國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(7)~第6章 意識は何をなしうるか
スピノザは『神学・政治論』の執筆による4年のブランクの後、『エチカ』の執筆を再開する。おそらく、この間に見直しが行われ、三部構成から五部構成に生まれ変わった。
第4部は「人間の隷従あるいは感情の力」というタイトルがつけられ、感情に支配される人間の隷従に対して、逆にその感情の力がどのような力をもつかが考察される。
第4部にだけ序言が付されていて、これはスピノザ的世界観を要約していると著者はいう。そこから見ていこう。まずは完全と不完全の概念からはじまる。完全というのは完成しているという意味で、これはある人が意図した目的が達成されたということで、そこには意図された目的が知られているという前提がある。ということは、目的が分からない場合は、完全不完全はありえない。そこで、人間は目的が分からない場合の欠落を埋めようとして一般的観念を生みだした。家ならばこう、塔ならばこうと同種のものをまとめた概念だ。この概念を充たすかどうかで完全不完全を言うことができるようになる。このように無理してでも目的を見出そうとするのは、人間にそういう衝動がある。例えば家を建てるということに、居住するという目的を当然置いてしまう。これは一般的観念のように、そういうものとされてしまっているものだ。実際にはさまざまな原因の連鎖が家を建てる目的になっているのだが、その連鎖を辿り切れないので、一般的観念のような目的を置いてしまう。しかし、家はそれ自体で見られるかぎりでは、私自身の身体とは独立して在るので、家自体は完全でも不完全でもない。善悪も同じように見ることができる。それ自体を見れば善とか悪とか決めつけることはできないが、人は決めつけてしまいがちなのだ。そういう議論を経た上で、スピノザは善を「我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が覚知するもの」という。私が何かとうまく組み合わさり、それによって私の活動能力が増大するとき、その何かは私にとって善い、ということだ。誤解をおそれずに言うと、善と悪は活動能力の増減と言える。
第4部には次のような定理がある。
善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。
意識された限りの感情とは要するに意識のひとで、善と悪の認識は良心を指すので、この定理は良心と意識は同一であるという内容になる。これは、意識は善悪に中立な立場で両親を参照して行動を決めるということを否定し、意識は常に善悪いずれかの価値において世界を眺め行動を決定することになる。スピノザは、意識が超越的な審判者のような立場で善悪を判断し、そのための基準という一般的観念をつくる、ということをしない。実際の行動では、善と悪の間で揺れ動いて思い悩むのが一般的だ。良心とは変状の結果、つまり、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意欲し、欲望するのではなくて、反対にあるものへ努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するがゆえにそりものを善と判断する」
第5部は「知性の能力あるいは人間の自由について」、第4部で善悪というどういうものかが明らかになったので、オマケでないのかと必要性を疑う人もいる。
意識の特徴は、原因について無知であり、何ごとをも目的において捉えようとするので、それゆえに善いか悪いかという価値で、つまり道徳的に受けとめる。身体の変状すなわち衝動を引き起こす無数の原因の連鎖を意識することは困難であるため、代わりに目的が置かれ、それが意識される。このような意識を第一種認識と位置付ける。第2部で展開された認識の三区分という認識論に基づく。第一種認識は意見とか表象とも呼ばれ、感覚から得られるものと記号から得られる知識の二面がある。前者は身体の変状の観念、つまり意識である。後者は言語による認識だ。このような第一種認識は虚偽の原因となる。これに対して第二種認識は共通概念と呼ばれる複数の物に適用可能な概念を基礎としている。これはある対象について妥当する法則だ。この認識の性格は真の認識であるという点だ。単にそれが真であるかだけではなく、真なるものと偽なるものとの区別自体を精神に教える。私が自分自身の身体からは独立して獲得する認識です。そして第三種認識は直観知で、神についての妥当な観念から個物の本質の妥当な観念に向かうものです。
第三種認識としての意識は、身体の変状をただ受け取る静止した状態にあるのではなく、対象の間を経てめぐるようにして運動している。
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