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あるIR担当者の雑感

2019年1月23日 (水)

決算説明会見学記─誰よりも先にピンチに気付く?

 懇意にしているアナリストの厚意で、電子部品メーカーND社の第3四半期決算説明会に行ってきました。先週、「これまで経験したことのない落ち込み」とずっと拡大成長を続けていた同社が業績予想の下方修正を発表したのは、一般ニュースでも報じられました。説明会場は、いつもと同じ場所ながら、椅子を一列増やして出席者の増加に対応し、名物経営者のN会長以下の経営陣がひな壇のようにスクリーンの前に並んで、入場の際には一斉にカメラのフラッシュが集まる、という普段の説明会とは全く異なった雰囲気。そして、始まったら最初はN会長のあいさつ?だと?で、N会長いわく、今まで私のワンマンショーでやってきたが、今日はやりません、と。それで、資料の説明など一切なく、読めば分かります。社長に就任した吉本さんが少しだけ説明。配布資料の充実はいつも通りなのだが、心なしかボリュームは少なく見える。で、ノッケから質疑応答。そこからは、いつもの会長のワンマンショーにもどったので、落ち着いた。
 おそらく、会長のワンマン体制の、その後を意識しているところを見せているのかもしれません。会長、社長とCFOの集団体制ということなのでしょうか。質疑応答で、他の2人に発言させることを意識しているみたいですが、質問するアナリストたちは、Nさんを求めてしまう。本人も前に出たい、と、結構N会長自身の、その後に向けて自己変革を痛感していて、それが本人の思うように進んでいない印象でした。事業構成が変化してパソコンのファン・モーターのような需要が著しく変化する製品の場合、相場師のような先を読む勘のようなもので生産ラインをマネジメントしていたのは、まさにN会長の独壇場だったはずで、それが自動車の運転制御の部品となると安定して受注を長期のスパンで確保できる。そこでは勘の出る幕はなかった。つい最近までのND社がそうでした。それが、直近の先行きが一気に不安定になって、勘の出番がでてきたように見える。変革の揺れ戻しです。これはその印象から受けた妄想かもしれませんが。この会社はリーマンショックの際にも、日本で影響はないと安心していたときに逸早く非常事態宣言をして、WPRというプロジェクトで事業ポートフォリオを根本的に組み替える大変革をして、その後他社がもたつくのを尻目に一気にシェアを奪取して大きく飛躍しました。今回も、他社に先駆けて厳しい状況を公表をして大規模な企業変革のチャンスとしているようですが、あわせて自己変革が進まない、N会長自身も、その波に乗って、自らの尻を叩こうとしているように見えました。

2018年12月22日 (土)

ある内部監査担当者の戯言(18)

 最近大きな話題となった、高速道路での感情的な行き違いから煽り運転が行われ、追い越し車線に止められた自動車に後続のトラックが突っ込んで死者が出たという事件。ここで、事実と言えるのは、サービスエリアの駐車についてAさんがBさんを注意したこと。Aさん一家の乗る自動車に対してBさんの運転する自動車が突っかかるような運転をしたこと。BさんがAさんの自動車の行先を塞いだこと。Aさん一家の自動車が高速道路の追い越し車線で止まったこと。そのAさん一家の止まった自動車にトラックが突っ込んだこと。Aさんがなくなったこと。これらの事実に関して、客観的はそれぞれの事実で、関係として確実なことは時間的な前後関係くらいしかない。しかし、人は、これらを因果関係という物語をつくって結びつける。それは、敢えて言えば主観的で、立場によって変わってくる。例えば、Aさんが死んだという視点で、これを避けることはできなかったのかという視点で考えられる物語はこうだ。Aさんが死んだのはトラックに突っ込まれたからだ。トラックに突っ込まれたのは高速道路の追い越し車線で車を止めたからだ。何もなければ、そんなところに車をとめることはない。普段ならない何かがあったからで、それがBさんが道を塞いで止めざるを得なかったからだ。だから、Bさんが道を塞がなければ、事故は起こらなかった。だから、Aさんの死の原因はBさんの行為にある。他方、Bさんの行為の視点からみれば、違った物語となる。BさんはAさん一家の車の前方を塞いだ。Aさん一家の車は直進できなくて車を止めた。そこまでは、Bさんの意思した範囲といえよう。しかし、トラックが突っ込んだのは、それとは違う。もし、トラックが突っ込んで来なかったら、Aさんは死ぬことはなかった。つまり、BさんはAさんの前を塞ぐという同じ行為をした場合で、トラックが突っ込んできたらAさんの死亡の責を問われて、トラックが突っ込んでいなければ問われない。同じ行為をして場合によって結果が違うということになる。その違いは偶然ということ。
 この二つのものがたりの、どちらが正しいとも、真実ともいえない。しかし、それを裁判というパブリックなところでこうだと決めた。つまり、たくさんの物語があるうちのただひとつの物語を正しいとして権威づけた、ということになる。

2018年11月25日 (日)

ある内部監査担当者の戯言(17)

たまに和服の若い男性の姿を東京郊外の地でも目にする。しかし、なんかぎこちない。駅の階段で前がはだけて裾を踏んづけそうになったりして、しかも、それを気にかけていない様子、というよりも、そんなものだと思っているような。

以前に、研修旅行で旅館の浴衣に着替える際に、若い人に、浴衣の帯を結ぶ前に腰で矯めると教えてあげても、それが何のことか分からなかった。身体感覚でそういうのが、分からなくなっているというのか、身体つきが対応できないようになっていた。和服でもそうだが、浴衣で歩く時は、上半身は背筋を伸ばした直立したかたちに腰矯の姿勢で固定して、腰から下を動かして歩く。腰から上を大地に平行移動させるようにして、摺り足で歩く。いわゆるナンバという右手右足を同時に前に出す歩き。それと反対の極端な歩き方はファッションショーのモデルの腰をひねって、手足を互い違いに前に出して、全身を揺らすようにして大股で歩く姿。和服で歩いていて、はだけてしまうのは、程度の差はあっても、その姿で歩くような身体になっているということではないか。

でも、能や歌舞伎、あるいは武道などではナンバ歩きをする。例えば、歌舞伎の勧進帳で弁慶が勧進帳を読み上げるときに、対する富樫はじっとしているように見える。しかし、そこで富樫は腰を矯めて対峙している。いわゆる肚芸なのだが、そこで二人は火花を散らし闘っているのだが、そういうのを身体で実感できるのか。あるいは京鹿子娘道成寺の乱拍子などは静止しているようにしか見えないのではないか。

それよりも、畳の部屋で文机をつかう姿勢もとれないのではないか。私は、今の若い人々のような腰高で、手足の長い身体つきではないので、僻みも入っているかもしれない。

2018年11月22日 (木)

日産のゴーン氏の事件について思うこと

日産の有価証券報告書の虚偽記載の件、といっても何のことやら、という人には、カルロス・ゴーン氏の役員報酬の開示を偽ったとして逮捕された事件について、若干述べます。

最初に、ゴーン氏ではなくて日産の件としたのは、有価証券報告書を実際に作っているのは日産という会社であるはずだからです。常識では、有価証券報告書というのは日産が記載するというものです。新聞やテレビのニュースの報道で、「ゴーン氏が」というようにゴーン氏という個人が主語になるとしたら、記載させたというのが普通のはずです。ゴーン氏が実際に書いているわけではなく、日産のしかるべき部署の担当者が作成したからです。以前、西武鉄道の有価証券報告書の虚偽記載が発覚した時は、当時の堤会長が書かせたと報じられたはずです。日産の場合も、有価証券報告書の虚偽記載となるはずなのに、ゴーン氏の個人の犯行のように報じられているのは不思議です。なぜでしょうか。そういう、変なところがあります。事件そのものについても、その報道についても。

役員報酬の額について、ゴーン氏から申告された額を有価証券報告書に記載されているように報じられています。そこで思うのは、日産の経理ってそんなにいい加減なのか?ということです。だって報酬を払っているのは日産なんだからゴーン氏から申告してもらう必要がどこにあるのでしょうか。ゴーン氏が一人で役員報酬の額を決めていて、誰も、その金額を知らなかったということですが、普通に考えれば、ゴーン氏が報酬額を独断で決めたとしても、その報酬金額をゴーン自身が銀行窓口に振込依頼しに行くとは到底思えません。少なくとも事務処理、経理処理を日産の社員の誰かがしているはずです。その時点で、ゴーン氏がいくらもらっているかは分かるはずではないでしょうか。それを帳簿につけて決算をするわけです。だから、有価証券報告書に役員報酬の記載をするのに、ゴーン氏に申告してもらう必要なんてないはずです。かりに申告してもらったとしても、それが正しいかどうかを帳簿で確認すれば、間違っていることが分からないはずがない。それが分からないのは、なぜか。だから、会社が組織的にやっていたと考える方が自然なのです。それをゴーン氏と仲間の代表取締役の二人の個人がやったことにされている。もっと言えば、監査法人の会計士が何も疑問に思わなかったのも変。それで、他の取締役がゴーン氏がいくらもらっていたか知らなかったというのは、知ろうとしなかったに等しい。何か変です。

そして、この事件で一番重要だと思うことは、そもそも、有価証券報告書というのは企業が責任を持って決算を公的に公開するものです。それについて、たとえ会長といっても、その言っている数値が検証や確認されずに記載されたようなのだということです。つまり、一番の問題は、有価証券報告書の役員報酬の数値がゴーン氏の言ったとおりに虚偽が記載されていたのが事実とすれば、他にもそういうところがあるかもしれない、その可能性があるということは容易に想像できてしまいます。例えば、会社の業績、つまり粉飾ということになるのです。そうなってしまったら、日産の決算が信用できないことになる。だから、この虚偽記載がどのように行なわれたかを明らかにすることが重要なので。虚偽ができるのは役員報酬に限ってなのか、それともすべての数値でも、できてしまうか、ということ。つまり、今、日産という会社の信頼が根底から揺らいでいると思うのです

しかし、そういうことに報道は興味がないのか、追究しようとしません。役員報酬額が高いかとか、日産の末端の社員を捕まえて感想をきくとか、かつてリストラした人のことを引き合いだすとか、あるいはルノーとの合併の話とそれに伴う陰謀の話とか、上述の事件の核心から話を逸らすかのように、混ぜっ返すような報道をしていて、報道は何をやりたいのか(役員報酬に関する報道の内容は、無知が露呈していて、知識がないからいえるような見当外れなことを報道していて、人々を誤解に誘導しているとはっきり言えます。)、これではフェイク・ニュースと言われても仕方がないのではないかと感じています。

 

2018年10月24日 (水)

決算説明会見学記~ピンチは最大のチャンス

 ある方の、ご厚意に甘えて、この数年の四半期決算の説明会を続けて見学させてもらっているN社の説明会が、今日の午前地あり、行ってきました。出席者は創業者で名物経営者の会長と財務担当の副社長とIR部長の3人だけでした。前回の説明会で後継者の新社長をお披露目したのですが、、その新社長はというと、買収した会社の経営改善に専心しているとのこと。会長さん曰く、決算説明会は経営者の業績を説明しているところで、現時点では新社長の業績ではないとのと、新社長が他人である永守の業績を説明したって意味がないだろ?と。新社長は経営改善を軌道に乗せ収益率を向上させたら、その説明を、この席でやります、とのこと。いかにも、この人らしい筋の通し方と思いました。
 さて、今回は、前回までと雰囲気が一転していました。それは内外の情勢の変化、それまでの景気回復基調がピークに達し、マーケットの風が止みつつある。実際に、同社では売上のトップラインはこの数Qでは横ばいになってきています。こんな時こそ、“風の吹かない時に凧を上げる”のが同社である、これをビジネスチャンスであるとして、第2Qの決算の説明はスルーして、これからどうするかの戦略方針を、最近にない熱さで語っていました。実際に、同社はこれまでも景気の悪いときにライバルと体力勝負を仕掛けてシェアを獲得して、ネックストステージの飛躍する基盤をつくってきたと言います。景気が落ち込めばM&Aの買収価格が安くなり、人を採りやすくなり、仕入れも安くなる。そこで、生産力を強化して従来の半額に近いような低価格で大量に供給すると、ライバルは競争についていけなくなり、また、あまりの低価格ゆえに、それまで潜在的だった需要が掘り起こされて、市場が拡大する。他社のシェアを獲得した占有率で、市場が拡大するので、売上の大幅な増加になる。それに伴いスケールメリットで収益も上がる。まるで絵に描いた餅ですが、実際にそれで実績があるわけですから。本人は強気です。M&Aや設備投資などもかなり積極的にやっているそうです。とくに、中国の情勢は、日本で言えば、高度経済成長の後半でドルショックやオイルショックに遭って一時的に成長に陰りが出たときと同じだと言います。日本は危機を克服し、一段と強い経済に脱皮し更なる成長をしていきましたが、中国も同じであり、今は、それを見越しての戦略を実行していると。やっぱり、この人は、後継者を指名したとはいえ、現役バリバリの経営者なんだなと思いました。元気をもらってきました。

2018年10月 8日 (月)

ある内部監査担当者の戯言(16)

 夫婦について生産性という観点から評価するということについて、見当外れかもしれないが、生産性ということは功利だよね。そこで求められるのは効率ということでしょう。そうすると会社のような集団と同じように見るということでしょう。いってれば、夫婦という集団は、もはや愛情とか血縁でつくられるものではなくなるべきだ、ということになる。なぜなら、功利性を求めることについては、必ずしも効率的ではない。夫婦はゲマインシャフトからゲゼルシャフトに変化すべきということになると思う。ということは、伝統的ということになっている夫婦の形態を破壊しようという主張に結びつく。私は、そのように破壊してしまってもいい思う。
 もし、子供を生産するという功利性で夫婦を評価するという場合、伝統的ということになっている形態の夫婦が果たして最適なのかということが、男女のペアリングという形態、あるいは一夫一婦制という形態、はワン・オブ・ゼムで、他の形態の場合の予測値を計算して比較するというデータの裏付けのもとに、論証されていない。
 要するに、夫婦について生産性という観点から評価するということは、伝統的と思われている形態の夫婦制を維持する根拠とはならない。
見当外れかもしれないが。

2018年10月 2日 (火)

内部監査担当者の戯言(15)

 10月1日にノーベル賞医学生理学賞の受賞者が発表されて、内定者の記者会見とともにテレビや新聞で大きく報じられました。その中のやりとりで、記者の「研究者を目指す子どもに思ってほしいことは?」という質問に対して「研究者になるということにおいていちばん重要なのは、何か知りたいと思うこと、不思議だなと思う心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って、本当はどうなってるんだ、という心を大切にする。つまり、自分の目でものを見る。そして納得する。そういう若い小中学生にぜひ、研究の道を志してほしい思います」と答えていました。これは学問とは、そもそもそういうもので、タテマエとして何ら問題はないことなのですが。それをあるテレビ局の放送の中で、その発言をさも感心したかのように称揚するするように取り上げていました。
 発言した本人は、その前の質問でも、研究者の心得として、「私自身は、研究に関して、何か知りたいという好奇心がある。もう1つは、簡単に信じない。それから、よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ、という話をするが、僕はいつもネイチャー、サイエンスに出ているものの9割はうそで、10年たったら、残って1割だと思っています。まず、論文とか、書いてあることを信じない。自分の目で、確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやると言うことです」とも言っていたので、それと一貫しているし、この人のモットーとしていることなのだろうと思います。
 しかし、これを、もし自分が実践するとしたら、それは現実の社会では、混乱を招くことになるような過激な内容を含んでいることは、少しでも考えれば分かることです。こんなことはありえないでしょうが、この記者会見に感動した小中学生が、一斉にこの言葉を実践したとしたら、教科書に書いてあることを信じないで、それを常に疑うことなるわけです。そうしたら現在の学校の授業は崩壊します。教科書の内容を疑っている生徒に対して、それは正しいということをちゃんと説明できる人が現実にどれだけいるか。それだけ、いまの学校もそうですが、会社も、もっとひろくいうと社会も、教科書に書かれていることは無条件に正しいと鵜呑みにして、疑問を感じないことで成り立っているのが実情だろうと思います。その中で、学校教育というのは、そういう社会に適応させる訓練のためのものというもので、教科書に疑問をもつような子供がいたら、その疑問を封じ込めるというのが実際の授業で、学校での成績優秀者というのはそれによく適応した者のことを言っている。かなりシニカルな言い方をしていますが、実際にそんなものだろうと、納得できるのではないかと思います。
 こんなことを言っているからといって、受賞者を貶めようとか、発言の揚げ足を取ろうというのではありません。ご本人は受賞の喜びに包まれて、気分の高揚しているところで、多少興奮して、話をしているので、それはそれで、微笑ましい光景だとおもうくらいの常識はわきまえているつもりです。
 しかし、その発言を鵜呑みにするように感心してしまうようなことは、実は、この発言をちゃんと聞いていないということになるのではないか。そう思ったということです。
ご本人は正しいかどうかをじぶんで考えて判断しなさいと言っているのですから、この発言に感心して、そうだと思うのなら、当のこの発言の内容に対しても、まず疑ってみるべきだということになるはずなのですから。

2018年9月17日 (月)

内部監査担当者の戯言(14)

 このごろも政党の党首の選択の中で争点に上がっているようですが、憲法の改正について、自主憲法という議論があることについて、見当はずれかもしれませんが。
 現在の憲法は自主的に作られたものでなくて、押し付けられたということについて、だから正当でないという考え方もあるのですが、新しい時代の作られ方という考え方は出てこないのかということです。例えば、現代の国際社会で民主的な選挙をしないで独裁者を選んだとか、その国だけの都合で核兵器を作ろうとしたということについては、内政不干渉などということはなくて、国際的に大きな干渉を受けます。ある国家がどのような体性をとろうと、それはその国の問題であり、他の国がとやかく口を差し挟むべきではない。そういう原則は、現代ではとおりにくくなって来ているように見えます。そうであれば、国の基本的な体制とか方針について、決めるのは、その国のことだと言っていられるのは、果たしてそれでいいのか。原則として、その国の人が決めるべきことであることは否定するつもりはありませんが。それを、その国だけの独断だけでいいのか、というと、そこに開かれることが、今の世界では求められるようになってきているのではないか。つまり、法律といっても、基本法のようなものは、影響がその国の内だけに限定できるものではなくなって来ているので、条約のような性格を帯びてきているのではないか。そう見えてくるところがあると思います。そう考えると、現在のこの国の憲法の成り立ちは、法律とうよりは条約の成り立ちに近いところもある。今の国際社会を先取りしたような成立の仕方をしていると考えられないでしょか。
 そして、現在の憲法については、つくられたときは敗戦による占領下で、国として独立していなかったというのは当然で、政府といっても、連合軍の支配を代行して実行しているにすぎなかった、というのは明らかでしょう。全面降伏して占領されてしまったのですから、常識的にみれば、敗戦国に自主性を認められて政府機関の存続を許されただけでも儲けものと言えるかもしれません。憲法とか政府とかすべてを白紙にされたって、おかしくはなかったでしょうから。
 そこで新しい憲法をつくって新生日本のスタートとしましょうということであれば、当然占領軍の占領政策に反するようなものはダメだしされてしまうわけで、それがおしつけられた憲法という人がいるわけでしょうか。でも、このとき日本の行く末というのは、連合国それぞれの思惑があったのでしょうが(日本が再軍備して強国となって甦るのを恐れた国は少なくないでしょう)、かなり心配していたのは確かしょう。それは、現代でも多国籍軍がイラク戦争とかボスニア紛争とかに介入して、新たな政府の成立に深く干渉するのと同じではないかと思います。そういう紛争を起こさせないような体制を最低限つくらせる。だから、そういう戦後処理の方針のようなものは多国籍軍、あるいは国連で話し合って合意する、言ってみれば条約のようなもので、新たな政府はそれに従わされる。日本の敗戦後も似たようなものだったのではないか、とすればそういう条約のようなものはつくられないとすれば、それに代行するものとして日本の政府が自主的の名目で作った憲法がされに該当した。それだからこそ、その後でのサンフランシスコ講和条約では、そういう憲法があるからということで日本の独立を認めましょうということになった。そういうものではなかったと思います。つまり、日本国憲法って、日本の憲法でありながら、国際社会が認めたものだった。そうであれば、この憲法を、憲法であるからと言って国際社会という視点を無視して、日本国内だけの閉じた範囲のなかだけで議論していいのか。たとえば、こういう憲法があるからということで講和条約で日本の独立を国際社会が認めたわけですから、その前提である憲法を改正したとしたら、その講和条約を締結しなおすのか、ということは考えなくてもいいのでしょうか。私は素人なので分かりませんが、日本が再軍備しないから安心だということで講和条約を結んだ国が、あとになって自衛隊という軍備を正式に憲法で宣言したというと、話が違うじゃないかということにならないでしょうか。

2018年7月25日 (水)

ある会社の決算説明会(2)

 懇意にしているアナリストの厚意で、電子部品メーカーN社の決算説明会に行ってきました。創業者である名物経営者が、4月に社長を後継者に譲り、会長となりましたが、説明会は今までとは変わらないものでした(質疑応答の時間で、質問者から社長と呼ばれて、俺は会長だよとからかって、会場の笑いをとっていたのは、この人らしいパフォーマンスだった)。前回の4月の説明会では経営者の経営方針とか経営姿勢のようなことを話す部分が目につきましたが、今回は、その傾向がさらに強まり、具体的な数字については資料を見れば分かるということで、業績の説明は新規事業の順調に成長したために、一本立ちさせてセグメントを変更させたことと、設備投資や工場の再編などによる生産能力の向上策を語る程度でした。しかも、それに合わせるかのように、後半のアナリストによる質問も、会長さんの方針や中長期の方向性に関するもの、あるいはマクロの経済状況に関する意見を聞くといったものが大半を占めるようになってきて、企業の決算説明会というより、経営の賢者の教えを受ける場のような雰囲気が生まれていました。
 たとえば、生産能力の増強のために工場の新設、既存工場の増床、増築を大規模に進めていることに対して、あまりに強気で、あとで供給が需要を上回って値崩れしてしまうリスクを指摘する質問に対して、ユーザーのニーズに応えることが供給者の使命であるから、供給できないというのは供給者としては怠慢であると、また、値崩れを心配して生産を調整して、需要があるのに供給を抑えて不足感を煽って価格を吊り上げて利益率を高めるような商売はしないと断言します。それは、倫理的な面かもしれませんが、そんなことをしていれば市場での競争を回避、つまり逃げているので競争力が弱まって、その市場のおいしさにひかれて新規に参入してくる競争者に負けてしまうだろう。むしろ、市場拡大のペースが落ちて生産能力がユーザーの需要に応える以上になったら、減り始めた市場において競争者との競争が激化することになるのは、N社にとってはむしろ利益拡大のチャンスなのだという。それは、競争がきびしくなれば、行き着くところは価格競争で、生き残りレースとなる。この時の勝敗を分けるカギとなるのは、企業がどこまで持ちこたえられるかという体力勝負になるという。つまり、体力の強い方が勝つ。そのために、N社は強い生産能力で価格が安くても利益を出せるようになっているので、そういう時こそ、競争者のシェアを奪って、飛躍的に売上を伸ばすことができると言います。これから、経済環境についてリスクが高まっているという声もあるようだけれど、経営者としては、そういう時に適切な対応をしていれば、競争者が脱落していくので、シェア拡大のチャンスなのだといいます。
 そこで言います。低価格であるのと、安売りとは違うといいます。価格が低くても適正な利益(N社は営業利益率15%をモットーとしています)を確保できているのであれば、そこには企業努力の結果としての適性な価格であり、それはユーザーにも貢献することになる。しかし、そういう利益をとらずに価格だけを低くするのは安売りであって、それは適正とは言えないといいます。そんなことをしていれば、しわ寄せが、例えばブラック企業になったり、下請け叩きになったりする。それは結局企業の弱体化になってしまう。
 抽象的な倫理の建前のお説教ではなくて、経営の実践の場で、それを具体的にこうやっているんだという事実で迫ってこられると、ぐうの音もでない圧倒的な説得力でした。
 また、初心者みたいな女性記者が保護主義的な経済環境に対する意見を求めたのに対して、国家のリーダー達がそういう話をしているようだけれど、例えば中国が大豆の輸入に報復関税をかけたけれど、大豆の需要を抑えることはできないので、代わりに南米からの輸入を増やした。その南米では外貨を稼げるので大豆を輸出すると、こんどは自国の大豆が品薄になってしったが、その不足分を、まわりまわってアメリカの大豆を買いつけ始めたという事例を説明して、現場レベルでは、多少の障害があっても市場は回るしたたかさがあるのだと説明し、経営者であれば、それもひとつの事業上の障害であって、その障害に対して意見を口にするよりも、有効な対策を立てたり、そういう障害にもビクともしない体制をつくることが重要であって、決算説明会では、そういう経営者の戦略や施策を説明する場であると。そういって、やんわりと記者の質問をたしなめていたのが印象的でした。

2018年7月 3日 (火)

内部監査担当者の戯言(13)

 もう何十年も前の若い頃、クラシック音楽のファンサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルのブルックナーという19世紀後半の作曲家の交響曲のCDを聴く集まりに出席したことがありました。十数人の人々が集まって、リスニングルームでCDを聴いて、その後、喫茶店に場所を移して、お喋りに花が咲きました。中で、いかにもマニア然とした年配の人が、「この演奏にはブルックナーの宗教性が感じられない」という意見を述べて、それをキッカケに、ブルックナーの宗教性ということで話題が盛り上がりました。それで、よく分からなかった若年の私は、ブルックナーの交響曲を聴いていて、例えば、どこの、どのような響きに宗教性が感じられるのかと教えを乞うたところ、盛り上がっていた議論は、一変にシーンとしらけてしまいました。その時に、最初に口火を切った年配の人から「音楽を理屈で聴くものではない」と言われたことをおぼえています。でもこれって、理屈ではなくて、自分なりの感じ方を他者に話すということでしかないですよね。その人が言うには、ブルックナーという人は、長年、教会でオルガンを弾く仕事に就いていた。だから宗教的なのだ、ということでした。でも、それだからといって、ブルックナーという人の作曲した交響曲が宗教的に聴こえるということではないですよね。その交響曲が宗教的というのは、そういう情報を持っていない人が聴いても、宗教的と感じるということで、それは実際に交響曲を聴いていて、ここのところとか、こういう響きとか、それを実際に教えてほしいと、私がいったわけです。その人は難しく音楽を考えるな、と言いました。
 結局、この人は、聴いた音楽を語るための借り物でない自分の言葉を持っていないか、音楽を聴く自分自身の耳を持っていないかのいずれかである、と今では言えます。この人は、誰かのブルックナーの感想やCDの解説に書かれている情報を確認していたという、CDを聴くのは、それをしている自分を確認しているようなものだったのではないかと想像できます。だから、当時の私の問いに答えるには、自分はどのように音楽を聴いているか、ということ、それはこの人がやっていないことを、考えることを迫られるわけで、そこで考える対象でうる自分がないからできない、ということで、それはだから、そのとにとって難しいことになるわけです。
 そして、これは音楽に限らず、仕事の場面でも年齢や肩書にかかわらず、自分の言葉を持っていない、ということは自分を持っていない人をしばしば目にすることになりました。そういう人は、例えば営業セールスであれば、お仕着せの教えられたマニュアル通りに、セールストークをするような人で、そのセールスを受けていて、その人の言葉を、つまりこういうことですよね、と私の言葉にして言い直して、それで質問すると答えられないということがあります。
 つまり、マニュアルにしか仕事をできない。私が、内部監査で、ある担当者に、ある作業の手順について、この仕事の目的とか、意義とか、どうしてそういう手順になっているか、と質問すると、そうきまっているから、としか答えられない人が結構おおいのです。
これを監査する側がそういう人であると、内部監査が社内の粗探しとか、揚げ足取りに陥ってしまうおそれがあると思う。

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