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美術展

2024年5月29日 (水)

宇野亞喜良展 AQUIRAX UNO

2024年5月 東京オペラシティアートギャラリー
Unopos おそらく、会社員として最後のゴールデンウィーク。休日に出かけるという習慣はなく、旅行などしたいとも思わないので、いつもは家で本を読んだりして、ゴロゴロしているのだが、そんな事情もあって、1日だけでも外出することにした。事前に予定も計画も立てていないので、混雑もいやだし、手近なところをネットで調べて、この展覧会に行ったのだった。玄関を入って、受付で列ができているのにびっくりした。上野の美術館のメジャーな展覧会は、依然に大混雑で痛い目を見たから、その二の舞を踏まないように気をつけて、割合マイナーっぽい展覧会を選んだつもりだったが、展示室も人の列ができて、その列に流されるように、マイペースで作品を見ることができない。そしてまた、展示作品のほとんどが撮影可能となっているため、客のほとんどすべてがスマートフォンを手に、順番に展示作品の前に立つと撮影し、撮影すると、次の作品に移るという規則正しい行進をしている。まるで、カシャッという客たちシャッター音が規則正しいリズムを刻んでいるよう。私などは、そのリズムに合わさせられているように感じられる窮屈さのなかに入り込んだかのようだった。その窮屈さから逃げたくなったりして、落ち着いて作品を見るというこがあまりできなかったという感想。でも、せっかく美術展に足を運んで、現物があるのに、直接見ることを惜しんでスマートフォンで撮影して、さっと素通りしてしまうと、作品の直接的経験という身体的なかかわりができる機会を逃してしまっていいのだろうか。もったいないと思う。実際のところ、スマートフォンで写した画像を通りのと作品を直接見るのとでは情報量が格段に違うのだけれど、情報量のずっと少ないスマートフォンの画像で満足できてしまうのだろうか。例えば、イラストの原画の線の引き方などは、そこに作者の息遣いが明確に感じられるはずなのだが、画像データでは力の入り方、抜き方なんかは見えてこない。などと老婆心を起こしてしまう。あっ!でも、この人の作品は印刷されたりする複製が前提だから、スマートフォンで撮影した画像という複製を見る方が本来的な在り方なのかもしれません。でも、そうであれば、このような会場に展示する展覧会は無意味ということになります。ネットでアップロードすればいいんですから。どうなんでしょうね。
 私は、宇野亞喜良という人のことは知らないので、いつものように、その紹介を兼ねて主催者挨拶を引用します。“日本を代表するイラストレーター、グラフィックデザイナーとして活躍を続ける宇野亞喜良(1934~)。1960年代の日本において「イラストレーション」「イラストレーター」という言葉を広め、時代を牽引してきたレジェンドでありながら、常に進化し続けています。その創作は、イラストレーション、ポスター、絵本、書籍、アニメーション映画、絵画、舞台美術など多岐におよび、1950年代初めのデビュー以来、活動の範囲は限りなく広がっています。本展は、宇野の初期から最新作までの全仕事を網羅する、過去最大規模の展覧会です。1950年代の企業広告をはじめ、1960年代のアングラ演劇ポスターや絵本や児童書、近年の俳句と少女をテーマとした絵画など、多彩で貴重な原画や資料等を紹介します。「魅惑のサウスポー」から生み出される、時代を超越した宇野の華麗で耽美な創作世界に迫ります。”
 展示は、宇野の多岐にわたる仕事を、グラフィックデザイン、企業広告、ポスター、本の挿絵や装丁、版画、絵画といったジャンル別に紹介していました。今回は、上述の事情もあって、あまりじっくり個々の作品を見られなかったので、見た記憶のあるものを個々に述べていくことにします。
 展示の最初に学生時代のスケッチが数点展示されていましたが、普通にちゃんと勉強している。しっかりしているという感じでした。ただ、そこに才能のきらめきがあるとか、個性が感じられるというものではなく、堅実なものという印象です。この印象は、この後の展示を見ても変わることがなく、この人は、強烈な個性とか天才というタイプではなく、顧客の注文に堅実に応えで実績を積んでいった人なのだと思えたのでした。
Unoread1 Unoread2  グラフィックデザインの展示にあった読書週間のポスターです。これは1959年の作品ですが、これを見ていると1960年代後半に手塚治虫がだしていたCOMというマンガ雑誌を思い出してしまったのです。宇野の方が時代が前Unocom なので、COMの方が、宇野の影響を受けたのかもしれませんが、感覚的なものですが、共通するところが多いように私には見えます。あるいは、この後の作品ではより濃厚になりますが、金子國義とも似ているところ。それは、作家性らしさというか、アングラ(この当時は、今で言えばインディペンデントというのをアンダーグラウンドを略してアングラと称して、それに独自のイメージ があたえられていました。)っぽい雰囲気とでも言ったらいいでしょうか。そういうパターンを踏んでいるというか、もしかしたら、このパターンは彼が創ったのかもしれませんが。金子國義は澁澤龍彦つながりの線が見えてきます。並べて展示されているカルピスの広告もそうですが、前衛的な抽象ではなく、あくまでも具象でハイアートのリテラシーに通じていない人々の目に優しUnocalpis いのがベースになっている。カルピスの広告のキャラクターは可愛らしい印象を与えます。とは言っても、人間の子どもでも動物でもなく、人間の子どもと植物を組み合わせて、既存にないキャラクターをつくっています。今でいえばファンタジー的とでも言えるでしょうか。これが、当時では尖がったところど言えると思います。それがアングラ感とでもいうか、見る者に特別な感じを与えるスパイスになっている。
Unoparopu Unosarome  企業広告の展示にあった国策パルプ工業の1965年のカレンダーのイラストです。この鋭敏な線と鋭角的なデザインはビアズリーのペン画を思わせる。あるいは小林ドンゲのエッチングを思わせる。ビアズリーは澁澤龍彦つながりで分かるような気がしますが、この人は澁澤の紹介した世紀末の象徴主義的な絵画などの影響を取り込んでいたというわけでしょう。それが主催者あいさつにあった“耽美”と受け取られるようなものとなっていったのかもしれません。
Unomax Unosubmarine  それは同じころのマックスファクターのポスターもそういうところがあります。マックスファクターのポスターでは、ピーター・マックスによるビートルズのイエロー・サブマリンのアニメ・デザインを思わせるサイケデリック的な雰囲気のものもあります。あるいは、同時代のイラストレーター、例えば粟津潔の影響もあるようにも見えます。この展示されている原画では、既に別のところで描いた画を切り取って貼りつけることもしています。それは手法ではあるのですが、おそらく、作品を作成する際には、手法 に限らず、画面作りにおいても、切り貼りのイメージでつくっていたのではないかと思わせるところがあると思います。この場合は、ビアズリー等のおそらく世紀末の退廃的な画像をパーツの一つ、また、ピーター・マックスに代表されるような当時の同時代としてのサイケデリックな画像を別のひとつのパーツ、これらを組み合わせて、結果として一部でちょっと尖がっているけれど、見る者に抵抗感を抱かせるほどではない安心して眺めていられるものを作っている。回りくどい言い方ですが、この人の耽美は、人々が耽美だと思うパターンを見つけて、それにうまく沿っている。だから、見る人は、彼の画像を見て耽美だと思っても、それで不安になったりすることはないというわけです。前世紀の世紀末の耽美主義者が反社会的存在とみなされたような危険なものではない。いわば、耽美は趣味趣向のひとつです。
Unogendai  その一方で、この人の絵は絵画の素養がない私のような一般人から見て上手な絵を描きます。例えば、週刊現代の挿絵のひとつです。具象で何が描かれているか分かりやすく、我々がそれに抱いているイメージをそのままであるように過不足なく画面に描いている。最初に見た修学時代の自画像のスケッチのころから、上手な絵を描く力量は備わっていたのでしょう。それが、彼のさまざまな描画のベースとなっているのだろうと思います。それは上手ということもそうですが、見る者に分かりやすく伝えるという、いわば、見る者のニーズを的確に読み取り、それに応Unohaha えるという点ではないかと思います。例えば、別の雑誌、「母の友」の表紙絵では全く趣の異なった風情になっていて、それは雑誌や読者の性格に適応しているのでしょう。しかし、絵自体は崩れることなく、しっかりとして、安定しています。だから、安心して見ていられる。というより、目の邪魔にならないから、見ているようで見ないでいられるわけです。宇野亞喜良の作品は、作品として見ることもできるが、見るという集中をしないで、漫然と眺めるというより見ているようで見ないでいるようにことについても適している。目に優しいところがあります。何か回りくどい言い方になますが、例えばこういうことです。部屋の模様替えで壁紙を張り替えたとき、下手な選択をすると違和感が生まれて部屋にいても落ち着かなくなますが、上手くいったときは最初からそうであったかのようにしくりいく感覚があり、部屋でリラックスすることができます。そのとき、部屋で壁紙の柄を見ているわけではなく、壁紙を意識しているわけではない。しかし、下手な選択をして壁紙の場合は、その壁紙が違和感を起こさせているのだから見ていないわけはない。宇野亞喜良の作品は、そのような接触の仕方をしたときも、違和感を起こさせないとこがあるように周到に計算されていると思います。
Unochanson  そして、大広間のように展示室には所狭しとたくさんのポスターが展示されていました。それだけ沢山の仕事をしてきたということでしょう。ここで貼ってあるのはシャンソンのポスターです。この後は人の多さと、沢山の人が作品の前でポーズをとったり、撮影したりUnokaneko する落ち着きのなさに辟易して、足早に通り過ぎてしまいました。その後、階段を上がって、サブギャラリーで難波田史男の作品展示を見て、ようやく気分がよくなりました。

 

2024年5月19日 (日)

北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画(5)~第3章 都市─現実世界を描く

 画家たちが自然の風景や伝説の物語から現実の世界に目を向けたということでしょうか。
Northtown  アウグスト・ストリンドバリの「街」という作品です。ストリンドバリは有名な劇作家。日本でも、イプセンと並んで評価されていた。彼は、絵は素人で、主に執筆が困難になった危機の時期に描いたといいます。この作品は「街」といいながら、画面の7割方が雲で、キャンバス上に絵の具の厚い層が置かれています。パレットナイフで描かれているそうです。遠くに町があり、その一番高い建物が水面に映っている風景画です。この絵は高い空と雲の暗い色が大半を占め、ここだけを離れたところから眺めてみれば水墨画にも見えてきます。そして、白、黒、グレーの配色で、明るく照らされた街の木々が緑で描かれています。この雲はリアルというより表現主義的で、何らかの心情を象徴しているようにも見えます。例えば、同じような、画面中央に町が上下の境界線のようにあって上半分は曇りの空、下半分は海とNorthnorthwest いう構成の作品、17世紀オランダの風景画家ロイスダールの「北西から見たデフェンデルの眺望」と比べて見てください。画面の大部分は雲が湧いている空と手前の海ですが、あくまでも背景で、中心は町の風景です。町は精緻に詳しく描かれているのに対して、空の描き方は少し粗く控えめです。また、空と海は明確に区分けされています。それに対して、この「街」は街の夜景は遠景でぼんやりして、灯火や木々が黄や緑の点のように見えます。むしろ雲が前景のようになっていて、雲の方が絵の具の塗が厚いし、ダイナミックな動感があります。そして、画面下部の海は暗く波打っている様子は、上半分のダイナミックな雲と同じように描かれていて、海と雲は繋がっているようにも見えます。作品の中心は雲、そして海であることは明白です。画面の大部分を占める雲と海は暗く不安定で、心の不安とか動揺が全体で激しく渦巻いている。そのはるか奥の方にほっとするような街の灯りや木々の緑が、ぼんやりとかすんでいるのです。
Northvelanda  ムンクの「ベランダにて」は、「フィヨルドの冬」よりは面白かったが、今日はムンクもありました、でよいと思います。
あとは定番のゴッホの「ひまわり」で、結局、尻すぼみだったか。ずっと以前、東京ステイションギャラリーでの「北欧の風景」でダールを何枚も見た時の印象がまだ残っていて、それを覆すところまではいかなかったようです。

 

2024年5月17日 (金)

北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画(4)~第2章 魔力の宿る森─北欧美術における英雄と妖精

 北欧の芸術家たちは、国際的な芸術的動向に目を向けると同時に、母国の文化的伝統に強い関心を抱き、土地に伝わる民話や伝承から着想を得た。序章も第1章も同じですね。やっぱり区別がつきません。あまり、こだわらない方がいいようです。北欧神話や民間伝承の世界を描いた作品が中心ということです。
Northtemptation  アウグスト・マルムストゥルムの「フリチョフの誘惑」という作品です。この人の作品は序章のところで「踊る妖精たち」を見ました。あの半透明の妖精たちが流れてくる作品です。この作品では、前の白い半透明のファンタジーが黒一色の濃淡だけに限られた空間で、目を凝らして見ないと何が描かれているか判然としないような、それゆえに現実か幻想かはっきりしないような光景ができています。これは『フリチョフ物語』の一場面で、深い森の木立の中でフリティオフとのリング王が座って休んでいて、王は眠りに落ち、フリティオフは王の命を奪うべきか否か、激しい誘惑に駆られている場面ということです。鬱蒼と茂って、あたりを暗くしている針葉樹とその枝が何かを語っているようにも見えます。ドイツ・ロマン派は黒い森のおどろおどろしたのとは違った北欧の森は暗いく危険だけど、ひんやりとした雰囲気で透明感がある。
 Northescape エーリク・ヴァーレンショルの「森の中の逃避」という作品です。これも暗い森の場面です。『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』の一場面を描いたものです。オーラヴ・トリュッグヴァソンの母親が邪悪な女王グンヒルドから逃れるために、生まれたばかりの子供を連れて暗い森の中を逃げる場面ということです。人物の足元でたき火をしているのか、背中を向けている人物がカンテラを持っているのか分かりませんが、その灯りによって3人の人物とその周囲がぼんやりと浮かび上がる。これも幻想的に見えます。この第2章の展示コーナーのタイトルが「魔力の宿る森」であるそのもののように、ここで描かれている森は「異界」であり、人ではない超自然的な存在が支配する領域というような、おどろおどろしさが感じられます。夜の暗さの中で、灯火によりほんやりと照らされ、針葉樹の一部だったり、川の水面に反射してみえるのが雰囲気をさらに強調します。この画面の中心は逃避する人物たちより、周囲の森のおどろおどろしさのようにも思えてきます。
 ここから、階段を下りて、フロアが変わります。
Northmidsummer  J.A.G.アッケの「金属の街の夏至祭」という作品。フロアが変わって、第3章の展示となるので間違えそうですが、リストを見ると第2章になっています。ただ、都市を描いてもいるので、どちらにも当てはまるとも言えます。ただし、この都市は現実なのか幻想なのか曖昧です。スウェーデンの伝統行事である夏至祭の様子が、ビルのような建築物と並列して描かれ、その彩色と画面前方の水に映った虚像によって儚く強調される。その風景が淡い色彩で、モネの「印象の日の出」のようにぼんやりと描かれる。しかし、夏至祭に参加している人々ははっきり描かれるが赤く彩色され、現実感がない。裸のようにも薄いローブをまとっているようにも、音楽を奏でたり、踊っているようなポーズをとっているように見えますが、動きが感じられず止まっているかのようです。人というより人形のように見えます。全体が蜃気楼のような、儚い夢のようなのです。
 この他は絵本の挿絵のような作品が並んで熱心に撮影する人が多かったようですが、スルーでした。最初の序章のところが一番面白くて、だんだんと尻すぼみの印象です。

 

2024年5月16日 (木)

北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画(3)~第1章 自然の力

 19世紀後半、ヨーロッパで興隆した象徴主義が浸透し、北欧独自の絵画を探求する画家たちは、母国の地理的、気象的特徴に注目した。雄大な山岳や森、湖といった自然風景、そして特徴的な夏季の白夜、太陽が昇らない冬の極夜、そしてオーロラが多くの作品の題材となり、特に冬の光景は北欧を特徴づけるものとして好んで取り上げられた。ということですが、象徴主義を感じさせられることはありませんでした。また。自然の風景は序章と重なるので、どう区別するのだろうか、疑問に思いました。時期が違うのでしょうか。序章が19世紀中ごろで、こちらは19世紀から20世紀にかけてということですかね。
Northsheep  アンナ・ボーバリ「羊飼い小屋のある風景、ノルウェー北部での習作」という作品です。これまで見てきた作品とは毛色が変わった。写実をベースにした描き方から、自由度が増したというか、この作品は習作かもしれませんが、塗りが平面的で、しかも色を混ぜないで、画面上で並べるように塗るのはゴッホなどを思わせるところがあります。それだけでなく、画面を見る者に何かしらの物語を想像させるように誘うところもそうです。鄙びた村の風景でも、ダールの「山岳風景、ノルウェー」とはずいぶん違います。時代の違いでしょうか。
Northspring  ニルス・クレーゲルの「春の夜」は、象徴主義を感じさせてくれる作品でした。くねくねと曲がり、いくつも枝分かれしながらひろがっていく木の枝の様子は「春」の陽気なイメージとは反対の陰気で不吉な雰囲気です。単に樹という以上に、何か心情とか雰囲気というものを隠喩的に描いているのではないかと、表現主義的な見方をしたくなります。これまで見てきた作品は、誰々風というように他の画家を思ってしまうのですが、この作品は他の画家を想像することがありませんでした。同じ一本の樹を描いたものでも、序章で見たトマス・ファーンライの「旅人のいる風景」と比べて見ると、その違いというか、この「春の夜」の個性的なことがよく分かります。
 ニコライ・アストルプの「ジギタリス」という作品です。チラシなどでは、同じ人の「ユルステルの春の夜」が出ていますが、私は、こちらの方が好きです。ジギタリスとは、画面向かって右前面の真っNorthjigi 直ぐ立ってピンク色の小さな鐘のような形の花を何個も咲かせている草のことです。毒草、薬草として広く知られているのですが、このことはこの作品で意味があるのでしょうか。白樺の幹が画面全体に密に生い茂って暗くなっている中でジギタリスが塔のように立っています。画面奥から右下へと、勢いよく水が流れる小さな小川が画面を区切って、前景には白樺の林とジギタリスが大きく描かれています。川の向こう側は後景となり、森が開けて3頭の牛が放牧でしょうか草を食んでいます。この3頭は対称的に配置されており、木の幹と相まって、構図に静的で図式的な印象を生んでいます。そして、奥には遠景で農村が望まれます。全体に、平面的で、Yokoyamasen2_20240516233201 図式的で、ゴチャゴチャしていているのに整理された感じで、そういうところは、アンリ・ルソーなどを連想させられます。この画家はムンクに感化され、独特の鮮やかな色彩を用いたと説明されていますが、平面的なところはムンクに通ずるところがあるかもしれません。しかし、この人は素朴というか、あっけらかんとした、それゆえに暗さは感じられません。ちなみに、近くにムンクの「フィヨルドの冬」が展示されていて、わりと有名な作品らしいのですが、私には雑だとしか思えませんでした。
Northsnow  ヴァイノ・ブロムステットの「初雪」という作品です。白夜だか極夜だかの薄暗く、雪が積もって音が失われたような静けさが漂い、港とか街とか本来は喧噪しているはずが静かという幻想的な風景。こういう雰囲気は北欧のイメージにぴたりとはまります。おそらく写実的に描写しているのでしょうが、一面グレーに彩色された幻想的世界に見える。何となく輪郭がぼんやりして、一面霧がかかったようなベBelgkhn3 ルギー象徴主義のクノップフの幻想的な風景画を連想させます。
 第1章の途中から階段を下りてフロアが変わり、そこから撮影可となり、鑑賞者は一様にスマートフォンを取り出して、カチャカチャと撮影にいそしみ始めました。

 

2024年5月15日 (水)

北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画(2)~序章 自然の力─北欧美術の形成

 19世紀、ナショナリズムの高まりを背景に、音楽では、グリーグやドヴォルザークのように国民学派の作曲家が現われたようなのが、絵画においても、起こったということでしょうか。国民学派が民謡を取り入れたのと同じように、故郷の風景や伝説を題材に作品が制作されたということでしょうか。
Northtraveler  会場に入って最初の作品がトマス・ファーンライの「旅人のいる風景」です。ドイツ・ロマン派のフリードリヒの影響が強く感じられる作品です。遠景に厳めしく荘厳な山岳が聳えていて、手前に枝を屈曲された巨木が厳しい風雪に耐え忍ぶ姿を現わす巨人のように屹立している。フリードリヒの作品のシチュエーションそのものです。例えば、「孤独の木」という作品が典型です。フリードリヒの場合、これはまるで何かしらの象徴と捉えられ、例えば、イギリス、フランス、ロシアという大国に囲まれたドイツを、枝を無理してでも広げている姿に擬しているとか、困難に立ち向かう人間に擬しNorthfreed ているといった解釈ができるのです。この巨木に孤独な旅人が後ろ姿で描かれているというのもフリードリヒがよくやるパターンです。ファーンライと同じノルウェーの作曲家グリーグの作曲したピアノ協奏曲がドイツ・ロマン派の作曲家シューマンのピアノ協奏曲とよく似ている。多分、お手本として念頭において制作しているうちに、結果としてなぞるようなものが出来上がってしまったのでしょうか。私はノルウェーに行ったことがないので、何とも言えませんが、この作品は北欧の風景というよりは、ドイツ・ロマン派の風景に見えてしまいます。明治大正の日本の洋画家が、芸術の都パリに留学して、帰国するとヨーロッパの明るくカラッとした陽光と日本の湿潤な光との違いから、パリで学んだとおりに描くことができないことに悩んだといいます。おそらく、この北欧の画家も、イタリアやフランスの絵画を追いかけて南欧の絵画では北欧の光を捉えられないことに気がつき、南欧の陽光的でない北方風のドイツ・ロマン派を知り「これだ!」と飛びついたというところではないかと想像します。
 Northfall となりで、より大きな作品が、マルクス・ラーションの「滝のある岩場の景観」という作品です。ゴツゴツした岩稜の描き方などはフリードリヒの影響を見てしまいたくなりますが、滝を落としている切り立った崖が壁のように続いているのは北欧特有のフィヨルド地形ではないか思います。それよりも、この画家の特徴はダイナミックな滝の奔流の描き方だろうと思います。ラーションという画家は、もともと海景画を得意とし、荒れ狂う海で波にもまれる船舶や沿岸の風景を描いたと説明されているので、要領で滝を描いたのでしょうか。奔流や高く上がった水しぶきBruknerfred がこの作品の中心であることは間違いなく、全体に暗い画面の中で滝に光がさして明るく映えているところからもわかります。このスポットライトはバロック絵画の光と影をドラマティックに描いたのを思い起こさせます。バロック絵画では光が当たるのはキリストや聖母マリアだったりするのですが、この作品では滝です。そのことに北欧土着の自然信仰を想像するのは考えすぎでしょうか。フリードリヒの「山上の十字架」を連想してしまいます。
Northmountain  ヨーハン・クリスティアン・ダールの「山岳風景、ノルウェー」です。山岳風景というより山間の鄙びた村の風景といたところでしょうか。村に迫ってくるような背景の垂直の岩稜は明らかにフィヨルド地形でしょう。高い山に陽光を遮られて日陰になってしまっている谷間(背景の山の高いところは日向になっている)で光がさして照らし出されたようになっているのが村人が何かの作業をしているところです。「滝のある岩場の景観」では滝に光がさしていましたが、ここでは人々の営みに光がさしています。これは、山間の厳しい環境の中での人々の営みに、文字通り光を当てる、と考えると、ここには郷土愛のような心情のメッセージを読むことができるかもしれません。作者のダールという人は、ドイツに渡ってフリードリヒの友人になった人なので、ドイツ・ロマン派の持つナショナリスティックな心情をよく知っているでしょうから、このような読みは、あながち的外れとも言えないかもしれません。また、この作品の滝の描き方は「滝のある岩場の景観」の滝とは全く違います。このあたりに画家の個性もあるのでしょうね。今までの3作を較べてみると、それぞれイタリアやフランスの風景と違って、明るい陽光や開けた空間というのはない点で共通していますが、明るくない光の空間の暗さの描き方がそれぞれ違います。それが画家の個性によるものなのか、それぞれの国の風景の違いなのかは、私には分かりません。厳しい山岳風景といっても、セガンティーニの描くアルプスと麓の風景とは全く違いますね。
Northfairly  アウグスト・マルムストゥルムの「踊る妖精たち」という作品。山岳風景から妖精のいる幻想にかわります。月明かりに照らされた風景の中で、水の上で踊る妖精たちが描かれています。そのうちの1人は水面にかがみ込み、自分の姿を垣間見ています。ここでは、手つかずの自然の精霊のように、朝霧が妖精に変わる様子を描いています。妖精は、繊細で、優しく、敏感であると同時に、気まぐれで、すぐに感情を傷つけ、よく扱われないと腹を立てる傾向があると考えられていた、北欧神話の隠れた人々に登場する妖精は、地元の民間伝承の中で美しい若い女性として生き残っており、丘や森、石の山などに自然の中で生きていることがよくあるというとです。この画面では妖精たちが半透明に、白い霧のように見えるような見えないような微妙な感じに描かれていて、しかも、それぞれの妖精の顔が分かる。こういうのって、何となく北欧っぽいと思うのですが。ちなみに、現在でも、例えば映画「ハリー・ポッター」などのようなファンタジーでゴーストをこのように表わしていますよね。

 

2024年5月14日 (火)

北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画(1)

Northpos  SOMPO美術館には、コロナ・ウィルスの流行がおさまって以来初めてで、以前とは様相が大きく変わっていました。まず、新宿駅西口から歩いてゆくとビルの横手で分かりにくかったのが、正面に移ってすぐ分かるようになった。受付が1階のロビーになって、並びやすくなった。そして、以前は展示がワンフロアだったのが、3フロアに分かれて、それだけ展示スペースが広くなったように思えます。この展覧会は北欧美術という、ルネサンスとか印象派のようなメジャーにものではないと思っていたのですが、ゴールデンウィークなのでしょうか、来場者は思ったよりも多く、後から後から人が来るという。また、最初のフロアでは撮影不可で、第2、第3のフロアは撮影可となっていて、最初のフロアでは係員が撮影不可の表示を街角のサンドイッチマンのように掲げて歩くという不思議な光景を見た。撮影可のフロアでは客のほとんどがスマートフォンを掲げて、作品を見るよりも撮影に忙しいようでした。例えば、絵の具が盛ってあるとか、筆触のような直接、作品を見ることで分かる画家の息づかいのようなものは、撮影した画像ではのっぺりしてしまって分からなくなってしまう。情報量が格段に違うのに、劣った情報の撮影にいそしむは勿体ないように思えます。だいたい、後でじっくり見ようと撮影しても、顧みられることなく放っておかれるのが関の山だろうと思います。撮影をしたことのない私の僻みでしょうか。
 北欧の画家のことはよく知らないので、紹介もかねて主催者のあいさつを引用します。“本展覧会は、北欧の中でもノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国に焦点を定め、19世紀から20世紀初頭の国民的な画家たち、ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクやフィンランドの画家アクセリ・ガッレン=カッレラらによる絵画をご紹介します。北欧は洗練されたデザインのテキスタイルや陶磁器、機能性に優れた家具の制作地として知られていますが、同時に優れた芸術作品を生み出す土壌でもあります。19世紀、ナショナリズムの興隆を背景に、それまでヨーロッパ大陸諸国の美術に範をとっていた北欧の画家たちは、母国の自然や歴史、文化に高い関心を寄せるようになりました。各地の自然風景、北欧神話や民間伝承の物語が、画家たちの手によって絵画や書籍の挿絵に表されました。ヨーロッパの北部をおおまかに表す北欧という区分は、一般的にノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドの5か国を含みます。このうち最初に挙げた3か国はヨーロッパ大陸と地続きにありながらも、北方の気候風土のもとで独特の文化を育みました。このたび、ノルウェー国立美術館、スウェーデン国立美術館、フィンランド国立アテネウム美術館という3つの国立美術館のご協力を得て、各館の貴重なコレクションから選び抜かれた約70点の作品が集結します。本展で北欧の知られざる魅力に触れていただければ幸いです。”
 展示はテーマ別にはなっていましたが、その区別が明確ではなく、それぞれのテーマでも、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの3か国のそれぞれで違いがあるという感じでした。私でも名を知っているムンクの作品も2作ありました。

 

2024年4月 4日 (木)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(7)~エピローグ 晩年の秀畝 衰えぬ創作意欲

Ikegamishigure  「片時雨」という作品です。後景の黒い森や岸壁は朦朧体で描かれているようです。時雨でもやっている景色、新派とか旧派とか関係ないですね。この遠近感による空間の広がりと、前景の紅葉と、葉が散って舞っているのを細かく描いているのがクローズアップされていて、3匹の猿が点景としてアクセントとなっています。風景の中に入っていってしまいそうな作品です。
 展示を通して見ると、池上秀畝という人は画家というよりは絵師と称した方が似つかわしいのではないかと思います。展覧会あいさつで対比的に取り上げられていた菱田春草と比べると、春草は画家というとイメージが掴みやすいでしょう。春草は新たな日本画を求めて試行錯誤をしながら自身の画風を確立していきました。彼の短い生涯を追いかけると、成長、成熟の過程が見えてきて、そのプロセスで画風が変化したりします。それに対して、秀畝の若い頃と晩年の作品を並べて見ても、画風はほぼ同じように見えます。一貫しているというか。ある意味、スタートの時点で、ある程度出来上がっていた。迷いがなかった・・・、というよりも、自身の画風云々といったことは、あまり考えなかった(といったら馬鹿みたいですが、そうではなく、却って春草方が頭でっかちで考えすぎではないかと思えてくるのです)のではないか。芸術とか、画風、個性とかを考えることよりも先に、筆を持つ手が動いてしまう、そんな風に見えるのです。秀畝は旧派に属する日本画家ということらしいのですが、それにしては、遠近法的な描き方をしていたりするし、花鳥風月のパターンによらず写実的なスケッチによって描いたりしています。また、一般的にいわれる日本画の特徴とされる画面に余白を残すことをあまりしていないように見えます。彼の作品は、西洋絵画的に見えるところがあります。それは、秀畝が鳥や花を見ていて、無意識のうちに筆をとって描いている、その結果、作品が描けてしまった、というように見えるのです。だから、余白をあまり残さずに細かく描き込まれている作品を見ていても、重苦しさのようなものは感じられないのです。西洋絵画は余白が残っていると未完成と見られるところがありますが、画家によっては余白恐怖症とでもいうような、画面を絵の具で塗り重ねる人もいて、例えばゴッホなんかがそうですが、そういう人の作品は重苦しいところがあります。そういうのを好きな人は深刻とか精神性などと称揚するのです。ところが、秀畝の作品には、見ていて楽しい、明るいのです。その理由のひとつに、鮮やかな色づかいがある。色を混ぜると鈍い色になり、重く暗い印象が強まります。秀畝は色を混ぜることをあまりしない。また、“高精細”とは、この展覧会で秀畝を評していますが、たしかに精密に描き込まれていますが、細かいという感じはしません。それは、秀畝の描く線が意外とゴツゴツしていて、しかも入りと出がはっきりしている。それによって、線が生きいきとした生命感(躍動感)がある。だから、精密な静止ではなく生きている。それは、頭でいろいろ考えるのではなく、身体感覚として手で描いているというものであると思います。春草の作品が、その当時は新しい日本画として時代をひらくものだったのに現代の今見ると古色蒼然と移るのにたいして、秀畝の作品は時代を感じさせず、今、古い感じがしないのは、そのためではないかと思います。

 

2024年4月 3日 (水)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(6)~第4章 秀畝と屏風 画の本分

Ikegamiautum  文展や帝展などの展覧会では、大型の掛軸や屏風が主流で、特に六曲一双の屏風は人気のアイテムでした。秀畝はこれらの展覧会用作品だけでなく、旧家や大家族向けにも多数の屏風を制作していたそうです。
 ここで、別の部屋に移ります。廊下に椅子があって、そこで一休み。圧倒され続け、疲れました。ここで、スケッチ画のことを全く書いていないことに気がつきました。書き切れません。ここまできたら、いっそのことスルーことにします。
 そして、新しく部屋に入って、目に入ったのは屏風ではなく掛け軸でした。「秋日和」、これも第2章に属する作品でした。この作品で描かれている鳥は七面鳥です。さきほどの青鷺といい、ここでの七面鳥といい、秀畝は好奇心が強いといいますか、従来にない題材にも果敢に挑戦するひとのようです。しかも、しっかり実際にスケッチして細かく描写している。伊藤若冲にも負けないですね。そして、縦長の画面は上に行くにしたがって遠方になるという遠近法で構成されているようです。この人の描き方は概して、空間が感じられるようで、平面的な印象の作品は、あまりありません。そんなところからも、旧派と称するのは適切ではないと思います。
Ikegamitake  「竹林に鷺図」は六曲二双の屏風です。この展示には屏風を座敷で鑑賞するかのような体験を提供するための工夫が施されていました。水墨画のような作品ですが、竹の葉が薄い緑で描かれていて、それが画面に清涼感を与えています。秀畝は色彩を作品から切り離すことがない人なのですね。

 

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(5)~第3章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、“高精細画人”の礎

 秀畝の写生帖やスケッチ画が数百点残されており、これらは師である寛畝によって重視された写生の習慣によるものだということで、寛畝は日常的に写生帖の提出を求め、秀畝は動物園や街中で多様な被写体を描いてその技術を磨いたそうです。
 2階に上がると、壁一面にずらりとそのスケッチ画が並んでおり、壮観です。秀畝という人の印象を一言でいうとボリュームです。それは、大きさであり、さらに数です。なお、この人の場合はねそのボリュームに質が伴っているから圧倒されるのです。これらのスケッチ画をひとつひとつ追いかけていたら日が暮れてしまうし、そのなかから採り出すのも難しいので、ここではあえて触れません。そこで、展示室の向かい側にはスケッチ画以外の作品が並んでいました。
Ikegamikure  「暮雪」は第2章に属する作品です。絹本に着色された作品で、今まで見た大作に較べれば小品です。雪の積もった木に登る動物はテンというイタチの仲間で、黄褐色の体は冬毛の特徴なのだそうです。細かな毛並みや鋭い爪がリアルに描かれる一方、その表情はなんともユーモラスです。あまり、日本画では描かれない動物だと思います。秀畝は、様々な鳥や動物をスケッチしていますが、おそらくテンもどこかで見てスケッチしたのでしょう。そして、面白かったのは雪の描き方で、重いのです。この雪は重量感かあって存在感があるのです。こういう場合、雪景色が背景になって、白い世界で、それを演出しているのが雪というのではないのです。雪は白い背景ではなくて、少し絵の具が盛られているようで確固として存在感があります。白が背景で引っ込んでいなくて、鮮やかなのです。だから、この絵の主役は題名のとおり雪なのではないかと思います。
 Ikegamisanyu 「歳寒三友」も第2章に属する作品で、「暮雪」と同じ季節、雪が印象的な作品です。「歳寒三友」という題名は、厳寒を共に耐え忍ぶ3種の植物を意味し、一般に松竹梅を指すということです。しかし、秀畝は本来「松」を描く所をあえて「椿」に差し替え、鮮烈な赤を画面のアクセントとしました。この作品の雪は、「暮雪」よりももっと存在感がある。胡粉を盛り上げた雪は、実際に触れそうなくらいリアルです。しかも重量感がある。その雪の鮮やかな白の下から木の幹の黒々としたのと、梅の花のピンクと椿の赤がとても印象的です。この人の描く冬は寒いとか、寂しいという感じがなく、鮮やかなのです。この人の特徴なのでしょう。この人は鄙びたとか、枯れるという性格の絵は性に合わないのでしょう。
Ikegamisummer  「盛夏」も第2章に属する作品です。六曲一双の屏風は、先程見た「花鳥四季」の「夏」を横長の画面に拡大し置き換えたような内容です。真ん中に芭蕉の葉がデーンとあって、それを上から地面を見下ろすようにして、下の地面には紫陽花などの花が、芭蕉には朝顔のつるが巻き付いて、ところどころで青い花を咲かせていて、木には石榴の赤い花が咲いている。真ん中の鮮やかな緑の芭蕉を中心に、石榴の花の赤、そして紫陽花と朝顔の青が点描のように散りばめられている。さらに、その周囲を黒い鳥がアクセントをつけています。大胆な構図で、鮮やかな色彩が印象的です。日本画というよりグラフィックなイラストを見ているような気がします。
Ikegamisugito  「桃に青鷺・松に白鷹」も第2章に属する。杉戸絵ということで、杉の戸の裏表に直接描かれているので、展示室の中央に置かれて、表と裏と両方から見ることができるようになっています。「桃に青鷺」に描かれているのは、最初は孔雀と思ったら、青鷺という鳥だそうで、東南アジアに分布する鳥で、一説によれば想像の鳥である鳳凰のモデルになったとも言われているそうです。そんな、あまり知られていない鳥を、多分、画題として一般的でないところ、どこで知って、スケッチできたのかと知りたくなります。その羽のひとつひとつが精緻に描かれています。杉の板目に負けていないのは、その鮮やかな色彩ゆえでしょうか。その裏面は「松に白鷹」で、白い鷹の白い羽の細かな描写を白の使い分けで描き切っている。

 

2024年4月 2日 (火)

生誕150年 池上秀畝―高精細画人(4)~第2章 秀畝の精華─官展出品の代表作を中心に

 秀畝は荒木寛畝主催の展覧会や旧派の公募展で実力をつけ、文展で横山大観や菱田春草といった新派の画家たちと競いました。とくに、第10回から12回の文展で3年連続特選を受賞する快挙を成し遂げ、画壇の大家、人気画家となっていきます。展示のメインとなる作品はここでしょう。
Ikegamishiki  「四季花鳥」という4枚1組の大作です。これはインパクトが大きかったです。画面が大きかったのと、明るく派手で、鮮やかな色彩の洪水という感じです。しかも、その大きな画面を埋め尽くすように描き込まれていて、その描き込みが高精細というほど細かいのです。それぞれで競うように咲き誇る数々の花や埋め尽くすように生い茂る葉や茎や枝。不思議なのは「四季花鳥」といいながら、秋は紅葉の枯れを感じさせるものはなく、冬での葉が落ちたり枯れ木のような寂しいところは全く見られません。すべてにわたって生命感に溢れ、葉は青々とし、冬でも花が咲いています。伝統的な四季の形式的なパターンには当てはまりません。これが伝統を重んじる旧Yokoyamasen2 派の画家なのでしょうか。私は、ジャンルは異なりますがアンリ・ルソーの「夢」に代表されるジャングルを描いた作品を連想してしまいました。例えば、真ん中向かって右の「夏」を見ると、見上げるほどの大画面に、紫陽花や朝顔の濃淡の青が群れ、芭蕉の茎と葉が上昇していくように高揚感を生み出し、上方には石榴でしょうか真紅の花が散りばめられています。それぞれ植物が植物図鑑を思わせるほど鮮明かつ精妙に描かれているのです。また、左隣の「秋」はどうでしょうか。中心部の瘤をもつ屈曲した枝はゴツゴツした線で描かれて、この様子は狩野永徳の「檜図屏風」の屈曲した枝が伸びて画面全体を覆い尽くすようなのを自然科学的な客観性の高い描写でやり直しているかのようです。
 しかし、これだけ植物が大きく生き生きと描かれているのに対して、空間で飛んでいる鳥が相対的に不釣り合いなほど小さいとは思いませんか。
Ikegamitanigawa1  Ikegamitanigawa2 続いて「晴潭(紅葉谷川)」これも圧倒的。展示室で、「花鳥四季」とこの「晴潭(紅葉谷川)」という鮮やかな大作が並んでいるのって想像できないかもしれません。「晴潭(紅葉谷川)」は六曲二双の屏風で、「四季花鳥」よりさらに大きい。全体として谷川沿いの紅葉の風景ですが、全体として明るく色彩が鮮やかです。とくに左側の下部の流れる川面は、伝統的な波模様が描かれ、流れのなかにある岩は水墨画の山水の岩のようなゴツゴツとした線で描かれていて、形式的に描き方とは思いますが、全体として少し離れて見ると、少しも形式的な感じがしません。そのひとつの理由として考えられているのが、3羽の鴨で、とくに中央で羽ばたいている鴨は不自然に頭が大きい感じがしますが、その不自然さが却って羽ばたいている躍動感を生んでいる印象で、リアルな印象を与えてくれるのです。また、右側の無数の紅葉した葉は、一枚一枚が違って描かれていて、それが生き生きと存在主張しているようで、それがリアル感と生命感の横溢を感じさせていると思います。
 1階の展示室については、このくらいに留めておいて、2階に上がります。

 

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