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スピノザ関係

2013年11月 1日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(21)

・定理13 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。

我々が身体を刺戟されるのを感じることができるのはいかにしてか?またいかなる意味でか?それは、身体の刺激、すなわち変状が、観念を表現する、すなわち意味をもつということであり、それが精神という身体の自己知によって与えられたものの中に含まれるものということである。しかるに、「変状が意味を持つ」ということと、それが精神の部分であるということの関係が問題である。身体の変状が意味を持つのは、それが「精神の中にある」からである。身体の変状が意味を持つ(観念を表現する)から、それが精神の中に含まれるのではない。しかも、変状の意味が精神の部分であることは、精神の単一の全体と言う観念が、身体の十全な自己知として与えられることを前提にしているとすれば、精神の単一性が、身体のコナトスのなかの自己を前提としていることになる。

ここで定理9の系に光を当てることができる。(延長において)個物の中に起こることの観念は、個物の観念の中にあるとされる。ここで「個物の観念」と言われているものは、たんに個物の外からそれを観察して得られる表象ではない。個物自身が示す意味でなければならない。この証明では暗黙の前提とされていた個物の本性は、個物のコナトスの中に統合されている。なぜならコナトスは、自己の存在のみならず本性を維持しなければならないからである。それが個物をその個物たらしめ、個物を個物として維持するからこそ、その個物の変状を個物の変状たらしめるのであり、個物の変状を当の個物にとっての意味たらしめるのである。スピノザにおいて、一般に神の思惟として存在する観念と、我々精神にとっての認識とを媒介する要の位置にあるものこそ、コナトスに他ならない。なぜなら、それは個物の現実的本質として、神にとって存在すると同時に、我々人間にとって、直接知られたものだからである。それは、自己原因という神の本質を、有限な我々なりのやり方で模倣したものと言ってよいだろう。自己を維持する関心にとって、快と苦が最初に重要性を持つのは当然だろう。身体のいかなる変状も、さしあたりそれが快と苦とのいかなる関連を持つかに応じて、意味を持つだろう。欲求は、快への欲求、苦から逃れる欲求として意味を持ち、それぞれの行動力が、この欲求の実現との関係で次第に分節化され、洗練され、習得されるだろう。そして、行動能力と相関的に、知覚能力が空間的意味を獲得していくだろう。すなわち、快への「接近」とか、苦からの「退避」の知覚として、同時に、対象は、快苦の「原因」として、「性質」を付与されることになるだろう。「おいしいもの」「おそろしいもの」などとして。これら諸性質は、われわれの身体的関心の言わば投影であるから、これらの知覚は「対象の本性より、身体の本性をより多く示すもの」と言える。いまや定理12の真意が理解される。

・定理12 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいは、そのものについて、精神の中に必然的に観念があるであろう。言い換えれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるなら、それによって知覚されないような<あるいは、それについてある観念が精神の中にないような>いかなることも、起こりえないであろう。

ここで「人間精神を構成する観念の対象」とは、思考される内容のことではなく、観念を表現する対象のこと、すなわち身体の中で意味を表現するシニフィアンのことである。これらシニフィアンは、統合されて一つテクストを、われわれの身体を舞台に編んでいる、と言えるだろう。しかし、身体の全ての部分がこのテクストに関与しているわけではない。「その中に起こる全てのことが、人間精神によって知覚されねばならない」とは、精神が精神として成立するさいに、これら全てのシニフィアンが考慮されねばならないということである。このようなシニフィアンは、我々の思惟(観念)を表現する身体変状の全体のことであるから、具体的にはわれわれの神経組織を舞台に繰り広げられる。興奮パタンのことを考えることができる。しかし、何らかの意味を帯びたシニフィアンとしての役割を果たす限り、我々の普通の行動や身振りなども、排除する理由はないだろう。そればかりか、身体を取り巻く環境の中にも、我々の行動の一部として、意味表現の部分でもあるものもあろう。例えば、編み物をする人にとっての編み棒とか、このような全てがシニフィアンとして織りなす意味が、我々の精神を構成すると言ってもいいだろう。従って、そこに織り込まれている環境世界の一部も、我々の身体やその行動を通じて、精神の中に浸透しているのである。

かくて、定理13の系「人間精神は、我々がそれを感ずるとおりに存在する」ということの意味も明らかになる。我々の身体とは、客観的にその同一性の規準が与えられているようなものではなく、我々の活動の能動性に応じて与えられるものである。我々は、自らの思惟の総体として精神を持つが、それは身体の変状の総体によって表現されるものであった。我々が自らの身体を知るのは、このようなシニフィアンとしての身体の変状の総体としてなのである。我々自身の身体の同一性を与えるのは、我々自身の能動性・活動性それ自身であり、それを自ら感じるままに、我々は存在するのである。従って我々が完全に受動的な場合、我々は存在しないと言ってもいい。完全に受動的であれば、何も感じることはあり得ないからである。

2013年10月30日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(20)

スピノザは公理3において「愛、欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され、望まれるなどするものの観念が存在しなくては存在しない。これに反して、観念は、他の思惟の様態が存在しなくても存在することができる」と言っている。実際には、快・苦・欲望などの諸感情こそ、生物体としての我々においていやしくも精神的なもの(思惟の属性に属す様態)であるためには、それらは少なくとも何らかの観念(事物の表現)を含んでいなければならない。これが「本性上」ということの意味である。つまり公理3は、感情が生体内部のたんなる機械的運動でなく、なんらかの意味で思惟の様態に属するものと言えるための、アプリオリな制約を述べるものなのである。

スピノザによれば、個々の内容(観念)を我々が信じるか否かは、その内容自身の持つ説得力によるのであり、とりわけそれが他の様々の我々の信念と取り結んでいる(または取り結びあう)関係によるのである。これまでに知られた、またはそう信じられていることとうまくかみ合い、互いに補い合いながら、さらに堅固に支え合うようなものであれば、我々は進んで受け入れようとするだろう。そうでなければ、否定するか、更なる知識が得られるまで判断を保留するわけである。それゆえ、思考と思考内容(観念)を切り離すことは出来ず、思考とは観念そのもののことだと見なされなければならないのである。ある観念の説得力(それを信じさせる力)は、観念そのものにあり、我々の自由になるものではない。以上のことを考え合わせれば、感情を交えずにただ意味内容を理解するだけで肯定も否定もしない中性的な観想的思惟の能力などをスピノザが認めていたとは考えにくい。スピノザは、痛みのような感覚や、何を標示するとも思えない漠然たる感情のようなものでさえ、最低限、おそらくは非言語的に何らかを表示しているのであり、そうでなければ、それらは思惟の属性に属し得ないのである。

そもそも認識が可能であるとしたら、それは、あらゆる真理を統合した全体(神的知性)の部分としてだけ存在するだろう。なぜなら、およそ認識たる限り、他のすべての認識と互いに支え合い調和するものでなければならず、かくて、その全体は、世界の隅々の真理を、あるがままに表現するものであるはずだからである。ところで、人間精神も認識である。いかにして、神的知性の部分でありうるか?明らかに、何らシニフィアン(意味表現)として、と言うしかない。人間の本性には、言語その他の手段を使って、思惟すること、すなわち神的全体を不完全にかつ断片的に表現することが、属するのである。こうして表現された観念こそ、人間精神そのものなのである。しかし、それは誰にとって表現されるのだろうか?おそらく無限な神的知性にとってなら、どんな微小な部分にでも、全宇宙の表現をくまなく読み取ることができるのだろう。万有のどの部分にも、万有の痕跡が、いかに微細とは言え、残されているだろうからである。ライプニッツ的に言えば、どんなものでもそれ独自の仕方で全宇宙を表現しているだろう。しかし、人間精神が神的真理の部分であるのは、こうした一般的な意味ではない。石ころも神にとっては真理の表現であるかもしれないが、我々にとってそうではない。身体の変状によって、部分的に表現される神的真理、それはまさに人間精神が思惟する諸観念を表現するのである。いかにして人間精神の諸観念は、人間の思惟するものとなりうるか?おそらく神なら、シニフィアンに頼ることなく認識するかもしれない。あるいは、彼にとっては全存在が、宇宙というテクストを構成するシニフィアンだろう。しかし、我々にとって諸観念は、有限の意味表現によって表現された意味として初めて成立する諸観念なのである。シニフィアンがシニフィアンとして成立するのは、その全体がシニフィアンの全体に対応付けられると見られる場合である。神的知性と神的実在の対応(平行論)が成立しているだけでは十分ではない。人間精神においても、これと類比的な関係が成立しているべきだろう。神的知性が全宇宙の真理を統合しているように、人間精神も自己の観念を何らかの意味で統合していなければならない。これには、人間精神の内だけ見ると支離滅裂に見えたものが、神的知性の中では真理の一部になるということがあるかもしれず、その場合には神的知性の部分でありながら、まったく思惟の属性を含まないことも可能だろうからである。合理的なものの部分が、必ず合理的であるという保証はないからである。これでは、人間精神は不完全にでも思惟する、部分的にでも世界を表現する、とさえ言えなくなろう。人間的精神は、いかに部分的認識であれ認識と言えるためには、それ自身において、すでに神的知性が世界を表現する関係と類比的な関係が、成立していなくてはならない。これは、人間精神の単一性が、すでに一つの全体(シニフィアンの全体)として、与えられていなければならないということである。

しかしこのことは、決してスピノザが考えていただろうようには自明のことではあるまい。神的知性においては、一切の事実に対応して全認識の秩序が存在しているとして、その部分である人間精神とその対象(身体)との間に、そっくりこのような平行関係が保存されている必然性があるだろうか?また人間精神を構成する諸観念が、人間自身にとって一つの全体をなすことが、いかにして知られるのだろうか?総じて、人間精神の自己知は、いかにして可能なのだろうか?

もしわれわれが、非十全な観念しか持たなかったとしたら、我々はどうしてそれを非十全だと知り得るだろうか?我々は、自分もつ観念が、自分の本質と外的事物の本質の両方から説明されなければならないことを、自分の非十全な観念だけからは知り得ない。その場合、おそらく精神は自己の本性について知らないことになろうから、何が自己の本性だけから説明される観念なのかも分らないわけである。それゆえ、最小限度の自己知は、それ自身自己の本性だけに基づいて展開し、かつ知られる、十全な観念でなければならない。その自己知に含まれるのが、精神の単一性であり、言い換えれば、いかなる観念の多様も、自己の変状として全体としての自己のうちに含まれる、という認識なのである。この自己知は、十全な認識とはいえ、もちろんはじめから明確な理論的認識であるはずはない。それは、とりあえずはコナトスとして、生きた活動のなかにおのずから示されている意味として在るだろう。自己を維持する活動と努力である以上、コナトスは「自己」を単一のものとして、しかもある一定の維持すべき本質において在るものとして、認識せざるを得ないからである。この「認識」は、その段階では命題知ではないものの、ある種の行動能力のように一種の知であることに関わりはない。スピノザは、程度の差こそあれ、全ての個体にコナトスを認める限り、「全ての個体は程度の差こそあれ、精神を有している」とされる。肝心なことは、この自己知こそが、ほかの諸変状を精神の変状、すなわち思惟の諸様態にするうえで、不可欠の前提であるということである。このことによってはじめて、もろもろの変状が精神的意味を帯びることができるのである。ということは、それらの間に体系的意味連関を読み取ることが可能になるということである。精神の変状は、はじめから明確な意味を持った観念として、心の傷に写しだされるのではない。それはさしあたり意味を欠いた身体の変状にすぎないものとして出現する。しかるに、それらがコナトスの活動の中に取り入れられ、いわば配列されることによって、一種の暗号(シニフィアン)と見なされるのである。観念とは、この暗号の解読された意味にほかならない。しかし重要なことは、この暗号解読の前提として、それらがまとめられるテクストの全体が想定されていなければならないということである。はじめから理解される意味のつまった観念の体系が与えられるわけではない。しかし一つ一つのシニフィアンがそこにおいてシニフィアンとなるなんらの全体が、解読の前提として先取りされていなければならない。精神の諸様態が精神のそれとして捉えられるのは、精神が一つ先取りされた全体として与えられる自己知をもとにしている。そして、この自己知は身体のコナトスとして与えられるから、ここから精神が身体の観念である定理13が導かれる。

2013年10月29日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(19)

スピノザは『エチカ』の中で人間精神について定理11、12、13で言及している。これら三つの定理は「我々の精神が、身体の観念である」ことを主張している。そこでの「人間精神を構成する観念の対象」の意味が問題である。その解明がなければ、「その身体の中には、精神によって知覚されないような、いかなることも起こり得ない」と言う意味も明らかにならないだろう。なぜなら、我々の身体の中には、我々自身の精神によって知覚されないようなことが、多く起こっているのは自明だと思われるからである。

実際、人間精神が身体という対象に関して認識することと言えば、漠然とした感情(快・苦・欲望など)にすぎない。確かにそれらは、われわれの最初の認識というべきものを構成し、それゆえ、最初の精神を構成するだろう。「身体の観念」とは、少なくともはじめはこのような感情である。それは決して身体を志向的対象とする知覚などではない。精神と身体の関係は、そのような超越的・志向的関係ではない。精神は身体を対象として認識する能力ではなく、むしろ、身体それ自身の感情的・気分的現象(立ち現われ)であり、意味作用なのである。つまり、「精神は身体の観念」とは、「精神が身体の観念を持つ」ということではなく、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体と精神の関係は、シニフィエとシニフィアンの関係である。「身体の観念」とは、「身体が表現する観念」ということであり、「身体を表現する観念」という意味ではない。「人間精神を構成する観念の対象」とは、「精神を構成する観念を表現する個体」という意味であり、「観念によって表現される対象(志向的内容)」という意味ではない。精神を独立した認識の主体として、身体を対象として知覚するという意味に受け取られてはならない。スピノザにおいて、精神はそのような独立の主体ではなく、少なくとも身体からは分離できるような主体ではない。

スビノザは定理19で、精神は身体の認識を、その変状の観念を通してのみ、いわば間接的に得るに過ぎないと言う。身体は環境世界の因果性によって成立しており、環境世界からの影響を絶えず受けながら、同一個体としての自己を維持し続けていること、従って、身体の十全な認識のためには、ただ身体だけを孤立的に認識するのでは不十分で、他の多くの個物(環境世界)からの諸作用をも、(存在及び存続の原因の連鎖として)認識していなければならない。

人間精神の十全な観念または認識は、人間精神自身には持ち得ないとされる。なぜなら、人間精神の十全な観念を有するためには、(神がそうするように)人間を取り巻くものについて「きわめて多くの他の観念」を必要とするのに、我々はそれを持っているわけではないからである。我々の精神は、神的知性のように全ての事柄の原因を認識しているわけではなく、神的知性のごく一部を、いわば虫食い算のような不完全な形で、あるいは落丁の多い本のような形で、認識しているにすぎない。精神は、それらの原因の十全な認識を持たない以上、人間身体をも十全に認識していないのである。しかし、我々は「身体の変状の観念」を知覚する限り、これからいわば間接的に、身体についての非十全的認識を獲得していくことはできる。ここで「身体の変状の観念」とは、もちろん「身体の変状が表現する観念」のことであり、「身体の変状を対象とする認識」のことではない。実際、たとえば神経網組織の微細にわたる生理学的認識など、我々は殆ど持ってはいない。しかし、身体の変状が表現する意味は、現実に我々の思惟そのものを構成しており、我々は、もちろん十分な習得のあとにではあるが、それを認識していると言っていい。かくて、変状を表現する意味を我々が知る(通暁する)ことにより、結果的に身体自身についても、非十全的ながら、ある種の認識をもつことになる。その認識は、我々が知性=運動能力を高めることにつれて、ますます我々自身の身体について、より深い認識をもたらすものとなるだろう。そしてこのような認識の深化は、身体の能力の拡大と結びつくだろう。

2013年10月28日 (月)

田島正樹「スピノザという暗号」(18)

・定理7の証明 公理4から明白である。

※公理4 結果の認識は、原因の認識に依存しかつこれを含む。

『知性改善論』の中で述べられた珠の観念を例にとって考えてみよう。スピノザによれば、球の真の観念は、半円をその直径を軸にして回転させることによって球を産出できるということにある。つまり、球の観念をその産出原因から構成して見せることができるとき、つまりたまの観念をその原因の観念から構成された結果として示された場合、真の観念なのである。このスピノザの考えをよりのみ込みやすくするためには、定理と証明の関係を考えてみればいいだろう。定理は証明構成の最後に出てくる結果である。証明がその結果を産出する「原因」とみることができよう。

しかし、これでは平行論は賭けない。もののあり方に対して、複数の観念が対応すると考えられるからである。半円の回転が球の原因である考えることもできるが、別の仕方で球を構成すること、球を産出する別の観念を考えることも容易だろう。たとえば、古典的な求積法に使われたような無数の円柱から構成するなど。ある現実の真理を確立する複数の「証明」「検証」「説明」を考えればいい。異なる検証法帆は、それぞれの真理に対するアプローチの方法を表わす。検証方法は、事実の認識(観念)を生み出す力をもつと言ってもいい。これは、事実の因果的生成に対応(平行)するものではないが、事実の観念(認識)の因果的生成の筋道と言える。つまり、事実の因果的生成と、その認識(説明)の生成とは、必ずしも一致しない。前者は、ただ現実に生じたひと通りしかないが、その認識の生成は、現実の生成の秩序に従う必要はなく、複数の検証ルートを持つのである。かくて、認識論的に「原因の認識」の必要を認めたとしても、数学においては、複数の原因が同一の結果を産出することを認めざるを得ないし、自然学においては、複数の原因が同一の結果を産出することを認めざるを得ないし、自然学においては、複数の認識原因(認識根拠)が同一の認識結果に導くことを認めざるを得ない。

スピノザは、観念の秩序を因果的なものと見なし、そこから観念の秩序と連関がものの秩序と連関と同じ因果関係であると認めた。しかし、たとえそこから「神の思惟する力は、神の行動する現実的能力に等し」く因果的作用であると認めることができたとしても、それらが平行しているということにならない。思惟の因果性は、単一の事実に対しても、無数に存在し得るからである。すでに述べたように、これが事実の実在性の核心をなしているのである。実際平行が言えるのは、認識結果としての真の観念に対してだけである。

スピノザは定理9の証明の中で定理7に言及しているが、「観念の秩序及び連結は、ものの秩序及び連結と同一である」とはせず、「原因の秩序及び連結と同一である」と書いている。これは、観念の秩序と連結が、とりもなおさず因果的かんけいであるからこそ、「各個の観念は他の観念原因とする」と言えるのである。すると、定理9の証明の中での定理7が果たしている役割は、現実の個物を説明する観念が、それ自体、ものの秩序連結と同じような因果的連関に従って、原因の観念から構成されていること、ないし原因の説明に依存して、かつそれを含むような形で構成されていなければならないということである。おそらくスピノザ自身は、この説明の因果連鎖で、現実に存在し、生成した物理的因果連鎖(水平的因果関係)に平行するものはひと通りしか存在しないと見なすことはできない。ある結果事象の検証の因果、あるいは現象を解明する説明構成の因果とか、状況証拠から推論を積み重ねて犯人を断定する探偵の推理のようなものを、ここから排除する理由はないのである。真理を、そう判断する検証や説明の構成の秩序から考えるなら、説明される結果として確立される真理へ至る説明の因果経路が考えられるのであり、その因果を導く力こそ、結果としての真理が自らを肯定すべく要求する力そのものなのである。このように一つの真理へと導く因果的構成は、複数存在してもかまわないないし、むしろ原理上は無数に存在しなければならないと言うべきだろう。真理は、多くの事実から双方向的に支えられた、アーチのような建造物と見なされ得るからである。ここにおいては「平行論」は意味を失うのである。

 

スピノザは、『エチカ』に先立って、『短論文』で心身問題に触れている。悲しみ(あるいは苦しみ)という感情は、当然「悪が生じているという認識」に先んじて起こるのだが、日野鑑賞の意味を解き明かすことによって、我々は「身体に何か悪いことが起きている」という意味をそこに読み取ることができるのである。快と苦という感情は、そのような意味を帯びて立ち現われ、そのことによって我々の身体についてなにごとかを認識させてくれるのである。感情の真の原因がしばしば知られていないということこそ、スピノザの出発点から変わらない問題意識であった。「人間は自己の行動及び衝動を感じるよう決定する原因はしらない」ということ、その真の原因を洞察することによって、我々の感情を否定的なものから能動的なものに変える、一種の「感情の治療学」が、スピノザの感情論、倫理学の中心を成している。

我々の思惟が無限なる神的知性の一様態であるとされるのみならず「他のすべての思惟の様態、たとえば愛・欲望・喜びなどは、その起源をこの最初の直接的様態から得る。これから明らかに帰結されるのは、各物の中にあって、自己の身体の維持に力めるところの自然的愛も、そうした身体についての神的思惟の属性の中に存するところの観念以外のいかなる起源をも有し得ないということである」とされる。生物の有する自己保存への努力は、(自己原因としての)神に由来するものもので、「自然的愛」は、おそらく思惟の最も原始的な形として、思惟のなかに登録されるのだろう。さしあたり、初期から後に至るまで不変なまま一貫している考えは、①外的対象の知覚(認識)が、身体の変状を介してのみ得られること、②精神は専ら身体の変状の観念から影響を受けること、これがさしあたり感情である。③能動性の拡大に快、善を見、その減退に悲しみや苦しみを見ることである。ここにはっきりと、人間精神が身体を起源とし、身体の変化に応じて変化するという「唯物論的」見方が示されている。スピノザの「平行論」は、はじめからはっきりと唯物論的な方向を自明なものとしていたのである。

2013年10月27日 (日)

田島正樹「スピノザという暗号」(17)

第4章 心─身問題

デカルトが、意識としての精神をきわめて純化した形で捉え、身体的なものから鋭く区別した時から、近代の哲学に呪いのように取り付いた問題が、心と体の関係をどう理解するべきかという問題であった。例えば、精神の働きと見なされる知覚は、同時に外界からの刺激によって成立するのだから、何らかの物理的因果作用の結果とも考えられる。物理的対象から感覚器官を経て、脳神経に至る物理的因果が容易に想定できようが、それらの作用の果てに、ついに知覚表象というなんらかの意識的なものが成立するとなると、途端に不可解になるのである。この心身の間に因果法則を想定しなければならないが、このような法則を他の厳密諸科学、とりわけ物理学と調和させ共存させることは難しい。というのは神的なものが物理的場所づけをもたない以上、物理学と接点を持ちようがないからである。心身の因果関係は、意志が動作に影響帆及ぼすというような方向でも想定されよう。日常生活ではなんの不思議もなく了解されているこのような因果関係も、デカルト以後はとりわけ大きな難問と見なされるようになった。意志という全く心的なものが、いかにして物理的世界、とくに身体に因果作用を及ぼしうるのか、なんとも不可解に思われるためである。

これらは散々論じられてきた難問であるが、スピノザはそれに対してきわめて独創的であると同時に、ほとんど決定的とも思える解決を与えた。スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内容)とシニフィアン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシニフィアンの役割を果たしているのである。因果関係は、外的世界の出来事と身体の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、特定の心的状態(ないしは意味)が、はじめから身体の特定の状態(シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフィアン全体との関係の中で全体論的に解読されねばならない。感官に対する物理的刺激及びそれによって励起された神経興奮は、それ自身単独で一つの意識生み出すわけではないのである。

 

およそ認識一般についての制約について語る規範的理論(いわば「超越論的」議論)と、理想的な認識としての神的知性についての理論が一つの理論になっているのは、スピノザにおいて、あらゆる認識が神的知性の部分と考えられるからである。これは超越論的議論と経験的議論との、きわめて独自な綜合の仕方だろう。なぜなら、どのような経験科学的な知識も、心的認識の正真正銘の部分である限り、超越論的な認識とそのままつながっているからである。両者は部分と全体の関係であり、基礎づけられるものと基礎づけられるものの関係として、異なる議論の水準に置かれるのではないのである。

・定理7 観念の秩序及び連結は、ものの秩序及び連結と同一である。

系 この帰結として、神の思惟する能力は、神の行動する現実的能力に等しいことになる。言い換えれば、神の無限な本章から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神の内に想念的(すなわち観念として)に起こるのである。

ここで観念と言われているのは、必ずしも我々人間の精神が考える観念のことではない。むしろあらゆる観念が、観念である限り備えていなければならない一般的制約が問題なのである。そしてそれは我々の場合にはしばしば損なわれていて、不十分にしか満たされていないから、ここで述べられている観念の条件は、理想的には神の思惟においてはじめて完全に満たされるだろう。

いかなる観念も、それが観念である限り、その秩序と連結によって、物の秩序と連結を表現していなければならない。スピノザは、誤った観念の場合でも、ものの秩序と連結はそのまま表現するかは、問題ならないという。実際には、いかなる観念にも、端的に誤った部分は存在しない。スピノザによれば、個々の認識や観念が一見したところ誤っているように見えるのは、それが真なる認識のごく一部であるのに、それで満足してしまうから、あるいはそれ全体であるかのように混同してしまうからにすぎない。部分的認識が切り離されて固定されたり、部分を以って普遍化したりすることが誤謬なのである。従って、どの観念も、完全な全体認識の中に位置づけられることによって、真なる認識の不可欠の部分であることが立証されるはずなのである。我々の有限な思惟がその部分である無限な神的知性という想定は、全ての観念に観念という価値を保証するものである。たとえ我々の場合にはしばしばそうなっていなくても、神的知性においては、その観念の秩序と連結が、実在の秩序そのものを表現していなければならないのである。

2013年10月26日 (土)

田島正樹「スピノザという暗号」(16)

3.「完全性」の観念

『エチカ』第4部序言には、「完全性」の観念についてのスピノザによる再定義が説かれている。それによれば、もともと「完全」という言葉は、作品を制作する時、制作者の思い通りに成し遂げられているというほどのことを意味していた。それから、個々の制作者の意図を離れて、一般的観念に一致していることをもって完全と呼ぶようになり、さらに自然物についても、人々がそのものについてもつ一般的観念に合致する時、人工物と類比的に、完全・不完全を語るようになったものである。しかし「自然は目的のために働くものではない」から、目的論的な概念を適用することは、本当はできない。それゆえ「完全・不完全はたんに思惟の様態に過ぎない、すなわち我々が同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念に過ぎない。」つまり、一般的な型を抽象して、それに合致する、しないを言うだけのものに過ぎない。

我々が一般に想像する神=制作者という観点のもとに考えられる「完全性」「不完全性」は虚妄であり、自然にそのような目的との一致・不一致を考えることは意味をなさない自然には如何なる目的もないからである。そこでスピノザは、その言葉にまったく新たな意味を与えようとする。いわば換骨奪胎の手法である。それが新たな意味で「不完全」を「実在性」と等置することである。「実在性」という言葉と連関する問題群や概念装置と、「完全性」というそれとは違っている。即ち一方は、存在論的、他方は倫理的な問題とつながっている。この実在性と完全性という二つの概念が属している領域を媒介するものが、活動力(増大したり減少したりする力能)である。スピノザによれば、自然の中に、それ自身で不完全なものは何もない。しかし実在性という点では、そこに程度が存在する。実在性という点では、目的などない。ただ、活動力の強弱があるだけである。あるいは、より正確に言えば、この力の強さは、増大・減少からだけ理解されるのである。

重要なことは、我々が近づくべき「人間本来の型」など、実際には存在しないということである。これは、我々が事態をつい目的論的に眺めてしまうことから生じる錯覚なのである。実際に存在するのは、ますます活動力を増すことであり、その意味でますます実在的・完全になったりならなかったりするという過程だけである。実在性の究極の理想など存在しない(神は、目指されるべき理想や目的などではなく、ただ完全な実在性そのものである。)例えば、我々が鉄棒で逆上がりの練習をするとしよう。何のためかと言われれば、逆上がりを上手にするためだろう。すなわち逆上がりという我々の活動力は、自己を発揮することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持する循環的活動としての実在というモデルがある。

 

4.実在性の階層

スピノザによる実在性と完全性と力能との等置は、たしかに思惟の秩序においては理解できるものだろう。全体論的合理性のもとで理解される認識としての観念は、再帰的・循環的に、すなわち自己原因的に活動する運動として存在するからである。しかし、スピノザは、このような思惟の秩序と平行して、物体的自然秩序(延長という属性)における因果的作用をも考えている。観念間の力動や連関(すなわち、作用や産出の関係)と、自然的事物間の因果作用とが同一視されているのである。因果作用や力能の発揮について詳細に見るならば、スピノザが二種類の因果関係を区別していることが分かる。神的本質から全個物の導出と個体間での因果関係である。前者を「垂直的因果関係」、後者を「水平的因果関係」と呼ぶ。これに対して個物の存在も二様に考えられる。個物の個体本質は、永遠なるものとして神の中にあり、その現実存在(時空的出現、時空の中での持続)とは別に、神的思惟のなかに、いわば永遠の可能的存在のように存在している。この時の神は本質必然に従って行動する。従って、この世界に未だ出現していない個体も、神の中にすでに現実に永遠の存在を享受しており、それはいずれ現実に出現するだろうものとして、たんなる可能存在ではない。要するに、神の本性に従って、定理の証明のように生成する垂直的因果に対応する、永遠の相のもとに見られる現実的本質と、持続の相のもとに見られた個物とは区別されるのである。

我々は、創発という現象を考えることによって、この二つの因果の意味をよりよく理解できるだろう。個別的因果関係が複合して、たまたまある安定的構造が成立するとしよう。たとえば、原生生物の発生、あるいは有意味なゲームとか証明とか芸術作品の発生などを考えてみればいい。これにいずれも複雑な要素がたまたまうまく重なり合う稀有で絶妙な偶然によって成立したものであるが、いったん成立すると、それ自体を再生産し、反復し維持していく構造体なのである。このような構造体は、生物個体のように、環境との複雑な相互関係を継続的に取り交わしており、それぞれの作用は、いずれも自然の因果法則に適ったものであるにしても、それらがたまたま組み合わさって自己を維持しつつ更新し、かつまた増殖するものとして一定の安定したシステムに生成したこと自体は、偶然なのである。このように様々の作用が組み合わさって、あらたに高次の自己維持する秩序が生成することを、一般に「創発」という。公理が組み合わさって定理の証明が生成したり、犯行現場に残された様々の事実や証拠をうまく積み重ねて真犯人を洞察したりすることも、アミノ酸がうまく結合して、そこに原始的生物と言えるようなシステムを出現させることも、いくつかの良く知られた単語を繋ぎ合わせて、まったく新しい素晴らしい詩句を生み出すことも、すべて創発である。

スピノザが最も単純な個物(延長の様態)と考えていたのは物体であるが、そのようなものでさえ、最低限度の自己維持力を備えている。物体とは、ひとまとまりで運動したり静止したりするものであるから、まとまりを保持しているわけだし、最低限度の自己維持力を持っているのである。かくて自然の世界は、最単純な物体(原子や分子)から、複合的物体、細胞、生物体、そのコロニーや社会…などを経て全自然にいたる自己維持システムの階層をなし、それら各階層がそれぞれに、より単純な秩序が創発的に組み合わさって、次第に高次秩序を構成するように、結びついているのである。スピノザが神の本質から生じるという因果性は、このようなより高次の自己維持的存在を産出する働きと考えていい。これをスピノザはまったく新たな創発とは考えず、すでに永遠の神的知性の中に描き込まれた本質観念と考えるのである。いったん存在することになった創発的存在は、自己原因的・自己維持的活動を始める。それゆえ、その存在は、自己の存在に固執する力と不可分である。

 

 

 

田島正樹「スピノザという暗号」(16)

5.第三種認識

スピノザは『エチカ』第二部定理40の備考2で、認識を三種四通りに分類している。第一種認識というものは、感覚的経験から得られるか、他人の意見を聞いたり読んだりすることから得られるものであり、何ら確実性を持たない。第二種認識は、理性による認識で、共通概念あるいは十全な観念に基づいた唯物論的認識である。第三種認識とは、直接知と呼ばれるもので、「神の若干の属性の形相的本質の十全な観念から事物の本質の十全な認識へと進むもの」とされている。第三種認識は、神の属性の十全な観念から事物の十全な認識へと進むものとされている。これはまさに観念における垂直的因果性による高次秩序の生成にあたるものだろう。垂直的生成において見ることが、永遠の相のもとで考えるということなのである。我々は感覚的経験と論理的推論で、すべての認識を尽くせるわけではない。なぜなら、いくら論理的推論をわきまえていたとしても、数学の定理の証明を発見できるわけではないからである。たしかに、証明が示されれば、我々は推論の力をもつ限り、その証明の各ステップを順々に追いながら、その妥当性を確認することはできよう。しかし論理的能力だけで、発見や洞察が得られるというわけではない。このような発見は、創発的なものであり、垂直的因果の領域である。第三種認識は、たんに論証の基礎として要請される創発的認識(存在の階層を一段ずつ上昇させる認識)というだけにとどまらず、神の垂直的因果性を表現する認識であるが故に、同時に永遠の相での認識として、水平的因果性に基づく持続の相のもとでの認識と対比されることになる。

一方、定理29の証明の末尾で、「ものを永遠の相のもとに考えるこの能力は、精神が身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ精神に属する」と言っている。スピノザは、「ものを永遠の相のもとに考える」ことと「身体の本質を永遠の相のもとに考える」ことが精神の本性に属し、「それ以外何ものも精神の本性に属さないのであるから」、この両者を同等のものあるいは密接不可分のものと見なしていい、と言う。

この「身体の本質」を現実的本質すなわちコナトスと考えてはどうか?コナトスは、神の自己原因性と同型性を保っている。従って垂直的因果と同型性を保っている。従って、垂直的因果に従って、成立する自然の生物進化的秩序は、「神の本性の必然から生ずる」秩序であり、それを考えることが永遠の相のもとに考えることとされるのである。しかしこのような見方は、自然物一般を眺めることから自然に出て来るものではない。それはむしろ、ある特権的個体すなわち自己の身体の本質(すなわち現実的本質すなわちコナトス)を(あるいは自己の身体の本質が)思考することによって導かれねばならない。なぜか。我々が眺めやる自然的存在者を神の本質の必然的帰結と見るためには、およそ合理的秩序─自己原因性という原理に基づいて統一的秩序が想定されねばならないからである。さもなければ、自然物はただの混沌たる現象にとどまるだろう。現象は一定のまとまりを保ち、自己保存力とか自己原因といった観念を学ぶのだろうか。それこそ自己の身体から以外ではありえない。その意味では、自己のコナトスこそ、全ての合理性の基礎であり、出発点である。それなしには、たとえ自然が自己原因的な神的秩序に従っていたとしても、かかるものとして知られることはできなかっただろう。自己保存の努力(コナトス)は、認識と密接に関係している。一方で、認識自体が、認識に発し認識を生み出す自己循環的活動であると同時に、より低次の観念秩序からより高次の統合秩序を生成する垂直的因果性である。他方、生命の自己保存自体が、当の生物体がはっきりと自覚しているかどうかはともかく、欲望とか忌避などと解釈可能な活動的意味を担って活動しており、観念の下図を描きつつ生きている。つまり、一方で全自然界はさまざまのコナトスを発揮する階層秩序をなすと同時に、それぞれのコナトスがそれぞれの階層における意味の秩序をなし、その程度に応じた判明さをもつ観念(認識)の秩序をなすとも言えるのである。そして、コナトスがたんに自己を維持するだけに満足せず、より能動的になろうとするとき、より十全な認識を目指さねばならない。十全な認識のみが、能動性の源泉であるからである。それは必然的に垂直的因果による上昇、より判明的な意味的統合への生成を伴うだろう。そして、その認識が能動的なものとしての活力に結び付けられる限り、コナトスの自己知、あるいはコナトスはもともと最小限度の自己知なくしてあり得ない以上は、ますます判明な自己知を目指さざるを得ない。かくて第三種認識とは、本質的にコナトスの自己知であることになろう。それゆえ、この自己知は、神の認識を含まざるを得ない。なぜなら、我々のコナトスは、神の自己原因的力能の似姿であり、その部分だろうからである。

2013年10月25日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(15)

3.「完全性」の観念

『エチカ』第4部序言には、「完全性」の観念についてのスピノザによる再定義が説かれている。それによれば、もともと「完全」という言葉は、作品を制作する時、制作者の思い通りに成し遂げられているというほどのことを意味していた。それから、個々の制作者の意図を離れて、一般的観念に一致していることをもって完全と呼ぶようになり、さらに自然物についても、人々がそのものについてもつ一般的観念に合致する時、人工物と類比的に、完全・不完全を語るようになったものである。しかし「自然は目的のために働くものではない」から、目的論的な概念を適用することは、本当はできない。それゆえ「完全・不完全はたんに思惟の様態に過ぎない、すなわち我々が同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念に過ぎない。」つまり、一般的な型を抽象して、それに合致する、しないを言うだけのものに過ぎない。

我々が一般に想像する神=制作者という観点のもとに考えられる「完全性」「不完全性」は虚妄であり、自然にそのような目的との一致・不一致を考えることは意味をなさない自然には如何なる目的もないからである。そこでスピノザは、その言葉にまったく新たな意味を与えようとする。いわば換骨奪胎の手法である。それが新たな意味で「不完全」を「実在性」と等置することである。「実在性」という言葉と連関する問題群や概念装置と、「完全性」というそれとは違っている。即ち一方は、存在論的、他方は倫理的な問題とつながっている。この実在性と完全性という二つの概念が属している領域を媒介するものが、活動力(増大したり減少したりする力能)である。スピノザによれば、自然の中に、それ自身で不完全なものは何もない。しかし実在性という点では、そこに程度が存在する。実在性という点では、目的などない。ただ、活動力の強弱があるだけである。あるいは、より正確に言えば、この力の強さは、増大・減少からだけ理解されるのである。

重要なことは、我々が近づくべき「人間本来の型」など、実際には存在しないということである。これは、我々が事態をつい目的論的に眺めてしまうことから生じる錯覚なのである。実際に存在するのは、ますます活動力を増すことであり、その意味でますます実在的・完全になったりならなかったりするという過程だけである。実在性の究極の理想など存在しない(神は、目指されるべき理想や目的などではなく、ただ完全な実在性そのものである。)例えば、我々が鉄棒で逆上がりの練習をするとしよう。何のためかと言われれば、逆上がりを上手にするためだろう。すなわち逆上がりという我々の活動力は、自己を発揮することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持することによって自己実現し、自己を維持するだろう。ここに自己原因、自己維持する循環的活動としての実在というモデルがある。

 

4.実在性の階層

スピノザによる実在性と完全性と力能との等置は、たしかに思惟の秩序においては理解できるものだろう。全体論的合理性のもとで理解される認識としての観念は、再帰的・循環的に、すなわち自己原因的に活動する運動として存在するからである。しかし、スピノザは、このような思惟の秩序と平行して、物体的自然秩序(延長という属性)における因果的作用をも考えている。観念間の力動や連関(すなわち、作用や産出の関係)と、自然的事物間の因果作用とが同一視されているのである。因果作用や力能の発揮について詳細に見るならば、スピノザが二種類の因果関係を区別していることが分かる。神的本質から全個物の導出と個体間での因果関係である。前者を「垂直的因果関係」、後者を「水平的因果関係」と呼ぶ。これに対して個物の存在も二様に考えられる。個物の個体本質は、永遠なるものとして神の中にあり、その現実存在(時空的出現、時空の中での持続)とは別に、神的思惟のなかに、いわば永遠の可能的存在のように存在している。この時の神は本質必然に従って行動する。従って、この世界に未だ出現していない個体も、神の中にすでに現実に永遠の存在を享受しており、それはいずれ現実に出現するだろうものとして、たんなる可能存在ではない。要するに、神の本性に従って、定理の証明のように生成する垂直的因果に対応する、永遠の相のもとに見られる現実的本質と、持続の相のもとに見られた個物とは区別されるのである。

我々は、創発という現象を考えることによって、この二つの因果の意味をよりよく理解できるだろう。個別的因果関係が複合して、たまたまある安定的構造が成立するとしよう。たとえば、原生生物の発生、あるいは有意味なゲームとか証明とか芸術作品の発生などを考えてみればいい。これにいずれも複雑な要素がたまたまうまく重なり合う稀有で絶妙な偶然によって成立したものであるが、いったん成立すると、それ自体を再生産し、反復し維持していく構造体なのである。このような構造体は、生物個体のように、環境との複雑な相互関係を継続的に取り交わしており、それぞれの作用は、いずれも自然の因果法則に適ったものであるにしても、それらがたまたま組み合わさって自己を維持しつつ更新し、かつまた増殖するものとして一定の安定したシステムに生成したこと自体は、偶然なのである。このように様々の作用が組み合わさって、あらたに高次の自己維持する秩序が生成することを、一般に「創発」という。公理が組み合わさって定理の証明が生成したり、犯行現場に残された様々の事実や証拠をうまく積み重ねて真犯人を洞察したりすることも、アミノ酸がうまく結合して、そこに原始的生物と言えるようなシステムを出現させることも、いくつかの良く知られた単語を繋ぎ合わせて、まったく新しい素晴らしい詩句を生み出すことも、すべて創発である。

スピノザが最も単純な個物(延長の様態)と考えていたのは物体であるが、そのようなものでさえ、最低限度の自己維持力を備えている。物体とは、ひとまとまりで運動したり静止したりするものであるから、まとまりを保持しているわけだし、最低限度の自己維持力を持っているのである。かくて自然の世界は、最単純な物体(原子や分子)から、複合的物体、細胞、生物体、そのコロニーや社会…などを経て全自然にいたる自己維持システムの階層をなし、それら各階層がそれぞれに、より単純な秩序が創発的に組み合わさって、次第に高次秩序を構成するように、結びついているのである。スピノザが神の本質から生じるという因果性は、このようなより高次の自己維持的存在を産出する働きと考えていい。これをスピノザはまったく新たな創発とは考えず、すでに永遠の神的知性の中に描き込まれた本質観念と考えるのである。いったん存在することになった創発的存在は、自己原因的・自己維持的活動を始める。それゆえ、その存在は、自己の存在に固執する力と不可分である。

2013年10月24日 (木)

田島正樹「スピノザという暗号」(14)

スピノザは、実体を定義して記している。

実体とは、それ自身において存在し、かつそれ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するのに、他のものの概念を必要としないものと解する。

古来、ただ杳として流動する現象の中で自己を保持するもの、同定の対象として変化の基盤に措定される個体、それが実体と呼ばれてきた。色が、ものの色としてものに内蔵してのみ存在するように、これら内属的諸性質はそれ自身において存在しないのに対し、物や人の方は、ひとまず「それ自身において存在する」と見なしうる。その意味で、これらのものはひとまず実体と呼ばれてきたのである。しかしここで、それ自身において存在するものは、それが指示同定される時に、一体いかなるものとして存在しているか、「その何であるか」を示す本質や種概念が重要なものとなってくる。たとえば、流動する水のような対象は同一のものとして存在しているかどうか明確でないから、厳密に「それ自身においてあるもの」とは言い難い。本質概念は、それ自身において存在するもの(実体)の同一性の規準を与えるものとして注目されるのである。普通伝統的な存在論において、個体の指示同定の基礎となる本質概念が、対象自体の本質に属するリアルなものであるか、それとも理論家が語るための枠組みとして便宜的に措定しただけのノミナルなものであるかをめぐって議論が対立する。指示同定しつつ語る言語活動と、現象自体の活動とが切り離され、認識の目的論的理解モデルが立てられる時、理論家の活動の目的とは、対象の真理の認識である。他方、現象の活動の目的とは、人工物であればその完成または使用であり、自然物であれば永続である。認識とその対象の両者における目的論の間で調和が想定されるなら、永続するものの認識が目指されるだろう。最も永続するものは、数学的・イデア的なものである。したがって両者の目的が一致するところは、理論が数学的で対象の本質がイデア的である場合ということになろう。しかるに、これら「それ自身において存在するもの」には固有の難問がつきまとうことも、昔から知られている。それをイデアと呼ぼうと集合と呼ぼうと、それが何らかの包括的全体者であることに困難の種がある。例えば、プラトン自身に自覚されていたイデア論の困難はつまるところ、イデア論を語る上で不可欠のイデアをイデアであると判断するために、さらにイデアのイデアに訴えざるを得ない点にある。それ自身において存在すると想定されているもの(イデア)について考える段になると、その思惟自体が、当の思惟の対象を変容させてしまうという点にその共通の根がある。かくて、「それ自身において存在する」ことを、完結した全体と考えることでは不十分であることが分かる。

カントは、実在性をこのように無限なる閉じた全体と考えることが、不可避にパラドクスを生じさせることを見抜いていた。カントにとっては、実在性は悟性だけで決着できるものではなく、可能的経験に基礎を置かねばならない。可能的経験は、必ず時空的に定位せねばならない。悟性的概念は、感性的適用(検証・反証)場面を持たねばならないのである。つまり、実在性の基礎を与える時空それ自体が完結した実在ではなく、思惟の形式であるということは、カントにおいては実在性が可能的経験という点に求められるということを示している。可能的経験の可能性は、単に我々がそれを考えようが考えまいが存在すると想定される論理的可能性ではない。例えば、角を二等分する直線を引く可能性は、単にどこかに存在しているはずだという論理的可能性ではない。それを作図する方法が知られて初めて、それは我々の可能的経験の中に入って来るのである。証明の可能性も同様である。それゆえ、空間についての幾何学的真理も、実際われわれが証明を手にするまでは、我々の可能的経験内部には存在しない。我々の可能的経験自体が証明によって拡大し、我々の思惟可能性を拡大するのである。また、延長はイデアのように完結した全体ではなく、可能的経験のように、操作によって構成され、また自身構成するもの、操作の反復を自らのなかに繰り込んで、再帰的に増殖して行く力動的なものと見なされねばならない。すると延長自体が、「主観的なもの」と言って悪ければ、思惟によって構成され統合されるものという側面をもっていると言わざるをえない。もちろん延長を勝手に作り出すことなどできるはずはない。思惟は、経験的諸対象の空間関係を、一つの全体へとまとめることができるだけである。空間は、空間的対象に先んじて存在することも思惟することもできない。新たな空間的対象の経験の可能性がつねに開けているとしても、それにすべてが完結した全体として有限か無限とされることはできないのである。ここで問題となっているのは、「それ自身において存在すること」と「それ自身において考えられること」との相即的関係なのである。すなわち「それ自身において存在する」ということが、思惟と独立したイデア的自体存在と考えられないからこそ、実体は同時に「それ自身によって考えられるもの」でもあり、「自らを思惟するもの」として、思惟の属性を含まざるを得ないのである。つまり、実体は延長を属性とするためには、思惟をも属性とせざるを得ないのである。

実体が思惟を含むものと考えると、それが「それ自身において存在する」あり方は、イデア的実在の場合とは打って変わって、一挙に力動的なものとならざるを得ないだろう。延長は、はじめから与えられた全体ではなく、延長から延長へと拡大し増殖する力動性として存在するのであり、そのさい空間を認識する思惟が不可欠である。その思惟(認識)は次の認識の道具を提供し、再帰的・循環的に自己原因的発展を遂げるものである。それゆえ何か一つの目標へと接近して行くというよりも、認識が得られれば得られるほど探求のフロンティアは拡がり、問題や課題も増えていくものなのである。それは、一つの答えをめざすよりは、探求の力能と探求可能な領野を拡大していく運動なのである。力動的なものとして「それ自身において存在する」あり方こそ、再帰的に自己回帰する自己原因ということである。延長は延長へと、認識は認識へと、経験は経験へと統合され回帰する。それらはいずれも、活動力が自己を拡大する運動の契機をなすものといっていい。かくて、自己原因的活動の究極の定式化は、「力能が力能を生む」ということである。ここにおいて力こそが、その拡大の力動性のなかで自らを保持し、「自己自身においてある」実体であることになろう。

いまや神的実体の全体論は、力が力を生む再帰的・循環的活動という相でとらえ返される。各実在は、それぞれ結びあって堅固な実在性を発揮し、それぞれの観念がそれぞれネットワークを形成して、より堅固な真理を構成するように、実体はたんに寄せ集まった全体であるのではなく、みずから維持する全体であり、自己原因的に循環する力動そのものである。

結局、第一、第二の証明は、実際は第三の証明とその説明に依存しているのである。そして、「それ自身においてあり、それ自身によって考えられる」という実体の定義に、実質的内容を与えるものは、結局この「自己原因」をおいて他にない。それなくしては、属性を一つの全体として統合するものも、また複数の属性(延長と思惟)を一つの実体のもとへと統合するものも見当たらないだろう。

スピノザの自己原因は、力能の観念・自己保存力の観念と結び付けられて理解されることによって、実体の他の本性を解明し、基礎づける役割を担っているのである。自己原因は、我々の理解を越えるものであるどころか、我々に分有され、我々自身の生と思惟のなかで、部分的ながら実際に働いているものと見なされるのである。我々のコナトスと神の自己原因は、質的に異なるものではなく、部分と全体の関係、あるいは実在性と完全性の程度の違いでしかないのである。

2013年10月23日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(13)

定理11の第二番目の証明の大筋は次のようなものである。

全てのものについて、その存在・非存在の理由が存在する。それゆえ、存在を妨げる理由がないものは、存在せねばならない。ところで神は、その存在を妨げる理由がないから、神は存在する。というのも、そのようなものは神の外にも内にも、存在しないからである。神の外にあるものは、神となんの共通性も持たず、従って神に(因果的に)作用することはできない。それゆえ、その存在を妨害することはできない。また神のうちにかかるものが存在するとすれば神の本性が矛盾を含むことになる。しかし、神は「絶対に無限で最高完全な実有」であるから、そんなことはありえない。

スピノザの根本的発想の中には、否定はそれ自身、何らかの肯定的な存在の措定を前提としているはずだ、というものがあったと思われる。通常我々は、否定が述語につけられるものとみなしている。すると、「赤」と「非赤」のように、否定を介して、対象が二つの分類させることになる。すると、プラトンが『ソピステス』でやったような、概念の二分類の体系を次々に生み出すことが、否定作用の本質であるかのような見方が生じてくる。しかし否定によってつねに分割が行われるわけではない。例えば、存在と非存在の関係は、このような分類とは考えられないのである。それゆえ、ある概念の否定によって、つねに有意味な類や集合が確定すると考えることには問題がある。分類概念としての否定的述語は、アリストテレスが「反対のものども」と呼ぶものである。アリストテレスによれば、白いものから白くないものへの転化の場合、その転化を通じて、その基に第三のもの、すなわち質料とか基体といったものが、恒存するものとして存在していなければならない。したがって、そのような基になる第三者を想定し得ないようなもの、たとえばアリストテレスの意味での「実体」には、その反対のものが存在しない。存在と無は、このような反対のものどもには属していないのである。この洞察はどのような述語に対しても、必ずしもその否定述語が存在するわけではないことを示している。「人間である」という述語に対して、「非人間である」という述語を人為的につくっても、前者が何か一つのもの(一者に即して語られるもの)を表現していると言えるようには、後者が示しているものは存在しないのである。その意味で、このような述語づけは、無限定判断とか無限判断と呼ばれることがある。否定的述語が何か一者に即した表現と言えるのは、アリストテレスのいう「反対のものども」または「反対のものに対して反対のもの」と言えるような述語の場合だけであり、それは「反対のものども」が共通に帰属し得る基体の存在を前提としているのである。

さて、共通の基体のうえに成立する「反対のものども」においては、一方の成立の理由は同時に他方の不成立の理由であるから、成立と不成立には非対称性はない。しかし、実体的な存在者の場合について、その存在と非存在をこれと同様に扱うことができないのは明らかである。存在するものについては、その原因(理由)について問うことは意味を持つが、存在しないものについて、その非存在の原因について問うことは、いったいそこで問題になっているのが、何かの非存在か明確にならない以上、何の原因が問題かを特定できないのである。「何ものかの非存在」ということは、そのものが存在していない以上、指示しようがないのである。もちろん、丸い四角のように、その観念が矛盾していることを示すことによって、「非存在の理由」を示すことができる場合もある。しかし、それ以外の日存在者については、それを特化することそのものが困難であり、したがって、その原因・理由と同様に問うことがそもそも意味を持たないのである。存在の原因・理由と同様に問うことができるのは、「反対のものども」に対してだけであり、その場合には、どちらに対する理由も、同一の学問・知識の対象となるだろう。結局、「非存在の理由」としては、それ自体の矛盾と他のものとの不整合以外にはありえない。一方は、その観念内部に矛盾が含まれている場合、「丸い四角」など。他方は、他の実在や実在の本性と相容れない場合、「ペガサス」など。しかし、スビノザの実体については、それ以外の存在があり得ないものであるから、他の実在やその本性と相容れないという可能性はない。すると残るところは、自己矛盾が含まれない、したがって存在不可能であるわけではないということしかない。存在可能であるからといって、存在しなければならないのだろうか。存在を妨げるものが、実体内部に存在しているとすれば、それはこの実体の内部に矛盾を抱え込むことになり「そうしたことを絶対に無限で最高完全者である実有について主張することは不条理である」。それやえ、この実体(神)の存在を妨げるものは、その他にも中にも存在しない。従って神は存在する、と言われる。いずれにせよ、この証明はそれだけで自立できるようになってはいない。既に自己原因的な存在者としての神の実在を前提しているからである。

 

以上の証明と比べて格段に興味深いのは第三の証明、およびそれに説明を付け加えている備考である。

存在し得ないことは無能力であり、これに反して存在し得ることは能力である(それ自体で明らかなように)。だからもしいま必然的に存在しているものが有限な実有だけであるとすれば、有限な実有は絶対的に無限な実有〔神〕よりも有能であることになろう。しかしそれは不条理である。

備考(略)存在し得ることが能力である以上は、あるものの本性により多くの実在性が帰するにしたがって、そのものはそれだけ多くの存在する力を自分自身有することになり、従って、絶対に無限な実有すなわち神は、存在する絶対に無限な能力を自分自身に有することになり、こうして神は絶対に存在する。

実在性=力能=完全性というスピノザによるこの等置は、哲学の古い伝統に訴えるだけでは、決して解明されない。昔から神の特性に帰属されてきたこれらについて、スピノザはまったく独自の思考内容を盛り込んでいるからである。『短論文』のアポステリオリな証明に見たところから、我々は実在性を実在の全体論的連関のことと考え、真理をこの全体の観念と考えることができる。実在性に程度があると見なされるのは、実在の全体そのもののことではなく、実在をいろんな角度から表現する観念について言われるものである。なぜなら諸観念は、それが他の諸観念といかなる連関をもっているかに応じて、様々の程度の不完全性・非十全性を有し、したがってまた様々の程度の実在性をもっていると言わざるを得ないからである。そして、神の観念が最高度の完全性を持つのは、このことから必然である。神の観念がそのような実在性を持つということは、とりもなおさず神が存在するということである。もっとも、厳密に言えば、「神の観念」といっても、我々がもつ神の観念と神自身がもつ神の観念とは別である。われわれには、神のいわば抽象的観念が与えられているだけで、その全体が与えられているわけではない。つまり、真理の全体という観念が与えられているだけで、真理の全体が与えられているわけではない。我々の思惟は、神的思惟の部分に過ぎないからである。しかし、全体論的合理性という観念をスピノザが『聖書』解釈を通して獲得した時、彼は、この方法論的概念が、同時に真理の観念の中核であり、すべての真理への展開の胚珠的観念であることに気付いたのである。『エチカ』の存在証明で新たに加わったのは、力能という観点の強調である。この力能と実在性を結ぶ要こそ、「自己原因」である。自己原因とは、自己循環活動性の中に存在する能動的活力を意味している。

2013年10月22日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(12)

第3章 自己原因としての神

1.『短論文』における「アポステリオリな証明」

『短論文』の中で、スピノザは神の存在証明をいくつか列挙しているが、彼特有の考察が見られるのは、アポステリオリな証明である。その骨格部分は、「人間が神の概念を有するなら、神は形相的に〔単に考えられているだけでなく、そのもの自体で〕存在せねばならぬ。しかるに、人間は神の観念を有する」から、というものである。

神の観念が存在するとは、我々の諸観念が何らかのリアリティを持つということ、言い換えれば、それが何かを表現していると言えるような意味を持つこと、すなわち我々の認識に、断片的・不完全ながらも、真と言えるような実質を与えることができるということなのである。もしすべてが空想なら、我々の認識に、真偽の区別も、完全・不完全の区別も意味がないだろうし、かくてそもそも認識自体がなくなってしまうだろう。そうすれば、ある観念と他の観念がどう関連するかも、互いに合わさって高次の観念や認識をもたらすこともないし、対応とか矛盾などとでんで言ったこともなく、すべてがバラバラに存在してだけということになる。かくてそれらは、なんら観念ではないということになるだろう。

 

2.『エチカ』における神の存在証明

スピノザは「神の存在証明」を定理11で論じている。

定理11 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体は、必然的に存在する。

スピノザは、これに対して三つの証明をあげている。

その第一の証明の大筋は以下のようなものである。紙が存在しないと考えられるなら、(公理7により)その本質は存在を含まない。ところで、定理7から、実態の本性には存在が属するから、実体の本性には存在が属するから、実体である神が存在しないのは不条理である。それゆえ、神は存在する。

ここで言及されている公理7は、「存在しないとかんがえられうる物の本質は、存在を含まない」とある。つまり、仮にも「存在しないとしたら」という可能性を想定できるものは、必然的存在ではないわけだから、「その本質は存在を含まない」つまり、その本質にとって存在することは偶然的である、ということである。第一の証明の核心は、神が実体であり、それゆえ、「実体の本性には存在が含まれる」という定義7により、神は存在せねばならないということである。第一の証明は、神が多くの属性を含む実体であるとされる以外は定理7と同じだから、「自己原因」の意味が解明されない間は、同様に霧の中にあるというほかない。

我々人間には、思惟と延長(観念と物質)という二種類リアリティが、理解できるものとして与えられている(それぞれ属性と呼ばれる)。それぞれに属するもの(諸観念と諸物体)は、それぞれ同一の属性に属するものども(様態と呼ばれる)と、互いに全体論的連関を持ち、それを抜きにしてはいかなる実在性もない。それぞれの属性は、それぞれに属する諸様態が因果関係を持ちうる。または因果関係の連鎖で結びつき得るということによって、それぞれ体系をなしていたが、異なる属性間にはいかなる因果関係も存在し得ない。それぞれの属性は、それぞれに自身いかなる限定もない一つの全体であり、それゆえ、たとえば、二つ以上の延長が存在するということはあり得ない。ただし、属性は実体の本質を構成するものであるが、その際複数の属性が一つの実体を構成することは否定されない。とくに神は、多くの属性から構成される実体である。

ところで、実体の唯一性は証明されているだろうか。属性が、それぞれ一つの全体であり、いかなる限定にも先んずるものであるということは、納得できる。しかし、かかる複数の属性が単一の実体に属することの可能性は、証明されてはいない。

スピノザは神は「絶対に無限なる実有」であり、「本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属する」のであるから、「あらゆる属性が着せられる実有」と言っています。ここでの「あらゆる属性を含む実体」という観念は、はたして合法的なのだろうか。我々人間にはアクセスできないような属性について思弁を逞しくしても、あまり意味はないだろう。しかし重要なことは、スピノザがあらゆる属性に共通な、全体論的統一を実体そのものに由来する本質と捉えていたこと、ならびにそれを実在性そのものの起源と考えていたことである。すなわち、属性における共通性は、それぞれが単一の実体に由来するからだということ。

常識的に考えれば、まず、延長の単一性が存在し、思惟はその表現であるから、その結果として、思惟にも単一性が付与されると考えられそうである。従って、この場合、両属性が唯一の実体に帰属するのは、基本的には延長(物質的世界)の優位のもとで理解される。これはいわば、唯物論的な理解である。第一部の公理6によれば、「真の観念はその対象と一致しなければならぬ」。ここで言う「対象」が、延長の属性に含まれる諸対象に限られるのか、それともすべての属性の諸様態に対してそれぞれの観念が存在するのか分らないが、我々に無縁なほかの属性のことは無視すれば、この箇所を唯物論的に読むことは可能だろう。つまり、観念は延長に一致せねばならないからこそ、両属性にそれぞれ並行的に自らを表現する実体を考えてもいいのである。これによれば、観念が一つの全体論的体系をなさねばならないのは、それが単一の物質的世界を忠実に反映せねばならないからである。しかし、延長という属性が一つの全体でなければならないのはなぜか。それは、空間関係が、部分においても同一なまま適用される「共通概念」だからである。たとえば、「隣」という概念を次々に適用して行ったとき(隣の隣の…)、突然どこかで、その隣が存在しない世界の果てとか、深淵に達するようなことはない。これに対して、二種類の態度があり得る。その第一の態度によれば、我々は、単にどこまでも反復可能な空間概念を所有しているにすぎず、その際に、世界の無限な広がりについて何の含意も持っている必要はない。とりあえず、その概念の有限な反復適用によって構成された任意の範囲についてのみ語るだけで、一切の用は足りるからである。これに反して、スピノザはそうは考えなかった。どこまでも反復適用可能ということの理解そのものに意味を与えるためには、あらかじめ全体が先取りされていなければならないと考えるのである。つまり、延長の果てに、もしどこかで延長ではないものが出現しうるとすれば、それは有限な延長ですらないのである。このことは、夢とか幻想の場合を考えてみると、分かりやすいかもしれない。我々は夢を見る時、意識はその夢の筋道を辿って行く。しかしそれを長々とたどった挙句、その夢の中にベルが鳴っているのを聞くような場面にいるのだが、実際に、それは目覚まし時計の音が夢の中に介入して意識されていたわけである。つまり、夢のストーリーは、その果てに、現実の音が夢の中に介入して意識されていたわけである。つまり、夢のストーリーは、その果てに、現実の出来事によって限界づけられているわけだ。こうして、その夢の全体が実在的でなかったことになる。それゆえ、スピノザにとっては、限定されぬ全体であることは実在的であることのアプリオリな制約なのである。このことは、我々の理性に対して非常に大きな要求を課すことだろう。つまり、我々は限定された場面で経験を積み、次第に思考を広め深めていくかのように考えがちであるが、それだけではいくら我々の知識が広がっても、未だ真に思考しているという保証もないのである。それだけでは、真の観念、実在性の真の意味を把握しているとは言えないからである。我々は何らかの意味で、先取りされた全体の観念(神の観念)なくしては、幻想と知覚の区別を持ち得ず、従って思考しているとも言えない。かくてスピノザにおいて、二つの属性の関係は錯綜していることになる。単純に、延長の優位が前提されているわけではないのである。延長の全体性のためには、思惟における実在性、真と偽の区別、それゆえ真理の全体としての神の観念、即ち思惟という属性が必要であるからである。しかしもちろん思惟が思惟だけで、全体性をもちうるわけでもない。思惟に対して真理性を要求すればこそ、その全体性が必要となり、思惟の全体性自体、実在の全体性においては無意味だろうからである。

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