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あるIR担当者の雑感

2018年10月24日 (水)

決算説明会見学記~ピンチは最大のチャンス

 ある方の、ご厚意に甘えて、この数年の四半期決算の説明会を続けて見学させてもらっているN社の説明会が、今日の午前地あり、行ってきました。出席者は創業者で名物経営者の会長と財務担当の副社長とIR部長の3人だけでした。前回の説明会で後継者の新社長をお披露目したのですが、、その新社長はというと、買収した会社の経営改善に専心しているとのこと。会長さん曰く、決算説明会は経営者の業績を説明しているところで、現時点では新社長の業績ではないとのと、新社長が他人である永守の業績を説明したって意味がないだろ?と。新社長は経営改善を軌道に乗せ収益率を向上させたら、その説明を、この席でやります、とのこと。いかにも、この人らしい筋の通し方と思いました。
 さて、今回は、前回までと雰囲気が一転していました。それは内外の情勢の変化、それまでの景気回復基調がピークに達し、マーケットの風が止みつつある。実際に、同社では売上のトップラインはこの数Qでは横ばいになってきています。こんな時こそ、“風の吹かない時に凧を上げる”のが同社である、これをビジネスチャンスであるとして、第2Qの決算の説明はスルーして、これからどうするかの戦略方針を、最近にない熱さで語っていました。実際に、同社はこれまでも景気の悪いときにライバルと体力勝負を仕掛けてシェアを獲得して、ネックストステージの飛躍する基盤をつくってきたと言います。景気が落ち込めばM&Aの買収価格が安くなり、人を採りやすくなり、仕入れも安くなる。そこで、生産力を強化して従来の半額に近いような低価格で大量に供給すると、ライバルは競争についていけなくなり、また、あまりの低価格ゆえに、それまで潜在的だった需要が掘り起こされて、市場が拡大する。他社のシェアを獲得した占有率で、市場が拡大するので、売上の大幅な増加になる。それに伴いスケールメリットで収益も上がる。まるで絵に描いた餅ですが、実際にそれで実績があるわけですから。本人は強気です。M&Aや設備投資などもかなり積極的にやっているそうです。とくに、中国の情勢は、日本で言えば、高度経済成長の後半でドルショックやオイルショックに遭って一時的に成長に陰りが出たときと同じだと言います。日本は危機を克服し、一段と強い経済に脱皮し更なる成長をしていきましたが、中国も同じであり、今は、それを見越しての戦略を実行していると。やっぱり、この人は、後継者を指名したとはいえ、現役バリバリの経営者なんだなと思いました。元気をもらってきました。

2018年10月 8日 (月)

ある内部監査担当者の戯言(16)

 夫婦について生産性という観点から評価するということについて、見当外れかもしれないが、生産性ということは功利だよね。そこで求められるのは効率ということでしょう。そうすると会社のような集団と同じように見るということでしょう。いってれば、夫婦という集団は、もはや愛情とか血縁でつくられるものではなくなるべきだ、ということになる。なぜなら、功利性を求めることについては、必ずしも効率的ではない。夫婦はゲマインシャフトからゲゼルシャフトに変化すべきということになると思う。ということは、伝統的ということになっている夫婦の形態を破壊しようという主張に結びつく。私は、そのように破壊してしまってもいい思う。
 もし、子供を生産するという功利性で夫婦を評価するという場合、伝統的ということになっている形態の夫婦が果たして最適なのかということが、男女のペアリングという形態、あるいは一夫一婦制という形態、はワン・オブ・ゼムで、他の形態の場合の予測値を計算して比較するというデータの裏付けのもとに、論証されていない。
 要するに、夫婦について生産性という観点から評価するということは、伝統的と思われている形態の夫婦制を維持する根拠とはならない。
見当外れかもしれないが。

2018年10月 2日 (火)

内部監査担当者の戯言(15)

 10月1日にノーベル賞医学生理学賞の受賞者が発表されて、内定者の記者会見とともにテレビや新聞で大きく報じられました。その中のやりとりで、記者の「研究者を目指す子どもに思ってほしいことは?」という質問に対して「研究者になるということにおいていちばん重要なのは、何か知りたいと思うこと、不思議だなと思う心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って、本当はどうなってるんだ、という心を大切にする。つまり、自分の目でものを見る。そして納得する。そういう若い小中学生にぜひ、研究の道を志してほしい思います」と答えていました。これは学問とは、そもそもそういうもので、タテマエとして何ら問題はないことなのですが。それをあるテレビ局の放送の中で、その発言をさも感心したかのように称揚するするように取り上げていました。
 発言した本人は、その前の質問でも、研究者の心得として、「私自身は、研究に関して、何か知りたいという好奇心がある。もう1つは、簡単に信じない。それから、よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ、という話をするが、僕はいつもネイチャー、サイエンスに出ているものの9割はうそで、10年たったら、残って1割だと思っています。まず、論文とか、書いてあることを信じない。自分の目で、確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやると言うことです」とも言っていたので、それと一貫しているし、この人のモットーとしていることなのだろうと思います。
 しかし、これを、もし自分が実践するとしたら、それは現実の社会では、混乱を招くことになるような過激な内容を含んでいることは、少しでも考えれば分かることです。こんなことはありえないでしょうが、この記者会見に感動した小中学生が、一斉にこの言葉を実践したとしたら、教科書に書いてあることを信じないで、それを常に疑うことなるわけです。そうしたら現在の学校の授業は崩壊します。教科書の内容を疑っている生徒に対して、それは正しいということをちゃんと説明できる人が現実にどれだけいるか。それだけ、いまの学校もそうですが、会社も、もっとひろくいうと社会も、教科書に書かれていることは無条件に正しいと鵜呑みにして、疑問を感じないことで成り立っているのが実情だろうと思います。その中で、学校教育というのは、そういう社会に適応させる訓練のためのものというもので、教科書に疑問をもつような子供がいたら、その疑問を封じ込めるというのが実際の授業で、学校での成績優秀者というのはそれによく適応した者のことを言っている。かなりシニカルな言い方をしていますが、実際にそんなものだろうと、納得できるのではないかと思います。
 こんなことを言っているからといって、受賞者を貶めようとか、発言の揚げ足を取ろうというのではありません。ご本人は受賞の喜びに包まれて、気分の高揚しているところで、多少興奮して、話をしているので、それはそれで、微笑ましい光景だとおもうくらいの常識はわきまえているつもりです。
 しかし、その発言を鵜呑みにするように感心してしまうようなことは、実は、この発言をちゃんと聞いていないということになるのではないか。そう思ったということです。
ご本人は正しいかどうかをじぶんで考えて判断しなさいと言っているのですから、この発言に感心して、そうだと思うのなら、当のこの発言の内容に対しても、まず疑ってみるべきだということになるはずなのですから。

2018年9月17日 (月)

内部監査担当者の戯言(14)

 このごろも政党の党首の選択の中で争点に上がっているようですが、憲法の改正について、自主憲法という議論があることについて、見当はずれかもしれませんが。
 現在の憲法は自主的に作られたものでなくて、押し付けられたということについて、だから正当でないという考え方もあるのですが、新しい時代の作られ方という考え方は出てこないのかということです。例えば、現代の国際社会で民主的な選挙をしないで独裁者を選んだとか、その国だけの都合で核兵器を作ろうとしたということについては、内政不干渉などということはなくて、国際的に大きな干渉を受けます。ある国家がどのような体性をとろうと、それはその国の問題であり、他の国がとやかく口を差し挟むべきではない。そういう原則は、現代ではとおりにくくなって来ているように見えます。そうであれば、国の基本的な体制とか方針について、決めるのは、その国のことだと言っていられるのは、果たしてそれでいいのか。原則として、その国の人が決めるべきことであることは否定するつもりはありませんが。それを、その国だけの独断だけでいいのか、というと、そこに開かれることが、今の世界では求められるようになってきているのではないか。つまり、法律といっても、基本法のようなものは、影響がその国の内だけに限定できるものではなくなって来ているので、条約のような性格を帯びてきているのではないか。そう見えてくるところがあると思います。そう考えると、現在のこの国の憲法の成り立ちは、法律とうよりは条約の成り立ちに近いところもある。今の国際社会を先取りしたような成立の仕方をしていると考えられないでしょか。
 そして、現在の憲法については、つくられたときは敗戦による占領下で、国として独立していなかったというのは当然で、政府といっても、連合軍の支配を代行して実行しているにすぎなかった、というのは明らかでしょう。全面降伏して占領されてしまったのですから、常識的にみれば、敗戦国に自主性を認められて政府機関の存続を許されただけでも儲けものと言えるかもしれません。憲法とか政府とかすべてを白紙にされたって、おかしくはなかったでしょうから。
 そこで新しい憲法をつくって新生日本のスタートとしましょうということであれば、当然占領軍の占領政策に反するようなものはダメだしされてしまうわけで、それがおしつけられた憲法という人がいるわけでしょうか。でも、このとき日本の行く末というのは、連合国それぞれの思惑があったのでしょうが(日本が再軍備して強国となって甦るのを恐れた国は少なくないでしょう)、かなり心配していたのは確かしょう。それは、現代でも多国籍軍がイラク戦争とかボスニア紛争とかに介入して、新たな政府の成立に深く干渉するのと同じではないかと思います。そういう紛争を起こさせないような体制を最低限つくらせる。だから、そういう戦後処理の方針のようなものは多国籍軍、あるいは国連で話し合って合意する、言ってみれば条約のようなもので、新たな政府はそれに従わされる。日本の敗戦後も似たようなものだったのではないか、とすればそういう条約のようなものはつくられないとすれば、それに代行するものとして日本の政府が自主的の名目で作った憲法がされに該当した。それだからこそ、その後でのサンフランシスコ講和条約では、そういう憲法があるからということで日本の独立を認めましょうということになった。そういうものではなかったと思います。つまり、日本国憲法って、日本の憲法でありながら、国際社会が認めたものだった。そうであれば、この憲法を、憲法であるからと言って国際社会という視点を無視して、日本国内だけの閉じた範囲のなかだけで議論していいのか。たとえば、こういう憲法があるからということで講和条約で日本の独立を国際社会が認めたわけですから、その前提である憲法を改正したとしたら、その講和条約を締結しなおすのか、ということは考えなくてもいいのでしょうか。私は素人なので分かりませんが、日本が再軍備しないから安心だということで講和条約を結んだ国が、あとになって自衛隊という軍備を正式に憲法で宣言したというと、話が違うじゃないかということにならないでしょうか。

2018年7月25日 (水)

ある会社の決算説明会(2)

 懇意にしているアナリストの厚意で、電子部品メーカーN社の決算説明会に行ってきました。創業者である名物経営者が、4月に社長を後継者に譲り、会長となりましたが、説明会は今までとは変わらないものでした(質疑応答の時間で、質問者から社長と呼ばれて、俺は会長だよとからかって、会場の笑いをとっていたのは、この人らしいパフォーマンスだった)。前回の4月の説明会では経営者の経営方針とか経営姿勢のようなことを話す部分が目につきましたが、今回は、その傾向がさらに強まり、具体的な数字については資料を見れば分かるということで、業績の説明は新規事業の順調に成長したために、一本立ちさせてセグメントを変更させたことと、設備投資や工場の再編などによる生産能力の向上策を語る程度でした。しかも、それに合わせるかのように、後半のアナリストによる質問も、会長さんの方針や中長期の方向性に関するもの、あるいはマクロの経済状況に関する意見を聞くといったものが大半を占めるようになってきて、企業の決算説明会というより、経営の賢者の教えを受ける場のような雰囲気が生まれていました。
 たとえば、生産能力の増強のために工場の新設、既存工場の増床、増築を大規模に進めていることに対して、あまりに強気で、あとで供給が需要を上回って値崩れしてしまうリスクを指摘する質問に対して、ユーザーのニーズに応えることが供給者の使命であるから、供給できないというのは供給者としては怠慢であると、また、値崩れを心配して生産を調整して、需要があるのに供給を抑えて不足感を煽って価格を吊り上げて利益率を高めるような商売はしないと断言します。それは、倫理的な面かもしれませんが、そんなことをしていれば市場での競争を回避、つまり逃げているので競争力が弱まって、その市場のおいしさにひかれて新規に参入してくる競争者に負けてしまうだろう。むしろ、市場拡大のペースが落ちて生産能力がユーザーの需要に応える以上になったら、減り始めた市場において競争者との競争が激化することになるのは、N社にとってはむしろ利益拡大のチャンスなのだという。それは、競争がきびしくなれば、行き着くところは価格競争で、生き残りレースとなる。この時の勝敗を分けるカギとなるのは、企業がどこまで持ちこたえられるかという体力勝負になるという。つまり、体力の強い方が勝つ。そのために、N社は強い生産能力で価格が安くても利益を出せるようになっているので、そういう時こそ、競争者のシェアを奪って、飛躍的に売上を伸ばすことができると言います。これから、経済環境についてリスクが高まっているという声もあるようだけれど、経営者としては、そういう時に適切な対応をしていれば、競争者が脱落していくので、シェア拡大のチャンスなのだといいます。
 そこで言います。低価格であるのと、安売りとは違うといいます。価格が低くても適正な利益(N社は営業利益率15%をモットーとしています)を確保できているのであれば、そこには企業努力の結果としての適性な価格であり、それはユーザーにも貢献することになる。しかし、そういう利益をとらずに価格だけを低くするのは安売りであって、それは適正とは言えないといいます。そんなことをしていれば、しわ寄せが、例えばブラック企業になったり、下請け叩きになったりする。それは結局企業の弱体化になってしまう。
 抽象的な倫理の建前のお説教ではなくて、経営の実践の場で、それを具体的にこうやっているんだという事実で迫ってこられると、ぐうの音もでない圧倒的な説得力でした。
 また、初心者みたいな女性記者が保護主義的な経済環境に対する意見を求めたのに対して、国家のリーダー達がそういう話をしているようだけれど、例えば中国が大豆の輸入に報復関税をかけたけれど、大豆の需要を抑えることはできないので、代わりに南米からの輸入を増やした。その南米では外貨を稼げるので大豆を輸出すると、こんどは自国の大豆が品薄になってしったが、その不足分を、まわりまわってアメリカの大豆を買いつけ始めたという事例を説明して、現場レベルでは、多少の障害があっても市場は回るしたたかさがあるのだと説明し、経営者であれば、それもひとつの事業上の障害であって、その障害に対して意見を口にするよりも、有効な対策を立てたり、そういう障害にもビクともしない体制をつくることが重要であって、決算説明会では、そういう経営者の戦略や施策を説明する場であると。そういって、やんわりと記者の質問をたしなめていたのが印象的でした。

2018年7月 3日 (火)

内部監査担当者の戯言(13)

 もう何十年も前の若い頃、クラシック音楽のファンサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルのブルックナーという19世紀後半の作曲家の交響曲のCDを聴く集まりに出席したことがありました。十数人の人々が集まって、リスニングルームでCDを聴いて、その後、喫茶店に場所を移して、お喋りに花が咲きました。中で、いかにもマニア然とした年配の人が、「この演奏にはブルックナーの宗教性が感じられない」という意見を述べて、それをキッカケに、ブルックナーの宗教性ということで話題が盛り上がりました。それで、よく分からなかった若年の私は、ブルックナーの交響曲を聴いていて、例えば、どこの、どのような響きに宗教性が感じられるのかと教えを乞うたところ、盛り上がっていた議論は、一変にシーンとしらけてしまいました。その時に、最初に口火を切った年配の人から「音楽を理屈で聴くものではない」と言われたことをおぼえています。でもこれって、理屈ではなくて、自分なりの感じ方を他者に話すということでしかないですよね。その人が言うには、ブルックナーという人は、長年、教会でオルガンを弾く仕事に就いていた。だから宗教的なのだ、ということでした。でも、それだからといって、ブルックナーという人の作曲した交響曲が宗教的に聴こえるということではないですよね。その交響曲が宗教的というのは、そういう情報を持っていない人が聴いても、宗教的と感じるということで、それは実際に交響曲を聴いていて、ここのところとか、こういう響きとか、それを実際に教えてほしいと、私がいったわけです。その人は難しく音楽を考えるな、と言いました。
 結局、この人は、聴いた音楽を語るための借り物でない自分の言葉を持っていないか、音楽を聴く自分自身の耳を持っていないかのいずれかである、と今では言えます。この人は、誰かのブルックナーの感想やCDの解説に書かれている情報を確認していたという、CDを聴くのは、それをしている自分を確認しているようなものだったのではないかと想像できます。だから、当時の私の問いに答えるには、自分はどのように音楽を聴いているか、ということ、それはこの人がやっていないことを、考えることを迫られるわけで、そこで考える対象でうる自分がないからできない、ということで、それはだから、そのとにとって難しいことになるわけです。
 そして、これは音楽に限らず、仕事の場面でも年齢や肩書にかかわらず、自分の言葉を持っていない、ということは自分を持っていない人をしばしば目にすることになりました。そういう人は、例えば営業セールスであれば、お仕着せの教えられたマニュアル通りに、セールストークをするような人で、そのセールスを受けていて、その人の言葉を、つまりこういうことですよね、と私の言葉にして言い直して、それで質問すると答えられないということがあります。
 つまり、マニュアルにしか仕事をできない。私が、内部監査で、ある担当者に、ある作業の手順について、この仕事の目的とか、意義とか、どうしてそういう手順になっているか、と質問すると、そうきまっているから、としか答えられない人が結構おおいのです。
これを監査する側がそういう人であると、内部監査が社内の粗探しとか、揚げ足取りに陥ってしまうおそれがあると思う。

2018年6月23日 (土)

サッカー ワールドカップ私見

1111  サッカーのワールドカップが開催されていて、連日、テレビでそのゲームが放送され、19日には日本の初戦がありました。日本代表が勝利したこともあって、そのゲームを実況でも録画でも見た人が多かったと思います。私もその日本とコロンビアのゲームを見ました。ニュース等では、その模様を録画で伝えていましたが、そこでは日本のゴールや勝利の瞬間などは繰り返し映像が流されていました。しかし、私にとって、そのゲームで印象に残ったのは相手方のコロンビアのFWファルカオがゴール前で、後ろからのパスが長すぎて足が届かないようなのに、横っ飛びで、しかも無理に足を伸ばした姿(上の写真)うえずでした。あんな無理した格好でジャンプしたら、着地の準備に入れず、怪我をするかもしれないのに。その危険を顧みないようにして、ひたむきに足を伸ばして、仲間からのパスに応えようとする姿。しかも、ゴールにはならなかったのですが、ボールに触って、まがりなりにもシュートにもって行った姿でした。
 あれは、どこかで見た記憶があったのでした。そう、2002年の日韓ワールドカップ。日本の初戦、ベルギーに1点を先制されたあと、日本代表のFW鈴木隆行が同点ゴールした時の、届くはずのないボールを追いかけて執念で足を伸ばした姿(下の写真)でした。ボテボテ転がったボールはキーパーの手をかすめてゴールになった。あの姿がオーバーラップして見えたのでした。
1112  それは日常の普通の生活の場面では無様な姿ですが、私には、サッカーでなければ見ることの出来ない美しい姿でした。
 これは、私の偏見で客観性も普遍性もないことだということをお断りしておきます。実際に、サッカーをやっている人には、見当外れの偏見に思えるかもしれません。サッカーのパスはボールを足で蹴るなどして味方に渡すと言うように見えます。この時、プレイヤーはボールをどこに向けて蹴っているのか、ということ。味方にボールを渡すのであれば、見方のプレイヤーに向けて蹴っているのかというと、そうではない。プレイヤーは味方に向けて蹴ってはいません。彼らは、誰もいない空間に向けて蹴っているわけです。相手は、その蹴られたボールが向かうところ、つまり誰もいないところ(スペース)に走って、ボールを取得します。これに対して、同じフットボールでも、ラグビーのパスは味方のプレイヤーに向けて渡すように、相手が受け取りやすいように投げます。ラグビーのパスは味方から味方へ、見るからに受け渡すという感じで、プレイヤー同士の距離はサッカーに比べて近いのです。ラグビーのプレイヤーはボールを嬰児を抱くようにボール持ち、そして大事に味方に手渡します。まさに、One For All, All For Oneという言葉が象徴しているようです。しかし、サッカーは、例えば先日の対コロンビア戦の先取点の場面で、FWの大迫はディフェンスがボールを奪取したらスペースに走り出したのであって、パスのボールを受け取るために追いかけたのではありません。MFの香川は、ラグビーのように大迫の身体に目がけてボールを渡そうとしたのではなく、スペースに向けてロングパスを蹴りました。その時、パスの出し手と受け手はそれぞれが誰もいないところに向かっていたと言えます。そこには互いに、そこでパスがつながるという信頼があるからだと言う人もいるでしょう。しかし、見ているとそんな生易しいのでなく、成功失敗五分五分の賭けのように映る。二人が向かったのは、だから誰もいないという空間(それをサッカーでは「スペース」といいます)、スペースつまり虚無と言えるのではないか。サッカーというゲームは、虚無に向けて11人のプレイヤーのそれぞれが、それこそ独りあそびをするスポーツなのだと思う。それがサッカーというスポーツの、他のどのスポーツにない特異なところであるし、本質的な魅力ではないかと思います。虚無の空間との往還をするわけで、もともと、日本でもご神体の球を奪い合う神事、諏訪の御柱などはそのバリエーションではないか、と共通する、俗世界と超俗とを行ったり来たりする、そういう超越的な行為であったのだろう。ちなみに細かいパスをつなぐスペインのサッカーは、ラクビーのようにプレイする、虚無から逃げ回るようなサッカーで、私には、サッカーをやっているようには見えない、超越しようとしてないで日常の凡庸にしがみついている、だから美しくない。
 そういう視点で、19日のゲームでファルカオが虚無に向けて、を投げ出していた姿は、サッカーの本質的な美しさを体現しているように見えたというわけです。
 オヤジの知ったかぶりの薀蓄かもしれませんが、サッカーのゲームで勝ったという結果だけ、そうでなければ予選通過するとか、どんな成績を残すかという、成績ばかり話題にしたり、フィールドのプレイそっちのけで応援とかに勤しんで、となりの人と同じことをして一体感に酔い痴れているのも楽しみであることは否定しません。しかし、サッカーのすばらしいプレイは、たしかに世界の視野を広げてくれるところがあって、そういう認識論的な感動を語るということはないのでしょうか。

2018年5月15日 (火)

内部監査担当者の戯言(12)

 主として上場会社を対象としているコーポレートガバナンス・コードが6月に改訂されます。また、このところ相次いで著名な大企業で不祥事が表面化し、それが世界的に報道されたり、あるいはESGといった要素を評価項目に据えて中長期の投資をする動きも広がっているといいます。そういう状況の中で、企業の側でも中長期のリスクを見すえながら、果敢な経営を進めていく姿勢がないと、成長していくことが出来ない。資本主義の経済では、成長できないということは生き残れないということです。そこでの、各企業のガバナンスの重要性が一段と深まっている。概況はそんなところだと思います。
 その果敢な経営判断を支えるガバナンスということの底流にあるのは、果敢な経営というのは、端的に言えば、競争に勝つことを追求するということで、そのためには、他がやらないことをやれということ。横並びで他と同じ事を繰り返していればジリ貧に陥るという、これまでのパターンから脱皮しろということではないかと思います。だから、コーポレートガバナンス・コードはプリンシプル・アプロートといって、原則だけ述べて、あとは各企業で自社の場合に応じて独自に考えろというという姿勢をとっています。
 それは監査の部分でも、言えることではないかと思います。例えば、グローバルな動きでは2015年に国際監査・保証基準審議会(IAASB)は国際監査基準(ISA)701として「独立監査人の監査報告書における監査上の主要な事項のコミュニケーション」を発表しました。この基準では、財務諸表が適正と認められるか否かの監査意見に加え、会計監査人が会計監査を行う上で重要と判断した項目であるKAM及びKAMを記載すると判断した理由や対応等に関する記述が求められました。それらをまとめて監査報告の透明化として求められました。KAMとは「監査人が統治責任者にコミュニケーションを行った事項から選択され、当事業年度監査において監査人の職業的専門家としての判断によっても重要であると判断された事項」と定義されています。このKAMというのは、各企業を監査していて、監査人が何が重要かを判断したものですから一律なものではなく、企業によって違ってくるものです。監査は企業のリスクと密接にかかわるものですが、事業のリスクは企業のそれぞれによって異なるし、とくに経営判断ともかかわるものです。だから、監査はそれぞれの企業のリスクに応じて行っていかなければならない。
 そして、この動きの中で特筆すべき点は、その監査結果についての監査報告は、そういう監査の結果なのだから、一律の定式化されたような文章であるはずがないということを明らかにしていることです。
 一方で、日本国内の上場企業の監査報告書の現状を見てみると、ほとんどすべてが一律の定式化された文章の監査報告が公表されています。
 私の勤め先では、コーポレートガバナンスということを重視する姿勢で、監査等委員会設置会社に移行して監査等委員は全員社外取締役になりました。監査等委員の中で会計や財務知識のある人を都市銀行のOBの人にお願いしたのですが、今、ちょうど6月の株主総会に向けて、株主におくる書類の中の監査等委員会の監査報告書の作成の真っ最中なのですが、監査役協会のつくったひな形の通りにしようと主張しているわけです。理由は、他の会社もそうだからというのと。もひうひとつは、それまでの監査報告書は社内の人が昇進する形で就任した監査役が書いていたのですが、そういう人は社内の事情に通じていたので、監査役協会のひな形とはちがって社内事情を少し反映させた内容を書いていました。しかし、新任の監査等委員は、そういう事情が分からないので、書けないということになるわけです。
 一方で、株主や投資家の人々は企業の積極的な情報開示と対話の姿勢を求めていて、その情報開示についても定型的な紋切り型の説明では納得てきないということになってきています。監査についても、2016年3月に金融庁は「会計監査の在り方に関する懇談会」を開催し会計監査の品質向上に向けた提言をまとめました。その主な内容は以下の3点です。
a)監査法人のマネジメント強化を目指した「監査法人のガバナンス・コード」の導入→2017年実施
b)会計監査に関する情報の株主等への提供を目指した会計監査に関する開示内容の充実
c)監査法人の独立性の確保を目指した監査法人のローテーション制度についての検討
 そんななかで、企業での監査のトップで、そのあつまりである監査役協会が依然として紋切り型の一律監査報告書のひな形をひねり出して、監査役や監査等委員がそれに盲目的に追随しているというのは、意識がずれているように私には思えるのですが。

2018年4月29日 (日)

内部監査担当者の戯言(11)

 前回の続きで、物事をストックとして捉えるのではなく、フローとして捉えるということについて、もう少し。能力を材料に考えてみたいと思います。例えば、「話し上手」な人というのは、その近くにその人の話を聞く人々を集めるから、そういうことになるわけです。視点を変えると、この「話し上手」の人の話を引き出す「聞き上手」の人々があって、はじめて「話し上手」ということが成立するわけです。ということは、「話し上手」な人と「聞き上手」の人々が集まって、話して聞くという場が生まれるということになります。しかし、この場合は、この人の「話し上手」という能力とみなされてしまうわけです。この場を作っているのは「話し上手」の人と「聞き上手」の人の両方で、この両者の関係が生まれて場が作られる。しかし、これを「話し上手」という能力という能力とみなされ、「聞き上手」の人々は無視されてしまいます。地球上の誰にもコンピュータ・リテラシーがないなら、スティーヴ・ジョブズはただの変人です。そこで、その意味で、能力というものは、明確な形をもった物体のようなもの、いわばコンピュータ・リテラシーのある人々によって場が作られているということは、この時には無視されています。無視というよりは、最初から視野にすら入っていないのかもしれません。このような能力があるというときの能力は、そういう場から抽出されて、独立した絶対的な「もの」つまりストックのように見なされているとは言えないでしょうか。しかし、はたしてそうなのでしょうか。実は、ストックとして私有できるものではないのではなくて、人々の間を流通している関係性のようなもの、いわばフローで、能力というのは、その人だけで処分できるものではない、と言えないでしょうか。
 そういうストックとしての捉え方は、企業において機械化によって人件費を削減することに行き着くことになります。力仕事はロボットに、計算などの事務作業はコンピュータに置き換えることができてしまうのです。そうなると、人間の労働が提供できる付加価値は情緒的なもの、すなわち心地よいコミュニケーションを相手(顧客)に提供するスキルしか残されなくなってきている。そうなのでしょうか。
 そこに企業における能力というものの扱いの困難さがある。ストックとしてでないと、機械化のような効率化(企業の用語でいうと改善)や能力の評価ができない、ということで、それが本質的なことだ、言えるかしれません。
 しかし、視点を少しずらせてみましょう。よく、能力主義の人事管理の効率性の議論で、企業という組織集団において、たいていは、そのメンバー全部が能力があって、企業をそれぞれが牽引しているということはなくて、だいたい2割の人が牽引していて、残りの8割は、それにぶら下がっている、といいます。パレートの法則とも2-6-2の法則とも働きアリの法則とも言われているものです。面白いのは、その中で、牽引している2割の、いわば能力のある人だけを集めてエリート集団としたら、全員が牽引するようにならなくて、その中の2割が牽引し8割がぶら下がることになるといいます。それは、もしかしたら「話し上手」の人に対して「聞き上手」の人がいて場が成立しているときの、「話し上手」の人と「聞き上手」の人の関係が現れているものなのではないでしょうか。そう考えると、このような場合、企業で2割の人を能力があると評価するということは、片手落ちの見方で、残り8割の人が2割の人を成り立たしめていることを評価するということが、能力ということを考えていく際に、必要になってくるのではないか。
 また、前回のダイバーシティについて考えた際に、この8割の人々は、ほとんどすべての企業で、この人々のことは採り入れられていません。つまり、2割の人に偏っているのです。この8割の人をとり入れることで多彩な考えとなっていくという方向は、検討すべきではないでしょうか。それに関する具体的なことは、だれも考えていないので荒唐無稽かもしれませんが。

2018年4月27日 (金)

内部監査担当者の戯言(10)

 前回投稿した與那覇潤「知性は死なない 平成の鬱をこえて」についてのところで、言っていて物事をストックとして捉えるのではなく、フローとして捉えるということを考えているうちに、実際の場として、その前の投稿したある会社の説明会での話を思い出しました。
それは、次のような話です。
 海外のメーカーを買収して、数年で利益率10%から15%の高い利益率にしてしまうことについて、そういう会社の経営者というのは、ビジネススクールで経営学を修めて数字の計算には強いけれど、そこで枠をはめられていて、メーカーであれば業界標準といったようなデータを鵜呑みにしてしまって5%くらいの利益率という発想しかできなくなっている。また、工場をプロフィットセンターと見ないで、営業が取ってきた注文のアフターフォローとしか見ない。だからマーケティングで戦略を熱心に考えるだけでおわってしまう。工場に足を踏み入れることもない。そこに限界があると言います。そこに乗り込んで、工場こそが利益を生み出すとして、生産現場の改善に地道に取り組むと、あっという間に生産効率が上がって利益率が好転するし、それを踏まえた全体的な戦略を進めていくと会社全体が変わっていくと言います。それは、赤字を出している会社では短期的に顕著に効果が現われると言います。むしろ、5%くらいの中途半端な利益率の会社の場合は経営トップが現状に自信を持っているので、それ以上の利益率を求めても現実的と考えないので、時間がかかると。この経営者の持論として、会社にはどんなに優秀な社員がいても、トップがすべてということに収斂するといいます。だから、買収した海外のメーカーの場合も、トップに発想の転換をさせるか、それができない人は替えてしまうそうです。
 この買収した海外メーカーというのはヨーロッパや北米の会社で経営トップは、ここで言われているようにビジネススクール出身のプロで、最新の知識やスキルを身につけている人たちだったわけです。当然、今の日本企業に求められているようなガバナンスなどの意識も知識も高いし、日本のコーポレートガバナンス・コードで求められているようなことは身についていて例えば、ダイバーシティといったこともそうだと思います。それでいて、固定的な枠にはまった発想しかできていなかった。そういう結果です。
 何を言いたいかというと、ダイバーシティ、つまり人材の多様性ということは、そもそも、会社の経営や事業を推進させていくに際して、枠に嵌まってしまわずに、柔軟な発想で市場の変化を乗り切って、他にはない独創的な考えで競争に勝っていく。そのために多様な発想を求めて、発想の出自の異なる人が存在していて、同じような考えの人で固まることのないようにする、というものだったと思います。だから、女性が何パーセント以上いるとか、マイノリティーの人が一定程度以上いるということとは、同じではないはずです。おそらく、この買収された会社にも、そういう女性やマイノリティーの人がいたと思います。しかし、生産現場の声が届かなかった。一方で、生産現場という経営のプロとは異なる発想の人は多様性の中に入ってこなかった。それで収益性が上がらなかったということなるわけです。おそらく、女性とかマイノリティーの人とはいっても、同じようにビジネススクールで勉強した人たちなのでしょう。つまり、経営の基本的な姿勢は同じではないかということなのです。そこに発想の多様さがあったのか。あったのは出自の多様さで、考えていることや、話していることは同じ枠の中で話していた。だから、生産現場を誰も見ようとしなかった。つまり、多様性といっても、その人の性別、民族、階級といったことは属人的なもので、いわばストックです。しかし、どのように考えるかというのは、その人の出自の影響はありますが、その後、その人がどのような人と関係したのか、とかどのような経歴を経たのかといった流動的なもので、フローの面が強いのではないか。
これは、企業の現場で、別の面で重要なものとして、能力というのも、ストックではなくて、フローではないかと思えてくるのです。

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