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ハイデッガー関係

2012年3月14日 (水)

ウォーレン・バフェットからの手紙 2011(8)

規制された、資本集約的な事業

我々にはBNSFとミッド・アメリカン・エナジーという我々の他のビジネスと区別される共通の特徴をもった2つの非常に大きなビジネスがあります。したがって、我々はこの手紙でこの2社を自身のセクターに割り当てて。我々のGAAP貸借対照表と損益計算書にこの2社の統合財政統計を振り分けます。

この2社の主要な特性は、バークシャーによって保証されない大量の長期国債によって部分的に資金を供給されるという規制された資産と非常に長期の投資を有していることです。この2社には我々の信用は必要ではありません。この2社には恐ろしい景気状況においても、十分に利益をえる収益力があります。2011年のあまり強健でない経済において、たとえば、BNSFのインタレスト・カバレッジは9.5xでした。一方、ミッドアメリカンでは2つのファクターはあらゆる状況でもサービスを確実に供給することを可能にしています。単一の規制機関による保護を受けた重要なサービスと利益の多様性を提供することにおいて固有である収益の安定性があります。

1マイル当たりのトン数で量ると、鉄道はアメリカの年間の貨物輸送の42%を占めており、BNSFは業界全体のおよそ37%ととう他の会社より多くのシェアを握っています。アメリカにおける都市間の貨物輸送のマイル当たりのトン数でいうと約15%がBNSFによって担われていると、皆さんに言うことができます。鉄道輸送を我々の経済の循環系と称することは決して誇張ではありません。鉄道は大動脈なのです。

これらのすべては我々に巨大な責任となって圧し掛かってきます。我々は13,000の橋、80のトンネル、69,00台の機関車そして78,600台の貨車を通す2,300マイルの線路を維持し、改修していかなければなりません。この仕事は我々にあらゆる経済シナリオの下でも十分な財源を持ち、昨年の夏にBNSFを襲った広範な被害のような自然災害に迅速かつ効果的に対処できる人的資源を持っていることを要求します。

そのような社会的責務を果たすため、BNSFは、2011年には、減価償却費をはるかに越える、総計18億ドルを越える定期的な投資を行いました。アメリカの他の3つの主要な鉄道会社も同様の支出を行っています。多くのアメリカ国民が我が国の社会インフラへの出費を非難しますが、鉄道に対してはありません。将来のより良い、より広範なサービスを提供するために必要な投資案件は、民間部門による基金から、資金が注がれています。鉄道がこのような莫大な支出をしていないならば、我が国の公的資金によるハイウェイ網は今日あるより多大な混乱と維持の問題に直面することになるでしょう。

BNSFが行っているタイプの莫大な投資は、それが行われた時の適切なリターンが得られないならば、馬鹿げたものとなってしまうでしょう。しかし、私はそれが達成する価値があると確信しています。何年も前に、ベン・フランクリンは「汝の店を守れ、さすれば店、汝を守らん(商い三年)」とアドバイスしました。彼なら、我々の規制されたビジネスにこれを翻訳して、今日もこう言うだろう。「顧客と顧客の代表である業務監査委員の世話をせよ、さすれば彼ら、汝を守らん」各当事者による良い振る舞いは、このお返しに良い振る舞いがかえってきます。

ミッドアメリカンでは、我々は同じような「社会契約」に参加します。我々は顧客の将来のニーズを満たすために絶えず増える出費を続けていく考えです。一方、確実で効率的に行われていれば、これらの投資の公明正大なリターンを得ることができることを理解しています。

バークシャーが89.8%を所有しているミッドアメリカンは電気をアメリカ中の250万人の顧客に供給しています。アイオワ、ユタとワイオミングでもっとも大きな供給元、6つの州で重要なプロバイダーです。我々のパイプラインは我が国の天然ガスの8%を輸送します。何百万ものアメリカ人が我々に依存しています。我々はこの人たちを絶望させません。

ミッドアメリカンが2002年に北部天然ガスのパイプラインを購入した時、パイプラインの会社のパフォーマンスは視界の泰斗によれば、43社中43位、最下位の評価でした。最近のレポートでは、2番になっています。トップは、我々のもう一つのパイプラインであるカーン川です。

電力ビジネスにおいても、ミッドアメリカンは同じような成績です。最近の顧客満足度調査では、ミッドアメリカンは60の米国公益企業を調査した中で2番の評価を受けました。ミッドアメリカンがこのような評価を得た時、物語は何年も前とは変わりました。

ミットアメリカンでは2012年末には3,316メガワットの風力発電が稼働しているでしょう。これは我が国の他の電力会社よりもはるかに大きな数字です。我々が風力発電に投資し参加した総額は、なんと60億ドルにもなりました。ミッドアメリカンがそこからの収益を全て保有することになるので、一般的な得たものを払い戻す他の公益事業とは違って、我々はこのような投資をすることができます。その上、昨年、我々は建設に3億ドルかかる2件の太陽光発電を引き受けました。ひとつは100%所有のカリフォルニアで、もうひとつは49%しょゆうのアリゾナです。さらに多くの風力や太陽光発電プロジェクトがこのあと続くのは、ほぼ間違いないです。

皆さんに、今。こうしてお話しすることができるのは、BNSFのマット・ローズあるいはミッドアメリカンのグレッグ・アベルによって達成されたものによるためです。私はこれを誇りに思います。彼らが、バークシャーの株主に達成したことを誇りに思い感謝しています。

2012年1月24日 (火)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(38)

2.転回の意味と問題点

我々は、更に議論を進めるに先立って、ここでひとまず立ち止まり、転回の意味について改めて考え直すところがなければならない。我々は「ケーレ」という言葉を、レヴィットの所論に従って、ハイデッガーの思索が初期の頃と最近とで大分異なってきているその変化ないと変貌の意味として用いてきた。しかもレヴィットは、ハイデッガーが現存在の立場から存在の立場へ逆転していると主張し、それが矛盾を含む転回であると言うのであった。このような意味で、転回とはハイデッガー自身の思索の中でのある変化と特にそれと名指すもの、即ち、『存在と時間』の頃は現存在から存在への方向が採られるのに対し、後期の立場では存在から現存在への方向が採られ、丁度両者は逆転しているが故に、この変化が転回と名指されたものなのである。だが、もとはと言えば、この転回という言葉は、ハイデッガー自身が用いている用語で、それをいろいろの個所から総合して考えると、実はそれがレヴィットの用いたように意味のものでは元来なかったことが分るのである。

ハイデッガーは1943年の『真理の本質について』の講演の中で、「存在と時間」から「時間と存在」への転回の思索に対して、幾分かの洞察を与えている。まず、転回の意味について指摘している。転回とは、『存在と時間』第一部第三篇で起こるべきはずだったものであり、その意味は、「主観性を抛棄する思索」のことなのである。「主観性を抛棄する思索」とは、言うまでもなく、後期のハイデッガーの存在の真理の思索の立場である。そこで、転回とは、存在の真理の思索の立場へと移ることである。だが、一体、どこから、そこへと移る、のであろうか。ここに問題の分かれ目がある。

第一に考えられるのは、ハイデッガー自身が、『存在と時間』の既刊の部分で示された立場から、存在の真理の立場へと移行し、転回するということである。レヴィットの解釈した転回とはまさしくこの意味であった。ここでの転回問題は、ハイデッガーが自己の思索の転回を認めている以上、それがあるのかないのかが問題であるのではなく、それがどのような意味のものであり、しかして矛盾的なものか或いはそうでないものか、それが問題なのである。しかして、これに答えるためには、単に前期と後期の著作に現われた差異点だけを剔出して比較考証するだけでは不充分であり、ハイデッガー思想の展開と統一性とを改めて全体的に見直すことが必要であろう。

だが、転回と言う言葉の意味は、これだけに尽きない。元来、転回とは、存在の真理へと移ること、即ち「主観性を抛棄する思索」へと移ることであった。従って転回とは、最も正確には、主観性の立場から、それを抛棄する立場へ移ることでなければならないであろう。即ち、近代の主観主義形而上学の立場を克服することこそが、最も本来的な転回と言うことの意味なのである。従って、実は、転回とは、字義通りには、ハイデッガー思想の中での変化ということではなく、言うならば、ヨーロッパの歴史の中で生起すべき哲学的思索そのものの変貌、人間的本質そのものの変転の謂なのである。即ち、主観性の形而上学から存在の真理の立場へ、存在者に立脚する思索から存在の思索へ、総じて西欧の幾世紀にも亘る迷誤の歴史が今まさに克服さるべきであるというその転換の主張が、実は転回ということの本来的な意味なのである。ハイデッガーの著作の数多くの個所に、かのような用法法は夥しく存在しているのである。

かくして、転回という言葉が二義をもつことが注目されなくてはならない。それは、ハイデッガーの思索の中での前期から後期への転回を意味するとともに、本来的には、歴史の中に喚起さるべき形而上学から存在の真理の立場への転回を意味するのである。往々にして転回問題は、第一のハイデッガーの思索の中での転回の意味でしか考えられていないようであるが、これは一面的であり、転回問題は、以上のような、深くは、ヨーロッパ歴史の中に喚起されるべき思索の転回という面をも含んだ、二義的なものであることを、看過してはならないのである。

転回問題の所在点を以下で整理してみよう。第一に、根本的には、転回問題は、存在の真理の立場による西欧伝統的形而上学の克服、従ってまた、人間本質の新しき変貌の課題という問題なのである。これに対しては、その意味が如何なるものであるかが論究されるべきであり、更に、それの現代における意義が究明されねばならないであろう。ハイデッガー哲学の研究は、究極的には、かかるハイデッガー批判の仕事に接続するのであり、ケーレの問題は、深くは、この根本問題に関係している。第二に、転回とは、『存在と時間』の頃の思索と後期の思想とが何らか変貌しているという事実のことであり、この点については、先ず、ハイデッガーの思索全体の展開と統一性が論究され、それがどのように変化して行っているかが見究められねばならない。そしてその次に、この変化が矛盾撞着を含むか否かが、答えられねばならない。そして、更に、この転回問題解決の鍵が、ハイデッガーの思索の方法論上、哲学態度上の面にあることが、予測されているのである。こうした点から、このケーレの原因が深く見究められねばならないであろう。これは、『存在と時間』という著作の根本的性格への深い洞察を要求し、ハイデッガー哲学前期の問題設定への批判的解明を必然的に要請している。このように見て来れば、転回問題の解決が、非常に広い問題領域に亘り、ハイデッガー哲学全体への考察を要求していることは明らかであろう。第一の歴史の中に喚起されるべき転回とは、ハイデッガー哲学がそこに行きついた究極の思想であり、この問題については、我々は、この論述全体で、その内的構成において解明し、後に結論の部分で、批判的に論究するであろう。第二のハイデッガーの思索の中での転回については、先ず、彼の全体的思索展開の様相に即して、その内的構成を、我々は、この論述全体で問題にしているから、この論述全体がそれに答えているとも言えるのであり、しかも我々は、既に第一章で見たように、ハイデッガー哲学を発展的にしかも本質的に統一あるものと見ようとし、かつまた見得ると考え、いわゆる転回は、やはり立場の変更ではなく、哲学態度の方法論的変化であると見、この思索の推移発展を、この論述全体で、必然的なものとして明らかにしていくであろう。

これで第3章は終わりです。第4章はしばらくお休みしてから、また、まとめてUPします。

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(37)

第5節 転回問題の所在点

ハイデッガーの説くケーレには、『存在と時間』の未完に纏わる思索の転換ということ以上に、深い意味が、実は、籠められているのである。と言うのは、存在そのものを凝視し、思索するということ、このためにこそ、『存在と時間』の連続性が途切れ、ケーレが起こったわけだが、ケーレとは、本来、その意味で、存在そのものを思索すること、即ち広く言えば、存在を忘却し去っている状態から脱出して、存在を思索するという、その転回を言うのであり、これが人間歴史全体に繰り広げられて、ヨーロッパの形而上学の中で喚起されるべき思索の転回とも、ハイデッガーではされているのである。ケーレとは、もっと広い意味をもっていたのであり、問題の射程も、単にハイデッガーの思索の変貌としてのケーレとどう結びつくのか、改めて、疑問が出てくる。

1.レヴィツトの所論

レヴィットは1951年「ハイデッガーの現存在到達せる立場が、彼の出発点における立場が、彼の出発点における立場と首尾一貫性を持っているか、あるいは、それは、一つの逆転のけっかであるかどうか」という問いをノイエ・ルントジャワ誌に発表した。それによれば、今日語られる存在とは、単なる存在者の存在様式─例えば、かつての如き現存在の実存範疇とか非現実的存在者の用在性とか物在性とかいうような─、存在者の存在者性ではなくて、「それそれ」のものであり、存在者に対する全くの他者的なものである。そして、かかるものが、今日では思索の中心を占め、他のすべては、これからの生起、恩寵、感謝として、他動的に惹起されるものになっている。このようなことは、実存を元として存在を探求するというかつての『存在と人間』の現存在中心の立場から、到底予測し得ざるものであり、かつまた、これとは矛盾撞着する。従って、レヴィットは、ここにハイデッガー哲学の転回が介在すると断定する。そして、これを具体的に立証すべく、六つの概念を取り上げて比較検討し、転回の事実を次のように証明する。即ち、第一に、『存在と時間』においては「現存在」から存在への接近が試みられたが、後期では、その現存在は存在の真理からの由来において、その近さの中に住むものとして、「存在」から考えられ、従って第二に、かつての「現存在の企投」は、逆に「存在の投げ」によって可能になり、被投的企投の偶然性の代わりに、存在の故郷による支えが立ち現われ、故に第三に、どこからもどこへもしられざるかつての現存在の「事実性」は、「それが与える」その存在によって送り来られたものとされるに到り、かくて第四に、現存在中心の「実存的範疇」は、それを超え出る「存在の真理」に代償させられ、それ故第五に、実存の「有限性」は、聖なるもの、止まれるものの「永遠性」にとって代わられ、かくて第六に、かつての「基礎存在論」は瓦解し、それは存在論の隠れた根拠へと環帰する、形而上学の試みとされるに到っている、と。

このようにレヴィットは、ハイデッガーの思索の中に立場の変更を看取して、それを難ずる。しかし、なぜハイデッガーがこのように変化したのかについて、彼は殆ど何事も語らない。それは、ハイデッガーの精神的展開には論及せず、ただ『存在と時間』との体系的立場での異同を比較するだけであることからも来ているが、ここにレヴィットの所論の限界がある。また、レヴィットがハイデッガーを批評し、非難する根本の何かはハイデッガーの立場の変更の指摘を超えた別物、それはハイデッガーの転回の底に、私生活上の問題を考えるという観点がある。以上、レヴィットの議論の要旨は、第一に、転回を外面的に剔出して、その変化を矛盾として捉えていること、第二に、変化の原因として、ハイデッガーの私生活上の体験を考えていること、この二点に尽きるが、我々はねこの見解に対して、第一に、ハイデッガーの変化の指摘には賛成するが、それが果たして矛盾撞着ないし全き変更であるかどうかには、これまでのところ賛否いずれとも決定できないこと、むしろそれはかかる外面的な変化の剔出でなく、もっと内面的なハイデッガー思想の展開と統一性とを論及することによってのみ答えられること、そして第二に、ハイデッガーの私生活上の諸問題を転回の問題に介在せしめることは、たとえそれが示唆的ではあっても、今の場合我々は採らないこと、この二つのことを、レヴィットに対し、我々の態度決定として確定しておきたいと思う。

2012年1月22日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(36)

このように、スピノザ、ヘーゲルに典型的に示される合理主義的問題設定は、ハイデッガーにとっては採り得ない態度であったそしてその意味からすれば、第二に、ハイデッガーの試みが、合理主義的独断的形而上学を否定し、存在の啓示を学的哲学の形で展開する可能性を拒んだ、カントの態度に非常に接近していることを、容易に知り得るであろう。カントは、物自体について客観的実在性をもった認識は成立し得ないとした。その意味で、存在の啓示の形而上学は、学として、いわば高次の知的直観を介しての合理的展開として、体系化され、哲学的に開陳されることはできないわけである。この点で、カントは、存在そのものの啓示の世界を遂に成立し得ぬものと見、言ってみれば、人間的世界の分析に止まり、その意味でハイデッガーと同じ線上にあると言っていい。存在の啓示を独断的に行わず、存在に到る道を人間的な世界構成の構造分析を通して提示しようとすること、しかもそこに学的哲学の使命を止まらしめようとすること、言い換えれば、人間の先験的な分析を通して、単に存在者の分析ではなく存在者を超えて存在へと到りそこから世界を解釈し理解しようとするその人間の超越を可能にする、そのような意味での人間理性の先験的(超越論的)な分析、つまり、そこからして初めて経験や対象の制約が明らかにされ、世界と言うものが存在論的に開示され構成される、そのような先験的(超越論的)分析を通して、存在の地平を明らかならしめようとする態度、そういうものを、ハイデッガー自身、カントの中に見届けて、カント哲学の新しい基礎存在論的な意義を考えているのである。確かに、その意味で、カントとハイデッガーは、同じ線上にある。しかし、そこにはやはり大きな差があると言わねばならない。第一に、カントは、物自体として存在そのものの世界は、確かに認識の立場では哲学的に展開できぬものではあるが、実践的立場において、実在性を獲得し、構成的となると考えたからである。存在の世界は、神の存在、霊魂の不滅、自由の三者が実践的な立場で真とせられ、構成的となる世界であり、その限りでは、存在の啓示もしくはその実践的認識は可能なのであった。しかし、ハイデッガーは、かかることを考えていない。確かに、ハイデッガーに、存在そのものへと、実存の立場で、主体的にかかわろうとする、ある意味で実践的態度はある。しかし、その存在は、神や不死や自由と言ったものとして認められるのではなく、むしろ、一切の存在者を取り統べながら自らは身を退ける、ひそやかなものにすぎないのであり、しかも、ハイデッガーによれば行動するとは、深くは、詩作的思索をなすことであり、この詩作的思索の中で、ひそやかな存在へと関わろうとするに過ぎないのである。そこには、いわゆる実践的道徳的行為というものは存在しない。その意味でハイデッガーには、カントのように道徳的実践の立場で存在が啓示され得るとする思想はないと言わなくてはからない。第二に、カントは、この存在そのものの世界を、理論的には「未規定的」だとして、実践的にはそれを「規定」しようとするのだが、そのほかにもう一つ、それを「規定可能」にする立場をも考えていた。それがアナロギー的、統制的な反省的判断力による世界観的な思索であり、それによって物自体は、合目的性の原理によって支配される、目的論的な、自然と自由の両者を総合する世界として想定されるのである。理論的にそのようなものとして認識されるのでもなく、また実践的に規定されるのでもなく、つまり人間的な立場に身を置きながら、存在の根源がそのようなものとして、信憑されるのである。これが、カントに残された、いわば最後の存在の啓示の、少なくとも学的な認識の立場であったと言い得よう。ハイデッガーは、ある意味で、このカントの反省的判断力による想定の認識の性格を、一面負わされている。ハイデッガーにおいて、存在の啓示が学として拒まれながら、実存に基づく試作的思索の中で、ひそかに謎としてうたわれてくるとすれば、それは、即ち、カントの反省的判断力の立場の姿を変えた再現に他ならないとも見られ得よう。しかし、なおそこに差異があることを見逃すこともできない。それは、カントでは、存在の世界が主観的にals obとして想定される世界であるのに対し、ハイデッガーでは、主体を空しくした地点で存在が語りかけてくる言葉を捉えてうたうこと、そこにあの詩作的思索が成立するからである。だから、それは目的論の世界ではなく、人間がそこに意味を投げ入れる世界観的領野でなく、人間がその中に投げ込まれた、自然全体の、何故も、どこへも分らない、ただ「四つなるもの」が照り映え、根拠と深淵が交錯する、絶望的な絶対の世界となってしまうのである。

2012年1月21日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(35)

2.他の哲学との比較

如何なる哲学においても、或る究極の問題へと辿り着こうとする準備的な思索の部分と、その究極の問題を展開した部分とがあると考えられる。そして、どのような哲学においても、少なくとも究極的には、存在という事実をどう受け止めるかという存在の真相を明らかにする最終目標があったとも考えられる。表面上そうした所謂形而上学的問題には手を触れまいとしていつ哲学説にあっても、何らかの意味で存在の真相が問題にされていたと言っても過言ではないであろう。言うならば、存在の問題をどう扱うかということが、すべての哲学説の核心的問題をなしている。

ところで、この問題に関しては、いろいろな考え方があるが、先ず第一に思い浮かぶのは、この存在の真相がある種の高次の知性の中で合理的に展開され得ると考える哲学態度であろう。まさしく、ハイデッガー哲学は、この点で、こうした哲学とは対蹠的である。彼においては、準備的地点にまでしか学としての哲学は到達できない。無限知性の次元に飛翔して、存在の啓示を展開する究極の第三篇は、書かれなかったのである。その点に関しては、ただ合理主義的知性を全く排棄して、自らのおかれた歴史的異境を振り返りつつ、貧しい素朴なしかも沈黙せる存在への実存的聴従があるのみであり、そこで秘かに各自に啓示される神秘的に存在の秘義しか、人間にとっては認められないのである。しかも存在は、遂に、現われながら消えゆくものでしかない。ハイデッガーにあっては、独断的形而上学の合理主義的存在啓示の態度は、到底採り得ない。現代におけるハイデッガーには、存在の啓示を学的に展開する概念詩は夢の如きものでしかなく、彼には、有限的な自己存在のみが確かなものとして確信され得るのであり、その自己の実存から存在へと、完結的な意味捕捉の不可能を知りつつ、なおも癒しを求めてそこへとかかわろうと希求する、存在への諦観と婦入に溢れた態度しか、採り得ないのだと言わなくてはならない。

ところで、また、このようなスピノザと相似た哲学的態度を採るものとして、当然のことながらヘーゲルを挙げていいであろう。そして、そうしたヘーゲルの哲学的態度とハイデッガーのそれとは、ハイデッガー自身によっても、また幾人かの人にやっても現にいろいろ比較され、その異同が指摘されてもいるのである。ヘーゲルの『精神現象学』は、一般的に言って、存在の開示に到るまでの意識の経験の深化の過程を提示したものであり、初めは分裂した主客が最後的には合致する絶対知の立場にまで意識を高めていく弁証法的運動を展開し、しかもそこで考察される意識と考察を行うWirとしての哲学者とが究極的に合致し、一切は絶対知の世界に止揚されるのだが、この書は、そうした哲学の究極の立場を準備することを目指したものと言ってよく、次いでそこから、今や自己自身を捉える自覚的な精神の立場に立って、絶対者の自己開示の学的展開を示すものが、『論理学』であり、この二つの部分を併せ持つところにヘーゲル哲学の体系があると言ってよいであろう。ここからして、『精神現象学』はいわば『存在と時間』に当たり、『論理学』は存在の啓示の展開を目指したものと見得る。ハイデッガーとヘーゲルとの間には、深く共通の問題設定がありながら、いわばヘーゲルでは合理的知性の中で存在の啓示がなされるに対し、ハイデッガーではそれが不可能であったところに、両者の鋭い対立がある。両者の間には、有限性を重んずるが故に、存在啓示の合理的体系化を拒否する態度と、無限性の段階に飛翔して存在を形而上学的に展開しようとする思弁的態度との差異が横たわっている、と言わねばならない。確かに、『精神現象学』と『存在と時間』は、存在に到る準備的な地平を拓こうとする根本志向において同じであるが、ヘーゲルでは、意識の弁証法的運動を辿り終えたところで、精神が絶対者の顕示の場として現われ、そこで全面的に存在の世界が開示されるのに対し、ハイデッガーでは、あくまで地平としての現存在は有限であり、しかも意識ではなく実存的なものであり、究極に目指された根底の存在は、朧にしか捉えられないのであり、即ち、ヘーゲル的な絶対知の世界は拒まれる。言うなればハイデッガーには『論理学』に当たる『存在と時間』第三篇は書き得ないのであった。ハイデッガーは、ヘーゲルの『精神現象学』は存在論であり、存在論の終わったところで、存在の啓示を学的に示すいわば神学としての『論理学』が始まり、ヘーゲル形而上学は、徹頭徹尾、存在神学的である、と言う。いわば、ハイデッガーには、この神学を展開することはできないのであった。

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(34)

第4節 未完の背後に潜むハイデッガー哲学の特質

1.ハイデッガー哲学の性格

これまで見たように、ハイデッガーし、『存在と時間』で、現存在分析を試み、そこから引き続いて、存在そのものの学的対象化を成就しようと、当初、意図していたが、事実上成就し得たのは現存在分析のみであり、存在そのものの解明ではなかった。彼は、『存在と時間』の第二篇を書き終えたところで、愈々存在そのものを解き明かそうとするとき、挫折するのである。そこには、存在そのものを、現象学的な基礎存在論との連続的な線上で対象化することは本来できないものであるという自覚が芽生え、存在を解き明かすには、主題的に、現存在から存在へという方向だけでなく、現存在の底の存在から現存在を見透し返すという転回がなければならず、そのためには、方法的に、現象学的対象化の態度を捨てて、存在についての概念構成の拡大による形而上学的展開を止め、むしろ端的に、存在からの啓示に開かれて立つ聴衆の態度が採られねばならず、そして、哲学的中心問題の面で、時間の地平を通して存在の意味を概念的体系の形で捉えるのではなく、むしろ時間性という地平そのものの中に立って、そこに顕わとなってくる存在の声に言葉を齎すという変貌が、成し遂げられねばならなかった。現存在分析という準備的な段階から、更に引き続いて、存在そのものの啓示の学的展開を行うその連続性について、種々の点から疑念が持たれ、遂にそり試みは中途挫折したのである。

そればかりではない、ハイデッガーは、後に、そのような挫折を通して次第に明らかになってきた存在そのものについて、それは、自らを現わすとともに退けるもの、言い換えれば、永遠に匿れるという仕方でしか現れ得ないもの、という思想に到達する。存在は存在者と密接に関係しているが、その根底にあるものであり、両者の間には存在論的差異があり、しかも存在は、己を現わすときには常に存在者の形を採って現われ、だからこそ存在そのものは存在者の蔭に匿れて見えなくなってしまい、それ故にそれは無化的なものであり、かかる顕現する秘匿、明らめる無化というところに存在の真理がある、というのである。このことを、ハイデッガーは「単純なものである」という言い方によって、繰り返し述べる。存在は、ひそやかに、匿れ、ほの見え、秘密に充てるもの、それ故にこそ、積極的には、ただ詩作的思索がそれを言葉に齎し、うたう以外にないもの、そうしたものと看做されてゆくのである。

ということは、『存在と時間』における存在探究と連続的に存在の思索がなされ得ないというだけでなく、そのような挫折の中に朧ろに自覚化されて来た存在そのものの真理によって、学的対象化の方法が、決定的に適用不可能とされたということである。存在は匿れるという仕方でしか顕現しえないが故に、これは遂に、決定的に学的対象化の不可能なものだったのである。単に連続的に実存から存在への追究が中途挫折しただけでなく、挫折の只中で見届けられた存在の真理によって、存在は秘匿的性格をもつ単純なるが故に、学的対象として扱い得ないことが、結論的に明らかになってゆくのである。かくして、このような意味で、哲学は、学としては、ただ地平を展開するところにのみ止まるべきもの、またそこまでしか達し得られないものであり、後は、地平の中にまさしく実存として立つことそのこと以外にはない、というのが、ハイデッガー哲学の確信をなしていると言うべきであろう。哲学は、学としては、地平を示す点にのみ成立し、地平に立って存在を想うことは、ただ実存的主体として自ら立ち、各自が絶対的なその自己存在の事実性の中でひたすら存在に聴従すると言う態度においてしかなし得ないという、このような哲学のあり方についての確信は、およそ、人間と存在を問題にする哲学の究極の限界を自覚化した見解であろう。存在の内容は、ただ直観的な詩作的思索の中で、論理を超えた仕方で、実存することと一体をなして、啓示され、語られるに過ぎないものであるということ、合理的論理的な仕方で示され得るのは、たかだか、存在を問う条件についての分析のみであるということ、ここに、ハイデッガーの哲学的態度のもつ極めて実存主義的な特質がある、と言わねばならないのである。

2012年1月20日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33)

Ⅳ 時間性の背後にあるもの

もしそうだとすれば、時間の通路は全く失敗であったのか。そうではない。これまでのことは時間が存在そのものの「真理の開示」とは未だなり得ていないことを示しているが、時間が存在そのものの真理への「問の地平」となり得ないことを示してはいない。そしてまさしく、「存在」と「時間」という二つの概念らよってハイデッガーが事実的に示そうとした事柄は、現存在の存在意味としての時間性という地平が、その中に立たるべき究極の存在への問いの地平であるということにあったと考えられる。そして、後に時間論において見るように、時間は古来人間の心のあり方と結びついて考えられたのであり、過去、現在、未来の三相を持つ時間とは、内容的には人間のあり方に基づけられて成立するとされてきたのである。歴史的にも、時間の問題とは、人間のあり方の問題に他ならなかった。

ハイデッガーは、存在そのものを時間の地平から解明することを究極意図とはしながらも、実質的には、存在を問う地平を時間性として、しかも根源的本来的には、現存在の、有限の、死へと先駆する決意的な時間性として、自覚化して来、これこそがその中に立たるべき存在への問いの実存的地平であることを差し当たって示したのであり、ここに、彼の最も本質的な狙いがあったのである。究極目標と、差し当たって遂行されたこととは、混淆されてはならない。そして、後年彼は差し当たっての己の試みが、時間性という存在への問いの地平を示すことにあって、究極の問題には様々な困難が纏綿することに気が付いてゆくと思われる。だからこそ後期は、前名としての時間を超えた、存在そのものの真理を、それそのものの真理において、思索してゆこうとするに到る。存在へと問いでる地平は時間性なのであり、時間性の意味での時間こそが、存在の真理に到る前名なのである。そしてこの意味での時間という地平は、現存在の時間性の世界として、実は極めて深いものを自覚して来たものであり、ここに前期ハイデッガーの探求の意義も潜んでいるのである。

しかし、この際注しなければならないのは、この時間性という存在への問いの地平は、深くは、その中に立たるべき方法的な世界であった、ということである。『存在と時間』は、二重の現存在を秘め、二人のハイデッガーを内蔵していた。この著作は、存在を問う地平の世界という実存の問題を主題に設定することにおいて、一方で、主体的な、その中に立たるべき実存的世界を明らかにするとともに、他方で、その世界を客観的に分析し実存疇として提示するという学的意向をも持っていた。しかし、後者の学的意向は崩れなければならぬ。ハイデッガーは、冷静なWirの立場にあくまでも立って、現存在の存在意味を解き明かすその先に、更に時間の窓から、存在そのもの、壮大な、言ってみれば神学を学的に展開することはできなかった。そこには転回がなければならなかった。ハイデッガーはWirとしては、あくまで、存在の開示ではなくそれへの地平をせいぜい示し得るのみである。そして示し終えた後には、彼は、自ら、現存在として、その地平の中に立ち出で、Wirの立場を棄て、その地平の只中で開示されて来る存在そのものに聴従して行かなければならない。従って、時間性という概念規定を原理として、そこから更にいわば存在の神学を絶対知のような形で客観的に展開するということはできない。時間性が存在への地平であるのは、そういう意味においてではなく、Wirの立場の抛棄を通してその中に実存的に立たるべき世界という意味においてである。それ故、実存疇としての時間性の概念の底には、existenziellな世界が秘められ、それこそが、その中に立って存在へと問い出づるべき地平の世界なのである。時間性は、基本的には、「既往し原成化する到来」という形式的構造をもつが、この形式的原理によって、存在そのものの体系が学的に導出されるというのではない。形式的原理による存在の説明ではなく、時間性はその中に立って存在の開示をなすべき主体的世界なのである。時間性は、その中に、深く具体的な内包世界を秘め、その中に立たるべき現実的地平の世界なのである。

このように見て来れば、『存在と時間』という著作が如何に未完のものであるか、即ち、如何に徹底的に準備の書であり、究極の存在そのものを問おうとしながら、何よりも先ずかく問おうとする運動をそのうちに含む現存在を明らかにし、それを通して、その地平の只中に立とうとする準備の書であったか、が、分るであろう。端的に言えば、ハイデッガーは、現存在の存在分析から時間性を取出し、それを第一原理として、それと連続的に、存在そのもののいわば合理主義的体系的展開を試みようとしたのではなく、そうしたことが不可能であることを知ることによって、ただまさしく、存在への問いの地平を切り拓き、その中に立ち出でようとしたにすぎなかった。問いの地平である現存在は、既にその前と背後で、その意味でその根底で、究極の存在とかかわり合っていたのであり、単に現存在から存在へと一方的に進路を採り、存在を現象学的方法によって、時間の窓から、形而上学的に展開することはできないのであった。ハイデッガーが何よりも先ず目指したのは、ひとえに存在への問いの地平を提示して見せること、これであった。しかしこの地平は、現存在の主体的実存の世界であり、その中に立って存在を問うべきことを要求していたのである。ハイデッガーは、現存在分析と連続的に学的に存在を対象化し規定することを止め、地平を展開し終えた後には、現にこの実存的地平の只中に実孫的に立って存在を開示させようと、その思索の態度を発展進化させてゆく。これが、『存在と時間』の未完の根底に潜む根本の出来事であり、このような意味での当初の計画の挫折と転回は、実は深い主体性への徹底であり、実存に基づく哲学への激しい自己貫徹にほかならないであろう。このような挫折と転回を含んだ実存に基づく存在の探求という態度の中に、ハイデッガー哲学の根本的特質も潜んでいるのである。

2012年1月19日 (木)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32)

Ⅲ 時間と「存在の真理」

ハイデッガーは、古代及びそれ以後の形而上学の存在了解における最も内的な出来事として、ひそかに、時間に基づいて存在を企投するがあったのであり、少なくともこの事柄は、時間に基づいて存在を思索するという、その時間という地平の重要性を事実既に証示しているであろう、と言っている。ここにあるような事例が、事実的には、存在を時間の地平から考察するという方向指示を、ハイデッガーに与えたと見ることができる。だからこそ、ハイデッガーは、改めて存在への問いの超越論的地平としての時間を、『存在と時間』という提題の下に考察し始めたのだと言えるだろう。事実、彼は時間性というものに到達した。ハイデッガーは、『存在と時間』における「存在」とは「時間」が存在の真理の前名として名指されている限りでは時間以外の何物でもない。存在の真理とは、存在の本質的なものも、かくして存在のそのものであるところのものである。と言っている。この言によれば、存在と時間は同じものであり、その意味で、存在は時間として解明され終えたかに見える。

時間が存在の真理への前名であり呼び名であるのは、通常考えられる時間の諸規定によってではなく、時間が「存在者の変化継起に即して経験されるものではない」「まったく別の本質のもの」、「形而上学の時間概念では」「決して思考され得ぬ」、通常の概念を超えた、存在者の次元に属さぬ、その特異な性格によってであることは、明らかであろう。時間は、通常その所謂時間という性格の故に、存在への前名であるのではなく、それが存在者の次元では経験されぬ、存在そのものに帰属する特異なその性格によって、存在への前名なのである。そうだとすれば、前名としての時間によってそんざいそのものへと到ろうとすることは、実は、広く存在者をあらしめている、存在者ではない、根底の存在そのものの真理を、まさしくその真理性において、徹底的に思考しぬくということと同じであって、そのときにはもはや通常の時間概念などは、存在解明の地平としての特別の意味を持たなくなってしまうであろう。もしも時間が存在の真理であるのならば、時間はもはや存在の真理の前名などではなく、端的に、それは、存在の真理の本名であることになる。仮にそうであったとしても、そうした時間とは、「形而上学の時間概念」とは「全く別の本質」を具えた、存在そのものの真理ということと同じである。単なる時間という名称では、この場合どうにもならない。いずれにしても時間は、存在の真理への「前」名であり、しかも存在の真理への前「名」なのである。しかしこのような前名としての時間から存在の真理を考えるということは、存在の真理を、存在者的でない時間から考えるということである。この際重要なのは、存在者的ではないということであって、単なる時間という名称は問題にならないと思われる。即ち時間という前名から存在の真理を考えるとは、存在の真理をまさしくその真理性において、つまり存在者的ではないものとして、かんがえるという、まさにそれだけの意味に他ならないのである。その意味で、時間という概念による存在への問い、存在への真理そのものの中に止揚され、『存在と時間』以来の時間を通しての存在への追究は、今や、存在の真理そのものをそのものとして問う存在の思索へと、発展的に解消して行っていると見なければならない。単なる、通常の、存在者に囚われた時間の概念を以ってしては、もはや問題は、切り拓かれ得ないのである。それ故、問題は、形而上学の概念では捉えられない時間の真相、もしくは存在の真理が如何なるものか、ということにあるわけで、このようにしてハイデッガーは、『存在と時間』以後、この存在の思索を更に突き進めて行ったと思われる。

2012年1月17日 (火)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(31)

Ⅱ テンポラリテート未完の理由

元来ハイデッガーの存在への追究は、取敢えず現存在の存在構造とその存在意味を分析して、存在へと問い出ることのできる、一つの地平を自覚化して見せるということにあり、その方法が、現存在の自己了解を通して、匿れたその地平を、現存在に即しつつ顕わにして来るという解釈的現象学の方法であったことは、既に見た。その際、ハイデッガーは、そのようにして顕わにされた地平を学的に分析し、客観的に定型化して、概念化してみせようとしている。しかもそのやり方は、あくまで現存在の自己了解からその存在構造と意味の概念化を行い、それを顕わにしつつ、更には存在へとそれを拡大し押し拡げようとする方向を採るものであり、どこまでも現存在から存在へという人間中心的態度に根を置くものであった。こうした追究の性格を端的に示すのが、存在の「意味」を解明するという、その「意味」という言葉であること、言ってみれば、存在そのものの解明を、人間の側から企投して行くとき、その企投的了解の根底に潜んでいる根拠を明らかにし、それによって存在了解の構図を画こうということ、それが、存在そのものの意味を問うことに他ならない。ハイデッガーは、現存在の存在意味としての時間性に基づいて、「存在一般の脱自的企投」をテンポラリーの地平において試みようとしたと言っていいであろう。だがしかし、かかる方向は果たしてそのまま完成され得るのか。そうだはない。

すなわち、例えば、時間の地平は、現存在という存在者の存在了解の意味としては、時間性という形で定型化され得る。ここでは人間が己の自己了解を通して、それを捉えることができるのであるから。しかし、その時間性に基づいて、存在そのもののテンポラリーを学的現象学の枠内で解き明かすことは、本来、転回が潜む以上、採り得ぬ態度と言わねばならない。むしろ存在の意味は、それを人間が投げ込んで得られるのではなく、人間がそうした人間中心的な意味の投げ込みを排して、時間性の只中に入って存在の現われに開かれてあるとき、開示されて来るものと言わなければならない。我々は、究極の存在そのものの意味を主観の側から投げ入れたところで、出てくるものは人間的存在の意味であって、存在そのものではあり得ず、存在そのものは、現存在の底にないしはそれを超えてあるものであり、それは、現存在の中に、逆に時間性を通して啓示されてくるものだと言わねばならない。故に、「存在の意味」という如き人間の側からする存在への企投の根拠、人間の投げ込む意味規定によってでなく、むしろ存在は、存在の側からの啓示に開かれて立つときにのみ示される「存在の真理」でなければなるまい。従って、時間という地平から、これを概念的に押し拡げて、学的探求の枠内で、存在そのもののテンポラールな意味規定を与えることは、存在への問いの底に転回があるべき以上、本来、正しい唯一の道ではあり得ないのである。そのようにして達し得られるのは、あくまでも人間的意味付けの中に取り込まれた限りでの存在であり、存在そのものの意味、真理、ではない。ハイデッガーは本来、この存在そのものの真理を開示しようとしていた。とすれば、それに対しては人間的投げ入れの意味規定を排して、ただ存在の啓示を「待つ」ことのみが必要であろう。だからこそ、遂に『存在と時間』は、その時間の地平によって、連続的に、存在論の体系として書かれ得なかったのである。

それならば、時間の地平は全く無駄であったのかというと、そうではない。それは、現存在の存在意味を時間性として取り出したというその点に、そしてその限りで、大きな意義を担っているのである。人間存在が、時間性の「既往し原成化する到来」という有限的歴史的な存在をもつものだということ、まさしくそれを取り出したところに、その意義がある。そしてその地平の中に立ち、そこから存在の啓示を待つというところに、『存在と時間』の書かれなかった背後で起こった事柄がある。啓示を待つということは、もはや、時間の地平を押し拡げて存在の意味を概念的に分析することではない。それは、時間性の地平の只中に立って、存在へと問い、それを見守ることであり、存在の現われを待ち、それに開かれてあること、である。そこに、後期の存在史的思索や試作的思索が成立する。だから、その意味で、存在を問う地平は、まさしく時間性のみであって、それ以外の何かの時間がテンポラリテートだと言っている。有限な死を控えた、現存在の時間性の世界、その中に立つこと、それが存在了解の可能性の究極の条件である限り、こうした時間性が、存在の啓示されて来る場所なのである。

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(30)

3.時間の問題

『存在と時間』未完の理由は、第一に、この著作の主題設定の底に潜む循環構造から。第二に現象学的な実存分析というその方法的態度から、で、これまでに明らかにしてきた。しかして第三に、最後に、この二つのことから結果するところの、時間の問題を取り上げなければならい。

Ⅰ テンポラリテートの未完

『存在と時間』におけるハイデッガーの目標が、存在一般の意味を解明するための地平を切り拓くひとにあったことは、彼自身が述べる述べもし、我々も繰り返し触れてきたところである。この存在を解明するための地平が即ち現存在の存在意味としての「時間性」であり、この「時間性に基づいて、存在了解の地平としての時間が、根源的に解明」されなければならないのであった。つまり、現存在の存在意味としての時間性を時間性を取出すことで、「存在一般の意味への指導的問いへの答えが、既にもう与えられたというのではない。とはいえ、この答えを得る地盤は用意されてはいる」のであり、ここからさらに、「脱自的な時間性そのものの根源的な時熟の様相が、存在一般の脱自的企投を可能ならしめるものでなければならない」。従って、時間性から更に時間そのものへ、そしてその「時間に基づいての、存在及びその性格、様相の根源的意味規定」、即ち「存在のテンポラールな規定」がなされねばならず、「存在のテンポラリテート」の展開によって、真に「存在の意味への問いの具体的解凍が与えられる」はずなのであった。しかるに、このことを詳論すべき個所は遂に書かれず、だからこそ『存在と時間』という著作は、その存在と時間を真に相聯関するものとして展開と終わらず。未完に終わったのである。ただ、ハイデッガーは、現存在の存在意味を時間性として明らかにすることは、確かに試みた。その意味でのみ、存在と時間は相関係し合っている。しかし究極の目標とした、存在そのものと時間との関係は、遂に未完のままに放置されたのである。

このように、『存在と時間』は、存在のテンポラリテートの解明を究極の目的にしつつも、それを当初の形の通りにはついに試みず、それどころか、それの連続的展開を、はっきり断念するに到っている。このことは、時間という通路を通しての存在の解明の途に、或る種の挫折があったということにほかならない。否、時間の地平による存在の学的捕捉の試図に、或る不適切さが認められるに到ったということが、推定され得るということに他ならない。

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