轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(9)~第7章 戦後の思索
第2次世界大戦後、ハイデガーはナチス崩壊とともに悪が消滅し、健全な秩序が取り戻されたとする前後社会の公式な見解に与しなかった。彼は、「主体性」に内在する破壊性のうちに現代の悪の本質を見て取っていた。その観点からは、戦後も、以前と同様に悪の支配は依然として続いている。彼は過ちを悔い改めるという仕方で戦後社会に恭順の意を示すことを拒否したのだった。こうした始まったハイデガーの戦後社会との対決は、1950年代になると技術への問いという形でなされるようになっていった。
1.ハイデガーの「非ナチ化」
2.「悪」についての省察
ハイデガーはナチス崩壊後の戦後社会において、彼がナチスの本質とみなしていた「主体性の形而上学」はそのまま損ザクしていると考えていた。そうである以上、西洋形而上学に対する批判という自身のスタイルを変える必要を全く感じていなかった。ハイデガーは戦争が終わる直前から悪の本質とは何なのかという考察を始めていた。
彼は1945年の文章で、「大地の『荒廃化』とそれに伴う人間本質の破壊は何らかの意味で悪そのものだ」と述べている。ここで語られている「荒廃化」とは、作為性によってもたらされた「存在の立ち去り」そのものを意味する。「作為性」が支配するところでは、存在者がおのれ固有の「存在」に即して存在することが徹底的に阻害され、何ものも自然に生い育つことがない。荒廃とは、このような事態を指している。それは「主体性」による支配ともいえる。「主体性」はあらゆる存在者を、おのれの力を増進するために利用しようとする。このように存在者をもっぱら利用の対象とすることによる「存在」の隠蔽、破壊こそがハイデガーによれば悪の本質なのだ。この立場からすれば、戦争の終結を新たな出発点として祝福するという態度自体が、以前と変わることなくこの世界を規定している「荒廃化」という本質的事態を隠蔽し、そのことによってむしろ「荒廃化」を助長するとみなされることになる。
3.「技術への問い」
「主体性の形而上学」への批判という形で為されたナチズムとの対決は、そのまま戦後体制との対決へと引き継がれた。ただし、戦後の体制は、技術の進歩による生活水準の絶えざる向上を約束することにより、「主体性」の暴力性を巧妙に覆い隠し、その支配を伸長させるという特徴をもっていた。このような戦後社会との対決を「技術への問い」として遂行したのだった。
「技術」とは、存在者を「作為可能性」、「計算可能性」において捉えることだという。1945年の『技術への問い』において、ハイデガーは「技術」という概念を開示することの一つの様式であるという。その開示のあり方を三つの観点から述べている。
①無理強いとしての技術的開示
近代技術のうちで支配的な開示は自然に向かって、採掘して貯蔵できるようなエネルギーを提供せよと要求する無理強いであるという。エネルギーを出せと自然に挑みかかり無理強いするという意味合いだ。この無理強いは、自然のうちに隠されているエネルギーが開発され、開発されたものが変形され、変形されたものが蓄積され、蓄積されたものが再び分配され、分配されたものが新たに転換されるという仕方で起こる。この全体として生起するのか技術的開示というわけだ。このような開示は放っておいても自然に経過するものではなく、常に制御されていなければならない。そして、この制御は保全されていなければならない。
②技術的対象としての「資材」
技術的開示という無理強いして立てることによって成り立っている事物は、その場で持ち場に立つことを求められている。このように持ち場に立つことは、何か注文があったときに、その注文に応じられるようにするためである。この場合、存在者は技術的開示に対して、つねに何かの役に立つものとして現われる。このような仕方で現れている事物を「資材」と呼ぶ。例えば、ライン川の水力発電について水力発電のための水を供給するライン川は発電のための水力を提供しろとの注文を受け、つまり水力を供給できるかぎりおいて意味あるものと認められる。ライン川は水力を供給できなければ、もはや何ものでもない。
③技術の本質としての「駆り立て-組織」
これまで見てきたのは、技術的開示がエネルギーを提供するようにと自然に無理強いするという性格を持つこと、さらにこの無理強いすることに対して、存在者はその注文に常に対応可能な資材という仕方で現れているということだった。こうした開示において人間は、一見、技術的開示を意のままにコントロールしているように見えるがそうではない。人間は事物の技術的な開示を担うように無理強いされ、そうするように注文されているのである。技術的開示は人間を招集する。無理強いとしての技術的開示は注文することへと人間を招集する。そしてこの無理強いという招集するものは人間を現実的なものを資材として注文することへと没頭させる。この招集する、無理強いする要請を「駆り立て-組織」と呼んでいる。例えば、電力供給システムは人間を必要とし、人間がいなければシステムが成り立たない。
そこで駆り立てられる人間は、そもそも電気というものが存在すること、それがどのような性格を持つのかを知らなければならない。様々な教育機関が電気について熟知した人材を育成し、電力業界へと供給する。人々はそこで電気の開示を学ぶ。これは自然がエネルギーを供給するために開発されるのと同様、開発を担えるように開発されているのだ。
ハイデガーは人間が「駆り立て-組織」という意味での技術の主人ではないことを強調する。そこでは、人間はただひたすらおのれの強大化を目指す力の奴隷でしかないと言う。このような点から、技術論は「主体性」についての批判的考察を継承するものである。そこでは近代技術は「主体性」、「作為性」に基づくものとされ、「主体性」は。それが個人を超えた集団的なものであり、こじんはそれによって動員され、画一化されていくしかない。その上、「駆り立て-組織」となると、技術が多角的な開示からなる組織的構造であることを明確にしている。つまり、「駆り立て-組織」は、人間を含むあらゆる存在者を取り集めながら、それ固有の論理によって作動する。技術の非人称的な性格、すなわち人間個々人の意図を超えた技術の超越性をはっきり示している。
ハイデガーは1960年代、情報化という展開に注目する。例えばサイバネテッィクスは動物と機械における制御とコミュニケーションを扱う。そこでは、すべてのものをあらかじめ計算可能なものとする「世界企投」として特徴づけられる。つまり、あらゆるものが計算可能なものと前提することで、世界は人間にとって制御可能なものとなる。すべてを計算可能とすることは、そのことによってすべてのものに利用可能なものというあり方を押しつけ、それ以外のあり方を認めない。この当然の帰結として人間にも適用される。
4.「放下」の思索
ハイデガーは技術の本質を「駆り立て-組織」と規定した。そこで、われわれ人間は「駆り立て-組織」の要求になすすべもなく従うしかないのだろうか。彼は、1955年の『放下』という講演で、技術時代において単に「技術」に追随するのではない、「技術」に対するしかるべき態度を「放下」として主題化している。そこでは、まず、今日の状態は、技術的な装置や機械がわれわれにとって不可欠となっているので、ただやみくもに否定したり拒否することは愚かなことだという。そこで、技術の否定でも、全面的な追従でもない第三の可能性を提示する。それは、技術的世界に対して同時に肯定も否定もするという、中途半端に態度をとることだが、それを「放下」と呼ぶ。そのためには、ある事物について技術的な開示とは異なるより根源的な開示の可能性を知ることで、技術的な関わり以外の道があるということで相対的な距離を置くことができる。「駆り立て-組織」による無理強いの避けがたさを冷静に見極め、必要な時には無理強いを拒むという自由を得ることができる。それが技術的世界に対して同時に肯定も否定もできるということだ。
「駆り立て-組織」は人間に対して事物を資材として開示することを無理強いする。これに対して「放下」は、この「駆り立て-組織」の求める技術的開示が単に事物の開示のひとつでしかないこと、かもその開示は事物の真の「存在」を覆い隠すものであると認識し、技術的開示の絶対視を避ける態度のことである。「放下」において、事物を資材として開示することの絶対視から脱却すると、資材とは全く異なるものの真の姿が開かれる。そこで現れる真の姿について、「四方界」の四社との関係においてはじてものとして意味を獲得する。以前の言い方では「世界」、つまり、ものは「世界」との関係においてものである、ということ。
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