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ハイデッガー関係

2013年12月 5日 (木)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7)

.時間性の問題─「存在の意味」とは「時間性」のことである

『存在と時間』の後半部分に入ると、ハイデガーは、息せき切ったようにして、「時間性」という問題を出してきます。「時間性」の問題は、自分の存在の最後を考えるという文脈で、「完成の可能性」を考えるという連関で提示されます。私たちのあり方の分析で、今まで問題にされてきたのは、「完成されていない」あり方だった。そのために、今までの分析は、「根源」を明らかにするような分析ではない。私たちにとって、「完成の可能性」はどこにあるのだろうか、この問題を取り上げなくては、自分あり方について基礎存在論的な分析をしたとは言えない。存在論を仕上げるには、自分の存在の完成した姿を考察しなければならないと言うのです。

しかし、問題があります。現に生きているということは、まだこれからも生きるということです。従って、ハイデガーが言うように、存在論の完成のためには、今のあり方には「まだない」という部分を考えなくてはならない、今のあり方のなかにまだ回収されていない部分についての思想を展開しなくてはならない。つまり、「完成の可能性」の方から、自分の姿を捉えることが必要となります。私たちにとって、自分の存在の完成とは何でしょうか。自分姿の最後となるのは、どのようなあり方でしょうか。それは、時間的には「死」のことです。私たちの存在は「死」というかたちで、完成を見ます。

しかし、自分の死という出来事は回収不可能な出来事です。それは、もはや「世界のうちにいる」自分にとっての出来事ではありません。ですから、時間的な最後としての「死」は、到来する可能性して、先取りして受け止めることしかできないのです。つまり、死を覚悟しつつ生きるという「死と向かい合ったありかた」としてのみ受け止めることができます。死と向かい合う時、私たちにとって、「死」は一定時点での生物的な機能停止ではありません。むしろ、いつでもありうる可能性、絶えず到来する可能性という姿を取ります。時間的な完成としての「死」が到来する可能性であるように、自分の姿の完成も、絶えず到来する可能性として、そこへ向かう形でしか可能でないのです。私たちは「死を覚悟して生きる」ことで、ある種の完成へと向かうことになります。

けれども、そう語りながらも、ハイデガーは、絶えず到来するものと言う問題から目を離すことができません。根本的な気分や、刻々と近づいてくる死という形で、自分の方へやって来るものに目を奪われてしまうのです。自分が先取りするものではなくて、自分の方へと到来するものです。

「死」は、自分の時間の終わりという形をとってやって来ます。「気分」は、状況が自分でコントロールできない、もうどうにもできないという形で、何かの到来を告げます。そして、何かの可能性は、自分が先取り的に理解する可能性です。可能性が現実になるのは、時が満ちることによってです。このように、時間は、あちこちの場所からまるで私たちに目配せするように、これまで分析した現象のあちこちで姿を現します。「気分」は、私たちの存在が「投げ入れられた」過去の痕跡を示し、「理解」は、先行的な「投げかけ」というかたちで未来を指す存在論的時間の矢となります。そして、「世間一般」に堕ち込んでしまう私たちの日常的自分は、現在という時間への埋没を意味することになります。どうも、私たちの存在は、このように、様々な時間の系列の中で、絶えず何か到来するものを受け取っているようなのです。時間とは、私たちの方へと到来するものが、私たちの方へと到来するために取る形式かもしれないのです。

 

この本の初めのところで、存在論の究極目標は、「存在の意味」の解明であることが説明されました。ハイデガーは、すでに『存在と時間』の冒頭で、「存在の意味」とは「時間性」のことであると定義しています。私たちは、自分の存在の内に、様々な時間の流れを抱え込んでいます。様々な時間の流れを抱え込むことで、様々な存在が到来するのを可能にしているのです。もし、様々な時間の流れを一つにまとめる「時間性」という問題が解決されれば、私たちが抱え込んでいる様々な存在についても解明できるはずです。つまり、「存在の意味」が解明できるはずです。そして、存在論が完成する筈です。

そして、存在論は完成することなく途上となってしまいました。いや、むしろ、私には「時間性」の理論は完成されてはならないとしか思えません。「存在の意味」は究極的な形で解明されてはならないのです。なぜなら、私たちはまだ生きて存在しており、私たちの後にもまたせおびただしい存在が生きてくれるだろうからです。存在の事実が終わっていない以上、存在論も終わってはならないのではないでしょうか。ハイデガーの存在論が途上でしかないという事実は、私たちひとりひとりに、「存在論的な途上を生きる」とでも言いましょうか。自分の存在を存在論的に位置付けるという重要な課題を与えます。私たちひとりひとりの「自分の存在」は、存在の破片のようなものです。それだけで完成することはない出来事です。けれども、また、同時に、破片である私たちひとりひとりの存在こそが、存在論を完成させるために唯一不可欠な手がかりなのです。存在論がたえず途上であり続けるための基盤なのです。

皆さんのひとりひとりの生きてあることは、ひとつのかけがえのない存在論的出来事であり、そのかけがえのなさにおいて、存在論という哲学も成り立っているのです。「自分が存在している」という明白な事実は、壊してはならない事実なのです。

2013年12月 4日 (水)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(6)

.「世界のうちにいる」とはどのようなことか

「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験される世界が、私たちが生きている世界でした。この世界は、客観的に捉えられた世界とは別の姿をしています。ハイデガーは、存在論的な世界は、「気を遣う」という私たちの態度によって構成されていると言います。「気を遣う」という態度が、「切っ先が自分の世界に向かっている」ように世界を引き寄せるのです。生きるとは「気を遣う」ということだ、とハイデガーは言います。私たちが生きていくことは、いわば、様々な気になることと関わっていくことなのです。これが生きることの本質です。ですから、私たちが関わる世界は、中立的な無色透明の世界ではありません。「気を遣う」という私たちの側の態度に規定された中立の世界であり、さまざまな「意味」を持ち、様々な意味の担い手という姿をした世界なのです。価値や価値判断とは関係のない中立的な事実の世界がまずあって、そりに様々な意味が与えられてくるというふうではない。私たちは、最初から、様々な意味の中で生きています。

ハイデガーは、この「気を遣う」という私たちの態度をもとに、私たちが身を置いている世界がどのような形で現象してくるかを分析しています。「気を遣う」ということは、単なる心理的状態ではありません。気を遣うことで、人は、独特な仕方で、あることを自分の方へと引き寄せます。気遣いとは、ある存在が、その存在なりの姿をとるようにしてあげる、あるいは、その存在なりの姿を保つようにしてあげることを意味します。自分のためではなく、その存在の本来のために心を遣うことです。「世界のうちにいる」とは、「気遣い」によって「自分にとって」引き寄せられた世界のうちにいることなのです。

 

ハイデガーは、「うちに」というドイツ語から連想される一連の言葉が持つ力に依拠して、私たちの「世界のうちにいること」のありようを捉えています。そのことで、「うちに」が部屋に椅子が置いてあるような空間配置ではないことを明らかにします。空間的な<一方が他方の中に>という関係ではないのです。ドイツ語の「うちに」は、何よりも「住まうこと」「滞在すること」と関係がある、その地にとどまり続け、そこを自らの居場所と出来ることが想定されているというわけです。ある場所を開拓し、そこに馴染み、慣れた自分の居場所としてそこにとどまり続けることを意味します。このような「うちにいること」は、私たちにとっては自明のことに思われます。けれども「うちにいること」を存在論的に分析してみると、このごく当たり前のことが、実際は、非常に不安定な構造を持っていることがハッキリします。

例えば、部屋にテーブルがあります。そしてその手へブルの前のソファに、Rさんが座っています。まず、テーブルの場所とは、それが使われる場所のことです。この場所を離れてしまえば、テーブルがテーブルでなくなってしまう可能性があります。戸外では椅子になってしまうかもしれません。テーブルの空間性は、物の配置として捉えなければなりません。部屋の中で、ソファの前で、照明の横で…というように、特定の使用条件や生活の状況によって決まる位置です。それに対してRさんの居場所は、ある場所に「自分」がいるという自己発見的な構造をしています。つまり、「方向付け」を介して、自分の居場所が確認されるのです。「方向づけ」には、少なくともふたつの場所が必要です。自分のいる場所「こちら」と、うでない場所「あちら」です。自分の居場所は、とかく「方向づけ」の起点として、つまり「こちら」を出発点として、周りの「あちら」へ向かうと考えられることが多いのですが、実はそうでないのです。むしろ、自分の居場所とは、周りの「あちら」から自分の「こちら」へと帰ってくる、「あちら」を起点として「こちら」が決まるというかたちで確認されてきます。ですから、自分の居場所があるということは、「自分がここにいる」ということではないのです。そうではなくて、周りに人がいて、物があって、風景が見えということです。そうした様々な「あちら」が、私たちの「こちら」に向かってくる、自分の「こちら」を決めてくれることです。ハイデガーは、こうした空間性を「あたり一帯」という言葉で表現しますが、私たちは、この「あたり一帯」を持つことで、「うちにいる」ことができるのです。自分が「気遣い」によって引き寄せた世界に、とどまり続けることができるのです。これは、慣れた居場所があって、周囲との相互関係の中で生きていく私たちの姿です。

 

ハイデガーは、私たちのあり方を示すのに「下方が開いた弦」を描いて見せました。閉じた円環ではありません。「下方が開いた弦」です。「下方が開いた」というあり方は、たしかに私たちの存在の不安定さを示しています。自分の根っこが開いている。自分の根源が分からないのです。しかし、ハイデガーは、この開放性に対して上へと向かう矢を書き加えています。根源の方から向かってくる矢です。根源が放つ矢の運動の視点で見れば、私たちの存在は受容体というあり方を示します。あちらからやって来るものが、私たちを貫いている。私たちは、あちらからやって来るものの受け取り手にすぎないのです。ではいったい、何がやって来るのでしょうか。

実際、私たちは、あちらからやって来て自分の存在に浸透してくるものがあることを知っています。ハイデガーのいう「根本的な気分」です。何故なのか、何なのか、ハッキリさせることができない。けれども、はっきり感じ取られるという気分です。たとえば、不安がそうです。不安とは、「居られないくらい無気味」という気分であり、「世界のうちにいること」自体を貫く気分です。しかし、不安を抱く私たちは、自分がいったい何によって貫かれているか、実は分らない。ただ、ここに受容体としての自分がいるということだけが強く感じ取れられるだけです。この感覚は、「自分」という存在が、自分に見える層だけで形成されてはいないのを暗示します。まだ、未回収の部分があって、それが絶えずやって来る、けれどもそれは見えない。

2013年12月 3日 (火)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(5)

.自分は「世界のうちにいる存在」である

自分が自分である、自分が自分として生きている、この事実には、可能性に開かれていることが含まれていました。自分の事実性とは、自分の可能性のことです。自分の可能なあり方を模索し、可能性へ向けて自分を投げかけていくこと、それが生きてあることでした。このことは、可能性に対して開かれている形でしか生きていけないということを意味しています。与えられた「自分」をやっていればいいとか、自分の生き方をはじめから自分で選択して決定するということは含まれていないのです。可能性に対して開かれているということは、私たちの「現存在」の事実性です。つまり、厳然たる根本的事実であって、逃れられない事実です。私たちの存在は、可能性の「投げかけ」というかたちで生きることでしか与えられないのです。自分とは、「自分」をめぐって揺れ動く運動です。明確なアイデンティティを持つことでも、自己規定することでもない。したがって、「私は、何者か」や「私はどうあるべきか」という問いに、最終的な答えを見つけようとする試み自体が間違っていることが分かると思います。むしろこうした問いを常に続けることが、自分であることなのです。

私たちは、なぜ、「自分」をめぐって揺れ動くのでしょうか。ハイデガーは、この問題について、私たちの存在を根本から規定している事態を指摘します。つまり、「投げ込まれていること」という事態です。自分の可能性であるということは、この現実の自分であるからこその可能性ということであり、逃れられない自分という認識があってはじめて開かれるのです。

その自分が「なげこまれたこと」をハイデガーは存在論的な基礎概念として捉えるべきだと言います。「誰が」や「どのようにして」というように「投げ込まれた」ことの根拠を明らかにすることは出来ず、私たちは、自分を「投げ込まれた存在」として受け止めるしかないと言います。「投げ込まれた」ということは、「自分がいる」という事実の偶然性を暴露します。偶然性とは
存在論的に考えれば、「ないこともある」という可能性のことです。これに関連して、ハイデガーは「自存」という言葉を持ち出してきます。「自存」つまり、自分の力で存在していることです。そして「自存」という言葉を、「自分」と「存在している」という二つの事態の統合として、「自・存」というように分かち書きにしています。「投げ込まれた存在」としての「自分」の偶然性は、「自」と「存」のふたつの次元で現われるのだ、と言うのです。「自分」でないことがあり、「存在しない」ことがある、というふたつの否定性です。自分が生きてあるということは、明白で肯定的な事実と思われますが、実は、存在論的にいえば、二重の否定性がこの事実の隠された裏の面なのです。「自存」には、「自」の否定である「他のもの」と、「不在」が隠されている。いえ、むしろ、私たちが生きてあることは、この二重の否定性によって支えられていると言った方が適切かもしれません。

 

私たちにとって原初的な自己関係、つまり、「自分が自分を持っている」と言う関係は、「自分を失う」という否定的な側面を見ることで解明されました。この否定性を見つめることで、「自分」の根本が「開示される」、とハイデガーは言うのですが、目に見えてくるようになります。「開示」は、ハイデガー特有の概念ですが、もともと隠れたかたちであったものを目に見えるようにすることを言います。「投げ込まれた存在」としての「自分」を意識することで、隠されていた「自分」が目に見えるようになるのです。眠っていた状態から目覚めるわけです。

たしかに、私たちの日常的な「自分」は眠っている状態にあります。日常の生活の中で存在している時、「自分」はどこにいるでしょうか。私たちは、日常の決まったリズムで生活している時、その時々の状況に気をとられていて、とくに自分を意識することはありません。とりたてて「自分」について考えることはないのです。逆に「自分」が強く意識されるのは、いつもと調子が違う、自分が自分の思うとおりにならない時です。そのような時に、自分が強く意識されるのですが、「自分が遠い」と言う感じがあります。自分自身との距離が感じられるのです。そして、この距離こそが、強い自己意識を成立させています。反対に自分がしっかりと保持されているときには「自分が近い」と感じられるのですが、自分が近い時、自分は前面に出てこない。眠り、隠れている。自分が「自分」のもとにいるとき、「自分」というのは、周囲の状況との滑らかでダイナミックな一体として感じ取られるだけです。ハイデガーは、自分と周囲のそうした一体を、「状況の中で泳いでいる」というような日常的表現で捉えています。その姿を、「世界のうちにいる存在」と名付けています。私たちの「現にあること(現存在)」は、同時に「世界のうちにあること」ということでもあるのです。

哲学は長い間、この考えを否定してきました。回りの世界とは独立している自己意識(「私」という意識)を前提として、私たちと世界との関係を理解してきました。近代の西洋哲学は、主人たる私がいて、それが客体としての世界を見るという二元論のイメージで考えてきたのです。人間を中心とした主客構造は、西洋近代の社会が、自然や非西洋社会、そして近代以前の歴史的世界という問題を何とか処理して、合理化できるために必要とした構図でした。つまり、自分にとっての「他者」の問題を抑圧するための構図です。このように、「私」と世界との関係が、最初から主客ないし主従の関係として想定されることで、自然や非西洋社会を征服し支配することが正当化されてきたのです。ハイデガーは、非常に素朴で現実的な「自分」感覚をもとにすることで、こうした西洋近代の哲学的構図を打ち破ろうとしています。自分とは、世界を征服し支配する存在ではなく、「世界のうちにいる」存在なのです。

 

ハイデガーは、私たちの存在の「状況的性格」を踏まえたうえで、なんとか、「世界のうちにいる」ことを一般的なかたちで分析しようとします。その際に、ポイントは、やはり「自分」ということです。私たちの世界のありようは、それが私たちの世界である限り、「自分」という一点に向かっています。「自分」に絞り込まれた世界です。「自分」に絞り込まれたところから、世界が見えます。まず、「自分の世界」があって、皆と一緒の「共同の世界」があってというように。世界は「自分」を出発点として拡がっています。そうした世界のあり方を、ハイデガーは、「切っ先が自分の世界に向かっていること」と表現します。私たちが生きている世界を体験するのは、自分のその時々の状況においてでしかありません。「状況的性格」です。固定した「自分」はないが、同時に、「客観的な世界」というものが確立しているわけではありません。自分は「世界のうちにいる」状況的存在でしかなく、世界は、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちでしか現われて来ません。

私たちの世界は、たしかに、「切っ先が自分の世界に向かっている」というかたちで体験されます。自分の周りに世界がある、自分から見た世界であるわけです。他方で、この「自分の世界」以外に、それを超えたより広い「環境」(「周りの世界」)があり、さらには、「自分世界」と他者の世界とが結び付けられた「共同の世界」といったものもあります。「自分の世界」は、「環境」や「共同の世界」とはっきりした境界で区切られているのではなく、すべては、ゆるやかに拡がっていくというかたちで結びついています。ハイデガーの言葉では、「不安定な流動的な成立」ということですが、そのために、「自分の世界」は常に「状況」的な現われ方をします。この「自分の世界」の自分とは、状況的な事態のことであり、主語「私」からでなく、「この自分にとって」という間接的なかたちでしか与えられない。「私が」見るのではなくて、「自分にとって」現われるのが世界である、ハイデガーは言うのです。このように、私たちは、西洋近代の哲学が教えるように、エゴないし「私は」という主語を介して「自分の世界」を持っているわけではありません。「自分の世界」とは、自分から見て近い世界、自分から見て分かる世界のことです。したがって、「自分の世界」とは、「自分にとって」というかたちで自分が引き寄せられる世界であり、「自分にとって」という形で自分に引き寄せられた世界のことです。

2013年12月 2日 (月)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(4)

.「自分存在している」という事実をどう捉えるか

1「自分」というのは何か

「自分」とは何か、この問いについて考えるために、ハイデガーは、まず、本来でない自分のあり方を分析しています。つまり、「自分自身から逃げる」という現象を見るのです。自分から逃げるとは、いったい、どこからどこへ逃げるのでしょうか。生きている限り、この私が消えてなくなるわけではない。それにもかかわらず、私たちは、なぜ、「自分から逃げる」や「自分を見失う」という表現を使うのでしょうか。こうした表現が一般に意味するところを捉えて、比喩的な意味で「自分」という言葉を使っていると説明することができます。「自分」という言葉で実際に言われているのは、自分の義務や自分の理想のことである、と説明できます。

「自分が自分であるときに、あなたは自分とどういう関係にありますか」と聞かれたとします。ハイデガーはこれに対して、「自分をしっかり持っている」と答えます。ハイデガーは、私たちの自分に対する関係は、この「持っている」という関係を基礎としていると指摘します。「自分」とは、私が知らないうちに、「はい、これがあなたですよ」と押し付けられてしまったもの、それにもかかわらず、生きている限り背負い込まされているもののような気がします。取り替えがきかないかたちで持っている、それが「自分」との関係です。ところが、この「自分」を失うことがあるのです。そんな時、どこで自分を失ってしまうのでしょうか。ハイデガー独特の問いの立て方です。「なぜ」ではなくて、「どこで」という点を考えるのです。

私たちか自分を失うのは、「世間並み」というところ(「一般に人は」という主語の支配する領域)においてです。人もこうするから、人がこう言うからというように、誰と特定できるのでもない主語、「人が」というところです。確かめようもない「一般人の意見」というところで、自分を見失ってしまう。このように、自分を失うことは、世間一般という、本来、自分がそこに居続けることができないところへと堕ちていき、自分の居場所を失うことです。

他方で、こうした「本来でない」方への自己喪失と並んで、「本来」の方への自己喪失もあるのです。我を忘れてひとつのことに没頭する。そのようなとき、私たちはどこにいるのでしょうか。やはり、「自分の前」ではありません。けれども、「世間」や「一般人」のところでもありません。そのようなとき、私たちは、自分でありながら、自分を遥かに超える大きな理想や課題や使命と一体となるところまで行こうとしています。つまり、自分が自分でありうる限界のところにいる。自分がありうることの最大の可能性に向かっているのです。

このように、私たちは、意外にも、「自分」に対してルーズな関係を持っています。同じ「自分」の中に、世間並がいて、同時に、理想や使命が存在しています。「自分」の存在論的な構造を見ることで分るのは、実は、どちらもが、私たちの「自分」の姿だということです。

従って、ハイデガーは、自己喪失や自己分裂を病的な現象と捉えることに対して、存在論の立場から警告を発しています。自分を失い、自分とうまくやっていけないことは、人間が、「自分」というものに対して固定できないルーズな関係を持っていることから生じてきます。それは、人間の自由な本質と関わりがある、とハイデガーは言います。自分を失う(ことができる)、自分が見知らぬものとなってしまう(ことができる)─自己喪失や自己分裂が、具体的経験として、現実的には辛いものであり、時に、非常な苦悩となるにしても、ハイデガーはそこに、人間の本質を見てとります。なぜなら、「自分を失う」ことは、人間のギリギリの可能性でもあるからです。ハイデガーは、ここに、私たちが、「自分」でありながら世間並みに堕ちていく動きと同時に、自分でありながら自分を超えていく可能性を見て取るのです。

 

さて、どうして、私たちは自分でありながら「自分を失う」ことがあるのでしょうか。先ほど、それは「人間の自由な本質」と関係があると説明されました。世間並の自分を選ぶか、そうでない自分を選ぶか、選択の自由に対して開かれているのです。自由とは、自分の意思で何かを選び、何かを決定することではなく、「開かれている」ことです。ハイデガーは選択の自由があると言わずに、「選択の自由に対して開かれている」という言い方をしているのは、このためです。

私たちは、自分が何を選択しているのか、その本当のところは、分らないのです。後になって考えた時にはじめて、自分が選択した道が何であったかが納得されるのであって、生きることにおける選択は、ある程度時間が流れ去った後でようやく明確になるのです。自分の選択を理解するための時間は、選択そのものを行った時間とは異なる系列にあります。ハイデガーが言うように、自由とは「開かれた存在」であるということ以上の具体的な規定はできないのです。

 

「自由に対して開かれている存在」である私たちは、素晴らしいこともおぞましいことも含めて、様々な可能性に開かれています。従って、現に存在しているという事実ではあるが、独特な構造をした「事実」であると言えましょう。それは、自分がどうあることができるかという可能性に支えられた事実です。どうあることができるかという可能性がもととなって、こう生きているような事実性です。ハイデガーは、生きることの事実性を、様々な可能性をめぐって生じる正名の運動と捉えてきます。可能性をめぐっての運動とは、実は、理解の運動です。あることが可能性であるためには、それを可能性として理解してくることが必要になるからです。そして、可能性の理解によって、自分の「そうありうること」という事実性に気付くことができます。今、可能性「として」という言い方をしました。可能性を可能性「として」理解する。これは単なる確認です。ハイデガーが注目するのは、「として」という部分です。「として」という言葉には、理解という私たちの行為が持つ構造が潜んでいます。構造と言うより、運動と言った方が適切かもしれません。ハイデガーは、この理解の運動に注目します。あることが何であるか分っていないとき、それを理解しようとして、思考は、予期と検証との間で往復運動を行います。この予期かないところでは、理解と言うものがそもそも始まらない。何が分かって、何が分からない。手が付けられない状態です。ハイデガーは、「として」をめぐる理解のこうした動きを、「投げかけ」と言う言葉で捉えています。こうかもしれないと投げかけてみるわけです。さて、理解の動きは、単に、こちらから投げかけるだけではなく、なげかけたことが対象の方から投げ返される動きをも含んでいます。つまり検証です。そして、今度は、自分の理解を修正する。そこで、新しい理解の可能性を考えだし、予測を再び対象に向かって投げかける、という形で動いていくのです。

このように見てくると、私たちが何かを理解するプロセスは、可能性と現実性という二つの極の関係と密接に結びついていることが分かります。理解は、可能な内容と現実の内容との間で往復運動を行います。従って、「可能性に開かれた存在」は、つねにこうした理解の往復運動を行っている存在です。私たちの「現存在」は、「可能性の方から自分を理解する」のであり、理解することで可能性を生きているのです。つまり、現に生きてあるということは、「投げかけること」で可能性を獲得し、可能性を理解することで「自分」を理解しつつ、この運動の中で生きていることを意味しています。

2013年12月 1日 (日)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(3)

3根本的な問いを考える

選択の自由を与えられている時、私たちはその事柄の意味について問いかけてみることがあります。「これでよいのだろうか」「もっとよいやり方があるのではないだろうか」というように、より良い可能性を求めて、今の状態を疑ってみることができます。ですから、疑うことができる、問いかけることができるというのは人間の自由の現われでもあります。自由から発せられる問いは、より良い可能性を求める問いですから、きちんと答えが見つかるものではありません。「これでよいのだ」という結論が出ることなく、いつまでも続くことがあります。

このように、「これでよいのだろうか」という問いは、自分の自由からの問いです。自由の問いは、厳しい問いでもあります。「これでよいのだろうか」と問うことで、現実をもう一度根本から問い直してみることです。もし、この問いを真剣に考えるのであれば、現状を変える覚悟が必要となります。「これでよいのだろうか」という問いかけの中で、私たちは自分自身を問い直すという作業を迫られてきます。自分との対決を迫られるのです。ですから、自分の問いの厳しさは、時に、私たちの「回避する」態度を引き起こします。自由の問いは、具体的な問題や強制があって「これでよいのだろうか」と問うのではありません。ですから、そのまま放棄することが可能なのです。答えが見つからないのに、「まあ、よいだろう」と止めてしまうことができます。「これでよいのだ」と答えるというのではなくて、回避してしまうのです。

自由の問いは、二つの点で、「存在」の問題に関わってきます。それは、まず、事柄のギリギリのところを問題にしてきます。「これでよいのだろうか」という問いは、極端な形では、「これは、ある方がよいのか、それともない方がよいのか」になります。現状について、存在すべきなくなってしまうべきかを問題にする。存在の是非に関わる問いです。心の変革とは、そのこと自体の消滅を考慮したところで、「これでよいだろうか」と問うことです。徹底した破壊のないところでは、「これでよいのだろうか」という問いは、真の意味で立てられているとは言えないのです。第二に、自由の問いは、私たちが、自分自身のあり方と対決することを要求します。自分の本来やるべきこと、本来の姿を示してきます。「これでよいのだろうか」と問いを立てることで、私たちは、自分の本来すべきことへの覚悟を試される、本来あるべき姿になる覚悟があるかどうか、問われるわけです。同時に、それができない自分、非本来でしかない自分の姿が炙り出されてきます。「これでよいのだろうか」と問うことは、自分の本来性と非本来性について考えることでもあるのです。

 

私たちは、「これでよいのだろうか」という根本的な問いを発することができます。この問いは、私たちの自由を保障すると同時に、終わりのない問いかけの堂々巡りを引き起こします。そして、究極的には、今の「存在」そのものを疑問視する問いとなります。しかも、この問いを発することで、私たちは、「自分の本来」という問題に直面させられるのです。「これでよいのだろうか」という問いが持つ根本的性格は、この問いの怖さを思い知らせます。けれども、同時に、私たちは、この問いを立てる時、自由な存在の優位をどこかで感じています。ハイデガーのこの考えには、徹底的に問うという作業に対する確信と、生きることへの強い意志が感じられます。私たちは、存在論というかたちで自分の存在を根本から問題にできるからこそ、存在するものとして優位に立っているのです。この時の優位とは、ハイデガーは、「途上にあること」を真に受け止めることだ、と言います。途上というのは、答えのない問いを立てることです。問いに答えを見つけることではなく、自分をオープンにしておくこと、可能であることを忘れないでおくことです。「とじょぅのあること」を開放して、自分を開いたとき、「根本的な疑い」が生じる。正しい生き方という正解を手に入れようとするのではない。とうしても答えが見つからないような疑問に身を晒すことが、存在論を考える私たちの優位なのです。「円環の運動のなかに跳び込むこと」を要求し、その円環にとどまり続けることを「思考の祝祭」と名付けたハイデガーの意図が分かります。ハイデガーは、根本的な疑いのことを「存在的な疑い」とも呼びます。「存在的な疑い」の後に、「気を遣うこと」「不穏」「不安」「時間性」という四つの項目が挙げられています。根本的な疑いが具体的なかたちをとった現象のことです。

 

「これでよいのだろうか」という根本的な問いを回避することは、自分自身から逃げることです。根本的な問いは、私たちを自分のあり方と対決させ、自分の本来を引き受ける覚悟があるかどうかを問いただすものです。この根本的な問いを回避することは、自分の本来ということから逃げることを意味します。

「自分」にはいろいろな姿があります。「本来の自分」や「本来でない自分」がある。また、「本来の自分」を知っているが、そこから逃げている自分があり、さらには、「本来/非本来」の区別すら知らないために、事実上逃避している自分など、「本来の自分」をめぐっていくつかのあり方をすることができます。「本来」という言葉で表現されているのは、「こうあるべきだ」という理想的な人間像のことではありません。私たちが、自分のあり方をどう理解しているか、そこから、自分をどう位置付けているかのことです。ハイデガーは、「本来でない自分」が「本来の自分」へと変わるべきであって、そのために自己逃避をしてはならないという道徳面を展開しているわけではありません。「自分」というものが、「本来でない自分」と「本来の自分」というふたつの極のあいだで揺れ動くさまを分析し、私たちの「自分」がどのような姿を取るのかを見ようとします。世間並のことで済ませようとする自分、現状に甘んじてしまう自分は、まぎれもなく、「自分」を構成する側面です。ただ、そのときには、私たちは「自分」を自分の目の前につきだしていない、自分にめぐり合うことができない。自分でありながら、実は、「自分」ではないのです。むしろ、「本来」と「本来でない」のあいだで揺れ動き、ときにより本来でありえたり、ときに本来でないことになったり、苦しい選択を行っていくのが、「自分」というものなのです。この揺れ動きこそが、私たちが「自分自身」に出会うことができる場なのです。

2013年11月30日 (土)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(2)

2「意味」の解明を試みる

皆さんは、誰か偉い哲学者に、「あなたの存在の意味はこういうことですよ」と教えてもらいたいと思うでしょうか。皆さんの経験で分かるように、そんな押しつけの定義や教訓は役に立たない。むしろ、そんなことを言うその人自身が、自分の存在の意味をどう考えているか、それを語ってくれる方がよほど役に立ちます。「存在の意味」は、その本来のところでは、私たち一人一人の問題です。自分で考えるべき問題なのです。哲学が、この自分の問題でしかない事柄と何の関係があるのでしょうか。

哲学的な考察は、非常に錯綜した対象をいくつもの段階に分解して、その一つ一つを出来るだけ厳密に見ることで、一体何が本当に問題になっているのかを明らかにしようとします。「存在の意味」についても同じです。「存在の意味は自分の問題だ」と言う前に、「自分」がいる。自分の存在がある。そして、意味ということがある。では、「自分」「存在」「意味」という、この三つは、どのような関わり方をするのだろうか。この問題を考えるために、哲学としての存在論があります。そう説明すると、「存在の意味」という切実な現実の問題が、抽象的な理屈にすり替えられてしまうように思われるかもしれません。でも、皆さんがある具体的な生き方について迷っているとき、それが本当に「自分の存在の意味」であるかどうかを確かめるのに、どのような手続きをとればいいのでしょうか。この非常に真剣な選択をするために、まず、「存在とは何か」「自分とは何か」「意味とは何か」を知る必要があります。つまり、哲学的に抽象的に考えてみることが必要になります。

意味とは、ある種の体験であると言うことができます。意味が分かるというのは、「ああ、そうであったのか」という納得の体験であり、この体験を基に生きていけると言うことです。言葉の意味についても、同じことが言えます。ある言葉の意味が分かるということは、それを使ってコミュニケーションできることです。広く捉えれば、その言葉で生活できるということです。従って、言葉の意味は、最初から固定して考えることはできません。コミュニケーションの状況によって、同じ言葉が異なった意味で使われることがあります。つまり、言葉の意味が分かるとは、それを生活の中で体験することだと言えます。意味の体験が深まり拡がるにつれて、私たちの意味についての理解が深まり拡がります。言葉の意味の問題について考えることは、このように、意味の実践について考えることです。

では、「ある」という言葉の意味は、どう理解されているでしょうか。体験されているでしょうか。「ある」とは、物があるないの「ある」ですが、同時、「この車の色は青である」というように主語と述語を結ぶ言葉としても使われます。また、「そうである」というように、あることの正しさを表現する言葉でもあります。このように、「ある」は、様々な意味で使われます。他の動詞が限られた領域の主語と結びつくのに対し、「ある」はすべての主語と結びつくことができます。したがって「ある」という言葉は、意味が固定できないほど、多様な使われ方をします。従って、「ある」という言葉についての体験は、とても概観できないくらい多様であり、ほとんど無限であるように思われます。「ある」ということばの統一的な意味を確認することは、ほとんど不可能のようです。

 

ところで、私たちは、日頃何の苦労もなく、「ある」という言葉を使いこなしています。「ある」の様々な意味合いが、どのように関連しているか明確にならなくても、「ある」という言葉を使うことができます。ハイデガーは、この点に注目するのです。「火事だ」と叫ぶとき、「ある」の意味をそれなりに分っています、では、その「ある」で何を考えているのか、はっきりと答えることはできない。それは、事実確認とにはとどまらず、同時に大変だということの表現であり、「逃げろ」や「助けてくれ」ということの表現でもある。これは「不思議な状況」です。

実は、漠とした「存在」についての理解こそが、存在論を始めるための根本的な基礎です。この漠とした理解には、存在についてのより根本的な理解が眠っているはずである、この根本的な理解が眠っているはずである、この根本的な理解が目覚めるようにしてみようではないか、というわけです。「理解」という問題は、ハイデガーの存在論にとって、とても重要です。単に、私たちが「ある」という言葉を漠然と理解できているというだけではなく、「ある」ということばの理解のあり方からして、「存在の意味」を考えようとするからです。ハイデガーの存在論は、そのまま「理解」についての理論だと言っても言い過ぎではないくらいの中心的な課題です。

私たちは、自分の存在がどのような構造をしているか理解したいと思っている。自分の生きて存在している姿を分っておきたいのです。ですから、存在論が必要になります。存在をよりよく理解したい。自分の存在をどう理解するかは、自分がどう存在していくかと深く関わっているからです。自分のあり方をどう理解してくるかは、自分の生き方そのものを決定してきます。従って、存在することと理解することとは同じことだと言っていいくらい、表裏一体の出来事です。

 

私たちは、「存在」について考え始めようとして、日常的な場面で、私たちは、もう「存在」の理解を前提として語っていることが分かります。つまり、これから考えようということについて、私たちはすでに最初から分かっているらしい。これは循環論法であり、ハイデガーが「円環の道」と呼ぶ議論のあり方です。循環論法は、結論先取り的です。つまり、証明すべきことを最初から前提としている議論です。こうした堂々巡りの循環論法は不毛な議論の典型とされますが、ハイデガーは、反対に、「強み」だといいます。私たちが原理的で本質的な事柄を考えるときは、思考は、必ず、樹幹論法的な構造をしていると言います。大事なのは、この円環を抜け出すことではない。この無駄と思える運動の中に敢えて飛び込んでいき、「この道にとどまり続けること」である。それこそ、「思考の祝祭」だ、と言うのです。実際、ハイデガーの様々な考察は、一見、何の結果ももたらさないような堂々巡りの思考運動の印象があります。その堂々巡りの中で、何かが見えてくるのを待つ、「存在」そのものの姿が表われて来るのをじっと待つような印象があります。こうしたハイデガーの手続きは、私たちの生きる仕方に似ています。人生の難問にぶつかってひたすら問いを発することしかできない時があります。そのような時に、私たちは、機が熟すのを待つようにしかできません。いわば、答えの方が私たちに姿を見せてくれるまで、問の円環の中で待ち続けるわけですが、ちょうどそのように、ハイデガーは、問うことの円環の中にとどまり続けます。

2013年11月29日 (金)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(1)

はじめに

こんなことでは自分がやっていけない、自分の存在がやりない、ひと生きていて、そう思うことが少なからずあります。その状況に押しつぶされそうになっているのだけれど、今さらどうにもできない。問題の具体的な解決や状況の変化を考える前に、自分の「存在」が行き詰ってしまった、自分の「存在」が壊れてしまうという気がしてきます。そんなとき、通常は専門家に相談して、知恵を借りることができます。ですから、「存在すること」についての専門家がいていいはずです。存在しているということは、自分にとって一番大切な事柄です。このことについてトータルなかたちで教えてくれる理論があっていいはずです。生きて存在していることの一般的な構造について教えてくれ、自分の存在に対する分析的で客観的な取り組み方を教えてくれる理論です。そうした理論を助けにすれば、自分の存在を取り戻すことができるかもしれません。

ハイデガーは、存在の哲学者でした。私たちが生きて存在しているという事実に哲学者として取り組み、存在の様々な側面を綿密に分析し、そして、存在することの普遍的な構造を取り出そうとしています。そうした試みを、「基礎存在論」あるいは「現存在分析」という名前で呼んでいます。彼の存在論の出発点は、「現存在分析」です。つまり、私たちが「自分が存在している」という端的な事実についてより深く考え、それを通して、「存在すること」の意味について新しい洞察を獲得することです。「自分が存在している」のは、明白な事実です。この明白で疑いようのない事実の中で、私たちは、「自分」という謎に出会わなければならないのです。それが存在論の出発点です。

 

.存在にどう取り組むか─方法の問題

1「存在そのもの」について考える

存在論を考える場合、ハイデガーの言葉にあるように、重要な事柄があります。存在論は、「存在そのもの」について考える思考だということです。「存在そのもの」について考えろと言われて、当然ですが、どうすればよいのだろうかという疑問が生じます。「存在そのもの」が目前にあるわけではありません。「存在そのもの」などというものは、哲学者の考え出した化け物のように思われます。けれども、実は、「存在そのもの」はあらゆることに関係しています。すべての人や物が存在しており、この世に「存在」と関わっていないものなどないからです。存在論が最初に遭遇する困難は、「存在」ということがあまりに抽象的でありながら、同時にあまりに具体的であるということです。「存在」は、一番身近でありながら、一番分かりにくい事柄と言えます。

「存在とは何か」─この問いが切実な問題となる二つの場面が考えられます。哲学と人性論です。「存在そのもの」は長く哲学研究の対象でした。実体、つまり、真に存在するものは何か。などの問題が様々な形で考えられ、様々な可能性が議論されました。哲学とは別にもうひとつ、「存在そのもの」が、非常に具体的で切実な問題となる場面があります。それは、自分自身の存在や、自分にとってかけがえのない存在が失われようとするときです。そのような時は、ハイデガーが言うように、どう存在しているか、どの存在か等の問題は意味を持ちません。端的に「存在そのもの」が問題となるのです。端的に「いるかいないか」が大事なのです。哲学では、私たちが遭遇するギリギリの状況を「限界状況」と呼びますが、そうした状況にあってこそ、存在論、つまり「存在とは何か」という問いは真の意味を持つように思われます。

このように存在論については、哲学理論と人性論という二つの側面があります。哲学理論は抽象的で、論理的手続きや概念分析を土台とします。それに対し、人生論は具体的で、どう生きていくかの問題、つまり行動や決断と深く関わっています。存在論とはそのどちらでもある、つり、哲学と人性論という二つの側面を必然的なかたちで結びつけたところに、存在論の意味があるのです。私たちがギリギリの状況に立たされたときに、高度に抽象的な思想が生きてくる、そのようなかたちで存在論は考えられなくてはなりません。それをよく示しているのが、ハイデガーの存在論であり、彼の主著『存在と時間』です。

ハイデガーにとっても、哲学と人性論を結ぶ存在論の糸がはじめからあったわけではありません。そのハイデガーが出した結論が存在論でした。哲学か、それとも、世界観や人生論か、といった表面的な区別で考えるのではなく、学問としての哲学は、「個人的であろうが非個人的であろうが、根源的に突き動かされた存在」から出てくる働きでなくてはならないという強い確信がありました。抽象的な理論であっても、生きている現実の根本と重なり合うはずだという確信です。ですから、「存在とは何か」という問いは、哲学的な問意でありながら、同時に、自分自身を見つめる探求でなくてはならないのです。

 

では、ハイデガーの考える哲学とは、どのようなものでしょうか。それは、「現に存在しているなかで自分自身に出会う」という表現に示されています。哲学の理論考察とは、そのための手続きなのです。しかも、この自分自身との出会いは目覚めることを意味します。自分を変えることでも、別の自分になることでもない。その目覚めとは、眠りから目を覚ますことです。眠り、つまり、半ば不在であると同時に半ば現実にいるもの、それだけが目を覚ますことができます。逆に言うと、目を覚ますためには、自分が眠っている状態、つまり曖昧な宙吊りの状態にあることを知らなくてはなりません。哲学は、つまり、目覚めは、ここから始まります。

このような宙吊りの状態から考え始めることで、隠れているものが見えてくるようになる、見えていることは隠れていることであるのを知る。このように、哲学は宙吊り状態の持つ力を思考の力とします。宙吊りを発見することで、そこに働いている様々な力を感じ取るようになるのです。

実はハイデガーが立てる「存在そのもの」という問題も、哲学史において目覚めなければなりませんでした。この問題は「存在忘却」というかたちで、忘れ去られた問いとして古代ギリシャから現代にいたる長い時間を眠っていたのです。つまり、ハイデガーがこれから考えていこうとする存在の問題は、すでにプラトンが立てていた問題でした。しかし、2500年にわたる長い哲学の歴史の中で、この問題は眠り込んでしまったのです。「プラトンの問いを反復すること」。反復というのは、「存在の問い」ら即して哲学史全体をみなおしてみるということです。古代によって現代を照らし、古代によって現代の目を覚ます作業とでも言いましょうか、問題が最初に立ち現われたところから、つまり「根源」に引き戻すことで、現代における問題の真のありかたを獲得しようというのです。だから、「存在の問い」を反復するためには、まず、今の哲学のあり方を「破砕」することが必要になります。「破砕」は、今まで当たり前とされてきたことを破壊するだけでなく、「根源」を見えるようにする、とハイデガーは言います。「破砕」によって「存在についての原初的な定義」が見えてくるはずだ、と。とことん突き詰めて考えている時、決定的なアイディアがひらめくことがあります。そうしたアイディアは、それを思いつけば解答がわかるというのではなく、「こう考えてみたらどうだろうか」という示唆のようなものです。「根源」は、ハイデガーにとってそのようなアイディアだったのではないかと思います。根源とは、あることの由来となる源であり、あることを支える基盤でもあります。従って、根源は、時間的な意味でも存在的な意味でも考えられます。哲学は、古代ギリシャという存在論の時間的な根源に立ち返ることで現代の問題を発見し、人生論は、私たちの存在を支える「根源的な経験」という存在的な根源に立ち返ることで、今の自分の状況を見つめ直します。「根源」を見据えるという点では、哲学と人生論とは見事に重なっているのです。

 

哲学史の中で「存在の問い」が目覚めてくる。このことは、存在論にとって、決定的な手がかりとなります。つまり、「眠っている─目覚める」という一連の流れを追跡することで、私たちのありようと世界のありようを追求する道が開かれるのです。

そこで、存在論の第一歩として、私たちのありようを眠っている状態として捉える作業が必要になります。何かが目覚める瞬間を捉えることで、私たちの存在が「不在でありながら現にいる」というかたちで与えられていることをはっきりさせる作業です。

ハイデガーは、「存在の問い」のことを「存在の意味についての問い」とも呼びます。「存在の意味」は、二重のことを指しています。ひとつは、「ある」という言葉の意味です。「ある」ということは一体何を意味しているのか、それをはっきりさせようとするのが哲学としての存在論です。他方で存在の意味とは、現実に私たちが生きる意味でもあります。他方で、存在の意味とは、現実に私たちが生きる意味でもあります。ここで意味というのは、生きていくことが生み出す成果や結果のことだと言えます。「存在の意味」を解明することが、存在論の究極目標なのです。ただ、ここで疑問があります。存在論の究極目標といっても、どちらの意味の解明なのでしょうか。言葉の意味でしょうか、それとも私たちの生きる意味の方でしょうか。しかし、ハイデガーはこの両方の意味を区別せずに、「存在の意味」とだけ言います。言葉の意味と生きていく意味が同じものになる。

2013年11月20日 (水)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(10)

4.時の秘密

ハイデガーは「もともと現存在自体が時なのだ」という。ここで「時」とは一瞬の運動生起。先に見た①と②が交差する一瞬刹那のできごとである。だからいわゆる「時─間」ではない。さきに見た動画面。それはまさに一瞬で始まり、と同時に一瞬で終わる。その「生と死との間に伸張する」一瞬刹那の動的生起を、時というわけだ。だから、現存在が生きている<>があるとしたら、それは一瞬だけであり、それで「現存在の全体」は尽きているということになる。そんな現存在のありさまを、だからハイデガーは刻一刻性とも形容する。はかない刹那の刻一刻の<>が、現存在(生)の全貌というわけだ。

上映中の画面。それは①「終わりへの存在」と②「始まりへの存在」との同時同一現象だった。つまり、生と死、消失と現出、非在化と在化との「反対項の一致」現象だった。①はまさに「自らに先立つ」動性。いまこの瞬間の自己から、将に来たらんとする<外部>へ抜け出ていくことである。その意味で将来的な性格を持つ。だが、この①の動性を振りだすそのことが同時に、②の新たな画面を創出する動性へ兌換される。いまこの瞬時の自己を①によって失うのだが、しかし同時にそのことにより、再び「自らへ立ち戻る」わけだ。だから②は、自己(画面)を刻一刻「再び取戻し」既往してくれる動性。<先立つ>①に対しては、<後づく>動性とでも言ったらいいだろうか。①ゆえ、もうこれでお終い、もはや無い筈の生なのに、①ゆえ発源する②のために、いわば生き戻ってしまう。失うことで取り戻す。その意味で②は、「既往性」ともいわれる過去的時制の性格を持つ。この将来的動性(死への存在)と既往的動性(生誕への存在)とが同時進行するその、もはや一瞬の間隙すらない<>に、今ここの現在の時が、刻一刻実っていく。

この三つの時制(将来性・既往性・現在性)が切り結ぶ、まさにはかない一瞬の時を刻んで生きるぼくたちの現存在のありかた。それがいうところの刻時性(時間性)である。あくまで<>を刻一刻に刻んで生きる、ぼくたち人間存在の在り方や態度を、ハイデガーは刻時性と呼ぶのである。時なるものが、人間の生と無関係に先ず出来上がっていて、それを後から刻むということではない。生きるということがそのまま、時を紡ぎ出すことに他ならないということだ。だから、刻時性と時とは、別々の出来事ではない。そんな刻時性においてはじめて、時が刻一刻に実現することを、時の実現という。時はぼくたち現存在が刻んで実らせている、というほどの意味。そんな時の実現の仕方も、時の刻み方(刻時性)も、ひとえに<時を生きる人間の生き方>に相関的である。ぼくたちの在り方に応じ、時の刻まれ方は異なるし、時の実現形態も変わってくる。とは言っても一瞬の時以外にリアルな時はあり得ない。「もともとの生のありさま」そのままに生きること。それをハイデガーは「本来性」と名付けた。時の場合も同様。リアルな時(一瞬刹那)を刻んで生きているもともとのありさま(刻時性)そのままに生きることが、本来的刻時性ということになる。だがそうは言っても、そんな一瞬刹那の<>などしらず時を刻み、時を過ごすあり方も可能だ。時を刻んで生きていることも知らずに時を過ごす刻み方も、刻み方の一つに違いない。それが非本来的刻時性である。

こんな時(生)が、刻一刻に生滅する瞬間の生起である。この生起ということから必然的に、歴史論が導き出される。というより時の具体化が歴史である。歴史は、人間の存在の<全体>を、つまり生誕し死亡するまでの生涯をどう考えたらよいのか、という議論の中にまず登場する。時は刻一刻の刹那だけである。そしてその<>が、一方で「死への動性」、他方で「生誕への動性」を内填し、その両動性の相互包含的な<>として、ぼくたち現存在が生起する。その意味で、一瞬一瞬の刹那的存在それだけですでに、「死と生との間の伸び拡がり」としての生涯概念の内包を満たしている。つまり、一瞬刹那の存在が、「現存在の全体」(随所)である。直線的時間論からすれば儚く見えるどの一瞬もが、全生涯であり、<生誕から死までの全幅>を尽くしていることになる。つまり、現存在は、その外部に誕生や死をもたない。実存それ自体がもとから、初めと終わりとを同時に含んで展出し、自らを繰り出し繰り広げ終滅させていく、「自己完結的な自己伸張運動」なのである。実存の、この自己内発的な刻一刻の生滅性に着目して選ばれた概念が、そもそも「生起」である。

今ここのこの一瞬の生起は、「二度とない、永劫に唯一回きり」である。時は今ここで終わってしまうのだから、そういうしかない。この「唯一一回性」ということが、「歴史的」という形容詞の基本義である。そんな唯一一回的な今ここの生起を、刻一刻、誰しもが過ごしている有り様。それを歴史性という。刻時性と同様に、歴史性もまた、あくまでぼくたち現存在のあり方のことである。一瞬の生起を見過ごすことだって、立派に<過ごし方>には違いない。それが非本来的歴史性である。これに対し、刻一刻の生起のその唯一一回性を自覚し、覚醒的な態度で過ごすあり方が、本来的歴史性である。もう少し補って言えばこうだ。常に過ぎ去りゆく一瞬が、生。その一瞬の生をしかと目撃し、ことさら引き受け、そこへ開けきっていこうとする態度。それが、本来的歴史性ということである。だからとくに宿命とも呼ぶ。もしそうであれば、ハイデガーのいう運命も、通念から大きく離れて考えなければなるまい。運命とはおおむね、《今ここに登場する物や人と、永劫に唯一一回きりの出逢いの時を果たしていることば》ほどの意味。一期一会的な、ささやかだが気づけば清冽きわまりない、ぼくたちのリアルな有り様だ。相手も場所も時も選ばない。すべてのものに、いつどこででも無条件に樹立されてゆく、存在論的共同性つまり「共存性」の実現のことである。

以上のことから、歴史とは、《一度きりの今ここにとかない生起》のことであることは、論を俟たない。「生起」はそもそも一度きり、二度ない現象だが、生起(存在)の唯一一回性を強調した概念が、歴史だと言っていいだろう。だからもっと平たく言えば、この世に生きているどの瞬間もすべて唯一一回きりゆえ、どの瞬間も取り替えようもなく独自で、稀有な驚愕現象だ、と言うほどの意味である。以上から歴史後群はすべて、時(存在)の「唯一比類なき一回性」という根本特徴をベースとする概念群であることがしられよう。そしてどうして歴史の問題が、『存在と時間』の最終部分に置かれたかという理由もすでになんとなく、お分かりのはずだ。『存在と時間』が最終的に<言おうとしたこと>が、この歴史性ということなのだ。死や時の分析は、そのための伏線にすぎぬとすら、ぼくは解釈している。

さて振り返ってみれば、この『存在と時間』は、ある一筋のプロットに貫かれているように思う。それは硬直したぼくたちを軋ませ、揺り動かし、すべてを、流動する運動態へ還元しようとする発想である。何につけ、ぼくたちはすぐ固定した舞台にすがってしまう。確固とした実体あるモノを想定し、その総和や事後関係として出来上がる安定した絵柄の中で、ものを考えてしまう癖がある。時間といえば、川の流れのような直線状の持続的過程を考えてしまう。自己も、歴史も同様。すべてが、じつに静態的で固定した構図のもとで、考えられてしまうのである。その硬化した思考舞台を溶解し、まずは「気づかい」という生の動態性へ還元し、次に刻一刻に変異する時へ、はては唯一一回的な生起(歴史)へと連行して行くこと。しかも、ぼくたち読者自身のかじかんだ実存自体を流動化し、<時を時として刻む>よう仕立て直すことを通じて。それが、『存在と時間』という<>が実現しようとしているトレーニング。そういっていいだろう。なかでも、なにより根深い固定観念がある。それが従来の存在観。それは存在を、「目前に在ること」と見てしまう存在観である。「目前に在ること」とは、内的な生動性を欠落させた、まるで延べ板のようにダラーッと現前し存続しているとする存在観。ふつう存在といえば、そんな<恒常的現前性>を考えるのがつねだ。この思考習慣こそ、『存在と時間』の最大の標的である。その存在イメージの前提には、ある特定の時間観念が固着している。時を、川の流れのような直線時間とみる、あの根深い偏見がそれだ。つまり、存在の理解の仕方が、時の見方に規定されている。時をどう刻むかというその時の刻み方(刻時性)が、存在をどう理解するかの前提アプリケーションになっているということである。(そのことに注目して、刻時性をテンポラリテートともいう)だから、存在の味を問うことを最終課題とする『存在と時間』は、ぼくたち人間存在の刻時性という基本構造を、ひいては唯一一回性なる歴史を開明しようとしたのである。とすれば、ハイデガーが言いたいことの要点は、<時を時として生きる姿勢>を、つまりは本来的時刻性を、ひいては本来的歴史性を、取り戻そうということに、尽きる。

「ほんとうに生きているひとには、いつも時がある」

 

このあと、第4章、第5章はハイデガーの政治との関わりやハイデガーから離れて行って著者がハイデガーを出しにして自身の考えを展開しているようなので、深追いを避けることにします。

2013年11月19日 (火)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(9)

3.舞台はめぐる

ハイデガーはこう言っている。「ぼくが、ぼくの現存在(生)の<最期>にそうであるだろう存在。それは、実はぼくがどの瞬間にもそうでありうる存在なのだ」。この「最期」とは生の末端の死去の時。そのとき、ぼくたちが死に切迫され、まさに死に至る瞬間にあること。このことを、誰も否定しないだろう。ここで、ハイデガーの死の思想の独特なところは、そんな最期のありさま(「死への存在」)が、実はどの瞬間にも当てはまる様式だと見ぬくところにある。刻一刻、毎瞬が死に切迫され、死へ至る存在構造をしている。それが「もともとの生のありさま」(本来性)。そうハイデガーは言うのである。だから有名な「死への存在」とは、ぼくたちのいわば日常性というわけだ。

映画のフィルムで考えてみよう。フィルムは末端が、終わり(死)に至る1コマである。その最期の1コマをスクリーン上に映写すれば、最期となる。最期の1コマは終わり(死)に臨む動性(臨終性)を持っている。それは、次の画面に移行しようとする動性であり、別段最期の画面だけに固有の動性ではない。動画である限り、どの画面も満たさなければならない前提構造だ。最期の画面の場合、たまたま次の画面に連接して行かないだけ。それ以前の画面の場合、消失するこの動性ゆえ、再び画面が戻ってくれる。つまり、終わり(死)に臨む動性は、どの画面にもあり、それが同時に新たな画面を生み出す動性となっているということだ。

動画である上映中の画面は、映し出された端から消失し①、消失しながら同時に現出しているはずだ②。現出しながら消えているというべきか、消えながら現出しているというべきか。死が生で、その生が死となり、その死において生が始まる…。そんな生(初発)と死(終滅)との奇妙なパラドックス構造、あるいは同時進行。だからもはや、終わりと初め、死と生といった思い慣れた二分法では割り切れない、両項の奇妙な回互運動の中で刻一刻、画面が生起していることが、お分かりだろう。言うまでもなく、この動画現象を生現象になぞらえることは、許されよう。線損の各瞬間もまた、スクリーン上の一瞬の映像同様のなりたちをしているはずだ。今あなたの今この瞬間の生。毎瞬毎瞬が終わっていく動性①と、毎瞬毎瞬が始まってくる動性②.その普通なら互いに矛盾し合う二項の同時進行現象として生起することを、うっすら感じ取ることができるのではないか。一方で終えていく動性。他方で始まっていく動性。この二つの動性が相より、凌ぎ合う、張りつめた一点に、刻一刻の生の瞬間が成立しているはずだ。

つまり、ハイデガーが言っているのは、「死は生の現象である」ということに尽きる。「死は、現存在が存在するやいなや引き受けている生の在り方なのである」。生きていることは、いつも同時に、死に臨んでいること(臨終していること)。生は死と、まさに背中合わせということである。しかしいつも臨終状態であるためには、いつも「臨終」していなければならない。つまりどの瞬間も、同時に「生誕への存在」でもあるということだ。こここそ、ハイデガー哲学の要所なのだ。

2013年11月18日 (月)

古東哲明「ハイデガー=存在神秘の哲学」(8)

2.ダブルなわたし

世界内存在を演じて生きているぼくたち自身のこと、つまり「自己」に、スポットライトを当ててみよう。とても奇妙な姿が見えてくるはずだ。奇妙な姿とは、他でもない。ぼくたちが、役者同様の二重分裂構造と自己焼却構造を生きている、ということである。役者は、ある時は王様を、ある時は老人を、あるいは善良な市民や犯罪者をえんじよ。それと同様ぼくたちもみな、特定のスケーネー(生活場面・状況)とドラーマ(活動様式・言動・任務)に応じて配定される、様々なペルソナ(役柄・仮面)を演じている。その際、演じている役柄上の自分と、それを演じている生身の役者なる自分自身とは、別々の自分だということは、説明するまでもないだろう。例えば、あなたが老婆役を演じる若い役者だとする。その場合、老婆という役割上の自分(配役・仮面自己)と、それを演じている若い生身のあなた自身(自己存在)とは、別々のもののはずだ。だが舞台上では、<舞台上の役柄としての自分><生身の役者としての自分>との二重分裂構造を、ごく当たり前のように生きてしまう。ごく当たり前のように生きてしまうとは、①まずはそんな分裂構造など全く意識しない状態で生きているということ、②さらに言えば、生身の自分は消し、そんな自分のことも忘れ、役柄上の自分になり切って、はてはそれが自分だと思い込んでいる、ということである。

通常ぼくたちは、あまりにも懸命に、与えられた役柄や立場を生きてしまう。生身の自分など忘れ、ひたすら役柄になり切っている。没頭して生きている。「世界」に夢中なのだ。そのうち、演じている自分自身のことなど、忘れてしまう。むしろ自己忘却こそ、毎日を活き活きとスムーズに生きるための前提。会社勤めに精勤すればするほど、ぼくたちは自分自身から離れ、自己疎外に陥るのだが同時に、活き活きと生きることもできる。そしていつの間にか、「世界の側から自分を理解する」ことが当たり前になる。これは役柄を、自分自身と取り違えるということである。懸命にこの世を生き、だからこの世に没頭し、だから自分をこの世での役柄と同一視してしまう。これが耽落ということである。だから耽落とは、世界劇へ深々と入り込み、熱演している証拠。決して劣悪な生き様ではない。だから耽落は、生き甲斐に充ち、活気ある人生をおくるために、ぜひ不可欠な要素である。だが、だからこそハイデガーも強調するように、「生の原パラドックス」なのだ。生に勤しみ、まさに生の渦中を生きれば生きるほど、生それ自体は視界から消えてしまう。間近に生きなければ、生それ自体が分からなくなる。だからこそ、生への「深き」眠りなのである。

役柄上の自分と、生身の役者としての自分自身の決定的な区別。それを考慮しハイデガーは、生身の役者のレベルの自己を本来的自己とか自己自身と名付け、役柄上の自分(正確に言えば「役柄を自分だと思い込んでいる自分」)を、ダス・マン自己とか非本来的自己と呼んだ。ダス・マンとは「一般的なひと」のこと。まるで誰でも被れる仮面のように、誰もがその位置につける「一般性のレベルでの人」、という意味である。

ハイデガーが、世界内に存在している者は誰かと問うて、まずは「ダス・マン」と答えるのは、以上のような理屈からである。ぼくたちはこの世(舞台)のなかで、自分であって自分ではない。たしかに常にどこででも自分(生身の役者自身)なのだが、しかしたえず、自分ではない。たしかに常にどこででも自分(生身の役者自身)なのだが、しかしたえず、自分ではない「他人の顔」(役柄自己)へ変換されるという仕方で、自分である。かといって、自己自身が、この世の舞台に登場していない、というのではない。身振りや声の裏付けとなって、あきらかにこの世の舞台に「内在」している。そんな中で「忙しすぎて自分自身を失いそうだ」などいう焦燥感にかられたことは、どなたにもたびたびあるはずだ。そんな時ぼくたちはふと、自己の二重性の隙間に、足を踏み入れているわけだ。誰にも覚えのあるとてもリアルな話のはずだ。

不安の正体とは、まさにこの自己分裂構造である。この世に生きていること。それは二重性の中で生きることだから、構造的に不安定だ。だから静かに不安だ。ズレを生きるのだから、いやでもそうなる。自分ではない自分(ダス・マン)と自分自身とが統合され、均衡を保っているうちはいい。だが限度はある。ズレも大きくなると、クレバスになってしまう。まさに自己分裂症に陥るわけだ。そんな危機に至るまでもなく、いつも軋みがあり、ズレて生きている。その軋みが、現存在の基調音となっている。不安は日常的情緒なのだ。非意識的生ゆえ、ことさら気づかぬが。不安ということを、ハイデガーが根本気分というのは、そんな意味である。この地底に響く根本気分(不安)が、突然噴き出すことがある。NG。スムーズに流れていた舞台劇が停滞したり、破綻した時である。そのとき役柄上の自分から亀裂した生身の自分がニョッきり顔を出す。慣れ親しんでいた自明な世界舞台全体が、なんだか嘘っぽく、じつに居心地悪い場所と化す。

そんな不安はやはり辛い。だが言うまでもなく、夢(眠り)から覚めただけだ。舞台上で虚像の役柄(他人の顔)を演じていた自分のありさまを、画然と理解してしまっただけである。「現実の社会生活」なるものが、大掛かりな仕掛けの巨大なショーだったことに、気づいただけのことである。本当は故知らずこの世という舞台に投げ込まれ、実はコレッと言い切れるだけの根拠も理由もないままに、とりあえずありつき、与えられたこの世の役柄に己を託しながら、何とか当座を凌いでいた。そんな「自分の負の正体」が、白日の下に晒されただけのことだ。不安を覚えるとはその意味で、舞台上で悦にいっている自分(ダス・マン)に対し、本来の自分(生身の役者自身)が、「それは私ではない」という自己疎外の声を、静かに上げていることの、別表現である。この自己疎外の静かな声。「それは私ではない」というズレの軋みの音。それが、有名な良心の無言の声に他ならない。通常その軋み音は小さい。だがいつになく増幅されて響き渡るときがある。それがさきに述べた不安の突出である。それもこれもすべて、自己の二重性というぼくたち自身のこの世でのあり方に起因する。自己分裂の解消なしには、不安は生涯つきまとう友だ。

もっとも、否定的なものを肯定形に変えるのが、ぼくたちのオントロギー。不安は辛い。がしかしそれは同時に、自由の取戻しである。それまで、懸命に生きてきた熱演舞台への没頭状態(耽落)から、フーッと覚めるのである。この世の役柄や弁別からもともと離免され、身分なき身分として生きている「自由な自己」に目覚めるのである。その意味で不安は、自己自身を取り戻す絶好のチャンスなわけだ。深きねむりから深きめざめへの<>において、なぜ不安分析が重要なファクターになっているのかも、以上からしられよう。不安を抱かせないよう、不安がらないようにと、近代という文明の箱庭は苦心してきた。学校も家庭も社会環境も、おおむねその方向で営まれる。だが、それは結果的にぼくたちの自由を奪い、ぼくたち自身を喪失させる、たくまざるトリックだったと言えるかもしれない。そんな不安が明確に訪れるのは、やはり死を痛感する時だろう。

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