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美術展

2023年11月 8日 (水)

もうひとつの19世紀―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち

Anotherpos  企画展の「キュビスム展」を見て、そのチケットで常設展も見ることができるということなので、時間もあったし、会場に入ったら、奥の方で行われていた。常設展には、以前に企画展で見たことのある作品もいくつかあったが、大家の作品があとからあとから、その質と量に圧倒されるほど。ついでに寄るといった内容ではない。ここでは、その一部でやっていた「もうひとつの19世紀―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」が、予期していなかったが、とてもよかったので、あらためて感想をまとめてみた。
 展示の概要については主催者あいさつを引用します。“19世紀後半のフランスおよびイギリス美術と聞いて、みなさんが思い描くのは一体どんな絵画でしょうか。フランスにおけるレアリスムや印象派、あるいはイギリスのラファエル前派や唯美主義による作品が浮かんだ方も少なくないでしょう。しかし、今日エポックメーカーとして俎上にあがる芸術運動と画家たちの背後には、常にアカデミー画家たちがおり、彼らこそが当時の画壇の主流を占め、美術における規範を体現していました。かれらは、それぞれの国において最も権威ある美術教育の殿堂であったアカデミー――1648年、フランスで創立された王立絵画彫刻アカデミーと1768年にイギリスで誕生したロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ――に属し、古典主義的な芸術様式を遵守した画家たちです。しかしアカデミーの権威と伝統は、社会の急速な近代化によって揺らぎ、19世紀後半になるとアカデミスムは衰退の危機をむかえます。そんななか、アカデミーで地歩を固めた画家たちは時代の変容や新たな画派の登場に決して無関心ではありませんでした。むしろ変化に富んだ時代において、需要に応じて主題や様式、媒体を変容し制作を行いながら、アカデミーの支柱としてその伝統と歴史を後世に継承しようと努めたのです。本小企画展では、ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825~1905)やジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896)をはじめとする両国のアカデミー画家たちのキャリアを辿り、多様化した主題やモティーフ、モデルに焦点をあてることで、その柔軟かつ戦略的な姿勢と彼らが率いた「もうひとつの19世紀」を浮き彫りにします。”
Anotherportrait 会場に入って、すぐに目に入ったのが、ブーグローの「ガブリエル・コットの肖像」です。肖像画と言うのは、この時代の画家たちの主要な収入源で、イギリスの貴族の館を見学すると、廊下や客間に歴代の当主や夫人の肖像が所狭しと陳列されているものですが、新興の富裕なブルジョワもそうだったのでしょう。アカデミーの画家ともなれば、肖像画の依頼は多かったのではないかと思います。しかし、この作品は依頼品ではなく、知人の娘である彼女をモデルに当初、別の絵画の習作として始められたのが、ブーグローはガブリエル・コットの魅力と美しさに魅了され、彼女の肖像画を描くことにしたという。黒い背景でスポットライトを浴びたように浮かび上がる、振り向きざまの表情をとらえた肖像画は、こちらに向 けられた優しいまなざしと柔らかな笑みが印象的。塗りが丁寧というか、何よりも肌のみずみずしく柔らかな質感がとても印象的。振り向いた顔に光が差し浮かび上がる様子は、成瀬巳喜男の監督した映画でヒロインが別れて遠ざかって、暗い中に消えていく途中で振り向いた顔に光があたり、姿が消えていく中で顔が浮かび上がり、その表情が印象深いのとよく似ている。この作品でも、こころもち画面右上から照明をあてるような光が淡くさして、顔が浮かび上がるようになっています。まるで、別れを惜しむ一瞬のようなはかない微笑のように映ります。その光の下で、彼女の肌は、ほとんど乳白色に近い色調で見事に混ざり合い、血管のように見えるように水色が加えられ、部分的に柔らかなピンクが加えられて、肉体を模した形と温かみを感じさせます。後でブーグローの技法をネットで調べてみたら、半透明に見えるように薄く塗られた不透明で軽い絵具が、乾燥した暗い下絵具の影響を最終的な効果に与えるという複雑な光学的感覚ということで、その結果として、色温度の冷たさ、質感の柔らかさ、透明感が増し、光に恵まれた女性の若々しい肌のような質感になるということです。ブーグローは、明るい光とハイライトを十分に濃く塗ることで、肉色の真の不透明度に近づけ、暗い中間調の部分や影の部分には、ある種の透け感が見られるようになるというもので。そこから、描かれた女性の肌は、ルネサンスの聖母像の大理石のようなツルツルの輝くようなのとは違う、血の通った生きた人間のもちもちしたような感じ。振り返った首筋が皺になっている、その柔らかさ。その肌の質感が魅力的。この作品を見て、冷やかしの気持ちはなくなり、襟を正しました。
Anotherqpido Anotherqpido2  続いて、伝統的な歴史画です。ブーグローの「クピドの懲罰」「武器の返却を懇願するクピド」の一対のような作品にはさまれて「音楽」という作品が、まるで三福一対のように展示されていました。これらの作品に共通しているのは背景が描かれていないで、白または空色の一色が塗られているだけとなっていることです。このスタティックでパターン化されたところと、淡い色彩の使い方で、刺激が少なく、見る者に緊張を強いることがないところなどは、19世紀フランス象徴主義のシャヴァンヌを想わせるところがあります。そうなると、アカデミスムとは言えなくなりますが。私は、西洋絵画をちゃんと勉強したわけではないので、アカデミスムの伝統がどういうものか分からないため、そういうこだわりはないのですが。穏やかさ、静けさというのは、ブーグローの作品に共通した特徴ですね。「武器の返却を懇願するクピド」などは激しく描こうとすれば、いくらでも激しい作品になるのに、この作品は穏やかです。公共的な場所に派手に展示して人々の注目を集めるというより、貴族や裕福なブルジョワの邸宅に飾るような作品だったのではないか思います。ネットで調べてみたら、銀行家の邸宅の客間の装飾として手掛けられたそうです。そのせいか、刺激は少ないが、見ていて疲れない。パッと見で惹かれるというよりは、見ていて飽きがこないというタイプの作品ではないかと思います。それだけに、見る人によっては退屈と見られてしまうかもしれません。これらのうち、「音楽」は天井に描かれていたということで、天空に浮かぶ白い雲の上でそれぞれ楽器を奏でる4人の女性と歌う3人の女性が描かれている。このうちタンバリンと笛を担当する前景の女性たちは半裸で、女神も思わせるところがあり、やや硬く静謐な古代の壁画の雰囲気です。その部屋にいたら、天井を見上げると、こんなのが見える、って部屋も豪華なんでしょうね。こうして見ると、ブーグローはアカデミーの伝統主義者というよりも、フレデリック・レイトンたちのような唯美主義に近いような気がします。
Anothergirl  一方、当時のイギリスでは、ジョン・エバレット・ミレイの作品(ここでも「あひるの子」が展示されています)などの子どもを題材にしたファンシー・ピクチャーが人気を集めていたと言います。ブーグローも少女を題材にした小品を数多く制作したと言います。例えば「少女」という作品です。小さな手を胸もとであわせて祈りのポーズをとる幼い少女の半身像を描いたこの作品は、ファンシー・ピクチャーのひとつと考えられます。ミレイの作品に比べて。少女の肌の柔らかで滑らかな触感が、丁寧に描かれていて、自然な表現が見られ、現実のモデルの存在を感じることができそうです。ブーグローの歴史画が唯美主義的なら、このようなファンシー・ピクチャーはラファエル前派のジョン・エバレット・ミレイと並ぶことになります。そうすると、アカデミーと反アカデミーとの区分は曖昧なんでしょうか。どちらにしても、ブーグローという画家は、技術の高い、丁寧な仕事をする人ですね。
Anothermusic  次のラファエル・コランの「楽」という作品です。森の中で木々を通した薄い光がさし、霧がかかったような薄明で、ものの輪郭がぼんやりとした空間に、半裸で、体の一部を覆う薄いヴェールをまとった女性が独り立っている。人物の扱いと背景の扱いにほとんど違いはなく、構図全体が同じ光の絵画層で覆われている。女性は写実的というより、ある種の叙情性を漂わせる存在となっている。親密で、しかし深く響く静謐さに包まれています。象徴主義的な雰囲気の強い作品です。淡い色彩で平面的な作風はピュヴィス・ド・シャヴァンヌあるいは、淡い色彩で空間に溶け込むように女性を描いたアルバート・ジョセフ・ムーアを想わせるような作品です。アカデミーの伝統というより幻想的で、この画家は象徴主義の詩人ピエール・ルイスの挿絵をよく描いていて、それも展示されていましたが、同じ雰囲気です。「楽」という抽象的な作品タイトルも、絵画全体の雰囲気を表していると思います。唯美主義といってもいいと思います。並んで展示されている「詩」も同じような雰囲気の作品です。
 いずれにしても、ここで展示されている作品は、総じて仕上げが丁寧で、企画展の会場で見たキュビスムの作品の中にあるようなキャンバスの地がでていたり、荒々しい筆触が残されていたりといった粗雑なところは一切ありませんでした。そこに商品としての品質を気を配るといった配慮が為されている、プロフェッショナリズムを見ることができました。
 小さな展覧会でしたが、ウィリアム・アドルフ・ブーグローという未知の画家に出会うことができて、とてもよかったと思います。

 

2023年10月30日 (月)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(7)~7.同時主義と オルフィスム─ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー

 「6.サロンにおけるキュビスム」はつまらなかったので割愛。だんだんブラックやピカソの尖がりが失われていきます。ドローネーは、キュビスムの新たな展開として「同時主義」「オルフィスム」と呼ばれる色彩を重視した抽象絵画を追求したといいます。ドロネーは、知覚の断片化に焦点を当て、色あせた色合いでのみ絵画を作成するキュビスムから、色の配置により、リズムの感覚が引き起こされ、色付きの平面が明るくカラフルな平面領域を加えたといいます。
Cubistwindow  「窓」という1912年の作品です。色のみが画像の構成を想定し、その色合いの対峙の唯一の効果によってリズムの感覚を引き起こします。色付きの平面が光沢のあるまたは厚い平らな領域に配置され、削り取られることで、このリズミカルな効果が得られます。色彩のコントラストだけで画面が作られているようで、カンディンスキーの抽象絵画と、どこが違うのかと思います。たしかに、並んで展示されているソニア・ドローネーの「バル・ビュリエ」という作品は、カンディンスキーの初期の「クリノリン・スカート」とよく似ています。
 このあたりで、疲れてました。展示作品のせいもあり、テンションが落ちてきました。展示数は多いので、量に疲れたというのもあります。そういう量的ボリュームという点で、この展示は申し分ないです。このあとは、デュシャン、クプカ、シャガール、モディリアーニの作品が展示されていましたが、この人たちはキュビスム?と疑問に思いました。展示されている作品はキュビスム的には思えませんでした。言っちゃ悪いが、数合わせ?と思ったりしました。まあ、この人たちの作品は、キュビスムなど関係なく魅力的ですが。あまり個々の作品を集中して丁寧に見たわけではありませんが、それでも全体を通して2時間ほどかかりました。この年齢では、立ちっ放しで腰が痛くなりそうでした。

 

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(6)~5.フェルナン・レジェブとファン・グリス

 ここから、キュビスムのフォロワーたちの作品になります。ブラックとピカソに続くキュビスムの代表的画家とされるのが、ピカソと同年生まれのフェルナン・レジェと同じスペイン出身のフアン・グリス。ともにキュビスムを吸収し、レジェは機械社会を反映した幾何学的作風、グリスは明晰な構図と色彩が特徴の画風を確立していったといいます。
Cubistcontrast  フェルナン・レジェの「形態のコントラスト」という1913年の作品です。いわゆるレジェらしい工場の製造装置のような光景の作品は展示されておらず(常設展にはありました)、ここで展示されていたのは抽象性の高い作品です。ブラックが立方体や四角形で画面を構成したのに対して、レジェは円と円柱で画面を構成し、もっと大きな違いは明るい色彩でコントラストが画面を引き立たせていることです。この作品では、鮮やかな赤、黄、緑、青が、形象にボリュームを与える白や、形象を際立たせる黒と激しく対照をなし、ほとんど準備されていない地のままのキャンバスに、対比が際立たせられています。この作品では、何が描かれているということは、ほとんど気にされなくなって、色彩の対比が主で、構成は、それを活かすためのものになっていると言っていいと思います。
Cubistguter  ファン・グリスの「ギター」という1913年の作品です。キュビスムというよりはシュールなイラストという印象で、明るくて洗練されています。ブラックやピカソの静物画よりも厳格に正面から描かれており、淡いブルーとグリーンの冷たい酸味が奏でる色彩の調和など、画面効果をよく考えていると思います。

 

2023年10月28日 (土)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(5)~4.ブラックとピカソ─ザイルで結ばれた二人(1909~1914)

 1907年に知り合ったピカソとブラックは、翌年から毎日のように互いを訪ね合い、人物や静物など身近なモチーフによる造形的実験を重ねていったといいます。章名の「ザイルで結ばれた二人」は、ロック・クライミングで命綱を結ぶ一蓮托生の関係にあったということを象徴的に表わしていると思います。
Cubistchair  キュビスムとは、教科書的に言えば、1つの視点からは見えない死角も同時に画面に描きこもうとする。具体的には、まず描く対象を様々な角度から見て、対象のイメージを複数の形に分解し、それを画面に再構成するというものです。ということは、見たままを写すことから、描く対象を幾何学的な細かい断面に分解して、まるでモザイク画のように重ねていくように描く、それが進化すると、色彩や光を抑制し、線と面による画面の構築が強調されていくようになり、見た目は幾何学的に単純化された図形の重なりになりました。それが分析的キュビスムです。
ピカソの「肘掛け椅子に座る女性」という1910年の作品です。前のコーナーの「裸婦」では、身体の各部分、人物の各要素を多面体に緻密に分解し、顔だけでなく、胴体、腕、首も、濃淡の度合いを変えながら、小さな灰色の多面体に切り分けられていました。しかし、描かれているのは人物であることは一応のところひと目で分かります。この作品では、人物を背景の前方に移動させ、ボリュームの錯覚を強調し、あたかも見る者の視線に応えるかのように人物を展開させています。こうして見ていると、ピカソの場合、キュビスムという物体を幾何学的図形である多面体に分解して描くというのは、人間という存在は画面に描かれていて、それは従来の絵画と変わりはなくて、それを表わす際に意匠として使われている。いってみれば、人間の身体は変わらずにあって、それを見て描くというのは変わらないで、衣装という装飾がキュビスムの役割というように見えます。いわば目新しいツールです。だから、もっと使い勝手のいいツールがあれば、容易に取り替えることのできるものです。
 Cubistguterist 「ギター奏者」は、同じ年に描かれた作品ですが、「肘掛け椅子に座る女性」に比べると、ずっと抽象的になって、人物の輪郭が容易に判別できなくなっています。これは、具象から抽象へと基本的な見方や表現が変わったというのではなくて、装飾である多面体図形が出しゃばってきて、それにより構成されるはずの人体を凌駕してしまった。たとえて言えば、平成時代の女の子の化粧の仕方で、ガングロからヤマンバという化粧塗りの過剰が顔本来の目鼻立ちを見えなくしてしまったのと同じような効果なのではないか、と思います。解読するように見ると、ギターと人物の腕に対応する斜辺だけが交差する、この厳格で直交を主とする構図では、円柱の上に置かれた半円で表された彼の頭、体格、丸みを帯びた形、楽器の弦を(困難ながらも)確認することができる。身体の幾何学的な平面は、背景で反響している。
Cubistfactroy  ピカソに対して、ブラックは人物画の展示はなく、もっぱら風景画と静物画でした。「レスタックのリオティントの工場」という1910年の作品です。四角形などの図形の集まりのようですが、風景が描かれているとして見ると、たしかに建物や煙突などが見えてきます。たしかに、ヨーロッパの街並みは樹木がなく、石造りの建物が並んでいると、建物は立方体で、曲線ではなく直線で構成されています。これは町中にも草木が多数みられ、日本家屋は直線的ではなくて、幾何学的に単純化できない日本の風景とは違います。工場はとくにそうですが、ヨーロッパの町は、幾何学的に単純化できるのです。それゆえ、ヨーロッパの町の風景から雑音を取り除いていくと、この作品のようになりえる。この作品を見ていて、そう思います。そうであれば、キュビスムは対象を知的に面と線で再構成するといった教科書的な説明とは違って、風景ならば個々の建物の個性といったような雑音を取り除いて線と面による形態に純粋化したものを描いたと言えるかもしれません。同じ風景でも日本の里山はキュビスムで描くのが大変なのではないか。
Cubiststillife  今度は「静物」という作品。題名そのままの静物画です。水平線と垂直線に、主として右上がりの斜線が組み合わされた構図で、画面左右の中央に垂直方向で形成されている形態はラム酒などの「瓶」、それに重なって右下がりの斜めの線が繰り返されて左上方では歪んだ楕円を形づくっている形態は新聞などの「紙類」で、それらがテーブルの上に置かれているのだろう。右上がりの断続する二本の長い斜線や、左下で三角形の暗い面をつくっている右下がりの斜線はテーブルの縁でしょうか。そんな解読はいいとして、前の「レスタックのリオティントの工場」とあまり見た目が変わらないでしょう。キュビスムの絵画だから、そういうものだ。そう言われても、ピカソの描いた女性とは見た目で違いがはっきりしています。おそらく、ブラックにとっては、風景も静物も同じような対象だったのではないかと思います。つまり、もっと絞ると風景の中の建築物とテーブル上の瓶や食器は線と面で構成された立体という点で同じです。ブラックは質感とか色などは、ほとんど無視するように描いているので、そうすると、彼にとっては、風景画と静物画の違いはなくなってしまう。逆に言えば、そういう対象をとくに選んで描いた。そのために適当なツールがキュビスムという手法だったと言えるかもしれません。
 さて、分析的キュビスムまでいくと、正直なにが描いてあるのか分からなくなります。そのことにキュビスムの画家たちも気がついたため、そこで絵と現実を結びつけるために新聞や紙を切り貼りするパピエ・コレという表現が誕生しました。分析・解体した絵画に、現実世界のものを組み込むことで、絵画と現実をつなげる試みをしたというわけです。それを総合的キュビスムと呼びます。そこで、コラージュやモンタージュという断片の集積によるイメージという新しい表現の可能性が誕生しました。
Cubistdish  ブラックの「果物皿とトランプ」という1913年の作品です。さっきの「静物」とは、大きく変わりました。この作品から総合的キュビスムの展示となり、それまでの分析的キュビスムの作品とは一線を画しています。まず色彩のバリエーションが豊かになった。とっつきやすくなった。木炭で輪郭を描かれたさまざまな面が、透明感と不透明感の交錯の中で重ね合わされている。木のような質感の模倣に新たな焦点が当てられている。トランプの存在、ブドウの形、テーブルクロスのモチーフ、文字の存在は、目と心を惑わす。といつた見た目もそうですが、イメージとして「静物」の方は、テーブルの上に瓶や新聞紙があるのを見て、それを多視点で分解し、再構成するという、あくまでも対象があってそれを認識することを前提にしている。これに対して、「果物皿とトランプ」の方は物語的というべきか。例えば、子どもが絵を描くときは視点を気にせずに、テーブルの上に果物皿とトランプがあるということを考えて、これが果物皿、これがトランプというようにテーブルの上に、それが分かるように描く。配置とか遠近とかパースとかは、はじめから考慮の外で、果物皿とカードをどこから見たかもかんけいなく、それぞれを描く、分かり易ければ、横に一列に並べてもいい。テーブルの上に果物皿とトランプがあるのを写すのではなく、テーブルの上に果物皿とトランプがあることが分かるように描く、その違いです。そうすると、見た人にはどういうことが描かれているのか分かりやすくなる。
Cubistviolin  同じ総合的キュビスムでもピカソではどうなのか。「ヴァイオリン」という1912年の作品です。ブラックの「果物皿とトランプ」のような物語的な分かり易さはありません。あくまでも視覚的、ということは絵画的です。筆遣いの多彩さは、ブラックにはない効果で、画面がいかにサマになっているか、という点で構成されている。それだけ、見た目で見映えがします。絵画として立派です。

 

2023年10月27日 (金)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(4)~3.キュビスムの誕生─セザンヌに導かれて

 セザンヌの残された手紙の中に「自然を球体、円筒、円錐として扱うこと」という言葉があるという。彼は、対象の大まかな形を立方体、円筒などでとらえた上で、細かなタッチで色面を貼り合わせるように描いていった。結果、立方体の集積で形態を表していて、形態の存在感が強調されるようになる。セザンヌは、自然を幾何学化することにより、対象の立体感や、存在感、空間を強調することを試みた。ブラックやピカソは、そんなセザンヌの後を追いかけるようにして、遠近感をなくす、モチーフを幾何学的にざっくり描く、モチーフを解剖するという実験をし、それがキュビスムになっていったという。
Cubistlestaque  ブラックの「レスタックの高架橋」という1908年の作品。ちょうど、最初のコーナーで見たセザンヌの「ポントワーズの橋と堰」と比べてみてください。画面中央の橋の形はよく似ています。この作品では、橋の手前の家並みは、立方体と三角形の図形を積み重ねたようになっています。これは、セザンヌの「ポントワーズの橋と堰」の家並みの描き方に倣っていると言えるほど、共通しています。これは、説明されているセザンヌを突き詰めたというより、いただいた、と言った方が当たっているのではないか。ブラックは要領がいい方ではなさそうなので、そういうところが正直に現われている。キュビスムって、尤もらしく、小難しい理屈が捏ねられているが、こうして見ると、セザンヌからちゃっかりいただいたものだったんじゃないの?と思わせる。ブラックは20代という若さゆえの反抗心や野心に煽られて従来のちゃんとした絵画なんて描かないぞ、という気概に溢れているように思えます。例えば筆遣いが粗く、同じ方向に塗っている筆跡が並んでいたりして、まるで下手な塗り絵です。グラデーションも何もない。立体感を表わす影についても単に暗い色を塗って、面の色違いにしているようにしか見えません。これってタッチの否定ですよね。セザンヌのもっている色彩のセンスはないようで、黄土色の系統でモノトーンに近い。これは色彩の否定。そういうのが、結果として目新しいと見られた。そして、それを要領がよく、目端のきくピカソがうまく利用して、現代でいえば差別化のマーケティング戦略のように作品を売り込むことに成功した。そんなストーリーが見えてきます。
Cubistinstrument  同年に制作された「楽器」という作品です。先に見たセザンヌの「ラム酒の瓶のある静物」と比べるといいと思います。ブラックが破壊的であるのが分かります。マンドリン、クラリネット、アコーディオンという3つの楽器を組み合わせ、折りたたんだりひねったり、二次元のキャンバスの長方形に圧縮したりする。マンドリンの楕円形の本体は平らになり、ネックは折れ、クラリネットは切り取られ、アコーディオンは関節が切断されています。静物画のすべての要素が歪んでいて、黄土色と緑に色彩は限定され、在る静物を描くと言うより、画面の表面的な構成が優先されています。ブラックはセザンヌを追いかけていて、その点で、セザンヌとは違う方向に踏み出したのかもしれない。この作品を見ていると、そう思えてきます。まあ、ブックの場合は、デッサンなどの修行をしなくてよくて、破壊が目立つという性格のものだろうけれど。
Cubistnude  一方、ピカソはというと「裸婦」という作品です。到底裸婦には見えません。背景は山のようですが、岩山のゴツゴツした尖峰のようで、黒い色は岩石のように見えます。少なくとも緑豊かな山には見えません。そういう山をバックにして立っている人物像は、まるで巨大ロボット(勇者ライディーン、あるいは有名どころではガンダム)の機械然とした姿に似ています。しかも、人物に使われている色がグレーでメタリックな雰囲気を匂わせているので、ゴツゴツした姿と相まって、ロボットの見えてしまいます。というよりも、人物と背景の山が同じように描かれています。とはいっても、仕上げは粗くないし、ブラックとは違って、ちゃんとデッサンして描いている。何を描いているか、描き分けがしっかりと為されている。つまり、計算されているので、破壊的な感じは強くありません(現代という後付けの視点からですが)。こうすると、後付けで、もっともらしい理屈、すなわちキュビスムの理論を付けやすいですね。ブラックで並べてみると、雰囲気が異質なのが、よく分かります。

 

2023年10月26日 (木)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(3)~2.プリミティヴィスム

 植民地支配を進めるヨーロッパには、様々な国の文化の産物がもたらされ、博物館に収められていた。古典的技法を用いた「青の時代」などを経て、新しい表現を求めていたピカソは1907年に訪れたパリの民族誌博物館でアフリカやオセアニアの造形物と出合う。概念的で力強い表現に衝撃を受け、描き上げたのがセザンヌの水浴図にもヒントを得た「アヴィニョンの娘たち」だという。原住民の像のようなものが展示され、それを真似したようなピカソやブラックの作品が展示されていました。
Cubistbust  ピカソの「女性の胸像」という1907年の作品。同時期のブラックの作品も展示されていましたが、原住民の土着的なテイストをそのまま真似してみました、というどストレートな作品で、果たして、絵画としての作品になっているのか、ちょっと疑問に思うほどでした。それに比べると、ピカソという人の巧さ、という要領のよさがよく分かる作品で、ちゃんと見ることのできる絵画になっている。でも、これのどこがプリミティヴィスムなんだろうか。たしかに、描かれている女性は、神話や歴史の人物でも、上流の階層の女性の肖像でもなく、美しい女性には描かれていない。女性の肖像にしては暗く鈍い色のトーンで描かれている。そういうところが従来の女性の肖像にはないものかもしれません。ピカソは巧い、ブラックは拙いの違いはありますが、どちらにしても、従来の絵画へ反抗している、というより否定している。しかし、自分たちのオリジナリティがあって、それが従来の作品とは異質で相容れないから結果として否定することになるというのではなく、否定が先にある。否定して、その後で、その否定を作品で表わすことができるかというと、そんなものはない。そこで飛びついたのが、植民地の原住民の作ったもの。従来の作品と異質であれば、従来の作品を否定することになる。それで、真似してみました。そんな感じがしました。この後のセザンヌの影響、というよりあやかり、もそんな動機が見えてくる気がします。

 

2023年10月25日 (水)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(2)~1.キュビスム以前─その源泉

 19世紀後半から20世紀初頭キュビスム以前の表現と、ポール・セザンヌやポール・ゴーガン、アンリ・ルソーなどといったその興りのきっかけとなった画家たちの作品が紹介されています。
Cubistpont  セザンヌの「ポントワーズの橋と堰」という作品。画面中央の奥になっている橋と川岸の家並が立方体と三角形の箱を並べたように描かれているのが、後で見るブラックの風景画に通じている。これは、後でブラックを見て、戻ってくると、「ああ、そうだっんだ」と分かります。この作品は前景に木々が茂っているので、箱を並べたような家屋は目立たないので、この作品だけを見てキュビスムにつながるとは思えないでしょうが。私は、セザンヌの作品を見ることは、あまりないのですが、このようにキュビスムの先駆という意味であれば、そういう視点で見ることはできると思いました。
 Cubisttropical アンリ・ルソーの「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」はセザンヌに比べで、ずっと平面的です。ルソーに比べれば、セザンヌはまだ写実的で、この作品では、オレンジが円形で木の直線と前景の直線的な葉っぱとで図形のようにデザイン化されています。この作品では、オレンジ色の円形の配置が画面にリズムを生んでいて、それが作品に動きを作り出していて、それが一種の面白味を感じさせます。このへんは、セザンヌのような理念が先行するというよりは、日本画の平面的でデザイン的なものの影響のように思えます。ちょうど、ジャポニズムの時代だったと思いますが。
この展示会はコーナーの数は多かったのですが、各コーナーの展示作品は数点で、各コーナーの内容を深めるというより、広く浅くのバラエティ重視の反映ではないかと思います。

 

2023年10月24日 (火)

パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(1)

Cubistpos1 Cubistpos2  上野に行くのはコロナ以来はじめてのことだから、3年ぶりくらいになるか。上野駅の公園口が変貌していたのには驚いた。キョロキョロしてしまって、まるでお上りさんだった。この展覧会は先週始まったばかりで、朝から強い雨が降っていて、昼前だから、まして、具象とはいえないキュビスムの展覧会だから、空いている。ゆっくりと見ることができると思っていた。しかし、実際に行ってみると、入場券の売り場には十数人が並んでいて、交通整理の係員が至る所に配置されていて、うるさいほど。建物に入ると、コインロッカーは人でいっぱい。印象派でもルネサンスでもないんですよ。キュビスムですよ。会場にはいると、各作品の前に常時数人が立っている。マイペースでゆっくりと見るなどという余裕はない。最初のうちから、こんなだと会期の終わりごろはいったいどうなってしまうのだろうか。ムズカシケナ20世紀美術がこんなに人気があるとは驚いた。来ている人は、けっこう若い人、しかも女性が多い。また、外人さん(観光客?)の姿も目立つ。私のようなジイさん一人は、あんまりいない。予想とは違う。それから、小さなことだけれど、美術館の入場券がQRコードのついたレジのレシートのようなものに変わってしまった。以前の、デザイン的な入場券は、つくるのに金がかかるので、こえいうのになったのだろうか。先々月訪れた埼玉県立近代美術館では作品リストは置いていなかったが、ここでは入口に置いてあった。
 キュビスムといっても範囲は広いので、その中で、どのような作品が集められているか、主催者のあいさつを引用する。“20世紀初頭、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという2人の芸術家によって生み出されたキュビスムは、西洋美術の歴史にかつてないほど大きな変革をもたらしました。その名称は、1908年にブラックの風景画が「キューブ(立方体)」と評されたことに由来します。西洋絵画の伝統的な技法であった遠近法や陰影法による空間表現から脱却し、幾何学的な形によって画面を構成する試みは、絵画を現実の再現とみなすルネサンス以来の常識から画家たちを解放しました。また絵画や彫刻の表現を根本から変えることによって、抽象芸術やダダ、シュルレアリスムへといたる道も開きます。慣習的な美に果敢に挑み、視覚表現に新たな可能性を開いたキュビスムは、パリに集う若い芸術家たちに大きな衝撃を与えました。そして、装飾・デザインや建築、舞台美術を含む様々な分野で瞬く間に世界中に広まり、それ以後の芸術の多様な展開に決定的な影響を及ぼしています。本展では、世界屈指の近現代美術コレクションを誇るパリのポンピドゥーセンターの所蔵品から、キュビスムの歴史を語る上で欠くことのできない貴重な作品が多数来日し、そのうち50点以上が日本初出品となります。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの豊かな展開とダイナミズムを、主要作家約40人による絵画を中心に、彫刻、素描、版画、映像、資料など約140点を通して紹介します。日本でキュビスムを正面から取り上げる本格的な展覧会はおよそ50年ぶりです。”
 見る前は、ブラックとピカソを、両者の違いを含めて、その後ピカソはキュビスムより広いところに行くのに対してブラックはキュビスムを突き詰めていくとか、そのへんをじっくりと見せてもらえると思っていたら、二人の後に、レジェをはじめとした様々な作家にキュビスムが広がっていく(シャガールとかモディリアニなんてキュビスムなのか?と思ったりする)が、そういう広がりという方向で展示されていました。いわば、広く浅くというという方向で、その広くが、どこまでをカバーしているかは分かりませんが、キュビスムに対して親しめるという展覧会だと思います。

 

2023年9月16日 (土)

横尾龍彦─瞑想の彼方(6)~第5章 水が描く、風が描く、土が描く

Tatsuhikobiue  ヨーロッパの美術館でのパフォーマンスのビデオをノンストップで流していました。アクションペインティングですね。そのようにして描かれた(大量生産された)作品が、いくつも展示されていました。私には、どれも同じに見えてしまいました。割合にサイズの大きい作品が広い展示室の四方の壁に掛けられていて、中央のベンチに座っていると囲まれたようになるのですが、不思議と圧迫感はなくて、例えば、ロスコの作品に囲まれていると、吸い込まれそうな感じになるのですが、この人のは訴えかけるところはないというか、控えめというか、そういう点では洗練されているとか、センスがいいと言えると思います。疲れないんですね。それは、反面、退屈でもあるわけで。この部屋は人が少ない。第2章あたりの展示コーナーでは、立ち止まって作品について、あれこれ話す人の姿が目に付いたのですが、ここではあまり立ち止まることなく、通り過ぎてしまう人が多かったように思います。

横尾龍彦─瞑想の彼方(5)~第4章 東と西のはざまで

 ここでまた、横尾は作風を一変させます。抽象というか前衛書道みたいになります。書を思わせる筆の動きや絵の具の飛沫を前面に押し出して描いた結果が抽象的な画面になる。もともと、リアリズムの明確な形は描いていなし、何を描くかということより、描いているという身体を動かすことを楽しむといった作品だったので、描いた結果が抽象だろうと、あまり気にすることはないと思いますが、それにしても、黙示録から禅にワープしたんですか、と聞きたくなります。節操というものがあるんですかね。
Tatsuhikodragon  「臥龍」という1988年の作品です。晩年のターナーみたいなモヤモヤばっかりで、臥龍という題名をつけると、いかにも東洋的な、宗教的なものに見えてきます。洗面器に水をいれて、そこに水彩絵の具を流して、水面に紙を置いて、流動する絵の具を定着させたような画面です。よく言えば即興的で、それまでの即興的で偶然にまかせる要素があったのを、全面的なものにした。端的に言えば、いきあたりばったりでしょうか。わたしとしては、このあたりの作品から、書くことが少なくなります。正直に言えば、面白くなくなってくる。あっ、誤解の内容に付言すると、偶然に任せたアクションペインティングのような作品は、ジャクソン・ポロックとか白髪一雄とか好きです。でも、この人のは違っていて、例えば、色の重ね方とか、表現が単純で細部がないというか、飽きてしまうんです。これては物語的な想像力を喚起させるところもなくなってしまったし。
Tatsuhikoone  「一路涅槃門」という1995年の作品です。まるで白髪一雄の後期のアクションペインティング作品をシンプルにしたような作品です。この作品をみて、白髪だと思ってしまいました。白髪一雄のように縄にぶら下がって足で描くというわけではないので、手で筆を持って描くのでしょうから、すべてを偶然にまかせるというのではないでしょう。だいたいのところを想定して、あとは筆の赴くのに従った結果、こういう作品になった。出来上がったら、禅画っぽくなったというのではないかと思います。しかも、キャンバスの地に白と黒の二色という色使いが落ち着いた雰囲気をもたらし、静謐な印象を与える。そして、二色が混ざったり、混ざらなかったりするところに動きが感じられて、その微妙な感じがいわく言い難い、というか、描かれた形が禅画に似ているところがある。そういうところから瞑想的とか、受け取られていくようになるのでしょうか。

 

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