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美術展

2017年6月16日 (金)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(6)~5.建築装飾─寓意と宗教主題

Chasseriaumages  シャセリオーが手がけたとされた会計検査院の壁画は代表作だったにもかかわらず、パリ・コミューンの騒擾で建物と共に焼かれてしまって、断片やスケッチが残されているのみということですが、それ以外にも、彼が手がけた壁画を展示で再現しようというコーナーです。それは意欲的な試みなのでしょうが、油絵作品をずっと見てきた身としては、壁画の複製として、油絵とは明らかに異なって大雑把な描き方でしかもレプリカということですから、変わった趣向で物珍しさはあっても、仕上げられた油絵と同列に並べて鑑賞するには、無理があると感じました。私は研究者や画家の熱狂的なファンでもなく、いい作品をひとつでも多く見たい、とただそれだけの者なので、作品が並べられて最後に、これでは些か白けてしまうのは避けられないし、展覧会全体の印象が変わってしまうように思えて、残念だったという他ありません。
 ここで、とにかく見ることのできたのは「東方三博士の礼拝」という作品しかありませんでした。“粗末な馬小屋の前の飼い葉桶に生まれたばかりの幼子を膝に乗せて座っており、その上半身は神々しく輝いている。救世主誕生のお告げを受けて聖母子のもとを礼拝に訪れた東方の三博士は、絵画の伝統通り、若者、壮年、老年と人生の3段階を示しつつ、それぞれ褐色、黒、白と肌の色の違いで異なる大陸を表わしている。一番手前の白髪の老人は赤い宝石で飾った金の器を差し出し、真ん中の黒い顎鬚の博士は両手で真珠を捧げ、一番後ろの若い博士は左手で白馬を連れ、右手を恭しく救世主のほうへ差し出している。この馬の向こう側には御付の者らしき人々が見え、さらに右奥には大きなラクダに乗った人物がか彼らを導いてくれた天の星を指さしている。その向こうには棕櫚の木が見え、異国情緒を高めている。”という解説がされています。シャセリオーの早すぎた最晩年の作で宗教的な題材の作品ということですが、画家本人もとりたてて死期を悟った集大成のような作品でもないし、早熟の画家が成熟した画風となったというものでもなく、日常的に制作を続けていて、ある日突然死んでしまったというようなことが、作品を見ていると分かる、そういう気がします。晩年の最後のような作品が聖母子像で、それなりのストーリーを捏造しようと思えばいくらでもできそうな作品です。シャセリオーの作品では珍しく明暗をの対照を強調した劇的効果を狙った構成になっていることや、聖母の顔が、シャセリオーの作品の例に倣って表情がないことが却って神々しく見せているといったことは、これまでにはなかった技法の戦略的な使い方であろうという作品です。それが宗教的な感情を呼び起こすとか、そうなっていないところがこの画家の特質なのかもしれないと思います。
 このように通してみると、埋もれた画家というのは分かります。無理ないと思います。むしろ、それを無理に掘り起こして脚光を浴びせるほどの画家であるかどうか、そう思います。マニアックな物好きが、あまり知られていない画家として珍重するマイナー好みの枠内に留まっている程度の評価で十分ではないかと思います。後世のギュスターヴ・モローらへの影響が指摘されていましたが、モローのファンが話題のために顧みる程度でいいのではないか、あまり評価しすぎるのは、この画家にとっても無理があるような気がしました。

2017年6月15日 (木)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(5)~4.東方の光

 シャセリオーという画家の特徴としてオリエント/東方趣味のエキゾチックな要素が、とくに彼の後期の作品の現われているということで、ここに単独のコーナーをつくって展示されていたのですが、どうも私にはしっくり行かなかった印象なのです。展示されていた作品のほとんどが仕上げられていないような印象で、果たして完成したのかどうなのか。画家として、試しにスケッチしてみたとか、習作してみた、としか思えないものばかりで、作品として結実しているようには見えませんでした。彼が亡くなってしまったので、それが画家の中で消化されて作品としてまとまる以前に生涯を終えてしまったということなのかもしれませんが。ひいつの大きな違和感として残るのは、これまで見てきた彼の作品のあったキレイゴトの美しさのようなものが、作品として仕上がっていないためかもしれませんが、ここで展示されている作品では減退しているように見えることです。
Chasseriauconstan  「コンスタンティーヌのユダヤ人街の情景」という作品です。“天井から吊り下げられた揺り籠の赤ん坊をあやす2人のユダヤ人女性。おそらく家族だろう3人の姿は、聖母子と聖アンナも思わせます。優しく親密な一体感を示す母子像は、主題を問わず、シャセリオー作品に繰り返し登場するモティーフでした。シャセリオーの東方主題の作品の魅力は、異質な他者に対する視線が作り出したエキゾチズムにではなく、画家独特の深い共感とある種のノスタルジーの表現にあることを教えてくれる一枚です。”と説明されています。前に見た「気絶したマゼッパを見つめるコサックの娘」でもそうだったのですが、オリエント趣味のエキゾチックな要素であることの必然性といったものが、よく分からないで、強いてあげるとすると色彩の点くらいしか考えられないというのが、正直な感想です。そう考えると、この作品でも画面向かって左側の女性の紗のヴェールと黄色と青の二色の衣装といった信号機のようにどぎつい色遣いは、例えば、前のコーナーで見た肖像画や西欧の神話や物語を題材にした作品では不可能でしょう。画家の色彩の実験とか、今までにない使い方をしたいという時に、格好の素材としてつまみ食いしてみたくらいにしか見えないのです。私の個人的な偏見なのでしょうが。それは、仕上げの粗さにも顕われているのではないかと思います。これまでに見てきた作品では、表面が滑らかに、流麗に磨き上げるように仕上げられていたものが、ここでは筆触が残っていたり、絵の具の塗りがはっきり分かったり、むらがあったりといったように遠目には気になりませんが、近寄ってみると粗さが目立ちます。それを画家が意図的に、何らかの効果を図っているのならいいのですが、例えば、ロマン主義のドラクロワの場合などは、明らかに粗い描き方をすることによって生まれる画面上の効果を計算して描いているのが分かります。しかし、シャセリオーの作品では、それが、私には不明なのです。身も蓋もない言い方をすれば、シャセリオーの作品の売りは、ブルジョワの小市民的な安寧をワンランクアップの高級感で充足させる上品さと通俗的な題材のわかりやすい取扱であると思います。それは、没落しつつある貴族のような支配階層にとってもかつてのように持ちえなくなった教養の減退した状況でもノスタルジーに浸ることのできるものでもあったと思います。そういう、見る者の葛藤を招かず、見た目に心地好く、しかも贅沢で上品な体裁が整えられている、しかもチョイワルの感じのスパイスが隠されていてスノッブな虚栄心にも心地好いといったものだと思います。そこで、この「コンスタンティーヌのユダヤ人街の情景」のような粗さは、違和感をどうしても覚えるのです。
 また、この作品の向かって左側の立っている女性はポーズといい、かしげている首の軸がずれていてインド舞踊をしているような感じなのと、母親であるだろうに揺り籠の赤ん坊に全く注意を払っていないところなど、人形のように描かれているところは、そのポーズもそうですが、ギュスターヴ・モローの作品にでてくるヒロインに通じているところがあるように見えます。
Chasseriauhorse  「雌馬を見せるアラブの商人」という作品です。その中心であろう馬がイマイチで、しかも馬をとりまく人々の描写がたんにポーズをとっているのを写しているようにしか見えないので、現実感がほとんど感じられません。リアリズムを追求する画家ではないということは分かりますが、それではオリエントをわざわざ題材に選んだことの意味がどこにあるのかいという疑問を抑えることができません。例えば馬は「狩りに出発するオスカール・ド・ランシクール伯爵の肖像」の背景にあるかきわりと殆ど似たようなものです。ジェリコーの描くような、いまにも画面から飛び出してきそうな生き生きとした躍動感に筋肉に秘めているようなものではありません。人々も、こういう言い方をすると酷いかもしれませんが、趣向の変わった肖像画を描いてもらうためにコスチュームに凝った、言ってみればコスプレをした人々にしか見えません。おそらく、シャセリオーの作品を享受する人々のオリエント趣味には、応えるものだったのかもしれません。シャセリオーの作品を見ていると、健全ということ、それはよい意味でも悪い意味でも、それが個性となっていて、それがもの足りなさを覚えさせるところがあります。このようなオリエント趣味の作品を例にとって見れば、彼の師であったアングルが持ち前の緻密なデッサンを用いながら、あえてプロポーションのバランスを崩して意図的に歪んだ画面をつくってしまうような病的なところは、シャセリオーには見つけられません。そういう、シャセリオーの限界のようなものが、露呈してしまっているのが、ここで展示されているオリエント趣味の作品群ではないかと感じました。

2017年6月14日 (水)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(4)~3.画家を取り巻く人々

 このコーナーの展示作品は少なく、内容としては肖像画で、他の画家の回顧展であれば、生活の糧のために、画家の絵画的な野心とは別に仕事として職人的に制作したという感じで、つまらない場合が常です。しかし、今回の展示では、この肖像画がもっとも充実していたように思います。私としては、一番見ごたえがありました。だからというわけではないのですが、シャセリオーという画家は近代的な主体をもって絵画的な表現を追求していくといったタイプのひとではなくて、職人的な一般的に、もっというと通俗的に美しいというものを、上品なようすで、しかも、ちょっとしたユニークな意匠を加えてつくるというタイプの人だったのではないかと思えるのです。そういう特徴がよく現われていたのが、ここで展示されていた肖像画です。“師アングルと同様、シャセリオーは、正確なデッサンとモデルの特徴を的確に捉えつつ、その個性を際立たせた素描や油彩の肖像画も残している。”と解説されていますが、まさにその通りではないかと思います。ただし、アングルと違って、シャセリオーは注文を受けることはなく、家族や友人たちを描いた私的なものだったといいます。
Chasseriaucabaryus  「カバリュス嬢の肖像」という作品。この展覧会のポスターで使われた、今回の目玉と言っていい作品です。“ドレスの白からケープの淡いピンク、手にしたパルマ・スミレの薄紫まで色彩のグラデーションが、花で縁取られたモデルの繊細な表情とあいまって、コローの人物像に通じる叙情を醸しだしている。”と説明されています。コローの人物像に通じる叙情とはどういうものか分かりませんが、当時はあまり評判がよくなかったようで、“シャセリオー氏が描いた青白くて痩せぎすの人物像、肩は狭く、胸はくぼみ、緑がかった死体のような肌を持つ「カバリュス嬢の肖像」が、あの活気と健康に輝くような美しい若い娘であることに気がつくと驚愕する。彼女においては全身から生命が躍動し、光り輝いていて、数世代にわたる荘重な美の遺産を実に軽やかに受け継いでいるのだというのに。”とまあ、生き生きとした存在感がないというのが、この評の主旨だと思いますが。それは、人物表現としての絵画として言えることで、日常的に室内の壁に飾り、とくに鑑賞するでもなく、装飾として目に触れるという点では、かなり品質の高いものではないかと思います。多少官能的であっても、ついでに眺めるような場合には、生命感まで見ませんし、それよりも、見てすぐ美しいと分かるほうがいいでしょう。そういう点で、多少きつめの、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちを、しっかり素描して、白やピンクの衣装と花を散りばめて、上品な色遣いで細かく丁寧に描いてある。肖像画を送られたモデルの当人と家族は、この肖像画を気に入って終生手放さなかったということですから、芸術とかいったことではなくて、肖像画としてはきわめて品質の高いものだったと言えると思います。この作品は、1848年のサロンにパリ市中では二月革命の騒擾があって、それとは隔絶されたノスタルジックで静謐な雰囲気に満たされているものになっているわけで、そこに反時代性とまでは行かないまでも、復古的なあるいは平穏とか体制維持あるいは、変革から目をそむけるといった姿勢が底流しているように見えます。家庭といった自分や、その周囲の小さな城をつくって、そこに逃避するといった、同時代にドイツで流行したビーダーマイヤーに近い心情とでもいいたくなるものです。
Chasseriaubel_2  ただ、シャセリオーの描く女性のタイプというのが、肉感的な官能性という方向ではなくて、目鼻立ちのはっきりとしたキツめの顔立ちの女性であることが多く、おそらく、彼の好みのタイプなのではないかと思いますが、「カバリュス嬢の肖像」もそうですし、素描ですが「ベルジョーゾ公女の肖像」でも、そういうタイプの女性を描いています。しかも、細身の痩せた身体つきで、「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」のような、女性というよりも美少女に近いような女性を描いているので、女性の美しさといっても、官能的とか肉感的というよりは、純粋とか繊細とかいったニュアンスが強いため、頽廃的な印象はありません。敢えて言えば、題材の選択で救われている。そういうところで、シャセリオーの絵画というのは、革命によって解放された民衆ではなくて、それを傍観していたり、取り残されていた貴族社会の一部や裕福なブルジョワといった保守的な狭い社会に間での芸術といえるのではないか、と思えるのです。
Chasseriautocqueville_2  「アリクシ・ド・トクヴィル」の肖像です。モデルは有名な政治家、政治思想家で「アメリカのデモクラシー」という彼の著作は政治学を志すものにとっては教科書のようなものです。シャセリオーはトクヴィルと友人だったようで、この肖像もその縁で描いて贈られたもののようです。それゆえ、シャセリオーが必ずしも復古主義ということではないです。シャセリオーは、トクヴィルがそういう人であるということを背景や隠喩を用いて画面の中で表現として入れることせず、モデルの顔の外形を、細かく描写し、まとめることに徹しているように見えます。神話や物語の場面を描いた作品では構図の歪みが、効果を意識した人為的なものとは思えず、気になって趣きを減退させるところがあったのですが、「カバリュス嬢の肖像」もそうですが、肖像画の場合には、構図はおそらく、モデルを忠実なため、あまり気にならなくて、一見写真のようなリアルさを感じさせます。この作品であれば、人物の衣装の黒への光の陰影で身体つきの立体感をあらわすグラデーションや黒が光を反射して生地の高級感を表わしたり、上着と、首周りのスカーフの描き分けなどを見ると、この画家の技量の高さを見せ付けてくれます。私には、シャセリオーという画家の、特徴というのは、ロマン主義とかモローなどの象徴主義の画家の先駆けとなったところといったもの以前に、こういう表現をセンスよく使っていた、この後大衆社会の波に埋没していくことになる上流階級の上品さとかセンスをテクニックとして数量化したような作品を制作したところにあったのではないかと思えるのです。ただし、それは絵画の市場としては成熟市場として発展性の見込みのないところであったので、彼を継承して発展させる人がいなくて、本人の死とともに埋もれてしまう運命にあった、というとセンチメンタルな言い方になってしまいますが。実際に、この作品のような写真と見紛うような肖像画であれば、写真の方がコストパフォーマンスは数段いいわけで、商品としては競争に勝てないものでしかありません。
Chasseriauoacal  「狩りに出発するオスカール・ド・ランシクール伯爵の肖像」と「狩りに出るランシクール伯爵夫人の肖像」という、ひと組セットではないのですが、そう展示してあった肖像画です。上で見てきたように細かく質感まで描きこんではいなくて、近くで見ると筆触がのこる粗さがあります。それが、馬やイヌに顕著に出ていて、この人は動物の描き方が概して下手で、ロマン派の画家ジェリコーのように馬を描くことはできなかったようです。肖像画が上手いというのは、おそらく、シャセリオーという人は、描きたい、一番興味があったのは人だったのではないかと思えます。それ以外の動物とか、小物ののような事物、あるいは風景といったものは、その人物を描く背景程度の熱意しか持てなかった。そんな気がします。また、この場合の人物というのは、その外形で、顔つきとか身体つきといったところに限られ、例えば、顔つきに関して言えば、感情などの内面をあらわす表情には興味がなくて、顔の輪郭、つまり外形としての形です。したがって、歴史画とか風景画とか画面に空間を構成する設計のようなことや、静物画のような物体それぞれの質感、はだざわり、存在感といったものの表現は重視されず、形や色彩といったところに興味の重点が置かれ、画面にもそのような重点の置き方の違いが明確に現われている、といった作品の特徴になっていると思います。そういった意味で、シャセリオーという画家の資質には肖像画がもっとも適していたのではないかと思えるのです。これは、今回の展示で、それぞれのジャンルのシャセリオーの作品を見ていて感じたことです。

2017年6月13日 (火)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(3)~2.ロマン主義へ─文学と演劇

Chasseriauapollo  20代になったシャセリオーはロマン主義的な作品を次々に制作し始めたということで、「アポロンとダフネ」という作品です。ギリシャ神話で太陽神アポロンからの求愛を拒絶したダフネは月桂樹になってしまうというエピソードを描いたものです。逃れようとするダフネは身体を弓なりに反らして弧を描いている姿は、足元が樹木の根の張った姿に変容しはじめていて、身体をいっぱいに伸ばしているのは、アポロンから逃れようとするのと、樹木の幹の上に伸びる姿に擬しているのと両方でしょうか。その垂直の方向性に、こころもち弓なりの曲線がかかっていることで女性の身体の流れるような曲線が強調され、アポロンが追い求め、手の届かない美を強調しているように見えます。そして、ダフネの顔には表情はなく、これはシャセリオーの特徴のようでもある感情とか心の内面を、あまり表情として描こうとしないのか、敢えてそうしているのか分からないけれど、樹木に変容し始めていることによって表情を失い、アポロンの求めにすで反応も反対もしないという冷たい拒絶という様相になっています。一方、アポロンはダフネの足元に縋りつくように追い求めるアポロンの姿は、美に対する芸術家の届かぬ憧れの姿を体現しているという評もあるようです。この作品のアイディアや構図は、ほとんどそのまま後世のギュスターヴ・モローによって使われていChasseriauapollo2 て、モロー自身もシャセリオーに対するリスペクトもあったということで、その作品も並べて展示されていました。モローはダフネを痩身にして人間の肉体を感じさせないようにしてより抽象的にしています。この「アポロンとダフネ」という題材もギリシャ神話の有名なエピソードで、多くの絵画や彫刻で取り上げられてきました。それらに対して、シャセリオーとモローの場合に際立っているのが、ダフネの描き方ではないかと思います。つまり、他の作品では、ダフネはアポロンから逃げる女性で、アポロンに対して恐れの表情だったり、逃れようとして必死の顔、あるいは今にも悲鳴を上げる、アポロンを拒絶するといった、かなり強い表情で描かれているのです。むしろ、ロマン主義の立場であれば、個人の内面の動きを強調するのですから、それがもっと強調されてもいいはずなのに、シャセリオーは、反対にダフネに表情はありません。すでに樹木への変容が始まって、人間的な感情とか表情が失われている、ということなのでしょうが。むしろ、そのような人間から無機物になったところを描くところにシャセリオーの特異さがあると思います。それは、敢えて言えば、世紀末デカダンスの変態的な性向、ネクロフィリオとか、人形を偏愛するとかいった趣味への親近性です。それは、シャセリオーの趣向を継承したモローには、明らかに表われていると思います。
Chasseriauninfu  「泉のほとりで眠るニンフ」という作品で、140×210cmという大作です。“森の泉のほとりで眠る裸婦。木々の茂りが織りなす深い緑を背景に見事なプロポーションの白い裸体が浮かび上がる。ヴェネツィア派以来の草上のニンフの図像の伝統を踏まえつつ、画家はとりわけ古代彫刻を思わせる裸婦の典雅なポーズの表現に心を砕いたことが分かる。だが、彼女が脱ぎ捨てたらしきバラ色のドレスや金の首飾りなどがその体の下に敷かれており、この裸婦が神話のニンフではなく、19世紀の同時代の女性であることも明かしている。澄み切った地中海の青空ではなく、画面左手の木々の隙間からは落日の赤光が覗いていることから、夕闇が迫る時間帯であることもわかる。さらに、女性の体は古代彫刻のように無毛で描くことを一つの約束事としてきた絵画的伝統を逸脱して、両腕を挙げた裸婦の左脇の下にはうっすらと生えた毛が隠すことなく描きこまれている。ゆったりとした筆で置かれた緑、バラ色、金色のハーモニーが静かに醸し出す詩情の一方、写実主義の萌芽を見ることができる作品である。”という解説がされています。この解説で、作品の概要を言葉にまとめていると思います。そうやって概要を掴んだところで、さきほどの「アポロンとダフネ」を思い出しながら、この作品を見てみると、じつは、女性の描き方がかなり共通しているところが分かります。それは両腕を挙げたポーズで、腋の下を露わにしている。身体の全体を背伸びするようなポーズをとらせている。顔の中で最も表情を表わすことができる目が閉じられている。片や樹木に変容し、片や眠っていて意識のない状態であること。それらは、末節的なところではなく、本質的なところで、シャセリオーという画家の裸婦に対する嗜好、あるいは志向が表われているのではないかと思います。たんに二つの作品だけを抜き出して指摘するのは恣意的と思われるかもしれません。しかし、他にも彼の代表的な作品に数えられるた思われる「海から上がるウェヌス」にも共通しているのです。他にも「エステルの化粧」「テピタリウム」「オリエントの室内」といった作品にも共通していると言えます。では、シャセリオーの裸婦に対する嗜好、志向とはどのようなところか。ひとつは、両腕を挙げたときの乳房をはじめとした胸、そして肩の筋肉、上半身の形態に対する好みです。この場合、乳房は吊り上げられるようなこととなって、豊かなボリューム感は減退しますが、垂れ下がるようなことがなく引き締まったプリプリした感じになります。乳房の出っ張った形態がハッキリします。そして、乳房をつり上げでいる肩から胸にかけての筋肉が盛り上がって、線がくっきりします。さらに腋の下の窪みとの対照で、盛り上がりが強調されます。また、敢えて言えば、腋の下の窪みへの偏愛もあるのではないか。この場合、腋の下の窪みは陰部の窪みになぞらえていると想像することができます。だから、腋の下の腋毛をあえて描いたのではないか、と思えるのです。そこから、シャセリオーの女性の身体に対して腰部よりも上半身への偏愛とまでは行かないまでも、志向があったのではないかと思われるのです。そこで考えられるのは、出産ということを避けながら、女性を性的対象として見る視線です。
 それは、裸婦の女性が肖像画のように描かれて、人物の外形の特徴を見分けられるような描き方で、女性の裸の身体も描かれているということです。ルネサンスのイタリア絵画のような透明感のある青空の下で陽光を浴びてピンク色に輝くような肌ではなくて、室内の暗い灯りでほの白く浮かび上がる肌です。つまり、女神の肌ではなく、日常の現実生活で見ることの出来る肌です。それが却って生々しさを感じさせる要素となっています。しかし、かといって後のマネのような脂粉にまみれた不健康な肌ではないのです。そこにシャセリオーの時代性があり、彼自身の本質的に身についていた上品さがあったと思います。だから、裸婦の身体の美しさは、リアリズムに徹しているわけでもなく、肖像画がおしなべてそうであるように、人物の特徴を備えていながらも、見栄えのするように手を加えています。裸婦のポーズや画面構成はルネサンスのイタリア絵画のパターンを踏襲した立派な裸婦像の形態をとっています。そのパターンを踏み外すことなく、しかも前記のような嗜好で女性が描かれている。したがって性的な視線の消費の対象として、品質の高い裸婦像が出来上がってくるというわけです。
Chasseriaumazeppa  このコーナーでは挿絵としてペンで描かれ、版画として流通した作品も展示されていましたが、ここでは触れません。油絵作品を見ていきます。「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」という作品です。シャセリオーが数多く描いたオリエント風のエキゾチックな作品が、このころから制作され始めたということでしょうか。ロマン主義とかエキゾティシズムとか説明されていようですが、さきの裸婦像が視線の消費の対象となっているのと同じように、新奇さという点で観る者の消費の対象となる作品となっていると思います。ただし、そこにはシャセリオーの本来持っている育ちの良さゆえに、作品に品位を持たせて、芸術の絵画として伝統的な枠組みの中に収まっている。身も蓋もない言い方になりますが、私の見たシャセリオーのロマン主義とは、そのように映りました。作品に戻りましょう。“ポーランド国王に仕えてたマゼーパが有力者の妻と不義を働き、その罰として野生馬に裸で縛り付けられて荒れ野に追放された様子を描いた。”という題材で、過去にも題材とした画家が何人もいたということです。シャセリオーは“新たな表現を加えた。従来のように、危険に満ちた暗い荒野を疾駆する馬とその背で苦悶するマゼッパの姿を描き出すのではなく、本作での中心は、異国的な鮮やかな色合いの衣装と黒い瞳に黒い髪のコサック娘である。精根尽き果てて地面に倒れこむ馬を彼女が発見した瞬間である。時間帯は黄昏時であり、背景の夕空を織りなす茜色から薄闇のグラデーションや、飛び去る鳥のシルエットが抒情的でメランコリックな雰囲気をかもし出している。”と説明されています。この説明でも触れているように、この作品の眼目は、エキゾチックな少女の姿であり、野生馬とマゼッパの姿は少女と対照させるみじめさとして機能しているようてす。少女は、先ほど見たアポロンから逃げるダフネのように顔が分からないということはなく、顔の造作がちゃんと描いてあり、つかも目の大きな美少女という描き方のようですが、少女の顔には表情の片鱗もなく、ポーズも右手を無意味に伸ばしているだけで、たんに立っているだけの、まるで彫刻のようです。彼女には、普通であれば、目の前にあるように異常な出来事に対して、驚いたり、恐ろしくなったり、マゼッパの身体を気遣ったりするはずです。ところが、彼女は無表情で、良く言えば超然としているのです。それは、デカダンスの芸術家が好んで取り上げた、ファム・ファタールという周囲の不幸を糧にした美しい生き物のようにも思えてきます。つまり、シャセリオーという画家には耽美的傾向があるのではないか、ロマン主義というのは、そのための手段ではないかと思えてくるのです。もちろん、画家ですから美しさを追求するのは当然です。

2017年6月11日 (日)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(2)~1.アングルのアトリエからイタリア旅行まで

 シャセリオーの習作からデビューのころの初期作品です。
Chasseriauself  最初に展示されているのは「自画像」で、画家が16歳の時の作品です。全体として薄味という印象です。伝統的、つまり古典的な薄塗りの画面で、お上手というものです。16歳でこれだけ描けていたわけですから、彼の肖像画はたしかに上手いと思います。この後で肖像画のコーナーがありますが、通常の場合、画家の回顧展で肖像画がまとめて展示されているコーナーは概してつまらないのですが、今回の展覧会では、その肖像画のコーナーが全体の中でも充実していた感じで、この画家は肖像画家としては一流てあったことを認めるについては、吝かではありません。しかし、それは肖像画としてであって、絵画作品としてはどうか(肖像画と絵画は違うのか、と問われれば、答えにくいのですけれど)というと、薄味なのです。弱いのです。例えば、人物の目に力がない。モデルの人物がそうなのだと言われればそれまでなのです。しかし、この人物の両目の瞳の焦点が合っていないように見えます。少し斜視気味で、これはおそらく鏡で自身の姿を見て、そのままを描いていると思いますが、そこで、目がうつろになっているように見る者には映ります。また、そして、全体としてノッペリと色が塗られているような感じで、それぞれの色を塗った面というようになっている。例えば顔の陰影については、影の黒く塗ったとそれ以外の肌色の部分は、それぞれが彩色された面のようになっていて、影の段階が追いかけられていないようです。だから、顔の立体性を感じ難い結果となっています。これは、同時代の画家たちの描く肖像よりも、後世の例えば、ヴァロットンの描く表層的で平面的な画面に似ているところがあると思います。これは若描き故の稚拙によるものかもしれず、これを以ってシャセリオーの志向するところというのは早とちりになるでしょう。ただ、陰影を移ろい行くように細かく描写することによって、怒りとか笑いのようにハッキリと表われる感情ではない、微妙な内面や気分のようなものを表現するロマン主義の志向性が、この作品にはほとんど認められません。むしろ、外形を表面的になぞることに心を傾けているように見えます。だからこそ、立派な肖像画になり得るわけですが。
Chasseriaucopy  「16世紀スペイン女性の肖像の模写」です。模写ということで修業時代のもので出来栄えがよかったので本人も気に入って保管していたものでしょう。スペイン・バロック風の黒を基調として、色白の女性の肖像が浮かび上がってくる。その肌の色や柔らかな質感、叙背課の顔の雰囲気など、今回展示されているシャセリオーの作品の中で、とくに印象深い作品の一つです。しかし、模写です。画家のオリジナル創作ではないのです。ネルサンス時代のような工房で画家が職人のように制作していた時代ならまだしも、近代の、とくにロマン主義の画家として個人の主体性が制作のベースとされていた時代の画家です。シャセリオーは、そのシャセリオーの作品の中でも、(オリジナルよりも)模写が印象に残るというのは、おかしいかもしれません。それは、シャセリオーの作品の中では、とくに肖像画の印象が強く残っているせいもあるのですが、この頃の画家の作品制作の根幹ともいうべきテーマとそれをいかに画面にするかということよりも、モデルを立派に画面に定着させる肖像画や、お手本を忠実に写す模写といった作品の方がシャセリオーの場合、レベルが高いと思われるのです。そこにシャセリオーという画家の本質的かものを私は感じました。それは、手法の洗練とでもいいましょうか。例えば、この「16世紀スペイン女性の肖像の模写」に戻れば、スペイン・バロックのある種の荒々しさ、エル・グレコなどもそうですが、筆の勢いがそのまま残されて作品に近寄ってみると、荒っぽいほどのものかせ遠目に眺めると全体に調和していて荒さが目立たない、そういう秘められた情熱の迸りのようなところがあるのですが、このシャセリオーの作品は、近寄っても繊細で滑らかで、まるでルネサンス時代の滑らかなで筆致を残さない作品のようでした。つまり、表層の滑らかさ、優美さといったところに、シャセリオーの真骨頂があるのではないか。それは、いってみれば頽廃にいってしまいそうなところです。だからこそ、ギュスターヴ・モローのような人が、彼のそういう匂いょ嗅ぎ取って、彼のフォロワーとなっていったのではないか、思うのです。これは、先走りすぎました。
Chasseriaureturn  「放蕩息子の帰還」という作品。旧約聖書の有名なエピソードを題材にした、画家が16歳のときにサロンに初出品した作品ということです。もともと、古くから多くの画家が、たびたび作品にしてきた物語で、例えば、当時ルーブル美術館にあって、シャセリオーも見たと思われるリオネッロ・スパーダの作品と比べると、明らかに似ているところがあります。手垢のついたような題材なので、どうしてもどこか似てくるのは仕方がないのですが、父と子が向き合い、老いた父が上から子を見下ろすように慈悲をほどこすように抱き、子が下から仰ぎ見るように下手にでている二人のポーズや位置関係は似ています。しかし、シャセリオーの場合は、若書きゆえにしょうがないChasseriaureturn2 のかもしれませんが、スパーダに比べて散漫な印象です。そのひとつの要因は、子の表情が父親に向いているのではなくて、観客を向いている不自然さにあると思います。いわば、ポーズをとっているのがあからさまなのです。それによって、父と子の関係が画面で決まっていないのと、子の表情が画面の中で浮いてしまってちぐはぐな印象になっている。そして、全体として色調が抑え気味なのはいいのかもしれませんが、スパーダのように暗闇に父子二人だけが映って二人のドラマが際立っているのにたいして、シャセリオーはドラマのような注意の集中がおきていないので、日常のひとコマを演技のようにわざとらしくやっている程度にしか見えないところがあります。とはいっても、全体にはまとまっているし、ちゃんと形になっているので、題名をみれば、それと分かる作品になっている。この画家の、歴史画を見ていて、どの作品にも共通して感じられる薄味、あるいはもの足りなさというのが、この最初期の作品からある、ということです。
Chasseriaudiana  「アクタイオンに驚くディアナ」という作品です。このころから、シャセリオーは師であるアングルの影響から脱して独自の道を歩み始めるというころの作品ということです。アングルのようにキチッとした構図やデッサンが決まっているところが稀薄になっているのは分かります。例えば、右手の水浴しているニンフと中央の後姿のディアナとのバランスが釣り合っていないので、ディアナが主役として引き立っていない。細かいところをいえば、後姿のディアナの背中や尻の描く場合、アングルであれば、もっと魅力的に、そこだけを見ても十分鑑賞に値するような世界と尻を描いてみせるのだろうけれど。それと、ディアナに衣を渡しているニンフと、水浴しているニンフの二人は顔が横顔と斜め正面で顔が見えるけれど、表情がなくて彫像のようで、闖入者への驚きも、怒っているはずのディアナに対する態度のようなことが見えてこない。右上の水浴から上がるニンフたちは立像彫刻のようです。全体として人物に動きのない類型のようなところ。そして、遠近法で描かれているのですが、先ほど指摘したように水浴しているニンフとディアナはどっちが奥にいるのか分からないような曖昧さと、小さく描かれている鹿に変化させられたアクタイオンの影やその周囲が舞台の書き割りのように平面的なことから、画面全体が立体的な奥行きのある空間の広がりがかんじられず、書き割りのように見えてしまう。それらのことをあわせると、リアルな存在感のある風景と感じさせない。私の個人的な印象ですが、20世紀のシュルレアリスム画家ルネ・マグリットの描く人工的な世界の表面的な感じに近いのです。つまり、シャセリオーの描く世界というのは、表面が滑らかでピカピカだけれど、どこか人工的なつくりもののようなのです。
Chasseriaustone  「石碑にすがって泣く娘(思い出)」という作品をみると、石碑の重量感のなさや表面、あるいは背景の樹木の幹の表面の滑らかさは、マグリットの描き方とよく似ていると、私には見えるのです。

2017年6月10日 (土)

シャセリオー展~19世紀フランス・ロマン主義の異才(1)

2017年3月 国立西洋美術館
Chasseriaupos  久しぶりに美術館をハシゴした。それは、いつもなら行かないような埼玉県の久喜の方まで出かけて、美術館でひととおり見終わって、時間が中途半端だったことと、美術館などにわざわざ出かけることも少なくなって(これは、私自身の気力も減退してきたことも原因している)、折角の機会なので、一時的に欲張ったためでもある。
 この企画展は、始まったばかりの時期でウィークデイでもあるし、多分空いているのではないかと見越したこともあるが、西洋美術館の人ごみは結構あったけれど、この展覧会の展示場所である地下への階段を降りると人影は少なくなった。展示作品数も、それほど多くなかったので、じっくりと作品を見ることができた。
 シャセリオーという名前は聞いたことがなく、まったく知らない人だったのでけれど、展覧会ポスターのこの女性の肖像を見て、興味をもちました。音楽でいうジャケ買いのようなものでした。で、どのような人なのかについては主催者の挨拶で簡単に紹介されているので、引用します。“今回の展覧会は、19世紀フランス・ロマン主義の異才テオドール・シャセリオー(1819~1856)の芸術を日本ではじめて本格的に紹介するものです。11歳でアングルに入門を許され、16歳でサロンにデビュー、やがて師の古典主義を離れ、ロマン主義の最後を飾るにふさわしい抒情と情熱を湛えた作品の数々を残して、1856年に37歳で急逝したシャセリオーはまさに時代を駆け抜けた才能でした。オリエンタリスムの画家にも数えられますが、カリブ海のイスパニョーラ島に生まれ、父親不在の寂しさや師との芸術的葛藤を抱えつつ、独自の道を探った彼自身が異邦的なるものを持ち、いずれの作品にも漂う甘く寂しいエキゾチシスムの香りが観る者の心に響きます。本展は日本で初めてシャセリオーの芸術を本格的に紹介するもので、油彩・水彩・素描・版画・資料など約90点によって画業全体を紹介し、断片を残すのみの会計検査院の壁画についても関連素描や記録写真などを通じて新たな光をあてます。さらに、シャセリオー芸術から決定的な影響を受けたギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌらの作品もあわせて展示し、ロマン主義から象徴主義への展開、そしてオリエンタリスムの系譜の中でその意義を再考します。”
 ここで、少し脱線してロマン主義のおさらいをしてみましょう。ロマン主義といっても絵画に限らず文学や音楽にもありますが、それはスタイルというよりも、個人の独自性や自我の欲求、主観など「個」を重視し、叙情的で感情的な表現を追求する考え方ということができると思います。その根底には、社会的抑圧に対する反発です。18世紀末から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争によって大混乱となりました。これはアンシャン・レジームとしての王政という権威主義体制に対して虐げられた市民の側から解放を求める動きに呼応するものでもありました。したがって、芸術の世界では権威である古典主義に対抗するというスタンスをとり、激しい表現に傾く傾向にありました。フランスのロマン主義絵画の代表的な画家として一般にあげられるのはドラクロワやジェリコーといった人々です。
 そこで、シャセリオーの作品の印象は、あいさつでの紹介にある“ロマン主義の最後を飾るにふさわしい抒情と情熱を湛えた作品”というのに、どこかそぐわないのです。もう少し教科書的な記述をしますが、シャセリオーが活動していた1840~50年のころというのは、フランス革命に対する反動の時代で、復古王政の社会で革命のロマンのようなものは挫折し、文学の領域でもロマン主義のヴィクトル・ユーゴーから、自然主義的なスタンダールやゾラが主流となっていく時代で、絵画では、この後、リアリズムを標榜するギュスターヴ・クールベが台頭してくるといった状況だったと思います。
 そこで、何を言いたいのかというと、シャセリオーの作品には、比較するのは適切ではないのかもしれませんが、ドラクロワやジェリコーの作品にあるような情熱的な激しさとか、理想主義的な未来を切り開くといったような力強い躍動感のようなものは、あまり感じられず、むしろ静的で落ち着いた上品さとか洗練といった印象です。むしろ、彼の師匠であるアングルに近いのではないかと思われるところがあります。一方で、彼の同時代と言っていい、自然主義とかリアリズムというものは社会の底辺の虐げられた人々を、従来の芸術では美の対象ではないとしていたのを、ありのままに描くという物でもありました。つまり、従来の芸術からは美しくないものを対象としたわけです。こういう状況の中で、シャセリオーは従来からの美の側に立って作品を制作していたわけです。つまり、ロマン主義のおさらいの中であげたような権威に対する反抗ではなくて、権威の側に立っているようなスタンスです。シャセリオーの作品には力強さがあまり感じられず、むしろ逆に洗練の裏腹であるひ弱さのようなものを感じてしまった。慥かに、古典的表現にはない冒険のようなこともしているのですが、例えば、裸女の描写で腋毛を描いてみたりしているのですが、どこか些末な感じで、理想の追求の形骸化のような印象なのです。個人を重視し、抒情的で感情的な表現というロマン主義の行きかたも、それは社会変革という理想のために個人が主導していくものであったはずが、シャセリオーの場合には、その遠大な目標が消失してしまって、むしろ個人の抒情や感情に沈潜する、もっと言うと逃避するニュアンスに近寄っているように見えるのです。つまり、趣向の中身が空洞化したからこそ、表層の表現に集中することができて、その結果独り歩きして洗練していった。それが、後の世代の象徴主義的の画家たちに影響を与えることになったところではないかと思えるのです。
 ここで先に結論を言ってしまうことになるかもしれのせんが、シャセリオーという画家が時代に埋もれてしまったのは当然ではないかと思えるのです。ここで、再評価の動きがあって、ここでも回顧展が開かれているわけですが、それでも、この時代に、過渡期に、こういう画家もいたという程度のマイナー、言ってみればビック・ネームに入らないその他に一括される中で例示されるといった画家ではないかと思いました。
 貶めるような言い方をしてしまいましたが、作品を見ていくことにしましょう。展示の章立てに沿って見て行くことにします。

2017年6月 2日 (金)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(7)~6.裏側の世界

Nabisdoni6  “ナビ派の美学的理想を育んだのは、哲学や秘教、宗教についての読書であり、かれらは「神殿」とよびならわされたランソンのアトリエで週ごとに行われる会合において、それらについて議論を交わしていた。彼らは芸術家を可視の世界と不可視の世界の仲介者とみなし、夢や、詩や、象徴と関係した主題に熱中した。”と解説されていました。それで、このようなコーナーが設けられているわけです。しかし、画家たちが哲学や宗教を論じようと、不可視のと可視の狭間に立とうと、結局は、作品として画面に画像として表わしたときにどのようなものになるのか、で見る者は作品と接しているのであって、その背後で、画家たちが議論しているとか、そういうことは背景にすぎません。要は、表わされた画面から、見る者が、そういうことに想いを至らさせることができるかどうか、で私は見ているので、そういう作品なのか、というと、これまでの他のコーナーの展示も併せて、ナビ派の作品世界は表層に終始している点に、独自性とか魅力があるので、背後のものは、むしろノイズで、付加価値にもならないのではないか、というのが私の思っているところです。
Mag2015inin  モーリス・ドニの「ミューズたち」という作品です。“マロニエの木々の間に女性が集い、それぞれに過ごしています。椅子に座っている者、立っている者、書を広げている者、踊ったり、語り合ったりしているような姿もあります。真ん中の女性は、スケッチブックを膝に広げ、鉛筆を削っているかのような仕草をしています。描かれているのは、古代ギリシャ神話に登場する技芸の女神(ミューズ)たちですが、同時代の衣装をまとい、現代の物語として描かれています。”という説明がなされています。ここで、この解説に反論するつもりはないですし、タイトルがそうなので、画家はギリシャ神話を主題にして描いたつもりなのでしょう。しかし、これを見る側が、わざわざギリシャ神話の女神を描いていて象徴として見ていくような作品なのでしょうか。私には古典の教養がないからでしょうか、「ミューズたち」という作品タイトル以外にギリシャ神話に関係するものが何もないのです。全体の雰囲気がそうなのかもしれませんが、だから象徴を感じようもないのです。それよりも、構成の面白さのほうが、この作品の魅力なのではないか思えるのです。ルネ・マグリットの「白紙委任状」を想わせるような構成は、マロニエの木の幹と、背景の人物たちが立ち姿であるのが画面のなかで垂直のタテの線となってリズムを作り出していて、その垂直で仕切られた部分がそれぞれのシーンをつくっていて、樹の幹を区切りとして場面転換をするようにシーンが移っていく要素があります。また、木々の枝に繁る葉や地面の落ち葉が模様のような正面の姿の葉の形で、木の幹で仕切られたタテをまたぐようにあって、それぞれのシーンのつなぎの役割を果たしているように見えます。そして、前景の3人の人物のうち2人の女性の着ている衣装の模様とも繋がっているように見えます。また、視点を変えると人物や椅子、木々は、それぞれ太く明確な輪郭線で描かれて、平面のようで、しかる、それぞれが類型的な外形になっています。それらはタペスリーやステンドグラスのデザインのようにパターン化されています。例えば人物はすべて横顔になっているとか、それに対して木の葉は正面の角度ど描かれている。しかし、人物の横顔の輪郭の内側は陰影がつけられて、陰影がつけられ立体的に、割合に写実的で、それぞれの人物の個性が描き分けられています。それだけが、画面の他の部分と異質になっています。そういう視覚的効果が、この作品の特徴ではないかと思います。そして、おそらく、ドニという画家には、この世界が、そういう秩序のように見えていたのではないかとおもえるのです。以前にも、この人は単に目で見ている、いわゆる写実とは違うものを見ていたと、のべましたが、この作品も、そういうところがあって、ドニというひとはには、実際に認識したものを描いたのではないかと思えます。このコーナーは裏側の世界ということになっていますが、私には、ドニという人は表も裏もなくて、ただ表層だけという作品として見ていました。このコーナーは、もっともらしいタイトルなのですが、こじ付けで無理して集めたような感じで、こんな無理してコーナーにしないて、素直に見たほうがいいと思える作品ばかりでした(他のコーナーに比べて、たいしたことはないとは言いませんが)。
 これまでの感想の中でも述べましたが、こうして通してみてみると、ナビ派の特徴は展覧会でも説明されていましたが、私なりにまとめてみると、一般市民に消費される商品として絵画が売られる状況に対応して、画家はパトロンの注文に応じてじっくり作品を仕上げで出来栄えを評価してもらうことから、画廊や展示会に並べて趣向やセンスで購買者の目をひいて購入してもらうということが制作のめざすところになったことに、いち早く対応した人々のひとつがナビ派ではないか、と思います。そのひと目をひくために採ったのが、ナビ派の特徴として説明でも触れられているスタイルだった。だから、徹頭徹尾表層的で、見た目の効果にこだわるというところが、私としては、この展覧会を見ていて強く印象に残りました。

2017年6月 1日 (木)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(6)~5.子ども時代

Vallootnball  ヴァロットンの「ボール」は、数年前のヴァロットン展以来2度目でした。私は、あまり、画面の深読みをしない人なのですが、解説で説明されているような何重にも張り巡らされたという伏線がなくて、一見牧歌的な画面が、一筋縄ではいかない雰囲気があるのは分かります。ヴァロットンという人の悪意ともいうべき、屈折した作為というのは、他の展示されているナビ派の画家たちとは一線を画していて、それが、ヴァロットンという画家の特徴を際立たれていました。
 これに対して、モーリス・ドニの「メルリオ一家」という作品です。これも上手い作品であると思います。しかし、ヴァロットンにあるような作為的な仕掛けはなくて、視覚的な楽しさに溢れています。背景をグリーンの色調で、その淡い明るさを様々な段階の濃淡で描き分ける、その色遣いの巧みさ。そして、草や葉を点描のように描いて、その点の大きさや並べ方、密度の使い分けで画面にリズムを作り出している、まるで音楽が聞こえてくるような様子。これに対して、人物の中心は3人の子どもたちで、背景の淡いグリーンに対して淡いブルーの衣装を着ていて、グリーンとブルーの対照でもない、同系列でもないが、落ち着いて、静かな印象をつくりだしていて、子供たちのきているものがシマの柄になっていて、その身体のポーズに合わせて波打つように屈曲しているのが、背景の点描とは別のリズムを作り出し、それは他方で母親と子供たちの金髪の髪の毛のウェーブ(波)と呼応しています。Nabisdoni5

2017年5月31日 (水)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(5)~4.心のうちの言葉

Nabisvoul2_2  前のコーナーでヴァロットンとの比較で素通りしたヴュイヤールの「八角形の自画像」という作品です。ちょっとゴッホの晩年の自画像を想わせるところもあるのでしょうが、絵の具をベタ塗りして塗り絵のようになっているところなど似ているのですが、ヴュイヤールの方はゴッホの作品のような重量感は、あまり感じられないものとなっています。ゴッホに比べて色彩の鮮やかさをアピールしているところが、ヴュイヤールの特徴だと思います。“自身の自然な顔色を単純化した色彩に置き換えている。ブロンドの髪は黄色に、赤毛の顎ひげはオレンジ色に、肌の色はピンク色に、その色調を仕上げているのは、ジャケットの群青色である。”と説明されていますが、塗り絵のように色の対象になっています。顔の左半分が影がかかっていますが、それが陰影となって顔を立体的に見せているのではなくて、茶色の塗られた色の面というように、この作品では、色の塗られた区画で、その区画が人の顔の形になっています。とは言っても、前のコーナーで見た「エッセル家旧蔵の昼食」では、色の使い方や色の面だけに還元したような描き方をしていないので、ヴュイヤールは、この作品では、このように描いているというのだろうと思います。むしろ、「エッセル家旧蔵の昼食」と共通していると思えるのは背景の木の枝に実がついているような赤と青の点が散りばめられたような描き方と、色の塗り方が筆触を勢いとして残しているところです。それは、ゴッホのようにその筆触が文様のように残って、呪術的な強い存在感を主張しているのではないですが、これによって、一様にベタッと塗られていないとNabisvoul3 ころが、模様のような装飾性を感じさせます。それは、肖像画といっても、王や貴族のような偉い人が、その偉さや偉大さをアピールさせるものとか、あるいは、人物の性格や人間性がにじみ出てくるようにして往時をしのばせるといったものではなくなっています。表面的な見てくれだけが描かれている。ヴュイヤールの場合には、ヴァロットンとは少し違いますが、演劇の舞台のような作為が見え隠れします。演劇の舞台では、不特定多数に観衆に向けて、本来のひとりの人間の複雑な感情や思考の微妙な綾や陰影、あるいは伏線を示すことはできないので、ストーリーに関係するところ単純化して強調、あるいは誇張して示します。それが演技ということになるわけですが。観衆に分かってもらうためには、すべてが明確に分かり易く表われ出ていなければならい。したがって、顔を、このように描くことができる。絵画において、ヴュイヤールは、そういう見方しかできないというのか、表面しか見ようとしていないので、人の内面に隠された心といったものではなくて、かたちとしてあらわれた仕草とかいった明確なものをピックアップして描いている。だから感情がうかがわれる微妙な表情のニュアンスを読み取るといったことがない。この「八角形の自画像」では、広い額は、以前の肖像画であれば、年齢を重ねた落ち着きとか沈着さといった意味づけができるようなところですが、ここでは、単に額が広いという顔の特徴として見る事ができます。つまり、個性ではなくて、特徴が表わされているのです。人物を描くときに、目に表情が表わされること一般的ですが、ここでは、そのような意味づけがされずに、目という顔の部分の形が、人物独特の形の特徴を捉えて描かれています。目に表情を読み取りたい人には、空虚にしてか見えないかもしれませんが。それで、この人物の特徴を捉えることはできます。独特の色使いは、そのような特徴を捉え易くする工夫と考えることもできると思います。形、つまり、特徴がはっきりするのです。それは、他方では人物画の見られ方の変化も関係していると思います。おそらく、ヴュイヤールに作品を注文したり購入するのはブルジョワといった市民階級で、その住居、パリであればアバルトメントの居間とか寝室といったプライベートな空間に飾られるものだろうと思います。それは、以前の王族や貴族が宮殿や城といった公の広間や廊下などで、自身の権威をアピールする手段として立派な姿に描かせるのとは、ニーズの方向が異なっていたはずです。日常の生活をする場で、せいぜいが親しい友人や親類を招く程度の空間で、ご立派な姿を描いた肖像画があっても、場違いでしょう。それよりも、部屋の一部として納まっていたり、部屋を飾ったりといった機能が望まれていたのではないかと思います。その場合、表面的で、明るく綺麗な色であったほうがいいわけです。そういう綺麗な色が映えるには、グラデーションを効かせて立体的に描かれるよりも、平面的でもベタッと塗られているほうがいいわけです。そういう方向で人物を描いていくと、ちょうど、この作品のようになるのではないでしょうか。
Nabisbolnald3  ピエール・ボナールの「格子柄のブラウス」という作品です。展覧会チラシのタイトルバックに使われている作品ですから、今回の展覧会の目玉ということなのでしょう。前のところで、同じ画家の「庭の女性たち」という作品はモザイクのようだと述べましたが、この作品では女性の着ている服の格子柄が四角いモザイクの組合せそのものです。そして、背後の壁やテーブルの上の食器や女性の手の部分などもモザイク模様のように描かれていて、作品全体が模様のようになっています。とくに、この作品では、そういうモザイクの模様のように描くという手法が優先されているというべきなのが、人物を含め立体の影が描かれていなくて、模様の平面さが意図的であるのが分かります。こうして見ると、ボナールという画家は表現手法、あるいは対象を感覚する手法を優先する人であったように思います。ヴュイヤール以上に、物体の表層をなぞることを徹底しているようです。この作品でも人物の表情を表わすよりも、模様のように人物を描くことが優先されていて、ボナールという人は、人物も事物も単に絵筆を動かす対象としては同じで、いうなれば「ミソもクソも一緒」、単なる光の反射にフラット化されているようです。そういう冷めた視線はナビ派の画家たちに共通しているのですが、とくにボナールにその傾向が強いのが、この作品に端的に表われていると思います。
 おそらく、現代のイラスト等で問われているクリエイターのセンスというのが、このナビ派の人たちの作品あたりから、前面に表われてきたのではないのか、と私には思いました。それまでも画家の個性ということはあったと思いますが、それ以前に技量の差とか、画面を作る上での教養とか、そういったことによって、画面を隙なく仕上げていくことが、画家の土台としてあったと思います。しかし、とくにボナールの作品などを見ていると、画面を完璧に仕上げることよりも、画家が独自の視点で、風景や人物のある一点を取り上げて、それを今までになかったり、他の人ではやっていなかったように表わしてみせる。その手際が鮮やかであるとか、その表わし方に視覚的な快さを生んでいるとか、現代の言い方でセンスを感じるとしか言いようのないこと、そういう従来にない刹那的な感覚の心地好さを作り出している。これは、絵画の購買者が王族、貴族や教会から市民階級あるいは産業化による経済社会の進展によって産業家や振興のブルジョワに変化していったことと、消費社会が生まれたことによる変化も影響しているNabisdoni4 と思います。何やら難しげなことを述べていますが、かつては貴族などが画家のパトロンになって、作品を注文して描かせていたため、主題などの仕様が規制されていたものの、身分は保障され、じっくりと作品を描くことができたわけです。しかし、購買者が変わると、貴族から庇護を受けることはできなくなって、作品を仕上げて、それを販売するようなことに変化します。その作品というのは、画郎という小売店や展覧会に展示して、そこで目についたものが売れるというもので。そこでは、制作からじっくりと作品を見続け、作品を見る教養が備わっている貴族の場合とはちがって、ぱっと一見の印象で気に入って買っていく、あるいは画商のセールストークに乗って買っていくという刹那的な、衝動買いに近いような売られ方でしょう。そこで、売れるためには、他の作品よりも目立つことが第一です。そこで、このナビ派のように、伝統的な教養とか、長い時間で培われる絵画をみる目などがなくても、パッと目について、心地好く感じる要素だったのでないでしょうか。そう考えると、ナビ派の特徴というのが、時代の要請に応える必然性があったということが分かる気がします。そして、現在の感覚で、好き嫌いでみることが、ここで展示されている作品については、あながち的外れではないのではないか、と思うのです。特に、ボナールの作品を見ていると“藝術”というよりは“アート”というイメージが似合っているようで、それは少し前の世代の印象派と、大きく違う点だと思います。
Nabisdoni3  ボナールに比べるとモーリス・ドニの作品は、絵画になっていて(変な言い方ですが)、上手いという印象です。自身の婚約者をモデルに描いた作品「マレーヌ姫のメヌエット」では人物がちゃんと肖像画として様になるように描かれています。しかし、色白を通り越した蒼白に近い肌は人の温もりが感じられず、目は虚ろな感じで、顔に表情がなくて、不気味な印象を受けます。顔たちが整っているだけに、その不気味さに底知れないものを感じさせます。そして、ピアノの背後の、壁であるだろう背景が点描によって、現実にない背景になっています。それが、ドニが意識することなく、モデルの女性に見ていたものが、画面に表われてしまっている。おそらく、モデルは婚約者ということですから、親密で愛情溢れるような作品にするのが自然でしょう。本人も、そうしたかったのではないかと思うのですが、このような底意地の悪いような不気味な作品にはしたくなかったと思います。それが、そうなってしまったのは、画家が意識することなく描いていて、そうなってしまったとしか考えられません。そうであれば、画家の目が、この女性に対して、そう見えてしまったとしか考えられません。しかし、同じ年に制作された、キャンバスにバステルで描かれた「婚約者マルト」では、バステルの淡い味わいを生かした、親密で可愛らしい作品になっていると思います。
 ドニの「婚約者マルト」を突き詰めて追求したような作品が、ヨージェフ・リップル=ヨーナイの「花を持つ女性」という作品です。これは、今回の展覧会でも、私にとって収穫とも言える作品で、朧に霞んだような画面に、ぼんやりと浮かんでいるような女性の姿と、手に持っている花の赤が鮮やかで、その幻想的な画面に魅入られるようでした。 
Nabisflower  それと、ついででもないのですが、このような画家たちと比べるとヴァロットンの肖像画は次元が違うというのか、まるで写真のような迫真の描写で、しかも、写真にならず絵画の写真にない匂いのようなものを、あざといほど強調するように描いていて、この画家の単に技量にはしることをしない賢さ、というよりも屈折した姿勢に感心してしまうのでした。

2017年5月30日 (火)

オルセーのナビ派展「美の預言者たち─ささやきとざわめき」(4)~3.親密さの詩情

Nabisbolnald2  最初のところで、ナビ派の特徴として日常的なことを主題としたという特徴が説明されていたのを引用しましたが、そのまさに日常生活の風景を親密さというキーワードで作品としたものが展示されているということでした。
 ピエール・ボナールの「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」という作品です。タイトル名や女性のポーズからみて情事の後の情景ということなのでしょうし、その女性のポーズが扇情的なのでしょうけれど、まるで、シーツのしわと同じように見えます。裸の女性が恥ずかしげもなく両足をひろげて、恥毛をあらわにするというポーズは、かなり扇情的で、それなりの意図や覚悟でもなければ、当時では描くようなものではない者ではないかと思います。しかし、この女性の上方のシーツのしわでつくりだされる模様と右方の毛布の形と、女性のポーズはよく似ていて、とくに女性が浮き立たせるようには描かれていないので、それらが色違いの模様のように見えます。ここにあるのは、たしかに日常の情景かもしれませんが、それを冷たく観察していて、描いている対象の女性に対して、シーツや毛布と同じように分子レベルで観察しているような、親密さの感情など微塵も感じられない機械のセンサのような情報処理です。
Nabisvallotton  フェリックス・ヴァロットンの「化粧台の前のミシア」という作品です。ヴァロットンは2年以上前に、同じ美術館での回顧展で見ましたが、このようにして他の画家たちに比べると、その時に見えてこなかった特徴が際立つように思いました。その時には、フラットな画面に見えていたのが、いま、ドニやボナールの作品の平面性と比べると、はるかに立体的で、空間を感じさせる画面になっているのが分かります。しかも、二人に比べると見た目の形が明確です。化粧台、女性、背後の箪笥の位置関係とそれぞれの輪郭がハッキリしています。しかし、ヴァロットンの特徴としては、それがハッキリしすぎている点ではないかと思います。実際に目で見て、これほどまで書き割りのようにくっきりしていると、むしろあざとく映ってきます。そのあざとく映っているところでは、リアルのある部分をスッパリと切り捨てている。むしろ、切り捨てすぎているところに、冷淡に映るところがあるかもしれません。例えば、化粧台や箪笥、あるいは壁に建て付けられた棚は定規で直線をひいた図面のようですし、化粧台に置かれたブラシや櫛のような小物は、見る者がそれと分かるような明確な形で表わされていて、リアルな写生とは異なるものです。端的に表われているのが人物。化粧台の前にいる女性です。この女性は外形の情報を、画家なりの処理により、そのまま画面に転写したというのではなくて、実際に情報を取得しているのではなくて、女性らしき形を入れているように見えます。書き割りのような装置のなかで、いかにもそれらしいポーズ(かたち)の女性がレイアウトされている。それは、現実の日常生活の情景というよりも、演劇の舞台に設定されたホームドラマの風景のようです。ここで展示されているドニやボナールがセンサで情報を取得したままを描こうしていたのに対して、ヴァロットンは見る者の立場に立って描いているように見えます。多分、ブルジョワの小市民の生活なのでしょうが、それを伝統的な歴史画や宗教画の重厚な描き方で描くと、壮大で重苦しいものになって、わざとらしく窮屈になってしまいます。それを等身大で(この展覧会でいうと親密さ、ということになるだろう)描こうとして、このようなスタイルになっている、そういうように描いている。そこにヴァロットンという人の屈折というのか、一筋縄ではいかないところがあると思います。それは、同時に展示されているエドゥアール・ヴュイヤールの「エッセル家旧蔵の昼食」の家庭風景と比べてみると、特徴が際立つと思います。Nabisvoul

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