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音楽

2017年12月30日 (土)

ジャズを聴く(47)~アイク・ケベック「ヘヴィ・ソウル」

 アイク・ケベックは、素晴らしい“大衆的な”サクソフォン奏者であったが、その存命中は多くの批評家から実力を過小評価された。彼は、シンプルでありながら単純すぎるやり方では求め得ない魅力的な音楽を表現して見せた。彼は音色やスタイルの点で、とくにコールマン・ホーキンスのような明白なスイングジャズの傾向にあった。しかし、ケベックは単なるホーキンスのまねに終わっていない。彼は巨大なブルースのトーンや攻撃的だったり歓喜しているフレーズで、楽しげなアップ・テンポの曲や叙情的なスローブルースやバラードを演奏した。彼の演奏には、間違った指使いや複雑なものはなく、ストレートに心情から発せられるソロだった。ケベックは、かつてピアニストやパートタイムのタップダンサーもやったことがあるが、40年代にテナー・サックスに転向し、カウント・ベーシーとも協演した。彼は、ケニー・クラーク、ベニー・カーター、ロイ・エルドリッジと言った人々がリーダーを務めたニューヨークのバンドたちと協演した。彼はケニー・クラークと共同で「モップ・モップ」を作曲し、後にその曲はコールマン・ホーキンスによってビバップの最初期のセッションとしてレコーディングされた。ケベックは、40年代中頃から50年代はじめにかけて、キャブ・キャロウェイの楽団と協演し、その派生ユニットであるキャブ・ジャバーズとも協演した。ケベックは40年代にブルー・ノートで78枚ものアルバムに参加し、またサヴォイでもレコーディングを行なった。彼の歌である「ブルー・ハーレム」は大ヒットした。ケベックは、ラッキー・ミランダーと協演し、キャロウェイとレコーディングも行なった。アルフレッド・ライオンは40年代後半にケベックをブルー・ノートのアーティスト・アンド・レパートリー、つまり、アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作の担当者にした。後に、ケベックは多くの将来性ある才能をライオンに紹介した。ケベックは、しばらくの間、バンド・リーダーと兼任していたが、50年代後半まで、ブルー・ノートのためにレコーディングと才能の発掘に集中することとなった。彼がライオンのもとに連れて行った人々の中には、セロニアス・モンクやバド・パウエルもいた。ケベックは、モンクのブルー・ノートのデビュー盤のために「Suburban Eyes」を書いた。彼は50年代の終わりごろから、再び、演奏活動を始め、ソニー・クラーク、ジミー・スミス、歌手のドード・グリーンやスタンリー・タレンタインとブルー・ノートのセッションを行なった。彼の再会した音楽活動に対して、以前に彼を酷評した批評家から注目浴び評価を受けていたその時、1963年、ケベックは癌で死去した。

HEAVY SOUL  1961年11月16日録音
Jazquebec_soul  Acquitted
 Just One More Chance
 Que's Dilemma
 Brother Can You Spare a Dime
 The Man I Love
 Heavy Soul
 I Want a Little Girl
 Nature Boy
 Blues for Ike
 Ike Quebec (ts)
 Freddie Roach (org)
 Milt Hynton(b)
 Al Harewood (ds)
 『It Might As Well Be Spring』の1ヶ月ほど前に録音された、このアルバムでのケベックの演奏は『It Might As Well Be Spring』とほとんど変わりはない。このアルバムの特徴としては。オルガンのフレディ・ローチが積極的であるところと、アップ・テンポの多少はアグレシッブな演奏が含まれていることだろう。
 アルバム最初の「Acquitted」は気合の入ったアップ・テンポのナンバーで、『It Might As Well Be Spring』がゆったりとした演奏でリラックスして始まるのとは対照的。リズム・セクションがマイルス・デイビスの「マイルストーン」を想わせる4ビートを痛快にたたき出す。そこで、オルガンのフレーズが突っかかってくる。そのようなバックに対して、ケベックは野太い音で、メロディックなフレーズを歌わせる。ちょっとしたミスマッチの感はあるが、それが不思議とハマってしまう。次の「Just One More Chance」で、ぐっとテンポが落ちて甘いバラードになると、『It Might As Well Be Spring』の時と同じような、ゆったりとしたグルーヴで昭和歌謡のムードのようにケベックのサックスがすすり泣く。3曲目の「Que's Dilemma」では、最初の「Acquitted」と同じようなアップ・テンポの曲で、1曲目と同じようにアグレッシブなリズム・セクションに対して、アナクロとも言えるスタイルで鷹揚と構えるケベックのサックス。しかし、こちらの演奏ではアドリブにはいると次第に演奏が厚くなって、とくにオルガンやベースが突っかかってくるよう。
 こうして、ケベックの演奏を聴いていると、ジャズのルーツが民衆から生まれてきた音楽であることを、同時代の他のプレイヤーよりも強く感じる。ケベック自身は、ベースとなるスタイルが「中間派」ではあっても、バップのスタイルを無視していたわけではないし、R&B等のほかの大衆音楽の動向にも目配りしていたのは、ブルー・ノートで先鋭的な才能を発掘していたことからも分かる。その一方で、ケベックにはバッパーやその後の先端的なジャズ奏者たちのような、自由な即興を追求するとか、ユニークな演奏を目指すとか、そういった自己自身に根ざし、発せられる表現衝動とか欲求のような要素があまり感じられない。それよりも、大衆的な音楽として人々に受け容れられ、その人々の間で心地好い空間をつくりだすことでよしとする姿勢があるように思う。ケベックの生きていた時代では、それが後進性のように映ってしまったのではないか。しかし、その後のジャズが他のジャンルの音楽とのコラボレーション等を通じてサウンド志向になったり、環境音楽やワールドミュージックの方を向いたりするなかで、音楽スタイルは別にして、ケベックの姿勢を間接的に受け継ぐ人が出てきているように思う。
 そして8曲目の「Nature Boy」は、ケベックの音楽の底力というべきか、ミルト・ヒントンが弾くベースとのデュオという虚飾と贅肉をギリギリのところまで拝した編成で、ボン・ボンと骨太の深い音で爪弾かれるベースと、剥き出しのメロディのようなフレーズで対話する。短い時間だけれど、部屋とそっと独りでいつくしみように静かに聴いていたい演奏。

2017年12月29日 (金)

ジャズを聴く(46)~アイク・ケベック「春の如く」

Jazquebec  テナー・サックス奏者。ここでは、実際の響きを具体的に言葉にして、読んだ人がその音楽を響きとして想像できるように心掛けているつもりだが、ここでは比喩的な言い方を許してもらいたい。このページで取り上げているミュージャンの大半はライブ演奏では「俺の演奏を聴け」とばかりに、自分の主張を音楽で表現したり、音楽自体が重要であるというようなことで、音楽を創ることに全身全霊をかけ、聴き手にも相応の緊張を求めている。ある意味、自分が神のように自由にやりたい放題の演奏をして、聴き手に押し付けるところもある。しかし、これに対してケベックの場合には、ライブに集う人々の間に楽しい時間や空間をつくる手段として演奏しているような音楽をやっているように思える。例えば、ライブハウスのテーブルについて、とくに音楽を聴いていなくて酒を飲んでいる人を否定することなく、音楽で、その人が気持ちよく酒を飲めるような雰囲気に自然となっていることでよしとする。そういった性格の音楽をやっているプレイヤーではないかと思う。
 ケベックの音楽スタイルは、中間派といわれ、彼が音楽活動していた時には、時代のジャズであったバップに比べて、昔のハーレム・ジャズとかスィングとかを引き摺ったアナクロと言われるようなスタイルだった。それは、例えばアドリブで走ったりしないで、彼の吹くフレーズのひとつひとつがメロディックで親しみ易く、それを聞きやすくするために野太い音でメロディがはっきりと分かるように朗々と吹いている。それだから、聴きようによっては昭和の歌謡曲ムードをキャバレーで演っているようにも聴こえる。そういう通俗性がある。しかし、そういうコテコテさに陥ってしまう一歩手前のところでの寸止めの一線をケベック自身がわきまえていて、その一線を越えないでとどまっているところで下品にならず品格を保っている。例えば、ブロウを派手にブチかましてオーバーブローになることはなく、サブトーンですすり泣くような吹き方をするときでも抑制がきいているので、悠々としたハートウォームなトーンとして聴こえてくる。そのため、聴き手はリラックスして、安心して身を委ねることができる。
 このように書くと、単に心地好いだけのムード音楽と受け取られてしまうかもしれないが、ケベックの演奏には抑制が効いており、その土台には自己の音楽を冷静で客観的に見る視線と、過剰を律する自己に対する厳しい姿勢があって、それが彼の演奏に品格を与えている。
T MIGHT AS WELL BE SPRING   1961年12月29日録音
Jazleeknitz_har  It Might As Well Be Spring
 A Light Reprieve
 Easy Don't Hurt
 Lover Man
 Ol' Man River
 Willow Weep For Me
 Ike Quebec (ts)
 Freddie Roach (org)
 Milt Hinton (b)
 Al Harewood (ds)
 『春の如く』という邦題と、緑色の基調のジャケットデザインが、このアルバムの雰囲気に寄り添うようで、見事に印象を表わしている。
 最初の「It Might As Well Be Spring」は、ゆったりとしたオルガンのイントロに導かれるように入ってくるケベックのサックスの音。あまりにも低くゆったりと吹かれる。それは、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズの演奏に慣れた耳には、いかにも一時代前の古臭くも聞こえる演奏は、却って新鮮で衝撃的に響く。ドロドロといっていいほどのスローテンポの演奏で、野太いテナーサックスの音色、溜めに溜めたようなグルーヴ感。スタンダードナンバーのブルージーなテーマを、ケベックのサックスで聴くと、まるでひとむかし前の切ない歌謡ムードを想わせる。それは、ジャズが通俗的な大衆音楽であることを、今さらながらに想い起させる。そのあとに続くアドリブパートもビバップのようなハイテンションになることなく、少しテンポは上がるものの、大らかでリラックスしたトーンが一貫している。しかも、ケベックの吹くフレーズはメロディックで朗々としている。バックも、ケベックに寄り添うように、フレディ・ローチのオルガンは冒頭の「ショワー」というシャワーのようなサウンドは、聴く者を一気に、この世界に招き入れてしまうもので、ゆったりと気持ちの良いテンポを形づくっていて、ミルト・ヒントンのベースは、ゆったりと大股で歩くように「ズンズン」と弾かれている。ケベックを中心に4人の奏者が、ビバップより以前のハーレムジャズをルーツにする中間派と呼ばれるスタイルで一貫していて、居直ったような自信に溢れる演奏をしている。
 次の「A Light Reprieve」は、アップ・テンポの曲になり、若干ドラムスが煽るようなところ見せるが、ケベックはいっこうに動じることなく悠々とした演奏を崩さない。
4曲目の「Lover Man」もスタンダード・ナンバー。1曲目に輪をかけたスローな曲で、バラードのように立ち止まって歌うというのではなく、そのスロー・テンポでもグルーヴするノリは超絶的と言えるかもしれない。1曲目と同じように野太い音でサブトーンというよりはブレス漏れになりそうなほどのしのび泣くようなソウルフルなサックスの暖かい響きで、歌心あふれるフレーズを次から次へと繰り出してくる。
 次の5曲目の「Ol' Man River」は、このアルバムでもっとも急速なナンバーで、スイングするケベックは緊張感の高い演奏を展開し、後半にはリズム・セクションもそれにつられて徐々に盛り上がってくるのだが、どこか鷹揚としているように聴こえてくる。
このアルバムは全体としてスローテンポのゆったりとしたナンバーがほとんどで、ケベックのアナクロな野太い音に酔うようにして、リラックスして身を委ねていたい。

2017年6月29日 (木)

 私はブルックナーをこう聴いている(15)~ⅩⅥ.第3楽章(2)

 クライマックスの後、ヴァイオリンの循環モチーフの繰り返しをバックに中間部を予告するかのような舞曲風の旋律が奏でられる短い経過部分。そして、前章の部分を繰り返します。[0:50~2:20]
 この楽章はヴァイオリンの循環モチーフの繰り返しでてきていると思います。このモチーフはそれほど長くはなく、またよくうたうメロディというのでもないので、このモチーフの繰り返しが謂わば通奏低音のように楽章全体のリズムをつくりだしているように聞き取ることができます。そこでブルックナーの繰り返しを聴くということが、この楽章では一つのポイントとなっています。繰り返しを聴くということでは、前章でも申し上げました同じことを同じように繰り返すか否かという点、この点においてはブルックナーの繰り返しは何かしら前回とは変化が見られるということがあります。前章の記述では部分的なことに終始しましたが、この楽章全体においては通奏低音となっているヴァイオリンの循環モチーフがカノン風に変奏されている。ブルックナーには珍しい変奏曲として聴くこともできるということが挙げられます。通奏低音の変奏といえば、バッハ等で有名なパッサカリアという形式がありますが、そこまで厳格に受け取る必要はなく、ロマン派の作品に多い性格変奏(バッハのゴールドベルク変奏曲とかブラームスのハイドン・バリエィション等)的な受け取り方をしてほしいと思います。ここでは、その他の点について述べさせて下さい。
 さて、ここで話がブルックナーから離れます。モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番イ単調K310をマリア・ジョアオ・ピリスというピアニストの1974年の録音で聴いたときの印象です。第1楽章の提示部のあと展開部への間の短い経過句の演奏です([C37-7387] 19 0:40~2:20)。付点リズムの和音に乗って前打音の導きで第1主題、そして長調に転調して第2主題の提示が行なわれます。その後、左手のバスがドソミソという分散和音をずっと弾き続けるところがあります。
 註 *1:[C37-7387] 19 0:40~2:20

2017年6月28日 (水)

 私はブルックナーをこう聴いている(14)~ⅩⅤ.ブルックナーと大友克洋

 大友克洋は「アキラ」や「童夢」といった作品を書いたまんが家です。芸術家ブルックナーと低俗な漫画家を同列に並べるのは不謹慎との声もあることでしょうが、その点は私の独断と偏見ですのでどうかお許し下さい。
Bruknerohtomo2  左図の女の子の絵をご覧下さい。この子は、物語の中では一応可愛い女の子とされてはいるのですがそうは見えません。目が小さくて吊り上がっている、鼻も低い、よく外国の漫画にあるような典型的な日本人の顔に近い、要するにミもフタもない日本人の顔になっています。少女まんがを見るまでもなく他のまんがの場合ならば、可愛い女の子を描くときは、目が大きくパッチリしていて(瞳に星が輝いている)鼻筋が通っているのが普通です。まんがというのは単なる絵だけではなくて約束事が沢山ありまして、これが可愛い女の子だというときには、その女の子に絵に可愛い女の子の記号を描くことが必要です。それが瞳の星だったり、その他であるわけです。二流のまんが家なら、たとえ絵が下手でもその記号と話の上でそうだという約束になっていれば、読者はそういうものとして読むものなのです。極端なことを言えば、女の子は美人とブスの二通りいれば、絵としてのまんがは成立してしまいます。美人は憧れの対象、ブスはギャグの対象です。そこで、美人には憧れ、ブスには諧謔という記号が数多くあるのです。しかし、大友克洋は図のようにどちらでもない女の子を描きました。つまり、憧れも諧謔も大友克洋のまんがにはないのです。
 Bruknerohtomo さらに、右図、殺した人間をぶつ切りにして冷蔵庫に入れたという場面です。私には人を殺してしまったという血生臭さのようなものが全く感じられません。死体を処理するときに流される血はただの大量の液体になっていて、死体は徹底的にただの物質になっているのです。ここで描かれている人間は、憧れやギャグの対象にはなりえません。むしろ、人間=生理的肉体とでもいうような描かれ方をしています。また、冷蔵庫の中を見てみて下さい。卵や飲料のビンが死体と一緒に描かれています。まんがというものは、必要でないものは省略してしまうものですが、ここではこういうディテールが描き込まれています。これは意図的なものです。つまり、人間の死体とビンが等価に扱われているというわけです。そういう人間を描くのに、細くて均質な線が用いられています。だから良いとか悪いとか倫理的に判断しない、倫理を飛び越えてこのキレのいい線が人間や物質を表現している。別の言い方をすると、何かとりつくシマのないという感じもします。あらゆる思い入れを排除する、それが大友克洋の軽みの正体だと思います。
 人間の内面のあらわれとしての感情を表現する旋律が空虚であること、素材としての音がゴシックのアーチのように等価に扱われていること。こんなところに、ブルックナーと大友克洋の接点を見出しているのです。表層的な存在などというと難しく感じられるでしょうか…。
 そもそも、人間が内面を有するという考えには、自分という輪郭を設定して(それを自意識とか自己とか言うのでしょうが)その輪郭の外側と内側があって、それらは違うものだという前提が設定されています。その違いを拡大していくと、外側で他人と接している自分は偽の自分で、本当の自分は内側にあるのだという認識に結び付いてしまうものです。他人と関係する自分は偽で、自分自身が認識する自分のみが本当なのだということになる。そうすると、自分の内面というものが何か充実した実体を持っているかのように思われてくるのです。たとえば、誰も自分を理解してくれないというような感情は、そういうところから出て来易い。こういう感情というのは十代の思春期の子供が陥りやすい。最近では、尾崎豊の歌などに端的にうたわれています。(だからと言って、尾崎豊の歌が良いとか悪いとかということではないので、誤解しないでほしいと思います。)私の場合も例外ではありませんでした。しかし、こんなことは社会に出て生活を為すなかで他人と接する自分を受け入れることで意識しなくなっていくものと思います。私の場合は、未だにそういった意識を消すことはできないではいます。ただ、『本当の自分』などというものはどこにもないと思っています。
 自分というか『本当の自分』などというものが、一時期の私にはプレッシャーでしたが、そんなものはとこにもないと思うことで気が楽になったのでした。『本当の自分』というものがあって、いつもそれとの距離を感じて、ズレを意識せざるをえなくなって、そのくせ『本当の自分』が何なのかなどは曖昧で判るわけがないですから。誰も自分のことを誤解している、何もわかっていない等とうそぶいてみても、当の自分だってわかってはいないのです。それで落ち込んでしまう。けれども、『本当の自分』なんてものはなくて、ただ他人や自分の目に映る自分があるだけなのです。それでプレッシャーを払い除けることができたんです。自分では内向的とおもっていても、他人が社交的だと見ているのならそれは事実なわけです。もっと言えば、自分などというものは、非連続的にストロボのように点滅している瞬間瞬間の点の集合のようなもので、それがあたかも連続しているかのように連なって見えているだけなのだ、というように。自分でも自分と思えない行動をすれば、他人(私が自分を見るときにも対象化しているわけですから、当然私も他人に含まれます。)にはそういうものとして見える。それは嘘でも偽でもなく、その限りで事実なだけだ。それならそれでいいではないか。そう思えば、いくらでも自分を変えることができる、何をしてもいいということになります。
 そうしてみると、大友克洋のまんがのクールさ、ミもフタもない視線、乾いた笑い、軽み、それらが、私にとっての大問題だった内面性とかメッセージとかテーマなどというものが転倒して感じられました。内面が反転すれば表面なわけで、同じものであるはずなのにどこか虚ろに見えてしまったのです。謂わば大友克洋のまんがにミもフタもないけれど等身大の自分を見ることができました。“おまえなんて、こんなもんだ。”という具合にです。ブルックナーの音楽もこれに通じるところがあるのです。愛想のなさとか、壮大な音の構築をしながら実は内側は空虚であることとか、素材としての音がどれが主でどれが従ということなく等価であることや、ディテールに固執することとか、その他諸々が敢えて言えば尾崎豊のようなものからの解毒剤の役をはたしてくれたのでした。それが、このような小文を草した動機でもあります。その意味で、ブルックナーの音楽の対して過剰な思い入れや尤もらしい意味付けや神話の靄に包み込んでしまうのを避ける所以です。ミもフタもない音楽です、ミもフタもなく聴こうではありませんか。
 ※偉そうなことを尤もらしく書きましたが、私は未だにふっ切れてはおりません。例えば「みにくいあひるのこ」という童話があります。醜いと言われ続けた子供が実は白鳥の子供だったという話。白鳥は美しい鳥でしょう。だからと言って誰の目にも醜いその子供が白鳥の子だから美しいのだと評価が変わるわけはないのです。しかし、本人にとっては醜いという事実を認めるのは苦しいことです。白鳥の子供という『本当の自分』 は美しいというのは、そんな当人にとって都合のいい逃げ場です。私も逃げ場を放棄するのは辛いことで、どうしても決心がつきかねて逡巡しているのが現状です。

2017年6月27日 (火)

私はブルックナーをこう聴いている(13)~ⅩⅣ. 第3楽章(1)

 これまで、細部に拘泥したり、寄り道をしたりで大分長く書いてしまっております。この第3楽章で、全体の半分を通過したことになります。しかし、ブルックナーのこの交響曲は前半に較べて後半は尻すぼみのように短くなっているので、この記事も予定の7割通過という感じです。もう少しでので、お付き合い願います。
 ヴァイオリンの循環するモチーフの繰り返しで、第3楽章は開始されます。これは第1楽章冒頭の“暗い波のような動き”の低弦の前のめりの上昇音階によく似ていて、両者のつながりを聴く者に想わせます。第1楽章では、この上昇音階に上方から被さるようにヴァイオリンの下降音階が降りて、双方の動きが絡み合います。さて、この第3楽章では上方からの下降音階の代わりに、低弦のピチカートが対応しています。まずヴァイオリンがモチーフを1回だけ語尾を下げない問い掛けのようなかたちで弾くと、ヴァイオリンの休止に差し挟むように低弦のピチカートがそれに応答します。それをもう1回。但し、この2回目はヴァイオリンは同じように問い掛けるのですが、応えるピチカートはほんの少しだけトーンが高くなります。この後3回目に至ってヴァイオリンはモチーフの語尾を上げて休止することなくモチーフを循環させます。対応するかのようにピチカートが追い掛けるように応答のモチーフを循環させる。そしてヴァイオリンのモチーフを弦楽器の各パートが受け渡しをするように重なりながら、クレッシェンドしていって小さなクライマックスに達します。そこでは、前半を弦楽部によってヴァイオリンの循環モチーフが主題提示のように強音で演奏されると、後半では金管部が対応するピチカートのモチーフを刻みます。[0:00~0:50]
 第1楽章の“暗い波のような動き”では、分散和音の上昇音階に対して下降音階、前拍に対して後拍、というように対比的な要素が並列されていました。この第3楽章では、ヴァイオリンの循環モチーフが推進力を持って前へ…と行こうとする傾向があり、低弦のピチカートはその動きを押し止めようとするような静止する傾向があって、両者の併存が劇的な動きを感じさせます。つまり、こうです。最初のところはヴァイオリンのモチーフがワンフレーズで、それが前へ行こうとする流れをつくります。しかし、休止とともに低弦のピチカートがその流れを堰き止める。もう1回。こんどは流れの勢いが強くなったのかピチカートのトーンが少しだけ高くなります。聴いている私は、ヴァイオリンの変化には気が付きませんでしたが、ピチカートのトーンが少しだけ高くなったのでヴァイオリンの変化があったのかもしれないと回想してしまうのでした。(このように繰り返しに着目してみると、同じことを同じに絶対に繰り返さない作曲家がいて、ブルックナーもショパンやモーツァルトなどと共にその仲間に入ると私は思います。)そして3回目。ヴァイオリンのモチーフが循環しはじめると流れは止まることなく勢いづきはじめます。静止する傾向のピチカートは勢いづいた流れを追い掛け押し止めようと何度も繰り返します。そして、強音での奔流のような音の洪水、そこでの循環モチーフが主題のように提示されます。流れは、何度か押し止められることで、ピチカートという堰に勢いをためられます。その堰を破り、勢いが増して流れを再開します。ただ単に前へ進むだけならスゥーッと流れていってしまうのを、一旦勢いをとどめることでグッと勢いをためて、凝縮した勢いを一気に放出することでカタルシスを生み出す。おそらくここで、ブルックナーを聴く人は、音の動きをとめることのうちに音楽の運動が生み出されるという逆説に気付かずにはいられないと思います。まして、ブルックナーの交響曲には、オーケストラの全楽器が音を止めてしまうという瞬間が確かに存在しているわけです。言うまでもなく、それはブルックナー休止のことです。この瞬間、音楽の演奏ということについて作曲家たちが周到に回避していたすべてが、一挙に許されてしまっていることで、聴く私を途方もなく動揺させるのです。と同時に、例えば演奏会場でオーケストラが音を出すのをやめてしまった時、客席にいる私は舞台上に自分自身と同じものを認めずにはおられず、そのことによって思わず粛然とするほかはないのです。いままさに演奏会という場を共有しつつある自分は、舞台の上で楽器を外すオーケストラと同じ姿勢で椅子に座って、同じように自ら音を発することを放棄し、静寂のなかで聴覚を集中しているわけです。音楽を聴くとは、総休止のときのように自らは音を発するという動きを止めたまま、集中して聴きいるという姿勢の上に成立する体験のことです。それを、便宜的な分類ですが、音を発する側も受け取る側もこの瞬間全く同じに共有してしまう。まるでお互いの境界が取り払われてしまうような経験です。そう思うと、私はここで音楽の演奏そのものの限界に触れてしまったかのように緊張せざるをえなくなってしまいます。しかし、音楽を聴くという体験は、日常生活のなかでのほんの一瞬にすぎません。演奏会が終われば、私は席をガサガサと立ち友人と感想を語り合うでしょう。日常の動きのなかで色々な物音を無意識のうちに発することになるでしょう。そうです、こんな体験はそう長くは続かないのです。そこでここでの演奏はいったいどうなってしまうのでしょうか。
 このとき、一つの転倒がおこるのです。休止は音楽の流れを一旦堰き止めることで、矯めをつくり勢いを増幅させるのではない。この音楽は休止というものを持ってしまったが故に、音の動きという例外的なことを開始しなければないないという関係が成り立ってしまう。このような転倒という現象によって、音楽を聴く私の現実の時間と音楽を聴くという時間とが重なり合うとき、音を発することをやめたオーケストラの各パートが、その徹底した静止ゆえに却って音楽全体に動きを与える契機となる。この場合の動きとは、音楽とそれを聴く私との関係がそれまでとは異なった意味を持ってしまうことをも含有することになってしまいます。アリストテレスは「詩学」のなかでドラマには発見と逆転が必要であると言っています。そして発見と逆転が同時に起こるのが望ましい。たとえばソフォクレスの「オイディプス王」では、オイディプスは自分がよき王となることを望むが故に、自分が父親殺しであり母親と結婚したことを発見する。こんなことを知ってしまったら、引っ繰り返らざるをえない。つまり、彼の人間としての存在が逆転してしまうのです。ブルックナーの音楽が、それほどの深刻さを持っているとは言い切れません。しかし、聴く者と聴かれる音楽との関係を転倒させてしまうだけのものは、確かに認めざるをえません。その意味で、この休止は劇的な動きを生み出していると言うことができると思います。ですが、聴く者にこのような試練とも言いうるものを課すブルックナーという音楽は、単にすばらしい音楽として済ませてしまうことはできるのでしょうか。
 つい、キィボートを叩く指先に力が入ってしまいました。第3楽章のこの部分にブルックナー休止があるわけではないのに、記述が飛躍してしまいました。

2017年6月23日 (金)

私はブルックナーをこう聴いている(12)~ⅩⅢ.ブルックナーとブラームス

 私という人間がブルックナーの音楽をどのように聴いているかを具体的にお話してきたつもりですが、ここでブルックナーの特徴と申しましても結局は私の個人的な感性のものなので、他の作曲家と比較することで、よりブルックナーの特徴が泛かび上がるのではないかと思います。とくにここでは、オーケストラの中低音を強調することで重量感溢れる響きをする点や、旋律の動きが和声の分厚い伴奏を伴う点、ソナタ形式等の音楽のかたちでガッチリ枠をつくりその中で音を自律的に動かしていくことで音楽をつくる点などでブルックナーと共通点の多いブラームスと比較してみることにします。
E11ja01  ブラームス晩年のピアノ小品を「間奏曲集」というタイトルのもとにグレン・グールドが演奏したレコード(グレン・グールド「ブラームス間奏曲集」)があります。この中の、例えば変ホ長調のOp117-1という作品は右手でスコットランド民謡をおもわせる素朴なメロディを淡々と弾き、左手で和音の伴奏をつけるという、全体としてもきちんとした三部形式にまとめられた、至って単純なものです。これをグールドは左手の和音伴奏をするとき、和音を構成する音を少しずらして弾きます。分散和音という程ではないのですが、これによって、左手の音が途切れなく連続しているように聞こえてきます。それだけではなく、単純に和音を弾いていたときは、ターン ターンと音に規則的な隙間ができていて、それがリズムを刻むように作品全体を秩序付けていたのに気づかされます。これは、失って甫めて気が付く体のもので、最近リリースされたヴァレリ・アファナシエフの演奏(ヴァレリー・アファナシエフ「ブラームス後期ピアノ作品集」 [COCO-75090])などでは顕著に聞き取れるものです。これをグールドは少しずらして弾くことで、この規則的なリズムを崩してしまいます。するとどうでしょう。作品全体の印象が、まるで今にも崩壊してしまいそうな、はかなげなものに変貌してしまうのです。そして、和音をずらし気味に弾くことで、それまで和音の響きの中に隠れていた、その一つ一つの音が現われるにつれて、度重なる転調などの際に、内声部に思いもよらなかったメロディが幾つも現われてくるのです。このような、未知のメロディの発見は素晴らしい体験なのですが、それだから、この演奏がいいというのではありません。ブラームスという厳格なほどがっちりとした構成で作曲した人の晩年の形式が裸で顕わになっているような作品が、実はちょっとのことで崩壊してしまいそうな危うさを持っていたこと、また強い形式感の裏には驚くほど豊穣なメロディが隠されていたこと、それが形式が崩れることで一気に花開いたこと、たった数分の小品にストイックな形式と豊穣なメロディとのこれほどまでの強い緊張があったことを、この演奏がまざまざと見せ付けてくれたことです。
ブラームスの音楽の魅力的な部分は、聴いている私には、常に隠されているものです。ロマンティシズムの枢要である内心を表わした旋律は、ブラームスの音楽では、あからさまにはならないのです。内声部の充実した分厚い響きのなかに、それは埋もれています。それを、幾重もの響きの襞をかきわけながら探していく、これがブラームスの音楽を聴く醍醐味です。
Remyakei  内声部が分厚く充実していることで接着剤のように機能して、テナーの高音部とバスで全体を支える低音部が一体となり、全体がひとつの塊のように聞こえてくる。ブラームスの音楽に感じられる重厚さとか渋さといったものは、こういう音づくりから生まれるものと考えられます。油絵の具をパレットの上で混ぜていくと最終的には渋く重々しいグレーになります。様々な絵の具を様々に混ぜることによって、このようなグレーに様々なニュアンスを与え、これを使い分けて微妙な光と影のニュアンスを表現した画家にレンブラントがいます。彼の代表作「夜警」は夜の闇と夜警の人々の持つ明かりの織り成す微妙な陰影が描かれています。そこでの夜の闇を表現している黒やグレーの色が、画面の上で一様ではないのです。画面上の場所によって色合いが異なっているのがわかるのです。多分絵の具の混ぜ具合が全部違うのでしょう。黒やグレーとして表面にあらわれている色の背後に様々な色が様々に隠されている。一見すると、一面に黒やグレーが塗られている地味で暗い作品のようですが、その背後には驚くほどバラエティに富んだ世界が隠されている。気が付いてみれば、その汲めども尽くせぬ豊かさの虜になってしまっている。それがレンブラントの魅力です。中間色に終始するようなブラームスのオーケストレイションには、レンブラントの色彩のような隠された豊かさがあります。それが、例えばグレン・グールドの演奏のようにはからずも露呈された時、あまりの豊かさに戸惑うのです。
 このようにブラームスの音楽は、<あらわれたもの>と<隠されたもの>の二極構造になっていて、主眼は後者にあります。上でも申しましたように、それを探し求めることがブラームスの音楽を聴く、ひとつの醍醐味と言うことができます。これに対して、ブルックナーの音楽には<隠されたもの>が存在しません。どこまでもあっけらかんとして、すべては表層に露わになっているのです。但し、そのすべてを聴くか否かは聴く者に任されているのです。その意味でブラームスなどに較べれば、聴き手にとってはなんと残酷な音楽なのでしょうか。

2017年6月22日 (木)

私はブルックナーをこう聴いている(11)~ⅩⅡ.第2楽章(2)

 では、ブルックナーを聴いている私は、どのようにして驚きの行程を辿り得るのでしょうか。それには、やはり空虚な主旋律に向けて耳を澄まし続けなければなりません。空虚な旋律、それは<聖なる空虚>として神の超越的な宇宙につながる通路でありました。しかし生身の人間にとって、そんな超越と四六時中向き合っていることはできません。そんな時空虚であるはずの旋律はどんなことになるのか。そういった観点からこの曲全体に注意を向けていくと、その時聞こえてくるのは、この第2楽章の中でヴァイオリンの刻みにのって中声部の弦が息の長いメロディを単一の声部で弾き切ってしまうところなのです。[3:45~4:25]その事実に、私は心の底から驚こうと思います。いったいこんなことがあっていいのだろうか、と。しかも、このメロディは、これまで全く見られなかったよく歌うメロディでもあります。事態はブルックナーにとって尋常なものではないのです。とりたてて美しいとも思えないこのメロディが単一の声部で剥き出しのまま始まる時、聴く私はその無媒介的な迫力或いは生々しさに圧倒され、思わず息をのまずにはいられなくなります。中心となる旋律がない場合(この曲でいえば、それが尋常なわけです)私は音の動きや響き全てに向かって耳を澄ませなければならないのですが、一旦それが出現してしまうやいなや驚きの深さに耳を塞ぐこととなるのです。更に言うならば、ブルックナーの第7番以後の交響曲の旋律には、そのような瞬間が多々あり、旋律というものの意味を変質させてしまうという聴く物に苛酷な体験をさせるのです。その意味でブルックナーの後期とは、あるべきものを排除した上で、その排除そのものを排除してしまったという点で、他の音楽とは絶対的に隔たっているものなのです。
 驚くことに続いて、更に聴きすすめていくと、曲想の小さなギャップの後に今度は「ブルックナーらしい」(これまで申して上げてきた意味においです)旋律が待っています。ここで聴いている私は、強い刺戟の後でホッと胸をなでおろすことができましょう。しかし、あのような驚きの後です。安心していていいのでしょうか。もしや何かあるのではないか、そんな訝りにも似た期待がないわけではありません。ブルックナーの音楽とは、このように聴く者に、不断の緊張を強いずにはおかないのです。
 “古いクリスマスの歌に由来する”“神秘的”と解説書(「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社)にある旋律が弦楽部によって弱音で囁くように始まります。まず、ヴァイオリンによって2つの音が平行に鳴ります。一拍措いて、これに応えるように上下の動きの少ない一節が鳴ります。そして、細かい動きが前の一連の応答を包み込むように続くという、これまで聴いてきたブルックナーパターンとでも申したいほどワンパターンの旋律のつくりです。[5:10~6:10]私は、音楽の知識が希薄なので、この旋律の元歌の“古いクリスマスの歌”を知りません。(もっとも、音楽を聴く上で知識などというものは邪魔以外の何物でもないというのが私のスタンスではあるのですが)それにしても、この旋律は第2楽章冒頭の旋律から、ということはこの交響曲冒頭の動機から派生したもののように聞こえてこないでしょうか。この旋律からクリスマスを連想するようなことが、私にはできません。さらに言うならば、エリアフ・インバル指揮のフランクフルト放響のCDで聞かれるようなヴァーグナーの楽劇からの引用にしても、上述のブルックナーパターンに則った旋律で、元々のヴァーグナーの楽劇の中での位置とか意味合いなどとは切り離されて旋律のパターンのみが恣意的に引用されている。つまり、古いクリスマスの歌にしろヴァーグナーの楽劇からにしろ、元々の意味を解体されて強引にブルックナー・パターンに当て嵌められているのです。しばしばブルックナーを敬遠する人の口から退屈とかワンパターンという言葉が洩れてくるのを聞きます。これは私には、(西洋のクラシック)音楽というものそのものに由来していることのように思うのです。多くの凡庸な音楽家たちがその退屈さや強引さを曖昧にやりすごす方向で音楽をつくりあげているとき、一人ブルックナーは敢えてその退屈さや強引さを誇張してみせたと考えています。
 古いクリスマスの歌にしろヴァーグナーの楽劇からにしろ引用するのなら、もっと美しい旋律は沢山あるだろうに、もっと歌う旋律だって、リズミカルな旋律だって、劇的な旋律だってあるじゃないですか。ロリン・マゼールがやったように(あれほど下手であくどくなくても)指輪四部作の管弦楽部分を繋ぎ合わせて交響作品にあつらえることだってできたでしょうに。だが、ブルックナーは、それがあたかも一つの形式的必然だとも言いたげに、ここまでの旋律をブルックナーパターンで押し切ってしまいます。これが形式的な必然であるのなら、まるで形式そのものが退屈であり強引なのだとしか考えられないかのように。にもかかわらずブルックナーパターンのゴリ押しが形式的必然だというなら、それには、古い歌やヴァーグナーの秩序とは異質の要請が問題となってくるはずです。ブルックナーパターンが古い歌やヴァーグナーの意味を解体してしまったとしても、ロマン主義素描のところで見たようにブルックナーの音楽にも稀薄ではあるけれど意味的要素はあることはあります。音楽というものは、現実の音を抽象化した楽音によって構成され、現実には存在しえない抽象的な存在者であることは確かではあります。しかし、それを現実に聴くのは生身の人間である私です。私が、そこにある程度の意味を付与しなければ、それを価値あるものとして身近に感じることは不可能です。ブルックナーとて例外ではありません。しかし、その意味が現実の音の響きを介してしかあらわしえない音楽の場合、一曲の作品にはその意味の構造に同調したりさからったりするもする今一つの構造が存在することになると思います。それは、音の響きの意味的な連鎖を超えて、意味の推移とは異質の領域で交錯する細部の表情といっていいものであるはずです。それはブルックナーにとどまらずあらゆる音楽家が、そこで思い切り自らの想像力を開放する場であるわけですが、ブルックナーの場合、退屈なワンパターンとも言い切れる抑制された意味的な構造とは対照的に、この細部にあっては寧ろ野蛮で狂暴なまでに自己を主張し、全曲の均衡を崩しかねないことさえあるといえます。
 レッシングが著書「ラオコーン」の中で言って以来、音楽は時間芸術である(G.E.レッシング「ラオコオン-絵画と文学との限界について」(斎藤栄治訳)岩波文庫 正確に言えば、レッシングは著作の中では、音楽には触れてはいない。彼は芸術現象を秩序づけている時間と空間の原理を抽出することによって「時間芸術」と「空間芸術」の違いをあきらかにした。音楽は、文学や演劇等とともに、時間の相のもとに実現し、時間の中で展開することから「時間芸術」に分類される。)としばしば言われます。過去現在未来と一直線の時間の流れに沿って、この音の後にあの音を、このフレーズの後にあのフレーズをいった具合に音楽家は全てを間隙なく組織しなければ作品は成り立ちえません。もちろん、どんな音を選択しどんなフレーズを排除するかについては作曲家が至上権を握っているわけで、その限りにおいて自由を享受しているとは言いうるわけです。しかしながら、その自由は、始まりの瞬間から終わりまでのすべての瞬間を過剰も欠落もなく継起的に配列して組織しなければならないという制約に較べれば相対的でしかありえません。音楽というものには時間を軸とした統合的な秩序というものが厳然と存在しており、ブルックナーといえどもそれからはいささかも逸脱していないはずで、ブルックナーパターンの旋律もその秩序にしたがって配列された一連の音の響きからなっており、また逆にこの旋律も秩序にしたがっていると考えられます。しかしながら、ブルックナーの音楽にあっては、ひとつの瞬間に盛りこまれた音の情報はきまって複数であって、一定の時間にわたって継続しているという点から、統合的な秩序へと素直に還元されるのを拒むということがあります。例えば、ここでの“古いクリスマスの歌”からの旋律。ヴァイオリンに上下の動きが少なく、その分低弦部がかわって上下に動くので、高音のテナーが動かないまま転調したような、微妙なうつろいの印象を受けます。(マーラーの交響曲ではコントラバスなどの低弦部が独立して旋律を担うことがありますがブルックナーの音楽はマーラーとは違った意味合いでですが、低弦部が低音部で土台を支える以上の独自性を持たされているのが、こういう箇所で判ります。)“古いクリスマスの歌”からの旋律で聴くことのできるのは、“神秘的”な旋律であることにとどまらず、動かないテナー部のヴァイオリンであり、低音を支える以上に独立の旋律をかたちづくる低弦部の動きでもあるのです。実は、ここに、統合的な秩序から最も遠いブルックナーの自由さが露出していると思うのです。それをすぐさま無意識の跳梁する場とは言えないまでも、秩序にたいする意識のこわばりや知性の反省的な統禦から解き放たれた過激さが感じられると言っても過言ではありません。過剰さゆえ逸脱した細部は、統合的秩序の連鎖を超え、さらには一つの作品という限界を超えて些細な類似を介して別の細部と響応しあう。“古いクリスマスの歌”から低弦部の動きを聴くことができれば、第1楽章冒頭の“暗い波のような動き”をする分散和音の後向きのヴァイオリンの動きと親しく連繋しあっているのに立ち合うことができるわけです。さらに、そこから例えば第5交響曲第2楽章の中ほどの分散和音に親しく微笑を投げかけているのにつきあうことができることになります。そして、その事実はブルックナーのひとつの作品の旋律が、単に“古いクリスマスの歌”にとどまらず、低弦部の動きという表面的な音の動きででもあることを明らかにかるものです。第3交響曲では“古いクリスマスの歌”の低弦部の動きが、第5交響曲第2楽章の中ほどでは分散和音と親しく遭遇することになる。つまり、それぞれの作品では断片であったものが、唐突に連帯しあうのです。こうした遭遇と連帯を可能にする関係が、個々の作品を超えて張りめぐらされている細部の網状組織をかたちづくり、動きを与えているのです。それが統合的な秩序と戯れることで聴く者に刺戟を与えるのです。さらにブルックナーにおいて特徴的なのは、類似によって連繋しあう細部が想像力の働きを介して現われるような潜在的な存在ではなく、あくまでも顕在であってそれが響きの表層で戯れあうことなのです。このような運動、これこそがブルックナーを聴くことにある特権的な体験とは考えられないでしょうか。
 注 *1: 第16回ブルックナーを聴く会レジュメ P.58 (「作曲家別名曲解説ライブラリー5 ブルックナー」音楽之友社)
   *2: G.E.レッシング「ラオコオン-絵画と文学との限界について」(斎藤栄治訳)岩波文庫
       正確に言えば、レッシングは著作の中では、音楽には触れてはいない。彼は芸術現象を秩序づけている時間と空間の原理を抽出することによって「時間芸術」と「空間芸術」の違いをあきらかにした。音楽は、文学や演劇等とともに、時間の相のもとに実現し、時間の中で展開することから「時間芸術」に分類される。

2017年6月21日 (水)

私はブルックナーをこう聴いている(10)~ⅩⅠ.ブルックナーと歌舞伎

Bruknerkabuki 抽象的な話が続いてしまって第2楽章の続きを聴きたいところですが、もう少し辛抱して下さるようお願いします。中心となる主な旋律線を欠いたメロディ。などと言われると何のことかと首をかしげる、という方もいらっしゃるかもしれません。例えば第1楽章の“弦の暗い波のような動き”を思い出してみて下さい。Ⅲで申しましたように、この“弦の暗い波のような動き”は、低弦の前のめりの循環とヴァイオリンの前へ前へ…と上昇する分散和音と後へ後へ…と下降する分散和音という複数のものが同時に響いて、そのように聞こえてくるものなのです。もともと、“弦の暗い波のような動き”そのものがあってそれを装飾するように低弦の循環やヴァイオリンの分散和音があるのではありません。

このようなブルックナーの旋律の特徴について、突飛ではありますが大正時代の歌舞伎の名優二代目市川段四郎のエピソードを思い出すのです。段四郎は、あるとき一座を組んで「忠臣蔵」をもって旅興業に出たときのことです。一座の中に明治の名優九代目市川団十郎の女婿市川三升がいて、五段目の定九郎をつとめていました。ところがどういうわけかこの定九郎が客にちっとも受けない。市川三升は九代目の女婿とはいえ一介の勤め人から急に役者になった人で、あまりうまい人ではなかったそうです。定九郎が客に受けないのも当然のことかもしれません。しかし定九郎は「忠臣蔵」の中のもうけ役です。心配した段四郎が五段目を見て、よし、明日はおれが与市兵衛をやろうと言いだした。そして、本当にその翌日、昨日までの大部屋の何某のやっていた与市兵衛を段四郎自身がかわってやることになったのでした。その翌日、いつものように正面の掛稲から定九郎が与市兵衛を刺して出てくる。そこまでは昨日とかわりません。定九郎が刀をつき刺した与市兵衛の体に足をかけて刀を抜きとると、ポンと左足をふみ出して見得をする。刀を抜かれた与市兵衛は、上手の藪畳のところまでいって倒れて死ぬというのが、その舞台です。ところが昨日までは何の反応もしなかった客席が、定九郎が見得をしたとたんに大受けに受けたということです。

そうすると昨日までとその日とは、いったい何が変わったのでしょうか。段四郎がかわって演じたのは与市兵衛です。昨日までの何某の与市兵衛は、定九郎が刀を抜くとすぐに倒れてしまったそうです。サッサと倒れて、サッサと楽屋へ引っ込んでしまいました。ところが段四郎の与市兵衛は、刀を抜かれただけでは倒れなかった。トントンと藪畳の際まで下ってきて、ジッともちこたえていて、定九郎が見得をしたとたんに倒れたのだそうです。それでその日は、定九郎の見得が受けたのだそうです。

この時、客は定九郎を見ていると思いながら実は定九郎と与市兵衛の関係を見ていたと考えられます。定九郎は昨日とたいして変わらなかった。もし客が定九郎だけを見ていたならば、昨日とまったく違う反応をするはずがありません。しかし与市兵衛は昨日までとは大きく変わりました。もし客が与市兵衛だけを見ていたのなら、昨日とまったく違う反応をするはずで、事実そうなりました。そこで問題なのは、それにもかかわらず客は与市兵衛に対してではなく、定九郎に対して反応を示したということです。客は定九郎だけを見ていると意識していたのかもしれませんが、実は定九郎と与市兵衛の関係あるいは与市兵衛との関係における定九郎を見ていたのです。

ここで、三升と段四郎のつくった定九郎と与市兵衛の関係について考えてみましょう。ただ単に二人が舞台の上にいるだけでは物体と同じで、観客を錯覚に陥らせるような関係をつくることはできません。また、観客の側からにしても、定九郎と与市兵衛の関係を見ていたといっても、そのどこにポイントがあるのか明確でなければ視線をそこに集中することは難しいはずです。劇評家の渡辺保は『女形の運命』で、このポイントを定九郎が見得をしたとき二人が背中合わせになる点から解き起こします。リアリズムから考えれば殺人者と被害者が背中合わせになることなどありえないことです。リアリズムとは違う歌舞伎の特徴がここにあると渡辺は言います。舞台上の二人は、単に客席に向いたり、相手役の方をむいているのではないのです。だから、定九郎と与市兵衛の関係は二人を結ぶ単純な直線ではないし、ポイントもその直線上にあるのではない。

実は、関係のポイントは、左足を踏み出した定九郎の右足を基点として、左足との間に結ばれる直線の延長線と、やはり定九郎とは逆の姿勢で左足を踏み出している与市兵衛の右足を基点として、左足との間に結ばれる直線の延長線という2本の直線の交点にあったのです。この点を頂点として二人の右足を二つの角とすると、ここには三角形ができるのです。定九郎も与市兵衛も、単純に客席に対しているのでも、相手役に対しているのでもなく、この三角形の頂点に対していたのです。二人が平気で客席や相手に背中を見せたのは、この三角形の頂点に忠実であったためなのです。この三角形の頂点が関係のポイントであり、観客の視線の集中点だったのです。昨日まのでの大部屋の何某の与市兵衛は、定九郎が見得をしたとき、もうそこにはいなかった。一点が失われてしまった以上、舞台上に三角形は現われるはずもない。段四郎の与市兵衛は、その三角形を舞台上につくってみせたわけです。そして、この頂点には何もありませんし、通常この頂点に肉体をさらすことのできる役者は僅かの例外を除いていません。

渡辺によれば、この三角形は歌舞伎芝居の構成の基本的なもので、どの芝居にもあるのです。「三番叟」で翁になった座頭は、この頂点である舞台正面へ来て平伏します。この礼は観客席の屋根の上にある櫓に対して行なわれる礼で、この櫓は興業許可の表示であると同時に神の降臨する場所を示すものです。ですから、この礼は謂わば降臨する神への拝礼であり、神がもしこの拝礼に応えるとするならば、その神の眼差しが舞台に降りる場所が即ち三角形の頂点ということになります(折口信夫は、芸能の発生を神を家に招くまつりに求めます。折口によれば、平安鎌倉時代に招くために庭にしつらえた客殿が舞台のもとになるそうです。その舞台には、神を招く主人と招かれた神のみがいるわけで、そこでの舞は主人が神を供応するためのものだったわけです。ここでの神は横座の神といい、座の真ん中に位置するのでした。(折口信夫「日本芸能史六講」 講談社学術文庫))。つまり、歌舞伎の舞台を成り立たせている中心が実は何の実体も持たない空虚な点であり、しかしそれだからこそ、その点こそが神とつながる点でもあるのです。そしてまた、歌舞伎はこのような中心の点が空虚であるということで、実体をもつ個人が中心として存在する近代演劇とは一線を画するのです。個人を前面に押し出すモノフォニックな近代演劇(ロマン派の音楽が単一の音の列であるメロディ第一であるのと関連していると思います)に対して、歌舞伎は単に個人を表現するのではなく劇的な世界全体を様々な角度から表現することからポリフォニックなのだと言うことができます(渡辺保「女形の運命」筑摩書房 P.12~18)。

さて、ここで再びブルックナーの旋律に戻りましょう。上述の定九郎と与市兵衛という二人の役者は、ブルックナーの旋律を織りあげる部分の旋律に例えられないでしょうか。この章の最初で述べた例に戻るならば、低弦の前のめりの循環やヴァイオリンの前へ前へ…と上昇する分散和音や後へ後へ…と下降する分散和音がこれに当たるわけです。そしてこれらの関係のポイントとして空虚な点として、聴いている私の耳が焦点をあてるようにするのが“弦の暗い波のような動き”であるわけです。空虚というのは、前章で申しましたように単独での“弦の暗い波のような動き”が、実体としての響きを持っていないことです。ですから、このようなブルックナーの旋律は近代的な個人を中心とするものではなくて、もう少し前の時代のポリフォニックな感じにちかいものであると言うことができます。歌舞伎での中心の点は、空虚な空間であるがゆえに神に通じる場所になりえました。また、ゴシックの大聖堂に足を踏み入れれば、遥かに高い天井の下にひろがる巨大な空虚空間に驚かされ、たじろぐことでしょう。この空間には具体的な物質は何もありません。そこに人が見出すのは、実体を持たないものの溢れんばかりに降り注ぐ光。光とは、まさに神の光です。ゴシックの大聖堂の内部は巨大な空虚であるからこそ、神の光で充たされることができる空間であるのです。この空虚は<聖なる空虚>(パウル・ティリッヒ「文化の詩学」(谷口美知雄訳) 『ティリッヒ著作集』第7巻 白水社)なのです。そして、ゴシック建築全体の階層構造が、この<聖なる空虚>へ人を導くものです。バシリカという大聖堂の様式は通路を意味しています。大聖堂は<聖なる空虚>へと向かう通路と言うことができるのです。さて、ブルックナーの旋律が中心を欠いた空虚な構造であることの意味を、私がどう捉えているのか、ことでお判りいただけたことと思います。ブルックナーの音楽が、神というものに連なっているとすれば、私には、このような点以外には考えられません。ブルックナーの旋律の空虚さは、ゴシックの大聖堂と同様に階層構造と深くかかわっていると考えられます。しかし、私としてはブルックナーの旋律の空虚さは神に通じているとは思っていません。(それについては後で詳しくお話し致します。)さて、ブルックナーの交響曲第3番を聴きすすめていくと、さらに驚くことになります。これについては、この長い寄り道を終わり、ようやく続きに戻ることで明らかになることでしょう。 

※歌舞伎よりも古い芸能に能があります。能にはシテとワキ、主人公であるシテと、それを見ているワキと呼ばれる役があります。普通、能ではこのワキが最初に出てきて、それからシテが出てきて少し問答があって、あとはワキはただもうジッとシテのすることを見ているだけのようにしていることが多いです。これについて「彼(ワキ)は私たち見物人に代表として(舞台に)出ているのである。(野上豊一郎「能 研究と発見」 岩波書店)」として見物人の代表という考えがありますが、はたしてそうでしょうか。木下順二によれば、シテは多くの場合ずっと昔のことを現在形で語ります。それは、何百年という時間を一瞬に凝縮したような不思議な形で情念を語ることです。そのことは見所(客席)にいる我々にとっては直接にリアルなことではありません。ところがそこで見ているワキにとっては、それはまさにリアルなのです。そう思っているワキと、それからシテとを見所にいる我々はひっくるめて見ているということになります。つまり、いま舞台で行なわれていること、シテの舞、それは見所にいる我々にはいかにも非現実的なことなのだけれど、しかしその非現実を、非常に純粋に凝縮された一つの情念というものをリアルだと思って見ているワキ、彼をも見所の我々は見ているわけです。そこで初めて、シテのやっていることが一種不思議な真実として見所の我々を搏ってくるのです(木下順二 「劇的とは」 岩波新書)。このようなワキとそれを見ている観客の構造は、歌舞伎の場合に酷似しています。さらに渡辺保によれば、一人の能役者であるシテが舞いながら、いま自分の役のせりふを謡っていたと思うと次には自分を第三者として語り、忽ち状況全体の語り手となり、そのいずれにも没入してしまって自己を喪うということがない(渡辺保 前掲書)。これは、まさに歌舞伎とブルックナーに共通する構造ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 註 *1 野上豊一郎「能 研究と発見」 岩波書店

   *2 木下順二 「劇的とは」 岩波新書

   *3 渡辺 保 前掲書

2017年6月20日 (火)

私はブルックナーをこう聴いている(9)~Ⅹ.ブルックナーとロマンティシズム

 予定に反して、第1楽章に続いて第2楽章についての記述も長くなってしまいました。第2楽章については途中でひとまず中休みを入れることにしましょう。前々章で、私なりにロマンティシズムについてお喋りを致しましたが、それではブルックナーと関連づけて考えることはできるのかという疑問が残ったことと思います。ブルックナーには「ロマンティック」のニックネームがついた交響曲もあることですし、それで、ここではそのことについてお喋りさせて下さい。
 ロマン主義は人間の感情というものを重要視しました。しかも、その感情とは個々の嬉しいとか悲しいといった日常生活での具体的感情ではなく、日常生活を超越した純粋な美的感情というものです。音楽の動きは、この感情の動きに重なってくるのです。そして、とりわけ旋律という要素が、実際に感情と結びつく役割を担っている、というのが前々章で述べたロマンティシズムの要旨です。ということは、ブルックナーのロマンティシズムについて考えようとする場合、具体的にはブルックナーの音楽の旋律について考えてみればよいことになるわけです。ブルックナーの旋律についての私の印象は前章で触れましたので、ここでは簡単にしておきます。まず、フレーズが短いこと。シューベルトのようなはっきりとしたメロディのかたちを明示することはなくて、メロディそのものに伸びようとする力が感じられないこと。そして、単数ではなくて、色々な声部で分担された複数の短いメロディが撚り集まった結果として一つのメロディとして聴くことも可能であるということ。これらが主な特徴です。しかし、これではブルックナーのメロディが実際に感情と結びつくのか、ということには疑問を呈せざるをえません。
 さてここで唐突かもしれませんが、シューマンのピアノ曲を持ち出すことにします。私は、シューマンのピアノ曲の中にブルックナーのメロディと似たような特徴を見出だしながらも、尚且つ感情の動きとどうしても結びつけて聴いてしまうところがあるのです。
 私は全く楽譜を解さないので著作からの孫引きになってしまうのですが、例えばシューマンのピアノ曲<フモレスケ>の中に楽譜には音符が書かれているだけれど、実際には演奏されない部分があるのだそうです(ミシェル・シュネーデル「シューマン 黄昏のアリア」千葉文夫訳 筑摩書房 P.113)。これが内部の声といわれる箇所です。ここで書かれた音符は、ピアニストの左手と右手で鳴らされるピアノの音の交錯を通じて、漠然と聴き手の耳に流れてくるのです。私の友人でピアノを弾く者が言うには、シューマンのピアノ曲は他の作曲家のように右手がテナーとなって主旋律を弾いて左手が伴奏を勤めるのではなく、右手と左手の音が交錯して旋律が現われてくるので初見では弾きにくいのだそうです。このようにシューマンのメロディは確かで明確な存在として弾かれるではありません。右手で弾かれる音と左手で弾かれる音の中間で漂っているのです。ベートーヴェンでもシューベルトでも、主旋律ははっきりしています。二分音符の長さを持つものならば、楽譜上に二分音符で記されるでしょう。しかし、シューマンは、左手の八分音符と右手の十六分音符の交錯のうちに、二分音符と四分音符からなるうたをうたってしまうのです。このような、在るか在らぬかがはっきりせず、辺りを漂っているように曖昧に耳で感じるというのがシユーマンのメロディの特徴です。これは前々章で考えた気分の在り方と酷似していると思いませんか。左手と右手の交錯の具合によっては、中間を漂うメロディも全く変容してしまいます。聴くたびに微妙な変化を常に伴うのは、うつろい易い気分というものと相通じるのではないでしょうか。私がシューマンのピアノ曲に対して、感情の動きを結び付けずにはいられないのはこのような理由です。まさに前頁で述べたロマン主義の特徴そのものではないですか。
ところで、シューマンとブルックナーのメロディは、はっきりとしていないこと、単独ではなくて複数の声部の動きの結果として聞こえてくること、など共通するところが大きいと思います。もし、かりにブルックナーにロマンティシズムを感じるとしたら、このようなシューマンとの共通点を経由してでしょうか。
 しかし、ブルックナーとシューマンとは違います。シューマンのメロディははっきりとしていないながらも、上述のように演奏されない音符として楽譜に書かれています。ここでは、実際に響く音と、内部の声という楽譜に記された姿との食い違いが明確に意識され、そこに高度の効果が意図的に託されていると言ってもいいと思います。つまり、気分のような漂うメロディは意識的に作為されたものと考えられます。ここでの実際に演奏される音は、内部の声のための謂わば影であって、音そのものが自立していないのです。ですから、右手と左手というピアノの各声部の音色には同質性が求められるわけです。シューマンにとっての音楽とは、ショパンのそれのようなピアノの音が客観的に存在していて、それを積み重ねて音楽が構築されるという音の伽藍ではないのです。それよりも、ある種の感情とか気分とかいうものがあって、その意識の影としてピアノの音に託される、そういうものとして音楽があると考えられます。シューマンのピアノ曲のメロディの構造は、このようなシューマンの音楽の特徴に見合ったものだと思います。以前にゴシック建築の主観性のことを申しましたが、建築の素材の石の具体的な物質性が稀薄になっていくのがゴシック建築の主観性だとすれば、ピアノ曲のピアノの音の現実性が稀薄になっていく点にシューマンの音楽の主観性を指摘できると思います。
 それでは、ブルックナーの場合はどうなのでしょうか。私はブルックナーの曲の楽譜も未だに見たことはありませんので、確かなことは判りませんが、シューマンの場合のような演奏されない内部の声というような音符は書かれていないと思います。シューマンに比べてブルックナーの音楽の方が各パートの独立性が高いように思うからです。シューマンの場合、各声部が独立性をもってしまうと内部の声が分裂してしまい、従って気分の主たるシューマン個人の人格が分裂してしまうことになります。(そのような分裂の傾向は、特に晩年の作品に感じられます。この分裂しそうな危なさもシューマンの音楽の大きな魅力ではあります。)ブルックナーの交響曲はシューマンの場合よりはるかにオーケストラの各楽器の音色の扱いが多彩で、それぞれの楽器の色が生かされていると言っていいと思います。シューマンの実際に響く右手と左手のそれぞれの音は単独として取り出すことはできないのですが、ブルックナーの場合はひとつのパートを単独で聴くことも可能です。前のところで、ブルックナーの音楽はゴシック建築に階層性という点で似ているところがありながら、各階層の融通無碍な流動性がある点で違うと言ったことが、ここでのブルックナーとシューマンのメロディ構造の違いにも言えると思います。
 それと、もうひとつ、シューマンの場合は内部の声を形成するために、左手と右手という二つのパートの交錯を統禦する意識が強くはたらいており、これを近代の個人のアイデンテティになぞらえることも可能です。ブルックナーには、シューマンの場合のような意識がありません。悪く言えば、行き当たりばったりなのです。シューマンのメロディは内部の声として意図されたものですが、そういう点でブルックナーのメロディは最初の意図は意識されていないように感じられます。ロマンティシズムの肝心のところが、ブルックナーのメロディでは空虚なのです。では、ブルックナーのメロディは本当に空虚なのかというと、それはシューマンの視点からのことで、シューマンの近代的な個人という枠には納まりきらない意図せざるものがあるように思います。意図せざるもの、あるいは作曲家個人の意図を越えたもの。(この空虚な、個人の意図を超えたものを、或いは無とか神とかとでも言うのか、それはどうでもいいことですが。)ブルックナーの音楽にある即興的性格の結果として、作曲家の意図を超えて作品が出来上がってしまったとでも言うようなことはあると思います。それが、全体として形式ががっちりしていないとか、細部が膨張してしまったとかという結果にでていると思います。しかし、謂わばそのような不自然さを不自然さとして聴き手の前に提出してしまう愚鈍さに、ブルックナーの音楽のユニークさが感じられはしないでしょうか。
中心となる主な旋律線を欠いたメロディ。それは、音楽としては荒唐無稽とは言えないでしょうか。それまでは、どんな作曲家もそんなものを想像だにしなかったことでしょうし、そんなものを耳にしたこともなかったでしょう。そうした奇怪なものに一貫して耳を澄ましていたブルックナーという作曲家は、独創的な音楽家というより動物じみた愚鈍さに徹した存在とでもいえるかもしれません。だからこそ、クラシック音楽の歴史は偉大な作曲家ブルックナーを生んだことを誇るよりも、こんな音楽を抱え込んでしまったことで驚き、戸惑い、そして途方に暮れるしかないのです。

2017年6月19日 (月)

私はブルックナーをこう聴いている(8)~Ⅸ.第2楽章(1)

 前章を読まれた印象では、私はブルックナーの音楽に感情移入をすることがないと受け取られた方もいらっしゃると思います。慥かに、私は宇野功芳のようにブルックナーの音楽に“憧れ、祈り、嘆き”とか“<透明な響きに隠された寂寥>であり、<内省>であり、<祈り>であり、<厳しくも孤高な魂>であり、<宗教的な浄福の境地>である。”というように語ることを回避しています。それは、“憧れ、祈り、嘆き”などというコメントを持ち出すことで、ありもしない感情的な起伏を捏造することで、音楽の音の響き或いは音の動きに耳を澄ますことなくコメントに快くまどろわせ、心理的な納得を自らに強要し、しかもそれが陳腐なコメントなどに到底納まり切るものでない不自然なものであることすら忘却させてしまうことを怖れるからです。このようなコメントに媚びる音楽、例えば標題音楽と言われるもの、は“憧れ、祈り、嘆き”という名で聴く者が想像する雰囲気を具体的に響きと化することで、音楽としてどれほど不自然で、その不自然を自然と錯覚させるための音楽的技法が、音楽の響きや動きをどれほど陳腐化、凡庸化してしまうことか。(感情的になってしまいました。私の標題音楽への上述のようなコメントは私自身の音楽の聴き方に由来するものです。)ブルックナーの音楽がその類のものでしたら、最初からこのような記事を書こうなどという気持ちになりませんから。それでは、この第2楽章は感情を表わす言葉の使用を回避しながら語るのは困難ですが、敢えて始めてみたいと思います。
 楽章冒頭の僅か10秒ほど、楽譜なら2小節程度の間のワンフレーズ。ヴァイオリンがシューベルトの子守歌の主旋律によく似たメロディを、ゆっくりとレガートで奏でます。片やチェロが、ガッシリと低音を支えるばかりでなく、まるでこちらの方が音楽全体の流れをリードしていると言わんばかりに自己主張をするかのように、低音の動きをアピールします。この時点では両者の二つの線が対比的によく聞こえてきます。このフレーズの後半で、ヴァイオリンは二手に分かれると、第二ヴァイオリンは主旋律に手を添えるような動きをします。だんだんと弱音になっていく経過の中でのこの分岐は絶妙で、この弱音の分岐はとても印象に残ります。ヴァイオリンの動きに対して、チェロの方は弱くならずにいます。ワンフレーズが終わり次へと移る時、このチェロから続いているような次への橋渡しの細かな下降の動きが主に低弦で弾かれます。この橋渡しが終わるか終わらないうちに一休みしたヴァイオリンが、この橋渡しに呼応するように音階を高く上昇していくようなメロディを奏でます。このメロディの間はチェロは休んでいて、ヴィオラや第二ヴァイオリンが寄り添うようにヴァイオリンの主旋律に随き従います。この添え物の動きですが、前のフレーズの後半で主旋律から第二ヴァイオリンが少し分岐し、さらに次のこのフレーズでヴィオラも加わって分岐が大きくなり、それに従い主旋律の幅がだんだんと拡がってくるわけです。僅かですが、それにつれて少しずつ全体もクレッシェンドして行きます。つまり、フレーズが進むにつれて、音楽がだんだんと拡がり大きくなっていくのです。そして、このフレーズの後、チェロをはじめとした低弦がさっきと同じような橋渡しをします。これにヴァイオリンがあまり高くないところで、チェロとは対照的に長い2音で応じます。それにまたチェロがさっきと全く変わらずに橋渡しを繰り返す。ヴァイオリンが殆ど変わらずに応じる。これにホルンが少しだけ絡むのですが、これがヴァイオリンとチェロの掛け合いの度に、少しずつ絡み方を変化させるがとても鮮やかな印象を受けます。このような掛け合いが3回、4回と繰り返されます。[0:00~0:50] ここで聴かれるメロディの印象について、考えてみましょう。まず、単一の楽器で或いはユニゾンで演奏されるメロディの長さです。意外に短いのです。しかも、メロディ自体に伸びる力が感じられないというか、あるメロディがひとくさり演奏されてそこで流れが一旦途絶えてしまう。他の作曲家、例えばシューベルトの場合はメロディがどんどん先の方へと伸びていくに従って、音楽全体の流れが進行するわけです。ハ長調の「グレート」の名を持つ交響曲は、冒頭でホルンのメロディがただ単に吹かれるだけで、曲は進行し、そのメロディが進むにつれて派生的なメロディが生まれ、それらがまた曲を進めていくという、聴く者はメロディの推進力に翻弄されることになります。それがシューベルトの音楽の魅力のひとつと言うことができます。さらにシューベルトの場合は、メロディが自力で伸びることである程度の長さなったところでリズムの揺れと結びついて、うたうのです。ブルックナーには、残念ながらこうした楽しみはあまり期待できません。この第2楽章の冒頭で言うならば、弦楽部の各パートで各々演奏される短い途切れ途切れのメロディが、一緒にでもなく、各々が別々にてもない、ひとつのパートのメロディが終わるか終わらないうちに別のパートがはじまる。各々のパートのメロデイの線が糸を撚るように合わさって全体でメロディとなっているように聞こえてくる。その中には、パート同士の掛け合いもあれば、コントラストをつけた対立もある、多元的な要素が含まれているわけです。このように、聞こえてくるメロディにシューベルトの場合のような単一の力強い流れはないので、メロディがうたうということはブルックナーの場合は、似合わないと思います。しかし、例えばヴァイオリンが主旋律を弾きながら、途中で第二ヴァイオリンが弱音で分岐し第一ヴァイオリンの主旋律に微かに手を添えるような動きをするところなどは、シューベルトでは絶対にお目にかかれないところです。全体としての主旋律と聞こえるものでも、そこから逸脱してしまう程の声部の動きがあって、その一々の動きにも目が離せないのが、ブルックナーのメロディの、シューベルトとは違った魅力のひとつです。本来はそこで途切れてしまうはずの短いメロディが、いくつか撚り集まり微妙に配列されることで全体として繋がってしまう。連続と断絶という矛盾対立する性格が同時に共存している、何度も言うようですが、ブルックナーの音楽に底辺から動きを与えているのはこういうものであるし、聴き手である私を挑発する、通常ではありえない不自然さ荒唐無稽さであります。そしてまた、メロディのつくられ方にも第1楽章のところで触れた多層的な性格も現われていると言うこともできます。
 転調をしたのでしょうか、ホルン、ファゴットと続いて現われる持続音が、曲面の展開を告げ、それに導かれるように弦楽部が第1音を長く伸ばした第1楽章のユニゾンの動機を思い起させるようなメロディを弾きます。このメロディの第1音を長く伸ばすのに、少しづつズレながら、殆ど対位法のように聞こえ方をして、ホルン、ファゴット、オーボエが入れ変わりたち変わり絡みます。これを繰り返しながら全体にクレッシェンドしていって、強音のユニゾンで件のメロディを鳴らします。[0:50~2:00] 最初に取り上げた部分の後半もそうですし、ここで取り上げた部分のクレッシェンドしていく繰り返しもそうですが、繰り返しが同語反復のように聞こえるのです。ここまでの中でも度々みられたことですが、ブルックナーは複数の楽器が掛け合いを行なうような繰り返しを行ないますが、この掛け合いには感情的な性格が全く欠けているように思います。各楽器がお互いにメロディを歌い合うというのではなくて、同じかたちを何度となく繰り返す鸚鵡返しのように半ば機械的に進行しています。これらは、コントラストを際立たせて強い緊張を醸し出すわけでもなく、溶け合って和音として融合してしまって最終的な結論に到達するわけでもありません。あたかも、お互いのパートの存在を確認しあっているかのようです。ここに表情とか感情とかいった本来の意味での掛け合いの題材となるものはなく、幾分か模倣的あるいは儀式的であるようです。しかし、ブックナーの音楽の素晴らしさは、まさしくこの鸚鵡返しの反復の中に存在しています。このような稀薄で曖昧な相貌のもとで響き合うということは、徹底して孤独なモノローグとも互いに意志を疎通させるダイアローグとも異質の、新たな現実を獲得することになります。それは、響きの表面を滑走するように決して表現内容(つまり感情とかメッセージとか)などには踏み込みようがない、掛け合いの中で当の自分自身を模倣するしかない、表現内容という側面を極度に稀薄化した、音の響きの表層的な戯れとでも言う他ない動きなのです。所謂掛け合いとして想定されたものを繰り返すことで表情とか感情のキャッチボールのような場面や劇的な有効性を主張するのとは違って、儀式というか殆ど荒唐無稽の演技とでもいうか、とにかくそれはナンセンスな音の響きそのものの生々しい露呈ぶりなのです。それほど、ここでの音の響きは、尤もらしい掛け合いの形式を取りながら、軽々と表現内容の圏域を離脱して宙に舞っているのです。こんな無意味な響きを無意味として露骨に現わしてしまうブルックナーの音楽に私は狂気を感じずにはいられません。
 強音のユニゾンで上述のメロディが弾かれ金管楽器も入って繰り返されると、突然弱音になり弦楽器が低くつなぎのフレーズ。そしてまた、突然強音になってユニゾンで件のメロディを繰り返します。そして突然弱音になって。弦楽器のつなぎを、フルートが繰り返すと、弦楽器がこの後はっきりと奏でられるメロディを先取りするかのように、二手の分かれて体位法的に絡み合いながら弾き合います。オーボエが繰り返し、弦楽器、ホルンがつなぎをします。[1:50~3:40] 強音でのユニゾンと弱音のつなぎが、聴く者を驚かせるように突然入れ替わり、それが繰り返されます。また、繰り返しですね。よくよく思い出してみれば、よく似たメロディをつっけんどんな強音と控えめな弱音が繰り返します。ブルックナーの音楽に度々現われる繰り返し。表情に乏しいような複数のパートが何度も同じ動きを繰り返すこと。それも、機械的に、同じ過程を無限に反復させること。これが、どうしてこれほど魅力的なのでしょうか。単調といえばこの上なく単調で、殆ど機械的とも思えるほどの不自然と言ってもいい動きの反復を、このままずっと聴き続けていたいと思うこともあります。そこでは、どのパートの楽器の響きも、全てが音の抽象的な動きそのものと化してしまって、この動きを捉える聴く感覚そのものが動きに同調して、繰り返しの生み出すリズムに溶け入ってしまって、まるで聴くことをやめてしまったかのように感じられるのです。まるで、流れる時間そのものを、空気の振動として皮膚の表層でうけとめているかのような印象なのです。聴いている自分は、もしかしたら聾なのではないか各楽器とかオーケストラの響きなどがすっぱりと抜け落ちて、動きそのものの中に生きている、そんな体験をするのです。だが、こんなに心地良い時が永遠に続くはずがないという思いが脳裏をかすめてしまう。いずれは、この繰り返しの時間は終わり、曲は次の曲面に移らなければならない。そうしなければ、この音楽は作品として成り立たない。そうした息苦しい思いが、平静で移りゆく緩徐楽章の経過の部分にひとつの緊張感を導き入れるのです。
 ブルックナーの音楽にあって聴く私を感動させるのは、コラール風の祈りに喩えられるような所謂感情を深く揺さ振るとコメントされるようなアダージォの佇まいではありません。そうしたものに心を揺さ振られるたり、感極まるのはその人の自由で、私が文句を差し挟む筋合いのものではありません。ブルックナーの作品が煽りたてる響きの刺戟は、より抽象的であると同時に直接的な、つまりは誰もが間違いなく耳にしていながらもたやすくは抒情とは折り合いがつけぬが故に切り捨てられてしまいがちなイメージの力から来るものと考えます。ブルックナーの音楽を千編一律のワンパターンの退屈さから救っているのは、表層に露呈した響きのかたちや動きの戯れが、音楽を支えると考えられているような形式等を超えた無媒介的な運動をあたりに波及させるという、音楽体験の生々しさに他なりません。だからこそ、ブルックナーを聴く際には、交響曲という形式秩序に埋没することのない個々の響きや動きを、不断の現在として反芻することが必要なのです。ブルックナーに限らず音楽を聴くという体験は、何よりもまず、聴く耳が親しくまさぐりつつある表層としてのイメージを、全面的な表層性において受けとめ、音楽の形式秩序にとっては絶えず過剰なる何ものか、あるいは絶対的な欠落のごときものとして、その現存ぶりに怯えることでしかないのかもしれません。

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