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ビジネス関係読書メモ

2019年6月28日 (金)

琴坂将広「経営戦略原論」の感想

 大きな書店のビジネス書のコーナーでは、たくさんの経営戦略に関する書籍が並べられている。古典とされているマイケル・ポーターやジェイ・バーニーからファッションの流行のように後から後から最新理論が発表される。それらは、個々には充実した理論なのだろうけれど、それぞれが個々独立していて、相互の関連性は分からない。研究室で有名な学者の学派のもとで研究している人はそれでいい。しかし、実務家が経営戦略の知識を得ようとして、自社の経営に適した理論はどれかと探そうとしても、その手がかりもない。片っ端から学んでみて自分で手探りで探すしかない。実務家にそんな暇はない。だから、学問と実践は別というのは、そういうところにも原因がある。
 少なくとも、この著作は個々乱立している経営戦略を体系的に整理して、全体像がつかめるようにしているところが評価できる。
 例えば、1950年代のアメリカ経済は、とにかく、ものを作れば売れた時代だったので、とにかく大量生産、して規模を拡大すればよかったので経営戦略となかった。それが1960年代後半から70年代になって市場が自然に拡大していくことがなくなり、そこで市場内で企業の生存競争が生まれたことから、そこで経営戦略が生まれた。当時は、それまで拡大した企業では市場から溢れてしまうので、肥大化した企業の無駄をいかに切り捨てるかが求められた。それに応えたのが、どの市場に進出するかという戦略ボストンコンサルティングのBCGマトリクスやマイケル・ポーターのファイブ・フォースだった。それが1980年代電機や自動車で進出してきた日本企業が、とにかくこの市場で競争に勝つという力の集中に、最適の市場を選んでいたアメリカ企業は勝負にならなかった。そこでコア・コンピタンスのような核をもつ、その核を強化するものに戦略の発想が転換した。
 このような経済状況の変化にともない、それに応じた経営戦略が生まれてきている。そういう流れを提示しようとしている。だから、たとえば単一事業で生き残る企業には最適の市場を選択するBCGマトリクスは有用とは言えない。そういう見方ができる。

経営学と実務のギャップについて
 経営学の理論にあるような経営戦略に膨大な時間と労力をかける企業は、それほど多くないのではないか。もちろん予実管理などは重要だ。しかし、精緻な経営計画をつくるために、産業構造の分析や、自社の組織構造を分析するより、実行段階で目の前の状況変化に逐一反応して変化していくことの方が、結果としてのパフォーマンスは高まる、と実務の現場では実践されているのではないか。つまり、経営戦略は実行の中から次第に形づくられていくということ。組織の個々人が現場で実践する方法論が積み重なり、組織の行動様式として定着していくことや、意図せずに現場から見出され、その優位性により組織に浸透した考え方が、結果的に草の根から組織の各層に広がり、全社の経営戦略として認知される。そのような、それこそ一日単位での試行と改善のプロセスが、多岐にわたり試行の末に辿り着いた結果としての経営戦略。それは常に変化を伴う環境に晒されている中で、刻一刻と競争しているということが戦略に反映されていなければならないということ。
 例えば、インテルのCEOアンドリュー・グローブは、著書(『インテル戦略転換』)のなかで、日本企業との競争に負けてメモリーからマイクロプロセッサーへと転換したのは、トップが考えたのではなく、現場からのボトムアップを経営トップが追認したといっているのは、その模範的な実例ではないかと思う。
 経営学の戦略理論書は、すぐれた理論であればあるほど説明には詳細な引用文献が示されている。すなわち、可能な限り学問的な議論の系譜に立脚している。それは、実務的に最上であると両立するとは限らない。つまり、論者の主張を自由に展開する自由はそれほどない。経営戦略の研究者の間で共有されている考え方の型があり、共通理解として認められている主張があるため、それに準拠した考え方が求められる。むしろ、実務では、ライバルの考え付かないような施策で差別化することとは方向が正反対をむいている。
 例えばCSR投資を推進している企業が、それ以外の企業より好調な業績であるとして、その事実のみからでは、理論では主張することはできない。潜在変数が抜け漏れているかもしれないし、逆の因果を操作しきれていないかもしれない。そもそも、実社会の状況は実験室とは違って因果関係を説明できたとしても再現できるとは限らない。だから、理論ではCSR投資すべきであるかは答えを出せません。それは、実務家から見るときわめて歯切れの悪い文章となり、つまらない内容となる。

2018年5月25日 (金)

水口剛「ESG投資 新しい資本主義のかたち」

 ESG投資は、E(環境)S(社会)G(ガバナンス)という要素を組み込んで投資判断を行うことを言う。より多くのリターンを求めるというのが一般的な投資の動機とすると、EMG投資は公共性とかリスク・コントロールという投資の本筋からは外れているように映る。しかし、投資家の多数派がアセットオーナー、その多くが公的年金や企業年金で、実際の投資は運用機関に委託しているが、年金は今20代で年金を払い始めた人が60歳を過ぎた後で数十年にわたり老後の年金を受け取ることができるようにしなければならない。そのため短期的な大儲けを求めることより長期的に収益を継続させることを優先する。しかも巨額の資金を擁して幅広い企業に分散投資をしている、実際には市場のほとんどの企業に投資することになってしまっている。だから、特定の企業というより、経済全体に投資しているようなものだ。例えば、目先のコストを嫌ってCO2対策を忌避した企業は、個別の投資先としては一時的な利益を生むかもしれない。しかし、それによって地球温暖化が進んで、異常気象や海面上昇で経済全体が損害を被ることになると、10年後には、結果として全体としてのポートフォリオは悪化する可能性が大きい。
 一方2012年のイギリスのケイ・レビューでは、多くのイギリス企業にとって株式市場はもはや新規の事業投資のための重要な資金調達の場ではなくなっている。それは日々の事業活動を通じて十分な資金を得られるからだ。それでは、株式市場に上場している意味がないではないか、ということになると、そこで重要になってきたのはガバナンスに関与をうけること、リスク・コントロールを先取りすることだと報告している。それがサスティナビリティーといわれるもので、それが日本でも言われるようになってきた。
 ESG投資の概要を理解するには、概論として手頃だと思う。
ただし、この著作では、それが例えば実際に投資リスクに入って来ているとすれば、企業の側でも資本コストの計算が影響を受けるはずだが、そういう実践的なことの説明は触れられていない。それが、説明の説得力ほイマイチにしている。

2018年5月13日 (日)

宮川壽夫「企業価値の神秘」

 以前、IR業務を担当していたとき、企業価値の計算とか分析は必須で、そのためにコーポレート・ファイナンスの教科書やデューデリジェンスの解説書などを何度も繙いたりしたが常に頭の中にモヤモヤが残っていた。この本がそのモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。「企業価値評価の公式を暗記することには何も意味はない」と筆者。難解な計算は極力排除し背景の考え方に重きを置いて、論理的に伝統的ファイナンス理論の「考え方」を示してくれる。企業価値などと上場会社は言われるが、何で、そういうことをいうのかと言えば、価値が分からなければ誰も投資してくれないから。値段が分からなければ、ものを買えないということ。投資というのは、株だけとは限らず、人の投資(雇用)、物の投資(取引)もそう。では、その価値というのはどうやって量るのかというと、それは企業が将来に向けてどれだけキャッシュを獲得できるか、ということ。しかし、将来のことなので確実性はない。その不確実性がリスクであり、それが資本コスト。大きな獲得のためにはリスクをとらなければならない。つまりハイリスク・ハイリターン。それがゆえに、資本コストは株主の期待値ということになる。そういうところから、将来のキャッシュ獲得ということから割引現在価値の計算に導かれ、知らず知らずのうちにベータ値の原理を納得させられる。そのファイナンスの理論で説明されるPBRやPER、EPSといった指標に対する誤解に目から鱗が落ちる。とどめはマイケル・ポーターのポジショニング戦略をキャッシュフローの原理で論証してみせる。
 面倒臭いと思っていたコーポレート・ファイナンスがこれほど面白いとは、と再発見。この著作はIR担当に就いたときに出会いたかった。今、この職にある人には薦めたい。
 同じ著者の「配当政策とコーポレート・ガバナンス」も併せてお薦め。

2015年9月16日 (水)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(10)

1990年代以降の世界経済の大きな潮流は、日本やドイツなどの産業大国が没落し、その半面で、アメリカ、イギリス、アイルランドなど脱工業化を実現した国が目覚しい発展を遂げたことだ。このような現象が生じた原因は80年代以降の世界経済構造の大変化である。第一に、アジア新興諸国が工業化した。韓国、台湾、シンガポール、香港に続いて中国が工業化し、これらの諸国が安い賃金で工業製品を安価に製造できるようになったため、先進国における製造業は、優位性を失い、製造業中心国が立ち遅れたのだ。

大量生産の製造業において重要なのは、新しいものの創造ではなく、規律である。全員が共通目的の達成を目指して、与えられた職務を正確に遂行することが求められる。また、金融も、市場メカニズムに従って資金配分が為される直接金融よりは、資金配分を政府がコントロールできる間接金融の方が都合がよい。この体制は1940年頃の世界では決して特殊なものではなかった。第二次大戦後の社会でも、70年代までは、技術の基本的性格はそれまでと同じものであり、したがって産業構造もそれまでと同じものだった。この時代の中心産業は、製造業、とりわれ鉄鋼業のような重厚長大型装置産業と、自動車のように大量生産の組み立て産業である。そのような環境の中で、戦後も戦時経済体制を維持し続けた日本が良好な経済パフォーマンスを実現できたのは、当然のことである。

しかし、1980年代以降の世界では、技術体系に大きな変化が生じた。それは情報処理と通信の技術が、集中型から分散型に移行したことだ。この変化は、経済構造の根幹に本質的な影響を与えた。情報処理システムが集中型だった時代には、経済システムでも中央集権型が有利だった。日本の戦時経済体制も、中央集権的な色彩が強いので、古いタイプの情報システムに適合していた。所が、90年代以降の情報技術の変化は、このパラダイムを根本から変革した。分散型情報システムが進歩すると、分権型経済システムの優位性が高まる。したがって計画経済に対して市場経済の有利性が増し、大組織に対して小組織の優位性が高まるのである。具体的な経済活動の内容でも、産業革命型のモノ作りでなく、金融業や情報処理産業の重要性が増す。中国等の工業化の影響と共に、このような技術上の大変化が、産業構造の変革を要請したのだ。こうした経済活動においては、ルーチンワークを効率的にこなすことでではなく、独創性が求められる。したがって、集団主義でなく個性が重要になる。政治的にも、地方分権が望まれる。統制色の強い戦時経済的な経済体制は、新しい体系の下では、優位性を発揮できず、むしろ変革と進歩に対して桎梏となるのである。

 

1940年体制を構成するいま一つの重要な要素は、企業別労働組合、年功序列賃金、終身雇用制によって構成される「日本型企業」である。これらについても、1990年代後半以降、製造業の成長が頭打ちになるにつれて、労働組合の影響力は低下し、終身雇用制は保障されなくなった。雇用構造が正規労働者を中心とするものから転換し、非正規労働者が増加した。賃金構造も変わった。しかし、日本企業の特徴である閉鎖的で、外に向かって開かれていない点は変わっていない。終身雇用制や年功序列賃金は崩れつつある。しかし、企業間の労働力移動はいまだに限定的だ。とりわけ、企業の幹部や幹部候補生が企業間を移動することは、めったにない。経営者が内部昇進者であることは、少なくとも大企業に関する限り、全く変わらない。日本には経営者の市場が存在しない。経営が組織の範囲を超えた普遍的な専門技術であるという認識がないからだ。このため、日本大企業で、内部昇進のルートを通らない最高幹部が誕生したのは、経営破綻した日本長期信用銀行の後身である新生銀行、経営危機に陥った日産自動車、破綻した日本航空など、破綻した企業または破綻の危機に瀕した企業でしか見られない。大企業の幹部は、経営の専門家でなく、その組織の内部事情の専門家であり、過去の事業において成功してきた人たちだ。従って、企業経営の究極的な目的は、これまで続いてきた企業の姿と、従業員の共同体を維持することに置かれる。時代の変化に適応して企業の事業内容を変化させることは、それに比べれば下位の目標とされる。従って、環境が変わっても、過去に成功した事業を捨てることをしない。過去に成功した人々が実権を握っているため、過去の成功に囚われて、変化する世界の中で変革を拒否しているのである。このため、本来を未来を開く推進力となるべき企業が、変革の意欲を持たず、現状維持勢力になってしまう。世界経済の大変化にもかかわらず、これまでのビジネスモデルを継続することに汲々とし、企業の存続だけを目的とするようになる。

日本企業の第二の特徴は、市場システムに対する否定的な考えに強く影響されていることである。利益の獲得を罪悪視し、従業員の共同体的性格が強い組織の存続を何よりも重要な目的とする。株式会社制度は、株式の売買が自由に行われることを前提にしたものだ。それによって、業績の振るわない企業の株価が下落し、経営に影響が及ぶことが期待されているのである。しかし、日本の大企業の多くは、株式の持合によってこうした圧力から守られている。また、外資の参入に強く抵抗する。このため、市場の圧力が経営に影響しない。この意味においても、日本の大企業は閉鎖的である。

以上で見た日本企業の特性は、日本社会の必然であり、日本社会に固有のものであると考えられることが多い。しかし、戦前の日本企業は、戦時の日本企業とは極めて異質のものであった。日本にも「欧米流の資本主義」があったのだ。だから、いまの体制が日本に固有のものだと考えるのは、間違いである。

日本企業が変革できない基本的原因は、日本企業が資本面で国際競争にさらされていないことである。資本面から見ると、日本は鎖国しているしとか言いようのない状態だ。このため、経営者が直接に競争にさらされることがない。競争は経済パフォーマンスを向上させる最も基本的な手段であるが、日本では製品の競争はあっても、経営者や資本面の競争はないのだ。

 

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(9)

第11章 経済危機後の1940年体制

世界経済は、2007年から09年頃にかけてつね大きな経済危機を経験した。それは1970年代生じた石油ショックと同等、あるいはそれ以上の打撃を世界経済に与えた。ここで注目したいのは、石油危機と今回の危機では、危機後の日本経済のパフォーマンスに大きな違いがあったことである。70年代には、日本経済は石油ショックによって大きな打撃を受けたものの、比較的早期に立ち直り、80年代以降の世界経済で目覚しい躍進を遂げた。その反面で、アメリカやイギリス経済はスタグフレーションに陥り、長期にわたって立ち直ることができなかった。今回の世界経済危機においても、日本経済は大きな打撃を受けた。しかし、危機の原因を作ったアメリカ経済が危機から脱却したにもかかわらず、日本経済は10年にいたっても、危機前の経済活動水準を取り戻すことができない。日米間において、石油ショック時とは逆の現象が生じている。石油ショックと金融危機という二つの経済危機の結果で、なぜこのように大きな違いが生じるのだろうか?その疑問を解く鍵は、1940年体制にある。石油ショックの克服過程で40年体制がポジティブな役割を果たしたのに対して、今回の危機の克服に対してはネガティブな影響を与えたのだ。

1970年代の石油ショックは、第四次中東戦争の中で中東産油諸国が原油価格を引き上げたことによってもたらされた。それまで先進工業国は安価な原油の安定的な供給を基礎に経済成長を謳歌してきたのだが、石油ショックは、こうした経済構造を根底から揺るがした。石油ショックまでは「物価が上がれば失業率が低下する」という関係にあったのが、石油ショック後には「物価も上がるし、失業も増える」というスタグフレーションの状態に陥ってしまった。その後、世界経済は徐々に回復していったが、国によって大きな差があった。アメリカやイギリスなどの欧米諸国では経済停滞が長引いたが、日本経済は比較的早期に立ち直り、ドイツと並んで世界経済をリードした。イギリスやアメリカでは、経常収支の赤字が拡大し、その結果、為替レートが減価した。本来であれば、これによって国際競争力が回復し、経常収支赤字は縮小に向かうはずだ。しかし、為替レートの変化が貿易数量に効果を及ぼすのには時間がかかる。それにより早く為替レートの減価が輸入物価を引き上げ、それによって国内インフレが亢進する。それが賃金を押し上げ、為替レート減価による国際競争力向上分を打ち消してしまうのである。こうして、イタリアやイギリスの通貨に対する信認が失われ、1976年にはリラ危機、ポンド危機が発生した。これに対して、日本では賃金上昇圧力が低かったため輸出が増大し、経常収支黒字が拡大した。これにより円高が実現し、輸入インフレを軽減できた。このため国内インフレが抑制された。また輸出拡大によって不況も克服された。かくして好循環を実現できた。このように、石油ショックへの対応において、賃金決定のメカニズムが決定的な重要性をもったのである。欧米諸国では、物価スライド条項を含む賃金協定が普及していたので、インフレが亢進すると賃金が上昇する。したがって、不況であるにもかかわらず賃金が上がる。これがスタグフレーションに他ならない。こうした事態に対処するため、ヨーロッパでは所得政策の導入が論議された。これは、賃金などの所得を政府が統制して、生産性上昇の範囲内に抑えようとするものだ。しかし、これは統制であるから、自由主義経済では実現は難しい。ところが日本では、所得政策と同じことが、自然発生的に実現できた。戦時経済体制を引き継いだ日本では、労働組合が企業ごとに作られており、企業別賃金交渉を基礎にして賃金を決めるという仕組みが定着していた。しかも、家族的企業観のもと、インフレにあわせて過大な賃上げを要求すると会社が沈んでしまう。だから、労働組合は経営者と一体となり、賃上げよりも会社の存続を優先した。

また、イギリスのように労働組合が強いと、配置転換に対する反対が強く、労働の流動性が阻害される。このため、イギリスでは、経済の構造変化に対して労働力を弾力的に移動させることが求められるのにも関わらず、それが実現しなかった。これに対して日本では、企業内での配置転換は比較的容易に行なえた。このため、経済の構造変化に対する対応が柔軟に行なえたのである。

この経験から、「日本型システムはどんな場合にも優れたものだ」という過信が広がった。同時に戦時経済システムが生き残るばかりでなく、むしろ強化する結果となったのである。仮に石油ショックがなかったとしたら、こうはいかなかった可能性が高い。戦時経済システムは徐々に変質し、より自由主義的で、グローバル・スタンダードに近い経済が実現されていたことだろう。もっとも、40年体制は全ての面で元のままの形で残ったわけではない。80年代から90年代を経て変化を余儀なくされたのである。1940年体制の中核的な部分は官僚制度と金融・税財政制度であるが、金融制度と官僚制度における40年体制は大きく変質死、主要な要素は変質した。しかし、現在に至るまで余り変化が見られず、依然として根強く残っている分野もある。その第一は税財政制度だ。給与所得税と法人税を中心とする税制の構造は、ほとんど変わっていない。また、地方財政が国の財政に大きく依存する構造も変わっていない。そして第二に、日本型企業の閉鎖的体質だ。そして市場メカニズムを大きく否定する考えである。

2015年9月14日 (月)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(8)

第8章 40年体制の基本理念

40年体制の特徴として第一に挙げられるのは、生産者優先主義である。つまり、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されれば様々な問題が解決されるという考えである。戦時経済においてこれが要求されることはあきらかだ。しかし、戦後の高度成長期においても、この考えが支配的だった。経済が成長すればその成果として人々の生活が豊かになるはずだし、生活を豊かにするにはそれしん方法がない、という考えは社会的コンセンサスを得ていた。本来であれば、生産力の増強は、手段に過ぎない。しかし、こうした状況が長く続くと、それ自体が最終的な意味を持つものであるような錯覚が蔓延する。手段が目的化してしまうのである。生産者優先主義は、普遍的な価値観にまで高められた。このような価値観は、「仕事が全てに優先する」という会社中心主義と巧みにマッチした。生産性向上の成果を賃上げで蚕食してしまうのではなく投資に回してさらに会社を発展させるという方針に異議を唱える人は少なかった。従って、労働組合も、過激な賃上げ闘争を行なうことはなかった。

40年体制においては、企業という生産のための組織が、従業員の相互補助的な共同体としての性格をもち、しかもそが生活の基本的単位となっている。そして、各組織は外に対して閉鎖的であり、これらの間の移動は極めて限定的である。新卒者が企業に就職する時、「雇用契約に基づいて雇われる」というより、「共同体の一員になる」と考えるのが普通である。このように、戦後の日本では、最も重要な共同体は「会社」になった。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。様々の汚職事件で表出した「会社のためになることが悪であるはずはない」という「会社人間」意識は、その象徴である。このことは、日本人の思考様式にまで大きな影響を与えた。さまざまの汚職事件で表出した「かいしゃのためになることが悪であるはずがない」という会社人間意識は、その象徴である。言うまでなく、多くの人は、消費者であると同時に生産者でもある。また、所得稼得が生活の基本であることを考えれば、生産者の立場が優先されるバイアスは、どんな社会でも多かれ少なかれ見られる。どの国もどの時代の政治システムも、消費者の利益よりは生産者のそれを重視するバイアスを持っている。しかし、ただ一つの会社が生活のあらゆる面をおおう基本的な共同体になるという姿は、決して普遍的なものではない。この意味で、戦時経済以降の日本は、特殊だったといえる。

 

40年体制の第二の特徴は、「競争の否定」という、より原理的なレベルのものである。この体制は、単一の目的のために国民が協働することを目的としている。このため、チームワークと成果の平等配分が重視され、競争は否定される傾向にある。そこでの至上目的は、脱落者を発生させないことである。つまり、全体として、大きな社会保障システムになっているのである。

高度成長期においても、このシステムが経済成長に伴う歪みを是正し、社会的な安定を達成してきた。生産者第一主義と同様、競争否定・平等主義も、ある種の価値観にまでなった。これは、戦後むしろ強化されたといえる。

過当競争ということばが示すように、「競争は悪である」とかる考えが一般的になった。競争とは弱者を無視した強者の一方的な論理であり、したがって、社会的公正の観点から排除すべきだというのである。そして、協調し、共存することこそ、望ましい状態と考えられるに至った。しかも、それが生産者のレベルで主張されることが特徴である。経済学の理論では、生産に関しては市場における競争原理にまかせ、生活の保障はそれとは別に社会保障で行なうべきだとしている。つまり、個人の生存や生活は保障されるべきだが、それは雇用の保障によるものではないと言う考えである。しかし、40年体制の考えは、これとは異なり、生産者に対して生存権を認めようとする。これは、生産組織が社会の基本単位になっているからである。金融行政における「護送船団方式」も、同じ考えに基づいている。預金者保護の名目の元に、実際には、限界的な金融機関の存続を可能とするような政策が行なわれてきた。

競争の否定に関連して「共生」という概念が1992年に経団連が今後の企業のあり方として提示した。「企業と地域社会、企業と消費者、日本企業と海外企業」との間で、それぞれ共生が必要であるという。この「共生」という言葉は「協調」や「調和」を越える意味合いをもっている。「共生」という概念が企業から主張するのは、自由主義経済の最も基本的な原則に対する挑戦である。なぜなら、企業が存続しうるかどうかは、本来は消費者が決定すべきものであるからだ。消費者の要求に応える企業は存続し成長するが、そうでない企業は淘汰されて消滅する。これが市場経済の基本原則である。経済的条件の変化に対して古い企業が死滅し、新しい企業の誕生に道を開くことが、市場経済のダイナミズムの源である。企業同士の縄張りや棲み分けを規定して生き延びようとすることは、本来は出来ないはずのものである。生存の権利は、個人には認められているが、企業には認められていない。非効率な企業や消費者の要求を満たさない企業に「共に生き」られては、消費者は困るのである。共生哲学は、この基本原則を否定し、現存企業の生存権を主張している。それがもたらすものは、競争による変化と進歩ではなく、寡占と規制による停滞の世界である。「共生」という奇妙な概念が経済問題に関してあたかも望ましいことのように考えられるのは、日本社会の特殊事情といってよいだろう。この概念は、日本企業の会社中心主義や働きすぎ等、海外からの日本異質論にこたえるために財界から持ち出されたものである。しかし、これによって、かえって日本社会の異質性が強く現われたことになる。

2015年9月13日 (日)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(7)

第7章 高度成長と40年体制(2)

経済成長というのは、通常はさまざまな部門が不均衡に成長する過程である。戦後の日本の高度成長についても、これが当てはまる。まず、製造業の大企業が、国際的な競争のなかで高い生産性を実現した。これらの企業の多くは輸出産業である。これが日本型システムの第一の構成要素である。しかし、量的に見れば、大部分の労働力は、製造業の零細企業、流通業、サービス産業そして農業等に吸収されている。この部門の生産性、時間的な推移からも、国際的にみても大きく立ち遅れた。こうした状況を放置すると、所得格差、地域格差が拡大し、社会的緊張が高まる危険がある。しかし、日本の高度成長の過程では、そうした摩擦が最小限に食い止められた。所得面では、生産性の低さにもかかわらず、低生産性部門の所得が、高生産性部門と歩調を合わせて上昇した。これは、まず、高生産性部門で実現された高生産性が、労働市場を通して経済全体の賃金を引き上げたからである。それだけでなく、政府が衰退産業に措置を講じ退出の摩擦を最小限に抑え、規制によって低生産性部門を競争の圧力から守った。さらに、補助金や優遇措置などによって高生産性部門からの所得移転を行なった。

さらに生活面で見る限り、都市対農村という地域関係でも格差が拡大しなかった。それは、全体としての経済成長率が高かったためではない。政府が経済活動に広範に介入し、農業、零細産業、後進地域などに対して様々な保護を与えたからである。また、道路を始めとする社会資本や鉄道の整備を、地方を重点として行なったからであった。つまり、大都市圏の企業に対する法人税とし労働者に対する所得税を国が徴収し、これを地方に配分するという地域間移転が行なわれたのである。高度成長の過程で放置されたのは、むしろ大都市であった。

ここで注目したいのは、格差是正のために使われた手段が、教科書的な社会保障制度ではなかったことである。実際に用いられたのは、戦時体制下で導入されたものが多かった。

 

高度成長期における財政の基本的な役割は、マクロ的な貯蓄・投資バランスの観点から見れば、その規模を最小限に維持することによって民間部門の資本蓄積を可能にしたことにあった。この意味で、財政は高度成長というドラマでの傍役でしかなかった。しかし、それは強力な傍役であったと考えられる。なぜなら、財政は、規模の面では小さな政府であったが、質的側面をみると、けっして弱い存在ではなかったからである。この質的側面とは、高度成長に取り残される部門に対して断片的・後追い的補助を行なうことであった。つまり、高度成長に伴うひずみを矯正することによって社会経済の案手を保つことに財政の基本的な役割があった。その原因として、第一に、防衛費の負担が軽かったこと。第二に、社会保障制度の整備が立ち遅れ、年金保険を中心とする社会保障支出の負担が軽かったことだ。

2015年9月12日 (土)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(6)

第6章 高度成長と40年体制(1)

欧米的な企業と異質と言える日本の企業の仕組みの特徴として、次のような点を指摘できる。第一の特徴として、終身雇用と年功序列賃金を軸にした日本型の雇用慣行。第二の特徴として、企業別の労働組合。そして、第三の特徴として、資本と経営の分離が進み、株主代表としての外部取締役がほとんどいないことである。会社の経営陣は、内部出身者によって構成されていて、このシステムのしたでは、従業員が滅私奉公的に企業に忠誠を尽くすことによって、企業の中で昇進し、経営陣に入ることができる。この仕組みが勤労意欲を高めた。その上、企業は従業員に対して、様々な福利厚生サービスを提供している。こうして、日本の企業は、従業員の生活全体を覆う存在になっている。こうして日本的企業における企業と従業員との関係は、単なる一時的な労働契約ではなく、運命共同体的な性質を帯びている。個人の生活のすべてが、会社の盛衰に依存しているのである。このため、企業は株主のものという意識はほとんどなく、労使双方で企業を共同物として協調的に支えてゆこうとするシステムとなっている。

 

日本の高度成長をマクロ的に見れば、高い貯蓄率に支えなられた豊富な貯蓄が存在し、それが次々と投資されていく過程であった。ここで重要なのは、企業への資金供給が間接金融方式で行なわれたことである。40年体制によって確立された金融システムが、始源を成長分野に割り振る上で重要な役割を果たしたと考えられるのである。間接金融方式の下での資金の流れは、金融市場における統制によって強くコントロールされた。これによって、産業構造と経済成長のパターンが影響されたと考えられる。具体的には、第一に、人為的低金利政策によって信用割り当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分したこと、第二に金融鎖国体制を敷いて資金の国際的な流れをシャット・アウトしたことがあげられる。

人為的金利政策は、次の二つの規制によって支えられていた。第一は、金利規制である。1947年の臨時金利調整法により、金利が法的に規制された。第二は、大蔵省の行政指導による店舗規制である。金利を人為的に低く保つことによって生じる既存の金融機関の間での競争に対して、店舗行政によって競争を調整した。その際、経営基盤が比較的弱い中小金融機関が優遇された。この結果、いわゆる資金偏在現象が生じた。中小金融機関は店舗面では優遇されたために預金は集まったものの、金利規制のため一定以上のリスクをもつ中小企業あるいは個人に貸し出すことは難しかった。営業基盤が地域的に限定されているこれらの金融機関は、大企業を顧客に持つことはできず、必然的に余剰資金を抱えることになった。これがコール市場などの銀行間市場を通じて都市銀行に流れていったのである。都市銀行は基幹産業と強く結びついており、吸収した資金を重点的に基幹産業に流した。こうして、金融機関の間には、長期信用銀行・都市銀行を頂点とし、地方銀行・相互銀行・信用金庫・信用組合とつらなる整然たる秩序が形成されることとなった。大蔵省は、護送船団方式をとり、このハイアラーキーを保った。

この結果として、最低限、次のようなことは言えるだろう。第一に、金融鎖国体制がなければ、国際的水準から乖離した低金利政策を長期にわたって継続することは不可能であっただろう。また、もし自由化が早期に行われていたとすれば、発展途上国の一部に見られたように資本の海外逃避が起こり、貯蓄が国内資本の蓄積に向かわなかった可能性も十分ある。また、国内金融が完全な自由市場メカニズムで動いていたとすれば、資本が絶対的に少なく、労働か過剰であった戦後日本のような経済にあっては、資本は労働集約産業に集中し、重工業化は容易に進まなかった可能性が強い。さらに、不動産等への資本の不胎化を生み、生産的資本の蓄積が進まなかった可能性もある。金融コントロールによって、はじめて資本集約的戦略産業への重点的資金配分が可能になり、戦後日本の高度成長の柱となった重化学工業化が可能となったと考えられる。

 

敗戦によって荒廃の極にあった経済を再建する過程で、財政は主役的な役割を演じた。財政は主役的な役割を演じた。財政を通じて巨額の資金が産業に供給され、それが復興のキイ・ファクターになった。当初は、産業活動のベースを支える銀行部門が損失を補償され救済された。次のステップは、46年から47年の傾斜生産方式によって基幹産業の再建が図られた。これは、乏しい資金を石炭・鉄鋼を中心とする重点産業に傾斜的に配分し、それを踏み台として次々に生産を拡大させようとする政策である。復興の初期段階における財政の役割は、国民大衆に耐乏生活を強制し、その犠牲によって調達した資金を基幹産業に供給するためのパイプであったといえる。

しかし、1949年を境として財政の性格は変貌し、高度経済成長の財政の基本的な性格が形成されていく。1948年の占領軍による、ドッジ・ラインは補助金を切って国内需要を圧縮させ、それによって一挙にインフレを収束させようとするものであった。このため、一般会計のみにとどまらない総合的な収支の均衡化が図られた。いわゆる超緊縮予算である。この後、1960年まで、一般会計は、国債に依存しない均衡予算主義を貫いた。

ドッジ・ラインはインフレの収束を目的とし、その成果を果たしたが、このときの緊縮予算の政策が、それ以降の財政・金融構造に基本的な性格付けを与えることになった。それは、財政の規模を最小限に維持することによって、家計の貯蓄を財政が吸収せず、企業が大幅な資金不足部門となることを可能としたことである。こうして、家計部門で発生する貯蓄を民間の設備投資に振り向けることを可能にした。つま、高度経済成長を可能としたマクロ経済的な条件は、貯蓄・投資のバランス上、財政部門が大幅な資金不足部門とはならなかったことである。一般会計を中心とする財政の機能は、成長分野をリードすることではなく、成長から取り残される部分に補助を与えることによって、高度成長の摩擦を調整することに移行した。こうして財政は主役から傍役に後退し、それに代わって金融が主役として登場することとなった。

 

日本型企業、経済成長、間接金融という三者の間には密接な関係がある。日本型経営システムにおいては、年功序列賃金と終身雇用を同時に実行しなければならない。年功序列賃金と言うのは、最初に低い賃金で我慢して、後でそれを取り戻すという意味で、ネズミ講と同じ原理なので、これを継続するには、中高年労働者の比率を維持しなければならない。そのためには、企業は常に成長していなければならない。こうして日本型経営の企業は、成長を余儀なくされる。逆に、企業規模が拡大すると若年労働者の比率が高まり、年功序列賃金の下では平均賃金は低下する。このため、競争力が強化される。このように、日本型経営システムが円滑に運営されるためには、高い経済成長が必要であり、逆に日本型経営システムは高い経済成長を生む原動力ともなった。企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものとなる。そのためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。

このようなメカニズムに組み込まれた主体を整理すれば、基幹産業における大企業と金融機関である。ここには、重要な主体が欠落している。それは、貯蓄の供給者たる家計である。これは、国民の零細貯蓄がより有利な収益を得る機会を奪われたことを意味する。しかし、同時に、つぎのことに注意する必要があろう。第一は、高度成長によって賃金水準が極めで急速に上昇したことである。高度経済成長期において卸売物価がきわめて安定していたにもかかわらず消費者物価が上昇した原因は、主としてこのような二順構造に伴う相対価格の変化である。第二は財政を通じて後進部分への所得移転が行なわれたことである。このように、高度成長のシステムは、家計をその中に含まないシステムであったものの、高度成長の成果は、確実に彼らに還元されていたのである。

2015年9月11日 (金)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(5)

第5章 終戦時における連続性

太平洋戦争の終結により、日本は連合国の占領下に置かれた。占領軍司令部は日本民主化のための五大改革として、婦人解放、教育の自由、専制政治からの解放、経済民主化、労働者の団結権を内容とするものであった。ここから、財閥解体、農地改革、新教育制度などの戦後改革がスタートする。

 

戦後改革によって日本経済の仕組みは大きく変わったはずである。しかし、官僚制度、とりわれ経済官僚の機構は、ほぼ無傷のままで生き残った。終戦によって、政府の機能は戦争の遂行から経済再建へと大転換し、国家公務員法の改正や人事院制度などの改革は行われた。しかし、行政実務的な意味での制度とその運用の実態は、戦時の体制が継承されたのである。官庁で解体されたのは軍部と内務省だけであった。さらには、地方自治がうたわれたにもかかわらず、財源は依然として国に集中されたままで、国策会社や軍需会社、預金部資金制度、食糧管理制度なども存続したのである。

官僚機構が無傷で残った要因は、占領軍が直接軍制ではなく、日本政府を介して間接統治を行なったからである。しかし、本当の理由は占領軍に、日本の経済システムを根底から変革しようとする意図はなかったといえる。占領軍の主目的は武装解除、潜在戦争能力の除去だったからだ。経済政策に関しては、連合軍司令部の経済問題に対する無理解に対して、日本の官僚が巧妙な抵抗をしたことにより生き残った。そして、1948年の逆コースで占領政策は大きく転換した。この背後には、中国情勢の変化を始めとする冷戦の激化があった。アジア唯一の工業力を共産主義からの防波堤として活用すべきであり、日本の経済復興に手を貸すべきだと言う方向に転換したのである。

 

2015年9月10日 (木)

野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」(4)

第4章 40年体制の確立(3) 現在の日本では、持ち家率が極めて高いが、1940年以前は、むしろ借家住まいが一般的であり、住居の流動性は高かった。1889年に制定された民法では、借地借家契約は、契約自由の原則に委ねられていた。1921年の借地法は地上権と賃借権を借地権として一体化させ、短期間の借地契約を禁止することで、建物を保護、つまり、投下資本の回収を保障することを図った。この背後には、東京下町の商工業者の保護、つまり、第一次世界大戦後の経済発展の中で、地主階級に対する新興の産業家階級の勢力増大という意味である。都市への人口集中が進み、住宅問題が表面化し始めたが、政府は市場の需給関係によるものとみて、家賃統制には反対の立場であった。それが1941年の借地法・借家法の改正で政策が転換する。この改正の焦点は、地主・家主の解約権の制限にあった。そして、借家法では家賃統制を徹底させた。家主の解約権を制限することで、借家人を追い出して闇価格で新しい借家人を入れることをできなくした。これは、すでに賃貸している住宅について、世帯主が戦地に応集した後に残された留守家族が、借家から追い出されることを防ぐ目的もあった。このように法改正は戦時体制の一環であり、社会政策立法として大きな役割を果たした。 戦時期の農政官僚は、小作貧農の救済に使命感を持っていたと思われる。農地調整法により小作権を物権化して地主により土地の取り上げを実質的に禁止し、国家総動員法の一環として小作料統制令を制定し小作料の引き上げが禁止となった。そして、1942年の食糧管理法により米は国家管理の下に置かれた。江戸時代以来、小作人は地主に収穫の半分程度の小作料収めていたが、これにより小作人は原則として地主ではなく政府に米を供出し、その代金を地主に払うこととなった。小作人は政府から直接収入を得ることとなり、さらに政府は増産奨励金を交付して高く買い上げる一方で、地主には交付しなかった。そして、地主に払う小作料は据え置いた。これにより小作制度は事実上形骸化していった。これは、小作農の負担を軽くして、彼らの増産意欲を高めることにあった。

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