無料ブログはココログ

スピノザ関係

2022年12月25日 (日)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(7)~第6章 意識は何をなしうるか

 スピノザは『神学・政治論』の執筆による4年のブランクの後、『エチカ』の執筆を再開する。おそらく、この間に見直しが行われ、三部構成から五部構成に生まれ変わった。
 第4部は「人間の隷従あるいは感情の力」というタイトルがつけられ、感情に支配される人間の隷従に対して、逆にその感情の力がどのような力をもつかが考察される。
 第4部にだけ序言が付されていて、これはスピノザ的世界観を要約していると著者はいう。そこから見ていこう。まずは完全と不完全の概念からはじまる。完全というのは完成しているという意味で、これはある人が意図した目的が達成されたということで、そこには意図された目的が知られているという前提がある。ということは、目的が分からない場合は、完全不完全はありえない。そこで、人間は目的が分からない場合の欠落を埋めようとして一般的観念を生みだした。家ならばこう、塔ならばこうと同種のものをまとめた概念だ。この概念を充たすかどうかで完全不完全を言うことができるようになる。このように無理してでも目的を見出そうとするのは、人間にそういう衝動がある。例えば家を建てるということに、居住するという目的を当然置いてしまう。これは一般的観念のように、そういうものとされてしまっているものだ。実際にはさまざまな原因の連鎖が家を建てる目的になっているのだが、その連鎖を辿り切れないので、一般的観念のような目的を置いてしまう。しかし、家はそれ自体で見られるかぎりでは、私自身の身体とは独立して在るので、家自体は完全でも不完全でもない。善悪も同じように見ることができる。それ自体を見れば善とか悪とか決めつけることはできないが、人は決めつけてしまいがちなのだ。そういう議論を経た上で、スピノザは善を「我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が覚知するもの」という。私が何かとうまく組み合わさり、それによって私の活動能力が増大するとき、その何かは私にとって善い、ということだ。誤解をおそれずに言うと、善と悪は活動能力の増減と言える。
 第4部には次のような定理がある。
 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。
 意識された限りの感情とは要するに意識のひとで、善と悪の認識は良心を指すので、この定理は良心と意識は同一であるという内容になる。これは、意識は善悪に中立な立場で両親を参照して行動を決めるということを否定し、意識は常に善悪いずれかの価値において世界を眺め行動を決定することになる。スピノザは、意識が超越的な審判者のような立場で善悪を判断し、そのための基準という一般的観念をつくる、ということをしない。実際の行動では、善と悪の間で揺れ動いて思い悩むのが一般的だ。良心とは変状の結果、つまり、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意欲し、欲望するのではなくて、反対にあるものへ努力し、意志し、衝動を感じ、欲望するがゆえにそりものを善と判断する」
 第5部は「知性の能力あるいは人間の自由について」、第4部で善悪というどういうものかが明らかになったので、オマケでないのかと必要性を疑う人もいる。
 意識の特徴は、原因について無知であり、何ごとをも目的において捉えようとするので、それゆえに善いか悪いかという価値で、つまり道徳的に受けとめる。身体の変状すなわち衝動を引き起こす無数の原因の連鎖を意識することは困難であるため、代わりに目的が置かれ、それが意識される。このような意識を第一種認識と位置付ける。第2部で展開された認識の三区分という認識論に基づく。第一種認識は意見とか表象とも呼ばれ、感覚から得られるものと記号から得られる知識の二面がある。前者は身体の変状の観念、つまり意識である。後者は言語による認識だ。このような第一種認識は虚偽の原因となる。これに対して第二種認識は共通概念と呼ばれる複数の物に適用可能な概念を基礎としている。これはある対象について妥当する法則だ。この認識の性格は真の認識であるという点だ。単にそれが真であるかだけではなく、真なるものと偽なるものとの区別自体を精神に教える。私が自分自身の身体からは独立して獲得する認識です。そして第三種認識は直観知で、神についての妥当な観念から個物の本質の妥当な観念に向かうものです。
 第三種認識としての意識は、身体の変状をただ受け取る静止した状態にあるのではなく、対象の間を経てめぐるようにして運動している。

2022年12月22日 (木)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(6)~第5章 契約の新しい概念

 スピノザは『エチカ』執筆の途中で、これを一時中断して『神学・政治論』を執筆し刊行する。これには事情があったようだが、ここでは『神学・政治論』を見ていく。ただ、『神学・政治論』の大胆な内容は、いわゆる行間を読むことで分かるような書き方になっていて、これは当時の社会情勢から慎重さを迫られていることもあるだろうが、読む人としてのスピノザが、自身の著作の著述にも反映している、言える。
『神学・政治論』の大部分は聖書の分析に充てられている。スピノザによれば、聖書が目指しているのは神への服従であり、実質的には隣人を愛することに尽きる。信仰とは神について何かを思うことであるが、単に何かを思うことではなく、それを知らないと神に従う気持ちが失われてしまうような内容を思うことである。信仰は服従という行いをもたらす限りで有効であり、行いから切り離されてしまえば意味がない。人が真に信仰を持っているかは、その人の行いからしか分からない。考えていることが他の信者たちとは違っていても、行いが良ければ信者なのだ。このような信仰の要点は次の7点だ。①神は存在しており、まともな生き方の手本となる。②神はただ一つである。③神はどこにも存在する。④神は至高の権利をもって万物を支配している。⑤神への崇拝や服従とは、もっぱら正義と隣人愛を内容としている。⑥神に従う人はみな救われる。⑦悔い改めるならば神はその人の罪を許す。
 このような聖書の読解は大胆といえるが、その始まりは迷信の批判であり、スピノザは聖書の読みに歴史の物語を見出す。スピノザを読んでいる対象の中に矛盾を見出すと、それを手がかりに整合的な解釈を提示してみせるのだが、ここでも預言や奇蹟も歴史物語の解釈というかたちで遂行される。それは単なる聖書の矛盾を批判するのではなく、潜在的な聖書の教えを導き出そうとする。例えば、創世記のアダムの林檎の話について、神が食べてはいけないと定めたということは、神が絶対であるならば、アダムが破ることは不可能なはずだ。そこでスピノザは、神は木の実を食べると災いが降りかかるとしただけだという。現代の「人を殺したものは罰せられる」という法律のようなことだという。信仰者各個人が、ひとつひとつの歴史物語を読む、というのがスピノザの聖書との向き合い方だ。各人が自分の理解力に合わせて自分なりの仕方で歴史物語を読むとき、その物語は読む人がそれぞれ自然に受け入れられる教えを与えられる。
 このような信仰の定義から、信仰は国家にとっては有益どころか欠かせないものであるとスピノザは言う。宗教については迷信と歴史物語と信仰の3項が核心だったのに対して、政治では法と権利と契約の3項が核心である。きまりには自然の必然性、つまり物事や人間の本質に基づく法則と合意による取決め、つまり人をある生活様式に縛りつけている約束事でこれに従うか否かは本人次第で、スピノザは前者を法、後者を権利と区別する。この両者について、スピノザの時代以降に明確に区分して認識されるようになった。それ以前は両者は一致していたので区分される必要がなかった。両者が区分されたことで明確に意識されるようになったのが自然権という考え方だ。この自然権の考え方からホッブスの社会契約という思想が生まれた。スピノザもこのことを否定しない。この契約は、これに従った方が利益が大きい、つまりより大きな善いことを得られるという。それが契約の履行ということになる。この契約の相手方である至高の権力は自然権を委託されたのだから、何をしてもよい。それが契約の履行になる。これは神への服従に重なる。ただし契約は、理性による利益計算で大きな善いことを得られないのであれば契約更新を拒否することができる。したがって、至高の権力が理不尽にことを行なうことについて規制することとなっている。

2022年12月21日 (水)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(5)~第4章 人間の本質としての意識

 『エチカ』第1部は総合的方法により神の観念を構築した。著者は、このまま宇宙や自然に著述をすすめれば物理学になっただろうと想像する。しかし、スピノザが目指したのは倫理学であった。スピノザの考える倫理学とは、人間精神の何たるか、その最高の幸福の何たるかを教えてくれるものだ。第2部から、そういう方向に傾いていく。その論述の立脚点となるのが次の定理であると、著者は指摘する。
観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
 これは、第1部の総合的方法により導き出された神(実体)の観念に基礎づけられた定理だ。この実体(神)は複数(無限に多くの)の属性を持っていて、そのそれぞれが完結したリアリティを構成している。一つの唯一的実体はそれが有する各々の属性において存在している。したがって、恣意の属性の観念の秩序と延長の属性の延長の秩序は同じだということになる。これが思考と存在の同一性であり、並行論と呼ばれる。
 第2部は「精神の本性および起源について」というタイトルからも分かるとおり精神を主に論じている。スピノザは精神を身体との関係で捉えていて3つの原理を定理として述べる。第1は、あらゆる存在には、人間に限らず、それに対応する観念がその存在の精神として存在しているということ。第2および第3は、人間精神は身体を対象とする観念であり、この観念の対象である身体に起こるすべてのことが精神によって知覚されるということだ。ところで、身体というのは本性を異にする多くの個体から組織されているという複雑なもので、同時に多くの動きをなし、また働きを受けることができる。このような複雑さは精神の複雑さの根拠になるとスピノザは見ている。人間精神とは身体の観念であるわけだが、このような複雑な身体を精神は最初からすべて知る(認識する)ことはできない。人間が身体の観念を有するのは、例えば腕が何かにぶつかれば刺激がある。指が動くだけで筋肉に刺激がある。そのような身体に差異(これをスピノザは変状という)が生じるという経験の積み重ねの中で次第に身体を認識していく。つまり、精神が身体について認識するのは身体に起こることだけである。さらに、精神は身体の観念であるということは、認識から進んで、身体の変状を認識した観念についての観念であるので、認識とはべつだという。観念の対象である身体に起こるすべてのことが精神によって知覚されると精神は身体をすべて認識しないということについて、身体の変状とは身体が何らかの刺激を受けて、一定の形態や性質を帯びることだが、その際、身体がどのように変状するかは、身体の特徴と与えられた刺激の特徴によって変わってくる。精神が、身体のみならず外部からの刺激の特徴をすべて認識はできない。精神に与えられるのは変状という結果だけだからだ。そのことからスピノザは自由意志の否定というテーゼを導き出す。精神は変状という結果のみを認識できるが原因は認識しきれない。それで、どうして自由に意志により変状を起こすことができるのか、というのだ。意志という変状の後付けの説明のようなものだということになる。このように意志を認識するのが意識というものだとスピノザは言う。だから意識には転倒、ある意味では虚偽が内包されている。
 意識については第3部で本格的に論じられるので、第3部を見ていこう。第3部は「感情の起源および本性について」とタイトルされていて、倫理という言葉が示している人間に生き方について、望ましいあり方の一端が示される。
 感情とは身体の変状であり、また同時にその観念である。例えば怒りという感情は精神のなかの怒りの観念としても、身体上の反応としても考えることができるが、それらは同一物が異なる秩序において、異なる質として表現される。一定の状態にある身体に何らかの刺激が与えられる。それは太陽光のような外的で物理的なものでもよいし、精神の中で描かれるある人物の表象でもよいが、その刺激が身体に変化をもたらす。つまり、身体を変状させる。ところで、人間の身体は一人一人異なる。同じ人間でも、時と場合により刺激の受け方は異なる。それについて、スピノザは各々の人間の身体には固有の力が作用していて、その力と刺激の組み合わせが身体に次々に変状をもたらし、感情が変化すると表現する。この力をコナトゥスと呼ぶ。スピノザは、このコナトゥスが本質であるという。これは従来の形相のような本質の概念とは違う独自のものだ。そうなると、力としての本質の概念はそれぞれの個体がもつ特性への注目を求める。コナトゥスは刺激に応じて変状をもたらすのだから、個体の特性は変状する力の違いということになる。
 さらに、人間のコナトゥスには、もう一つ考慮しなければならないことがある。それは人間精神が自己のコナトゥスを意識しているという点である。コナトゥスは精神のみに関係する時は意志と呼ばれ、精神と身体に関係する時には衝動と呼ばれる。この衝動が意識されている場合は、つまり意識を伴った衝動は欲望と呼ばれる。欲望が人間の本質として位置づけられる。人間とは自らを突き動かす力を意識しているものなのだ。
 これまでの準備の上で、倫理、つまり、人間の生が目指すべき方向が見え始める。それが能動性ということだ。能動とは、自らがある出来事あるいは行為の妥当な原因であるときに能動であるという。妥当な原因とは、我々自らの本性により理解されうる。つまり、自らが自らの行為の原因になっている。これは、総合的方法についての論述に重なるではないか。

2022年12月20日 (火)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(4)~第3章 総合的方法の完成

 これまで、スピノザはデカルトの分析的方法に対して総合的方法を提示し、前章では、そのための準備をみてきた、そして『エチカ』の神の観念を扱った冒頭部分で総合的方法の基礎を完成させた。少々煩雑になるが、著者はそのプロセスを見ていく。
 『エチカ』の冒頭は8つの定義が提示されるが、これは『知性改造論』が定式化した発生的定義とは違って見える。これらは、神が到達すべきものとして置かれていて、発生的定義は然るべき手順を踏んで構築されなければならない到達点であるが、この定義は、そのような発生的定義の獲得を目指す出発点にあたる。この定義に用いた論述のルールを、続く公理が示したのち、定理が提示されて、論証に入る。ただし、神についての論証は定理11から始まる。この場合の証明とは、定義あるは観念から対象の諸々の特質を導き出す作業で、対象が然るべき仕方で定義されると、その定義から対象のすべての特質が導き出されるという総合的方法が具体的に実行される。しかし、それ以前の定理10までの、定理11から始まる論証の準備としてあるもので、定理11以降とはあり方を異にする。つまり、帰結すなわち特性から遡るように組織されていて、遡行的性格があり、神を出発点とする証明とは異なる手続きに基づいている。これらの定理は、①名目的な定義を用いた一種の背理法を用い、②実体と属性を巡る仮定を扱いながら、③帰結より遡る遡行的な仕方で神すなわち実体の発生的な定義へと辿り着く、その後の定理11以降の証明が神からの無限に多くの事物や観念の発生を辿るものだとすれば、これらの定理はその発生の根源に向かって遡行しながら、その成り立ちを分析するものとなっている。と著者は指摘する。これは、帰結を論理的に分析することで原理に辿り着こうとする点で、デカルトの分析的手法に似ている。こちらは原因から結果へと進む総合的方法の出発点を獲得するための手続きであり、つまり、総合的手法は分析的手法を準備の過程として含み込んでしまっている、と言うことができる。著者は、これがスピノザによるデカルトの脱構築だという。そして、総合的手法の準備は、ここで整った。
 このようにして、論述は神の観念を提示し、その存在を肯定する定理11へと至る。この定理は定理1~8でなされた実体の構成要素としての実体的属性の諸規定と定理9~10のそれらを統合する原理としての複数の属性を持つ唯一の実体の規定、この両者の総合として現われる。ここから神の存在構成を明確にする仕方で、その存在の証明が始まる。
 そして、神の観念からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じる。このように生じたものこそが、実際に自然を構成している諸々の個別なのだ。総合的方法の出発点として得られた神の観念から、神は無限である。無限ということは外部がない。これに対して人間などの神以外の存在者には外部がある。有限な存在者は外部から影響を受ける。人間は空間的には外部環境から影響を受けているし、時間的には生まれたのは生まれる前があったからである。神には、そのようなことはありえず、自身以外から影響を受けることはない。だから、神が存在する法則は不変である。すべて在るものは神のうちにある。したがって、在る者の法則、例えば自然科学の法則は不変であり続ける。

2022年12月15日 (木)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(3)~第2章 準備の問題

 前章でスピノザは、デカルトが分析的方法を重視したのに対して、スピノザは総合的方法の゜実現を目指していることを明らかにした。ただし、スピノザは総合的方法には準備が必要であるという。そこで、準備という観点から『知性改善論』と『短論文』を読んでいく。
 著者は『知性改善論』は何らかの本論を準備する方法論として書かれ、そこには準備をめぐるスピノザの考えを読み取ることができると指摘する。そこで論じられている準備とは、総合的方法の出発点となる原因の認識にたどり着いて、そこからうまく論述を進めていくための支度だ。この準備を行うためには、準備を間違えないものとするためのもう一つの別の準備必要になる。つまり、あることをうまく準備するためには、準備をうまく行うための準備が必要になるということだ。すると、空に、そのための準備が必要となる。というように準備のだめの準備が無限に繰り返されるという無限遡行が発生する。これでは、いつまでたっても準備が完了しない。これは方法の探究にも同じことが言えるのだが。
 そして、スピノザは方法に置き換えて、無限遡行をいかに回避するかを検討していく。そのために3つの形象に言及する。ひとつめは「道具」であり、道具を用いるには、道具を作る道具が必要という無限遡行に陥るのだが、スピノザは単に無駄だといって深く言及しない。二つ目は「標識」である。確実な知を得るためには、それに照らせば知が確実であることを確認できる標識が必要で、デカルトなら明晰判明という基準を提示した。その場合、標識が真の標識であることを確認するための標識が必要になるという無限遡行に陥る。それに対して、スピノザは「知るためには知っていることを知る必要はない」ということを言う。確かな知を求めるなかで、それに照らせば確かであると確認できる標識を求めていたとしたら、実のところ、確実に知るために自分の知っていることを知ろうとしていた。つまり、既に得ている知識を標識に照らして確実であることを確かめようとしていた。スピノザの「知るためには知っていることを知る必要はない」には知ることにとっての標識はあり得ないことを示している。それは、認識の外側に真理の基準を設けることはできないということである。認識が真であるということは、認識することそのものの内部で、認識すると同時に確かめられるべきことなのである。すなわち、真の観念の保証とは真の観念を持つことそのものである。それが意味していることは、真理であること確かであることを人が知るのは、ただ、その人が自ら、真の認識、確実な観念を得た時だけで、それを他者に自分は真実を知っていることを証明することはできない。そうなると、標識は意味をなさないので無限遡行は発生しない。三つめは「道」だ。観念が適切な順序で獲得されていく道である。これも正しい方法を獲得するための方法という無限遡行に陥ってしまう。スピノザは、然るべき出発点から、然るべき順序で観念が導き出されて行くならば観念を獲得していく行為それ自体が、観念の獲得を指導し、制御していくという。真である保証は観念の獲得そのものに内在しているので、あらかじめとられた方法が正しいからではない。道は隔年の獲得の前にあらかじめ存在するものではなく、観念を導き出す行為と一体のものなのだという。それは、こういうイメージだ。つまり、それ自体真である観念から別の諸々の観念が導き出され、それらの真であることが次々に理解されて行く、そのような連鎖が「道」であるということだ。
このような方法は、単に観念を獲得するためのものであるだけでなく、それを真であると理解する方法である。スピノザは、それを反省的認識と呼ぶ。だから、物事を理解することは、結果として自己の能力の認識をもたらすことになる。そうなると、問題はどうすれば、この方法が実現するかだ。問題は二つあり、一つ目は出発点である真の観念はどのように得られるか。このように、この章の問題に戻る。すなわち、総合的方法が出発点とすべき原理である。そこで著者が持ち出すのがこの原理に向かうための出発点としての定義の問題である。定義は然るべき仕方で形成されたとき、その対象の本質そのものを描き出す観念となる。その場合定義は事物の内的本質を明らかにするものである。例えば、円の定義は中心から円周に引かれた距離が等しい図形というのではなく、一方の端が固定されて他方の橋が運動する線分によって描かれた図形ということになる。事物の内的本質を明らかにする定義とは、線分の運動という円を描くという円という図形の発生そのものを描き出す定義なのだ。このような定義は「道」を含んだものと言える。 
 ここに大きな難点が見つかる。このような方法とか真理の獲得は一般的なものでなく、各個人が自らの経験として獲得するものだ。それを一般化しようとしても無理がある。そのへんところは『エチカ』を待たねばならない。
次に著者は『短論文』を取り上げる。そこで著者は神の証明について、デカルトとスピノザとの違いを分析する。そこから認識という行為は外部の刺激により発動される受動的なものだということを指摘する。

2022年12月11日 (日)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」(2)~第1章 読む人としての哲学者

 著者はスピノザを徹底して読む人であった、と最初に定義する。彼は、自らが受け取った知識を批判的に検討し、そこに矛盾を見出すと、その矛盾を手がかりにして整合的な解釈や考え方を作り出すことができた。彼は幼いころから青書についての徹底した教育を受けたが、その教えに対して距離を取り、批判的に検討し、その中にある矛盾を手がかりにして、整合的な解釈や自らの考え方を組み立てたのだった。そして、聖書を別にすれば、彼が最も力を注いで呼んだのはデカルトの哲学だった。それゆえ、著者はスピノザ哲学の出発点を『デカルトの哲学原理』に示されたデカルト読解に求める。
 デカルトといえば「コギト命題」、つまり、「私は考える、故に私は存在する」という第一原理である。スピノザは、この第一原理を取り上げ、根本的な矛盾を指摘する。「コギト命題」は第一原理であるから、この前提となる命題はありえない。しかし、「私は考える、故に私は存在する」という文章を見ると、結論を導くための「故に」という接続詞によって二つの節「私は考える」と「私は存在する」がつながれている。これは三段論法のかたちで、別の命題が隠されている。これはどういうことか、三段論法とは、「すべての人は死ぬ」(大前提)、「ソクラテスは人間である」(小前提)、「故にソクラテスは死ぬ」(結論)という形をとる。「コギトの命題」の二つの節は、三段論法の小前提と結論そのものだ。したがって、大前提「考えるためには存在しなければならない」とか「考える者は存在している」があるはずで、デカルトはそれを隠していると、スピノザは指摘する。しかし、スピノザは、このことでデカルトを批判し、拒絶しているのではなく解説している。つまり、整合的にデカルトを解釈しようとしている。そこで、スピノザは「コギト命題」を大胆に書き換える。「故に」という接続詞があるから三段論法になってしまうからだとして、「故に」を取り去り、「私は考えつつ存在する」と書き換えたのだった。
 ところで、デカルトの方法的懐疑について、デカルトは明証性を追求するために有効な手段として方法的懐疑を選択したのではなく、好むと好まざるとにかかわらず懐疑の泥沼に足を踏み入れてしまい、そこから抜け出そうして「コギト命題」に出会ったのがほんとうのところだという。だから、第一原理を発見した後も、デカルトは懐疑に囚われて論証を脱線させてしまいがちになる。スピノザのデカルト解釈は、そのたびに明証的な論証に戻すための解釈を施してゆくのだった。その際、スピノザは自分の思想にしたがってデカルトを書き換えようとしたのではなく、あくまでもデカルト哲学のなかの矛盾を論理的に指摘したのだ。
 スピノザは「コギト命題」を書き換えたことによって、三段論法の命題から確かな事実に変わった。それにしたがって、第一原理からの論証を進める方法も、デカルトは分析的方法を重視したが、スピノザは総合的手法をとるべきだと考えたのだった。分析的手法は結果を分析して原因に至るという方法で、デカルトの哲学的方法は、原因についての認識をする以前に、まず結果についての認識を有している。例えば、私は、私が存在していることの原因を知るよりも前に、自分が考えるものとして存在していることを知る。原因を明晰判明に認識するためには、まず、自分がその中にいる結果を明晰判明に認識しなければならないというのである。これは、スピノザから見れば、それでは、私が存在しているという第一原理から公理がどのように発生するか、それは哲学体系がどのように発生するかが明らかにされないことになる。そういう、結果の分析からでは原因の真の認識は得られないのであって、それよりも、原因を認識し、そこから結果へと進む総合的認識こそが哲学的方法であると考える。このようにして、スピノザはデカルトを読みながら、哲学体の向かうべき方向とそれが従うべき方向を見定めていった、と著者は指摘する。

2022年12月 9日 (金)

國分功一郎「スピノザ─読む人の肖像」

11112_20221209214801  西洋哲学史のなかで流派とか学統といった山脈から離れた、独立峰のような哲学者が何人かいる。20世紀ではウィトゲンシュタインがそうだろうし、スピノザも、その一人だと思う。伝記をみても師匠の姿は見えず、学校で学んだわけでもない。独学だったのではないか。それだけでなく、スピノザの哲学は異例性としか呼びようのない不思議な独自性を備えている。
 この著作のサブタイトルにあるように、著者はスピノザを読む人として提示する。彼は読み取ったものを批判的に検討し、そこに矛盾を見出すや、その矛盾を手がかりにして整合的な解釈や自らの考え方を組み立てようとした。彼が最も力を注いで読んだのはデカルトだったが、その読み込みのなかで不徹底や矛盾を見出し、そこから哲学体系の潜在的なもの、明るみに出なかった構造を取り出すようにして、自らの哲学を構築した。
 著者は、スピノザの著作をとあげて、彼がデカルトの矛盾をどのように見いだし、それを整合的にしていくことでデカルトの命題を書き換えていき、そこから彼自身の哲学を組み立てていったかを具体的に示していく。それを追いかけていくと、そんなことに気づいてしまうのか!という驚きを禁じ得ない。
 これは、スピノザが自身の哲学を表わそうとするときに、従来の概念、例えば、精神と身体とか意識とか善と悪とか、が独自の意味内容となって、読む人に徹底的に言葉の意味を読み込むことを通して、読む人のものの見方を転換させようとさせる。新書で400ページというボリュームで、伝記などの人物紹介は最小限にして、ほとんどがテキスト読解に費やされ、具体的内容は盛りだくさんなのだが、そこで表わされた内容よりも、スピノザの哲学のポテンシャルの深さというのが迫ってくるように分かる。ただ、スピノザについて全く知らない人が、いきなり、この著作を読むのは少しキツイかもしれない。

 

2013年11月 1日 (金)

田島正樹「スピノザという暗号」(21)

・定理13 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。

我々が身体を刺戟されるのを感じることができるのはいかにしてか?またいかなる意味でか?それは、身体の刺激、すなわち変状が、観念を表現する、すなわち意味をもつということであり、それが精神という身体の自己知によって与えられたものの中に含まれるものということである。しかるに、「変状が意味を持つ」ということと、それが精神の部分であるということの関係が問題である。身体の変状が意味を持つのは、それが「精神の中にある」からである。身体の変状が意味を持つ(観念を表現する)から、それが精神の中に含まれるのではない。しかも、変状の意味が精神の部分であることは、精神の単一の全体と言う観念が、身体の十全な自己知として与えられることを前提にしているとすれば、精神の単一性が、身体のコナトスのなかの自己を前提としていることになる。

ここで定理9の系に光を当てることができる。(延長において)個物の中に起こることの観念は、個物の観念の中にあるとされる。ここで「個物の観念」と言われているものは、たんに個物の外からそれを観察して得られる表象ではない。個物自身が示す意味でなければならない。この証明では暗黙の前提とされていた個物の本性は、個物のコナトスの中に統合されている。なぜならコナトスは、自己の存在のみならず本性を維持しなければならないからである。それが個物をその個物たらしめ、個物を個物として維持するからこそ、その個物の変状を個物の変状たらしめるのであり、個物の変状を当の個物にとっての意味たらしめるのである。スピノザにおいて、一般に神の思惟として存在する観念と、我々精神にとっての認識とを媒介する要の位置にあるものこそ、コナトスに他ならない。なぜなら、それは個物の現実的本質として、神にとって存在すると同時に、我々人間にとって、直接知られたものだからである。それは、自己原因という神の本質を、有限な我々なりのやり方で模倣したものと言ってよいだろう。自己を維持する関心にとって、快と苦が最初に重要性を持つのは当然だろう。身体のいかなる変状も、さしあたりそれが快と苦とのいかなる関連を持つかに応じて、意味を持つだろう。欲求は、快への欲求、苦から逃れる欲求として意味を持ち、それぞれの行動力が、この欲求の実現との関係で次第に分節化され、洗練され、習得されるだろう。そして、行動能力と相関的に、知覚能力が空間的意味を獲得していくだろう。すなわち、快への「接近」とか、苦からの「退避」の知覚として、同時に、対象は、快苦の「原因」として、「性質」を付与されることになるだろう。「おいしいもの」「おそろしいもの」などとして。これら諸性質は、われわれの身体的関心の言わば投影であるから、これらの知覚は「対象の本性より、身体の本性をより多く示すもの」と言える。いまや定理12の真意が理解される。

・定理12 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいは、そのものについて、精神の中に必然的に観念があるであろう。言い換えれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるなら、それによって知覚されないような<あるいは、それについてある観念が精神の中にないような>いかなることも、起こりえないであろう。

ここで「人間精神を構成する観念の対象」とは、思考される内容のことではなく、観念を表現する対象のこと、すなわち身体の中で意味を表現するシニフィアンのことである。これらシニフィアンは、統合されて一つテクストを、われわれの身体を舞台に編んでいる、と言えるだろう。しかし、身体の全ての部分がこのテクストに関与しているわけではない。「その中に起こる全てのことが、人間精神によって知覚されねばならない」とは、精神が精神として成立するさいに、これら全てのシニフィアンが考慮されねばならないということである。このようなシニフィアンは、我々の思惟(観念)を表現する身体変状の全体のことであるから、具体的にはわれわれの神経組織を舞台に繰り広げられる。興奮パタンのことを考えることができる。しかし、何らかの意味を帯びたシニフィアンとしての役割を果たす限り、我々の普通の行動や身振りなども、排除する理由はないだろう。そればかりか、身体を取り巻く環境の中にも、我々の行動の一部として、意味表現の部分でもあるものもあろう。例えば、編み物をする人にとっての編み棒とか、このような全てがシニフィアンとして織りなす意味が、我々の精神を構成すると言ってもいいだろう。従って、そこに織り込まれている環境世界の一部も、我々の身体やその行動を通じて、精神の中に浸透しているのである。

かくて、定理13の系「人間精神は、我々がそれを感ずるとおりに存在する」ということの意味も明らかになる。我々の身体とは、客観的にその同一性の規準が与えられているようなものではなく、我々の活動の能動性に応じて与えられるものである。我々は、自らの思惟の総体として精神を持つが、それは身体の変状の総体によって表現されるものであった。我々が自らの身体を知るのは、このようなシニフィアンとしての身体の変状の総体としてなのである。我々自身の身体の同一性を与えるのは、我々自身の能動性・活動性それ自身であり、それを自ら感じるままに、我々は存在するのである。従って我々が完全に受動的な場合、我々は存在しないと言ってもいい。完全に受動的であれば、何も感じることはあり得ないからである。

2013年10月30日 (水)

田島正樹「スピノザという暗号」(20)

スピノザは公理3において「愛、欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され、望まれるなどするものの観念が存在しなくては存在しない。これに反して、観念は、他の思惟の様態が存在しなくても存在することができる」と言っている。実際には、快・苦・欲望などの諸感情こそ、生物体としての我々においていやしくも精神的なもの(思惟の属性に属す様態)であるためには、それらは少なくとも何らかの観念(事物の表現)を含んでいなければならない。これが「本性上」ということの意味である。つまり公理3は、感情が生体内部のたんなる機械的運動でなく、なんらかの意味で思惟の様態に属するものと言えるための、アプリオリな制約を述べるものなのである。

スピノザによれば、個々の内容(観念)を我々が信じるか否かは、その内容自身の持つ説得力によるのであり、とりわけそれが他の様々の我々の信念と取り結んでいる(または取り結びあう)関係によるのである。これまでに知られた、またはそう信じられていることとうまくかみ合い、互いに補い合いながら、さらに堅固に支え合うようなものであれば、我々は進んで受け入れようとするだろう。そうでなければ、否定するか、更なる知識が得られるまで判断を保留するわけである。それゆえ、思考と思考内容(観念)を切り離すことは出来ず、思考とは観念そのもののことだと見なされなければならないのである。ある観念の説得力(それを信じさせる力)は、観念そのものにあり、我々の自由になるものではない。以上のことを考え合わせれば、感情を交えずにただ意味内容を理解するだけで肯定も否定もしない中性的な観想的思惟の能力などをスピノザが認めていたとは考えにくい。スピノザは、痛みのような感覚や、何を標示するとも思えない漠然たる感情のようなものでさえ、最低限、おそらくは非言語的に何らかを表示しているのであり、そうでなければ、それらは思惟の属性に属し得ないのである。

そもそも認識が可能であるとしたら、それは、あらゆる真理を統合した全体(神的知性)の部分としてだけ存在するだろう。なぜなら、およそ認識たる限り、他のすべての認識と互いに支え合い調和するものでなければならず、かくて、その全体は、世界の隅々の真理を、あるがままに表現するものであるはずだからである。ところで、人間精神も認識である。いかにして、神的知性の部分でありうるか?明らかに、何らシニフィアン(意味表現)として、と言うしかない。人間の本性には、言語その他の手段を使って、思惟すること、すなわち神的全体を不完全にかつ断片的に表現することが、属するのである。こうして表現された観念こそ、人間精神そのものなのである。しかし、それは誰にとって表現されるのだろうか?おそらく無限な神的知性にとってなら、どんな微小な部分にでも、全宇宙の表現をくまなく読み取ることができるのだろう。万有のどの部分にも、万有の痕跡が、いかに微細とは言え、残されているだろうからである。ライプニッツ的に言えば、どんなものでもそれ独自の仕方で全宇宙を表現しているだろう。しかし、人間精神が神的真理の部分であるのは、こうした一般的な意味ではない。石ころも神にとっては真理の表現であるかもしれないが、我々にとってそうではない。身体の変状によって、部分的に表現される神的真理、それはまさに人間精神が思惟する諸観念を表現するのである。いかにして人間精神の諸観念は、人間の思惟するものとなりうるか?おそらく神なら、シニフィアンに頼ることなく認識するかもしれない。あるいは、彼にとっては全存在が、宇宙というテクストを構成するシニフィアンだろう。しかし、我々にとって諸観念は、有限の意味表現によって表現された意味として初めて成立する諸観念なのである。シニフィアンがシニフィアンとして成立するのは、その全体がシニフィアンの全体に対応付けられると見られる場合である。神的知性と神的実在の対応(平行論)が成立しているだけでは十分ではない。人間精神においても、これと類比的な関係が成立しているべきだろう。神的知性が全宇宙の真理を統合しているように、人間精神も自己の観念を何らかの意味で統合していなければならない。これには、人間精神の内だけ見ると支離滅裂に見えたものが、神的知性の中では真理の一部になるということがあるかもしれず、その場合には神的知性の部分でありながら、まったく思惟の属性を含まないことも可能だろうからである。合理的なものの部分が、必ず合理的であるという保証はないからである。これでは、人間精神は不完全にでも思惟する、部分的にでも世界を表現する、とさえ言えなくなろう。人間的精神は、いかに部分的認識であれ認識と言えるためには、それ自身において、すでに神的知性が世界を表現する関係と類比的な関係が、成立していなくてはならない。これは、人間精神の単一性が、すでに一つの全体(シニフィアンの全体)として、与えられていなければならないということである。

しかしこのことは、決してスピノザが考えていただろうようには自明のことではあるまい。神的知性においては、一切の事実に対応して全認識の秩序が存在しているとして、その部分である人間精神とその対象(身体)との間に、そっくりこのような平行関係が保存されている必然性があるだろうか?また人間精神を構成する諸観念が、人間自身にとって一つの全体をなすことが、いかにして知られるのだろうか?総じて、人間精神の自己知は、いかにして可能なのだろうか?

もしわれわれが、非十全な観念しか持たなかったとしたら、我々はどうしてそれを非十全だと知り得るだろうか?我々は、自分もつ観念が、自分の本質と外的事物の本質の両方から説明されなければならないことを、自分の非十全な観念だけからは知り得ない。その場合、おそらく精神は自己の本性について知らないことになろうから、何が自己の本性だけから説明される観念なのかも分らないわけである。それゆえ、最小限度の自己知は、それ自身自己の本性だけに基づいて展開し、かつ知られる、十全な観念でなければならない。その自己知に含まれるのが、精神の単一性であり、言い換えれば、いかなる観念の多様も、自己の変状として全体としての自己のうちに含まれる、という認識なのである。この自己知は、十全な認識とはいえ、もちろんはじめから明確な理論的認識であるはずはない。それは、とりあえずはコナトスとして、生きた活動のなかにおのずから示されている意味として在るだろう。自己を維持する活動と努力である以上、コナトスは「自己」を単一のものとして、しかもある一定の維持すべき本質において在るものとして、認識せざるを得ないからである。この「認識」は、その段階では命題知ではないものの、ある種の行動能力のように一種の知であることに関わりはない。スピノザは、程度の差こそあれ、全ての個体にコナトスを認める限り、「全ての個体は程度の差こそあれ、精神を有している」とされる。肝心なことは、この自己知こそが、ほかの諸変状を精神の変状、すなわち思惟の諸様態にするうえで、不可欠の前提であるということである。このことによってはじめて、もろもろの変状が精神的意味を帯びることができるのである。ということは、それらの間に体系的意味連関を読み取ることが可能になるということである。精神の変状は、はじめから明確な意味を持った観念として、心の傷に写しだされるのではない。それはさしあたり意味を欠いた身体の変状にすぎないものとして出現する。しかるに、それらがコナトスの活動の中に取り入れられ、いわば配列されることによって、一種の暗号(シニフィアン)と見なされるのである。観念とは、この暗号の解読された意味にほかならない。しかし重要なことは、この暗号解読の前提として、それらがまとめられるテクストの全体が想定されていなければならないということである。はじめから理解される意味のつまった観念の体系が与えられるわけではない。しかし一つ一つのシニフィアンがそこにおいてシニフィアンとなるなんらの全体が、解読の前提として先取りされていなければならない。精神の諸様態が精神のそれとして捉えられるのは、精神が一つ先取りされた全体として与えられる自己知をもとにしている。そして、この自己知は身体のコナトスとして与えられるから、ここから精神が身体の観念である定理13が導かれる。

2013年10月29日 (火)

田島正樹「スピノザという暗号」(19)

スピノザは『エチカ』の中で人間精神について定理11、12、13で言及している。これら三つの定理は「我々の精神が、身体の観念である」ことを主張している。そこでの「人間精神を構成する観念の対象」の意味が問題である。その解明がなければ、「その身体の中には、精神によって知覚されないような、いかなることも起こり得ない」と言う意味も明らかにならないだろう。なぜなら、我々の身体の中には、我々自身の精神によって知覚されないようなことが、多く起こっているのは自明だと思われるからである。

実際、人間精神が身体という対象に関して認識することと言えば、漠然とした感情(快・苦・欲望など)にすぎない。確かにそれらは、われわれの最初の認識というべきものを構成し、それゆえ、最初の精神を構成するだろう。「身体の観念」とは、少なくともはじめはこのような感情である。それは決して身体を志向的対象とする知覚などではない。精神と身体の関係は、そのような超越的・志向的関係ではない。精神は身体を対象として認識する能力ではなく、むしろ、身体それ自身の感情的・気分的現象(立ち現われ)であり、意味作用なのである。つまり、「精神は身体の観念」とは、「精神が身体の観念を持つ」ということではなく、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体の意味表現によって表現された観念(意味)こそが精神を構成するということである。言い換えれば、身体と精神の関係は、シニフィエとシニフィアンの関係である。「身体の観念」とは、「身体が表現する観念」ということであり、「身体を表現する観念」という意味ではない。「人間精神を構成する観念の対象」とは、「精神を構成する観念を表現する個体」という意味であり、「観念によって表現される対象(志向的内容)」という意味ではない。精神を独立した認識の主体として、身体を対象として知覚するという意味に受け取られてはならない。スピノザにおいて、精神はそのような独立の主体ではなく、少なくとも身体からは分離できるような主体ではない。

スビノザは定理19で、精神は身体の認識を、その変状の観念を通してのみ、いわば間接的に得るに過ぎないと言う。身体は環境世界の因果性によって成立しており、環境世界からの影響を絶えず受けながら、同一個体としての自己を維持し続けていること、従って、身体の十全な認識のためには、ただ身体だけを孤立的に認識するのでは不十分で、他の多くの個物(環境世界)からの諸作用をも、(存在及び存続の原因の連鎖として)認識していなければならない。

人間精神の十全な観念または認識は、人間精神自身には持ち得ないとされる。なぜなら、人間精神の十全な観念を有するためには、(神がそうするように)人間を取り巻くものについて「きわめて多くの他の観念」を必要とするのに、我々はそれを持っているわけではないからである。我々の精神は、神的知性のように全ての事柄の原因を認識しているわけではなく、神的知性のごく一部を、いわば虫食い算のような不完全な形で、あるいは落丁の多い本のような形で、認識しているにすぎない。精神は、それらの原因の十全な認識を持たない以上、人間身体をも十全に認識していないのである。しかし、我々は「身体の変状の観念」を知覚する限り、これからいわば間接的に、身体についての非十全的認識を獲得していくことはできる。ここで「身体の変状の観念」とは、もちろん「身体の変状が表現する観念」のことであり、「身体の変状を対象とする認識」のことではない。実際、たとえば神経網組織の微細にわたる生理学的認識など、我々は殆ど持ってはいない。しかし、身体の変状が表現する意味は、現実に我々の思惟そのものを構成しており、我々は、もちろん十分な習得のあとにではあるが、それを認識していると言っていい。かくて、変状を表現する意味を我々が知る(通暁する)ことにより、結果的に身体自身についても、非十全的ながら、ある種の認識をもつことになる。その認識は、我々が知性=運動能力を高めることにつれて、ますます我々自身の身体について、より深い認識をもたらすものとなるだろう。そしてこのような認識の深化は、身体の能力の拡大と結びつくだろう。

より以前の記事一覧