽の場合は、言語ほど規則が厳しくはないと思います。音楽は単一の音の配列に収まりきるものではありません。主旋律のみならいざしらず、伴奏がつけば、そこに和声のつながりが生じ、また対位法的に複数の配列が並存したりします。しかし、聴き手の耳の前に表れて音の価値、関係を明らかに示すのがタテの関係であることは同じです。
B)ヨコの関係
 私が音楽を聴く場合、よく次の音を予想することがあります。ある旋律を途中まで聴いていて、次にはこんな風になりそうだ、この音がきそうだ、というようにです。それは、たいてい外れるのですが。これって結構楽しいものだったりして…。さて、旋律という中で、音は各々価値をもたされています。それを聴く私は、先の音を予想する中で、一つの視点で続くべき価値をもったある音を選択したわけです。ところが、実際は違う音が選択されていました。つまり、音楽として私の前に現われている音は、その背後に選択されてもいいのに選択されなかった音の群れを隠しているのです。この表れた音と、隠れた音群との並列的な関係をヨコの関係と呼びます。この関係はタテの関係と違って、音楽という体系の中で、音楽以外とは別の自立した規則ではありません。ひとつの音が選択されるには、選択する人の視点やイメージ、その他の理由によるからです。ある音の次にくる音は、必然的にこうなるというのは、選択する人にとっての必然性なのです。そこには音楽そのものに内在する規則の制約は希薄である、言うことができます。
C)タテの関係とヨコの関係
 この両者は、似た例でいうと、文法と辞書のようなものと言うことができます。両者は相互依存なのです。辞書から、いくつかの独立した語をもってきて文法に従って、語を並べるというのではありません。もともと辞書におさめられている語は、文の中で意味を与えられることを前提としているのです。また文法もまた、語の存在を前提としているわけです。私が音楽を聴く際、この両者によってあるパターンのようなものが頭にあって、それをよすがに、音楽を聴いているのだと思います。音楽の経験を積むとは、じつにこのパターンを色々積み重ねることに他ならないのではないでしょうか。ブラームスが分かると私がいう場合、このパターンを私がブラームスの音楽に見出だすということに他ならないのだと思います。

2017年1月 6日 (金)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(3)~Ⅲ.クラシック音楽をもとに音楽の在り方を考える(1)

 前のところで、[音楽]全般の概念について考えてみました。ここまで読んで気づかれた人もいるのではないでしょうか。これまでのことは音楽に特有のことではなく、コミュニケイションの媒介全般に当てはまることではないか。音楽を表現の一種と位置付ければ同様のことは言語にだって言えるはずです。これまではたしかにそうかもしれません。しかし元々、音楽と言語は別のものです。それを同じに議論しようというのは、どこかで無理が生じるものです。例えば、「いぬ」という言葉を、ソプラノの澄んだ声で言おうが、口の中でモグモグさせて聞き取りにくく言おうが、「いぬ」に変わりはありません。しかし、音楽の場合は、この両者を同じとしてしまうことは、できない。と、ここまで言ってみて、これを同じとする音楽もあり得る、ということに気が付きました。しかし、できない、と言った言葉を引っ込めるわけにはいきません。私がこう言うことの、背後には、どうしても[音楽]を、現在自分が好んで聴いているものをもとに考えている、という事態があるようです。つまり、私が[音楽]を語ろうとしても、どうしても、私のよく聴くクラシック音楽を主に念頭にいれて、語ってしまうようです。だから、ここでは、[音楽]全般を考えようという無理はせず、クラシック音楽をもとに考えようと思います。ということは、前の所で考えた、三段階の[音楽]のうちの一般的な音楽を中心にして、考えてみようということです。
①音楽の音と日常の音
 日常生活の中で、人はさまざまな音に取り囲まれて生活しています。これを、音楽の音と分けて考えてみようと思います。日常生活の音は、常に、それが何から発せられたか、という聞かれ方をします。その何かとは、だいたい目に見えるものです。つまり、日常生活の音を聞くということは、見るということを補完するものだと言ってもよさそうです。それは、ヤカンの湯の沸騰の音だったり、硬貨を床に落としてたてる音だったり、親しい人の足音だったりするわけです。日常生活の音は、その音を発生させるものを指示する性質の音です。だから、日常生活の音を聞くために聞くということは、まずないだろうと思います。
 これに対して、音楽の音はどうでしょうか。音楽の音もたしかに物から発せられます。ピアノの音。ヴァイオリンの音。これらは、見るということを補完するだけで終わらないと思います。例えば目を閉じて、音楽を聴く人だっています。音楽の音は、見るということから、ある程度切り離されて、聴くために聴かれる音ではないでしょうか。
②音楽の音は意味をもつ音
 音楽の音と日常の音は違います。しかし、音楽の音もその音楽の脈絡から切り離されて単独に取り出された時には、音楽の音ではなくなってしまうと思います。それとは逆に、単独に鳴っているピアノの音は、それだけでは単なる物理的な音ですが、それがメロディやリズムの中で用いられた時、音楽の音になります。同じ音が、それに与えられた状況によって、単なる物理的な音ともなり、音楽の音ともなるのです。では、この時の音を、音楽の音たらしめるのは何なのでしょうか。
 ピアノでひとつのメロディを弾いたとします。このメロディは、単なる音の連続ではありません。それは、猫が鍵盤の上を歩いて作り出す音の連続とは違うものです。では、この両者の違いはどこにあるのでしょうか。ここで、脇道にそれますが、言語について少々考えてみましょう。例えば、単なる文字の連続である「お」「く」「ん」「が」と、ひとつの言葉「おんがく」との違いは、[意味]の有無にあります。言葉は[意味]を持つ文字の連続なのです。言葉と同様にメロディは[意味]を持った音の連続と考えられます。ということは、音楽の音は[意味]を持った音、と言うことができます。
 (注)[意味]と括弧書きにしたのは、後で出て来る意味という言葉との混同を避けるためです。
③音楽の音と音楽
 前の章で音楽の音はそれ自体が単独では音楽の音として成立しえない、ということを述べました。繰り返すようですが、音楽の音は、音楽の中に位置してはじめて音楽の音なのです。では、逆に音に対して、音楽はどうなのでしょう。音楽は音があって、はじめて私の耳に入ってくるものです。音楽は各個の音によって組み立てられているのでしょうか。私の答は、否です。音楽の音は、音楽があることを前提にしているのですから、音楽が音を前提にするというのは循環論理つまり矛盾していることになってしまいます。煉瓦を一個一個積み上げて家を建てるのとは違うのです。音楽は各個の音によってではなく、音と音とがおりなす関係から構成されていると考えられます。つまり、音楽とは関係という関わり合いが網の目のようになっている、その総体をイメージしてもらうと、分かり易いと思います。それを、体系という言葉で呼ぶことにします。
 念を押すようですが、ここでの音楽と音とは、全体と部分というようなものではないのです。前章の例を使えば、「おんがく」という言葉に[意味]があって、はじめて文字に[意味]があることになるのです。ここで、[意味]と括弧書きにした理由を明らかにします。通常、意味という語を用いる場合は、言葉の内容を指すことが多いのですが、時に「私がここにいても、[意味]がない」というような使い方をすることがあります。この[意味]は、私がここにいるのは価値がある、というような内容を指すものです。つまり価値を意味付けるのです、ですからここでの[意味]を価値と置き換えても、よいと思います。ですから全体として[意味]があって、その音に[意味]を付与する音楽というものを、価値の体系と言うことができます。音楽の音は、全体としての音楽との関係と、他の音との相互関係のなかで、はじめて、その存在価値が生じると思うのです。ドという音は、それだけでは音楽になれないのです、ほかにミとかソという音があって(あるいはドという音を土台づけるリズムがあって)初めて音楽になるのです。そのとき、ドという音は、音楽があるために必要になる、つまり存在価値が生じるわけです。これは、ドの音のみならず、ミやソの音もそうです。これら、ドミソの音は相互に価値を与え、求めているのです。それぞれの存在価値は互いの関係から生まれ、体系という関係の網の目から生まれる、と言うことができます。ですからここで、音が「在る」ということは「関係付けられて在る」という風に、言い換えることができるのです。
 この存在価値というものは、個々の音に固有ではないことは、もうおわかり頂けたかと思います。ということは、その価値の大小は関係の中で相対的に決定されるわけです。例えば、ピアノの音が美しいと言う時、そのピアノの一音一音が独立して美しいというよりは、全体の音楽を聴いた上で、その音楽との関わりの中で、他の音の兼ね合いながら、美しいと思うわけです。ドの音のみを聞いて美しいと思うのではなく、Aという曲を聴いて、きれいな曲だけど、とりわけ、ドミソの連なりのところが特に美しく、その音色がなんともいえない、というようになると思います。ということで、ひとつの音の固有の性質から、その価値は決まらないと言うことができます。

2017年1月 5日 (木)

独断と偏見により「音楽」とは何かを考えてみる(2)~Ⅱ.音楽を三つの段階に分けて考える

 ここではまず、日常使われている[音楽]というものを三つの段階に分けて考えてみようと思います。これは、あくまでもこの先考えを推し進めるための便宜としてなので、何故という理由は棚上げさせておきます。以下、そういう仮定があるとして読んで欲しいと思います。
①一番広い意味での定義
 人間の持つ普遍的な音楽に反応する能力、音を構成する能力、音楽に色々なことを感じとったり籠めたりする能力、およびその活動全般を謂います。これは、人間なら誰もが、潜在的に持っているものです。なお、これが実際にあるかどうかは、あえて考えないで下さい。この定義は、後の二つの段階の前提となるべきものなので、以下そういうものとして議論をすすめます。なお、一番広い意味での定義では言いにくいので、仮に音楽能力と言うことにします。
②一般的な音楽
 音楽についての文化を同じうする各共同体における音楽、つまり、人間が属する社会において、ある音の響きを音楽か雑音か分ける境界線を成り立たしめるバックボーンのようなものを含めて謂います。たとえばAさんの演奏をBさんが聴く場合、二人の間で音楽について共通したものがなければ、その場で演奏は成立しません。この場合の共通した音楽がこの一般的な音楽と思って下さって結構です。
③具体的な音楽
 個々の曲や演奏のことです。ひとつの作品に対する個々の演奏という関係は複雑ですが、ここでは一応棚上げします。
④音楽能力と一般的な音楽
 19世紀のフランスで狼の群れの中で成長した幼児が発見されました。この所謂アヴェロンの野性児は、音楽に対して興味を示さなかったそうです。聴覚そのものは優れていたにもかかわらず、音楽には反応しないのです。おそらく彼も、潜在的に音楽を感じる能力を持っているのでしょうが、それが表に出てこない。人間は社会的動物だと言ったのはアリストテレスですが、音楽がそれとして成り立つためには、人間が構成する社会の存在が不可欠なのだと思います。社会の中で人間は、生まれたての赤ん坊が、模倣や訓練により言語を習得するように、音楽をも身に付けるのだ、と思います。ここで、音楽には訓練ということが必要なことがわかります。アヴェロンの野性児が音楽に反応しなかったのは、必要とされる訓練を欠いていたからなのです。このように人間は誰でも音楽の能力を持ってはいます。しかし、それは潜在的なので、これが表に現われるには、訓練によって社会化しなければなりません。この関係で、潜在的な音楽能力が社会化して顕現したのが一般的な音楽なのです。そしてこの際に顕現せしむるのが社会であり、もっと限定すればその社会のなかで成り立つ文化なのです。
⑤一般的な音楽と具体的な音楽
 社会の中で音楽が成り立つと前章で言いましたが、実際に、それが現われるのは個々の作品や演奏を通じてです。ある社会、例えば、近代ヨーロッパのブルジョワ社会で成立した音楽には、音階の構造、和声の組合せ方、旋律のつくり等々には一定のパターンが、意識的にか無意識のうちにか決まっているように見えます。このパターンを受け入れたことにより、ある和音を不協和音か協和音か感じる(ハモってるとか、そうでないとかです)感覚が形成されるわけです。そして、それが実際の曲や演奏に反映することになります。つまり、作曲家は、このパターンに従って作曲をするわけです。つまり、パターンが作曲という個人の行為を通じて、一つの作品に現われるのです。今の例で19世紀の人には、増四度や長七度等の和音は一般に不協和音に聞こえるらしいのですが、これらの和音というのはジャズなどでは核心となる和音と言うことができるのです。だから、彼らに耽美的なはずのビル・エヴァンスとか聴かせてみたとすると、殆どの人が雑音のように感じることになると思います。しかし、なかで少数の人が、これを新しい響きの音楽だと感じたとしたら、そこからパターンの革新が起こることになります。
 ここで少し整理してみましょう。これまで言ってきたパターンが一般的な音楽で、個々の作品が具体的な音楽です。前章では一般的音楽概念つまりパターンは、人間の音楽の能力の表れでした。しかし、ここでは、このパターンこそが潜在的で、これが顕現したのが具体的な音楽、つまり個々の作品ということになるのです。
 前にもお話しましたが、Aさんの演奏をBさんが聴く場合、二人の間で音楽について共通したもの(一般的な音楽)がなければ、その場で演奏は成立しないのです。しかし、この一般的な音楽はなんら実体があるわけではありません。実体としてあるのは、あくまで個々の作品や演奏です。だから一般的な音楽と具体的な音楽の両者は、持ちつ持たれつの相互依存の関係にあるわけです。時として、実体がないはずのパターンが、さも実体があるかのように、作曲家等の個人に大きなプレッシャーとなって現われ、彼に束縛を感じさせることがあります。しかし、これとても、元々は一つ一つの作品や演奏の積み重ねがそうなったのであるのです。だから、このパターンが変わったり、新しくなるのは、最初は個々の作品や演奏からなのです。いつでも、どこでも、音楽の発展のキッカケは個人の行為です。

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