無料ブログはココログ

西行の和歌

2021年7月27日 (火)

西行の歌を読む(11)~春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

   夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに
  春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり
 この歌について、小林秀雄は“私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きてゐるわけでせう。まるで虚空から花が振って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみは生命に溢れてゐます。この歌を美しいと感ずる限り、私達はめいめいの美的経験のうちに、空即是色の教へを感得してゐるわけではないか。(小林秀雄「私の人生観」)”と書いている。この小林の言葉をもとに山本幸一は、落花の風景に魅せられた耽美の体験が、覚醒した者の胸に鼓動している。そういうことを受け入れ、のびのびと詠嘆する。そういう高い境地の歌だと言います。その風景は情緒をふるえさせるとともに、知恵を目覚めされる。そして再び心情のさやぐ風景へと高められていく。詩心と思念との融合によって達成されたひとつの境地だと言っています。しかし、このような表現の境地は、なにも西行の独創というのではなく、春─花─散る─夢というような符号、連想の系統が和歌表現の伝統として存在していたと言います。
 例えば『万葉集』の山部赤人の歌
  春の野にすみれ採みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜ねにける
 そして、『古今集』では紀貫之の歌
  春の野にわかなつまむとこしものを ちりかふ花にみちはまどひぬ
  やどりして春の山べにねたる夜は 夢のうちにも花ぞちりける
 『古今集』では上記の二首がひとつづきに並んで収められていて、制作年代も詠まれた場所も別々のこの二首が時間的に場面が進行するような情趣の流れが感じられるように構成されています。『万葉集』の山部赤人の歌の「すみれ」は、紀貫之の歌の「わかな」に引き継がれ、赤人の歌では生活の一部であったすみれ摘みは、紀貫之の歌では、平安時代の貴族社会では行事として形式化つれ、しかも季節の循環を区切る行事の世界から埒外に脱け出た個人の情感が「ちりかふ花にみちはまどひぬ」という表現に表われています。さらに、「夢のうちにも」という甘美な情趣に身も心もつつまれた表現に至るのです。
 西行の独自性とは、この伝統に思念の裏付けを加えたことだと言います。「さめても胸のさわぐなりけり」という表現は、夢の中にまどろんでいることから脱け出して、目覚めているわけです。そこでは趣向ということに留まっていないというわけです。
 ここで、この歌の詞書を見てみましょう。「夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」というのは、この歌は夢中落花のテーマで、人々が集まったところで詠まれたというもので、実際に夢を見ていたというのではなく、そういうことを観念として詠んでいるという歌です。また、詞書の「清和院の斎院」というのは待賢門院の皇女の上西門院(統子内親王)というひとで、西行の憧れの女性と言われる待賢門院を偲ばせる美しい女性だったと言われています。そのサロンで詠まれたということは、夢中落花を今は亡き待賢門院を夢に見るということと重ね合せて、この歌の「さめても胸のさわぐなりけり」を待賢門院を夢に見て、胸が騒ぐという物語を起こすという読みもできる可能性もあるので、西行は、そういう読まれ方も考えていると、私には思います。私には、そういう意図的なところ、ある意味ケレンに近いところが、後の世の現代の私のような人間にとっての親しみ易さになっていると思います。

2021年7月 6日 (火)

西行の歌を読む(10)~吉野山梢の花を見し日より心は身にも添わずなりにき

  吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添わずなりにき
 吉野山の梢に咲く桜の花を遠くに見た日から、花に心が奪われ、心が身に添わなくなったと言う和歌です。これも、西行の歌に多い桜の花を詠んだ歌で、西行がどれほど桜に心惹かれていたかを示しています。
 桜の花を愛でる姿勢は、西行が追慕した能因や花山院、行尊といった人々にも共通するものだったと言います。例えば能因には
  桜咲く春は夜だになかりせば 夢にも物は思はざらまし
 花山院
  覚つかないづれなるらん春の夜 闇にも花を折りみてしがな
 行尊
  諸共にあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし
  というように、それぞれが桜への愛着を詠んだ歌があります。
ところで、西行の時代の桜は、現代の私たちが見慣れているソメイヨシノではありませ。んでしたソメイヨシノは江戸時代に末期に、江戸の染井という場所で品種改良されてつくられた新種だったのです。ソメイヨシノの特徴は一気に咲いて一気に散るという集団的な性格の強いもので、一本一本の樹の個性というのが稀薄であまり見られないところがあります。これに対して、西行が好んだ吉野の桜は、主に山桜で、開花も吉野山の桜が同時に一斉に咲くのではなく、それぞれの樹が別々に咲くという個性があって、それはまた、花の大きさ、色合い、数などがすべて違っているのです。
  吉野山去年のしをりの道変へてまだ見ぬ方の花を尋ねん
 という西行の歌は、去年とは違う山の奥にまだ見ないかもしれない桜を探して、桜を見尽くしたいと詠んでいて、そこには桜の個体差があるからこそ、違うということをヴィジュアルに詠むことができると言えます。それは、西行が吉野に庵を結んだり、何度も訪れたりして、実際に吉野の桜を見ていたから詠むことができるとも言えるのです。というのも、平安時代の吉野山は、山岳信仰の霊地として、めったに人を近づけなかったのです。そこは険しい行者道や杣道が細々と通っているだけの険阻な秘境でした。だから、吉野の桜を和歌に詠むとしても、都の貴族には、実際に吉野山の桜を見ることは稀で、遠望するか、話に聞いたのを参考に詠むことしかできなかったと言えます。これに比べて、西行は、吉野山の桜の懐深く推参し、実際に花に埋もれて陶酔することができたからこそ、他の歌人にない、様々なヴァリエィションの桜の歌を創作することができた、と言えるのです。

2021年6月27日 (日)

西行の歌を読む(9)~おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲

  おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲
 この歌は『山家集』に収められた歌ですが、その後『御裳濯河歌合』にも収められました。
 西行は、晩年になると、それまでに作りためた自分の歌を集めで自歌合を作り、伊勢神宮の内宮と外宮に奉納したといいます。このようなことは西行以前には例のなかったことだそうです。しかも、西行は単に自分の歌をまとめて奉納するだけでなく、当時の歌壇の巨匠で旧知の藤原俊成や藤原定家に批評の言葉、つまり判を求めました。これについて、目崎徳衛は次のように解釈しています。仏道という宗教生活と歌道という文学という異なった道に志した西行は、最晩年、仏道に没入しきれなかった過去について「年来の数奇生活の総決算」あるいは「自己の歌道生活からの総決算」をしようと試みた。そのために数奇の道への決別に当たって歌壇への置き土産にしようと和歌奉納のための判を求めた。つまり、都の歌人たちとのやり取りは「数奇への執念」から出た行為である。このような宗教と文学という二つの矛盾するものの間で悩む文化人という西行像を批判して、桑子俊雄は次のような解釈を提示します。西行の中で仏道と歌道とは決して矛盾するものではなく、それどころか仏道と歌道を究極的なすがたで統合しようした。そして、この歌合の神宮奉納は西行の仏道修行のひとつの完成であり、西行が到達した最高の宗教的境地と言える。ここでは、仏道と歌道の両者が相互に不可欠な存在となり、一体となっていると。私は、紹介した二つの解釈のどちらかを採るというつもりはありませんが、いずれにせよ、その歌合に収められた、この歌は単に花盛りの景色を詠んだというだけに留まらない、何かを含んでいるという歌で、そのことを西行自身も意識していた、と想像するのは、あながち的外れとは言えないのではないでしょうか。
 その上で、歌を読んでいきましょう。下の句の「山の端ごとにかかる白雲」は、花を雲に見立てた伝統的な手法で、見渡す限りの山々が、一様に白雲を抱えているように見えるが、そのすべてが「花の盛り」であることを、何の疑いもなくおおらかに確信しているように映ります。そこには、花ではないかもしれないとか、今に持ち散るかもしれないというような不安もなければ、わが身に立ち返って、花を見ることの罪とか後ろめたさを意識することさえもない。自分の周囲がすべて花に埋め尽くされて今を極めて冷静に、ほとんど平常心でとらえている。そこから破綻のない美しく整った調べが生まれています。しかし、実際の吉野の桜咲く山々を見渡して、これほど眺望が見られるでしょうか。ここでは、花のユートピアが仮構されていると言ってもいい。それは、同じ『御裳濯河歌合』に収められた吉野の桜を詠んだ次の歌もそうです。
  なべてならぬもよの山辺の花はな 吉野よりこそ種は散りけめ
 これらの吉野の花の詠んだ西行の歌の群れは花のユートピアとしての吉野を中核とした曼荼羅を形成しているように見えます。そこには宗教的といってもいい神秘性があると思います。とくに、この「おしなべて…」の歌は、その破綻がなく整っています。そこには、すべてを払拭した冷静な平常心、これは仏教の悟りの境地に重なると言えるのではないでしょうか、に裏打ちされた、花の調和、心の調和、歌の調和で、この絶妙なバランス感覚は、相反する指向性を持った和歌と仏教という二つそれぞれに、果てしのない魅力を見出してしまった西行が、地平線のはるか彼方に見届けようとした平行線の交差点、その微妙なバランスの一点を示している。そういう歌だと思います。

2021年6月20日 (日)

西行の歌を読む(8)~花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふ我が身に

  花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふ我が身に
Booksaigyou5  西行は出家して、しばらくして都を出て、吉野で草庵をむすび暮らしたといいます。その頃の歌ということで、白洲正子は西行が吉野に籠った理由を、待賢門院への思慕から解放されるためだったといいます。彼女の面影を桜にたとえたと。
  うきよには留めおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
  諸共にわれをも具して散りぬ花 浮世をいとふ心ある身ぞ
 桜への讃歌は、ついに散る花に最高の美を見出し、死ぬことに生の極限を見ようし、「諸共に…」の歌では、桜と心中したいとまで謳っていると言います。これらの歌を白洲は待賢門院の死を、散る花の美しさに喩えた感情移入していると言います。そこで、この「花に染む…」の歌は、心ゆくまで花に没入し、花に我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって昇天する。それによって西行は恋の苦しみから解放される。そういう歌だといいます。私には、それはフィクションの後付けに引きずられているように思います。ただ、和歌の読みが物語を生んで、それが歌の内容を豊かにしていくのは、伊勢物語の例もあるので、否定する気はありません。
 白洲正子の読みは、かなりロマン主義的で主観的な思い入れの強いものだとは思いますが桜の花への没入を詠んでいるということには変わりなく、その没入をどう解釈するかで、白洲は主観的に傾いている。ただし、歌を読むということは、個人が、その時によって、それぞれに意味をとればいいことなので、それが間違っているとは言えません。ただ、それではこの歌の魅力的な味わいが見落とされてしまうおそれがある。
 たとえば、この歌では上の句では「残る」と、下の句では「捨てる」という正反対の方向の動作が対句のように使われています。それが、心の動きの一筋縄にはいかない、あっていったり、こっち向いたりして揺れ動くという動きのダイナミズムを持ち込んでいます。
  あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき
 では、花に憧れて心が彷徨い出ることと帰ることとが同じように対句的に使われています。
 この「花に染む…」の歌では、この後で「心はいかで残りけむ」と「いかで」つまり、どうしてという疑問とも反語ともとれる言葉を差し挟んでいます。したがって、最終的には白洲の言うような花への没入を肯定することにはなるのでしょうが、そこに留保のワンクッションが置かれている。そのワンクッションの間の心の揺れ動きが動きとして表現されているのが、この歌ではないかと思います。それだからこと、この歌を読む人は、この動きに導かれて同化するような感覚に捉われる。
 そうすると、読んでいる意味合いが白洲の場合とは違ってくると思います。今この時は桜の木を見ながら、この花の美しさに耽溺していたい。そう思う心、出家をしてすべての執着心を捨て去ったはずの自分自身の中に残っていたことを認めざるをえない。そう自省している。しかし、それに対して、この歌では何とも言っていません。否定も肯定も明らかにしていないのです。花の美しさへの執着を捨てきれないことを嫌悪するでもなく、かといって開き直るでもない。そのどちらでもない姿勢は結びの「我が身に」の「に」という助詞で投げかけるような終わり方をして、断定していないところに表われています。そのどちらでもないところが、強いて言えば、西行の特徴と言えるかもしれません。
 これをどのように解釈するかには、読む人によって分かれると思いますが、とくに決めつけることはないと思います。例えば、花の美しさに感動するだけでなく、人と共に喜び、人と共に泣くという人の心は失わず、感動する心は捨てていないという境地を詠んでいるという解釈。あるいは、花の美しさへの執着に対する徹底的な罪業意識を突き詰めたあげく到達した解脱の境地への道という解釈。こういう結論というよりも、結論の前の中途にいるというところで読んでいる方が似合っていると思います。
Booksaigyou6  少し脱線しますが、西行の待賢門院への思慕という物語では、例えば次の歌
  なにとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて
 何となく芹というのは哀れなものである、それを摘んだ人の心が思いやられて、と単純に読むことができますが、この「芹」というのが、源俊頼の「俊頼脳髄」でも芹摘みの故事と紹介されていることです。
  芹つみし昔の人もわがことも 心に物はかなはざりけり
                          (古歌)
 昔、宮中で庭の掃除をしていた男が、にわかに風が吹き上げた御簾のうちで、后が芹を食べているのを垣間見て、ひそかに思いを寄せるようになった。何とかして今一度彼女の顔を見たいと思うが、卑賤の身ではどうすることもできない。もしかしたら気がついてくれる時もあるかもしれないかと、毎日芹を摘んで御簾の傍らに置いていた。それを長年続けていたが、反応はなく、男は恋患いになって死んでしまった。
 西行の歌は、この「芹つみし昔の人」の心を自分の心に重ね合せて詠んだと、そして、この故事の后を待賢門院に擬して詠んだと、例えば、白洲正子などは解釈しているようです。宮中の高貴な女性に思慕する身分違いの武士、叶わぬ恋というのは、作家や論者の魅力的な対象なのだろうと思います

2021年5月24日 (月)

西行の歌を読む(7)~年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

  あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成りたりける、思出られて
  年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
Booksaigyou15 吉本隆明は「15歳の寺子屋 ひとり」で、この歌について、次のような感想を述べています。“西行も、やはり人生を長い旅路に重ねています。「小夜の中山」というのは、東海道の難所でした。この歌を詠んだ時、西行は69歳。かつて若い頃に越えたところを、そんな高齢になってまた越えようとしている。「命なりけり」というのは、そういう自分の人生を振り返っての感慨だと思うけど、僕が今読むと、「それが自分の宿命だったんだ」というような少し重い意味で響いてくる。生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるかもしれないけれど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰りがけになるなんてことはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いていくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。”たぶん、西行の愛好者で、この歌とか「願わくば…」の歌とかがとくに好きな人で、思想家として西行とか人生の指針とかという視点で西行を読もうとする人の典型的な感想ではないかと思います。歌そのものではなく、最初にこのような感想を持ってきたのは、こういう感想がこの歌の周囲にオマケが分厚くまとわりついていることを明らかにしたかったからで、こういう感想が、この歌を読むときの視点を縛ってしまっていると、私が思っていることを明らかにしたかったからです。
 詞書の「あひしりたる人」とは、藤原秀衡のことを指し、この時西行は69歳で、最初の旅から40年ぶりの2度目の奥州への旅に出かけたときの歌です。この旅の目的は1180年に平重衡によって焼き討ちされた東大寺大仏再建のための砂金勧進です。当時の奥州藤原氏の拠点の平泉が、中尊寺金色堂に代表されるような黄金の都であったので、藤原秀衡を目指したのでしょう。『吾妻鏡』には、この旅の途上で源頼朝と鎌倉で会見して、引き出物に拝領した銀の猫を、西行は御所を退出するや、門の外で遊ぶ子供に投げ与えたというエピソードが描かれています。
 初句の「年たけて」の表現は、『和漢朗詠集』に「年長ケテは毎ニ労シク甲子ヲ推ス。夜寒クシテ初メテ共ニ庚申ヲ守ル」と、年をとったため、老いによる衰えに対する嘆きが詠まれている許渾の詩からとられている、と言われています。この歌で西行が「年たけて」と詠んでいるは、老齢であることを強く意識して2度目の奥州への旅に出たことを表現していると言えると思います。第三句の「思ひきや」の表現は、予想外のことが起こることを表わす表現であり、西行は再び奥州に向かうことになるとは思ってもみなかったことであるという気持ちが底にあると思います。これは、『伊勢物語』の次の歌
  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君を見むとは
 小野の山里に隠棲した惟喬親王のもとへ、雪を踏み分けて「昔男」が訪ねるところで詠まれた歌です。業平が敬愛する惟喬親王に会った喜びの表現が、この歌での「思ひきや」で、西行の「思ひきや」は、このようなめぐり会いの驚異、喜び心が込められていると言えます。
第四句の「命なりけり」は、命の存在を詠嘆していて、「小夜の中山」を再び越えることを運命であると捉えているという表現です。西行以前の歌でも「命なりけり」を詠っていますが、例えば、
  春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことは命なりけり     (古今集・春下)
  もみぢ葉を風にまかせてみるよりも 儚きものは命なりけり     (古今集・哀傷・大江千里)
 これらの古今集の和歌では、「命なりけり」は「~は」に連接して結句に置かれているのに対して、西行の「命なりけり」は確たる主語を持たずに第四句置かれていて、構造上違っています。そして、西行の場合は、「命なりけり」という詠嘆に続いて、一見するとそれと何の脈絡もない「小夜の中山」という地名(歌枕)が提示されます。これは、読んでいて、なだらかに詠みくだされてきた上の句から第四句「命なりけり」と展開すると、そこで一旦流れが途切れ、結句「小夜の中山」が繋がってゆくのは、何となくギクシャクして不自然な感じがします。そこが、西行の「命なりけり」の独自性であると思いますが、そこには「命なりけり」の意味が、古今集の二首と異質であることを示している。古今集の二首は命が儚いことを嘆じているのに対して、西行の「命なりけり」は、命の儚さに焦点を合わせるのではなく、命のあったことの感慨がうたわれています。つまり、命が儚いからこそ、命があったことを格別なものであるというところが違います。最初に「小夜の中山」を越えて奥州へ旅をしてから約40年の時が過ぎ、再びこの地に立った時、これまでの人生を振り返り、自分の足で「小夜の中山」を越え勧進に向かうことを運命と捉えていることが、「命なりけり」に凝縮していると言えます。そして、結句の「小夜の中山」は、現在の静岡県、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間に位置する峠で歌枕として有名でした。
  甲斐が嶺をさやのも見しかけけれなく 横ほり伏せる小夜の中山   (古今集・東歌)
 「けけれなく」は、「心なく」の東国訛りで、甲斐の山をはっきり見たいのだが、小夜の中山が間に横たわって邪魔をしているという内容で、山に喩えた恋歌と解されています。そこから逢うことかなわない恋の嘆きを詠うものでした。それが西行の歌では、そもそも難所であるということ、そのことからなかなか越えられない、越えると帰ることができるかわからない。そういう境界をなしている。その境界とは、都と辺境の奥州の境界であり、現世とあの世との境界であり、40年前の旅で容易に越えた若き日と、今度の苦労してようやく越えた老体の自分を画す境界でもあったことを表わしています。
 同じ道中で詠まれた
  風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな
 とともに『新古今集』に収められ、西行晩年の境地を示す歌として並んで扱う人も少なくない歌です。しかし、『新古今集』では、「風になびく…」は雑歌に、「年たけて…」は羈旅に、『西行法師歌集』では恋の部と雑の部と、別々の部に収められています。それをわざわざ並べて扱うのは恣意的かもしれませんが、「命なりけり」と慨嘆する作者の心性は、「行方も知らぬ我が思ひ」へと繋がるという読みをどうしてもしてしまいます。つまり、苦難の旅を強いられてきた旅人が難所の「小夜の中山」をようやくにして越えることができた、という意味合いが強く感じられるようになります。
 山本幸一は、旅での感動という点で若山牧水の歌と相かよう点があると指摘します。
  いわけなく涙ぞくだるあめつちのかかるながめにめぐりあひつつ
  まことわれ永くぞ生きむあめつちのかかるながめをながく見るため
 偶然の出会いでも、それが生命の奥底にとおる出会いとして、その生涯に深い影をおとすこともあるでしょう。そればかりか、それがある人間の一生を決定づけることさえあるかもしれません。岡本かの子の『蔦の門』では、蔦の芽をひきちぎった子供たちを咎めたことがきっかけで、老婢まきと孤独な少女ひろ子との交渉が深まります。「孤独は孤独を牽くのか」と「蔦の門」をもつ家のあるじ「私」は思うのです。老婢と少女との交渉はほとんど運命的といえるほどに、生涯を通じて深まっていきます。それを終始見てきた「私」は感慨深く西行の歌を思い出し、口ずさむのです。それが
  年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
なのです。

 

2021年5月 8日 (土)

西行の歌を読む(6)~あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき

  あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき
Booksaigyou4  この歌の現代語訳は、たとえば、このようなものがあります。“花にあこがれ、さまよい出る心はそれとして留めることができないとしても、山桜が散ったあとには、私の身体に戻って来るものだろうか。”これは、使われている単語は現代の言葉でしょうが、文章は意味不明で、何を言っているのか分かりません。それでも、西行の桜を詠んだ歌というと、この歌はセレクションされることが多いようで、おそらく「あくがるる心はさても山桜」というストレートに心情を吐露したように見える表現の雰囲気が気に入られてしまったのでしょう。
 「あくがるる」という言葉は、あるべき場所を意味した古代語「あく」から「離る(かる)」ことを言い、そこから、心が何かに惹かれてその方向にさ迷い出ることや、心が落ち着かずいらいらすることという意味になるそうです。したがって、「あくがるる心」は、心が体から遊離していくことを意味します。「空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな」の「空になる心」と同じような遊離魂感覚による表現です。
 久保田淳の「西行の『うかれ出る心』 について」では、次のように説明されています。
 花月への讃歌や旅の歌、更には出家前後の一連の述懐歌の基調を成すものを、もしも「うかれいづる心」乃至「あくがる心」という風に表現できるとすれば、これは方向の上ではこれ (王朝女房文学に代表される、恋歌の基調をなす「物思ひ」という、内へ内へと沈潜し屈折してゆく心理)とは正反対の志向、即ち外へ外へと駆り立てられ浮動する心理ということができる。しかしながら、外へ浮動するといっても、それは身体の外へということであって、自己の喪失を意味するものではない。むしろ、身体から切り離されて自己の心だけが純粋な形で取り出され、曝されるという点では、心理的傾向は身体の苦痛まで伴いかねない恋歌の懐悩の場合よりも一層強められていることに注意すべきである。かれは「うかる」といい、「あくがる」といいながら、うかれ、あくがれて忘我の境に遊んでいるのではない。いな、うかれ、あくがるという状態において最も純粋に自らの心、我と対しているのである
 この「あくがるる心」は、内へ内へと沈潜し屈折してゆく「物思ふ」という心理状態とは正反対の志向を示すものですが、二つは何等矛盾するものではなく、深い「物思ひ」の果てにうかれ出た「心」が、やがては「身」に戻り、それが以前よりも激しい「物思ひ」を「心」に強いるというように、西行の「あくがるる心」は円環的な構造において捉えらるものと考えてもいいものです。
 この歌が収められた『山家集』では、この歌の前後には
  吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき
  花見ればそのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける
の2首が並べられています。「吉野山梢の花を…」の歌では「梢の花」は「梢」と「来ずえ」を掛けた表現で、来ずという遠さを含んでいて、詠者の住んでいる都からはるばると吉野山まで花を訪ねてやってきた意味を含んでいます。何日もの旅を経て遠くの尾根に花らしい白いものを見いだしたその一瞬に、「心は身にも添はずなりにき」という心が身体から離れて、私は私でなくなる。また、「花見れば…」の歌では、「そのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける」では、忘我の状態の心の中が苦しいとしています。花が心を苦しめているのではなく、私自身が私を苦しめている。それは心と身体と私が分裂しているからこそ言えることでしょう。
 この2首に前後を挟まれて位置しているこの「あくがるる…」の歌は、山桜に憧れるあまりに、心を奪われ忘我の状態となります。「さても山桜」に「さても止まず」を掛けて、そのように花に心奪われること自体は、自分の性情だからやむをえない、とあきらめてしまっています。それでもせめて花が散ったら、身体から離れて浮遊する心が「(我が」身」に帰ってくるのかと自問自答するのです。
 なお、花が散った後で心が身に帰ることについて、西行は次のような歌も詠んでいます。
  散るを見て帰る心や桜花 昔にかはるしるしなるらん
 「散るを見て帰る心」は、花が取り終わる見届けために、花への心残りは静まってくることを表現しています。
 あるいはまた、次のような歌もうたっています。
  散る花を惜しむ心や留まりてまた来む春の種となるべき
 花を惜しむ心が花の散った木の下にそのまま留まると表現しています。
 なお、山折哲雄によれば、このような遊離魂感覚は、日本人に精神の根底に流れるものだとして、近代短歌の石川啄木の短歌にも見られると指摘します。
  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心
 啄木が盛岡中学でストライキをおこし、退学するころの作で、少年の青臭い倨傲の自我が、真青にひろがる空のかなたに吸いこまれて、一瞬希薄になっている。この「空に吸はれし 十五の心」が、自分のからだから遊離していく心、あるいは遊離していく心の残像であった。

 

2021年5月 1日 (土)

西行の歌を読む(5)~世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり 出家して間もない頃の作品だそうです。世の中を捨てたつもりだが、どうにも捨てられないでいる私だ。こうしてまだ心には都のことが懐かしく忍ばれるのだから、という現代訳で親しまれている歌です。似たような歌を下にあげておきます。これは出家に際して詠んだ歌で『詞華集』によみ人知らずでおさめられたそうです。
   身を捨つる人はことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
 「捨つ」という語を畳み掛けるように繰り返して、捨てることの微妙な差異を表現しています。同時に、繰り返すことで反復のリズム感をつくりだし、ある種の軽さ・俳諧味を感じさせる。そういうところに、これらの歌の共通性があります。一般に西行の活躍した時代は藤原定家と同じ『新古今集』の時代と呼ばれます。その『新古今集』の特色のひとつとして、初句切、三句切、体言止などの句法があります。西郷信綱は、この句切れから生まれるリズムについて、五・七・五の上の句と七・七の下の句に一首が分れ、上の句と下の句とが互いに反発・照応し独特なリズムを生み出すと指摘していす。この歌では、上の句は「かは」という疑問形で区切られています。そして、下の句は「けり」という詠嘆の助動詞で結ばれています。「けり」の詠嘆というのは、それまで気付かずにいたことに初めて気付いた気持ちを表す用法で、その驚きが強いとき、詠嘆の意が生ずるのです。この歌は上の句で問いかけ、それに対して、自分で答えを見つけたという自問自答の体裁をとっています。その回答は、自分で気づき、驚いたということは、気づくまでに時間がかかっていることを示唆しています。上の句と下の句では時間の隔たりがある。つまり、直接スムーズに繋がっていない。その隔たりが内省しているという思索的なものを感じさせるようになっている。このような自問自答の体裁の歌は、西行の作風の特徴のひとつと思います。
 この歌に影響を与えたと思える次の歌には、自問自答の体裁はありません。
   心には心をそふと思ひしに身は身をしぼるものにぞありける
                         源俊頼「散木奇歌集」
 それでは
   世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり
 に戻りましょう。『山家集』には、この歌と前後して「捨てる」ということにこだわった歌が並べられています。
 前には
   捨てたれど隠れて住まぬ人になれば なほ世にあるに似たるなりけり
 後には
   捨てし折の心をさらに新ためて 見る世の人に別れ果てなん
 このように何首も、捨てる捨てないという歌が並んでいるのを見ると、読者は、西行が出家に際して深刻に悩んだということを想像することに導かれます。捨てるべきか捨てざるべきかという二者択一をめぐる問いに、青年西行は、数年を費す切実な課題だったという物語を生むことになります。この頃、つまり出家前後の西行の歌に独白あるいは自問自答の表現形式をもつものが比較的多いのは、この時期、彼が、身の在り方や心の在り方について深刻な思いを巡らした。そこから、数多く詠まれた西行の歌に内面の思索の跡を見いだすようになる。数多く詠まれた自問自答や独白の、しかも流麗さや優美さを欠いた一見拙い歌が、論理的、思弁的に聞こえてくる。それが、それまでになかった内省的な印象を読者に与え、今までの和歌との差別化を生んだのだと思います。

2021年4月25日 (日)

西行の歌を読む(4)~鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん

   世を逃れて伊勢の方へまかりたりけるに、鈴鹿山にて
  鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん
 詞書によれば、出家遁世を果たした後に都から伊勢の地に下向する途次、鈴鹿山に至った時の灌漑で、「都を捨てて鈴鹿山を越える。なりふり構わず憂き世は振り捨ててきたが、明日の我が身はどうなるというのだろう。」と和歌文学大系では解釈されています。それで、出家遁世後の自己の感慨を表白したものということになります。
 詞書から見ると、「世を逃れて」は出家遁世してという意味で、これは時期的なものと、出家遁世をした生々しい意識、たとえば、そこに出家をした先への不安とか迷いのようなものが含まれる、そういう状態にあって、この歌を詠んだ「鈴鹿山」は、地理的には都と伊勢とを分かつところとして、ここを越えると都に引き返すことができなくなる。心情的には、出家遁世の迷いにあって引き返す(出家を止めて世俗に戻る)ことのできない一線を越えることに比喩されるという解釈もあります。
 そういう鈴鹿山の読み方の先駆として源俊頼の影響は考えられると思います。
  鈴鹿山関のこなたにとしふりてあやしくも見のなりまさるかな
  おともせでこゆるにしるし鈴鹿山ふりすててけるわが身なりとは
  ふりすててこえざらましに鈴鹿山あふぎの風のふきこましかば
 これらの「散木奇歌集」の歌では鈴鹿山を境界として捉えている点で、西行の歌と共通点が見られます。「鈴鹿山関の…」の歌では、鈴鹿山を伊勢への入り口として捉えた上で、伊勢に滞在する自身を「関のこなたにとしふりて」と表現しています。「おともせで…」の歌では、鈴鹿山は都と伊勢との中間に位置する境界点として捉えられています。俊頼にとっての鈴鹿山はかつて自分が身を置いていた都と、現在の自分が身を置いている伊勢とを隔絶する存在で、「あやしくも見のなりまさるかな」や、「ふりすててけるわが身なりとは」という感慨、つまり老いた身でありながら僻遠の地に暮らすという歎きを告白するためのものだったと言えます。同じように、西行の歌で「いかになりゆく我が身なるらん」という述懐も、鈴鹿山が旅程における分岐点であり、来し方を振り返り、行く末を思いやるのに相応しい場所で、このような感慨を表白するのに相応しい場所だったと言えます。
 和歌において「鈴鹿山」という場所は、歌枕としても捉えられており、「鈴鹿山」の「鈴」が鳴るということから「なる」、あるいは鈴を振るということから「ふる」という言葉が縁語として歌作りに利用されています。この歌でも、「いかになりゆく」には「鳴る」がかかり、「振り捨てて」とともに「鈴」の縁語となっています。そこで、境界という鈴鹿山という現実の場所に、和歌的な気持ちの移ろいという異質な世界が重なって同時的に存在しているといえます。「憂き世をよそに振り捨てて」には、自分の持っているすべてを振り切ろうという切迫感を読み取ることができる一方で、軽やかな鈴の音色が伴うものとなっている。この歌の解釈には、未来への明るい希望をよむか、将来への不安感を強調するかで意見が分かれているといいますが、そのどちらかというわけではなく、両方であると思われます。つまり、不安な心を和歌の伝統に身を委ねることで足取りまで鈴の音のように軽やかな旅人を演じようとした。そのちょっとした背伸びの心の隙間に、不安が忍び寄った。したがって、最初に述べた解釈の西行の個人的な信仰の迷いのモノローグとは、ちょっと違うのではないかと思います。
 また、下の句「いかになりゆく我が身なるらん」は和歌の論理として連なる他の作品たとえば
  世の中はいかになりゆくものとてか 心のどかにおとづれもせぬ
                                   (和泉式部集)
 この歌の詞書には、世の中が騒がしくなったころ、訪れの絶えた人に贈った歌とあります。世の中の二重性を利かせて、男のあなたにとって世の中の騒がしさは政局の不安定などかもしれないが、女の私には、あなたとの直接的関係だけが世の中なのだと言わんばかりです。西行の和歌は、この王朝の女の「(なりゆく)世の中」を受け継ぎながらも、より直接的に、しかも、肉感的に自分自身の肉体に向かって問いかけているというわけです。つまり、出家して「世の中」を捨てると「我が身」はいかに無防備に晒されるものか、と。この歌自体が揺れ動いているといえるのです。
 和歌では恋歌にかぎらず、風景を詠んだ歌でも、恋愛について、その諸相を繊細に表現しているのを、西行は、それを出家、つまり信仰に移し変えたと言えます。とくに、恋愛と言っても、和歌は恋の迷いとかかなわぬ恋とか失った恋といった悲劇的な面に注目して重点を置くのが和歌の特徴で古今集に収録された恋歌のほとんどがそういう歌です。西行の和歌には、この作品のような出家することへの迷いや不安が色濃いですが、そういう和歌の形式的な特徴による点が大きいと思います。それを、西行の青年の人生の悩みというような近代文学の青春の悩みのように受け取って共感してしまう(例えば小林秀雄)こともあるようですが、もっと形式的なものではないかと思います。しかも、恋愛は、必ず相手がいるので、ダイアローグになります。それに対して信仰告白はモノローグが基本です。しかし、恋愛で用いられた表現を移し変えたので、モノローグにならずダイアローグを持ち込んだ。それが、この和歌では、掛詞や縁語といった技法を使っているところに象徴的に表われていると思います。これは、ミハエル・バフチンがドストエフスキーの「地下生活者の手記」の主人公のモノローグをダイアローグ的と評したのと重なるのではないかと思うのです。
 また、この歌は『山家集』の他にも、例えば『新古今集』にも収められています。この歌は17巻の雑歌に収められ、次の2首が続き、3首セットで配列されています。
   題しらず                                     慈円
  世の中を心たかくもいとふかなふじの煙を身のおもひにて
   あづまのかたへ修業し侍りけるに、ふじの山をよめる          西行
  風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬ我が心かな
 “世捨て人西行の動揺する心の表白、慈円の思いの火としての表白、西行の富士の煙のように果てなしなき思いの表白である。この三首は、山という配列の面からも、出家者の心の表白という内面の連関しても見るべきものがあり、西行的なものが一層生彩を放っているようにも思われる。(糸賀きみ江「新古今集雑部における西行歌の位相」)”このように出家者の心の表白という内面の連関が3首にはあると思います。しかし、それだけでなく、西行による2首。ひとつは出家後間もなくの頃の、言わば西行の出発点に当たる時期の作品と、もうひとつは晩年近くの西行の到達点を示す作品が、慈円の歌を軸とする形で対置的に置かれている。もう少し踏み込んで言うと、西行の「鈴鹿山」の歌は既述のように出家したものの我が身の行く末を案じていろところが表わされているものです。続く慈円の歌。私は身の程も弁えず、この世を厭離しようとしている。富士の煙に思いを託して、と出家者としての慈円の身の思いを示したもの。そして、3首目の西行の「風になびく」の歌は、西行自身が「これぞわが第一の自嘆歌」としたもので、下の句、4句目の「ゆくへ」を詠うとき、「鈴鹿山」の歌でどのようになっていく我が身であろうかと、自分の行く末を問いかけていたのに、その行く末は富士の煙と同一視され、「ゆくえ」の分からなくなってしまうものであることを悟り、まるで人生の答えを出したようでもある。つまり、『新古今集』の編者は、そういう西行の歌を正しく解釈して、あえて3首の組み合わせでセレクションしたのだろうと思います。

2021年4月14日 (水)

西行の歌を読むく(3)~さてもあらじ今見よ心思ひとりて 我が身は身かと我もうかれむ

    さてもあらじ今見よ心思ひとりて 我が身は身かと我もうかれむ
 このままではいないぞ、さあ見ていろ我が心よ、(出家への)決意を固めて昨日までの私と全く違う私の門出に
詞書には述懐の歌題を人々と5首詠んだとあり、出家の意識が高まった時に詠まれたと言います。前記の「空になる…」の歌と同じように「遊離魂感覚」を表現している歌だと言われています。
 第二句の「今見よ心」は心に呼びかけている言葉です。「思ひとりて」とは決心しての意味で、出家に際して揺れ動く心を固めることを言っていて、「我もうかれむ」という出家を断行することに対して、気持ばかりが先行してしまうことを、心が身から遊離すると表わし、その心に対して「さてもあらじ」と、そうはいかない(願望だけに終わらせない)と呼びかけている。つまり、心が先に浮かれ出る(遊離する)、それを追いかけるように身も同じように浮かれ出る。そういう決心。心の浮遊するままに身も浮遊しようと心を固める、そうすることで、心の憧れるままに身の方も以前の我が身とは違う私全体が出家を実行する。かなり理屈っぽいことになっています。
 普通、和歌では抒情といい心持ちを表現するという場合、例えば恋歌であれば、繊細優美な恋の情趣を歌い、完成された美的世界を形成しようとする傾向が強いものであって、この場合、和歌を詠む者は、恋をする者であり、その恋する者の立場で自身の恋を美しくうたいあげるというものでした。これに対して、「さてもあらじ…」の歌の姿勢を恋歌にあてはめてみれば、自身の恋愛に即して詠むのではなく、距離を置いて恋という心理的状況を自身と相手を俯瞰的に観察するような傾向になっているところに独自性があると思います。つまり、「遊離魂感覚」ということは、自己から視点が離れて鳥瞰的に自己を眺める視点で、これは西欧の小説のような近代文学にある絶対者の視点で物語を客観的に語るということに近いのではないか。そういう小説の心理描写のような、この「さてもあらじ…」の歌でいえば、出家に際しての心理的な心情の揺れ動きのぐずぐずするようなところを表わしているところは、西行に特徴的なところであり、後世の小林秀雄のような近代人には小説のように読むことができる点で、近しいと映ったのではないかと思います。
 また、光田和伸「身の音─「西行」は読めているか」によれば、西行の特徴のひとつとして、彼の作風は新古今風の行き詰まりを打開するオルタナティブと位置付けられるというのです。当時の伝統的な古今風とは「集め、審判し、微笑む」ことに終始する作風で、つまり、あれこれ和歌を集め、それらを審判し微笑んでみせるという雅びな趣味を楽しむという洗練を極めるということは、新しい可能性を創造するものではなく早晩行き詰まることは目に見えていた。その行き詰まりに際して、当時の歌人たちは、古今風の雅な趣味に逼塞する「特権的な私」にその原因があるとして、そのように窒息し、あがいている「私」からどのように脱け出て、それに代わりうる別の「私」の姿を樹立することにあった。例えば、藤原定家とその周辺が提出したのが「看取り、見届ける私」でした。しかし、これは「集め、審判し、微笑む」特権的な「私」の焼き直しにすぎない。これに対して、西行は次元の違う西行風としか言えないような独自のアプローチを試みたという見解を提出します。それでは、西行風の核心は何かと問えば、親鸞の「歎異抄」にあらわれる生き方に通じるものだったのではないかと言う。そこでは、念仏によって浄土に生まれかわるのか、それとも地獄に堕ちるのか、それは問うところではない。法然に言わせれば、たとい地獄行きになっても一切後悔しない、という断念といってもいい、そういうところに自分は生きているという覚悟。それが趣味に閉じ籠った「特権的な私」から離脱して自由になることになる。つまり、分かりやすく説明することを試みると、古今風や、それを批判した定家たちとは「特権的な私」に留まって、その「私」を何とかしようとした。それにたいして、そういう「特権的な私」を突き放して、もう一つの私、つまりメタレベルの私が行き詰まっている「特権的な私」を客観的に眺めることができた。それが、実際に和歌を詠む現場では、和歌の身体的なリズムに積極的に乗っていく。だから、この「さてもあらじ…」の歌は、西行がくよくよ悩んでいる歌とは考えられないといいます。これは、以前に触れた白洲正子や小林秀雄の読んだ近代的個人の悩める自己の内面というものとは違って、もっと力強い表現と言えると思います。

 

2021年3月19日 (金)

西行の歌を読む(2)~空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな

Booksaigyou3   世にはあらじと思ひたちけるころ、東山にて人々寄霞述懐と云ふ事をよめる
    空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな

 

 この歌については、白洲正子が次のように述べています。
“山家集の詞書に、「世にあらじと思い立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と云事よめる」とあるから、西行が二十三歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接にむすびついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしもたのしいものではなかった。
    世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん
    嘆けとて月やは物をおもはするかこち顔なるわがなみだかな
 百人一首で名高いこの歌は、同じ百人一首の大江千里の、「月みれば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど」を受けているような感じがあり、それを今少し凝縮させたといえようか、---月は物を思わせるのか、いや、思わせはしない、それにも拘わらず、自分は月を見て悲しい思いに涙していると、反語を用いることによって引き締めている。のどかな王朝の歌が、外へ拡がって行くのに対して、どこまでも内省的に、自己のうちへ籠もるのが若い頃の西行の歌風であった。”
 それでは、詞書から読んでいきましょう。“世にはあらじと思ひたちけるころ”の“世にはあらじ”は、世は、世の中つまり俗世にあらざるということ、世の中にいないということは世の中から外れる、つまり出家する。それを“思ひたちける”、思い立ったころ。そのころ、「寄霞述懐」といのは霞に関連づけて心中を述べるということで、東山というのは場所でしょうか、そこで人々と「寄霞述懐」という歌題で詠んだのが、この歌だということでしょう。ということから、この歌は、歌会でしょうか人々が集まって歌を詠む場で詠まれた歌であるということです。ここで、出家という個人の決心から派生する内心を内省的に語る歌であるのかと、私には思えます。そうであるとすれば、白洲正子の述べていることは根底から崩壊します。
 また、小林秀雄は『無常といふ事』の中の「西行」で、この歌と他に数首を引用して次のように言っています。
 “これらは決して世に追ひつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑わされなければ、一切がはっきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた23歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、来るべきものに挑んで、ゐるのであって、歌のすがたなぞにかまってゐる余裕はないのである。”  小林は白洲の読みを、さらに推し進めて、主観的な思い入れを押し付けているのが明らかです。このうたのどこに“世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現”があるのか、具体的に示してほしいものです。私は、探しましたがも見つけることができませんでした。“歌のすがたなぞにかまってゐる余裕はない”と自ら言っているのですから、小林は、実際の歌なんかどうでもいいと言っているようなもので、実際に、ちゃんと歌を読んでいるのかという疑問をぬぐうことはできません。
 『古今集』の「仮名序」で紀貫之は“やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。”と述べています。和歌とは、人の心を起源として、さまざまな言葉になったもの、ということです。ここでいう「人」というのは、現代の個人とは違っていて、古典和歌で詠まれる「人」で、文脈に応じて、二人称の「あなた」の意味にも、「あの人」や「世間一般の人々」の意味にもなる融通無碍なものです。要するに「我=自己」以外は、愛する相手も見ず知らずの人も、ひとしなみに「人=他者」として把握されるというものです。古典和歌の世界では、恋しい人は「私」のものではなく、むしろ「世間の人々」とつながっていると言えます。したがって、「人」という「ことば」にこうした二重性があることから、本来「私とあなた」の個別の関係を詠じたはずの歌が、人間一般に通じる普遍性を帯びてくる場合もある。そこで、「仮名序」にもどれば、和歌の人の心の「人」とは、一人称の個人でもあり、人一般でもある。だからこそ、『古今集』で詠われる人の心、つまり心情は普遍的なものとして定型パターンになっているわけです。そう考えると、この歌で、出家を決心する強い覚悟という、他の誰でもない西行という個人に限られる内面の動きを表白しているというのは、和歌として、かなり道を外れたものであるということになると思います。敢えて言えば、和歌の外形をとっていても、「仮名序」でいう和歌の概念から外れたもの、心は和歌ではない。そのような、道を踏み外したと言えると思います。おそらく、それが西行の歌の決定的な独自性ではないかと、と私は思います。とはいえ、白洲正子のいうように、青年の個人のみずみずしい心情を、近代的なもののようにポエムとして表現しているかというと、そんな形のできたものではないと思います。足は道を踏み外したとはいえ、身体の重心は未だ道に残っている。
 そういう視点で、歌を読んでいきましょう。上の句の“空になる心は春の霞にて”は、『拾遺集』の次の和歌を、ほぼ借用しているということです。
    春霞立つ暁を見るからに 心ぞ空になりぬべらなる
                                  よみ人しらず
 春霞に喩えられる“空になる心は春の霞にて”というのは、霞の立っている空が心の中にもできてしまった。自分自身のものでありながら自身でも把握しかねる心、自分の身体から遊離してゆく心のことで、いわば「遊離魂感覚」と呼ばれる不思議な感覚のことで、万葉集のころから和歌で詠われてきたものだそうです。
 下の句“世にあらじと思ひ立つかな”の“立つ”は思い立つという出家の決心をするという内容だけでなく、上の句の“春の霞”の霞立つという内容にかかっていると考えられます。“立つ”には二重の意味が掛けられているということになり、春の霞のような空になる心と世にはあらじという出家の思いは、“立つ”で結びついている構造になっています。西行個人の出家の決心という内心は、広く詠まれる空になる心という型と繋がっているというわけです。それは、たとえば、思い詰めた果てに見極めることができなかった「心」を、霞のような「空になる心」という「遊離魂感覚」で外に浮遊するように身を委ねることで出家に至るという解釈もあるようです。あるいは、「空になる心」を仏教の「空」の境地と重ねて捉えるという解釈もあるようです。どちらも、無理な解釈のように思えますが、白洲正子の述べているような、上の句に対して意外性のある下の句という読み方は無理があるのが分かる。ただし、上記のような無理な解釈がでてくるというのは、無理をせざるを得ないからともいえるので、そういう解釈を強いられるところに、この歌のこなれていないところがある。西行は、ここでは試行錯誤にいる。むしろ、そういうところを晒してしまうところに、西行という歌人の作家性を見ることができて、それが、この人の特徴であり、魅力であると思います。

より以前の記事一覧