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美術展

2018年2月 9日 (金)

ジャコメッティ展(9)~13.ヴェネツィアの女

 この間に矢内原伊作をモデルにしたスケッチや人物以外のスケッチその他が展示されていましたが、「マルグリット・マーグの肖像」を見てしまった私としては、ジャコメッティの研究をしているわけでもないし、そういう対象として以外は、とくに見るべき価値が分からないので素通りです。例えば、矢内原伊作とディエゴのスケッチを一目で見分けるのは、私には難しいし、どうでもいいことです。そこに、ジャコメッティの作品を楽しむことに関して意味があることとは思えません。展示方法に対するコメントになってしまいますが、矢内原伊作のスケッチだけを「モデルを前にした制作」のコーナーの一部でなくて、あえて独立させているのは、それなりの作品上の意味があったと思うのですが、それを明らかにするような作品が展示されていなかった。そういう、ちくはぐさが、この展覧会全体にあったように私は感じました。それで、いくらか興ざめしたことはなかったとは言えません。そこで、ヴェネツィアの女という、女性立像をまとめて展示しているところですが、これも、前の「女性立像」の展示と何が違うのか、会場の順路を戻って、違いを、自分の目で確かめようとしたのですが、あえて、これだけ取り上げて展示しなければならないような、作品の特徴てきな違いは見つけられませんでした。ジャコメッティの作品から話が離れてしまっていますが、あえていえば、ジャコメッティ自身は意図的にやっていたわけではないかもしれませんが、マンネリ芸のような彼の彫刻作品について、人々が飽きてしまうことがないように、新たに制作していく作品には従来の作品との差異を印象付けなければなりません。それは前の作品に比べて付加価値があるということを示せばよいことなので、しかし、彫刻作品そのものについては、たいして変わり映えするものではないので、付録を付けてあげれば良い、その付録はものがたりであったりイベントであったりといったことです。それが、ヴェネツィアのイベントで女性立像をあつめて見せるということで、そういうイベントをやったという物語を伝説として残して、それを消費の対象とすることです。とくに、そういう付録は、マスコミでは扱い易いので、大きく取り上げられば、情報が拡散し、作品の評判に尾鰭が付けられることになり、付加価値が高まることになります。ジャコメッティの周囲に、そういうブレーンがいたのか、彼自身にも、そういう人の忠告に従ったのであれば、そういうマーケティングのような才能があったのではないかと思います。これは、彼を誹謗しているのではなくて、私は、そういう才能を彼がもっていたのであれば、それはいいことだし、私にとって、彼の作品というのは、工芸的な要素が強く感じられたので、そういう側面は作品の価値とは切り離すことはできないと感じたということもあります。
 最後は広間のようなところで3点の彫刻がおいてあって、撮影OKとのことで、スマホで撮影している人がいっぱいいました。その人たちには、その程度のものなんですね。

2018年2月 8日 (木)

ジャコメッティ展(8)~7.マーグ家との交流

Giacomettimag  「マルグリット・マーグの肖像」という、ジャコメッティにしては珍しい油絵。これは、今回の収穫だったと思います。この作品を見ていると、ジャコメッティという人は色彩のセンスが全くなかった人であることが良く分かります。もしかしたら、独特のセンスの持ち主で、あまりに独特すぎて、誰にも理解できなかったのかもしれません。乱暴にグレーが塗りたくられたような背景に、女性の肖像が描かれていて、比較的大きなキャンバスの真ん中の女性の顔だけに描線や塗色があつまって、その他の部分はおざなりのようで、画面としてつくろうという気配が全くない。しかも、顔の部分はひとつの線を引くのにかなりの観察と考慮と決断に時間をかけているテンションの高さは何となくわかるのだけれど、この顔は人間の顔の形の要素は充たしているのだけれど、人の顔の形をした人でない異形に見えてくるのです。それは、人の存在が持っている本質的な不気味さとか、怖ろしさとかが普段は隠されているのを抉って見せたというのではなくて、そうであれば、そういうものを描こうとする意図が最初からジャコメッティが持っているはずなので、画面全体をそういう描き方で意図的にまとめていくはずです。そうではなくて、彼は顔を描いていくうちに、そうなってしまったという感じがします。譬えとして少しズレているかもしれませんが、目の前の対象を写生しようとして、鉛筆の線で描いていくうちに、なかなかキマらず、満足な線の描写を求めて線を重ねるように何本も線を引いているうちに、紙の上は線で真っ黒になってしまって、顔がその真っ黒の中に埋まってしまった。そんな感じが、この肖像の顔に感じられるのでした。この作品は放っておくと、そうなってしまうのを、時間切れか、周囲がやめさせたか何かで、突然、制作の途中で中断させられて、後は投げ出されたので、かろうじて人の顔の形の描線が残ったという気がします。それだけに、私には、ジャコメッティという人の、ある点では病的なところを、この作品で垣間見ることができたと思います。しかも、いかにも病的というものでなくて、さりげなく普通っぽく提示されているところに、彼の病気の底知れぬ不気味さを感じることのできるものです。
 私には、何点も展示されていた、ジャコメッティというブランドを示しているような独特の細長い彫刻よりも、この油絵一点が、もっとも強く印象に残りました。

2018年2月 7日 (水)

ジャコメッティ展(7)~6.モデルを前にした制作

Giacomettidiego2  「ディエゴ」という彼の弟をモデルにしたスケッチで、弟ということで長時間のモデルを強いることができたのでしょうか。それにしても、顔の細部や表情には手をつけられず、もっぱら頭の形状に関する線が引かれている。線を引くことによって、手に形状を覚えさせているかのようです。
 それが彫刻に仕上げられると「ディエゴの肖像」ということになると思います。彼の彫刻では珍しく、顔に目鼻が、それとわかるようにあって、ディエゴをモデルに制作したことが分かるものとなっています。このような個人であることがわかるような彫刻作品だから分かることなのでしょうが(他の彼の彫刻作品では、抽象度が高いので注意することがなく見てしまうとことになるので)、この顔はデスマスクのように見えてしまうのです。生きていないのです。生き生きとした生命感であるとか、人であれば誰でももっている表情といったことが全くない。また、ダイナミクス、つまり、動物であれば必ずある動きが感じられない。ここにあるのは、外形の形態のみということなのです。モデルが弟ということなのですが、ここには、ジャコメッティの弟への親しみとか何らかの感情は微塵もなく、敢えて言えば、冷徹さだけが際立ってくるのです。彼は、そうしなければ、自由な想像ということができなかったかもしれませんが、作品への感情移入とか共感というのは、この人の作品の場合には、極めて難しいということを、これらの作品を見ると、分かります。そのことが、見る者にとっては厳しさというイメージを持ちやすくなるということかもしれません。
Giacomettidiego1

2018年2月 6日 (火)

ジャコメッティ展(6)~5.書物のための下絵

Giacomettibook1  書物のための下絵として制作されたデッサンのうちの一部で、鉛筆で描かれたものだそうです。ジャコメッティはデッサンに時間をかけるといいます。モデルをスケッチする場合には、異常に長い時間がかかってしまうので、モデルを務める人が限定されてしまったということです。ここで展示されているのは、必ずしもモデルを描いたものとは限りませんが、デッサンをするからには、やり方は、そんなに違うことはないでしょう。時間をかけて描いているのではないか。しかし、見ていると時間をかけている割には手数が少ない。線の数が少なくて、あっさりとした印象です。(このデッサンはリトグラフ用の鉛筆という線を消し難い特殊な鉛筆とのことで、描いては消しを繰り返したものではないということです)ふつうデッサンに時間がかかるというのは、たくさんの線を引いて、そのことに時間がかかるのでしょうが、このジャコメッティのデッサンを見ると、そうではない。それでは何に時間をかけているのでしょうか。私の想像で、実際とは違うかもしれませんが、ジャコメッティは線を引くこの前段階に時間をかけているのではないか、と思うのです。つまり、対象を見るということと、それをどのように描くか、画面上の画像をイメージするということ、画面上のどこにどんな線を引くのかということを考えるといったことに、時間をかけていたのではないかと、ということです。それが、ジャコメッティという人にとって「見たままを描く」ということだったのではないか。つまり、彼にとって見るということは、イメージすることも含めていた、ということで、むしろ、イメージすることの比重が重かった。そして、実際に線を引く、手を動かすという作業は、手早く作業した。そんなことを、彼のデッサンを見ていると、想像してしまうのです。
Giacomettibook2  初期のデッサンを見ると、描く技術は、出来上がっていたのではないかと思います。したがって、ジャコメッティの苦心というのは、どのようにイメージするのかの一点にかかっていた。それは、彫刻などよりも、デッサンに直接表われているように見えます。

2018年2月 5日 (月)

ジャコメッティ展(5)~4.群像

 このようなジャコメッティの小手先のセンスが発揮されたのが群像です。
Giacomettiseven  「森、広場、7人の人物とひとつの頭部」という作品です。人物の群像であれば、各人物の個性を顔や表情に作り分けるのが一番手っ取り早いのですが、それをせずに、おなじようなプロポーションのパターンを一見同じようにつくっています。奥の頭部は別にしてですが、この違いの組合せ型によって無限のパターンをつくり出すことができることになると思います。ここでの、それぞれの人物は、独自の個性を与えられず、隣との差異で見分けられるものなります。ここでは個人の個性、つまりは人格というようなことは無視されて、ゲームのコマのような操作可能の部品のようなものとして存在しています。細部に神が宿るといいますが、その細部を切り捨てたことによって、細部の際によって生じる意味、その意味の蓄積が人格個性と言ったことになると思いますが、そういったものを切り捨てているわけです。「引き算の美学」という形容が前にありましたが、もしそうやって切り捨てていったという視点でみれば、ここに残されているのは、その残骸の虚無のような世界ということになります。そう、この作品の人体彫刻の間には隙間風が吹いて流れるような薄ら寒い光景ということです。
Giacomettithree  「3人の男のグループ(3人の歩く男たち)」という作品では、ほとんど同じように3体の人体彫刻をつくって、手作業で作ったことから生まれる差異を3体の違いとして並べているというように見えます。これらを見ていると、作者がどのように考えていたかは別にして(「引き算」とかんがえていくと、この作品も虚無的な作品に見えてきます)、ジャコメッティの対象を凝視して、それを制作していくというのは、見る者が人物彫刻であることが分かるということのために機能していることではないかと思えてきます。この作品を見ていると、ジャコメッティが制作しているのは、かたちを想像して、それを手でつくって現実にしていく作業のように見えてきます。頭の中のイメージですから、細部までリアルであるわけではなく、その茫洋としたものを、そのまま現実に存在させる、その道具として人体という題目が見る側に必要だったというように。ジャコメッティの側としては、線がのびるということが形になって、見る者に何らかのイメージを喚起させるプロセスだったのではないか、と思えるのです。それは、展示されていた、彼のスケッチがモデルを長時間ポーズをとらせて描いている割には、線が少ないことからも言えるのではないか。彼は、その長い時間、モデルを凝視していて、鉛筆をはしらせるのではなくて、頭の中でその紙に定着させる画像をつくってはこわしを繰り返していたのではないか。そして、そのイメージができたところで、さっと鉛筆をはしらせて紙の上に実現させた。そこに細部の入り込む余地はありません。それと同じ作り方が、彼の彫刻作品では、もっと洗練されて実行されたのではないか。つまり、制作の作業そのものは刹那的といえるようなものではないか。その刹那が作品としてまとまる前提として、決まったパターンの土台が必要だった。極言すれば、ワンパターンを繰り返して作品を量産し続け、目先を変えて、見る人の興味を繋ぎ続けるマンネリの芸にジャコメッティの芸術というのは収斂するのではないか。

2018年2月 4日 (日)

ジャコメッティ展(4)~3.女性立像

Giacomettiwoman  ここからは、カタログのようなジャコメッティのブランドのステロ・タイプのパターンが、並ぶことになります。このような見方は美術展や作家に対して失礼なのかもしれませんが、これからは、個々の作品をそれぞれに好き嫌いでみるというよりも、ジャコメッティのステロ・タイプのパターンである細長い人体彫刻を見て、ジャコメッティというブランドであると認め、それで安心してもったいぶって眺めることができます。まるで、現代のファッション・ブランドとそっくりです。ジャコメッティが、そういうことを意図的に行ったということではないかもしれませんが、結果として、そういう要素があったからこそ、広い指示を集めて、こんな国立の権威ある施設で大々的な回顧展を開いてもらうことができたと考えられると思います。もちろん、それだけではないでしょうが。ここに並んでいる作品をみていると、個々の作品に、他の作品ではない、この作品という個性が認めにくいのです。私の作品理解が浅いせいかもしれませんが、ジャコメッティの彫刻ということは分かります。そこで、その中から、ひとつの作品をピックアップして、その作品だけについて語ることは難しい。まず、その作品であるということが、分からないというのが正直なところです。しかし、並んでいる作品は、くらべれば違います。もとより、全く同じであれば、大量生産の工業製品です。作品ごとに、他の作品との間に差異を設けて、それぞれの作品の個別性を保障している。しかし、差異がありすぎるとジャコメッティの彫刻のイメージから外れてしまう。その差異のつくり加減というのが微妙で、言葉でうまく説明できない微妙なものであるけれど、見ればすぐそれと分かるものです。ここに、ジャコメッティという作家の小手先の器用さ、センスの良さを窺うことができます。私には、パターンを定着させた後のジャコメッティは、この小手先で作品を量産できたのではないかと思えるほどです。それは、家内制手工業の職人のようなのです。工芸品なんかに近いものです。

2018年2月 3日 (土)

ジャコメッティ展(3)~2.小像

Giacomettismoll  昨日の妄想仮説は、ここで展示されている小像によって、あっさり否定されてしまうことになりました。「見たものを記憶によって作ろうとすると、怖ろしいことに、彫刻は次第に小さくなった。それらは小さくなければ現実に似ないのだった。それでいて私はこの小ささに反抗した。倦むことなく私は何度も新たに始めたが、数か月後にはいつも同じ地点に達するのだった」と本人が言ったということですが、でも、リアリズムであっても対象と同じサイズに写すとは限らないはずです。だから、対象より小さく制作してしまうのは、わざわざ口にするのは、よほど意識していたからでしょう。
 実際のところ、わずか数センチの小ささで彫刻する苦労がたいへんだろうことは想像できます。そんな苦労をしてしまうことを、あえてやってしまっていることについて、ジャコメッティ自身の自覚はあったはずで、そのことは要因しているとは思います。どうして小さくなったのかは、私には想像がつきませんが、これだけ小さなサイズで彫刻をつくると、細かな細工はできなくなります。そこで重点を置くのは全体のプロポーションということになるでしょう。結果論になるのでしょうが、見る側もそうなると思います。そこで、ジャコメッティの彫刻について、作る側も見る側もパターンをつくったことになったのではないか。

2018年2月 2日 (金)

ジャコメッティ展(2)~1.初期・キュビスム・シュルレアリスム

 ジャコメッティが独特の人物像を作り始めるのは1947年ころからということで、その前が、彼の習作時代ということになるのでしょうか。
Giacometticubu  「キュビスム的コンポジョン─男」という1926年の作品です。まるで、ブラックあたりキュビスム絵画をそのまま三次元化したような作品です。しかし、変ではありませんか。もともと、キュビスムというのは立体を平面に映すときに、遠近法のようなごまかしではない方法でやろうとしたことで、立体を立体のまま作品にするなら、その理念に従えば、平面に映すさいの変形操作は無用のはずです。それを、平面に映した画像というフィルターを通して作品を作っています。主催者のあいさつにあるように、ジャコメッティが見たままを作品にしようとした人であるならば、何もこんなフィルターを通すのはおかしいはずです。これは、初期の修行時代の試行錯誤で、失敗した例ということなのでしょうか。私には、そうは見えないのです。だって、残されているんですから。破棄されないで。ということは、ジャコメッティは見るということについて、独特の考え方を持っていたのではないかと思うのです。
 「横たわる女」という1929年の作品です。横たわった女性のS字形の身体曲線が単純化されて、まるでスプーンのような形に擬せられています。この単純化と、言葉であれば駄洒落のような連想で何かのものに擬せられるというのはシュルレアリスムでよく使われる手法です。このような形の表層を単純化してパロディのように使いまわすのはマグリットのようでもあります。それは、制作年代かずれますが「横たわる裸婦」というスケッチと見比べてもらうと、女性の曲線的な身体を形態のブロックの接続のように捉えていて、それを立体化すると、この彫刻のようになるのが想像できます。
Giacomettilay  この二つの作品に共通していることは、ジャコメッティは対象を虚心坦懐に見てはいないということです。何らかの予断をもって、視覚以外の情報によって特定のフィルターやバイアスをかけて、視覚情報をできるだけ絞り込んで取り込んで、それをもとに作品を構成しているということです。主催者があいさつの中で「虚飾を取り去った人間の本質」と言っていますが、その絞られた視覚情報のことを言っているのではないかと思います。しかし、これらの作品をみると、そう思えますか。ジャコメッティの彫刻について語られたものを読むと、このあいさつのように本質に迫るということが言われても、その本質がどのようなものかを説明されることは皆無です。それは見れば分かるということなのか、それとも、そうは言ったものの説明できないということではないかと思います。つまり、この語っている人は、説明できない(分からない)本質を見ているのです。分からないのに、それを本質であると言えるのは、矛盾した態度です。それができてしまうのは、それは本質であると漠然と思える、つまり、そういう気分になっているからです。それは格好いい言葉で飾れば直観ということでしょうか。そういう視点でジャコメッティの、この時期の作品を見ると、そのような本質が掴めていない模索の時期ということになります。しかし、そんな本質なんて、もともとないのではないかと考えると、この時期の作品の意味は変わってくると思います。むしろ、ジャコメッティらしさという点では、彼のブランドとなっているパターンと、それほど変わらないと。
Giacomettilay2  「鼻」という作品は1947年の作で、あとの時期の作品のはずですが、なぜか、このコーナーに展示されています。けっこう有名な作品なので、意外な感じがします。何となく分かるのは、この作品は細長い人体のパターンから外れているということです。このことから、ジャコメッティの作品を見る人は細長い人体というパターンを人間の本質的なものとして見るという限られた見方に囚われているということ、それは展示する人も避けられないという、一つの例ではないかと思ったりします。それだけ、ジャコメッティの作品のパターンというのが呪縛力があるということの裏返しのあらわれと見ることもできるでしょう。この作品は、ジャコメッティの作品に珍しく顔があります。眼が窪み、口の開いたところまでは分かりますが、そこに表情を読むことはできません。この前にみた作品などから考えると、ジャコメッティは人間の形態、プロポーションに何らかのフィルターをかけることに興味が集中していて、人間の表情とか、色彩とか陰影といった細かいことには二の次だったのではないかと思います。そして、そこにあそびの要素があったと思います。それは、この「鼻」という作品の鼻を長く伸ばしたということ(作品を吊っている台の枠を越えて鼻が伸びている)や、それを吊り下げるという展示方法、そのために首を錘にしないとバランスよく水平に安定しないので、そのために形をつくっているところなどに表われています。開いた口の形とユーモラスです。同じ時期の細長い立像が「限りなく内側へ向かっていく縮み志向であって、同時に限りなく消していく引き算の美学」というような説明をされているのに対して、この「鼻」のバランスを欠くほど異常に長く引き伸ばされた姿は引き算ではなく足し算、しかも過剰さがあります。つまり、この作品の長く伸びた鼻は、本質を抽出するために余分なものを削ぎ落としていった結果細長い人体の彫刻作品になったという説明パターンの反証になっていると思えるのです。逆に、人体の身長とか線のように伸びるという要素を過剰にした結果、細長い人体彫刻になったという足し算の発想という可能性を提示することもできるかもしれません。
Giacomettinoise

2018年2月 1日 (木)

ジャコメッティ展(1)

 2017年8月 国立新美術館
Giacomettipos  天気予報では残暑がひと段落とのことだったけれど、8月前半とは打って変わった厳しい残暑の陽気となった。とくに、この美術館は地下鉄千代田線の乃木坂駅から直通といっても、特設のチケット売り場から玄関までの100メートルくらいがガラス屋根の下を歩くので、まるで温室の中のような灼熱地獄なのだ。月曜日に開館している美術館は、ここの他はサントリー美術館とBUNKAMURAザ・ミュージアムくらいしかなくて、閉館時間が18時までと、月曜の仕事終わりでも立ち寄ることができるという便利さゆえにくるけれど、逆に言うと、理由はそれだけということだ。ジャコメッティに興味がないわけではないけれど、万難を配しても見たいと思っているわけでもない。作品を見たければ、箱根の美術館に展示されているし、程度の認識しかなかった。
 いちおう、ジャコメッティという人について、主催者のあいさつを引用します。主催者は、この人をどのように評価し、どのような人として見せようとしているかが、そこに表われていると思います。
 スイスに生まれ、フランスで活躍したアルベルト・ジャコメッティ(1901~1966年)は、20世紀のヨーロッパにおける最も重要な彫刻家のひとりです。アフリカやオセアニアの彫刻やキュビスムへの傾倒、そして、1920年代の終わりから参加したシュルレアリスム運動など、同時代の先鋭的な動きを存分に吸収したジャコメッティは、1935年から、モデルに向き合いつつ独自のスタイルの創出へと歩み出しました。それは、身体を線のように長く引き伸ばした、まったく新たな彫刻でした。ジャコメッティは、見ることと造ることのあいだで葛藤しながら、虚飾を取り去った人間の本質に迫ろうとしたのです。その特異な造形が実存主義や現象学の文脈でも評価されたことは、彼の彫刻が同時代の精神に呼応した証だといえましょう。
 また、会期が終わり近くなって在庫に余りがあったのか、ジュニア向けのガイドを初老の私に渡してくれましたが、そのなかでジャコメッティの彫刻について、次のように説明されていました。
 ジャコメッティは、人間の姿を見えるとおり彫刻にしたいと考えていました。生きた人間が目の前にいるというあたりまえのことが、ジャコメッティにとっては驚くべきことだったのです。生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました。
Giacomettireoni  つまり、ジャコメッティの彫刻というのは、彼の見たままの人間であるということで、それが身体を線のように長く引き伸ばした、彼独特の彫刻ということでしょうか。それにしては、「生きた人間から感じるおそろしさや美しさを表現するために、髪や服などよけいなものがだんだんそぎ落とされ、細長い彫刻が生まれました」の「生きた人間から感じるおそろしさや美しさ」というのが、ジャコメッティには具体的に見えていたということになって、矛盾しているように思います。このような矛盾した説明に表われているように、私に感じられるのは、ジャコメッティの彫刻というのは、ある種の傾向を(偏見といってもいいでしょう)もった人々に、そういう気分を起こさせることに効果的な機能を果たすように周到に作られているツールと言えるのではないかと思えました。そういう傾向をもった人々(つまり、彼の作品の消費者)にとっては、ジャコメッティは見えるとおりに制作したという説明は、とても心地よいもの(ある意味媚びるもの)として受け取られやすいものだった。そんな印象を持ちました。まるで、誹謗中傷しているように読まれてしまうのですが、言い方を変えると、ジャコメッティの彫刻については、形のヘンテコリンさを面白さとして笑って眺めるといった見方もあって、そっちの方が私には、親しみ易いのではないかと思えたのです。例えば、会場に入って主催者あいさつのパネルのすぐ後に「大きな像(女:レオーニ)」という、いかにもジャコメッティの彫刻の典型と、私のような通俗的な美術愛好者にも識別できるような作品が展示されています。ここには、一般的に女性像の美しさを表わす身体表現、例えば胸のふくらみや腰のくびれといった曲線や、その滑らかさのようなものは一切なくて、腰が心持ちくびれていますが、よく見ないと分かりません。また、表面はデコボコで粗く、滑らかさとはほど遠いものです。現在の一般的な視覚のものさしでみれば、女性像として美しいとは言えるものではないでしょう。しかし、こんなものを女性像として、人々に見てくださいと提示するのはジャコメッティくらしかいませんので、好き嫌いはべつにして、他の誰でもないジャコメッティの作品であるということは、区別がつきます。また、一度見たら忘れられないような特異性と、インパクトがあります。それも、言葉にしやすい(異常に細長いとか)ので、記録しやすい、ということは記憶にも残しやすい。つまり、人々に良い悪いは別にして、とにかく印象を残し記憶させるという点では、好都合の形になっていることは否定できません。あとは、それを好きになるか否かです。そして、このような独特に造形を、見る人は「何だこれは!」と拒絶するか「何でこんな形なのか?」と興味、あるいは好奇心を持つか。そのあたりは周到に考えられていて、人をみるときに私たちは、たいてい人の顔に注目します。ところが、ジャコメッティの人体像は顔が異常に小さくて、しかも表面が凸凹なので、顔がよくわかりません。しかし、顔らしい陰影があって、どうしても見る人をそこをよく見て、どうなっているのかを確認したくなります。そういうところから、この作品は見る人の好奇心を刺激し誘導するように作られている作品ではないかと思います。そして、あとは、それを、そういうものだと見る人に馴染ませる。そのためには大量に似たようなものをつくって、あそこでも見た、ここでも見たと慣れさせて、そうなれば人は、そういうものだといつの間にか納得してしまうようになる。そうなれば、ユニークなブランドとして業界のメインではないにしても、片隅に位置を確保できる。まるで、マーケティング戦略のような作られ方ではありませんか。それを具体的な作品を見ながら、順を追って述べていきたいと思います。

2017年12月14日 (木)

没後40年 幻の画家 不染鉄(6)~第5章 回想の風景

画家の晩年の拾遺集のような展示です。

Fusenyumedono 「夢殿」は法隆寺の夢殿でしょう。薬師寺の東塔を描いた作品を思い出させるような、正面からの姿でシンメトリーに描いています。しかも、建築図面のような精確な描写です。しかし、薬師寺東塔を描いた作品に対してひと目でわかる違いは、雨が降っていることと背景を描いていないことです。それまで見てきた不染という画家の特徴は、特著的な線を引くということと、その線によって形を明確に表すということでした。そのため、これまでの作品では天候とか光と影とかいったことは、雪の場合を除いて、見ていて注意したことはありませんでした。しかし、この作品では雨を降らせています。また、背後の水平な帯のようなのは光でしょうか。それまでの作品であれば、現実でも想像でも、何らかの背景を描いていたのですが、ここでは雨にけぶるところに光がさしたというようです。前の展示コーナーの後半のいくつかの作品から気になっていたのですが、この作品でも、不染は形を明確に表わすということをしなくなってきているように見えました。しかも、雨を白い線を引いて表現しているのですが、不染という画家の力量からすれば、もっと極細の線を引くことができるはずなのに、それをしていないのが、不可思議です。

Fusename 「静雨」という夜の雨の光景で、真ん中の灯篭の光にお堂と中の仏像が浮かび上がるという作品で、この作品も形を明確に表わすということをしていない。二つの作品とも瞑想的という形容がなされていますが、これまで見てきた不染の作品は、そういう形容詞や物語の要素を混入させず、形を描く、それを見る者に示すというシンプルにことだけで、見る者を説得してしまう作品を描いていたと思います。それが、他の日本画の画家にはない(こういう視点からみれば、大家と言われる人たちをふくめて、ほとんどすべての日本画の画家たちは描かれた絵のみで勝負することから逃げて、ごまかしをしていると見えます。不染は、そのようなごかしを潔しとしない決意があるように、私には感じられました)ものだったと思います。それが、これらの作品をみると、老境に入って日和ったかといぶかしさを感じました。

Fusenkaede 「いちょうFusenharu 」という作品、銀杏でしょうか、点描でおびただしい銀杏で画面が覆われてしまい、画面全体が黄金色に染まってしまう作品です。これも、何らかの隠喩がシンボリックな意味合いがあるような想像をさせる作品です。「山海図絵」のような現実にありえない想像の世界を描いて、それを見る者に力技で納得させてしまう方向とは正反対です。どこかで不染は方向転換してのか、これでは幾多の日本画家と同じごまかしに手を染めてしまったのか。そんな感じがしました。

「落葉浄土」という作品など、題名もそれらしくなってしまいました。ここでは、建物のパースペクティブもなくなって、のっぺりしたものになってしまいました。

これも、「山海図絵」という異常なもの見てしまったがゆえに、それ以降の作品を、どうしても贔屓目でみてしまうためでしょうが、はっきりいって、付録というものになってしまいました。それは仕方がないと思いました。

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