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あるIR担当者の雑感

2018年7月 3日 (火)

内部監査担当者の戯言(13)

 もう何十年も前の若い頃、クラシック音楽のファンサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルのブルックナーという19世紀後半の作曲家の交響曲のCDを聴く集まりに出席したことがありました。十数人の人々が集まって、リスニングルームでCDを聴いて、その後、喫茶店に場所を移して、お喋りに花が咲きました。中で、いかにもマニア然とした年配の人が、「この演奏にはブルックナーの宗教性が感じられない」という意見を述べて、それをキッカケに、ブルックナーの宗教性ということで話題が盛り上がりました。それで、よく分からなかった若年の私は、ブルックナーの交響曲を聴いていて、例えば、どこの、どのような響きに宗教性が感じられるのかと教えを乞うたところ、盛り上がっていた議論は、一変にシーンとしらけてしまいました。その時に、最初に口火を切った年配の人から「音楽を理屈で聴くものではない」と言われたことをおぼえています。でもこれって、理屈ではなくて、自分なりの感じ方を他者に話すということでしかないですよね。その人が言うには、ブルックナーという人は、長年、教会でオルガンを弾く仕事に就いていた。だから宗教的なのだ、ということでした。でも、それだからといって、ブルックナーという人の作曲した交響曲が宗教的に聴こえるということではないですよね。その交響曲が宗教的というのは、そういう情報を持っていない人が聴いても、宗教的と感じるということで、それは実際に交響曲を聴いていて、ここのところとか、こういう響きとか、それを実際に教えてほしいと、私がいったわけです。その人は難しく音楽を考えるな、と言いました。
 結局、この人は、聴いた音楽を語るための借り物でない自分の言葉を持っていないか、音楽を聴く自分自身の耳を持っていないかのいずれかである、と今では言えます。この人は、誰かのブルックナーの感想やCDの解説に書かれている情報を確認していたという、CDを聴くのは、それをしている自分を確認しているようなものだったのではないかと想像できます。だから、当時の私の問いに答えるには、自分はどのように音楽を聴いているか、ということ、それはこの人がやっていないことを、考えることを迫られるわけで、そこで考える対象でうる自分がないからできない、ということで、それはだから、そのとにとって難しいことになるわけです。
 そして、これは音楽に限らず、仕事の場面でも年齢や肩書にかかわらず、自分の言葉を持っていない、ということは自分を持っていない人をしばしば目にすることになりました。そういう人は、例えば営業セールスであれば、お仕着せの教えられたマニュアル通りに、セールストークをするような人で、そのセールスを受けていて、その人の言葉を、つまりこういうことですよね、と私の言葉にして言い直して、それで質問すると答えられないということがあります。
 つまり、マニュアルにしか仕事をできない。私が、内部監査で、ある担当者に、ある作業の手順について、この仕事の目的とか、意義とか、どうしてそういう手順になっているか、と質問すると、そうきまっているから、としか答えられない人が結構おおいのです。
これを監査する側がそういう人であると、内部監査が社内の粗探しとか、揚げ足取りに陥ってしまうおそれがあると思う。

2018年6月23日 (土)

サッカー ワールドカップ私見

1111  サッカーのワールドカップが開催されていて、連日、テレビでそのゲームが放送され、19日には日本の初戦がありました。日本代表が勝利したこともあって、そのゲームを実況でも録画でも見た人が多かったと思います。私もその日本とコロンビアのゲームを見ました。ニュース等では、その模様を録画で伝えていましたが、そこでは日本のゴールや勝利の瞬間などは繰り返し映像が流されていました。しかし、私にとって、そのゲームで印象に残ったのは相手方のコロンビアのFWファルカオがゴール前で、後ろからのパスが長すぎて足が届かないようなのに、横っ飛びで、しかも無理に足を伸ばした姿(上の写真)うえずでした。あんな無理した格好でジャンプしたら、着地の準備に入れず、怪我をするかもしれないのに。その危険を顧みないようにして、ひたむきに足を伸ばして、仲間からのパスに応えようとする姿。しかも、ゴールにはならなかったのですが、ボールに触って、まがりなりにもシュートにもって行った姿でした。
 あれは、どこかで見た記憶があったのでした。そう、2002年の日韓ワールドカップ。日本の初戦、ベルギーに1点を先制されたあと、日本代表のFW鈴木隆行が同点ゴールした時の、届くはずのないボールを追いかけて執念で足を伸ばした姿(下の写真)でした。ボテボテ転がったボールはキーパーの手をかすめてゴールになった。あの姿がオーバーラップして見えたのでした。
1112  それは日常の普通の生活の場面では無様な姿ですが、私には、サッカーでなければ見ることの出来ない美しい姿でした。
 これは、私の偏見で客観性も普遍性もないことだということをお断りしておきます。実際に、サッカーをやっている人には、見当外れの偏見に思えるかもしれません。サッカーのパスはボールを足で蹴るなどして味方に渡すと言うように見えます。この時、プレイヤーはボールをどこに向けて蹴っているのか、ということ。味方にボールを渡すのであれば、見方のプレイヤーに向けて蹴っているのかというと、そうではない。プレイヤーは味方に向けて蹴ってはいません。彼らは、誰もいない空間に向けて蹴っているわけです。相手は、その蹴られたボールが向かうところ、つまり誰もいないところ(スペース)に走って、ボールを取得します。これに対して、同じフットボールでも、ラグビーのパスは味方のプレイヤーに向けて渡すように、相手が受け取りやすいように投げます。ラグビーのパスは味方から味方へ、見るからに受け渡すという感じで、プレイヤー同士の距離はサッカーに比べて近いのです。ラグビーのプレイヤーはボールを嬰児を抱くようにボール持ち、そして大事に味方に手渡します。まさに、One For All, All For Oneという言葉が象徴しているようです。しかし、サッカーは、例えば先日の対コロンビア戦の先取点の場面で、FWの大迫はディフェンスがボールを奪取したらスペースに走り出したのであって、パスのボールを受け取るために追いかけたのではありません。MFの香川は、ラグビーのように大迫の身体に目がけてボールを渡そうとしたのではなく、スペースに向けてロングパスを蹴りました。その時、パスの出し手と受け手はそれぞれが誰もいないところに向かっていたと言えます。そこには互いに、そこでパスがつながるという信頼があるからだと言う人もいるでしょう。しかし、見ているとそんな生易しいのでなく、成功失敗五分五分の賭けのように映る。二人が向かったのは、だから誰もいないという空間(それをサッカーでは「スペース」といいます)、スペースつまり虚無と言えるのではないか。サッカーというゲームは、虚無に向けて11人のプレイヤーのそれぞれが、それこそ独りあそびをするスポーツなのだと思う。それがサッカーというスポーツの、他のどのスポーツにない特異なところであるし、本質的な魅力ではないかと思います。虚無の空間との往還をするわけで、もともと、日本でもご神体の球を奪い合う神事、諏訪の御柱などはそのバリエーションではないか、と共通する、俗世界と超俗とを行ったり来たりする、そういう超越的な行為であったのだろう。ちなみに細かいパスをつなぐスペインのサッカーは、ラクビーのようにプレイする、虚無から逃げ回るようなサッカーで、私には、サッカーをやっているようには見えない、超越しようとしてないで日常の凡庸にしがみついている、だから美しくない。
 そういう視点で、19日のゲームでファルカオが虚無に向けて、を投げ出していた姿は、サッカーの本質的な美しさを体現しているように見えたというわけです。
 オヤジの知ったかぶりの薀蓄かもしれませんが、サッカーのゲームで勝ったという結果だけ、そうでなければ予選通過するとか、どんな成績を残すかという、成績ばかり話題にしたり、フィールドのプレイそっちのけで応援とかに勤しんで、となりの人と同じことをして一体感に酔い痴れているのも楽しみであることは否定しません。しかし、サッカーのすばらしいプレイは、たしかに世界の視野を広げてくれるところがあって、そういう認識論的な感動を語るということはないのでしょうか。

2018年5月15日 (火)

内部監査担当者の戯言(12)

 主として上場会社を対象としているコーポレートガバナンス・コードが6月に改訂されます。また、このところ相次いで著名な大企業で不祥事が表面化し、それが世界的に報道されたり、あるいはESGといった要素を評価項目に据えて中長期の投資をする動きも広がっているといいます。そういう状況の中で、企業の側でも中長期のリスクを見すえながら、果敢な経営を進めていく姿勢がないと、成長していくことが出来ない。資本主義の経済では、成長できないということは生き残れないということです。そこでの、各企業のガバナンスの重要性が一段と深まっている。概況はそんなところだと思います。
 その果敢な経営判断を支えるガバナンスということの底流にあるのは、果敢な経営というのは、端的に言えば、競争に勝つことを追求するということで、そのためには、他がやらないことをやれということ。横並びで他と同じ事を繰り返していればジリ貧に陥るという、これまでのパターンから脱皮しろということではないかと思います。だから、コーポレートガバナンス・コードはプリンシプル・アプロートといって、原則だけ述べて、あとは各企業で自社の場合に応じて独自に考えろというという姿勢をとっています。
 それは監査の部分でも、言えることではないかと思います。例えば、グローバルな動きでは2015年に国際監査・保証基準審議会(IAASB)は国際監査基準(ISA)701として「独立監査人の監査報告書における監査上の主要な事項のコミュニケーション」を発表しました。この基準では、財務諸表が適正と認められるか否かの監査意見に加え、会計監査人が会計監査を行う上で重要と判断した項目であるKAM及びKAMを記載すると判断した理由や対応等に関する記述が求められました。それらをまとめて監査報告の透明化として求められました。KAMとは「監査人が統治責任者にコミュニケーションを行った事項から選択され、当事業年度監査において監査人の職業的専門家としての判断によっても重要であると判断された事項」と定義されています。このKAMというのは、各企業を監査していて、監査人が何が重要かを判断したものですから一律なものではなく、企業によって違ってくるものです。監査は企業のリスクと密接にかかわるものですが、事業のリスクは企業のそれぞれによって異なるし、とくに経営判断ともかかわるものです。だから、監査はそれぞれの企業のリスクに応じて行っていかなければならない。
 そして、この動きの中で特筆すべき点は、その監査結果についての監査報告は、そういう監査の結果なのだから、一律の定式化されたような文章であるはずがないということを明らかにしていることです。
 一方で、日本国内の上場企業の監査報告書の現状を見てみると、ほとんどすべてが一律の定式化された文章の監査報告が公表されています。
 私の勤め先では、コーポレートガバナンスということを重視する姿勢で、監査等委員会設置会社に移行して監査等委員は全員社外取締役になりました。監査等委員の中で会計や財務知識のある人を都市銀行のOBの人にお願いしたのですが、今、ちょうど6月の株主総会に向けて、株主におくる書類の中の監査等委員会の監査報告書の作成の真っ最中なのですが、監査役協会のつくったひな形の通りにしようと主張しているわけです。理由は、他の会社もそうだからというのと。もひうひとつは、それまでの監査報告書は社内の人が昇進する形で就任した監査役が書いていたのですが、そういう人は社内の事情に通じていたので、監査役協会のひな形とはちがって社内事情を少し反映させた内容を書いていました。しかし、新任の監査等委員は、そういう事情が分からないので、書けないということになるわけです。
 一方で、株主や投資家の人々は企業の積極的な情報開示と対話の姿勢を求めていて、その情報開示についても定型的な紋切り型の説明では納得てきないということになってきています。監査についても、2016年3月に金融庁は「会計監査の在り方に関する懇談会」を開催し会計監査の品質向上に向けた提言をまとめました。その主な内容は以下の3点です。
a)監査法人のマネジメント強化を目指した「監査法人のガバナンス・コード」の導入→2017年実施
b)会計監査に関する情報の株主等への提供を目指した会計監査に関する開示内容の充実
c)監査法人の独立性の確保を目指した監査法人のローテーション制度についての検討
 そんななかで、企業での監査のトップで、そのあつまりである監査役協会が依然として紋切り型の一律監査報告書のひな形をひねり出して、監査役や監査等委員がそれに盲目的に追随しているというのは、意識がずれているように私には思えるのですが。

2018年4月29日 (日)

内部監査担当者の戯言(11)

 前回の続きで、物事をストックとして捉えるのではなく、フローとして捉えるということについて、もう少し。能力を材料に考えてみたいと思います。例えば、「話し上手」な人というのは、その近くにその人の話を聞く人々を集めるから、そういうことになるわけです。視点を変えると、この「話し上手」の人の話を引き出す「聞き上手」の人々があって、はじめて「話し上手」ということが成立するわけです。ということは、「話し上手」な人と「聞き上手」の人々が集まって、話して聞くという場が生まれるということになります。しかし、この場合は、この人の「話し上手」という能力とみなされてしまうわけです。この場を作っているのは「話し上手」の人と「聞き上手」の人の両方で、この両者の関係が生まれて場が作られる。しかし、これを「話し上手」という能力という能力とみなされ、「聞き上手」の人々は無視されてしまいます。地球上の誰にもコンピュータ・リテラシーがないなら、スティーヴ・ジョブズはただの変人です。そこで、その意味で、能力というものは、明確な形をもった物体のようなもの、いわばコンピュータ・リテラシーのある人々によって場が作られているということは、この時には無視されています。無視というよりは、最初から視野にすら入っていないのかもしれません。このような能力があるというときの能力は、そういう場から抽出されて、独立した絶対的な「もの」つまりストックのように見なされているとは言えないでしょうか。しかし、はたしてそうなのでしょうか。実は、ストックとして私有できるものではないのではなくて、人々の間を流通している関係性のようなもの、いわばフローで、能力というのは、その人だけで処分できるものではない、と言えないでしょうか。
 そういうストックとしての捉え方は、企業において機械化によって人件費を削減することに行き着くことになります。力仕事はロボットに、計算などの事務作業はコンピュータに置き換えることができてしまうのです。そうなると、人間の労働が提供できる付加価値は情緒的なもの、すなわち心地よいコミュニケーションを相手(顧客)に提供するスキルしか残されなくなってきている。そうなのでしょうか。
 そこに企業における能力というものの扱いの困難さがある。ストックとしてでないと、機械化のような効率化(企業の用語でいうと改善)や能力の評価ができない、ということで、それが本質的なことだ、言えるかしれません。
 しかし、視点を少しずらせてみましょう。よく、能力主義の人事管理の効率性の議論で、企業という組織集団において、たいていは、そのメンバー全部が能力があって、企業をそれぞれが牽引しているということはなくて、だいたい2割の人が牽引していて、残りの8割は、それにぶら下がっている、といいます。パレートの法則とも2-6-2の法則とも働きアリの法則とも言われているものです。面白いのは、その中で、牽引している2割の、いわば能力のある人だけを集めてエリート集団としたら、全員が牽引するようにならなくて、その中の2割が牽引し8割がぶら下がることになるといいます。それは、もしかしたら「話し上手」の人に対して「聞き上手」の人がいて場が成立しているときの、「話し上手」の人と「聞き上手」の人の関係が現れているものなのではないでしょうか。そう考えると、このような場合、企業で2割の人を能力があると評価するということは、片手落ちの見方で、残り8割の人が2割の人を成り立たしめていることを評価するということが、能力ということを考えていく際に、必要になってくるのではないか。
 また、前回のダイバーシティについて考えた際に、この8割の人々は、ほとんどすべての企業で、この人々のことは採り入れられていません。つまり、2割の人に偏っているのです。この8割の人をとり入れることで多彩な考えとなっていくという方向は、検討すべきではないでしょうか。それに関する具体的なことは、だれも考えていないので荒唐無稽かもしれませんが。

2018年4月27日 (金)

内部監査担当者の戯言(10)

 前回投稿した與那覇潤「知性は死なない 平成の鬱をこえて」についてのところで、言っていて物事をストックとして捉えるのではなく、フローとして捉えるということを考えているうちに、実際の場として、その前の投稿したある会社の説明会での話を思い出しました。
それは、次のような話です。
 海外のメーカーを買収して、数年で利益率10%から15%の高い利益率にしてしまうことについて、そういう会社の経営者というのは、ビジネススクールで経営学を修めて数字の計算には強いけれど、そこで枠をはめられていて、メーカーであれば業界標準といったようなデータを鵜呑みにしてしまって5%くらいの利益率という発想しかできなくなっている。また、工場をプロフィットセンターと見ないで、営業が取ってきた注文のアフターフォローとしか見ない。だからマーケティングで戦略を熱心に考えるだけでおわってしまう。工場に足を踏み入れることもない。そこに限界があると言います。そこに乗り込んで、工場こそが利益を生み出すとして、生産現場の改善に地道に取り組むと、あっという間に生産効率が上がって利益率が好転するし、それを踏まえた全体的な戦略を進めていくと会社全体が変わっていくと言います。それは、赤字を出している会社では短期的に顕著に効果が現われると言います。むしろ、5%くらいの中途半端な利益率の会社の場合は経営トップが現状に自信を持っているので、それ以上の利益率を求めても現実的と考えないので、時間がかかると。この経営者の持論として、会社にはどんなに優秀な社員がいても、トップがすべてということに収斂するといいます。だから、買収した海外のメーカーの場合も、トップに発想の転換をさせるか、それができない人は替えてしまうそうです。
 この買収した海外メーカーというのはヨーロッパや北米の会社で経営トップは、ここで言われているようにビジネススクール出身のプロで、最新の知識やスキルを身につけている人たちだったわけです。当然、今の日本企業に求められているようなガバナンスなどの意識も知識も高いし、日本のコーポレートガバナンス・コードで求められているようなことは身についていて例えば、ダイバーシティといったこともそうだと思います。それでいて、固定的な枠にはまった発想しかできていなかった。そういう結果です。
 何を言いたいかというと、ダイバーシティ、つまり人材の多様性ということは、そもそも、会社の経営や事業を推進させていくに際して、枠に嵌まってしまわずに、柔軟な発想で市場の変化を乗り切って、他にはない独創的な考えで競争に勝っていく。そのために多様な発想を求めて、発想の出自の異なる人が存在していて、同じような考えの人で固まることのないようにする、というものだったと思います。だから、女性が何パーセント以上いるとか、マイノリティーの人が一定程度以上いるということとは、同じではないはずです。おそらく、この買収された会社にも、そういう女性やマイノリティーの人がいたと思います。しかし、生産現場の声が届かなかった。一方で、生産現場という経営のプロとは異なる発想の人は多様性の中に入ってこなかった。それで収益性が上がらなかったということなるわけです。おそらく、女性とかマイノリティーの人とはいっても、同じようにビジネススクールで勉強した人たちなのでしょう。つまり、経営の基本的な姿勢は同じではないかということなのです。そこに発想の多様さがあったのか。あったのは出自の多様さで、考えていることや、話していることは同じ枠の中で話していた。だから、生産現場を誰も見ようとしなかった。つまり、多様性といっても、その人の性別、民族、階級といったことは属人的なもので、いわばストックです。しかし、どのように考えるかというのは、その人の出自の影響はありますが、その後、その人がどのような人と関係したのか、とかどのような経歴を経たのかといった流動的なもので、フローの面が強いのではないか。
これは、企業の現場で、別の面で重要なものとして、能力というのも、ストックではなくて、フローではないかと思えてくるのです。

2018年4月25日 (水)

ある会社の決算説明会

 何年も前にIR関係の業務をしていたときに知り合って、お付き合いが続いている市場関係者のご厚意で、某電子部品メーカーの決算説明会を見学してきました。以前にも何回も説明会に出席した会社でN社としておきますが、最近、スケジュールが合わなかったので、久しぶりの出席ということになりました。創業者の名物経営者が後継者を指名したことが新聞記事を賑わせていましたが、その後の最初の決算説明会ということで、いつも満員の会場は、さらに盛況で、テレビカメラも入っていたようです。質問者の中には、いつもはいないテレビ局の女性記者が立っていました(ただし、場違いな質問で失笑を買っていましたが)。そのせいもあってなのか、私がそういう目で見ているからかなのか、普段の決算説明会で業績についての具体的な説明や質疑応答の場面が少なくなって、その代わりにその経営者の経営方針とか経営姿勢のようなことを話す部分が目につきました。とは言っても、この経営者は現場たたき上げの人なので、抽象的な経営哲学とか道徳じみた経営姿勢のような建前を説教するタイプではないので、経営の長期的な戦略とか方向性といった形で話していましたが、いつもは話さないような、その戦略がでてくるファンダメンタルな発想とか、経営の見方を話していました。
 例えば、海外のメーカーを買収して、数年で利益率10%から15%の高い利益率にしてしまうことについて、そういう会社の経営者というのは、ビジネススクールで経営学を修めて数字の計算には強いけれど、そこで枠をはめられていて、メーカーであれば業界標準といったようなデータを鵜呑みにしてしまって5%くらいの利益率という発想しかできなくなっている。また、工場をプロフィットセンターと見ないで、営業が取ってきた注文のアフターフォローとしか見ない。だからマーケティングで戦略を熱心に考えるだけでおわってしまう。工場に足を踏み入れることもない。そこに限界があると言います。そこに乗り込んで、工場こそが利益を生み出すとして、生産現場の改善に地道に取り組むと、あっという間に生産効率が上がって利益率が好転するし、それを踏まえた全体的な戦略を進めていくと会社全体が変わっていくと言います。それは、赤字を出している会社では短期的に顕著に効果が現われると言います。むしろ、5%くらいの中途半端な利益率の会社の場合は経営トップが現状に自信を持っているので、それ以上の利益率を求めても現実的と考えないので、時間がかかると。この経営者の持論として、会社にはどんなに優秀な社員がいても、トップがすべてということに収斂するといいます。だから、買収した海外のメーカーの場合も、トップに発想の転換をさせるか、それができない人は替えてしまうそうです。
 製造業のマーケットについての長期的な見方も開陳してくれました。自動車の業界はガソリンエンジンから電気自動車になると、一気にコモデティ製品化してしまうだろうと言います。というのも、ガソリン車の場合にはエンジンというコアの部分が各自動車メーカーが長期にわたって培った技術とノウハウがそれぞれにあって、これが製品の個性になっていたと、他方でそれが参入障壁になっていた面もあると。ガソリン車はそのエンジンというコアに従うようにサスペンションをはじめ末端の部品まで適合させる製品でした。しかし、電気自動車のモーターはエンジンとはちがって、デジタルで機械的なところは規格化されてしまって、どこでも同じようにつくれてしまうものです。スマートフォンやパソコンと同じようにハードはどこのメーカーも変わらないものとなって、ソフトウェアやデザインの差が各メーカーの製品の差ということになるそうです。そうなると、下請けだった部品メーカーは、ガソリン車の場合には自動車メーカーのエンジンに適合した、地同社メーカーに特化した部品を作って、系列に入っていました。だから、売り先は、その自動車メーカーに限られて、生産規模も限界があった。そこで大量生産のスケールメリットでコストを下げようとしても、売上先が限定されて、売れ残ってしまうことになっていた。それが、電気自動車になると一気にコモデティ化してしまうので、部品はパッケージ化された標準的なものが各自動車メーカーが共通に使うようになってきます。その時には、大量生産でコストダウンした部品メーカーが競争に勝つことになる。しかも、自動車メーカー1社だけでなく、すべての自動車メーカーに提供できるような大量の生産と、即時の要求に応える必要があります。そのためには、従来の部品メーカーでは、生産設備を従来の数倍の規模に拡大しなければなりません。そのための設備投資の資金を調達しなければならないし、資金があっても、生産設備や人材を調達、それは会社の規模を数倍に拡大することです。その時に市場競争に勝てば、おさらく独占的にシェアを確保できることなると言います。それは、パソコン市場でインテルが、ライバルを蹴落として、パソコンメーカーを支配してしまったと同じようなことが起こるといいます。この会社は、電気自動車がガソリン車に取って代わるときに、大規模な業界再編が起こると考え、それを好機に、一気に市場トップになる戦略だとして、そのために大規模工場の手配を今から着々と進めていると言います。
 こういう話が、次々とでてきて、ビジネススクールのケーススタディよりも面白かったです。

2018年4月18日 (水)

内部監査担当者の戯言(9)

 合理性ということについて、ルールに従うことで考えることを、もう少し続けたいと思います。今回は視点を変えてみます。
 例えば、司法試験に合格した人は国家資格の法律の専門家ということになります。しかし、そうだといって、弁護士なり裁判所なり、あるいは企業の法務部なりで仕事を始めたとして、すぐに仕事ができるというわけではありません。例えば契約書のチェックなどは関係法令の条文を記憶していても、それに基づいて実際の契約書の文言を細かくチェックできるわけではないのです。そこには、それぞれマニュアルがあるはずで、日常のしごとはマニュアルに従ってこなしていくことになるでしょう。そして、しばらくすれば、マニュアルに従って仕事の手順を覚えて、慣れていくわけです。では、司法試験に合格した法律知識というのは何だったのかということになりますが、この場合、マニュアルはあくまで手順しか書かれていないし、専門用語とか、テクニカルな知識がないと理解できない場合が多いはずです。契約書であれば、専門用語や独特の法律文書の言い回しなどは、そして、そのマニュアルの手順理由も理解しにくい、つまり専門家向きなのです。法律家といっても法律の条文がすべて頭に入っているわけではないのですが、それをケースに最適の条文を短時間に見つけ出す訓練が、この場合専門家の知識とか能力ということになると思います。これは、専門家の場合ということになるでしょうが、一般的な企業の新卒の新人なども、こんなに高いレベルではないでしょうが、似たようなことがいえると思います。
 それを監査するという場合、この人たちがマニュアルを正しく理解できていれば、マニュアルのとおりに仕事をする、つまり適正な行動をとっているわけで、ですから、ちゃんと分かっているかを確認するということになります。
 そのような新人も、入社後数年経てば、仕事にも慣れてきます。その時にはマニュアルも頭に入って、日常的な仕事は十分にこなせるようになっているでしょう。だいたいの日常業務は定型的なもの、前例を踏襲したものなので、マニュアルの通りのきまったことをこなす、ということになってきます。このとき、最初は仕事を覚えたりするので努力して勉強していたのが、ここでピタリと、それが止まってしまう人が多いと思います。しかし、仕事というのは、全部が全部マニュアルにあるとは限らない。たまに例外的なものや、今までにない事態が発生します。そのときに、法律関係であれば、六法全書や資料を繙いて原理原則まで遡ってどうすべきかを、しっかりした根拠のもとで解釈して実行するということができるかどうか。それが、実は法律(法律だって一種のマニュアルですから)の条文にピタリと当てはまるものがなくても法律そのもの趣旨を理解して解釈できる。そのためには、このような例外の経験をしっかり見につける努力をしているか否かが分かれ目になるのですが。
それを監査するという場合には、マニュアルの通りに仕事をすることより、もっと深いレベルで、マニュアルにないことをやっているわけですから、それが正しいかどうかは、その趣旨にさかのぼって、それに沿っているかをチェックするということになるわけです。
 そして、それより深いレベルでは、企業の環境というのは流動的で、マニュアルだって環境変化に対応していかなければなりません。そのときに、使っているマニュアルを時代に合わせて修正していく。あるいは、今までにない仕事をあらたに創り出して、そのためにマニュアルを創る。そういう場合、その監査は、チェックするもとでがないわけですから、正しいかどうかは、お手本のないところで見ていかなければなりません。
 つまり、ルールに従うということでの合理性は、前回のような視点による違いもありますが、このようにマニュアルに対する理解の深さの程度の差によって変わってくるともいえるのです。

2018年4月16日 (月)

内部監査担当者の戯言(8)

 私の勤め先は一昨年、会社法の改正に伴い監査等委員会設置会社に移行したことは、以前にも書きましたが、それで、新しく監査等委員になった取締役、とくに私の勤め先では監査等委員は社外取締役なのですが、その人たちに説明をしていくと、皆さん、チェックリストにチェックをいれてお終いという形式的な手続を考えています。それだったら、わざわざ役員にやってもらう必要もないわけですが。また、社内の内部監査についても、そういうものだと思っているようです。これは、何も、この方々に限らず、社内の内部監査を受ける側も大なり小なり、そう考えているようです。これは、私の勤め先に限ったことではないでしょう。そしておそらく、当の監査担当者の中にも、それが当然であると思っている人も少なくないと思います(ただし金融監査のような定型的でなければいけない特殊なものもあるので、一概には言えないのですが)。
 私も、監査にはそういう要素もなければならないと思います。実際のところ、チェックリストをチェックするようなことは、私も少なからず行っています。しかし、それがすべてではない。しかし、それだけにとどまらない。むしろ、それ以外のところがメインと思えるほど重要なのではないかと思います。
 例えば、監査等委員(監査役でもです)が監査をするのは経営陣、つまり取締役の行動です。経営陣が適正に行動しているか、妥当な判断をしているかをチェックするわけです。その経営陣の行動というのは、定型的なものであるはずがありません。経営というのは道を切り拓いていくものです。そもそも前例などないことを創り出すようなことで、それをチェックするのに、新しいことのチェックリストなどあるはずもありません。しかも、後になってあれはこうだったとか言っても手遅れです。その時に即してチェックを入れていかなければならないのですから、チェックすること、つまり監査をするということは、経営判断と同じレベルで切り拓くものでなければ追いつかないはずです。
 社内の監査は、そこまでは行かないかもしれませんが、現在の企業での事業活動は前例を踏襲しているようでは競争に負けてしまう世の中です。だから、さかんに経営者は社内に向けてイノベイションと煽り立てたりします。そして、企業内において小さなことでもイノベイションがいるという状況で、前例の積み重ねともいえるチェックリストでチェックしていて間に合うでしょうか。しかも、そういうイノベイションというような新しいことを始めるということが一番リスクが大きい。それに対してチェックをしていくことが、企業活動にとって必要になっているのではないでしょうか。そうだとすると、このようなチェックは、少なくともイノベイションを作っているところと同じレベルにいなければ、有効な機能を果たせないはずです。何か、議論が飛躍しすぎかもしれませんが、そう考えると、チェックするということは、クリエイティビティが求められるようなものではないかと思うのです。それは、実際のところ具体的に言えば、企業の外部の視線、つまり、企業の内部にとどまらず、企業の外部と企業の間の立場に立つということです。ということで、こじつけかもしれませんが、このような立場とか姿勢というのが、私が以前に担当していたIRというのか、企業の公報といったところと、意外と近いところにいるのではないか、ということなのです。
 それが、今日の結論です。8回目にして、ようやく、このシリーズの趣旨、出発点をはっきりさせることができました。これから、このことについて、雑談をしていきたいと思います。

2018年4月11日 (水)

内部監査担当者の戯言(7)

 目的合理性と価値合理性ということについて、もう少し考えたいと思います。前にも述べましたが、価値合理的な行為とは、行為の結果如何を問わず行為そのものが絶対的価値があると確信して行う行為です。規則があれば、それを絶対視するように従うという行動は、その例です。それは、例えば、交通ルールにおいても、交差点で、他に歩行者も対向車もいない場合でも、赤信号でちゃんと止まるということは、日本人の遵法意識とか規律・秩序を守るといって自画自賛する人もいます。それに対しては、交通ルールは、もともと安全のためのもので、他に車も人もいなところで、それを確認すれば安全は保てるのに、杓子定規で赤信号に従うのは不合理という意見もあると思います。
 ところで、先日、大相撲の地方巡業において土俵上で挨拶に立った来賓が、突然倒れて、その応急処置に女性が駆けつけたところ、女性は土俵に上がらないように注意する場内アナウンスがなされたということが事件として報道されました。これは女性差別であるとか、緊急時の対応であるとかで、様々なところから非難されたという事件です。これを、価値合理性に基づく、通常の監査の姿勢で、このときの行動を評価するとすれば、これは「正しい」し、そうしなければいけないものです。そういうルールがあれば、そのルールに従わない場合があるとすれば、しかるべき権限と責任を持った人が指示しなければいけない。その権限も責任もない人が自己の判断で行動したとすれば、越権行為であり、違反行為です。だから、職員がアナウンスした行為に対して非難することはありえない。むしろ、このアナウンスをした職員「あなたは正しいことをした」とを庇ってあげなければならい、ということになると思います。それが倫理的な姿勢というものです。さらに言えば、日頃、誰もいない交差点の赤信号で停止する日本人を自画自賛するような人は、あるいはブラック校則といわれるような規則でもに従うような教育を歓迎する人々は、倫理的にこの行為を批判できるはずがないのです。
 おかしなことを言っていると思われるかもしれませんが、論理的に筋道をたてて考えれば、こういう主張は成り立ちます。実際のところ、前回の取締役ではありませんが、日本の会社(とくに伝統ある規模の大きな会社)で、会社員として働いている大多数の人たちは、このような姿勢で仕事をしているはずです。それを倫理的に自覚をして、確信しているかどうかはべつとしてですが。そういう大多数の人たちを肯定するのであれば、この相撲協会のアナウンスという行動を非難することは、この大多数の人々の行動姿勢を肯定できないことを公言することにつながると思います。そのことに対して、誰も何も言わないのか、と不審に思います。
 チェックリストを使って、決められたとおりに仕事をしているかと、監査するということは、同じベースにある。これは極端な考え方かもしれませんが。そのことを自覚する必要がある。だから、考えているわけです。

2018年4月 9日 (月)

内部監査担当者の戯言(6)

 前回は前置きだけで終わってしまいました。それが内部監査と何の関係があるのかという感じでした。最初から愚痴めいたことを書きます。それをストレートに書きたくないので前置きをしようとして、長くなったのが前回でした。
 先日、連結の内部統制として子会社の監査に赴いたときのことです。この監査は通常の子会社監査とは少し事情が異なるもので、昨年度末に買収して新たに子会社となったのを、はじめて訪問するというものでした。実は、私の勤め先では、外部の会社を買収するなどということは初めてのようなもので、それの買収した会社を内部統制の対象とするなどということも初めて。買収に際して、デューデリジェンスなんぞもやっていて、ある程度の情報もあるのではありますが、実際のところ、内部統制とか監査については実質的には白紙のような状態で、まずはどうなのかを見て、どうするかを考えようという監査というわけでした。このとき、社外取締役(監査等委員)も同道して、一緒に見ましょうというわけでした。
それで、その子会社の経営陣にヒヤリングしたり、社内を見学したり、決算書や諸規則を閲覧したりと、まあ、時間も限られていたし、初めて訪れるというので、通り一遍の調査をしました。
 ひと通り終わって、その会社を辞したあと、その社外取締役と話したのですが、
 「この会社どう思いますか?」
 と私が尋ねると
 「どう思うって?わからないよ。情報もないし、チェックリストもないのでチェックしようもない」
 という答え
 そこで、私は
 「では、どのような視点で情報を集め、チェックリストを作っていけば良いとおもいますか?」
 とあらためて、思ったこと、あるいは感じたことを尋ねたつもりが
 「言ったじゃない、情報もないし、チェックリストもないのでチェックしようもないのに、この会社のことを調べられないし、分かるわけないじゃない」という答え。
 最初から、この会社に対しては白紙の状態であることは分かっていて、そもそも、どのように調べていくか、突っ込んでいくかを探りに会社を訪問したわけで、それが、調べてあることを前提にしたチェックリストがないと調べられないという答えに、唖然としてしまいました。
 それで、では雰囲気とか、感じたことはと尋ねたら、そんなことは基準が明確でなくて答えられないとのこと。でも、その基準をこれから考えていくために訪問したわけですから。
これでは、卵が先が鶏が先かのどうどうめぐりになってしまいそうだったので、そこでやめましたが。
 さらに言うと、取締役というからには、会社の方針といったことをつくって決めていくのが大きな職務であるはずで、経営もそうですが、あらかじめ作られている基準のとおりにやっていけばいいというものではなくて、絶えず変化して、今までにない状況に直面するようなことも多々あり、そのつどどうするかを新たに考えていくという、その考えることが大きな役割のはずだと思います。したがって、このときの新たに子会社となった会社の内部統制として、連結の体制の中で、どのように統制していくかというひとつの経営方針の一環でもあるわけで、それをつくるために当の会社を訪問して、基準がないから分からないと言われて、かなり唖然としてしまいました。私は、取締役でも経営者でもなく、一介の使用人に過ぎませんが、それでも数点の視点を用意して、それについて議論をしようと思っていたのですが、やめました。
 それと、この議論の時の考えを表わすことには、ある程度のリスクが伴うことになりますが、それを真っ先に負うのは、この場合取締役になるはずで、それが取締役の責任であるはずで、使用人は、その責任、ということは権限を伴いますから、その権限にしたがって行動するというのが筋です。
 これ以上書いていくと、この取締役の人に対する中傷と区別がつかなくなりそうなので、このへんでやめます。ただ、この取締役の行動も、長年子会社として関係していて、問題のないことが明らかな会社であれば、それでもかまわないので、このような行動が外形的に適切でないというわけではないのです。ただの何のためにとか、それが会社にとってどうなのかということを考えると・・・。つまり、価値合理性と目的合理性ということで、ここはまとめておくことにします。
 最後にひとつ、つけくわえると、内部監査をするということを、私は、できれば目的合理性という点で考えて、進めていきたい、もっというと、そうすべきではないか、と考えています。そのような視点で、このことについて、思ったことなどを、今後、時折、綴っていくつもりです。

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