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美術展

2025年5月18日 (日)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(6)~第5章 深掘り!中村正義をよみ解く

Nakamurasvillage  ここから第2会場に移ります。ここでは、中村の多様な取り組みを5つのテーマで紹介しています。これまでの第1会場では、比較的規模の大きな作品をじっくりと見せるという展示でしたが、ここでの展示は中小規模の作品を数多く見せるというように、展示の仕方が変わりました。ここまでで少し疲れ始めてきたので、ここで多数の作品が壁を埋め尽くすような展示に接すると、圧倒されて、丁寧に見る余裕がなくなってきました。なので、かいつまんで
「風景と山水~写生から心象風景へ」
Nakamurassnow  1950年の「山里暮色」。写実的な風景画です。いわゆる花鳥風景の定型的パターンではない、田舎の山里の風景です。当時としては斬新だったのかもしれません。向井潤吉が描きそうな風景です。1969年の「雪景色」は、日展から離れて反逆したため、注文がなくなってしまったときに、この作品をきっかけに注文が再びくるようになったということです。この作品と同じ頃に舞妓を題材にした過激な作品を制作していたのですから、びっくりです。
「花と女~色彩の実験」
Nakamurascosmos  蒼野社に入ったころは花鳥画を描いていたのが、1960年代の反逆の時期に原色を多用する大胆な作品を制作します。1962年の「花(アネモネ)」はその典型です。三輪のアネモネの花の赤が強烈です。そこに青、黄が対立するように配され、そこに赤がドリッピングのように散らされています。1963年の「薔薇図」は画面のほとんどが赤で占められ、アクセントのように黄色が激しく対立しています。太い線が引かれた薔薇の形態は大きく省略され、蚊取り線香の渦巻きのようだし、茎の部分と背景は唐草模様のようです。
 Nakamurasrose 舞妓は、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。この以前に制作された舞妓三部作と呼ばれている作品がある。通称赤い舞妓といわれる1957年の「女」、白い舞妓といわれる1958年の「舞妓」、黒い舞妓といわれる1959年の「舞子」(ここでの展示なし)の3点である。この頃の舞妓は、日展の古い殻を打ち破ろうと試行錯誤を重ね、画面上でさまざまな実験が行なわれていた。例えば「女」では、目の覚めるような朱色の長襦袢を纏った豊満な女を登場させ、「舞子」では、着物の前をはだけて裸体を晒した少女を描いた。現在の時代感覚では、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったという。しかし、日展には「舞妓」を出品した。そこには、隠された部分にさりげなく贅を尽くすという伝統的でありながら、粋で洒脱な日本人特有の美学が横たわっている。その後、第3章で見た1962年の「舞妓」はその薄い膜を剥ぎ取り、鮮烈な色彩を露出させたという。

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そして、ここで同じ1962年の「舞妓」は、さらにドギツイ赤で、形態のデフォルメはさらに進み、むしろマンガに近づいている。このお下品さは、同時代の横尾忠則のテイストに近いものを感じます。そして1963年の「舞妓」は黄色いポップな画面で、全体に黄と紫、赤と緑、青と橙など、意図的に補色を使い、さらにショッキングピンクにより鑑賞者の目を引き付け、人体をこけし人形のようにとらえ、腰から上部の正面を画面の真ん中に配置し、顔の部分は、絵具のチューブから絵具を直接出して凸凹に盛り上げて描いています。一方で単純な形態と円や十字など幾何学模様や明るい色彩が、はかなくポップな軽みを強調しています。1968年の「舞妓之図」は「うしろの人」の方に一歩踏み出したかのような不気味さが現われ始めました。
「自画像から顔へ」
 自画像が壁いっぱいに展示されていました。よくまあ、これだけ描いた。それしか言えません。見切れませんでした。

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2025年5月16日 (金)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(5)~第4章 生と死の狭間で─人人会と東京展へ

 中村は癌の手術を受けたことなどから1970年以降、原色を用いた明るく大胆な作風から、暗鬱な色調の作風に変わっていったそうです。
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 「おそれ」(右側)は1974年の作品。暗い画面に土気色の顔の人物たちが並んで立っているという作品で、人物たちの顔はコミカルにデフォルメされているが、暗い画面が却って不気味さを増している。香月泰男(左側)がシベリア抑留の体験をもとに制作したシベリア・シリーズの暗闇に、生きているのか死んでいるのか分からないような顔が浮かびあがる陰鬱な作品と構成が似ているような気がします。しかも、はっきりと描かれている人物たちの背後の暗い空間にぼんやりと幽霊のような人物が描かれています。ここには、明確に輪郭がある人物たちと、その背後の薄ぼんやりとした人物たちが、それぞれのっぺりとして平面的に描かれています。つまり、この作品には、二つの平面がある多重平面で構成されているのです。薄ぼんやりした人物たちは、背後だから暗闇に溶けてしまって見えるのでほんやりしているのか、実は前面の人物たちの内心の形を象徴的に表わしているのか、あるいは前面が現実であるのに対して背後の面は幽霊の異界で幽霊は前面の人物たちを見ている(憑りついている)のか、いろいろな解釈が可能でしょう。
Nakamuraswhere  「何処へいく」は同じ1974年の作品。マグリットやダリのような写実的に描写した題材を意外な組み合わせで幻想的な光景を作り出す手法を使っているような作品。ここに至って、部分的ではあるが、写実的に描くということに戻っています。前の時期の極端なデフォルメは影も形もありません。潔いほどスパッと切り捨てているのが、この人の真骨頂かもしれません。真っ黒な背景に白い骸骨が浮かび上がるのは、まるでレントゲン写真を見ているようです。それほど、骸骨の描写はリアルです。その真っ黒な背景からは様々な顔が浮かび上がってきます。それぞれの顔はかなり歪んでいて、骸骨と対照的です。この描き方の違いが二つの世界が併存していることが分かります。それを境界づけるのか、あるいはつなぐのか、一筋の足跡が画面中央から下に、まるで奥から手前に向かってきているようにつけられています。何らかの意味合いがあって、見る者に解釈を促す、いかにも意味ありげな、何か言いたそうな雰囲気の作品です。
Nakamurasback  「うしろの人」は中村の最後の作品だそうです。1960年代の作品に見られた蛍光色や原色でエネルギッシュな造形を試みた痕跡というのか、そのインパクト、いわば見る者がひっかかるようなところが、よく言えば洗練されて、ひっかかりなく、受け容れやすくなっていると思います。行く層も塗り重ねられた絵の具が厚みをもって重量感ある画肌を作っています。1963年の「男と女」の絵の具にボンドを混ぜて盛り上げるようにしてマチエールのような画肌をつくって奇を衒っていたのが、ここでは重厚感という見る者に分かりやすい効果となって、いわば洗練されています。あるいは極端に形を歪めたデフォルメは、ここでは落ち着いたものとなり、むしろ蒼白の幽霊を想わせる顔色の女性の顔として、見る人に抵抗感を起こさせない機能を果たしている。そういうことなどから、反逆とか異端といったレッテルを貼られるほど極端な変化をしてきた画家に、洗練とか成熟といったことは似つかわしくないかもしれませんが、この作品には、落ち着きが感じられます。中央の女性の背後に影のような何者かが立っているのは、「おそれ」や「何処へいく」で見られた二つの世界の系統と見ることもできます。これは、人間の二面性(陰と陽)とも、しのびよる死の影とも、多様な解釈が可能でしょう。そして、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。舞妓は、化粧と衣装によって真実を覆い隠すペルソナの側面をもち、いわば化けた者です。その白塗りの顔は、彼女の素顔を隠しているという、二重の存在でもあるわけです。つまり、この作品は女性Nakamurashirakawa と背後の何者かという二重性と、当の女性が二重性の存在であるという。しかも、彼女の蒼白な顔色は幽霊のようにも見えて、生と死の二面性が見られる。
 ここからは、区画が変わって、一采社や日本画研究会、人人会やその他で中村と関係していた画家たちの作品が展示されていました。そこで、いくつか印象に残った作品がありました。
 平川敏夫「樹炎」。平川敏夫は中村との交流の中で日本画を始め、はじめは人の気配の途絶えた漁村や夜の庭園、水辺の景色など幻想的な表現で描いていたが、樹木の根源的な生命力に注目しシリーズで描くようになる。当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていましたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至り、生命力の称揚は頂点に達したといいます。この作品は、その朱で、枝が絡み合う生命体のような威容を示しています。
NakamurasomoriOyamadaancent  大森運夫「ふきだまりⅡ」(左側)。大森運夫も中村の勧めで日本画を始めた。「ふきだまり」は三部作で、浅草のドヤ街山谷にたむろする日雇い労働者の姿を描いて、社会の底辺に生きる人々の悲哀とたくましさを骨太い筆致で描き出し、デフォルメされた人物の形は鉈で掘り出したかのように荒く、パレットナイフで厚く盛り上げた岩絵の具は岩肌を思わせるなど、日本画というよりもむしろ油彩画で描いたような印象を与えます。この作品は小山田二郎(右側)を想わせます。
 高畠郁子「惜陽」(右側)。高畠郁子も中村の勧めで日本画を始めた。活動初期に幻想的な植物画を数多く手がけている。なかでも銀箔を用いた装飾的な傾向の強い本作は、多様な植物や鳥獣、虫たちの生命力を讃えた代表作。よく見ると、陽を惜しむ虫や鳥たちに交じって、夜を待つ生き物が茂みの中で目を光らせている。
 Nakamurastakahata Nakamurassaito 斎藤真一「梅雨の頃」(左側)。斎藤真一は1974年に中村らとともに人人会を結成した。津軽に旅した斎藤は盲目の旅芸人・瞽女たちの存在を知り、翌年より一連の制作を始めた。本作では青白い光に照らされて、ひとり髪を洗う半裸の瞽女が描かれている。周囲の赤い縁取りにも髪を結った瞽女の顔が描き込まれているが、彼女たちはこの瞽女の想いを哀調込めて唄っているように見える。このデフォルメした女性の顔は、中村の「うしろの人」と通じているようにも見える。

 

生誕100年 中村正義 その熱と渦(4)~第3章 日本画壇への挑戦─日本画研究会発足

 1961年に中村岳陵の蒼野社をやめたのを転機に、セピア調からカラフルな作風に転換し、当時としては先鋭的な作風を追求していくことになるということです。
Nakamurasmaiko2  「妓女」は1962年の作品。これまでの淡い色を基調とした落ち着いた調子から、突如、鮮やかな赤を中心に原色を多用した激しい色彩に一変しました。中村本人のコメントが図録にあります“私は自分の好みではない色、関心をもたなかった色に挑戦を試みた。…私自身好きでもない関心もない原色へのこの実験は、数か月たたないうちに、私の既成概念を完全に破壊してしまったようである。私はこのような破壊行為が意識的に計画的に試みられて、私なりの成果をあげたことに狂喜しているわけである。私は私を破壊することに成功した。”ということですが、これは後で語っているだろうから、本人が物語を創っている演技に近いものでしょう。というのも、以前の「舞妓」という1959年の白を基調にした作品と女性の形態は、それほど変わっていないように見えるのです。人物は全体にのっぺりして平面的だし、顔には表情がなく、眼は白目のないアーモンド形のべた塗りということで、ほとんど変わっていません。それが、色彩を転換させただけで、これほど印象が変わってしまった。とくに、以前の作品では中間色の濃淡を塗り分けていた背景を原色を対立するように塗り分けて、それがドギツイ印象を与えています。これまで、意味不意の濃淡だったのが、ドギツイ緊張感を作り出すという意味が分かるものに変わったように思います。そういうことから、この人は表層の人だということを、この作品は如実に示している。そのように私には思えます。
Nakamurasman2  Nakamurasman 翌1963年の「男と女」という作品です。「妓女」をさらに奔放にしたような作品と言えましょうか。画面の全面が真っ赤の「妓女」の方が色彩のインパクトは強いのですが、蛍光塗料にボンドを混ぜ合わせて、油絵のマチエールのように厚く盛り上げているのが奇を衒ったといいますか、日本画だと思って見た人を驚かせるであろうことは想像できます。また、描かれた題材のかたちについては、「妓女」では以前とはそれほど変わっていなかったのに対して、この作品では形をかなり崩しています。ほぼ同時代(少し前かもしれない)のヨーロッパにおけるジャン・デュビュッフェなどのアンフォルメルのムーブメントによる伝統否定の表現を想わせるところがあります。その一方で太い黒の輪郭線によるコミカルな形によってポップアートの雰囲気も感じられます。おそらく、中村は同時代の最先端の流行として情報を得ていたのではないか。そういう時代状況というか時流に敏感に、敢えて言えば目端のきいて、このようなスタイルを採っていって、そこに反逆といった大義名分を付加した。後の時代からの目線では、そのように映ります。それほどに、この作品はスマートなのです。そしてさらに、後年の中村は、このようなスタイルから写実的な表現に変わってしまいます。まるで、このときは麻疹にかかっていたとでもいうように。そこに、どうしてもマーケティング戦略を見てしまうのです。ただし、それは決して悪いことではなく、積極的に評価できることです。だから、情熱に駆られた反逆というストーリーには違和感を覚えるのです。これは、あくまでも私が作品を見た印象です。とこで、作品の流れとしては、前に見た1960年の「太郎と花子」の流れを汲むような感じですが、男女があからさまに絡み合うポーズは浮世絵の春画の影響と説明されていました。
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 「源平海戦絵巻」は大作です。全五図の構成だそうですが、展示されていたのは第二図「海戦」と第四図「修羅」の二作品。これが、本日最大の収穫でした。これはすごかった。画家が技量の限りを尽くして、精魂を傾けた作品だと思います。「海戦」は大きな画面を埋め尽くすように描かれた合戦の武士たちの顔はマンガ的でユーモラスではあります。しかし、これだけ夥しい数の武士たちひとりひとりの表情はすべて違っていて、それぞれが個人として独立した意志をもった人物として描き分けられています。その武士たちが、各々の意志をもって戦っている。また、中央の船には女官たちそれぞれが、強い意志で戦いを見守ったり、おののいたりして行動しています。この画面に描かれている多くの人間のひとりひとりが皆、必死に生きている。その姿が細密に描写され、ひとりひとりの姿が積み重なって、やがては画面全体に大きなうねりのような動きを作り出しています。それは、描かれた源平の時代の歴史の大きなうねりを感じさせる壮大なドラマに見るものを巻き込んでしまうような迫力があります。その一方、この画面の人々の顔色は土気色で幽霊を想わせるところがあり、日本画の様式化された人物描写にパターンにのっとっているところは、現実のリアルとは外れていて、その在り様がこの世ともあの世ともつかない幻想的な世界にも見えてくるのです。この作品は、細部のひとりひとり人間の姿を追いかけて、この人はどんな人なんだろうかと想像をめぐらしてもいいし、少し画面から離れて画面全体のうねりに流されるような体験をしてもいい。どれだけ見ても、見飽きることはない。そういう作品だと思います。「妓女」や「男と女」のような作品を描く一方で、このような作品も描いていたわけで、この人は器用な人であることを再認識しました。

 

2025年5月15日 (木)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(3)~第2章 反逆の兆し─日展復帰と一采社

 中村が日展に1946年の初入選から1961年の脱退までの15年間の作品です。その間、病気療養による雌伏の期間があり、そこで反逆の兆しを見せ始めるということです。
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 「谿泉」という1951年の作品です。谿泉とは聞き慣れない言葉ですが谷間に湧き出る泉という意味です。ここで描かれた女性の眼に白眼がなく黒く塗りつぶされているところや簡略化した人体のかたちの表現など、一緒に展示されていた高山辰雄の「少女」や「室内」の影響を見ることができます。その高山の「少女」は、人物の描き方や画面の、のっぺりとした平面的なところはゴーギャンの影響らしいのですが、私には、ゴーギャンというよりはモディリアーニの描く少女の顔に似ていると思えてきます。この作品では、背景のグリーンと少女の服の黄色、そして右下の猫の黒といった、彩色され単純化された面の構成が、この作品の大きな特徴だと思います。とくに、グリーンが引き立っていて、深Takayamaroom_20250515235501 いグリーンが靄のように画面を覆っていて、そこにアクセントを加えるように猫の黒が配され、印象を和ら げるように少女の淡い黄色が効果的に使われている。少女の顔に表情はなく、目は空虚に黒く塗られています。また同じ画家の「室内」になると、二人の少女の服の鮮やかな赤と黄色を中心にして、ふたりの周囲の室内の物が色の平面に還元されるようになって、画面全体が色彩で構成されているという、まるでカンディンスキーの初期の抽象画を描き始める直前の作品にようになっています。おそらく、高山という画家は、自身の資質なのか日本画というのがもともとそういうものなのかは別に措いて、人間を描くというときに、個人の持っている感情とか精神的な内面といったものを単独に、直接的に描くという方向を選択することはしなかったと思います。一方、中村は高山にあったように色自体の強さ、鮮やかさのようなものはなく、鈍いというか地味で、生き生きとした感じはなくて、その代わりに群像の女性たちのポーズが西洋絵画の伝統的なヌードのポーズだったりするのではないでしょうか。この作品のヌード群像を見ると、例えばルーベンスなどが描いたギリシャ神話の「パリスの審判」などを思い出す。ある意味、中村の作品は何かしら引用の痕跡があって、それを探すのは、彼の作品を謎解きのように楽しむ要素なのかもしれません。ちょっと不謹慎かもしれませんが。これはあくまでも個人的な感想です。
Nakamurasmaiko1  「舞妓」は1959年の作品です。病気療養による活動のブランクがあって、日展に復帰したのが前年の「女」という作品で、その翌年の日展出品作ということです。この2作を含めた舞妓三部作というのが、通称赤い舞妓といわれる「女」、白い舞妓といわれる本作である「舞妓」、そして展示されていませんでしたが黒い舞妓といわれる「舞子」の3点で、現在の私の視点からは、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったということです。題材の取り上げ方は、変わったところがあったかもしれませんが、構図や描き方については以前と変わった感じはしませんでした。変化として、敢えて言え陰影が見て分かる程度に付けられて、以前ののっぺりとした平面的な感じがしなくなったことですが。とはいえ、意味不意な塗りの濃淡は残っていて、折角つけられた陰影の効果があまり感じられません。その一方で、この作品では背景に、金箔が貼られたかのように光っている感じがするところに、白い着物や舞妓の白塗りの顔の白が浮き上がってくるところに、濃淡が付されていることで、その白への目の抵抗感を少なくしている。つまり、見る者が自然な感じで受け入れやすくしているようなところがあって、この作品では、それなりの効果をもたらしているとも考えられます。後、展示につけられたキャプションでは、赤い眼が情念を表現しているとされていましたが、この作品に表情とか感情が果たして表現されていたのか、そういう深層ではなく、描かれた表層の作品で、中村という作家はそこで勝負しているように私には思えました。
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 「太郎と花子」は1960年の日展への最後の出品作となった作品だそうです。目にチカチカするような原色をドギツイほど荒々しく散りばめた色彩のなかで半裸の若い男女が睦み合う姿が描かれていると説明されていました。不謹慎とか、あるいはヌーベルヴァーグとかと賛否両論を引き起こしたということだそうです。しかし、展示されている作品を実際に見てみると、制作されてから60年以上を経過したためか、絵の具が劣化したたか、当初はドギツかったと思われる色彩は鈍化して、画面全体が濃いグレーのぼんやりとしたものとなって、具体的に何が描かれているか、ハッキリしません。むしろ、濃いグレーを基調とした画面で、赤や黄や青などの色が不定形に点滅するといったように見えます。この作品を見ていて思い出したのが、中村とはまったく関わりがないかもしれませんが、熊谷守一が1931年に制作した「夜」という油絵です。夜の暗闇の中に死体が横たわっている。しかし、画面の黒の地に原色の点がポツポツとあるとしか見えない。中村は、熊谷とは違って、当初から、そういう画面を目指したわけではないでしょうが、結果としてそうなってしまった。そのようになってしまった画面として見ていると面白い。私は、中村と同時代人ではないので、反逆といわれても、当時の日本画をとりまく状況など分からないし、それをリアルなものとして分からないので、歴史上の事件としてとしか分からない。そういう事情を踏まえた上で、絵画を見るというのは、その事情というのはオマケにすぎないと思います。そのオマケがないと、その作品を見ることができないなら、その作品を見る人は限定されてしまうでしょう。私は、この作品を抽象画みたいな作品として面白く見ました。

 

2025年5月13日 (火)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(2)~第1章 研鑽の時代─日展と蒼野社

 中村が中村岳陵の主宰する画塾蒼野社に入門し、そこで研鑽を積んで、日展に出品していた時期の作品です。
Nakamurasevening_20250513233901  「斜陽」は1946年の制作で、第2階日展で初入選を果たしたという画壇へのデビュー作とされています。淡彩の色調は霞や靄に包まれたかのような光と空間の中、民家の土壁を背景に、竹林の幹や葉に斜め奥から夕陽が差し込む逆光を受けて虚ろいゆくときの一瞬を捉えているということです。精緻な線描は、胡粉で線を一度消して、淡彩を乗せた上から再び線描により対象をくっきり描き起こすことによって、装飾的で清らかということです。よく見ると、竹林らは2匹の黒い蝶が描き込まれています。この蝶に何かの意味があるのか、勘繰ってしまいたくなります。日本画には素人の私が、この絵で見てしまうのはそんなところで、作者である中村は下準備を重ね、力が入っているのでしょうが、地味な作品だなというのが、私の印象で、2匹の蝶を含め、意味不明というか、意図がよくわからない部分がいくつかある作品です。その分からない点は、同時に展示されている師匠の中村岳陵の「狭霧霽れゆく」Nakamurasevening2 を見ると、霧が晴れていこうとする木々の間から差し込む逆光の光景で、そこに数匹の蝶が飛び交っている。つまり、「斜陽」は師匠の影響といえると思います。後の展示を見ると分かるのですが、中村正義の作品は、これらが一人の人物によって制作されたのかと驚かされるほどの多彩なのですが、それは、この人がそれほど色々なものが描くことができる器用さを備えていたからだと思います。そうではなくて、不器用で、これしかできないというというのを一途に詰めて自身の作風を大成させるというタイプの人ではないと思うのです。これは数か月前に見た田中一村がそういう人だった思います。何を描いても、それなりに作品ができてしまう。何でも屋さんの器用貧乏で終わってしまいそうなところ、奄美大島に移住して、他にない題材と出逢って、自身の個性を創りだすことができた。中村の「斜陽」は師匠の作風を巧みに消化して、日展に入選してしまえるほどの作品にまとめ上げています。それほど上手い。でも、「斜陽」もそうなのですが、このコーナーで展示されている作品を見ていると、基調としている淡い色彩や陰影でもない濃淡のつけ方の意味(必然性)が分からない。師匠である中村岳陵のスタイルを踏襲しているだけとしか思えないのです。この時期は、中村正義にとって習作期という位置づけなのかもしれませんが、それにしても、このコーナーで展示されている作品は誰々風というのが想像できる。
Nakamurasseisyo  「清粧」は1948年制作の女性像。並んで展示されていた1949年の「少女像」もそうですが、背景を描き込まず、ある場面のなかの人物というのではなくて、人物が独立して抽出され存在あるいは造形として描かれています。日本画では、こういう例は少ないのではないか。このようなタイプの女性像として思い出されるのは、速水御舟の「女二題」とか上村松園の「序の舞」などといった作品です。このあたり、中村という人の頭のよさ、器用さの一面が現われHayamilady ているのではないかと思います。情報への目配りというか、画家たちの新たな試みの情報の敏感で、それを自身の作品に巧みに取り入れてしまう。これは、後の反逆といわれる作風の大胆な転換が、同時代の絵画のムーブメントや社会の動きと連動していたように思われるところで、そこで反逆して玉砕するのではなく、他の画家を巻き込んで、ムーブメントのオルガナイザーとして巧みに身を処して、生き残っていった、その片鱗が現われているというのを、これらの初期作品から読みとるのは、こじつけかもしれませんが。そしてまた、これらの作品では「斜陽」では目立たなかった写実とはすこしズレた色遣いと意味不明な塗りの濃淡がすごく目立ちます。この点で、私は違和感を持たされます。また、人物描写の硬さとを強く感じます。どこか肩に力が入り過ぎて、無理をしている感じが強いです。

 

2025年5月12日 (月)

生誕100年 中村正義 その熱と渦(1)

2025年5月4日(日)平塚市美術館
Nakamuraspos  会社員生活が終わって後のことを考えていたら、時間はたっぷり取れるようになるので、いままで東京とその周辺しか行くことができなかった美術館について、少しずつ遠くの美術館に行ってみるのも、いいかもしれない。地方の美術館とか。そんなことを考えていたら、今まで対象外だった関東圏の美術館に行ってみるのもいいのではないかと考えた。このゴールデンウィークは上野の美術館などは大混雑なのは容易に想像できる。それで、探してみて、ヒットしたのが平塚市美術館。東京の西部に住んでいる私には、朝出て、夕方おそくには帰宅できる。日帰りの圏内で、ちょうどおもしそうな企画展をやっている。朝9時に家を出て、平塚に着いたのは12時ちょっと前。電車は、うまく混雑を外れてくれた。駅前の商店街を抜けて、大きな八幡神社の裏手に市役所や図書館などの公共施設が集まっていて、その一画に美術館がある。駅から歩いて20分くらい。バスも出ているようだが、八幡宮にお参りしたり、散歩がてら歩いてもいいと思う。mu通りに入ると、前庭を広く取った、アーチ状のドームを備えたような凝った外観の建物が平塚市美術館。個人的には、このような凝った外観は、芸術的なんだろうけれど、いかにもという感じで、使い勝手が悪そう。スペースの無駄遣いというか。第1展示室と第2展示室と分けたり、展示室まで無駄に歩かされたり、そのくせロビーが狭い感じがしたり。
 展覧会は、混雑しているのでもなく、閑散としているのでもない、そこそこの入場者。大多数の作品が撮影可のようだが、シャッター音は時たまで、気にならない程度。来ていることは、中高年の夫婦がに目につく、リラックスした格好で地元の人なのだろうか。
 この展覧会の中村正義という画家のことは知らないので、紹介がてら主催者あいさつを引用します。“異端・鬼才・風雲児などさまざまな呼称が冠せられた中村正義は、戦後の日本美術において特異な存在と目されてきました。1924年5月に愛知県豊橋市に生まれた正義は、中村岳陵に師事して戦後の日展で将来を嘱望されましたが、会員に推挙された1961年に師のもとを離れ日展からも離脱します。以後、旧態依然とした日本画壇に反逆し続けました。多彩で精力的な活動を展開する一方で、同時代の作家たちと深く関わり、彼らを巻き込んでさながら台風の目のように強い牽引力を発揮したことも注目に値します。郷里においては美術の専門教育を受けていなかった仲間たちを日本画家として導き、当地にひとつのエポックを築き上げたほか、針生一郎とともに「日本画研究会」を立ち上げ、片岡球子、横山操、浅倉摂、加山又造など在野の画家たちと日本画の在り方について討議を重ねました。また、同郷の星野眞吾と4ともに異色の美術グループ「人人会」を創立したほか、そこから派生して多様なジャンルの表現者を巻き込んだ芸術祭「東京都展」へと展開します。一方で世に認められることなく病没した三上誠の才を惜しみ、回顧展の開催に力を尽くし、若い画家たちへの支援を行うなど、ジャンルや世代を越えて「つながる」ことを重視した作家でした。自身も道半ばの52歳で病没しましたが、決して長いとは言えないその生涯はさまざまな画家や関係者に影響を及ぼすとともに、こうした交流によって正義のダイナミズムが生み出されたとも言えるでしょう。生誕100年を記念する本展では、正義の画業を代表作によって概観するほか、その交流関係にも着目し、関連作家の作品もあわせて紹介します。また、映画や舞台芸術、写楽研究やシステム化住宅など正義の関わった多様な活動に焦点をあて、あらためて正義の実像に迫りたいと考えています。”

 

2025年5月 2日 (金)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(4)~第3章 Modernist/Cobtemporarian・ルドン 新時代の幕開け 1896~1916

 引き続き神秘的な主題を扱う一方で、装飾的な絵画にも取り組むようになります。神話、宗教、人物などわかりやすい主題も手掛け、なかでも、「花瓶の花」は晩年のルドンを代表する画題となります。技法や表現についても、種類の異なるパステルの重なりがもたらす光の効果や、油絵具でありながらパステルのような輝きを発する描き方を追求しきました。と説明されています。
Redon2son  「わが子」と題されたリトグラフ。タイトルの通りに我が子を描いたものなのでしょうが、写実的で、生き生きとした人の姿です。このような作品を見ると、これまで版画集で見てきた稚拙に見えるようなデフォルメされた人の姿は、拙さによるのでは意図的であったことが分かります。むしろ、人物の素描は上手いと思います。
Redon2eye2 Redon2eye3  「眼をとじて」は同じタイトルでリトグラフ2点と油彩画の3点が展示されていました。先ほど見た「読書する人」あたりから、「わが子」などの肖像のリトグラフもそうなのですが、陰影が施されたノッペリした人の形から立体感のある人間が描かれるようになってきています。しかし、それが油彩画となって、彩色されると、色の濃淡はつけられているのですが、のっぺりしてしまうのです。しかし、それまで版画や木炭スケッチなどの白黒の作品ばかり制作していたルドンが色彩の作品を完成させたものだから、無理もないと言えるかもしれません。この作品は、ルドンの作品における転換点となり、木炭作品を初めて色彩豊かに転用した作品であると同時に、絵画における象徴主義の象徴であり宣言でもある。目に見えるものを捉えるためにスタジオから逃げ出した印象派の画家たちとは異なり、ルドンは外の世界を解釈し、主観的で瞑想的な力強い作品を生み出した。と説明されています。すなわち、以前のルドンの作品は『眼=気球』や『笑う蜘蛛』のように、一見不気味で奇怪な世界を、木炭やリトグラフを用い黒という単色のみで構成される色彩で描いたものが大半であったのが、この作品は幻想的な色彩が溢れていると言えます。また、それまでの『眼=気球』のように、目は闇や精神的内面、孤独、不安、死などへと視線が向けられていたものということで、大きく見開かれていた状態だったの対して、この作品では、その目を閉じ、穏やかで安らぎに満ちた表情を見せているように見えます。さらに、水平線によって前の部分と分けられた下部には、人物の左側を照らす光を反射する水面の宇宙が描かれていると言います。
Redondialoge Redon2dialoge  「神秘的な対話」も同じタイトルのリトグラフと油彩画が並んで展示されていました。やっばり、色を塗るとペッタンコの平面的な画面になってしまうようです。さきほど「わが子」というリトグラフを見ましたが、そこに他に並んでいたのが、ピエール・ボナールやモーリス・ドニやエドゥアール・ヴァイヤールといったといったナビ派の画家たちの肖像でした。このような肖像を描くというのは、これらのナビ派の画家たちと親しくしていたためで、そのナビ派の画家たちの塗りが平面的なのです。ルドンの塗りが平面的なのは、彼自身の志向もあるのかもしれませんが、彼の周囲もそういう傾向にあったことも要因しているかもしれません。それと画面設計においてギュスターブ・モローの影響があると思われる。例えば2人の巫女のポーズ(ここで展示されていた「捕虜」などは、モローの「ペルセウスとアンドロメダ」とそっくりのポーズです)とか、背景に奥行がないとかがないとかがないとか、空間のスケールを小さく収めているといったことです。ピンク色の雲がかかった青空を背景に、祭祀に携わる巫女のような2人が柱の下に並んで立っています。幻想的な花々が画面を優しく彩り、赤い枝がひときわ目を引きます。この2人はのうち1人は流れるようなターコイズブルーのドレスを着ており、もう1人は長い白いドレスを着ています。2人は互いに近づき、会話や無言のやり取りをしているように見えます。白いドレスを着た女性は巻物か羊皮紙を持っています。しかし、特筆すべきは、以前に版画集「起源」のところで指摘した画面を平面によって構成しているということが、この作品では色彩をもった油彩画でも行われるようになったということです。この作品では、ピンク色の雲が浮かぶ青い空が一つの平面で、下部の花が咲いているグレーの地面と神殿の柱、そして人物という平面が重なり合っています。そして、それぞれの平面で基調となる色を違うものにして、それぞれのなかで濃淡を塗り分けている。それが効果的に表われているのが、下部で色を散りばめることで花が咲き乱れているように見せている。しかも、そのぼんぼんやりしたようなところが、幻想的な雰囲気となっている。雰囲気、つまりアトモスフェアです。
Redon2beatrice  「ベアトリーチェ」は1897年に制作されたカラーリトグラフの試みです。ルドンのリトグラフは白と黒の2色でしたが、この作品では多色刷りを試みています。ベアトリーチェは長編叙事詩『神曲』の著者として名高いルネサンスの詩人ダンテが恋焦がれた永遠の女性です。ルドンが蘇らせたのは、とぎれとぎれの記憶を頼りに紡ぎだされた追憶のベアトリーチェです。内気なシルエットと繊細なグラデーションは、頭の底深く残響する起きざまに見た夢のように頼りない。届きそうで届かない、禁断の果実のごとく揺れる面影は、一層芸術家の想像力をかきたてると思います。そんなことより、これは「神秘的な対話」で垣間見えた平面で画面を構成するということが前面に打ち出された作品になっていると思います。ベアトリーチェの横顔が平面で、そこに人間の顔の立体感は感じられず、黄色と青の入ったグレーとのグラデーションで、何らかの雰囲気を作り出している。全体に淡い色彩の画面は横顔と背景という二つの平面から構成されて、それぞれがちょうど正反対の色遣いをすることで対照性をつくりだし、それぞれの平面の中でグラデーションをほどこして、安定感と緊張をつくりだしています。このような構成の作り方は、ルネ・マグリットの「大家族」に似ているところがありますが、マグリットの場合はお遊びという奇を衒って、見る人を驚かすところがありますが、ルドンの場合はベアトリーチェという女性の雰囲気を作り出すのに効果的です。こうして見ると、ルドンという画家は、ものの形とか存在とか色彩(光)といったことより、平面で見ていて、描くという志向を基本として持っていた人ではないかと思えます。今回の展示作品を通して見ていて感じたことです。
Redon2paul  「ポール・ゴビヤールの肖像」という1900年のパステル画。習作やスケッチは別にして、ルトンがこんな普通の?作品を描いていたなんて。幻想的で夢の中にさまよいこんだような色使いも、現世との境界線がなくなってしまったような独特の世界感もなく、ここに描かれているのは静けさに包まれた女性の姿。横向きの彼女の視線は作品を見る者から逸らされており、作品の中での彼女の存在に内省と落ち着きを与えています。柔らかなパステル調は光と影の繊細な相互作用を生み出し、ゴビヤールの横顔と衣装の柔らかな輪郭を強調していると同時に、この作品に夢幻的な雰囲気と被写体の気質への繊細な配慮を与えており、これは象徴主義運動におけるルドンのアプローチと一致しています。微妙な変化と落ち着いた色調で描かれた背景は、私たちの視線を被写体に引き付け、彼女の静かな優雅さを際立たせています。ルドンの技法と色彩の選択は、作品全体に瞑想的な雰囲気をもたらし、象徴主義が表現しようとした、人間存在のより霊妙な側面について観る者を深く考えさせます。
Redon2eye4  「眼をとじて」は1900年ころの油彩画で、先ほど見た同じタイトルで1890年ころのリトグラフと油彩画に比べると、以前の作品は水平線の上に女性の頭部が浮かび上がっているという構成でしたが、こちらは対角線で区切られた二つの空間で構成されています。右上は、前に見た「眼をとじて」と同じような空間で、左下は花が散りばめられた、今後登場する花の絵です。一見、眼をとじた女性は花に囲まれている幻想的な光景に見えます。
Redonorpheus  花に包まれるように囲まれるなら「オルフェウスの死」という油彩画の方でしょう。ギリシャ神話でオルフェウスはニンフ(妖精)たちの怒りをかって殺されてしまい、その首が川に投げ込まれ、持っていた竪琴はアポロンによって天に上げられて「琴座」になったという神話です。竪琴の上にオルフェウスの首だけが描かれていますが、ルドンが別の作品で題材にしたシェイクスピアのオフィーリアの死の場面のように、花々に囲まれています。このしめやかに咲き誇る花々の豊かな色彩は、オルフェウスが生前に弾いたであろう竪琴のメロディーを視覚化したかのようです。このオルフェイスの首だけが描かれるというのは、ギュスターブ・モローの「オルフェウス」の影響でしょうか。私には、同じ頃のベルギー象徴派のジャン・デルヴィルの「オルフェウスの死」を想い起こさせます。また、首だけが描かれるというのは、ルドン初期の版画集「夢のなかで」では顕著に見られるものなので、ルドンという画家の中でずっと持ち続けられているものなのかもしれません。
Redon2windowl  「窓」は1906年頃の油彩画です。ルドンは、暗く病的な幻想的な黒の世界から、明るく革新的な色彩の探求へと移行しました。この「窓」は、ルドンの精神性への強い関心、光の性質の探求、そして文学との継続的な関わり (常に当時の一流作家や思想家と対話しながら制作していた) など、ルドンの作品のいくつかのテーマを取り入れているため、この時代の作品の中でも特に魅力的な作品ということで、今回の展覧会の目玉となっているということです。ルドンの窓への関心は、初期の黒の時代の木炭画やリトグラフを制作していた頃にまで遡り。例えば初期の作品である 「昼」では、ルドンは持ち前の劇的なコントラストを駆使し、真っ暗な内部に木というシンプルな風景を描き、その影から謎めいた顔が浮かび上がるように描いている。ルドンの作品全体に窓が多く描かれていることは、光と影に対する彼の強い関心を物語っており、初期の白黒作品の鮮明なキアロスクーロや、後年の「窓」で見事に表現されたステンドグラスの明るさの探求に顕著に表れていると説明されています。また、ルドンはこの作品で色彩を自由に実験し、珍しい組み合わせや不自然な色調を用いることで、彼の黒の時代の作品に顕著な幻想的な感覚を保とうとした。この幻想的世界は「窓」の中央の部分にはっきり表れている。つまり、赤みがかったピンクやきらめくブルーがアクセントになった拡散した色彩のフィールドの中を女性が進み出て、明らかな文脈を外れて存在する。ルドンは、明白な象徴性は控え、神秘的で瞑想的な雰囲気を優先した。そう説明されています。
Redon2flower  ここから展示室は、花瓶の花が描かれた絵画作品の展示は、別に仕切られた区画に集められていました。その区画に入って、まず目にする「青い花瓶の花々」というパステル画。ルドンは初期のころから生涯にわたって花瓶の花の絵を描き続けたといいます。ただ、習作や友人などの知り合いのために制作していたので、黒い版画などの公開する作品とは別に、個人的に描いていたということです。それが。1900年を過ぎるころから公開すRedonflower2 る作品として多くの作品が描かれるようになったそうです。ここで展示されているのは、そういう作品です。この作品は、パステル特有の淡い色彩で、輪郭線をひいて花の形を明確に描くことはしていないので、全体に薄ぼんやりして、印象派のモネの睡蓮を描いた作品と似た雰囲気があります。ただし、花瓶の置かれた場所がどこかわからないような、花瓶が宙に浮いているような非現実的な光景が、とくに違和感を起こさせません。ここで展示されているルドンの花瓶の花の絵は、装飾的な印象を受けます。「日本風の花瓶」では花々が抽象化しい表現されている、その一方で、花弁や茎や花瓶の描写だけは、形を単純化しながら、その背景は全くの無地というか、具体的な場面はなく、さまざまな色彩でもやがかかるように色づけられた空間のなかにぽつんと花瓶が置かれて、花瓶が落とす影すらなく、宙に浮いている不思議な画面になっています。
 図録を購入してみたら、この展覧会は巡回展らしく、他の美術館を巡回して、東京ではパナソニック美術館で開催されているようで、図録には掲載されていても、会場では見ることのなかった作品がいくつかありました。

 

2025年5月 1日 (木)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(3)~第2章 忍び寄る世紀末:発表の場の広がり、別れと出会い 1885~1895

 ルドンの作品が世紀末のデカダンの象徴として文学者を中心に支持を集めるようになる。ルドンの作品の主題は闇の世界ではなく神秘的な光の世界が選ばれるようになり、その黒色は、光を吸収するかのような暗闇を表現するものから、光そのものを表現するものへと変容していき、油彩やパステルによる制作も始まる。
Redonsadface_20250501233401  1885年の版画集「ゴヤ頌」からは「Ⅱ.沼の花、悲しげな人間の顔」の1点のみが展示されていました。同じタイトルの別の作品を前に見ましたが、同じように真っ黒な背景に対して、それよりも黒い植物が一本生えていて、その実が人間の顔で、それが光って周囲を照らしている。グロテスクな姿です。しかし、人の顔が、前の作品の無表情な横顔とは違い、タイトルで「悲しげな人間の顔」とありますが、デフォルメされたマンガのような、別の言い方をすれば手抜きでスカスカの顔は、悲しいという表情を、タイトルからそのように感じようとしなければ、あるいは記号としてマンガの顔を悲しいと読み込む土台がなければ、そうとは見えないものです。虚心坦懐にみれば、空虚とか不気味といった感想が出てくると思います。おそらく、ルドンは人間の感情とか表情を繊細に表現する作品を、他に制作しているわけでもないので、悲しみとか表情といったことの表現の志向があったのか分かりません。ルドンが人を描いている場合は、顔はぼんやりして細かく描かない、したがって表情がないので、この作品のように目鼻がとりあえず描かれているのは珍しいのではないかと思います。「ゴヤ頌」という版画集のタイトルは何かしらゴヤを意識していたはずで、こじつけかもしれませんが、ゴヤの「巨人」とか「わが子を食らうサトゥルヌス」のような人間の表情など入り込む余地のないグロテスクな画面を意識していたのではないかと思います。ルドンの作品は個人的な感情とか内面といったことにこだわるとか表現するというものには、私には見えないで、これもゴヤの画面とかグロテスクさとか黒さといったことを取り入れた結果こうなったという感じがします。
Redon2profil Redon2profil2  「光の横顔」という同じ題名の作品が二つ並んでいました。両方とも女性の横顔を描いた作品で、背景はただ暗い空間で、そのなかで女性の横顔だけがスポットライトで浮かび上がるように描かれている作品です。女性の横顔はマンガのように省略されて線で輪郭が引かれて、少し陰影がつけられている程度です。それに比べて背景の暗い空間は濃淡が細かくつけられて、いて、明らかに力の入り方が違うのが分かります。私は、右向きの横顔の作品の方が、髪の毛をちゃんと描いていて、表情を浮かべているかのように見えるので、こちらの方が好きです。
Redon2spider 「蜘蛛」という1887年のリトグラフです。これも、花が顔の植物とともにルドンでは、よく知られている作品です。ユイスマンスによる世紀末のデカダン小説「さかしま」の中で、“身体の中心に人間の顔を宿す驚くべき蜘蛛”と表現されたそうです。画面は、薄暗い空間の中へ顔と胴体が一体となった非常に足の長い黒蜘蛛が配されるのみで、わずかに背景として描き込まれているのはタイルの床だけです。そして画面中央に描かれる黒蜘蛛は、あたかも悪知恵を働かせているかのように、にたりと気味の悪い笑みを浮かべ、見る者にある種の不快で邪悪的な印象を与えるものです。この黒蜘蛛とその笑みは、ルドン、そして人間誰しもの心(精神)の奥底(又は心の闇)に潜む欲望や嫉妬など、知性や理性と対極にある存在の象徴として具象化された生物であり、そのような側面から考察すると黒蜘蛛の浮かべる薄笑いは本作と理性を以って対峙する観る者をあざ笑っているかのようでもあるということです。黑蜘蛛は、毛むくじゃらのような感じで、足のように明確な輪郭をもっておらず、線をカケアミのように交差させている薄暗い背景とカケアミの密度の濃さ、つまり黒の濃淡の差だけで、その形をとっています。つまり、画面全体としては、カケアミによる濃淡によってつくられるぼうっとした平面、アトモスフェアといってもいいかもしれません。そういうものとして画面がある。そういう作品になっていると思います。
Redon2ghost  1896年に公表された版画集「幽霊屋敷」からは1点のみ「Ⅱ.大きく蒼ざめた光を私は見た」が展示されています。この版画集は、イギリスの作家バルワー・リットンの小説「幽霊屋敷」に基づくものです。屋敷の奥へ続く板張りの廊下で、左手に部屋への出入口、右に鉄の手すりのついた螺旋状の階段があって、廊下の奥は闇に閉ざされているようです。部屋の扉は閉まっていますが、そこから靄のようなものが外に出てきているように見えます。小説では主人公である「私」が下男とともに見たといっているのを、この版画のタイトルでは「私」という1人に限定しているということです。小説では廊下にぼんやりした光が現れ、私たちはそれを追って階段の上の小部屋に導かれるという部分に続くところです。しかし、この版画では、そういう物語的な展開につながる要素は敢えて排除されているようです。そんなことより、この作品は、タイトルのとおり私が見た大きく蒼ざめた光が、描く対象となっている作品といえます。しかし、それは何だか分かりません。はっきりした形をとっていません。何かが描かれていると思えるのは、床と左側の扉、そして右奥の暗闇に溶け込みそうな階段だけです。あとは、画面中央は暗闇です。その他は、左手の扉近くの白い靄のような広がりです。そこには形のあるものがない。つまり、見えない。ここまで、平面とかアトモスフェアとか言ってきましたが、それらは目に見えないものを描こうとしているというわけで、そのことが前面にあらわれたのが、この作品だと思います。
Redon2sunlight  1891年の版画集「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出のために)」からは1点だけ、「Ⅵ.日の光」が展示されていました。アルマン・クラヴォーというは、ルドンが17歳のころペイルルパートの田舎で引きこもりのような生活をしていた頃にであった独学の植物学者です。若きルドンはクラヴォーから、エドガー・アラン・ポーやボードレールらの文学、進化論など当時の最新科学、さらにはスピノザやインド哲学まで、幅広い読書の手ほどきをうけたそうです。そのクラヴォーが亡くなったのを悼んで制作されたそうです。夢想というタイトルのとおりに幻想的な作品が続きますが、その最後の1葉にあたる、この「日の光」にでは、部屋の暗がりと戸外に満ちた光が対照的な、窓辺の風景でした。室内に漂う微生物のような浮遊体や窓外の樹木が、植物学者クラヴォーを想起させるといいます。一見、普通の窓辺の風景ですが、室内の暗さと窓の向こうの明るさのコントラストが、実は、画面中央の窓の外の光に満ちた樹木ではなく、手前の何もないただ暗いだけの部分の方がメインのように見えてきます。そして、よく見ると、その暗闇のなかに胞子のような丸い物体が浮遊しているなに気がつきます。これに気がついてしまうと、もはや現実の風景ではないことに気づかされてしまうのです。ルドンにしては、さりげなく非現実を描いている。
Redon2reading  「読書する人」という1892年のリトグラフ。物語の師絵のような作品ですが、人物に存在感があるのと、物語の一場面のようなは、ルドンには珍しいので、却って印象に残りました。1893年の木炭スケッチの「悲嘆」という作品。ルドンにしては屈折していないというかストレートすぎて、なにかムンクのような作品です。そして、「二人の踊女」という油彩の作品。しばらく、版画やスケッチのような白と黒の作品ばかり並んでいたのが、久しぶりに色彩が戻ってきました。このあたりから、作品が変化してくるような予感がします。とは言っても、この色彩、何か変です。黄色のグラデーションなのか、すごく鈍い感じがします。また、この作品の画面構成は、どこかギュスターブ・モローを想わせます。実は、この後に、そういうモローっぽい作品がいくつか見ることができます。

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2025年4月30日 (水)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き(2)~第1章 画家の誕生と形成 1840~1884

Redonprofile3  その前にプロローグとして「日本とルドン」と銘打って、日本の画家が所有していたルドンの作品が展示されていました。意外なことに竹内栖鳳が所有していたという「花の中の少女の横顔」。写実的な描写で知られる日本画家がこのような幻想的な作品を、画家自ら買い求め、手もとに置いていたというから、驚きました。この二人に共通点があるのだろうか。他には、近代の洋画家に所有された作品が展示されていましたが、その画家たちがルドンと作風がまったく違う人ばかりでした。中でも岡鹿之助の所有していたという「子供の顔と花」という暗闇に少女の顔がほのかに浮かび上がる作品は、明るい雪景色を描いた画家とどう結びくのか、不思議な感じがしました。
 Redon2girl 画家の習作から初期の作品です。44歳までの作品ということで、この人は早熟の人ではなく、晩成タイプの人だったというのが意外でした。一見、奇を衒ったような作品から、若い頃から才気煥発という先入観をもっていたのですが、そうではなかった。
 さて、習作期のルドンに戻りましょう。ルドンがパリで学んだ師匠というべきジャン・レオン=ジェロームの「夜」Redon2night という作品です。うーん、ルドンとの共通性は見つかりません。ドミニク・アングルを見ているような古典派的な作品ですね。しかし、ジェロームは優れた教師だったようで、彼の下から多くの画家が輩出しているようです。ルドンについても、ここで数点のスケッチが展示されていましたが、たしかに上手い。そういう基礎的なところを彼に学んだのでしょうか。ルドンというと世紀末の退廃的というイメージを抱きがちで、そうするとビアズリーのような才能に翻弄されるような想像してしまいますが、ルドンの場合はそんなことはなく、どちらかというと正統的な教育も受け、たたき上げの画家という性格の側面が見えてきます。おそらく、この頃に描かれたのであろう「風景」という作品はまりに地味で何の変哲もなく、ルドンという名から想像されるイメージとはかけ離れた平凡といってもいい作品です。このような、小さなサイズの風景画を数多く描いたと言います。習作とかRedon2landscape 試行錯誤といったことではなく、ルドンの幻想的な作品のベースには、このような作品があるということなのだと思います。それが、何よりもルドンという画家の特徴を形づくっている。
 同じ頃路に描かれた「自画像」です。20代後半の画家の姿でしょう。上手に描かれていると思います。きっと、顔の特徴を巧みに描写していると思います。そういう描写は鍛えられて、技術として身についているのだと思います。しかし、油絵として、どこか薄っぺらい印象なのです。人物に存在感がないというか、人としての肌の質感がない。生き物の生きているという感じがしてこない。陶器の人形のように感じられるのです。あるいは、マグリットのようなシュルレアリストの描くギミックのような人間像のような印象。スケッチの段階ではそうでもないのでしょうが、彩色をすると、それらしい色をつけるだけという感Redon2self じです。色が物に付いていないで、浮いているような印象なのです。それは、たぶんルドンという画家の性質によるものではないかと思えるのです。ルドンという独特な色使いということになりますが、普通の色の使い方ができないということの裏返しなのではないかということを、この頃の作品を見ていて思うのです。そして、この作品、画面の下の方に白い靄がかかっていて、その下は水平な線の下で黒くなっている。この部分だけ上部の肖像画とは別の空間に区分されている。それが、実際の作品を見ていると、それがよく分かります。画面の下の方にそれがあるということは、手前、つまり、作品を見る人は、手前の別の空間を隔てて人物を見ていることになるわけです。
 それにしても、展示作品のなかで油彩画は。それほど多くない。版画やスケッチが多い。とくに、このコーナーは油彩画の展示か少なくて、ほとんどが石版画(リトグラフ)や木炭スケッチです。
 そして、ルドンの最初の版画集「夢のなかで」という1879年の作品。パリでモネやマネたちが参加した印象派展を開いたのが1874年ですから、ほぼ同じ頃に、このような奇々怪々な作品を描いていたのです。写実的な「自画像」から10年足らずの間に、ルドンにどんな変化があったのでしょうか。その変化をプロセスを辿ることのできるような展示は、ありませんでした。ひとつあったのは、ロベルト・プレスダンのもとで銅版画を学んでいたということ。ここから白と黒の織りなす世界に入っていったと考えてもいいでしょう。普通の色使いができないルドンにとっては、色を使わなくていい白黒の世界である版画は、あRedon2man る意味心地よい世界だったのかもしれません。同時代の光が氾濫するような印象派に対して、白黒、とくに黒で満たされたようなルドンの作品は異彩を放つものだったかもしれません。「夢のなかで」を見る前に、「永遠を前にした男」という1870年頃のスケッチ作品がありました。画面の中の黒色の占める部分は少ないですが白と黒による画面です。山の頂上のような岩場で、まだ二足歩行もままならないのではないかと思われる原始人のような裸体の男が、岩場に手をついてじっと空を見つめています。巨大な雲が迫ってくるとっかかりのない空間にすくんだように静止しているこの動物とも人間とも取れる存在。この作品には、ルドン自身により「永遠に沈黙する無限なる宇宙」というパスカルの言葉が書き込まれていたそうです。そうすると、画面の男は、この黙して語らない永遠の宇宙を前に怖れ、戦いていると解釈できます。とはいっても、この男の描き方ですが、人間とも動物ともとれるというものであったとしても、身体の姿勢が歪んでいるように見えます。これまで見てきたスケッチなどから、ルドンには写実的に描写する能力は持っているはずなのに、こんなにちぐはぐな身体、頭とのRedondream3 Redondream4_20250430234202 バランスも含めてです。だから、あえて歪んだ描き方をしている。過度なデフォルメと言ってもいいのでしょうか。それが、さらに進むと、「夢のなかで」の奇怪な生き物になると言えないでしょうか。では、版画集「夢のなかで」より「Ⅰ.孵化」(左側)という作品です。おなじみの、いかにもルドンという作品で、球形の卵ということなのでしょうか、それが円形の断面の中は男の顔が出てこようとしています。そして、次の「Ⅱ.発芽」(右側)という作品では、同じ顔が球形から出て真っ黒の円形に囲まれて中空に浮かんでいるように見えます。また、画面全体は、「Ⅰ.孵化」では真っ白で無ということをおもわせるような何もないというイメージで、「Ⅱ.発芽」では暗闇という世界があるという画面になっている。穿った見方をすれば、発芽したことによって顔が誕生したわけで、人間であれば意識が生まれたことになって、人の意識は自分のいるところを、周囲の環境を自分にとっての世界と認識して、そこにいる自分を置くということで実存するということを考えると、ここでは、発芽することで世界が生じる。その世界というのは暗い世界だったというわけです。もちろん、ルMoreausalome Redondream5 ドンはそんなことを意識して論理的に考えたりはしていないでしょうけれど、そういう解釈も成り立ちうる。こころなしか、顔のほうも、「Ⅰ.孵化」から、「Ⅱ.発芽」になって、すっきりと整っているように見えます。これらの作品の人の頭、つまり首から上だけが宙に浮かんでいるという事態。これって奇怪というか、異様ですが、このような宙に浮く頭部というと、ギュスターブ・モローの「出現」があります。全体の雰囲気は全く異なりますが。アーチの下で舞うサロメの前でヨハネの頭部が光りながら宙に浮くという場面。ヨハネの頭部の光輪は、孵化の頭部が収まっている円とおなじ円形。この後に見ることになるルドンの作品からは、モローの構成やポーズによく似たものが、いくつかあり、ルドンはモローから影響を受けていることが分かるので、「孵化」においても、モローの影響と考えてもいいのではないかと思います。とりわけ、「Ⅷ幻視」は構成がモローの「出現」とほとんど同じです。この円については、円は形として中心から外に向かって、あらゆる方向に拡大するように見えたり、内側に縮小するようにも見える。つまり、外へ広がろうとする力と同時に、外から圧迫される形であるという。ルドンか周囲をできるだけ省略し、円や球に形を凝縮させるのは、彼の孤独な心の内面を表わす一種の抽象作用であるという解釈もあるようですが、果たして、ルドンが孤独であったかどうかは、私には、この作品を見る限りでは分かりません。むしろ、そういう感傷が入り込む余地のないほど夢想が独立していると言った方が、私にはルドンらしいように思えます。
Redon2porn  「骸骨」という1880年頃の木炭スケッチ。「夢のなかで」の後という時期でしょうが、この骸骨の描写はすごく写実的というか、解剖学の図版を見ているような気がします。学校の理科室にある骨格標本とはちょっと違って、人体の筋肉や内臓がある状態の骨の状態を描いているそうです。それが分かるように描いているのですから、ルドンという画家の描写力はかなりのものだろうと思います。それが、「夢のなかで」では稚拙に見えてしまいそうな形の描き方をしている。あえて下手に見せている。その理由が、私には分かりません。まあ、この骸骨の描写力をフルに発揮した「夢のなかで」を想像すると、生々しく、鬼気迫るような恐ろしい作品になっていたと思うのですが。楳図かずおの、異形をリアルに精緻に描きつくした末にユーモラスになってしまうような。むし、ルドンは楳図のような突き詰める手前で立ち止まって、怖いまでいかず、親しみ易さの段階にいるような感じがします。それはそれで、微妙な立ち位置だと思います。この「骸骨」もどると、そういうリアルとも言える描き方がされているのですが、頭蓋骨、つまり顔の部分に何となく表情がある、悲しげな感じがするのです。
Redon2swamp  「沼の花」という木炭スケッチ。暗くよどんだ沼地に生える細い茎に丸く膨らんだ人軒の顔をもつ奇妙な植物。後の「ゴヤ頌」という版画集に同じタイトルの作品がありますが、この作品では、この花が、飛んでいる白い鳥(画面の下の方に、よく見ないとわからないくらい小さく描かれています)の大きさに比べて非常に巨大なサイズということになり、その存在の異様さに対する驚きが強調されています。でもこの異様さは、よく見て、気がつかないと分からない。そして、この横顔は、前に見た骸骨とは違って表情がない。しかも、骸骨では、あれほどリアルに描写していたのに、この横顔は線で輪郭をなぞって終わりみたいな省略した描き方になっています。まるでマンガのようです。前に見た自画像や後で見ることになる肖像画は別にして、ルドンは人の顔をマンガのように省略した描き方をすることが多いようです。それは、顔だけ宙に浮かしたり、植物にくっつけたりするのに好都合だからでしょうか。
Redon2eye  1882年に発表された2冊目の版画集「エドガー・ポーに」より「Ⅰ.眼の奇妙な気球のように無限に向かう」です。エドガー・アラン・ポーの短編小説「軽気球夢譚」にインスパイアされたもの、ということになっています。しかし、物語の出来事の具体的な姿を求めることはできず、ポーの一見暗い冥府を思わせる色合いや、現実世界から離れて閉鎖的に生活する者達に、ルドン自身の幻想と呼応させ題名を付しているにすぎないと思います。気球で海を横断するという物語で、当時の最新技術の気球をモチーフにしたというものに、ルドンは眼球を同体化させたわけです。この眼球は、視線を上に向けていて、その方向は、虚空を、宇宙を、無限を…その気球(眼球)は生首らしきものを吊り下げている。そして、この眼球=気球は明らかに毛羽立ちつつあり、羽化ならぬ孵化が、今まさに始まりつつあるようで、それは「夢のなかで」の「Ⅰ.孵化」に重なるところもある。それが、「夢のなかで」の稚拙さがなくなり、描き方はリアルっぽくなって、それだけに奇妙さが真に迫ってくる。その描き方のなかで、長方形の画面の下の4分の1を水平線で区切って、上の長方形の中央に円(気球)があるという幾何学的な平面による構成で、そういう平面で画面を作っているのが、この作品では自覚的に行われている。これ以降のルドンの作品を見ていると、物体の形を線で明確に描くのではなく、平面の組み合わせで作られているのですが、この作品のあたりから、それを意識的に行われているように見えます。私には、この作品で描かれているのは、むしろ平面であるように見えるのです。
Redonorigin  1883年に発表された「起源」は、9点の作品で構成されたルドン3番目の画集です。制作はダーウィンの死の翌年で、人類の起源について議論を呼んだ「進化論」に想を得たとか説明されていたが、本当でしょうか。その9点がすべて展示されていました。「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」という作品です。「沼の花」では花が人の横顔でしたが、今度は眼球です。眼球が花ということなのでしょうか。そう考えたとしても、その眼球をべつにしても植物とは思えないのですが、仮にそうとして目玉の周りに針のようなのがたくさん出っ張って広がっているのが花びらのようなものなのか、さらに、その外周に円状に描写が段階をつけて変わっていくのは、光が円状に広がっていくようなものとして見ることが出来るかもしれません。そして描かれている草の変化によって、幻想空間を作り出していると言えます。そう考えると、ルドンの作品というのは、一般的な絵画では対象物が画面の中心にあって背景があるというのとは違って、背景の方がむしろ画面のメインの地位にあると言えるのかもしれません。つまり、画面の中で背景をRedonorigin2 つくる平面が主となっている。それは「Ⅰ.眼の奇妙な気球のように無限に向かう」では図形のような構成であったのが、ここでは紙の白地の空白、あえて言えば無でしょうか、から黒い平面が生じる。その境目が曖昧で、そこは草の生える密度の濃淡の度合の変化がグラデーションを作っている。その黒い平面の中に中心である眼球の花が咲いている。そのグラデーションの黒い平面、言ってみれば空間とか空気、アトモスフェアのようなもの。それがこの画面の主たるものではないか。それでもまた、この作品では題名のとおりに視覚が生まれることによって、視覚の対象として見られる世界が生じてきた。その世界が生じるところがメインであって、視覚は、その契機に過ぎない。したがって、単なる契機であれば、そのために都合として描けば良いのでとくにリアルである必要もないわけです。単なるスイッチです。この場合は生い茂る草を世界として描くわけですから、スイッチはその中にある同じような草である方がいい。そして、視覚が生まれるために目を付け足してやればいい。あとは、作品の画面の中で、“らしく”はまってくれていればいいというわけです。そして、「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」という作品です。この画面にはタイトルで触れている岸辺というのが何も描かれていません。一つ目の巨人は大きく画面の中心にありますが、その背景が不定形の波か雲のようなのが一部にあって、あとは空白です。タイトルで岸辺と言っていることだから、何かしら描いているか、それを見る者に想像させるか、いずれにせよ、この作品では、ひとつ目の巨人が明確に描かれていて、その背景と対照的になっている画面と見ていいのではないか。しかも、「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」という題名からは、この中心に描かれているのは一つ目の巨人ではなくて、ポリープ、つまり瘤かイソギンチャクのような海洋生物が、たまたまそのように見えたということを言っています。つまり、不定形な物体なのです。一方、背景については背景の不定形の部分が画面上の多くの面積を占めているわけではありませんが、こちらも形をなしていません。この前の作品「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」が、目の前に存在が現われたという作品であるならば、この作品は何かが存在しているということ、それがたまたま風景として現われているという作品と言えると思います。変な言い方かもしれませんが、このような幻想的とか、あるいは抽象に近いような画面ですが、それは理念とか理論でたどり着いたのではなくて、ルドンは実際に見えていたものを描いていたように思えます。明確に分節化されたようRedonorigin3 Redongoya な輪郭のくっきりした、私たちがリアルと感じているような、見えかたで見ていなかった。見えていたのは、明確な形をした堅固で、それぞれに分節化された物体ではなく、周囲との境目が曖昧で、たえず流動しているような不定形で実体をなしているかどうかわからないような、そんなように見ていたのではないか。それを見たままに描いたのが、ルドンの作品ではないかと思えてきました。そして、この画集の最後の「Ⅷ.そして人間が現われた。彼が出てきた、彼を引き寄せる大地に訊ねながら、暗い光に向かって道を切り開いていった」(右側)という作品。この人間の姿。暗い中で背中を見せた男の姿は、ゴヤの「巨人」(左側)を想わせます。この作品も、タイトルで大地に訊ねるといいながら、大地が分かりません。背景は暗い空間という抽象的なものになっています。後の作品では、暗い空間のみが描かれるというのが出てきますが、この作品でも、全体にただ暗いだけの空間、空気みたいなものが、実はメインだったように思えます。

 

2025年4月29日 (火)

オディロン・ルドン─光の夢、影の輝き

Redon2pos  2025年4月 パソニック汐留美術館
 おそらく会社員生活で最後となるだろう海外主張を終わって、早朝に現地(中国)を出発し、昼過ぎに羽田空港に到着。これまでなら、夕方、会社に戻って整理をするのだが、今日は、最後だし、疲れたので、帰宅しようとした。品川で山手線に乗り換えて、東京駅に向かう途中で、思いついて新橋で下車して、美術館に寄り道。ルドンは以前に三菱一号館美術館でルドン展を見たことがあったが、ほとんど覚えていない。出張の疲れが残り、重い荷物を抱えながら、駅から美術館への道はきつかった。先日の上野の美術館の混雑に驚いたのに比べて、今回は、混雑というほどではなく、閑散としているのでもない、適度な入場者数で、緊張感を保ちながら、マイペースで、ゆっくりと鑑賞することができた。この美術館は上野の公営の美術館に比べるとスペースの広さがないのだが、ルドンの作品はサイズの小さなものが多いので、却って小ぢんまりとした親密な雰囲気の展覧会になっていたと思う。それと、展示室の作品は撮影不可だったのも、静かで、慌ただしくなかった理由だと思う。
 主催者あいさつを以下に引用します。“19世紀末から20世紀初頭を代表する画家オディロン・ルドン(1840~1916)は、フランス南西部の港湾都市ボルドーに生まれ、ジャン=レオン・ジェローム(1824~1904)やロドルフ・ブレスダン(1822~85)らに学んだ後、画家としての歩みを始めました。ルドンは、近代諸科学の発展による技術革新がもたらした社会構造の変化や、自らに起きた出会いや別れといった感傷を、まるで癒すかのように創造の源とし、繰り返されるイメージの中から独自の表現世界を築き上げていきました。木炭、パステル、油彩と画材を持ち替えながら生み出されたその芸術は、無限の可能性を秘め、時代や地域を超えて人々を惹きつけています。日本においても、ルドンが生きていた時代から現代に至るまで、美術や文学、音楽、漫画に至るまで、幅広い分野に影響を与え続けています。本展覧会では、両国で愛されてきたルドンの作品を読み解きながら、作品にみられる始原の光と独立した影が創り出す色彩が変容していく世界へといざないます。2011年以降、世界各国において、世紀末や象徴主義の枠を超えて、ルドンが光に導かれるように向かっていったその先を紹介する展覧会が相次いで開催されました。同時に、それらは関連する文化芸術の世界に触れながらそれぞれの国が大事にしてきたルドンとの関係性に触れる内容となっていることが特徴の一つです。本展覧会は、国内外から借用した作品とともに、岐阜県美術館が1982年の開館以来約40年間に収集してきた250点を超えるルドン作品が一堂に会する初めての機会となります。さらにその主要な作品をより多くの皆様にご覧いただくために国内を循環し、日本においては過去最大級の規模の、企画展という久しぶりの展覧会となることでしょう。さらに、国内に所在するコレクションに改めて注目することにより、日本においてどのように彼の芸術が受容されてきたかを見つめ直します。そして光が色となりその輝きを変化させながら描き出された作品から、ルドンが何を見て、何を大切にしていたのか、私たち自身がルドンと出会う場となれば幸いです。”

 

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