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美術展

2019年8月14日 (水)

メスキータ展(4)~3.自然/Animals and Plants

 ここから、フロアが変わって2階におりて、動物や植物を題材にした作品が並びます。
Mesquitadeer  展示室に入ってすぐのところで「鹿」という木版画作品が三つのバーションで並んで展示されていました。メインであるはずの鹿の姿はシルエットにしてしまって、背景を彫って描いています。地と図が反転しているわけですが、どういうわけか角はシルエットになっていなくて現実にはありえないような三角形となっています。そういえば、鹿のシルエットも直線的で幾何学の図形のようです。それは、おそらく、背景が横線の直線によって描かれていることから、画面が作られているからではないかと思います。このコーナーでは、人物と違って動物や植物がデザインのように変形され、幾何学的な図案のように、直線に還元されていきます。中には、その直線そのものが解体されてしまうような作品も出てきます。それらは、しかし、図案化とか抽象化という意図というよりも、メスキータの身体の動きというのか、ひたすら版木に彫刻等を繰り返して刻むという動きからでてきた結果というものではないかと思います。その傾向は、植物を題材にした作品の方に、より顕著に表われているように思います。だから、そっちの方が面白い。
Mesquitacacuts  「サボテン」いう1928年の木版画作品。とても小さな作品で、目立たないのですが。サボテンの棘を図案化したような図形を反復するように配置して、それだけでサボテンの表現をつくっています。結果として、とても洗練されたデザインのようになっています。これは、メスキータのオリジナルでしょう。見ているわたしも、上のフロアで人物を題材にした作品の気持ち悪さに慣れてきたせいもありますが、それゆえに、この作品のセンスの良さがよく分かるようになったのかもしれません。それほど、この作品には、語る言葉も出てこない。感覚的にカッコいいんです。エッシャーの作品には、こういうのありません。
Mesquitairis  「アヤメ」という1920年の木版画作品。これも、「鹿」とおなじように異なるヴァリエイションが並べて展示されていました。この花のデザインといえか描き方は気味悪い化物のように見えてしまいます。本質的に、この人の描くものって不気味で気持ち悪くなってしまうのでしょうか。花びらがすべて棘のように見えて、柔らかさとか、滑らかさという感じが全くなくなっている。このかたちだけを取り出せば、ホラー映画に出てくるグロテスクな怪物か化物に見えてきます。花には見えない。そして、この背景が謎です。何を描いているのか分からない。意味不明なのです。おそらく、アヤメというタイトルから、この植物は水辺に生えるので水面にアヤメの茎が映って、それが波が生じて、その映った姿が波で変形している様子なのかもしれないと推測します。しかし、それは尤もらしい理屈で、画面だけをみていると水面に映るアヤメの真っ直ぐな茎を、横線で区切って、区切られて短くなった縦線と横線の交錯の反復で画面を作りたかったのではないか。そっちの方が実はメスキータの主意ではないかと思えてきます。中央のメインのアヤメの茎も真っ直ぐ縦に立っているのではなく、葉が折り重なるようになっていて、その葉の描き方も何本もの直線を重ねるようにしてギザキザな葉を形作るようにしています。つまり、葉を直線の反復で、茎を葉の反復という二重の反復で形成させている。ここに、一本の真っ直ぐ伸びる直線を拒絶するように、分割された短いブロックを積みあげるようになっています。そのメインの茎と背景の水面に映る何本もの茎とは線の太さや鋭さが違っていて、それは木版画ならではの鋭さのヴァリエイションなんでしょうが、それが何本も並んだ様子は、石積みのゴシックの大聖堂のような超絶的なイメージです。
Mesquitapaine  「パイナップル」という1928年の木版画です。こちらはパイナップルの実の全体をシルエットのようにして表面の皮の、粒々のような凹凸を、ハッチングしたような扇形の図形の反復で表わしています。それがぴったりとハマって、といもシャープでセンスのいいデザインのようになっています。このようなシャープな感じというのは、エッシャーにも通じるものがあると思います。しかし、エッシャーのような知的なパズルのような遊戯性は、あまり感じられません。それよりも、パイナップルの実という全体の枠をはめられた中で、その中で、扇形の図形を反復させることに熱中しているメスキータの姿を想像してしまうのです。ただ、この人は機械的に反復するだけに終わらず、それを結果として図案化されたデザインに結晶させている。そこまで気を配っているとこめに、この人のセンスがあると思います。しかし、そのセンスは最初から構想して、それに従って反復をするのではなくて、反復が行われるのを何らかの形にでっち上げていく感じのように思います。それは、この後のコーナーの空想という、制約のないところで自由に想像力を働かせたといううたい文句の作品が、下手なマンガのように月並みで、つまらないことからも分かります。この人の想像力のセンスというのは、既存のものやデザインに少し手を加えて違った感じにしてせるような小手先のうまさのようなところがあって、ゼロから作り出すような独創的なものではないと思います。おそらく、この作品を制作したころには、自身の想像力の限界を分かっていて、こういう差異をうまくつくりだせたような気がします。
Mesquitainko  このような図案化、デザイン化は動物を題材とした作品の中でも、鳥を題材にした作品に、その傾向が顕著で、たとえば「コンゴウインコ」という1926年の木版画作品は、普通なら横からの角度で大きくて特徴的なくちばしを際立たせるような構図にするところを、あえて真正面からの構図にして、くちばしが目立たないようにする。また、極彩色の羽の美しさについても、全身を黒いシルエットにしてしまって、これも隠すようなことにしてしまう。しかし、真正面のシンメトリーな構図は、中世のイコンを思わせ、こちらを向いているふたつの目が親しみを感じさせ、しかも、羽根の揃ったところを短い縦線を水平に並べて表わす画像はシンプルでシャープな印象を強くします。最初、この作品を見た時に、私はインコではなく、宇宙服を着た宇宙人の姿かと思ってしまいました。そういうモダンな印象に仕上がっています。
Mesquitafog  真正面の鳥の姿ならば「ワシミミズク」という1915年の木版画です。展覧会のポスターでも使われているので代表的な作品なのでしょう。「コンゴウインコ」ほどのシンプルゆえのシャープさはありませんが、こちらは羽根のひとつひとつを無数の縦線をひとつひとつ引いて表現しています。しかも、その縦の線の主張が抑えられるように、彫りを浅くして、鋭く細い線で、うまく、まとめられています。それゆえに、「アヤメ」や人物画で感じられた部分の過剰で気味が悪くなることはなくなって、とても見易くなっています。とくに、その羽根を描いた結果も用のようになった、そのデザインはセンスがいいと思います。しかし、私の好みからいえば、そういう不気味さがメスキータの面白さだと思うので、こういう作品は万人受けするものだろうが、ちょっと薄味に感じがします。
Mesquitafish  「エンゼルフィッシュ」という1914年の木版画では、「ワシミミズク」のようなセンスのいい模様になっていなくて、魚の胴体の碁盤目模様は、胴体の立体を無視するように、直線の並びの方が優先されていて、主張が強くなっています。また、長いひれの部分は縦線の並びも抑えきれていないので主張が強くなっていて、暗い水面に網目が強調されて浮き上がっているような感じで、魚を題材としているというより、網目が抽象画のように見えてくるところがあります。その反面として背景の黒の水中が虚無空間にように見えてくる。ちょっとした不気味な感じがスパイスのようになっていて、メスキータの特徴がよく分かる作品だと思います。おそらく、「ワシミミズク」のような作品を親しみ易いと感じてしまうのは、エッシャーに通じるところがあるからだと、私などはエッシャーの作品は目にすることがあるので、それに近い作品であるとも、近づきやすくなるところがあると思います。逆に、この作品のように、エッシャーにはない破天荒さが、この人の特徴だとおもうので、メスキータの臭さのようなものが、強い気がします。
 この後の展示コーナーは、「空想/fantasy」というシュルレアリスムの自動筆記のような要領で描いたという、これまでのような人物や動植物を題材にして描いたものではなく、自由に描いたという作品ということでしたが、これまでの作品に比べると面白くなかったので、展示室のフロアの真ん中に展示されていた雑誌の表紙絵も同様につまらなかったので、言うことはありません。
 あと、展覧会図録は買おうと迷ったのですが、バッグに入りにくいし、持ち帰って本箱のサイズに合いそうもなく、やたら重そうなので、やめました。凝った装丁もいいのですが、それなら同じ内容で使い勝手のいい版も同時に作ってほしいと思います。

2019年8月13日 (火)

メスキータ展(3)~2.人々/Human Figures

Mesquitaextacy  Munchmadonna2 ここでは人物を描いた作品が集められていました。さきほど、メスキータの作品はカフカの小説に似た雰囲気があると述べましたが、まさにカフカの小説にピッタリの画家というと、私としてはムンクの名を最初にあげたくなります。ということで、ムンクを想わせる作品が「エクスタシー」という1922年の木版画。同じ版木で違った刷り方をしてヴァリエイションを作り出しているのはムンクもよくやっていた手法です。この画面はスッキリと単純化されて図面のようになっていますが、裸婦の外形をなぞるような形が波紋のように何重にも重なっているのは、ムンクの「マドンナ」を想わせるところがあります。表情もなんとなく似ているし、全体に黒が地になっているとろなんか、よく似ていると思います。メスキータという人は、おそらく強い個性とかオリジナリティをあった人ではなく(だから教師として、エッシャーをはじめとした優れた学生を輩出させることができたのだと思う)、同時代の作家や影響を受けた作家の影が、直接的に見えしまうところがあります。「ユリ」という1917年頃の木版画は、やはりムンクの「病気の少女」や「目の中の目」のような画面構成になっていて、その関係が図式的に見えてくるように思えてしまいます。しかし、「エクスタシー」がムンクの「マドンナ」と決定的に違うのは、例えば、裸婦のMesquitalily 両脇にシンメトリーに配置されたヴェールを被った人物の身体を蔽っているヴェールが縦線と点を反復するように並べているだけで表現しているところです。この作品は、構図こそムンクを想わせますが、画面の白いところは、両脇の人物の顔と中央の裸婦だけで、それらは平面的な図案のようになっていて、かたちをなぞっているだけのようなんですが、それ以外の部分は、木版画の版木を刃で彫ることによる、筆やペンで描くのとは違う肉体的な線で、一本一本に個性があるのを作品のために抑えて繰り返そうしているのだけど、その個性が抑えられなくて表われてしまう。それが、反復に生き生きとした躍動感を生み出していて、その反復がさても面白いものになっています。
 「女のトルソー(“ヘッティ”)」という1920年の木版画は、シンメトリーな構図で背景は椅子の背もたれでしょうか、アールヌーボー風の曲線的な縁どりに、縦線が繰り返されて、装飾的にみえてきます。これは、すこし、アルフォンス・ミシャの装飾的なポスターを思い起こさせるといったら見当はずれでしょうか。たしかに、ミシャの細かく描き込まれた繊細さはなく、木彫の太めの線でシンプルではありますが、部分の差異に、装飾にこだわることで画面全体ができている画面構成には共通点があると思います。いってみれば、それだけでミシャのように女性を美しく表現しようとMesquitatruso か、美を表現しようとか、そういう意図は感じられなくて、これは、前に見た「エクスタシー」もそうですが、図案化した女性ヌードについて、この人は思いいれがないと言うか、美しく描こうとか、性的な含みもなく、リアルにその人物を描こうといった対象への思い入れのようなものがなくて。突き放した感じといいますか、ヌードを図案化したように描いても、身体のたるみのようなところは、普通は隠すと思うのですが、そういうところも平気で描いている。だから、図案のようにパターン化して、背景に装飾のように加えても、全体に装飾的な美しさとかきらびやかさは生まれない。メスキータ自身にそういう効果を見る者に与えようという意図はないかもしれませんが。
Mesquitanude2 Mesquitanude  「喜び(裸婦)」と「悲しみ(裸婦)」とふたつ並んで展示されていた、両方とも1914年の木版画作品。女性ヌードの身体の表現が横線だけでなされています。凹凸を表すのに前方に出て明るいところは太い線、奥の暗い方は細い線って感じで表現している。これがメスキータの大きな特徴だと思います。しかし、これが身体全体に施され、ヌードが横線だけでできている。これを見ていると、感覚的に気持ち悪く思うところがあります。これは、メスキータの作品全体に言えることで、前にも触れましたが、カフカに共通するような暗いとか不気味さといったもので、これは時代状況とか思想しか理念といったところにあるのではなくて、こういう描き方をしてしまうという身体的、もっというと生理的なレベルで感じられることです。そして、この展覧会の惹句で使われているエッシャー(メスキータの教え子ということなのでしょうが、こっちの方が遥かに著名です)の作品には、このような気持ち悪さは露ほども感じられません。これは、同年制作の「裸婦」という木版画で、その横線の配置が、まるで全身骨格の配置に符合するかのように見えて、裸婦像なのに骨格標本のように見えてしまうという作品に至って、その気持ち悪さと荒唐無稽さに唖然としました。意味を深読みしたくなってしまうのですが(例えば“メメントモリ”とか)、メスキータ本人は、おそらく、ただ描いている、というよりも、版木を彫っているだけなんでしょうけれど。そこで、私は、妄想するんですが、この人は、作品全体の構想をデザインすること以上に、版木に横線を一本また一本と彫り刻んでいく作業そのものに喜びを感じるような人ではなかったのかと思うんです。この作品では、身体にうまれる光と影を横線で表わすので、一本Mesquitaboy 一本の横線の太さを微妙に変えて、しかも身体の凹凸を考慮して、横線が上下に並べて引かれている線とは必ずしも同じ方向にはならず、ちょっとずれたりする。そういうことに注意しながら慎重に彫刻刃で木版を削っていく。その作業で、腕や指を動かすという身体の反復動作が楽しかった、そんな感じがします。だから、制作しているうちにやりすぎてしまう。それが見る者には、過剰で気味悪く見えてしまう。だから、メスキータ本人には気味悪くしようという意図は、さらさらない。それが、あえて気味が悪いというのを自分の作品特徴にしようと意図的にやったムンクとは、資質が違うように感じます。
 「少年(ヤンチェ・スケルペンゼール)」という1927年の木版画作品も、輪郭線がほとんどなくて、横線を並べて引いて、その変化で立体的な少年の顔を表現していますが、そのスケッチや下絵が並んで展示されていましたが、スケッチは鉛筆で輪郭線もあって、鉛筆の線をぼかしたりして普通にスケッチを描いているのが、かえって線が少なくて簡素と言っていいのに、それが木版画の作品になると、輪郭線は消えて、横線で顔が占領さMesquitahat れてしまう。制作しているうちに、だんだんとエスカレートしていってしまうのではないかと想像してしまうのです。その結果が、ここにあるように作品で、そこにメスキータという人の特徴があると思います。人物画は、人物のかたちということが制約になっていますが、これが植物や動物を題材にした作品になると、そういう人物画の制約から解放されて、全体のプロポーションをそれに合わせて変えていった作品が見られます。少し、先走りしてしまいました。
 人物画には制約があると申しましたが、「帽子の女」という木版画では、そういう制約を乗り越えて、人物画ではあるものの、デザイン化をエスカレートさせて抽象画のようになってしまっています。輪郭を使わす線の陰影だけで表現ししてしまいました。行くところまで、行っちゃったと言える作品です。これはすごいとしか言いようがありません。かっこいい。ちょっとミシンで縫った刺繍のように見えなくもありませんが。

2019年8月12日 (月)

メスキータ展(2)~1.メスキータ紹介/Introduction

 最初のコーナーは自画像を中心とした作品が並びます。
Mesquitaself 「鬚に手をやる自画像」という1917年の木版画です。この作品で、最初にこの人の特徴と思った視点で、このあと、ずっと作品をみていくことになりました。画面の真ん中に自画像があって、背景が真っ暗でなにもない。で画面の下半分はモデルが黒い上着を着ているので、背景の黒と見分けがつかなくなる。それで、黒い上着と真っ暗の背景の間に区分かるために横線が何本も引かれている。想像するにもこの作品は、画面の全体構成をあまり考えていないのではないか。白黒の木版画は白と黒の二項対立のように構成とか期待しますが。これを見ていても、暗闇に人物の顔が浮かび上がるというようなことは感じられません。しかも、背景の黒と人物の着ている上着の境界に何本も線が引かれているのも不可解です。境界線、つまり輪郭線にしては本買うが多過ぎる。しかし、それを背景の中で意味を持たせているようにもみえません。しかし、その意味の分からない線が面白い。描いている線ではなく、木版画の版木を彫って、刷って現われた線が、躍動感があるというか、存在感があって、それが横に何本も並ぶように横線として引かれて、その反復が面白い。他の場所でも、黒い上着の襟や袖にところを、一本の縦の輪郭線で済ませれば良いところを、横線を何本も重ねて、縦線のようにしている。だから輪郭ははっきりしなくて、皺が寄っているようにも、動いているマンガの動線のようにも見える。それは、鼻の下の鬚が扇形に広がっているように太めの線が何本も引かれている様子は、そこだけてミニマルアートのように見えてくる。しかも、それで手を当てている、その手が隠れてしまって、線があたかも優位になるように見えてくるのです。そういう線、というより、線を彫っている手の運動性が伝わってくるような面白さがあります。
Mesquitajaap  Mesquitajaap2 「ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像」という1922年の木版画。展覧会チラシにも引用された作品で、これをポスターやネットの画像で見て、展覧会に興味を持った人も少なくないのではないかと思います。モデルは作家の息子さんだというのですが、この作品、なんとなく小説家のフランツ・カフカの肖像に似ている気がします。少なくとも、同じような雰囲気をつよく感じさせます。この雰囲気は、はっきり言って暗さは、白黒の画面で黒の部分が多いということもあって、メスキータの作品に共通する底流のようにあると思います。それも、この人の悲劇的な最期という物語のせいもあるのか、カフカの作品に共通してあるような、理不尽に閉じ込められて、人があがいても、そこから出られないといった物語のような絶望的な暗さのような雰囲気です。この作品では、目が飛び出るように凝視している異様さ。ちょっと気味悪さのような暗さがあります。見ているうちに、それが癖のようになってしまう。好き嫌いが分かれる作家だと思います。
Mesquitaself2  「サボテンと自画像」という1929年ごろの木版画です。これは上から吊り下げられたサボテンから放射されたような、人物の背景となって三角形の部分に何重にも引かれている横線と、その横線に縦の模様がはいっているようなのが、不規則にならんでいるのが、小さな変化となって、音楽のように感じられるところが、画面に動きを作り出しています。その反復に連動するように、人物の髪が縦線の反復だし、顔の皺が小さな線の反復、また、サボテンの茎に横断する小さな線が重ねられている。それらの反復、それぞれアバウトに違っていてその不規則さが反響し合うように感じられます。
Mesquitaharlem  「ハーレルムの市庁舎」という1911年のエッチング作品。展示作品の中では唯一と言っていい建築を描いた作品です。建物を正面からみて、図面にように描いていますが、窓や庇などの建築のパーツの反復と、エッチングという細い線の反復で全体が作られています。この作品では、幾何学的な対象が、繰り返しの組み合わせで画面をつくるのに好都合で、はまっています。メスキータはエッチングも制作しているようですが、ほとんど、ボカシの技法をつかうことなく、線をはっきりさせて、それを重ねていく描き方をしています。このひとは反復が好きなのだと思わせられるところです。しかし、木版画のときのような不規則さが、まるで機会でない生身の身体性が感じられるところがなく、図式的なところが踏み出ていない感じもします。でも、何か少しノスタルジックなイラスト風の雰囲気があります。これは、メスキータとは時代も画風も無縁の人ですが、オートー・ネーベルという抽象画家の中世の大聖堂を題材に、その大伽藍が石を積み上げて作られているということを、石の反復として、その反復の部分を取りだして抽象画として描いている作品を想わせるところがあると思います。ネーベルという人は、メスキータとは比較にならない程、偏執的といえるほど執拗に細かな繰り返しを描いた人ですが、メスキータは、版画という技法上の制約もありますが、ネーベルのように細かすぎるまではいかないし、作品は、そういう部分だけを抽出しているわけではなく、市庁舎の全体像まで描かれているので、抽象画にはなっていません。しかし、そういう視点でみると、メスキータの作品には抽象画的な性格が多分にあると言えるのではないかと思います。Nebelhekigan

 

2019年8月11日 (日)

メスキータ展(1)

Mesquitapos 梅雨明けしてから、連日最高気温が35度近い猛暑日が続き、身体がダルくて頭がボンヤリした状態。そんな中で、都心に用事があって出かけた。こんな状態で、美術館に寄っても、ろくに集中して作品を見ることもできないだろうし、とくに、この展覧会に行きたいと思っていたわけでもなかった。たまたま、会期の終わり近い(あと数日で終わる)というタイミングと、東京駅構内で涼むことができる、という理由にもならない理由で、つい寄ってしまった。けっこう評判がよかったようで、夕方4時過ぎという時間帯にもかかわらず、入場者は絶えることなく続いて入ってくる状態。こういう近現代の作家だけれど、けっこう年配者の姿も多い(自分のことは、勘定に入れていないが)。展示作品の前に列をつくるほどの混雑ではないが、盛況といってよいのではないか。落ち着いて鑑賞できるギリキリのところという雰囲気。
 メスキータという作家については、よく知らない人なので、主催者のあいさつを紹介がてら引用します。
 “サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868~1944)。この聞き慣れない名前の人物は、19世紀後半から20世紀前半を生きた、オランダのアーティストです。ポルトガル系ユダヤ人の家庭に生まれ、ハールレムやアムステルダムで、画家、版画家として、また、装飾美術の分野でデザイナーとしても活躍しました。その一方で、美術学校の教師として多くの学生を指導しています。中でもM. C. エッシャーは、メスキータから最も大きな影響を受けた画家で、特にその初期作品は、メスキータの作品と著しく類似しています。
 メスキータの仕事は、デザインとアートの双方にまたがっています。デザインの分野では、幾何学的な構成を生かし、雑誌の表紙や挿絵、染織デザインなどを手がけました。一方アートの分野では、まず版画家として、主に木版画で人物や動物、植物を題材に白黒のコントラストを強調した作品を数多く残しました。また、想像力のおもむくままに筆を走らせた、膨大な数のドローイングを制作しています。
 メスキータの最大の魅力は、木版画の力強い表現にあります。鋭い切れ味の線描による大胆な構成、明暗の強烈なコントラストを生かした装飾的な画面は、見る者に強い印象を与えます。アムステルダムの動物園や植物園に招来された、異国の動植物がメスキータの格好のモチーフでした。単純化された構図と明快な表現、装飾性と平面性が溶け合った画面には、しばしば日本の浮世絵版画の影響が指摘されます。一転して、ほとんど無意識の状態で浮かんでくる映像を作為なく描いたと言われるドローイングは、表現主義との親近性を感じさせるとともに、シュルレアリスムにおけるオートマティスム(自動筆記)の先駆けと言えるかもしれません。
 ユダヤ人であったメスキータは、1944年に強制収容所に送られ、そこで家族もろとも殺されました。アトリエに残された作品は、エッシャーや友人たちが持ち帰って命懸けで保管し、戦後すぐに展覧会を開催します。メスキータの名前が忘却されずに残ったのは、エッシャーらの尽力によるところが少なくありません。近年のヨーロッパでは、カタログ・レゾネ(全作品目録)が発行され、相次いで展覧会が開かれるなど、メスキータの作品の包括的な紹介と評価の気運が高まっています。折しも昨2018年はメスキータの生誕150年にあたり、今年2019年は没後75年を迎えます。本展は、これを機に、知られざる画家メスキータの画業を、版画約180点、その他(油彩、水彩など)約60点、総数約240点の作品を5つの章分けで、本格的に紹介する日本での初回顧展です。”
 主催者あいさつや展覧会ポスターの惹句にあるようなエッシャーが命懸けで守ったとか、強制収容所で亡くなったとかいった物語に引っ張られてイメージを縛られてしまいそうになりますが、そんなことなくても、それなりに興味ある作家、それに比較的語り易い作家ではないかと思います。つまり、立ち位置としては、凡庸ではないが、独創的とまではいかない、センスのいいヒネリで他の作家との差異をつくって差別化するというタイプではないかと思います。
 展示はメスキータの年代順ではなく、テーマ別にまとめられていました。では、作品を見ていきたいと思います。

 

2019年6月25日 (火)

ラファエル前派の軌跡展(10)~第4章 バーン=ジョーンズ(2)

Preraffa2peleus  大作「ペレウスの饗宴」では、これまでとは変わった、完成したバーン=ジョーンズがいます。ダ=ヴィンチの「最後の晩餐」と似た構図の遠近法による画面は、あきらかに平面的なラファエル前派からの逸脱と言えます。描かれているのは、中世を飛び越えてギリシャ神話の世界。トロイ戦争の英雄アキレウスの両親となるテッサリアの王ペレウスと海の女神テティスの婚礼の最中に起こった事件、これがトロイ戦争の発端となるのですが、を題材にしています。横長の画面には、牧歌的風景の中に置かれた宴席とそこに招かれた神々や給仕を務めるケンタウロスが描かれています。テーブル奥の中央から左に向ってゼウスと妃ヘラ(ピンクのドレス)、知恵の女神アテナ(青いドレスを着て、頭に兜をかぶっている)、美の女神アプロディテ(頭に薔薇の冠をZenpavinch つけている)が並んで立ち、テーブル手前には酒の神ディオニソス、太陽神アポロン、愛の神クピド、運命の三女神モイラがいます。右端に立って神々の注目を集めているのが、不和の女神エリスが、そこだけ暗くなっていますが、婚礼に唯一招かれなかったことに腹を立てて乗り込んできた彼女は、意趣返しに不和の種をその場に持ち込んだのが、その発端ということになります。それは、右手前で、こちらに背を向けて青い帽子をかぶっているヘルメスが左手に持つ林檎がそれであり、その林檎をめぐって、ヘラ、アテネ、アプロディテが争い、トロイの王子パリスの審判に委ねられることになるわけです。画面の神々たちは、皆同じ顔で、来ている衣装によって役を振り分けられているようですが、その顔は、前の水彩画のロセッティ風の面長から丸顔の後期移行のバーン=ジョーンズの作品のパターンとなっている顔に変わっています。また、ラファエル前派初期の画家たちは裸体を積極的に描きませんでしたが、ルネサンス以後のイタリア絵画の理想的な人体さして描かれた肉体表現につらなるような筋肉美の肉体を立体的に描いています。同じ裸体でも「慈悲深き騎士」のキリストと比べると別物のような描き方です。
Preraffa2grace  「三美神」というパステルです。「ペレウスの饗宴」などとセットでトロイの物語という大作を制作しようとして、その一部のための下絵ということです。三美神はユピテルとユノの娘でエウプロシュネ(喜び)、アグライア(優美)、タレイア(若々しい美)という名前だそうです。三人がお互いの肩に手を置いて中央の一人が背中を見せる構図は、それ自体が美の調和を示すものになっているもので、古代彫刻の定式的なパターンを取り入れているということです。とくに優美な曲線を見せている中央の女神の背中などは、ラファエロの同じ題名の油絵作品を想わせるところがあります。人物の形態を単色のパステルの濃淡だけで立体的に浮かび上がらせる。細部よりも全体のプロポーションを次第に重きを置くように、それによって、バーン=ジョーンズはロセッティやラファエル前派の影響から脱して、個性を形づくっていった。それが、このようなパステルの素描では直接的に表われてくると思います。
River_preraprima  「赦しの樹」という油絵作品です。トラキア王の娘ピュリスは愛するデーモポーンに捨てられ、絶望の末、自ら命を絶とうとすると奇跡によってアーモンドの木に変えられます。その後、心から後悔したデーモポーンがその木を抱きしめると幹からピュリスが出てきて愛情深い赦しを与えて彼を包み込んだというオウィディウスの「名婦の書簡」から取られた話を題材にしているとのこと。この二人の男女は非常に劇的な状況にいると言えます。ピュリスは悲しくも自分が相手に拒絶されていることを察知した女性です。彼女は、どんなにデーモポーンのことを思っていてもどうにもならない。無力な存在です。それを、バーン=ジョーンズは、まるでギリシャ悲劇のように人物は運命づけられた役を演じるに過ぎない、言うならば運命の女神の操り人形なのだとでもいいたげな、彼女の表情はデーモポーンに向けられ、見る者は荒涼としているが起伏に富む風景のなかに配されており、ピョリスの髪の毛と衣文は線的な付属物として用いられており、抑制されたリズミカルな流れが生み出す雰囲気にアクセントをつけている効果で知ることになります。一方、デーモポーンは、彼が通り過ぎるときに人間の姿に変わったピュリスにあらがっているように見えます。彼女は、愛しながら、また許しながら、彼を自分の腕にかき抱こうと願っている。しかし、彼の方は、恐怖して、逃れようともがいている。ふたりの悶えるように、身体をくねらせている様子が二人の人物の緊張関係を体現していて、ほとんど裸体ですが、彼の足には衣服がまとわりつき、花が包み込むように取り囲んでいます。この画面では、彼女の髪の毛と花が人物と同じくらい画面の構成要素となっています。それは、ロセッティなどが花を花言葉などの意味を象徴的に画面に持ち込んだのは違って、視覚的な効果として用いられています。
Preraffa2tree  バーン=ジョーンズの作品は展示点数は少なくなかったのですが、スケッチばかりでした。また、この後の展示はウィリアム・モリスによる雑貨品だったので興味が湧かず素通りでした。

2019年6月24日 (月)

ラファエル前派の軌跡展(9)~第4章 バーン=ジョーンズ(1)

Preraffa2annuncation Preraffa2fish  「受胎告知」という水彩画の作品。バーン=ジョーンズは後年、同じ題名の作品を制作していますが、この水彩画は初期のころで、画家が未だ自身の個性を見つけて、画面に定着できていないころの作品で、ロセッティの初期のころの水彩画で宗教的な題材を取り上げていた頃の作品に似た雰囲気があります。中世の雰囲気といえるような。並んで展示されていた「金魚の池」という水彩画もそうで、面長の顔つきで物憂げに疲れたように腰掛けている女性像はシメオン・ソロモンに似ているところがあります。また、少女の衣裳や背景の果樹園あるいは赤煉瓦の建物が中世の雰囲気を濃く伝えています。このころのバーン=ジョーンズをとりまく雰囲気では中世はラファエロのように近代的なものに汚染される前の無垢な理想だった。中世には生活と芸術がより自然に近く、それだけ堕落していなかった。そういう理想の世界として、単に歴史的に懐古する他人事の物語の世界ではなくて、そこに、いわば夢を見ていた、それを現実の風景として描くことで、夢と現実を融合させ、彼ら自身の生活スタイルに取り入れようとした。例えば。ロセッティはエリザベス・シダルをモデルにして聖女を描いたりしましたが、バーン=ジョーンズは、弟子として、それを傍らで見ていて、それを受け継いだ、それがこの作品にも表われていると思います。
 Preraffa2knight 「慈悲深き騎士」という水彩画は、そういう初期の作品の集大成的なものと言えるかもしれません。ここでの展示では、この後の1860年代後半以降の展示作品には、典型的なバーン=ジョーンズの人形のような顔が明確にあらわれてきます。ここまでの作品では、そのような顔のパターン化は進んでいません。この作品はフィレンツェの騎士ジョヴァンニ・グアルベルトの伝説に基づくとされているそうで、ある聖金曜日のこと、彼は武装した従者とともにフィレンツェに向かっていた。その道中、自分の兄弟を殺した男と出会った。彼は復讐としてその男を殺そうとした。男は、武器を十字架の形に広げてひざまずき、その日に磔刑に処せられたキリストの御名において慈悲を請うた。ジョヴァンニは男を許した。ジョヴァンニはその後、立ち寄った教会で祈りの最中に、木造のキリスト像が手を差し伸べられ祝福を受ける。キリストのひげは、騎士の額と言い表せない悲しみの表情の盾となっている。キリストの手の聖痕は、騎士のむきだしの手の弱々しさを引き立たせている。また、平面的な画面全体を覆うグリーンの美しさに目を奪われますが、陰影の処理や人体の立体感などにラファエル前派にはない独自性が芽生え、甲冑の光沢感、周囲の幻想的なまでの草花など、後のバーン=ジョーンズの作品を彩る要素がすでに表われています。
Preraffa2lament  「嘆きの歌」という水彩画には、変化の兆しが見えてきます。ロセッティの物語的な性格の濃い作品から装飾的な画面へと移行しつつあるということです。ロセッティの影響は平面的で装飾的な構図を受け継いでいますが、ロセッティに特徴的なアトリビュートのように細部に意味をもたせて配置するという要素を取り除いて、人物を単純に配置するものしなっています。その結果、見る者は物語を想像することかに、視覚的なレベル、つまり色彩と人物の表情と気分が醸し出す雰囲気で嘆きを感じるようになっています。人物はパルテノン神殿の浮き彫りを参考にしたと言われ、安定した構図で、それが大理石の白亜の背景から素朴な輪郭が浮き上がるようです。そして、人物の衣装の対照が印象的で、その二人の人物像によってかもし出される気分を絵にしみ込ませることによって、見る者に反応を呼び起こし、それは「慈悲深き騎士」のような視覚的な手がかりから物語を説き明かそうとするものではなくなっています。

2019年6月23日 (日)

ラファエル前派の軌跡展(8)~第3章  ラファエル前派周縁(2)

Preraffa2varikyu ソロモンの影の薄い女性とは正反対の強烈な自己主張をするフレデリック・サンズの「ヴァルキューリ」という油絵作品です。サンズの作品は、以前のラファエル前派展で「トロイのヘレン」とか「カッサンドラ」といった作品を見て、肉厚の顔つきで激しい感情を見る者にぶつけるような強く自己の存在を主張するような作品という印象を持っていました。この作品で描かれているヴァルキューリというのは北欧神話で、主神オーディンの娘で、戦闘で死ぬ可能性がある人と生きる可能性がある人を選ぶ女神達の1人です。戦いで死んだ人々の半分の中から選択して、彼らをオーディンの支配するヴァルハラに連れて行きます。 そこでは、亡くなった戦士たちは不吉者になります。ヴァルマューリは英雄や他の人間の愛好家としても現れます。そこでは時々王族の娘と言われ、時にワタリガラスを伴ったり、白鳥や馬とつながったりします。この作品でも、顎を上げて、その角張った顎が女性の強さをアピールしているし、高い鼻梁で引っ込んだ目から上を向く視線は強いです。
Zenpawatzolphe1  ジョージ・フレデリック・ワッツの「オルペウスとウエリュディケー」という油絵作品です。ギリシャ神話のオルフェウスの物語はオウィディウスの「変身物語」(多分、ワッツはオウィディウスをもとにして描いていると思います)をはじめとした多くの古代の史料で詳しく語られているものです。この作品は、オルフェウスがエウリディケを振り向いて喪ってしまう場面を描いています。しかし、背景や小道具をほとんど省略していて、二人が冥界にいることは、この場面からは分からないし、オルフェウスのシンボルともいえる竪琴も画面には見られません。この作品ではエウリディケを喪うオルフェウスを描くことに絞って、それ以外の要素を画面から排除しているために、それだけいっそうオルフェウスの喪失感や悲嘆がクローズアップされてきています。これは、もともと初期からのワッツにはラファエル前派のミレイやハントのような細部を明確で詳細に描きこんでいくのとは反対に、明確な輪郭を描きこまず、細部を省略して見る者の想像力に任せる、そして寓意的な画面を志向するところがありました。そこから派生したものでもあると思います。とくに半身像のヴァージョンは上半身のねじれたようなポーズの部分だけをピックアップして、そのねじれが強調され、オルフェウスの姿勢の無理したようなねじれが彼の感情を身体のポーズに仮託しているのが効果的になっていると思います。
Preraffa2ende  同じブレでリック・ワッツの「エンディミオン」という油絵作品。同じようにギリシャ神話の物語を絵にしたもので、月の女神セレーネ(ディアナとも言われる)に愛されたエンディミオンは、女神と同じように永遠の若さを保つために、ゼウスによって永遠の眠りにつくことになります。それを女神は繭のようにエンディミオンを包み込む。この作品でも、リアリズムの描写は省略され夜の暗闇の中でシルバーブルーの女神とエンディミオンの土気色という鈍い色に色彩は限定され、閉じ込められたような空間に二人の人だけがグローズアップされている。眠っている若者を包み込むような透き通った月光の形で女神は、首から下の身体は描かれるものの、顔の表面のみが暈され、目や鼻といった顔のパーツさえ確認できません。さらに女神のみならず、エンディミオンの頭部も闇の中へ溶け込んでしまっています。それは意図的に顔のみを暈すことで、眠りから覚めない想い人を見つめる女神の表情を想像するよう、見る者を駆り立てるようになっていると思います。

2019年6月21日 (金)

ラファエル前派の軌跡展(6)~第2章  ラファエル前派(4)

Preraffa2rift  広間を出て長い廊下を通った小さな展示室に入ります。ここでは。メジャーな3人以外のラファエル前派の人々の小品が並びます。まずはアーサー・ヒューズ。挿絵画家として、たくさんの挿絵を描いた人です。「マドレーヌ」という作品です。一見すると同じラファエル前派のミレイの「オフィーリア」を想わせるような画面構成です。ただ、「オフィーリア」は死体でうつろな目で仰向けに横たわっていますが、この作品では、少女が物憂げに俯向きに横になって、身体をひねって上を仰ぎ見ています。彼女はヒューズ得々の透明感があって豊かな色の青いガウンと紫色のマントを身に着けていて、そばにリュートが置かれています。人物を画面一杯にして、見る者の間近にさせています。そのわずかな背景には森林を配し、ミレイほど細密ではないけれど、ヒューズの正確な自然の描写と輝く色は、絵画の感情的な強さを増すことをMireofiria 目的としています。この絵はテニスンのアーサー王伝説を語る詩集「王の牧歌」の「マーリンとビビアン」で詠われている不幸な愛に触発された描かれた作品ということです。愛は、リュートの形の音楽で象徴されています。リュートの上に置かれたブルーベルの束は、不変性という花言葉ということです。ただ、この少女には不幸な愛という悲劇性は感じられず、恋に憧れる少女の印象です。顔の前で両手を結んだポーズからは不幸な感じがしてきません。そういう激しさが全体として出てこないで、淡いというのか、穏やかにおさまっているのが、好くも悪しくもこの画家の特徴ではないかと思います。
Preraffa2madeleine  「マドレーヌ」という作品です。濃い青色の幅広のガウンを着た美しい女性像です。ヒューズには、今回は展示されていませんでしたが「四月の恋」という作品が割合に有名で、同じように縦長の画面で青いドレスを着た女性が愁いに沈んでいる姿を描いた作品で、ヒューズはこのような女性像を好んでいたかもしれません。顔の輪郭や構図等にロセッティに似ているところがありますが、受ける印象は正反対といってもよく、ロセッティの女性像に感じられる逞しさや官能性はありません。ロセッティの女性は正面を見据えるのに対して、この女性は俯いて、小さな宝石箱から持ち上げたビーズのネックレスに向けられています。おそらく、そのビーズに何らかの思い出があるのでしょう。彼女の顔は、ビーズを見ながら、遠くに思いを馳せているように見えます。ここには、そういう物語を見る者に想起させるところがあります。
Preraffa2music  「音楽会」という作品。これもアーサー・ヒューズの作品。中央のリュートを弾いている女性のポーズは「マドレーヌ」の女性は同じです。それが、明るい部屋で家族に囲まれているという背景の変化によって、絵の雰囲気が全く違ったものになっています。ヒューズという人は、おそらくミレイなどとは違ってデッサン力がそれほどなかったのでしょう。描いている人物のポーズは限られていて、そういうのを使い回して、他の人物のポーズと組み合わせたり、背景の色調を変えたりして、全体の画面の雰囲気を作っていた。おそらく、ヒューズ自身がデッサン力というか描写する能力では劣っていたことを自覚していたので、画面構成とかデザインで勝負しようとしていた。だからこそ、この人は絵画よりも挿絵を活動の場として選んだ。また、この作品で言えばリュートを弾く女性のドレスの紫色と肩に羽織っている濃い青、そして女性の向かいの男性の濃い緑色の、深くて透明感のある色合いがこの人の独特のもので、これを手にしたことで、ロセッティのようなマニアックな芸術志向の趣味人向けではなく、小市民的な広間に飾るに似合った、穏やかで少し文学的な匂いのする作品を量産するコツを摑むことができた人ではないかと思います。この作品にも、そういうところが出ています。平和で暖かい家庭のひとコマと言えるし、リュートを弾く女性の表情は音楽に没頭しているとも、愁いを含んでいるとも見える。また、向かいの男性は頭を抱えている。そこに何らかの物語を想起することも可能です。
Preraffa2island  この展覧会は、最初に落穂拾いと申しましたが、ミレイとかロセッティなどの有名どころの他の画家たち、どちらかという日本ではマイナーな画家たちの作品の方が、けっこう発見があって、興味深く見ることができました。「アーサー王の島」というジョン・ウィリアム・インチボルトという画家の作品です。アーサー・ヒューズと同じようにラファエル前派の近くにいて、その影響を受けた画家です。風景画ですが、いわゆるピクチャレスクの絵になる風景を画面におさめるのではなく、ミレイが至近距離で観察した植物図鑑の図のような野原の景色を、この作品のような遠景で描こうとした人のようです。例えば画面左手前の崖の岩は岩石の種類が分かるほど細密で、崖に生えている草のひとつひとつの種類が分かるほど細かく描写されています。しかも、ラファエル前派に通じるような明るく、濁りの少ない色彩で描かれていて、これがイギリスの海岸線かと想うほど晴朗な感じがします。

2019年6月20日 (木)

ラファエル前派の軌跡展(5)~第2章  ラファエル前派(3)

Vicdante  「ヴェヌス・ヴェルコルディア(魔性のヴィーナス)」という油絵作品です。ミレイやハントは有名どころの作品はなかった代わりにロセッティは、数点来ているようです。ロセッティの作品としては珍しい裸体像、とはいっても半裸体ですが、です。ヴィーナスのヌードの骨格は花と髪に埋もれて判然としないでおかれて、これはロセッティが古代彫刻に表わされたような理想的な肉体の美に関心が向いていなかったことを示していると考えられます。この作品がヌード像としてあるのは、ヴィーナスの乳房が露になっていることからで、ロセッティの制作の焦点はこの乳房と、その柔らかな肌合いといったエロティックな表現にあったと思われます。艶やかな柔肌で、おとなしく目を伏せるのとは反対に情熱的な瞳でこちらを見つめるかのようです。そして、肉厚の真っ赤な唇、慎ましさからはほど遠い長く梳かれ赤い髪。このようなヴィーナスの官能性を引き立てるように、背景には伝統的なヴィーナスの花、「愛」の薔薇が、そして画面下部にはスイカズラが隈なく一面に描きこまれています。スイカズラは一般に他の樹木に痕が残るほど強くからみつくため「堅固な愛情」や「愛の絆」を表すとされといいますが、むしろ蜜蜂たちを甘い香りで誘うhoney-suckleであると考えてもいいのではないでしょうか。これらの花は、ヴィーナスの赤褐色の髪と相俟って、見る者に画面の基調色である赤を鮮明に印象付け、ヴィーナスが他ならぬ「愛」の女神であることを感覚的に伝えています。そのヴィーナスの愛の力を証明するかのように、画面右上には一羽の鳥が、そして林檎や矢、ニンブスの周囲には蝶が描かれています。これらは、いずれもヴィーナスの魅力の虜となった男たちの「魂」の象徴です。ここで描かれたヴィーナスは愛の女神というよりは、男性を愛と官能の虜にして破滅に導く古代の異教の神、魔性のヴィーナスです。それは、とくにヴィーナスや薔薇の花に比べて画面手前のスイカズラの花が刺々しいほど明確に、ときにマチエールで盛ってしまうほどに目だたせるように強調して描かれているところからも、絡みつくというのか、ファム・ファタールの要素を前面に出しているのが分かります。
Preraffa2bless  「祝福されし乙女」という作品です。油絵というより、祭壇のような額縁と女性を描いたキャンバスの下に男性を描いた別のキャンバス(こっちの方がメインであるはずの女性を描いた部分より丁寧で明確に描かれている)があって、それらがセットになっている作品です。祭壇画といった方がいいかもしれません。この作品は、それだけでなくて、この絵に先立ってロセッティは詩を詠んでいて、絵と詩がペアになっているそうです。しかも、この詩がロセッティの詩の中でも有名なのだということで、その内容と合わせて画面を見ると、天に召され乙女(祝福されし乙女)は天から見下ろし、地球上に残る彼女の恋人を見ています。イメージを通して、ロセッティは乙女を地球のものに結び付け、彼女の憧れを象徴しながら恋人同士の距離を強調しています。彼女は神の城壁の上に立ちます。地球から遠く離れていますが、彼女の髪は「熟したトウモロコシのように黄色い」です。彼女の優美な美しさを宣言するのではなく、ロセッティはこの世的な細部を通して乙女の外観を描いています。彼女は恋人から遠く離れて天国に固定されているかもしれませんが、彼女の外見と視線は、彼女の心のように、地球上の最愛の彼女と一緒になっています。画面の最上部には暗い画面の中で、恋人たちの抱擁する様子がいくつも描かれていて、天国の恋人たちということなのでしょうが、暗い画面が、この乙女には叶えられていない。それゆえに、乙女は最愛の人からの距離だけを見ています。天国は固定されていますが、地球は猛烈に回転しており、皮肉なねじれでは、乙女の視線は地球に固定されています。 ロセッティは、自分の視線と天国の位置を地上のイメージで描写することによって、彼女の憧れの鋭い感覚を作り出し、そして事実上、見る者に乙女の到達不可能な位置から天国を垣間見せてくれます。天国というなのか、下の恋人の男性が描かれているキャンバスに比べて、輪郭を明確にしたりしていない印象で、乙女はしっかり描いているのですが、他の部分は描き込んでいないというような印象です。これは意図的なのかどうか分かりませんが。とくに中間のある三つの顔は力が抜けている。また、乙女は恋人を遥かに思っているというよりは、物憂げで誘惑する女という、ちょっと恐いイメージです。このように見ていて、今さらながら、ロセッティの描く官能的な女性というのは、逞しくて、たをやめの乙女といったものではなくて、マッチョなイメージです。私の個人的な好みから言うと、女性的な魅力をあまり感じられない。
Preraffa2musure  「ムネーモシューネー」という油絵作品。ギリシャ神話の記憶を司る女神を描いている作品です。縦長のキャンバスで女神は正面を見据えるように、手つきも妖しく、薄明のなかに堂々として、こちらを向いています。向きだしになった肩から腕の描く曲線が構図の重要なポイントになっていて、右手を胸に左手を腰に下ろした女神のポーズは“慎みのヴィーナス”というもののポーズだそうです。これは、女神であることを視覚的に暗示しているといえるかもしれません露わになった左腕の太くて逞しいこと!肩幅は広いし、ロセッティは1870年代にミケランジェロを勉強したそうですが、たしかにそういうマッチョなところが見えます。そして、女神は緑色の衣裳を身を包み、前のヴェヌスや乙女たちのように緑と対照的な赤が使われていないので、全体として地味に沈んだような暗く濁った印象となっています。

2019年6月19日 (水)

ラファエル前派の軌跡展(4)~第2章  ラファエル前派(2)

Preraffa2gara_1  そして、残る主要メンバーがロセッティで、今回はロセッティの展示作品が多く、この広間の半分以上がロセッティの作品の展示で占められていました。偏りすぎの感はありますが、おそらく、他の画家の作品よりもロセッティの作品が集め易かったのだろうと思います。ロセッティの作品の中でも比較的初期の水彩画が珍しくて、私には、今回の収穫のひとつだったと思います。例えば、「廃墟の礼拝堂のガラハッド卿」という水彩の小品。1850年代のロセッティは、独特の水彩絵具の使い方で、まるで油絵のような鮮明な色彩の水彩画を制作していました。その頃の作品です。普通の水彩画の淡い色彩でなく、鮮明なころですが、油絵に比べて澄明さがある、独特の色合いを持っています。詩人アルフレッド・テニスンが書いた詩をもとにしたアーサー王伝説の一場面です。円卓の騎士、ガラハッド卿が礼拝堂で祈りの声を聴きながら柱に括り付けたほら貝状の容器から手で水を飲んでいるところです。ひざまずくガラハッド卿の白いマントが、その下の青い甲冑が周囲の夜の青みがかった暗さに同化するようなので、対照的に栄えています。画面左の祭壇は、廃墟のはずなのに光が差して、ガラハッドの頭部と白いマントを照らしだしているように見えます。カラヴァッジォのようなバロック絵画であれば光と影の強烈な対照で劇的な場面にしてしまうこともできるところを、むしろ、画面は平板で水彩絵具の明暗の対照が油絵のようにきつくならないので、対立による緊張が生まれるよりも、ガラハッド卿が照らし出されるようで、しかも平板な画面ゆえに、画面左下の祭壇にかけられた布に織られた祈る人物の姿勢がガラハッド卿と直接向き合っているように見えているのです。
Preraffa2rance  「王妃の私室のランスロット卿」はペン画ですが、細かく線が引かれて、狭い室内にランスロット卿と王妃が嘆き悲しむ従者とともに閉じこもった閉塞した雰囲気がつよく感じられる作品です。もともとは、ロセッティが請け負ったオックスフォード大学の壁画のプロジェクトのための下絵だったようですが、絶望したように名目して顔をうえに向けている王妃は、窓の外に殺到する兵士を警戒するランスロットに背を向けて、横目で彼に視線をまわしながら自分の世界に入ってしまっている姿は、尖ったあごやまとめられることなく豊かに溢れるような髪の毛などは後のロセッティの官能的な女性像を彷彿させるところがあるとともに、悲劇的な場面を想像させます。というのも、アーサー王伝説では、この王妃とはアーサー王の妃グウィネヴィアで、ランスロット卿は彼女との不義を犯したために宮廷から追放され、アーサー王の死の遠因を作ることになります。画面左下、ちょうどランスロット卿が上半身を折って窓にもたれかかっている下のところに林檎の木の鉢植えがあるのは、原罪の禁断の木の実を表わしているのではないでしょうか。結局、ランスロットは罪深さのゆえに聖杯を拝受する機会を得ながら、それが叶わず、やがて清らかな騎士ガラハッドだけが聖杯を拝受することになります(その意味で、上の水彩画でガラハッドが清らかな白いマントを身につけているのは示唆的です)。
Preraffa2barge  「ボルジア家の人々」という水彩画の作品です。ロセッティは、後にルクレティア・ボルジアの肖像を描いていますが、その出自であるボルジア家の人々を描いたものでしょう。この中には、ルクレティアや兄のチェザーレ・ボルジア、あるいは父親の教皇レクサンドル6世もいるのでしょう。家族の集合した肖像画のようですが、画面右上の窓が開いて、少年が外から覗き見している様子があるために、物語の場面のようになっています。それぞれの鮮やかな衣裳の原色が対立あってとげとげしくならないのは水彩絵具の透明さのためでしょうか。全体の調子は暗めなのに、衣装の色の鮮やかさが印象的です。
Preraffa2sunrise  「夜が明けて─ファウストの宝石を見つけるグレートヒェン」という作品です。1860年代の官能的な女性像を描き始めたころの作品です。これはチョークを使って描かれたということで驚きました。色彩としては、パステルよりも淡く、その淡い色彩のグラデーションで薄く淡い画面で、いまにも消えてしまいそうな儚い印象を与えます。それにもかかわらず、グレートヒェンは初期の水彩画の平板な人物とはちがって立体感があります。しかし、清純で可憐な少女のファウストのグレートヒェンにしては逞しいロセッティ好みの女性像になってしまっています。画面の左下には糸紡ぎの車が置いてあってグレートヒェンであることが暗示されていますが、糸を紡ぐことはしていなくて、ドイツの田舎娘の姿でもありません。宝石箱をあけて宝石を手にしているのは、どちらかというと、ロセッティの好むファムファタールのスタイルに寄っているといえると思います。

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