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ハイデッガー関係

2023年10月 9日 (月)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(9)~第7章 戦後の思索

 第2次世界大戦後、ハイデガーはナチス崩壊とともに悪が消滅し、健全な秩序が取り戻されたとする前後社会の公式な見解に与しなかった。彼は、「主体性」に内在する破壊性のうちに現代の悪の本質を見て取っていた。その観点からは、戦後も、以前と同様に悪の支配は依然として続いている。彼は過ちを悔い改めるという仕方で戦後社会に恭順の意を示すことを拒否したのだった。こうした始まったハイデガーの戦後社会との対決は、1950年代になると技術への問いという形でなされるようになっていった。
1.ハイデガーの「非ナチ化」
2.「悪」についての省察
 ハイデガーはナチス崩壊後の戦後社会において、彼がナチスの本質とみなしていた「主体性の形而上学」はそのまま損ザクしていると考えていた。そうである以上、西洋形而上学に対する批判という自身のスタイルを変える必要を全く感じていなかった。ハイデガーは戦争が終わる直前から悪の本質とは何なのかという考察を始めていた。
 彼は1945年の文章で、「大地の『荒廃化』とそれに伴う人間本質の破壊は何らかの意味で悪そのものだ」と述べている。ここで語られている「荒廃化」とは、作為性によってもたらされた「存在の立ち去り」そのものを意味する。「作為性」が支配するところでは、存在者がおのれ固有の「存在」に即して存在することが徹底的に阻害され、何ものも自然に生い育つことがない。荒廃とは、このような事態を指している。それは「主体性」による支配ともいえる。「主体性」はあらゆる存在者を、おのれの力を増進するために利用しようとする。このように存在者をもっぱら利用の対象とすることによる「存在」の隠蔽、破壊こそがハイデガーによれば悪の本質なのだ。この立場からすれば、戦争の終結を新たな出発点として祝福するという態度自体が、以前と変わることなくこの世界を規定している「荒廃化」という本質的事態を隠蔽し、そのことによってむしろ「荒廃化」を助長するとみなされることになる。
3.「技術への問い」
 「主体性の形而上学」への批判という形で為されたナチズムとの対決は、そのまま戦後体制との対決へと引き継がれた。ただし、戦後の体制は、技術の進歩による生活水準の絶えざる向上を約束することにより、「主体性」の暴力性を巧妙に覆い隠し、その支配を伸長させるという特徴をもっていた。このような戦後社会との対決を「技術への問い」として遂行したのだった。
 「技術」とは、存在者を「作為可能性」、「計算可能性」において捉えることだという。1945年の『技術への問い』において、ハイデガーは「技術」という概念を開示することの一つの様式であるという。その開示のあり方を三つの観点から述べている。
①無理強いとしての技術的開示
 近代技術のうちで支配的な開示は自然に向かって、採掘して貯蔵できるようなエネルギーを提供せよと要求する無理強いであるという。エネルギーを出せと自然に挑みかかり無理強いするという意味合いだ。この無理強いは、自然のうちに隠されているエネルギーが開発され、開発されたものが変形され、変形されたものが蓄積され、蓄積されたものが再び分配され、分配されたものが新たに転換されるという仕方で起こる。この全体として生起するのか技術的開示というわけだ。このような開示は放っておいても自然に経過するものではなく、常に制御されていなければならない。そして、この制御は保全されていなければならない。
②技術的対象としての「資材」
 技術的開示という無理強いして立てることによって成り立っている事物は、その場で持ち場に立つことを求められている。このように持ち場に立つことは、何か注文があったときに、その注文に応じられるようにするためである。この場合、存在者は技術的開示に対して、つねに何かの役に立つものとして現われる。このような仕方で現れている事物を「資材」と呼ぶ。例えば、ライン川の水力発電について水力発電のための水を供給するライン川は発電のための水力を提供しろとの注文を受け、つまり水力を供給できるかぎりおいて意味あるものと認められる。ライン川は水力を供給できなければ、もはや何ものでもない。
③技術の本質としての「駆り立て-組織」
 これまで見てきたのは、技術的開示がエネルギーを提供するようにと自然に無理強いするという性格を持つこと、さらにこの無理強いすることに対して、存在者はその注文に常に対応可能な資材という仕方で現れているということだった。こうした開示において人間は、一見、技術的開示を意のままにコントロールしているように見えるがそうではない。人間は事物の技術的な開示を担うように無理強いされ、そうするように注文されているのである。技術的開示は人間を招集する。無理強いとしての技術的開示は注文することへと人間を招集する。そしてこの無理強いという招集するものは人間を現実的なものを資材として注文することへと没頭させる。この招集する、無理強いする要請を「駆り立て-組織」と呼んでいる。例えば、電力供給システムは人間を必要とし、人間がいなければシステムが成り立たない。
 そこで駆り立てられる人間は、そもそも電気というものが存在すること、それがどのような性格を持つのかを知らなければならない。様々な教育機関が電気について熟知した人材を育成し、電力業界へと供給する。人々はそこで電気の開示を学ぶ。これは自然がエネルギーを供給するために開発されるのと同様、開発を担えるように開発されているのだ。
 ハイデガーは人間が「駆り立て-組織」という意味での技術の主人ではないことを強調する。そこでは、人間はただひたすらおのれの強大化を目指す力の奴隷でしかないと言う。このような点から、技術論は「主体性」についての批判的考察を継承するものである。そこでは近代技術は「主体性」、「作為性」に基づくものとされ、「主体性」は。それが個人を超えた集団的なものであり、こじんはそれによって動員され、画一化されていくしかない。その上、「駆り立て-組織」となると、技術が多角的な開示からなる組織的構造であることを明確にしている。つまり、「駆り立て-組織」は、人間を含むあらゆる存在者を取り集めながら、それ固有の論理によって作動する。技術の非人称的な性格、すなわち人間個々人の意図を超えた技術の超越性をはっきり示している。
 ハイデガーは1960年代、情報化という展開に注目する。例えばサイバネテッィクスは動物と機械における制御とコミュニケーションを扱う。そこでは、すべてのものをあらかじめ計算可能なものとする「世界企投」として特徴づけられる。つまり、あらゆるものが計算可能なものと前提することで、世界は人間にとって制御可能なものとなる。すべてを計算可能とすることは、そのことによってすべてのものに利用可能なものというあり方を押しつけ、それ以外のあり方を認めない。この当然の帰結として人間にも適用される。
4.「放下」の思索
 ハイデガーは技術の本質を「駆り立て-組織」と規定した。そこで、われわれ人間は「駆り立て-組織」の要求になすすべもなく従うしかないのだろうか。彼は、1955年の『放下』という講演で、技術時代において単に「技術」に追随するのではない、「技術」に対するしかるべき態度を「放下」として主題化している。そこでは、まず、今日の状態は、技術的な装置や機械がわれわれにとって不可欠となっているので、ただやみくもに否定したり拒否することは愚かなことだという。そこで、技術の否定でも、全面的な追従でもない第三の可能性を提示する。それは、技術的世界に対して同時に肯定も否定もするという、中途半端に態度をとることだが、それを「放下」と呼ぶ。そのためには、ある事物について技術的な開示とは異なるより根源的な開示の可能性を知ることで、技術的な関わり以外の道があるということで相対的な距離を置くことができる。「駆り立て-組織」による無理強いの避けがたさを冷静に見極め、必要な時には無理強いを拒むという自由を得ることができる。それが技術的世界に対して同時に肯定も否定もできるということだ。
 「駆り立て-組織」は人間に対して事物を資材として開示することを無理強いする。これに対して「放下」は、この「駆り立て-組織」の求める技術的開示が単に事物の開示のひとつでしかないこと、かもその開示は事物の真の「存在」を覆い隠すものであると認識し、技術的開示の絶対視を避ける態度のことである。「放下」において、事物を資材として開示することの絶対視から脱却すると、資材とは全く異なるものの真の姿が開かれる。そこで現れる真の姿について、「四方界」の四社との関係においてはじてものとして意味を獲得する。以前の言い方では「世界」、つまり、ものは「世界」との関係においてものである、ということ。

 

2023年10月 7日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(8)~第6章 ナチズムとの対決

 ハイデガーの「存在への問い」はそれ自身がフォルクの根拠の探求としてなされたものだった。つまり「存在」とは、ハイデガーの思索においては、あるフォルクをそのフォルクたらしめるものと解される。そして、フォルクの基礎付けは政治的含意がある。後期思想の「性起」としての「存在」が、フォルクを基礎づける「時-空間」という性格をもつということに加えて、主体性の形而上学の考察という形で近代国家の本質への批判が行われるのだ。
 ハイデガーの西洋形而上学の完成形態を近代の主体性の形而上学のうちに見て取り、これを近代国家の本質を成すものとみなす。そうすると、「存在の歴史」の思索としてなされる西洋形而上学批判は、近代国家の暴力性、破壊性を視野に入れ、その本質と起源を問うものであった。
1.近代国家としての「主体性」
 ハイデガーは「主体性」を近代の本質を規定するものと捉えている。近代を端的に主体性が支配的となった時代と規定するのである。その本質として次の2点を挙げている。人間が主体として存在者全体の中心におのれを位置づけ確保すること、そして、存在者全体の存在者性が制作可能で説明可能なものが表象されている状態と捉えることの2点だ。この時人間は存在者全体に対する完全な主権を確立する。
 たとえば、われわれは今日、あらゆる物事を役に立つか立たないかの観点から捉えることが習い性になっている。そこではすべての物事に関して、それが今日の経済社会における需給の連関に位置づけられるかどうかだけが問題とされ、その連関の中に位置付けられるものは役に立つものとして存在を認められ、位置づけられないものは役に立たないとして無存在を否認される。このような仕方で物事を捉えているとき、われわれは自分たちにとっての有用性という尺度を存在者に押しつけている。そしてそのことによって、我々は存在者の支配を確立する。つまりは主体となるのである。このような尺度(役に立つ、立たない)の付与について、これは真の尺度ではなく、真の尺度たる「存在」を隠蔽し、破壊するものであるという。このような主体が尺度を与える唯一の存在として支配するのが近代の本質であると、ハイデガーは言う。ここで注意すべきは、主体は、必ずしも個人や「私」だけを指すのではないということ。人間はおのれを、何らかの仕方で自律した人間集団として捉えるときも主体である。主体は、国民、フォルク、人種などとして捉えることもできる。むしろ。個人としてより集団としてこそ、本来的な意味での主体である。というのも、そのとき人間はあらゆるものすべて、作られ、生み出され、耐え抜かれ、勝ち取られるものすべてを自分自身に立脚させ、自分の支配のうちに取り込むという軌道に乗るからである。
2.ハイデガーの「コミュニズム」批判
 「主体性」は際限のない膨張を求める力として特徴づけられる。これは「主体性」が世界の支配と利用をどこまでも追求する存在である。力のもっとも基本的な性格として、それはつねにおのれの強大化を目指し、それ以外にはいかなる目標ももたない。それが、ある目標に到達したからといって、それが停止することは原理上ありえない。また自分以外の「主体」も自身と同じ性格をもつ力である以上、すでに到達した状態を維持するためにも、つねに自身の強大化をはからなければならない。つまり、力はつねに力であり続けなければならないものなのだ。
 ハイデガーはナショナリズムという現象を、「主体性」の帰結と捉える。そして、「主体性」の自己主張のための国民の動員が社会主義として運行されると言う。この場合の社会主義は国民社会主義すなわちナチスを暗に含んでいる。
 「主体性」の本質がおのれ自身の強大化を目指してやまない力にあることから、そのことが「主体性」相互の争いとして戦争が常態化する。すなわち、「主体性」がどこまでもおのれの力の拡張を目指すと、同じ性格をもつ他の主体はおのれの力の拡張を妨げるものとして障害となる。この主体どうしが争い合うことになるわけだ。この場合の戦争は、それ以前の戦争とは様相がことなる。力を確保するための戦争はどこかで停止したり、収束したりするものではない。そのため、つねに戦争状態が続くことになる。一見平和に見えても、戦争状態は続いているのである。
 「主体性」は力の拡張以外の目標を一切認めず、例えば、自由、道徳性、正義といったものが目標として掲げられたとしても、力の拡張に役だつかどうかの観点で選ばれたものでしかない。この力は、おのれの容赦ない拡張のために、いかなる措置も躊躇うことなく遂行できる献身的な人材を必要とする。そのとき力が利用するのは、もっともらしい大義や理念である。これに準じる人々はいかなる暴力行為も辞さない者となる。それが結局は力への無条件の全権委任ということになる。その典型がナチズムでありコミュニズムといった権威主義的国家であるという。
ハイデガーは、また、これに対して議会制国家は分権的であって暴力しようとは無縁であるから道徳的であるというのは皮相な考えだという。政治体制のこうした評価の仕方そのものが勢力拡張において有利な位置を占めるためのプロパティにすぎないという。
 今日、いかなる政治体制をとる国々においても、もっとも中心的な政治目標が経済成長に置かれ、その実現の正当性を保証するものと受け止められている。国家の経済規模が国力の指標である以上、経済成長を目標とするのは結局のところ、おのれの力の増進を目指すことでしかない。したがって、すべての国家が経済成長を至上の目標とすることのうちには、おのれの力の拡張をどこまでも追求する現代国家の同一性が表われている。しかもそこにおいて、単なる経済の絶対的な規模の大きさだけでなく、何よりも経済成長が重視されていることのうちに、ただおのれの伸長むのみを目指すという力の本質が如実に反映されているのである。

 

2023年10月 6日 (金)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(7)~第5章 後期の思索

 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、「存在」を「存在者全体」の生起と捉え直し、この「存在者全体」についての知を「形而上学」と呼んだ。そしてこの「存在者全体」は、実質的にフォルクの共同体を意味していた。その後、1936年になると、ハイデガーは自分の思索の表現を大きく変化させる。「存在の真理」とか「性起」といった後期の思索を特徴づける用語が現われ始めるのである。一般に極度に難解とされる後期思想は、この時期以降のものだ。
 ここではまず、「性起」に代表されるハイデガーの後期思想に特徴的な言い回しに注目し、そのような述語を導入することの意義を明らかにする。それらの語彙は基本的には、それまで「存在」や「存在者全体」と呼ばれてきた事象に含まれていながらも、それらの言葉によっては的確に表現できていなかった諸契機を明示する。このことは、このような言葉を用いるようになった後期において、「存在」に含まれる諸契機がより明確に自覚されるようになったことを示している。
 後期の思索では、「存在」の意味が余すところなく明らかにされると同時に、それまで「存在忘却」として特徴づけられてきた西洋の伝統的哲学の思考様式が、存在の歴史として一定の時代区分に沿って、より具体的かつ明確に捉えられるようになる。
1.「性起」の思索
 後期の思索において、ハイデガーは自身の立場を形而上学と呼ぶことはなくなる。形而上学は、古代ギリシャ哲学以来の「存在忘却」を本質とする西洋の知の伝統に対する呼称として、克服すべきものと位置づけられるようになったからである。また、中期で多用された「存在者全体」という語も用いられなくなり、その代わりに「存在の真理」が基本となっていく。「存在者全体」というと、我々はどうしても存在者の集まりをイメージしてしまい、存在の生起に含まれる出来事性や運動性が噴け落ちてしまう。しかも、存在者の集まりというイメージの集まりは人間とは切り離され、人間の前に立てられた対象として捉えられている。ハイデガーはこのような捉え方を避けるため、「存在者全体」は人間を圧倒し巻き込むものであり、さらには人間自身の営みが「存在者全体」に包含されていることを強調したのだった。そうしないと人間を含まない静止したものと捉えられてしまう危険を拭えなかった。「存在者全体」という言い方には、そのような問題点があったのだった。
 『存在と時間』刊行後、ハイデガーはそこで論じられなかった「存在の意味」を論じようとしたが、その際に、主観の前に立てられた対象というようなものではない「存在」をいかにして表現するかに悩んだ。そもそも西洋の伝統的な学問は、基本的に対象について何かを語るというものだ。したがって、「存在」を語るには、そういった伝統的な学問の姿勢を放棄するところから始めることになる。「存在」を「存在者全体」の生起として捉えることが、「存在」が対象的なものではなく、我々を取り巻く「世界」そのものであることを明示するという意図を持っていた。しかし、ほとんどの読者は「存在者全体」がそれまで「存在」と呼んでいた事象を言い表わすものであることみ把握できない。そのため、「存在者全体」も対象化して捉えられてしまうことになってしまった。そこで、ハイデガーは「存在」の語り口を改める。1936年の『哲学への寄与論稿』で、端的に「存在は性起として生起する」という言い方をしている。「性起」という語には何ものかがおのれ固有のものへと立ち返る出来事、おのれ自身になる出来事というニュアンスが込められている。ハイデガーが「性起」という語を用いた理由を著者は、次のように考える。
①「存在」は将来、現在、過去へのひろがりとして生起する。ハイデガーは「存在」がこのような時間のひろがりとして生起する事態を「性起」と呼んでいる。「存在」は時間として生起することにおいて「存在」である。また、「時間」は「存在」を形作ることにおいて「時間」である。両者はこのような仕方で相互に帰属し合っていて、このように相互に帰属し合うことによって、まさにそれぞれの「固有なもの」を実現する。「存在」と時間が共属しあいながら、一つの事象を形作っていること、このような事態を「性起」として捉える。
②「存在」の生起とは、ある固有の「時-空間」、すなわち「世界」が生起することだった。例えば鳥が飛んでいることは、とりがそのように飛ぶことが起こり得る「世界」の生起を伴っている。したがって、鳥が飛ぶという事態に立ち会っている現存在も、同時にそのようなことが起こりうる「世界」の内にいることになる。『存在と時間』で述べられていた「世界-内-存在」として、現存在が生起してということだ。このように「性起」には、「存在」の生起によって現存在が現存在として生起すること、そのようにして現存在がおのれ固有のものを獲得するという事態も含まれている。そこで、ハイデガーは、「存在」を「性起」と呼ぶことによって、「存在」と現存在との一体的な性器を表現しようとした。
③「性起」という語には、そこにおいてそれぞれがおのれ固有のものを獲得するというニュアンスが込められている。ハイデガーは「性起」によって性起させられるもの、言い換えると、「性起」によってまさにそれ自身となるものとして、神、人間、世界、大地の四つをあげている。「性起」とは、これらの四つのものがそれぞれおのれ固有のものを獲得し、それ自身として現出するという出来事を意味している。「性起」によって性起させられる神、人間、世界、大地の四つの契機は本質的な連関を形作りながら「存在」の生起を構成する。
このように「存在」を「性起」と呼ぶことによって、これまではうまく言い表わせなかった「存在」に含まれる諸々の契機を明示化することができた。「性起」という語の使用は、「存在」という事象を語るにふさわしい言葉を見出そうとする『存在と時間』以来の一貫した努力の延長線上に位置づけられる。
2.「存在の歴史」
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、そこで果たされなかった「存在の意味」の解明に着手した。この「存在の意味」は中期になると「存在者全体」として主題化され、後期には「性起」として捉えられるに到った。しかし、『存在と時間』で果たせなかったのはそれだけではなかった。ハイデガーの「存在への問い」には、「存在」という事象を直接、解明するという側面と共に、「存在」を隠蔽し、その生起を妨げている伝統的な思考様式の特質を明らかにするという目的があった。彼によると伝統的な存在論の基本的方向性は古代ギリシャのプラトン、アリストテレスによって定められた。そこでは、根源的な存在としての「ピュシス」が隠蔽され、以後、西洋哲学の存在論では真の「存在」は問題とされなくなった。それがハイデガーの描く存在論の歴史である。1936年以降、彼は古代ギリシャ以来の西洋哲学の存在忘却的な知を「形而上学」呼ぶようになる。形而上学の位置づけは中期とは180度の転換ということになる。
 このような批判の対象である形而上学で問題とされてきた存在を「存在者性」と呼んで、ハイデガーの言う「存在」とは区別する。この「存在者性」は二重の仕方で表象されてきた。まず「存在者性」は存在者を存在者たらしめている一般的なもの、共通的なものと理解されてきた。それがエッセンティアすなわち本質と呼ばれる。これとは別に何かが現に存在するエクステンティアが形而上学の「存在者性」という二重性だ。形而上学はこのエクステンティアの本質の根拠を探求し、最高原因として「神的なもの」に辿り着く。形而上学は、二重の「存在者性」つまり存在論と神学におけるが相互に依存しながら形成裂けた統一と言える。神学が、ある存在者の現実存在の根拠を探求するとき、その存在論の本質は存在論で捉えられたものが前提とされている。逆に存在論において考察された存在者の本質は、それが現実に存在するかどうかについては、究極的に神学が表象する最高原因に依拠している。形而上学がこのように存在論と神学の相互連関により形成されているのは、存在者をエッセンティアとエクステンティアという二つの観点から捉えてきたからだ。この議論の本質について、ハイデガーは、この世界のすべてのものを、神を頂点とした因果連関の網目によって捉えることができるという、西洋的学問を根元で支えている合理性の基本構造を示すものだという。
 このように古代ギリシャ哲学の勃興以来、「存在の真理」はそれとして適切に基礎づけられることなく、存在はつねに「存在者性」として解されてきたと、ハイデガーは言う。ハイデガーはこのような形而上学全般を「存在」の不在として捉え直し、「存在の立ち去り」と呼ぶ。これは「存在忘却」と同じものと考えていい。この「存在の立ち去り」は形而上学において「存在者性」が存在者の根拠とみなされることと表裏一体と考えられる。「存在者性」が存在者の根拠であるということは、「存在者性」を把握すれば、存在者を掌握し支配できるということだ。「存在の立ち去り」により、存在者は人間による計画的な計算と操作的な支配に委ねられることになるからだ。このように、ハイデガーは「存在の立ち去り」による存在の歴史を作為性の支配と特徴づける。そして、近代の技術や文化は作為性の支配に基づいている。作為性とは作ることであり、それはたしかに人間の振舞ではある。しかし、この作ることが存在者を操作可能と解釈することに注意が必要で、あるものを操作可能と見なすことがなければ、それを作るという発想は生まれてこない。このように存在者が操作可能ということになれば、古代ギリシャの「ピュシス(自然)」の解釈も変質し、自分で自分を作ることと解釈され、そこに制作というニュアンスが入り込む。そこにユダヤ-キリスト教的な創造説の神以外のあらゆる存在者が神の被造物という考え方が入ってくると、すべてのものが作られたものだという信念が強化される。そこで、創造者がもっとも確実なものであり、あらゆる存在者は被造物として、確実な神を原因とした結果であると解されるようになる。こうして、存在者が存在するという尋常でない事柄が平凡で分かりやすいものへと押し込められてしまった。
3.後期の神論
 著者は、ハイデガーの初期から中期に至る思索を根源的な「神性」の探求と特徴づけていた。その探究の根底には、人間の意のままにならず、むしろ圧倒的なものとして人間がそれに従うほかないようなものが人間の生にとっては本質的であり、そのようなものこそが生にその本質的な意味を与えることができるという彼の直観が潜んでいた。後期の思想になると「存在」の生起の構造が詳細に分析されるようになり、そこで「存在」と「神性」の本質的な連関から、「神性」に深く立ち入ることになった。神、人間、存在という三者の関係について、あらかじめ神と人間という存在者があって、その間で存在が生起するということではなく、存在が生起することにより、神が神として、人間が人間として、はじめて生起すると言っている。
 ハイデガーは神々は存在を必要としていると言う。神々が存在する、ではなく、存在を必要とすると言っているのは、神々を対象的なものと捉えることを避けるためで、神々は直接的に人間に現われてくるようななにかではなく、あくまでも存在の圧倒性が神々として経験される。このようにそもそも存在の生起なくしては神々の経験あり得ないということから、神々は存在を必要としていると言い方になる。一方、人間については、人間は存在に属していると述べる。これは、人間が存在によって襲いかかられ、あるいはそれに委ねられており、そのことによって人間ははじめて人間となることを指している。
 たとえば、河川の存在を考えてみよう。河川は天から与えられた水を集め、流れている。河川はときには大雨で氾濫を起こし、またときには旱魃で細々とした流れになる。河川は人々がそこで作物を育てる田畑を潤している。河川はそこで魚を養い、その魚を人々や鳥獣が捕獲する。その流れる河川を人々は船を使って往来する。このように河川が示すさまざまな「存在」の様態、さらにはそれと密接に結び付いた風土、そのうちで「人間」はある固有の生活様式を築いてきた。人間に恵や災厄をもたらす河川の「存在」の威力が「神」として感謝され、また畏怖されてきた。
 このように「人間」と「神」は「存在」の生起において、それぞれの固有性を獲得する。これは、「存在」という出来事を介して「神々」と「人間」の区別と対話が成立し、そのことによって「神」と「人間」が、はじめてそれ自身となることを表わしている。このように「存在」、すなわち「性起」を媒介とした「神々」と「人間」との関係について、「生起」は「神」を「人間」に与える。というのも、「生起」の威力こそ、「神」の本質をなすものだからだ。これは、言い換えれば、「神」に対して、それを崇敬する「人間」が与えられるということである。このような関係において、「人間」はおのれの存続を確保するために、「生起」の圧倒する力としての「神」に逆らうことはできない。これは「人間」が「神」に唯々諾々と従うことを意味するのではなく、むしろ「神」から自分の望むものを獲得しようとする駆け引きという様相である。このような関係性をハイデガーは「応酬」と表現する。
 これに対して既存の宗教は、存在者から出発して、その存在者をすべてのものの原因である最高の存在者に結びつけるというもので、宗教それ自身が形而上学と同様の構造をもっていることになる。それで、ハイデガーは宗教を形而上学的なものとみなす。そのため、根源的な「神性」は覆い隠されてしまっている。ハイデガーは、「神」について真に思惟するためには、まず形而上学的な対象化的な思惟から脱却し、「存在」の生起をそれとして思惟することが必要だと説く。

 

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(6)~第3章 中期の思索

 ハイデガーは『存在と時間』を刊行して間もなく、現存在の分析を介して「存在」にアプローチするというやり方では、「存在」が主観による公正の産物、ないしは意識内部の出来事であるかのように誤解されることを懸念するようになった。それで、このやり方を放棄して、「存在」の生起を直接語ることを試みるようになっていく。このような「存在」そのものを直接的に示すための試行錯誤を経て、ハイデガーが主観性の哲学の影響から脱却し、「存在」という事象にふさわしい語り口を見出したという核心に到達したのは1936年になってからだとハイデガーは言う。これを画期として、それ以後を後期、そして『存在と時間』刊行後からそれまでを中期とわけるのが一般的になっている。著者も、その区分に従っている。
 この時期、ハイデガーは「存在」と呼んでいた事象を「存在者全体」として捉え直す。それによって、「存在」の生起が単なる意識の表象ではなく、むしろ現存在を取り巻く「世界」そのものの生起であることを強調して示そうとした。
一方、ハイデガーにとって「存在」という事象が明確になればなるほど、それについての語りが既存の学問知による語りとは異質の性格のものとなっていく。
1.「形而上学」の時代
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、そこでは正面から論じられなかった「存在」を「存在者全体」として主題化するようになる。
例えば、そこに「鳥がいる」というとき、それは鳥が「飛んでいる」とか「木にとまっている」という存在様態を伴って現われていることを意味している。しかもこのような存在様態は「餌を捕る」とか「巣で休む」といった、その鳥の存在様態と一定の規則性をもって連関している。またこのような様々な存在様態のうちには、「木」や「餌」や「巣」などといった他の無数の存在者との関係も同じように含まれている。すなわち鳥の「飛んでいること」という「存在」の生起のうちには、このような「飛んでいること」以外の鳥のさまざまな存在様態と結びついた存在者すべてとの関係性が孕まれている。この「存在者すべて」は任意のものではなく、ある種類の鳥が存在することと本質的に結びついている。すなわち、その鳥の「存在」が生起する「場」を形作っている。
 ハイデガーが「存在者全体」として捉えようとするのは、この例のように存在者が存在することの背景をなし、このような「存在」を可能にしている「場」そのものである。これは、「存在」の生起と共に開ける「時-空間」を指している。ということは、「存在者全体」は『存在と時間』と問い求められた「存在の意味」を明瞭に示したものと言える。「存在の意味」という言い方では、「存在」は意識の表象と同一視されてしまう。ハイデガーは「存在者全体」という言い方にすることによって、「存在」が意識内部の現象ではなく、またわれわれの側に立てられた対象でもなく、我々を取り巻く「世界」そのものの生起であることを示そうとした。
 著者は、『存在と時間』の後、ハイデガーが「存在者全体」の考察を展開したものとして、1928年夏学期講義『論理学の形而上学的な始元根拠─ライプニッツから市出発して』をあげる。ハイデガーは、ここで「存在者全体」を捉える知を「メタ存在論」と呼んでいる。このメタ存在論は『存在と時間』の基礎存在論を徹底するところから出発する。『存在と時間』で取り上げられた現存在の存在様態やそこに含まれる構造的契機はすべて「存在」との関係性を示すものであった。つまり、現存在の本質を捉えることは、「存在」そのものを捉えることになる。したがって、基礎存在論としての現存在の実存的分析は、それを徹底すると、たしかに「存在者全体」を主題とすることに行き着く。また、ハイデガーは「存在者全体」の考察を形而上学と呼んでいる。形而上学と呼ぶことにより、近代の主観性の哲学から明確に距離を置いて、「存在への問い」が石工的主題の内容を記述するものではなく、人間を取り巻く「世界」を主題としているのだということを鮮明にしたのだった。
 そして、次の1928年冬学期講義『哲学入門』で、「存在者全体」を主題とする学の説明が行われる。さまざまな種別をもつ「存在」をその統一性において捉える。「存在了解はある領域から別の領域へと外に越え出ていくのではなく、たとえば自然と歴史の了解において、いわば直接的に行ったり来たり振幅している」と言う。自然と歴史はそれぞれ別の領域として切り離されているのではなく、両者はある統一を形作っているという。ハイデガーは、「存在者全体」という概念によって、領域に区分される以前の自然と歴史の統一的全体、すなわち歴史の生起における自然の存在を捉えようとした。実際、気候などの自然現象を了解することは、そのもとで必要となるおのれの行動を了解することそのものなのだし、天災地異なども人間の運命と切り離すことはできない。形而上学という呼称が古代ギリシャ哲学に由来することから、そこへの還帰というモチーフが打出されていて、「存在者全体」についての考察を、古代ギリシャの「ピュシス」についての知を取り戻すことと位置付けている。ピュシスは自然と訳されるギリシャ語だが、ハイデガーは我々が普通に自然と理解しているものでは汲み尽くせない内実を読み取って、「存在者全体」とほぼ等しい意味を読み取っている。その具体的内容については、翌年冬学期の『形而上学の根本概念』講義で説明される。すなわち、「ヒュシス」はもともと生長を意味していた。ハイデガーは、この生長とは、「単に切り離された出来事としての植物や動物の生長、すなわち植物や動物の発生と消滅というだけでなく、季節の変化のただ中での、また季節の変化によって支配された、昼と夜の転換のただ中での、星辰の運行のただ中での、嵐、天候、諸元素の猛威のただ中での発生や消滅の生起としての生長である」と説明している。我々は自然というと存在者の集合体と捉えがちだが、ハイデガーは生長という動的側面で捉える。上記引用では、生長が周囲の存在者と連関していることに注意が促されている。鳥の「飛んでいること」の例で、「存在」が「存在者全体」のうちで生起するということを示している。「存在者全体」は存在者の動的な「存在」を、それと本質的に連関している周囲の存在者すべてとともに捉えたものであった。つまり、「存在者全体」とは、存在者の「存在」とともにおのずと形づくられるものなのだ。なお、「ピュシス」は自然と言っても、そこに人間やその活動も含まれる。例えば、気候や天候も自然災害は、人間の運命を左右する。また、そうした気候や天候が何であるかは、常に人間の営みにどのような影響を与えるかという観点から理解されている。このことから明らかなように、「自然」はたしかにそれだけで切り離して捉えられているのではなく、人間の運命と密接に絡み合って了解されている。一方、人間は単に「存在者全体」に支配され翻弄されているだけの存在ではない。人間は「存在者全体」によって支配されながらも、その「存在者全体」を開示し、またそれを語るという独特な仕方で存在する。すなわち、「ピュシス」は人間自身がそれによって徹底的に支配され、かつ人間が支配できないような全体的支配を意味するが、これによって支配された人間は、その全体的支配について常に語っている。
 以上で見たように、ハイデガーは1920年代の終わりになると、「存在への問い」を「存在者全体」についての考察として定式化するようになった。同時に、このような考察は、古代ギリシャの「ピュシス」への還帰という意味ももつものでもあった。このような古代ギリシャの「ピュシス」という異教的なものへの還帰が唱えられるということは、ハイデガーにおいてキリスト教の哲学的基礎付けというモチーフが放棄されたことを意味する。ハイデガーは「神的なもの」の本質がキリスト教の神とは根本的に相容れないことを自覚するに至ったのだった。
2.中期の神論
 ハイデガーの「存在への問い」は、元来、「神的なもの」をその超越性を損なうことなく捉えることができる存在概念の格率を目指すものだった。しかし、『存在と時間』では存在の解明が為される前に中断されてしまい、そのことに触れられなかった。そこで、1929年の「根拠の本質について」の脚注で『存在と時間』の現存在の分析は「神」を主観的に論じていないだけで、現存在の「神」との関係について何らかの決定をしているわけではないと説明している。現存在がその本質において「存在」の生起する場であり、現存在にとっては本質的なこの「存在」への関係性を、ハイデガーは、現存在が「存在」を超え出ていくことと捉えてそれを「超越」と呼んでいる。そして、「超越」の超え出ていく先としての「存在」が圧倒的なもの、神聖性であることが示唆されている。この超越の解明は、実質的に「存在」そのものの解明ということになる。つまり、事実上、「神」が「存在」という問題に属するのだった。この「超越」という神学的背景をもつ術語が用いられているのも、「神」との関係が視野に入っているからだ。したがって、この時期、「存在者全体」を考察する「形而上学」は、それ自身「神」についての考察なのである。もともと、伝統的な形而上学は、超越的な存在を探求する神学を意味するものであった。それを踏まえて、この時期のハイデガーは、おのれの思索を形而上学と呼んだのだった。
 超越の先の「存在」が圧倒的であるとはどういうことか。『論理学の形而上学的な始元根拠─ライプニッツから市出発して』の中で、ハイデガーは「存在と超越の本質からのみ、そしてただ超越の本質に属したまったき分散において、またそのような分散に基づいてのみ、こうした圧倒する力という存在概念は理解できる」と言っている。これは、超越の本質に属した「分散」が、現存在によって「圧倒する力」として経験されるということ。この「分散」は「被投性」に基づくと言われている。つまり、存在者の「存在」が生起することにおいて、現存在は「時-空間」のひろがりへと否応なしに晒されており、またその際、現存在はおのれが選んだわけではない身体へと委ねられている。このような事態が「存在」の圧倒性として経験される、ということだ。言い換えれば、「分散」とは現存在が「存在者全体」の生起に巻き込まれ、それによって支配されている状態のことで、現存在はそのときおのれを「存在者全体」に圧倒された非力な存在として経験する。ここでは、現存在が「存在」を経験することが、現存在が「存在者全体」によって圧倒されることと捉え直されている。
 また、現存在は「存在」の生起の場であることをおのれの本質とする存在者である。このことは、現存在が「存在」なしにはそれ自身でありえないことを意味している。逆に言えば、「存在」も現存在なしには「存在」として生起することはない。これまで見てきたように「存在」がある意味において「神的なもの」と捉えられるのだとすれば、「存在」と現存在の関係は、「神的なもの」と現存在との関係にも当てはまることになろう。つまり、現存在は「神的なもの」の生起の場であることになる。その一方、「神的なもの」は現存在なしには生起しえないことになる。このような神と人間の相互依存的な関係に言及する一方で、ハイデガーにとって、真の「神」はキリスト教の神ではないことが自覚されるようになっていく。『存在と時間』刊行後、上述のような「圧倒する力」のうちに神性の本質を見るようになると、ハイデガーはこのような神性がキリスト教の神性とは異なることを明瞭に意識するようになる。そのことは、「ピュシス」という古代ギリシャの故郷的なものに対する積極的な評価に象徴的に示されている。1935年夏学期の『形而上学入門』講義において、キリスト教があらゆる存在者を神名よって造られたもの、すなわと「被造物」と捉えることによって「存在」の本質を根本的に覆い隠しているという。それはこういうことだ。たとえばある人がキリスト教の聖書を神の啓示と真理として受け止める場合、その人は「なぜそもそも存在者が存在し、むしろ無があるのではないか」という問いをどのように問うたとしても、あらかじめある答えを前提としている。その答えとは「存在者はそれが神自身でない限り、神によって創造されている」というものだ。そしてここでは、「神自身は創造されない創造者として「ある」と捉えられている。」しかしハイデガーによると、このような信仰を持つ者は、信仰者としておのれ自身を放棄しないかぎり、「存在への問い」を真に問うことはできない。「存在」とは元来、おのずと立ち現われ、現存在を圧倒する力、すなわち「ピュシス」として現存在を支配するものだった。しかし存在者が神による作り物とされると、このような「ピュシス」は完全に視野の外に置かれ、無化される。キリスト教では、神もそれ以外のものも単なる存在者として捉えられたうえで、その関係性が創造として語られている。ここではハイデガー的な意味での「存在」はまったく視野に入ってこない。
3.ハイデガーの芸術論
 ハイデガーは、中期以降、芸術への関心を明らかにする。例えば、1930年代半ばの「芸術作品の根源」や一連のヘルダーリンの詩作品の解釈である。ハイデガーは、存在者の「存在」をあらわにする点において芸術に優れた点があるという。これは、彼の拳固の本質についての考え方に基づいている。ハイデガーは言語の本質を「世界」の表明としての「語り」を蔵することのうちに見て取った。そのような言語の本質が、詩的言語のうちにもっとも純粋に体現されているとみなした。我々は、普通、言語を単なる意思疎通の手段にすぎないとみなしている。しかし、ハイデガーは詩作品は根源的な形態の言い表わすことの規範であり、「世界」の根源的な開示である。日常的言語はそこからの派生、あるいは頽落でしかない。これは、詩作品だけに限らず芸術全般も基本的には言語に基づくので言えることである。例えば。神殿という建築作品は、おのれの周囲に、人間の生を形作る軌道と連関の統一を取り集める。この軌道と連関のうちで「誕生と死、災厄と繁栄、勝利と恥辱、持ちこたえと没落が、人間にとって自分の運命の形となる」このような連関の支配的なひろがりを「歴史的フォルクの世界」と呼んでいる。この「世界」とは、人間の生にとって避けることのできない諸可能性の連関を示している。神殿における神への奉献や祈り、祭典などは、生の諸連関における神の加護を求めるものであるかぎり、神殿の存立は、そのような生の諸連関の支配を前提とする。ハイデガーは「芸術作品の根源」で、このような生にとっての根本的な出来事の連関を「世界」と呼んでいる。ところで、「存在者全体」には人間の歴史、運命が含まれている、ここでの「世界」は、「存在者全体」を構成する。ハイデガーは、神殿を取り巻き、神殿と本質的に連関しているさまざまな存在者を次のように列挙する。神殿は岩の上に建つことにより、岩の支える力を岩から汲み取る。神殿は嵐に対して持ち堪えることによって、嵐をその暴力においてあらわにする。石材のきらめきが日の光、天空のひろがり、夜の暗さをそれとして際立たせる。神殿が聳え立つことによって、大気の見えない空間が見えるものとなる。建築作品の安定が海の荒れ狂いを際立たせる。神殿の周りで、樹木と草、鷲と雄牛、蛇とコオロギがはじめてそのくっきりとした姿を獲得し、それがそれであるものとして現われてくる。ハイデガーは、このように神殿と共に立ち現われる事物についた語り、そのうえで、「ピュシス」と呼ばれるこのような諸事物の立ち現われの全体は、人間がそこに住まうところであることを指摘する。これが「大地」である。神殿は、それが屹立することによって、これらの諸事物が立ち現われ、この場所を「大地」として際立たせる。これは、神殿がそこに建っているという事態を、人間や動物、植物や事物があらかじめ対象として存在しているところに、事後的に神殿が置かれたというのではない。むしろ神殿がそこに建つことによって、事物にはじめてその姿が与えられ。また人間にも自分自身が何者であるかについての見通しが与えられるのだと言う。人間の運命は「大地」によってその内実が具体的に規定される。一方、「大地」もまた、人間の運命を規定する仕方において、はじめておのれの何たるかを示す。「世界」と「大地」は、そのような相互の緊張関係においてはじめてそれ自身でありうる。このような相互関係を「抗争」と呼んでいる。
 このように芸術作品は目の前にすでに見出された世界の模写ではない。もちろん、作品には制作者だけでなく、それを受容するものも存在する。芸術作品が、大地と世界の抗争の開示であるということに応じて、受容者による作品の保護は、作品においてあらわになった大地と世界の抗争のうちに立つという意味を持つ。このことを「知」と呼んでいる。「知」とは大地と世界の抗争におのれ自身を晒し出して、それを持ちこたえる意志とか覚悟というものである。
 このことは、芸術作品を媒介として、創造者と受容者あるいは受容者相互のあいだにある固有の「大地」と「世界」が共有されるのを示している。つまり、芸術作品はこのような仕方で人間の共同性を根拠づける働きをもつのである。ひいては「フォルク共同体」を基礎づけるものでもある。

 

2023年10月 4日 (水)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(5)~第2章 前期の思索

 第2章は『存在と時間』の思想を概観する。最初に著者は、『存在と時間』における「存在への問い」は根源的な神性への問い、つまり「神の本質とは何か」という問いの延長線上にある、という仮説を提示する。著者は『存在と時間』の基本動機を次のように提示する。すなわち、現存在は、もともと、人間を「存在」が生起する場として捉えた概念だった。ハイデガーは『存在と時間』では、あらかじめ「存在」と現存在の関係を、このようなものとして捉えた上で、現存在のあり方を分析し、それが「存在」との関係性を示すことで、読者を「存在」に導こうとした。ところが、実際に、『存在と時間』は「存在」を正面から取り上げる前に中断してしまった。そのため、『存在と時間』の刊行された部分では現存在の分析だけで、それが「存在」との関係性を示しているのだという種明かしがされることがなく、宙に浮いてしまうことになった。そのため、『存在と時間』をもっぱら人間学として捉えるような解釈傾向が一般的になってしまった。
 そこで、著者は、そういう一般的傾向に逆らって、『存在と時間』で扱われている現存在の諸契機が、すべて「存在」との関係性にかかわっていることを考慮することで、はじめてその意味が分かることを示すという。
1.『存在と時間』への道
 著者は、前章で「存在への問い」は根源的な神性への問いであるという仮説を示した。『存在と時間』では直接、神に触れてはいない。伝記的な事実では、ハイデガーは当初、カトリック教会の資金的な援助により学業を続けることができ、大学生時代はキリスト教神学の研究を行った。その後、しんがくに飽き足らなくなり、哲学に転向したとされている。
 しかし、著者は、そもそもハイデガーの思索の出発点には、人間が意のままにならないような何ものか、すなわちそれに対しては人間は主権者ではありえないような絶対者、至高者が存在するという直観があった。これが当初は神学研究の枠内で「神」として問題にされていたが。やがては「存在」として捉えられることになった。このように、ハイデガーの「存在への問い」は神への問いと密接に結びついている。しかも、ハイデガーによる神の本質は、単に「存在への問い」と結びついているだけではなく、もともと「存在への問い」は「神性への問い」に由来するものであると、著者は指摘する。
 ハイデガーはドイツ南部の田舎の出身で伝統的なフォルクが残された環境の中で育っている。そこから都市に代表される近代主義の個人主義や世俗化された信仰を失った人々に批判的だった。彼の近代主義批判は、当初の彼の学問の基本的方向性を規定することにもなっている。当時(1916年ごろ)のハイデガーの論考には伝統的なカトリック神学を超えて同時代の宗教心理学にも関心を向けていたことが示されている。宗教心理学は信仰を個人の経験に還元し、宗教的事実としての啓示を否定する傾向にあり、否定的されるべきはず。じっさい、神的なものに本来備わっている超越性を主観的なものへと解消することには反対していた。しかし、彼は、神的なものの超越性を認めつつも、それについての直接的な経験の可能性も否定しない点で、一部、これを受け入れていた。彼が必要としていたのは、主観的経験に定位しながら、同時に神的なものを主観性を超え出た超越的なものとして捉えることを可能にするような哲学的な立場だった。この求めにこたえるものとして、彼が注目したのはフッサールの現象学だった。だから、ハイデガーはフッサールのなかでも心理主義を批判する『論理学研究』を重視し、その後の『イデーン』には関心を持たなかった。このことから、ハイデガーは現象学を神的なものの超越性、独立性をあくまでも尊重しつつ、それが我々にとってどのように経験されるかを記述する方法と捉えていたことに基づいている。このような彼の立場からすると、『イデーン』の超越論的意識による対象の構成を強調する姿勢は、神的なものの超越性を主観的意識に解消してしまう、近代の主観主義への退行に見えたのだろう。だから、ハイデガーとフッサールとは、当初から隔たりがあったと著者は言う。
 ハイデガーは1920年代前半に講義でアリストテレスを繰り返し取り上げている。ハイデガーのアリストテレス等によって確立された古代ギリシャの存在論が、もともとは事物についての存在論であったことに注意を促す。彼は、人間の存在を「事実的生」と呼んでいる。彼は、この言葉によって人間ひとりひとりが、それぞれ固有の経験、状況をもち、それこそが人間存在の実質をなすことを強調しようとした。しかし、古代ギリシャの存在論は、人間を目の前に見出される単なる事物として捉える。そしてこの人間固有の存在に神的なものへの関係をもまた含まれているとすると、事実的生を適切に主題化できない存在論は神的なものも人間の経験に即した形では捉えられないことになる。このような性格を持つ古代ギリシャの存在論が、キリスト教神学の基礎となっている。ハイデガーは、キリスト教神学がギリシャの存在論を基盤とするものである以上、事実的生をその本来のあり方を隠蔽したとしてカトリック神学を批判的に見るようになっていった。彼が、1920年代前半にアリストテレスの哲学を繰り返し取り上げたことの背景には、このような古代ギリシャの存在論の限界を指摘し、その適用範囲を限定しようとする意図があった。ハイデガーは事実的生には神との関係が本質的に属しているとみなしていた。したがって事実的生が捉えられないということは、そこに属する神的なものの本質も捉えられない。その意味で、アリストテレスを全否定することはでない。したがって、アリストテレスを取り上げたのは神的なものの存在を的確にとらえる目的から為されたものだった。そのことから、『存在と時間』における「存在への問い」は、「神性の本質への問い」の延長線上に位置づけられる。「神性の本質への問い」を突き詰めた結果、それを的確に捉えることのできる存在論的な基礎を確立する必要性を認識した。つまり、「神性の本質への問い」はまずもって「存在への問い」として遂行されねばならない、というわけだ。
2.現存在の実存論的分析
 『存在と時間』では、「存在への問い」は具体的にどのように行われたのだろうか。
 そもそも「存在への問い」には、本質上、次の二つの課題が含まれていたはずだと著者は言う。すなわち、第一に、「存在」の根源的な意味を明らかにすること、第二にそのようにして解明された「存在」の根源的な意味を基準として伝統的存在論の存在理解の特徴を明らかにすることである。『存在と時間』の第1部は「現存在の時間性に向けての解釈と、存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」と題されている。第1部の目標は「存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」、すなわち「存在の意味」を時間として解明することだった。この表題の前半部「現存在の時間性に向けての解釈」は、この「存在の意味」を時間として解明するという目的のための準備として行われる現存在の分析のこと指している。つまりり、『存在と時間』では、まず現存在が時間的な存在であることが示されたうえで、今度はその時間性が、現存在という場で生起する「存在」の時間的性格の反映であること、つまり「存在」の意味が時間であることが明らかにされるという構成になっている。これに対して第2部は「テンポラリテートの問題性を手引きとした存在論の歴史の現象学的破壊の基本的方向性」と題されていた。ここでは、「存在」の根源的な意味が時間であるという観点から、伝統的な存在論で論じられてきた存在の基本的な特徴を明らかにして、その限界を確定する予定であった。しかし、実際には『存在と時間』第2部は存在していないし、第1部の後半部分、すなわち存在への問いの超越論的地平としての時間の解明は行われなかった。行われたのは、第1部の前半部分、現存在の時間性に向けての解釈だけだった。この現存在の存在をハイデガーは実存と呼んでいる。したがって、現存在の実存論的分析とは、現存在をその固有のあり方、すなわち実存に即して解明することを意味している。
 このようにハイデガーが現存在の存在だけを先にしたのには方法論的な理由がある。つまり、「存在」がどのようなものかを明らかにすることは、我々が「存在」をどのように経験しているかを手がかりにするほかはない。人間はただ単に事物のように存在しているだけではなく、おのれ自身や他の存在者の「存在」について、の了解をもつという仕方で存在している。このような「存在了解」をもつことが、人間存在の固有性なのだという。人間が存在了解をもつということは、人間には「存在」が与えられているということ、すなわち人間が、「存在」が生起する場であるということだ。ハイデガーは人間のそういう特質に注目して現存在と呼んだ。したがって、現存在が「存在」が生起する場である以上は、現存在を分析すれば「存在」を明らかにできるというのが当初の考えであった。これをハイデガーは存在基礎論と呼んでいる。
 現存在の実存論的分析では、まず、現存在の存在が「世界-内-存在」と想定される。その、その上で内の「世界」が分析される。「世界」とは、存在者の「存在」とともに生起する「時-空間」を指している。つまり、存在者の「存在」を捉えるということは、ある意味では、その存在者が見出される「時-空間」としての「世界」そのものを捉えるということになる。『存在と時間』では、これを道具を例にして説明する。ハンマーは釘を打つための道具であり、釘を打つのは何かを固定するためであり、何かを固定するのは風雨を防ぐためであり、風雨を防ぐのは人間が宿るためである、という指示連関がそこでは成り立っている。ハンマーはこのような指示連関のなかに、おのれの所在を持っている。そこで、手許にあるハンマーをハンマーとして捉えている現存在は、このような指示連関についての了解を持っている。この了解とは、現存在の宿るという目的のために固定することが必要で、固定するためには釘を打つことが必要で、その打つためにはハンマーが必要であるという連関を了解することである。現存在がハンマーを道具として捉えているときに了解し、そのうちにおのれを見出している場としての、この目的から手元のハンマーまで至る連関を、「世界」と呼んでいる。
 次に「世界」の構造を分析する。ある存在者が存在するということは、固有の「世界」が生起することだ。したがって現存在は「存在」と不可分な「世界」のうちにおのれを見出す。このように、現存在は世界「のうちに」存在する。ハイデガーは現存在と「世界」との関係を「世界-内-存在」と呼ぶ。現存在が「世界」の内に存在するとして、この「うちに-あること」が、現存在のどのようなあり方で、何によって可能となっているのかを捉えようとする。世界のうちにあるとは、空間的な位置ではなく、世界を感受することに等しい。『存在と時間』では、この「世界」への現存在の関りを、「情態」、「了解」、「語り」という三つの観点から論じている。まず、「情態」は、「気分」、「気分づけられていること」、「感情」などとも言い換えられる。「情態」は「世界」に対する関わり方で、存在者が存在することにおいて形づくられる「世界」は、現存在が意のままにできるものではなく、有無を言わさず現存在に襲いかかってくるものだ。それは重荷であると感じられたり、逆に喜びとして感じられたりすることもある。このような気分のうちに「世界」の開示を見て取るというものである。「情態」とは、「世界」が今ここで開かれていることを意味する。そして現存在が「世界」のうちにおのれを見出す限りにおいて、「世界」の開示としての「情態」はおのれ自身の開示という意味をもつ。一般的には「情態」や「気分」を主観的なもの、意識の内的状態と捉えるが、ハイデガーは「世界」そのもののありようを示すものと位置付け、「世界」の実相を捉えるものとされる。つまり、「情態」とは「存在」の開示様態なのである。そのもっとも純粋で特徴的な情態が「不安」なのである。
 次に「了解」は「情態」とセットで考えられている。つまり、「了解」は「情態」と同様に、「存在」ひいては「存在」が形作る「世界」に対する現存在の関わりを示す。一般に、了解しているとか分かっているという場合、その事柄に適切に対処できるということを含んで意味している。つまり、ある存在者の「存在」の可能性を分節化する、すなわちされを「了解」するということは、その存在者に対して適切に対処できるということを意味している。言い換えると、現存在は「了解」するという仕方で、ある存在者の「存在」に立ち合い、それを担うという、おのれ固有の「存在」をまっとうする。ということは、「了解」は目の前に現れ出ている存在者を超えた可能性の次元に関わっている。このような「了解」の創造的な性格を念頭において、「了解」は「企投」という特徴を持つとする。「企投」の原義はスケッチとか下図で、「了解」が存在者を超えた「世界」の下図を描き抗争するという性格をもつことを示している。この「企投」はわれわれの意志によって起こるのではない。むしろ意志なるものに先だって、おのずとすでにそのように「企投」してしまっているという性格をもっている。言い換えると、現存在は「世界」をそのように「企投」することへと投げ入れられてしまっている。「了解」は「情態」が「世界」が現出しているという事態を指すように、「了解」も、同じ事態を別の角度から捉えたものなのだ。「情態」が「世界」が現出しているということの有無を言わさない圧倒性を捉えたものだとすれば、「了解」は「世界」が一定の分節秩序をもつものとして与えられているという側面を表わしている。
 最後に「語り」については、「情態的な了解」はつねに「語り」としてある。「情態的な了解」はそこに「世界」が立ち現われているという事態そのものを指していた。「語り」は、このような「世界」の生起に何らかの仕方で関わっていることを意味する。つまり、「世界」は「情態的な了解」において開示される。それが「語り」であり、その際には、不可避的に音声や書字などの物理的形態を身にまとう。これをハイデガーは「言語」と呼ぶ。言い換えると、「語り」の受肉したものが「言語」であるということだ。例えば、「カワセミが魚を捕っている」という発話があったとする。カワセミが魚を捕ることは、ある固有の「世界」が「そこ」で生起していることそのものを意味する。この発話で、このような「世界」が表明されているのである。しかし、この「世界」は「ヒヨドリが柿の実をつついている」という発話で表明されている「世界」とは別物だ。「カワセミが魚を捕っている」と「ヒヨドリが柿の実をつついている」という二つの異なる発話は、それぞれに違った「世界」がおのれを語り出している。ちなみに、このような立場から、ハイデガーは従来の言語論を「世界の語りを蔵する」という「言語」の本質的働きを取り逃がしていることを問題視する。伝統的な西洋哲学では「言明」あるいは「判断」が「言語」の基本形式とされてきた。この「言明」あるいは「判断」は、ある主語について術語的な規定をするものとして「SはPである」という仕方で表わされる。この「言明」では主語となる存在者はただ単に眼前にあるものにすぎないとされ、「世界」との関係性は無視される。例えばカワセミはある固有の「世界」において、ある固有のあり方をもつ生き物である。カワセミの「存在」はもともと「世界」との関係においてのみ無捉えることができる。カワセミが存在するということは、ある固有の「世界」が生起していることそのものである。しかし、この「言明」では、カワセミは単に目の前に現れている事物にすぎず、そこで生起している「世界」はまったく考慮に入れられていない。われわれは、このようにカワセミ固有の「存在」を知らなくても、事物として目の前に現われているカワセミについて、任意の観点から「それは何々である」というような術語的な規定を行うことができる。西洋哲学においては、言語表現は「世界」という特殊なコンテクストに依存することなく、誰もが理解できるものとして考えられてきた。それに対して、ハイデガーは、このような「言明」は派生的、二次的な言語の様式にすぎないと言う。彼にとって、「言語」は何よりも「世界」の「語り」を保存するものとして、「世界」に根ざしたものなのだった。
 まとめると、ある存在者の「存在」とともに生起する「世界」のうちに現存在がおのれ自身を見出しているという事態が「情態」であり、そうした「世界」は同時に、現存在にとってある限定された可能性を課するものでもあって、このような可能性に対する関係性が「了解」として捉えられている。そして、この「情態」と「了解」において開示されている「世界」は、何らかの仕方でおのれを示さずにはおかない。この「世界」の自己表明が「語り」である。
 ハイデガーは、このような現存在の本質を「気遣い」であると規定する。現存在の「現」とは「存在」が生起する「場」でもある。そのためには、ある存在者の「存在」の生起を邪魔することなく、「存在」にその固有性を自由に発揮させることが必要となる。「存在」を気遣うとは、このように、「存在」にその固有性を発揮させることである。ハイデガーは「気遣い」の構造を「(うち世界的存在者)のもとでの-存在として、おのれに-先立って-すでに-(世界)-のうちに-存在すること」と分節化する。具体的に言うと、「存在」を気遣うとは、おのれ自身を差し置いて、ある存在者の「存在」がその固有性において生起することを優先することを意味している。つまり、その存在者がもつ可能性の発揮を妨げることなく、むしろそうした可能性によっておのれが制約を受けることを許容するということだ。これが「おのれに-先立って」という規定に表われている。このように、「存在」を気遣うことのうちには、存在者の「存在」が自分では、存在者の「存在」が自分ではいかんともしがたいものとしてすでに自分を支配していることを認めるという側面が含まれている。これはすなわち、「存在」の生起そのものとしての「世界」のうちにおのれが投げ入れられていることを意味している。
 このように「気遣い」とは基本的に「存在」を気遣うことだが、その「存在」とはまさにある存在者の「存在」である。したがって、「気遣い」には必然的に存在者との関わりも含まれている。しかし、むしろ「気遣い」のうちで、最初にわれわれの目に入ってくるのは、この存在者との関わりという側面の方で、我々は「気遣い」を存在者に関わることでしかないと短絡的に捉え、そこに潜む「存在」との関係を見落としてしまう。このような場合を「頽落」、「非本来性」と呼んでいる。
 この「気遣い」についての議論は、「おそれ」や「不安」と同様にキリスト教神学を下敷きにしていると著者は言う。キリスト教において人間は神への気遣いのうちで生きることが推奨される。しかし他方、そうした気遣いが富や名誉といった世俗的なものへと向けられてしまう危険性もつねに指摘されてきた。現実には、人間の気遣いは後者に向けられてしまうので、それゆえにこそ、気遣いを神に向けることが推奨された。ハイデガーは、『存在と時間』において、もともとキリスト教神学の気遣いを、その文脈から切り離し、現存在一般の構造として解釈し直したのだという。ここで、神への気遣いが存在へ気遣いに捉え直され、そこで同時に、神の超越性が存在の超越性として読み替えられた。
 ここまでの『存在と時間』の前半部で、現存在の固有性は、ある程度示されていたと言える。
3.「本来性」と「非本来性」
 現存在とは、人間の本質を、存在者の「存在」が生起する場に立ち会うことを想定する概念であり、その在り方を「気遣い」と捉えられている。このことから分かるように、現存在とは「存在」に対する人間の本質的な関係を捉えた概念であり、そこでは、「存在」がどのような事象であるかがすでに前提とされている。ところが、『存在と時間』では、「存在」の意味が解明される前に現存在という概念が導入されてしまっている。つまり、前提が明かされる前に、現存在が提示されているというわけだ。そのため、現存在の本来の意味が捉えにくくなっている。
これは、「本来性」と「非本来性」という二項対立の議論にも言えることだ。「本来性」とは現存在が、おのれ固有のあり方を実現している状態を意味する。対して、「非本来性」はそうでない状態を意味する。現存在は「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことが本来的なあり方である。このような固有性を実現できていない状態が「非本来性」というわけだが、我々は、日常では現存在の固有のあり方から逃避している。この「本来性」と「非本来性」という区別は、『存在と時間』の現存在分析の根幹をなす区別である、と著者は言う。しかし、『存在と時間』の既刊部分では、「存在」について表立って論じていないため、この二つの概念の本来の意義も見えにくくなっている。その結果、「非本来性」はよくあるタイプの文明批判、つまり大衆社会に埋没して自分らしさを失ったあり方への批判というレベルで理解されることになる。また、「本来性」も、死と向き合いながら一瞬一瞬を大切に生きるあり方、世間には迎合せず自分らしさを取り戻した荒れ方というような、人生論として受け取られてしまう。
 『存在と時間』第1部第1篇では、現存在の平均的日常性が、我々の身近なあり方が分析の出発点で、そこでは現存在の本質が覆い隠されている。そうだとすれば、平均的日常性の意義を捉えるためにも、まずは現存在の本質を押さえておく必要がある。したがって、「本来性」を前提にする必要がある。我々は、平均的日常性のうちにあり、それを自明のものとしているので、それ以外のあり方についてはイメージしにくい。そこで『存在と時間』第1部第2篇で、あらためて現存在の本来的なあり方を示そうとした。
 このような問題意識のもとで、現存在が平均的日常性から脱して、本来的なあり方をとることを可能にするものとしてハイデガーが注目するのが「良心」である。ハイデガーは「良心」を「気遣いの呼び声」と規定する。「気遣い」とは現存在の本質そのものである。これは、現存在は常に「気遣い」というおのれの本質を成就することを「気遣い」によって求められているということだ。このような「気遣い」の要請こそが、「良心」の本質である。つまり、「気遣い」が、根本において「存在」を気遣うことそのものであるとすれば、「良心」とは結局のところ「存在」そのものによる、存在を気遣うように、という呼びかけと考えることができる。ハイデガーは「良心の呼び声」の構造を、「存在」に晒され「存在」に不安を抱く現存在が、「存在」によって「存在」へと呼び出されるという。現存在は、おのれが好き好んで選んだのではないようなあり方を課されていて、ほんらいはそれを引き受けなければならないのに、そこから逃避してしまう、そういう負い目を「気遣い」が含んでいて、「良心の呼び声」はその負い目を現存在に告知する。現存在が、この呼び声を了解するということは、負い目があるというおのれの本質を受け入れることで、このとき現存在は「良心を-もつこと」を選び取る。このように現存在は、つねに「良心の呼び声」が生起していて、そこから逃れることはできない。現存在にできるのは、この「良心の呼び声」を聞き届けるかどうかの選択だけで、この「良心の呼び声」つまり、負い目の告知に向き合うことが「良心を-もつこと」なのである。現存在は、根本的には「存在」を負わされているもので、そのことを自覚することが負い目を感じることになる。こうして、「良心を-もつことを-欲すること」、すなわち「覚悟」は、「存在」に対して開かれること、つまり「存在」を「気遣うこと」を意味する。著者は、この「良心」は、負い目のあるという性格から、キリスト教神学において人類が背負うとされる「原罪」が捉え直されたものであるという。
 『存在と時間』の本来性をめぐる議論で、「良心」とならんで重要なものが「死へと関わる存在」である。多くの場合、この「死」をめぐる議論はむ、自分がいつでも死にうることを意識して、一瞬一瞬を大切に生きることが重要だといった通俗的人生訓を読み取って満足してしまう。それなら何も『存在と時間』をわざわざ読む必要はない。むしろ。それでは「存在への問い」の中で「死」がどのような役割を果たしているかが見えなくなる。『存在と時間』では、「死」は存在の意味の解明との関係において、はじめて捉えられるものなのである。
 まず、厳然たる事実として人間はいずれは死ぬ存在であるということ。また、医療技術の進化等により、死は先送りできる、つまり、死をコントロールできるかのようにみなしている。ハイデガーは、このような死の本質の歪曲が、日常性を日常性たらしめていると言う。このような死を操作可能なものとして表象するということは、避けることのできない死の可能性に対する不安を覆い隠すものとして、そのこと自身が死への不安に基づいている。それは、われわれが死への可能性をつねに何らかの形で意識していることの現われ、つまりわれわれが「死と関わる存在」であることを示している。よく考えると、この「死へと関わる存在」の「死」は、現実にわたしのこととして出来する出来事ではない。自分が死んでしまっては「死」に関わることができないからだ。すなわち、ここで問題になっている「死」とは死の可能性のことだ。しかし、可能性と言っても。われわれはそれに対して、常に不安を感じ、何とかして払しょくしたいとするリアリティを認めている。ハイデガーは、このような可能性から身を背けることなく、直視することを「可能性への先駆」と呼ぶ。この「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、実際に死ぬこととは違う。「可能性への先駆」とは、あくまでも生き方の問題なのだ。日常においてわれわれは「死」の可能性から目を背けている。このような現存在の態度は、おのれの生の存続、自己保存を至上の価値とするからだ。だから、「可能性への先駆」において「死」の可能性を引受けるということは、自己保存の欲求から脱却すること、つまり自己放棄することを意味する。その結果、自己保存に固執しているかぎり入ってこない可能性が開かれる。それが、「おのれ固有の存在能力」と呼ばれ可能性である。これは、存在者の「存在」の生起に立ち合い、それを気遣うことである。このおのれでない存在者の「存在」を気遣うとは、その「存在」をある意味で優先する、つまり自己放棄という契機を含むものである。「死」とは、このような「自己放棄」の究極の様態である。したがって、「おのれ固有の存在能力」につねに開かれたままであるためには「死」の可能性を引受けなければならない。前述のように、「おのれ固有の存在能力」に開かれたあり方を「良心の呼び声に従うこと」、すなわち、「良心を-もつことを-欲すること」と規定していた。そうすると、「良心を-もつことを-欲すること」すなわち「覚悟」は事実上、「可能性への先駆」によって初めて可能になると言える。それはこういうことだ。われわれは「死」という究極の自己放棄の可能性を受け入れることができれば、それ以外の自己放棄の可能性とどんなものでも担うことができるだろう。逆に、われわれかさしあたりたいてい、「良心の呼び声」に従うことができないのは、それが自己保存の本能に反するからであり、「死」への恐れからである。
 このように、ハイデガーが『存在と時間』で「死」を取り上げるのは、結局のところ、「死」に対する態度が「存在」に対する態度と表裏一体とみなされているからだ。ハイデガーは、われわれの生の一瞬一瞬が、「死」という自己放棄の究極の可能性に対する態度によって規定されていることに注意を促す。つまり、「死」は生の質そのものを決定するもの、その意味において、「生」の核心をなすものと考えられている。
以上が「本来性」についての議論だが、他方で、「非本来性」についてはどうだろう。『存在と時間』において、「本来性」をめぐる議論と並んで読者に強い印象を与えるのが、「世人」や「頽落」といった現存在の「非本来性」に関する議論だろう。
 「存在」が生起する場としての現存在の開示は「情態」、「了解」、「語り」の三つから構成されていた。「本来性」が現存在の一つのあり方、すなわち現存在の開示性である。これと同じように、「非本来性」も現存在の開示性の一様態とみなすことができる。
 ハイデガーは「非本来性」における現存在の開示性を、「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧背」の三つで特徴づけている。実の三つが一体となって「存在」に対してある独特の関係性を形作っている。まず、「おしゃべり」については、ハイデガーは「語り」の日常的形態と規定する。一般に「語り」は伝達という性格を持つ。伝達とは、端的に言えば、ある存在者の開示を他者と共有することである。この伝達が「おしゃべり」においてはある独特の様態をとる。それはこういうことだ。語り出された言葉に含まれている平均的な了解に従って伝達された「語り」はおおむね理解することができる。ただしそこで聞き手は、「語り」の主題となっているものを根源的に了解するというあり方までは入り込んでいない。人は語られている存在者を了解することなく、語られた内容だけに耳を傾けている。つまり、表面的に言葉尻をとらえている。これをハイデガーは「語られた内容そのものは了解されているが、語りの主題はただおよそ、適当に理解されているに過ぎない」。このような場合、非値は同じようなことを考えている。それは、人は言われたことを同様の平均性において理解しているからだ。このように「おしゃべり」は、語られた存在者への一次的な理解を喪失立あり方と特徴づけられる。ここでは、ある存在者に関わりながら、その存在者の真の「存在」に関心をもたないあり方と言える。このあり方が日常性では、むしろ真っ当で充実したあり方と捉えられている。同じようなことは「好奇心」や「曖昧性」にも当てはまる。「好奇心」とは、ただ見ることだけを「気遣う」あり方のことで、「好奇心」にとって見られたもの真に「了解」することは問題ではない。そして、「好奇心」は自分が何を見るべきかの示唆を「おしゃべり」から得る。そして、「おしゃべり」と「好奇心」が支配する日常性において、物事はあたかも真に了解されているように見えて、実はそうではない。このような事態が「曖昧性」である。人は、自身が携わっている事柄に真剣に興味を持っているように見えて、いざその事柄に立ち入って「了解」することが問題になると、そこからひそかに逃げてしまう。
 このように「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧性」によって構成された、現存在の日常的な現存在の開示性を、ハイデガーは「公開性」と呼ぶ。「公開性」において、存在者が誰にも近づくことができるものというあり方で提示されている。しかし、それにもかかわらず、その存在者の「存在」はそこでは完全に閉ざされている。この「公開性」こそが、「非本来性」における現存在の開示性を示している。
 「存在」は、ある固有の「時-空間」として生起する。「公開性」とは、「存在」が覆い隠されてしまい、根源的な「時-空間」が生起していない、ある意味で空虚な現存在の様態を捉えたものと言える。ここでの「時-空間」は差別化されていない、あらゆる存在者を無差別に収容するような「時-空間」である。現存在はこのような「公開性」において自己を失い、誰でもない者になる。それは、「公開性」において、現存在を真にその現存在として特定化する「存在」の生起が欠落しているからで、この日常的現存在がそうであるような誰でもない者を、ハイデガーは「世人」と呼ぶ。そして、このような現存在のありさまを「頽落」と呼ぶ。ハイデガーは「頽落」を「現存在が本来的に自己でありうることとしてのおのれ自身から離れ落ちること」であるという。つまり、「頽落」は「存在への問い」において、「存在」から脱落し存在者に没入した状態を指し、これは「本来性」がキリスト教での神への真正な関わりを「存在」への関わりとして捉え直したものであるように、「頽落」もキリスト教での人間の近ペン的な罪性、すなわち「堕罪」を現存在の本質構造に根ざした現象として捉え直したものと言える。
4.『存在と時間』の挫折
 『存在と時間』における現存在の分析は、最終的に現存在を時間性という観点から捉えることを目指していた。これまで見てきた議論は、そのための準備作業だった。ハイデガーは「時間性」を気遣いの存在論的意味と規定する。現存在の「存在」は「気遣い」として捉えられた。ここではさらに、この「気遣い」が「時間性」として捉え直されることが可能だという。現存在がおのれの可能性をおのれに到来せしめることを「将来」と呼ぶ。
 一方、現存在の「先駆的覚悟」とは、おのれの「負い目」を引受けることだ。この「負い目ある存在」を引受けることは、おのれがある固有の世界へ投げ入れられること、「被投性」を引受けることだ。これは、ある「世界」をすでにそうであったものとして受け入れることだ。「先駆的覚悟」には、「将来」における可能性を到来させることともに、「既往」も受容する。現存在は、おのれ固有の可能性をおのれへと到来させる「将来」において、おのれのもっとも固有な「既往」へと立ち帰る。つまり、このようにしかありえないというおのれの可能性を「将来」において引き受けるということは、そのような可能性を必然とする、おのれの「既往」の引受けであるということだ。まとめると、ハイデガーは「気遣い」から「時間性」の3つの契機、すにわち「将来、「既往性」」、「現在」を7取り出したうえで。「先駆的覚悟」における3者の関係をつぎのように説明する。「先駆的覚悟」は将来のおのれへと還帰して、現前化しつつあるおのれを状況のうちに連れ出す。このとき既往性は将来から発し、しかも既往する将来が現在をおのれ自身から解き放つ。そして、この既往し現前化する将来という現象が「時間性」といわれる。
 『存在と時間』における「時間性」の分析では、「将来」、「既往性」、「現在」が、それ自身において「おのれの-外へ」という構造を持つこと、すなわち、おのれを超え出るという構造をもつ。これにより、「時間性」の3つの契機「脱自態」と名づけられる。脱自態と言うからには脱する行く先をもっているはずだ。それを「地平的図式」と呼ぶ。この地平的図式は統一を形作っていて、これまで「世界」として論じられてきたものも、地平的図式の統一である。世界は、時間性の地平の統一として位置づけられているわけである。『存在と時間』では、この地平的図式の統一が「存在の意味」として最終的に結論されるはずだった。しかし、実際には、『存在と時間』は未完に終わってしまった。『存在と時間』では、人間を起点として「存在」への接近を図るという方法を採用した。しかし、この手順には大きな欠陥があった。人間の様々な無存在態様が根本において「存在」との関係性を示すものと解釈されるとすれば、そうした人間の存在態様の意味はあらかじめ「存在」が何を意味するかが明らかにならないかぎり、理解できない。つまり、『存在と時間』においてなされた現存在の分析は、探求によって解明しようとしているもの、すなわち「存在」が、探求の当初から前提とされているという循環論法に陥っていた。
 ただし、そもそも「存在」とは、われわれがすでに何らかの仕方で知っているものであり、「存在への問い」はそれを単に表立たせようするものであるので、循環論法は避けられないものであった。しかし、だからといって、そういう『存在と時間』の分析を我々が理解できるかと別のことだ。実際も多くの人は現存在の分析を単なる人間学として受け取られている。『存在と時間』における減損嗄声の実存論的分析の問題は、「存在の意味」が解明された時点で冗長になるという方法論的欠陥にとどまるだけでなく、そうした考察の手順そのものが。ハイデガーが「存在」として捉えようとした事象の本質を見誤らせてしまうというものだった。
 ハイデガーは『存在と時間』刊行後、減損嗄声の分析を経由して「存在」を明らかにするという問題点を明確に意識するようになった。そして、その後は、現存在の実存論的分析を介さずに、「存在」という事象を直接的に示すことを試みるようになる。

 

2023年10月 3日 (火)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(4)~第1章 「存在への問い」の概要

 ハイデガーの哲学は、終始、「存在」という一つの同じ事象を問い続けた。と言っても、最初から「存在」という事象に含まれるすべての要素を完全に見通していたわけではなかった。彼は生涯を通じて、「存在」に含まれる様々な契機を徐々に顕わにし、それらに適切な表現を与えてきた。したがって、彼が「存在」という事象によって何を捉えようとしていたのかは、彼の思索のプロセス全体を概観することによってはじめて明らかになる。つまり、部分を見ていても「存在」は見えてこない。
 著者は、ハイデガーを概観する前に、われわれが通常目の前に見出される事物を起点として、それ「がある」とか、それは何々「である」と規定するという仕方で存在を捉えているのは西洋哲学の従来の方法であり、これではハイデガーのいう「存在」は取り逃がされてしまうと指摘する。このような、存在を純粋で抽象的な実体として認識するというのではなくて、ハイデガーは「存在」には様々な異なる種別、例えば生物と道具では存在様式が異なるので、「である」や「がある」という捉え方ではその多様さが捨てられてしまう。そのうえ、様々な種別の「存在」は固有の場によって規定され、特殊化されている、つまり場所と不可分であることを強調する。したがって、このような「存在」を理解するためには、われわれ自身が、この場所におのれを晒し出して、その場所を何らかの仕方で理解していることが前提となる。ハイデガーの「現存在」は、このような場所へと関わり、場所によって規定される存在として人間を捉えようとするものであと言う。
 このようにハイデガーの「存在」の捉え方というのは、そのこと自体が、われわれ人間のあり方の変貌を伴う事態である。つまり、万人に妥当する普遍的真理を捉える理性を備えた人間という従来の人間観を捨て、場所によって規定され、同時にその場所を保護する現存在となることを求められる。言い換えると、普遍的理性を行使する主体から、場所によって規定されたあり方へと変わるということだ。
1.「存在」の意味
 著者は一つの例として、われわれが鳥をどのように認識しているかを考える。我々は、鳥について空を飛んでいるとか、木の枝にとまっているといった様態の鳥を見ている。われわれは、鳥を見るときは、飛んでいるとか木の枝にとまっているといったあり方で、あり方とセットで見ている。逆に、このようなあり方を一切伴わないで鳥を見ることがない。例えば、何もしていない鳥を思い浮かべてみよう。そんなことができるか、できるとしても何もしていないというのも鳥のあり方の一つであり、実際には酢で休んでいるなどということだったりする。ここでいうモノは、ハイデガーの言う「存在するもの/存在者」に当たる。そしてモノのあり方つまり存在様態がハイデガーが「存在」と呼ぶものである。だから、存在者と存在の区別とは、モノとモノのあり方の区別である。ここで注意すべきは、存在者と存在は、区別されながらも切り離すことはできないということだ。
 鳥の例に戻ろう。われわれは鳥を鳥が飛んでいるという様態とともに見ている。この飛んでいるのを捉えている場合、そこにはどこからどこへ(飛んでいる)の理解が含まれている。飛んでいるということには、どこから(すでに飛んでいた─過去)とどこへ(これから飛んでいく─未来)を含んでいる。すなわた、飛んでいることは、どこからどこへという過去と未来への広がりを持ち、目の前の鳥の過去と未来の地平を形作っている。たとえば、今、眼前を飛んでいる鳥は、少し前には巣にいたし、これから水辺に餌を捕りに行く途中だったりするわけだ。また、一方では、どこからどこへは、過去から未来という時間的な意味だけでなく、空間的な意味も示している。このように飛んでいるという現象を構成するどこからとどこへは、時間的な拡がりであるとともに空間的な拡がりでもある。すなわち、飛んでいることという現象は必ず、ある質的に差別化された固有の「時-空間」を伴っている。「時-空間」とは、ある存在者の存在とともに開かれる場である。鳥については、鳥の飛ぶこととともに同時に開かれる場である。すなわちそれは鳥が飛ぶという事態が起こりうる固有の「時-空間」として、鳥の「存在」と不可分である。そのような「時-空間」は鳥の種類によって異なるだろうし、また鳥とは異なる存在者の「存在」が生起する「時-空間」とも異なる。このように鳥が存在するとは、ある固有の「時-空間」が開かれることそのものを意味する。この「時-空間」こそが「世界」と呼ばれるものだ。これが、ハイデガーが「存在への問い」で捉えようとした「存在」である。
 以上のような意味での「存在」は従来の哲学では全く問題にされなかったと言う。つまり、ハイデガーの「存在への問い」は過去に問われたことはなかった。では、それまでの哲学は、「存在」をどのように捉えてきたのか。伝統的な哲学は、前述のように、目の前に見出される存在者から出発して、それ「がある」とか「である」と規定する場面で捉えるというものだった。つまり、存在者が現在、眼前に出来しているという眼前性が存在の意味だとしてきた。ここでは鳥と石は眼前に出来する存在者である限りでは、その存在という点では変わりないことになる。ここでは鳥とか石という固有の存在は最初から視野から抜け落ちて、鳥が存在することが単に鳥というモノが目の前にあるということに切り詰められてしまうのだ。これに対して、ハイデガーは存在者と同時に存在者の種別に応じたあり方を存在として問題にしている。存在を固有の「時-空間」の生起そのものとして捉えようとしているのだ。鳥の存在は、ある特定の「世界」つまり「時-空間」に即した、ある特定の様態をとっているということだ。鳥は飛んでいるというあり方とともに捉えられる。飛んでいるのはどこからどこへという「時-空間」を生じさせ。そのどこへは「餌を捕る」ことになり、その餌を捕ることは鳥の種類に応じて、虫を捕ることであったり木の実をつつくことであったりする。このように餌を捕ることは、その都度特定の「世界」と結びついている。つまり、特定の世界と不可分なのである。ハイデガーにとって、「存在」とは誰にとっても共通なものではなく、「場所」に規定されたものだ。ハイデガーの土着性や故郷やフォルクをめぐる言説はこのような「存在への問い」と深く関係している。これに対して、存在とは共通なもの、普遍的なものという捉え方が伝統的な西洋哲学の存在理解のあり方である。今日の我々が前提としている西洋的な知の普遍性というのも、実はこうした知によって開示された存在が普遍的であるという想定に基づいている。ハイデガーの考え方はそうした知の普遍性のあり方に異を唱えるもので、そうしたスタンスこそが政治性を備えることに繋がっていると著者は言う。
2.ハイデガーの真理論
 伝統的な哲学では、真理はものと知性との合致であるとされてきた。ここでいうものは、伝統的な哲学の眼前に出来した存在者のことである。知性とはものについての表象、すなわち言明である。言明がもののあり方に合致していることが真理とされている。言明が知性の産物であることから、真理は知性に拠っている。これに対して、ハイデガーは存在者が立ち現われていることそのものを真理だとする。そしてこれを非隠蔽性と表現した。彼は、この真理概念を古代ギリシャのアレーティアという真理概念を継承するものだという。アレーティアとは隠蔽を除去することを意味する。真理とは何かが隠れなくあらわになっている事態を指す。
 ある存在者が立ち現われているとき、同時に「存在」が生起してくる。しかも、このような「存在」の生起は「時-空間」の拡がりそのものでもあった。存在者が立ち現われているという非隠蔽性には、このような意味での存在の立ち現われがある。このように、ハイデガーが真理について語る場合、そこに二重側面かある、と著者は注意を促す。彼は真理を存在者の立ち現われという場面で押さえる。しかし他方で、この存在者が立ち現われの根底に「存在」の開示が生起していることに注意を促し、こちらも同じように「存在」の非隠蔽性という意味で真理と呼ぶ。前者は存在者の非隠蔽性としての真理とし、後者を存在の非隠蔽性としての真理とし、とくに後者を真理の本質と呼んでいる。ここで注意すべきは、存在者の非隠蔽性が生起しているとき存在の非隠蔽性は、たいていの場合、見落とされてしまっている。隠れているのだ。これを著者は「地」と「図」の関係に擬える。「地」は「図」に対して目立たないが「図」を際立たせる。存在は、「地」のように隠れていて、現われている。
 我々は、普通、真理というと、学問的考察によって獲得される知のようなものを想定する。しかし、このような真理観は、伝統的哲学による正当性としての真理という捉え方に準拠したものにすぎない。ハイデガー的な真理観はこれとは異なる。存在者がおのずと立ち現われてきて、有無を言わない仕方で人間を圧倒し規定する出来事そのもののことを指している。このような存在者の立ち現われにおいてある固有の「時-空間」が生起し、それが人間を捉えるという事態、それをハイデガーは真理との根源的意味と見なすのである。
3.人間の本質の捉え直し
 これまでに述べてきた「存在」や「真理」の捉え方の変化は人間のあり方自体の変化をもたらすということが想定されている。「存在への問い」において人間は、「存在」が生起する「場」と規定される。そしてこの「存在」の生起の「場」であるということに応じて人間は「存在」を「気遣い」、「見守ること」をその本質としてもつとされている。
 「現存在」という名称も、人間を「存在」生起の場として捉えることに基づいている。現存在の原語Daseinというドイツ語は“何かがそこにある”という動詞で、ハイデガーが人間を「そこにある」ものとして、この場合の「そこ」は「存在」が生起する場を指している。人間は、この場のうちにおのれを見出す存在者であることを現存在という用語によって表現されているのである。ただし、この「場」というのは、単に「そこ」と指差すことができるような空間に位置を占めることを意味するわけではない。「場」とは、そこにおいて存在者の「存在」が生起し、我々に、それに対して何らかの形で応答することを迫ってくるような場所である。言い換えれば、我々がそれぞれに直面する現場とか状況と言ってもいい。したがって、現存在には「そこ」に投げ出されているというだけでなく、「そこ」に立ち会い、「そこ」を覚悟して担うという能動的な面もある。このように、現存在は人間を「存在」の生起する「場」として捉えるものだ。人間というのは、おのれとは異なる存在者が「存在」によって規定されている。つまり、人間が人間であることの根拠は、人間それ自身のうちにはなく、自分にとって他なるもの、すなわち「存在」の生起のうちに見て取るということになる。
 このような人間の捉え方は、人間を理性を備えた動物と捉える西洋哲学の伝統的人間観に意識的に対置されるものだ。

 

2023年10月 2日 (月)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(3)~序論

 ハイデガーは『存在と時間』で自身の思想的立場を表現するに当たって現象学や解釈学など既存の哲学的方法に依拠した。またそこで扱われた思想的モチーフには、過去や同時代の哲学者から引き継がれたものが多かった。この本には、他の哲学者から受けた影響が分かりやすい形で示されている。それゆえ、何を言っているかがまったく意味不明な好機の著作と比べると、『存在と時間』は相対的に理解しやすいように感じられる。この一見分かりやすいことから、『存在と時間』はハイデガーの著作の中でも唯一無二の人気を誇っている。一方、『存在と時間』は頽落とか世人という人間の非本来的なあり方、またそれとは対極的な死への先駆、覚悟という本来的なあり方について語られているので、人々は思い思いの仕方で現代文明批判や人生論をそこから読み取ろうした。このような特色から、『存在と時間』の読者は「存在の意味の解明」という本来の意図には触れることなく、好みの主題を引き出して論じることができる。ところが、『存在と時間』刊行後のハイデガーは「存在への問い」を独自のコトバで語るようになる。そうなると、『存在と時間』の表現に慣れ親しんだ読者は、彼が何だか訳の分からないことを語り出したように感じてしまう。そして、後期のハイデガーは秘教的とか神秘主義的などと評するのだ。著者は、『存在と時間』の人気は、「存在への問い」、ひいてはその固有性を前面に押し出した後期ハイデガーへの無関心と表裏一体のものだという。
これって木田元のハイデガー解釈の批判と言ってもいい?

2023年10月 1日 (日)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(2)~はじめに

 著者は、現代のハイデガーの受け入られ方が第2次世界大戦時のナチスに加担したとしてタブーのようになっていて、日本だけが例外的にハイデガーへの興味が高いという。著者もハイデガーとナチスの関係を否定しない。むしろ、彼のナチスへの関与は、彼の哲学全面的に基づいたものだった。ハイデガーの試作の根本課題は「存在への問い」であり、この「存在」は、彼にとってはフォルク共同体を基礎づける意味を持っていた。フォルクはドイツの国民車フォルクスワーゲンのフォルクであり、民族とか国民とか民衆などと訳されるが、正確ではない、ドイツの伝統的共同体の意味合いがあるので、フォルクという表記をあえて使っている。ドイツは第1次世界大戦に敗戦し、その復興においてフォルクの再生が叫ばれた。ハイデガーの哲学も、このような時代背景の下で、知の刷新によりフォルクを新たに基礎づけようとする試みであった。つまり、彼は「存在への問い」においてフォルク共同体の真の根拠となるものを追求していた。彼が、当時の学生たちの間で絶大な人気を誇ったのは、そのためである。この彼を支持した学生たちは、一方で、ナチスがフォルクの再生を唱える政治勢力として台頭してきたのに対して、支持するようになっていった。つまり、フォルクの再生という点で、ハイデガーの思想とナチスには共通性があった。ナチズムには哲学的に確定したものではなく、自らの力でその内実を変えることができると、ハイデガーは考えた。彼は、自身のフォルク概念に依拠して、ナチズムの人種主義イデオロギーを解体しようとしたのだった。しかし、彼の試みはすぐに行き詰った。それゆえ、ハイデガーのナチス加担を理由として、彼の思想的業績をすべて否定してしまうと、そのことによってナチズムの弱点を根本から剔抉する思想的立場を手放すことになってしまう。しかも、ハイデガーによると、ナチズムはドイツにおける一時期の得意な事象などではなく、むしろ近代的主体性、西洋の合理主義の究極的な帰結とみなされるべきものなのだ。この見方に従えば、ナチズム的なものはわれわれの社会を今なお暗黙のうちに規定していることになる。彼の思索を否定するということは、現代社会に潜むナチズム的なものを見過ごし、さらには助長してしまう危険に晒されたままになることを意味する。
 このようなハイデガーの思想の核心は、前述のとおり「存在への問い」にある。彼は、この「存在への問い」はこれまで問われることのない、今までの哲学では語られたことがなかったという。それゆえ、「存在」を適切に語る言葉を、ハイデガーは一から創り上げていくことを余儀なくされた。たしかに、以前にも存在についての考察はあった。しかしそれは、目の前に対象として見いだされた対象物について、その属性を捉えようとするものでしかなかった。これに対して、ハイデガーは事物の存在とは固有の場所や環境と切り離すことはできないという。この意味で、存在を事物のみに注目する従来の哲学の根本姿勢とは違って、場所と不可分に事物の存在を思索するという姿勢の変更(彼は転回と呼んでいる)を促すものであった。このようにして、ハイデガーの思索は、従来にない新たな姿勢で、存在を的確に表わす言葉を探し求めるという試行錯誤を繰り返しながら、その表現をつねに変えていくという性格を持つようになる。そのことが、彼の、特に、後期の著作を難解なものとされ、前期の『存在と時間』が従来の言葉遣いが見られるので、それを彼の主著として、彼の思索を捉えられるという誤解を広めてしまった。と著者は言う。

2023年9月30日 (土)

轟孝夫「ハイデガーの哲学─『存在と時間』から後期の思索まで」(1)

11112_20230930224901  多くのハイデガー解説書は、ハイデガーは現象学の方法論により存在を探求し、主著『存在と時間』を刊行した。しかし、その後、ナチスに関わり、戦後はその責任を問われて隠遁者のようにひきこもり、そこでの神秘的な後期思想は難解、というより他人の理解を求めないようなものとしてあまり触れられない、という言われ方をしている。典型的な解説者に木田元がいる。私の場合、現象学やハイデガーは木田元による岩波新書から入ったので、言ってみれば、木田の呪縛にかかっていた。本書は私のそういう呪縛から抜け出る道を示してくれた。
 著者は、『存在と時間』はハイデガーの主著と言われるが、彼の初期の著作で、しかも中途で核心部が未着手のまま途絶してしまったもので、そこから彼の思索を理解しようとしても核心部がないのだからできっこない。刊行された『存在と時間』を読んで、分かったつもりになったとしても、それは誤解以外にない。ハイデガーは初期から晩年まで一貫して「存在への問い」を考え続けた後期が難解だといっても初期から順を追って追いかけていけばいい。後期が難解だといわれるのは、「存在への問い」が従来のない問い方によるので、既存の言葉で語ってしまうと従来の問い方に絡め取られてしまうからで、ハイデガーは初期から、その試行錯誤を繰り返して、次第にオリジナルな表現になっていったからだという。ちなみに『存在と時間』が完成に至らなかったのは、その試行錯誤のためだという。
 では、ハイデガーはどういうことをしようとしていたのかと、端的に要約すると、西洋哲学の考え方の基礎には、個体(個人)がベースになって、それぞれが実在し、それらによって世界が成っているという発想がある。それぞれのものは神によって創られた被造物というもの。人間でいえば個人はそれぞれに神と繋がっている。それが行き着いたのが近代の主体性とあり、個人主義だが。これに対して、19世紀前半に近代主義への懐疑的な動きが起こった。例えばドイツのワンダーフォーゲル運動で、ハイデガーはそういう動きの中で、フォルク(ドイツの自動車「フォルクスワーゲン」のフォルク)という伝統的なコミュニティ(日本で言えばムラ社会か?)の考え方をベースに人のあり方を考えようとした。それは近代的な個人の主体性批判、その土台には伝統的な西洋哲学の形而上学批判があるというのだが、それがハイデガーの存在論となっていく。そして、近代的な個人の主体批判は、ナチスの西洋近代批判の主張と重なることになるわけで、ハイデガーの後期はナチスとの差別化も考え合せるようになったため、屈折を加えることになり、難解度が増していったという。
 このように考えると、ハイデガーの世界内存在という考え方は、西洋的な個人主体からみれば集団主義的といわれる日本人の考え方に近いとこにあって、かえって日本人に親しみ易いのかもしれない。実際、ハイデガーの日本での人気は世界でも珍しいほどだという。

 

2013年12月 5日 (木)

北川東子「ハイデガー~存在のなぞについて考える」(7)

.時間性の問題─「存在の意味」とは「時間性」のことである

『存在と時間』の後半部分に入ると、ハイデガーは、息せき切ったようにして、「時間性」という問題を出してきます。「時間性」の問題は、自分の存在の最後を考えるという文脈で、「完成の可能性」を考えるという連関で提示されます。私たちのあり方の分析で、今まで問題にされてきたのは、「完成されていない」あり方だった。そのために、今までの分析は、「根源」を明らかにするような分析ではない。私たちにとって、「完成の可能性」はどこにあるのだろうか、この問題を取り上げなくては、自分あり方について基礎存在論的な分析をしたとは言えない。存在論を仕上げるには、自分の存在の完成した姿を考察しなければならないと言うのです。

しかし、問題があります。現に生きているということは、まだこれからも生きるということです。従って、ハイデガーが言うように、存在論の完成のためには、今のあり方には「まだない」という部分を考えなくてはならない、今のあり方のなかにまだ回収されていない部分についての思想を展開しなくてはならない。つまり、「完成の可能性」の方から、自分の姿を捉えることが必要となります。私たちにとって、自分の存在の完成とは何でしょうか。自分姿の最後となるのは、どのようなあり方でしょうか。それは、時間的には「死」のことです。私たちの存在は「死」というかたちで、完成を見ます。

しかし、自分の死という出来事は回収不可能な出来事です。それは、もはや「世界のうちにいる」自分にとっての出来事ではありません。ですから、時間的な最後としての「死」は、到来する可能性して、先取りして受け止めることしかできないのです。つまり、死を覚悟しつつ生きるという「死と向かい合ったありかた」としてのみ受け止めることができます。死と向かい合う時、私たちにとって、「死」は一定時点での生物的な機能停止ではありません。むしろ、いつでもありうる可能性、絶えず到来する可能性という姿を取ります。時間的な完成としての「死」が到来する可能性であるように、自分の姿の完成も、絶えず到来する可能性として、そこへ向かう形でしか可能でないのです。私たちは「死を覚悟して生きる」ことで、ある種の完成へと向かうことになります。

けれども、そう語りながらも、ハイデガーは、絶えず到来するものと言う問題から目を離すことができません。根本的な気分や、刻々と近づいてくる死という形で、自分の方へやって来るものに目を奪われてしまうのです。自分が先取りするものではなくて、自分の方へと到来するものです。

「死」は、自分の時間の終わりという形をとってやって来ます。「気分」は、状況が自分でコントロールできない、もうどうにもできないという形で、何かの到来を告げます。そして、何かの可能性は、自分が先取り的に理解する可能性です。可能性が現実になるのは、時が満ちることによってです。このように、時間は、あちこちの場所からまるで私たちに目配せするように、これまで分析した現象のあちこちで姿を現します。「気分」は、私たちの存在が「投げ入れられた」過去の痕跡を示し、「理解」は、先行的な「投げかけ」というかたちで未来を指す存在論的時間の矢となります。そして、「世間一般」に堕ち込んでしまう私たちの日常的自分は、現在という時間への埋没を意味することになります。どうも、私たちの存在は、このように、様々な時間の系列の中で、絶えず何か到来するものを受け取っているようなのです。時間とは、私たちの方へと到来するものが、私たちの方へと到来するために取る形式かもしれないのです。

 

この本の初めのところで、存在論の究極目標は、「存在の意味」の解明であることが説明されました。ハイデガーは、すでに『存在と時間』の冒頭で、「存在の意味」とは「時間性」のことであると定義しています。私たちは、自分の存在の内に、様々な時間の流れを抱え込んでいます。様々な時間の流れを抱え込むことで、様々な存在が到来するのを可能にしているのです。もし、様々な時間の流れを一つにまとめる「時間性」という問題が解決されれば、私たちが抱え込んでいる様々な存在についても解明できるはずです。つまり、「存在の意味」が解明できるはずです。そして、存在論が完成する筈です。

そして、存在論は完成することなく途上となってしまいました。いや、むしろ、私には「時間性」の理論は完成されてはならないとしか思えません。「存在の意味」は究極的な形で解明されてはならないのです。なぜなら、私たちはまだ生きて存在しており、私たちの後にもまたせおびただしい存在が生きてくれるだろうからです。存在の事実が終わっていない以上、存在論も終わってはならないのではないでしょうか。ハイデガーの存在論が途上でしかないという事実は、私たちひとりひとりに、「存在論的な途上を生きる」とでも言いましょうか。自分の存在を存在論的に位置付けるという重要な課題を与えます。私たちひとりひとりの「自分の存在」は、存在の破片のようなものです。それだけで完成することはない出来事です。けれども、また、同時に、破片である私たちひとりひとりの存在こそが、存在論を完成させるために唯一不可欠な手がかりなのです。存在論がたえず途上であり続けるための基盤なのです。

皆さんのひとりひとりの生きてあることは、ひとつのかけがえのない存在論的出来事であり、そのかけがえのなさにおいて、存在論という哲学も成り立っているのです。「自分が存在している」という明白な事実は、壊してはならない事実なのです。

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