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<title>CZTのブログ</title>
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<description>小さなメーカーでＩＲ関係の仕事をしている会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽の感想をつづります。</description>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-178a.html">
<title>英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠～ジョン・エヴァレット・ミレー展　（４）～エステル</title>
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<description>写真の発明によって、肖像画という画家の大きな生計の道が従来のままでは、成り立たな...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;428&quot; title=&quot;Mireestel&quot; alt=&quot;Mireestel&quot; src=&quot;http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/05/20/mireestel.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: 0px 5px 5px 0px; FLOAT: left&quot; /&gt; 写真の発明によって、肖像画という画家の大きな生計の道が従来のままでは、成り立たなくなったときに、画家は生き残りを賭けて何をしたか。ということがこの作品よく現われていると思う。また、ミレイと言う画家がそのようなニーズを如何に的確にとらえ、巧みに応えていったかも分かる。『マリアナ』の所でも書きましたが、写真に出来ないことに特化することによって、差別化し絵画の有利性を強調するというのがそれです。現代のマーケティング戦略そのもので、私がそのような目で見てしまっているからのか、それほど、ミレイの戦略性、別の言葉で言えば政治性は際立っている。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;エステルというのは聖書にでてくる古代の女性で、バビロン捕囚の後のころのユダヤの女性でペルシャ王の後宮に入り、王妃となってハマンによるユダヤ人虐殺から同胞を守るため、意を決してアハシュエロス王の部屋に入る場面を描いている。召されずに王に会見することは禁じられているため、エステルにとっては生死を賭けた行為であったことを活写している。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;しかし、この女性の顔をよく見てほしい、およそユダヤ人には見えない。典型的なイギリス人の顔をしている。それもそのはずで、実際の実在する女性を描いている。いうなれば古代のエステルに扮した肖像画を描いているのである。写真にはできない、絵画の独自性として、具体的にここで行われているのはフィクションを描くことである。そのために空間構成や、舞台設定、小物の配置、本人の扮装などを人工的に作り上げる。これは、単にあるものを写すだけの写真にはできないことで、しかも、画面全体をそれらしくリアルに見せるために描き方で様々な工夫をしている。さらに肖像画の特性として、誰が描かれているかを明らかにするためにポーズも現実には難しい恰好をさせている。この場合も、王の部屋に入ろうとする動きと、肖像である顔が分らねばならない。それを無理のない形で画面に収める工夫と、エステルの物語性を画面に持ち込む工夫と、さらには、大理石の柱石を舞台とするというような写真では作ることが難しい画面を作っている。また、『オフィーリア』では様々な花や『マリアナ』では婚約指輪や床や卓上の落ち葉といった小物の配置に象徴性を持たせて、物語を想起させる効果を上げさせている。ここでは、髪飾りを外させ、敢えて結っていた髪を解いて、性的な隠喩と官能性を表わしたりと、様々に深読みできる記号を巧みに配置している。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;また、画面での空間構成がブルジョワの居間に飾られるのに見合うようなコンパクトに構成されている。大広間ではなく、実際に生活される家屋の適度の広さの室内にちょうど収まるように、この作品では空間の一部を切り取ったような形にしていて、壁に人物が相対しているような構図のため奥行が省略できるように工夫している。さらに、白、黄色、青という原色を対立的に使い、装飾的効果をあげて、人工的な空間を作り出している。これは、当時のウォルター・ペイターやオスカー・ワイルド等による唯美主義的な芸術運動の影響とも言われている。官能的で豪奢な、ときに時代的性格が曖昧になるという特徴は、この作品にも当てはまるのではないか。同じような時代の影響をうけ、平面的な場面づくりで共通する、ロセッティの『見よ、われは主のはした女なり』やホイッスラーの『白のシンフォニー』と見比べると、ミレーの特徴が際立ってくる。例えば、ロセッティの作品が白い壁やシーツ等で全体を白を基調にして清楚な雰囲気の中で金髪や赤い小道具を部分的に目立たせているのに対して、ミレイは大理石の柱と壁で白を基調にしつつもカーテンの青とエステルが纏う黄色が平等に拮抗するように描かれていることで緊張感を与え、場面の緊迫感を高めている。さらにややもすれば、ロセッティが細部を強調するあまり全体のバランスを欠いてしまう印象があるのに対して、ミレイは全体とのバランスを考えている。一方、ホイッスラーの作品は白を基調にして清楚で静的な作品になっているのに対して、ミレイは平面的な空間でも人物に動きを与え、それを感じさせない。これを見てみると、ロセッティやホイッスラーは部分にこだわる傾向があるのに対して、ミレイは常にバランスを考えている。その点が、ミレイの作品のどれもが収まりはいいけれど、突出した強烈な個性の噴出がないという印象に通じると思う。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-20T22:58:07+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-04d4.html">
<title>上野修「スピノザの世界　神あるいは自然」(４)</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-04d4.html</link>
<description>「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのか永遠・無限なる本質を表現す...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのか永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する。（定義６）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;Ａ実体はＡ属性に関するすべてのリアリティ（事物性）を尽くしている。同様にＢ属性についてはＢ実体というように。これらＡ属性、Ｂ属性、Ｃ属性…を全部持っている実体Ｘを考えてみると、その実体Ｘはおよそありうるすべてのリアリティを尽くしていることになる。その実体Ｘが「神」である。つまり、「属性」とは、実体であることを察知できる具体的手がかりのことだ。そして、属性ごとに実体がどのようなものであるか分る。実体はどの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われた。であれば、どの属性のもとでも永遠・無限で唯一なるものとして現われるような実体Ｘを考えればいい。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;とすれば、「神」をこのように定義しておけば、我々はすべての事物性を尽くすもの、すなわち「在ることのすべて」について説明する定理を導くことができる。これまで、属性ごとに表現されていた実体のリアリティを無限に反復・重畳し尽くしている究極のＸで、実体と分る無限なるすべての顔を持つ唯一者、それが「神」なのである。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;そして、「神」の存在の証明もおこなっているが、実にシンプルで、「実体の本性には存在することが属する」（定理７）ということから、実体が存在しないすれば矛盾する。ところで、神は実体である。よって「神、あるいはおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体は必然的に存在する」（定理１１）というものだ。現実が間違いなくあるのなら、間違いなく存在するとか考えられないようなものでそれを説明すればよい、というものだ。これなら無神論者も同意するかもしれない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;現実は一つしかない。現実は唯一で、どこまで行ってもこれと別の現実なるものはない。「何かが存在する」と言うことと並んで『エチカ』が説明しようとしているのは、この唯一性である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない」。実際に神以外に実体が存在するとすれば、それは神の無限にある属性のどれかと同じ属性でなければならない（神は全ての属性を持っているから）。ところが同じ属性の二つの実体は存在し得ない。ゆえに神のほかにはいかなる実体も存在せずまた考えられない。ここから系として、「神は唯一である」が出てくる。「唯一」というのは、一つ二つとカウントする時の「一つ」ではない。他を絶するという意味での「唯一」である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;これで、何かがあるという時の「ある」の全域が確定されたことになる。「すべて在るものは神の内に在る、そして神なしには何ものも在りえずまた考えられない」つまり、様々な現実は全て、神の「様態」ということになる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態に他ならない。」（定理２５の系）様態とは定義によって実体の変状のことだった。だから個々の現実は私を含めて、神の属性ごとに変状したものだ、ということになる。当時の一般的な考え方では、世界は神がつくったということになっていた。しかし、スピノザでは「つくる」という言葉が完全に消えている。神は作らないし、事物に様態化し変状する。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;つまり、神とその様態の関係も、このように考えればよい。神を神にしている本質は無限に多くの属性で表現される。つまり、おのおのの属性が「これが実体だ」と告げるまだから、属性が神的実体の実質的な定義にあたる。すると、それらの属性から無限に多くの特性が必然的に出てくるはずだ。それらの特性はみな、もちろん神において在り、神なしには在ることも考えることもできない。定義からしてそれは神の様態のことである。だから、様態は神的実体によって「つくり出される」のではなくて、神的実体の本質から、ちょうど幾何学的に特性が帰結するように「出てくる」。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、（言い換えればおよそ無限の知性に入ってきうるすべてのものが）出てこなければならない」（定理１６）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;これが神の様態化に当たる。神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではなく、神自身が幾何学なのだ。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」（定理１７の備考）。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。スピノザはこういう神の自己必然的な様態化を「自由」と呼んでいた。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身の身によって活動に決定されるものは「自由である」と言われる」（第１部定義７）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;こうしてひとり神のみが自己原因であることになる。このようなスピノザの神は制作しないので、外から働く「超越的原因」ではない。あらゆるものの本質と存在そして動きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在的原因」である。いわゆる「汎神論」だ。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;神を神であるようにしている本質は永遠で無限である。それを表現する属性から出てくる様態も永遠で無限なものでなければならない。しかし、神の無数にある属性のうち、我々人間に知られているのは「延長」と「思考」の二点である。延長属性ではまず、運動と停止、という根本規則が出てくる。いつでもどこでもおよそ物理的なものすべてに及ぶという意味で、それはたしかに無限な態様である（直接無限様態）。そしてここから物理的な無限宇宙の全体が出てくる。（間接無限様態）ここで、属性は神の本質を表現するものだったから、思考属性でも同じプロセスでなければならない。我々人間の知っている思考属性はすべて物質的な世界についての思考か、その思考についての思考のいずれかである。そこでまず出てくるのが物理法則の理解（直接的無限様態）、そしてそこから変化しながら同一に留まる宇宙全体の理解（間接的無限様態）が必然的に出てくる。スピノザが「無限な知性」と呼んでいるのは、無限様態化したこの思考属性のことである。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-20T01:17:02+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-0394.html">
<title>あるＩＲ担当者の雑感（６３）～信託銀行って本気で仕事しているの？</title>
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<description>私の勤め先では、自己株買いをやってきて、その結果保有自己株数が大きくなってしまい...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;私の勤め先では、自己株買いをやってきて、その結果保有自己株数が大きくなってしまいました。実は、筆頭株主が自己株なのです。消却をという意見もありますが、取敢えずは帳簿上は保有していても消却したと同じ扱いなので、そのままにしてあります。財務担当役員は、この対策に頭を痛めているようで、先日、従業員持株ＥＳＯＰというスキームをやることに決めました。一応、取締役会で導入の決議をしてリリースまでしました。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;このスキームに対しては、担当者個人としては疑問を持っていますが、勤め先のことなので、これ自体については言うことはしません。ただし、この目的として従業員持株会の活性化ということが挙げられます。従業員持株会を活性化させたいというのは、その会社の従業員が会社の株を積極的に買おうとしないということで、従業員から見て会社に魅力を感じていないということになるわけで、ＩＲ担当者としては、反省すべき課題であることに間違いありません。だから、本筋から言えば、従業員にとっても株を買いたいと思えるような会社、経営にすることが、本来から言えば会社としてすべきことと言えます。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;さて、前置きはこのくらいにして、この従業員持株ＥＳＯＰはすでに上場会社が数社やっていて、証券会社や銀行、そして信託銀行がこのスキームを開発し導入させていて、今回は、数社の競合があって結果的に信託銀行に依頼することになりました。その信託銀行は大手の信託銀行で、私の勤め先の会社では企業年金や株式事務の代行を長年にわたって委託しているところです。だいたいこのようなスキームは、実際のところ、どこの競合会社のものを取って見ても、どこも似たり寄ったりで、大きな違いはなく、選定の決め手になったのは手数料が一番安いところでした。いわゆる、受注をめぐり値引き合戦となり、一番安くしたところに発注してというわけです。どこかで、似たような状況を色々なところで見ているような気がします。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;それで、その後、私も、事務上の実務に関わるので、その信託銀行の担当者と話をする機会がありました。その時に、驚き、呆れたので、今日は、そのことを書きます。彼らは、本気で仕事をしているのか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;先ず第一に、営業担当者と話した時のことです。売込みは役員に直接行われたので、私は関わっていません。取り敢えずスキームの説明をしてくれましたが、先ずその担当者が内容を理解していないことは、説明の口調で分りました。マニュアルの言葉を暗記しているだけのことは明白で、自分の言葉で話していませんでした。まあ、一応複雑なスキームなので仕方ないかもしれないと思いながら、それが、私の勤め先の会社にとって、どのようなメリットがあって、どのようなリスクがあるのか。その担当者は、説明できませんでした。勿論黙っていたわけでなく、そのスキームのメリットやリスクというものは、説明してくれました。セールス・マニュアルに書かれてある一般的なものに限っては暗記している説明はしてくれました。しかし、それ以上のこと。つまりは、その信託銀行は２０年以上に亘って株式事務の事務代行をやっていて、私の勤め先の会社の株主構成の特徴やその変遷、これまでの会社の資本政策やその効果を全部見てきているはずで、現時点での会社の特徴や課題、そして、いままでの経緯などを全て把握しているはずです。そのような情報を基に、他の会社ではない、私の勤め先の会社が、どうしてこのスキームを導入することを薦めるのか、それに具体的にどのようなメリットが見込まれるのか、例えば、単純に、買った自己株を売るわけですから単純な収支を出せるはずです。リスクに関しても具体的な話ができるはずです。しかし、担当者は話すことが出来ませんでした。そればかりでなく、私の質問の意味が理解できないようでした。つまり、担当している顧客である会社のことを何も知らないから、そういう発想が出てこないようです。もし、担当している顧客のことを知ろうとする人なら、そもそもＥＳＯＰのようないかがわしいものを売りつけようとは考えないだろうし、仮にセールスした場合でも、これ単独ではなくて、資本政策の視点から、ＥＳＯＰと絡めていくつかの施策を複合的に実行していくように、スキームを紹介していくと思います。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;私の勤め先はメーカーで、市場での競争になった場合価格競争に巻き込まれないように、付加価値をつけることに必死になっているのですが、この信託銀行の担当者は付加価値をつけるのに絶対的に有利な環境にあるのに、それを無視して価格競争で買ったことに嬉々としているように見えました。私から見ると、本気で仕事をしているように見えません。この人はただ与えられた動作を指示通りにやっているだけで、昔の言葉で言えば、ブルーカラーのワークをしているにすぎません。たぶん、この人は一生懸命やっているつもりなのだと思います。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;次に、第２の点です。この事務に関して、事務担当者である私を含めて何人かの担当が、信託銀行の担当者から事務手続きの説明を受けました。説明は、もう何社も売り込んだ経験があるせいか、流暢な説明でした。そして、質問の時間になると、担当者が回答できないということが頻出しました。私の勤め先は小さな会社なので、事務部門の要員は少なく、一人でいくつもの業務を兼任します。だから深い知識はないものの、多岐にわたって業務を経験しているのが特徴です。例えば、このスキームの場合、株式にかかる会社法や金商法上の事務手続きや税務、税務といっても会社としての法人税や従業員個人の所得税、あるいは給与計算とセットで考えれば源泉徴収や年末調整、社会保険と関係してきます。それらについて、複数の分野にまたがる質問に対しては、まったく答えられないのでした。かれらは、それぞれの専門分野にたいしては、回答マニュアルがあって答えられるのですが、現場は各々の会社に特有の手法等があり、その現場の実務上の事情から出てくる質問には対応できないようでした。ても、現場の実務担当者にいわせれば、実際に現場でやるに当たって一番聞きたいことなのです。結局、現場で考えるしかなかった、というのが実感です。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;たんに、この２点だけを取ってみても、顧客のことを考えて仕事をしているのか、と尋ねてみたくなります。たまたま、私が接した、この信託銀行の人がそうだったからといって、全部がそうだとは限りません。ただし、私が何人かあった人たちは、みな本気で仕事をやっているようには見えませんでした。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;これは、単なる言いがかりでしかないのか、私には客観的にどうだとは言えません。しかし、失望したことは確かですし、このような人たちと、一緒に仕事をしたいとは思いません。また、私がこのようなことを書いているからといって、これは自分にも当てはまるところがあると多少の自己懐疑を含めてかいているので、このようなことに対して、自分のことを棚上げして、こういうのは嘆かわしいなどと安易に共感してしまうひととも、一緒に仕事をしたくない。なんか、こんなことを書いていると、私が嫌な奴であることを、自ら公言しているようですね。&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>あるＩＲ担当者の雑感</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-16T23:02:48+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-951a.html">
<title>上野修「スピノザの世界　神あるいは自然」(３)</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-951a.html</link>
<description>３．神あるいは自然 『エチカ』についての説明に入る。知性には自分勝手に虚構できな...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;３．神あるいは自然&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;『エチカ』についての説明に入る。知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられており、知性はそのことを知るのにこの観念以外、何もいらない。事態がこのようになっているためには、世界はどうなっていなければならないか。これが『エチカ』の解くべき問いである。つまり、スピノザは現に若干の真理に到達している我々の精神のようなものがこの世に存在するには、世界はどうなっていなければならないのか、と問う。この問いに対して、スピノザは大方、次のように答えようとしている。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;真なる思考は、それが真であるためには、思考されている事柄と一致していなければならない。逆に、現実の中にある事柄で、それを対象とする真なる思考に一致しないようなものはない。とすれば、自らの必然性だけで全現実をあますことなく生み出している存在Ｘがあって、このＸが同時に、自らが生み出しているというそのことを同じ必然性で思考している、と考えればよいのではないか。そうすれば、思考と存在が完璧に一致する絶対的な真理空間がそのＸとともに与えられるだろう。この真理空間の中に無いような真理はないのだから、我々の真なる思考も、その真理空間の何らかの一部分を占めているに違いない。こう考えれば、ばらばらな存在の我々が、知性においては全員同じ真理に到達すると言う、ちょっとありそうもない事態の説明もつく。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;そこで、『エチカ』がしなければならないことは次のことである。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: -15.55pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 23.45pt; mso-char-indent-count: -1.48; mso-para-margin-left: .75gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（１）それ自身の有（かくあること）以外の何ものも説明のために必要としないＸ（神＝自然？）について、概念を形成すること&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: -15.55pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 23.45pt; mso-char-indent-count: -1.48; mso-para-margin-left: .75gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（２）我々の知性ＹをそのＸによって説明すること&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: -15.55pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 23.45pt; mso-char-indent-count: -1.48; mso-para-margin-left: .75gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（３）そういう説明から我々自身について何が言えるようになるか、見届けること&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;そして、『エチカ』の構成はつぎのとおり。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第１部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;神について&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 4&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;→（１）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第２部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;精神の本性及び起源について&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 3&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;→（２）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第３部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;感情の起源および本性について&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 2&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;→（３）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第４部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;人間の隷属あるいは感情の力について&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 2&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;→（３）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第５部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;知性の力能あるいは人間的自由について&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;span style=&quot;mso-tab-count: 1&quot;&gt;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp; &amp;nbsp; &lt;/span&gt;&lt;/span&gt;→（３）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;&lt;p&gt; &lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;ここでは、まず「神あるいは自然」を追う。スピノザにとって「神あるいは自然」とは、何ゆえに働きをなすかという理由と何ゆえに存在するかという理由が同じで、その存在と同様に、その活動に何の原理も目的も持たない、とにかく何かがある。その何だか分らんがとにかく在るもの＝「実有」の概念を突き詰めたものだ。ここでの「神」は公理から演繹されて、いわばどうしても出てしまう、ある種避けがたい論理的帰結でしかない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;『エチカ』は説明の体系として出来ている。理解できなければ説明ではない。理解は　半円が回転→球　というように理由ないし原因によって与えられ、その→の必然性が真理の規範である。だから、途切れない→だけで全部できているような説明が望ましい。そのお手本がユークリッドの『幾何学原論』である。ユークリッドの幾何学は、真と思われるすべての命題を「定理」として導き出せるような一個の公理理論である。「理論」は、点とか直線といった主要タームの「定義」と、「二点を通る直線は一つしか引けない」というような「公理」から成る。これら「定義」と「公理」から「定理」を演繹する手続きが「証明」と呼ばれる。証明は矢印の連鎖でできている。このように公理化された理論は、証明機械と考えてもよい。そして、『エチカ』も一個の証明機械と見なすことができる。そこから定理として演繹されてくる命題が、図形ではなく実在に関する命題であるという違いがあるだけだ。このように見ていくと『エチカ』の書き方が、ある種の仮説的実験であることが分かる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;『エチカ』では「神」は出発点ではなく、定理として導かれる。順序としては、まず実体の内実が明らかになって、実体が神と一致すると言う定理がでてくる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;まず、「実体」の定義はこうだ。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「実体」とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言い換えればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。（定義３）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「様態」とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。（定義５）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;この二つの定義により、何かが存在するなら、それは「実体」か「様態」か、そのいずれかで尽きることになる。これだけでは抽象的なので、これはたしかに実体だと分かる具体的手懸りを「属性」として定義する。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「属性」とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;(&lt;/span&gt;定義４&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;)&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;例えば、リンゴは「実体」、リンゴを他の果物から区別できる手がかりとしてのリンゴ性のようなものが「属性」、そして、同じリンゴでもいろいろ色つやが変わるので、それを「様態」というように使うことができる。このような定義と公理のセットのうちいくつかから、「実体」についての定理が導かれる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（１）唯一性─もしこの世に「実体」が存在するなら、それはその類において唯一でなければならない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 15.55pt; mso-char-indent-count: .74; mso-para-margin-left: 1.48gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;複数のものを区別する具体的な手がかりは、定義からして属性の違いか様態の違いしかない。ところが四遺体は定義によりそれ自身では考えられないので、先ずどの実体かが決まらないと違いを云々する意味がない。今の問題はどの実体化と言うことだから、区別の手がかりは属性の違いしか残らない。ゆえに「自然の内には同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在し得ない」（定理５）Ａ属性の実体は一つしかないし、Ｂ属性の実体は一つしかない。つまり、実体は何であれ、その類において居並ぶものなき唯一者であり、Ａ属性・Ｂ属性といった属性はどれもが唯一性のしるしだ、ということになる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: -15.55pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 23.45pt; mso-char-indent-count: -1.48; mso-para-margin-left: .75gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（２）自己原因と永遠性─もし「実体」なるものが存在するなら、それは自分で゛分を存在させている、つまり「自己原因」でなければならない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 15.55pt; mso-char-indent-count: .74; mso-para-margin-left: 1.48gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;Ａ属性とＢ属性を持つ実体があるとする。属性は定義からして他のものなしにそれ自身で独立に知覚される。すると、Ａ属性とＢ属性はそれぞれ別個にそれ自身で考えられねばならない。当然属性の違うＡ実体とＢ実体の間に共通点はない。共通点が全くなく断絶している以上、Ａ実体をＢ実体から説明することはできない。とすれば、Ａ実体やＢ実体のようなものが存在するなら、それはどれも他の実体から生み出されないで存在している、つまり自己自身で存在している「自己原因」である、ということになる。さらに、必然性を含むということは。時間で説明できない存在だと言うことである。このような必然的な存在のことをスピノザは「永遠」と名付ける。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: -15.55pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 23.45pt; mso-char-indent-count: -1.48; mso-para-margin-left: .75gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（３）無限性の証明─実体はみな必然的に無限でなければならない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt 15.55pt; mso-char-indent-count: .74; mso-para-margin-left: 1.48gd&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;Ａ属性を持つ実体があったとする。Ａ実体が有限であるためには、何か他のものによって限界付けられねばならない。属性が違うと無関係になってしまうので、限界付けるものは同じＡ属性でなければならないだろう。するとそれはまた、必然的にそれ自身で存在するようなＡ実体であることになってしまう。だが同じ属性で二つの実体はありえない。ゆえに、実体を限界付けるものとはそもそも考えられず、「あらゆる実体は必然的に無限である」（定義８）&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;このように見てみると、「実体」と名付けられたものは、必然的にその類において唯一であり、自己原因的であり、永遠かつ無限でということになる。それは神ではないか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;そこで、次に「神」を定義する。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-15T00:31:09+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-9248.html">
<title>英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠～ジョン・エヴァレット・ミレー展　（３）～マリアナ</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-9248.html</link>
<description>テニスンがシェイクスピアの『尺には尺を』から引用して詠んだ『マリアナ』という詩を...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;386&quot; title=&quot;Miremariana&quot; alt=&quot;Miremariana&quot; src=&quot;http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/05/13/miremariana.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: 0px 5px 5px 0px; FLOAT: left&quot; /&gt; テニスンがシェイクスピアの『尺には尺を』から引用して詠んだ『マリアナ』という詩を基に製作されたものだと言う。マリアナは難破により持参金を失ったため婚約者アンジェロに捨てられ、堀で囲まれた館で孤独な生活を送る女性で、アンジェロへの想いを断ち切れずにいる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;『オフィーリア』にせよ、『大工の家のキリスト』にせよ、この『マリアナ』にせよ、物語の一部を切り取ったような作品で、ミレイには、実際の物語に依拠していなくても、物語を連想させるような作品が多い。それは、時代のニーズというものもあったのではないかと思う。ミレイという画家は、後に確固たる地位を築き、賞賛をうけた成功者となったから、というわけではないけれど、時代を見る目というものがあったのではないかと思う。それが、いい意味でも悪い意味でもミレイの作品に特徴となって現れているのではないか。ミレイの頃の時代を、画家の生活に関連する点から考えてみると、次のようなことが言えるのではないかと思う。一番大きな点は、時代を支配する階級がそれまでの貴族階級から新興のブルジョワに代わったということではないかと思う。両者の違いを少し見ていくと、画家のあり方にたいする影響が大きいことが、具体的に想像できるのではないか。まず、大きな違いとしてブルジョワは職業に就いていたり、事業を起こしたりして自らの生活を自分稼ぎで成り立たせているのに対して、貴族は自分で稼がないということだ。つまり、貴族はブルジョワの基準でみれば始終余暇だということ、だから美術や音楽に玄人はだしで高い見識を持っていたりする。しかも、今でいう芸術家は音楽家も画家も貴族のお抱えの使用人だったケースが多い。有名な作曲家のハイドンはハンガリーの貴族エステルハージ家のお抱え楽団の楽長として多数の交響曲を作曲している。その一方で、貴族は一般庶民を支配し、貢納により生活していくために、それを民衆に納得させる必要があった。豪華な宮殿や華麗な衣装、あるいは儀式といったものは単なる贅沢ではなくて、民衆に対して圧倒的な優位を示す実際的な機能があったと言われている。そのために、装飾も不可欠で、絵画もその一部して機能を果たしていと言える。だから、貴族にとっては生存のために、画家に注文をつけ描かせていた。これに対して、画家は貴族の注文に忠実に応える職人、つまり、卓抜した技能が強く要求されたと思う。これに対して、ブルジョワは自分の職業を持ち、自分で生活の糧を稼ぐ人々であった。彼らが絵画を見るのは、主に余暇としてであって、貴族のように私生活を豪華に見せる必要もなかった。しかし、日中の大半の時間を仕事に費やすため、貴族のように芸術を嗜む時間の余裕はなかったはずだ。だから、当然素人のレベルに留まる。だから、画家は貴族の使用人して身分を保証され、うけた注文にたいしては高い技能で応え、それを評価されるということで、ある程度技能に専念できた。しかし、ブルジョワを画家を使用人として雇うことなく、注文できる見識もない。高い技能を評価することもない。となると、画家としても、貴族に対するような職人では通用しなくなる。この場合には、ブルジョワに分りやすく、余暇のニーズに応えるような作品を作って示してあげることが肝要になってくる。だから、職人に徹しているだけではだめで、企画力の比重が高くなってくる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そして、第２の特徴として、ブルジョワが社会を担うことにより、消費社会が出現し、市場が生まれたということだ。市場でやり取りされるは、もちろん商品であり、絵画も商品としての性格を帯びることになる。市場でやり取りされる商品の特徴とは何かという、価値の抽象性とでもいうことだ。絵画というのは多大な手間と労苦によって製作される。これまでは、貴族はそういうことを理解し評価してくれたわけで、それはその絵画固有の価値ということになる。しかし、市場ではそういう苦労から切り離され、それに取引でいくらの値段が付けられるかによって価値が量られる。絵画の価値は市場で決められる、これを交換価値という、つまり、市場で需要と供給があって交換される際に価値が決められる。だから、いくら高い技能で製作された絵画であっても売れないものは価値が低いものと看做されてしまう。だから、製作する側では、いかに高い価値をつけてもらえるかは売れるという要素の比重が高くなる。そこで重要になるのは、どういう題材を扱うとかいうような企画力である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;３番目の特徴として、絵画だけに関わるだが、写真の発明ということが挙げられる。今まで、画家が苦労して時間をかけて描いていた風景や肖像を写真は一瞬にして写してしまう。しかも、本物そっくりに。時間と、写実という点で絵画は写真に敵わない。つまり、強力なライバルが出現してきた。実際、実力の差は明白なので、正面から競争したのでは絵画に勝ち目はない。そこで、写真にはできないことを、絵画の特徴を生かして生き残りを賭けて行かなくてはならない。そこでも、重要となるのは企画力ではないか。そういうことが、ミレイの当時の絵画をとりまく状況としてあったと考えられる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そう考えた時に、ミレイの作品を見ていると、今から見ても、これまで説明してきたことに上手く対処しているなあと感心してしまう。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;とまあ、ここまで書いたけれど、これだけでは空疎に聞こえる。実際の作品で、それがどのように現れているかが分らないといけない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;まず、この絵の典拠している物語の主人公であるマリアナと言う女性のポーズが、動作の途中を切り取ったものであること。このことが、当時の写真では、技術的に難しかったダイナミックな動きを画面に与えている。閉じ込められたような動きのない室内で、このような動きの途中を切り取ることで、マリアナという女性を生き生きとして描き、静的な室内環境と対照的に描き出すことによって、彼女の閉じ込められたような境遇と、そのなかで煩悶するような物語を想像させる。そこで、注目すべきはマリアナの動き、ポーズだ。腰に手を当てて、少しのけぞるような、背伸びをするようなところにある。腰に手を当てて、背中と尻をこちらに向けのけ反るようなポーズは、歌舞伎の『京鹿の子娘道成寺』の中でも見せ場に同じようなポーズがあるけれど、ひとつのクライマックスとして、意中の男性に想いを馳せ悶々とする様が現れている。例えば、亡くなった先代の中村歌右衛門の踊りは、ここで極限までのけ反ることでアクロバチックな見せ場と、少女の想いの深さを業として表現していた。これに対して、ミレイの画面では手が当てられた腰の豊かさが強調されるように大きめに描かれていて、成熟した女性であることを示している。それだけに、想う男性から遠ざけられ悶々とするにも、ほんの少し性的なニュアンスが匂う。それが豊かな腰を強調し、さらにのけ反りながら、こころもち腰が揺れるようなＳ字のカーブを描いていることに現われている。さらに、衣服が比較的身体にピッタリと貼り付くようで身体の線、女性の身体の曲線がなぞられる様に描かれている。それは、直接ヌード画像を描くのではなく、想像を掻き立てさせることにより、エロスを感じさせるとも言える。それは、物語が埋め込まれていることで、さらに想像を促す。一方で、直接ヌード画像が描かれているわけではないので、体面を大切にするビクトリア期のブルジョワにとって、周囲を憚ることなくこの画面に魅入ることが叶うことになる。というわけで、この作品は、ブルジョワの小市民性の中で隠された欲望のニーズに無意識のうちに応えることになっている。そのあたりの点が、ミレイの作品が当時は受け容れられ、画家が亡くなると忘れ去られたことと大きく関係しているのではないかと思う。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-14T01:00:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-e8cb.html">
<title>上野修「スピノザの世界　神あるいは自然」(２)</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-e8cb.html</link>
<description>２．真理 目標が定まったなら、当然探求の方法が必要となる。ここで、スピノザが言う...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;２．真理&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;目標が定まったなら、当然探求の方法が必要となる。ここで、スピノザが言う「方法」は彼独特といっていいもので、哲学の体系構築の方法というよりは、哲学へ向かう道、あるいは道そのものの探求と発見の過程だと考えた方が良い。その探求は、スピノザの場合、知性自身の浄化のプロセスの一つとなっている。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;古来、哲学は真理を獲得するための学問方法を熱心に論じてきた。ちゃんとした方法が発見されれば、真理について確かなことをいうことができる。しかし、そんなやり方では真理は見つからないと、スピノザは言う。例えば、方法Ｍで真理が獲得できていると確かに言えるための方法Ｍ&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;’&lt;/span&gt;がなくてはならず、そしてこの方法Ｍ&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;’&lt;/span&gt;がそういうことを確かに言えるための方法Ｍ&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;”&lt;/span&gt;がなくてはならず…というふうに無限に続く。これでは決して真理の認識に到達しないであろうと。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;最初の「ちゃんとした方法が発見されるまで真理について確かなことは何も言えない」という最初の仮定に間違いがある。とすれば、ちゃんとした方法に差し当たって我々は真理を確かに知っているとしなければならない。それゆえ、スピノザは、こう言う。真なる観念の存在が、真と言えるための規範を方法に与えるのであって、その逆ではない。真理を真理と言わしめる規範はすでにそこにある。だから、この規範解明が、そしてそれだけが方法に具体的な実質を与える。方法は、真理から自生する。スピノザは、この規範の解明を進めていく。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「真理」とは何か。スピノザは「真」と言う言葉の使い方から話を始めている。「真」と言う言葉は事物の性質ではなく、もともと語りについて言われる言葉である。語られることがそのとおり実際に起こったのならそれは本当の話、すなわち真であり、もし起こらなかったら偽、これがもともとの意味であった。つまり、「真」と言われうるのは、事実と一致するからである。スピノザは、このような対象との一致を観念が真であるための「外的標識」と名指す。しかし、これだけでは不十分だ。実際には観念は一致する対象が存在しなくても真になれるし、反対に、一致しているからといって直ちに真だというわけでもない。とすれば、真であると言えるための標識は、思考の外のあるものとの関係ではなく、むしろ思考そのものの内にある。スピノザはそういう内部にある何かリアルな標識を「内的標識」と名付ける。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;『知性改善論』の「虚構された観念」の分析が内的標識の解明に充てられている。スピノザは、虚構がどのような事柄について可能なのか、その限界をはっきりさせる。不可能なものを考えようとすると必ず矛盾をきたすようなものは虚構できない。また、必然的なもの、つまり別様であり得ると決して考えられないものは虚構できない。すると、虚構は、思考対象が不可能とも必然的とも知られていない間だけ生じうる。だから、虚構が生じうるとしたら、それは「可能なもの」についてでしかない。ここから、真なる思考を絵空事から区別するリアルな何か、「内的標識」が明らかになる。それは語られている事柄の必然性にほかならない。このことを知るために、思考はその思考自身以外に何も必要としない、それに事実との一致（外的標識）はいらない。むしろ事態は逆で、こういう必然性を我々の思考が知っているからこそ、一見偶然的に見える経験的事実についても何ほどか確かなことが言えるのである。ここから「偽なる観念」が何であるかも分ってくる。事柄の不可能性が、気づかれていない場合、それが偽なる観念である。だから、虚偽を矯正するには虚構を矯正するのと同じ規範を以ってすればよい。偽なる思考は自分では虚偽だと気付かないが、真なる思考によって勘違いは解消する、こうして、真なる観念が、探求の従うべき規範を与えてくれる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（１）存在について。必然的としか考えられない事柄については絵空事はあり得ない。従って、もし存在しないと考えることが本質に矛盾するようなものが在れば、それは必然的に存在していなければならない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（２）本質について。「樹木がしゃべる」のような事物の本質に関する絵空事は、はっきりしない観念の合成からしか生じない。必然的に別な風にあり得ないとしらけるごく単純な事物の観念から合成してそのようにことが言えるかどうかを調べることにより真偽が分かる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;（３）これらを一言で言うと、自然を認識すればするほど、それたけで我々は勝手な想像がむずかしくなる、ということである。それゆえ、「できるだけ抽象的な進み方を避けて、できるだけ早く自然の第一の要素から、言い換えれば自然の源泉と根源とから出発する」こと。これが重要である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;この（３）の「自然の源泉と根源」を理解するためには、知性が何をしているかを考えることが必要だ。概念とは何かについての思考であり、それ自体で見ると一種の「感じ」だとスピノザは言っている。これまで、真なる観念がある種の必然性の知覚だと言うことを見てきたが、この必然性の思考はどこで感じられているだろうか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;例えば、「半円が回転すると球が生じる」という命題は、「半円が回転する」という原因のところは、スピノザが言うには、好き勝手な虚構・想定である。半円がどうしても回転しないといけない必然性はない。こういう原因の虚構は非常に単純な観念からできているので、この虚構自体をベな風に勘違いする余地はない。だから結果を間違いなく導くことができる。すなわち必然的に球が生じる。これが球の真なる概念である。この必然性は、語られている事物である球を対象として成立させる必然性である。この必然性を感じているということが、語られている事物について真なる観念をもっており、そのことを知っているということだ。だから、この必然性が「内的標識」である。スピノザは、これを知性が実はそれ自身で充足した巨大な事物思考の一部分であるという可能性を示している。それは、我々が一切の事物をあるがままに知覚しているある巨大な思考する存在の局所的な一部分である、ということだ。もしそうだとしたら、我々が真偽を区別して感じる知性を持っているという事実も説明できる。そういう巨大な思考のあるものが全部そろった完全な概念として我々の精神を構成しているとき、我々は真なる観念の原因と結果の必然性を感じており、巨大な思考のあるものが部分的にだけ我々の精神を構成している時、我々は必然性の感じを失って非十全な観念を感じている。これが「自然の源泉と根源」だ。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;知性とは何か。それは事物の持っている必然性を志向の必然性として感じる何かである。単純な事柄については、何の前提もなしにいきなり、真なる観念を持っていると知っている。物事を必然として捉える。必然と言うのは、将来も別様ではあり得ないと言うことだから、「永遠の相」のもとに捉えるということである。それは、必然性を捉えるためにさまざまな近接原因を想定する自由度を持っている。それがアクセス可能な完全概念には内容の大きさに様々なものがあり、その概念は自然の源泉と根源を表現する概念である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span lang=&quot;EN-US&quot; style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;&lt;p&gt; &lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-13T22:46:27+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/1-9343.html">
<title>上野修「スピノザの世界　神あるいは自然」(1)</title>
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<description>１．企て 筆者はスピノザの数少ない著作の中から『知性改善論』を取り上げる。スピノ...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;300&quot; title=&quot;41b2636wpvl__ss500_&quot; alt=&quot;41b2636wpvl__ss500_&quot; src=&quot;http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/05/13/41b2636wpvl__ss500_.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: 0px 5px 5px 0px; FLOAT: left&quot; /&gt; １．企て&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;筆者はスピノザの数少ない著作の中から『知性改善論』を取り上げる。スピノザは、この未完の論文を『エチカ』の入門に仕立てようとしていたらしいからだ、と言う。といっても、解説書ではない。真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いかけから始まる。それだけでは、碌でもない私探しに堕してしまうおそれがある。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界まで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的問を、その強度そのままに、非人称の世界にまで進んでいく道。それがこの『知性改善論』である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;その冒頭で、スピノザは言う。世の人々が「最高の善」として評価しているものは、結局、富・名誉・快楽の三つに帰着する。そういうものは自己目的化すると必ずや人をダメにする。このようなことは経験から分る常識で、彼が問題にしているのは、それを知っているのにあきらめきれず、いわば中途半端にそれに引き摺られている普通一般の生き方だ。そんな中途半端なものではない「最高の喜び」が可能にからないか、ということをスピノザは本気になって考える。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;「最高の喜び」を享受できる究極のＸをこれから探求しようというのだから、その存在自体不確実である。他方、中途半端とは言っても富と名誉はあるということでは確実である。しかし、これには際限がない。だから真剣な哲学的探究と両立はできない。そこで、スピノザは選択する。存在は確実でも初めから最高の幸福に馴染まないと確実に分っているものを捨て、存在は不確実でもはじめから最高の幸福にふさわしいと確実に分っているものを取る。これは賭けである。保証は何もない。だがやってみるだけの価値は確実にあるとスピノザは考える。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;この賭けには、思わぬ余禄がついてくる。Ｘを探求し出すと、捨てねばならぬと思っていた世俗的善への執着が、問題にすらならない。探求の妨げにならないと分ってくる。「これこれのためにしかじかを犠牲にする」という「ため」は目的である。ある目的遂行のために我慢しなければならないと我々は考え、それを守れないなら目的遂行は難しいと考える。こういう発想は、実際に飛び込まずに岸でうろうろしている人の考えに過ぎない。スピノザは最初のところでこのことに気づかせ、飛び込んでみれば違って見えると励ましている。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;ここで、「目的」について、我々は目的があってその達成に努力するという風に考えるが、スピノザはこれに先立つ衝動があって、この衝動に駆られるからこそ、我々は目的に向かっていると思い込むと言う。とすると、我々の意識はすべてをあべこべに表象している可能性がある。『エチカ』の理論で行くと、人間は自分の意欲及び衝動を意識しているが、そのように駆る原因は知らない。それで人間は自分を自由な存在だと思い、万事を目的のために行うと表象する。そしてこの衝動こそ、我々を刻々と肯定し、我々を我々自身にしている何か、すなわち、我々の現実的本質に他ならない。目的とは衝動だが、逆に衝動とは目的のこととは言えない。つまり、スピノザの言う衝動は目的とは何の関係もない。何かある事物が、それ以外の何物でもないと存在する時、そのようにその事物が自己の有に固執しようと努める力、それを努力という。これが無くなると、その事物そのものが無くなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。こうした目的なき努力が我々にもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから、衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。また、「欲望」とは意識を伴った衝動である。つまり、それ自身としては目的なき衝動を、我々は意識の中で何かを実現しようとする欲望として、いわば誤認しながら生きている。馬を餌に向かわせる衝動は餌が目的なのではなく、馬自身に対する肯定そのものである。その意味で馬は自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;このように見て来ると、「目的」について考えを改めねばならなくなる。我々の欲望は皆、意識を伴った同じ一つの衝動である。とすれば、欲望が欲している善、実現すべき目的なるべきものは、衝動が付与する欲望の強度として理解できる。だから、例えば、ある目的のために欲望を捨てねばならぬと言う発想は間違っていることになる。従って問題は、道徳化が言い立てるように、善なる目的のために欲望を断念するということではない。とことん欲望に忠実に最大の強度を持った善を的確にマークし、その周りに他の諸々の善がおのずと編成されていくのを見届けること、これが倫理に求められる全てである。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;その最大の強度の欲望とは何か。それは、より強い存在になりたい、より完全になりたいという欲望であるとスピノザは考える。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;事物の世界は自然法則に従って目的も何もなしに生起している。事物は何かの目的に向かって働いているものではないし、完全性に到達するために存在しているのでもない。だから、事物はそれ自身で見られるならよいとも悪いとも言えないし、完全とも不完全とも言えない。その意味で、価値概念は我々の頭の中にしか存在しない幻想である。我々は自分の欲望と目的の文法に支配されて意識の中に匿われていて、その外に立つことはできない。スピノザは言う。人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる。これはまさに衝動が我々にさせることであって、目的と手段という枠組みを最初から取っ払うこと等できはしない。もちろん、剥き出しの自然は我々を完全性へと向かわせることを目的に存在しているわけではない。事物そのものに備わった価値など幻想であり、価値はたかだか我々の欲望に相対的な影響に過ぎないと分かりきっていても、我々は価値や目的について語るし、また、語るべきであるとスピノザは考える。我和は衝動をおのが欲望された目的として生き、それ以外に生き方を知らない。こうして、最大教徒の欲望をもとに、「真の善」「最高善」が定義される。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;つまり、「最高善」とは、自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓を享受することであり、「真の善」とい、それに到達するために手段となり得るものである。このような最高善の実現が究極の目的であり、この実現につとめることが最高の幸福である。この「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本姓」が何なのか、そしてそれが純粋享楽を得させる「永遠無限なるもの」とどういう関係にあるのか、それが求めるべき解である。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-13T00:50:46+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6e83.html">
<title>上野修「スピノザ　無神論者は宗教を肯定できるか」（４）</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6e83.html</link>
<description>第４章　『神学・政治論』の孤独 『神学・政治論』が発表されると、無神論の書として...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第４章　『神学・政治論』の孤独&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;『神学・政治論』が発表されると、無神論の書としてさんざんに非難された。論難者はリベラルな共和派のデカルト主義者であるランベルト・ファン・フェルトホイゼンからだった。フェルトホイゼンが『神学・政治論』に見たのはある種の欺瞞だった。スピノザは宗教を肯定するように見せかけながら、その実、宗教を捨てている。かれはそう感じた。フェルトホイゼンが言うには、スピノザの言う「神」は一切を不可避的な自然法則の必然性に拠って生じるような神で、ほとんど宇宙と同じようなものである。すべては必然で最後の審判の余地などどこにもない。また、教義の内容ではなく文法が大切ならば、異教徒に神や預言者がいても構わないことになる。フェルトホイゼンは「聖書は真理を教えていないし教える必要もない」というテーゼに引っ掛かっている。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;スピノザは、古代の神政国家がうまくいっていた秘密は、欺瞞や策略ではなく無知にあると見ていた。モーセや預言者たちは、常に人民の潜在的暴力にさらされていたと言える。預言者たちは正義への誠実な思いだけを担保に、外の力に曝されながら、自らの言説の正しさの確信を得たのだった。預言者たちは無知で構わなかったし、事実無知だった。だからこそ、群衆の力に曝されながら彼らが無知によってなしえたことを心に留めよ、スピノザは言っているように見える。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;統治が上手くいっていた当初のヘブライ人たちは、原因をしらず、自分たちに奇跡が起こったと信じた。古代ヘブライ人は自然の業はすべて神の業と信じていたから、彼らに起こったことは神の業であり、自然の法則によって起こった。そして、迷信は統治が緩み、上手くいくべき国家が危機に瀕する時に、人々が不安に駆られ神々に犠牲や請願を捧げるようになるという。宗教はこのような迷信への対処とスピノザは考えていた。このような制度としての宗教が失敗する時、迷信が蔓延るのだ。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;つまり、スピノザは信者が信じるようには宗教を信じてはいない。つまり、真理性という点では全く信じていない。フェルトホイゼンはそれを欺瞞的だと言った。スピノザが宗教を信じていたというのは、心理を知る者は真理を語らぬ宗教を受け入れ、無知なる信仰を受け入れる。他者のために、そして自らの存在維持のために。神学・政治論的な全状況の中で群衆の力に曝されながら、いわば無限に遠くから「自己自身を愛するように隣人を愛する」っていうことだった。だが、こんなことを理解する人はスピノザ以外、誰もいなかった。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-11T00:53:08+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-0d70.html">
<title>英国ヴィクトリア朝絵画の巨匠～ジョン・エヴァレット・ミレー展　（２）～両親の家のキリスト（大工の仕事場）</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-0d70.html</link>
<description>ミレイ初の宗教画として、発表され、当時の権威から激しく批判されたという。 大工で...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;ミレイ初の宗教画として、発表され、当時の権威から激しく批判されたという。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;&lt;img width=&quot;300&quot; height=&quot;188&quot; title=&quot;Mireidaiku&quot; alt=&quot;Mireidaiku&quot; src=&quot;http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/images/2012/05/10/mireidaiku.jpg&quot; border=&quot;0&quot; complete=&quot;true&quot; style=&quot;MARGIN: 0px 5px 5px 0px; FLOAT: left&quot; /&gt; 大工である父親の仕事場で幼いイエス（画面中央）が手に釘を刺してしまうところを父親と聖アンナ（画面中央奥）が目にする。これは、後の磔刑になって掌に釘を打ち付けられることを暗示しているのか。幼い洗礼者ヨハネが水を持ってくる（画面右）。多分、後のキリストに洗礼を施すことを暗示しているのか。そして、中央では聖母マリアと幼いキリストが向い合い、跪く聖母の苦悶に満ちた仕種は、彼が祝福の手を挙げたときに聖母が不吉なものの予兆を嗅ぎ取ったことを意味するという。そして、当時の人々が批判したのは、この聖母が聖母のイメージとは程遠い、予兆に苦悶する憔悴しきった表情を浮かべていることで、聖なるものを理想化しないのは堕落したものと受け取られたためという。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;後世から、この批判は的外れなどというのは後出しじゃんけんのようでフェアではないだろう。しかし、比較として、ムリーリョの「聖家族と幼い洗礼者聖ヨハネ」を見ると、バロック期のスペインのこの作品が似たような題材を扱っているが、こっちは理想化されていると見えるだろうか。そもそも、理想化というけれど、永遠の理想というのは理念としてあるように仮想している。しかし、実際にこのような絵画で理想的な女性を形にするという場合、時代の風俗の影響による変遷にさらされているのではないかと思う。もっと下世話な美女ということになれば、時代や地域によって、実際のこういう顔というのが違ってくるのではないか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;仮に、ミレイのこの「両親の家のキリスト」を中世の修道院や寺院に飾るとしたら、そういう批判が出てきても納得できるでしょう。ここでは俗世間の欲望や葛藤から自由になって、清澄な雰囲気の中で一心に神に仕える場というわけですから。普通に生活する信者もキリスト教徒たる者、それを理想として実践していかなければならないのでしょうが、実生活では、そのようなことを言っていれば、現実の生活はままならなくなってしまう。そこで、実践的には建前と本音、オモテとウラの使い分けということが起こる。修道院とか寺院と言うのは、神に仕える場ですから、生活者が実践する建前の本音の建て前の部分だけで生活しているような、プライベートを切り捨てた全部おおやけのような世界です。そこでは、個人的な感情というのは、建前に対する本音の部分に基づくものなので抑えられる。その姿が中世の天使や聖人を描いた表情のない顔に表われているように思う。それが、人間的な表情を浮かべる、ミレイのマリアが理想化されていないと評価される理由の一つというのなら、納得性はあると思う。また、支配階級としての国王や貴族の城や邸宅の中の礼拝所に飾る場合でも、おおやけ中心に生活がつくられ、ほとんどがオープンにされている世界では、教会に準じたものとして、表情豊かなマリアを描いた絵画というのは、違和感があるのは納得できると思う。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;しかし、当時の新興階級として勃興してきたブルジョワの家やアパートの室内に飾る場合を考えてみると。ちょうどこのころから私生活、いわゆるプライバシーというものが市民社会の家庭生活の成立とともに発生してきた。それ以前の君主や聖職者というのは全てがおおやけで、その生活はオープンにされていた。そうすることで支配の正当化を図ってきたと言える。例えば、フランスのベルサイユ宮殿では国王の服装は皆からみられ、食事も何を食べているか公衆の面前で摂られていた。これに対して、ブルジョワの食事は家族、あるいは親しい友人といった比較的内輪で非公開で行われた。そのため、住まいというものも、君主の城や宮殿、あるいは寺院のような原則として公開を前提にしたものではなくて、原則的に非公開な閉じたものと言えた。そのような室内で飾られる絵として、建前の世界向けに書かれたものがフィットするだろうか。プライベートな生活と言うのは、他人に見せたくない部分を多分に含んでいるもので、そこに人間的に懊悩なんかを超越した悟りきったような聖像があっても、浮いてしまうのではないかと思う。そこでニーズに応えようと言う試みとして、このミレイの「両親の家のキリスト」を見てよいのではないかと思う。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;この作品を見て、第一印象として聖家族という神々しさ、というよりは家族としての親しみ易さの方を感じるのではないか。それは、まず大工の仕事場という生活感にあると思う。それは、ブルジョワというのが仕事をする、働く勤勉さというのが倫理のベースになっているからだ。大工の父親が仕事をしている周りを子供が遊びまわり母親が見守る、というのはブルジョワの家庭生活を肯定することになる。イエス・キリストというのはそういうところから出てきたというわけ。そして、その仕事場にいる家族は、普通の生活する人間と変わらないという描かれ方。このことが、君主や僧侶という普通とは違う生活をしている人から見れば、理想化されていないと映ったのだろう。だからこそ、描かれた人々に人間的な表情が必要だったと思う。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そして、もうひとつ、マリアにしろキリストにしろ、描かれた表情は単に釘による傷を痛がる子供、それを気遣う母親というだけにとどまっていないこと。ここにこの作品を批判する人々とは違う基準での理想化が行われている。しかも、それをブルジョワの家庭では理解していたのではないか、と思われることが挙げられる。マリアの深刻な表情は、単なる子供のけがを心配する母親といには、表情が重すぎる。これは、後に人類の罪を背負い十字架にかけられ、今と同じように掌に釘を打ちつけられるキリストの運命をそこに感じての表情として描き込まれているのではないか。一方キリストにしても、単にけがを母親に慰めてもらっている、にとどまらず、母親に対して慈悲深い表情を浮かべているようにも見える。つまり、当時のブルジョワの教養と信仰に対する態度がそこに反映し、画家の意図は理解されていたと思われるし、その程度まで描き込まれることに対する需要があったのではないか。つまり、単に普通の家族を描いたのではなくて、宗教的な信仰に結びつく需要も高かった。それは、ヴィクトリア調といわれるような風俗、後世からみれば取り澄ましたような道徳をやけに強調する風潮からは、ブルジョワの自負と貴族等の旧支配階級に対する対抗意識が当然あるわけです。そこでは、ある面でのエリート意識のようなものはあったはずであり、そういう人々にとって、ミレイのこの作品を見るには、ある程度の予備知識が必要不可欠という、ただし、それほど難しいことを求めているわけではないというのは、ブルジョワのエリート意識をくすぐるものであったのではないか。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そしてまた、大工と言うブルーカラーの庶民層の人々を描いているわれには、貧乏臭さとか、汚らしさのようなものはない。どちらかと言うと古代の無垢な時代というように居間に飾っても、そういう点で室内の雰囲気を壊すものでもない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;そして、描かれている人物に表情があるということは、観る側の人間にとっては、感情移入ということができ、それだけ画面の人物にリアリティや親近感を、より感じられるのではないか。例えば、マリアの表情というのは、背後にあるストーリーも分りやすいし、一種の紋切り型として、同情というような感情移入ができるのではないか。ちょうど、ハリウッド映画のヒロインに対するような形で。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 8.9pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .85&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐゴシック&amp;quot;&quot;&gt;それを、ミレイが意識しているかどうかは、分らない。しかし、この時代の画家は顧客としてブルジョワが有力になってきていたはずだし、何よりも絵を顧客に売らない限りは、画家の生活の糧は得られなかったはずだから。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-10T00:18:56+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-7dbb.html">
<title>上野修「スピノザ　無神論者は宗教を肯定できるか」（３）</title>
<link>http://czt13771.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-7dbb.html</link>
<description>第３章　文法とその外部 これまでのところで、スピノザは、人が敬虔かどうかはその人...</description>
<content:encoded>&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;MARGIN: 0mm 0mm 0pt&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;第３章　文法とその外部&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;これまでのところで、スピノザは、人が敬虔かどうかはその人が神の隣人愛の命令に服しているかどうかぎ決まるということだった。その後、敬虔か不敬虔かという問題は、何をすればその義務に反することになるか、という問題に帰着する。思考の自由が不敬虔を招くというのなら、義務違反となるそのリミットを明確にすればよい。そこで、スピノザは敬虔の文法を明確にさせる作業を進めているのである。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;敬虔の文法は「正義と愛をなせ」という命令を語り方として含むのだった。これを教えないのは聖書ではない。「隣人を自分自身のように愛せ」は、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」ということだ。スピノザは、他人の権利を守るにはどうしたらいいか、神への服従の論理的な必要条件を問う。それがなければこの命令の実行もなくなり、この命令が実行されるところでは必ずそれがあるというような、今度は実行上の条件が問題となる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;スピノザは続ける。まず、各人の個々の善意には期待できない。人間本姓が自然の仕様としてそうなっている。問題は、そういう人間だがそれでも、「正義と愛をなせ」という神の命令を実行できるための条件として何が必要かということだ。それに対しては、ある強大な第三者が最高権力を以って君臨し、守るべき権利を法として宣言し、全員にこれを守らせる。そのことで保証を与えるのである。神の命令が無効とされてしまわないように、敬虔の文法は必然的にこういう最高権力の「最高」を構成する論理をふくまねばならない。「社会契約」として、スピノザはこれを扱う。「正義と愛をなせ」と教える限り、聖書も服従の必要条件としての最高権力の構成について語らざるを得ない。さもないと神の命令は宙に浮く。社会契約に相当するものが聖書にもある。「出エジプト記」でモーゼに率いられたヘブライ人たちは自己の権利を神に委譲する。神の共同体は実質的に社会契約と変わらない。その神の代理人として、神の声を聞くものとしてモーゼが代理人として、神の声を伝え最高権力を行使する。スピノザは、これを神が統治権を持つ神政国家と呼ぶ。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;こう見て来れば、「他人の権利を自己の権利と同じように守れ」と神の隣人愛の命令で言われている他人の権利とは、国家が法に基づいて各人に許す「国民の権利」のことであり、これを守る意志が「正義」であることが分かる。なぜその法が正しいかというと、それは、契約によって最高権力の告げる法が正しいということにしてしまったからである。それは、神政国家であろうと民主的な共和国であろうと変わらない。後は、同じ論理に従って、正当に敬虔と不敬虔を語り得る文法を書き出すだけである。この同じ文法で、スピノザはヘブライ神政国家は神に統治権があったので、当然、宗教的な「神の法」は国家の法であったことになる。したがってオランダ共和国では、聖書が何と言おうと、何が正義で何が不正義か、何が敬虔で何が不敬虔かを決定する権限はまっさらの形で共和国の最高権力にある。だから、宗教的権威を持ち出して市民政府の決定に不敬虔と不服を唱えるのは、統治権を奪おうとすることであり、まさに敬虔の文法によって「反逆的な意見」と言わねばならない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;それでは、契約の論理で行けば、最高権力は最高なので何の拘束もなく、市民の自由などお構いなしに何でも好きなように命令できてしまうことになる。スピノザはそれを否定しないが、現実にはできないという。最高権力の権利は「実際に何ができるかというその力によって決定されている」という。その権利は実際に人に何かをさせることのできるその範囲にまでしか及ばない。それを越えて何でも命令できる絶対権力というのは妄想でしかない。しかし、この範囲は契約の文法では語ることができず、物理的な力の問題となる。統治権は契約の文法によってではなく「群衆の力」によって提起せされる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;最後に、思想言論の自由について、大凡次のように証明を進めていく。まず、その人の信仰が敬虔かどうかは内容の真偽によってではなく、その人の行為の正しさのみによって判定される。そして、その正しさの判定は、専ら最高権力が法に基づいて行う。しかも人間は自分で考えたり感じたりすることを止めることは本性上不可能なので、最高権力の自然権の委譲は考える自由の放棄に及ぶことはあり得ない。とすれば、各人は何を考え何を言おうが行為の上で法に従っている限り、敬虔と平和を損なっていると誰かに責められるいわれは一切ない、ということが帰結する。したがって、思想言論の自由は敬虔と共和国の平和を損なうことなしに許容されうる。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot; style=&quot;TEXT-INDENT: 7.75pt; MARGIN: 0mm 0mm 0pt; mso-char-indent-count: .74&quot;&gt;&lt;span style=&quot;FONT-FAMILY: &amp;quot;ＭＳ Ｐ明朝&amp;quot;; mso-bidi-font-size: 10.5pt&quot;&gt;次に、もし最高権力が宗教的勢力の圧力に譲歩して思想言論の自由を抑圧する法律を作るなら、その時から最高権力は不正を犯しているかのように見え始めるだろう。というのも、自分の信条が不敬虔だと言われることほど堪え難いものはなく、断罪された人々は意見を変えるどころかむしろ殉教者の誇りを見せるだろう。真摯さは人を感動させる。当然これは最高権力への人々の畏敬を失わせ、「群衆の力」の法則に従って共和国を危機に陥れることになる。また、たとえ最高権力の規定に従ってではなく一語も発しないように締め上げても、人々は最高権力の欲するようにしか考えないようにすることまではできない。これは物理的自然的にいってできない。人々は毎日自分の思っていることと違うことを語らざるを得なくなり、共和国においてもっとも必要な信義というものが損なわれ、敬虔をまともに受け取る人はいなくなる。従って、思想言論の自由を除去しようとすれば、同時に共和国の平和と敬虔も除去されざれを得ない。&lt;span lang=&quot;EN-US&quot;&gt;&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>CZT</dc:creator>
<dc:date>2012-05-09T22:48:43+09:00</dc:date>
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